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聖書箇所:創世記18:1~8 2015-9-27礼拝
説教題:「サラの受胎・出産告知…その前に」
副題:「持て成し、施し、奉仕の原点」
【導入】
日本の諺に「大事の前の小事」と言う言葉がありますが、この言葉には幾つかの意味があろうかと思います。
一つは、小事は大事を予告する出来事であり、小さな、見逃しそうな出来事だけれども、重大な事象の予兆であり、小さな変化にも気を配らなければならない、と言う意味であり、今一つは、大事を行なうには小事を犠牲にしてもやむを得ない、と言う意味であり、
もう一つは、日常茶飯事に対する態度であり、小事だからと言って軽んじる事なく、誠実に行なってこそ、大事を任される、大事に対処出来る、と言う事ではないでしょうか。
振り返って見ると、大事は突然やって来る事が多いように思えますが、平素の生き方が少なからず影響しているのであり、注意深い、誠実な生き方が、大事の備えになっているのであり、大事を乗り越える秘訣なのではないでしょうか。
更に、大事も小事も、大きな差はなく、意識の問題なのかも知れません。
大事であろうと、小事であろうと変わりなく、誠実に取り組むべきであり、しかも、その誠実さ、注意深さが、自身の利害を越えて、神様に対しても、人に対してもであるならなお更です。
アブラハムは99歳の生涯の半ばで神様のお取り扱いを受け、多少の紆余曲折はありましたが、概ね、誠実に、注意深く生きて来たのであり、神様の命令、指示に忠実に歩んで来たのです。
神様は、アブラハムの人生に、幾つかの小事を用意されたのであり、その小事を通して、整えられ、進むべき道を選び、ユダヤ民族の祖とされて行くのです。
カルデヤ出立の命令、割礼の命令も、然りです。
カルデヤ出立の命令、割礼の命令は決して小事ではありませんが、小事と見做して、先送りにする事も出来たでしょうし、無視する事も出来たでしょう。
しかし、アブラハムは躊躇せず、即刻、時を移さずに従ったのです。
カルデヤを出立してこそ、割礼の命令に従ってこそ、神様との契約に入って行くのですが、世捨て人となる訳ではなく、この世に置かれ、この世に生きつつ、神様と共に歩むのであり、この世のルールや文化とも深く関わりつつも、この世において神様の栄光を現さなければなりません。
割礼は特別な印であり、世と区別する印ですが、世と関わって生かされている事を教える小事がアブラハムに臨みます。
【本論】
18:1 【主】はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。
この光景は、日常の一齣であり、特別な光景ではありません。
パレスチナ、中近東は日差しが強く、その熱気はうんざりする程だそうですから、多くの人が、正午の強い日差しを避けて、天幕の中で昼寝をし、日差しが弱まるのを、熱気が去るのを待ちます。
そうしなければ身体が持たないのです。
日本では体験できない光景でしょうが、暑さで景色が霞み、視界がぼんやりしている、
そんな時に、旅人がやって来たのですが、昼寝の最中であり、辺りが朦朧としている時間帯ですから、また、日差しの強い時間帯の旅は想像以上に身体の負担になりますから、旅をしないのが常識ですから、突然の旅人の来訪に、暫くは気が付かなかったようです。
しかし、これは、旅人を持て成す文化の中近東世界では大きな失態です。
18:2 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。
古来、パレスチナ、中近東では、客人、旅人を持て成すのは一つの大きな美徳であり、充分に持て成せるか否かは、人徳に関わる事です。
知人であろうと、見知らぬ人であろうと、また、自分がどんなに具合が悪くても、都合が悪くても、忙しくても、持て成す社会なのであり、持て成しを受ける社会なのです。
厳しい環境のパレスチナ、中近東で生きるための、助け合いの精神でしょうが、それ故に、突然の来訪ではありましたが、気が付かなかった、では済まされません。
アブラハムは旅人に気が付くなり、慌てて、旅人を迎え入れたのですが、多少の恥ずかしさ、気まずさもあり、最大級の挨拶をするのですが、4節以降の記述と合わせて、大変な持て成しであった事が分ります。
18:3 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。
「ご主人」との呼びかけは、最大級の敬意、尊敬を込めた呼び掛けであり、「お気に召すなら」との誘い言葉は、日本風に表現するなら「誠に質素な持て成ししか出来ませんが」であり、「あなたのしもべ」との表現も、謙りの姿であり、恩着せがましさや、嫌々ながらの気配は微塵も感じられません。
ともすると、やってあげている感、優越感、自己満足感が出てしまうような場面ですが、
持て成すのが文化の、持て成しを受ける文化、ならではの会話です。
18:4 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。
水の豊富な日本では何の感動も呼び起こさない会話であり、光景ですが、パレスチナ、中近東で水は本当に希少であり、水は想像以上の貴重品であり、土埃で汚れた足を洗う水を提供するのは持て成しの始まりなのです。
