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聖書個所:創世記3911節~23節               2017-11-26礼拝

説教題:「誘惑を受けるヨセフ」

【導入】

父ヤコブから、格別な寵愛を受けたヨセフは、兄たちの妬み、憎しみを買い、ヨセフの見た夢の話から、兄たちの憎しみは頂点に達し、人里離れた所で、兄たちの手によって殺される事になってしまいました。

しかし、寸前に、ユダの提案から、奴隷として売り飛ばされる事になってしまいましたが、ここに神様の守りがあった訳です。

ヨセフは、命は失いませんでしたが、奴隷に人権はなく、苛酷な労働が与えられ、生きるだけで精一杯と云う状況になって当然です。

しかし、知的労働者である、エジプト高官ポティファルに買われる事になりますが、ここにも神様が働かれた訳です。

更には、安全な、しかも主人の目に留まりやすい屋内作業に従事する事になり、ヨセフは陰日向なく働き、常に誠実に働きます。

どんな仕事でも厭わず、常に喜んで、笑顔で、率先して、誠実に取り組む姿は、主人の知るところとなり、重用される事となったのです。

ヨセフは主人の期待を裏切らず、その誠実さは常に変わらず、高慢になる事もなく、そして、神様がヨセフを祝福され、ヨセフのなす事全てを成功させたので、エジプト高官ポティファルは、ヨセフに全権を委任するまでになるのです。

「好事魔多し」と申しますが、ヨセフに何の落ち度もなくても、誘惑は向こうからやってくるのです。

ヨセフは、言い寄る主人の妻に対して、誠実に対応し、理路整然と、説得を試みますが、効果がないと知るや否や、直ぐに主人の妻と距離を取り、接点を持たないように工夫します。

誘惑は、避けるのが一番です。

神様は幾つかの目的で、誘惑、言い方を変えるなら「試練」を許されます。

この試練を通して、神様は何を喜ばれるのか、何が人間にとって大切なのか、を教えるのであり、何が罪であり、何が「的外れ」な事なのか、を考えるように促されるのです。

一人一人の成長、即ち、神様との関係が正される事を期待して、誘惑、試練を与えられるのです。

誘惑に対する対処法については、前回確認しましたので、今日は、冤罪に対する対処法を見てみたいと思います。

【本論】

39:11 ある日のこと、彼が仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者どもがひとりもそこにいなかった。

家の者どもがひとりもそこにいなかった」と云うのは、如何にも不自然な状況です。

たまたま、偶然ではなく、仕組まれた状況である事は、疑いようがないと、断言出来るでしょう。

何故ならば、ヨセフがポティファルの妻の誘いを断るのは、使用人の目があるからに違いない、使用人がいなければ、ヨセフは誘いに応じるに違いない、と踏んだのではないでしょうか。

エジプト高官ともなれば、主人の妻には、専属の使用人が常に付き添っていたはずです。

家中の使用人が出掛けていたとしても、ポティファルの妻の許には専属の使用人がいたはずであり、全くの無人は、あり得ない事であり、仕組まれた状況であると、断言出来るのです。

更に、ヨセフは常に、慎重に、公明正大に行動して来たのであり、特に、ポティファルの妻に言い寄られてからは、ポティファルの妻を避けて来たのであり、ポティファルの妻と二人きりになると云う状況を作らないようにし、第三者を立てるなどして、必要最低限の接触に留めて来たのです。

にも関わらず、ポティファルの妻は、作戦を立て、状況を作り、執拗に接触を試みたのです。

39:12 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

何故、ポティファルの妻は、ここまでしても、ヨセフに執着し、付き纏ったのでしょうか。

その理由を想像するに、ポティファルの妻は、何でも意のままにして来たのであり、断られる事など、想像だにしていなかったのではないでしょうか。

諌められるなどとは、夢にも思わなかったのではないでしょうか。

諌める事はあっても、諌められる事などない立場にいる者は、諌められたならば、強い屈辱を感じ、より一層、執着し、拘り続けるのではないでしょうか。

ポティファルの妻は、プライドを痛く深く傷つけられ、依怙地になっていたのではないでしょうか。

ヨセフは、諦めさせるための手段を講じますが、ポティファルの妻は、目的を遂げるために、知恵を絞り、策を講じるのです。

ポティファルの家の、作業の全権はヨセフにありましたが、ポティファルの妻の命令、となれば別です。

ポティファルの妻は、全ての使用人に、屋外の作業を命じ、自分の付き人には暇を出し、或いは、時間のかかる買い物などの外出の指示を出し、家の中に誰もいない、誰の目もない空白の時間を作り出し、ヨセフに言い寄ったのです。

ヨセフは窮地に陥っても、常日頃の行動を選び、躊躇なく屋外に逃げ出します。

これは、決して臆病ゆえの行動ではありません。

神様との関係を壊す、あらゆるものから逃げたのであり、自身の名誉を守るために、逃げたのであり、ポティファルの妻からの報復、それによって生じるあらゆる不利益、損失を犠牲にして、選ぶべきものを、選んだのです。

ポティファルの妻の、練りに練った作戦は、ヨセフが逃げ出す事で失敗に終わりますが、

39:13 彼が上着を彼女の手に残して外へ逃げたのを見ると、

39:14 彼女は、その家の者どもを呼び寄せ、彼らにこう言った。ご覧。主人は私たちをもてあそぶためにヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげたのです。

諦めざるを得ない状況を悟りはしても、黙って引っ込むのは、プライドが許しません。

また、ヨセフの告発を恐れ、自己防衛のために、先手を打ちます。

「可愛さあまって、憎さが百倍」と申しますが、ヨセフを亡き者にしようとの偽計を案じ、策を講じ、実行に移します。

この一連の出来事は、ポティファルの妻個人の問題であるのに、「私たちをもてあそぶために」と、使用人を引き込み、ヨセフを孤立させようとします。

ヨセフの活躍、昇進、重用を快く思わない人間は必ずいます。

ヨセフから、何の害も損失も、不利益も、嫌がらせをも受けていなくても、ヨセフを羨(うらや)み、妬(ねた)み、まるで被害にあったかのような感覚さえ持つに至るのです。

勿論、ヨセフを慕う人たちが、大勢いた事は間違いのない事実でしょうが、「寄らば大樹の陰」「泣く子と、地頭には勝てぬ」であり、ポティファルの妻は実質的な支配者であり、支配者に楯突き、弓引くのは愚かな事であり、ヨセフに恨みはなくても、ポティファルの妻に賛同するのが得策と考え、保身を考えてしまうのが、罪ある人間の弱さ、限界なのではないでしょうか。

