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聖書個所:創世記3824節~30節               2017-10-29礼拝

 説教題:「ユダから救い主へ」

 【導入】

ヤコブの歴史、ヨセフの生涯、そしてヨセフの生涯に割り込むような形で、ユダの家の出来事が挿入されており、ユダの家で起こった顛末、スキャンダルについて、2回語って来ました。

ユダは、身内贔屓(ひいき)からか、親の贔屓目からか、エルやオナンに原因があるや無しやを調べる事もせず、また、神様に伺う事もせず、タマルを騙し、タマルを遠ざける事で、事態の好転、終息を図ろうとします。

未亡人は何の保証もなく、庇護もなく、肩身の狭い思いをしなければならない時代です。

ユダの目論見は、タマルの父親がタマルのために再婚の口を捜して、縁切りを申し出る事だったのではないでしょうか。

歳を重ね、妊娠の可能性がなくなれば、再婚の話すらなくなるでしょうし、ユダから離縁の話が出るのは必然的です。

タマルを遠ざけ、これで一件落着、と思いきや、タマルは知恵を働かせ、神殿娼婦のなりをしてユダを待ち、ユダの誘いを受け、ユダによって身ごもり、自分の責任、ユダの子孫を残すと云う責任を果たしました。

決して最善の策ではなく、何の問題もない行動とは言えませんが、タマルの行動は、レビラート婚の教えに従うものであり、ユダの、タマルを騙し、縁切りを画策した行動こそが、問題であり、原因です。

殆んど全ての非は、ユダに帰する、と考えて然るべきでしょう。

しかし、ユダは、自分には非があるとは全く思ってはいません。

タマルからの、タマルの父親からの、縁切りを伝える使者を待っていたのではないでしょうか。

そんな折に、

【本論】

38:24 約三か月して、ユダに、「あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです」と告げる者があった。そこでユダは言った。「あの女を引き出して、焼き殺せ。」

ここに「告げる者」が登場します。

13節でも、タマルにユダが来た事を告げる者が登場いたしました。

同一人物なのでしょうか。

13節では、タマルに対して、ユダの到来を告げただけですので、好意的とも、協力的とも言い切る事は出来ず、写真などのない時代ですから、ユダを知っている者は、そして、タマルとの関係を知っている者は、極、限られた関係者だろうと推測する事が出来る程度でしょう。

しかし、24節では、状況に大きなヒントがあります。

即ち、タマルの妊娠を知っている、と云う事です。

妊娠三ヶ月は、妊娠初期であり、多くの場合、外見上の変化は殆んどありません。

鶏の卵大だった子宮が、大き目の蜜柑、小さ目のグレープフルーツ位の大きさへの変化であり、人によっては、少し、ふっくらしてくる事もありますが、それも、当時の、ゆったりした服の上からでは、妊娠を見極めるのは非常に難しい事でしょう。

まして、確定的に、断定するのは、特別な立場でない限り、あり得ない事でしょう。

即ち、常日頃から、タマルの側で、身の回りの世話をしていた者でなければ判らない情報であり、タマルに仕える者であったのではないか、と推測出来ましょう。

そんな、親身になってタマルの世話をする者が、わざわざユダの所にまで行って、告げたのですから、密告者であり、ユダがタマルに付けた付き人であったのか、ユダに買収されて、ユダのスパイとなってしまった人物なのかも知れません。

24節で「売春」と訳されているヘブル語は、15節で「遊女」と訳されているヘブル語と同じです。

新共同訳聖書、口語訳聖書では「姦淫」と訳しています。

日本語で「売春」と「遊女」と「姦淫」とでは、多少ニュアンスが違いましょうが、これらの意味を併せ持つヘブル語なのです。

さて、密告者の報告を聞いたユダは、烈火の如くに怒り、自分の不誠実さは棚に挙げて、タマルを「焼き殺せ」と命じます。

通常、姦淫は、申命記2223節以後に記されている通りに、石打ちの刑です。

しかも、男女二人ともです。

しかし、相手について言及しないのは、如何にも不公平な処置なのではないでしょうか。

そして、後の時代、レビ記219節以後に記されている通りに、祭司の娘が淫行を行った場合は、火炙りの刑に処せられますが、明文化される以前でも、淫行が甚だしい場合にも適応されたようです。

この時代にも、甚だしい姦淫に対しては、火炙りを行ったようですが、しかし、非常に稀な事であり、ユダの怒りの大きさが表現されているのです。

38:25 彼女が引き出されたとき、彼女はしゅうとのところに使いをやり、「これらの品々の持ち主によって、私はみごもったのです」と言わせた。そしてまた彼女は言った。「これらの印形とひもと杖とが、だれのものかをお調べください。」

タマルの、命をかけた助命嘆願であると同時に、ユダの不誠実さを告白する内容である事に注目しなければなりません。

ユダは、タマルの不貞を声高に叫ぶけれども、レビラート婚を否定するのは、ユダ自身の発した約束を反故にするのは、如何なものか調べて下さい、なのです。

ここで、「印形とひもと杖」とが、重要な役割を果たします。

詳しくは前回、説明しましたので、重複は避けますが、印章も、紐も、杖も、特徴的な品々であり、高価、貴重な品々ではありませんが、三点共に、この世に複数存在しない一点ものであり、個人を特定するには格好の品々です。

一点ならば、盗まれたとか、失くしたとかもありましょうが、三点揃ったならば、効果絶大であり、言い逃れも、誤魔化しもできません。

38:26 ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。

タマルの行動は、倫理的に、道徳的に、また、手順として正しいとは言えませんが、法的な権利を得るため、即ち、正式なユダ一族の一員と認められ、ユダ一族の庇護に入るための欺きであり、レビラート婚の規定にも反していません。

しかし、ユダは、父としての法的責任を回避するためにタマルを欺き、自身の発言に対しても、自身を欺き、神様をも欺いたのであり、タマルの比ではありません。

ユダは、タマルを二重に欺きながら、怒りによって過激な発言をしたのでしたが、タマルの示した証拠の品々によって、自身の不正を自覚したのであり、タマルの行動を承認し、自身を正しくない、罪ある者、と認め、告白したのです。

罪を認め、告白する事こそ、重要です。

神様は人間を、世界を、目的を持って造られましたが、その目的に従っていなければ「罪」なのです。

「罪」と言うと、正しくない事、犯罪、規則違反、非道な行為、などを考えますが、「罪」と言うより、「的外れ」と言い換えた方が理解の助けになるかも知れません。

ですから聖書の云うところの「罪」とは、正しくない事、犯罪、規則違反、非道な行為、だけではありません。

神様に対する、背反行為、信仰から出ていない、全ての言動が「罪」であり、「的外れ」です。

与えられた賜物、能力を正しく行使しない事も、全く使わない事も「罪」であり、「的外れ」です。

正しい事であっても、範囲を超えた言動も、分を超えた言動も「罪」であり、「的外れ」の部類です。

「的外れ」な言動は罪であり、すべき言動をしなければ「的外れ」であり罪なのです。

ユダの告白は「私はすべき事を怠った、タマルを欺き、シェラを欺き、神様を欺き、自身を欺いた」との告白でもあるのです。

それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった」は、ユダとタマルは夫婦関係に入らなかった事を記録しています。

レビラート婚の規定に従えば、ユダとタマルは夫婦関係になれた訳であり、ヤコブ一族も、世間も容認するでしょうが、シェラが成人している以上、ユダがタマルを娶る訳にもいかず、かと言って、タマルはユダの子を身篭ったのであり、タマルをシェラの嫁にする訳にもいきません。

タマルも、ユダも、シェラも、微妙な関係の中で、生活せざるを得なくなってしまったのです。

こんな複雑な家庭にしてしまったのは、言うまでもなくユダです。

38:27 彼女の出産の時になると、なんと、ふたごがその胎内にいた。

38:28 出産のとき、一つの手が出て来たので、助産婦はそれをつかみ、その手に真っ赤な糸を結びつけて言った。「この子が最初に出て来たのです。」

経験豊富な助産婦だったのでしょうか。

双子である事が判明いたします。

助産婦は、赤い糸を準備し、長子の目印といたします。

どちらが兄かを、はっきりさせておくための知恵ですが、イスラエル民族のみならず、長子は大きな期待があり、特別な権利があるからです。

父の土地を受け継ぎ、一族の名前を残し伝え、一族の長として一族を導き、父の財産を受け継ぎ、父の職を受け継ぎ、家族を養い、守りますから、長子と、長子以外は、明確に区別を付けなければならず、産まれた直後のごたごたで、どっちがどっちか判らなくなっては困るのであり、赤い糸を用意し、出て来た瞬間、間髪を入れずに、長子に印を付ける必要があったのです。

38:29 しかし、その子が手を引っ込めたとき、もうひとりの兄弟のほうが出て来た。それで彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。

この「割りこむ」と訳されているヘブル語は、「打ち破る、打ちこわす、破る」などの意味を持つ動詞ですが、新共同訳聖書は「出し抜いたりして」と訳し、口語訳聖書は「破って出るのか」と訳しています。

ペレツ」の意味は、「破れ、破れ口、裂け目、破れ目」などを意味する名詞であり、「割りこむ」と訳されているヘブル語と、「ペレツ」のスペルは同じ「prs」です。

38:30 そのあとで、真っ赤な糸をつけたもうひとりの兄弟が出て来た。それでその名はゼラフと呼ばれた。

ゼラフ」の意味は、「輝き、(夜が)明けること、現われ、始まり」を意味するヘブル語「ザラ」(スペルはzrh)からの命名です。

この状況は、兄と弟が、産まれた時から競い合っている状況は、リベカがイサクに産んだ、エサウとヤコブの状況に、似ています。

そして、エサウが兄であり、ヤコブが弟であるのに、ヤコブがイサクの働きを引き継いだように、ゼラフが兄であり、ペレツが弟であるのに、歴代誌第一24節に、マタイの福音書13節に記されているように、ペレツが長子のように扱われ、また、ルツ記412節では、ペレツにしか言及されていません。

