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聖書箇所:創世記3:1~7 2014-6-29礼拝
説教題:「食べてしまった禁断の木の実」
【導入】
宇宙天地万物の全てが、唯一の神様の御ことばにより、何も無いところから造り出されましたが、
神様は、被造物の最高峰として、神様に似るように、神様の形に人間を造られ、
その人間に被造物を支配する事と、守る事とを命じられました。
支配とは思いのままに、意のままに、ではなく、被造物の一つ一つが本来の目的を果たすための手助けであり、お手伝いであり、お世話です。
被造物の一つ一つには特徴があり、個性、特性があります。
それを活かすためには、被造物の一つ一つを良く知る事であり、知った上でこそ、最適なお世話が出来るのです。
神様は人間の前に、家畜を、空の鳥を、野の獣を連れて来られました。
人はその一つ一つに名前を付けました。
名付けは支配の現れであり、神様を頂点として、人間に動物の支配が委ねられ、確定した事が確認されました。
人間はエデンの園と言う、広大な土地の管理、即ち、エデンの園に生え出ている植物、
エデンの園に生息している家畜、空の鳥、野の獣のお世話を始めた訳ですが、
広大なエデンの園を一人で支配、管理、お世話をするのは無理な相談です。
其処で神様は人間に助け手を与えられましたが、機械的な助け手でもなく、ロボットのような従順な存在でもなく、
霊的な人間に相応しい、霊的な存在として「女」を造られましたが、
土から造られたのではなく、人間の一部から造られ、人間に寄り添い、人間に霊的に応答する存在として造られたのです。
人間と全く同じ材料であり、質的にも、霊的にも同じいきものとして造られたのです。
言わば分身であり、同等、同質、対等な存在なのですが、
男を頭として、女が造られたのです。
この男女の関係は上下関係、支配被支配、従属の関係ではなく、
共に協力、協調して、最高の働きをする一心同体の関係なのです。
一心同体でありながら、個性があり、賜物の違いがあり、働きの違いがありますが、優劣は無く、劣っているとか、欠点、欠陥があるのではありません。
男女の違いは、関係は欠点を補い合う関係ではなく、
個性を認め、受け入れ、違いを健徳的に活かし、より一層、神様に喜ばれる働きをするためなのです。
これは創造の業の全般について言える事ですが、
被造物の全ては、完全、完璧でありながら、お世話を必要とする存在、助け合う存在、
助け合う事で共存、共栄する存在なのであり、成長、繁殖、発展するのです。
被造物の最高峰の人間も同じです。
男女がお互いを労り合い、お世話をし、助け協力をする時、最高の働きが出来るのです。
女と言う良きパートナーを得た男は、神様の御こころにそって、エデンの園の管理、お世話を始めますが、
エデンの園に、蛇が登場し、要らぬお節介を始めます。
【本論】
3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。
「蛇」が登場しますが、蛇は古代、エジプト、パレスチナ、オリエントなどでは、不思議な力、霊的な力を持つ存在として畏れられ、健康、豊穣、不死、知恵、悪などをつかさどる存在と考えられ、
時に、神様の権化、神様の使い、として崇められてもいました。
人間を惑わす存在とも考えられていたようですが、被造物に人間を惑わす力も、健康、豊穣、不死、知恵、悪などをつかさどる力も与えられてはいません。
確かに「一番狡猾であった」かも知れませんが、原語の意味は「賢い、利口な」であり、
新共同訳聖書は「最も賢い」と訳していて、「狡猾」から連想される狡賢さや、悪賢さの意を押さえて、字義的、好意的な訳にしています。
先入観をもって読んだり、訳したりしてはならず、注意が必要です。
ここは、先入観を植え付ける訳ではなく、字義通りに訳す方が良いかと思います。
何故なら、蛇も神様の造られた被造物の一つであり、本来、良いものであったことは明白だからです。
知恵は神様から与えられた良いものであり、神様の意に応じて正しく用いれば「最も賢く」もなり、
神様の意に反した用い方をするなら「狡猾」にもなるのです。
与えられた姿形、環境に不満を持ち、与えられた賜物に優越感を持つ時、
サタンに利用され、サタンに荷担し、神様に背く結果となり
「狡猾」と評価されるに至るのです。
エジプトを脱出したユダヤ人は、荒野で蛇を恐れ、怯えた事が聖書に記されていますが、
「神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで」と記されているように、
蛇も被造物の一つであり、ユダヤ人が考えるような、健康、豊穣、不死、知恵、悪などをつかさどる力などは無い事と、
知恵があり、狡猾ではあっても、それが直接に惑わす力では無い事を、或いは抗(あらが)う事の出来ない強力な力でも無い事を、教えているのです。
被造物に、人間を支配する力も、意のままに操る力も与えられてはいないのです。
支配されるような、操られるような、誘惑されるような心の状態にこそ問題があるのであり、誘惑者はきっかけを与えるだけであって、押し出す力も、引き込む力もありません。
誘惑される自分自身に問題があるのです。
決して、他人のせいにしたり、環境や状況のせいにしたりしてはなりません。
最も賢く、狡猾な誘いでも、聴かなければ良いのであり、誘いに乗らなければ良いのであり、応答する必要もありません。
聴くのは神様の御ことばだけであり、神様の御ことばだけに注意を払い、応答すれば良いのであり、
また、神様が与えられたパートナーのことばであっても、聴き分け、吟味しなければなりません。
現代において、神様が直接に人間に語りかける事は稀です。
多くは聖書を通して、説教を通して与えられますが、
聖書の理解が正しいか、神様の御こころにそっての解釈であるか、
説教が聖書から語られているか、神様の御こころを取り次いでいるかを吟味しつつ、
聴き、また応答しなければなりません。
信仰が必要であり、信仰で応答するのであり、知識で応答するのではありません。
3章1節後半、
蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
ここで蛇は女に、ことば巧みに、神様の御ことばを捻じ曲げて、神様への疑いを抱かせるような質問を投げかけます。
たった一つの禁止事項を、あたかも全てを禁止しているように言い換え、
神様を非難するとも、弁護するとも取れるような、
女に同情しているとも取れるような疑問を投げかけます。
食する事を禁じられたのは「善悪の知識の木」から取って食べる事だけであり、
それ以外は「思いのまま」食べて良かったのです。
何の制限も無く、どれを食べようが、何時食べようが、どれだけ食べようが思いのままだったのです。
しかし、質問者は、「一本の木」を、「どんな木」と言い換え、
「ほんとう」なのかと、畳み掛けます。
誘惑者の常套手段です。
異常に拡大解釈してみたかと思うと、とんでもなく狭義に解釈し、
不安を煽り、疑問を抱かせ、正常な判断をさせ無いようにし、
更に、皆がやってる、大した事はない、誰も見てない、と誘うのです。
女は蛇の質問に、精一杯の応答をしますが、知識の不充分さ、自分なりの理解から間違いを含んだ応答をしてしまいます。
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
蛇の質問に対する女の応答は、正しいように思えますが、「食べても良い」レベルのものではありません。
「食物として与えられているので、思う存分食べられます」が答えであり、
「木の実」は、お情けで食べさせてもらっているのでも、働きに対する報酬でもありません。
神様から無条件に与えられた権利であり、決して失う事も、取り上げられる事もない権利なのです。
これは人間の活動が、安息、即ち休息から始まり、その後に労働が伴うように、
先ず、食料が与えられ、その後に働きが伴うのです。
もっと極端に申し上げるなら、無条件で安息と食事が与えられ、働くも働かぬも自由なのです。
しかし、与えられた安息と食事によって、神様に感謝し、心を込めて、神様から委ねられたエデンの園の管理、お世話をさせていただくのです。
答弁の最初に躓くと、その影響を引き摺り、更に間違った答弁をしてしまいます。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
神様は「それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」などとは仰っていません。
神様のことばは「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」なのです。
エデンの園の、全ての木のお世話を満遍なくするのですから、「知識の木の実」にも近寄らなければならないし、
時には熟して傷みかかっている実をもぎ取なければならないはずですし、
落ちている木の実を拾って処分しなければならず、触れなければなりません。
豊かに実るために剪定をし、肥料を与え、お世話をしなければならないのですが、食べてはならないのです。
神様は「食」を禁じたのであって、触れる事を禁じてはいないのですが、
これは、私たちも陥り易い理解であり、適応、ルールです。
神様は明確に「食」だけを禁じたのに、人間は食さないために近寄る事や触れる事を禁止事項に組み入れるのです。
時には実を見る事や、香りを嗅ぐ事も禁じるでしょう。
何メートル以内に近寄ってはならないとか、厳重に柵を設けなければならないとか。
そして、その付帯事項に罰則を設けてしまうのです。
それは敬虔なようで、従順なようで、神様の御こころを何も解っていない証拠です。
勿論、過失や錯誤を防ぐ目的ではありますが、食の禁止が第1であって、付帯事項を第1にしてはならないのです。
また「あなたがたが死ぬといけないからだ」との理解も問題です。
「必ず死ぬ」のであり、
「死ぬ事になってはいけないからだ」でも「死ぬかもしれないからだ」でもなく、
そこにあるのは可能性ではなく、確実性であり、
想像ではなく、現実なのです。
厳しい現実を付きつけられ、それを確認するのは楽しい作業ではありませんが、
厳しい現実を正しく見て、正しく認識してこそ、正しいく選択、正しい行動に繋がり、神様の喜ばれる道を辛うじて進む事が出来るのです。
生半可な知識や、いい加減な認識では、正しい選択、正しい行動には結び付きません。
女の答弁に隙を見つけた蛇は、間髪を入れず、神様を否定、中傷する言葉を投げかけて来ます。
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
「あなたがたは決して死にません」は、神様の御ことばの否定であり、神様の権威の否定です。
神様は「必ず死ぬ」と仰ったのに、それを真っ向から否定しているのです。
「神様は大袈裟なんだよ。殺しはしないし、死にもしないよ。」
