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聖書箇所:創世記2017                 2015-11-29礼拝

説教題:「これは私の妹です・・・保身のための嘘・パート2」

 副題:「預言者の資質」

【導入】

アブラハムの時代にあっては、多くの人が、生まれた所で育ち、生涯の大半を生まれ育った所で過ごし、生まれ育った所で生涯を閉じ、生まれ育った所に葬られるのが、普通の事でした。

勿論、生まれ育った所を出て行く人々もおり、人間は全地に増え広がって行ったのですが、アブラハムの生涯は波乱万丈と言える程に、変化に富んだ生涯でした。

カルデヤのウルを父と共に出立し、ハランに暫く滞在する事になり、父の死後、ハランを出立し、カナンに向いますが、それはアブラハム75歳の時であったと、聖書に記されています。

長寿な時代にあっても、75歳は晩年であり、落ちついた、安定した生活を望む年頃でしょうが、アブラハムは自分の意思ではなく、神様の命令に従って、慣れ親しんだ土地での、安定した生活を捨て、困難や危険が伴う、行き先を知らされない旅に出て行ったのです。

アブラハムは神様に対する信頼、信仰で旅立ったのですが、飢饉を恐れてエジプトに逃げ、エジプトを恐れて、妻のサラに、「妹だと言ってくれ」と言い含め、積極的ではなかったにしても、妻をエジプト王パロに差し出してしまったのでした。

本当に大きな、取り返しのつかない失敗でしたが、寸前で、神様がご介入され、事無きを得ました。

それは、非常に不愉快な、思い出したくもない失敗ですが、一度や二度の、否、何回繰り返しても懲りずに、再び繰り返してしまうのが、人間なのかも知れません。

神様に見出され、お取り扱いを受け、導かれ、支えられ、助けられ、普段の生活では神様を第一にし、神様のみこころにそった判断が出来ても、イザと言う危急の時には、神様を忘れ、人を恐れ、神様を知らない世の人々と同じような行動を取ってしまう事が如何に多い事でしょうか。

その後、紆余曲折あって、アブラハムはソドムに下された神様の裁きを遠くに眺めつつ、滞在していた「マムレ」を出立し、ゲラルに暫く滞在する事になり、エジプトでと同じような状況に置かれます。

二度目は「エジプトでの経験」を生かした信仰者らしい対応が取れるでしょうか。

【本論】

20:1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、

ネゲブ」は塩の海の西に大きく広がる地域であり、「カデシュ」は「聖別された」と言う意味で、ユダ、パレスチナ南の地にあるオアシスの一つ、「シュル」は「壁」と言う意味で、シナイ半島の北西部の地にあったと思われ、「ゲラル」は「ネゲブ」の北、御使いと出会った「マムレ」の南西にある都市、地域です。

ゲラル」は巻末の地図「12部族に分割されたカナン」で確認出来ますが、「カデシュ」と「シュル」は隊商路に点在する都市の一つとして栄えていたようですが、現代において「ここ」と特定するのは難しいようです。

そして「住みついた」と記されていますが、遊牧民として牧草地を求めて転々と移動しつつ、暫し滞在したのであり、「定住した」の意味ではありません。

地図でアブラハムの足跡を辿る事は出来ませんが、相当の広範囲を移動した事は間違いなさそうです。

普段は草原、荒野での天幕生活。

時々は都市の近くに天幕を張り、町に寄って、家畜を売り、生活必需品を手に入れていた、そんな生活だったのでしょう。

ゲラル」に立ち寄ったのも、滞在したのも、そんな理由でしょう。

しかし、「ゲラル」は他の中小の都市とは違い、大きな都市であり、一帯を支配する王の居城があったようです。

20:2 アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

ゲラルの王アビメレク」に、エジプト王程の勢力、権力は無かったでしょうが、それでも地方豪族の勢力、権力は侮れません。

町を代表する地位にあり、余所者に対しては警戒し、町を守り、人々を守り、財産を守る警察であり、時に裁判を行ない、政治を行なう。

代わりに、税、貢を徴収し、住民を徴用しもするのです。

王と住民は、持ちつ持たれつの関係ですが、アブラハムのような遊牧民は、大勢の使用人を抱え、財産を持ち、勢力があっても、対等ではありませんから、少しでも有利な交渉となるように、穏やかに交渉を進めるために、問題を起さないようにするために、友好的な関係を結ぶために、並々ならぬ工夫や努力を必要とした事でしょう。

その処世術の一つが、有利に立つ方法の一つが、身の安全を確保する方法の一つが、美しい「妹」を利用する事であり、アブラハムは遊牧の旅の何処ででも、この方法を使ったのです。

当時、父や兄が、妹の結婚についての全権を握っており、父や兄の機嫌を損ねない事が結婚交渉の鍵だったのです。

父や兄は、美しい妹のお陰で、厚遇され、有利に交渉に臨め、身の安全も保障されたのです。

とは言え、サラはアブラハムの妻なのですから、「妹」だとの紹介は嘘であり、卑劣な策略と言うべきでしょう。

さて、「アビメレク」は個人名ではなく、称号であり、その支配は世襲であり、王の子が王になりますから、子を持つ事が必須であり、本妻の他に、何人もの側室を持つ事が当たり前でした。

サラが「召し入れ」られたのも、側室としてですが、「使いをやって」礼節を持って「召し入れ」られたのであり、相応の金品が贈られた事でしょう。

20:3 ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」

」と訳されていますが、冠詞が付いており「ある夜」の意味であり、「サラを召し入れ」てから、ある程度の期間が経過しての出来事である事が暗示されます。

地方都市であるとは言え、アビメレクは王様であり、サラは王様の側室になるのですから、それなりの準備の期間が必要だったのでしょう。

その準備の期間に、アビメレクは病気になり、また、アビメレクの妻も、側室も、病気になったようです。

1718節を、単純に不妊症と決め付けてはなりません。

健康であってこそ、妊娠出来るのであり、胎児を育めるのであり、出産出来るのです。

病気は妊娠を阻みますから、

広い意味で不妊を現しているのが、1718節の記述なのでしょう。

しかも、相当な重篤状態であったと、推測されます。

20:4 アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。

アビメレクの告白は、唯一、真の神様を知っている者の、明確な告白ではないでしょうが、神様の公義、主権、正義を、朧げながらに知っていた者の告白と思われます。

唯一、真の神様を知らなくても、各々の人間は「神の形」に造られており、神様に応答する部分を持っており、善悪を弁える事が出来ます。

だからこそ、「ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた」のであり、権力で、強引に、誘拐のようにしてサラを連れ去ったのではないのです。

アビメレクの良心ある、礼節を持ってしての行動を評価して、神様はアビメレクに警告を与えたのであり、アビメレクに唯一、真の神様を知るチャンス、弁解のチャンスを与えたのです。

アビメレクは言葉を続けます。

20:5 彼は私に、『これは私の妹だ』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」

私の妹だ」「私の兄だ」と言ったからこその行動であり、「正しい心と汚れない手」を持っての行動であり、罰せられるような罪を犯してはいない、と弁明するのであり、死を課せられるような非道は行なっていないと主張するのです。

表面的には、この世的には、如何にも正しそうな主張であり、弁明ですが、肉欲が、支配欲が、占有欲が、権力を誇示する思いが見え隠れするではありませんか。

そんな、罪を隠した主張に対して、神様は丁寧な応答をされます。

20:6 神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。

アビメレクの弁明、抗議に対して、言葉を反復し、主張を認められますが、アビメレクの行動を是認した訳ではありません。

病を持って、サラの召し入れを中断せしめたのであり、病は罪に対する罰ではなく、「罪を犯さないように」するためであり、神様の干渉、警告である事が判明します。

私たちは、災いを、罪の結果、と考え勝ちですが、災いは、「罪を犯さないように」するための、神様の業であり、神様の憐れみなのです。

災いに阻まれた時、行動や過去を吟味し、悔い改め、そこで踏み留まるか、災い何するものぞ、と強行突破するか、なのです。

20:7 今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」

預言者」は通常「神様のことばを預かる者」と理解されるのですが、ここでは「あなたのために祈ってくれよう」との働きが述べられているので、「神様と人とを取り次ぐ者」の意味で理解すると良いでしょう。