ユダの子孫の主流は、ペレツに受け継がれて行く事になるのです。

イサクの子、エサウとヤコブの時に、神様の「選び」があったと同じように、ユダの子、ゼラフとペレツの時にも、神様の「選び」があり、弟が選ばれ、使命を担い、イスラエル民族を、ユダヤ民族を導き、救い主に繋がる血筋を伝え、守る事になるのです。

【適応

ヤコブの子は12人いますが、大きく扱われているのはヨセフであり、創世記37章から50章までの、殆どがヨセフに関わる出来事の記録です。

そこに割り込む形で38章にユダの事が記され、他の兄弟の事については、数節が当てられているだけです。

しかし、分量で重要度の軽重を量ってはなりません。

聖書の主題は、人間の罪と、罪からの救い、そして救い主についてであり、救い主につながるユダの事は、重要であり、醜聞でも記録する必要があるのです。

聖い神の、御子イエス様の誕生が、どろどろとした人間の醜聞と関わりがない方がよい、と考えましょうが、そうではありません。

そもそも、人間は穢れた生き物であり、罪深く、聖さの対極にいます。

何をしても、しなくても、神様に喜ばれない事にしかならないのです。

主要な登場人物、重要人物であるノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、神様に喜ばれない言動があり、聖書に記録されています。

ノアは、創世記921節に記されているように、前後不覚になるまで酒に酔い、醜態を晒しています。

アブラハムは、創世記1210節以降と、201節以降に記されているように、サラを妹だとの偽りを言って、土地の支配者を騙し、創世記16章に記されているように、サラの提案であり、当時の社会一般で行われていた事ではありますが、サラの仕え女を召し入れ、イシュマエルを産ませています。

イサクも、アブラハムに習ってか、創世記266節以降に記されているように、リベカを妹だとの偽りを言って、土地の支配者を騙しています。

ヤコブや、ユダについては記憶に新しい事でしょう。

勿論、神様に喜ばれる言動も記録されています。

ノアは、神様の命令に従い、箱舟を造り、アブラハムは、神様の命令に従い、旅立ち、我が子イサクを献げ、イサクも、神様の命令に従い、旅立っています。

しかし、従った事よりも、神様の喜ばれない事をした事の方が重要であり、十戒の9項目を守っても、1項目を破ったならば、十戒を破った事になるのであり、その点で、人間は、神様の前に、正しい、義なる存在たりえないのです。

しかし、神様は、行いではなく、存在そのものを喜んでくださり、人間を通して、救いのご計画を進められるのであり、神様のご計画が、人間の罪の影響を受ける事はないのです。

しかし、勿論、罪をそのままにして良い、罪があっても良い、と言う事ではありません。

罪は罪として処理されなければならず、有耶無耶にしてはなりません。

ユダが「あの女は私よりも正しい」と告白した事は、重要です。

動かぬ証拠を突き付けられても、白を切るのが人間であり、まして、誰も言い出さなければ、指摘されなければ、自分から名乗り出る事はありません。

一般的、社会的に良い事、と言われる事を行った時には、人はこれ見よがしに、「私、やってますよ」「私がやったんですよ」的な雰囲気を醸し出しますが、罪の追求、犯人探しの時には、「私がやりました」は言い出しませんし、気配を消し、事が収まるのをじっと待ち、緊迫感に耐えるのみ、なのではないでしょうか。

ユダも、何とでも、言い逃れも、嘘の方便も出来たでしょうが、潔く、非を認めます。

そして、タマルの正しさを認め、告白した事も重要です。

多くの場合、自分の非は認めつつも、誰かに責任の一部を転嫁したい誘惑に駆られるのではないでしょうか。

しかし、ユダは、それをしなかったのです。

そして、生き方も変わったのではないでしょうか。

タマルと、再び関係を持たなかった事が、この事を暗示しています。

そんな、ユダだからこそ、神様は、ユダを救い主の系図に組み入れられたのではないでしょうか。

ユダの子孫から、救い主を生まれさせたのではないでしょうか。

正しいから、用いられるのではなく、正しく振舞っていると、用いられるのでもありません。

正しい者はいないのであり、嘘の振る舞いは、神様に筒抜けです。

自分の非を認め、自分の非だけを問題視し、問題に向き合う時、神様との関係は正され、的外れな生き方は修正され得るのです。

神様の前に立つ、立たされていると言う自覚、神様と共に生きて行くと言う自覚が、神様と共に生きて行きたいと願う事が、神様のご計画に組み入れられ、神様のご計画の推進に寄与する器とされるのです。

ここにおられる皆様が、神様との関係を正し、神様との関係のみで行動され、神様の御栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記3812節~23節               2017-10-22礼拝

説教題:「タマルの策略」

【導入】

ヤコブの歴史、ヨセフの生涯、そしてヨセフの生涯に割り込むような形で、ユダの家の顛末が記されています。

聖書を読む私たちは、エルとオナンが神様に対する何らかの罪を犯したので、しかも、二人ともその罪を悔改める事をせず、罪を犯し続けたので、神様に打たれ、殺された事を知っていますが、渦中のユダは知る由もなく、タマルに対して、不気味なもの、不吉なもの、不安なものを感じたのではないでしょうか。

多くの人は、身内贔屓(ひいき)であり、身内には甘く、他者に対して厳しいものであり、また、身内には無条件に近い迎合を示しますが、他者には重箱の隅を突くような指摘をするものです。

これは肉親の情の現れであり、仕方のない事ではありますが、だからこそ、より一層、客観的な見方をするよう、常に気を付けていなければなりません。

状況や経過を客観的に観察し、その上で、客観的な結論や決断をしなければならない、と言う事です。

これは決して、身内の味方をしてはならない、と云う事ではなく、問題が起こった時には、配偶者と共に、或いは子どもと共に、或いは肉親と共に問題に立ち向かうのであり、共に戦い、或いは、配偶者になり代わって、子どもになり代わって、肉親になり代わって戦うのです。

そして、非がある時には共に謝罪するのです。

ここで覚えたいのは、一般論として、男性は社会性が強い生き物なので、社会通念、法的に正しいか否かで判断し易く、それを根拠に行動し易い、と云う事です。

一方、女性は家族性が強い生き物なので、社会通念、法的に正しいか否かよりも、関係性で判断し易く、行動し易い、と云う事です。

しかし、これは普遍的な事ではなく、民族や、時代、地域によっても格差の大きい事でしょう。

それぞれの特性は、神様から与えられた賜物の一つですから、決して悪い特性ではありません。

ですから、それぞれの特性を自覚した上で行動する事が、より良い社会、より良い家族を作り上げるのであり、神様に喜ばれる選択、生き方につながる事になるでしょう。

さて、イスラエル人は家族を、血縁を非常に大切、重要視する民族であり、ユダは、エルやオナンに原因があるや無しやを調べる事もせず、また、神様に伺う事もせず、タマルを遠ざける事で、否、縁を断つ事で、事態の好転を図ろうとします。

【本論】

38:12 かなり日がたって、シュアの娘であったユダの妻が死んだ。その喪が明けたとき、ユダは、羊の群れの毛を切るために、その友人でアドラム人のヒラといっしょに、ティムナへ上って行った。

この「かなり日がたって」を、新共同訳聖書は「かなりの年月がたって」と訳しています。

この「」或いは「年月」と訳されているヘブル語には「時、年、生涯、時間、期間、今日、昨日、明日」の意味があり、文脈によって訳し分けています。

タマルを実家に帰してから、時が過ぎ、妻が死に、「その喪が明け」、14節に記されているように、三男のシェラが成人していたのですから、数年が経過した、と見て間違いなさそうです。

その喪が明けたとき」と訳されている部分のヘブル語の直訳は「ユダは慰められる」であり、日本では、忌日数は四十九日、服喪期間は一周忌、一年を目安とするようです。

イスラエルやパレスチナには「」の期間に、日本のような特定の慣習はなかったようですが、ユダの場合、喪明けは、年中行事の一つに合わせたようで、「羊の群れの毛を切る」時期を、きっかけとしたようです。

何故ならば、「羊の群れの毛を切る」のは、一大イベントであり、春の大きな行事であり、大勢の人たちの、何日間かの重労働が続き、終わった時には、通常、祭りが行われたからです。

祭りに合わせて、「」を終了させるのは、合理的であり、自然なのではないでしょうか。

そして、祭りには、豊穰に感謝し、次の豊穰を祈願しての、儀式的な性慣習が存在し、神殿娼婦が存在し、淫行が行われていた事が、背景としてあった事を、伏線として知っておいていただかなくてはなりません。

38:13 そのとき、タマルに、「ご覧。あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにティムナに上って来ていますよ」と告げる者があった。

38:14 それでタマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、ティムナへの道にあるエナイムの入口にすわっていた。それはシェラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知っていたからである。

ユダは、妻に対する喪の期間を終え、シェアが成人したのですから、タマルに使いを送り、シェアの嫁として迎えるのが筋であり、当然な事ですが、ユダはそれをしません。

それは、前回確認した通りであり、シェアまでもが死ぬ事のないためです。

不幸が続くのは、嫌なものであり、不幸の連鎖を断ち切りたい思いは、誰もが持ちましょうが、神様が認められた、レビラート婚の慣習は、そして、ユダ自身が決めて、宣言し、約束した事は、何を犠牲にしても守らなければなりません。

