説教の著作権は椎名町教会に属します。無断複製、配布はご遠慮ください。

・不適切な表現、表記上の不明点、誤字脱字等にお気づきの方はお手数ですが「ご意見はこちらから」でお知らせください。適時、修正・訂正させて頂きます(聖書本文、著作物からの引用・転用については原文のままとさせて頂きますので、ご了承願います)。

 

聖書箇所:創世記51832                2014-8-31礼拝

説教題:「エノクは神とともに歩んだ神が彼を取られたので、彼はいなくなった」 

【導入】 

神様が造られた被造物は、天地万物の全ては、植物も動物も全く欠点や欠陥のない、「非常に良い」出来映え、最高の作品群でした。

「非常に良い」出来映えであり、欠点や欠陥は全くありませんでしたが、お世話を受ける事でより一層、価値を発揮するように、造られた目的、機能を発揮するように造られていました。

正しいお世話を受けないと、其々が増え過ぎ、広がり過ぎ、ズレが生じ、齟齬が生じ、摩擦が生じ、神様の願う形からずれて行ってしまいます。

神様の願う形からずれないために、植物、動物、被造物のお世話、管理、支配をするために、人間が造られました。

しかし、単なるお世話係り、管理人、支配人ではありません。

お世話、管理、支配が目的であるなら、ロボットのような物を造れば良いのであり、ロボットを造られるまでもなく「御使い」「天使」で充分でしょう。

しかし、創世記12627節、1:26われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。1:27神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」のです。

神様と霊的な交わりを持て、霊的な応答が出来る存在として、人間が造られたのです。

霊的な交わり、霊的な応答とは、神様と共に歩む事であり、神様の前を歩む、露払い、斥候…ではなく、神様に従って歩む、奴隷、使用人、召使い…でもありません。

神様の周りを動き回るご機嫌取り、太鼓持ち、警護するシークレットサービスでもありません。神様の傍らにあるかのような、最も親密な関係です。

親子、夫婦のような関係であり、聖書の随所に、その事が記されていますが、真の意味での「親子、夫婦のような」関係であり、罪に支配されてしまった、この世の親子、夫婦の関係とは違います。

真の意味での「親子、夫婦のような」関係とは、支配関係でもなく、依存関係でもなく、利用する関係でもなく、犠牲的関係でもありません。

対等な関係であり、相談相手、同労者、共存関係であり、共に成長する関係でしょう。

勿論、「親子、夫婦のような」関係を、そのまま神様との関係に置き換えられる訳ではありません。

神様は全知全能の主権者であり、人間は被造物ですから、対等な関係ではありません。

相談相手としても、人間から神様への一方向だけであり、神様が人間に相談する事はありません。

同労者としても、「御使い」「天使」が存在するのですから、人間の助けを全く必要としませんし、恩恵を受けるのは人間の側であり、神様が益を受ける事はありません。

しかし、人間が自由意志で神様と共に歩む事を願い、選び、そうする事が、神様にとって全てであり、喜びなのです。

サタンの誘惑により、この神様と人間の最高の関係は毀損し、夫婦関係、親子関係もめちゃくちゃになってしまいましたが、神様と共に歩むとき、徐々に、少しづつ、遅々としてではありましょうが、良い関係になって行くのです。

アダムにより罪が入り、カインの殺人により、神様との関係は修復不可能の様相を呈しましたが、神様はアダムにセツを与え、セツによって神様に従う民を起こして下さったのです。

回復の見込みはあります、希望は途絶えていないのです。

 【本論】

5:18 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。

5:19 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:20 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。

創世記5章はアダムの系図の記録であり、アダムの子、子孫の名前が記され、 アダムの子に、子孫に「息子たち、娘たちが生まれ」た事が記され、アダムは勿論の事、アダムの子、子孫が超長寿を全うし、最後に「こうして彼は死んだ」と記されています。

簡潔な系図、記録ですが、背後には神様の祝福、守り、支え、導きがあった事を読み取らなければなりません。

神様の守りがあったからこそ、900年前後も生き長らえたのであり、神様の祝福があったからこそ、沢山の子や子孫を残し得たのです。

財産などの事は記録されていませんが、畑にも、果樹にも、農作物にも、牧草地にも、家畜にも、持ち物にも、住まいにも、衣服にも神様の祝福が及んだ事は想像に難くありません。

しかし、寿命は永遠ではなく、何時しか死ぬ時が、朽ちる時が、土に帰る時が来るのです。

  創世記319

3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

死ぬ事は、朽ちる事は、土に帰る事は、罪の結果であり、罪の呪いであり、神様の宣告、宣言なのです。

この死の宣告ですが、私たちの感覚とは大きく違います。

現代では100年も経てば、知り合いは殆ど死んでしまいます。

しかし、アダムの時代は皆が1000年近く生きているので、知り合いばかりなのです。

聖書の記述だけでは、家族構成や、親族の状況を正確に把握する事は、思い浮かべる事はむずかしいでしょう。

アダムが死んでから70年後、即ち、アダムが生まれてから1000年後の時点で、子のセツは生きていました。孫のエノシュも生きていました。

曾孫のケナンも生きていましたし、玄孫のマハラルエルも生きていました。

この辺までは現代でも、長寿の家系、早婚の家系にはあり得るでしょうが、エレデも生きていましたし、エノクも、メトシェラも生きていました。

現代では考えられない、想像も出来ないような家族構成なのです。

現代のような、時間の流れの速い時代では、70年は大昔の感覚でしょうが、アダムの時代、100年位前の事は昨日の事のような感覚だったのではないでしょうか。

アダムの死は昨日の事のようであり、7人の爺様とその兄弟姉妹たちが集まり、子たち、孫たち、曾孫たち、玄孫たち、そのまた子たち、孫たち、曾孫たちに囲まれて、折に触れて「死」に付いて考えたのではないでしょうか。

アダムの死は昨日の事のようではありましたが、まだアダム一人しか、死んではいないので、死を体験、目撃していないので、現実味、と言う点では実感出来ていなかったのかも知れません。

 創世記319

3:19 あなたは、ついに、土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。とは言っても、中々死なない。

皆、長生きしている、長生き出来る、長生きするのが当たり前。

長生きは不思議でもなんでもない、普通の事。

そんな考えが人々を支配していたとしても当然であり、不思議でも何でもありません。

しかし、超長生きが普通の事ではない事、長寿命は自然のものではなく、神様の御手の中にある事を教える事が起こります。

 5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

 5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息        子、娘たちを生んだ。

 5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。

ここには大切な事、他のアダムの子孫とは大きく違う事が二つ記されています。

一つは「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ」であり、

もう一つは「エノクの一生は三百六十五年であった」です。

先ず「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ」ですが、エノクは子を生んだ時、子を預かった時、生き方が変ったのではないでしょうか。

子を生む時までは、子を預かるまでは、皆と同じように、起きて、働き、休み、食し、寝て、を繰り返す毎日であり、時には酒盛りをし、わいわいがやがや、賑やかに、楽しく過ごしていたのではないでしょうか。

兄弟姉妹たち、子たち、孫たち、曾孫たち、玄孫たち、と同じような生活をして来たし、それが普通、当たり前であり、特別に意識をしない生き方であり、現代の多くの人々、否、殆どの人間の生き方なのではないでしょうか。

しかし、エノクはメトシェラを生んで後の生き方が変ったのです。

皆と同じような生き方、即ち、家族関係を大切にする生き方、親族関係を大切にする生き方、人間関係を大切にする生き方、これはこれで悪い訳ではなく、大切な生き方です。

しかし、行き過ぎは問題です。

逆に、現代は、余りにも個人主義が進み過ぎ、家族関係、親族関係、人間関係が希薄になり、放任、無干渉、になり、果ては軽視、無視、無関心になってしまっています。

家族関係、親族関係は隣人関係に繋がり、隣人との助け合いは神様の教えでもありますから大切にしなければなりませんが、人間関係を重んじ過ぎ、人間関係を最優先するのは問題です。

セツの時代に「神に祈る」生活が始まりましたが、エノクは神様との正しい関係の上に、家族関係、親族関係、人間関係を構築しようと考え、神様との関係を重要視し、尊重し、最優先に置いた生活に入ったのです。

気が付いたら直ぐに改めるに勝る事はありません。

先延ばしは、結局のところ、旧態依然の生き方を引き摺り、改めはしないのです。

エノクは人間関係の基となる、家族関係の基となる、人間関係の基となる、神様との関係を重視し、神様と共に歩んだのです。

導入で申し上げたように、神様と共に歩むとは、神様の傍らにあるかのような、最も親密な関係であり、人間が自由意志で神様と共に歩む事を願い、選び、そうする事が、人間にとって全てであり、喜びなのであり、神様にとっても喜びなのです。

次ぎに「エノクの一生は三百六十五年であった」ですが、アダムの子たち、子孫たち、曾孫たち、玄孫たちの中にあって、極端な短命であり、半分以下、約三分の一です。

長寿や財産、富みは、神様からいただく祝福の現れですから、短命は呪われているとの考えも、強ち間違いではありません。

エノクの死を目の当たりにして、このとき、エノクの死を見取ったのは、エノクの年長者としてエノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、であり、エノクの子メトシェラ、であったろうと思われますが、彼等は何を考えたでしょうか。

超長寿命が当たり前の時代にあって、子どもが先に死ぬ、孫が先に死ぬ、曾孫が先に死ぬ、玄孫が先に死ぬ…超長寿命が当たり前の時代にあって、父が死ぬ、祖父が死ぬ・・・。

「死」を終りとか、呪いと考えると恐ろしい事ですが、

 創世記317

3:17あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。

 3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得」なければならない。

 529

5:29【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労して るとの、重労働、苦しみ、そして、呪いからの開放と理解するなら、「死」には違った意味が生じて来るのではないでしょか。

