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聖書箇所: ローマ人への手紙  1513節                       2015628

説教題:「 望みに溢れて生きる幸い

説教者:牧師 河野優

【導入】

 インターネットで「希望」という言葉を検索すると、「希望 ない」と出てきました。将来についての期待や明るい見通しを見出し得ない現状を垣間見、希望に対する切なる願いを感じずにいられません。

ますます困難な時代に向かっている今はなおのこと、望の神を見つめ、望みに溢れて生きることができるのだという恵みを、今日は皆さんと共に味わいたいと願います。

【本論】 

希望・待ち望むこと

 旧約聖書では「希望」「望み」の動詞が「主なる神を待ち望む」という表現で多く登場します。

この表現は詩篇や預言書といった、困難な状況の中で信仰に生きるものが神への「望み」を叫び、その信仰を告白することとして用いられているのです。

つまり、単なる将来への期待や明るい見通しを願うだけではなく、神を信じ信頼して身を委ねるという信仰、神様との人格的な信頼関係を言い表す言葉でもあるのです。

それはいわば、「神にのみ望みをおく人生」とでも言うべきものであります。

聖書に置いて望みは「主なる神」の下にこそあるということが大前提となっているのです。

聖書は神に造られた人間の歴史、特に神を信じる者・神と共に歩む者の歴史が記されていす。

聖書の歴史、聖書における信仰者の人生は一貫して「神に望みをおき、神を待ち望む」歩みであったのです。

ここには、アダム以来の人類に対して与えられている「神の約束(契約)」が一貫して存在します。

大切なことは、この望みは人間の神に対する一方的で身勝手な期待や願いではないということです。

あくまでも、神が必ず実現するといった約束に対して、人間が全く信頼し、そこに望みを置くということだからです。

だからこそ、その望みはむなしく終わることがないのです

信仰によって ~喜びと平和に満たされる~

 旧約聖書以来、一貫して聖書が語り続ける「神にのみ望みをおく人生」は、信仰による人生です。

私たちが信じる神は「望みの神」であって、それゆえ望みは「信仰により」与えられるものであるのです。

神に望みを置く者に、望みの神は「信仰により」すべての喜びと平和をって満たしてくださいます。

望み溢れる人生の土台は信仰による喜びと平和に満たされることにあります。

聖書において、信仰とは第一に回復された神との人格的関係を意味します。

神に背を向け自分勝手に歩んでいたものが、神に向き直り神を見上げつつ共に歩む、それが信仰です。

そして、神との正しい関係が回復されると、それは直ちに人々との、世界との関係をも整えることになります。

 そもそも、神によって創造された世界はすべて「はなはだ良かった」と言われています。

それは神の御手の中で造られたすべてのものが調和を保っていた、「平和であった」ということです。

真の平和は神によって一つとされ、その御手の中であらゆるものが神の秩序に従って調和を保たれていることを意味します。

 さらにそこには「喜び」が溢れます。

神に背を向け、神を知らずに生きている者の人生に望みはないと、聖書はっきり語ります。

神を知り、キリストの十字架の意味を知り、信じて受け入れた時、その人の人生は神の栄光の光で照らされ、喜びに溢れ、希望を与えられので

死んでいたものが生きたものとなった。

私たちは信仰によって神との平和と溢れる喜びに満たされていることが確認できるのです。

聖霊の力によって ~望みに溢れて生きる幸い~

 とはいえ、私の力だけでは決して、失望せずに望みを持ち続けることはできません。

ですから、望みの神は、望み溢れる人生をより確かなものとするために「聖霊によって」働き続けてくださいます。

絶望しない人生、望みに溢れる人生は自分の力によるものではなく、神の力に拠るのだということをよくよくわきまえなければなりません。

これもまた、徹底的に神に委ねきるという信仰によって為されることを覚えたいのです。

 聖霊が共にいて働いてくださらなければ、私たちは聖書を正しく読み、受け取ることはできません。

自分の罪に気づき、悔い改めることもできません。

父なる神様はキリストを通して、聖霊にあっていつも私たちと共にいて歩んでくださいます。

弱い私ですから、この聖霊の力、神様の存在が無ければ、望みを持ち続けること、信じ待ち望み続けることはできないのです。

 そういう意味では、教会における礼拝が、交わりが、どれほど大切であり、すばらしい時であるのかをお分かりいただけるのではないでしょうか。

ここに、神の下にこそ本当の希望がある。私たちが信じ、共に歩む神は望みの神であるからです。

目には見えない栄光の約束を聖餐式や礼拝、神の民の交わりにおいて「見させ」「味わわせ」「確信させ」てくださる聖霊なる神様のお働きを、今日もしっかりと心に留め、その恵みを味わいたいと思います。

【適応】

私たちはこのような恵みを味わってこそ、日々の歩みにおいても失望せずに進むことができるのです。

信じる者すべてに、その信仰の故に持つことが出来る平和と喜びを私たち一人一人のうちに満たして、充満させてくださる。そして私の内に満ち満ちているキリストにある平和と喜びは、さらに私の内で泉のように望みを溢れさせてくださるのです。

 望みの神に、救いの身業を成し遂げてくださったキリストに、神の約束を保証し私を励まして下さる聖霊にのみ望みを置いて生きるようになること、それが今日のメッセージのゴールです。望みに溢れた歩みを、この一週間も歩んで行けることを確信し、感謝と喜びを主におささげしましょう。

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聖書箇所:創世記1516                 2015-6-21礼拝

説教題:「アブラムは神を信じた・・・義と認められた」

【導入】

世の中、何の予告や告知もなく、準備や稽古も無く、練習や演習もなく、突然、本番に臨むと言う事は、まずありません。

物事には、必ずと言って良い程、備えの期間があり、習得する時間があり、また、予兆、兆しがあります。

勿論、抜き打ちテストとか、抜き打ち検査とかがありましょうが、それでさえ、普段の取り組みや、規則を遵守しているか、が調べられるのであり、学んでもいない事をテストしたりしませんし、項目以外を検査する事もありません。

実力や状態を知るために、敢えて範囲外をテストしたり、新しい項目を検査したりする事はありましょうが、それでさえ、今後の方針や、対策を立てるためであり、準備や演習の一種と言えるでしょう。