ポティファルの妻は「ヘブル人を・・・連れ込んだ」と言っていますが、これはヘブル人、即ち、イスラエル人を指し示す言葉ではなく、広く外国人一般、奴隷などに向けての、差別的、侮蔑的な表現であり、蔑視を暗示する言葉を使う事で、反社会的行動をとるのは、強姦紛いの事を行うのは、当然な存在なのだ、との、印象操作、思考誘導なのです。

そして、得体の知れない奴隷を連れ込み、重用するから、とんでもない事になった、と、主人ポティファルへの強い非難を込めての、皮肉たっぷりの言葉を吐くのです。

ポティファルの妻の言葉は、悪知恵の極みですが、罪ある人間は、保身のためならば、プライドのためならば、何でもするし、嘘も吐くし、知らぬ存ぜぬを貫くのです。

39:15 私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに自分の上着を残し、逃げて外へ出て行きました。」

39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その上着を自分のそばに置いていた。

ポティファルの妻は、ヨセフの味方をする使用人がいない事を幸いに、証拠としてヨセフの上着を手元に置きます。

この上着ですが、百歩譲っても、存在の証拠にはなりますが、ポティファルの妻の申し立てる犯罪の証拠にはなりません。

上着は、暑ければ脱ぎましょうし、作業上脱ぐ事もあり、置き忘れる事もありましょう。

説明するまでもなく、ヨセフはこの家に寝起きし、働いているのですから、上着は何の証拠にもならないのではないでしょうか。

しかし、下着であるなら、状況は一変しますが、それでもポティファルの妻の言い分の証拠としては弱い。

ヨセフの下着ぐらいならば、手に入れる手段に事欠かないからであり、ポティファルの妻の側に、何の被害も、即ち、争った形跡、着衣の損傷など、客観的な証拠がないのですから。

39:17 こうして彼女は主人に、このように告げて言った。「あなたが私たちのところに連れて来られたヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。

39:18 私が声をあげて叫んだので、私のそばに上着を残して外へ逃げました。」

14節で「もてあそぶために」と訳されているヘブル語と、17節で「いたずらをしようとして」と訳されているヘブル語は、全く同じヘブル語で、「強姦」の婉曲(えんきょく)的表現です。

ポティファルの妻は、14節では使用人を味方につけるために「私たちをもてあそぶために」と言い、17節では主人ポティファルの同情を買い、味方にするために「私にいたずらをしようとして」と、表現を変えています。

ポティファルの妻の言葉は、妻への侮辱である事を、強烈に印象付けると共に、主人ポティファルを蔑ろにする行為である事をも、仄めかしているのです。

39:19 主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。

ヨセフがポティファルに仕えるようになってから、何年経ったのでしょうか。

その何年間かの、全面的、完全な信任は、何を根拠としたものだったのでしょうか。

ヨセフの言い分を全く聞く事なく、何の調査も行われず、妻の言い分だけを全面的に受け入れ、そして、「怒りに燃えた」、口語訳では「激しく怒った」と訳していますが、この短絡的な状況は、非常に不思議な事ではないでしょうか。

エジプトの高官ですから、広い見識と俯瞰(ふかん)的、客観的に見る能力、冷静沈着な思考と言動、総合的な判断力と決断力が不可欠であり、それらを持っていたからこそ、発揮したからこそ、手に入れた地位なのではないでしょうか。

しかし、ここでは、その片鱗もなく、怒り狂います。

勿論、妻の味方をするのは、夫として当然ですが、事の真相を明らかにする事なく、一方的な肩入れをする、と云うのは、如何な事でしょうか。

真相をはっきりさせる事、即ち、事実、真実を正しく知る事と、妻の味方をする事とは、矛盾する事ではありません。

夫は妻を、妻は夫を弁護するのであり、裁判官になってはならないのです。

夫は妻を、妻は夫を弁護するのであり、弁護のためには、真実を知らなければ、事実を正しく認識していなければ、弁護する事は出来ません。

弁護に必要なのは、真相、事実、真実、であり、その上で、作戦を立て、弁論を組み立てるのです。

嘘の情報、根拠のない証拠では、裁判を有利には運べません。

ポティファルの態度は、裁判官としては失格であり、弁護人としても不適格です。

39:20 ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

ポティファルは、妻の言い分だけでヨセフの処分を決定しますが、それは、非常にゆるく、寛大な処置です。

何故ならば、通常、姦淫や強姦は、死刑だからです。

ヨセフの場合は未遂であり、これまでの貢献から、寛大な処置が取られたのかもしれませんが、「怒りに燃えた」にしては、奴隷に対して、妻や自分の名誉に掛けても、不釣合いな処置です。

即ち、神様がこのように導かれたのであり、働かれたのですが、19節で、エジプトの高官ポティファルは「怒りに燃えた」のですが、誰に対してであったか、と考える時、妻に対する怒りであった可能性が浮かび上がっては来ないでしょうか。

ポティファルの妻は浮気性であり、こんな事が過去にも、何度かあったのではないでしょうか。

陳腐なドラマのような展開ですが、ポティファルの怒りは、妻に向けられた怒りであり、ヨセフと妻とを確実に離す目的で、しかし、有能なヨセフを、神様に祝福されているヨセフを、ヨセフを通して注がれる祝福を、見す見す手放す気はなく、厳しい処分に見せかけながらも、403節に記されているように、ポティファルの家の中にある監獄に置いたのではないでしょうか。