何より、エルの死とオナンの死は、エルとオナンの、それぞれの不適切な、神様に喜ばれない、否、神様に忌み嫌われる行為によるものであり、タマルには原因も責任もありません。

ユダは、タマルを遠ざけるべきではなく、エルとオナンの死を教訓として、シェアを教育すべきであり、シェアまでもが、神様に呪われるような人間にならないように育てるべきです。

そして、そのような教育をする以上、自身も、神様に喜ばれない行為をすべきではなく、自身の生き方を変えなければならないのです。

自身には手を付けず、タマルを遠ざけても、何の解決にもならず、進展もありません。

腐った土台の上に家を建てるようなものであり、家が使い物にならなくなるのは時間の問題です。

やもめの服」の形態は判りませんが、当時は、誰が見ても「やもめ」である事が伝わる服があったのでしょう。

タマルは、「やもめの服」を脱ぎ「ベールをかぶり」ますが、注解書によれば、ベールを被るのは、神殿娼婦だけであり、普通の遊女はベールを身に着けないそうです。

即ち、神殿娼婦と、遊女とを、明確に区別していたのであり、15節の「遊女(znh)と、2122節の「遊女(qdsh)は、別のヘブル語が使われ、2122節は「神殿娼婦」と訳し、区別すべきです。

単に性を生業とする遊女なのではなく、神殿に仕え、五穀豊穣を祈願するための、儀式的性慣習に仕えるのが神殿娼婦なのでしょう。

タマルは、顔を隠すのに都合の良い、神殿娼婦の姿をした訳でしょう。

そんなタマルの配慮はともかく、ユダの性癖、旅先で一時の快楽を求める生き方に大きな違いはなさそうです。

タマルは、ユダの性癖を知った上で、遊女、神殿娼婦のなりをしたのであり、しかも、ベールを被る事は、顔を隠す事であり、タマルにとって好都合だった事は間違いありません。

タマルの聡明さ、慎重さ、配慮が、伺える場面でしょう。

ここで、タマルの取った行動の意味を考察する必要がありましょう。

タマルの取った行動には、意味があります。

即ち、レビラート婚の教える兄弟の務めに付随して、もしも、兄弟全てが責任を果たし得ない場合には、父親が代わりを務める、との規定があるのです。

これは、紀元前14世紀の、ヒッタイトの法に規定されています。

タマルは、当時の、周知の規定に従って行動したのであり、無分別な、常軌を逸した行動を取った訳ではないのです。

シェアと結婚させてもらえないなら、父親によって、子孫を残す事が、タマルのなすべき事と考えたのであり、そのために計画し、行動したのです。

38:15 ユダは、彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたので遊女だと思い、

38:16 道ばたの彼女のところに行き、「さあ、あなたのところに入ろう」と言った。彼はその女が自分の嫁だとは知らなかったからである。彼女は、「私のところにお入りになれば、何を私に下さいますか」と言った。

タマルの目論見通りであり、ユダに声を掛けられたのは、作戦通りですが、タマルの目的は、ユダによって子を宿す事です。

しかし、そんな心は、様子は微塵も面に出さずに、如何にも遊女らしい、神殿娼婦らしい要求を、さり気なく申し出ます。

ここにもタマルの聡明さ、慎重さ、配慮が伺えるのではないでしょうか。

38:17 彼が、「群れの中から子やぎを送ろう」と言うと、彼女は、「それを送ってくださるまで、何かおしるしを下されば」と言った。

子山羊一頭の価値、現代では想像のし様が、何かと比較のし様がありませんが、家畜は貴重な労働力であり、財産であり、献げ物にも、生贄にも供する事の出来る便利なものであり、何の社会的保証のない、保護も援助も得られない、遊女の、神殿娼婦としての報酬として妥当なものでしょう。

そして、ここでもタマルの聡明さ、慎重さ、配慮が発揮されます。

即ち、子山羊を受け取るまでの、保証の品を要求した事です。

これは、ユダが報酬を忘れないための用心でも、手形的な意味合いのものでもありません。

「ユダ」を特定する品物を要求したのであり、これこそ、タマルの目論見です。

タマルは、ユダによって妊娠する事を目論んだのであり、父親が誰かを明確に特定するものを、欲していたのです。

38:18 それで彼が、「しるしとして何をあげようか」と言うと、「あなたの印形とひもと、あなたが手にしている杖」と答えた。そこで彼はそれを与えて、彼女のところに入った。こうしてタマルは彼によってみごもった。

印形」「ひも」「」どれも、何処にでもある、ありふれたものですが、「印形」は円筒状の印章であり、「ひも」は単なる縄ではなく、真田紐のような凝った紐であり、ネックレス・ペンダントのように、首にぶら下げ、携帯していました。

当時、地位、身分の高い人の、服装の一部となっており、「印形とひも」を持つ事はステータスであり、裕福な者であり、地位がある事の、身分が高い事を現すシンボルであったのです。

」も単なる木の枝ではありません。

背丈を越える長さがあり、頭の部分には「獅子」などの彫刻が施してありましたから、非常に目立つものであり、時に個人名が刻み込まれてもいましたから、「印形とひも」と「」は、個人を特定するに、絶好のものであり、何処にでもありそうで、何処にでもあるものではないのです。

そして、大切な物、重要な物ではありますが、それ自体に価値がある訳ではありませんから、タマルに預けるに、大きな逡巡、葛藤はなかったので、ユダはタマルの要求に応じたのです。

ここにもタマルの聡明さ、慎重さ、配慮が発揮されました。

38:19 彼女は立ち去って、そのベールをはずし、またやもめの服を着た。

タマルは、目的を達すると、直ぐに、通常の生活に戻ります。

この素早さにも、タマルの聡明さ、慎重さ、配慮が見て取れましょう。

ユダの目には留まらなければならず、かと言って人目についてはならないのです。

 

本当に聡明でなければ為し得ない行動なのではないでしょうか。

タマルとは状況が違いますが、教会で「わたしがやりました」「わたしやってますよ」的な、目立とう精神が横行しているとしたら、残念な事です。

マタイの福音書63

6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」なのではないでしょうか。

これ見よがしの奉仕は、人からの賞賛を受けるような奉仕は、残念なものでしかありません。

神様が見ておられるが、全ての行動の基準であり、人に見られないようにしてこそ、神様に献げ得るものとなる事を忘れてはいけません。

人から賞賛を受けた時点で、神様からの賞賛はなくなってしまいます。

知られない奉仕、知られない献金こそ、貴重な、神様に覚えられる奉仕、献金なのです。

また、直ぐに身を引く事も美徳、と言えるでしょう。

タマルの場合、ユダによって身篭る事だけが目的ですから、目的を達したならば、直ぐに、間髪入れずに退場するのが、賢明なのです。

38:20 ユダは、彼女の手からしるしを取り戻そうと、アドラム人の友人に託して、子やぎを送ったが、彼はその女を見つけることができなかった。

38:21 その友人は、そこの人々に尋ねて、「エナイムの道ばたにいた遊女はどこにいますか」と言うと、彼らは、「ここには遊女はいたことがない」と答えた。

2122節で「遊女」と訳されているヘブル語は「神殿娼婦」と訳されるべきだ、と申しました。

ユダに「遊女」「神殿娼婦」の区別はなかった事でしょうが、タマルの身なりは「神殿娼婦」の身なりであり、友人は具体的な特徴として「神殿娼婦」を探し、尋ね廻ったのです。

ここに、友人の、ユダに対する配慮があります。

即ち、ユダは、単に情欲の趣くままに「遊女」と楽しんだのではなく、「神殿娼婦」、ここでは「アシュタロテの女神」との宗教的な結合をしたのであると考え、行為の正当性を言外に、滲ませているのです。

この「神殿娼婦」と訳されているヘブル語は「ケデーシャー」ですが、「カードーシュ」即ち「聖い」からの派生語です。

当時は「神殿娼婦」を女神の化身と考え、聖なる存在である「神殿娼婦」との性交を「聖い」行為と考えていたのです。

女神の化身的存在との結合により、神的力を得て、無病息災、家内安全、子孫繁栄、事業成功を得ようとしたのです。

非常に都合の良い理屈ですが、こんな時代だったのです。

友人が幾ら探しても、タマルは身を潜めてしまったのですから見つかる筈がありません。

38:22 それで彼はユダのところに帰って来て言った。「あの女は見つかりませんでした。あそこの人たちも、ここには遊女はいたことがない、と言いました。」

38:23 ユダは言った。「われわれが笑いぐさにならないために、あの女にそのまま取らせておこう。私はこのとおり、この子やぎを送ったのに、あなたがあの女を見つけなかったのだから。」

印形」と「ひも」と「」。

重要な物であり、紛失は一大事ではありますが、実質的な損害は軽微であり、諦めれば済むと、考えたのでしょうか。

血眼になっての、過度の追求は、愚かさを曝け出す、恥の上塗りと考えたのかも知れません。

ユダは友人の所為(せい)にする事で、事の終息を宣言します。

勿論、終息などするはずがなく、この後、大騒動になるのです。

【適応

今日の聖書箇所で見え隠れするのは次の二つの事です。

一つは、ユダが、聖い神様に選ばれた民でありながら、異郷の地で「遊女」と交わった、即ち、異教の「神殿娼婦」と関係を持った、非常にカナン的であった、と言う事です。

妻が死んでいても、「遊女」と関係を持つのは、許されざる事であり、まして「神殿娼婦」と関係を持つのは、唯一の神様に従う民にあってはならない事です。

ユダは、明確に「神殿娼婦」の姿をした女と交わりながら、意図的に「遊女」だと、自身を納得させ、誤魔化していたのですから、悪質であり、神様に断罪されてしかるべき大罪を犯したのです。