アブラムは、神様の命令で、何処へ行くのかを知らされないで、ウルを出立し、2000km以上の、過酷な旅を続けましたが、神様の守りがあり、何も失わず、返って家畜は増え、使用人や奴隷を多く持つ身分になっていたのです。

甥のロトとの牧草地争いでは、権利を主張せず、甥のロトが選ばなかった方に引っ越して行ったのですが、ソドムやゴモラの不敬虔に近づかなかったのであり、ここにも神様の守りを見る事が出来ましょう。

甥のロト救出作戦では、多勢に無勢でありながら、無傷で、何の損失や被害もなく、甥のロトと、ロトの家族、使用人、ロトの財産のみならず、ソドムの人々、ソドムの町の財産をも取り戻したのでした。

人の知恵や力では考えられない事であり、神様の働き、守り、導きを体験した事でしょ

う。

飢饉に際しては、勝手な判断でエジプトに難を避け、不名誉な行動を取ってしまいましたが、その失敗でさえ、財産が増やされ、エジプトの仕返しを受けなかったのであり、神様の守りを実感したのではないでしょうか。

聖書は、事細かに、出来事の全てを網羅して記録してはいません。

アブラムの体験の、ほんの一部を紹介しているのであり、

その神様の、予行演習と表現して差し支えない体験をしたアブラムに、これからも神様に従うか否かを決める、大きな転機、口頭諮問が与えられます。

【本論】

15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

これらの出来事」は直前の、甥のロト救出の事であり、先に申し述べた、ウル出立から、エジプトでの失敗を含む、全ての出来事でしょう。

これらの出来事」は、言わば、準備や稽古、練習や演習であり、これらの出来事」を体験した者は、神様に対する信頼、信仰の訓練を受けた訳であり、神様に対する考え方、神様に対する姿勢が問われますが、問の前に、神様からの宣言があり、約束が再確認されます。

アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい

神様は常に、何時でも、何処でも「」となってくださって来たのであり、これからも「盾であ」り続けるから「恐れるな」と仰られるのです。

北の4大列強国連合軍の脅威は、決して“0”になった訳ではありません。

何時、報復があるか知れないのです。

大きな強い厳しい緊張からは、多少なりとも開放されたでしょうが、それでも漠然とした不安があり、行軍の疲れ、戦いの疲れからの不安も重なった中に置かれているアブラムに、神様は「恐れるな」、安心しなさいと、声を掛けてくださったのです。

更に「あなたの受ける報いは非常に大きい」と宣言されますが、何に対する「報い」でしょうか。

報い」と訳されているヘブル語は「賃金、報い、報酬」の意味を持つ言葉ですが、アブラムは神様から「報い」を頂くような事をしたのでしょうか。

アブラムは、神様のために、何かの働きをした訳ではありませんし、神様に対して、何かの犠牲を払った訳でもありませんが、最初に神様の命令に従って、ウルを出立したのであり、ウル出立以降に起こった出来事の全ての背後に、神様の臨在を感じ、神様を信頼し、神様に従い続けて来た事は間違いありません。

その、神様に対する信頼、神様に従って来た事が評価され、「報い」を与えられたのです。

働きや犠牲に対するものではないのですから「報い」と言うよりも、一方的な神様の「恵み」であり、「あなたの受ける恵みは非常に大きい」なのです。

神様の願いは「及第点」を与える事であり、「報い」「恵み」を与える事ですが、アブラムに「合格」を与え、「報い」「恵み」を与えても、一代限り、自分の代だけの「報い」「恵み」では、意味がないと思うのが当然でしょう。

15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

アブラムの不満の言葉は、創世記122節「わたしはあなたを大いなる国民とし」、

創世記1316節「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう」を強く意識しての言葉であり、不満でしょう。

「神様、あなたは私の子孫を増やし「大いなる国民」とする、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と仰られたではありませんか。なのに、現実には、子どもは“0”、当然、子孫も“0”なのです。

誰が私の跡を継ぐのでしょうか。」

子のない夫婦が、老後の世話を期待し、それを条件に財産を譲り、跡を継ぐのは、第一に、親族であり、第二に、家で産まれた僕、例えば、甥のロト救出で功績のあったような忠実無比な僕であり、時に奴隷の身分の者からさえ跡取りを選ぶのであり、何の血縁のない者が「子」として選定され得るのであり、子のないアブラムは、この手続きを持ち出して私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか」と、神様に訴えるのです。

15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。

アブラムは不満の言葉を次々に神様に投げかけますが、この不満は、単なる不平、クレームの類ではなく、子のない故の不満であり、不満と言うより、悲しみに近い、空しさの混ざった感情の発露なのではないでしょうか。

報い、恵みの大きさは嬉しいが、その嬉しさを分かち合う子がない事に、報い、恵みが余りにも大き過ぎるだけに、報い、恵みを引き継ぐ子がない事に、空しさを感じてしまったのではないでしょうか。

15:4 すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

子のない夫婦が、跡継ぎを得る方法は、親族の中から選ぶか、僕、奴隷の中から選ぶかしかない訳ですが、神様は、アブラム自身が子を設け、アブラムの実子が跡を継がなければならないと仰られるのです。

まだまだ若く、健康で元気な夫婦なら、子を産む希望が持てるでしょうし、神様の言葉は難なく受け入れられるでしょうが、健康で元気でも、年齢には勝てません。

子が産まれるまで生き長らえる保証もありません。

アブラムはカナンの地に住んでから10年後、86歳の時にイシュマエルを与えられます。

この事は、創世記163節、16節に記されています。

ですから、今日のエピソードの時点で、アブラムの年齢は75歳前後だったと推測されます。

サライの年齢は65歳前後であり、常識的に子を産める年齢ではありませんが、子を与えられるのも、子を与えられないのも神様なのであり、神様の言葉は、疑う余地がなく、必ずその通りになるのであり、神様の言葉は、語られた瞬間に事実、現実となるのです。

勿論、時間差はありますが、神様が語られた以上、必ず、絶対、間違いなく、語られた通りになるのであり、誰が妨害しようが、誰が邪魔しようが、神様の約束が変更される事は、反故になる事は絶対にないのです。