アブラハムの主たる働きは、「執り成し」であって、ソドムの時も然り、ここでも然りです。

しかし、ソドムでの執り成しと、アビメレクに対する執り成しとでは、大きな違いがあります。

ソドムでの執り成しは、其々が、全く独立した関係においての執り成しであり、高貴な執り成しの祈りでありましたが、アビメレクに対する執り成しは、自分を原因とする、自分で蒔いた種の、後始末であり、何とも情けない祈りではないでしょうか。

アビメレクにしたならば、何で、災いの元となったアブラハムに祝福してもらわなければならないのだ、

冗談じゃあない。

災いから逃れるためには、災いをもたらした者に縋らなければならないとは、何たる不条理であり、屈辱であり、情けなさであり、複雑な心境なのではないでしょうか。

【適応】

しかし、ここで重要なのは「働き」であって「人物」ではないと言う事です。

アブラハムの人間性や主体性、或いは正しさで、世界が祝福され、アビメレクが祝福される訳ではないのです。

アブラハムの働きは、神様の命令によって「世界を祝福する事」であり、神様の命令によって「アビメレクを祝福する事」です。

災いをもたらしたアブラハムから、祝福してもらうなんて、泥棒から恵んでもらうようなものであり、盗まなければ恵んでもらう必要もない訳ですが、アビメレクへの災いは、アビメレクの罪を明らかにするものであり、私たちへの災いは、私たちの罪を明らかにするものであり、神様に引き寄せ、神様の恵みに与る機会をもたらすものです。

二つの働き、即ち、罪を明らかにする働きと、罪人を祝福する働きが、一人の働き人によってもたらされただけであり、働き人は、神様が用いられる道具でしかないのです。

そして、神様は罪ある者を用いて、人の罪を明らかにされ、罪ある者を用いて、罪人を祝福されるのです。

神様は罪ある者の祈りを聞いてくださるのでしょうか。

答えは「はい」です。

何故なら、この世に罪のない者はいないからであり、罪人がお互いの悔い改めのために祈る事も、神様の願い、望みだからです。

罪のない者だけに、執り成しの祈りの働きが委ねられ、御ことばの働きが委ねられ、宣教、牧会の働きが委ねられているのではありません。

もしそうなら、誰も執り成しが出来ず、御ことばの取り次ぎが出来ず、宣教の働きを担えません。

祈りや牧会の働きは、罪人に委ねられているのであり、そこで、振るい分けも行なわれるのです。

人を見る時、何時か、必ず躓きます。素晴らしい働きをする教会にも罪はあり、素晴らしい説教、牧会をする牧師にも罪はあり、お手本となるような素晴らしいクリスチャンにも罪があります。

義人はいないからであり、皆が罪の性質を持ち、罪が必ず表面に出るからです。

欠点や悪癖、と言い換えても良いでしょう。

罪人の集まりである教会にも同じ事がいえます。

しかし、神様を見る時、躓きは決して起こりません。

100円ショップで売っているラジオも、何万円もする受信機も、放送されている内容は同じです。

鮮明か否かの違いはありましょうが、100円ショップのラジオだと、適当に端折っていたり、時々間違っているなんて事はありません。

執り成しの祈りは罪人のアブラハムに、罪人の私たちに委ねられ、全く罪のないイエス様が受け止め、引き受け、神様に執り成してくださいます。

どんな教会にも、どんな牧師にも、どんなクリスチャンにも、罪があり、欠点があり、全な教会なんて、完全な牧師なんて、完全なクリスチャンなんていません。

教会に、牧師に、クリスチャンに期待したならば、必ず躓きます。

教会に、牧師に、クリスチャンに期待するなんて、愚かな事です。

教会を替わっても、牧師を替えても、クリスチャン友人を替えても、神様を見ていないなら、同じ結末に行き着きます。

人を見るのではなく、神様を見なければならず、人に聴くのではなく、神様に聴き従わなければならないのであり、神様を見、神様に従うなら、神様の喜ばれる者となり、神様から祝福を頂けるのです。

ここに居られる皆様が、神様だけを見続け、神様から祝福を受けられますように。

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聖書箇所:創世記193038               2015-11-22礼拝

説教題:「アブラハムの甥ロトの末路」

【導入】

ソドムの堕落は、性的倒錯であり、神様の嫌われる性をもてあそぶ事が公然と行なわれていました。

その背景には、宗教的堕落があり、偶像礼拝や呪術が蔓延り、道徳や倫理は省みられず、偶像に子どもを生け贄に献げる事までしていたのです。

しかも、極一部の人に限られた堕落ではなく、ソドムの町の隅々にまで及び、ソドムの住民の全てが、宗教的に堕落し、性的倒錯に耽っていたのです。

経済的にも文化的にも発展し、物質的にも豊かになり、自由気ままに、何にも拘束される事なく、この世を謳歌していたかも知れませんが、「自由」は無制限に、無秩序に、野放図に、ではありません。

「制限と秩序」を踏まえて、即ち「神様と自分との関係」を考え、或いは「自分と他人との関係」を考え、意識的に、選択的に「する、しない」を決めるのであり、したい放題、野放図が自由なのではありません。

したくても、しないのが、例えば、欲望を押さえ、仕返しをしない生き方であり、やりたくないけど、やるのが、例えば、善行に励み、忍耐し、節制に務める生き方であり、それが真の自由です。

したい放題、野放図は、罪の奴隷であり、そこに自由はなく、人間を造られた神様を悲しませます。

制限、秩序の下での行動にこそ、自由があり、神様を喜ばせる生き方です。

人間は常に、神様に従うか、即ち、他人を思い計って行動するか、他人の事など構わず、自分の考えに従うか、を選択しなければなりませんが、常に神様に従う選択ばかりではなく、時に失敗もしますが、やり直しのチャンスは与えられますし、チャンスは自分で見つける物なのではないでしょうか。

救い出されたロトとその家族の、ツォアルに逃げ込んだ、その後の様子を見てみましょう。

【本論】

19:30 その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。

ツォアル」に逃げ込んだロトと二人の娘ですが、何かを「恐れ」て、ツォアルの町を出て、「山に」「ほら穴に住」みます。

ツォアルに逃げ込んだ当初は、失ったものに対する未練とともに、安堵の気持ちが一杯で、また、新しい環境に馴染むのに精一杯で、ツォアルの実態を知る余裕はなかったでしょうが、暫く経って、落ちついて周囲を見渡せば、ツォアルは安住の地、定住すべき地ではありませんでした。

ツォアルもカナンの地に点在する都市の一つであり、カナンに広く蔓延していた性的放縦、宗教的堕落の影響がツォアルにも及んでおり、広く、深く、強く浸透していたからです。

ソドム程ではないにしても、似たような状況であり、ソドムに下された裁きが、ツォアルに下されない保証はありません。

ソドムに下された裁きは、想像以上の激しさ、恐ろしさであり、あんな恐ろしい目に合うのは金輪際御免、もうコリゴリ、と思うのは自然であり、最初に御使いに示された「」ならば、滅ぼされる事はないのですから、「」に逃げ、「ほら穴」に暫く滞在する事になるのです。

振り返れば、多くの家畜と、多くの使用人を得て、叔父アブラハムと別れたのであり、ソドムの町に立派な門構えの屋敷を得て、そこそこの地位をも得るまでに成功しましたが、今は全ての地位、名誉、財産、不動産を失い、着の身着のまま、家族も娘二人しか残らなかったのであり、惨めな洞穴生活にまで落ちぶれてしまいました。

しかし、命は得たのであり、やり直すチャンスを失った訳ではないのです。

しかし、意気消沈したロトは、やり直しに積極的ではなく、立ち上がろうとせず、自らチャンスを捜そう、掴もうとはしなかったようです。

19:31 そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。

わざわざ人里離れた山の中に入り、社会との交流を断ち、関わりを避け、世捨て人のような生活をしている風変わりな親子に、積極的に関わろうとするような奇特な人間はいません。