39:21 しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。

39:22 それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。

39:23 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。

21節からの記述は、ヨセフが、ポティファルの家に買われた時の状況と、全く同じです。

監獄は、決して良い環境ではありません。

犯罪者、囚人に対する人権的な配慮など皆無であり、非人間的な扱いの最たる場です。

監獄の殺伐とした環境は、犯罪者、囚人を憂鬱にさせ、のみならず、看守、世話役をも殺伐、憂鬱にさせるのであり、犯罪者、囚人に明るい未来はなく、心身ともに疲弊し、腑抜けのようになるか、自暴自棄になり、秩序を乱すようになるか、隙あらば脱獄、逃亡を企てるのではないでしょうか。

しかし、ヨセフが入れられてから、状況は一変したのです。

相変わらずの環境ですが、神様の祝福が注がれ、殺伐とした空気が入れ替わり、覇気、活気が生まれ、希望が生まれ、秩序が回復したのです。

ヨセフを通して、神様が働かれ、祝福が注がれ、地獄と見間違う監獄が、天国と見間違う様相に変わった、変えられたのです。

見える現実は変わらなくても、未来に何の保証もなくてもです。

ヨセフは伝道をした訳でも、礼拝を奨励した訳でもありません。

ヨセフは存在しただけであり、それで、監獄が変わったのです、犯罪者、囚人、看守、世話役が神様の恵み、祝福を受けたのです。

これが、神様を信じる者の、存在理由であり、働きです。

【適応

この濡れ衣を着せられる、と云うテーマは、古くから、各地にあるテーマです。

ギリシャ神話に「ベレロフォンとアンティア」云う話があり、アラビアンナイトにもあり、

エジプトにも「二人の兄弟の物語」がありますが、決定的な違いは、主人公が不幸になるか、神様の祝福が注がれ、天国のような状況に変えられるか、でしょう。

ヨセフは、ポティファルの妻の讒言(ざんげん)によって、無実の罪を着せられ、弁解のチャンスを与えられず、投獄の憂き目に会いますが、ヨセフは自暴自棄になることなく、誠実な生き方を貫き通すのです。

兄たちの憎しみを買い、奴隷として売られた時に、悪足掻きをせず、奴隷の身分に甘んじ、陰日向なく働き、常に誠実に働き、どんな仕事でも厭わず、常に喜んで、笑顔で、率先して、誠実に取り組む姿を貫いたのであり、ポティファルの妻の讒言(ざんげん)によって、強姦魔の烙印を捺()されても、無実を訴える事をせずに、囚人の身分に甘んじ、陰日向なく働き、常に誠実に働き、どんな仕事でも厭わず、常に喜んで、笑顔で、率先して、誠実に取り組む姿を貫いたのです。

「患難、汝を玉にす」と申しますが、ヨセフは奴隷の身分、囚人の身分に置かれて、磨かれ、成長したのです。

自身の成長のみならず、神様の祝福が、関係する場所、人に注がれ、ポティファルの家や財産が祝福され、家畜や農産物が、全てが祝福され、そして、当然、呪われて然るべき、監獄が、犯罪者や囚人が祝福されるのです。

呪われ、裁かれ、全ての祝福を取り上げられて当然の犯罪者や囚人が恵みを受け、祝福されるのです。

神様の憐れみであり、その神様の憐れみ、祝福を取り次ぐのがヨセフであり、神様を信じる民の務めなのです。

憐れみ、祝福すべきであって、裁き、呪うべきではありません。

裁きと呪いは、神様のなさる業であり、神様を信じる民は、赦しと祝福を届ける存在である事を忘れてはならず、無実を訴え、汚名返上のために奔走しなくても、神様の祝福を取り次ぐ器とされているなら、その事が無実の証明であり、名誉挽回なのです。

ここにおられる皆様が、試練や誘惑を受ける中にあっても、神様との関係を保持し、神様との関係のみで行動され、罪の世に、神様の祝福を取り次ぐ器とされ、神様の御栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記391節~10節               2017-11-19礼拝

説教題:「試練の中に置かれるヨセフ」

【導入】

ヤコブの歴史、ヨセフの生涯、そしてヨセフの生涯に割り込むような形で、ユダの家の出来事が挿入されており、ユダの家で起こった顛末、スキャンダルについて、3回語り終え、また、ヨセフの生涯に、戻って来ました。

ヨセフは、ヤコブの最愛の妻、ラケルの子であり、ヤコブが年老いてから得た子であり、愛おしさは尋常ではなく、溺愛し、他の兄弟とは比べ物にならない特別扱いを受けたのでした。

当のヨセフは、ヤコブの寵愛を受けている事を嵩(かさ)にかけて、傍若無人に振舞った訳ではありませんが、兄たちの感情に配慮する事なく、逆に感情を逆撫でするような夢の話しを、しかも、二度もしたのですから、憎しみを買うのは当然かもしれません。

兄たちの憎しみは、具体的な行動となり、ヨセフを奴隷として、イシュマエル人に売り飛ばしてしまったのでした。

奴隷という身分は、どの時代、どの地域であっても、人権はなく、最低の環境に置かれ、家畜並みの待遇しか与えられず、満足な食事も、休息も、与えられず、重労働に従事し、虐げられ、こき使われ、役に立たなくなれば捨てられる運命でした。

勿論、有能な奴隷は、直接の肉体的重労働ではなく、指示、監督する立場につき、そこそこの裁量、権限も与えられたようですが、それは、ほんの一握りであり、有能であっても、その能力を発揮する場もなく、その能力を見出されるチャンスもなく、一生を終える運命なのです。