「神様は嘘を言って、脅しているだけさ。気にしない気にしない。」なのです。
「本当に食べてはいけないなら、園の中央の目立つ所に置きやしないよ。」
「神様は意地悪なんだよ。見せ付けておいて、我慢しているお前たちを見て楽しんでるんだよ。」
お前が言うように「触れてはいけない」なら「園の中央に置きやしないよ」云々。
更に
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と、畳み掛けます。
「神のようになる」何とも魅力的な言葉ではないでしょうか。
自尊心をくすぐり、虚栄心を揺す振ります。
人間を神様の位置に引き上げると考えられますが、
その言葉は同時に、神様を中傷する言葉であり、
神様を人間の位置に引き下ろす言葉なのです
神様は永遠に存在し、変る事なく、善であり、依存する事もない、人間には理解も、見極める事も出来ない存在なのに、
土で造られた人間が、被造物でしかない人間が、肩を並べられるよ、同等になれるよ、と誘いかけられたのです。
「善悪を知る」との誘いかけは「善悪の判断をする」の意味であり、
「知る」は「一体になる」の意味であり、
法に従う者ではなく、私自身が法だ、法を従える者だ、法の上に立つ者だ、
もう、神様の判断を仰ぐ必要は無い、
神様は要らない、自分でやって行ける、なのです。
「善悪の知識の木の実」には、そんなに凄い、効能があり、
人間が独立、自立出来るようになるから、神様は「善悪の知識の木の実」を食べさせないんだよ、禁じているんだよ、と囁いたのです。
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
不思議な事ですが、今の今まで、普通に見る事が出来ていた、何の特別な感情も持たずにお世話をしていた「善悪の知識の木」ですが、急に違って見え出したのです。
「食べるのに良く」は「肉の欲」であり、肉体的欲望、
「目に慕わしく」は「目の欲」であり、感情的欲望でしょうか。
両者は密接に関係し、食べなくても損にもならず、何の不自由も無く、見過ごす事が出来ていたのに、
急に食べなければならなく感じ、他のものでは満たされ得ないような、損したような、片時も忘れられないような感覚の虜になったのではないでしょうか。
「賢くするというその木はいかにも好ましかった」は「心の誇り、暮らし向きの自慢」であり、精神的欲望でしょうか。
賢さを得る事は、この上もない魅力的なものとなりました。
神様と同じになれる、他人より抜きん出た状態になれる、
優越感を満足させ、更なる支配欲、所有欲を刺激した事でしょう。
それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
ついに女は蛇の誘いに乗ってしまい、脅迫された訳でもなければ、強引に食べさせられたのでもなく、交換条件を突き付けられた訳でもないのに、
自らの意志で手を伸ばし、自らの意志で実を掴み、自らの意志で実を引き寄せ、自らの意志で口に運び、自らの意志で食べたのです。
「自らの意志で」を強調しましたが、これが重要なのです。
確かに誘いはありましたが、「自らの意志で」行動したのであり、
何度も思い止まるチャンスはあったはずです。
手を伸ばし、手が実に触れた瞬間、唇が実に触れた瞬間、自身が発した「それに触れてもいけない」を思い出さなかったのでしょうか。
口に頬張った瞬間、自身が発した「それを食べてはならない」を思い出さなかったのでしょうか。
残念ながら、欲望は理性を麻痺させ、神様に対する従順に蓋をし、リスク以上のメリットを期待させ、破滅に突き進ませるのです。
女は、自身で食べただけでなく、一緒に居た夫にも与え、夫も食べてしまったのです。
夫は何故、一緒に居ながら、女の行動を止めなかったのでしょうか。
蛇とのやり取りを聴きながら、見ながら、関わらないように注意せず、女の言葉の間違いを正さず、蛇の誘惑に一緒に乗っかってしまったのでしょうか。
夫にも、女と同じ、欲望があったからであり、神様の命令を中途半端に理解していたからであり、
神様の厳しさを過小評価し、神様の愛を都合よく解釈していたからではないでしょうか。
ですから、女がくれたから、は理由にはならず、
同罪であり、頭として職務怠慢であり、女より一層罪は重いと言わざるを得ないでしょう。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。
「善悪の知識の木の実」を食べた結果は、薔薇色の世界ではなく、灰色の世界であり、
土を口一杯に含んだような、砂を食べたような不快感を味わったのではないでしょうか。
食べても知恵が増した訳ではありません。
正しい善悪の判断が出来るようになった訳でもありません。
その意味では食べる前も、後も、何も変ってはいないのですが、
裸と言う現実の認識だけでした。
神様との約束を破ったのであり、神様との契約は破棄されてしまいました。
神様のことばより、蛇の言葉を信じたのであり、神様との関係は破綻してしまったのです。
神様のことばに従う事で、神様の願う結果に行き着く恵み、そして神様から与えられる栄光ではなく、
自分の判断に従って失敗を避け、自分の願う結果に行き着くための努力、精進、工夫と、間違いを恐れ、間違いを隠す道を選んだのです。
神様の前に曝け出し、隠し事の一切無い歩みを、
神様の前に曝け出す事を恥と感じ、隠す事に血眼になる歩みに替えてしまったのです。
それは栄光を恥に替えた、と言うことであり、
神様の前に隠す事の無い状態を、恵みと考える事が出来なくなり、
「恥」と考えるようになり、
そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
のです。
得たと思った知恵は、何の恩恵ももたらさず、恥をもたらし、
恥を隠す「覆い」を作る事に、人生の貴重な時間、能力、知恵を消費する事になってしまったのです。
その「覆い」は「いちじくの葉」で作られており、立派な物ではなく、みすぼらしい物であり、直ぐに使い物にならなくなる物であり、常に作り続けなければならず、脅迫的であり、
ありのままで居られる事で得られる、安穏、平安、安らぎとは遠くかけ離れた、恩恵を捨てる事でしかなかったのです。
【適応】
神様の命令は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」です。
簡潔に言い換えるなら「与えられた物で満足しなさい」であり、
「与えられた物以上に貪ってはならない」でしょう。
更に言い換えるなら「手を出してはならない物がある」でしょう。
手が届こうが、毎日見ていようが、お世話をするために当然の結果として触ってしまっても、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言うのが、エデンの園で、人間に与えられた約束です。
知恵が得られると思って食べた「禁じられていた木の実」ですが、
得られたのは「恥」の思いであり、惨めな結果しか掴めませんでした。
この「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」を現代に適応するなら、
一に、「与えられた物で満足しなさい」と言う事です。
「善悪の知識の木」は人間には食べる事が禁じられていましたが、鳥は啄ばみ、動物は食べていたのではないでしょうか。
食べても死なない、少なくとも毒にはならない事をしっていたので、食べる事に躊躇はなかったのでしょう。
しかし、誰が食べても、皆が食べても、「あなた」は食べてはならないのであり、
それが、神様とあなたとの約束なのです。
二に、「与えられた物以上に貪ってはならない」と言う事です。
手の届く所にあるか否かではなく、毒があろうと無かろうと、効能があろうと無かろうと、自分の益になろうとなるまいと、神様との約束は「食べてはならない」のであり、その約束を守らなければなりません。
三に、「手を出してはならない物がある」と言う事です。
誘われても、勧められても、時に責任を取るからとの誘い方をされる事があるでしょうが、責任の問題ではなく、神様が「駄目」と仰っているのですから、食べてはならない、手を出してはならないのです。
木の実に限らず、神様だけに許された領域がある、と言い替える事が出来るでしょう。
科学が発展し、物理学が解明し、あらゆる可能性が現実のものとなって来ていますが、
追求心、探求心、或いは向上心は、良いものですが、行き過ぎは問題です。
手を出すと火傷をする物があるのであり、直ぐに火傷と言う症状が現れなくても、未来に影響が出ないとは言い切れず、例え影響がなくても、手を出してはならないのです。
核エネルギーの制御は、人間の能力を遥かに超えた問題であり、核物質の集積、濃縮、核物質、核廃棄物の保管、処理、無害化は人間の能力では出来ません。
自然の中に拡散し、遥か遠い所で核融合、核分裂が起こっているから安全なのであり、
地上で核融合、核分裂させるのは自殺行為そのものです。
遺伝子組替えでも、特殊な不妊治療でも、手を出してはならない事が日常的に行われています。
自然の中で起こり得る事を、人為的にやっているだけだ、と言う詭弁がありますが、
自然は自然の中で行なっているのであり、非常に低い確率のものであり、異常が起こる確率も低く、異常は自然が淘汰してくれます。
しかし、人為的な行為は、特殊な環境、条件の中で、通常ではあり得ない事をやっているのですから、異常な事であり、異常が起こる確率もあり得ない数値であり、異常は蓄積される事になるのです。
異常と気付いた時には、取り返しの付かない事になっているのではないでしょうか。
異常が起こらなくても手を出してはならないのであり、
「与えられた物が必要な物」であり、「貪らなくても次々に備えられている」のであり、「手を出さなくても満足すべき」なのです。
「与えられた物で満足し」「与えられた物以上に貪ってはなず」「手を出してはならない物がある」事を弁えなければならないのです。
即ち、欲望、行き過ぎた願望、追求心、探求心、向上心は一線を踏み越え、その行き着く先は取り返しのつかない結果、即ち、滅び、死に行き着くのです。
禁断の木の実に込められた神様のメッセージは、単に食物の問題ではなく、人間の飽くなき欲望、願望、追求心、探求心、向上心に対する警告なのではないでしょうか。
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聖書箇所:創世記2:18~25 2014-6-22礼拝
説教題:「人の助け手・・・女・・・」
【導入】
唯一の神様の御言葉による無からの天地創造の経緯を、聖書から確認してきた事ですが、
神様のかたちとして、神様に似た特別なものとして人間が造られ、
神様、手ずから「いのちの息」を吹き込まれ、人間は「いきもの」となりました。
「いきもの」の意味は、生物の意味ではなく、神様と霊的に応答出来る存在の意味であり、
神様の御こころを確認しつつ、天地万物の一つ一つ、被造物の全てが本来の目的を果たし得るように治めるための存在であると言う事です。