そもそも、羊の毛の刈り取りには、祭りが付き物であり、羽目を外すのも慣習であり、必然的に、遊女と交わる事になるのではないでしょうか。

近くにアシュタロテ神殿があるのですから、神殿娼婦との結合も、想定内の事なのではないでしょうか。

そして、わざわざ子山羊を報酬にしなくても、羊の毛の刈り取りに来ているのですから、沢山の羊の中から、手頃なのを選んで与えてもよいのではないでしょうか。

ユダの、心理を知る手がかりがないので、断定出来ませんが、聖書の中では、山羊よりも、羊の方が上位の動物です。

ユダが、少しでも価値の低い山羊を報酬に選んだのならば、何とも情けない。

イスラエル人は、常に清廉潔白な生き方を心がけ、過分な報酬を与える事を実践する民であるに留まらず、恵みと哀れみに富み、貧しい者に惜しみなく施し、助けを求める者に救いの手を差し伸べる事が求められているのです。

ユダは、イスラエル人でありながら、親、兄弟の下を離れた時に、この世の力に抗いきれず、強い影響を受け、あっという間にカナン化してしまったのです。

日本はクリスチャン人口の非常に少ない国であり、しかも、八百万の神仏、先祖崇拝が行われ、何でも神様にしてしまうお国柄ですから、教会を一歩出れば、それらの影響をもろに受ける事になります。

否、教会の中にも、世の影響は入り込んでいます。

家族の中で、クリスチャンは私だけ、は普通の事ですから、本当に、心していないと、あっと言う間に、この世に染まってしまいます。

染まらないためには、聖日厳守と、日々の聖書通読と、霊想書などを用いての学びは必須であり、必要不可欠です。

祈祷会や修養会、各団体の行う講演会やセミナーなども、可能な限り参加するのは、大きな益をもたらでしょう。

一方のタマルですが、カナン人でありながら、イスラエル民族に組み入れられた時から、ユダに残っていたイスラエル的な生き方、考え方の影響を強く受け、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神様の約束、契約の深いところを知らずして、生き方が変わり、カナン的な、自由奔放な生き方を捨て、ユダの家の存続のために、ユダの指示に従い、やもめ生活を送ります。

父の家での、出戻り生活は、決して居心地の良い生活ではなかったでしょう。

当時の世界では、やもめは何の保証もなく、若いやもめは、強く、再婚の口を願った事でしょうが、タマルは、ユダの命令に従い、シェアが成人するのを健気にも待ち続けたのです。

この従順は、イスラエルの中でも、貴重なものであり、稀有な存在だったのです。

特筆すべき事であり、創世記のみならず、ルツ記412節、歴代誌第一24節、マタイの福音書13節の系図に記され、その信仰と従順が賞賛されているのです。

しかし、シェアの妻となる事が叶わぬと知るやいなや、知恵を働かせ、レビラート婚の教えに従って行動したのであり、非常にイスラエル的である、と言う事です。

独断や独り善がり、思い込み、単なる多数意見での行動は問題ですが、神様の教えに従った行動に、躊躇や逡巡は相応しくありません。

ユダの、タマルに対する対処は、間違っていますが、タマルは、ユダがティムナにやって来たのをこれ幸い、千歳一遇のチャンスと、ユダに詰め寄り、正すのではなく、神様が認めておられるレビラート婚の教えに従って行動します。

独断や独り善がり、思い込み、単なる多数意見での行動でない事を確認し、聖書に照らし合わせ、祈って確信を得たならば、誰に訊く必要はなく、誰に相談する必要もなく、誰彼の賛同を得るまでもなく、信仰を持って、神様に従い、行動すれば良いのです。

訊き回ったり、相談したり、賛同を得るのは、確信のなさの現れであり、責任逃れのため、責任転嫁の準備なのではないでしょうか。

訊き回ったり、相談したり、賛同を得ては、責任の所在が曖昧になり、最終者が責任者にされてしまいます。

こんな処に、神様のご栄光は現されようがありません。

自分の立場、或いは与えられた職責の中で、信仰をもって判断する時、信仰が生き、神様のご栄光が現されるのです。

ユダのような、事なかれ主義、臭いものを遠ざけるような生き方では、神様のご栄光は現されません。

否、神様に泥を塗るだけです。

タマルのように、神様と一対一の関係の中で、神様を信じて、神様に従う時、神様のご計画は進展し、神様の御ご栄光が現れ、救主の系図に組み入れられ、タマルに栄光が与えられるのです。

ここにおられる皆様が、神様との関係のみで行動され、神様の御栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記381節~11節               2017-10-15礼拝

説教題:「ユダの家の危機」

【導入】

ヤコブの歴史を見て来ていますが、その中で、重要な部分を占めるヨセフの生涯、ヨセフに関するエピソードに挟まれるような形で、ユダの一族の出来事が記されています。

しかし、ユダの一族の出来事は、閑話でもなければ、寄り道でもありません。

これから展開される神様の遠大なご計画の中で、最重要なのはユダの家系、血筋であり、ヤコブ一族を守る、と云う、ヨセフの働き、重要な歩みに平行して、救主の誕生に繋がる、ユダの動向が、伏線として、ここに挿入されているのです。

当初は、大勢の兄弟たちの中に埋没しており、存在感の薄かったユダですが、ヨセフを殺すという計画をきっかけに、少しずつ、頭角を現し、リーダーシップを発揮するようになり、一目置かれる存在になって行きます。兄弟たちの中だけでなく、父ヤコブに対しても、積極的に関わりを持ち、エジプトの宰相に対しても、臆する事なく対峙し、ヤコブ一族のエジプト入りでは、先頭を切る事になり、ヤコブは死に臨み、ユダ一族が一大勢力になる事、ユダの末裔から王が出現する事を預言するに至るのです。

しかし、本日扱うテキストに記されている顛末には、眉をしかめる内容が含まれています。

とは言え、在り来たりな、何処にでも起こりそうな内容であり、特別に取り上げる程の事はないように思えましょうが、実は、行間に、また文字として記されてはいませんが、聖い神様には相応しからぬ、破廉恥な行為が隠されているのです。

本人は意識していなくても、深いところで、神様に喜ばれない事を行い、それが家風に悪い影響を及ぼしていたのです。

【本論】

38:1 そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

そのころ」とは、ヨセフがエジプトに連れて行かれ、「パロの廷臣、侍従長ポティファル」に、奴隷として売られた頃であり、「ユダは兄弟たちから離れて下って行き」ます。

聖書は離れた理由を明かしていませんが、この一文、重要な意味が隠されています。

神様の、アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約は、祝福は、ヤコブと共に居てこそ、であり、神様の命令に従ってこそ、です。ヤコブの下に留まる事は、神様の契約、祝福に中に留まる事であり、ヤコブの下を離れてしまっては、神様の祝福からも離れる事になり、勝手な理由で離れてしまっては、神様の契約から離れる事になります。

そして、「アドラム人の近くで天幕を張った」事も問題です。

この位置関係を巻末の「12部族に分割されたカナン」で確認しましょう。「塩の海」の西側に、赤い字で「ユダ」と記されていますが、間に「ヘブロン」があり、「ヘブロン」の左斜め上1cm位の所に「アドラム」があります。ヤコブ一族が滞在していたヘブロンの山地から、「アドラム」は直線距離で20km足らずです。半日程度の距離であり、たいして遠くに離れた訳ではありませんが、離れた事が問題であり、一帯はカナン人が支配していたのであり、そこに「天幕を張った」、滞在したのは問題です。

ヤコブ一族は、まだまだ少数なのですから、まとまっていてこそ、お互いがお互いを支えあい、助け合ってこそ、一族を、この世の悪しき慣習から、辛うじて守れるのです。

それなのに、離れて行ってしまっては、悪しきカナンの風習に染まるのは、火を見るよりも明らかです。

38:2 そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところに入った。

血縁関係者から妻を迎えるにしても、異邦人から妻を迎えるにしても、慎重さが求められましょう。

血縁が濃いと、遺伝的な問題が起こり易いからであり、異邦人とでは、神観、価値観、基準、考え方が違うため、必ず問題となるからです。

ですから、結婚適齢期なら誰でも良い訳ではありません。

結婚相手を選び、相応しいか否かを確認するのは、非常に大切な事です。

神の民は、神の民の関係者から、結婚相手を探し、選ばなければなりません。

イサクの結婚相手の探し方、ヤコブの結婚相手の探し方、イシュマエルの結婚相手の選び方、エサウの結婚相手の選び方、その顛末を、ユダたちは見聞きしていたのではないでしょうかそれなのに、1節と2節との間の、時間経過は明らかにされていませんが、カナン人から妻を迎えたのは、霊的な大問題です。カナンの地の風習に染まり易くなり、カナンの地に同化する危険があるからです。

神の民の結婚観は、「見初めて」「好きになって」ではなく、神様の導きに従って、です。

勿論、人間は感情を持っていますので、「見初めて」「好きになって」と云う場合もあるでしょうが、それでも、「見初めて」「好きになって」の感情を神様に告白し、神様の導きに従わなければなりません。

