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聖書個所:創世記30章22節~24節 2017-1-29礼拝
説教題:「神様は覚えておられる」
【導入】
昨今、各地で、各種の災害が多発しており「災難は忘れた頃にやって来る」「明日は我が身」との言葉、そのもののような状況ですが、決して突然、災害、災難に見舞われる訳ではありません。
何時、何処では、明確ではないかも知れませんが、予兆のようなものはあるのではないでしょうか。
或いは、予測が出来る事も多いのではないでしょうか。
人間には将来を予想、想像する事が出来るのですから、得られた情報を基に、将来を考えなければなりません。
小さな変化を見逃してはならず、些細な事として看過してはならないのです。
小さな変化は、大きな出来事の前触れであり、些細な事は、重要な事に関連しているかも知れないのです。
「対岸の火事」は警告であるかも知れませんし、予告なのかも知れません。
周囲で起こる事に無関心であってはならないのですが、だからと言って、何にでも首を突っ込む事を奨励しているのではありません。
余計な口出しは無用であり、分を超えた言動は厳に慎まなければなりません。
「人の振り見て、我が振り直せ」であり、自分の事を棚に上げて、人を批判するのは、正しい事ではありません。
与えられた知恵や賜物は、神様に献げるために用いるのであり、人と比べたり、優越感を味わうため、見下すためであってはなりません。
ましてや、人を裁くなどもっての外でしょう。
自然災害、或いは人の言動は、自分自身の成長の糧、或いは、反省、吟味の材料としなければならないのです。
自然災害、人の言動を見つつ、背後に居られるお方を見る時、状況は変わらなくても、対応は変わって来るのではないでしょうか。
神様は、それを期待されていましょう。
しかし、レアとラケルの関係は、神様の願う方向には変わらないようです。
二人が、ヤコブの愛を独占しようとの関係の中に留まり続ける限り、神様との関係は希薄になり、お互いの関係が、より一層、悪化の一途を辿るのは、火を見るよりも明らかです。
何処かで終止符を打たなければなりません。
しかし、判っていても出来ないのが、罪を持つ人間です。
そこで神様は自らご介入され、神様の主権でご計画を進められます。
そのご計画とは、直接二人の関係を修復するのではなく、ラケルに対するご計画を進めるのであり、ラケルを取り扱われるのであり、ラケルを変える事により、状況が変わり、神様を中心とする方向に進む事になるのです。
今日は、もう一度、ラバンの実の娘たちであり、ヤコブの妻となった、レアとラケルの争いの顛末を見てみましょう。
【本論】
30:22 神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
22節には訳出されていませんが、原文には「次に、そして、」と訳す事の出来る接続詞が付されています。
ですから、22節は、単純に、「覚えていた、思い出した、聞き入れられた」の意味ではない事が明らかです。
神様のご計画で、先ずレアが取り扱われ、「次に」ラケルが取り扱われるのです。
レアの出産は、妊娠し易い体質だったからではなく、ヤコブに愛されていないから、可哀想だから、哀れみで妊娠し易くされ、多くの子を産んだのではありません。
レアは、神様のご計画で四人を産み、暫く待たされて二人を産んだのです。
ラケルが不妊であったのも、神様のご計画の進捗状況に起因するのであり、待たされていただけなのです。
私たちはよく、熱心な祈りは聞き届けられると思います。
確かに、そう言う面もありますが、熱心なだけの祈りが聞き届けられる訳ではありません。
神様のご計画と合致する時、聞き届けられるのであり、神様のご計画の時に、聞き届けられます。
御心でない事が聞き届けられる事はありません。
もちろん、全ての事に、直接、神様が介入される訳ではありません。
因果応報的に、原因があって結果に結び付く事が、ほとんどでしょうが、それでも、神様の許しの中で起こっている事であり、神様のご計画の進捗に支障のない、許容範囲の中で起こっているのです。
ラケルの、長い間の苦しみと悩み、屈辱と争いに明け暮れる毎日は、決して信仰的な日々ではありませんでした。
ラケルは、レアの信仰を学びはせず、八百万の神様に祈願し、この世的な方法で子を得ようとし、この世の、八百万の神様の力で子を得たと告白しているのです。
「創造主なる、唯一真の神様」「ヤハウェの神様」と、「八百万の神様」「エロヒームの神様」との、明確な区別のない、渾然とした神観の時代であったにしても、レアは、度々「ヤハウェ」の名を、口にしているのであり、ラケルはそれを知っているのです。
想像するに、ラケルは敢えて、レアの信じる神様に頼りはしない、との意地のようなものがあったのではないでしょうか。
そんな不信仰なラケルですが、不信仰にも関らず、「ヤハウェの神様」はご計画を進められるのであり、不信仰な者をも用いられるのであり、時至って、ラケルは待望の子を宿すに至るのです。
30:23 彼女はみごもって男の子を産んだ。そして「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言って、
30:24 その子をヨセフと名づけ、「【主】がもうひとりの子を私に加えてくださるように」と言った。
23節の「汚名を取り去ってくださった」を新共同約聖書、口語訳聖書とも「恥をすすいでくださった」と訳しています。
この「取り去」る、或いは「すすぐ」と言う概念は、「聖め」に繋がります。
聖められてこそ、神様の僕になれるのであり、神様に仕える事が出来るのです。
或いは、神様に用いられる器とされるのです。
ラケルは、不妊の期間を通して、訓練を受けなければならなかったのであり、不妊の苦しみの大きさと長さと、そこからの解放の喜びは、最初は単なる感謝の喜びの吐露だったかも知れませんが、ヤハウェの神様を見上げるきっかけとなり、24節の「主」「ヤハウェ」との告白に至るのです。
人間は何かのきっかけがあって、混沌から抜け出します。
漠然とした神観、八百万の神を、大きな抵抗も、違和感もなく受け入れてしまう、曖昧な神観。
苦しみや悲しみがなければ、人間は神様には近づきません。
調子良く行っている時には、神様など必要ないからです。
苦しい時の神頼み、ではありませんが、困らないと神様のところには行きません。
しかも、自分の都合に合わせてくれる、矛盾を内包するような願いを聞いてくれる神様を探し廻るのであり、何の力もない八百万の神様のところを巡り歩き、失望するのが、多くの人間の辿る道なのです。
闇雲に探し回って、ヤハウェの神様に行き着く事はなく、導き手が必要です。
導き手として預言者が起こされ、預言者を通して人々を導かれました。
預言者は第三者であり、神様と人々との橋渡しをしましたが、古代においては、神様は当事者に直接語りかけ、導かれました。