全ての被造物は、非の打ち所のない、非常に良い出来映えであり、何の問題もありませんでしたが、多少のお世話を必要とし、お世話する事でより一層、与えられた目的を果たす事が出来るように創造されていたのです。
お世話をする事で、植物は繁り、多くの実を結び、動物や人間の食物となり、二酸化炭素を吸収し、酸素を排出し、動物や人間の住み易い、生き易い環境を提供するのです。
動物や人間は植物に依存しますが、植物も動物や人間に依存し、
適度に食べてもらう事で、剪定する事で、二酸化炭素を供給してもらう事で成長し、実を結ぶのであり、共存関係、協力関係、相互扶助の関係にあったのです。
非常に麗しい関係であり、そこなうものが何も存在せず、
植物、動物、人間、自然が協力し合って神様を称え、神様の栄光を現す世界が造られ、始まったのです。
人間には、神様を称え、神様の栄光を現す働きの、音頭取りが委ねられた訳であり、
人間に地球の支配、管理、お世話が委ねられた訳ですが、一口に地球を任せる、と言われても、広大であり、手に余る働きです。
そこで神様は「エデンの園」と言う、地球の大きさに比べたならば、非常に狭い限定された地域を支配、管理、お世話をする事から始めるようにされた訳ですが、
狭い「エデンの園」であっても、とても一人で支配、管理、お世話出来るものではありません。
其処で神様は人間に助け手、協力者、補完者、相談相手、助言者を与え、
勿論、真の助け手、協力者、補完者、相談相手、助言者は神様ですが、
対等な存在と共に働き、エデンの園を、地球を、植物を、動物を、自然を支配、管理、お世話させようとご計画されたのです。
【本論】
2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
「ひとりでいるのは良くない」は非常に強い意味の否定の言葉ですが、助け手が必要である、と言う意味においてであり、
人間は不完全な存在であるとか、一人でいると暴走するとか、独断、独善に走るとか、好き勝手な事を始める、の意味ではありません。
「ふさわしい助け手」の直訳は「彼の前にあるものとして、彼に対応するものとして」であり、
助け手として補足、補完する存在のみならず、
同類であり、一致と類似性を込めた表現である事に注意しなければなりません。
「彼の前にあるもの」とは、物理的に存在する、の意味ではありません。
「彼に対応するもの」とは、比較する存在、鸚鵡返しに返事をする存在、の意味ではありません。
「彼の前にあるもの」とは、人格的な応答をする存在の意味であり、
「彼に対応するもの」とは、霊的に交われる存在の意味であり、
ある事象に対して、同じように考え、同じように感じ、同じように反応する存在なのです。
勿論、全く同じ、寸分違わず、ではなく、
神様から与えられた賜物に相応しく、神様から与えられた個性に応じて、考え、感じ、反応するのですが、
本質において同類であり、一致があり、似た考え方をし、似た感じ方をし、似た反応をする存在なのです。
神様は人間が不完全なために助け手を造られ、与えられようとしているのではありません。
神様に似たものとして、神の形に造られたものとして、人間は最高傑作であり、
能力も充分あり、能力を発揮出来る機能も申し分なく完備していましたが、
エデンの園でさえ、一人で管理するには量にも、質にも、時間にも限界があります。
そこで、神様は人間に助け手を造ろうとご計画されますが、
19節は「助け手」捜しの一駒ではありません。
2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
19節20節の聖句の言わんとするところは、
家畜も、空の鳥も、野の獣も、人間との人格的交わり、霊的必要を満たす物ではない事を確認する作業であり、
やがて与えられようとする「助け手」即ち「女」を迎える備えでもあるのです。
人は人格者として、他の人格者と交わって生きるように造られているのであり、
人格的必要を満たす生物でなければ、否「いきもの」でなければ相応しい助け手にはなり得ないのです。
労働力として、牛や馬などの家畜は、
和む相手として、犬や猫などのペットは、ある程度の助けにはなるでしょうし、
時代が流れて、科学技術が発達した現代は、各種のロボットや機械が、助けとなって、その恩恵は計り知れないものがありましょうが、
所詮、動物、ロボット、機械であり、人格を持たず、霊的存在ではないので、真の助けにはなり得ないのです。
人間の前に連れて来られた野の獣と空の鳥、家畜は「土」から造られていました。
その点で人間と何も違いはありませんが、
しかし「いのちの息」が吹き込まれてはいない点で大きく、全く違うのです。
動物は利口ですし、可愛いし、人間の言葉の一部を理解し、命令にも従いますが、
人格を持たず、霊的存在ではなく、従って、人間に相応しい生物ではないのです。
人間の前に野の獣、空の鳥、家畜が連れて来られたのは、「どんな名をつけるかを見るため」です。
「名付け」は権威の現れであり、支配の現われでもあります。
神様が天地万物を創造された時、創世記1章5節「神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。」のですが、
この権威、支配を人間に与えられた事を、「名付け」は意味しているのです。
また、「名付け」は対象である「野の獣、空の鳥、家畜」を良く知る事が前提にあります。
野の獣、空の鳥、家畜を熟知し、親しく知り、自らとの関係を知る事なくして「名付け」はできないのであり、
名前には意味がある、と言う事なのです。
イエス様は弟子に名前を付けられましたが、その名前には意味がありました。
マルコの福音書3章16節以下、
「3:16 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」
「名は体を表す」と申しますが、人の名前や物の名称は、その実体を示すのです。
「ペテロ」は「ケパ」即ち「岩」の意味であり、教会の基礎となる事を期待し、預言して付けられたのであり、
「ボアネルゲ」は「雷の子」であり、短気で攻撃的な性格を見抜いて付けられた名前なのです。
動物園、水族館、植物園に行くと、或いは、動物図鑑、植物図鑑を開くと、面白い名前にいっぱい出会いますが、
姿形の特徴を掴んだ名前であったり、生態の特徴を意味する名前であったりと、
成る程と感心させられますが、
名付けは、重要な意味を持つのです。
刑務所の中では、名前ではなく番号で呼ばれるそうです。
それは管理上の必要かも知れませんが、名前は人格的な交流の基礎となるものですから、
名前で呼ぶと、愛着が湧いたり、親しさを感じるので、
番号で呼ぶ事で、愛着が湧くのを防ぎ、必要以上に親しさを感じないようにする目的もあるのでしょう。
決して人格を無視するために番号で呼ぶ訳ではないと思いますが、
結果として人格を無視し、機械的に扱う事になるのですから、名前が如何に重要かが解るのではないでしょうか。
人間の前に連れて来られた野の獣、空の鳥、家畜は、
ペットショップの犬や猫のように、愛嬌を振り撒き、可愛い目で見つめた事でしょう。
思わず、これにしようかとの思いが心を過ったかも知れませんが、
結局、助け手は見つからなかったのです。
人間には「いのちの息」が吹き込まれており、人間に応答し、助け手となるのは「いのちの息」を吹き込まれたものでなければならない事を教えられる一時だったのではないでしょうか。
2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
人間が、人間にとって真の助け手となるのは「いのちの息」を吹き込まれたものでなければならない事を悟った時、
同時に「助け手」は、自分の力や能力、経験で判断し、選ぶものではない事を、
見栄えや持ち合わせている能力や機能で選ぶものではない事を悟った時でもあり、
神様に捜してもらい、与えてもらう類のものである事を悟ったのではないでしょうか。
自身の能力、賜物も神様から与えられるものであり、
助け手もまた、神様から与えられるものなのです。
しかも、助け手は、人間が必死になって捜し廻らなくても、神様が捜し出し、
人間が眠っている間に、神様が用意してくださる、与えてくださるものなのです。
「果報は寝て待て」と申しますが、「果報」即ち「良いもの」は神様のものであり、
神様が用意されるまで待ち、神様の与えてくださるものを最善、最適、最高のもの、これ以上ない組み合わせだ、と受け止め、
これを受け取る事は、神様の主権を認める事であり、神様の栄光を現す事だ、と言う事なのです。
2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
神様は人間に眠りを与え、人間が眠っている間にあばら骨の一つを取り、
そのあばら骨から、人間の助け手を造られました。
動物も人間も、土を材料に造られたのに、何故、「女」だけは土から造らずに人から造られたのでしょうか。
材料が全く同じなのですから、土から造ってもよさそうなものであり、何の問題も意味も無いように思われましょうが、そうではないのです。
確かに、材料の点では同じでも、
造られた作品の一部を抜き出し、取り分け、それを材料として新しい作品を造ると言う事には、大きな意味が隠されています。
人間が造られた次第を思い出してください。
「いきもの」となるために「いのちの息」を吹き込まれましたが、その「いのちの息」は、人間を構成する骨、肉、血、内臓などの隅々にまで及んでいるのであり、
「いのちの息」を吹き込まれた特別な材料で、女が造られた、と言う事なのです。
人間を造られた時のように、女にも「いのちの息」を吹き込めば、とお考えになられるやも知れませんが、
それでは別物であり、時間的にも隔たりがあり、物質的にも別物であり、似て非なるものなのではないでしょうか。
女は人が存在した瞬間から、人と共に存在したのであり、
「女」は創造の時から、別物としてではなく、人の一部から造られたのであり、
人の一部として造られた、人から取り出された、と言う事なのです。
人間が自然の一部として造られつ、神に似るように、神の形に造られつ、神ではなく、また「いのちの息」を吹き込まれて自然とは別の存在であるのと同じように、
女は人の一部から造られ、人をベースとして造られ、人と同じ人格を持ち、人と同じ霊的存在でありますが、人のコピーではなく、人とは別の存在であるのです。
この不思議な関係は、説明し難く、理解し難いでしょうが、大切な事なのです。
女は造られた過程から人に依存し、人に依存して生きる存在ですが、
人の傍らに立つ者として、対等に造られた存在である事を示しているのです。
女は人、即ち男の助け手ですが、奴隷ではありません。
男の全人格における必要を満たす存在であり、お互いがお互いを必要とする関係にあるいきものなのです。
目覚めた人は、女を見て驚嘆し、感激し、感動し、