神様がOKを出されなければ、諦めなければなりませんし、諦めさせなければなりません。

妥協は、共に神様から離れる結果となるでしょう。

苦しい選択になるでしょうが、神の民たる所以は、神様に従う事です。

名目ではなく、実践です。しかも、命を懸けた、一生涯に渡る実践です。

辛い決断をしなければなりませんが、大きな祝福が待っているのです。

それは、結婚する事で得られる祝福かも知れませんし、結婚しないで得られる祝福かも知れません。

結婚するもしないも、神様の栄光を現すためです。

ユダの、肉欲に支配された結婚は、やがて、明らかにされるヨセフの行動の高潔さ、不利になると判っていても、誘惑を徹底して退ける姿とは、対照的です。

しかし、それでも、神様はユダを選ばれたのであり、ユダに恵みを注がれ、ユダによって救主誕生のご計画を進められるのです。

38:3 彼女はみごもり、男の子を産んだ。彼はその子をエルと名づけた。

38:4 彼女はまたみごもって、男の子を産み、その子をオナンと名づけた。

38:5 彼女はさらにまた男の子を産み、その子をシェラと名づけた。彼女がシェラを産んだとき、彼はケジブにいた。

ユダは、三人の男の子を得て、ユダの家系の安泰を確信した事でしょう。

エル」は「立ち上がる者」の意味であり、「オナン」は「精力的、強い」の意味であり、ユダ一族の大いなる発展を願っての命名でしょうが、嫁を迎えなければ、子孫は得られません。

子孫を残し続けなければ、家系は絶えてしまいます。

そこで、

38:6 ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。

タマル」は「ナツメヤシ」の意味であり、カナンではありふれた名前のようですが、決してありふれた、凡庸な女性ではなく、聡明な女性だった事が、後に明かされます。

しかし、カナンの住民から嫁を選んだのは、何とも残念です。

ユダの、神の民を意識しない生き方は、自身の妻選びにも、息子の嫁選びにも現れたのであり、選んではならないカナン人から、妻を選び、嫁を選んでしまったのです。

これは決して不幸の始まりではありません。

兄弟たちから離れ」た事、「アドラム」に住んだ事が、失敗の始まりであり、「エル」「オナン」の死は、「エル」「オナン」自らが招いたものであり、異邦人との結婚が直接の原因ではありません。

38:7 しかしユダの長子エルは【主】を怒らせていたので、【主】は彼を殺した。

【主】を怒らせていたので」の直訳は「主の目に悪であった」です。

聖書は、神様が怒った理由、悪の内容を記していませんから、想像するしかありません。

何のヒントもなさそうですが、結婚に関する文脈である事から、結婚に関する悪、性的な重い罪、が考えられましょう。

父が選んだ嫁に対する不満なのか、父に対する反発からなのかはわかりませんが、妻として受け入れなかったのかも知れませんし、或いは、カナンの如何わしい性習俗に染まっていたのかも知れません。

カナンは、性道徳の著しく低いところであり、同性愛が半ば公然と行われていたようです。

如何わしい行動、それは、父を真似て、なのかも知れません。

何を真似たのか、即ち、次回扱う3815節、16節に記されているような、旅先で遊女を買うような生き方であり、「性」を快楽の一種、女性を欲望の対象としてしか見ない生き方でしょう。

それらは、神様に喜ばれる事ではなく、また、神の民に相応しい事でもありません。

そして、「怒らせていたので」、と記されているように、一度ならず、何度も神様を怒らせ、言い方を変えるなら、神様を悲しまさせ続け、悔い改めのチャンスにも背を向けた結果、招いてしまった事なのではないでしょうか。

38:8 それでユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところに入り、義弟としての務めを果たしなさい。そしてあなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」

これは、後に「レビラート婚」として規定され、申命記255節から10節に明文化されますが、古代東方で広く行われていた慣習であり、イスラエル人も取り入れていた慣習であり、当然の事として受け入れられていた、周知の慣習です。

38:9 しかしオナンは、その生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないために、兄嫁のところに入ると、地に流していた。

オナンは、弟としての、当然の責任を放棄したのみならず、弟としての責任を果たしているかのように装い、振舞い、父ヤコブ、妻タマルを欺いたのであり、非常に悪質な行為であり、故意に妊娠の可能性を失わさしめたのです。

その理由は、9節に記されているところですが、兄の子が生まれれば、弟としての取り分は大きく減じる訳であり、何の得にもならない、との計算を働かせた結果でもありましょう。

ユダの家系を残し、存続させる事よりも、自分の財産に固執したのです。

そんな、姑息な行いを、悪質な行為を、神様が見逃す筈がありません。

38:10 彼のしたことは【主】を怒らせたので、主は彼をも殺した。

オナンの行為は、神様を怒らせましたが、社会的慣習に背く行為であり、親の命令に背く行為です。

9節は「兄嫁のところに入ると」と訳していますが、「兄嫁のところに入るときにはいつも」の意味であり、このように理解すべきであり、一度や二度ではなく、常に行っていたのであり、即ち、神様に敵対する行為を継続的に行っていたのであり、それで、神様はオナンを打たれたのです。

38:11 そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで、あなたの父の家でやもめのままでいなさい」と言った。それはシェラもまた、兄たちのように死ぬといけないと思ったからである。タマルは父の家に行き、そこに住むようになった。

ユダは、エルやオナンの死の原因が、直接的にタマルにある、とは考えなかったでしょうが、迷信や、祟り、呪い等が信じられていた時代ですから、また、カナンの地は、呪術や祈祷が盛んな土地柄でしたから、タマルに、不気味なもの、不吉なものを感じたのではないでしょうか。

不気味なもの、不吉なものは、遠ざけるに限り、関わらないのが賢明です。

そこでユダは、タマルに言い含めて、実家に帰しますが、シェラの嫁に迎えない意思は確固、明白です。

ユダの言葉の不誠実さを知らないタマルは、ユダの言葉を信じて、迎えが来るのを待っていたのであり、健気に待ち続けていたのです。

【適応

エルとオナンは、そして、ユダもまた、性的に放縦な性質(たち)であり、「性」を玩(もてあそ)び、「性」を快楽の一種、女性を欲望の対象としてしか見ない生き方をし続けたようであり、神様の怒りを買ってしまったのではないでしょうか。

カナン人にとっては、何でもない慣習でも、誰もが、何処でも、普通の事のように、何の疑問も、違和感もなく行っている慣習でも、聖い神様に従う民は、注意深く吟味し、近寄らず、関わらず、でなければなりません。

世の中では、芸能界のみならず、政治の世界でも不倫が取沙汰されていますが、そんな低次元の出来事を血眼になって探している報道関係者は問題ですし、そんな低次元の出来事を、貴重な公共の電波に乗せて報道している事は問題ですし、しかも、何の関係もない不特定多数の第三者に提供してなんになるというのでしょうか。

百歩譲って、こんな事は、神様に喜ばれない事だ、関わってはならない、との教訓にするなら意味もありましょう。

ヘブル書134

13:4 結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。

結婚は、夫婦の関係は、神様が制定された聖なる制度であり、結び合わせたものであり、祝福の基です。

趣味、嗜好は千差万別であり、何を選ぶも自由であり、悪趣味と言われるような事でも、基本的には許されましょうが、事、結婚、夫婦関係を汚すものは、断じて取り入れては、決して関わってはなりません。

聖い神様に相応しくないからであり、夫婦関係を破綻させるからです。

家庭を崩壊させるからです。

それは、神様の呪いを受ける事であり、必然的に裁かれる事になります。

しかし、誤解しないで下さい。

神様が、直接、呪われる、裁かれる、のではなく、夫婦関係を壊す事が、どんなに大きな痛みを伴い、悲しみをもたらすか、であり、家庭を崩壊させる事が、どんなに大きな苦しみを与えるか、であり、夫婦から、家庭から、希望や夢を奪うのです。

夫婦関係や家庭が、悦びでなくなる事は、呪いではないでしょうか、裁きではないでしょうか。

ヘブル書134節の真意は、結婚を尊ぶならば、夫婦関係を尊ぶならば、神様は祝福される、と言う事であり、呪いや裁きに遭わない、と云うような消極的な宣言ではなく、祝福、恵みが、溢れる程に与えられる、との積極的な宣言なのです。

仲の良い夫婦、お互いを尊敬し、必要とする夫婦、お互いを助け合い、支えあっている夫婦ほど素晴らしい、素敵な存在は、この世にはありません。

慰めになり、励ましになり、目標になり、神様を称える事になります。

神様が、エルとオナンを取り上げたのは、エルとオナンの問題もありましょうが、ユダと妻との関係を正すためであり、ユダを祝福するためなのです。

子どもの数と、その健やかな成長を祝福の具体的現われ、と見ていた時代にあって、子どもが産まれない事、子どもが早世する事は、祝福を受けていない事と考えたでしょうが、夫婦の関係こそ、祝福の基であり、夫婦の関係が正されれば、それこそが祝福なのです。

勿論、問題のない夫婦はないでしょうが、問題の有無が、祝福の有無なのではなく、良い夫婦の関係を構築維持する努力と願いこそが祝福の基なのです。

この世の風潮の影響は教会にも、家庭にも、入り込みますから、離婚や不倫に警戒し、教会にも、家庭にも入り込まないようにし、家庭を、教会を、聖い神様に相応しく、整えて行く努力を怠ってはなりません。