アブラハムに語り掛け、イサクに語り掛け、ヤコブに語り掛けられたのです。
そして、ヤコブへの語り掛けを通して、ヤハウェの神様を知ったレアのように、レアを通して、ヤハウェの神様を知ったラケルのように、です。
ヤコブにも、レアにも、導き手、橋渡し、との自覚はなかったでしょうが、神様は人を通して働かれるのであり、それは昔も今も変わりはありません。
ラケルはレアに、悪い影響を与えたでしょうが、レアの影響はラケルに及んでいたのであり、最初はレアへの反発から、ヤハウェの神様に反発し、毛嫌いし、抵抗していたでしょうが、ラケルはヤハウェの神様を意識せざるを得ず、ヤハウェの神様の力はラケルに染み入り、ラケルを変え、先の告白に至らせたのです。
ラケルの告白は、現実だけを意識しての告白ではなく、一人の子が与えられた事によって、将来、更に子が加えられる祝福を確実な事として期待する信仰を背景とした告白であり、小さな信仰でも、幼い信仰でも、未来を信仰の眼で見させていただけるのであり、神様の偉大さを告白させていただけるのです。
勿論、まだまだ自己中心の信仰であり、「エロヒームの神」と「ヤハウェの神」の区別もあいまいです。
それでも、神様は成長を待ってくださるお方であり、幼い信仰なりに用いられるのです。
そして、ラケルのように、単純な感謝から、出発して、恩寵の神様の臨在に触れさせてくださり、告白する恵みを味わわせてくださるのです。
最後に「ヨセフ」の命名の由来が記されていますが、「ヨセフ」には二重の意味が込められています。
23節の「取り去ってくださった」と訳されているヘブル語は「ヨーセーフ」であり、
24節の「加えてくださるように」と訳されているヘブル語は「ヤーサフ」であり、
こお二つの言葉からの、語呂合わせの命名なのです。
「取り去る」と「加えて」では、相反する事ですが、
取り去るから、加えられるのであり、取り去らなければ、加えられる余地がない、と言う事なのではないでしょうか。
現状から脱出してこそ、新しい世界に入れるのです。
罪から離れてこそ、義を頂けるのです。
さて、命名は、多くの場合、その者の本質を現すべく付けられ、その者の生き方を暗示するものであり、預言的でもあります。
レアとラケルの命名は、個人的な願望の投影として説明され、記されていますが、本人は意識していなくても、預言的であり、聖書に記されている歴史を知る者には、非常に興味深く、感慨深い命名の経緯となっています。
特に、ヨセフの働きは、イスラエル民族を救う働き、守る働きであり、飢餓、危険、存亡の危機を取り去り、イスラエルの民を、家畜を夥しく増やしたのであり、名前の通りの働きをしたのです。
以上、レアの子六人、ビルハの子二人、ジルパの子二人、そしてラケルの子と、合わせてヤコブの十一人の子は、メソポタミヤで産まれました。
アブラハム、イサクへの、偉大な国民と形容される、イスラエル部族への神様約束は、ここで確定する事になる訳です。
アブラハムは100歳まで待たされ、更には、イサクを殺さなければ、と言う試練に遭いました。
イサクは、ヤコブを、手放さなければならなかったのです。
ヤコブも、ヨセフを、手放さなければならなかった、死んだと思わせられなければならなかったのです。
本当に多くの、紆余曲折があり、一族存亡の危機に遭いましたが、ヤハウェの神様に従い続けたからこそ、約束の、多くの子を得たのです。
そして、それぞれに賜物があり、使命があり、
その賜物を生かし、使命を全うすべく、神様のご計画で、神様の時に、産まれさせられたのです。
【適応】
神様のご計画の全貌を知る由もないレアでありラケルであり、我々です。
明日の事も判らず、一寸先も見通せないレアでありラケルであり、我々です。
事態が好転しないと焦り、苛立ち、手を回し、策を練り、動き回ります。
明日の事を思い煩い、心配します。
しかし、神様のご計画があるのであり、神様の時があるのであり、決して忘れられているのでも、無意味に先延ばしにされているのでもありません。
ラケルの場合、何年待たされたのでしょうか。
ラケルの前には十人の子がいるのですから、概算でも十年以上は待たされた事でしょう。
しかも、何の指示もなかったのですから、不安に陥り、右往左往するのは仕方がない事でしょう。
何年待たされても、時々に、何らかかの徴(しるし)があり、確認の指示があるならば、何とか待てるでしょうが、何の音沙汰もないのでは、どんなに強い人でも、不安に苛まれ、心は揺らぐのではないでしょうか。
しかし、ラケルは忘れられていたのではなく、「次」であっただけなのです。
順番が回って来るまでは、本当に長く感じられ、忘れられているのではないかと、不安になりますが、神様は覚えていて下さっているのであり、決して忘れる事はないのです。
私たちは、多くの場合、待てなくて失敗する事が多いようです。
イスラエル初代の王様サウルは、預言者サムエルの来るのを待てずに、僭越にも、勝手に、生贄を献げてしまいました。
献げ終わったその時、サムエルはやって来たのです。
ほんの一足違いでしたが、待てなかったために、サウルは王位から退けられてしまいました。
本当に、ほんの少し、待てば良かったのに、です。
7日も待ったのですから、後、数時間ぐらい待てそうに思えましょうが、待つ身は辛いものです。
人々が離れて行こうとし、人々を留めるために、仕方なく、と理解出来ない訳ではありませんが、人を引き止めても、神様が離れて行ってしまったなら、何の意味があるのでしょうか。
軍隊も、組織も、神中心でないならば、烏合の衆でしかありません。
神様不在では、敵に立ち向かう事も、何かを成し遂げる事も出来ません。
神様がご臨在下さってこそ、神様に覚えられてこその、私たちである事を忘れてはなりません。
待つ事は、神様への最大の信仰告白なのです。
ここに居られる皆様が、日々、神様の主権を第一とし、神様の時を何より優先し、待つ者、待ち続ける者として、神様の栄光を現す者とされる事を願ってやみません。
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聖書個所:創世記30章9節~21節 2017-1-22礼拝
説教題:「姉と妹の争い パート2」
【導入】
「朱に交われば紅くなる」と申しますように、人間は廻りの人間の影響を受けやすい生き物です。
これは決して欠点ではなく、集団生活を送る人間にとって必要な能力であり、社会に馴染み、調和し、生きて行くために必要な能力であります。
良い影響なら良いのですが、時に、気が付かないうちに、悪い影響も受けてしまい、知らず知らずのうちに、神様の喜ばれない道を歩んでしまう事になりかねません。
特に、安易な方向を受け入れ易く、安直な方向に流れ易く、厳しい方向を避ける、正しいと知っていても敬遠する傾向があるようです。
規則や戒律を守る事には抵抗を覚えても、娯楽や遊興、悪癖の誘いには弱く、中々断れず、止められないのが人間です。