しかし、人はなかなか言葉だけでは受け入れられず、疑い易いので、神様は視覚的なモノを用意してくださり、視聴覚教育をしてくださいます。

15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

空気の汚れた東京の夜空を毎日休みなく見続けても、満天の星を見る事は出来ませんが、

都会から遠く離れた、大海の孤島とか、空気の澄んだ山奥に行くなら、本当に数え切れない数の星が瞬いています。

松原湖バイブルキャンプ場で、原っぱに寝転んで、夜空を眺めた事があります。

帯状に霞んでいるで、雲がたなびいているのかと思って見ていたら、それは、小さな小さな星の集まりであり、本当に数え切れない数の星の集まり、天の川だったのですが、

あなたの子孫はこのようになる」と、神様が仰られたのです。

今は子どもの数“0”。

しかし、将来子どもの数は、数える事が出来ない位になる、と仰られるのです。

一万とか、百万とかを越えて、数え切れない程になるであろう、と同時に、連綿と続く事を、血筋が絶えない事を保証し、どんどん広がり続ける事を保証しているのです。

星は、光の強さの強弱はあっても、一つ一つが光り、輝いていますが、そのように、アブラムの子孫も光り続け、輝き続ける事を、神様が約束してくださった、宣言してくださったのです。

15:6 彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

アブラムは、アブラムに語りかけ、星を見せてくださった神様を信じました。

夜空を見上げれば、何時も瞬いている星々であり、美しい夜景の一つでしたが、今からは新しい意味が生じました。

星は星ではなく、子孫一人一人の姿であり、存在し続け、輝き続けるのです。

あなたの子孫は夥しく増える、と言われてもイメージが湧かず、想像出来ませんが、夜空の星を見せられ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたならば、具体的であり、現実的であり、実践的です。

しかも、夜になれば何時でも確認出来ますから、永続的でもあります。

約束の言葉は一回限りでも、映像として毎晩見る事が出来るのであり、毎日確認出来るのです。

神様のご配慮は何と深く、行き届いているのでしょうか。

そして、アブラムはこの神様の約束を信じたのであり、神様は、「義」と認めてくださったのです。

信じた」は、ヘブル語で「ウェヘエミン」ですが、「アーメン」の語源になっており、

その意味は「信じる」と言う積極的、能動的な意味と共に、「確かである、その通りである」との肯定的応答、受動的な応答の意味があります。

神様の語られる事を肯定する事であり、神様の約束の有効性を承認する事です。

「信じる」と言う言葉は、意思の強さを伴い、確信を表明するイメージがあり、なかなか「神様を信じます」と言い切るには躊躇してしまうかも知れませんが、「神様の仰られる事は確かである、神様の約束はその通りである」なら、何とか言えるのではないでしょうか。

そんな応答でさえ、神様は「義と認め」て下さるのですが、「義認」は、信仰の完成の意味でも、終着点に到達した意味で与えられるものでもありません。

一定の基準に合致した状態、即ち、神様の存在を知り、神様の仰られる事は確かである、神様の約束はその通りである、と告白した者であると認めてくださったのであり、

それこそが、神様とのあるべき関係、状態なのです。

【適応】

「信じる」「信仰」などと言う言葉を聞くと、強い意志を持ち、患難辛苦に耐え、例え一人になっても歩み続ける、前進あるのみ、何か、悲壮感漂うイメージが、選ばれた特別な人のイメージがありましょう。

振り返って見てみると、結果としてそんな道を選んだ事に、歩んで来た事になっているでしょうが、皆が皆、そんな道を歩む訳ではありません。

山もなく、谷もなく、嵐もなく、可もなく不可もない、平々凡々な人が多いのではないでしょうか。

しかし、それは問題ではありません。

信仰」は、神様と、神様の言葉への無条件の信頼であり、しかも、継続的な信頼であり、それ以上でも、それ以下でもありません。

しかし、「無条件の信頼、継続的な信頼」は口で言う程、簡単ではありません。

自分自身で何時の間にか条件を付けてしまったり、例えば、奇蹟を見たら信じるとか、

祈り願いに答えてくれたら信じる、とか、祈り願いがきかれないのは、信仰が足りないからだ、奉仕が充分じゃないからだ、学びが不足しているからだ、と考えたり、色々と考え過ぎ、頑張り過ぎ、疲れてしまい、何時しか諦めてしまうのです。

他人と比べてしまう事もあるでしょうし、何処からか、もう駄目だよ、諦めなよ、無駄だよ、との囁きが聞こえる事もあるでしょう。

聖書を読んでいるそばから、読んでも無駄だよ、役に立ちはしないよ、との囁きが聞こえ、説教を聞いている内に、何時の間にか眠ってしまったり、良く理解出来なかったり、

聖書通読も、デボーションも三日坊主であったり、一回も聖書の全編を読んだ事がなかったり、で、信仰」を持っていると胸を張っては言い難くても、信仰」は、神様と、神様の言葉への無条件の、継続的な信頼であり、具体的に現れる行動ではありません。

信仰」を守る、と言う言い方をしますが、信仰は守るものではなく、神様を信じ続ける事であり、神様を信じていると守られるのであり、報いを、恵みを受けるのです、即ち「義と認め」られるのです。

信仰義認」などと言う言葉を聞きますと、私にはちょっと当て嵌まらないかなぁ、神様に認められるようなことはしてないしぃ、と引っ込んでしまいましょうが、失敗なく、約束を守り通し、大きな犠牲を払うと、「義と認め」られるのではなく、神様を信頼し、信じつづける事であり、そんな歩みを「義と認め」てくださるのです。

歩みの結果を調べられ、審査を受けて「義と認め」られるのではなく、神様を信頼してスタートする事が「義と認め」られる事なのです。

私たち何かを成した、犠牲を払った、ではなく、何の成果も結果もない時点で「義と認め」られるのですが、更に正確に表現するなら「義とみなされる」のです。

私たちは「」ではないし、「」の欠片もないが、「義とみなされる」のであり、私たちが神様を信じ、神様が聖書に記された救いのご計画を信じ、イエス様を私の罪の贖い主と信じた時に、私たちはイエス様のモノとなり、イエス様がお持ちの「」が私たちに与えられ、私たちが「義とみなされる」のです。