日本では「足湯」が疲れを癒しますが、パレスチナ、中近東では足を洗ってさっぱりし、旅の疲れを取り、その上で、食事の持て成しを受けるのです。
18:5 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」
「少し食べ物を持ってまいります」との言葉は、日本風に言うなら「何もありませんが」「お口に合いませんでしょうが」「粗末な物ですが」と言ったところでしょうか。
日本でも、地方の民家では、こんな光景に出会う事は珍しい事ではありません。
「何もないけど」と言いながら、沢山のお菓子や果物、惣菜を振舞う事が、時には、一晩泊める事もあるのですが、パレスチナ、中近東では、紀元前からこんな暖かい習慣があったのであり、アブラハムはそれを実践していたのです。
アブラハムは、裕福であったとは言え、自身も旅の途中であり、明日は何処(いずこ)、の身分であり、生涯、再び会う事のない旅人を持て成しても、何の益にもなりませんが、損得ではなく、パレスチナ、中近東の習慣を尊重したのであり、究極的には、神様の御こころである「神を愛し、人を愛する」を実践したのであり、自分に出来る事をしたのです。
18:6 そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」
18:7 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
6節から8節の、たった3節に「急いで戻って」「早く」「走って行き」「手早く」と、アブラハムの持て成しの姿勢、指示が如何ようであったか、かが記され、態度と共に、実態を伴った持て成しである事が続けて記されています。
「三セアの上等の小麦粉」は、約39リットルの、木目細かく挽いた小麦であり、3人分には多過ぎる量ですが、これが持て成しの原点なのであり、イースト菌は入っていなかったでしょうが、最高の焼き菓子を提供したのであり、「おいしそうな子牛」はこれまた貴重品の最たる物であり、合わせて、最高の持て成しをしたのです。
持て成すのは問題ではないけれど、急に来られてはねえ。
こんな真昼間に来られては、ちょっとねえ。
涼しくなってから来るのが常識でしょうに。
まあ、非常識な人たちだから、適当な物を出しときなさい。
こんな声が聞こえてきても不思議ではない状況、場面ですが、アブラハムの口からも、サラの口からも、若い者の口からも、不平や呟きは一切聞こえては来ません。
普段の生き方、考え方が、こういう時に出るのであり、アブラハムが普段から、常に旅人や客人を持て成す心構えでいた事の証拠であり、サラの普段が出たのであり、若い者たちの普段が出たのであり、アブラハムの生き方、考え方が周知されていた事を雄弁に物語っています。
しかも、客人の給仕をアブラハム自らがしたのであり、見ず知らずの旅人をも特別な客として、家長自らが持て成す事を、しかも、その時出来得る最高の持て成しをする事を、アブラハムは一族の不文律とするのです。
【適応】
パレスチナ、中近東の持て成しは、社会の慣習ではありますが、あくまで好意であり、善意であり、自発ですから、強制されるものではなく、強要すべきものでもなく、持て成しの基準、ルールがある訳でもありませんが、アブラハムの持て成し方は、一つの基準、あるべき姿、を提示したものとなっています。
誰に対しても、最高の持て成しをするのが、アブラハム一族の不文律となったのです。
人を選んで、この人は関係が深いから、このレベルで、この人は関係が薄いから、このレベルで、であってはなりません。
しかも、持っている物で持て成すのであり、無理して持て成すのではありません。
自分に出来る範囲で持て成すのであり、大変だから、助けて、であっては、持て成しの意味は半減し、そんな持て成しは苦痛であり、喜びはありません。
しかも、適当な物、いい加減な物で持て成すのではなく、今、持っている物の中から最高の物で持て成すのです。
勿体無いから、次ぎに廻す、今回は、この程度でいいや、であってはなりませんが、無理して、超最高級品を提供する必要もありませんし、わざわざ買ってくる必要もありません。
無理した持て成しは、する方も、される方も苦痛でしかありません。
アブラハムは喜んで、見ず知らずの旅人を受け入れ、持っている物の中から最高の物を選び、多過ぎるくらいの物で持て成したのですが、苦痛は一切ありませんでした。
喜びに溢れて、持て成したからであり、三人の旅人も、そんなアブラハムの持て成しだからこそ喜んで受けたのであり、交わりの原点がここに記されているのです。
アブラハムは自分の立場、持っている資産、与えられた権威、実力の中で、持て成したのであり、身分不相応な、資産に見合わない、持っている権威、実力以上の持て成しをしたのではないのであり、これを覚えていなければ、忘れてはなりません。
自分がすべき時には、自分の実力、自分の時間、自分の工夫の中で行なえば良いのであり、見栄を張ったり、他人を巻き込むのは持て成しの本意を逸脱します。
「持て成し」は「施し」「奉仕」に通ずる所がありますが、施しに無理や、実力以上は禁物ですし、奉仕にも無理は、実力以上は禁物ですし、人との比較や競争があってはなりません。
時に、不本意ながらしなければならない時もありましょうが、喜んで、喜べる範囲で、最大限の「持て成し」「施し」「奉仕」が出来たなら、素晴らしい事ではないでしょうか。
