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聖書箇所:創世記2117                 2015-12-27礼拝

説教題:「約束の子、イサク誕生」

【導入】

世の中には豪胆な人、何事にも動じない人、楽天的に考える人もいらっしゃいますし、些細な事にも心配する人、何かにつけ右往左往する人、悲観的に考え易い人もいらっしゃいましょう。 

まあ、両方がバランス良く存在しているのが、世の中でしょうが、楽天的な傾向が強い人でも、思わぬ困難や失敗、予想だにしなかった災害や災難が何度も続くと、悲観的になり、心配性にならざるを得ません。

信仰者にも似たような傾向が見られましょう。

信仰の勇者も、立て続けに問題、困難が襲うならば、弱気に成らざるを得ず、祈り、願いが叶えられない状態が、応えの示されない期間が延々と続くなら、信仰が揺らぐのは仕方のない事なのではないでしょうか。

ましてや、極、普通の信仰者であるならば、困難や失敗、災害や災難に見舞われた時、神様に信頼し切れず、神様に頼るより先に、人間に頼ってしまう事や、人間的な手段に走ってしまう事があるのではないでしょうか。

アブラハムは、神様に見出され、新しい名前を与えられ、多くの財産を与えられ、地方豪族とも互角に闘える実力を与えられ、ソドムのために執り成しをする、これぞ信仰者、との姿を見せますが、自然の猛威に曝されるや、エジプトへ逃げ、エジプトの脅威の前に立たされると、信仰は何処に消えてしまったのか、信仰者の片鱗も見せずに、妻を妹と偽って、自身の身の安全のみを計ろうと画策するのです。

しかも、エジプトでの嘘を、ゲラルでも繰り返し、醜態を見せる、情け無いアブラハムですが、この経験を通してアブラハムは、命は、安全は、また出産は、病は、死は神様のご支配の中にある事を学んだのですが、学んだけれども、真の意味では悟ってはおらず、生き方、行動に生かされず、子を得るために、人間の知恵や風習を取り入れて、イシュマエルをもうけます。

残念な事であり、信仰の失格者との評価を与えられても仕方のない所ですが、神様はアブラハムを退けず、最初の約束から25年が過ぎた時に、機が熟し、約束の子イサク誕生に至るのです。

【本論】

21:1 【主】は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。

人間の感覚では遅いように、遅れているように、忘れてしまったのではないか、と思えますが、全知全能なる神様は、神様の真実さ故に、決して忘れる事はなく、また、不必要に遅らせる事もありません。

遅れているように感じましょうが、忘れられたのではと心配にもなりましょうが、待つ事は必要な事であり、忍耐を学ぶのであり、疑いの思いを押さえて、信仰を試されるのです。

 【主】は、約束されたとおり

 【主】は、仰せられたとおりに」なさいます。

 同じ意味のことばが繰り返されておりますが、単なる重複ではなく、ヘブル語の技巧であり、重要な事実を、表現を変えて繰り返し、強調しているのです。

 この強調のための繰り返しは、2節でも行なわれていますが、「神が…言われたその時期に」であり、偶然でもなく、たまたまでもなく、当然でもなく、

 1814節「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている」との約束の通りであり、仰せられたとおりに、であり、創造者なる神様の御旨、全知全能なる神様のご計画、神様の主権で、

 21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

 のです。

 サラに対する表現も、強調法が使われています。

 サラを顧みて」「サラになさった」のであり、「サラはみごもり」「産んだ」のです。

創造者なる神様の御旨、ご計画、お約束は、時期、人、事物、全てに於いて、寸分違わずその通りになります。

 早まる事もなく、遅れる事もありません。

 決められた時期に、即ち、一年後に、サラが身篭り、産むのであり、ハガルが身篭り、産むのではありません。

 男の子が産まれるのであり、女の子ではありません。

 そして、産まれた男の子に名付けますが、

 21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

創世記1719節で、神様から受けた指示通りです。

 17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」

 神様から与えられた名前「イサク」の意味は「彼は笑う」であり、「笑う」の意味は「苦笑い、揶揄、蔑み」の意味よりも「微笑み、楽しさ、嬉しさ」の意味で理解すると良いでしょう。

 イサクの誕生は、アブラハム、サラにとって、待ちに待った喜びであり、この上ない嬉しさであり、二人の心情、状況にぴったりの名前です。

 現代でも名付けは大変です。

 命名辞典やらを参考に、画数を調べ、苗字との関係を調べ、全体のバランスを考え、色々と工夫するのですが、なかなか、すんなり決まらない事も多いようです。

 名前には子どもに対する、親の篤い思いが込められている訳ですが、神様のアブラハムに対する特別な祝福が、篤い思いが、暖かな眼差しが、イサクの名前に込められているのであり、アブラハムは、イサクを見る度に、イサクの名を口にする度に、神様の眼差しを感じるのであり、そんな祝福された、神様の祝福を日々感じ、確認する生涯が宣言された、と言う事なのです。

 21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。

 この命令は創世記1712節の命令です。

 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も

 聖書は淡々と事実を記述していますが、これは簡単な事ではありません。

 待望の子どもが産まれたのであり、待ちに待った、神様が約束された子どもが産まれたのであり、有頂天になり、我を忘れて神様との約束を忘れてしまって、勝手な名前を付けてしまったとしても、大喜びの中で、時の過ぎるのも忘れてしまって、あっという間に10日も、20日も過ぎてしまっていても仕方のないような状況ですが、アブラハムは名付けにおいても、割礼においても、神様との約束を忘れず、先延ばしにせず、決められた時に、決められた通りにしたのです。

 先走らず、しかし、先延ばしにしない。

 焦らず、しかし、悠長にもしない。

 決められた事を、決められた通りに行なう。

 或いは、決めた事を、決めた通りに行なう、簡単なようで簡単ではありません。

 悪気(わるぎ)はなくとも、忙しさや、困難さを理由に、或いは、経験や慣習を理由に挙げて、勝手な変更をしてしまってはいないでしょうか。

 悪気がないだけに、正しいと思ってやっているので余計に始末が悪いのですが、神様の命令、指示には、命令通りに従うのが、指示通りに行なうのがベストであり、勝手な判断による、先走り、先伸ばし、追加、省略、変更は厳禁です。

どうしてもの時には、神様に伺い、その上で、変更しなければなりません。

皆で決めた事なら、皆で話し合ってから変更しなければならない事は言うまでもありません。

21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

ここには記されていませんが、サラが90歳であった事は周知であり、イサクの誕生が、神様のご介入によってのみ、可能であった事を強調しています。

男性はともかく、女性の出産可能年齢は非常に限定的であり、寿命が幾ら長くても、その生涯の前半の、一定期間しか、妊娠出来ません。

妊娠、出産は、大きなリスク、危険を伴いますし、育児は大きなストレスを伴い、長期に渡る持久力を必要としますから、女性の生涯の中で、ある一定の時期でしか、妊娠、出産出来ないのです。

神様が決められた事であり、人間の生理的な能力、基本的な機能であり、サラの妊娠、出産は、人間一般の能力、機能を逸脱した生理であり、神様のご介入がなければあり得ない、不可能な事なのです。