2:23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
「私の骨からの骨、私の肉からの肉」は直接には血縁関係を現す表現ですが、
単に血の繋がり、関係の強さ、深さを現すに止まらず、
最上級の関係を現す言葉であり、血縁関係に勝るとも劣らない、否、血縁関係も及ばない強く深い、掛け替えのない関係を現しているのです。
男と女、即ち夫婦の関係は、最高の関係であり、親子の関係より優先します。
結婚は、血縁関係の無い男女が出会い、結ばれるので、血縁関係から見れば他人であり、親子の関係のほうが強い、深い、と考えましょうが、
聖書の教えは、男女、即ち、夫婦の関係は血縁関係を上回る関係であり、
親子の関係、血縁関係より優先させなければならず、
夫婦の関係を最優先に考え、大切にする事を命じ、行動しなければならない事を教えているのです。
これは、神様の創造の御業に基づく秩序であり、教えです。
「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」に記されている「女」と「男」の関係ですが、
「女」は「イシャ」であり「男」は「イシュ」であり、
「イシャ」と「イシュ」…語呂合せです。
因みに最初の人間は「アーダーム」と呼ばれますが、土地「アダーマー」の語呂合せです。
2: 24 それゆえ男はその父母ですが、を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである
親子関係は離れる事が基本です。
これは物理的にも、精神的にも、経済的にもです。
これは決して見捨てるとか、関係性を絶つの意味ではありません。
父母、或いは先祖を敬い、大切にする事は聖書の教える所であり、子、子孫の責任、義務であり、
如何なる理由をつけても、その責任、義務を逃れる事は出来ません。
逃れる事は出来ず、一生付いて離れない責任、義務ですが、
物理的にも、精神的にも、経済的にも親を離れ、独立し、新しい夫婦が新しい家庭を、親を離れた別の一つの家庭を築きかなければならないのです。
「離れ」は、「次ぎの段階に進むための」行為であり、
何時までも両親の保護、庇護の中に留まり続けるのではなく、独立する事を、
一人の男と、一人の女が、相互に、独占的で、排他的な関係を結び、
如何なるものも入り込む事は出来ず、
両親への依存から離れ、夫婦相互依存へと進んで行く事を奨励しているのです。
それは、何より神様の結び合わせたものを優先させると言う、考えです。
血縁関係も大切だが、神様の結び合わせたものが何より優先するし、優先させなければならないのです。
そして、神様のご計画である「産めよ増えよ、地を満たせ、地を従えよ」の命令を実行しなければなければならないのです。
夫婦は神様が結び合わせたものであり、妻、或いは夫と結び合い、一体となる、
決して解消してはならない、引き離してはならない、と言うのが聖書の教えであり、
親子関係より、血縁関係より、夫婦関係が重要と言うのが聖書の教えであり、
この二つの教えが重要であり、この考えが根底にないと家庭は必ず崩壊します。
この世の価値観が入り込み、離婚も、別居も選択肢の一つとなるでしょうし、
親の意見に左右され、或いは子ども中心の家庭になってしまいましょう。
家庭が崩壊しないまでも、誰が中心かわからない、形だけの家庭、血縁関係の集合体になってしまいます。
友達のような関係、仲が良いようですが、安定を欠き、何時分裂するか解らない危うさを内蔵しているのです。
夫婦が中心、更には男が頂点にいるからこそ、安定し、機能し、次ぎの世代に正しく引き継ぐ事が可能になるのです。
この、男を頂点とする、と言うのは、男尊女卑の奨励でも、男の独裁を奨励しているのでもありません。
頭の機能、即ち、最終的な決断、決定の権が男に与えられている、と言う事であり、
幾つかの選択肢があり、迷う時、決め兼ねる時、最終的な責任で決断、決定する機能が男なのです。
勿論、決断、決定に至るまでは、夫婦で十分に話し合わなければなりません。
男と女の関係は上下関係ではなく、平等、同等の関係でもなく、一つの関係であり、一体となっていて分かれ得ないのであり、相互に依存し、離れは「死」しかあり得ない関係なのです。
2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
この節の理解は、前節24節の「ふたりは一体」が大きなヒント、理解の助けになります。
夫婦は見かけ上は二人ですが、「ふたりは一体」なのであり、言い替えるなら鏡を見ているような関係なのです。
裸は、誰か他人に見られるから恥ずかしいのであって、誰も居なければ恥ずかしくはありません。
夫婦は二人で独りなのですから、恥ずかしがりようがないのです。
この後、罪が入り、裸を恥ずかしいものと考えるようになりますが、
それは夫婦関係が神様の創造とは違った形になったからであり、
相手を鏡に映った己が姿とは認識できず、違いを捜し、欠点を見つけ、優越感に浸り
或いは、劣等感に苛まれる結果となるのです。
罪が人間社会に入る前は、違いも欠点もそのまま受け入れ、違いを有効に生かし、欠点を補い合う、麗しい関係だったのです。
違いや欠点は、優越感や劣等感ではなく、保護や助け、協力関係に至るのであり、隠す必要もなく、誇示する必要もなく、ありのまま、そのままでいられるのです
男と女の関係は、知的にも、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、一致し、協力して、
被造物の一つ一つが、造られた本来の目的を果たし得るように治める関係なのです。
【適応】
前世紀的な、封建的な、強制的な結婚は、即ち、親が勝手に結婚相手を捜して来て、本人の同意もなく押し付けるような結婚は問題ですし、
結婚しない風潮も問題です。
人が独りでいるのは良くない、のです。
勿論、色々な理由や状況で、結果として独身を通す事もありましょうが、
結婚するのが、神様の基本的なお考えです。
結婚に直接神様が介入され、男の相手を造られた経緯が聖書に記されているのは、
伴侶は神様が造られる、準備されるのであり、
それに従うのが、結婚制度の基本であり、それを示すためでしょう。
罪が入り込んで以降は、人間の好みや利害、思惑が絡んで、制度自体が、神様が願った通りには運用されていませんが、
それでも、結婚は神様が制定された重要な制度であり、祝福の基です。
好みや、利害、思惑が影響しても、結婚を神様に願い、導きを求め、委ねるなら、
そして、結婚の制度を重んじ、夫婦関係の構築を最重要課題として取り組むなら、
神様が出会いを導き、結婚に至らせ、
苦労を乗り越える知恵と力を与えてくださり、
夫婦関係は本当に、この上もなく祝福されるでしょう。
夫婦の祝福は、家庭を本当に祝福されたものとするでしょうし、
祝福された夫婦、家族が集う教会は祝福され、
教会の祝福は地域を祝福するのです。
結婚の制度を尊重し、全ての知恵と力を注ぎ、全身全霊をかけて、夫婦の関係を神様が喜ばれるものにする時、夫婦は祝福され、その祝福は溢れ、教会を、地域を潤すのです。
その祝福の根源が、人に与えられ、人の助け手として女に与えられ、
二人にはこの祝福の基である家庭を構築していく使命が与えられているのです。
この祝福に与ろうではありませんか。
即ち、結婚は憧れるものではなく、自然に造られる関係ではなく、
組み合わされた二人が、神様に従うか否かで、作り上げる関係なのです。
神様に従い、神様の栄光を現し、神様が制定された制度である結婚を重んじ、
結婚の、家庭の素晴らしさを証しするのが、男と女に与えられた使命なのです。
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聖書箇所:創世記2:8~17 2014-6-15礼拝
説教題:「エデンの園」
【導入】
唯一の神様の御ことばによる、無からの天地万物創造の経緯を、聖書から確認して来た事ですが、
その経緯の記録は「簡潔に」ではなく、言わずもがなと思われる事までが、繰り返し、詳細に記録されています。
その理由の一つは、人間は忘れっぽいからなのではないでしょうか。
聖書は同じような記述が繰り返されている事が多い書物です。
レビ記、民数記の記述は、うんざりするくらい単調な繰り返し、羅列の繰り返しであり、
列王記と歴代史も視点を変えての、同一内容の記述に終始していると言えるでしょう。
イザヤ書の記述も列王記、歴代史と重複している部分がたくさんあります。
しかし、重要だから繰り替えし教えているのであり、忘れないで欲しいから繰り返すのです。
理由の二つ目は、人は自分の都合の良いように解釈する傾向があるからです。
書いてないから、大丈夫、とか、書いてある事だけやっておけば良いとか、
これは、こういう意味だろう、こう解釈したほうが、私たちに都合が良い、などなどです。
エジプト、オリエント、パレスチナに伝承される天地創造の経緯の影響は大きく強く、
太陽や月、星や山、大木、時には動物にも神秘的な力や、人の運命を左右する力があると信じられている世界に長く暮らしていたのですから、生活の隅々に深く、広く浸透しています。
神と人が縁戚関係にあるとか、人が神になるとかの思想を払拭し、
唯一の神様に従う民となるためには、知っておかなければならない知識であり、
有無を言わさぬ、ある種、強引と言って良い決め付けるような語調で宣言しなければならないのです。
天地万物の全ては、大きな太陽から、遠くて手の届かぬ星も、
価値もなさそうな小さな虫や塵に至るまで全てが、神様の御ことばによる創造であり、
疑問を挟む余地のない、確実な事実である事を納得させるために、繰り返し、詳細に記録しているのです。
そして、三つ目には、古い間違った考えを払拭するためには、新しい正しい教えを与えなければならないからであり、
当時の文化の中で、知識の中で、理解出来る程度に噛み砕いて教えているのです。
「海の巨獣」から連想される想像上の動物「竜」を直接否定する事なく、それさえも神様の創造の業であり、被造物に過ぎない事を教えているのです。
舞台が造られ、環境が整えられ、植物、動物が造られ、
神様の創造の業の締め括りに、最高傑作の人間が創造されました。
人間は、姿、形が神様に似ているだけではなく、
神様から直接、手ずから、いのちの息を吹き込まれ「いきもの」とされ、
神様と霊的に応答出来る者とされ、
神様の造られた世界を治めると言う使命が与えられました。そして、
【本論】
2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
「いきもの」となった人間は、神様の創造された世界を支配するべく、お世話するべく、
神様の手によってエデンの園に置かれました。
人間が住むための場所は、使命を果たす場所は、人間が自ら探し出し、開拓したのではありません。
広大な密林、ジャングルの中から、苦労の末、住み易い場所を探し出し、
植物を育てるために、動物を住まわせるために開拓したのではないのです。