最初は恐る恐るであっても、何時の間にか大胆になり得るのであり、ソドムとゴモラの逸話のように、おぞましい社会が生み出される事もあるのです。
ソドムやゴモラのようになるのは稀だとしても、見るからに大きな危惧を孕んでいる事には慎重でも、日常茶飯事の中では警戒も緩み、意識しないで影響を受けてしまう事もあるのです。
前回、「唯一の創造者、主権者なる主」と「八百万の神」、ヘブル語では「ヤハウェ」と「エロヒーム」の違いに触れました。
歴史を見れば、真実だけが残り伝えられ、偽物は泡のように現れては消えていくのですが、偽物の影響力は侮れず、本物を一時的ではありますが、追い出す事もあるのです。
今日は、もう一度、ラバンの実の娘たちであり、ヤコブの妻となった、レアとラケルの争いの続きを見てみましょう。
【本論】
30:9 さてレアは自分が子を産まなくなったのを見て、彼女の女奴隷ジルパをとって、ヤコブに妻として与えた。
ヤコブの信仰の影響を受け、朧げながらも「ヤハウェ」の神を感じ、「主」を告白していたレアですが、レアは子を生めなくなった時、大きな不安に駆られたようです。
ヤコブが愛しているのはラケルである事を知っているだけに、ラケルに形だけの子どもではあっても、血の繋がりのない子ではあっても、子を得たのは事実であり、ラケルに対しての優位性は脆くも崩れ去ってしまいます。
ラケルが子を得た今、自分の地位は不動のモノでは、磐石なモノではなくなってしまいました。
自分は正妻であり、四人も子を産んだのであり、皆、元気に育っているのであり、ラケルの子は女奴隷の子であり、身分の差は歴然です
ですから、引け目を感じる必要も、不安に駆られる必要もありませんが、理屈ではありません。
想像するに、ラケルが子を産んでから、ヤコブとラケルの関係は密になり、レアが子を産まなくなってから、決して邪険に扱われた訳ではないでしょうが、ヤコブとレアの関係が疎遠になった、のではないでしょうか。
ヤコブとの関係を、元に戻したい。
その強い願いを達成する手段としてレアが選んだのが、レアの女奴隷ジルパを差し出す事だったのです。
朧げながらも、唯一の神様、ヤハウェの神様を知った者の選択としては、残念です。
世の中で普通に行なわれていても、誰も咎め立てしなくても、命を与えられるお方を知っていながら、この世的な方法を選んだのは何とも残念です。
子を持つ事に、絶対的価値を置く社会であったにしても、唯一の神様を知る者は、四人でよし、とすべきであり、四人も与えてくださった、と満足、感謝すべきなのではないでしょうか。
ヤコブの愛を独占したい、もっと子どもを得よう、と言う考えには際限がありません。
足るを知る者に、現状を信仰を持って受け入れる者を、神様は喜んでくださり、喜んで与える者に、施す者に、多く与えられるのが、神様の経済なのです。
更に、と言うのは、分を越えており、神様の主権、ご計画を侵害する行為でしかないのです。
しかし、神様はレアを咎め立てせず、願いの通り、子を与えてくださいます。
30:10 レアの女奴隷ジルパがヤコブに男の子を産んだとき、
30:11 レアは、「幸運が来た」と言って、その子をガドと名づけた。
30:12 レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目の男の子を産んだとき、
30:13 レアは、「なんとしあわせなこと。女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう」と言って、その子をアシェルと名づけた。
「幸運」と訳されているヘブル語は「ガード」であり、「しあわせ」と訳されているヘブル語は「アシェル」であり、其々の命名の由来が記されています。
しかし、そこには、以前あった、ヤハウェの神様への讃美も感謝もありません。
先の「ルベン」「シメオン」「ユダ」に命名した時の、ヤハウェの神様に対する感謝や讃美の思いは、何処に消えてしまったのでしょうか。
子を授かる事は、確かに幸運でしょうし、無事に産まれる事は幸せな事ですが、幸運をもたらし、幸せをもたらすのは、ヤハウェの神様のお働き、憐れみ、ご計画なのではないでしょうか。
ヤハウェの神様抜きの幸せも幸運も、薄っぺらなモノでしかなく、長続きするモノではありません。
この世のモノは目まぐるしく移り変わり、今日は最新でも、明日は陳腐に成り下がらない保障はないのです。
幸運も幸せも、この世のモノや、人に依存していては、裏切られますし、失望します。
ヤハウェの神様から来る幸運と幸せでなければならないのではないでしょうか。
「主は与え、主は取られる」の信仰がなければ、人の生死は、幸不幸は無意味で虚しいモノでしかありません。
神様が関わられるから、生死に意味が生まれ、喜びが倍増し、悲しみが軽減され、慰められるのです。
レアは、ラケルとの争いに明け暮れる毎日を過ごすうちに、見る必要のない物に気を取られ、見るべきモノから目を逸らしてしまったのです。
30:14 さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持って来た。するとラケルはレアに、「どうか、あなたの息子の恋なすびを少し私に下さい」と言った。
「恋なすび」とは、茄子科の有毒野生植物である「マンドレーク」ではないか、と考えられています。
マンドレークは3月から4月に、小さな黄色の、プチトマトのような実を付けるそうです。
根っ子の形状が、人間の下半身を思わせるところから、豊穣の女神の力が宿ると考えられ、その実には、多少の化学物質が含まれ、吐剤や下剤、麻酔剤としての薬効があったようですが、加えて、性欲増進、妊娠促進の効果があると信じられていました。
俗信、迷信の類ですが、当時の文化であり、迷信が蔓延っていた時代ですから、仕方のない事です。
不妊の苦しみは想像に絶するものがあり、藁にも縋りたい気持ちであり、「恋なすび」に縋るしかなかったのでしょう。
しかも、密かに手に入れようとしたのではなく、争いの相手であるレアに直接交渉する、と言うのは、何ともなのではないでしょうか。
見方によっては挑戦的であり、挑発的に映りましょうが、しかし、ここもラケルの気持ちになって見ると、様相は変わってくるのではないでしょうか。
ラケルは「恋なすび」に縋るしかない惨めさを、実の姉レアに悟られないためにも、強気に交渉するしかなかったのであり、更に、同情される惨めさを味わいたくもなかったから、弱気な所は見せられなかったのでしょう。
そんなラケルの態度に、レアは激しい怒りで応じます。
30:15 レアはラケルに言った。「あなたは私の夫を取っても、まだ足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取り上げようとするのですか。」
ラケルは答えた。「では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたといっしょに寝ればいいでしょう。」