しかし、神様がご介入され、ヨセフはエジプトの高官の所に導かれます。

【本論】

39:1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。

同じ奴隷であっても、農園などの経営者に買われたならば、その運命は過酷なものとなるでしょう。

日の出前から起こされ、日の沈むまで働かされましょう。

重い荷物を運び、手に豆を作り、足、腰が立たなくなるまで働かされるのです。

雨が降ろうが、日差しが強かろうが、風が吹きまくろうが、関係なく、働かされるのです。

疲れが残っていようが、体調が悪かろうが、働かされるのです。

勿論、苛酷な経営者ばかりではなく、優しい経営者もいるでしょうが、少なくとも、支払った金額に見合う以上の働きが期待されるのは、変わりありません。

奴隷は、奴隷でしかないのです。

しかし、神様の導きで、ヨセフは奴隷としては厚遇が期待されるエジプト高官の下に身を寄せる事になります。

39:2 【主】がヨセフとともにおられたので、彼(ヨセフ)は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

エジプト高官ポティファルの家には、多くの奴隷がいた事でしょう。

屋外の仕事を与えられる奴隷もいれば、屋内の仕事を与えられた奴隷もいたのであり、2節の記述から、ヨセフは家の中の仕事が割り当てられたようです。

これもまた、神様の導きによるものです。

何故ならば、6節に記されているように、ヨセフは体格も良く、屋外での労働が与えられる可能性が充分あったからです。

屋外での労働は、重労働の可能性が高く、健康を害する可能性が高く、怪我や事故の可能性も、決して低くはありません。

一生懸命働いたとしても、主人に認められるには、時間がかかる事でしょう。

一生、肉体労働の奴隷として働く可能性のほうが高いのです。

しかし、屋内での労働であるならば、軽作業の可能性が高く、少なくとも、雨風は凌げますし、強い日差しの中で汗水流す事もなくその働き振りが、主人の目に留まる可能性は高くなりましょう。

しかし、逆に、常に誰かに見られている訳であり、失敗や怠慢は直ぐに、主人の知るところとなるでしょう。

陰日向なく働き、常に誠実に働き、どんな仕事でも厭わず、常に喜んで、笑顔で、率先して取り組むならば、誰かが見ていて、誰かが主人に報告するのではないでしょうか。

先日、あるTV番組の中で、二人組みのお笑いタレントの片方の結婚式での、所属芸能事務所社長のスピーチが取り上げられていました。

その社長は、多くのTV局関係者から、このコンビが、どんな仕事でも、嫌な顔をせず、遅刻する事もなく、真剣に取り組み、笑顔で接するので、非常に評判が良い、また出演してもらいたい、と云う話を聞く事を紹介していました。

そして、このタレントのご両親の育て方を賞賛する言葉で締めくくられましたが、こんな生き方、陰日向なく働き、常に誠実に働き、どんな仕事でも厭わず、常に喜んで、笑顔で、率先して、誠実に取り組むならば、誰かが見ていて、皆の知るところとなり、重用される事となるのです。

39:3 (ヨセフ)の主人は、【主】が彼(ヨセフ)とともにおられ、【主】が彼(ヨセフ)のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

エジプト高官ポティファルは、ヨセフの誠実な人柄だけでなく、「(ヨセフ)のすることすべてを成功させてくださるのを見た」のです。

(ヨセフ)のすることすべて」が成功する、と云うのは不自然な事です。

一見簡単そうな事でさえ、失敗は、付きものであり、する事、なす事、全てが成功する、と云うのは、偶然ではなく、誰かが助けてくれるからであり、誰かが成功に導いてくれるからです。

エジプト高官ポティファルは、権謀術策の世界に生きて来たのであり、この地位に着くまでに、嫌というほど辛酸を舐めて来た事でしょう。

失敗は、付きものであり、その、時足を引っ張る人はいても、手を差し延ばし、助けてくれる人は皆無、の世界に生きて来たのではないでしょうか。

九分九厘、上手く行っていても、残りの一厘は、誰かの強力な助けや、協力が必要であり、また、九分九厘、上手く行っていても、残りの一厘で失敗し、元も子もなくなってしまう事もあるのです。

だからこそ、九分九厘で良し、とするしかないのでしょうが、ヨセフの場合は、誰の助けや協力もなく、する事の全てが、一点の問題も、不具合もなく、成功するのであり、エジプト高官ポティファルも、最初は半信半疑であったとしても、二度三度ならず、する事なす事、全てが成功するとなれば、見えざる何かが、ヨセフを助け、導いている、と考えるのは、自然な事でしょう。

エジプト高官ポティファルは、ヨセフを守り、導く、神様の存在を確信するに至ったのです。

39:4 それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼(ヨセフ)を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

神様に守られている者を重用するのは、自然の成り行きです。

神様が立てられた者に敵対する事程、愚かな事はありません。

神様がヨセフを守り、成功させる、と云う事は、神様がヨセフの敵を撃ち、ヨセフの敵を失敗に導く、と云う事でしょう。

神様に敵対して、勝てる者はいません。

ヨセフに委ねる、と云う事は、神様に委ねる、と云う事と同義であり、神様の祝福に与る、と云う事にほかありません。

事実、

39:5 主人が彼(ヨセフ)に、その家と全財産とを管理させた時から、【主】はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで【主】の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。

ヨセフを徴用した時、ヨセフに委ねたのは大した仕事ではなく、また、誰にでも出来るような、簡単な仕事だったのではないでしょうか。

しかし、小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実であり、小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実なのです。

小さな事、簡単な事にも、誠実に取り組む者には、徐々に大きな事、重要な事を任せるようになるのは当然でしょう。

ましてや、ヨセフには神様が付いておられ、何をしても、何をさせても、失敗がないだけではなく、最高の結果を出すのですから、どんどん、任せるようになるのは必然でしょう。

神様の祝福を受けている者を、低い位置、小さな仕事、限定した権限や責任しか与えないのは、愚かな事です。

それは、明かりを机の下に置くようなものなのではないでしょうか。

非常に限定された所しか明るくしません。

神様の祝福を請けている者を、高い位置に置き、大きな仕事を与え、大きな権限を与えてこそ、能力を発揮し、責任を全うし、大きな祝福をもたらす事になるのではないでしょうか。