神様が人間のために「園を設け」、神様が用意された園に「人を置かれた」のです。
私たちは、人間の置かれた場所を「エデンの園」と思い込んでいる節がありますが、
東の方、この東は、ユダヤ人が見ての東であり、
そこがエデンの地であり、エデンの地に園を設けられたのであり、
広大なエデンの地の一角の、囲われた一部分が通称「エデンの園」と言われている場所なのです。
エデンの意味は「喜び、歓喜」であり、
また「隅々まで良く潤された所」の意味です。
10節以降に、4つの川の名前が記されていますが、その内の一つが園を潤し、
植物が繁茂するに相応しい、動物が繁殖するに相応しい環境を作り、土地を潤し、生物を支えていたのです。
エデン全域が良く潤っていましたが、更に良く潤っていた場所に、神様は園を設けられた、と言う事なのです。
エデンに設けられた園は、神様のためではなく、人間が住むために造られたのであり、
決して神の国、神様の住まいではありません。
勿論「喜び、歓喜」を意味するす言葉が付けられているところから、
何時でも神様と親しい交わりを持てる場所であり、
植物と共存し、動物とも共栄し、人間同士とも喜び、仲良く暮らせる場所であった事は間違いないでしょうが、
神様の住まわれる場所ではないのです。
神様は住まいを必要とはされません。
神殿も、天の御座も、神様をお入れするには狭過ぎ、みすぼらし過ぎましょう。
ギルガメシュ叙事詩、ギリシャ神話などには、神々だけの住む園があり、人間の入園を固く拒み、
人間が憧れる様子が描かれていますが、
神様はご自分のためには、このような園を必要とはされないのです。
地上の全ては「人間のために造られた」のであり、神様が必要とされる物は一つもありません。
これは献げ物、奉仕についても言える事であり、神様は何も必要とされないし、
人間に仕えられる必要もないのです。
勿論、献げ物や奉仕を喜ばれますが、献げ物で宥めたり、奉仕でご機嫌を取る必要もないのです。
あくまで園は人間のために造られたのであり、これを忘れてはなりません。
以降、エデンの中に置かれた園を、便宜上「エデンの園」と呼ぶ事にしましょう。
2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
エデンに設けられた園は、神様の命令で、人間のために植物を生じましたが、
「見るからに好ましく食べるのに良い」「全ての木」を生じさせたのであり、
「すべての木」が「見るからに好ましく食べるのに良」かったのではありません。
「見るからに好ましいけれども、食べるのに相応しくない木、食べてはならない木」も生じていたのです。
そして、問題は「見るからに好ましいけれども、食べるのに相応しくない木、食べてはならない木」がある、と言う事実です。
「見るからに好ましいけれども、食べるのに相応しくない木、食べてはならない木」は、現実に、毒がある必要も、特殊な効能を与える必要もありません。
「食べてはならない」言う事実だけを押さえておく事が重要です。
理由は不必要なのです。
これは隠喩であり、食物に限らず、理由如何に関わらず、人間が手を出してはならない分野がある事、
人間が関わってはならない領域、聖域がある事を暗示しているのです。
食べられるから何でも食べて良い訳ではなく、
手を出せるから、取り出しても、加工しても、利用しても良い訳ではないのです。
Aさんには許されているが、Bさんには許されていないこと、また、その逆もありうるのです。
使命と権限と賜物は、各々に与えられるのであり、貴賎、優劣はありません。
その与えられた、許された、約束の範囲の中で行なう、仕えるのであり、
限度、分を弁える事が重要であり、約束を守るか守らないかが重要なのです。
禁じられているけれども、毒ではないから食べても良い訳ではないのです。
この時点で、この約束は交わされていませんが、
読者に、特別な木が「園の中央に生えていた」と言う事を予備知識として与えます。
隅っこに生えていたなら、目立たない所に生えていたなら、手の届かない所に生えていたなら、問題はなかったでしょうが、問題は生じなかったでしょうが、
中央に、目立つ所に、何時も見える所に、手の届く所に置かれていたのであり、
後日、問題を引き起こすのですが、それは後日学ぶ事にいたしましょう。
2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
広大なエデンの地を源として、エデンの園を潤すために一つの川が流れ出ており、
四つの川の源となっていた、と記されていますが、
エデンの地で四つに分かれて、その内の一つがエデンの園を潤したのか、
エデンの園を潤してから、四つに分かれたのかは、不明であり、断定できませんが、
園を潤すための川が用意されていた事が重要です。
肥沃な土地は水が流れて来てこそ、水が上流の養分、栄養を運んで来てこそです。
栄養分は水に溶けてこそ、草木に吸収され、草木を成長させ、草木に実を結ばせます。
栄養分が豊富でも、溶け込む水が枯渇してしまったならば、何の役にも立ちません。
きっと、エデンの園は中流にあり、常に豊かに流れる川で潤い、
その豊富な水と養分、即ち恵みで、植物は茂り、豊かな実を実らせていたのでしょう。
更に下流にも、その豊かな恵みを分け与えていたのではないでしょうか。
恵みは一人占めするようなものではなく、自分の所に留めて置くものではなく、
分け与えるものであり、分け与え続けるものであり、
幾ら与えても足りなくなる事はなく、減る事なく、多くを活かし続ける、不思議なもの、働きなのです。
その川の説明が記されています。
2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
11節13節に記されている名前の川の位置、土地の名前の位置は不明です。
11節の「ハビラ」はエジプト、ナイル川の上流?との説がありますが、確定できず、
13節の「クシュ」は「エチオピア」を示してはいないようであり、ティグリス川の東にあるカッシート人の住む領域ではないか、と言われています。
確定した事は言えない訳ですが、
14節の二つの川を紹介するに比べて、多少の特徴と言うか、説明が付加されているので、創世記が記された時には、誰も知らない川、地域となっていたのではないかと考えられます。
「ベドラハ」も意味不明であり、新共同訳聖書では「琥珀(こはく)」と訳していますが、
琥珀は樹脂の固まったもの、或いは樹脂の化石であり、「良質な金」や、宝石である「しまめのう」と並べて記述するには不釣り合いと思われますが、
現代の私たちの知らない、何か特別な使用方法があり、貴重品だったのかも知れません。
「ピション」には「充ち溢れる」の意味があると、
「ギホン」には「流出する」の意味があるとされ、
「ティグリス」の意味するとされる「急流」や、
「ユーフラテス」の意味するとされる「甘美」と合わせて、
神様の用意された川は、即ち、恵みや祝福は、充ち溢れて、流れ出し、急流となって、甘美な恵みを与え続ける事を示唆しているのではないでしょうか。
この隠喩は、時を経て、聖霊を指し示し、聖霊の性質を現し、聖霊が豊かに与えられる事を預言しているのではないでしょうか。
2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
14節に記されている二つの川の名前は、ユダヤ人に良く知られた名前の川であり、それ故に、特別な説明もなく、簡潔に紹介されているのでしょう。
しかし、このユダヤ人の知識が、現在の私たちにも同じか、と言うとそうでもなさそうです。
14節に記されているのと同じ名前の川が、パレスチナを流れ、ペルシャ湾、別名アラビヤ湾に流れ込んでいますが、
10節の説明と合わせると、少し、矛盾が生じましょう。
四つの川は、「そこから分かれて」と記述されていますが、
少なくとも、ティグリスとユーフラテスは上流では大きく離れており、下流で近づいている程度です。
しかし、一つの源流から分かれたと考えるなら、矛盾となりますが、
広大な「エデンの地」を源とする、と考えるなら、矛盾は解消されるのではないでしょうか。
更に、神様が湧き出させた泉は、地下では一つであり、一つの水脈「そこから分かれて」と考えるなら矛盾しないのではないでしょうか。
しかし、更に重要なのは、矛盾か否かではなく、私たちの理解ではなく、
私たちの必要を神様は知っておられ、必要を満たしてくださり、豊かに与えてくださる事なのではないでしょうか。
理由を詮索するより、感謝する事が大切なのです。
矛盾は矛盾のままで置いておき、私たちに隠されている事がある、と受け止める事も重要なのです。
重箱の隅を突つき、何でもかんでも白黒ハッキリさせる事も大切ですが、
時代を経た記録であり、文化が違い、表現方法も違うのですから、理解出来ない所や意味不明の所があっても、当たり前、当然なのではないかと、考えるのが聖書に対する態度なのではないでしょうか。
理由をこじつけたり、不自然な解釈をするより、そのまま受け止める事も大切なのです。
これは決して有耶無耶にして置く、を推奨しているのではありません。
聖書は人間の罪の問題と、救いの方法について記された書物であり
その理解のために、出来事があり、人物が登場し、地名などが記されているのです。
聖書は、天地創造の科学的、物理学的論文、事件の詳細な記録文書、裁判資料ではないのであり、
罪の歴史、救いの歴史の理解の書なのです。
2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
8節と概ね同じ内容ですが、人間に労働、任務が与えられた事が記されています。
即ち「そこを耕させ、またそこを守らせた」です。
この使命、任務が与えられた時点で、
労働は、罪の結果の労苦ではなく
神様の造られた場所を維持するための、自分たちの住まう場所を守るための、糧を豊かに得るための労働であり、任務であり、
安らぎと、喜びに満ちた奉仕であり、お世話であったのです。
先にお話ししたように、人間は自然の一部であり、自然の中で生き、自然と一体なのですから、
自然の世話をする事は、自分の世話をする事であり、
自然をいたわる事は、自分をいたわる事であり、苦労でも何でもない事であり、
安らぎ、喜びなのです。
世話をされない自然の苦しみは、自分の苦しみであり、
いたわられない自然の悲しみは、自分の悲しみであり、
世話をしないでいられない、いたわらずにいられないのであり、耕さずにいられない、守らずにいられない、労働せずにいられないのです。
その人間の喜びに満ちた働きに、自然も応答し、草木は成長し、豊かな実を結ばせるのです。
自然と人間の関係が正常であり、お互いを必要とし、お互いを尊重し、お互いを支え合い、お互いを守りあう、麗しい、美しい関係が始まったのです。
神様からの命令の形を取ってはいますが、
人間に耕作、管理、保全が任されたのであり、
動物に、植物に、任されたのではなく、
また、神様ご自身が主体で、人間を助手にされたのでもないのです。