皆様の「持て成し」「施し」「奉仕」は如何でしょうか。
無理をしていませんか。
実力以上になっていないでしょうか。
喜んでしているでしょうか。
無理しているなら、実力以上なら、喜べないなら、無理でないレベルに落とし、実力の範囲内に止め、喜んで出来る所までにする。
それで充分であり、神様もそんな「持て成し」「施し」「奉仕」を求めていらっしゃいます。
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説教者:中村 孝 牧師
聖書個所:ペテロの手紙第2 1:20~21 2015-9-20礼拝
説教題:「聖書は神のことば」
【聖書】
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
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聖書個所:ヨハネ6:16~21 2015-9-13礼拝
説教題:「恐れることはない」
【導入】
5000人の食事の準備は、お金があっても、お店があっても、材料があっても大変なことです。
しかし、イエス様はたった5つのパンと2匹の魚を分けることで5000人の空腹を満たしたのです。
普通、分ければ減ります。
2人で分ければ2分の1。
4人で分ければ4分の1となります。
5000人で分ければ5000分の1ですから、元の量の0.002%。
5つのパンの0.002%、これでは雀の餌にもならない量です。
しかしイエス様は分けることによって増やしたのです。
数学や、調理法ではできないことです。
それができたのは、イエス様が何もないところから何でもお望みの物を造り出すことのできる神様だからです。
0から何でも造り出すことができるのですから、5つのパンがあれば、5000倍、10000倍に増やすことは造作のないことです。
最初は子どもの弁当でしかなかったものが、献げられたことによって、分けられたことによって大きく用いられたのでした。
5000人を養ったこの奇蹟は、人はパンだけで生きる者ではないが、生きるためにパンが必要である事を神様が知っておられ、神様がその必要を満たしてくださると言うことでした。
この奇蹟は、イエス様の後に付いて行った人々に大きな影響を及ぼしましたが、しかし、その影響はイエス様がお考えになっていた方向とは違ったものでした。
イエス様のお考えは、イエス様のなされる不思議な力を目撃して、神様を信じ、神様の国に招かれるに相応しい生き方に変わることでした。
一言で言えば「神を愛し、人を愛する」ことです。
しかし、人々はイエス様の不思議な力を目撃して、この方はモーセのような預言者の一人、ローマ政府の支配、抑圧、搾取からの解放者、政治的な指導者との期待をしたのです。
そしてイエス様をユダヤ人の王として担ぎ上げてローマ政府と戦おうと画策したのです。
そのことに気付いたイエス様は直ぐに、民衆を残し、山に退かれたのです。
イエス様は山に退かれましたが、弟子たちには付いて来ることをお許しにはならず、イエス様と弟子たちは別行動を取ることになるのです。
イエス様と弟子、そして民衆はバラバラになり、分かれて行動することになるのですが、ここで弟子たちだけがイエス様の不思議を目撃することになります。
福音書記者のヨハネはこのイエス様のなされた奇蹟を第5のしるしとして記録しています。
【本論】
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
5000人の給食の奇蹟はマタイの福音書、マルコの福音書にも記録されています。
そこには、この給食の出来事が遅い時刻であったことが記されています。
遅い時刻、または夕方と、一口に言っても、日本人の感覚でも、大きく違います。
国語辞典では夕方を「日が西に傾いてから、あたりが暗くなるまでの間」と説明しています。
日没の前後数時間を指し示すと言うことでしょうが、季節によってもその時間は大きく違って来ます。
ユダヤ人がこの夕方をどのように考えたかは分かりませんが、5000人にパンを分けるだけでも数時間は必要でしょうから、遅い時刻から始った給食が終わり、満腹した人々を解散させた時にはすっかり日が落ちて、あたりは暗くなっていたことでしょう。
その時に、イエス様は山に登り、弟子たちは湖の岸辺に降りて行った訳です。
事前にイエス様と弟子たちの間には打ち合せがあったのでしょうか。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
マタイの福音書とマルコの福音書にはイエス様が弟子たちを強いて舟に乗り込ませたと記しています。
イエス様は弟子たちに舟に乗り込むことを命じられた、強制されたのですが、夜に船を出すのは珍しいことではありません。
ルカの福音書5章5節には「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と記されていますし、ヨハネの福音書21章3節にも「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」と、夜中に船を出し、夜中に漁をすることが極普通の出来事として描かれていることからも明らかです。
夜に舟を出すことは珍しいことではありませんでしたが、何故イエス様は弟子たちを舟に乗り込ませたのでしょうか。