苦しみからの開放であり、祝福なのです。この地上での生活には、意味があります。

訓練の場であり、天国での生活に入るための備えでもありましょう。

長い訓練期間を必要とする者もいれば、短期に訓練を終える者もおりましょう。

必要な訓練を受けた者が「死ぬ」のであり、無駄に「死ぬ」者はいません。

神様の許しによって「死ぬ」のであり、「生きる」のです。エノクは神様の許しによって「死」にましたが、死に方に特別な神様の配慮、お取り扱いがありました。

5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

本日の説教副題でもありますが、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」のです。

いなくなった」は「死んだ」の意味の、言い回しですが、「死んだ」と直接語られていな聖書登場人物は「エノク」と「エリヤ」だけです。

エリヤは預言者であり、紀元前860年前後に大活躍した預言者です。

エリヤの名前の意味は「主こそ神である」であり、その名の通りに、主を神として、神に生涯を献げた人物です。

神様の命令に従って、王様を恐れず、王様を厳しく諌める言葉を伝えました。

殺されるかも知れないのにです。

ある時は、王妃の報復を恐れて逃亡しますが、この失敗は神様に背いた結果ではないので、神様の執り成しがあり、問われる事はありませんでした。

ユダヤ人で知らない者はなく、聖書の登場人物で、一位、二位の有名人です。

クリスチャン家庭の子どもに「エリヤ」君は大勢います。

まあ、死を味わわず、天国に招き入れられても当然と納得出来る人物であり、誰も異議を唱えはしないでしょう。

一方のエノクは普通の働き人です。

聖書に、これと言った働きは記されていません。

功績も残してはいません。

しかし、「エノク」と言う名前の意味を調べると「従う者」であり、何に従ったかと問うならば「神に従った」人物なのです。

エリヤのように何か重要な事をなす事も、大切な働きをなす事も神様に評価されますが、何より、神様に従うに勝る重要な事は、大切な事はないのであり、最高の評価をされるのです。

そして、その生涯は神様に守られ、支えられるのです。

 5:25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。

 5:26 メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生だ。

 5:27 メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。

 5:28 レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。

 5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「【主】がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

 5:30 レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

 5:31 レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。

 5:32 ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

エノクの子たち、子孫たちは、神様に従わなかった訳ではありませんでしょうが、

「神とともに歩んだ」と記されるまでには至らなかったのでしょう。

そして、多くの人々が「神様に従うべきだ」と知っていても、「神様に従いたい」と願いつつも、神様に従い切れず、この世と神様とを天秤にかけ、この世のルール、この世の常識、この世の知恵に従い、時々、神様のルール、神様の教えに従うと言う、ダブルスタンダードに生きる事になってしまっているのではないでしょうか。

中途半端な決断は中途半端な結果に行き着きます。

そして多くのクリスチャンが中途半端な信仰に生きているのが現実なのではないでしょうか。

結果、神様の祝福を味わわずに、この世を去って行ってしまっているのです。

そんな信仰生活にならないようにしなければなりません。

エノクとエリヤは、決して特殊な例ではありません。

死を見ずに天に上げられた預言者、信仰者は決してエリヤとエノクだけではないです。

聖書には代表として、この二名の名前が記されているにすぎないのであり、神様とともに歩むなら誰でもエリヤになれるのであり、エノクになれるのです

29節に「ノア」の誕生と、名前の由来が記されていますが、「ノア」の意味は「休息」です。

ノアの父親は「レメク」ですが、勿論、カインの子孫の「レメク」とは別人です。カインの子孫にも「レメク」と名付けられた人物がおり、セツの子孫にも「レメク」と名付けられている人物がいる事は興味深い事です。

カインの子孫のレメクの発言と、セツの子孫のレメクの発言とを対比させて考える事は重要です。

カインの子孫「レメク」は、自力で解決を計ろうとし、力を誇り、恐怖で支配しようと考えましたが、セツの子孫「レメク」は、神様とともに歩む道を選び、労苦を神様から与えられた恵みと考え、労苦が慰められる事を願ったのです。

これこそは、神様に従う姿です。

ノアの名前は、天地創造の七日目の「安息」即ち「休息」に通じ、慰めを与えてくれる」は即ち「贖い」「罪の赦し」に通じます。

この約束が現代に至っている意義は大きい。

私たちは「神に似せて造られた者たち」であり、「神に従って生きる者」なのです。

 【適応】

外の看板の説教題は「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」ですが、週報、レジメは「エノクは神とともに歩んだ」とし、先週発表した説教題は副題としました。

何より、「神様と共に歩む」事が重要であり、結果として死を味わう事なく、神様の御許に招かれる事になるからです。

神様に従っての歩みこそが、主題たり得るのです。神様に従う事の大切さを教えるエピソードを紹介しましょう。

サウル王は神様に選ばれて、ユダヤ王国初代の王とされた人物です。

アマレク人との戦いに際して、全てをのモノを聖絶せよとの命令を受けましたが、

肥えた牛、羊を殺すのを惜しんで、神様に献げるとの口実で、聖絶しませんでした。

 サムエル記第一159節、15節、

 15:9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。

 15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

この言い訳に対する神様の答えは、

 15:22主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」です。

生贄はいらない、献げ物は不用だ、と言っているのではありません。

生贄よりも、献げ物よりも、何より優先させるべきは神様の教え、命令に従う事であり、神様に従う事が重要なのです。

名前の通り「神様に従う」人生を生きたエノクこそ、死を味わう事なく、天に引き上げられて、当然の人物なのです。

預言者ではない普通の働き人の中からも、死を味わわないで、天に召された者が起された事に意味がありましょう。

預言者、現代の牧師、宣教師の働きは、誰にでも出来る働きではありません。

神様が与えられる特別な働きであり、神様に委ねられる特殊な働きであり、神様に選ばれた者が、神様が置かれた場所で、神様の命令通り働くのです。

苦労も多く、辛く、途上で倒れる者も少なくありません。

時に逃げ出したくなる事もありましょうが、自分で選んだ道ではないので、変える事も、止める事も出来ません。

その労苦に対して、大きな報いが有るのは納得出来るのではないでしょうか。

一方、預言者でない者は、普通の働き人の立場で神様に従う事が求められます。

商売をし、勤め、職場で、家庭で、学校で、地域で神様に従って生きるのです。

好きな職業を選び、好きな場所で、自分の考えで働きます。

特殊な働きではなく、特別な働きではありませんが、職業毎の苦労や、辛さは伴うでしょうが、自分で選んだ道である事は間違いありません。

選択の自由、進退の自由等など、自分の自由になる点は、預言者とは大きな違いと言えるでしょう。

違いはありますが、神様に従い歩み続けるならば、天に引き上げられる事に関しては同じです。

預言者も、預言者ではない働き人も、神様と共に歩む、神様に従う事に関しては同じであり、同じ評価、扱いを受けるのです。

2014-8メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る 


聖書箇所:創世記425517               2014-8-24礼拝

説教題:「アダム。神に似せて造られた者たち」

【導入】

神様が全く何の材料、素材もない所に、御ことばだけで、宇宙、天地、万物の全てを造り、地球の全ての生きるものを種類に従って造られた経緯に付いては、改めて述べる事はいたしませんが、全てが神様の御こころ通り、ご計画通り、お考え通りの出来映えであり、宇宙、天地、地球、万物の全ては非の打ち所のない、非常に良いものだけで満ちていたのであり、共存、共栄の理想的な世界でありました。

人間が造られた経緯に付いては、少し確認をしておきましょう。

創世記12627

1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

創世記27

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

神様の御ことばによって造られた地球に、神様と霊的な交わりを持つ事の出来る唯一の生きものとして、神様の手によって、土から人間が造られました。

人間と言う生きものだけは、神様の手によって「土」から造られたのです。

神様の手によって造られた土の塊は、神様にいのちの息、即ち、霊、魂を吹き込まれて、神様と霊的に交流できる生きものとなり、神様の造られた地球が本来の目的を果たす事が出来るように支配、管理、お世話をする事になったのです。

先ほど、神様の造られた世界は非常に良かった、非の打ち所がなかった、と申し上げましたが、それは、お世話を必要としないとか、未来永劫に生き続ける、変化しない、と言う意味ではありません。

植物は枯れ、動物も死にますが、自動的、自然に繁殖し、増え広がって行きますが、神様は万物を、植物、動物を、お世話を受ける事でより一層、其々の機能を発揮し、造られた目的を達するように造られたのであり、その大切なお世話、管理、支配の仕事を人間に委ねたのです。

支配、管理、お世話の原則は「神様の御こころに従って」です。

自分の考えから発する創意工夫ではなく、「神様の御こころに従って」の創意工夫でなければなりませんが、人間は蛇、サタンの口車に乗ってしまい、「神様の御こころに従って」より、知恵を得て、自分の知恵に頼り、自分の知恵に従う道を選び、結果、人間は、アダムとエバは、エデンの園を追放されるに至ってしまったのです。

それでも、アダムとエバには、神様から支配、管理、お世話の仕事が委ねられていましたが、その貴重な使命を引き継ぐべきカインは弟アベル殺しの結果、放浪するはめになってしまったのでした。

放浪者は、神様から委ねられた支配、管理、お世話の働きの正当な後継者たり得ません。

そこで、神様はアダムに正当な後継者を起すべく、アダムに第3子が産まれるように、エバが身ごもるようにしてくださったのでした。

【本論】

4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

何回か申し上げていますが、身ごもりは自然の成り行きではありません。

神様の御介入があって、妊娠し、出産に至るのであり、母子共に、神様の守りがあって、胎内に育まれ、安全に出産し、出産後も、健やかに成長するのです。

妊娠、出産は神秘であり、不思議な事は山ほどもあり、危険も数え切れません。

出産や医学の講義ではありませんから、この辺で終りますが、神様の御許しがあって、妊娠し、出産に至り、成長するのだ、と言う事は忘れてはなりません。

勿論、動物も神様のご支配と御許しの中で、妊娠し、出産し、育児を行なうのですが、神様からいのちの息を吹き込まれた人間は、胎児にもいのちの息を吹き込まれなければならず、動物とは全く違う生きものであるのです。