人間は助手ではなく、主体であり、主体でありつつ、神様の御こころを具現するという、従順が試される働きに就いたのです。
これは、神様と人間との基本的関係であり、
直接指示をだすのではなく、連絡要員が居て指示を出すのでもなく、
全面的、完全に人間に委ねられたのです。
何をしても良く、何をしなくても良いのです。
強いられもせず、自由、それが、神様と人間の基本的関係なのです。
しかし、神様不在、関係が絶ちきられたのではなく、
厳然として、神様の臨在の厳粛な証しとしての命令であり、
重要な宣言、命令、真理なのです。
それは、16節、17節にも共通の真理です。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
9節に「見るからに好ましく食べるのに良」かったと記されていますが、
全部が全部食べて良いのではなく、食べられるけれども、食べてはならない物がある事が、ここで宣言されます。
全ての木の実が食べて良い、どの木からでも好きなだけ食べても良い訳ではないのです。
15節16節17節の命令を通して、神様の僕として従う、と言う選択肢を提示し、
自分の考え、判断で行動する事、
神様を無視する事、
神様の創造された世界から、自分の知識、満足、価値を無理やり引き出そうとする事を禁じられたのです。
天地万物は人間のために造られましたが、人間が好き勝手、何をしても良いのではなく、神様の御こころに従って、支配、お世話するのであり、
自己満足や、自己実現のために、知識をひけらかすために、存在をアピールするためではないのです。
人間は、神様に従う事で善悪を知るのであり、自分の判断や知識で善悪を判断してはならないのです。
神様への従順こそ、人間の真の自由の保証なのです。
従順って、自由ではない、と思われましょうが、
何でもやりたい事をするのが自由ではなく、
したい事をしない自由があり、
したくない事をする自由があるのです。
即ち、神様への従順を自由意志で選ぶ事こそ、真の自由なのです。
強制でもなく、選択肢がないのでもなく、自分の意志で神様に従う事を選ぶのです。
勿論、神様に従う道を選ばない自由もありますが、
それは神様と、神様の造られた世界を拒否する事であり、
全てを自分で解決しなければならず、自分で得なければならず、自分で始末をつけなければならず、生きるために、嫌でも働かなければならず、自由とは言いがたいのではないでしょうか。
手の届く所にあり、毎日見ていても、深く関わり、お世話をしつつも、
善悪の知識の木と、いのちの木は、食べてはならないのであり、
この関わりこそが重要なのです。
見もせず、触れもしなければ、食べもしないでしょうが、
毎日見て、毎日触れていながら、食べないのは、忍耐と自制が必要でしょうが、
それを可能にするのは自分の力ではなく、神様への従順の意志なのです。
神様への従順で、自我を制するのです。
9節で善悪の知識の木と、いのちの木を紹介しながら、17節でいのちの木に触れないのは、
善悪の知識に比べて、永遠のいのちに、意味がない事を教えています。
古今東西、宗教や文学は永遠のいのちを探求しています。
エジプト文明は死の問題を専ら扱っており、不老不死は永遠のテーマでしょう。
しかし、聖書はいのちの木を従属的な立場に置き、古今東西の一般の考え、興味との違いを明確にしています。
いのちそのものよりも、いのちを与える権威、いのちを取り上げる力を持つ神様にスポットを当てているのです。
神様に対する従順があってこそ、いのちを持ち、維持する意味が生じるのではないでしょうか。
神様不在の世界でいのちを永らえても、何の意味もありません。
【適応】
エデンの園は、働かなくても良い、好き勝手な事が出来ると言う意味での楽園ではありません。
エデンの園は、働かなければならない、神様の御こころに聴き従わなければならない、と言う意味では楽園ではないかも知れません。
しかし、神様に従う事が、人間にとって一番の幸せであり、喜びであり、平安であり、憩いなのですから、その意味では楽園なのです。
喜んで働け、楽しんでお世話が出来るのですから、楽園なのではないでしょうか。
労働もお世話も、自分を捨てる事、低くする事です。
自我を捨てる事が出来る場所、自分を低くする事が出来る場所、即ち、神様を一番とする所が楽園なのではないでしょうか。
植物も、動物も、人間同士も、神様中心に争いがなく、競争がなく、騙し合いがなく、損なうものが何もないのですから、共存共栄なのですから、楽園なのではないでしょうか。
その理想の楽園に近いのが、似ているのが地上の教会です。
奉仕するも、しないも自由であり、
献金するも、しないも自由であり、
礼拝に出席するも、しないも自由であり、
祈るも、祈らぬも自由なのです。
勿論、エデンの園のルール、神様の与えられた使命、約束があったように、
教会では聖書の教え、十戒、教会のルールがあり、それを教え、
クリスチャンになる時には、教会に加入する時には、誓約をしますが、
決して強制ではなく、自由意志で、クリスチャンになるか否か、教会員になるか否かを決めるのです。
そして、クリスチャンになったからには、教会員になったからには、
聖書の教え、十戒の教え、教会、教団のルールに従い、
教え、ルールに従う事を通して、神様に従う事を擬似的に体験し、天国のルールを学び、
イエス様の再臨、自身の死に備えるのです。
教会の外は、競争社会であり、上手く立ち回る事が知恵でしょうが、
教会の中は、神様に従う社会であり、神様に従順か否かが問われるのです。
教会にこころの平安や、安らぎを求めて、も勿論ありであり、大歓迎ですが、
それらは二義的な事であり、
第一は神様に従うか否か、例え目の前に美味しい木の実があっても、知恵が得られると知っていても、手を出さない訓練の場であり、
神様への従順を学ぶ事こそが、大事なのです。
奉仕するもしないも自由ですが、奉仕する事を通して神様に仕える喜びを味わい、
献金するもしないも自由ですが、献金する事を通して神様に養われている幸いを感謝し、
礼拝に出席するもしないも自由ですが、礼拝に出席する事を通して守られている事を体験し、
祈るも祈らぬも自由ですが、祈りを通して神様との深い、密な交わりを体験するのです。
エデンの園は遠くにあるのではなく、死んで入る所でもなく、
あなたが置かれた所が「エデンの園」なの出はないでしょうか。
誘惑があっても、神様に従う事を選ぶなら、其処がエデンの園なのではないでしょうか。
その教会で味わい体験する喜び、憩いは、素晴らしいものですが、
天国で味わい体験する喜び、憩いの何十分の一、何百分の一であり、比べ物にならないのです。
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聖書箇所:創世記2:4~7 2014-6-8礼拝
説教題:「神の息を吹き込まれた生き物…人」
【導入】
四回に分けて天地創造の経緯について、聖書から教えられて来ました。
聖書は「神様のことばによる無からの創造」を教えており、
天地万物、被造物の全てが、ありとあらゆるモノが、神様によって造られた価値あるモノ、意味あるモノ、目的があるモノであると確認しました。
天地万物は「神様のことばによる無からの創造」であり、天地万物、被造物の支配、管理は、神様から人間に委任されており、
神様の御こころにそって正しく適正に管理し、被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るように治めなければなりません。
そのためには、単なるロボット、奴隷、被造物の一つとしての動物ではなく、
神様と応答出来る能力、状況を判断し、判断を基に決断し、決断した事を実行する特別な能力が必要なのです。
人間は自然の一部として、被造物の一つとして、創造の連続性の中で創造されましたが、
神様に似るように、神様のかたちに創造されました。
多くの動物とは一線を隔した、特別な存在として、
世を治めるという特別な使命を与えて、
神様に似た者として、神様のかたちを与え、これらを意図して創造されたのです。
その特別な存在として創造された人間に、最初に与えられたのは仕事、任務ではなく、
休息、安息、正しい意味で言うならば、神様との交わりの時が与えられたのでした。
働く前に神様との交流の時間を持つ事こそ、人間の最重要の課題なのです。
疲れたから疲労回復のために休むのではありません、
空っぽになったので補充するために休むのでもありません。
勿論、弱い、疲れ易い肉体を持っているので、疲労回復、気力充満のためにも休みますが、
安息日の本来の意味、目的は、神様との交わりの時であり、
神様の御こころを知るため、確認するため、軌道修正のための時であり、
神様の力に与るためであり、
神様を第一とする事によって、神様の栄光を現す事なのです。
「神様の栄光を現す」事の具体的行動が、神様の前に静まる事であり、
働く事でも、利益をあげる事でも、繁栄、発展させる事でもないのです。
神様の前に静まり、神様の声を聴く時、御心を確認する時、結果として繁栄、発展するでしょうが、
決して働く事が先ではないのです。
このような意図を持って創造された人間ですが、神様の意図に従って生きるためには、特別な手続きが必要であり、
その特別な手続きが、今日のテキストに記されています。
【本論】
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。
4節前半は、新たな創造物語が始まる事を宣言しているのではありません。
「これ」が何を示すのか、何を意味するのかを考えると、
2章3節までに記されている、天地創造の経緯と理解して、
「以上述べたのは、天と地が創造されたときの経緯である。」との、総括の宣言、
或いは、再確認の宣言であり、
また、2章4節以降に記されている、天地創造の経緯の内、人間に関わる重要な説明、詳細な説明と理解して、
「この後述べるのは、天と地が創造されたときの経緯の詳細である。」との宣言なのであり、
2章4節の前後を繋ぐ、掛け橋の言葉となっているのです。
天地、万物の創造と言う、壮大なわざは、一口では語れません、語り尽くせません。
1章1節で大枠を宣言し、
1章2節以降で、一日毎の創造の経緯を説明し、
2章4節以降で、更に、人間にスポットを当てて、人間に焦点を絞って説明しているのです。
この「経緯」は「歴史」とも「系図、血の繋がり」とも訳せる言葉です。
ユダヤ人はエジプトに住み、エジプトの文化、歴史の影響を受けています。
ユダヤ人の祖先アブラハムはカルデヤ人の地で生まれ育ち、
アブラハムも、子孫もカナンの地に長らく滞在しました。
飢饉を避けてエジプトに滞在し、奴隷とされ、
エジプト脱出後はパレスチナを放浪し、パレスチナ、オリエントの文化、歴史の影響を受けています。
そのカルデヤ、カナン、エジプト、パレスチナ、オリエントの文化、
カルデヤ、カナン、エジプト、パレスチナ、オリエントの天地創造の歴史、
カルデヤ、カナン、エジプト、パレスチナ、オリエントの神観を払拭するために、