 21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

6節を、新共同訳聖書は「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう」と訳し、

口語訳聖書は「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」と訳しています。

 ここで「笑う」と訳されている言葉ですが、3節で「イサク」と訳した言葉と同じであり、3節で説明した通りです。

その意味で、新共同訳聖書の訳が、原意を良く伝えていると思います。

アブラハムの時代、聖書の世界では、子どもや子孫は神様からの祝福の大きさを表す指標であり、子どもがいない事は、土地や財産、地位や働きを引き継ぐ者がいない、と言う事であり、神様の祝福から外される、離される、と言う事であり、想像以上の苦痛なのです。

単に、子どもがいないから寂しいとか、残念、なんてものではないのです。

土地や財産を持ち、地位や働きを継続する意味がなくなります。

何としても、何が何でも、子どもを持たなければならず、サラに子どもを産む能力がなければ、奴隷を与えでも、子どもを、と考えました。

何人も妻を持ち、側室を持つのも、子どもを得んがためであり、それは、土地や財産を守り、地位や権力を継承するためであったのです。

子どもが産まれない事は、神様の祝福に与れない、だけでなく、呪われているからだ、とまで考えたのであり、更には、奴隷女ハガルに見下され、二重、三重に苦しみ、笑顔の絶えた人生を歩んで来たサラだったのですが、約束の子を産んで、汚名を返上し、名誉を挽回し、笑顔を回復したのであり、その喜びの言葉が迸り出たのであり、喜びの告白は続きます。

21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

サラの誇らしげな気持ちが伝わって来る告白ではありませんか。

 90歳になって子どもを産むなんて、あり得ない事が起こったのでり、興奮しての告白ですが、単純に感激して、一年前の不信仰な発言を忘れてしまっているのは、残念な事ですし、不信仰な思いと発言に対しての悔い改めと、神様への感謝、讃美がないのが残念です。

失敗は誰にでもあります。

不信仰も誰もが経験する所です。

しかし、その後の対応、対処が大事、大切なのではないでしょうか。

ヨブ記422節以降に記されているヨブの讃美、

ルカの福音書168節以降に記されているザカリヤの讃美などは、大いに参考になるのではないでしょうか。

【適応】 

神様がアブラハムに現れ、子どもを与えるとの約束は、25年の後に、アブラハム100歳、サラ90歳の時に、人生の終盤も終盤、幕引き直前に果たされました。

あり得ない事が起こったのであり、人知を超えた事が、自然の摂理ではあり得ない事が起こったのであり、創造者なる神様のご介入、全知全能の神様なしには考えられない事です。

インターネットで「最高齢出産」と検索してみた所、2008年にインドの女性が70歳で出産した事が、2006年にスペインの女性が66歳で出産した事が、載っていました。

しかし、これは自然妊娠、出産ではなく、第三者からの卵子提供を受けての体外受精での妊娠、出産と言うのが真相です。 

自然な形での妊娠可能な、現実的な年齢は、閉経前でなければならず、出産可能な、現実的な肉体、体力は、個人差があるにしても、90歳と言う老齢のサラに可能性は全くありませんでした。 

しかし、神様がご介入されて、どのような形かは分りませんが、妊娠出来る身体の状態にされたのです。

サラは、創世記1211節に記されているように、見目麗しい容姿、即ち、体力、気力ともに、妊娠できる身体の状態にされていたのであり、この不思議、奇蹟とも言うべき、出来事は、イエス様の誕生に繋がっています。 

真の意味での未婚の女性、処女の妊娠は、あり得ない事であり、自然の摂理では拒絶されますが、自然の摂理を制定され、人間を造られた、創造者なる神様に不可能はなく、全知全能なる神様に矛盾はなく、ご介入しつつも、自然の摂理を最大限尊重され、石から産まれさせるのでもなく、木の股から産まれさせるのでもなく、何もない空間から出現させるのでもなく、聖霊によって、人間から、人間を産まれさせられるのです。 

超高齢出産や処女降誕が、自然の摂理に反する事として拒絶、拒否するなら、サラの妊娠、イサクの出産は肯定出来ない事でしょうし、マリヤの処女懐胎や、イエス様の出産も拒否するしかないでしょう。

しかし、創造者なる神様が、全知全能なる神様がご介入されたのですから、不可能はないとして、受け入れるのが、信仰なのではないでしょうか。 

世の中には、不思議な事や、理解出来ない事が沢山あります。 

その全てが神様による奇蹟と断定するのは早計ですが、私たち人間はすべてを理解出来る、説明出来る、説明出来ない事は起こり得ないし、からくりがある、と断定するのは狭量過ぎ、独断過ぎるのではないでしょうか。 

信仰的な考え方ではありません。 

今、世界は終末に向っていますが、終末なんか絵空事と思う人もいれば、現実になると考える人もいます。

神様なんかいないと考える人もいれば、神様はいらっしゃると考える人もいます。

どちらが正しいか、科学的手法で証明できませんが、科学は万能ではなく、科学的な手法で証明出来ないから、神様はいない、終末はない、とは結論出来ません。

科学は有限なもの、実在する物質などしか扱えません。

科学で無限なもの、空間、時間、未来などは扱えません。

そして、神様は正に、無限のお方であり、時間や空間を超越したお方であり、未来をも支配されるお方であり、科学で扱えるお方ではありません。

信仰は、神様は科学的な手法で証明する、扱う事ではなく、信仰は、神様は心で信じるものであり、信じるならば、不妊の女と呼ばれても、90歳の女性でも、妊娠するのであり、約束の子が産まれるのであり、信じるならば、処女でも、妊娠するのであり、約束の神の御子、救い主イエス様が産まれるのです。

重大な事象の前には、小さな予象があり、小さな予象の対処が、大きな事象の対処を決定付けます。

90歳の女性の自然妊娠出産を信じるか、否かは、処女降誕を信じるか、否かの、神の御子、救い主の誕生を信じるか、否かの試金石です。

神の御子、救い主イエス様は、終末と、終末に行なわれる裁きと一体であり、神の御子、救い主イエス様を信じるなら、終末における最後の審判で、無罪を宣告されます。

神の御子、救い主イエス様を信じて、終末の審判に備えた生涯を歩もうではありませんか。

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聖書箇所:マタイの福音書2112            2015-12-20礼拝

説教題:「救い主イエス・キリストを礼拝する人々」

【導入】

クリスマスを迎え、四本の蝋燭に火が灯されました。

クリスマスは、新キリスト教辞典によれば、イエス・キリストの降誕を祝う大祝日。

クリスマスという言葉はキリストのミサ(キリストの祭)を意味している。

プロテスタントやローマカトリック教会のほとんどは1225日を、東方教会やアルメニア教会は1225日あるいは16日を降誕日として守っている。

イエス・キリストの降誕日が1225日と決められた経緯に関しては諸説あるが、その中でも信頼すべき記録の中で最も初期のものは、336年のローマの行事を記しているフィロカルスの暦(Philocalian Calendar)である。

その中には「1225日に,キリストはユダヤのベツレヘムでお生れになった」と書かれている。

次に,ドイツの歴史家モムゼン(TMommsen18171903年)が、354年のローマの歴史家の筆になるものを発見した。

その中には「キリスト後の第1年,カイザルとパウルス執政官任期中,主イエス・キリストは1225日金曜日,新月の第15日に生れたもうた」と書かれている。

東方教会において降誕日を16日に守っているのは、キリストの誕生、東方の博士たちの賛歌、そしてヨハネによるキリストの受洗等を一緒に記念するところに由来すると言ってよい。 