その見識、認識の現れが「授けられた」と言う告白です。

「子作り」「妊活」「人工授精」「体外受精」「代理出産」等など、言い方は様々ですが、子どもを得たいがために、人間は様々な手段を講じます。

しかし、事は人間の努力によるのではなく、神様の御介入があって、御許しがあって、子は「授けられ」るのであり、エバはその信仰を告白したのです。

授けられた」と訳されているヘブル語は「シャテ」と発音しますが、セツ」と訳されているヘブル語は「シェテ」であり、「シャテ」と「シェテ」…語路合せなのです。

聖書には語路合せによる人名や地名が多数記されていますが、ユダヤ人は語路合せ好き、洒落好きな民族なのではなく、この場合では、息子の名を口に出す度に、神様に「授けられた」事を思い出したいがため、確認したいがため、忘れないがためである事は間違いありません。

私たちも、子どもに名前を付ける時、様々な思いを込め、考えた挙句、一つに絞って命名します。

落語に「寿限無」と言う前座噺があります。

寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風行末、(食う寝る処に住む処、藪ら柑子の藪柑子、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助) 云々。

衣食住に困らず、長寿を全うして欲しいとの親心から、縁起の良い、霊験あらたか、効能のありそうな名前のありったけを羅列した話しであり、非常に人間的であり、落ちもユーモラス、訓戒的ですが、神様を讃美する言葉は一つもありません。

その点で、エバの信仰は純粋であり、讃美の言葉は簡潔、単純でありながら、神様の真実、神様の憐れみを見事に表現した、的を射た命名なのではないでしょうか。

私たちも、神様を称えるような、キリスト教を連想するような命名が出来たなら素晴らしい証なのではないでしょうか。

神様の憐れみにより、アダムとエバは神様から委ねられた働きの後継者を得た訳ですが、神様から委ねられた働きは、一代、二代の働きではありません。

十代、百代、千代…連綿と続く働きであり、神様が「これまで」と言われるまで、何百年でも、何千年でも続けなければなりません。

実際に働くのは人間ですが、真の支配者は神様ですから、神様が必要な後継者を与えてくださいます。

4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。

エノシュ」と言う名前は、「アダム」の語源となった語から派生しており、人、人類」の意味があり、また「弱い」の意味を持っています。

即ち「アダム」の正当な後継者である事と、弱い、脆い、危うい存在である事とを表明した命名なのです。

その「弱さ」の自覚の現れが「【主】の御名によって祈ること」となって生活に、生き方に現れたのです。

弱さの対処には大きく二種類あります。

一つは、弱さを隠し、弱さなど無いかのように振舞います。

何でも自分で解決を計らなければならないと考えるタイプであり、誰にも報告せず、連絡せず、相談せず、強引に、強硬に、妥協せず、がんがん突っ走り、「男は度胸」「なるようになれ」「為せば成る」とばかりに、闇雲に突き進むタイプでしょう。

もう一つは、弱さを隠さず、ありのままに生き、弱さを自然に現します。

事の大小に関わらず、真に頼るべきお方である神様に報告し、連絡し、相談し、神様の御こころを確認し、神様の御こころに従います。

信頼に足る神様に自分を曝け出し、身を委ねます。

常に細心の注意を払い、可能性を想定し、対処を考えておくタイプでしょう。

「弱さ、小ささ、不得手」は欠点、マイナスではなく、特徴、個性であり、特徴を知らない事、個性を知らない事、隠す時、欠点になるのではないでしょうか。

特徴や個性をよく知っていてこそ、生かせる、活用できるのであり、弱さ強さ、得手不得手を知ってこそ、立ち止る時、引き上げる時、進む時を正しく判断出来るのではないでしょうか。

罪を持っているゆえの弱さを知り、告白する事が大事なのです。

自分の真の姿を知ってこそ、神様と共に歩む道を、神様と親しく交わる道を、神様と一緒に生きる道を選び得るのです。

5:1 これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、

5:2 男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。

512節は創世記1章の要約であり、導入でご紹介した12627節の記述と類似しています。

512節は無くても、426節から53節に繋げても、何の問題もありませんが、ここで「アダムの歴史の記録である」と特筆し、人間創造の経緯の要約を記しているのは、アダムの歴史は、神様の天地万物、人類の創造の流れにありながら、神様の御こころから離れた、罪に汚れた歴史の始まりを表すためであり、救済に向けての歴史の始まりである事を、読者に予感させるためなのです。

と同時に、「神に似せて彼を造られた」「」即ち

5:3 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

罪に汚れ、神様のかたちを毀損してしまいましたが、「神のかたちが伝え続けられている」のです。

この「神のかたち」とは姿形ではなく、神様に似た霊的存在の意味であり、アダムの違反、カインの殺人事件が、神様と人間との決定的な断絶とはなっておらず、「神のかたちが伝えられ続けている」のであり、即ち、神様と霊的な交流、交信が可能である事を示唆しているのです。

5:4 アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:5 アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。

5:6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。

5:7 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:8 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。

5:9 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。

5:10 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:11 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。

5:12 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。

5:13 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:14 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。

5:15 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。

5:16 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。

5:17 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。

本来ならば、アダムが神様から委ねられた世界をお世話、管理、支配する働きは長子であるカインが引き継ぎ、カインの子、孫へと連綿と伝えられるべきですが、カインは退けられ、神様はカインの代わりに三男のセツを誕生させ、使命と信仰を引き継がせ、

続いて神様はセツに長子エノシュを誕生させ、使命と信仰を引き継がせ、

続いて神様はエノシュに長子ケナンを誕生させ、使命と信仰を引き継がせ、

続いて神様はケナンに長子マハラルエルを誕生させ、使命と信仰を引き継がせ、

続いて神様はマハラルエルに長子エレデを誕生させ、使命と信仰を引き継がせます。

聖書は淡々と名前と誕生と死のみを記していますが、隠れた主語は神様であり、神様の祝福で子が誕生し、神様の御許しの中で使命と信仰が継承されて行くのです。

アダム、セツ、エノシュ、ケナン、エレデ…皆、900年以上の驚くべき長寿命であり、マハラルエルも895年も生きています。

この後、名前が記されているアダムの子孫も皆、長命であり、徐々に短くなって行き、アブラハムの代には100年程で安定しますが、平気で600年も400年も、200年も生きているのです。

この超長寿命を、単に神話、誇張記録、と読んではなりません。

途方もなき長い寿命で引き合いに出されるものの一つに、シュメール人の王のリストがあります。

彼ら十人の王の治世は一万年から六万年、平均して三万年という途方も無い数字ですが、これらと混同して、聖書の記述も誇張だ、嘘だ、と決め付けてはなりません。

アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ…皆、聖書に記されている通り、本当に900年前後も生きた、のです。

その根拠は、宇宙、天地万物、地球創造の直後は、最高の環境、最適な状態であり、良いモノだけで満ちた世界であり、良い影響を及ぼし合い、良い循環がなされていたのであり、悪いモノが皆無であり、損なうモノがなく、悪い影響が全く無かったからなのです。

それは動植物、人間の寿命にも深く関わり、驚くべき長寿をもたらしたのです。

罪により世界が、自然が、環境が、全てが悪化しても、元々持っていた人間の寿命の影響で、暫くは長寿を保ち続けますが、神様の寿命の宣言により120年に押さえられたのです。

人の寿命は創世記63

6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

で、決まるのであり、この時の決定が、現代に及んでいるのです。

アダム以下、名前が列挙されていますが、名前には意味がある事は、先に述べた通りです。

ケナン、マハラルエル、エレデ…そして18節以降に記されている名前にも意味があったでしょうが、現代、それを知る事は難しい事になってしまいました。

「マハラルエル」には「神の讃美」の意味が、「エレデ」には「降下、奴隷」の意味があるそうです。

意味を探る事も大切ですが、神様が一人一人の名前を覚えてくださり、慈しんでくださって、子孫を与えてくださって、働き、使命と信仰を継続させてくださっている事が重要なのであり、聖書に名前を記してくださった事に、目を向けなければならないのです。

【適応】

私たちは人間としてアダムの子孫であり、神様に仕える者としてアダムの子孫です。

また、神様に名前を知られている者としてもアダムの子孫であり、神様の憐れみ、恵みを受けている者としてもアダムの子孫ですが、果たして相応しさを伴って生きているでしょうか。応答しているでしょうか。

神様に罪を指摘されても悔い改めず、神様の前から立ち去り、自分勝手な道を自分で切り開くカインの子孫となってはいないでしょうか。

力に頼り、恐怖で君臨するレメクのように生きていないでしょうか。

神様を信じているとは名ばかりになってはいないでしょうか。

神様のお考えにそって世界のお世話をし、管理をし、支配をしているでしょうか。

形ばかり、形式的になっていないでしょうか、誠実に、忠実に行なっているでしょうか。

神様に名前を知られているものとして、相応しい実を結んでいるでしょうか。

神様と常に深い霊的交わりを持って生きているでしょうか。

神様と常に深い霊的交わりを持って生きて行くと、神様に似た者になって行きます。

良くも悪くも「朱に交われば赤くなる」のであり、「主に、神様に交われば聖くなる」のです。

私たちは「神様に似せて造られて」はいますが、自然のままでいては、何もしないでいては、「神様に似せて」は形だけ、形骸化するのは確実です。

洗礼を受けている、聖餐を受けている…は歯止めにはなりません。

洗礼を受けていても、聖餐を受けていても、神様との交わり、即ち、礼拝出席、デボーション、聖書通読、祈りが希薄なら、或いは皆無なら、坂道を転げ落ちるように神様から離れ、罪に落ち込み、穢れにまみれてしまうでしょう。