聖い夫婦は、神様から祝福を受け、その祝福は家庭を祝福し、家庭の祝福は教会を祝福し、教会の祝福は地域を、この世を祝福します。

その意味でも、夫婦の歩みの影響力は侮れません。

家系の危機は、子どもの問題ではなく、夫婦の危機の現れであり、社会の問題は、元を辿れば家庭に、夫婦に行き着くでしょう。

結婚を尊ぶ、良好、堅固な夫婦の関係こそ、世界の祝福の基なのであり、教会が、結婚を尊ぶ、良好、堅固な夫婦を世に送り出し、世に祝福を取り次ぐ働きをする事を願ってやみません。

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聖書個所:ヨハネの福音書12:1219               2017-10-8礼拝

説教題:「イエス様を出迎える群衆」

【導入】

景気の低迷はあい変わらずなのに、国民の苦境はそっちのけで、政権争いに血眼になっている与野党の面々。

こんな自己保身しか考えない議員に愛想をつかしたのか、パワースポット、神社仏閣は家内安全、健康祈願、商売繁盛のためか、大層な賑わいようです。

また、景気が悪いとは云いながら、観光地も結構な賑わいであり、格差の広がりを感じさせる昨今です。

パワースポット巡り、神社仏閣詣では、日本人の宗教心を示し、神社も仏閣も区別無く、抵抗無く参拝し、先祖にも手を合わせて無病息災、家内安全、商売繁盛、大願成就を願い祈るのは、日本人に取っては何でも無いことですが、一神教の人々にとっては不思議な光景に見えるようです。

勿論、日本人の中にも特定の宗派に熱心な信者もいらっしゃる事ですが、概ねの日本人は八百万の神々を祭るのに抵抗はないようです。

参拝の梯子も、神社とお寺の掛け持ちも珍しい事ではなく、参拝が信仰とか思想の現れ、と言う程、確固たるものでないのは残念な事なのではないでしょうか。

奇異に見える日本人の宗教心ですが、とは言え、無病息災、家内安全、商売繁盛、大願成就を思い願うのは、古今東西変らぬ人の願いではないでしょうか。

ユダヤ人に取っても年に3度のエルサレム詣では大切な行事でありますが、ユダヤ人の参拝と、日本人の参拝との決定的な違いの一つは「汚れ」に対する考え方の違いではないでしょうか。

手を洗い、口を漱ぐ事で汚れを除けると考えて、神様の前に出る日本人。

比べて、動物を殺して、罪による汚れの贖いをしなければ神様の前に出られないと考えるユダヤ人。

当然、境内に対する考え方も大きく違ってくるでしょう。

誰でも自由に出入り出来る日本の神社仏閣。

比べて異邦人を区別し、決して入る事が出来ないエリアのあるエルサレム神殿。

更には、神殿のあるエルサレムがローマ軍に支配されている事に、強い屈辱を感じるユダヤ人であり、彼らはエルサレムの解放を心から願い、その時を待ち焦がれていたのです。

今日はイエス様のエルサレム入城から発生した出来事を通して、人と神様のご計画の違いについて考えたいと思います。

【本論】

12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

前回の学びで確認したようにイエス様の滞在されたベタニヤと、神殿のあるエルサレムとは3km程しか離れていません。

しかも、エルサレムは混雑していたので、人々は近郊の村々町々に滞在していましたから、ベタニヤでのイエス様の動向はエルサレムにも伝わっていたのであり、ラザロの甦りの事件も、マリヤの油注ぎの顛末もエルサレムに伝わっていた事でしょう。

祭りの喧騒と共に、死者を甦らせたイエス様に会えるかも知れないと言う期待は、嫌が応でも人々を興奮させ、のみならず、かつてアレクサンドロス大王の死後、ユダヤを支配したシリヤ王アンティオコス4世がエルサレム神殿を汚した歴史がありますが、この時のエルサレム奪還の戦いはマカベア戦争と呼ばれています。

エルサレムを取り戻したユダヤ人はしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二弦の琴を鳴らして賛美の歌を歌ってエルサレムに入ったと、旧約聖書外典のマカバイ記第一1351節に記されていますが、この故事は紀元前130年頃の出来事であり、この故事に、エルサレムに入城されるイエス様を重ね合わせて、イエス様に政治的な期待を込めて、ローマ帝国に蹂躙されているエルサレムの解放を期待して、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだのでした。

ホサナ」とは「今、お救いください」と言う意味であり、詩篇11825節の「ああ、主よ。どうぞ救ってください。」と、続く詩篇11826節の「主の御名によって来る人に、祝福があるように。」の詩をもってしてイエス様を「イスラエルの王」としてお迎えしたのでした。

しかし、イエス様は政治的開放者でもなければ、軍事的指導者として来られたのでもありません。

そこで、

12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

軍事的指導者、或いは政治的解放者の特徴は強さであり、その象徴は「馬」しかも「軍馬」に代表されるのではないでしょうか。

そのような人々のイエス様に対する間違った期待を修正するのが「ロバ」であり、しかも更に弱々しい見た目の「ロバの子」を選んで乗られたのです。

これは偶然ではありません。

マタイ21章に記されておるように、イエス様が弟子を遣わし、用意された「ロバの子」なのです。

「ロバ」は「馬」に比べて、見劣りしますが、決して愚鈍でもなければ、役立たずでもありません。

民数記2233節には「ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」と記し、預言者バラムの間違いを行動で教えるロバの姿が描かれており、ロバの有用さを教えています。

ロバは財産であり、サウル王は若き時にロバを探す旅に出かけていますし、ダビデはロバを司る役人を置いていた事が歴代誌第一2730節に記されている通りです。

聖書を調べて見るとロバは貴人、賢人の乗り物である事が分かります。

ロバはユダヤ人に取って馴染みの深い動物であり、更にゼカリヤ書99節「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」を思い起こさせる意図も含まれていたのですが、それは隠されていました。

12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。

イエス様の弟子訓練は、一様ではありません。

時には、聖書の箇所を直接引用して教えられる事もありますし、今回のように、行動を示すだけで終えられる場合もあるのです。

多くの奇蹟を行なわれる時もあれば、殆ど奇蹟をなさらない事もあるのです。

それは、人々の心の状態が一様でないからであり、別の言い方をするなら、備えが出来ていないからです。

備えのない所には、何物をも受け入れる事が出来ません。

器がなければ水を入れる事は出来ません。

心が砕かれていなければ御言葉を受け入れる事は出来ないのです。

イエス様のエルサレム入城の時、人々も、弟子たちも、イエス様に何かしらの期待をしていたのであり、それは、神の国の実現かも知れませんし、エルサレムの解放、ユダヤの独立かも知れません。

それらの考えは、弟子たちや群集の持っている願望を、イエス様に投影したものであり、決してイエス様のお考えでもなければ、神様のご計画でもありません。

しかし、弟子たちも、群衆も、状況を見て推測し、自分たちの都合の良いように解釈し、判断してしまったのです。

この愚さを私たちは笑う訳にはいきません。

私たちも自分たちの考えを優先してしまい、イエス様のお考えや、神様のご計画を蔑ろにしてしまってはいないでしょうか。

イエス様に、神様にお聞きする前に、自分たちで判断してしまう。

勝手な思い込みで、過度な期待をしてしまう。

その自分勝手な考えに、少しでもズレがあると、期待を裏切ると、手の平を返したように、非難し、攻撃し、排除しようとするのです。

イエス様のエルサレム入城の時、イエス様は弟子たちや群集の間違いを、言葉によっては正しませんでしたから、弟子たちや群衆は間違った期待を持ち続け、結果として期待の通りでなかったイエス様を裏切る者が弟子たちの中から現れたのであり、十字架に付けろと叫ぶ群衆となってしまったのです。

イエス様や神様に対する誤解的期待だけではありません。

教会に対しても、牧師に対しても、教団や宣教区に対しても、或いはクリスチャン同士に対しても同じ事が言えましょう。

人の期待が、そのままイエス様や神様のご計画、お考えと一致しているとは限りません。

イエス様や神様のお考え、ご計画は多くの場合、隠されています。

特に重要な事こそ、隠されている事が多いようです。

イエス様のエルサレム入城然り、十字架の死然り。

イエス様しか知らないのであり、また、人が神様に用いられる場合、本人ですら知らされていない場合もあるのです。

カヤパの預言然り、マリヤの油注ぎ然り。

イエス様のエルサレム入場の意味を知らない弟子たちや群衆は、イエス様の持っておられる不思議な力が、自分たちの願望を叶えるモノであるかのように誤解し、イエス様を政治的指導者、軍事的指導者として迎え入れたのです。

それでも弟子たちには、誤解を解く時が与えられ、イエス様に対しての人々の賞賛と罵りの意味を悟る時が与えられたのです。

一方、愚かな群集はイエス様の神的力を吹聴し、聞いた群集も一緒になってイエス様を出迎えるのであり、その時の様子が次ぎのように記されています。

即ち、

12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。

12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。

17節の「そのことのあかし」とは「ラザロを墓から呼び出した」事であり、18節の「これらのしるし」は「ラザロを墓から呼び出した」事や数々のしるしとしての奇蹟です。

「しるし」は大切ですが、その本当の意味を知らないと危険です。

「しるし」はイエス様が神である事の証拠であり、イエス様に従う決心、確証を与えるモノなのです。

決して、自分の願望を聞いてくれ、叶えてくれるお方であるかどうかを見極めるツールではないのです。

「しるし」を求める人々は、神様に従う生活を探すためではなく、自分の願望を叶えるために「しるし」を求めたのであり、「しるし」が、その人の内で神様に留まり続けるための「錨」の役を果すか、自分の益になるために、自分に都合の良い神々を探し渡り歩くための「帆」の役を果すか、吟味しなければならない問題です。