多少の興味を持ったにせよ、好意的なものではなく、排他的なものだったのではないでしょうか。

そもそも、ツォアルの町を出たのも、ツォアルの町に受け入れられなかったのも一因なのではないでしょうか。

人間は思う以上に排他的であり、異質なものは受け入れません。

ロトがソドムに受け入れられたのも、ソドム郊外での生活があり、徐々に信頼関係が構築されたからであり、一気に、すんなりと、ではありませんでした。

ツォアルに逃げ込んだ当初は、ソドムからの避難民として多少の同情はあったでしょうが、小さな町であり、好奇の眼が注がれ、邪魔者扱いに変わるのに時間はかかりません。

こんな人間の恐れもあって、町を出ざるを得ず、山に逃げるしかなかったのでしょうから、誰もロトや娘に近づきはしないでしょう。

ユダヤ人は血統、血筋を重要視し、直系の子孫を残す事を最大の使命と考える民族です。

19:32 さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」

19:33 その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

19:34 その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」

19:35 その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。

この提案、選択は、神様の忌み嫌われる「近親相姦」であり、あり得ない提案であり、行動ですが、まだ十戒や律法は示されてはおらず、禁忌規定はありませんでした。

しかし、人間に限らず、数が極少なかった時代には、近親交配しかなかったかも知れませんが、数が充分に増えた時代にあっては、近親交配は自然と避けられるようになっています。

これも、神様のご計画であり、種の中で、遠い関係の交配が、種を維持するのです。

種を越えた交配や、近しい交配は、種を維持する事は出来ません。

ソドムで問題となっているのは、性が弄ばれ、快楽の追求のみになっている事であり、神様が無視され、神の形に造られた人間の尊厳が尊ばれていないからです。

そんな風潮は、子孫を残すと言う大切な働きにも、影響し、子孫を残すためならば、手段は問わない、父と寝る事が、忌まわしいと感じられない程に、良心が麻痺してしまったのでであり、ソドムが少なからず影響していた事は疑いないでしょう。

だからこそ、ソドムに近寄ってはならないのです。

人は切羽詰った時、異常な環境、心理状態に置かれた時、最善の提案、選択と考えて、おぞましい提案を選択してしまう事もあり、

また、熟考する事なく、賛同してしまう事もあるのです。

意見を出し、検討し、反対意見や、別の案を出し、メリット、デメリットを比較検討するのが健全な論議であり、そうあるべきです。

勿論、一案即決の全てが悪い訳ではなく、緊急事態では論議の、検討の余裕はなく、誰かが、提案し、決めるしかないのですが、可能な限り、複数の案を、複数の人間で検討しなければなりません。

31節以降の状況は、差し迫った状況でも、即決しなければならない状況でもありません。

ロトに相談を持ちかけ、ロトの意見を聴かなければなりません。

何故なら、ロトは家長として権限を持っており、一族の行く末についての責任を持っているのですから、一族の命運に関わる判断に対して、娘や息子が、或いは妻や親族が勝手な判断、行動するような事は絶対にあってはならないのです。

相談を投げかけられないような状態でも、頼りにならなくても、相談はしなければならず、相談する事が責任を果たす事なのです。

相談に乗ってくれなくても、間違った判断をしたとしても、責任は家長にあるのであり、娘や家族の為すべき責務は、父に相談する事だけであり、それは神様の秩序であり、神様の喜ばれる事です。

ロトの娘の行動は、神様の喜ばれない行動ですが、子孫を残そうとの切実な思いから出た事であり、単なる欲望や、快楽を求めてではなかった事は明白であり、神様は咎め立てなさいませんでしたが、禍根は残り、後々大きな民族的問題を残す事になってしまいます。

19:36 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。

19:37 姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。

モアブ」の意味は「父により、父によって」であり、モアブ出生の秘密が、直接に表現された名前になってしまっています。

モアブ人は、ヨルダン川の東の高原地帯を支配する事になります。

時代が下って、エジプトを脱出したイスラエルと出合う事になりますが、イスラエルの民は、モアブの娘たちに誘われ、淫らな事をし始め、土着の神々を礼拝し、偶像に献げた生け贄を食す事までし、神様の怒りを受ける事になります。

この事は民数記25章に記されています。

イスラエルに罪を犯させ、呪いを招くのが、モアブの民なのです。

19:38 妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。

ベン・アミ」の意味は「我が肉親の子」であり、間接的な表現ですが、近親者の子である事が表現された名前となっています。

アモン人はモアブの北を支配する事になります。

モアブ人、アモン人ともにアブラハムとの血縁であり、イスラエル民族とは親戚関係にありながら、アブラハムの祝福に関わる事は出来ず、ついには、モアブ人もアモン人も、宗教的にも、性的にも乱れ、イスラエルの歴史上最悪の民族となり、呪われた民族となってしまうのです。

【適応】

本日の説教題を「アブラハムの甥ロトの末路」と、ちょっと悲観的なタイトルにしましたが、悲観的な意味と共に、希望的意味についても考えて見ましょう。

ロトの子孫と、アブラハムの子孫とは、敵対して生きる事になり、申命記233

23:3 アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に、はいることはできない。

23:4 これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えず、あなたをのろうために、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇ったからである。」と、宣言される民族と成り果ててしまいます。

主の集会に入る事が出来ない、と言う宣言には、重い意味があります。

単に集会から締め出される、集会に参加出来ないのではなく、罪の贖いのための生け贄を献げられない、即ち、罪が赦されない、罪人のままでは、主の祝福に与れない、即ち、天国に入る権利が剥奪された、と言う意味であり、永遠の裁きである地獄に落とされる、と宣言されたと同等なのです。

非常に厳しい宣言ですが、「十代目の子孫さえ」であって、「千代に」でも「七を七十倍するまで」でもないのです。

即ち、希望が断たれた訳ではないのです。

神様の願いは、造られた全ての者が救われる事です。

救いを渇望するなら、罪の生活を悔い改め、神様を求めるなら、必ず道は開かれるのです。

別の面でも、希望がしっかり宣言されています。

申命記2章9節

2:9 主は私に仰せられた。モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。

同じく申命記2章19

2:18 「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。

2:19 それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。」

と記されている通り、その支配地は、神様によって保証され、イスラエル人には足の踏む程も与えられてはおらず、「戦いをしかけてはならない」のです。

それは、この世で生き続ける権利が保証されている事の、聖絶される事はない、滅ぼされる事はない、との宣言であり、悔い改めるチャンスがある、と言う事です。

呪われたモアブ人であり、アモン人ですが、モアブの女「ルツ」はボアズの妻となり、オベデ、エッサイ、ダビデと続くイエス様の系図に組み込まれます。

神様の憐れみは、おぞましい選択の中でも、宗教的、性的堕落の中でも断たれる事はなく、細々とではあっても連綿と続き、相応しい人物が起され、重要な働きを担うのです。

失敗を繰り返し、神様に喜ばれない、神様に従う民に相応しくない選択をしてしまうロトとその家族であり、私たちですが、宣言された呪いや、断たれた祝福は、未来永劫に続くものではありません。

宣言された呪いは、イエス様の十字架によって取り除かれ、断たれた祝福は、イエス様の復活によって回復しています。

ロトの末路に待っているのは、罪人である私たちに待っているのは、希望であり、祝福なのです。

連綿と続く歴史、失敗のない歴史が大切、大事なのではなく、悔い改めの歴史が大切、重要なのです。

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聖書箇所:創世記192329               2015-11-15礼拝

説教題:「見てはならない・・・神様の裁き」

【導入】

神様は、人間に、罪を犯し続ける先に待ち受ける恐ろしさを教えるために、ソドムを滅ぼす事を決意なさいます。

神様に背く生き方を続け、他人を顧みず、自分の好き勝手な生き方を改めようとしないなら、この世でも恐ろしい裁きに合い、死後には更に厳しい世界、燃えるゲヘナに投げ込まれ、逃げる事も死ぬ事も出来ずに永遠に苦しむ事が決まっており、神様に背く生き方とは何か、自分の好き勝手な生き方とは何か、そんな生き方を続けているとどうなるか、死後の裁きとは何か、これらの答えが聖書に記されています。