この世の判断、この世の基準で考える癖が身についてしまい、そこからは中々抜け出せません。

なまじ洗礼を受けていると、聖餐を受けていると、それに安心して、霊的枯渇状態にある事、霊的飢饉にある事に、そんな状態になっていることに気が付かないで、

何時の間にか、カインに、レメクになってしまっているのではないでしょうか。

しかし、神様との交わり、即ち、毎週の礼拝出席、毎日のデボーション、日々の聖書通読、一日数回の祈りが献げられ…と、神様との交わりを絶やさず、継続させ続けるなら、「神に似せて造られた者たち」と呼ばれるに相応しいのではないでしょうか。

失敗を繰り返そうが、罪を犯そうが、何も出来なくても恐れる事も萎縮する必要もありません。

大きな失敗を恐れる事はありません、小さな失敗に悩む事はありません。

神様に告白するならどんな失敗でも、罪でも赦して頂けます。

行きつ、戻りつの、牛の歩み、蝸牛の歩みのように見えましょうが、徐々に聖くせられ、益々神様に似た者とされて行くでしょう。

あなたは、アダムの系図の中にいらっしゃいますか。

神に似せて造られた者たちの系図の中にいらっしゃいますか。

神様との密な、深い、継続的な交わりの中にあるなら、神様の恵み、憐れみ、祝福に漏れる事はありません。

「神に似せて造られた者たち」として歩もうではありませんか。

2014-8メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る 

 

聖書箇所:ヨハネの福音書3116             2014-8-17礼拝

説教題:「水と御霊とによって生まれる」

【導入】

イエス様の行なわれたしるしを見て、多くの人が御名を信じた、と記されていますが、その信じたと言う心の状態は表面的なところに留まっており、簡単に躓き、裏切り、離れ去るものでした。

イエス様を神の御子と認めるのと、イエス様を信じて従うのとは違います。

皆の者が躓いても私は大丈夫、と豪語した者も、死ななければならないのでしたら一緒に死にます、と誓った者も、その時には本気で宣言したのでしょうが、数時間の後には、イエス様を置き去りにして逃げ、イエス様を知らないと、呪いをかけて誓ったのです。

イエス様を歓迎し、歓喜のうちに迎え入れながら、数日後には、十字架に付けろ、と叫んでいたのです。

多くの人々がイエス様を昔の預言者だ、エリヤの再来だ、と噂し、弟子たちも、あなたは生ける神の子キリストです、と告白したのに、信仰が試された時には、簡単に脱落してしまったのです。

それ程、多くの人たちの信仰は脆いものだった訳なのですが、脆かった弟子たちの信仰や、イエス様を祭り上げて喜んでいた人々の姿は、他人事ではありません。

私たちの信仰も、点検しなければ、同じ過ちを犯しかねないのです。

順風満帆の時には差が出ないでしょうが、本物の信仰と、上辺の信仰は大きな違いとなってきます。

一時的な興奮や、不思議な事を目撃した感動では信仰は長続きしません。

逆境になればメッキはいとも簡単に剥がれてしまうのです。

では、本物の信仰、天国に入れる信仰はどのようにしたら、我が物とする事が出来るのでしょうか。

今日のテキストにはある一人の人物とイエス様が登場します。

その二人の会話の中から、そのヒントが掴めそうです。

【本論】

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

登場する人物の名前はニコデモと言いました。

彼はユダヤ人の指導者であった、と記されています。

ユダヤ人の指導者とは、直接の政治的指導者ではありません。

政治的にはローマ帝国の支配下にありましたから、ニコデモは宗教的指導者であった、と言う事なのです。

宗教的指導者とは祭司、律法学者、パリサイ人たちの事で、ユダヤ人を宗教的立場から支配していた人々です。

サンヘドリンと言うユダヤ人の最高議会を構成するメンバーたちです。

彼らはモーセの記した十戒を、律法を解釈し、あらゆる規定を作っていました。

そしてその規定を民衆に教え、民が律法を破らないように、間違った教えが蔓延しないように、律法を破る事は罪ですから、罪を犯さないように、ひいてはユダヤ人全体が罪を負わせられないように細心の注意を払っていたのです。

それは、律法を破る事で、神様に見捨てられ、神様の祝福から漏れないためでありましたが、何時の間にか、数々の規定を守る事が目的となってしまい、十戒、律法の本来の目的である「神を愛し、人を愛する」ところから遠く離れてしまった事は否めません。

律法を守る事では神様の要求に完全に応える事は出来ない事を承知の上で、更なる規定を設けて神様の要求に応えようとする悪循環に陥っていたのですが、ニコデモはその努力の限界、矛盾、悪循環に気付いた一人であったのです。

ニコデモはどうしたら律法を完全に守る事が出来るか、どうしたら永遠の命を手に入れられるか、その方法を求めて、イエス様を尋ねてやって来ました。

3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

ニコデモがやって来たのは夜でした。

この行動の意味を多くの学者が解説していますが、一番蓋然性があるのは「人目を避けて」でしょう。

ユダヤ人の宗教的指導者が、人気絶頂とは言え突然表舞台に出て来た素性の知れないイエス様に会いに行く、数週間前までは大工をしていたイエス様に教えを乞う、と言う行為は、表立って出来る事ではありません。

人目を憚り、闇に乗じて忍んでやって来るのにも並々ならぬ決意があったのではないでしょうか。

人目を忍んでではありますが、自分のプライドを押し殺して、権威を振りかざす事なく謙ってイエス様を尋ねた姿勢、ニコデモの求道心、永遠の命を求める真摯な態度は見習うべきでしょう。

救われるための方法を聞きたくて、その強い思いを心に秘めながらも、直ぐには本題に触れる事なく、用心深い表現で挨拶の言葉を述べます。

ここでニコデモは「私たちは」と述べておりますが、この表現は非常に慎重な表現です。

ニコデモが「私たち」と表現している私たちとは私と誰と誰を指しているのでしょうか。

ニコデモと民衆たちでしょうか。

ニコデモと宗教指導者たちでしょうか。

もし、宗教指導者たちであるなら、昼間の時間帯に威儀を正して訪問した事でしょうし、イエス様をサンヘドリンに呼び出していた事でしょう。

彼らにはそれだけの権威があったからです。

しかし、そうしなかったところに、一人で訪ねて来たところに、ニコデモの訪問は個人的な訪問であり、挨拶の言葉も個人的な告白である、と見るのが妥当なのではないでしょうか。

私たちは自分の個人的な意見、見解でありながら「私たち」と、あたかも全体の意見のように表現し、自分をその他大勢の中に埋没させる傾向があります。

それは自己保身の現れですが、ニコデモも同じような心理状態から、このような表現をしたのでしょうが、イエス様に対する告白はどのようなものであれ、私とイエス様の二人の関係である事を忘れてはなりません。

私はイエス様をどのような方と考えるか、なのです。

ニコデモはイエス様をどのような方と考えたのでしょうか。

オブラートに包んだような表現ではありますが、ニコデモはイエス様が行なわれた「しるし」を見て、その語る「教え」を聴いて、神様から使わされた教師であると告白します。

ニコデモの挨拶に対して、イエス様はずばりニコデモが聞きたがっていた、心の中の疑問を見抜いて、質問されるより先に、永遠の命に至る方法、神の国に入る方法を教えます。

3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

神の国を見ること」とは、外側から眺める事ではなく、内側に入る事、神の国に入る事を意味していますが、その為には新しく生まれなければならない、と言うのです。

ニコデモもユダヤ人も、そして現代に生きる私たちも、何をすれば神の国に入れるかを模索し、実行します。

また、何をしたら神の国に入れないかを考えて、行動を制限します。

その現れが律法であり、数々の規定なのです。

しかし、神の国に入るのに必要なのは、何かをするとか、しないとかではなく、新しく生まれなければならないのだ、とイエス様は仰ったのです。

イエス様の「新しく生まれる」と言う言葉の意味を理解出来ないニコデモの姿は私たちの姿でもあります。

新しく生まれるとは、生まれ直してやり直しをする事であるとか、考え方を変えると言うような事ではありません。

あれをしなければならない。これもしなければならない。

逆にあれをしてはいけない、これをしてはいけない、でもありません。

生き方そのものを変える、今までの生き方に対して死に、新しい生き方に変える、と言う事です。

今までの自分の考え中心の生き方から、神様のお考えに従った生き方です。

それは律法の規定を守る事で安心する生き方ではなく、自分中心の考え、地位、名誉、財産、家族、ありとあらゆる物を捨てて、自分自身に対して死ぬと言う事です。

財産や家族に未練があったり、地位や名誉に固執していては神様に従う事は出来ません。

地上の見える世界に固執していては、見えない神の国には入る事は出来ないのです。

イエス様の「新しく生まれなければ」は肉に従う古い生き方から、霊である神様に従う新しい生き方への変革なのです。

律法を守る事にあくせくして、律法をこねくり回し、細則を設け、更なる規定を盛り込んでも、それは肉の働きを制限し、枠にはめる生き方でしかありません。

肉体の行動を如何に制限しても、心の問題が解決していなければ何の意味もありません。

行動や言葉は敬虔で、律法を遵守し、聖書的であっても、心の中の罪が解決していなければ、肉を引きずっていては、神の国に入る事は出来ません。

肉を捨てなければ、心の中の罪がなくならなければ神の国に入れないのです。

私たちは表面的には色々な物を捨てて、神様に従っているように見えますが、本当のところで、究極の選択と言う場面で、神様を選ぶ事が出来るでしょうか。

神様のお考えに従う事が出来るでしょうか。

自分の命を惜しみ、地位や名誉、財産や家族を捨てられないなら、自分の生活が大事で、第一になっていて、神様への礼拝や献げ物、奉仕を後回しにしているなら、神様に対するモノの優先順位を低くしているなら、御座なりなものしか献げてない、神様のお考えに従えない部分が少しでもあるなら、まだ古い肉に従って、肉の世界に生きる、肉の国の住民なのです。

