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聖書箇所:創世記182233                 2015-10-25礼拝

説教題:「アブラハムの執り成し」

【導入】

神様は全知全能であり、誰の補佐も、助言も、諌言なども必要とされませんが、神様は、人間に関わられる事で、人間に与えられた使命を思い起こさせ、また、ご計画を知らせる事で、神様のご計画と関わる事を期待されます。

ご計画を知らせる事は、助言を期待されているからではなく、使命との関わりを考えさせ、使命に積極的に取り組むためです。

ですから、神様がアブラハムに、ソドムへの裁きを告知したのは、アブラハムが、都市が滅ぼされる事と、アブラハムの使命、世界の祝福とを、どのように関連付け、どのように関わるか、どう取り組むかを期待しての告知である事は、言うまでもありません。

重要なご計画を知らされたアブラハムはどのような応答をするのでしょうか。

【本論】

18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。

二人は去り、一人は残って、アブラハムと共に、立ち去った二人を見送る形になったようです。

残られた一人は【主】であり、アブラハムの反応を待っての、居残りでありました。

何故、そうだと、断言出来るか、ですが、アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた」は、【主】はまだ、アブラハムの前に立っていた」と、アブラハムと【主】を入れ替えて訳す事が可能であり、このように訳すと、神様は、神様の告知を聴いたアブラハムがどのように反応するかに、大きな期待を持って待っていた様子が、アブラハムが語り出すのを、じっと待っていた様子が、明確に伝わって来ます。

アブラハムは神様に選ばれた人物であり、全世界を祝福する使命が与えられています。

全世界を祝福するのであって、自分の家族、自分の一族、氏族、自分の部族、民族だけではありません。

味方だけでなく、敵をも祝福するのであり、祝福したくなくても、与えられた使命として、与えられた役割として、否応無しに祝福しなければなりません。

何時も、喜んで、誰をも祝福出来る訳ではありませんが、渋々でも祝福しなければならず、騙されても祝福しなければならず、そんな祝福でも有効であり、祝福されるのです。

ヤコブがイサクを騙してエサウの祝福を横取りしましたが、それでも祝福されるのと同じであり(創世記27)ギブオン人がヨシュアを騙して盟約を結んでも、その盟約に付随する祝福が取り消されないのと同じです(ヨシュア記9)

アブラハムに委ねられた祝福の務めは、相手の誠意、誠実に関わりなく、与えなければならず、祝福を受けるに相応しければ、祝福はその人に、その家に、その組織に、その都市や国に留まるのであり、もし、祝福を受けるに相応しくないならば、祝福は留まる事が出来ずに帰ってくるのであり、アブラハムは祝福を与える事に専念し、祝福を与えるチャンスを逃してはならず、祝福が留まるように執り成し続けなければならないのです。

18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。

18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

ソドムの町の規模や、人口を知る事は出来ませんが、大きな都市であった事は間違いありません。

勿論、現代の都市と比較してはなりませんが、当時としては大きな都市であり、創世記142節にソドム以下、ゴモラ、アデマ、ツェボイム、ベラの名前が挙げられていますが、

ソドムには堅固な門があり、城壁があり、創世記142節に挙げられている5つの都市の、中心的な都市として、頭(かしら)的な都市として、栄えており、衰退など考えられません。

何故ならば、創世記1914節に「「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた」と、記されている通りに、ソドムが滅びるなどと言う事は冗談のような事であり、それ程に大きな都市であったのです。

その大きな都市ソドムの人口は如何程であったのでしょうか。

一万人位だったでしょうか。

イエス様の給食の逸話でさえ5000人、4000人なのですから、一万人はかなり少な目の予想だと思います。

仮に一万人であったとしたならば、50人は0.5%であり、微々たる人数でしかありません。

この位の犠牲はやむを得ない、多少の犠牲は付き物と、誰しもが考えましょうが、しかし、アブラハムは神様の義に訴え掛けます。

23節「正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」、25節「正しい者を悪い者といっしょに殺し」、同じく25節「正しい者と悪い者とが同じようになるというようなこと」を、義なる神様がなさるはずありませんよね、多くの悪い者を滅ぼすためとは言え、これ以上悪が蔓延らないためとは言え、悪の影響を立ち切るためとは言え、愛なる神様が、僅かな、極少数であっても正しい者を犠牲になさるはずはありませんよね、と問い掛けるのです。

正しい者を正しく扱うのが、神様の義であり、更に、正しい者の正しさによって悪い者を赦すのが、裁きに猶予を与えるのが、愛である神様がなさるべき事ではないでしょうかと、問い掛けるのです。

義であり、愛である神様ならば、この申し出、助命嘆願を必ず受けて下さるだろうとの確信が、最初からあった訳ではないでしょう。

神様の前に佇みつつ、アブラハムは、暫しの沈黙の中、言うべきか、言わざるべきか、迷い、僭越ではないか、不遜な振る舞いではないか、悩み、葛藤がアブラハムの心の中を駆け巡ったのではないでしょうか。

しかし、アブラハムは、与えられた使命、地の全ての民に祝福をもたらす務めの意味する所が何であるかを正しく理解し、関わる人々に祝福の言葉を宣べるに留まらず、更に、赦しを執り成し、裁きの執行猶予を取り成す事であるとの認識に至ったのであり、ソドムの赦しの執り成しを、我が務めとして受け止め、赦しを嘆願するのです。

18:26 【主】は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

アブラハムの「もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません」との助命嘆願に対して、神様も「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら」と、もしや」に対して「もし」で応じられます。

アブラハムの「もしや」に対して神様が「もし」で応じられパターンは28節、30節でも繰り返されますが、29節、31節、32節ではアブラハムの「もしや」に対して、神様は「もし」では応じられていませんが、基本的には同じです。

神様は全知全能のお方であり、神様はソドムの実態を完璧に知っておられ、ソドムが救いようのない状態であり、滅亡が避けられない状況である事をご存知であり、ソドムの滅亡は決定しています。

即ち、神様の仰られる「もし」は、可能性を含んだ「もし」ではなく、いないけれども」の、否定的な意味なのですが、嘆願するアブラハムに対する愛の配慮で「もし」で応じているのです。

既に決定しているからといって、アブラハムの嘆願を、繰り返しの嘆願を、邪険に退けず、根気良く応じてくださる神の愛であり、アブラハムは神様の「もし」にソドムの結末を予感しながらも、神様の義と愛を確信して嘆願を続けます。

18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。

18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」

18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」

18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」

18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」

18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

神様とアブラハムとの問答は「押し問答」の形を取っており、まるで「値切り交渉」のようですが、アブラハムは信仰を持って、手探りしながら、進んでいるのであり、しかも、礼節をもって、謙って、神様を信じて、神様の義と愛に縋っているのです。