神様に召し出され、新たな歴史を刻み、打ち立て、神様の栄光を現して行くためには、独自の歴史、即ち、「神様のことばによる無からの創造」を学ぶ必要があるのです。
すると、2章4節から、別の意味を読み取らなければならないでしょう。
即ち、「これが、あなたがたが信じるべき、天と地が創造されたときの経緯、歴史である。」なのです。
古い考え、間違った歴史を払拭するには、新しい考え、正しい歴史を学ばなければなりません。
エジプトを脱出し、パレスチナを旅し、神様が与えてくださる地に到着する前に、
古い考え、間違った天地創造の経緯を捨てて、
新しい、正しい歴史、正しい天地創造の経緯を学び、神様に召し出され、神様の御心を知る、神様に従う民として相応しく整えられて行くのです。
2:4神である【主】が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
5節の記述から、遥か見渡す限り、地球の陸地の全てが草木一本も無い、荒涼とした荒地を想像する必要はありません。
5節の「地」は天の下、全ての土地の意味に理解する必要は無く、
ある程度限定した広さ、即ち、人間が置かれた土地、「エデンの園」を現しているのではないでしょうか。
神様はとてつもない広大な土地を、手に余る不相応な土地を、人間に任せたのではなく、支配、管理、お世話出来る範囲を任せてくださったのです。
そして、人間の数が増えるに従って、徐々に支配、管理、お世話の範囲を広げて行かれた、のであり、
人間の支配、管理、お世話の外にも、神様の造られた世界が広がっているのであり、
そこは神様自らが、支配、管理、お世話をされているのです。
「灌木」は茨やアザミを包括した言葉であり、
「野の草」は耕作によって生じる食用の草を現す言葉と理解する事が出来ます。
即ち、人間の犯した罪の結果生じた、人間や動物を傷付ける有害な潅木、茨やアザミが生じていなかった事を表現し、
動物や人間の食料となる草木も、人間の支配、管理を必要とし、お世話がなされていないために芽を出していなかった事を、仄めかしているのではないでしょうか。
その根拠が、5節、最後のフレーズ「土地を耕す人もいなかった」です。
人間も動物も、草なら実なら何でも食べられる訳ではありません。
食料として相応しい草や実があるのであり、管理、即ち、手入れ、お世話をする事で、より食材に適した草、実となるのではないでしょうか。
間引く事も必要であり、剪定してこそ、より成長し、豊かな結実となるのではないでしょうか。
この時点で、雨は降っていませんでしたが、
2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。
と、記されており、植物が自生し、成長する環境は整っていた事が判明します。
現在の地球は色々な理由、原因で砂漠化が進み、草木の生育には適さない土地が大きく広がっていますが、
天地創造の直後は、何処も潤っていたのです。
砂漠化の根本原因は、人間の罪である事に間違いありません。
人間の罪は、動植物に影響を与え、自然、環境にも影響を与え、気候変動、旱魃が起こって、生物が住み難い世界にしてしまっているのですが、
神様が創造された直後の地球は、其処、彼処に泉が湧き、土地は潤い、何処もが植物の育成に適しており、
必然的に動物の生育、繁殖にも適していたのです。
人間の置かれた土地は、人間に支配、管理、お世話が任され、耕す事が期待されていたのです。
それ以外の土地は神様が支配、管理、お世話され、草木が秩序を持って自生していたのです。
2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。
この7節で重要なのは「土地のちりで人を形造」られた、と言う事です。
エジプトでも、メソポタミヤ、オリエントでも、パレスチナでも、
また、日本でも、神話を調べ、伝承を紐解くと、人間は神の子孫、神と人とが血縁関係にある場合が多く、
特に支配層である王は神の末裔、現人神、或いは死んで神になるような記述が多く伝承されていますが、
「土地のちり」で「人を形造」ったのであり、人間は神ではない事、神と血縁関係もない事、何をしても神になる事はない事を宣言しているのであり、
他の被造物、動物と、その組成においても何ら変わらない事を宣言しているのです。
「土地のちりで人を」造られた、と宣言されている通り、人間は在り来たりなモノで造られているのであり、特別なモノではない、死ねば土に返る事を暗示もしているのです。
人間自体は、塵に過ぎず、脆弱な生き物である事を宣言しつつ、
続いて「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」との記述から知れる事は、
人間が動物と同じレベル、感覚で創造されたのではなく、
神の「いのちの息を」神ご自身が「吹き込まれた」のであり、
特別な存在とされた事を、人格的な温か味を、人格的な関係性を感じさせるのではないでしょうか。
塵で造ったで終わらず、同時に、神の「いのちの息」を与えたのであり、
それは自分自身を与える、と言う事であり、
人間は「われわれに似るように、われわれのかたちに、…人をご自身のかたちに創造された。」以上の意味がある存在、被造物なのであり、
神の「いのちの息を吹き込まれ」る事により、人間の尊厳性が宣言されているのです。
「いのちの息」は、生物としての呼吸の意味ではなく、「霊」の意味であり、
神様と「霊的」な応答が出来る、唯一の生き物として創造された事が宣言されているのです。
【適応】
今日はペンテコステであり、イエス様の約束なさった「聖霊」が弟子の一人一人に、信徒の一人一人に与えられた事、注がれた事を記念する日ですが、
そもそも、人間は創造の時に「神のいのちの息」即ち「聖霊」を吹き込まれて、生きものとなったのであり、
罪によって断絶した神様との交わりが、イエス様の吹き込まれた息によって回復した、と言う事なのではないでしょうか。
人間は神様の吹き込まれる息によって生きるのであり、
動物として、生物として生きる以上に、神様との交わりの中に生きるものとして造られた事を覚えなければなりません。
罪によって、いのちの息を吐き出してしまい、罪を吸い込んで生きているのです。
生物、動物としては生きているかも知れませんが、
「われわれに似るように、われわれのかたちに、…人をご自身のかたちに創造された」生き物としては死んでいるのです。
創造の時には、いのちの息を吹き込まれて、神様と正しい関係、良い関係にあった人間ですが、
罪によって神様との交わりを無くし、関係を絶ってしまった人間であり、
創造の時に与えられていた尊厳を逸してしまった人間であり、
動物と等しい、自己中心な、弱肉強食、力が支配するような世界を構築して、お山の大将のような自己満足の世界に生きていますが、
イエス様の流された血と、裂かれた肉によって、罪の刑罰を消していただき、
新たに聖霊を吹き込まれた事によって、神様との正しい関係、良い関係を回復したのです。
真の意味で「生きもの」となったのであり、
神様の意図通りの「生きもの」になったのです。
人間の罪の影響は、新しく「聖霊」を注がれても、強く残り、
神様に、特別な意図を持って創造されたに相応しくない行動を取ってしまい、
自然も植物も動物も悪い影響を受けていますが、
新しく「聖霊」を注がれて、人間は創造の時に近い状態にされ、秩序を回復する働き、時代に入ったのです。
勿論、完全な回復は、イエス様が来られての新世界を待たなければなりませんが、
回復の道備えが、クリスチャンに委ねられている事を覚えたいものです。
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聖書箇所:創世記2:1~3 2014-6-1礼拝
説教題:「創造の経緯、第七日目:安息日」
【導入】
三回に分けて天地創造の経緯について、聖書から教えられて来ましたが、
聖書は「神様のことばによる創造」を教えており、「進化論」ではない事を確認した事でした。
「神様のことばによる創造」と「進化論」の対峙は、
「有神論」と「無神論」の対峙であり、
全てのモノが神様によって造られた価値あるモノ、意味あるモノ、目的があるモノとの理解と、
偶然に出来たモノであり目的のないモノ、価値も、意味もないモノとの理解の対峙なのです。
この天地万物は、神様によって造られた非常に良かったモノ、との理解と、
神様によって造られた天地万物の支配が人間に委ねられた、との理解は、基本中の基本であり、
この理解がないと、罪の問題も、救いの問題も、曖昧になってしまうのです。
何故ならば、この天地万物は神様によって造られた、との理解がなければ、
好き勝手し放題であり、何をしても問題にはならないでしょう。
どんなに世界が混乱していても、環境が破壊されても、汚染しても問題ないでしょう。
罪は犯罪だけに限定され、道徳的な罪や、精神的な罪は問われる事がないでしょう。
しかし、そうではないのです。
天地万物は「神様のことばによる無からの創造」であり、その支配、管理は、神様から人間に委任されており、
神様の御こころにそって正しく適正に管理し、被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るように治めなければなりません。
そのためには神様との絶えざる、密な関係が必要不可欠であり、
この神様との関係を阻害するモノ、清く正しい神様との断絶を生む罪が、決してあってはならず、
即ち、神様との約束を決して破ってはならないのです。
しかし、人間は神様との約束を破り、罪を犯し、神様と断絶してしまいました。
人間は神様の御こころを知らず、知ろうともぜず、好き勝手にしているので、天地万物は人間の独裁に、横暴に、或いは放任に、お世話をしてもらえない事にうめいているのです。
その天地万物のうめきを解消し、神様との霊的交わりを回復するには、人間の罪の処理が必要であり、
聖書には人類の罪からの救済の方法と、人間のあるべき姿が記されているのです。
聖書は人類の、罪の裁きからの救済の書であり、
そのイントロとして、天地万物創造の経緯が認められているのであり、
聖書の初めに記されている、天地万物創造の経緯を「神様の御ことばによる無からの創造」と信じられるか、否かが、
聖書の全体を神様のことば、と信じられるか、受け入れられるかの試金石でもあるのです。
そうは言っても、聖書に記されている天地創造の経緯は、何の疑問もなく信じられる、受け入れられる事ではありません。
闇雲に、何の根拠もないのに「神様のことばによる無からの創造」を信じるのは狂信であり、思い込みであり、信じていないのと変りません。
根拠もなく「神様のことばによる無からの創造」を信じているのであるならば、何かの切欠で、「進化論」に転向するやも知れません。
聖書に対する態度も、根拠が希薄、曖昧であるならば、何かの切欠で信仰を捨てる事になるのです。
即ち、創造論、進化論だけの問題ではなく、信仰生活に関わる重要な問題なのです。