それは、明かりを机の上に置く事に似ているのではないでしょうか。

光を遮るものはなく、光は四方八方、満遍なく明かりを広げるのであり、全てが明るさの恩恵を受けるのです。

ヨセフを高い地位に着け、大きな仕事、大きな権限を与えた事により、ヨセフの支配下の、権限下の全てが祝福を受け、人も家畜も農作物も建造物も祝福され、自然災害、盗難、事故、病気から守られたのです。

39:6 彼はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、何も気を使わなかった。しかもヨセフは体格も良く、美男子であった。

4節の「全財産をヨセフの手にゆだね」と

6節の「ヨセフの手に全財産をゆだね」には、時間的経過があり、エジプト高官ポティファルの心境にも大きな変化があった事でしょう。

4節の時点では、一応任せてみたけれども、遠くから見張っている、と云う状況であり、全面的な、完全な委任ではありません。

しかし、6節の時点に至るまでに、ヨセフは全幅の信頼に値する人物、との確信を得て、全面的に信頼し、完全に委任したのであり、一切の干渉を放棄している、事が明らかです。

これは、エジプト高官ポティファルの信任を受けるまでに、ヨセフが成長した事の徴(しるし)でもありましょう。

取りあえず委ねてみる→期待に応える→信頼を得て委ねる→期待以上の結果を出す。

この繰り返しが、ヨセフを大きく広く、深く豊かに成長させ、エジプト高官ポティファルの片腕となり、ポティファルの名代を勤め、エジプト高官の中に人脈を作って行ったのではないでしょうか。

それは、将来のヨセフの働きに欠かせない、掛け替えのない大きな財産となったのです。

さて、「自分の食べる食物」には、文字通り、食事の事、好き嫌い、宗教的な禁忌規定などを意味すると共に、別の意味があります。

ダニエル書618節「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった」の「食事を持って来させなかった」には脚注があり、「側女を召し寄せず」と記しているように、

「妻、側女」の婉曲(えんきょく)的表現だ、と云う事です。

即ち、ポティファルは、「妻、側女」以外の全てをヨセフの手に、ヨセフの采配に委ねたのです。

家の何処に出入りするも、外出も、ポティファルの承諾を得るまでもなく自由、何をするもしないも、買い入れから処分に至るまでの全てを、使用人への指示の全てを、使用人の採用、賃金、解雇に関わる事を含む全てを、奴隷の買い付け、などなど、何しろ全ての全てを、ポティファルから任されていたのです。

そして、何一つ、問題を起こさなかっただけでなく、全てが上手く行き、ポティファルの財産は祝福され、大いに増え、増え続けたのです。

最後にヨセフの容姿が記されています。

創世記2917節にヨセフの母ラケルの容姿が記されていますが、母親譲りの体格、美貌であったようです。

のみならず、誰に対しても高ぶらず、誠実な人柄も、母親譲りであったようです。

そんなヨセフに目を付けた人がいました。

39:7 これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ」と言った。

エジプト高官ポティファルの妻は、大勢の召使、奴隷に囲まれた生活を送る中で、何一つ自由にならない事などない生活を送る中で、エジプト高官ポティファルの妻であるが故の、尊敬と服従であるのに、錯覚を起こし、何時しか高慢になり、欲望を抑える事が出来なくなってしまったのでしょうか。

或いは、権力者、富裕層では、こんな事は、日常的な事だったのかもしれません。

奴隷にとっては、チャンスであった事でしょう。

主人、主人の奥様に気に入られたなら、辛い仕事から解放される絶好の機会です。

主人、主人の奥様には絶対服従ですから、どんな命令にも従わなくてはなりませんが、

39:8 しかし、彼(ヨセフ)は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

39:9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

ヨセフの言い分は、二つの点で重要です。

一つは、主人、エジプト高官ポティファルの信任を裏切る事は出来ない、と云う事です。

主人の厚い信任を受け続ける時、人は勘違いを起こし、何でも許される、何をしても赦されると思い込み、自分が主人のように振る舞い、一線を越えた、大きな間違いを犯してしまいます。

しかし、ヨセフは身分を弁えており、分を弁えており、立場を弁えており、主人に匹敵する権限を持つ夫人の命令であっても、従う事は出来ないと、明言するのです。

二つ目は、神様に対する罪の意識です。

この時点で、十戒は与えられていませんが、神様が性的な乱れを嫌っておられるのは明白です。

夫婦は、死別以外、離れる事は出来ず、他の異性と性交渉を持つ事は出来ません。

世の中がどのようであろうとも、神様に作られた人間は、神様の決められた事に従わなくてはなりません。

姦淫も、同性愛も、近親相姦も、獣姦も、神様の忌み嫌われる事であり、取り入れてはなりません。

その時代、その文化、その民族の、良い悪いの判断ではなく、神様の判断、指示、命令に従わなくてはならないのです。

何回か繰り返し申し上げて来た事ですが、聖書の言う「」とは、刑法上の犯罪、道徳上の不適切行為、などではありません。

神様が決められた事に反する事であり、神様に対する、的外れな行為です。

ですから、時代、文化、民族、老い若い、男女に関わらず、普遍的であり、不変なのです。

信仰から出ていない行為は全て「的外れな行為」であり、「神に罪を犯すこと」なのです。

主人や、主人の妻の命令には絶対服従が、奴隷の条件ですが、それ以上に、神様に従う事が、神様の命令に従う事が、神様に造られた人間の条件なのです。

そんな生き方を選んで来たヨセフだからこそ、神様から祝福されたのであり、神様と共に歩んで来たからこそ、今の自分があるのだ、今の境遇にいるのだ、と云う強い自覚、意識を持っていてこそ、言い得た言葉なのです。

そして、重要なのは、主人への忠誠、誠実は、神様への忠誠、誠実の現われだ、と云う事です。

人に対しては横柄だが、神様に対しては謙虚、はあり得ません。

人に対して横柄な人は、神様に対しても横柄です。

人に対して謙虚な人は、神様に対しても謙虚です。

人に対して忠実、誠実な人は、神様に対しても忠実であり、誠実です。

金太郎飴は、何処を切っても金太郎の顔が出て来るように、私たちの態度も、何時でも、何処でも、誰に対しても、同じでありたいものです。

ヨセフは、曖昧な部分なく拒み、きっぱりと断ります。

39:10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼(ヨセフ)は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。