アブラハムは凡庸な人物ではありません。

ソドムは、甥のロトが住む町であり、ソドムの噂はアブラハムの耳に届いており、憂慮していた事でしょう。

そもそも、ソドムとはロトを介して、浅からぬ関係があります。

ソドムと周辺都市が、北の列強連合国から略奪の憂き目に合った時、ソドムを救ったのは他ならぬアブラハムでした。

命懸けで助けたソドムの王様であり、命懸けで取り戻したソドムの財産ですから、今回も、何とかして、助けたい、執り成したい、と思っての、必至の助命嘆願。

ソドムの実情を知っているアブラハムは、何時か、裁きが下されるのではないかと、憂慮していた事でしょう。

その心配が杞憂に終わらず、現実になってしまった。

交渉を続け、50人、45人、40人、30人、20人、最終的に10人の正しい者がいたならば赦す、との言質を取り、助命嘆願交渉は終わり、18:33 【主】はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

最終的な合意点は、ソドムの町に10人の正しい者がいたならば、ソドムの町の全住民を赦し、ソドムの町を滅ぼさない、となりました。

しかし、助命が確定した訳ではありません。

去って行かれる神様を、アブラハムはどのような思いで見送った事でしょう。

9人、8人と、一人刻みで交渉を続けるべきだったとの、或いは神様が「ストップ」、「ここまで」と仰られるまで交渉を続けるべきだった、との後悔でしょうか。

なすべき事をした、やれる所までやった、との達成感でしょうか。

そんな、後悔を残す、或いは達成感を味わうための交渉ではありません。

ソドムの実情を知るアブラハムであり、10人も居ない事は想定出来、ソドムの滅亡は必然、必至です。

交渉の経過、結果云々よりも、神様がどのような形で、神様の義と愛とを両立、実現させるかが、アブラハムの関心の的であり、神様を見送るアブラハムの胸の内を満たした事でしょう。

自分の働きではなく、神様の働きに関心を向けるべきであり、神様の業を見て、それが赦しでも、それが滅びでも、神様を称え、神様を讃美し、神様を崇める、それが、アブラハムの求めるものであり、僕である私たちの求めるものでなければなりません。

【適応】

私たちの祈り願いは、或いは執り成しは、結果を変える事でも、願いを押し通す事でもありません。

神様がどのような形で、神様の義と愛とを両立、実現させるか、であり、それに、自分が、自分たちが、どのような形で関わって行くか、或いは、関わらせていただけるか、でしょう。

神様のご計画を聴いて、知って「ああ、そうですか。そうなんだ。やっぱりね」、でよいのでしょうか。

「神様が決められた事だもの、どうしようもないでしょ」、で良いのでしょうか。

そんな消極的な、第三者的な生き方を神様が願っておられるなら、今回のテキストのような神様とアブラハムとのやり取りはなかったでしょう。

神様は積極的な生き方を願っておられますが、アブラハムの霊的子孫である私たちキリスト者は、アブラハムの使命「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。

18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」を引き継いでいます。

引き継がなければなりません。

そして、私たちの祈り、執り成しは、この使命に関連して、積極的でなければなりません。

何かの目標を立て、達成のために祈りますが、誰かかの窮状を知って、解決、解消を祈りますが、それが神様の義と愛にどう関連するかを考慮、吟味しなければなりません。

アブラハムの執り成しの前提は、根底にあるのは、アブラハムに与えられた使命、創世記1819節の言葉「主の道を守らせ、正義と公正とを行わせる」と、今日のテキストの個所、23節から25節の言葉、特に「全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか」です。

私が「正義と公正」を行ない、子や孫に「正義と公正」を行なうように教え伝えても、悪い者の巻き添えで滅ぼされてしまうのでは、私が「正義と公正」を行ない、子や子孫に「正義と公正」教え伝える意味がなくなってしまうではありませんか。

神様、義と愛を両立させてください、なのです。

神様が「公義」が行なわれ、私たちも「正義と公正」が行なわれるよう祈るのです。

悪い者が赦されるように祈るのではなく、滅ぼされないように祈るのではなく、正しい者が悪い者のために滅ぼされないように、正しい者が正しい扱いを受けるように祈るのであり、結果として悪い者の滅びが延期され、悪い者に悔い改めのチャンスが与えられるのです。

「公義、正義、公正」を強調し過ぎると「律法主義」に陥ります。

「愛、赦し」を強調し過ぎると「溺愛、放任、無秩序」に陥ります。

常に、神様の御こころが行なわれるように、「公義」が行なわれるように、祈り、執り成す時、神様の御こころに叶う、祈り、執り成しとされるのです。

私たちの祈り、執り成しは如何でしょうか。

ただただ我武者羅な、押し付けるような祈り、執り成しでしょうか。

それとも、御こころがなりますように、御こころに叶うなら、と言う、謙った祈り、執り成しでしょうか。

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聖書箇所:創世記181621                 2015-10-18礼拝

説教題:「ソドムへの裁きの告知」

【導入】

聖書は「神を愛し、人を愛する」事を教える書物であると語って来ましたが、同時に「神の愛と、神の義」について語る書物でもあります。

神の愛について述べるならば、聖書には「恵み」が語られ、「憐れみ」が語られ、「祝福」が語られ、これらが人間に与えられる事が語られています。

神の義について述べるならば、聖書には「神の聖さ」が語られ、「裁き」が語られ、罰」が語られ、「死」が語られており、罪を有耶無耶にする事はなく、罪を犯す人間には裁きが行なわれ、刑が課せられ、厳然たる刑の執行が行われる事が語られています。

罪を犯した者には、必ず刑罰を与えなければなりません。

それは、義なる神様に相応しい事であり、聖い神様に相応しい事であるのですが、人間は神様の愛を受けながらも、罪を犯し、神様の愛を受けるに相応しい者ではなくなってしまっています。

罪人である人間は、神様の愛を受けられません。

天国に入る事が出来ません。

人間の罪を有耶無耶にし、罰もなく赦す事は、神様の義に反する事であり、出来ません。

必ず裁かれ、必ず罰を与えられます。

勿論、即刻ではなく、警告があり、猶予があり、生け贄による犠牲が身代わりとなりますが、あくまで罪に対する自覚と告白、生け贄の犠牲が必要である事には変わりありません。

それで人間は、律法の定めに従って、生け贄を献げて来たのであり、究極的にはイエス様の十字架の上での死により、私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられますが、罪の赦しには刑罰が必要である事に変わりはありません。