聖書に明確に記されている事に従うのは当然ですが、しかし、聖書の大部分は紀元前に記されたものであり、ユダヤ人の文化の中で記されたものであり、21世紀の、日本で従う時には、聖書を基準には出来ない事も多くあるでしょう。

その時は何を基準にしたら良いのでしょうか。

一つの考え方は、日本同盟基督教団の指針に従う事でしょう。

また、関東宣教区の指針に従う事でしょう。

また、牧師に聞き従う事でしょう。

そんな働きと機能が教団に、宣教区に、牧師に与えられているのであり、教団に、宣教区に、牧師に従う事で、見えない神様に従う事を学び、体験するのです。

この世の常識や、価値判断、に従うのは、出来る出来ないで決断するのは神の国の民の生き方ではありません。

肉の国の住民です。

肉の国の住民が神の国に入る事は出来ません。

家族を蔑ろにしろ、財産や趣味を持つな、地位や名誉を尊重するな、と言っているのではなく、それらのものに縛られていては神様の国には入れないと言っているのです。

捨てられない事が問題と言う事と共に、捨てられない弱さを隠す事が、この世的な解決を選ぶ事が問題なのです。

捨てられない弱さを隠し、正当化し、何の問題もないかのように振舞う事が問題なのです。

真理を求め、真理を手に入れるためには、見栄や外聞を捨てて、今までの生き方を捨てて、イエス様の下を尋ね、イエス様に従う生き方を選択する決意が必要です。

古い肉の世界に居るままで、真理を手に入れ、神の国に入る事は出来ないのです。

「水と御霊によって生まれる」と言うイエス様の言葉は3節の「新しく生まれる」との言葉と同じ真理を現しています。

即ち、イエス様はニコデモが「人が新しく生まれる」事の意味を悟る事が出来ないので、比喩を用いて説明されたのです。

イエス様はニコデモに、人は水によって身体を清くするように、御霊によって心を完全に聖められ、新しくされなければならない事を知らせようと思われたのです。

水で身体を清めると、さっぱりし、新しい活力がみなぎるように、人は心の中に働きかける御霊によって生まれなければならないのです。

水が体の汚れを清めるように、聖霊によって心の腐敗を清められなければならず、そのためには聖霊のお取り扱いを受ける必要を教える言葉なのです。

ここで「水」は聖霊の人間の心における霊的働きを示すために、聖書においてしばしば用いられる比喩的表現であり、「バプテスマ」を意味していると断定する必要はありません。

バプテスマを受ける事が神の国に入る条件ではありません。

聖霊の働きこそが重要なのであって、聖霊のお取り扱いなしに御国に入る事は出来ないのです。

自分の弱さを認め、聖霊の働きに委ねて、神様に自分を明け渡して、新しく生まれる事を願う時、聖霊は心を変えて、心を聖めて、新しくして下さいます。

この聖霊の働きを理解出来ないニコデモに、イエス様は聖霊を風に例えて説明します。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

風は見る事も出来ないし、触る事も出来ませんが、その存在は明瞭です。

見えないから、触れないからそれは存在しない、と考えるのが愚かなように、聖霊は見えないし、触れないけれども存在し、私たちに働きかけ、私たちを生まれ変わらせて下さるのです。

私たちは風が吹く方向は知る事が出来ますが、何処から吹いて、何処に行くかを説明する事は出来ません。

しかし、風の音を聞く時、雲の流れ、木の枝が揺れている事で風が吹いているかどうかを知る事が出来ます。

イエス様はニコデモに対して、聖霊の働きもこれと同じであり、聖霊の働きは神秘的で理解や説明の出来ない事が、明らかに沢山あるが、

私たちは心と生活が明らかに変ると言う体験を自らがし、目撃する時、聖霊の存在が、働きが事実であるかどうか、疑問を抱く余地がなくなるのです。

どのようにしてかは解かりませんが、解からないから存在しない、働きがないのではありません。

私たち有限な人間には計り知れないだけで、存在し、働きかけて下さり、私たちを作り変えて新しくして下さるのです。

このイエス様の例えが理解出来ないニコデモは疑問をイエス様にぶつけます。

3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

9節以降はニコデモの頑なさ、理解できない愚かさを現し、記録していますが、ニコデモはイスラエルの指導者です。

聖書の言葉をそらんじ、適切な霊的指導を与える立場にいる人物です。

そのニコデモが、聖霊の働きを理解できず、旧態依然の律法による義の達成から抜け出せずにいるのです。

どんなに律法を守り、行動を律し制限しても、心の状態が変らなければ何の意味もないのに、心の状態を変え得る唯一の手段、方法である聖霊の必要性、その働きを理解出来ないでいるのです。

このニコデモの愚かさは他人事ではありません。

私たちも聖霊の働きによって新しくされなければ、イエス・キリストの十字架を受け入れる事は出来ないのです。

聖霊の働きがあってこそイエス・キリストの十字架の意味が分かるのです。

イエス・キリストの十字架によって救われ、義と認められているのに、それを知らせようとする聖霊を受け入れず、自分の行いによる義を打ち立てようとはしていないでしょうか。

人間の考え得るどのような方法によっても神の国に入る事は出来ないのです。

神の国に入る唯一の方法はイエス・キリストの義を聖霊の働きによって受け入れる事だけです。

人は新しく生まれなければ、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事は出来ないのです。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は私たちが新しく生まれる事を願い、聖霊を送って下さいましたが、それはユダヤ人だけを救う目的ではありません。

16節に宣言されているように一人も滅びることがなく、世の全ての人が永遠の命を持ち、神の国に入るためなのです。

神の独り子イエス様はイスラエルと言う限定された社会に生まれましたが、その目的は全世界の人々の救いのためなのです。

【適応】

私たちの行ないにはよらず、唯、神様の憐れみによって救いの道は用意されました。

後は聖霊の働きによって新しく生まれる事、それを受け入れる事だけです。

そうすれば神の国に入る事が出来るのです。

聖霊の働きは私たちには理解出来ない部分が沢山あります。

まるで風のように、掴み所がなく、何処から来て何処に行くのかも解かりません。

しかし、聖霊は私たちを新しく生まれさせるために存在し働いているのです。

どうして、そのようなことがありうるのでしょう。

私たちには解かりませんが、それは、神様が私たちに永遠の命を与え、神の国に招き入れるために立てられたご計画なのです。

どんなに熱心な弟子であっても、新しく生まれていなければ、肉によって生きているのであり、肉に属しているのですから、肉の攻撃には易とも簡単に負けてしまいます。

そのような者が神の国に入る事は出来ません。

聖霊によって新しく生まれた者は霊に属しており、肉に従って生きていませんから、肉の攻撃は無力です。

新しく生まれた者だけがあらゆるサタンの攻撃にも耐え、信仰を全うし、神の国に入る事が出来るのです。

あなたは聖霊によって新しく生まれていますか。

聖霊によって新しく生まれた者だけが「イエスは私の主です」と告白出来るのです。

あなたがイエスは私の主ですと告白しているなら、あなたは聖霊によって新しく生まれたひとです。

まだなら、聖霊によって新しく生まれたいと強く願って下さい。

神様はあなたの祈りに応えて、あなたに聖霊を送り、新しく生まれさせて下さいます。

イエス様はあなたを御国に招き入れるために、十字架に掛かり、聖霊を送って私たちを新しく生まれさせて下さる御方なのです。

このイエス様と一日も早く出会う事が出来るようにお祈り致します。 

2014-8メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る 

 

聖書箇所:創世記41724                 2014-8-10礼拝

説教題:「罪人(つみびと)にも注がれる神の祝福」

【導入】

映画の世界やドラマの世界の中には「無法地帯」が存在し、悪人がのさばり、不法が行なわれ、正しい者が虐げられる姿が描かれています。

そこは正義が行なわれない、神無き世界として描かれていますが、果たして、神無き世界はあるのでしょうか。

悪人には、無法地帯と呼ばれるような所に、神様は関心を示されないのでしょうか。

憐れみを注がれはしないのでしょうか。

悪を行なっても、直ぐに裁きが、正義の鉄槌が振り下ろされないからと言って、それで神様はいないと言い切れるのでしょうか。

正しい者が虐げられているからと言って、願っても願っても叶えられないからと言って、それで神様はいないと言い切れるのでしょうか。

人里離れていると、誰も住んでいないと、神様はおられないのでしょうか。

悪人が集まるような所には、神様は無関心で、そこにはおられないのでしょうか。

汚れが蔓延しているような所には、聖い神様はいないのでしょうか。

神様は愛に溢れたお方であり、忍耐強いお方であり、それ故に、直ぐには裁きを行なわず、悪に気が付き、悪を離れる事をこそ願って、延々と待っておられるお方なのです。

この天地万物、宇宙地球は神様が造られた世界であり、神様が関心を払われない場所は存在しませんが、神様は、天地万物、宇宙地球を覆うような形で存在されているのではありません。