勿論、罪を犯すと、間髪を入れず、裁きが下される訳ではなく、猶予が与えられ、気付きの出来事が起こり、悔い改めのチャンスが与えられますが、人間は忘れ易く、自分には都合良く考え、罪を大目に見、裁きを軽く見積もります。

そこで神様は、罪に対する刑罰の厳しさ、徹底さを教えるために、また、災害、災難が、罪を犯し続ける者に下される事を教えるために、アブラハムに予告した事が、アブラハムの甥ロトに告知した事が、更には裁きを下す直前まで、罪人を救う努力を惜しまれない事が、聖書に記され、私たちへの予告、警告、また励まし、慰め、希望となっているのです。

裁きを免れる者とは、全く罪を犯した事がない者の事ではなく、罪を悲しみ、罪を憎み、罪を離れようと努力している者であり、神様に喜ばれる生き方を目指す者です。

そんな者を、神様が見捨てる訳が、犠牲にする訳がありません。

時間を惜しまずに探し出し、あらゆる手段を使って見つけ出し、どんな犠牲を払っても救い出してくださいます。

救い出されたロトとその家族の、ソドムを出たその直後の様子を見てみましょう。

【本論】

19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。

口語訳聖書ではこの23節を「ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった」と訳しています。

同じ状況の記述であり、どちらの訳でも大差なく感じましょうが、新改訳聖書では「時間経過」を念頭に記され、口語訳聖書では、「人物」が中心の記述であり、口語訳は、神様の関心が「ロト」に置かれている事が明白に読み取れる記述となっています。

重い足取りで逃げるロトの心中を察するならば、ソドムに築いた財産、ソドムに残す資産に対する未練、なかなか踏ん切りが付かず、ソドムを離れる事に躊躇する、ロトの暗い心の現れだと理解出来ましょう。

そして、逃げる事を促し、ロトとその家族の手を取り、誘導する御使いたちの姿が、夜明け前の薄明かりの中に浮かび上がって来ましょう。

太陽が昇る前に、やっとの思いでツォアルに着いたのではなく、ツォアルに着いたので、太陽が昇ったのです。

神様がロトとその家族を守ったのであり、太陽が昇るのを留めていたのではないでしょうか。

神様が太陽を留めた例は、他にも幾つかあります。

ヨシュア記「10:12 主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」

10:13 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。

2列王記「20:11 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。

等、神様にとって、太陽の運行を留めたり、逆走させる事は、不思議な事ではありません。

促されても、ためらっているロトの歩みは、遅々としたものであり、時間だけが刻々と経過し、今にも日が昇り、ソドムが滅ぼされ、その巻き添えを食っても仕方のない状況ですが、神様は最後の最後までロトとその家族を守ってくださったのであり、太陽の昇るのを遅らせる事までしてくださった事を感謝しなければなりません。

19:24 そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、

19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。

ロトとその家族がツォアルに着くや否や、日は昇り、未曾有の災害がソドムとゴモラを襲います。

ソドムとゴモラの関係は申命記2923節に記されていますが、連合国であり、軍事的にも、経済的にも、強い協力関係にあり、交流も非常に盛んだった。

文化的にも、習俗的にも強く影響し合い、ソドムの悪しき影響を強く受け、性的倒錯、淫行に耽っていたのであり、たまたま、近くの都市だったから巻き添えを食ったのではありません。

正しい者が悪い者の巻き添えを食う事はありません。

ゴモラは、ソドムと同じような淫行に耽っていたから、滅ぼされるべくして滅ぼされたのであり、滅ぼされるような事があっても、ソドムの影響なのだから、ソドムが先だろう。

順番ってものがあるだろう。

ソドムが滅ぼされたなら、急いで悔い改めれば間に合うよ、ではありません。

何処が先か後かは、神様がご自身の権威と主権で決められる事柄であり、人間の社会通念を当て嵌めて考えてはならず、人間が口出し出来る事でもないのです。

ソドムとゴモラに降された「硫黄の火」ですが、直訳は「硫黄と、火」であり、火山の噴火による「硫黄、火砕流」ではなさそうです。

近くには火山がないからであり、地質学者の見解も、火山活動については否定的です。

考えられるのは、ガリラヤ湖北に広がるシリヤ砂漠からヨルダン渓谷、シナイ半島東のアカバ湾、紅海、ナイル川上流を経て東アフリカに至る断層地帯の地殻変動、地震の可能性です。

地殻変動、断層のズレにより、大地震が起こり、地面に亀裂が入り、死海地域に豊富に埋蔵されている瀝青や硫黄、石油、天然ガス、塩、が土砂と共に激しく噴出し、激しい噴出によって起こった静電気、雷が、硫黄、石油、天然ガスに引火し、ソドムやゴモラを焼失させる大火災、大災害をもたらしたのではないか、と考えられています。

自然災害ではありますが、神様のご介入によって引き起こされた出来事であり、単なる偶然で起こった災害ではなく、はっきりと目的を持った、裁きとしての災害である事は記憶しておかなければなりません。

自然災害の全てを裁きと断定してはなりませんが、少なくともソドムを見舞った災害は、神様の裁きである事は間違いありません。

19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

ロトとその家族の避難は、一刻を争う緊急事態ではありますが、当時の習慣として、女性は男性の後ろを、しかも、ある程度の距離を保って歩く習慣が根付いていましたし、男性の走りと、女性の走りでは、大きな差が生まれましょうし、更には、促されての、ためらいながらの逃避行であり、逃げようとの気持ちの欠けが大きかったためでしょうか、ロトの妻は最後尾を走る形になってしまい、逃げ遅れそうな心細さ、迫り来る死への恐怖から、また、残して来た財産、資産、生活を懐かしむ気持から、更には、何が起こっているのかを、覗き見たい誘惑に駆られ、そして、ここまで来れば大丈夫だろうとの油断からでしょうか、

御使いの命令、創世記「19:17いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう

との警告に眼を瞑(つむ)り、振り返ってしまい、見てしまいました。

結果は…、記されている通りです。

岩塩の多い地域では、塩の柱の形成その物は珍しい事ではありませんし、噴出物により、生き埋めにされたのかも知れませんが、これは不運にも、逃げ遅れたために災害に巻き込まれてしまったのではなく、御使いの言葉に従わなかったために、塩の柱にされてしまったのであり、神様の主権によって起こった出来事であり、私たちへの警告である事を、記憶として留めておかなければなりません。

19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて【主】の前に立ったあの場所に行った。

あの場所」とは、アブラハムが神様からソドムへの裁きを知らされた場所であり、ソドムの裁きに対する執り成しをした場所です。

アブラハムが寄留していたヘブロンから程遠くない地であり、低地全体を見渡せる地ではありましたが、起伏があって、ソドムを直接見る事は適わなかったでしょうが、遥か遠くに見る事が出来る地です。

ヘブロンとソドムとは60km程離れていますが、地球の大きさから見たならば大きな差ではありません。

ソドムに下された災害の規模は、遠く離れていても解る程の規模であり、

夜明けと共に始まった大地震と噴出物による大火災は、見る者を恐怖と不安に陥れた事でしょう。

19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。

かまど」は、日本で思い浮かべる竈の類ではなく、「焼却炉」のような巨大な炉から、天を覆い尽くすような煙が立ち上る様を思い浮かべると28節の状況に近いかも知れません。

その「立ち上る」「」は、濃厚な、密度、重量感のある、威圧的な煙であり、まるで、地、自体が燃えていると錯覚させるような、圧倒的存在感のある煙であり、「香り」と関連したヘブル語で記されており、神様の前に立ち上る生け贄の香り、煙を彷彿とさせる煙です。

ソドムの罪は、ソドム自身が焼き尽くされて立ち上る煙でしか、償う事が出来ないのです。

19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

ソドムの町は「悪い者」の巣窟であり、ソドムの町そのものは、滅びを免れませんでしたが、僅かに存在した「正しい者」ロトは、救いを得ました。

それは、神様の公義に拠るのであり、御使いの働きによって救い出されました。

アブラハムの執り成しにより、正しい者に相応しい報いを与え、悪い者に相応しい報いを与えるのが、神様の公義である事が、明らかにされました。

悪い者が、執り成しの如何によって赦され、救われる事はありません。

正しい者が悪い者の巻き添えにならないように祈るのであり、正しい者が悪い者の影響を受けないように、誘惑から守られるように祈るのであり、悪い者が悔い改めて、正しい者になるように祈るのです。