裁きは罪の結果でもありますが、それ以上の意味があり、続けて罪を犯さないための処置であり、愛の現れでもあるのです。

過去に、人間は大洪水によって裁かれています。

大洪水の裁きを逃れたノアの一家は、神様の裁きの厳しさ、罰の凄まじさを見て、知って、戦慄したのではないでしょうか。

その恐ろしさを子に孫に語り続けた事でしょうが、語り続けられながらも、嫌な記憶は敬遠され、快い出来事だけに片寄っていったのではないでしょうか。

とてつもなく大きな箱舟を造る苦労話し、大海原を漂う、冒険物語、洪水の後の、綺麗な虹を見た時の感動。

大洪水も、神様の裁きとしてではなく、単なる自然現象に置き替えられてしまったかも知れません。

そして、神様の裁きを忘れた人間が、再び罪を犯すのは当然、必然です。

【本論】

18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。

アブラハムとサラに、重要な私信を伝え、使命を終えた神の御使いは、次なる使命のために旅立ち、ソドムを目指します。

アブラハムが滞在していた土地や、ソドムの正確な位置を、現代の私たちは知る事が出来ませんが、大まかにはエルサレムの南30km程にあるヘブロンの、更に南に広がっている土地にソドムはあったようです。

ソドム周辺は肥沃な土地であり、農業にも、牧畜にも適しており、主要な道路に接していて、交通の要衝としても栄えていた、と考えられています。

交通の要衝には市場が設けられ、宿屋が造られ、歓楽街が生まれるのは自然な流れでしょう。

アブラハムの滞在地からも、然程、遠くはなく、ソドムに至る幹線道路まで、お見送りをしたようです。

アブラハムは見ず知らずの旅人に対して、最大限の持て成しをしましたが、その仕上げとして、礼を尽くして、お見送りをします。

玄関先で別れを告げ、さっさと家の中に入ってしまうのでは、余りにもドライであり、厄介払いと取られかねません。

最高の料理を提供しての持て成しも、興ざめとなってしまうのではないでしょうか。

玄関先であったとしても、客人の姿が見えなくなるまで見送るのが、最高の、礼を尽くした持て成しなのではないでしょうか。

アブラハムは、そんな持て成しを、見ず知らずの旅人に提供したのであり、不必要であろう道案内を買って出て、お見送りをしたのです。

その道すがら、

18:17 【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

考えられた」の直訳は「言われた」であり、頭の中で考えた、のではなく、独り言のようであったかもしれませんが、声に出して、アブラハムに聞こえるように呟かれたのです。

アブラハムに隠しておくべきだろうか」を、新共同訳では「アブラハムに隠す必要があろうか」と訳しています。

アブラハムに与えられた重大な使命を考えるなら、また、神様はアブラハムの客となられたのであり、神様とアブラハムとの非常に親しい関係を考えるなら、この言葉は、積極的な意味に解すべきでしょう。

我が友、アブラハムに隠しておいてはならない」であり、ソドムの出来事の意味をアブラハムに伝え、アブラハムは自身への警告と受け止め、アブラハムは使命に、より慎重に、神様のみこころにそって取り組む、決意に繋がらせなければならないのです。

神様はアブラハムに与えられた使命を繰り返されます。

18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。

18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

神様とアブラハムとの間の契約は、アブラハムとその子孫だけとの限定的な契約ではありません。

神様とアブラハムとの契約は、全人類に関わる契約であり、アブラハムとその子孫には、全人類を祝福する働きが委ねられ、神様からの祝福を受けるに相応しい、生き方、考え方が何であるかを教える使命が、アブラハムとその子孫に与えられているのです。

19節の「わたしが彼を選び出したのは」の「選び出した」の直訳は「知った」であり、

知った」の意味するところは「全人格的な深い、密な交わりを持った」であり、わたしは彼を、わたしの友としたのは」の意味で受け止める必要があります。

それ故に、ソドムへの裁きがアブラハムに伝えられるのであり、ソドムへの裁きを警告として受け止め、ソドムと同じ轍を踏まないように、教え、手本を示し、行なわせなければならないのです。

アブラハムの責任は「【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせる」事であり、神様の基準を教え、基準に達するように導き、善悪の識別を教え、それに基づく行為を行なわせるのです。

内面的にも、外面的にも、即ち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものから離れるよう、関わらないように、神の基準で、善悪を判断し行なうよう教えるのです。

また、「【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するため」即ち、「地のすべての国々は、彼によって祝福される」ためです。

教える事も、祝福する事も、簡単な事ではありません。

一回で終るものでも、一回で完成するものでもありません。

継続して、忍耐深く、繰り返し続けなければなりません。

教える価値の無いような者にも懇切丁寧に、忍耐深く教えなければならず、祝福を受ける価値の無いような者にも、心からの祝福を与えなければならないのです。

カリキュラムをこなすだけの教育であってはならず、形だけの祝福であってもならないのです。

アブラハムの責務であり、アブラハムの子孫の責務であり、現代では、親の責務であり、教師の責務であり、指導的立場にある者の責務です。

18節、19節で間違えてはならないのは、

【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就する」ために、「【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせる」のではありません。

【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせる」ならば「【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就する」であろう、ではありません。

両者の関係は、条件とか、結果、因果ではなく、即ち、こうすればこうなる、ではなく、

同列であり、同時進行なのです。

更に言うなら、神様に造られた事、即ち、私たちが存在している事、自体が祝福であり、

更に、神様に選ばれた事が祝福であり、前提として祝福されているから、正しい道を教えられるのであり、祝福の内に留まるから、正しい道を選べるのです。

正しい道を選ぶから、益々祝福されるのです。

正しい道を知っていても、選ぶのは簡単な事ではありません。

正しい道は狭く、険しく、困難が伴うからです。

正しくない道は広く、平坦で、歩き易く、楽しそうです。魅力的に見えます。

自由があるように見えます。

そして、多くの人は、神様の与えてくださる祝福より、自分で祝福を得ようとして、神様の祝福の内に留まらず、自分の行きたい道を選び、進みます。

神様の祝福を離れてしまっては、棄ててしまっては、正しい道を選べませんし、正しい道を教えられません。

正しい道を教えられていない人は、好き勝手な道、皆がやっている道、楽しそうな道、楽な道を選び、祝福からどんどん離れて行くのであり、益々正しい道から離れるのです。

結果は、言うまでもありません。

18:20 そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

叫び」は法律関連用語であり「非常な不正、不公平に苦しむ人の、助けを求める叫び」を意味します。

ここでは「悪を訴え、処罰を求める」叫びであり、人の叫びではなく、町が、土地が、石が叫んでいるのです。

住民が悪に麻痺し、悪に染まり、悪を悪と思わなくなり、悪を容認してしまい、悪を率先して行なうようになり、誰も糾す者が起こらなければ、町が悪を訴え叫び、土地が処罰を求めて叫び、石が正義が行なわれるように叫ぶのです。