7節以降で「」と訳されているヘブル語は、他に「女性」を意味しますので、「本妻」以外の「側女、側室、妾」、主人の寵愛を受けている「第二夫人」「第三夫人」だったのかも知れません。

その「」から、執拗な圧力、誘惑が続きますが、ヨセフは、主人に告げる事をしません。

ヨセフは「」の名誉を貴び、主人の家の混乱、破局を望まない、配慮ゆえの判断だったのでしょう。

そして、ヨセフの考えを受け入れず、忠告に耳を貸さないならば、離れるしかなく、距離を保つ事は、誘惑に対する、最善の道、なのです。

【適応

誘惑を含む、罪に対処する秘訣は、第一に、誘惑、罪を、正しく認識する事です。

罪、即ち、的外れ、何が神様の喜ばれない事か否か、を知らずして、罪、的外れを拒み、退ける事は出来ません。

何が罪か、何が的外れか、何が神様に喜ばれない事かの判断は、法律でも、条令でも、社会慣習でも、多数決でもありません。

神様、具体的には聖書以外からは与えられません。

勿論、国民として、法律や条例に従い、社会の慣習に従い、多数決に従いますが、法律や条令、社会慣習、多数決の上にあるのが、神様であり、聖書です。

聖書を基準として判断し、決断しなければなりません。

聖書を基準として判断し、決断し、神様に従う者が神の民であり、クリスチャンです。

神様に従わないならば、神様の喜ばれない事を選ぶならば、神の民ではなく、似非(えせ)クリスチャンです。

似非クリスチャンには本当の喜びはなく、祝福もありません。

神の民、クリスチャンとは、イエス様と一体になる事であり、神の子となる事です。

神の子とされたのですから、神様の喜ぶ事、神様の願われる事を行う事が、喜びになるのです。

すると、神様から祝福され、益々、神様の喜ぶ事をし、神様の願われる事が何かを知ろうと励む事になります。

喜びこそが祝福であり、良い循環になり、神様との繋がりは強固、堅固なものとなるでしょう。

第二は、誘惑、罪から離れる事です。

「長いものには巻かれろ」が、この世を渡る、最善策かも知れませんが、「朱に交われば赤くなる」のであり、朱の中に居れば、朱の影響を受けるのであり、朱に染まるのであり、朱の中に居続ける事ほど愚かな事はありません。

「君子、危うきに近寄らず」です。

説得しようと試みるのにも、限度があります。

しっかりした説明をし、何度か繰り返し説得しても聞き入れようとしないならば、それ以上は不要であり、以降は神様に委ね、身を引くべきです。

離れ、関わりを避け、関係を断つべきです。

離れず、関わりと関係を持ち続けたならば、必ず妥協が生まれ、譲歩が起こり、相手の要求を呑む事になってしまいます。

それは時間の問題でしょう。

大切な人、家族の救いのために、何とかしたい、と思いましょうが、自分の力で何とか出来る、したいと考えるのは、大きな間違いであり、神様の主権を犯す事です。

種を蒔き、水を与えるのは私たちの仕事、働きですが、成長させるのは、神様です。

何が神様にあって正しい事か、神様に喜ばれる事か、神様から祝福を受ける事かを伝えるのは私たちの仕事、働きですが、相手の心を変えるのは、神様です。

神様のお働きにまで踏み込むのは、僭越であり、越権行為です。

試練の中に置かれた時、乗り越える、或いは、回避する知恵と力と助けを祈るのであり、試練を無くす事でも、自分の願いの通りにする事でもありません。

ルカの福音書2242節「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」。

ここにおられる皆様が、試練の中にあっても、神様との関係を保持し、神様との関係のみで行動され、神様の御栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

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聖書個所:ペテロの手紙第二1章16節から21節            2017-11-12礼拝

説教題:「聖書のみ・・・宗教改革500年、三大原則の一つ・・・

説教者:山口希生師 (説教は非掲載です)

【聖書】

1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
1:19 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

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聖書箇所:ヨハネの福音書12:2026               2017-11-5礼拝

説教題:イエスに会う目的は?

【導入】

野球のドラフト会議が終わり、選手の動向に注目が集まり、話題となったことでした。

将棋の世界でも、囲碁の世界でも、新人が頭角を現し、今までは知らない人たちだったのに、今は時の人となってメディアに、そして引退した棋士がコマーシャルに出ています。

有名人となった彼らに一目でも会いたいと思って、イベントに合わせて遠い所から会いに来る人も少なくないようです。

スポーツに限らず、映画俳優、歌手、などの有名人を遠くから見るだけのために、時間をかけ、お金をかけ、仕事を休んでやって来る人が沢山いらっしゃるんですね。

ましてや、然程無理をしなくても会えるとなったら、ちょっと会って見たいと思うのは自然な流れかも知れません。

先ほど読んで頂いたヨハネの福音書にも有名人と、その有名人に一目会いたいと思う人が登場しました。

有名人はイエス様。

一目会いたいと願う人はギリシャ人でした。

【本論】

12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

祭りの時」とありますが、ユダヤ人には大切な祭りが3つあります。

過ぎ越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りです。

ここで言っている祭りは121節に記されている「過ぎ越しの祭り」です。

この祭りを守る為に、近くから、遠くからエルサレムに集まってくるのですが、そのユダヤ人の群れの中に数人のギリシャ人がいたのです。

彼らの目的は何だったのでしょうか。

礼拝のために上って来た人々の中にいた」と記されているのですから単なる物見遊山、観光客ではなく、彼等もまた礼拝のためにエルサレムに来たと考えられます。

ギリシャ人であっても改宗者には礼拝する事が許されていたので、多くのユダヤ人に混じってエルサレムの神殿に来ていたのです。

彼らはユダヤ人から、イエス様の噂を聞いていたのではないでしょうか。

或いはエルサレム入城のイエス様の姿を見たのかも知れません。

12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。

ギリシャ人とピリポはどの様な関係があったのでしょうか。

ガリラヤのベツサイダはガリラヤ湖の周辺地域にありますから、ギリシャとは遠く離れた所です。

このギリシャ人たちはガリラヤ湖の近くに住んでいて、ピリポと面識があったのかも知れません。

或いはピリポと言う名前はギリシャ的な名前なので、両親のどちらかがギリシャ人だったのか、或いはギリシャ人と縁の深い人がいて、ピリポと言う名を付けたのかも知れません。