神様は、天地万物、宇宙地球を包み込むような形で存在されているのではありません。

何時でも、何処にでも存在する事が出来るお方ですが、分身の術を心得ているのではありません。

神様は唯一ですが、願われるなら何時でも、何処にでも存在出来るのです。

時間の隙間も無く、場所の隙間も無く、世界中の出来事の全てを余す所無く知る事が出来るのです。

単に知る事が出来るのではなく、天地万物に関心を持たれ、人間に関心を持たれ、無法地帯にも眼を注がれ、注目されているのです。

その注目は、裁くための証拠捜しではなく、有罪とするための見張りでもなく、罪を行なうしかない性を悲しみ、性からの開放を願う、愛と慈しみに満ちた眼差しです。

神様に背を向け、神様を離れても、神様から隠れても、神様の姿勢は、愛と慈しみは変らず、罪人にも注がれ続けるのであり、神様を離れ、「ノデの地」即ち「さすらいの地」に住みついたカインとその一族にも神様の眼は注がれます。

【本論】

4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

この「知った」は先に確認したように「知的に、全人格的に、肉体的に知った」の意味であり、性的関係があった事が記録されているのです。

重要な事なので繰り返しますが、性の関係は、夫婦にのみ与えられた特別な関係です。

 排他的であり、誰も入り込む事は出来ず、夫婦二人だけの親密な関係です。

占有的であり、お互いがお互いだけを占有し、決して引き離せない関係です。

非常に麗しい関係であり、決して解消してはならない関係であり、出来る限り、出来ない努力をしても守らなければならない関係であります。

死別、不貞以外の理由で別れてはならず、浮気をしても、不倫をしても、二人三人の妻を得てもいけません。

時代が許しても、権力が許しても、神様は許しません。

不貞は絶対してはなりません。

何故ならば、夫婦関係を完全に破壊するからであり、家庭、家族を崩壊させるからであり、神様が最も忌み嫌われる事だからです。

カインの妻は身ごもり、男の子を産みますが、妊娠、出産は自然の営みでありながら、完全な自然現象ではありません。

ここも繰り返しになりますが、妊娠も、出産も、動物全般に普通に行なわれる自然の営みであり、特殊な事ではありませんが、人間は、動物とは違って、神様が関わり、妊娠にも、出産にも深く関与されているのであり、神様を離れての、妊娠も、出産もありません。

子どもの誕生は、神様の業であり、祝福の一つです。

身ごもる事も神様の業であり、身ごもらない事も神様の業です。

出産に至るのも神様の業であり、人間的には残念な事ですが、出産に至らないのも神様の業なのです。

即ち、妊娠、出産は神様が人間に与えられる数々の祝福の一つであり、しかも、まだ人間が十分には増え広がってはおらず、人口増加は急務であり、他の祝福に勝る祝福が出産、子どもが与えられる事であったのです。

ユダヤ人は、イスラエル人は、多産の民族ですが、ユダヤ人には、イスラエル人には、唯一の神様を知り、唯一の神様の存在を広める使命が委ねられている事を知る時、多産は民族の特徴ではなく、ユダヤ人、イスラエル人に与えられた特殊な祝福であると言えるのです。

失敗を繰り返し、不信仰を繰り返すユダヤ人、イスラエル人ですが、多産の祝福が取り上げられる事は無く、僅か66人の男たちがエジプト入りしたのに(創世記46:26)、エジプト脱出時には男だけでも60万人 (民数記2:32)、老若男女合わせるなら200万人を軽く超える大民族となっていたのです。

4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。

誰に誰が生まれた、誰に誰が生まれた、と、淡々と、連綿と、簡潔に記されていますが、これは神様の祝福、そのものの記録であり、弟殺しの重罪人にも、言い訳をし、泣き言を言う者にも、神様に背を向けて、神様の前を去る者にも、神様から離れ、町を建て、そこに立て篭もって安心を得たと考えるような者にも、神様の祝福は注がれ得るのであり、事実、注がれ続け、子孫を増やし続けるを得たのです。

17節のカインが建てた「町」は、私たちの感覚の「町」、エリコやアイのような「城壁を備えた堅固」な町ではありません。

「村落」或いは「集落」程度の、塀も囲いも無いような無防備な町であったと思われますが、そんな吹けば飛ぶような、小さな町にも、価値を見出せないような町にも、神様の眼は注がれ続け、カインは祝福を受け続け、子孫は見る見る増えて行ったのです。

ところが、

4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。と、レメクが二人の妻を娶った事が記されています。

冒頭に申し上げましたが、これは「重婚」であり、神様は認めてはいません。

否、呪いの元なのではないでしょうか。

神様の定められた結婚の制度は、創世記224節「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」です。

結婚は「一体となる」一対一の関係であり、制度の問題でも、形式の問題でも、名称の問題でもありません。

式を挙げずとも、届けを出さずとも、公表するしないに関わらず、男女が一度、一緒になれば、それは神様の見たところの結婚であり、以降は決して離れては、他の誰とも一緒になってはならないのです。

それが神様の御こころであるのに、レメクは大胆にも、堂々と、神様を恐れる事もなく二人の妻を娶ってしまったのです。 

否、神様を全く恐れなかったのではなく、神様が裁きを遅らせている事をもってして、神様を侮ったからなのではないでしょうか。 

強盗も、最初から大胆なのではありません。 

最初はびくびく、場数を踏んで大胆になって行くのです。 

カインの子孫も、レメクに至るまで、段々、どんどん、神様を侮るようになって行ったのでしょう。 

始めは妻以外の女性に手を出し、愛人を作り、それでも何も起こらない事に安心して、最後には愛人を正式な妻に加えてしまったのでしょう。 

カインから6代目で、神様の定められた大切な結婚の制度は瓦解してしまうのです。 

神様に反抗し、背を向けて生きながらも、辛うじて守られて来た、一夫一婦制はここに終焉を迎え、一夫多妻制が始まってしまった、歴史的瞬間なのです。 

勿論、レメクの子孫が皆、一夫多妻だった訳ではありませんが、既成事実は強く、一度踏み外したならば、元に戻すのは至難の業です。

ユダヤ王国の基礎を築いたダビデも多妻でしたし、ユダヤ王国の全盛期を謳歌したソロモンも多妻でした。 

そして、その妻たちが、子どもたちが多くの問題を起したのは事実です。 

一夫一婦制なら全く問題を起さない訳ではありませんが、 

神様の定められた制度ですから、制度に従う限り、神様が導き、助け、解決を与えてくださいます。 

夫婦間の、微妙な問題に、複雑な問題に、他人が立ち入れない問題に対する処方箋は、話し合いだけであり、一夫一婦制でのみ有効なのであり、一対一だからこそ、とことん話し合えるのであり、神様が間に入って執り成してくださり、理解に、和解に至るのではないでしょうか。 

しかし、神様の定められた制度に反するなら、自分で責任を取り、解決させなければなりません。 

一夫一婦でも簡単ではないのに、一夫多妻であったなら、複雑な問題が更に複雑になり、絡み合い、縺(もつ)れ、収拾のし様がありません。 

結果、一夫多妻での問題は破綻しかありませんが、破綻は解決ではありません。 

破綻しても、其々に傷を負っていますから、破綻は広がって行くのであり、離婚、再婚を繰り返す事によって、益々、不幸を蔓延させていくのです。 

レメクの妻たちの名は、一人は「アダ」であり、その意味は「飾り」です。 

もう一人は「ツィラ」であり、その意味は「音」です。 

「アダ」は、装飾品が美しさを引き立てるような女性だったのでしょうか。 

「ツィラ」は、声が際立って美しい女性だったのでしょうか。 

レメクの自慢の妻たちだったかも知れませんが、飾りは飾りでしかなく、本質や中身には全く関係ありません。 

同じく、音は音であって、本質や中身を現してはいません。 

外見は本質と全く関係ないのであって、外見に騙されてはならないのです。 

自慢の妻たちは、神様との関係を更に悪化させるものでしかないのです。 

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。 

ヤバル」は畜産を生業とし、天幕に住んで各地を転々とする遊牧民族の先祖となりました。 

4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 

ユバル」は楽器奏者であり、音楽家の先祖となりました。 

4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。 

トバル・カイン」は丈夫で長持ちする青銅や鉄の道具、刃物を作り、農耕、牧畜に貢献する鍛冶屋の先祖になりましたが、刀や槍、盾や兜にも応用出来る技術であり、武器製造の先祖ともなったのです。 

ヤバル」「ユバル」「トバル」は「ヤーバル」から派生した言葉であり、「ヤーバル」は「イェブール」即ち「生み出す」に結び付き、職業の分業化、専門化、文化の多様性の始まりを現しているのです。 

それまでは何でも自分でやらなければならなかったのが、レメクの時代から分業化が進み、専門家が現れ、其々が独自の発展を遂げるようになるのです。 

分業化、専門化、文化の多様性は悪い事ではありませんが、行き過ぎは問題です。

分業化が進み過ぎると、全体を把握できなくなります。 

専門化が進み過ぎると、新規参入は難しく、排他的になります。 

文化の多様性は、ナショナリズム、選民意識になる危険性を含んでいます。 

それは杞憂ではなく、罪を持つ人間の行動、思考なのですから、必然であり、常に自戒しなければならないのです。 

しかし、 

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。 

4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」 

23節の「」は「男」の意味であり、「大人」を現している事は明白です。 

同じく23節の「若者」は「子ども」の意味もあり「子ども」と訳しても何ら問題ありません。 

即ち、「」だろうと「若者」だろうと、「大人」は当然、例え「子ども」でも、容赦はしない。

ちょっとでも傷を受けたならば、叩かれたならば、仕返しに「殺す」と宣言しているのです。

掠り傷でも、殺すと言うのですから、尋常ではありません。

「やられたら、やり返す」、「倍返しだ」何やらが流行りましたが、「個人的な復讐」と「七十七倍」返しがレメクによって宣言されたのです。

神様が「七倍の復讐」を約束してくださっているのに、自分で徹底的な復讐をすると宣言しているのであり、神様の憐れみによって生かされていながら、裁きの猶予の中に生かされていながら、それを無視し、僅かな憐れみさえ、全く示す事なく、