弟子たちと群集は、その霊的状態において大きな違いはありません。
弟子たちと言えども、イエス様が語られる主の御国の霊的な性格、意味について無知であり、群集の願い、要求に容易に賛同して、イエス様を王として担ぎ上げ、この世に王国を建設してしまいそうであったことを、知っておられたのでしょう。
そこで弟子たちと群集を分けるために、また、この後、行なわれる奇蹟を通して、イエス様に対する弟子たちの、霊的理解の助けとするために、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、カペナウムに向わせたのです。
カペナウムはガリラヤ湖の北西にあり、弟子たちが舟に乗り込んだのはガリラヤ湖の北東と考えられています。
直線距離で10kmに満たない所ですから、舟を操ることにかけてはプロである、漁師のヤコブ、ヨハネ、アンデレ、シモン・ペテロにとっては何でもない距離であったでしょう。
しかし、
6:18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。のです。
ガリラヤ湖は内陸部にある、南北20km、東西12kmの湖です。
大きさ的には、普通の湖、と言って良いでしょう。
しかし、地形的な特徴があり、それは回りを300m前後の山、丘陵に囲まれ、湖の水面は地中海の水面より200mも低いということです。
この地形的特徴から突風が吹き荒れることは珍しいことではなく、ガリヤラ湖で漁をする漁師を、舟に乗る旅人を困らせていたようです。
今日のヨハネの福音書の並行記事がマタイの福音書、マルコの福音書に記されていますが、マタイの福音書では「風が向かい風なので、波に悩まされていた。」
マルコの福音書では「向かい風のために漕ぎあぐねている」と記録しています。
舟を操る事にかけてはプロの漁師も難儀するほどの向かい風、波だったのです。
6:19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
イエス様を見て恐れた、とは理解しにくいところですが、マタイの福音書、マルコの福音書にはこの出来事が夜中の3時頃の出来事であることを記録しています。
出発したのが夕方の遅い時間、日が暮れてからですけれども、それにしても「四、五キロメートルほどこぎ出」すのに夜中の3時までかかるのは異常です。
進むこともままならず、どこかの岸に着けようにも、突風に悩まされてどうしようもなかったのでしょう。
舟は波を被って水浸しになり、今にも水没しそうであり、風に煽られて転覆の危険も迫っている。
疲れと、手の施しようのない状況に絶望的になっていた時に、真っ暗な湖上に人影を見たならば、どんなに剛毅(ごうき)な人でもギョッとするのではないでしょうか。
また、ユダヤ人の間には湖には幽霊が出ると信じられていたそうです。
それを証拠付けるように、並行記事であるマルコの福音書6章49節やマタイの福音書14章26節には「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。」と、その時の状況を記しています。
このイエス様が湖の上を歩く姿は、間違いなく奇蹟です。
この奇蹟は弟子と民衆の違いを教えています。
民衆に知らされる奇蹟もありますが、弟子にしか知らされない奇蹟もあると言うことです。別の言い方をすれば、弟子でなければ体験できない奇蹟、恵みがあると言うことです。
舟に乗り込んだ者たちだけが目撃し、体験した奇蹟なのです。
一般の弟子と、特別な弟子とでは、期待される働きに大きな違いがあり、与えられる恵みに大きな違いがあるのです。
イエス様は弟子たちを強いて舟に乗り込ませましたが、この特別な奇蹟の目撃者となるための備えであったことが明らかです。
ヨハネの福音書ではイエス様が給食の奇蹟の時に「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」と記していますが、この湖での出来事の時にも、イエス様は何をされようとしているかを知っていて、弟子を先に行かせ、御自身は水の上を歩いて、弟子たちに奇蹟の目撃者となるように仕向けたのです。
人間の身体が水の上を、乾いた地の上のように歩くということは、自然法則からは考えられない事です。
勿論、最初に水を創造された方にとっては、水の上を歩かれることは、水を創造されることと同じくらい容易なことです。
しかし、弟子たちには超自然的なことであり、しかも、真夜中の真っ暗な湖で、今にも舟が沈みそうな状況で、突然闇の中から人が現れたなら、信仰が有っても無くても、偶像礼拝者や不敬虔な無宗教な者であっても、全ての人間が、見えざる世界、神秘の世界の存在を認めて恐れるのではないでしょうか。
そのように恐怖におののく弟子たちに向ってイエス様は不信仰を叱る事なく、
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
イエス様は弟子たちの不安を敏感に感じ取り、直ぐに安心するように言葉をかけます。
イエス様は弟子たちに対して、彼らが見た、水の上を歩いている者は、霊や幽霊ではなく、敵や恐怖の対象ではないことを保証してくださったのです。
水の上を歩いて来られたのは、彼らの愛する主人であり、先生と慕うイエス様であり、
その方の声は弟子たちには聞きなれた声であり、風の中で、波の中で、安心を与え、恐れを一瞬の内に静めたことでしょう。