次に、降誕日が1225日であることと異教の習慣との関係について触れてみたい。

ペルシヤに起源を有するミトラ教の影響を受けていたローマは、ミトラ教の太陽神崇拝からくる「太陽の復帰を画する日」としての冬至(1225日)の祭を広く祝っていた。

その日は「太陽の誕生日」と見なされていた。

この異教徒の習慣がやがてクリスチャンにとって霊的な意味の「真の(義の)太陽」の誕生としてイエス・キリストの降誕に結び付けられ、伝統的に守られていったと考えられる。

もう一つは、1217日から7日間収穫祭として祝われた、古代ローマの農業神サトゥルヌスの祭典サトゥルナリア(Saturnalia)との関係である。

陽気に歌ったり踊ったりして、子供たちにプレゼントを与えて収穫を喜ぶこの習慣が、季節的にもイエス・キリストの降誕日と同じであるために、クリスマスの祝いの中に取り込まれていったと考えられる。

諸説の真偽はともかく、救い主イエス様が御生まれになった事は事実であり、聖書に記された預言の成就であり、預言を知っている者には、知らされた者には、期待される行動があるのではないでしょうか。

【本論】

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。

ヘロデ王」はエドム人、イドマヤ人であり、ローマ帝国元老院に取り入り、ハスモン家の内紛に乗じて、ユダヤ地方の王の地位を手に入れ、エルサレムに着任しました。

その在位は紀元前37年から紀元前4年であり、33年間ユダヤを支配しました。

エルサレム神殿を建てるなどして、ユダヤ人の歓心を買いもしましたが、非常に猜疑心が強く、地位を脅かす疑いがあれば、妻子といえども処刑した程であり、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚であるほうが安全だ」と言われる程であり、権謀術策に長けた切れ者であり、一癖も二癖もある人物なのです。

ベツレヘム」はエルサレムの南8km程の所にある寒村です。

ベツレヘム」の意味は「パンの家」であり、5節に記されているように、預言の成就であると共に、「パン」はイエス様ご自身を現しており、イエス様が誕生するに相応しい村と言えるでしょう。

ヘロデ王の住むエルサレムとは、眼と鼻の距離ですが、一方は大都市、もう一方は寂れた寒村ですから、「ユダヤ人の王」を捜すなら、大都市エルサレムに行くのが当然の事でしょう。

ユダヤ人の王を探し尋ねて来たのは「東方の博士たち」でした。

新共同訳聖書では「占星術の学者たち」と訳していますが、夢を解き明かし、星の運行で占いをする人々であり、占星術の発達していたバビロニア周辺から来た人とも、或いは贈り物から推測してアラビア周辺の人とも、ペルシャ辺りから来た人とも考えられますが、断定は出来ません。

しかし、当代切っての知識人、賢者であった事は間違いありません。

真理を探求する人々であり、真理のために犠牲を惜しまず、危険をも顧みない人々であり、数千km、数ヶ月の旅を厭わなかった人々であり、その熱意、熱心に対して、神様が導かれないはずはありません。

星に導かれ、エルサレムに到着し、ヘロデ王に謁見する運びとなります。

この事からも「東方の博士たち」が一介の知識人ではなく、高位の学者であった事が推測されましょう。

2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

何の予備知識もなくては、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」との言葉は発せられないでしょう。

常日頃の星の研究と、ユダヤ人の伝承、即ち、ユダヤ人がアッシリヤ、バビロンに捕囚として滞在していた時に、捕囚の民から伝えられた伝承とが合致し、ユダヤ人の王が生まれたとの確信を得て、遥々エルサレムに来たのでしょう。

2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。

ヘロデ王の恐れと、ユダヤ人の恐れとは異質のものです。

ヘロデ王の恐れは、王位を脅かす者の出現、存在に対する恐れです。

先に申し上げたように、ヘロデ王は猜疑心の強い人でありますが、ユダヤ人の歓心を買う事にも熱心であり、必然的にユダヤの伝承にも精通していたであろうし、メシヤに付いての知識も持ち合わせていたであろう、と推測するのは自然であり、4節で側近、相談役に問い質したのではなく、「民の祭司長たち、学者たちをみな集めて」問い質したのであり、「ユダヤ人の王はどこで生まれるのか」と問い質したのではなく、

キリストはどこで生まれるのかと問いただした」事からも確実です。

遥か東方の博士たちの出現と、その告げた言葉により、

ヘロデ王は、約束されたキリスト、メシアが出現したと確信したのであり、

ユダヤ人の蜂起、革命を予想し、ヘロデ王家が覆される事を危惧し、恐れたのです。

一方、民衆の恐れは、ヘロデ王に対する恐れであり、猜疑心の強いヘロデ王が取る残忍な処置、恐怖政策に対する恐れです。

事実、マタイの福音書216節には、

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである

と記されているのであり、推定、推測で、確実な根拠もなく、皆殺しにしたのであり、匿った者も、逃がした者も、手助けした者も処罰された事でしょう。

ユダヤ人の王の誕生の事実を知ったヘロデ王は、対策を取るべく、平静を装い、

2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。

祭司長たち」は、大祭司、その一族、歴代の祭司、であり、「学者たち」は、律法学者であり、指導的地位にある者の全員が召集されたのであり、ヘロデ王の内心の動揺、恐れが伝わって来るではありませんか。

2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。

2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」

祭司長たち、学者たちは明確に答えを出します。

5節はミカ書52

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る

からの引用です。

祭司長たち、学者たちは、明確に答えを出し、その根拠を的確に提示しますが、キリストの誕生に興味を示し、関心を起した様子は記されていません。

祭司長たち、学者たちは、キリストを必要とは考えていなかったのであり、キリストを必要とするのは、迷える民衆であり、愚かな民衆であり、律法を守る事と、神殿での祭儀に最大の関心を払い、努力をして来た宗教指導者ならば、救われるのは当然と考えていたのです。

ここまでに3種類の人が登場しました。

1は、東方の博士たちであり、異邦人であり、聖書を知らず、真の神様を知らない民であり、呪われた民と考えられていましたが、真理を追究し続け、真理を探し求めて旅立ち、キリストに導かれ、この後、キリストを礼拝する恵みに浴します。

2は、ヘロデ王であり、ユダヤ人ではありませんが、ユダヤ地方を支配した関係で、ユダヤの伝承にも精通し、真の神様を知り得る立場にあり、神様を礼拝するチャンスに置かれながら、そのチャンスを棄て、自己中心に生き続け、キリストを抹殺しようとします。

3は、宗教指導者たちであり、聖書を知り、真の神様を知る人々でありながら、真の神様の下へと行こうとはしませんでした。

自分たちは「義人」であると思い込み、救いを、赦しを必要とは考えなかった人々であり、伝統や儀式に縋り、キリストを求める事はなかったのです。

この中で、誰が神様に受け入れられる民であるかは、説明するまでもないでしょう。

2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。

2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

ヘロデ王の猜疑心の強さ、陰険さは周知の事であり、見え透いた嘘を、側近に知られないために、祭司長たち、学者たちに悟られないように、東方の博士だけを身近に呼び寄せ、如何にも敬虔そうに装い、真摯に神様を求めるかのように振舞い、幼子の年齢を聞き出し、居場所を調べて教えるように頼みます。