【適応】

本日の説教題を「見てはならない…神様の裁き」としましたが、二つに分けて考えて見ましょう。

一つは、神様に従う時、振り返ってはならない、財産名誉など大切なものを棄てなければならない、また、もう大丈夫、と油断してはならない、と言う事です。

ルカの福音書「9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

同じくルカの福音書「14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

マタイの福音書「19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

同じくマタイの福音書「6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

過去は、反省の材料として見るべきであって、懐かしんだり、惜しんだり、未練たらしく思い出すべきではありません。

反省の材料として過去を振り返るならば大いに益はあります。

同じ失敗をしない事に繋がりますし、人を励ます事にも繋がりましょう。

しかし、懐かしんで振り返っても憐憫(れんびん)に耽るだけであり、迷いが生じ、悔の思いが生ずるだけなのではないでしょうか。

しなければ良かった、したら良かった、もっと良く考えれば良かった…

そんなものは何の役にも立ちはしません。

棄てた財産を懐かしんでも、返っては来ませんし、何も生まれては来ません。

しかし、前には希望があり、進むなら希望に近づきます。

後ろには後悔があり、振り向いていたなら進む事が出来ません。

過去を懐かしむのではなく、これから何をすべきか、何を優先させるかを考えなければならないのです。

そして、彼の地に入るまで、油断してはなりません。

ロトたちのゴールはツォアルであり、目の前であってもゴールしてないのですから、油断してはならず、一心に、わき目を振らずに前を見て走り続けなければならないのです。

油断は一瞬にして落伍者にしてしまいます。

次ぎに、見る事を許されていない事がある、見てはならない事がある、或いは、吹聴してはならない事がある、秘密にしておかなければならない事があると言う事です。

何でも見ても良い訳ではありません。何にでも首を突っ込んで良い訳ではありません。

興味を持つ事が悪いと言っているのではなく、分を弁えなければならないのです。

創世記「9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

偶然見てしまった事は、言わば不慮の事でしかたのない事ですが、吹聴するのは、意識的、確信的であり、許される事ではありません。

民数記415節、20

4:15 宿営が進むときは、アロンとその子らが聖なるものと聖所のすべての器具をおおい終わって、その後にケハテ族がはいって来て、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。これらは会見の天幕で、ケハテ族のになうものである。

4:20 彼らがはいって行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである。

聖所のすべての器具」を運ぶ事が任務でも、「聖所のすべての器具」に触れてはならないし、「聖所のすべての器具」を見てもならないのです。

1サムエル記「6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

ペリシテ人に奪われ、野に放置され、後にユダヤ人に返還された「主の箱」ですが、雨曝しになっていても、「主の箱」の中の状態が心配でも、「アロンとその子ら」以外は見てはならないのであり、ましてや、興味本意に「主の箱の中」を見るなどと言うのは論外でしょう。

打たれた「五万七十人」ですが、全員が見た訳ではないでしょう。

しかし、見た人たちは「主の箱」に対して畏怖を持たず、尊厳を認めようとはせず、面白可笑しく吹聴し、揶揄し、笑いの種にしたのではないでしょうか。

そんな不埒な民が、見過ごされる筈がありません。

ソドムに下された裁きは、「聖なる裁き」であり、御使いに見る事を固く禁じられているのですから、興味本意に、好奇心で見てはならないのです。

神様の裁きは、見てはならない事のひとつであり、神秘に属する事であり、許された者だけが見る事が出来、許された者だけが語る事が出来るのです。

ロトはソドムの滅亡を耳で知り、肌で感じたでしょうが、眼で見る事はしませんでした。

世界の祝福の基とされているアブラハムでさえも、ソドムの滅亡は遠くに立ち上る煙と振動で感じただけであり、直接見る事は許されてはいなかったのです。

ましてや…です。

更に、当時、女性は夫に聴くのが最大限の行為であり、立ち振る舞いであり、夫を通して知る事が、夫を介する事が秩序であり、慎ましさであり、分を弁えた美しさであり、自ら知ろうとする事は許されてはいませんでした。

ロトの妻の行為は、神様の命令に反する行為であり、神様の領域に踏み込み、神様の業を覗き込んだのであり、神様に対する恐れや畏怖の欠如であり、夫に対しても、僭越な行為であり、赦される事ではなく、厳しい罰が与えられ、塩の柱とされてしまったのです。

非常に好奇心旺盛な人がいらっしゃいますが、分を超えた好奇心は身を滅ぼす事を知らなければなりません。

神様の憐れみによって、滅びから救い出されても、自制のない所には滅びが待っている事を忘れてはなりません。

自制は難しい事かも知れませんが、美徳であり、秩序であり、神様の定めたもう命令や秩序を尊重する事が、神様の主権を認める事であり、神様の権威を認める事なのであり、神様に従う者の為すべき事なのです。

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聖書箇所:創世記191222                 2015-11-8礼拝

説教題:「正しい者に注がれる神様の憐れみ」

【導入】

世界を見れば、常に様々な災害が起こっています。

自然災害も起これば、人為的な災害も起こっています。

自然災害は防ぎようがない、と考えますが、もとを辿れば、原因は人間の罪にあります。

人間の罪によって自然が破壊され、環境が破壊され、温暖化が進み、砂漠化が進み、神様のご計画の範囲を越えた気候変動となって現れ、50年に一度とか、100年に一度とか表現されるような豪雨、旱魃、巨大台風、熱波、寒波が押し寄せて来ているのです。

地震や噴火も、人間の罪と全く無関係とは言い切れません。

自然と地球は無関係ではないからです。

自然は地球の上に存在し、お互いに関係し合い、影響し合っています。

自然は絶妙なバランスの上に運行されていましたが、人間の罪によってバランスが崩れ、大きな変動を起し、結果、自然が破壊されたのであり、その影響が地球に及んだのであり、その痛みに、地球がのた打ち回っている・・・考え過ぎでしょうか。

人間の罪は、自然のみならず、地球全体にも影響を及ぼしているのであり、災害を通して、広く、人間に警告を与えているのです。

勿論、ある地域で起こった地震や噴火などの原因は、その地に住む人々の罪だ、と言っているのではありません。

しかし、人間は「対岸の火事」を真剣に受け止めようとはしません。

そこで神様は、罪の満ちた地に直接、裁きを下され、後々の人間のための警告とされるのであり、ソドムの顛末が聖書に記されているのです。

ソドムの町は、滅ぼされる事になりますが、正しい者を助け出す計画も進められるのです。

ここで「正しい者」と呼ばれる者は、「全く罪がない者」の意味ではありません。

聖書に「義人はいない、一人もいない」と記されている通りです。

「正しい者」とは、「全く罪がない者」の事ではなく、罪を悲しみ、罪を憎み、罪を離れようと努力している者であり、神様に喜ばれる生き方を目指す者です。

そんな者を、神様が見捨てる訳が、犠牲にする訳がありません。

【本論】

19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。

御使いは、ロトのみならず、ロトの家族をも救い出そうとされます。

あなたの婿」の直訳は「義理の息子」であり、彼らはソドムの住民です。

ソドムの住民は皆、罪人ですから、救いの対象ではない筈です。

ソドムの住民は、警告を受け止めようとはせず、悔い改める事をしなかったが故に、滅びが決定してしまいましたが、ロトの「正しさ」故に、ロトの家族であるが故に、「義理の息子」であっても、救いに招かれ得るのです。

ロトの家族であるが故に、最後のチャンスが与えられるのです。

しかし、チャンスであり、決定ではありません。

後は、ロトを通して与えられる、最後の警告を受け入れるか否か、なのです。

そして、「あなたの婿」が先頭に記されている意味は、最悪の罪人でも救われ得る事を、罪人が、救いの先頭に置かれている事を教えているのであり、裁きの直前でも救われ得るのであり、御使いが遣わされたのは、正に「罪人を招く」ためである、と言う事です。