感情や感性だけで信じているならば、感情が低下した時には、あっさりと信条を変える事になるでしょう。
強制や条件付で信じたならば、強制がなくなり条件が変った時には、あっさりと信仰を捨てる事になるでしょう。
聖書は感情で受け入れるのではなく、感性で信じるのでもなく、
勿論、強制や損得、利害で受け入れるものでもありません。
自身で聖書を良く読み、繰り返し読み、充分吟味し、知的な理解の上で、
聖霊の働きによって決断に至るのであり、
聖霊の促しに、人間が知的に、霊的に応答する、と言う事なのでしょう。
聖書の完全な理解は難しい事ですが、聖霊の助けによって、聖書を理解し、
神様との交わりと、そこから湧き上がる平安に満たされた生涯の素晴らしさを確認して行きましょう。
【本論】
2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
1章1節から始まった、天地万物創造の経緯に記されている通りに、
神様の御ことばによって、種類に従って、全ての生き物、植物も動物も造り出されました。
「すべての万象」と記されている通りに、存在する全てのものが神様の御ことばによって造られたのであり、
オリエント、エジプトでは神として崇められ、礼拝されている太陽も、月も、星も、
神のような力、霊力があると信じられ、畏怖と信仰の対象になっていた海の巨獣、鰐も、大蛇も、龍も、神様の手になる被造物でしかないのであり、
何の霊的力も、影響力も、運命を左右する力もない事を、決して神ではない事を再度、言外に宣言しているのです。
人間は愚かであり、一度宣言しても直ぐに忘れてしまします。
そこで神様は、二度、三度と、言葉を変えて、宣言しているのです。
「完成」と記されていますが、被造物は、特に地球の被造物は人間のお世話を必要とするように造られたのであり、
神様の意図された通りに、造られた事が宣言されているのです。
また、この「完成」と訳されているヘブル語には「やり終える、終わらせる、決められる」などの意味もあり、
計画通りに、やり終えられた、
意図された事を、終わらせられた、
決められた通りになさった、のです。
私たちの計画の結末は、時に不完全であったり、
一応は完成しても、当初の予定とは違っていたり、
随所に齟齬があったりし、それでも想定されていた差異、誤差の範囲と言う事で、大々的に「完成」を宣言するかも知れませんが、
神様のご計画は寸分違わず、完成したのであり、
齟齬も瑕疵も、誤差も一切なかったのです。
それは、1章31節で宣言されている通りであり「非常に良かった」のです。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2節で「わざ」と訳されていることばを、新共同訳聖書では「仕事」と訳し、
口語訳聖書では「作業」と訳し、
キングジェームス・バージョン聖書では「work」と訳しています。
どの訳でも、意味に遜色はなく、同じように感じられるかも知れませんが、
「わざ」と「仕事、作業、work」ではニュアンスが違うのではないでしょうか。
仕事、作業と言うことばの持つ、義務感、やらされ感、負担感、機械的な繰り返しの感じは、
創造と言う素晴らしい、一度限りの、稀有な働きに相応しい言葉とは思えません。
創造の働きは、神様の内から湧き上がる喜びであり、楽しみであり、期待感に溢れる働きなのではないでしょうか。
仕事や作業でも、ワクワク感や、創意工夫、達成感などから来る喜びは勿論あるでしょうが、
趣味の世界は、100%自発であり、時間を忘れ、疲れを感じず、何処までも妥協せずに、精一杯のお金と時間を納得するまで掛け、しかもそれを無駄とも、浪費とも思わないのではないでしょうか。
神様の創造の働きは、神様の趣味ではありませんが、趣味に通じるような趣があるのではないでしょうか。
全知全能の神様が、手間暇を存分に掛け、ありったけの英知を注ぎ込み、
「非常によかった」と評価する、最高傑作の作品が完成したのです。
その最高の作品群の頂点にいるのが、私たち、人間なのです。
2節の最後に「休まれた」と記されていますが、
何もされなかったのではありません。
完全な完成に至ったので、以降、新たな創造の御わざを止められた、の意味であり、
決して「疲れて」の意味ではありません。
神様は疲れる事なく、休息を必要とされず、何時も、今も働かれているのです。
ここで使われている「休む」と言う動詞は、「絶つ、控える、或いは止める」と言う積極的な否定の要素、意味を持つことばであり、
「休む」から導き出される「休息、憩い」の概念は、御わざを止めた結果として、あり得る状態であり、
「休まれた」は、神様が休息に入られた、の意味ではないのです。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
「聖であるとされた」の意味は、「分離」であり、
7日目を特別な日とされた、一般の基準より引き上げられた、
他の6日より高いレベルに区分された事の宣言なのです。
2節、3節に「安息、安息日」の言葉はありませんが、
「休まれた」と訳されている動詞の、名詞形が「安息日」であり、3節の意味するところは「安息、安息日」の制定です。
神様との交わりと、そこから湧き上がる平安に満たされた生涯は、努力の結果、精進の結果、研究の結果、試行錯誤の結果、忍耐の結果、経験の結果、得たのではなく、
人間が造られた時から、初めから備えられていたのであり、
そのような神様との交わりと、そこから湧き上がる平安に満たされた生涯に生きる者として、人間は創造された、置かれた、一日を始めた、と言う事なのです。
人間には自然を、植物を、動物を支配、管理、お世話をする使命が与えられましたが、
疲れて休息のために、空っぽになったので充電のために「安息、安息日」が造られたのではなく、
神様との交わりによって、神様の御こころを確認し、神様との霊的な交わりを通して、神様から霊的な力をいただいてから、自然を、植物を、動物を支配、管理、お世話をする使命に着くのです。
別の言い方をするなら、神様の力に与る、のです。
自分の力でもなく、誰かの助けでもなく、神様の力を分け与えられるのでもなく、
神様の力を通す、伝える、橋渡しする、パスする存在となるのです。
「触媒」と表現しても良いかも知れません。
触媒は何の変化もせず、増えも減りもしませんが、回りの物質の変化を助け、進めます。
神様の力に与るとは、正にこのようです。
勿論、神様の力を体験するので、人間としても、霊的にも、賜物的にも成長しますが、
自分の持つの力を搾り出したり、自ら生み出したり、探し出して持ってくるのではないのです。
神様の力を受けて、それを、適切に配分するのです。
イザヤ書40章31節「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」力は、正に神様の力に与ってこそ可能なのです。
最後に「安息日」と言う言葉について確認しておきましょう。
この「安息日」と言う単語はメソポタミヤでの「新月」を現す言葉と酷似しています。
メソポタミヤでは月の満ち欠けに神秘性を見て、月礼拝を行なっていました。
新月は増大の始まりの時、成長の始まりの時、として、特別な日であり、
盛大な祭りを行なっていたようです。
そのような月礼拝の影響を排除し、天地創造の神様との霊的交わりの日として聖別する事を、勧め、宣言しているのです。
そして、他の創造の第1日から第6日には記されているのに、
第七日目には「こうして夕があり、朝があった。」が無いのは何故でしょうか。
それは、この「安息」が神様と共にある、終りのない祝福を意味し、暗示しているのではないでしょうか
人間は創造の連続性の中で、自然の一部として創造されましたが、
人間だけが「神の形に」との意図をもって造られたのであり、特別な存在として造られました
第七日目も、連続性の中にありますが、神様との交わりを持つ特別な日と意図されているのであり、
その特殊性は一日毎に区切られる事なく、永遠性を持ち、広範性を持ち、連続的であり、全く断絶、中断、終焉がないのです。
その終りのない神様との交わりに入れられている事を暗に宣言しているのです。
【適応】
神様が創造のわざを終えられた瞬間から、
創造のわざによって造り出された自然、植物、動物の支配、管理、お世話が、
同じく、創造のわざによって造り出された人間に委ねられました。
しかし、右も左も解らない状態の人間に、何の予備知識もない人間に委ねられたのではありません。
人間には、働きが始まる前に、先ず、創造者である神様との交わりが用意されていたのです。
重要であればある程、大切であればある程、事前の打ち合わせは重要、大切です。
被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るようにお世話をするためには、神様との絶えざる、密な交わりが必要です。
報告が、連絡が、相談が必要であり、
神様の御こころを確認する、そのための安息、安息日なのです。
現在の安息日は、礼拝を守る、礼拝を献げる…的な、私たちが主体な感じが伴いますが、
安息、安息日は、神様との交わりによって整えられる日であり、
御言葉を聴く事によって、神様の御こころを知り、
被造物の一つ一つが本来の目的を果たし得るようにお世話をさせて頂くのです。
安息、安息日を守る事によって、私たちが間違い、行き過ぎ、働き過ぎから守られるのであり、
神様を見失い、自分勝手な判断、傲慢、高慢、尊大などなどから守られるのです。
1週間168時間の内、凡そ6~7時間を聖別する事により、献げる事により、
即ち、神様と共に過ごす事により、残りの160時間余りが祝福された時間となるのです。
前回確認したように、「祝福」の意味は「賜物を与え、務めを授ける」ですが、
安息日を持つ意味は、与えられた賜物を正しく管理、活用するためであり、
授けられた務めを、御心にそって全うするためなのです。
そんな意識を持って過ごすのが、安息日の過ごし方なのです。
それが、神様が安息日を制定された意味であり、人間に求められているあるべき姿であり、美しい僕の姿なのです。
そんな創造主との交わりこそ、全てに優先して確保し、実行しなければならない事なのです。
忙しい毎日を過ごしていると、折角の日曜日、のんびり過ごしたいでしょうし、
晴れた日に洗濯しないのは、掃除をしないのは、普段出来ない事をしないのは、もったいないような、損したような気分になるかも知れませんが、
「休まれた」と記されていますが、休みは「絶つ、控える、或いは止める」日であり、
休みは無駄な時間ではなく、立ち止まって、作業を止めて、仕事を止めて、生き方を、考え方を、方向性を吟味、確認する日なのです。
あなたの、私の安息日、日曜日の過ごし方は、創造者である神様の御こころに適っているでしょうか。
吟味する時としたいものです。
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