事情を知らない博士らは、ヘロデ王の悪意、殺意を見抜けず、その策略に気付かず、帰路に情報提供する事を約束し、ベツレヘムに旅立ちます。

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。

2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

星に導かれるとは、不思議な事です。

この「」に付いては諸説あり、木星、或いは土星、又は火星であるとか、ハレー彗星であるとか、星の爆発、超新星であるとか、言われていますが、確定的な事は言えません。

しかし、「先導し」「進んで行き」「とどまった」と記されており、博士たちを旅立たせ、方向を過たずに、ベツレヘムまで導いたのであり、更に、小さな村とはいえ、ユダヤ人は多産であり、一軒一軒は離れており、そこを訊ね、捜すのは大変です。

星の動きが、神様のお働きの現れであった事は間違いありません。

2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

先にマタイの福音書216節を引用しましたが、この記事からイエス様は2歳位であったと推定されます。

生まれて直ぐは、家畜と共に過ごされましたが、今はベツレヘムの村の中にある、家に住んで居られたのですが、貧しいヨセフ、マリアであり、粗末な住まいであり、質素な身なりの幼子ですが、東方の博士らは、幼子やマリアの質素な身なりや、粗末な住まいに惑わされず、幼子に単なる、神々しさ、神秘さ、高貴さを見たのではなく、幼子の中に凛として存在する神性を見抜いて、幼子にひれ伏し、幼子に礼拝し、幼子に献げ物を献げます。

献げられた「黄金、乳香、没薬」に意味を見出そうと試み、それはそれで意味がありましょうが、最高の物を用意、準備して来たのであり、最高の物を献げたのであり、それを第1としなければなりません。

単に高貴な方に対する贈り物ではなく、神様に献げる物を、準備し、献げたのです。

決まりきった物であっても、心から献げなければならず、最高の物を、心を込めて献げるのが、何より大切です。

そんな思いの込められた献げ物を準備すべきであり、献げるべきです。

2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

東方の博士らは、ヘロデ王の策略に気付いたのでも、誰かから教えられたのでもなく、神様から戒めを受け、ヘロデ王の下へは戻らず、喜びに満たされて母国に帰って行きます。

旅立つまでの準備や手続きは大変だったでしょうし、幼子の下に辿りつくまでの困難、苦労も並大抵ではなかったでしょう。

数千kmの旅、数ヶ月に及ぶ旅は、今日では考えられない危険な旅であり、死を覚悟しなければなりません。

それ程の犠牲を払う旅であり、死を覚悟の上での旅であり、

目的を達した喜びは筆舌に尽くしがたい喜びであった事でしょう。

【適応】

比べて、私たちの礼拝は、如何でしょうか。

異国の、異邦人の、異教の民が、ひょんな事から、救い主の誕生を知り、無視する事も、先延ばしにする事も出来たのに、何の強制もないのに、命令もないのに旅立ったのです。

数ヶ月を留守にするのであり、命の保証もないのであり、何の得も、利益もありません。

知ったから、行く、礼拝すべき方がおられるから、行く、この単純さこそ、第一歩であり、行ったからこそ、救い主と出会えたのではないでしょうか。

預言を知り、星の運行を調べ、救い主の居場所を知っても、行かなければ会えないのです。

あの村に居る、あの家に居る、あの部屋に居る、と分っても、知っても、行かなければ会えません。

何も出来ない幼子であり、何をしてもらう訳でもない、素晴らしい教えを聴く訳でも、相談に乗ってもらう訳でも、癒してもらう訳でもない、でも会いに行く、会いたい、これが第二歩目でしょう。

そして、会ったからには、礼拝するのですが、礼拝の対象が明確である事が重要です。

何を礼拝しているのかが分らなくては、礼拝の意味は半減しましょう。

勝手な想像を描いては、期待を投影させてはなりません。

救い主を礼拝するのであり、ご利益を願うのでも、無病息災、満願成就を願うのでもありません。

救い主を、神様であると言う事だけで、礼拝するのです。

人間に与えられた唯一の礼拝の対象が神様だから、その神様を礼拝するのです。

形式や伝統は重要ではありませんが、神様を礼拝するために整えられなければならず、そのために形式があり、伝統があるのであり、補助的な役割である事を忘れてはなりません。

一人一人が心からの礼拝を献げる事が重要です。

これが第三歩目であり、第四歩目は、献げ物を献げる事です。

礼拝の重要な部分は、生け贄を献げる事であり、生け贄を殺す事で罪の贖いとするのですから、礼拝イコール生け贄であり、献げ物のない礼拝はあり得ない事になります。

勿論、現代の私たちは、生け贄によって罪を贖うのではなく、イエス様の肉と血により、贖われていますが、献げ物が不用になった訳ではありません。

献げ物は、礼拝の恵みに与れた事に対する感謝であり、守りと導きに対する感謝であり、献身の現れですから、大いに喜んで、せい一杯を、最も大切なモノを献げなければなりません。

東方の博士らは、遠路旅立ち、幼子に出会い、幼子を礼拝し、幼子に献げました。

こんな礼拝を神様は受け入れられ、だからこそ、博士らは「この上もなく喜んだ」のです。

忙しい現代であり、個人の事情があり、家庭の事情があり、仕事の事情があり、教会から遠く離れた所に住んでおり、教会に行くのは簡単な事ではありません。

そして、折角行ったのだから、何か恵まれて帰りたい、払った犠牲に見合う、行って良かったと思えるモノが欲しい、と考えましょうが、そもそも教会は、イエス様と出会う所であり、イエス様を礼拝する所であり、イエス様に献げモノをする所です。

更に言えば、神様が罪人を、汚れた者を、招いて下さっているのですから、行かない訳には行かないのではないでしょうか。

利益があるから礼拝に行くのでも、静まるために、行き方を吟味するために、整えられるために礼拝に出るのでもありません。

礼拝を通して、神様と出会うのであり、必然的に静まらなければならず、副次的に行き方を吟味せざるを得ず、整えられるのであり、整えられる事などが目的ではありませんが、補助的なモノとして、聖書の朗読があり、説教があり、讃美があり、祈りがあるのです。

イエス・キリストを礼拝すると言いながら、教会が自己実現の場であったり、自己表現の場であったり、交わりの場であったり、楽しさを求める場となっていないでしょうか。

イエス様に対する態度は如何でしょうか。

東方の博士たちのような、真摯な信仰者の姿でしょうか。

ヘロデのような、礼拝者を装う姿でしょうか。

宗教指導者たちのような、冷めた、蔑みの、傍観者の姿でしょうか。

教会での礼拝が、私たち一人一人の礼拝が、本来の目的、イエス様に出会う場、イエス様を礼拝する場、イエス様に献げる場、となっているでしょうか。

神様を喜び、神様に喜び、神様の喜ぶ真の礼拝者たらん事を願い、祈ります。

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聖書箇所:マタイの福音書11825            2015-12-13礼拝