14節後半と、15節に、売り言葉に買い言葉、を地で行ったような、激しい言葉の応酬が記されています。
レアの言葉の「まだ足りないのですか」を、新共同訳聖書は「気が済まないのですか」と訳し、口語訳聖書は「小さな事でしょうか」と訳しています。
この嫌みたっぷり、憎しみ満載のレアの言葉に、ラケルも激しく応じます。
ラケルの言葉の「あなたといっしょに寝ればいいでしょう」の「寝れば」が、性的な意味で使われている事は明白ですが、「寝れば」を性的な意味で使う場合には、「夫婦以外」を意味、暗示する場合が多く、即ち、ラケルは、レアをヤコブの妻とは認めていないのであり、姉レアを遊女扱いしている、と言う事なのです。
言うに事欠いて、こんなに酷い言い方をしなくても、と思いますが、怒りからの言葉は、相手を深く傷付ける言葉となり、同時に、自身の尊厳をも著しく損なう事になる、と言う事を深く覚える必要があるのではないでしょうか。
30:16 夕方になってヤコブが野から帰って来たとき、レアは彼を出迎えて言った。「私は、私の息子の恋なすびで、あなたをようやく手に入れたのですから、私のところに来なければなりません。」そこでその夜、ヤコブはレアと寝た。
レアとラケルの争いは、当事者の間に留まらず、家長のヤコブを巻き込み翻弄します。
「手に入れた」を新共同訳聖書も口語訳聖書も「雇った」と訳していますが、家長を使用人扱いし、「来なければなりません」と命令する、と言うのは、如何な事でしょうか。
ヤコブの、妻の言いなりの姿は、どっちつかずの姿は、哀れであり、滑稽ですらありますが、何より、秩序の崩壊です。
ヤコブの時代、家長が家を治め、妻は家長に従うのが、神様の定めであり、秩序です。
その定めを蔑ろにする行為は、秩序の崩壊は、争いを増長させ、対立、抗争を激化させ、家族を二分し、組織を二分し、巻き添えを食った関係者皆が、不幸になります。
この世の定め、秩序を遵守する事は、神様の喜ばれる事なのです。
この世の定め、秩序は、来る神の国の定め、秩序に通じます。
その点で、ヤコブの主体性のなさは、神様の喜ばれる事ではありません。
30:17 神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ。
30:18 そこでレアは、「私が、女奴隷を夫に与えたので、神は私に報酬を下さった」と言って、その子をイッサカルと名づけた。
9節で「子を産まなくなった」と記されていたレアですが、神様の力によって、再び、子を身篭る身体、力が与えられ、5番目の子を産むに至ります。
18節の鍵括弧の意味は、単純に、女奴隷を与えた事ではありません。
レアは、心底からヤコブを愛していたのであり、ラケルとの複雑な関係に心底から悩んでいたのです。
ヤコブの愛情は、ラケルに注がれ、今また、子どもの事でも、ラケルに負けかけている。
何とかしなければ。
しかし、女奴隷ジルパをヤコブに与える事は苦痛でしかない、避けたい、不本意な事でしかない。
それでも、ヤコブの愛情を取り戻し、関心を得るために、苦渋の選択をしたのであり、自分の気持ちに逆行する事を敢えて、選択したのであり、その苦しみ、悩み、悲しみを敢えて選び、決断した事を、神様が見ていてくださった、そして「報酬をくださった」と告白しているのです。
この報酬には、「恋なすび」に縋らず、ラケルに譲った事も意識しての告白なのではないでしょうか。
「報酬」と訳されているヘブル語は「サカル」であり、サカルが語源となって「イッサカル」と命名されたのです。
30:19 レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、
30:20 レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。
「今度こそ夫は私を尊ぶだろう」の「尊ぶだろう」を、新共同訳聖書は「尊敬してくれるでしょう」と訳し、口語訳聖書は「一緒に住むでしょう」と訳しています。
訳すに、難しい所ですが、「私を大事にしてくれるだろう、愛してくれるだろう、寄り添ってくれるだろう」との思いが込められている事に間違いはないでしょう。
「尊ぶ」と訳されているヘブル語は「ザバル」であり、「尊」んで欲しい思いが込められたのが「ゼブルン」と言う名前に現れたのでしょう。
30:21 その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名づけた。
通常、女の子の誕生は聖書に記されないのが普通ですが、34章の出来事の伏線として、聖書記者は、記したのでしょう。
【適応】
今回、レアの女奴隷ジルパが「ガド」と「アシェル」を産んだ時には、どんな形であれ、レアの口から神様のお名前が発せられる事はありませんでした。
レアが自身の子「イッサカル」と「ゼブルン」を産んだ時には、「神」を口にしますが、「エロヒーム」の神であり、「ヤハウェ」の神ではありませんでした。
残念な事ですが、ラケルとの争いの中に置かれて、ラケルの神観の影響を強く、深く受けた事は想像に難くありません。
勿論、ヤコブの神観の変化の影響も無視出来ない事は、言うまでもありません。
唯一の神様への信仰は、何もしなくとも、時間と共に成長し、強く、深く、広くなるものではありません。
何もしなければ、時間と共に萎(しぼ)み、弱く、浅く、狭くなって行くものなのです。
日々、神様と深い交わりを持たなければ、信仰は枯れてしまいます。
また、この世の力、影響力は、想像以上に強力ですから、この世の力を侮ってはなりません。
マタイの福音書13章に記されている「種蒔きの喩え」のように、サタンが持ち去ってしまうのであり、すぐに枯れてしまうのであり、この世の妨げで成長出来ないのであり、多くの実を結ぶには、良い土地に蒔かれなければならず、良い土地とは、神様にしっかり結び付き続ける事であり、神様からの養いを受け続ける事であり、神様からの訓練を受ける事です。
神様との関係を阻害するモノ、事とは、距離をおかなければならず、時に関係を絶なければなりません。
最初に申し上げたように、「朱に交われば赤くなる」のであり、「主に交われば聖くなる」のです。
一緒に住んでいれば、一緒に仕事をしていれば、影響を受けるのは必然ですが、この世で生きる以上、関係を全く絶つというのは、難しい事であり、現実的ではありません。
関係は維持するが、必要最低限に止める知恵が必要でしょう。
それでも、当然、影響を受けます。
だからこそ、拠り一層、強く、常に、意識して神様との関係を維持し続けなければならず、神様との時間を、多く持たなければならないのです。
聖書通読の時間、祈りの時間、は非常に大切であり、信仰の死活問題です。
ご飯を食べず、水を飲まなければ、身体は痩せ衰え、動けなくなり、死んでしまいます。
聖書を読み、祈らなければ、信仰は痩せ衰え、御こころに従い得ず、信仰的に死んでしまうのです。