ギリシャ人の中に、何らかの形でピリポを知る人がいて、お願いをする事になったようです。

先生。イエスにお目にかかりたいのですが

ギリシャ人とピリポ、多少の関係はあるにしても、左程親しくはなかったのでしょう。

イエス様の弟子と言う事もあって、尊敬を込めてこの様に呼びかけたのでしょう。

お願いされたピリポは自分の一存では決めかねて、アンデレに相談します。

12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

ピリポがアンデレに相談した理由は推測可能です。

アンデレがピリポと同じベツサイダの出身だからです。

同郷の好で普段から何かと相談し、相談に乗っていたのでしょう。

ユダヤ人を異邦人のギリシャ人に引き合わせる。

当時の社会情勢、ユダヤ人の持つ「聖さ」に付いての考え方から決して容易な事ではありません。

異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません(マタイ10:5)」とのイエス様の言葉を思い出したかも知れません。

しかし、ユダヤ人が付き合わなかったサマリヤの女にイエス様の方から声を掛けられ、譬えを用いてサマリヤ人の隣人になれとイエス様は教えられました。

ツロ・フェニキアの女の求めに応じて娘を癒し、ローマの百人隊長の家に行って僕を癒しても下さったのです。

イエス様は決して異邦人を差別し嫌っていたのではありません。

二人で相談し、ギリシャ人を連れてイエス様に引き合わせます。

12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

イエス様は不思議なお方です。

ピリポとアンデレが悩んで出した結論に従ってギリシャ人を連れて来たのに、イエス様はギリシャ人には一顧だにせず、状況に全く関係のない事を話し始められます。

しかし、イエス様は関係ない事を話されるお方ではありません。

私たちが見る限り知る限り脈絡がないように思えても、イエス様の中では全てが一致しているのです。

今回の状況はイエス様のエルサレム入城と言う一連の流れの中での出来事です。

弟子たちはエルサレムの群集がこぞってイエス様を歓迎した様子を目の当たりにしています。

その興奮も冷めやらぬ先に、異邦人であるギリシャ人が謁見を求めて来たのです。

ユダヤ人にとってローマ帝国からの開放は悲願でしたが、その解放者はイエス様なのではないか。

エルサレムでイエス様を歓迎したユダヤ人群集と、イエス様に謁見を求めて来たギリシャ人。

時代はイエス様にスポットを当てているではないか。

栄光に輝くイスラエル王国の再建は、このイエス様によって成されるのではないか。

この考えは日を追って確信に変わりつつある。

イエス様が王国を再建されたならば、自分たち直弟子はそこにおいて重要な地位と、権力と、権威、栄光を得る事が出来ると、密かに期待していたのではないでしょうか。

イエス様は、そんな弟子たちの心を知って、彼らの考えの誤りを正し、繰り返し語られて来た、ご自身の死についての話を思い出すよう促しておられるのです。

その意味でも、この語りかけはギリシャ人に対してでなく、群集に対してでもなく、12弟子、特にピリポとアンデレに向けて語られているのです。

人の子が栄光を受けるその時が来ました」イエス様は確かに栄光を受けられます。

しかし、その栄光の受け方は弟子たち、ユダヤ人たちの考えているそれとは大きく違っていました。

イスラエル王国を再建し、支配者として君臨するのではありません。

人々から賞賛を受け、迎え入れられる事ではありません。

人の罪の贖いのために十字架に付けられて死んで、三日の後に甦る事なのです。

その時が来ました」神様によって定められたご計画の最終段階が来たのです。

神様のご計画は人の力によって阻止する事も、遅延させる事も出来ません。

予定通り、計画通り進んで行くのです。

どんな妨害が成されようが、イエス様がエルサレム以外で死ぬ事はなく、十字架以外の方法で殺される事もないのです。

逆に、その時が来れば、どんなに拒んでも、神様のご計画は必ず成就するのです。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

まことに、まことに」ヨハネはこの表現を非常に多く使っています。その数25回。

ヨハネの福音書の特徴的な表現方法であり、イエス様が重要な真理を語る時の常套句となっているのです。

その重要な真理は「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」です。

「麦」はユダヤ人にとって馴染みの深い穀物であり、聖書に度々登場します。

イエス様は誰もが知っている身近な物を譬えに使って、人々に真理を語りますが、今日も弟子たちに向って、毎日食し、その育成をつぶさに知っている麦を譬えに用いて真理を語り出しました。

一つは、蒔かれる事がない麦です。

芽を出す事も無く一粒のままです。

何の役にも立ちません。

時が過ぎれば、乾燥してしまい、或いは腐ってしまい、芽を出す事はありません。

二つ目は地に蒔かれ、芽を出し、実を結ぶ麦です。

地に落ちて死んだ時には一粒ですが、時期が来れば30倍にも60倍にも100倍にもなるのです。

地に蒔かれず、或いは蒔かれる事を拒むなら、何の役にも立たない無意味な存在ですが、

蒔かれて死んだ麦は、多くの実を結んで更に豊かになる事が出来るのです。

先ず死ぬ事。死によって次のステップが始まるのです。

もし、私たちが麦を蒔く事を拒むならば、決して収穫の実を刈り取る事は出来ないのです。

この麦の譬えからイエス様は何を教えようとされているのでしょうか。

ここでイエス様が譬えられている麦とはご自身の事なのです。

イエス様が地上に来られず、私たちの身代わりとして死ななければ、私たちは罪の中でもがき苦しみ、希望も無く裁きを受けなければなりませんが、しかし、イエス様が地上に来られて私たちの身代りに死ねば、私たちは裁きを免れて永遠の命を得る事が出来るのです。