説教題:「救い主イエス・キリストの誕生」

【導入】

アドベント第三週を迎え、三本の蝋燭に火が灯されました。

アドベント、待降節は、救い主イエス・キリストの誕生を祝う、キリスト教社会での一大イベントですが、ユダヤ人社会、ユダヤ教社会でも救い主の誕生は待ち望まれ、今か今かと待ち焦がれていまして、それは、今に続いています。

何故ならば、ユダヤ人社会では、ユダヤ教では、イエス・キリスト様を救い主とは認めていないからであり、ですから、今も、救い主の来られるのを祈りながら待っているのです。

イエス様はユダヤ人の両親から生まれ、ユダヤ社会で育ち、ユダヤ教の教師として活動され、ユダヤの地で、様々な奇蹟を行なわれたのですが、ユダヤ人は、救い主とは、即ち「メシヤ」「キリスト」とは認めなかったのであり、十字架に掛けてしまいました。

イエス様を救い主と認めるか、イエス様を救い主と認めないか、この違いは何処から生まれるのでしょうか。

聖書理解の違い、神観の違い、即ち、人間の知恵の限界であり、信仰の差、なのではないでしょうか。

理解出来る事だけを、記されている事だけを、しかも字義通りに受け入れるのは信仰ではありません。

理解出来ない事や、不思議な事を、事細かには記されていない事を受け入れるのが信仰であり、文字としては記されていない事を、神様を信じて受け入れるのが信仰です。

救い主イエス・キリストの誕生の経緯は、二度と起こらない稀有な出来事であり、到底人間の知恵では理解も、説明も出来ない事であり、聖書を読むだけで何の疑問もなく受け入れられる事でもありません。

しかし、聖書を頼りにし、神様に信頼し、聖霊様に導かれるなら、受け入れる事は可能です。

多くの人々が受け入れられず、拒絶する存在。

しかし、一方で、多くの人々が受け入れる、不思議な存在、私たちの救い主イエス・キリストの誕生秘話を、共に見て行きましょう。

【本論】

1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

マリヤはヨセフの妻と決まっていた」と記されていますが、これは婚約していた事以上の深い意味を持っています。

ユダヤ社会での婚約は、結婚と同等に見なされ、責任と義務が生じ、婚約者が天に召されれば、残った人は未亡人となり、

婚約者であっても、正式な結婚の手続きの前に性的関係を結ぶ事は許されず、結婚式まで、お互いに貞節を守らなければならず、

婚約者以外と性的関係を結べば、姦淫罪が適応され、厳しい処罰を受ける事になります。

合意の上であれば、男女共に、石打の刑に処せられ、死を与えられますし、襲われたのであれば、襲った男だけが石打の刑に処せられる事になります。

もし、婚約を解消するような事になれば、離婚の手続きを必要とし、離婚歴を持つ身となります。

婚約期間は凡そ一年に及び、様々な準備が進められるのであり、一年の婚約期間中に、人品評価がなされ、相互理解が深められ、本人も、家族も、所属する地域社会も、整えられて行くのであり、

結婚は本人同士の問題ではなく、家族と地域社会に認められなければならず、受け入れられなければならず、結婚はそれだけ、周到な準備が必要だ、と言う事なのです。

しかし、婚約はあくまで婚約であり、結婚ではありませんから、性的関係を結んではならないのですが、何とした事か「ふたりがまだいっしょにならないうちに」即ち、正式な結婚の手続きを踏む前に、マリヤが妊娠した事が判明してしまいます。

聖書の読者は「聖霊によって身重になったこと」を知らされていますが、当時の人々には知らされてはいなかったのですから、一般常識として、神様が造られた動物繁殖の摂理として、妊娠は男女の性的関係でしか起こり得ない事ですから、婚前交渉があったか、姦淫があったかの何れですから、これは一大事です。

1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

正しい人」の意味は、ルカの福音書16

1:6 神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた」であり、ヨセフは、敬虔なユダヤ人であり、ユダヤの律法を重んじ、誠実に、正直に生きて来た人物である、と紹介されているのです。

それは、律法を広く、深く、良く知っていた事を暗示し、律法の適応においても正しかった事を示唆します。

その律法の中に、マリヤのような状況、状態の女性、即ち、婚約期間中に、処女でない事が判明した女性との、結婚を禁ずる規定があり、ヨセフはその律法に従う決意をしたのですが、行なうに当って幾つかの方法がありましょう。

一つは、公にする事、公表する事、即ち表沙汰にする事であり、関係者のみならず、無関係な人も、誰でもが知り得るように公開するのであり、好奇の眼に曝されるのは、恰好の餌食にされるのは必至です。

しかし、利点もあり、警告となり、同じ事態の再発を防ぐ有効な手段ともなりましょう。

テモテの手紙第1、520節に「5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。」と記されている通りです。

もう一つは、内密にする事、秘密裏に処置する事です。

これはなかった事にする事でも、隠す事でもありません。

最小限の関係者だけに留めて、極、限られた関係者だけで処置を行ないます。

この処置の利点は、不要な混乱が避けられる事であり、何より、憐れみのわざである、と言う事です。

正義は行なわなければなりませんが、同時に憐れみにも考慮、配慮しなければなりません。

正義の行動、判決だからと、無慈悲な裁定を下してはならないのです。

裁定によって与えられる罰の目指すところは、罪を悔い改めるためであり、罪を繰り返さないためである事を忘れてはなりません。

ですから、罪の大きさを自覚する、再犯を躊躇(ためら)う罰を与えつつ、可能な限り、憐れみ深い裁定を下し、再起を促さなければなりません。

この配慮のない裁定は、罪を助長し、自暴自棄に陥らせる結果となってしまうのではないでしょうか。

事の次第を知ったヨセフは、法廷での裁定を望まず、二人の証人を立てて、離婚を成立させ、マリヤに離婚状を与えて去らせようと決めたのでした。

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ヨセフが誠実な態度で冷静に取り組み、真剣に考え、憐れみ深い対処を考えている最中に、神様がご介入され啓示を与えられます。

主の使いが夢に現れて」の前には「見よ」があり、特別な出来事が起こった事を、読者に教えます。

神様は様々な方法によって御心を私たちに啓示されますが、「」もその啓示の一つです。

この「」による啓示は、信仰が試されます。

夢うつつの状態の中で受けた、鮮明とは言えない思考状態の中で受けた啓示ですから、目覚めた途端に忘れてしまうかも知れませんし、「」の中の事として、重要には考えず、無視してしまうかも知れませんし、今回のように、常識では考えられない事であるならば、拒絶が働くのではないでしょうか。

しかし、不思議であっても、常識では考えられなくても、見た事もないお方が、神々しいお方が現れてくださったのであり、名前を呼んで、語り掛けてくださったのですから、信仰を持って聴き、信仰によって受け入れ、信仰によって従うべきなのです。

人間は明確な啓示が与えられても、意にそわなければ無視します。

ましてや、夢、幻による啓示であるならば尚更でしょう。

どんな明確な啓示であっても、信仰がなければ受け入れはせず、次々に啓示を保証、証明する啓示を要求するのであり、自分の都合に合わせた解釈をする事になりますが、信仰があれば、どんなに微(かす)かな啓示でも、不鮮明な啓示でも、納得し、受け入れ、啓示を正しく理解するでしょう。