聖書を読み、祈っても、この世の影響を受けるのに、聖書を読まず、祈らなければ、あっという間に、本当にあっという間に、この世に染まってしまいます。
この世の考え方が習い性になってしまいます。
レアの変化は、他人事ではありません。
クリスチャン全てに当て嵌まる事です。
例外はいません。
ここに居られる皆様が、日々、神様との交わりを何より優先し、罪の世でキリスト者として生き、ヤハウェの神様の栄光を現して生きる事を願ってやみません。
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聖書個所:創世記30章1節~8節 2017-1-15礼拝
説教題:「姉と妹の争い パート1」
【導入】
人間は、平穏無事な日々を願い、争いや混乱を避けたいと願い、古今東西、多くの国が、多くの人々が、そのための努力と工夫を積み重ね、構築し、発展させ、継承して来ました。
国と国、人間同士…平時は、とても良い関係であっても、利害が絡むと、或いは優劣を比較されると、平穏では居られなくなり、相手よりも、少しでも優位に立とう、多くの利益を得よう、損害や負担を最小限に止めようとします。
世界では、自国の事を優先し、自国の利益を確保する事に躍起になり、損な役回り、費用負担の増大は御免、と言う風潮が広がっています。
共存共栄、共同歩調に疑問を呈し、ナショナリズムを標榜する指導者がもてはやされ、離脱を選択し、孤立する事さえも善しとする流れは勢いを増している感です。
悲しい事ではありますが、民族が違い、文化が違い、宗教が違うのですから、難しい事であり、永遠の課題なのでしょう。
その点、家族は、特に血を分けた親子や兄弟姉妹などの血縁は、非常に強い繋がりがあり、理解と協力が得られ易い関係です。
特に、存亡の危機の時には、これほど信頼出来る、頼れる存在はないでしょう。
しかし、兄弟は他人の始まり、と申します。
悲しい事に、人類最初の殺人は、アダムの子、カインとアベルの間に起こったのであり、イサクの子、エサウとヤコブの間にも、相続、跡目に関する諍いがあり、殺意さえ芽生えさせてしまったのでした。
仲の良い兄弟が、姉妹が仲違いをする事は、非常に悲しい事ですが、罪を持つ者の定めです。
しかし、目を背けては何の進展もありませんし、定めだと諦めてはなりません。
聖書の赤裸々な記録を学び、信仰生活の糧とし、神様に喜ばれる信仰生活を送りたいものです。
今日は、ラバンの実の娘たちであり、ヤコブの妻となった、レアとラケルの争いを見てみましょう。
【本論】
30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。
古今東西、子を産めない事は、大きな問題であり続けています。
妊娠、出産は、人知を超え、人間の力の及ばない世界の事であるからです。
更に、子は神様の祝福の現れ、多産は神様の祝福の大きさ、と考えるユダヤ人にとって、子を産めない事は、深い悲しみや苦しみとなっています。
遊牧民社会においても、農耕民社会においても、人は大切な労働力であり、大家族は神様に祝福されていると見做され、人々の羨望の的でした。
大家族の家長は神様の祝福を受けていると、自他共に認められ、社会的にも尊敬されたのです。
多くの子を産んだ母も同様であり、誉められ、敬われて、大切に扱われます。
反面、子を産まない女性は、祝福を受けていない、受けられない問題がある、と見做され、呪われているとさえ、噂され、社会的な苦しみをも受けなければならなかったのです。
次々と子を産む姉レアとの日々は、屈辱の連続であり、子どもの名前を聞く度に、「ルベン」は、即ち「子を見よ」であり、「シメオン」は、即ち「聞き届けられた」であり、辛い思いを味わわなければならないのです。
血を分けた姉妹であるが故に、複雑な心理状態に置かれ、忍耐の限界を超えての、悲痛の叫びを上げざるを得なかった程に、追い詰められてしまったのでしょう。
その思い詰めた心の現れが「私に子どもを下さい」との叫びであり、「私は死んでしまいます」との叫びです。
新共同訳聖書、口語訳聖書とも「私は死にます」、と訳していますが、ラケルの必死の形相が思い浮かぶようではありませんか。
ラケルの必死の叫びですが、事、妊娠となると、人間の力では何ともなりません。
30:2 ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。」
ヤコブの怒りは、ラケルの理不尽とも言える要求に対する怒りだけではありません。
ラケルとの結婚を夢見て、7年もの患難辛苦に耐え、ラケルと家庭を築き、ラケルと祝福を味わおうと計画していたのに、現実は全く別の道を辿っている事への憤懣があるでしょう。
そもそもは、ラバンに騙され、レアをあてがわれた事が発端であり、ラバンへの怒りがあるでしょう。
そして、こんな状況に置かれながら、何も出来ない、自分自身への怒りがあり、こんな状況にあるのに、ベテルで現れ、約束してくださった神様に対して、何の介入もなさらない神様に対しての不満がありましょう。
しかし、怒りから発した言葉ではありますが、ヤコブの内に芽生えた、新しい神理解が告白されている事を、見逃してはなりません。
人間は、どんなに優秀でも、頑強でも、強靭でも、神様に代わる事は出来ません。
創意工夫や努力で、問題解決出来る訳ではありません。
罪を持ち、有限な人間に、聖い、無限の神様を理解する事は出来ません。
全てが神様のご計画であり、神様に主権があり、神様に依存しているのであり、人間は、神様に対して謙虚にならなければならない、と言う事です。
何故、どうして、との疑問を持ち、答えてくださらないから、教えてくださらないから、助けてくださらないから、と言って、神様に怒りの感情を持つのは、神様に反抗的な態度を取る事は、正しい事ではありません。
人間は、神様に対して謙虚、謙遜にならなければならず、従順にならなければならないのです。
理解出来る事に対してだけではありません。
理解出来ない事でも、納得出来ない事でも、聴き、従わなくてはならないのです。
理解出来るように祈りつつ、納得出来るように祈りつつ、聴き、従う時、理解出来るようになるのであり、納得出来る日が来るのではないでしょうか。
自分の知恵と力で、難関を潜り抜け、行く手を阻む問題を切り開いて来たヤコブですが、ヤコブは、人間の限界を知り、朧げながら、神様の主権を理解し始めたようです。
30:3 すると彼女は言った。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子どもの母になれましょう。」
このラケルの提案は、アブラハムとサラの用いた手段であり、当時、子の無い夫婦が、子を得る手段として、広く、公に用いられていた手段でした。
「ひざの上に子を産む」行為は、象徴的行為であり、奴隷やはしための子でありながら、正当な嫡子、財産分与に与る子として、認めるための手続きであり、ここではラケルの子として、ラケルが養育する子として産む事を示しています。