あなたは神様を真実な方、信頼出来る方、と思いますか。

大事な事ですが、それだけでは充分ではありません。

悪魔も、神様を真実な方、信頼出来る方、と思っていますが、従おうとはしません。

あなたは、神様に従いたいと願いますか。

これが大事です。

失敗を恐れる必要はありません。

信じたなら、何かをしなければならない、何かを変えなければならない、と考えますが、そんな必要もありません。

出来そうにないから諦めるのではなく、従えそうにないから諦めるのでもなく、出来なくても、従えなくても、切り捨てられる事はなく、助けてくださり、導いてくださいます。

私たちはイエス様を信じており、イエス様のモノとなったので、イエス様が執り成し、聖霊様が助けてくださるので、信仰義認」が現実になるのです。

あなたは神様を信じましたか、イエス様を信じましたか、イエス様に従うと決意、告白しましたか。

それなら、あなたは義と認められ、天の命の書にあなたの名前が記されているでしょう。

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聖書箇所:創世記141724                2015-6-14礼拝

説教題:「メルキゼデクの祝福を受けるアブラム」

【導入】

アブラムは僅か318人の僕と、盟約を結んでいたマムレ、エシュコル、アネルの援軍を得て、甥のロトやロトの家族を拉致し、ロトの財産を奪った北の4大列強国連合軍を追いかけます。

北の4大列強国連合軍は、向う所敵なしの百戦錬磨のつわものの集団であり、遠征に続く遠征で疲れていたとは言え、凱旋の帰路で油断していたとは言え、疲れや油断から隊列も寸断、分断されて、離れ離れになっていたとは言え、戦いをし掛けられる、人質を奪い返される、奪った物資を奪い返される、など誰が想像したでしょうか。

しかし、アブラムは神様の助けを得て、大切な甥のロトやロトの家族を救出したばかりではなく、ロトの財産をもことごとく取り戻し、ソドムの町の人々、ソドムの町から奪われた財産のことごとくを取り戻したのです。

百戦錬磨のつわもの共と戦ったにも関わらず、一人の戦死者もなかったのは、神様が背後で働かれたからです。

北の4大列強国連合軍を打ち破ったとはいえ、主力部隊と戦って訳ではなく、何時、主力部隊が戻って来て、背後から襲われるかも知れませんが、神様が盾となって、背後を守ってくださったのです。

神様の守りを実感したアブラムに、更なる恵みが与えられます。

【本論】

14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。

聖書に記されている地名の多くは、その正確な位置を示せませんが、巻末の地図「12部族に分割されたカナン」をご参考に、大まかな位置関係を把握しておかれると良いでしょう。

王の谷と言われるシャベの谷」は、塩の海の北端から西に40km程の所と思われます。

「エルサレム」の近くになる訳ですが、「シャベ」は18節に記されている「シャレム」と深い関連性がありそうで、後に「エルサレム」と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。

シャベ」即ち「シャレム」即ち「エルサレム」なのではないか、です。

ソドム」の正確な位置も分かりませんが、ソドムは塩の海の南の地にあった、と思われていますので、ソドムの王は100km程の旅をして、アブラムを出迎えたのです。

アブラムの甥のロトはソドムの町の近くに住んでいたのですから、わざわざ大変な思いをしてまで迎えに出なくても、暫くすればアブラムも甥のロトもソドムに戻って来るでしょうし、ソドムは北の4大列強国連合軍に蹂躙され、後片付けに大忙しだったのではないでしょうか。

それを押してまで、帰って来るのを待たずにアブラムを迎えに出たのは21節に記されている通り、打算があっての事であるのは明白です。

14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

突然、唐突に「シャレムの王メルキゼデク」が登場します。

シャレム」は「シャローム」即ち「平和」の意味であり、後の「エルサレム」ではないかと考えられています。

「エルサレム」は「平和の町」との解釈が伝統的ですが、「シャレムの基礎」と解釈する学者もおり、「シャレム」と「エルサレム」を同一視する根拠としています。

真偽は定かではありませんが、シャベの谷」と「シャレム」即ち「エルサレム」とが同一、もしくは非常に近い位置関係にあったと考えられ、メルキゼデクは遠くまで出掛けて、アブラムを出迎えたのではなく、近くだったからこそ出迎え得たのではないでしょうか。

さて、「メルキゼデク」ですが、旧約聖書ではここと、詩篇1104節にだけ、新約聖書ではヘブル書5章、6章、7章に計8回、登場する名前です。

聖書は「メルキゼデク」の不思議な生い立ちを、「イエス様」と関連させて紹介しています。

メルキゼデク」の意味は「義の王」ですが、メルキゼデク」はカナン人であり、異邦人の王であり、異教の祭司です。

全くの個人名ですが、「メルキゼデク」は、ヘブル書73節で「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっている」と紹介される人物なのであり、非常に誇張され、神格化されてはいますが、一個人、人間です。

しかし、個人の名前、祭司の名前の枠を越えて、「メルキゼデク」を普遍化し、時と場所に制限される、代々引き継いでいかなければならない不完全なこの世での働きから、時と場所に制限されない、引き継ぐ必要の無い、完全な働きに就かれたイエス様を預言しているのであり、これらの事を合わせて考えるなら、シャレムの王メルキゼデク」は「エルサレムの王イエス様」を暗示しており、アブラムへの祝福が単なる祝福ではなく、神様からの、本物の祝福であると言えるのではないでしょうか。

シャレムの王メルキゼデク」は「いと高き神の祭司であった」と記されていますが、

「王であり祭司である」のは特殊な事ではなく、政治的支配者が、宗教的支配者を兼ねる事は、都合が良かったのであり、ダビデ然りであり、つい近代まで歴史は「政教一致」だったのです。

人間の造られた経緯と、人間に与えられた使命を考えるなら、「政教一致」こそ在るべき姿でありましょうが、罪故に、政教一致も、政教分離も、其々に問題が起こり、不幸を生み出しております。