信仰を働かせ、受入態勢の整ったヨセフに、御使いは語り続けます。

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

イエス」はユダヤ人の中では一般的な名前であり、ヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語に置き換えたものです。

その意味は、御使いの啓示の通りであり「主は救われる」です。

その「救い」は、ローマ帝国の支配からの救いでもなく、屈辱や抑圧からの救いでもなく、「罪からの救い」であり、

ご自分の民」は、ユダヤ人に限定したものではなく、神様を信じる民、神様を信頼する民、神様を愛する民、神様に従う事を願う民であり、神様の啓示を受け入れる民、イエス様を神の御子と信じる民、イエス様に救いを求める民であり、

纏わり付き、離れない「罪から救」ってくださるお方がイエス様なのです。

御使いの啓示は、突然降って湧いたように思える不思議な啓示ですが、青天の霹靂ではありません。

ユダヤ人には遥か昔に預言されていた事であり、その預言と符合する事を示されます。

1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

23節の預言はイザヤと言う預言者の預言であり、紀元前8世紀に記された預言であり、イザヤ書714節に記されています。

インマヌエル」の意味は「神は私たちとともにおられる」ですが、抽象的であり、精神的な慰め、支え、励ましでしかありませんでした。

しかし、神様は御子イエスをこの世に送られたのであり、神が人となられて、民のうちに住まわれたのであり、「インマヌエル」「神は私たちとともにおられる」が文字通り、現実となったのであり、神様が人間に寄り添い、共に居られ、直接慰め、直接支え、直接励ましてくださるのです。

神様は、私たちにはどうしようなかった罪の問題を解決してくださるために、イエス様をこの世に生まれさせてくださり、動物や穀物の生け贄、献げ物では解決出来なかった贖いを完成させてくださり、罪のない者と見なしてくださり、天国に招き入れてくださるのです。

この人類史上、最大、最高の、比類のない出来事が起こったのであり、その担い手として、ヨセフとマリヤが選ばれたのです。

1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、

1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

神様のご計画、御旨はどんな妨害があっても、進みますが、人間の応答、服従、協力なしには遂行されません。

誰かが応じなくても、替わりの者が起され、ご計画は進み、誰かが妨害しても、妨害を取り除く者が起され、御旨は進みます。

神様のご計画、御旨は人間によって進められるのであり、人間は必要不可欠な存在であり、信じられないような啓示でも、神様からの啓示と信じ、服従するなら、神様のご計画、目的に寄与し、用いられるのです。

用いられる人間は、神様が選ばれます。

有能か、多才か、強いか、等などは関係ありません。

謙遜な人間や温厚な人間が、用いられ易いでしょうが、神様のお取り扱いを受けて、謙遜にされるのであり、温厚にされるのですから、神様に対する謙りと従順があれば、申し分ないのであり、そんな人物である、ヨセフとマリヤが選ばれ、神様の救いのご計画、「神、人と共におられる」との御旨が成就するのです。

【適応】

先に、神様は人間を用いて、ご計画を、御旨を進められる、人間の応答が必要不可欠であると申しましたが、それは、神様の全能に欠けがある、との意味ではありません。

神様は、御自らが制定された「結婚」「夫婦」「家庭」と言う制度を尊重し、結婚と夫婦、家庭に栄誉を与えておられます。

御子イエス・キリストの誕生においても、神様の定められた制度と矛盾してはならず、人間の夫婦を選ばれ、御子誕生を委ね、成長に用いられるのです。

神様は、石ころからでも救い主を誕生させる事も出来ますし、婚約もしていない、全くの未婚女性、処女からでも、救い主を誕生させる事も出来ますが、子どもは結婚、夫婦と言う関係の中で誕生し、家庭の中で育まれるのであり、それを神様は制定されたのであり、父なし児、誰が父かも分らない…のではなく、シングル・マザーが苦労して育てる…のでもなく、明確に父と母の存在があり、父と母に守られ、愛されて育てられなければならないのです。

安易な結婚、自己主張などから生じる夫婦関係の破綻と家庭の崩壊、その行き着く先の安直な離婚の時代にあって、結婚を重んじ、夫婦関係と家庭の維持に全身全霊、全精力を注ぐべきであり、それは何より制度を造られた神様を喜ばせる事であり、神様に服従する意思表明、信仰告白なのです。

「人間の、罪からの救い」と言う働きは、人間と全く同じであってこそ、完成するのですが、何処で生まれたか、何処で育ったか、誰が父母なのか、がベールに包まれていては、「出生は秘密」であっては、信頼に値しないし、神様はそんな方法を採用されなかったのです。

人間と全く同じでなければなりませんが、普通に人間として生まれたのでは、神様の贖罪のわざは担う事が出来ません。

普通の夫婦から、普通に生まれたのでは、普通の人間であり、自分の罪の贖いしかできません。

普通の夫婦から生まれながらも、不思議な方法で妊娠しなければならず、人間でありながら、神でもあらねば、人類の罪を贖う事は出来ないのです。

そして、婚約、結婚、出産に至る経緯の全てが神様のご支配の中で進められなければならず、明確にされる必要があるのです。

その点で律法を与えられているユダヤ人は理想的であり、敬虔なユダヤ人夫婦が選ばれたのは必然であると言えるでしょう。

先に簡単に説明しましたように、ユダヤの教えは、婚約期間中から、夫婦と同等の倫理が求められ、異性との出会いは厳しく監視され、婚約期間中も、其々が貞淑に過ごさなければならず、しかも、夫婦の性生活は結婚まで禁じられます。

ユダヤ人の「未婚」は文字通りの「未婚」であり、ユダヤ人の「処女」は文字通りの「処女」であり、御子を宿すに、聖霊によって妊娠するに、これ以上ない、理想的、最高の民族なのです。

名も無く貧しいヨセフであり、マリヤでしたが、こんな民族だからこそ、高潔な民族だからこそ、敬虔な民族、夫婦だからこそ、御子を授かり、御子を育てる器として選ばれたのです。

しかし、最初から高潔な民族であった分けではありません。

カナンの風習、エジプトの風習をたっぷり吸って過ごしたのであり、捕囚の期間、ローマ支配の期間を通じて、律法に立ち帰り、民族の高潔を目指し、神様に用いられる器となるべく、歩んで来たのであり、機が熟して、御子誕生に用いられたのです。

御子誕生のわざ、救済のわざが繰り返される事はありませんが、福音伝道のわざはこれからであり、イエス様が再臨される日までの働きは多種、多岐、長期に渡ります。

私たちは、その大切、重要な働きを担う器として期待されています。

日々聖書に親しみ、礼拝を守り、精一杯の奉仕、献金を通して、心身ともに整えられ、神様に用いられ易い敬虔な器となって行くのです。

私たちは、「インマヌエル」を運ぶ、伝える、証しする相応しい器となっているでしょうか。

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聖書箇所:創世記20818                 2015-12-6礼拝