イエス様の死は、この世に命をもたらすものなのです。

イエス様の死は、多くの魂を救い、祝福を与え、神様の栄光を現すものなのです。

イエス様の来られた目的は、弟子たちや多くのユダヤ人が考えたようなイスラエルの再建などと言う小さな事ではなく、全人類の救いという、大きな目的のために地上に来られ、死のうとしておられるのです。

その目的のために歩み続けているイエス様は、事ある毎に、ご自身の死を語って来られたのに、弟子たちは理解する事が出来ず、受け入れようともしなかったのです。

そんな理解しない弟子たちに向って、イエス様はご自分の来られた目的を教えられ、続いて弟子としての心構えについて話を展開されます。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

イエス様はご自身が命を捨てる目的を証ししましたが、イエス様の弟子である者にも、自分の命を捨てると言う行為を求めておられるのではないでしょうか。

一粒の麦が死んでこそ、新しい命が生まれ、成長して多くの実を結ぶように、イエス様に従おうとする者は、イエス様に倣って自分の命を捨てることを学ばなければならないのです。

イエス様にお仕えする、神様の栄光を現す、と言う働きは自分が死ななければなりません。

神様に仕える働きは、自分の考え、思いを捨てて、神様の考え、思いを最優先させる事です。

命を憎む、捨てると言っても、文字通り、本当に死ぬことではなく、自分の為に生きないと言う事です。

自我を捨てるという事です。

私たちは何かをする時、どうしても自分の働きを認められたい、評価して欲しい、と考えます。

或いは自分の利益の為に事を行います。

しかし、何の為に働くかを見失ってはなりません。

私たちが働くのは、この世界を神様から委ねられたからであり、神様の御心に沿って支配、管理しなければならないのです。

それらの働きを通して、神様が崇められ、イエス様の栄光が現されなければならないのです。

自分に与えられた能力を、賜物を、命を、神様の為に、隣人の為に使うなら、それは素晴らしいことであり、イエス様の弟子と呼ばれるのです。

そして、イエス様が命を捨てて、栄光をお受けになられたように、イエス様に従い命を捨てるなら、神様から永遠の命を頂くことになるのです。

これらの真理、イエスの弟子としての心構えを語られた後で、振り出しに戻って、イエス様に会いに来たギリシャ人に向って、私に会いに来た理由は何か、と問いかけるのです。

その質問は、弟子に向かって、私に付いて来る理由は何か、との問いかけでもあるのです。

12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

この26節はイエス様に会いたいと言って来たギリシャ人と、イエス様の弟子になりたいと願っている全ての人に対して語られた言葉です。

もし誰でもイエス様の弟子になりたい、仕えたいと思うなら、イエス様に付いて行かなければなりません。

イエス様のなされたように、貧しい者の友となり、病気の者の近くにいて慰め、虐げられている者の為に行動を起こさなければなりません。

イエス様と共に、恥じ、蔑み、侮辱、苦しみ、悲しみを担わなければならないのです。

イエス様に従う事を喜びとし、イエス様の足跡に従い、イエス様と運命を共にし、イエス様がなされたことを行なわなければならないのです。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」。

新改訳では「いるべき」と訳していますが口語訳では「おるであろう」新共同訳では「いることになる」と訳していますが、イエス様の居られる所に、イエス様に仕える者がいるのは当然なことです。

イエス様が居られる所、苦しみの中でも、迫害の中でも一緒に居るのですし、来るべきパラダイス、御国にもイエス様と一緒にいる約束、希望が与えられているのです。

もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます

イエス様に仕えるならば、父なる神様が必ず報いて下さる、正当な評価をして下さるのです。

この世ではイエス様と苦しみを共にし、来る世ではイエス様と共に栄光を受けるのです。

【適応】

あなたが教会に来たのは、イエス様に会いに来たギリシャ人やユダヤ人のように、物珍しさからですか。

弟子たちのように、イエス様が王となったあかつきに重要なポストに就こう、との思惑のように、教会が何時の間にか自己表現、自己実現の場になってはいないでしょうか。

ユダヤ人たちがローマ帝国からの解放を期待したように、教会がこの世からの逃避場になってはいないでしょうか。

勿論、教会にそのような意味もありますが、教会はシェルターではなく、世に出て行き、証しをするための力を神様から頂く場所なのです。

友達に誘われて、誘われて、誘われて、断わり切れずに教会に足を運んだだけなのでしょうか。

イエス様に、教会に、何か分からないけれども、真理があると思われたからでしょうか。

動機、理由はともかく、教会に足を運んだのは、聖霊の働きがあったことは間違いありません。

イエス様はユダヤ人だけの神ではありません。

イエス様はユダヤ人の罪だけを贖うために、この世に来られたのでもありません。

イエス様はユダヤ人のみならず、ギリシャ人のためにも、ローマ人のためにも、日本人のためにも、世界中の人々のために来られたのであり、イエス様は本当に大切な真理を示して下さり、真理の道を歩み出すように促して下さっているのです。

イエス様と面会を果したギリシャ人がこの後どの様な決断をしたか聖書は記していませんが、あなたはどの様な決断をしますか。

始めはよく分からなくても、この世的な理由であっても、興味本位でも、いいんです。

聖書を読む事を通して、説教を聴く事を通して、祈りを通して、イエス様はご自身を現して下さいます。

イエス様を知って、イエス様のパートーナーとなって、否、イエス様にパートナーとなって頂き、導いて頂き、守って頂き、助けて頂き、慰めて頂き、励まして頂き、生涯をイエス様と共に歩もうではありませんか。

将来の希望をもって、イエス様への愛を貫こうではありませんか。

イエス様は、神様は、あなたの犠牲に対して、比べ物にならない報い、祝福を用意されているのです。

それは子々孫々千代に及ぶ祝福であり、天の御国に招き入れられる確約なのです。

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