彼らの罪」とは、神様の教えに背く事であり、不道徳であり、不品行であり、社会的腐敗であり、人権無視であり、隣人愛の欠如、隣人の苦しみに対する無感覚、等などであり、きわめて重い」との表現は、それらの罪が、極みに達していたのであり、広く蔓延していたのであり、隅々にまで深く浸透していた事を断言しています。

ソドムの罪は、疑う余地のないもの、確定的なもの。

しかし、

18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

ここに、神様の義が、愛の大きさが、表現されています。

神様は、実際に見に行かなくても、見なくても、全てを正しく、完全に知っておられます。

それでも、あえて、不必要であるにも関わらず、手間暇かけてご自身の目で確かめられるのです。

そして、義なる神様に相応しく、正しい、最適な処罰を下す事が出来ますが、不義に対して、即処罰、が前提ではなく、猶予が与えられている事、悔い改めのチャンスが与えられている事、更に、執り成しを通して、神様の業に関与する事が許されている事実を教えているのです。

神様は完全であり、誰の助けも、助言も必要とはされませんが、アブラハムを友とし、アブラハムに計画を話し、アブラハムの意見を聴く用意がある事を示唆しているのです。

直接、アブラハムに意見を求めてはいませんが、アブラハムの応答を前提としているからこそ、アブラハムに聞かせているのです。

最後の「わたしは知りたいのだ」は、事実を知りたい、の意味とともに、19節で「わたしが彼を選び出したのは」の「選び出した」の直訳は「知った」であり、知った」の意味するところは「全人格的な深い、密な交わりを持った」であり、わたしは彼を、わたしの友としたのは」の意味で受け止める必要がある、と説明しましたが、21節の「わたしは知りたいのだ」は「わたしは、友としたいのだ」の意味で受け止める必要があります。

どんな人でも、神様は友としたいのであり、罪人にも一縷の可能性をかけ、千に一つでも正義が行なわれているならば、そこに希望を見出し、悔い改めるなら、赦す事が出来るのであり、友と呼び、受け入れ、祝福を与える事ができるのです。

【適応】

肉に過ぎない人間に、神様は120年の寿命を与えられましたが、その120年をどのように過ごすかは大きな問題です。

可もそこそこあるけれど、不可もそこそこある、といったプラスマイナス“0”の人が殆どでしょうか。

不可の少ないプラスの人は少数派でしょうか。

箸にも棒にもかからない、忠告、意見を受け付けない頑なな人も存在し、そのなすところは、人を傷付け、人を苦しめ、人を悩ますだけ、と言い切ってもよい程の人が居るのも事実です。

罪を繰り返し、罰を積み重ねるだけの人生であるなら、その人生と、悪しき影響を立ち切るのは、神様の正義であり、罪を繰り返さないようにするのは、神様の愛の、一つの形でしょう。

そして、誰に相談するでもなく、誰の意見を必要ともせず、神様の権威によって、裁きをし、罰を与える事が出来ますが、神様はアブラハムに、友に、ソドムへの裁きの計画を告知されます。

ここで、アブラハムは大きなチャレンジを受ける事になります。

神様の裁きの告知に対して、どのように反応するか、です。

真の友か、真の協力者か。

或いは、追従者(ついしょうしゃ)か、太鼓持ちか、です。

神様が決めた事だから、下手に意見を述べないが良い、君子危うきに近寄らず。

神様に追従しておけば、安全。

それとも、神の友と呼ばれる身分に相応しく、叱責を覚悟して、行動をするか、執り成しをするか、減刑嘆願をするか、です。

そもそも、神様が人間を造られたのは、神様の造られた世界を、仕上げるためです。

造られた物に磨きをかけ、造られた物が、共存し、共栄し、神様の栄光を現すためです。

只、機械的に、被造物の世話をするのではなく、神様に命令された事だけを従属的に黙々とこなせば良いのではなく、主体的に考え、創意工夫し、経験を生かし、時に挑戦があり、試行錯誤の中で、しかし、神様のみこころを常に念頭において、見えない神様に仕えなければなりません。

神様の言われた事を鵜呑みにするのではなく、ロボットのように、文句も言わずに従えば良いのではなく、神様の意を汲み、神様の意を具体化する知恵を働かせ、時に、神様に具申する事も厭わない、そんな人物を求めています。

神様は「イエスマン」、調子良く追従する人物、不承不承従う人物を求めているのではありません。

神様は、意見を言える真の協力者、真の友を求めているのであり、アブラハムに課題を与え、アブラハムが真の協力者か、神の友かを見極めようとされているのです。

アブラハムの使命の対象は、全世界であり、ソドムも例外ではありません。

今は未だ、自分たちの事で手一杯であり、ソドムにまで手が回りませんが、ソドムで行なわれている事に関心を持ち、ソドムに行なわれようとしている事に関わらなければなりません。

傍観者であってはならず、ましてや、追従者であってはならないのです。

世の中に悪が蔓延るのは、それを神様が許されているのは、その出来事を通して、私たちが、どのように対処するかを見ておられるからなのです。

余所の国の、余所の民族の出来事だからと、無関心で居るか、祝福の基としての使命と自覚から、出来る範囲で関わるか。

アブラハムはどうするでしょう。あなたならどうされますか。

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聖書個所:ヨハネ6:2240                    2015-10-11礼拝

説教題:「そのパンを私たちにお与えください」

【導入】

イエス様が5つのパンと2匹の魚を男性の大人だけでも5000人に分けて与えられ、その5000人が満腹し、満足した奇蹟は多くの人々が体験し目撃しました。

イエス様の行なわれた奇蹟の多くは個人的な体験と、多くの目撃者と言うパターンです。

イエス様に病気を癒して頂いた人は奇蹟の個人的体験者であり、それを見ていた大勢の人々は奇蹟の目撃者です。

イエス様の行なわれた奇蹟を個人的に体験した人はイエス様を神の子、神様の遣わされた預言者と認識し、告白しますが、奇蹟の目撃者の全てがイエス様を神の子と認識し、告白するとは限りません。

サタンの力で悪霊を追い出しているとか、人々を惑わしている、騙していると考える人々もいたのです。

しかし、このパンの給食の奇蹟は、1度に男だけで5000人が体験した奇蹟なのであり、女子どもを合わせれば、それ以上の人々が目撃した奇蹟なのです。

食べた人々は奇蹟の体験者、目撃者であり、パンを配った弟子たちもイエス様の行なわれた奇蹟の目撃者であり、体験者であるのです。

共通の体験は非常に有益、貴重です。

個人的な体験は、本人だけの世界の事であり、他人から見たなら、重要ではなく、だからこそ好き勝手な判断、推測をし、イエス様をサタン呼ばわりする事も平気で出来るのです。