信仰者の選ぶ手段とは言い難い手段ですが、当時の社会での、不妊の苦しみ、社会的な苦しみとの対比において考えれば、不信仰と責めるのは酷かも知れません。
ラケルの言葉の最後「子どもの母になれましょう」の直訳は「建て得るように」であり、意訳するならば「彼女によって私もまた家族、家庭を築き上げられるように」といった所でしょう。
現代とは子どもに対する価値観が違いますから、一人の子を持つこと自体が、頑丈な支柱、拠り所となるのであり、家庭での、不動の地位を保証する事なのであり、子のない事で肩身の狭い思いをし、倒れそうだったものが、子によって居場所が与えられるのであり、しっかりと立つのであり、強固、頑丈な柱となるのです。
30:4 ラケルは女奴隷ビルハを彼に妻として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。
30:5 ビルハはみごもり、ヤコブに男の子を産んだ。
ヤコブはラケルの提案に同意し、ビルハを側女とします。
即ち、ヤコブは実質、三人の妻を持つ事になった訳です。
ラケルの提案に従うに当って、葛藤や躊躇はなかったのでしょうか。
ヤコブはラケルの提案に対して、神様に祈ってもいませんし、苦悶した様子もなさそうです。
ヤコブは、ベテルで出合った神様を、どのように理解したのでしょうか。
神様の約束の言葉を、どのように受け止めたのでしょうか。
アブラハムの時には「サラが産む子」と明確な約束が与えられましたが、ヤコブの時には「あなたの子孫は地のちりのように多くなる」との約束であり、誰が産むかは語られていません。
しかし、子孫が増える事が神様の約束であるなら、「誰が」は語られなくても、神様には明確なご計画があるはずであり、神様にお聴きするのが筋ではないでしょうか。
神様のお約束は、結果だけではありません。
経緯、プロセスの全て、誰が、何時、何処で、も神様のご計画で進められるのであり、経緯やプロセス、結果の全てが、神様のご栄光に関わるのです。
結果さえ良ければよい、手順はどうでも良い、ではありません。
逆に、手順や経緯、プロセスが大事なのであり、正しい手順でこそ、正しい方法でこそ、祝福を得られるのです。
正しい手順、正しい方法とは、この世で認められる手順や、法的に問題のない方法の事、基準ではありません。
神様の喜ばれる手順か、神様がよしとする方法か、です。
神様が、顔を顰(しか)められるような手順、方法を選んではならないのです。
ヤコブの、ラケルの提案への同意は、ヤコブの信仰の弱さ故、と言えるでしょうが、誰もが持つ、人間的な弱さであり、神様の約束、方法を待つより、常識に従う弱さであり、待てない弱さ言えるでしょう。
そんな不信仰な方法と選択でしたが、神様はラケルの願い通り、子を与えてくださいました。
30:6 そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜った」と言った。それゆえ、その子をダンと名づけた。
「かばってくださり」を新共同訳聖書では「正しくお裁きになり」と訳し、口語訳聖書では「訴えに答え」と訳しています。
神様は、ラケルの置かれた立場、状況をご覧になられ、憐れまれ、ラケルの側に寄り添い、弁護するかの如くに、平安を与えられるべく、子を与えてくださったのでした。
「かばってくださり」と訳されているヘブル語は「ディン」と言う動詞です。
この「ディン」の分詞形が「ダーン」であり、命名の由来なのです。
30:7 ラケルの女奴隷ビルハは、またみごもって、ヤコブに二番目の男の子を産んだ。
30:8 そこでラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、その子をナフタリと名づけた。
「死に物狂いの争い」の直訳は「神の争いを争った」です。
「姉」と「神の争いを争った」とは、理解するのに難しい表現ですが、ユダヤ的な表現であり、争いの激しさ、熾烈さを、神様に例えて、表現しているのでしょう。
「争い」と訳されているヘブル語は「ニフタル」であり、語路合せで「ナフタリ」と命名した訳なのです。
子のないラケルにとって、二人の子を得た喜びは、どんなに大きな喜びだった事でしょうか。
また、得られた平安の大きさは、計り知れない大きさであった事でしょうか。
「勝った」と叫ばずにはいられなかったのです。
子を産めない故の苦しみから開放されたのです。
ヤコブの心が、子を産むレアに向うのは自然であり、その寂しさ、悲しさから開放されたのです。
ヤコブの心がレアに向うのを防ぐ、止める戦いであったのであり、子を産む事で勝利を掴んだと、確信したのです。
【適応】
しかし、勝利は敗北と表裏一体です。
「姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言っても、一時的なモノであり、恒久的なモノではありません。
環境や状況は変るモノであり、環境や状況が変れば、勝利は脆くも崩れ去るモノなのではないでしょうか。
子どもは100%大人になる事が保障されている訳ではありません。
病気、事故などなどで、何時、天に召されるか解らないのです。
更に、アブラハムとサラで起こったように、側女が横柄な態度を取らないとは限りません。
子を産んだ、と言っても、形式上の事であり、自分の本当の子ではないのですから、誤魔化しているに過ぎません。
形式や誤魔化しでは、本当の平安は持ち得ませんし、恒久的な平安にはなり得ません。
そして、悲しい事に、ラケルの告白は、神様が主体になっていない、と言う事です。
ラケルにとって、神様は主体的な存在ではなく、6節の告白も、よくよく読めば、自分が中心である事は明らかです。
即ち、何の根拠もない、自分だけの喜びであり、糠喜びの勝利でしかない、と言う事です。
一方、レアの告白は、32節「主が…ご覧になった」
33節「主は…聞かれて」
35節「主を誉め称えよう」であり、「主」は大字であり、「ヤハウェ」なる神であり、唯一の創造主を意識した告白であり、深みのある喜びの告白となっているのではないでしょうか。
ラケルの告白は「神」であり、「エロヒーム」であり、一般的な意味での神様であり、二人の告白に込められた意味には、雲泥の差がある、と言わざるを得ません。
勿論、レアもラケルも、意識的に「主」と「神」を使い分けた訳ではないでしょうが、二人の神認識の違いが現れた告白と言えるのではないでしょうか。
私たちも「神様」「主」と言う言葉を口にしますが、この世の人々と似たような感覚で「神様」と言ってはいないでしょうか。
「主」と「主」を意味する「神」と、八百万の神とに、明確な区別、意識を持っているでしょうか。
巷では「野球の神様」とか「サッカーの神様」或いは「将棋の神様」「笑いの神様」とかの言い方を使いますし、最近では何かと「神ってる」と言う言い方をしますが、こんな安直な使い方は、真の神様に対する冒涜でしかありません。