完全な形の政教一致が完成するのは、イエス様が再臨された時でしょう。

さて、メルキゼデクは「パンとぶどう酒」を持ってアブラムを出迎えます。

この「パンとぶどう酒」ですが、最初は自分たちの糧食として用意したモノかも知れませんし、戦勝感謝のために神様に献げたモノを分け与えたのかも知れませんが、現代の聖餐式の「パンとぶどう酒」に繋がるモノであり、見えない神様の祝福を、目に見える形にして、味わうモノなのです。

パンとぶどう酒」は質でもなく、量でもなく、受けた事に意味があるのであり、見て、触って、口に運び、味わい、呑み込み、と五感で祝福を確認するのです。

不確かな言葉や観念的な理解ではなく、確かな体験を通して、神様の祝福を実感し、確信するのです。

14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。

14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

パンとぶどう酒」と「祝福」のどちらが優劣ではなく、先か後かでもなく、見えない「祝福」を見えるようにしたのが「パンとぶどう酒」であり、パンとぶどう酒」で「祝福」を確認するのです。

パンとぶどう酒」イコール「祝福」なのです。

そして、人間にとって一番必要なのは、本当に必要なのは、唯一の神様から与えられる「祝福」なのであり、人間が神様から最初に与えられたのも「祝福」なのです。

創世記128節「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と記されている通りです。

増える祝福、働きの祝福が、人間にとって全てであり、他に必要なモノはないのです。

そして、神様から「祝福」即ち「パンとぶどう酒」を受けた者は、自発の応答が期待されます。

神様から祝福を受けたアブラムは「すべての物の十分の一」をメルキゼデクに与えます。

与えた」と訳していますが、意味は「献げた」でしょう。

祝福を受け、献げるのです。

献げモノは、最高のモノでなければなりません。

アブラムが取り戻したものは、要らない物、不要な物ではありません。

命を懸けて取り戻したのであり、どれも大切な物であり、全てが大事な物ですが、その大切な物の中から、大事な物の中から「十分の一」を献げたのです。

全体の「十分の一」だけれども、価値のないものを選んで献げたのではありません。

全体の「十分の一」だけれども、価値としては二十分の一三十分の一ではなく、量も、質も「十分の一」を献げたのです。

時々、教会にソファーだとかの献品がありますが、多くの場合、中古であり、しかも、買い替えて不用になったので…では神様が悲しまれはしないでしょうか。

勿論、使っていないから献げる…、或いは、必要を知ったけれども、新品を献げる余裕がないから中古を献げる…を問題にしているのではありません。

処分するような物を神様に献げるのですか、教会は不用品回収の場ではありません。

献げ物は、形だけを整えれば良いのではないのです。

アブラムは祝福を受けて、喜んで「すべての物の十分の一」を献げたのです。

感謝に溢れて、惜しみなく献げたのです。

出自不明の王であり、異教の祭司であるメルキゼデクですが、「天と地を造られた方、いと高き神」の御名の故の祝福だったので、アブラムは祝福を受け、感謝を現し、「十分の一」を献げたのです。

14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」

ソドムの王の申し出は、当時の社会で一般的に行なわれていた申し出であり、特別太っ腹な申し出をした訳でも、寛大な申し出をした訳でもありません。

サムエル記第一、30章にダビデが捕虜となった人々、奪われた財産を取り返すエピソードが記されています。

そこには、人は返すけれども、財産は戦いに加わった者だけが分配すべき、との遣り取りが描かれています。

奪い返した財産は、功労者に所有権があり、その権利を行使するのが当たり前でしたが、

アブラムは権利を主張せず、放棄します。

二つの理由が考えられましょう。

一つは、この戦い、ロト救出作戦が、全て、終始、神様の働きであり、神様が受け取るべきである、と理解していたからでしょう。

アブラムたちは、遠征しましたが、置き去りにされた人々、財産を取り戻しただけであり、実際には戦ってはいないのであり、受け取る権利はない、と理解していたのではないでしょうか。

ソドムの財産も、取り戻せたのは神様のお陰であり、全部を元の持ち主に返しても、何の損もしてないのであり、

ロトとロトの家族、使用人、ロトの財産を取り戻したのだからもうそれで十分、と考えたのでしょう。

もう一つは、ソドムの財産を受け取ったなら、不名誉な結果になる、との予感が働いたのでしょう。

ソドムの王の申し出は、多分に見栄っぱり的です。

事務的であり、感謝の言葉も、労わりの言葉もありません。

そんなものを受け取っては不名誉になりかねません。

何故ならば、箴言234

23:4 富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。

23:5 あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。

23:6 貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。

23:7 彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、「食え、飲め。」と言っても、その心はあなたとともにない。

23:8 あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする。

箴言2017

20:17 だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。」のです。

更に、ソドムの財宝は、異教的な物で溢れていたのではないでしょうか。

偶像があり、如何わしい物があり、そんな物を持っていては害になりこそすれ、益はもたらしません。

真の意味で、人を富ませるのは神様だけであり、神様に従う民として、正当な手段で得なければならず、神様に従う民として、相応しい物を選ばなければならないのです。

ソドムの王の申し出に接し、

14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。

14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。

14:24 ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

アブラムも、アブラムの甥のロトも裕福な資産家でしたが、貰った物が一つでもあれば、何を言われるか、知れた事ではありません。

どんな僅かな物でも、価値のない物でも、上げた方は自慢げに吹聴するでしょう。

そんな愚を避けると共に、ソドムとは何一つ共有しない、共通点を持たない決意の現われでもありましょう。

聖なる民は、俗なる民と区別して生きなければならず、聖でなければならないのです。

この世に生きながら、この世と関わりながらも、区別した聖なる生き方が求められるのです。

自己満足かも知れませんし、妥協する部分があり、完璧でなければ意味がないとの考え方もあるでしょうが、仕方がない、まあ良いか…は良くありません。

あなたの所有物から私は何一つ取らない」との判断は賢明な判断です。

しかし、それはアブラムの考えであり、アブラムの生き方です。

持っている考えを明確に表明しつつも、自分の考えを他人に強制してはなりません。

アブラムと、盟約を結んでいたアネル、エシュコル、マムレの援軍とは、考え方も、価値観も違います。

ソドムの物を一切受け取らないのはアブラムの考えであり、アブラムと歩調を合わせさせようとするのは、或いは、受け取る事を非難するのは、アブラムのする事ではありません。