御使いの唐突な命令「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい」の理由が述べられます。

19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが【主】の前で大きくなったので、【主】はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

ロトの家族に語られた救いのメッセージと、ソドムに語られた滅びのメッセージは、なんと大きな差、大きな違いでしょうか。

ロトの家族と言う理由だけで、何の働きもなく、何の実績もない、ソドムの住民が救われるのであり、ロトの家族に注がれる、神様の憐れみ、慈しみに対して、ソドムと言う理由だけで、勿論、罪を離れない生き方、神様を認めない生き方を続けたからであり、警告を無視し、悔い改めようとしなかったからですが、ソドムの住民のみならず、ソドムの家畜も、ソドムの草木も、ソドムの畑も、ソドムの家も、ソドムの町ごと、根こそぎ滅ぼされるのであり、正に殲滅なのです。

ソドムに注がれる、神様の、罪に対する憎しみ、厳しさは、想像を絶するものです。

ソドムの罪は、全く弁護の余地のない、明白な事実であっても、ここまで厳しい処置が与えられる事に、戦慄を覚えます。

私たちは「罪」を、「罪に対する処罰」を甘く考え勝ちです。

しかし、神様は「義」なるお方であり、「罪」に対する報酬は厳しい裁きであり、「死」「滅び」「殲滅」なのであり、それを明確に宣言なさいます。

19:14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。

冗談のように思われた」を口語訳では「戯むれごとに思えた」と訳しています。

人間中心の社会では、神様不在の社会では、こんなに大きな町ソドムが滅ぼされるなんて、あり得るだろうか、こんなに繁栄しているソドムが滅ぼされるなんて、非現実的な事であり、冗談にしか、戯むれごとにしか思えなかったでしょう。

しかし、「冗談のように思」ったのは、「戯むれごとに思」ったのはロトの婿たちだけではありません。

ロト本人も「冗談のように思」ったのであり、「戯むれごとに思」ったのであり、ソドムの滅びを伝える中にも、一抹の疑いがあり、否定する気持ちがあったからこそ、婿たちも真剣には聴こうとしなかったのでは、受け止めなかったのではないでしょうか。

滅ぼされるような町、ソドムを離れられなかったロトの生き様が少なからず影響していた事は否めないでしょう。

先ずは、自分自身が御使いの、神様の宣言をしっかりと受け止めねばならず、自分自身のものとしてから、人に伝えなければなりません。

御使いの宣言は、神様の宣言は、機械的に伝えれば良い事ではなく、自分自身の言葉として語らなければ、人には伝わらず、また人に影響を与えません。

考え方、基準が変わり、生き方が変わるからこそ、人に影響を与えるのです。

ロトのソドムに対する未練は断ち切れず、裁きに対する疑いは晴れず、神様に対する信頼は揺るぎ、優柔不断な態度は夜明けまで続きます。

19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」

19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

15節では「」され、16節では「ためらっていた」ロトですが、それは、滅びの宣言に対する理解不足であり、危機に対する意識不足でしょう。

婿には忠告しましたが、自分自身はためらっていたのであり、ソドムの町に築いた財産に対する未練があり、婿が聴き入れてくれない事に対する逡巡、そして娘への配慮でしょうが、その背景にあるのは、神様の宣言に対する理解不足、意識不足であり、滅ぼすなんて仰っているけれど、徹底的にじゃあないでしょう、少しは残されるでしょう、と割り引いて考え、今直ぐにじゃあないでしょう、何時かそのうちにでしょう、と先延ばしを期待してしまいます。

しかし、神様の裁きは、中途半端なものではなく、徹底したものであり、何時か遠い未来の事ではなく、今直ぐにです。

猶予はないのであり、決断しなければならず、行動に移さなければなりません。

更に、滅びを免れるためには、棄てなければならない物があるのであり、全てを棄てなければ神様に従う事は出来ません。

この世にも仕え、神様にも仕える事は出来ません。

この世の富を確保しつつ、命を救う事は出来ないのです。

しかし、この世のしがらみ、人間関係、社会との関係は、思う以上に深く、広く、密です。

滅びてしまう婿が可愛そうでも、未亡人になる娘が不憫でも、切り捨てなければならず、将来のために蓄えた財産は大切でも、財産で命を救う事は出来ないのであり、財産も土地も家も棄てなければなりません。

しかし、そうは言っても、分ってはいても、中々決断できない事が多いのであり、時に、強制が必要な時があり、誰かが促してあげなければならない時があり、励ましてあげなければならない時があり、背中を押してあげなければならない時があり、手を引いてあげなければならない時がありますが、それでも、自主性を尊重しなければならず、促しを拒否し、励ましを無視し、背中を押される事を拒み、手を振り払うなら、それ以上の強制は控えるべきでしょう。

お手伝い、警告はしますが、本人が決断し、実行しなければならないのです。

救いは用意され、受け取る事が出来ますが、無理やり押し付けはしないのであり、嫌々ながら従わせるのではないのです。

決断してはいても、実行に踏み切れないロトを、神様は憐れみ、御使いを通して助けの手を伸ばし、ロトの一家を町の外に連れ出します。

19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」

うしろを振り返ってはいけない」を口語訳では「うしろをふりかえって見てはならない」と訳しています。

後ろをふりかえるのは、神様に従う僕に相応しくありません。

急がなければならないのであり、見ている余裕はありません。

過去は断ち切らなければならないのであり、名残惜しく、未練たらしく、何時までも見ていてはなりません。

また、見てはならないもの、見てはならない事があるのであり、神様の業の中には、人間が見る事を許されてはいない事がある事を、わきまえなければなりません。

17節から22節までに「逃げなさい」「逃れなさい」と言う単語が5回も使われています。

滅びが切迫している様子が、非常な緊迫感が、もう猶予が残されていない状況である事が、ひしひしと伝わって来ますが、その御使いの緊迫感にも関わらず、当のロトは何とも間延びした陳腐な受け答えをします。

19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。

19:19 ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。

19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」

全力を傾けて逃げようとはせず、努力する前から、逃げる前から無理と考え、泣き言をとうとうと述べるのです。

このロトの姿は、自分の納得する方法による救いを要求するのもであり、諦め切れないものを諦めさせられた不満、鬱憤、から出た要求であり、精一杯の抵抗、悪あがきなのでしょう。

この世に対する間違った未練であり、この世の持っている悪しき力、吸引力、影響力に、人は抗い得ず、簡単には逃げ出せず、染まってしまうのです。

染まらないためには近寄ってはならず、離れるしかないのです。

ソドムの魅力を棄て切れないロトですが、他人事ではありません。

ある時は信仰的な判断をしながら、ある時には未信者のような応答をするのが、人間なのであり、罪を内在する者の姿なのです。

こんな駄々を捏ねるようなロトを構っている必要はないのに、見捨てられても当然であるのに、神様は、御使いは、ロトの厚顔とも言える要求に対して、あくまでも寛大です。

19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。

19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこに入るまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。

ソドムに対する裁きは決定しており、必ず執行されますが、単なる宿命、運命として受け止めてはなりません。

22節後半は二つに分けて考えなければなりません。

即ち「あなたがあそこに入るまでは」と「わたしは何もできないから」であり、救いが完成するまでは、裁きは行なわれないのです。

裁きは救いの完成に依存しており、救いが完成して後に、裁きが行なわれるのです。

イエス様が十字架の上で死なれた事により、私たちの罪は赦され、天に国籍を持つ者とされているのですが、即ち、救いは完成していますが、最終的な裁きはこれからの事なのです。

【適応】

さて、神様とアブラハムとの約束は、ソドムに10人の正しい者がいたならば、ソドムの町の全住民を赦そう、と言う約束でしたが、逆に言えば、残念にも10人以下であったなら、可愛そうだけれども正しい者も含めて、皆滅ぼす、と言う約束です。