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
イエス様の声は弟子の心を静めただけでなく、風と波とを静められました。
マタイとマルコの福音書にはイエス様が舟に乗り込むと風がやんだと記しています。
こうして、向かい風に押し戻されることもなく、波に行く手を阻まれることもなく、目的地であるカペナウムに到着するのです。
【適応】
今日のテキストで舟は教会に例えることができます。
教会はイエス様の弟子が乗り込んでいる舟なのです。
その船旅は決して順風満帆ではありません。
舟が向かい風に阻まれて前に進めなくなることや、波を被って沈みそうになるように、
教会にも嵐が吹き付けて、進むのが困難になることも珍しいことではありません。
大波が襲いかかって来ることもあり、沈みそうになることも、稀なことではないでしょう。
弟子たちが一生懸命漕いでも、帆を操っても、自然の脅威の中でどうしようもない状況が永遠に続くかのように感じたように、教会も問題に悩まされ意気消沈することもあるでしょう。
しかし、絶望することはありません。
イエス様は弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、目的地に行くように命じますが、命じるだけで、後は自分たちだけで頑張れと言うお方ではありません。
私たちを先に行かせはしますが、後に残って、私たちの後から付いて来て、私たちの状況をご覧になり、声をかけてくださり、舟に乗り込まれ、安全に目的地に着くことができるようにしてくださるのです。
波風に怯えている弟子たちのために、執り成しをされ、助けてくださるのです。
イエス様が来て下さり、舟に乗り込んでくだされば、問題は直ぐに解決するのです。
悩みや問題は嘘のように雲散霧消するのです。
そして、直ぐに目的の港に着くことを得させてくださるのです。
ガリラヤ湖を良く知っていた弟子たちにも、ガリラヤ湖特有の風と波はどうすることもできませんでした。
しかし、パンを何千倍にも増やし、水の上を歩かれるお方は、風や波を一瞬の内に静めることができるお方なのです。
イエス様と一緒なら、どんな問題も問題ではなく、不可能も不可能ではないのです。
私たちにとってはどうしようもない自然法則も、イエス様にとってはイエス様の支配下にある事柄の一つであり、イエス様を悩ます問題は一つも存在しません。
イエス様の奇蹟はそれを教えるものであり、私たちがイエス様を信頼して歩んで行く助けなのです。
先に、この奇蹟は弟子と民衆の違いを教えていると申しました。
民衆に知らされる奇蹟もありますが、弟子にしか知らされない奇蹟もあると言うことです。
別の言い方をすれば、教会でなければ体験できない奇蹟、恵みがあると言うことであり、弟子でなければ体験できない奇蹟、恵みがあると言う事であり、更に、特別な働きのために召された弟子でなければ体験できない奇跡、恵みがあると言う事です。
教会の外にいては体験できない祝福があるのです。
逆に、教会には問題が無い訳ではありません。
イエス様の力と、この世の力が戦い、サタンの攻撃に曝されているのですから、問題がない方が不自然かも知れません。
問題があるかないかではなく、教会がイエス様を主としているかどうかが問題なのです。
イエス様が舟に乗り込まれるまで、弟子たちはこの世の常識、経験、体験で舟を操ろうとしていました。
しかし、この世の常識や力では対処できない問題も数多く存在するのです。
その時、イエス様をお迎えした弟子たちは、イエス様に自然を支配する力がある事を目撃しました。
教会の中にも、この世の常識、価値判断が横行しています。
神様、神様と祈りながら、イエス様の力に縋るのではなく、私たちの力で対処を試み、努力をします。
しかし、教会はイエス様が主であり、イエス様の力の現れるところであり、イエス様に従う弟子の集まるところです。
教会が一致してイエス様をお迎えする時、イエス様に従う一致がある時、一つとなり、全ての問題は解決するのです。
ガリラヤ湖で難儀していた弟子たちがイエス様を舟にお迎えした時、舟を翻弄していた問題は過ぎ去りました。
イエス様をお迎えするまでは何時間もかかって4,5kmしか、進まなかった舟が、イエス様を乗せたら何の問題もなく目的地に着いたのです。
これは舟に乗り込んだ者たちだけが体験した奇蹟なのです。
パンの奇蹟は、イエス様が私たちの肉の必要を知っておられ、満たしてくださることを、
水の上を歩く奇蹟は、イエス様が自然法則に縛られることなく、自由に私たちを助けてくださることができることを教えています。
イエス様の奇蹟とその教えるところは、しばしば、一見したよりもはるかに深いものなのです。
自然を支配するイエス様をお迎えする時、恐れは消え、全ての問題は解決し、目的地に着くことができるのです。
すでにイエス様を迎え入れている私たちですから、教会という舟に乗って、恐れる事なく、漕ぎ出しましょう。
そうすれば、ほどなく目的の地である天の御国に着くのです。
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聖書個所:ヨハネ6:1~15 2015-9-6礼拝
説教題:「5000人の給食」
【導入】