12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

ここにも現実を神の目で見るか、人の目で見るかの違いが記されています。

人の目で見るならば、パリサイ人の言うように、ユダヤ教の危機的状況と取れましょうが、神様の目から見たならば、「群集」は「愚集」でしかなく、風に揺らぐ葦や、波に流される船のように、今日はイエス様を持て囃しますが、この数日後にはイエス様を殺せと叫ぶのであり、何の頼りにも、役にも立たない集団でしかなく、イエス様も神様も期待も頼りにもしはしないのです。

【適応】

A大臣が、文脈はともかく、「ヒトラーを見倣ったら良い」と云い、A首相は「独裁者」のように振舞っています。

ここで、その賛否を論じるつもりはありませんが、何時の世でも、頼りになる指導者、英雄の出現を求めます。

特に政治が混乱している時、経済状態が悪化している時、治安が悪い時は尚更です。

多少、否、かなり強引であっても、現在の状況を打破してくれるなら、今の閉塞感から脱出させてくれるなら、との期待を込めて、歓迎すらするでしょう

イエス様の時代、ユダヤはローマ帝国に支配され、異教の風習、ギリシャ哲学の影響を受け、ユダヤ教の伝統を保持するのは簡単な事ではありませんでした。

ローマ帝国の保護を受けて平和ではありましたが、経済的にはローマ帝国に搾取され、決して楽な生活ではありませんでした。

ユダヤ教は、ローマ帝国の公認の宗教として認められていましたが、エルサレムは異邦人に蹂躙されていたのです。

その屈辱、抑圧を取り除いてくれる人を渇望していた人々の目に映ったのがイエス様だったのです。

イエス様は王としてこの世にこられましたが、この世の改革者、政治的、経済的独立を果すために来られた軍事的指導者、王ではありません。

イエス様は、私たちが神様に立ち返る生活を送るための改革を助けてくださるお方であり、悪癖から抜け出す助け手であり、悪魔の支配からの独立のために戦って下さるお方なのです。

それは全て霊的な働き、戦いですから、この世の戦いである「軍馬」は必要ありません。

戦いを鼓舞するいななききも必要ありません。

速く走る必要もありません。

寡黙であっても、ゆっくりであっても、イエス様を必要とする所に確実に運んでくれる「ロバ」が必要なのであり、柔和で、知的な「ロバ」こそが、イエス様に相応しい乗り物なのです。

そして、イエス様をお迎えする人々ですが、鳴り物入りで大仰に出迎える必要はありません。

一時的な興奮や熱狂は何の役にも立たないどころか、人々を間違った方向に導きかねません。

事実、祭司長、パリサイ人らは、これらの熱狂的な群集を見て、脅威を感じ、イエス様を葬り去ろうと決意したのです。

イエス様を歓迎する流れは、期待を裏切られると、イエス様を排除する流れを強力に後押しする力となってしまったのです。

安易に歓迎ムードに酔う事なく、深い考察もなくそれに巻き込まれてもなりません。

軽率な行動は、悪魔に利用されるものとなり得る事を覚えておかなければなりません。

霊的な働き、戦いをされるお方をお迎えするのは、霊的な準備こそが必要です。

霊的な備えとは霊的な祈りであり、霊的な生活です。

霊的な祈りとは、願望の羅列ではなく、神様の御心がなるように祈る事であり、霊的な生活とは、熱狂的な生活ではなく、聖書に親しみ、聖書に教えられる生活であり、喜びのない奉仕や献金ではなく、喜んで仕える奉仕であり献げる献金です。

そのような備えがあってこそ、エルサレムに入城されるお方が誰であるかを知る事が出来るのであり、相応しい対応が取れる秘訣なのです。

私たちの信仰に必要なお方は、如何にも英雄然として華々しく馬に乗ってやってくるのではなく、柔和なロバ、寡黙なロバ、忠実なロバに乗ってやって来られるのです。

このお方を見誤る事なく、見過ごす事なく、拒否する事なくお迎えして、私たちの心と言うエルサレムに入城し、王座に着き、治めて頂きたいものです。

2018年は、同盟教団では理事交代の年となっています。

大切な霊的働きのために召される人々ですから、霊的な備えを持って迎え、働きを委ね、惜しみない協力をしたいものです。

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聖書個所:ヨハネの福音書12:111                2017-10-1礼拝

説教題:「神に覚えられる献げ物」

【導入】

昨今は、世界各地で地震が起こり、日本でも、各地で、50年に一度、と表現される豪雨が降り、大きな被害を起こしています。

2011年を発端とする原発事故、形だけは収束宣言が出されましたが、デブリ、放射性溶解物の処理が進み、本当の意味で、収束し、元の生活に戻るのはまだまだ遥か先の事であり、漁業、観光、地場産業の壊滅的な被害も、復旧半ばであり、復興、復旧には気の遠くなるような莫大な費用と、労力、時間が必要な事と思います。

被災地の人々は、不自由な仮設住宅生活と、保障金、一時金等に頼らざるを得ない不安定な生活が何時まで続くか分からない中で頑張っておられ、関係者も復興、復旧のために労しておられる訳で、私たちもこれからも多少でも痛み、苦しみを分かち合い、今まで以上に支援に協力し続けて行きたいと思います。

この支援ですが、直接出掛けて行ってのボランティア活動や、義援金、支援金、支援物資による直接的な支援もあれば、ボランティアを支える支援活動や、被災地への優先的な物資投入や税金投入を支持する間接的な支援もあるでしょう。

一人一人に与えられた能力と時間と資財で出来る事をする事が大切なのであって、一つしか方法がない訳ではなく、皆が同じ事をしなければならない訳でもないのです。

勿論、全体をコントロールする司令塔のような組織が必要で或る事は言うまでもありませんが、100の方法、1000の方法があって、100の行動、1000の行動を取る事によって、全体として片寄る事なく、満遍なく行き渡るのではないでしょうか。

神様への献げ物、奉仕も、皆が同じ、一緒に、である必要はありません。

種類や方法が決まっている訳でもありません。

今日はイエス様への献げ物から発生した問題を通して、神様に喜ばれる献げ物について考えたいと思います。

【本論】

12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。

過ぎ越しの祭りは、ニサンの月の14日、現在の暦で3月下旬から4月上旬に祝われる祭りです。

旧約の時代には、各家庭で祝われていましたが、新約の時代には、エルサレム神殿で祝われる様になっていました。

ユダヤ人の祝う3大祭りの一つで、出エジプトにまつわる祭りであり、重要な祭りとの位置付けでしたから、パレスチナ地方一帯から人々がエルサレムに集まって来るのでした。

混雑するエルサレムを避けて、しかもエルサレムから3km程しか離れていないベタニヤは、これから大切な働きをするイエス様にとって恰好の滞在場所と言えるのです。

ベタニヤはマルタ、マリヤ、ラザロの住む村であり、イエス様一行はこの兄弟の家に立ち寄られた様です。

12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

新約の時代、ローマ帝国支配の時代以降、人の往来が多くなり、各地には宿屋が営なまれ、旅人の便が計られていましたが、現代のような設備の整った旅館ではありません。

一般的な宿屋は、土地の金持ちが旅行者の便を図って造った物が多かったようであり、強盗や獣の難を避ける避難所のような場所であったため、旅人は寝具や食料持参で、自炊をしていたようですが、旅人をもてなすのは、ユダヤ人の伝統、使命でもあり、旅行者は途中の家で接待を受けることが出来たので、現代のような旅館は必要なかったようです。

エルサレム近郊の村々町々では過ぎ越しの祭りのためのエルサレム詣での旅人をもてなすために色々と準備をしていたのではないでしょうか。

そこにイエス様一行がやって来たのです。

イエス様一行をお迎えしたマルタは、心をこめて料理を作り、給仕をし、自分に出来ることを喜んでさせて頂いたのです。

当時、男性は客人の相手をする事がおもてなしの心の現し方でしたから、ラザロはイエス様一行と共に食卓に付いていた訳なのです。

マルタもラザロも当時の習慣に従って、また、自分に出来る事で旅人を、イエス様一行をおもてなしましたが、マリヤもまた自分に出来る事で旅人を、イエス様一行をおもてなししました。

12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

ナルドはおみなえし科の草で、非常に香の強い植物だそうです。

その草からとれた油は化粧品として、薬として、また葬儀や、王様の、祭司の任職にも用いられたようです。

非常に高価であり、大切に保存し、ここぞと言う時に使ったようです。

このナルドの香油はマリヤ個人の物というよりは、ラザロの葬儀のために用意した物であり、マルタ、マリヤたちの物と考えた方がよいでしょう。

ですから、マリヤがイエス様に惜しげもなく注いだ背後には、マルタやラザロの了解があっての事と思われます。

兄弟皆が、イエス様にラザロを生き返らせて頂いて不要になった香油を、イエス様にお使い頂いた、と言う事なのでしょう。

イエス様の働きの結果、得られた物は、或いは不要になった物はイエス様にお返しする、と考えるのが良いのかも知れません。

とにかく、マリヤもマルタも、ラザロのために自分たちが準備した物であっても、神様、イエス様のために使うなら、惜しいとも、勿体無いとも考えなかったのです。

12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。

12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

皆様良くご存知の事と思いますが、1デナリは1日の賃金に相当するものですから、300デナリは300日分の賃金に相当し、現代の価値に換算するなら300万円にも匹敵する価値があったのです。

1デナリあれば、家族が数日生活出来るのですから、施しに用いれば多くの人が助かった事でしょう。

ユダが言うように、確かに、そう言う使い道もあったでしょうし、他にもいろいろな使い道があった事でしょう。

しかし、ここで大切なのは、何に使うかではなく、誰に献げるか、なのであって、手段と目的を混同してはならず、全てを神様の栄光のために、の大前提を崩してはならないのです。