裁きを猶予させる事もなく、自分を頂点に置く世界を、神なき世界を形成させるエネルギッシュな、且つ、破壊的な、威圧的な、独裁的な宣言をしているのです。

【適応】

レメクの傲慢な、過剰過ぎる復讐、報復の宣言であり、神様に敵対する、神様を無視する不遜な宣言です。 

そんな傲慢、不遜に対して、この時、神様は何も語られてはいませんが、この後、レメクの言葉の通りに、行き過ぎた復讐、報復が世の中に横行したのでしょう。

後日、復讐、報復に制限を与えられます。 

出エジプト記2124節、25節、21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷」です。

これを「同害復讐法」等と呼びますが、限りなく同等の復讐、報復を認めているのであって、決して復讐、報復を奨励しているのではありません。

目を打たれたら目だけ、歯を損なったら歯だけ、の意味であり、目を打たれたら目を打ってもいい、歯を損なったら歯を損なってもいい、ではありません。

復讐をしてもよい、ではなく、どうしても復讐したいなら、絶対に赦せないなら、復讐を許すけれども、全く同等でなければならない、決して越えてはならないと厳しく制限をしているのです。

人間は、1発打たれたら、平気で23発打ち返すものです。

1人に対しても、45人が寄って集って袋叩きにするものです。

「同害復讐法」を教えられても、強弱を持ち出し、あの痛さは2発分あった、身分の差を持ち出し、地位の差を理由に、より重い刑罰を加えようとするのです。

神様が「七倍の復讐」を宣言されたのは、いたずらに復讐が横行しないがために、人間同士がいがみ合い、憎しみ合わないために、行き過ぎた復讐に走らないために、神様と言う上位の者の預かり事項とするためにほかありません。

神様と言う絶対的主権者、従わざるを得ない存在、一目も二目も置く存在がいらっしゃって、神様が復讐してくださるからこそ、争い、喧嘩の当事者双方が身を引く事が出来、直接対決をしないで済む事が、復讐合戦、報復の応酬の阻止に繋がるのです。

その、神様の深い配慮をかなぐり捨てて、七十七倍の復讐を宣言するレメクですが、神様はレメクを見捨てず、憐れみを注ぎ続けてくださるのです。

それは、そのまま、私たちに対する扱いでもあります。

神様は、罪深い私たちを、罪を繰り返す私たちを、頑なな私たちを、うなじのこわい私たちを、中々悔い改めない私たちを、素直でない私たちを、素直になれない私たちを、自分の力での復讐を誓う私たちを見捨てず、切り捨てず、憐れみを注ぎ続けてくださり、祝福を与え続けて下さっているのです。

人間の罪のために、地球が、自然がおかしくなってしまって、世界規模の疾病が蔓延する中でも、世界規模の気候変動の中でも、人間のエゴと、飽くなき勢力拡大、支配欲による、世界規模の戦争を懲りずに繰り返す中でも、神様は人間を見捨てず、神様に歯向かい、楯突き、傲慢に振舞う罪人を切り捨てず、憐れみを注ぎ続けてくださっているので、祝福を注ぎ続けてくださっているので、今も、滅ぼされずに、裁かれずに、生きていられるのです。

神様は誰一人として滅びるのを望まれず、全ての人が悔い改めて救われるのを望んでおられ、そのために忍耐を持って待っておられます。

祝福や憐れみを受ける資格のない罪人に注がれる神様の祝福や憐れみに罪人が気付き、悔い改めるのを待っておられるのです。

悔い改めない者は当然罪を犯し続けます。

悔い改め、正しい生き方を心掛ける者も、哀しいかな、罪を犯し続けてしまいます。

見掛けは一緒。

でも、結果は雲泥の差です。

神様の忍耐に甘んじて、好き勝手を改めず、罪を犯し続けるなら、滅びは確定するでしょう。

しかし、神様の忍耐に感謝して、罪を悔い改めるなら、罪を繰り返しても、失敗を繰り返しても、神様の祝福が取り上げられる事はなく、滅びる事はありません。

神様の憐れみが、恵みが、祝福が、全ての人に注がれている意味を考え、裁きが先延ばし、延期されている理由を考え、自身の救いと、周りの人々が救われる事と、世界が救われる事を、執り成し祈る者となりたいものです。

2014-8メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る 

 