イエス様は5つの証言によって、ご自分が神様から遣わされた神の独り子、人類の罪の贖い主、救い主である事を証明しようとされましたが、それでもまだ、頑なに信じようとしない人がたくさんいたのです。
確かに、人の言葉には、信じられない部分もあるでしょうし、 聖書に書いてあるからといっても、聖書の証言する人物が、目の前にいるイエス様の事だとして受け入れる事は難しい事でしょう。
しかし、イエス様の証拠としての奇跡を見た人は、人間にはできない事をしているのですから疑う余地がない事なのではないでしょうか。
それでも疑う人や、信じられない人が多勢いて、別の奇跡を目撃したら、納得のいく奇跡を目撃したらと、何時までもどっちつかずでイエス様の後を付いて行ったのです。
そんな群集に、愛想をつかす事もなく、また、彼らの必要にまで気を配り、今日のテクストの箇所では5000人の人々の、食事の心配までしてくださるのです。
ヨハネはこの給食の出来事を第4のしるしとして紹介しています。
【本論】
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6章に入ると舞台はエルサレムからガリラヤに移ります。
エルサレムでの祭司、律法学者、パリサイ人との論争に区切りをつけるため、 更には、ユダヤとサマリヤの全土に福音を宣べ伝えると言う使命があるからです。
イエス様は多くの病人を癒され、また奇跡を数多く行なわれましたが、癒しや奇蹟を行なう事が目的でこの地上に来られたのではありません。
イエス様の来られた目的は、人々の救いのために十字架に架かるためであり、神様のご計画を完成させるためであるのです。
数々の奇跡を行なわれたのも、人々がイエス様を神の独り子として受け入れるためであり、決して苦しみからの解放が目的ではないのです。
しかし、人々の興味は神様のご計画の実現や、人類の救いと言う壮大なテーマではなく、病気の苦しみや、ローマの支配からの解放と言う現世の事でしかなかったのです。
ですからイエス様に求めているのも、現実の苦しみからの解放であり、イエス様が病気を癒し、不思議を行なってくれる限りにおいて、イエス様の行かれる所は、何処であっても群集が集まって来ていたのです。
それは、病気を癒して欲しいと願っている人が多勢いたからであり、
また、イエス様のなされる奇跡の一つでも見てやろうと言う野次馬も多勢いたからです。
イエス様が人里離れた所に退いても、人々はイエス様を探してやって来ます。
1節のガリラヤ湖の向こう岸が何処を指すのか、正確な位置は不明ですが、
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
イエス様が町を避けて山に登られたのは弟子たちに休息を取らせるためであり、またご自身も休息と祈りの場を求めて、寂しい場所に行かれたのでした。
マルコの福音書6章には次のように記されています。
31節「そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。」
休息は必要不可欠です。
頑張るには限界があり、頑張りで神様のご計画を進めるのではありません。
聖霊様が人間を通して働かれ、神様のご計画は進められるのであり、人間は聖霊様が働かれるに相応しく、整えておかなければ、備えておかなければなりません。
疲れすぎていてはなりません。
何時でも召しに応じる備えが必要であり、昼の内に働き、夜は休み、充分な食事をとらなければなりません。
また、娯楽や趣味も大切なものであり、娯楽や趣味を通して、リラックスするのであり、リフレッシュするのであり、娯楽や趣味を通して、社会と関わり、友人と関わり、伝道のチャンスともなるのです。
イエス様と弟子たちは暫しの休息を取ろうとされたのですが、群集は自分たちの事しか考えていません。
休んでいるイエス様一行を探し出し、追いかけて来て、病気を癒していただこうと続々と集まってくるのです。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
この人々が集まって来たのは午後の遅い時間であると、マルコの福音書に記されています。
人々は一日中、イエス様を探し、追いかけて来て、夕刻になってしまっていたのです。
そろそろ家路につく時間ですが、家に着くまでには数時間はかかるでしょう。
そこで、イエス様は一人一人が安全に、また、空腹で困らないように食事の心配をなさるのです。
イエス様は常に、人々の必要を考えられ、人々の必要を与えようとされます。
しかし、ここは人里離れた所で、時刻も遅い。
現在のように24時間営業のコンビニエンスストアがある訳でも、深夜営業しているスーパーマーケットがある訳でもありません。
あったとしても、10節にあるように男だけでも5000人です。
各々が少しつづ食べるにしても相当の量が必要です。
イエス様は何故こんな質問を投げかけたのでしょうか。
聖書は「イエス様はピリポをためしてこう言われたのだ」と説明していますが、このパターンはイエス様が弟子たちを訓練するために用いた教育方法です。
現実の問題を通して、より高い次元の答えを考える訓練です。
イエス様の時代だけではなく、現代でも同じでしょう。
教会に起こる様々な問題は、キリスト教の根幹に関わる問題であるよりも、実にくだらない問題である事が多い、否、殆どがくだらない問題なのですが、そのくだらない問題を通して、本当に大切なもの、本当に重要な事を見分けるチャンスとしてくださっています。