しかし、共通体験は貴重な財産です。

誰かに言いがかりをつけられても、複数で立ち向う事が出来ますし、自分だけの体験ではないと言う事は何時までも確信を持ち続ける力となるからです。

一人の力では立ち向かえなくても、複数であれば立ち向かう事ができます。

その意味でも、信仰は個人的な問題ですが、信仰者の集まりはとても重要であり、欠かせない事なのです。

パンの奇蹟はその意味でとても重要です。

一つの奇蹟を、同時に体験したと言う事は連携を強め、共通の話題となり、何時までも忘れられないものとなった事でしょう。

そして、共通の体験があると言う事は、共通の土台、基礎があると言う事で、次の体験が重なって更に強い絆となり、信仰者の群れとなって行くのです。

イエス様はパンの奇蹟を体験した人々に、奇蹟を体験させ目撃させただけではなく、その奇蹟について、パンの意味を悟らせるべく、解説をしてくださいます。

「鉄は熱いうちに打て」のことわざの通り、体験が覚めやらぬうちに、その意味を教える事は大切な事であり、イエス様は機を逸しないように、機会を見つけてお話をなさいます。

その解説、お話は一般群集に向けて、ユダヤ人と記されている指導者グループの人たちに向けて、そして弟子たちの3種類の人々に分けて話されます。

今日のテキストの箇所は、パンの奇蹟に関して群集に向けて語られたイエス様のお話です。

【本論】

6:22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。

6:23 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。

6:24 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。

その翌日とは、パンの奇蹟を行なわれた翌日であると言う事は説明するまでもありません。

パンの奇蹟を体験し、目撃した人々は興奮冷めやらず、イエス様を捜しまわります。

それは26節でイエス様が指摘しているように、真理を求めて、真理を追求するため、ではなく、パンを食べて空腹が満たされ、家に帰って食事する必要がなくなり、続けてイエス様の後に付いて行って、奇蹟を見物したいからにほかありません。

彼らはマルコの福音書82節に「この群集は、もう3日間もわたしといっしょにいて」説明されているように、仕事にも就かず、イエス様に付いて行ったのです。

現代に生きる私たちから見ると、5000人もの人々が仕事もせず働きもせず、イエス様のなさる奇蹟見物のために、ずらずら、だらだら付いて行くなんて想像もできませんが、衣食住は案外、少ないもので充分なのではないでしょうか。

私の友人に内科の医師がいますが、彼が「現代人は食べ過ぎだよ」と言っていました。

確かに3食を食べるのは、極、近代になって固定化した習慣であり、以前は2食、しかも、現代よりももっともっと考えられない程、粗食であり、それで充分だと言うのです。

「パンと魚だけでは栄養バランスが悪い。野菜も取らなきゃビタミンが、繊維質が云々…」と講釈を付けたがる方がいらっしゃるかも知れませんが、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤは野菜と水だけで「彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。(ダニエル1:15)」のです。

テレビや雑誌にはグルメ番組、美味しいお店紹介の記事が満載です。

物珍しい料理や、貴重な食材は食欲をそそり、確かに美味しいでしょうが、私たちの身体に必要か、となると疑問です。

季節に産する食材を、適量に食べるに勝る健康法はないのです。

肉体の健康ために必要なものはそう多くはないのです。

そして、食すると同じように重要、必要なのが、心の健康、魂の健康のための必要です。

パンの奇蹟で物質的な満足を求めて集まって来る群衆にイエス様は大切な真理を教えられます。

6:25 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」

6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

私たちが生きるためには食物が必要です。

霞を食っては生きて行けません。

「武士は食わねど、高楊枝」などと言う精神論で空腹が解消する訳でもありません。

食べ物は必要であり、神様も、イエス様もそれを承知であるからこそ、5000人の空腹、必要を5つのパンと2匹の魚で満たしてくださったのです。

イエス様は私たちの必要はそっち除けで、心の、魂の必要を教えているのではなく、先ず、私たちの必要を満たした上で、同じように必要なものが他にある事を教えてくださっているのです。

それは永遠のいのちに至る生き方をする事であり、そのために働く事です。

それは、生活のために働くのではなく、神様の栄光を現す働きをすると言う事です。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

これは、商売を禁じたり、労働を卑下する教えではなく、神様に直接仕える働きを奨励する事でもありません。

より多くの収入を得ようと法律の隙間を通り抜けるような商売や、取り引きする事を、人を騙して、不利益を隠して商売、取り引きする事を禁じているのであり、「あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。

正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」とレビ記193536節に教えている通りです。

不正に対して不正で応じてはならず、常に、神様の前に正しい判断、決断を心がける。

皆がやっているから自分も、ではなく、損をしても正しいはかりを使うのです。

景気が良くても、悪くても、常に同じスタンスで商売をする。

後天性免疫不全症に対する特効薬の数が少なく、不足している事に乗じて、薬価を不当に高くし、暴利を得る事が正しい事か、神様が喜ぶ商道徳かを問うているのです。

食べてなくなる食物のために、何時か滅びる肉体のために、良心を捨ててしまうのではなく、神様の教えを捨ててしまうのではなく、魂のために、永遠のいのちのために、神様が認める、神様の前に正しい生き方を奨励しているのです。

地上で裕福に、おもしろおかしく暮らしても、永遠のいのちを損じたなら何の得になるでしょう。

イエス様は地上のいのちを長らえるためではなく、天国のいのちを与えるために来られたのであり、誰にでも与えてくださるのです。

そのイエス様の、人々に永遠のいのちを与える働きは、神様が与えた働きであり、委ねられた使命なのであり、それは神様が認証している、保証している事だと、宣言しているのです。

6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」

6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

28節で群集がイエス様に問いかけた「神のわざ」は複数です。

ですから「神のわざの数々」の意味です。

しかし、29節でイエス様が群集の質問に答えた「神のわざ」は単数です。

神様に認められるために、永遠のいのちをいただくために何かたくさんの事をしなければならないのではなく、たった一つ、イエス様を信じる事だけだと、宣言しているのです。

群集は救われるためには、律法を守り、過ぎ越しの祭りと刈り入れの祭りと仮庵の祭りを行ない、罪の贖いのために生贄を献げなければならないと信じて、行なってきたけれども、何か足らないのではないか。

抜けているのではないか、不足しているのではないかと、心配し、ユダヤ人指導者も群集の不安を煽るように、あれをしろ、これを忘れるなと教えますが、神様から遣わされた最高の指導者、間違う事のない指導者イエス様は必要なのはたった一つ、「神が遣わした者」すなわち「イエス様を信じる」事だけだと宣言するのです。