説教題:「アブラハムの祈り」

【導入】

思わぬ困難や失敗、予想だにしなかった災害や災難に出会った時、人は思わぬ行動を取ってしまい、言葉を発してしまいます。

人は不測の事態に遭遇した時、瞬間的に、感情や本音、或いは本性や素地が出てしまいます。

それは本能的に身を守ろうとする故であり、罪を持つ故に仕方のない事ではありますが、危険予知を行なった上での、災難を予測した上での、即ち不測の事態ではない時、危険を想定し、災難を予測した上での、行動や言葉であるならば、その行動や言葉には大きな責任を負わなければならないでしょうし、弁解の余地はないでしょう。

アブラハムはエジプトでの災難を予測し、不安に駆られ、サラが妻であるにも関わらず、妹だと嘘を吐き、関係者を騙しました。

エジプトでの失敗は未曾有の飢饉の最中と言う状況ではありますが、用意周到に行なったのであり、同情の余地はありません。

アブラハムは、エジプトでの経験を通して、神様の守りを明確に体験し、記憶に焼きつけた筈です。

一度目の失敗は仕方がなくても、その経験を生かすなら、二度目の失敗は回避出来る筈ですし、そうならなければ、そうしなければなりません。

しかし、アブラハムはエジプトでの失敗を生かさず、神様の守りの実体験を生かさず、行く先々で、偽り続け、身の安全を確保して来たのでした。

それは、何よりも大切な妻、掛け替えの無い妻、何を犠牲にしても守らなければならない妻を危機に晒す、恥ずべき行為ですし、エジプト王パロとその家に酷い災害をもたらし、ゲラルの王アビメレクとその妻、はしためにも、災いをもたらしてしまいました。

大切な人を危険に晒し、謂れの無い人々に不幸をもたらしたのであり、何より、神様の守りに対する不信仰の現れです。

しかし、神様は、神様の真実さ、誠実さの故に、アブラハムに対する約束の故に、アブラハムもサラも危険から守り、危害が加えられないようにし、アブラハムに使命を自覚させ、信仰者へと成長させて下さるのです。

【本論】

20:8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。

夢で真実を知らされたアビメレクはどんなに驚愕した事でしょうか。

見目麗しい女性が、未婚だと紹介された女性が、夫を持つ身であった。

しかも、妹と紹介した当の本人が夫であったとは、何たる事でしょうか。

前代未聞の事であり、想像も出来ない事であり、あり得ない事であり、驚き、戸惑い、頭の中は真っ白になってしまったのではないでしょうか。

一過性の、軽い災難が見舞ったのではなく、死が警告されたのですから、対応を誤ってしまったならば、更なる災いをもたらす事になりましょうから、とても一人では対応出来ないと判断し、事の真相を、皆にも知ってもらわなければならないと考えたアビメレクは「しもべを全部呼び寄せ」ます。

新共同訳では「残らず」と訳し、口語訳では「ことごとく」と訳していますが、アビメレクの恐れの気持ちと、藁にも縋りたい気持ちがひしひしと伝わって来ます。

しもべを呼び寄せた理由の一つには、アビメレクとその妻、はしために振りかかった災難は、家臣にも、しもべにも、ゲラルの住民にも振りかかっていたからなのではないでしょうか。

原因の解らない災難がゲラルの町に蔓延し、町中に死の恐怖が圧し掛かっていたのでしょう。

既にアビメレク個人の問題ではなくなり、ゲラル全体の問題となっていたのであり、共通の問題として、家臣の面前で検討、協議しなければならず、且、アビメレクは自身の正当性をはっきりさせたかった狙いもあるのでしょう。

20:9 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」

アビメレクの詰問は、アブラハムの耳に、どう届いたのでしょうか。

真の神様を知らない民に、数多の偶像を礼拝する異邦人に、神様を礼拝するのは、神様を利用するためであり、真の意味で神様を恐れない民に、善悪を教えられるとは、してはならない事を諭されるとは、何たる屈辱でしょうか。

神様の公義を知る者は、公正と正義を行なうべきであり、正しい計り、升、重り、を使うべきであり、損になっても、約束を守り、不当な損害を与えてはならず、ましてや、嘘を吐き、騙し、有利に立ち回ろうなど、もっての外、言語道断です。

20:10 また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」

アビメレクは手荒な事をせず、寛大にもアブラハムに弁明のチャンスを与えますが、神様が夢、幻の中で、忠告を与えていたからにほかありません。

どういうつもりで」の直訳は「何を見たのか」であり、「何を見たので、知ったので、こんな事をしたのか、企てたのか」と問うているのです。

20:11 アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。

アブラハムの弁明の通りに、カナンの地は偶像礼拝が盛んな地であり、ゲラルはカナンの地にあり、ソドムとゴモラのような乱れた風習は広く蔓延し、強く影響していたでしょうが、決して清廉潔白、公明正大な町ではなかったでしょうが、だからと言って、ゲラルが、ソドムやゴモラと同じだと、決め付けてはなりません。

影響を受け易い人もいれば、影響を受け難い人もいます。

ウルを出立してからの経験、エジプトでの経験を経て、カナンの風習、ソドムとゴモラの噂を聞き、見たかも知れませんが、ゲラルもソドムと同じだ、「神を恐れることが全くない」都市だ、人々だと決め付けるのは如何な事でしょうか。

ゲラルとソドムは違うのであり、カナンの地にあっても、ゲラルは違うかも知れないのです。

真の神様を知らなくても、神様に造られた人間には、信仰心があるのであり、素朴な信仰かも知れませんが、神様を恐れる思い、神様に対する畏敬の念は持っているのです。

勿論、アブラハムの信じる、唯一の神様に対する恐れではありませんが、自分の信じる神様に対しては祟りや呪いを恐れていたのであり、道徳的畏敬の念、守護神としての畏敬の念や恐れは持っていたのであり、それを評価しない事は、また、希薄な根拠、思い込みによる一方的な決め付けは、如何な事でしょうか。

表面的な言動や、ほんの一部分を見聞きした事だけで、神様を恐れる事がない、信仰心もない、と決め付けるのは、傲慢であり、独善ではないでしょうか。

仮に、「神を恐れることが全くない」人々だったとしても、アブラハム自身の問題が大であり、神様への信仰の問題であり、神様への信頼の欠如が恐れとなり、激しい思い込みとなり、嘘を吐かせ、偽りで保身を図ったのです。

思い込み、疑心暗鬼は危険です。

アブラハムの場合は、嘘を吐いた程度ですが、思い込みや疑心暗鬼でゲラルの町を聖絶したとなると、取り返しがつきません。

勝手な思い込みや、信憑性のない情報を鵜呑みにしての決め付けは断じて避けなければなりません。

アブラハムの見苦しい、聞き苦しい弁明は続きます。

20:12 また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。

確かに真実であり、赤の他人を「妹」だと詐称した訳ではありませんが、アブラハムにとって「妹」としての関係よりも、「妻」としての関係の方が、より重要であり、優先すべきなのではないでしょうか。

血縁はあるものの「妹」は別人であり、別人格であり、一心同体ではありません。

しかし、「妻」は神様によって結び合わされており、一心同体の関係であり、運命共同体であり、その意味でも、行動を共にする事は、神様の摂理に合致する事であり、可能な限り同じ体験、経験をする事の益は、計り知れません。