神様と呼べるのは、少なくとも人間を超えた存在でなければならず、努力の結果に得られるような、頑張れば到達出来るような存在ではありません。
環境に依存するような存在は、神様とは言えず、礼拝の対象でも、祈願の対象でもありません。
また、「神様」「主」と言う言葉は、お祈り開始の合図ではありません。
接頭語のようなものでもありません。
習慣的に言う言葉ではなく、単なる呼び掛けの言葉でもありません。
恐れを持って発する敬称であり、畏敬の念を持って発する尊称です。
ラケルの告白に的を絞りましたが、2節でヤコブが告白する「神」も「エロヒーム」であり、一般的な意味での「神」です。
ヤコブがベテルで体験した、あのリアルな神体験はどうしたのでしょう。
ヤコブが持っていた、あの信仰は、レアにしか伝わらなかったのでしょうか。
ヤコブの信仰が、弱まり、小さくなって行き、そのぼんやりとした信仰が最愛のラケルに伝わったのでしょうか。
ともあれ、「ヤハウェ」なる神から、「エロヒーム」の神へ降格させてはなりません。
「ヤハウェ」なる神を、「ヤハウェ」なる神として礼拝するのであり、
「ヤハウェ」なる神に語り掛け、祈願するのです。
その時、真の神、「ヤハウェ」なる神に由来する、この世の影響を受けない、揺るぎ無い平安と、勝った負けたなどと言う次元の低いちっぽけなものではない、完全な勝利を得られるのです。
ラケルは「勝った」と喜びましたが、本当の勝者は「ヤハウェ」なる神様を告白していたレアなのであり、私たちもまた、「ヤハウェ」なる神様を告白する、真の平安と、完全な勝利者、信仰者として歩みたいものです。
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聖書個所:詩篇103:1~5 2017-1-8礼拝
説教題:「主をほめたたえる人生」
説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)
【聖書】
ダビデによる
103:1 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103:2 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103:3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103:5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
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聖書個所:イザヤ書41:10 2017-1-1礼拝
説教題:「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」
【導入】
新年、おめでとうございます。
2016年に与えられた数々の恵みと、試練の時に共にいてくださり、耐え、乗り越える力を与えてくださった事に感謝して、また、2017年にも与えられる数々の恵みと、試練の時に共にいてくださる事を信じて、耐え、乗り越える力を与えてくださる事を信じ、感謝して、主の御名を讃美致します。
人生には「区切り」があり、区切り毎に「計画」があります。
十二月に終わり、一月に始まる、一年の区切りと、それに伴う計画、三月に終わり、四月に始まる、年度の区切りと、それに伴う計画、誕生日による、新しい歳の区切りと、それに伴う計画、入学式や進級による、学年の区切りと、それに伴う計画、成人式や入社式による、社会人としての区切りと、それに伴う計画、結婚や、悲しい事ですが離婚による、人生の大きな区切りと、それに伴う計画、退社や定年による、働きの大きな区切りと、それに伴う計画。
ここに居られる皆様も、2017年を迎え、それに伴う計画がおありの事と思います。
その計画ですが、継続するため、新たな計画を立てない場合でも、修正や変更があり、時に、苦渋の決断として、延期、と言う場合もあるでしょう。
多くは、新しい計画を立て、その計画に取り組む訳ですが、多かれ少なかれ、困難が伴いましょう。
特別な計画を立てずしても、生きて行くだけで、色々な節目に出遭わざるを得ないのであり、大小、長期短期、様々な困難が伴います。
人は、親や叔父叔母に相談したり、友人に相談したり、上司に相談したり、先生と呼ばれる人に相談したりします。
或いは、コンサルタント、アドバイザー、カウンセラー、などと呼ばれる職業が必要とされ、活躍する時代ですが、視界が開けるような、有益な、的確な回答もあれば、模範的、一般論、抽象的で役に立たない回答もあります。
それでも、気休めにはなりましょう。
そして、どの回答にも共通するのは、第三者の回答であり、当事者ではない、と言う事です。
傍観者であって、相談者、そのものにはなれないのですから、客観的にしか考えられず、本当の意味で、困ってはいない、悩んではいない、或いは、切羽詰ってはいない、と言う事です。
親身になって相談には乗るけれど、相談が終われば「では、今日はこれで、さようなら」「ありがとうございました。失礼します」であり、「何かあれば、また来てくださいね」「はい、宜しくお願いします」でしょう。
それでも、親は別であり、一緒に苦しみ、本当に悩み、考え抜いてくれるでしょう。
それでも、人間的な限界があり、何時も一緒に居られる訳ではなく、必ずしも的確な回答を与えられる訳でもなく、何時までも相談に乗ってくれる訳でもありません。
しかし、聖書には、何時でも、何処でも、何時までも、最適な回答を与える事の出来る相談相手、助け手が居ると、しかも、一緒に居てくださり、離れる事がないと教えます。
【本論】
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
この前提には、三つの歴史が関係しています。
直近には、北イスラエル王国の滅亡があります。
アッシリア帝国の侵略があり、町は破壊され、村は蹂躙され、作物、家畜は奪い去られてしまいます。
ティグラテ・ピレセル王の統治は、冷徹、過酷な政治であり、無慈悲な支配が行なわれます。
占領地に対しては、移住政策が行なわれ、イスラエル人は強制的に故郷を離れさせられ、見ず知らずの土地に移住させられてしまいます。
故郷を離れさせるのは、新しい土地に馴染むのに力を注がせるためであり、故郷を離れさせるのは、反乱や抵抗する気力を削ぐためであり、再起、再建を阻止するためです。
そんな状況下で、神様はイザヤを遣わし、イスラエル人を励まされるのです。
二つ目は、エジプトでの歴史です。
エジプト人は、ヨセフの働き、エジプトを救った恩義を忘れ、イスラエル人を圧迫し、過酷な労働を強い、イスラエル人が増える事を阻止しようとして、産まれて来る男の子の殺害を命じました。