6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。

6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。

6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」

群集はイエス様の単純な、しかし重要な教えに対して、しるしを要求します。

結局、群集は、次から次にしるしを要求するのであり、イエス様の言葉を信じてもいないし、受け入れようともしていないのです。

エジプトを脱出したイスラエル人を、モーセがマナをもって養った過去の歴史の事実を持ち出して、神様から遣わされたと言うならば、モーセ以上の事をしてみろと言っているのです。

神様は直接地上に来られて不思議な事をなさる事もありますが、多くの場合、否、ほとんどの場合、人を遣わしてみこころを行ないます。

まるで、その人に不思議な力があって、不思議な事をしているように見えますが、人には不思議な事をする力はなく、人は神様の力を伝える道具に過ぎないのです。

それなのに群集も、私たちも犯しやすい事ですが、神様を見ないで人を見てしまうのです。

モーセがマナを与えたのではなく、神様が天の窓を開いてマナを与えたのに、良くも悪くも人の働きとして評価してしまう。

神様が遣わし、立ててくださったのに、人を見て判断し、ああだ、こうだと論議する。

モーセに対して不平不満を言うのもその現れです。

人を見れば欠点もあるし、語っている事と、行なっている事とに差があるでしょうし、理想と現実には大きなギャップがあるでしょう。

モーセもサムエルもエリヤも、欠点がなかった訳ではありませんが、それでも神様が立てて、遣わしてくださった預言者なのですから、批判せず100%聴き従わなくてはならないのです。

しかし、ここに偉大な、人間とは比較にならない預言者、神様の子がおられるのです。

モーセは自分の力でマナをイスラエルの民に与えたわけではありません。

しかし、イエス様は5つのパンを天に献げ、祈ってから、5000人に分け与えたのです。

イエス様の持っている力でパンを奇蹟的に増やしたのです。

イエス様がパンを増やす力を持っていることを、群集に見せたのです。

その神の力を持っているイエス様には200%聴き従わなくてはならないのに、聴き従うためにと、更にしるしを要求するのは、神様の子である事を否定している事なのです。

神様が遣わした預言者に聴き従えない者は、神様ご自身が人となって来られても聴き従えないのです。

結局、群集はイエス様が仰る「まことのパン」の意味を理解できずに、なくならないパンを要求します。

サマリヤの女が、いのちの水の意味を理解できず「その水をください」と要求したのと同じです。

人は真理を理解する事ができず、何時までも堂々巡りをしてしまうのです。

そんな愚かな群集を見捨てる事なく、見限る事なく、イエス様は懇切丁寧に真理を解き明かしてくださいます。

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。

6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

ここでのポイントは「来る」と言う事です。

28節で群集が問いかけているように何かをする事ではなく、イエス様の招きに応じてイエス様の下に来る事であり、イエス様の下に来るならば「決して飢えることがなく、決して渇くことが」ないのです。

イエス様の下に来る者を、イエス様は「決して捨て」ず「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」のです。

イエス様は「そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と約束してくださっているのです。

イエス様が私たちを選んでくださったのであり、招いてくださっているのです。

何の条件も付けず、ただで招いてくださっているのです。

わたしたちは信じてイエス様のところに来ればいいのです。

イエス様が群集に訴えられたのは、イエス様だけが与える事の出来る霊的な賜物、永遠のいのちは、イエス様の下に来る全ての者に与えられるのであり、イエス様はそれらの人々を歓迎していると言う事なのです。

【適応】

人々はイエス様に「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」と要求していますが、イエス様が地上に来られたと言う事は、私たちにいのちのパンが与えられたと言う事なのです。

永遠のいのちは何処か遠いところ、手の届かないところにあるのではなく、イエス様のところにあるのであり、イエス様が地上に来られた時から、私たちの目の前にあるのです。

そしてイエス様のところに行けば必ず与えられるのです。

何かをしたり、努力の結果に対して与えられる、と言う事ではありません。

それでは恵みではなく、報酬であり、貰って当然、堂々と請求できるものです。

しかし、永遠のいのちは努力の結果得るものではなく、神様の恵みによって与えられるものであり、イエス様の下に行けば必ず与えられるものなのです。

その意味で34節の群集の願いのように「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」と申し上げるのは正しい事なのですが、群集はパンを物質的なものと考えて、そこから脱出できないでいるのです。

イエス様は「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」と仰っているのであって、飢える事のないパンがあるのではなく、渇く事のない水があるのでもありません。

パンはパンそのものではなく、水は水そのものではないことは明らかです。

いのちのパンも、いのちの水も、イエス様を比喩的に現しているのであり、パンを食べる、水を飲むと言うのは、イエス様を受け入れると言う事なのです。

イエス様を受け入れると、イエス様の義が与えられ、永遠のいのちが手に入ると言う事なのですが、行ないによる義を、生まれた時から教えられ、実行してきたユダヤ人には、このイエス様の教えは簡単に受け入れる事ができません。

現代に生きる私たちも例外ではなく、何もしないで報酬が得られる訳がないと考えます。

努力するから報いられるのであり、努力するから永遠のいのちが与えられる。

人の世界では正しい考えですが、神様の世界では違います。

永遠のいのちはイエス様の招きに応じて、イエス様の下に来た者だけに与えられるものなのです。

イエス様は私たちを選び、招き、信じるようにしてくださっているのです。

全ての人に招待状が贈られており、イエス様は来る者を拒む事はないのです。

私たちが何かをするのではなく、捜すのではなく、見つけだすのではなく、神様が救いも、救いの道も、用意してくださったのであり、私たちはそれを受け取るだけでいいのです。

全ての人がイエス様の救い、永遠のいのちに招かれています。

これはイエス様の願いであり、神様の願い、ご計画です。

感謝して受け取るだけで良いのです。

そうすれば、決して飢える事がなく、決して渇く事がない、決して苦しむ事がなく、決して悲しむ事がない、永遠のいのちを持つことができるのです。

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聖書箇所:創世記18915                 2015-10-4礼拝

説教題:「サラの受胎・出産告知…サラの否定」

【導入】

聖書から、救い主イエス・キリストに至るイスラエルの歴史、ユダヤ人の歴史、アブラハムの生涯を学んでいますが、とんとん拍子に、何の問題もなく子孫が与えられ続けて行った訳ではありません。

アブラハム、サラ夫婦には、老齢になっても子が与えられませんでした。

ユダヤ人は押し並べて多産な民族ですが、全部が全部、多産であった訳ではありません。

医療の発展していなかった時代は、ひ弱な子どもにとって、非常に厳しい生存競争を強いた事でしょう。

生きるだけでも厳しい時代にあって、流浪の旅は更なる患難辛苦を与えた事でしょう。

子どもは欲しい。

しかし、流浪の旅の途中に、野宿の連続と言う生活の中で子どもが与えられたなら、育児は旅の、生活の妨げになってしまうでしょうし、飢饉の時代に、食糧難の時代に子どもが与えられたなら、子どもが生き残る確率は非常に低くなるでしょう。