しかし、神様は義なるお方であり、愛に富んだお方です。

公義を行ない、悪い者には報いとして、厳しい罰を与えるお方ですが、正しい者には報いて、救ってくださるお方です。

一億人であろうと、十億人であろうと、悪い者は悪い者として扱い、五人であろうと、一人であろうと、正しい者は正しく扱われるのが、神様の公義であり、憐れみです。

正しい者が悪い者のために不当に扱われる事はありません。

勿論、不当な扱い、厳しい扱いを受ける事がありますが、それは訓練として、与えられるのであって、耐え忍んだ者には栄冠が待っているのです。

少数であろうと、正しい者を正しく扱い、報いてくださるのが、絶体絶命、危機一発の所から助け出し、困難な状況からも救い出してくださるのが、神様の公義であり、憐れみなのです。

更には、最終的な裁き、最後の審判の時までは、正しい者に注がれる憐れみの故に、悪い者にも、何度かの救いと、悔い改めのチャンスがあると言う事です。

ロトの婿は、ソドムの住民であり、ソドムの悪に染まっていましたが、ロトの正しさ故に、ロトの家族だ、と言う理由だけで、滅びを免れるチャンスが与えられたのです。

勿論、一時的な事ではありますが、滅びを免れれば、神様の裁きを目撃する事になるのですから、真の悔い改めにつながるのではないでしょうか。

正しい者を正しく扱う事で、悪い者にも悔い改めのチャンスが与えられるのが、神様の公義なのです。

神様は悪い者であっても、悔い改めて、救われる事を願っておられます。

だから、正しい者の受ける報いを、正しい者のお零れを、悪い者が受ける事があるのです。

正しい者の受ける報いを悪い者に分け与える事によって、悪い者が悔い改めに導かれ、救われる事が、神様の願いなのです。

神様が正しい者の故に、悪い者にもチャンスが与えられ、滅びを延期されている世界ですから、最終的な裁きの時までに、福音が全世界に届くように、家族、友人、知人、見ず知らずの人の救いのために祈ろうではありませんか。

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聖書箇所:創世記19111                 2015-11-1礼拝

説教題:「確定するソドムへの裁き」

【導入】人生には色々と決断しなければならない事があります。

良く調査し、メリット、デメリットを比較検討し、実現可能か不可能かを吟味しますが、不確定要素が多いのが現実の社会であり、調べれば調べる程、検討すればする程、吟味すればする程、迷ってしまい、中々、決断するのは難しい事ですが、このプロセスを経験する事、経験を継承する事が重要であり、同じ失敗を避け、より良い選択をする事に繋がりますが、確たる基準がないと、経験やプロセスは有害な物に成りかねません。

確たる基準があってこそ、経験やプロセスが生かされるのです。

聖書は神様から人間に与えられた確たる基準を教える書であり、合わせて、励まし、慰め、教訓、警告の書であり、生き方を吟味するために、祝福を受け、裁きに遭わないために必要不可欠な書物です。

神様は、何の前触れもなく突然、決定し、即座に実行される訳ではありません。

祝福にしても、裁きにしても、人間にプロセスを知らせ、励ましとし、慰めとし、教訓とし、警告とし、祝福を受ける生き方をするように、教え、裁きを受けない生き方をするように、諭してくださいます。

ソドムへの裁きのプロセスが聖書に記されているのも、私たちへの警告であり、この経験を学び、伝える事で、同じ裁きに合わないようにしなければなりません。

【本論】19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。

アブラハムの持て成しを受けた旅人、神の御使いは、夕暮れにソドムに到着しましたが、

アブラハムが滞在していたと思われるのはヘブロン辺りであり、ヘブロンとソドムは凡そ60km程離れています。

御使いは日中の最中に、普通なら午睡を取るような時間帯に、アブラハムの所に立ち寄ったのであり、アブラハムは御使いを引き止めてから、小麦粉を捏ね、パンを焼き、子牛を調理し、大層な持て成しをしたのですから、御使いがアブラハムと分れたのは、早くても午後3時、或いは4時頃、と考えられます。

そんな時間からソドムに向ったのですが、ヘブロンとソドムは60km程離れていますから、とても、夕暮れまでの数時間で歩ける距離ではありません。

60kmは、大人の足でも15時間はかかります。

どんな方法で60kmを走破したのかには、興味がありましょうが、重要なのは神の御使いがソドムに赴いた事です。

ソドム訪問は、物見遊山の旅ではなく、ソドムの罪を確認する旅ではありますが、重箱の隅を突つくような、粗探しの旅、欠点探しの旅ではなく、10人の正しい者がいるか否かを探る旅であり、良いとこ探しの旅、赦しを目的とした旅です。

御使いはソドムの町に到着しましたが、当時、町には門があり、門には、ちょっとした広場が付いており、取引の場として、社交の場として、また時には裁判の場として、利用されていました。

勿論、取引の場、社交の場、裁判の場が、常設されていた訳ではありません。

必要な時に、必要な人が集まって、取引をし、社交の場として利用し、裁判を開いていたのですが、主要なメンバーは、町の長老、有力者であり、特段の理由がなくても屯(たむろ)して、他愛のないお喋りもしたようですが、主に、情報交換の場、ちょっとした相談の場、ちょっとした連絡の場として利用されており、門を出入りする人物の人品評価などもしていたようで、怪しい人物が入って来ないか、見知らぬ人物が出入りしていないかを見張っていたようです。

アブラハムの甥ロトの、ソドムの町での地位、序列を知る手掛かりはありませんが、門のところにすわっていた」との記述から、ロトはソドムの町に受け入れられ、門に座る事が許されるまでになっていたのであり、ソドムの町の生活に馴染んでいた事が分ります。

「郷に入りては郷に従え」で、調子を合わせていた節がありますが、「朱に交われば紅くなる」のであり、ロトの気付かぬ内に、ソドムの影響は静かに、深く浸透し、ロトを紅くしていた事は否めません。

しかし、悪い者の中に住みながらも、正しい者の性質は残しており、旅人に対する持て成しの思いは、些かも衰えてはおらず、旅人を迎えるために立ち上がり、顔を地に付けての、最上級の敬意を込めた挨拶をするのです。

19:2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」

創世記1312節に記されているところに拠れば、当初、ロトはソドムの町の近くに天幕を張って住んだのであり、ソドムに対して警戒していた節がありましたが、何時の間にか問題の多いソドムの町の中に家を建て、ソドムの町に住み続けていた事が明らかにされます。

アブラハムは今に至るまでも、天幕での、寄留生活でしたが、ロトは家を建てての、定住生活に入っていたのです。

天幕は簡易住居であり、堅固ではなく、暴風雨に曝されれば一たまりもありません。

しかし、天幕は簡単に解体出来、持ち運び出来ますから、寄留者である事の告白であり、何時でも神様の召しに応じて出立する用意がある事を表明するものです。

一方、家を建てての生活は定住者である事の告白であり、そこを拠点にする生活を表明するものです。

神様からの使命は様々であり、寄留者と定住者を比べて、安易に良い悪いを断定してはなりませんが、問題の多い町と分っていて、それでも住み続けるのは考えものです。

特殊な場合を除いて、即ち、神様からの明確な命令がある場合を除いて、問題の多い町には、寄留も定住も、避けなければなりません。

ロトの招待に対して、旅人は広場に泊まるので、とロトの招待を辞退しますが、旅人が、特に遊牧民が野宿をするのは普通の事であり、ロトの招待を辞退したのも、特別な事ではありません。

御使いの目的は、持て成しを受ける事、宿を提供してもらう事ではなく、ソドムの実態を知る事であり、人の出入りの盛んな門での野宿は、目的に適った最適な場所と言えるでしょう。

しかし、ソドムの町の実態を知っているロトは執拗に野宿をしないように、我が家に泊まるようにと説得します。

19:3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。

ロトが執拗に旅人を招待した背後には、第一には、神様との関係において、良心の呵責があった事は確実です。

悪しき町に住む者にとって、良い行い、持て成しは、せめてもの罪滅ぼしであり、良い行いに対する報い、神様からの祝福を期待してであり、また、この後の195節以降に記されている事態を予想し、それを避ける策としての招待であった事でしょう。