イスラエル人の叫びは天に届き、そこで神様は、イスラエル人を開放する事を計画され、実行されます。
イスラエル人は、400年以上生活した、住み慣れたエジプトを離れる事になります。
向う土地は「カナン」であり、目的地は明確ではありますが、旅の困難は必至です。
神様はモーセを遣わし、ヨシュアを遣わし、イスラエル人を励まし、導かれました。
その事を思い出させ、励ましを与えるために、神様はイザヤを遣わしました。
直接には、三つ目の、アブラハムの上に起こった出来事を前提として語られておりカルデヤのウル出立であり、ハラン出立であり、慣れ親しんだ土地を離れ、親族、友人知人と別れ、見ず知らずの土地に出立した事です。
出立の時点で、目的地は明らかにされてはおらず、何処に行くのかを知らされてはいない旅に出立したのです。
途中、飢饉があり、エジプトでの体験をし、甥のロトとの別れ、ロト救出の出来事、ゲラルでの出来事、イサクを生け贄にしなければならないと言う過酷な試練…その時神様が現れ、アブラハムを励まし、導かれました。
その事を思い出させ、励ましを与えるために、神様はイザヤを遣わしました。
三っつの歴史を挙げましたが、旅の困難は想像に難くなく、恐れは現代の私たちに想像も出来ない程のものであった事でしょう。
それでも、神様の守りを信じて旅立ったのであり、神様の導きを確信して、従ったのです。
その事を思い出させ、励ましを与えるために、神様はイザヤを遣わしました。
10節の言葉は、アブラハムに語り掛けられた神様の御ことばからの、直接引用の言葉ではありませんが、色々な出来事の中で語られた御ことばをまとめたもの、と言えるでしょう。
「あなた」は単数であり、直接的には「アブラハム」個人への語り掛けであり、アブラハムの子孫に対する、個人的な語り掛けですが、普遍的な性格が与えられ、イスラエルの民への、新しいメーッセージとして語り掛けたのであり、現代の私たちへの、語り掛け、励ましのメッセージなのです。
「ともにいる」は、物理的に近いとか、付かず離れず、適度な距離を保っている、と言ったような、消極的な意味ではなく、
旅は道連れ、程度の受動的な同伴者を意味する訳でもありません。
物理的にも、精神的にも寄り添い、積極的に関わりを持ってくださるのであり、
常に配慮を怠らない、能動的な同伴者を意味します。
保護者、守護者、となってくださり、常に見守っている、休む事も、まどろむ事もなく、直ぐに手を差し伸べる用意万端の同伴者だ、と言う事なのです。
「たじろぐな」を、口語訳聖書は「驚いてはならない」と訳していますが、「うろたえるな」「ビクビクするな」「あちらを見たり、こちらを見たりするな」と言っているのであり、今すべき事を忘れている様子、今すべき最善の事は何かを見失っている様子、を意味しており、そんな必要がない事を宣言します。
「わたしの義の右の手」を、新共同訳聖書は「救いの右の手」と訳し、口語訳聖書は「勝利の右の手」と訳しています。
「義」も「救い」も「勝利」も、神様のご性質を現しており、「右の手」は、正義を執行する権威と威力を意味します。
これらの「守り」の約束は、神様の一方的な選びと恵みで与えられるものであり、全ての敵対は、約束された神様の主権、臨在と、守り、助けの約束の中で起こる事であり、敵対すらも、神様の許しで起こるのであり、神様と無関係には起こらないのです。
人間がどんなに堕落しても、偶像に走っても、争いが絶えなくても、無関心ではいられないのであり、滅びて行くのを眺めてはいられないのであり、関心を持たずには、手を差し伸べずにはいられないのです。
何とかして救おうと手立てを考え、歴史の出来事を通して、神様の存在と臨在を知らせ、神様が人間に関心を持っており、関わり続けている事を知らせ続けているのであり、イザヤを通して、現代の私たちにも教え、慰めと励ましを与えて下さっているのです。
【適応】
私たちは、色々なところで、事柄で不安を感じ、状況で恐れます。
将来への不安、恐れ。
老後への不安、恐れ。
対人関係の不安、恐れ。
人間社会への不安、恐れ。
評価される事への不安、恐れ。
政治、支配者への不安、恐れ。
会社、学校での不安、恐れ。
交通事故への不安、恐れ。
地震、災害への不安、恐れ。
病気や怪我への不安、恐れ。
救いの確信への不安、恐れ。
自身の罪への不安、恐れ。
エトセトラ…
何に不安を覚え、何を恐れるか、その度合いの程度は、人、其々でしょうから、他人から見たならば、大した理由とは思えない事であっても、しかし、本人は、本気なのであり、真剣なのであり、真面目に悩んでいるのです。
決して大仰に騒いでいるのでも、大袈裟に振舞っているのでもありません。
誰もが、色々な理由で、何かを原因として、不安、恐れを抱きます。
ですから、決して不安、恐れを抱く事が悪いのではなく、不安、恐れに固執し、囚われ、身動き出来なくなってしまうところに問題があるのです。
そして、世界を支配しておられ、色々な不安、恐れの呪縛から開放する力をお持ちのお方を知らない事に、全知全能の神様にお任せしないで、自分で抱えている事に、問題があるのではないでしょうか。
しかし、決して、神様に任せっ切りで良いとか、楽天的に生きなさいとか、お気楽にしていなさいとか、真剣に考える必要はない、と言う事を奨励しているのではありません。
何故、不安になるのか、恐れるのか、を真剣に考える事は大切です。
原因を探り、重要な問題か、否か。
自分で対処の範囲か、否か、を考える事は大切です。
不安、恐れの原因が判れば、対処のし方も判りましょう。
そして、どうしようもない事もあるのであり、人知の及ばない事を悩んでも、し方がありません。
漠然とした不安や恐れを明確にした上で、問題の大小に関わらず、対処の軽重に関わらず、神様の臨在を確信し、神様に委ねる、この順番が大切です。
漠然としたままでは、何を委ねたのかも明確ではなくなり、不安は募るばかりでしょう。
簡単な事だから自分の力で何とかする、大変な事だから、厄介な事だから神様に縋るではありません。
強くても良いのですが、強くなければならない訳ではありません。
頑張っても良いのですが、頑張らなければならない訳ではありません。
小さな問題でも、小さな悩みでも、小さな不安でも、小さな恐れでも、どんな問題でも、神様は無関心ではいられません。
何時も側におられ、決して離れる事なく、四六時中見守っておられ、「恐れなくて良いのだよ、不安にならなくて良いのだよ、悩まなくて良いのだよ」と慰め、励まし、平安を与えてくださいます。
神様の臨在は、遠く離れてではなく、側で寄り添い、片時も離れず、守り、支え、励まし、助けてくださるのです。
新しい年、新しいスタートに際して、神様が私たちと共に居てくださる事を確認しました。
次ぎ次ぎに涌きあがる不安や恐れを神様にお委ねして歩もうではありませんか。
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