聖書箇所:創世記4:8~16                   2014-8-3礼拝

説教題:「最初の殺人」

【導入】

今も昔も、物騒な、恐ろしいニュースが毎日のように、これでもかと言わんばかりに飛び交っています。

しかし、今と昔では、「動機」に大きな変化があるような気がいたします。

先日も女子高校生が、仲の良い同級生を殺して、解剖紛いの事をした、との報道がなされていました。

「殺してみたかった」が動機の一つとして発表されていますが、

この事件に限らず、止むに止まれぬ事情で起こってしまった事件、ではなく、

「殺してみたかった」とか、「死刑になりたくて」と言う身勝手な動機で、

起こるべくして起こした事件には驚きと言うか、呆気に取られて返す言葉も見つかりません。

命の大切さ、重さ、大きさ、をどのように考えているのでしょうか。

「命」とか「解剖」と言う言葉から、

小学校高学年の頃だったでしょうか、「蛙」や「鮒」の解剖をした事を思い出しました。

ホルマリンだったかかの入ったビンに、蛙を入れ、麻酔が利いて来たところで蛙を取りだし、蛙のお腹にメスを入れる訳ですが、

途中で麻酔が切れて、蛙が動き出すと教室中が大騒ぎになった事を思い出しました。

蛙や鮒の解剖は授業の一環であり、蛙の解剖は大切な学びですが、どんな小さな動物でも命があり、

その命の大切さ、重さ、大きさを合わせて教えないと、とんでもない事になるのではないでしょうか。

幼いうちから命の尊厳を、繰り返し繰り返し教える必要があるのですが、

現実は、身近な所では、ゲームや漫画、ドラマに代表されましょうが、「命」が余りにも粗末に扱われてはいないでしょうか。

ゲーム、漫画、ドラマ全般の是非を問うつもりはありませんが、

仲間が死んでも、次ぎの仲間を送り込み、手持ちの仲間が全滅し、ゲームオーバーになっても、再開すれば、何事も無かったかのように続けられるゲームの世界は、

或いは、死んでも復活させる事が出来るゲームの世界は、命と死に対する感覚をおかしくしているのではないでしょうか。

漫画やドラマも死に対しての扱いは決して慎重ではなく、攻撃的であったり、簡単に殺したり、生き返ったりと、現実とかけ離れて過ぎてはいないでしょうか。

勿論、ゲームや漫画、ドラマの全てが悪い訳ではなく、極一部でしょうし、

多くのゲームや漫画、ドラマは問題無いでしょうが、

幼いうちに触れるものとして、生命倫理や価値観を養う時期に触れるものとして、問題がありはしないかと思うのです。

幼い時には、命の大切さ、命のかけがえのなさをこそ、繰り返し教えるべきではないかと思うのです。

人間社会が始まったばかりの世界には、まだ、殺人事件は起こってはいません。

否「人間の死」すら、誰も経験してはいなかったのではないかと思われます。

何故ならば、神様が人間の命を120年に限定される前ですから、500年も900年も生きるのが普通の時代であったからです。

しかし、罪が人間社会を支配している事は間違いありません。

罪イコール殺人、ではありませんが、

罪は妬(ねた)みやヤッカミ、恨(うら)みや憎(にく)しみの元となります。

そして妬みヤッカミ、恨みや憎しみが、大きくなると、相手の存在自体が許せなくなり、排除する思いが膨らんで行くのです。

神様はそんなカインの心を見抜き、罪に惑わされないように、罪を制するように、助言をし、

罪は制する事が出来ると、励ましを与えるのですが、

そんな神様の語りかけ、助言、励ましを意に介せず、無視し、

【本論】

4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

野に行こうではないか」は70人訳の補足でありますが、

この時の状況を具体的に、分り易く記していて、私たちの理解に役立っています。

カインはアベルに話しかけ、誘ったのであり、

カインは計画的にアベルを誘い出したのであり、

決して偶然、たまたまの成り行きで、殺人と言う思いがけない結果になってしまったのではなく、

カッとして、我を忘れて、時の勢いで、止む無く、気が付いたら殺してしまっていたのでもなく、

意識的に、神様の眼の届かない所、両親の眼の届かない所を目指し、計画的に人里離れた、人気のない所を選んだのです。

人気のない所までの道すがら、カインとアベルは何を話していたのでしょうか。

全くの無言、と言う状況は考え難いでしょうから、

他愛のない世間話しやら、農耕、畜産に関わる季節の話し、天候の話題、

今後の農耕計画、畜産計画などなどを話していたのではないでしょうか。

笑い声も交わされるような、仲睦まじい、仄々とした二人の姿を想像するのは自然な流れではないでしょうか。

しかし、カインの心の内には、青白い憎しみの炎がチラチラ燃えていたのであり、

蛇が別れた舌で、辺りを探るように、時と場所を窺っていたのではないでしょうか。

野獣が待ち伏せ、獲物が隙を見せるのを、虎視眈々と待つように、チャンスを待っていたのではないでしょうか。

人を殺すのは、条件さえ整えば、思うほど難しくはないようです。

油断させる事が出来るなら、用意周到にするなら、簡単に殺せるようです。

カインは微塵も殺意を匂わせず、内に秘め、全く悟られず、

アベルと時を過ごし、疑う事のない中に、更に安心させ、油断させ、

襲いかかり、殺したのです。

アベルの遺体を、どうしたかは記されていませんが、

この後の神様との言葉の遣り取りから、野原に穴を掘って地中に埋めてしまい、証拠を隠滅したのではないかと思われます。

4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。

全てを知る神様からの問いかけであり、カインの犯した殺人と言う大罪から回復するチャンスであり、

神様との和解の機会なのではないでしょうか。

犯した罪は、してしまった失敗は、元に戻す事も、無かった事にも出来ませんが、

告白して、赦しを乞う事は出来るはずですし、

それこそ、しなければならない事のはずではないでしょうか。

人間の犯した最初の罪は、蛇に唆されて、食する事を禁じられていた「善悪の知識の木の実」を食べた事ですが、

その時にも、神様は全てを知っておられるのに、

アダムにかけた言葉は「あなたは何をしたのか」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

カインにかけた言葉も「あなたは弟アベルに何をしたのか」ではなく「あなたの弟アベルはどこにいるのか」でした。

神様はアベルの存在に心にかけられているように見えますが、

それは、カインに向けられた言葉であり、

カインの口を通して、アベルの状態を神様の前に告白し、悔い改めに導く意図を持っている事は明らかです。

神様は罪そのものも嫌われますが、隠す事、嘘をつく事、責任転嫁する事を嫌われます。

木の影に隠れようが、土の中に埋めようが、神様は全てご存知です。

隠れる理由も、埋めた理由も、其々の原因も全てご存知の上で、問いかけられるのです。

隠れた理由、隠れるに至った原因を探らせ、悔い改めに至らせるためであり、

埋めた理由、埋めるに至った原因を探らせ、悔い改めに至らせるためです。

決して、知っているのに問い詰めて、の意地悪い意図からではなく、

本人の口からの自発的告白を促す問いかけであり、優しさに溢れた問いかけではないでしょうか。

その神様の問いかけに対し、9節後半、

カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

本来、近親者は守り手のはずです。

血縁は切っても切れない間柄であり、肉親こそ命がけで守り、助け合い、協力する良い関係にあったはずです。

その守り手に殺されたのですから、こんなに哀しい事はありません。

しかし、だからこそ、余計に告白はし難かったのでもありましょう。

罪の告白、悔い改めのチャンスでありながら、

神様に向って、「私は弟の番人ではない、見張り役ではない、何で私に聞くのか、見当違いだ」と答えているのです。

この応答の背後には、神様の全知全能を侮る思いがあるからであり、

神様を騙す事など造作無い、白を切り通せば何とかなる、そんな思いがあった事は想像に難くありません。

4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

本来ならば、守ってくれるはずの肉親の手によって殺された驚愕は、

復讐してくれる立場の兄の手によって殺された無念は、

誰が代弁し、復讐してくれるのでしょうか。

神様しかいないのではないでしょうか。

神様が立ち上がり、神様が調べ、自然を証人に立てて、聴いてくださるのです。

現実に血は叫びませんが、象徴的に叫んでいる、神様に訴えていると言うのです。

誰も知らなくても、

中国の故事に「天知る、地知る、我知る、人知る」と申しますが、天地の神々が知っている、私も当事者も知っているのであり、これで、誰が知らないといえるのでしょうか。

隠せるというのでしょうか。

不正は必ず現れるのであり、覆い隠せる事は何一つないのです。

この世的には隠せたとしても、神様の前には明らかにされているのであり、

神様が声無き声、無言の訴えを叫びとして聴いてくださり、訴えを取り上げてくださるのです。

4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

血が流された事によって土地は呪われてしまいますが、

物理的、神話的に呪われるのではなく、

倫理的、道徳的に相応しくない行動が、実際の生活に及ぼす影響が侮れない事を教えています。

倫理的、道徳的に問題な行動は、心を蝕み、倫理的、道徳的感覚を麻痺させ、益々倫理的、道徳的に問題な行動に走らせます。

そして、告発を恐れ、復讐者を恐れ、何でもないような事にも怯えます。

何時も強迫観念に苛(さいな)まれます。

一刻の平安もなくなり、生活は荒(すさ)みます。

安心して働く事が出来ず、安心して寝る事も出来なくなるのです。

逃げ回る生活は、精神的な安定を欠いた生活であり、文字通り、さ迷う人生となってしまうのです。

4:13 カインは【主】に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。

この「にないきれません」は、「赦されないのでしょうか」とも訳せますが、

決して犯した罪の大きさに驚き、反省しての弁ではなく、赦しを乞う言葉でもなく、

刑罰の大きさ、重さについて訴えているのであり、不満の叫びであり、悔い改めの意味は微塵もないのです。

しかし、これは罪のなせる業であり、

罪は常に、内心の事実を隠し、自分の行動を正当化します。

罰に対して不満を述べ、不当だと反論します。

その極めつけが、

4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

追い出されるような事をしたのは誰でしょうか。

神様の前に出られなくなった原因は誰にあるのでしょうか。

さすらうようになったのは、誰の行動の結果なのでしょうか。

そして、人々の憎しみを買うような行動を取ったのは誰なのでしょうか。

神様から忠告を受け、励まされたのは誰だったのでしょうか。

自分で蒔いた種の責任を皆、神様に押し付けているのです。

そんな、身勝手な、逆切れの反論にも、誠実に応答してくださるのが神様なのです。

4:15 【主】は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで【主】は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

悔い改めない者にも、神様は憐れみを示してくださるのであり、

何処に逃れても、何処をさ迷い歩いても、人々からの復讐に合わないように「しるし」をくださいました。

神様の憐れみは、放免の意味ではなく、かと言って、絶縁、断絶でもなく、

悔い改める時まで待つ意味の憐れみであり、帰って来るのを待つ意味の憐れみです。

悔い改めるまで、帰って来るまで、妨げが起こらないように、

人々の憎しみによって殺されないように、復讐者の手に陥らないように「しるし」が与えられました。

この「しるし」は何かのマーク、刻印の類ではありません。

額や身体に刺青があるとか、特徴的な痣とか、傷があるのではありません。

筋肉マンの額の「肉」、

旗本退屈男の「刀傷」のようなものでもありません。

遠山の金さんの「桜吹雪」でもありません。

肉体的な特徴でもなく、異様な風貌をしているのでもありません。

ノアの大洪水の後に、空にかかった「虹」のように、当たり前であり、変哲のない自然現象だけれども、新しい意味が与えられたように、

カインに「しるし」が与えられたのです。

カインに与えられた「しるし」は何だったのでしょうか。

一見したのでは分らない、特殊な能力ではなかったか、との解説がありましたが、

能力なら発揮しなければ分りませんから、能力でもなさそうです、

しかし、その「しるし」のお陰で、決して殺される事はなかったのです。

しかも、カインに手を出す者は、七倍の復讐を受けるとの言質までいただくのですから、完璧です。

安心したカインは、神様に背を向け、

4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

「ノデ」は「さすらい」の意味を持つへブル語ですから、

さすらう者が集まり住んだ町なので「ノデ」と呼ばれるようになったのか、

「ノデ」なのでさすらう者が親しみを持って集まったのかは不明ですが、

神様に背を向けた者が集まるに相応しい所は、町はこの世にはありません。

神様は殺人者であっても、罪人であっても、さすらいから帰って来る事を、

悔い改めて戻ってくる事を願っているのであり、

その意味でも、「ノデ」は一時的な滞在場所であり、永住の地ではありません。

カインは神様の前を去り、「ノデ」の地に住みついたつもりかも知れませんが、

神様の眼はカインを離れず、何時も見続け、見守り続け、

災いから、復讐者の手から、守り続けてくださったのです。

【適応】

カインの手によって、最初の殺人事件が起こってしまいましたが、

放置すれば、憎しみは伝達、連鎖、拡散して、次々に殺人事件が起こったのではないでしょうか。

事実、カインは土地に呪われる事よりも、家族、親族を離れてさ迷う事よりも、

復讐者の手を何より恐れたのであり、神様に泣き付いたのです。

直接、間接に関係者が争えば、その争いに乗じて利を得ようとする者も現れましょう。

応援する者が現れ、荷担する者が現れましょう。

友達の友達のために、戦いに参加する者も現れましょう。

争いは争いを生み、燎原の火のごとく、瞬く間に燃え広がり、焼き尽くし、荒廃と滅亡しかもたらさないのです。

最初の殺人事件は哀しい事ですが、次ぎの殺人事件が起こらないように手を打たなければならず、

神様は復讐に対して七倍も重い刑罰を与える事で抑止したのです。

この事からも、神様の御こころは、復讐を止める事であり、復讐は神様に委ねる事である事は明白です。

最初の殺人者カインに対しても、厳罰で処するのではなく、悔い改めの執行猶予を与えたのであり、

罪、即、厳罰ではない事、

罪、即、復讐ではない事を教えています。

罰を与える事よりも、悔い改める事のほうが重要であり、

悔い改めなければ、罰には何の意味もありません。

復讐で、殺人や犯罪を抑止する事よりも、復讐の連鎖による憎しみを抑える事の方が重要であり、

憎しみがなくなれば、疑心暗鬼に恐れる必要もなくなり、和解に至る道は決して険しくはないのではないでしょうか。

現在、世界各地で憎しみの連鎖による復讐の応酬が繰り返されていますが、何処かで断ち切らなければなりません。

その点で、国際紛争解決の手段として武力を放棄した事が、軍備を持たない事が、どれほど大きな意味を持つかを考えたいのです。

今月は敗戦記念日です。

戦争、殺人の愚かさを確認し、どんな理由があろうと、戦争を起さない、戦争に荷担しない、

戦争で利益を得ない、事を確認し、

仲介者に徹し、戦争を終わらせる努力を惜しまず、平和をもたらす者となりたいものです。

その働きは全知全能の神様、裁き主を信じているクリスチャンに、

一切の争いを放棄したクリスチャンに委ねられているのではないでしょうか。

ローマ書1217

12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

2014-8メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る