自分は正当な権利であっても、行使しない。

あなたも私に倣えは、不当であり、逸脱です。

ソドムの王の申し出は、物質的な祝福であり、何時しか無くなる物です。

そんな無くなる物、奪われてしまう物ではなく、無くならない、奪われる事の無い祝福こそ、受け取るべきであり、選ぶべきなのです。

【適応】

私たちは持っていないと心配になり、確認出来ないと不安になります。

しかし、この世に、変わらない物、永遠な物、信頼出来る物、信頼に足る物があるでしょうか。

全てに納得出来る確認が取れるでしょうか。

人も、物も、変ります。

どんなに財産があっても、お金があっても、名誉があっても、地位があっても、それらは永遠を保証するモノでは在りません。

アブラムは、何の人的、物的損失も無く、甥のロトを救い出し、ロトの家族を助け出し、ロトの財産の全てを取り戻し、合わせてソドムの人々を救い出し、ソドムの財産を取り戻しました。

アブラムは、ウルを出立し、カナンに至るまでの長い旅路を通して、人と物に対する神様の祝福を実感し、また、今回のエピソードでも人と物とを取り戻し、背後で働かれる神様と、神様からの祝福を実感した事でしょうが、それらの物質にもたらされた祝福は、物質に現された祝福は、何時しか物質と共に無くなってしまうものです。

人は増えても、取り戻せても、何時しか死ぬのであり、死んだ命を取り戻す事は出来ません。

物が増え、物は取り戻せても、何時か壊れ、段々減り、遅かれ早かれ無くなってしまいます。

しかし、永遠に無くならないモノ、決して減らないモノ、永久に変らないモノ、取られないモノ、無くさないモノがあるのであり、それは、神様ご自身であり、神様からの祝福です。

人や物を根こそぎ取られても、神様が付いていれば、取られた人や物の何十倍、何百倍を取り戻せるのであり、人や物は取り戻せなくても、神様が共に居てくださる事に、神様が祝福してくださる事に、永遠の命を与えられている事に勝るモノがあるでしょうか。

アブラムは、人と財産を取り戻し、神様の臨在を確信し、安心したでしょうが、神様はメルキゼデクを送って、人と物以上に大切モノの存在を教えたのであり、それが「いと高き神よりの祝福」なのです。

神様が共に居てくださる事、神様に見守られている事こそ、最大の祝福なのです。

家族に恵まれ、友人に恵まれ、金銭的に苦労をする事も無く、物心ともに満たされていても、神様からの祝福が無いなら、先細りであり、未来は明るいとは言えません。

しかし、家族や友人も無く、金銭にも恵まれず、この世では満たされなくても、神様からの祝福が与えられているなら、祝福は減る事なく満たされ続け、栄光に輝く未来が保証されているのです。

私たちに祝福を宣言し、祝福を与えるメルキゼデク、イエス・キリストこそ何にも替え難い貴重な存在なのであり、現代においては、礼拝における「聖餐」と「祝祷」に勝る祝福は無いのです。

物質的祝福は具体的であり、現実ですから、確認出来、確信しますが、霊的祝福は観念的であり、見えず触れませんから不安でしょうが、霊的祝福こそ、何にも替え難い、何にも満たされ得ないモノなのです。

あなたは神様から「祝福」を受けていますか。

祝福を受ける秘訣は、聖書の言葉を信じ、神の子イエス様を信じる事だけです。

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聖書箇所:創世記141316                2015-6-7礼拝

説教題:「甥ロトの奪還…背後で働かれる神様」

【導入】

アブラムとアブラムの甥のロトは、結果として別れて暮す事になりましたが、喧嘩別れ、仲違いをした訳ではありませんでした。

アブラムの僕らと、甥のロトの僕らの、家畜のための牧草地争いがきっかけにはなっていますが、幾ら地味の豊かな土地であり、牧畜に適した土地であり、農作にも適した土地であり、住むにも適した土地であっても、無制限に家畜や人を養える訳では、人々の生活を支えられる訳ではありません。

容量、限度があるのであり、限度を越えたなら、土地は疲弊し、家畜や人々を養えなくなり、また、家畜にも人にも「パーソナル・スペース(エリヤ)」が必要であり、過剰に接近、密集すると、ストレスが溜まり、肉体的にも精神的にもよろしくありません。

別れて暮す事は自然の流れであり、

また、創世記128生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」の命令にも合致するものであり、真の神様を知る信仰者が各地に分散してこそ、真の神様を知らない人々が、真の神様を知るチャンスとなるのではないでしょうか。

勿論、まだこの時点で、アブラムにも甥のロトにも、「宣教」の意識は無いでしょうが、

取るに足り無い小さな家族であった、しかも家長になる前のアブラムに神様が現れてくださり、神様の命令に従って果てしの知られぬ旅に出たのであり、創世記12章、13章で神様から特別な祝福を受けたのであり、神様に選ばれた民との自覚があり、周りの民族と違う事は、意識していたのは間違いないでしょう。

とは言え、まだ十戒も、聖書も与えられていないのですから、生き方の指針はこの世の常識であり、当時の文化、習慣、しきたりの影響下にありましたが、それは仕方のない事であり、責められはしません。

この時点では神様の命令への従順と信頼だけが問われ、従順と失敗を、行きつ戻りつを繰り返しつつ成長するのであり、大小様々な出来事を通して、神様の臨在を体験し、常に神様を意識した生き方へと、少しずつ、徐々に変えられて行くのです。

さて、アブラムと別れて暮す事になったアブラムの甥のロトは、ヨルダンの低地、良く潤った土地を選び、ヨルダンの低地、ソドムの町の近くに住む事になりますが、そこで北の4大強国と、南の弱小5国の争いに巻き込まれ、拉致されてしまいます。