現代のように、住環境、育児環境、医療状況が整い、経済状態もまあまあでも、受胎、出産、育児は人間の思い通りには行かない、神様が支配される領域でしょう。

妊娠出来ない、妊娠はしたけれども出産に至らない、出産はしたけれども育児の途中で悲しい結果を味わう人々は決して少なくありません。

結婚すれば、自然に妊娠する訳ではありません。

妊娠すれば、自動的に出産に至る訳でもありません。

出産すれば、当然の如くに成長し、大人になる訳でもありません。

全てのタイミングに神様が関与されているのであり、特に、神様に選ばれ、重大な使命を与えられているアブラハム夫婦には、特別な配慮、導き、介入があるのであり、長かった流浪の旅が終りを告げようとしており、財産は増え、使用人、奴隷も与えられ、安定した生活に入ろうとした、その時に、一番相応しい場所で、一番相応しい時に、人間には知り得ない不思議が告知されるのです。

【本論】

18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます」と答えた。

アブラハムの所に立ち寄った旅人は、アブラハムの旧知の友人でもなければ、親戚でもありません。

それなのに、今日の今日まで、今の今まで、全く面識のなかった旅人が、アブラハムの妻の名前を知っている。

何故でしょうか。

6節で、アブラハムはサラにパン菓子を作るようお願いしていますが、その時「サラ!パン菓子を作っておくれ」と叫んだ訳ではありません。

名前を叫びはしなかったでしょうが、遠く離れてはいない天幕の所に急いで戻って、お願いしたのであり、名前を知るチャンスがあったのかもしれません。

また、焼き上がったパン菓子を運んで来た時に、名前を知るチャンスがあったのかもしれないと考えましょうが、パレスチナ、中近東社会では、妻が客人の前に姿を現す事はありません。

それがパレスチナ、中近東社会の習慣であり、客人の前に女性が姿を現すのは礼儀に反する事であり、タブーなのです。

また、アブラハムは三人の旅人の給仕をしていたのですから、世間話の中で、名前を知るチャンスがあったのかも知れません。

しかし、持て成しは、旅人に、自分の事をべらべら喋る事ではなく、旅人に気を使わせず、のんびりとした休息を与える事であり、何かの会話が始まったとしても、聴く事に徹し、何処から来られたのか、何処へ行かれるのか、苦労はなかったか、必要な物がありはしないかを聴き、必要を与える事ではないでしょうか。

即ち、妻の名前を知るチャンスはなかったのです。

それなのに、突然、妻の名前をあげるとは、何とも不思議な事なのではないでしょうか。

これは、この三人の旅人が只者ではない徴(しるし)であり、アブラハムは、畏れと緊張の中で「天幕の中にいます」と答えます。

18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。

10節の最後に「サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた」と記されているのですから、ここで、三人の旅人が、声が聞こえる程の距離に居る、直ぐ傍に居る妻を呼び出さない事に違和感を感じ、妻を呼び、妻に直接告げるべき、と思うのが、聖書を読んでの自然な感想だと思いますが、それは現代に生きる、個人尊重の社会、男女平等の社会に生きる私たちの発想であり、パレスチナ、中近東で女性に直接語りかける事は、告げる事は、パレスチナ、中近東の礼儀に外れる事であり、パレスチナ、中近東ではタブーであるのです。

ですから、アブラハムは「天幕の中にいます」と答えますが、呼びに行かないし、呼んで来ましょうかと訊ねもしないのです。

重要な事でも、本人に直接関わる事でも、夫を介して、男性家族を介して、或いは執事を介して、弟子を介して伝言するのが、意を伝えるのが、パレスチナ、中近東の習慣なのです。

10節の最後に「サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた」と記されていますが、サラは夫アブラハムと、三人の旅人との会話に、聞き耳を立てたようです。

聞く目的を持って立っていたのです。

これは決して褒められる事ではありません。

時には偶然、聞いてしまう事があるでしょうし、見てしまう事があるでしょうが、それは不可抗力であり仕方がない事ですが、盗み聞きは、覗き見は駄目です。

時に、私たちは偶然、重要な話を聞いてしまう事が、意図せずして秘密の話しを聞いてしまう事がありましょう。

そうならない注意が必要ですが、仮に聞いてしまったとしても、その場限りの事にしなければならず、口外は許されません。

軽々しく、面白可笑しく、吹聴するなどもっての外です。

其々の立場で、個人的な内密な話しを聞いたり、相談を受ける事もありましょうが、秘密であるとないとに関わらず、重要か否かの問題でもなく、首を突っ込んではなりませんし、絶対に洩らしてはなりません。

知る必要のない事があるのであり、知らない方が良い事があるのであり、知らなければならない事でさえも、知る時と場所があるのであり、嗅ぎ回り、探り回り、調べ回るのは賢明な行動ではありません。

サラは自分の名前が登場した時、我に返り、緊張し、盗み聞きしていた事を恥じたのではないでしょうか。

三人の旅人の内の一人が、有り得ない事を告げましたが、

18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

この時、関係個所から、アブラハムは99歳、サラは89歳であったと思われますが、普通に考えて、今までの経験からも、人間の出産の常識からも、子どもを産める年齢ではありません。

何より「サラには普通の女にあることがすでに止まっていた」のです。

新共同訳聖書では「月のものがとうになくなっていた」、

口語訳聖書では「女の月のものが、すでに止まっていた」と記され、生理が止まり、即ち、排卵の機能が完全に働かなくなり、妊娠の可能性は全く否定される身体の状態であったのです。

しかも、ここ数ヶ月、の状態ではありません。

すでに」「とうに」であり、日本人の平均閉経年齢は50歳だそうですから、平均として見積もっても約40年を経過しており、サラは自分の身体の状態を誰よりも知っており、絶対妊娠しない確信、自信があり、だからこそ、屈辱を甘んじて受け入れ、女奴隷ハガルの協力を得て、子を得たのであり、何を今更、何で今頃、の思いが強くこみ上げて来たのではないでしょうか。

18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

笑って」…意外な言葉を聞いた驚き故の笑いではなく、「何を馬鹿な事を言っているのか」「何と有り得ない事を語っているのか」との、冷ややかな笑い、皮肉交じりの笑い、苦笑いであり、全くの否定的な反応ゆえの笑いなのです。