或いは、自我に気付かせ、自己中心な考えである事に、独り善がりである事に気付かせてくださるチャンスなのです。
教会にある変な伝統を変と思わず、自分のやり方が一般的、と思い、教会の、私たちのやり方を押し付け、或いは、遠まわしに避難するのですが、年代も、経験も、期待するものも違う人々の集まりですから、様々な考えや、やり方があるのであり、それを尊重し、受け入れなければなりません。
イエス様の投げかけた問題は、食事の重要性と、それに神様が如何に大きな関心を持っておられるかを教えます。
ともすると、霊的な満たしを重要視する余り、肉体の必要性を軽視する傾向がありますが、人間にはどちらも必要であり、神様はどちらも用意してくださる事を教えようとされるのですが、ピリポはイエス様の意図が見抜けず、常識的な答えを返します。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
ピリポは費用もさることながら、これだけの人々に充分食べさせる量は200デナリのパンがあっても充分ではないと答えるのです。
当時の一日の賃金が1デナリと言われていますから、現代の貨幣に換算して一万円。
勿論、当時と現代では賃金も物価も単純に比較できませんが、概算で200万円相当になる訳です。
仮に200万円があったとして、男だけで5000人ですから、女性や子どもを合わせれば優に1万人は超えていた事でしょう。
200万円を1万人で割れば、一人頭200円ですから、まあまあ空腹を満たす程度の量のパンを買えるでしょう。
しかし、ここでピリポが言わんとしているのは、そんなに大量のパンをどのようにして手に入れるのか、と問うていると言う事なのです。
人里離れた辺鄙な所で、しかも遅い時間帯であれば、パンの入手は不可能と断言してもいいでしょう。
しかし、イエス様は状況を知らないでピリポに質問を投げかけた訳ではありません。
イエス様もピリポも同じ状況の中に置かれていて、イエス様はその状況を承知の上でピリポに質問をされたのです。
イエス様は人間的な解決の道が閉ざされている問題に対して、弟子たちがどんな解決の手段を考えるかと言う問題を提起したのです。
しかし、ピリポは意地の悪い問題を出されたと思ったに違いありません。
ピリポは言外にイエス様を非難し、先のような答えを返すのです。その時、
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
と、シモン・ペテロがピリポに助け舟を出します。
大麦のパンは貧しい人々が食べるパンで、しかも子どもの弁当ですから大した量ではありません。
魚も小さな魚であり、塩付けにし、乾燥させた粗末なもので、これも子どもが食べる量ですからたかが知れています。
ピリポもアンデレも、また傍にいた他の弟子たちも、みなイエス様の質問の意図が分からず、そのお心が読めず、困惑した事でしょう。
イエス様の質問は、人間的な経験や視点では決して解決できない問題だからです。
ピリポもアンデレも常識的な判断をし、答えを出しますが、イエス様はピリポの答えや、アンデレの提案に直接答える事をなさらず、次のように命じます。
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
するとどうでしょう。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
5000人の男たちが十分食べて、余った物で12の籠がいっぱいになったと言うのです。
この籠は小さな籠ではなく、大型の籠を意味するギリシャ語が使われています。
子どもが持って来た、小さな籠に入る、たった5つのパンと2匹の魚が、5000人の男の空腹を満たし、12の大きな籠を満たしたのです。
イエス様がこの給食の奇跡を通して弟子たちに、また私たちに教えようとされているのは次の事です。
第一に、イエス様は人々の日常的な必要に深い関心を持っておられ、それを与えてくださると言う事です。
イエス様は「人はパンだけで生きるのではない」と言われましたが、同時に生きるためにパンが必要である事も知っておられます。
更に、着る物も、住む所も必要である事を知っており、娯楽や趣味などが必要である事にも心配されており、それらの必要を過不足なく与えてくださるお方だと言う事なのです。
第二に、弟子たちが直ぐ傍にいるイエス様がどなたかを忘れていた事です。
これまでに何度の不思議を目撃して来た事でしょうか。
群集は兎も角、弟子たちはその不思議をまじかで目撃しているのです。
また、イエス様の喩えを聞き、解説までしてもらっているのです。
イエス様の内に神の臨在と力がある事を何度も何度も目撃しているのに、不可能を可能にするお方が一緒に居て下さるのに、それを忘れていた事なのです。
ピリポに問われたイエス様は、御自身の内に、その答えがある事を示しておられるのです。
パンを買いに行かなくても、200デナリのお金を用意しなくても、直ぐ近くにおられるイエス様にその力がある事を教えておられるのです。
そのイエス様は、私たちの傍を離れる事なく何時も見守っていてくださるのです。
第三に、イエス様は少年が持っていた僅かなパンと魚をイエス様に差し出した時、それを喜び、祝福して下さったと言う事です。