【本論】

14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。

ここに二つの民族が記されています。「ヘブル人」と「エモリ人」です。

先ず、「ヘブル人」ですが、「エベル」が変化しての言葉です。

創世記10章にはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの子孫が紹介されています。

創世記1021節以降にセムの子孫が紹介されていますが、セム一族を代表する重要な子孫が「エベル」であり、エベルの子孫からアブラムが誕生しているのです。

そして「エモリ人」ですが、創世記106節以降にハムの子孫が紹介されていますが、

エモリ人はハムの子、カナンの子である事が記されています。

この事は、とても重要です。

何故ならば、ハムとカナンは創世記922節以降に記されているノアの醜態事件の主役であり、ハムとカナンはノアから呪いを受けているからなのです。

呪いを受けたハムとカナンですが、ハムとカナンのみならず、

創世記925

のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

9:26 また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。

9:27 神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。

と、ハムとカナン、ハムとカナンの子孫は、セムやヤペテの僕の僕になる運命が宣言されているのです。

兄弟たちのしもべらのしもべとなれ」とは、何と厳しい、過酷な宣言でしょうか。

聖書の教える、祝福と呪いの関係は、祝福は千代に及び、呪いは三代、四代に及ぶ、と言うものであり、呪いは本人が受けるものであり、父の咎について子には責任が無く、子の咎について父には責任が無い、が基本的な考え方ですが、呪いを受けるような性質は引き継がれ易く、呪われるような言動を生むような環境は、呪われるような言動を醸成するような環境は、正しい者を呪われるような者にしてしまい易いのです。

ですから意識して離れなければならず、意識して関係を切らなければならないのです。

親子兄弟の関係であっても、地域と切り離せないほどに密着していても、涙を流し、血を流してでも離れなければ、直ぐに染まってしまうのであり、かように罪の力は強く、執拗なのです。

このような過去を、歴史を持つエモリ人であり、マムレ、エシュコル、アネルですが、

アブラムとは遠い関係ではありますが、親戚関係にあり、アブラムと、マムレ、エシュコル、アネルは「盟約」を結びます。

盟約は、不可侵条約のようであり、危急の時に助け合う連合協定のようなもの、と理解すると良いでしょう。

遠い関係とは申しましても、ご先祖様ノアに呪われた一族の末裔と盟約を結ぶのは、如何なものかと思われましょうが、呪いの性質にも注目しなければなりません。

呪詛、関係の断絶、一族衰退、滅びの宣言ではなく、兄弟たちのしもべらのしもべとなれ」との宣告であり、神様のご計画の本流から外され、決して主流になる事はなく、主流を助けるような役回りになる事を宣言しているのであり、アブラムたちの危急の時に僕となって助けるべき働きを委ねられている一族との、宣言なのではないでしょうか。

そもそも、前回お話ししたように、単独で生きるのは難しい時代であり、誰かと盟約を結ばなければなりませんが、奇しくもその備えがなされていた、「ハムの子孫アブラムの僕の僕となった」と言う事なのです。

14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。

聖書は「自分の親類の者」と表現していますが、意味する所は「甥のロト」です。

親類の者」と訳されているヘブル語の直訳は「兄弟」であり、且つ「親類、同胞」との意味を持っていますから、親類の者」と訳しつつも、アブラムが甥のロトを「親類の者」以上に思っていた事を暗示させています。

ここで「しもべ」と訳されているヘブル語は、聖書中、ここ一箇所でしか使われていないヘブル語であり、その意味は「訓練された僕、経験豊かな僕、武装した従者」であり、家族に近い関係であり、より重要な仕事に従事する僕たちです。

一般的な意味の僕の集団318人ではなく、アブラムのために命掛けで戦ってくれる有能な従者たちであり、アブラムはその信頼出来る武装従者318人と、盟約を結んだマムレ、エシュコル、アネルの率いる武装集団とで、甥ロト奪還軍を編成し、甥ロト救出に向うのです。

ダン」は後に付けられた地名であり、士師記1829節に命名の由来が記されていますが、当時は「ライシュ」と呼ばれていました。

マムレの樫の木」は場所を特定出来ませんが、塩の海の西30km、ヘブロンの北10km程の所にあったとされ、ダン」即ち「ライシュ」はガリラヤ湖の北40km程の所にあり、

マムレの樫の木」と「ダン」は凡そ170km離れています。

巻末の地図「12部族に分割されたカナン」で位置関係をご確認くださると良いでしょう。

通常なら5日程度の旅程でしょうが、悠長な物見遊山の旅ではありません。

甥ロト奪還の追跡行ですから、2日乃至3日の強行軍で走破したのではないでしょうか。

14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。

多勢に無勢では、見晴らしの利く昼日中の戦いは不利です。

加えて、170km走破の、強行軍の疲れを少しでも癒し、気力、体力を回復するために、暫しの休息を取り、「夜になって」奇襲を掛けます。

現代のような夜戦の装備がある訳ではありませんし、意思伝達手段も簡素なものでしかありません。

闇夜の戦いは双方にとって有利ではありませんが、兵力の差を補い、損害を出来るだけ避けつつ勝利を得る作戦と言えるでしょう。

今日の説教の聖書の個所には、神様に対する祈りはなく、神様のご介入を暗示させる記録はありませんが、聖書は、記すと記さざるとに関わらず、神様を啓示する書物であり、全てをご支配しておられる神様を抜きにしての出来事はありませんから、神様が何らかの形で関わられての作戦である事は申すまでも無いでしょう。

神様はどのような形でアブラムに関わられるのでしょうか。

戦いの様子を聖書は「彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した」と記されていますが、北の4大列強国連合軍の主力部隊への奇襲ではなさそうです。

主力部隊は、各地から略奪した物資を運ぶ凱旋の途上であり、殿(しんがり)とは相当の距離を隔てていた事でしょうし、たとえ殿(しんがり)であるにしても、北の4大列強国連合軍が襲われるなどとは、誰が想像するでしょうか、誰もが露ほどにも想像しなかったのではないでしょうか。

襲う事はあっても、奪う事はあっても、襲われる、奪われるなど、想定外の事だったでしょう。

歯向かう者など皆無だ、と安心して、野営している寝込みを襲われては、なす術がありません。

更には神様が働かれて、混乱が起こり、同士討ちが起こり、収拾がつかない状態に陥ったのではないでしょうか。

ロト救出部隊は「ダン」から「ダマスコの北にあるホバ」まで追撃を続けます。

ダマスコ」は、巻末の地図をご覧になられるなら「12部族に分割されたカナン」の右上端、ガリラヤ湖の北東90kmの所にあり、ダマスコ」の北一帯の広い地域が「ホバ」です。