以下に述べる男女の違いは、男女の働きの違いであり、優劣を述べている訳ではありませんし、全ての男女に当て嵌まる事でもありません。

男女の違いがあってこそ、助け合えるのであり、支え合えるのであり、バランスが取れるのであり、違いは神様が与えられた特性、賜物です。

女性の多くは現実的です、現実を把握して生きている、現状を知って今を生きている、保守的と言い換えて良いのかもしれません。

安心して住める所、充分な蓄えがなければ、弱い女性は生きて行く事が出来ず、子どもを育てる事が出来ません。

比べて多くの男性は希望的です、可能性に生きている、楽天的、挑戦的と言い換えて良いのかもしれません。

狩にしても、漁にしても、可能性で出かけるのであり、明日は何とかなるだろう、的な、取り敢えずやってみよう、的な、何の根拠もない自信や希望で生きる事が出来ます。

男女揃って楽天的であり、挑戦的であったなら、人類は直ぐに滅びてしまうでしょうし、

男女揃って保守的であったなら、世界に広がる事はなく、バベルの塔、的な裁きを受ける事になるでしょう。

話しを聖書に戻して、現実を直視するサラにとって、89歳という年齢に、生理がないと言う現実に、希望、可能性を見出す事は出来なかったのです。

小さな子どもの「大きくなったらウルトラマンになるの」的な発言に対する大人のにこやかな反応ではなく、誰もが知っている常識を知らないのか、的な蔑みの笑いで応じたのです。

18:13 そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。

18:14 【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

サラの不信仰な、不遜とも言えるような反応に対して、旅人は、パレスチナ、中近東の習慣によって、サラに直接答える事をせず、アブラハムに仰せになられます。

サラの心の中の呟き、声には出していない呟きを、聞かれ、その不信仰を正されますが、叱責ではなく、穏やかな諭しの言葉です。

その中心の言葉は「【主】に不可能なことがあろうか」です。

理屈では解っているし、知識としてはアーメン。

でも、感情では受け入れられず、心からアーメンと言えない事があるのです。

アブラハムに語られた神様の約束

17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

は、サラにも伝えられていたと考えて間違いないでしょう。

何故ならば、名前を変えたのですから、当然、理由が語られたでしょうし、子孫の話しが出たからこそ、中々実子が生まれないからこそ、策を弄し、当時のパレスチナ社会の習慣を取り入れて、エジプト女ハガルによって母となったのです。

知っていた、のです。

にも関わらず、信じられなかったのです。

89歳で子を宿す事が、胎児を育む事が、出産がどんなに大変な仕事かを知っていて、絶対不可能、天地がひっくり返っても、太陽が西から昇っても、有り得ない事と、絶対の自信と確信を持っていたのです。

しかし、子を宿す事は神様の働きであり、胎児を育む事は神様の守りであり、出産の大仕事は、神様の助けであり、天地を造られ、太陽を造られ、人間を造られ、生きとし生ける物を造られた神様にとって、不可能はなく、難しい事もなく、厄介な事もなく、全てが可能なのです。

【主】に不可能なことがあろうか

この言葉は、エレミヤ書3217節、27節、ゼカリヤ書86節、ルカの福音書137節などにも、語られています。

サラは、神様の言葉を受け入れるしかありませんでしたが、笑った事を認めず、頑なに否定します。

18:15 サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

笑ってしまった事ぐらい、気にしないで、認めればいいのに。

しかし、事は簡単では、単純ではありません。

サラの受胎、出産の告知は、ここでが初めてではありません。

先に紹介したように、少なくとも具体的な3回の告知があり、アブラハムに対しては漠然とした告知も含めて、更に多くの告知がなされています。

即ち、突然、告知されて、信じなさいと言われたのではなく、何度も告知があり、信じがたい事を受け入れる備えがあったのであり、その神様の配慮を無視した事が、笑いに繋がったのであり、全能の神様を、人間の知性、可能性の中だけで判断し、有り得ない事と断定した事が、笑いに繋がったのであり、得体の知れない旅人の言葉を信頼出来ず、有り得ない告知に疑いを持ち、神様の遣わしたもう御使いを受け入れなかった事が、笑いに繋がったのであり、笑った事を認める訳には行かなかったのです。

頑なに否定するサラは、何とも頑なで無様、情けない姿ですが、サラの姿は、そのまま、人類の姿なのではないでしょうか。

【適応】 

「あなたは食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問われて、エバの所為にするアダム。

「あなたの弟アベルは何処に居るのか」と問われても、「私は弟の番人ではありません」と白を切るカイン。

保身のために妻を妹だと詐称するアブラハム。

そして「何故…笑うのか」と指摘されても、「笑いませんでした」と神様の言葉を打ち消すサラ。

事実は辛くても、恥ずかしくても、悲しくても、受け入れなければならず、認めなければなりません。

受け入れ、認めてから、次ぎが始まるからなのです。

神様の告知を笑うと言う行為は、神様のご計画を否定する事であり、神様のご計画に関わる事は出来ません。

サラの否定は、神様のご計画の否定であり、このままではサラは子を生む事が出来ず、救い主に至るアブラハムの家系は途絶える事になってしまいますが、神様の主権により、「いや、確かにあなたは笑った」との宣言がなされ、サラが笑った事が確定します。

これが重要なのです。

サラの、神様に対する疑い、即ち、神様に対する不信仰が確定したのであり、サラの罪が確定したのです。

そのプロセスを経て、神様のご計画は進んで行くのです。

些細な事から重大な事まで、人は保身のため、嘘を付き、誤魔化し、言い訳をし、白を切りますが、神様は全てをご存知であり、正しく判断され、間違いなく断定されます。

私たちの自己弁護、反論の如何に関わらず、神様は私たちに「いや、確かにあなたは罪人だ」と宣言します。

自白の有無、罪状認否は関係ありません。

神様は全てを正しく完全に把握しておられ、自白の有無、罪状認否に関わらず、「罪人である」との宣言がなされます。

この宣言は非常に重要です。

でなければ、罪は確定せず、刑の執行は出来ないからです。

罪が確定していなければ、刑の執行は有り得ませんし、減刑嘆願、再審請求も始まりようがありません。

罪が確定するからこそ、減刑嘆願、即ち、イエス様の十字架の贖いに意味が生じ、贖いに与れるのです。

神様は隠れていないで、恐れないで、嘘や誤魔化しをし続けないで、神様の前に出て来る事を、自白を待たれ、罪を認める事を望まれます。

そうすれば、イエス様の贖いに与り、罪の赦しの宣言がなされるのです。

赦されているのに、赦されている事を知らない生涯は、悲しい生涯ではないでしょうか。

皆さんは、神様の前に出て、自分は罪人であると告白し、神様の赦しの宣言を受け、晴れ晴れとした人生を選ばれているでしょうか。

逃げ回り、嘘と誤魔化しの、赦しの宣言を聞かずに恐れおののく人生を選ばれているでしょうか。

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