合わせて、夫は妻を全面的に擁護し、保護し、養育しなければなりません。

例え妻が間違った事をしても、妻の側に立たなければならず、妻と一緒でなければならず、共に責任を負い、共同で闘わなければなりません。

間違った事の是非に関しては、後で正せば良いのであり、寄り添う事が重要なのです。

自分は安全地帯にいて、妻を危険な立場に立たせるなんて事は、あってはならない事です。

20:13 神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ』と頼んだのです。」

何とも見苦しく、聞き苦しい、手前勝手な言い分ですが、こんな間違った対処法が、習慣となっていた、と言うのですから驚きを通り越して呆れてしまいます。

治安、人権、などと言う概念の確立していない時代の事であり、危険への強い危惧の為せる結果であり、矛盾を感じつつも、並々ならぬ苦慮と苦悩、葛藤の末に出した結論であり、対処法でしょうが、繰り返しになりますが、アブラハム自身の問題であり、神様への信仰の問題であり、神様への信頼の欠如が恐れとなってこんな卑劣な手段を取ったのです。

20:14 そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。

アブラハムの見苦しい、聞き苦しい、独善的な自己弁護に尽きる弁明に対して、神様から警告を受けていたとは言え、アビメレクの対応は、詰問の調子からは想像の出来ない寛大な、気前の良いものでありました。

羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たち」ですから、羊も牛も2~3頭ではなく、奴隷も2~3人ではないでしょう。

詰問の調子とは裏腹の大判振る舞いですが、そこには、神様から示された夢、幻が強く影響し、手厚く持て成さなければならないとの強迫観念のような思いを感じていたのでしょうし、アブラハムの執り成しの祈りに対する期待があり、執り成しの祈りを切実に必要としていたのであり、アブラハムに対する敬意があり、それらが形となって現されたのが、羊であり、牛であり、男女の奴隷であったのです。

過分な贈り物に加えて、

20:15 そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」

アビメレクの領地に、自由に住む事が許されました。

部外者に対しては、懐疑的であり、短期の滞在でも慎重にならざるを得ない時代にあって、この寛容さは眼を見張るものです。

創世記2618節にはアブラハムの掘った井戸の事が記されており、ゲラルに相当長期の間、定着していた事が分ります。

20:16 彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」

この「銀千枚」の意味には、諸説あるようですが、「羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たち」に加えてではなく、「銀千枚」に相当する「羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たち」を贈った、と解釈するのがよさそうであり、正確に「銀千枚」ではなく、概算、象徴的な意味で使われているようです。

「億万長者」は大金持ちの意味であり、一億円しか持っていない訳ではないのと同じです。

さて、皆様ご存知の通り、奴隷は銀30枚、が相場ですが、出エジプト記2132節には「牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払」え、と記されています。

貨幣価値は時代、地域で変動しますので、「銀一枚」と「シェケル」を安易に比較、換算出来ませんが、略同じと見てよさそうです。

また、レビ記515節には「傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀にあたる」と記されています。

牛は羊の数倍の価値がありますから、これらを考え合わせて試算すると、「銀千枚」は、羊25頭、牛25頭、奴隷10人、位にはなりそうであり、相当な贈り物なのではないでしょうか。

更に、土地まで自由に選べ、住めるのですから「負んぶに抱っこに、お土産付き」と言った所でしょうか。

しかし、アビメレクは、「あなたの兄に与える」と、釘を刺す事を忘れてはいません。

アビメレクは、アブラハムの主張を受け入れつつも、「彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言った」事を、お互いの確認事項とし、これらの贈り物は、アビメレクの一方的な過失ではない、慰謝料などではなく、誤解を払拭する物、疑惑を晴らす物、であり、和解の印である、との意味を込めて、強調しているのです。

20:17 そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。

20:18 【主】が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。

不妊の原因は様々であり、様々な方法を試しますが、アビメレクもアブラハムも、この体験を通して、神様こそが人の胎を閉じ、開くお方である事を、神様こそが人に命を与え、取られるお方である事を、深く認識し、痛感したのではないでしょうか。

これら一連の出来事は、不妊の女といわれたサラに対する希望であり、イサク誕生の布石になっていますが、重要なのは異邦人と神の民との出会いでしょう。

【適応】

神様は、アブラハムの一度ならずの失敗や、その原因である不信仰にも関わらず、アブラハムを用いられ続けました。

また、アビメレクの不完全ながらも、素朴な信仰を持つ者、朧げながらも義の神を知る者に祝福を与えられました。

両者に言える事ですが、理解納得出来なくても聴き従い、神様の期待を遥かに超えて応答しようとする者に、恵みが注がれるのであり、その歴史が語られ、記され、私たちに対する励まし、慰めとなっています。

アブラハムの嘘、偽り、失敗は、聖書に書き記された2回だけではありません。

行く先々で、繰り返し嘘、偽りが行なわれていたのであり、平気で人を騙して、身の安全を工作したのであり、裁かれ、滅ぼされても当然ですが、また、アビメレクの飽くなき「はしため」集めも、神様の喜ばれる事ではなく、裁かれ、滅ぼされても当然です。

アブラハム、アビメレク、どちらも罪深く、不完全な者でありますが、両者の出会い、関わり、複雑な問題を通して、神様が御業を行なわれるのであり、其々が神様と出会い、お取り扱いを受け、神様との関係が修正され、より良い関係にならせていただくのです。

アブラハムを代表とする神の民は、この世と断絶して、孤高の社会を造り、独自の歩みをする訳ではありません。

何の失敗もない、不信仰な部分のない、完全な信仰を持つ民でもありません。

失敗を繰り返し、不信仰な行ないをし、神様を悲しませつつ、この世と関わって、しかも表面的な関わりではなく、異邦人と、異教の民と、偶像礼拝の民と、神様を信じない民と、深い関わりを持ちつつ、神の民の優位性を示さなければなりません。

神の民の優位性とは、罪を赦されているとか、救われているとか、祝福されているとか、守られているとか、と言う事も勿論ありますが、罪を糾弾し、裁く事ではありません。

神の民の優位性とは、真の神様を知らない民は、真の神様を知る民を通して、真の神様と出会うのであり、神様と異邦人、異教の民、偶像礼拝の民、神様を信じない民を引き合わせると言う、重大な働き、使命においてなのです。

更に、真の神様を知る民は、異邦人を、異教の民を、偶像礼拝の民を、神様を信じない民を祝福しなければならず、真の神様を知る民は、異邦人に、異教の民に、偶像礼拝の民に、神様を信じない民に仕えなければなりません。

祝福を与える働きに相応しい信仰者か、否かを吟味する必要はなく、また、祝福を受けるに相応しい民か、仕えるに相応しい民かを選別、吟味する必要もありません。

祝福を受けるに相応しくない人々であるならば、その祝福は返ってきますし、仕えるに相応しくない人々であるならば、神様が取り除いてくださいます。

私たちは、出会った誰に対しても、嘘、偽りを棄てて、正直に接し、差別なく祝福し、仕えなければならないのです。

基本的な姿勢は、祝福する事と仕える事であり、世に仕え、祝福する事であり、世に祝福をもたらす存在である、と言う事です。

神の御子であるイエス様が罪の世に来られたのは、世を裁くためではなく、仕えられるためでもなく、罪の世に仕え、罪の世に祝福をもたらしたように、私たちもまた、罪の世に仕え、祝福をもたらす者であり、その働きを期待されています。

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