どんなに少なくても、みすぼらしくても、それが個人の手の中にある時、それはそれでしかないのですが、イエス様の手に渡した時、イエス様はそれを喜び、祝福し、大きくしてくださり、イエス様のご用に用いてくださると言う事なのです。
多くの人は自分の持っている物を見て、また自分自身を見て、こんな物が、こんな私が何の役に立つのだろうかと思いますし、他人の物を見て、あんな物が何の役に立つだろうかと思いますが、イエス様はどんな僅かな物でも、些細な物でも、それを喜んで受け取って祝福してくださるお方である事を忘れてはならないのです。
第四に、与えれば与えるほど、分ければ分けるほど増し加えられると言う神様の法則が明らかにされたと言う事です。
イエス様に差し出したらなくなってしまう、こんな僅かな物が何の役に立つかと思って、差し出す事ができないでいますが、差し出した時に、それは大きく用いられて、自分も生きるし、他の人々も生きるのです。
自分をイエス様に明け渡してしまうと自分の存在が失われてしまうと心配する人がいますが、決してそんなことはないのです。
むしろ、自由にされた魂が罪の束縛を離れて、自由に生き生きと活動する事を体験できるでしょう。
献げ物だけでなく、愛においても同じです。
少ししか愛さない者は少ししか愛されません。
多く愛する者は多く愛されるのです。
不思議な事ですが、全て神様に献げ尽くせば尽くすほど、愛も、物も増し加わって豊かにされていくのです。
献げる事を惜しんで、握り締めていたならば、錆びが付き、腐ってしまい、泥棒に盗まれてしまいます。
宝は天に積むべきなのです。そこは安全であり、虫も付かず、錆びる事も盗まれる事もありません。
イエス様に渡された少年のパンと魚はなくなったのではなく、何万倍にも増し加えられて豊かにされ、分け与えられたのです。
5000人を養ったこの奇跡は群集に大きな影響を及ぼします。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
ここで群集が預言者と言っているのはモーセ、或いはエリシャのような預言者の事です。
モーセはエジプトを出てから、荒野でマナを与えて民衆を養いましたから、給食の出来事はこのモーセを連想した事でしょう。
またエリシャはイエス様と同じように大麦のパン20個で100人の預言者の空腹を満たした事が、第二列王記4章42節に記されていますので、それを思い浮かべた事でしょう。
群集は給食の出来事から、モーセやエリシャのような預言者が起こされ、イスラエルを解放してくれるとの期待を持ったのですが、イエス様がパンの奇跡でお示しになられたのは、命のパンである御自身であり、イエス様を神の子と信じる事であったのですが、群集はイエス様の真意を悟る事ができず、政治的な王となる事を要求したのです。
イエス様は群集の意図を知ると直ぐに山に退かれました。
イエス様は王となるためにこの世に来たのではないからです。
【適応】
先に、このパンの奇跡が教えている事を4つ紹介しましたが、私たちが持っている物を、また私たち自身をイエス様に献げる時、イエス様は献げた物を何倍にもして、そこにいる人々の必要を満たし、イエス様の力を現すだけではありません。
5000人を養ってなお、12の大型の籠が余ったパンでいっぱいになりましたが、これは何を現しているのでしょうか。
聖書には12の籠のパンの行く末を記録していませんが、この、言わばパン屑は、12の籠に集められたパン屑は、その地方にいる貧しい人々の糧となったのではないでしょうか。
貧しい人々はどの国にも、何時の時代にも居なくなる事はありません。
イエス様に献げた物は、そのような貧しい人々の必要を満たす物となったのです。
また、このパン屑は異邦人への救いを現しています。
マタイの福音書15章「26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」
イエス様はユダヤ人の救いのために来られましたが、イエス様の救いの力はユダヤ人だけにしか及ばないような限定された力ではありません。
爆発的な力を持った救いの力であり、ユダヤ人から始って異邦人に及び、造られた全ての人に及ぶのです。
5つのパンの奇跡はイエス様に付いて来たユダヤ人の必要を満たし、余りでユダヤ人の集いから漏れた人々の必要を満たす力がある事を示しているのです。
イエス様に献げた物が無駄になる事は決してないのです。
イエス様に献げられた物は、イエス様の憐れみを求める迷える子羊を養い、また虐げられた人々や異邦人の必要を満たし、祝福を与える物として用いられるのです。
アンデレにパンを渡した男の子、そしてイエス様に渡したアンデレ。
こんな物が何の役に立つだろうかと、アンデレに差し出さなければ、アンデレがイエス様に差し出さなければ、この給食の奇跡は起こらなかったのです。
一人一人が持っている物を手放し、イエス様に献げる時、イエス様の力が注がれて、私たち自身を祝福する物となり、その余り物さえが用いられてイエス様の事を知らない人々の救いにつながる大きな祝福を産み出す物となるのです。
あなたの手の中にある物は何ですか。
小さな物ですか、僅かな物ですか、役に立ちそうもない物ですか。
あなたの手の中にあるうちは、小さな、僅かな、役に立たない物ですが、イエス様に差し出す時、大きな、豊かな、有益な物とされ、私に帰って来、人々を潤すのです。
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