ダン」から「ダマスコの北にあるホバ」まで、凡そ50kmです。

敵地深くにまで攻め入った訳ですが、逆襲に合う事もなく、アブラムとマムレ、エシュコル、アネルの率いるロト救出部隊は、難なく当初の目的を果たし、

14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

のです。

救出の結果は、アブラムの目線でロトとロトの財産、家族の事だけが記されていますが、

少なくとも「ソドム」からの略奪物、ソドムの家畜や農作物、ソドムの住民を取り戻した事は確実です。

次回学びますが、創世記1421節で、ソドムの王様が「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」と申し出ているからです。

ロト救出部隊の被害についての記述がありませんが、15節、16節に「戦った」の類の意味の記述が無く、「打ち破り」「追跡した」と、一方的な戦いであった様子が記録されており、また、「取り戻した」と記されていて、ロト救出、財産奪還が何の障害も無く、困難もなく行われた事が暗示されています。

「奪い返す」までもなく、略奪物、強奪物を置き去りにして逃げていってしまったのであり、北の4大強国にとって、見捨てても惜しくはない量だったのでしょう。

【適応】

先に、今日の説教の聖書の個所には、神様に対する祈りはなく、神様のご介入を暗示させる記録はありません、と申し上げました。

出来事は幸運の積み重ね、偶然の積み重ねと思えましょうが、良く読むと、そこ彼処に神様が働かれた痕跡を見る事が出来ます。

一に、13節「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた」です。

悪い知らせは早い方が良い、が常識ですが、即刻では早過ぎる事もあります。

特に、アブラムの時代、全てが人手に頼らなければなりません。

情報伝達の全てが「人手」にかかっています。

準備も実行も「人手」に頼らなければ何も出来ません。

人手は時間がかかります。

しかし、時間がかかる事が、益をもたらす事もあるのであり、逃亡者がアブラムの所に来る時間、救出隊を組織する時間、救出に向う時間、この合計の時間を用いて、神様が働かれ、北の4大列強国連合軍、略奪隊の分断、主力戦闘部隊と輸送部隊の分断を生み、背後への警戒を緩め、油断を生み、救出を容易にするべく、備えてくださったのです。

次ぎに、同じく13節「彼らはアブラムと盟約を結んでいた」です。

「遠い親戚より、近くの他人」と申しますが、所詮、他人は他人であり、利害が一致している間は協力してくれても、本当に命がけにはなってはくれません、最後の最後まで責任を持ってはくれません、とことん助けては、徹底的に助けてはくれません。

しかし、親戚ならば、完全を期待出来なくても、他人よりは期待出来るのではないでしょうか。

マムレ、エシュコル、アネルはアブラムの親戚であり、他人同士の盟約よりは大きな期待を持てるのは確かでしょう。

しかも、事前に盟約を結んでもいたのです。

事前に盟約を結んでいてこそ、双方に意識が定着し、心の準備が出来るのであり、

依頼に応答出来るのではないでしょうか。

神様は、アブラムだけでは手強い相手に立ち向かう備えをしていてくださったのです。

また、カナンはアブラムにとっては、未知の土地であり、新参者でしたが、神様は事前にアブラムの親戚「マムレ、エシュコル、アネル」を備えてくださり、アブラムのカナン入植をスムーズに運んでくださったのであう。

次ぎに、「夜になって」ですが、これについては先にお話しした部分は、割愛しましょう。

甥ロト救出作戦は、神様が表面に出る事はありませんが、全くの背後で働かれたのであり、アブラムの僕らに、マムレ、エシュコル、アネルの僕らに犠牲を出さず、甥ロトとその家族、その財産の全て、ソドムの人々とその財産の全てを取り戻させてくださいました。

戦って、その結果、取り返した、奪い返したのではなく、戦わずして、全てを取り戻したのです。

取り返したも、取り戻したも、結果は同じですが、自分が主体的に行動した結果か、神様が主体的に動かれた結果かは、大きな違いなのではないでしょうか。

戦い、即ち、働きですが、戦った結果、働いた結果、ロトたちやロトの財産を取り戻したのではなく、戦わずして、働かずして、ロトたちやロトの財産を取り戻したのであり、

神様の一方的な恵みである事が明らかです。

神様のお働きは、明確に分かる場合と、そうでない場合がありましょう。

そして、多くの場合、明確には分からない場合の方が多いようです。

しかし、事件が終息し、振り返った時、思い返した時、渦中では気が付かなかったけれども、不思議な導きや偶然を見る事があるのではないでしょうか。

捕虜が逃げられたのも、逃亡者が来て告げたタイミングも、たまたま。

親族が住む所に滞在したのも、偶然。

盟約を結んだのも、計画や予感があってのことではなく、普通に行われている事であり、成り行き。

夜襲という作戦を選んだのも、疲れを取って、態勢を整える必要からであり、作戦会議を開いて、練りに練った作戦ではない、特別な事ではない。

ロトたちやロトの財産、ソドムの人々やソドムの人々の財産を取り戻せたのは、運が良かっただけ。

世の人々はこのように考えるでしょうし、誰もが同意するでしょう。

しかし、神様が働かれたのであり、神様が備えをなされたのであり、結果、犠牲を払う事なく、血を流す事なく、全てを取り戻す事が出来たのです。

但し、この史実を持ち出して、全てが同じようになると考えるのは早計です。

私が困ったとき、私の身内が災難に合った時、同じような助けがある事を保証している訳ではありません。

アブラムのロト救出作戦の場合には、直ぐに期待する結果に結び付く事となりましたが、

まだまだ未熟なアブラムの信仰を成長させ、神様に対する従順の訓練のために、私たちの信仰の成長のために、神様に対する従順の訓練のために、期待以上の結果を与えてくださり、記録してくださったのです。

神様が背後で働かれている事に、疑問を挟む余地はありませんが、期待通りの結果ではないかも知れませんし、期待とは違った結果が与えられるかも知れませんが、神様は私たちを見守っておられる事は、確かです。

どんな結果になろうと、見捨てられた結果ではなく、無視された結果でもない事は断言出来ます。

どんな結果であっても信仰と従順を持って、「アーメン」「その通りです」と応答する者でありたいと願うものです。

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