目的は一つ、神様の栄光を現す事であり、その手段、方法は千差万別であって良いのです。

個々人が神様に示された方法手段で献げれば、神様はそれを相応しく持ちいて下さいます。

使い道まで指定して献げるのでは、献げた、と言えるのでしょうか。

献げるとは、委ねる事であり、神様の主権を認める事です。

使い道まで口を出すのは、神様の主権を認めていないからであり、神様を信じていないからなのです。

ユダがマリヤの行為に口出ししたのは、6節の理由のほかに、神様の、イエス様の主権を認めていないからなのです。

理解不能であっても、期待通りでなくっても、自分の考えと違っても、それをも、神様のご計画として受け入れる事こそ、私たちに求められている事であって、人の行為を正す事ではないのです。

何故ならば、神様がその人を通して事を行なわれなのであり、私にその理由を明かされてはいないからなのです。

ユダがマリヤの行為を非難した理由を聖書は次のように記しています。

12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。

ユダの場合は特殊なケースかも知れませんが、多くの場合、建前と本音には大きな乖離があるようです。

一つ例を挙げるならば、声高に外部への献金よりも、内部の充実のために使うべきではないかと言い張っる人がいたとして、その意見に見合う献金をしていないのが実状なのではないでしょうか。

建前、正論は述べるけれども、それを行なわないパリサイ人、祭司たちと同じです。

ユダはイエス様に仕えて、凡そ3年を過ごしましたが、イエス様から何も学ばなかったのであり、旧態依然の祭司長、パリサイ人と同じ様な考え方しか出来なかったのです。

更に悪い事に、任され、委ねられている事を悪用して、私服を肥やしていたと言うのです。

ユダも最初から盗む気持ちはなかった事でしょう。

始めは借用の気持ちで、直ぐに返すつもりであった事でしょうが、度重なると「借用」は後ろめたさを誤魔化す口実となり、露見しても言い訳として通用するであろうとたかを括る事になってしい、益々深みに陥ってしまうものなのです。

新聞、ニュースで横領事件が報道されますが、皆、異口同音に「返すつもりだった、盗む気持ちはなかった」と言いますが、ユダも同じだったのではないでしょうか。

イエス様はこのユダの本当の姿を暴露する事はしませんでしたし、ユダの意見を真っ向から否定もしませんでした。

ユダの行動は間違っていましたが、考えは間違っていなかったからであり、時と場合に拠っては採用すべき意見であったからです。

イエス様はマリヤの行為についても、ユダの意見についても、どちらが正しいとも、どちらが間違っているとも意見を挟まず、

12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。

12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

イエス様は、神様は、個々人の自発的な行為を喜ばれます。

その自発的行為が、御心に沿うものであるなら、尚更です。

強いられてでもなく、脅されてでもなく、誘導されてでもなく、喜んで、自分から、教えられた通りに献げる時、神様はその献げ物を受け入れて下さいます。

どんなに高価であっても、安価であっても、金額は関係ありません。

どんなに多くても、どんなに僅かであっても、量は関係ありません。

度々であっても、たまにであっても、回数は関係ありません。

神様が必要とされる時に、喜んで、躊躇なく、惜しみなく献げる事を喜ばれるのです。

神様がマリヤに求め、マリヤがそれに応答した事が重要なのであって、神様がマリヤに求める事と、ユダに求める事とは違うのです。

ユダが「貧しい人への施し」を何より重要であると考えるなら、預ったお金を正しく管理し、余剰金が出るように創意工夫し、それを施しに用いればよいのです。

同じ考えの人を募る事は創意工夫の部類でしょうが、違う考えの人を攻撃し、折伏するのは神様の、イエス様のお考えではありません。

ユダに諭した様に、マリヤは神様から啓示を受けて、イエス様の歩みの先を見越して、埋葬の備えをしたのであり、それを他人がとやかく言う資格も権利もないのです。

私たちも自分の行動、考えを吟味しなければなりません。

他人との比較、同調ではなく、神様からの示しに如何に応答するかが重要なのです。

マリヤは今自分に出来る事をさせて頂いたのであり、神様は、イエス様はそれを受け入れて下さったのです。

12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。

12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。

12:11 それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

過ぎ越しの祭りに集う人々が、祭りの当日に合わせて続々とエルサレムに向かう道すがら、エルサレムと3kmと離れていないベタニヤにイエス様を一目見ようと集まるのは自然な反応でしょう。

しかも、死んで4日も経ったラザロも同席していると聞いては尚更でしょう。

ユダヤ人の中での人気が高まるに連れ、それを快く思わないどころか、苦々しく見ている人々もいたのです。

祭司、律法学者、パリサイ人たちは、ユダヤ人の信仰を守り、神様の恵みから漏れない様にするのが、ユダヤ人が神様に仕え、神様の栄光を現すお手伝いをするのが、最優先の、最重要の働きであるなずなのに、自分たちの考えと違う、伝統の示しに従わないと言う理由でイエス様を葬り去ろうとし、イエス様の行なわれた奇蹟の一つの、甦ったラザロをも葬り去ろうと相談をしたと言うのです。

この「相談した」は「決議した」と訳す事が出来ますし、その方が相応しいと思います。

どうしようか…と言う様な曖昧な終らせ方をしたのではなく、殺そうと堅く決意するに至ったからなのです。

【適応】

イエス様はユダに、貧しい者など相手にしなくて良いとか、神様の事だけを考え、行動するのが正しい事なのだと、諭した訳ではありません。

働きに優先順位がある事と、其々の働きに召された人がある事を教えるものであり、ユダのみならず、弟子に、マルタの家に集まった人々に教える目的があったのです。

何時の時代であっても、何処であっても、貧しい人、困っている人、助けを求める人が絶える事はないのですが、イエス様の葬りは、人類の歴史の中で特別な事、稀有な事、二度とない、一度限りの出来事であり、それを日常的な事と比較してはならず、優先度、順番を正しく判断しなければならないのです。

また、特別な働きを示され、期待されるのは全ての人ではありませんし、皆が同じ様に理解出来るのではないのですから、批判をしてはならないし、反対をしてもならないのです。

目の前に瀕死の重症の人がいるのに、まだ暫くは待てそうな軽度の症状の人を優先させる病院があるでしょうか。

順番だからと言って。

先のメキシコでは続けて大地震があり、一時に大量の被害者が出ましたが、その怪我の程度によって治療の優先順位が決められて行きました。

勿論、見立て違いや、容態の急変と言うリスクはあったでしょうし、この対応、処置に対してクレームをつける人は居たでしょうが、全体として支持を受け正当な医療手続きとして認められた行為です。

これは決して差別ではなく、区別です。

また、救出が先で、治療は後、が順当な判断ですが、場合によっては治療しつつ、救出を待つと言うのもあり得る事でしょう。

命を救う事が大前提であり、方法、手順、誰が、は臨機応変なのです。

同じ様に、それ以上に、神様の栄光を現す事が大前提であり、方法、手順、誰が、は千差万別なのです。

マリヤに与えられた神様の栄光を現す働きは、エルサレムに上られる前に、十字架に掛けられる前に、イエス様に香油を注ぐ事であり、ユダに与えられた神様の栄光を現す働きは、お金をくすねる事に知恵を働かせるではなく、献金の良き管理者として、貧しい人たちに施す計画を立案、実行する事であり、それが、神様に覚えられる献げもの、となるのです。

皆が同じ事をする必要はありません。

皆が一緒に事を行なう必要もありません。

イエス様に油を注ぐ事が重要だからと言って、弟子にも同じ事を求めたのではありません。

それこそ無駄な事であり、ユダの言うように、貧しい人に施すべきなのでしょう。

貧しい人への施しも、被災地への支援物資も今日だけ、明日だけの問題ではありません。

一時に何万トンも食料が集まっても、送る手立てや、保存が出来なければ腐らせるだけです。

暑い夏に鍋物は不適切であり、寒い冬にかき氷は不要でしょう。

その始末にも手間がかかることになり、折角の好意が無駄となり、余計な経費が掛かる事になってしまいましょう。

貧しい人が絶える事はないのですから、少量でも継続的、持続的な援助が大切なのであり、また、時宜にかなった施し物が、奉仕が、地域民の喜ばれる、受け入れられるモノとなるのです。

私の都合で献げるのでは、自己満足でしかなく、神様の栄光を現すモノとはなりません。

時宜を逸したものであるなら、高価でも大量でも、持て余す結果しか残らないのです。

どんなに少なくとも、安価であろうとも、必要なときであれば重宝するのであり、示された人が、神様のご計画にあって献げるのであれば、神様はその事をよろこび、その献げ物を受け入れ、豊かに用いて下さるでしょう。

マリヤの行為のように理解されず、世の人々は批判し、こうすればああすればと、助言をするかも知れませんが、神様が覚えて下さる事が重要であり、恐れる事はありません。

昨今は日本だけでなく、災害が各地で立て続けに起こっています。

これ以上は大災害が起こらず、平穏である事を願いますが、貧しい人、助けを求める人が絶える事はないのですから、この必要に応えつつ、神様の緊急の示しに応答出来る備え、即ち、聖書に教えられ、イエス様ならどうされるだろうかを考え、行動する僕として歩んでいかれるように聖霊の助けをお祈り致します。

私たちの献げ物、奉仕、祈りは、イエス様の執り成しにより、神様に覚えられる物となっているのです。

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