ロトがソドムの町の門に座っていた理由の一つは、早い時間帯であったなら、旅人がソドムに立ち寄らないように警告を与えるためであり、遅い時間帯であったなら、我が家に招き入れて保護するためであったのかもしれません。

ロトがソドムを離れずにいたのは、そんな正義感、義務感、責任感からかもしれませんが、ソドムから受ける悪しき影響を考えるなら、自身が離れる事が一番でしょう。

ソドム滞在は、神様から使命として与えられた働きではなく、他人を犠牲にしている訳でもなく、悪に引き寄せられて来る人の責任であり、悪に対して無用心な生き方の結果なのではないでしょうか。

「君子、危うきに近寄らず」が一番なのであり、先ずは自身に適応すべきです。

ロトが執拗に旅人を招待した理由の二つ目は、中近東において、旅人を客人として持て成す事が美徳であり、メンツに関わる事であり、自己満足や、他人からの称賛を期待してでしょう。

ロトがソドムの町に住むようになった時期と、期間は推測でしか言えませんが、ロトは、アブラハムが75歳の時、カランを出立したのであり、ソドム入植までにはエジプトでの滞在などの紆余曲折があったのであり、今日のテキストの時点で、アブラハムは99歳ですから、差し引き24年。

ロトのソドム滞在は、長く見積もっても20年に満たないでしょう。

この20年の歳月は、ロトのソドムでの地位にどんな影響を与えたのでしょうか。

ソドムの町中に、立派な家を持つまでに成功しても、名誉や尊敬はお金では得られません。

新参者が、ソドムの人々に尊敬されるようになるためには、認められるようになるためには、地道な努力があった事は、想像に難くありません。

旅人の持て成しもその一環でしょう。

しかし、神の民は、人の評価を得る事に重きを置いてはなりません。

神様の評価に耐え得る行動をしなければならないのです。

19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。

19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

ソドムはカナンの地にある町の一つですが、そのカナンの地は性的に放縦な土地であり、宗教的にも甚だしい淫行に耽っており、ソドムはその中心的な町であり、最悪の地であったのです。

5節「彼らをよく知りたい」の「知りたい」は性的な意味においてであり、ソドムでは、神様の嫌われる性をもてあそぶ事が当たり前のように行なわれており、ソドム(sodom)と言う地名は、倒錯的な性を現す言葉ソドミー(sodomy)の語源となりました。

そして、そんな淫行が「町の者たち」「ソドムの人々」「若い者から年寄りまで」「すべての人」「町の隅々」にまで及んでいた、と言うのですから更に驚きです。

淫行に対して皆が皆、麻痺し、嫌悪感など微塵もなくなり、神様の裁きなど歯牙にもかけなくなっていたのです。

ソドムの町中の人々が、押し迫る中、

19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。

ロトは、自身の中に残っていた人間的な正義感で、ソドムの人々の前に出て行き、最善を尽くそう、解決を計ろうとします。

ロトの誠実さ、真実さは、大切ですし、貴重ですが、その提案は何とも下劣な提案であり、眉をひそめる内容でした。

19:7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。

19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。

娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

中近東での旅人や客人の持て成しは、美徳であり、持て成しの究極は、保護や援助、匿まいであり、命懸けで保護し、援助し、匿まいます。

現代でも、中近東では助けを求めてやって来た者を匿まうのは当然であり、決して引き渡したりはしません。

ロトの行動は、一番大切なモノを差し出しても、旅人を守ろうとした、称賛されるべき行動だったのでしょうか。

否、ロトの明らかな、恐ろしい失敗です。

旅人を守るためとは言え、自分のメンツのために、娘を犠牲にしようとしたのであり、

娘を単なる手段としか考えない道徳の低さが為した行動でしょう。

その道徳の低さは、ソドムの影響であり、ソドムに近寄った事、ソドムに留まった事、ソドムに馴染んだ事が原因であり、ロトの明らかな、恐ろしい失敗です。

7節の「兄弟たちよ」の呼びかけは、親しみを込めた呼びかけではなく、法的に同等な関係にある事を示す宣言の言葉であり、取り引きを開始するに当っての常套句なのです。

19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

よそ者」の直訳は「寄留する事」であり、ソドムの人々の、ロトに対する評価、見方は、20年近くの交流があっても、門の入り口に座る事が許されるようになっても「よそ者」「寄留者」でしかなかったのです。

ロトの認識は「兄弟たちよ」であり、同等な関係あると思い、立場と権利を確認し、交渉を提案したのですが、ソドムの人々は、ロトを一段も二段も低く見ていたのであり、

それなのに「さばきつかさのようにふるまっている」事を苦々しく思い、積年の鬱憤となっていたのです。

ロトはソドムの町中に住んでいたのであり、ソドムの人々はロトを受け入れていたように見えますが、アブラハムの甥である事が、理由であり、アブラハムにソドムの王や町の財産を取り戻してもらった恩義からの配慮、優遇であり、ロトには何の恩義も義理も、感謝もなく、優遇する理由を持ってはいない事が明らかにされます。

これでは交渉の余地はありません。

聞く耳を持たない者は説得のしようがありません。

頑なな者の心に入り込む事は出来ません。

御使いの命はおろか、ロト自身の命さえも危ぶまれる状況に陥ってしまいました。

19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。

19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。

旅人を守る、助けるつもりが、立場が逆転してしまい、御使いに守られる、助けられる結果となってしまいました。

しかも、御使いは、ソドムの罪と対決したのではなく、扉の内側に退いたのであり、退く事こそ一番の解決策であり、これ以外に方法はないのです。

話せば分る、と説得を試みますが、説得は必ずしも有効な手段ではありません。

同じ言語を使っても、同じ環境に育っても、立場が違えば言葉の意味さえ違ってくるのであり、理解しようとの強い思いがなければ、言葉は空しく響くだけであり、理解どころか、更なる拒絶、反発、反感を煽るだけになってしまうのです。

【適応】御使いのソドム訪問は、事実確認であり、説得でも、交渉でもありませんでした。

説得はロトの「さばきつかさのようにふるまって」来た過去の実績で充分であり、交渉はアブラハムの執り成し、「10人の正しい者がいたならばその町を赦そう」で充分なのです。

ソドムの町の自治や、歩み方、生き方、歴史は尊重しなければなりませんが、堕落を指摘されたならば、堕落とまでは言えなくても、神様に相応しくない点を指摘されたならば、

よそ者」「寄留者」の言葉であっても、傾聴しなければならず、又、耳に痛い忠告であっても、傾聴しなければならず、損失があっても、痛みがあっても、大変な事であっても、メンツに関わる事であっても、止めなければなりません。

古参の多い組織では、教会では、歴史の長い組織、教会では、新参者の声は届き難く、聞かれ難いでしょうが、教団も、教会も、クリスチャン個々人も、その歴史や方針、考え方、生き方を尊重しなければなりませんが、教団も、教会も、クリスチャンも、神様のものであり、キリストのものであり、聖霊に導かれなければならないものである事を忘れてはなりません。

そして、神様は、時に、外部の者を通して、外部の出来事を通して、忠告を与え、神様の喜ばれる道、正しい道に導こうとされますが、よそ者」「寄留者」の言葉として忠告を拒否してしまう事があり得ます。

外部の事として無視し関係性に思いを馳せる事をせず、或いは「対岸の火事」「過去の出来事」として見過ごしてしまう事もあるでしょう。

そんな時、説得を続ける必要はありません。

ロトの忠告を拒絶し、危害を加えるような者には、今更の説得は無意味であり、御使いといえども、説得するのは使命ではありません。

御使いの使命は「事実確認」であり、それ以上でも、以下でもありません。

其々が、与えられた使命を果たすなら、後は、神様の主権に委ねるだけです。

私たちは、忠告を聴く耳を持っているでしょうか。

「対岸の火事」「過去の出来事」から、「よそ者」「寄留者」の言葉から神様の言葉、警告を聴こうとしているでしょうか。

指針である聖書の言葉を真剣に受け止めているでしょうか。

眼を開かれ、耳を開かれたものとして、神様の言葉を聴き逃さず、正しい道を進みましょう。

イエス様の執り成しで、罪を赦され、天に国籍を持つ者とされているのですから。

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