説教の著作権は椎名町教会に属します。無断複製、配布はご遠慮ください。

 ・不適切な表現、表記上の不明点、誤字脱字等にお気づきの方はお手数ですが「ご意見はこちらか」でお知らせください。適時、修正・訂正させて頂きます(聖書本文、著作物からの引用・転用については原文のままとさせて頂きますので、ご了承願います)

聖書個所:創世記411節~13節               2017-12-31礼拝

説教題:「夢を見たエジプト王パロ・・・献酌官長の対応」

【導入】

夢について、三回、聖書から見て来ました。

聖書の記されていなかった時代、神様は、神様の御こころを人々に知らせる時に、多くの場合は、「預言者や祭司」を立てられ、間接的に御こころを伝えました。

時には、「夢や幻」を用いて、直接、個人に御こころを伝える事もありました。

それでも、異郷の地で、異教の人々に「夢や幻」を用いられる時には、異教の慣習で解釈される事のないように、解き明かしをする者が立てられ、遣わされました。

エジプトにおいて、神様は「夢」を用いられましたが、エジプトは「夢占い」の盛んな国であり、夢の解き明かし人や、夢の解説本が、巷に溢れていたのですから、神様の伝えたい事が、間違って伝えられる可能性や、無視される可能性もありました。

そこで、神様は、事を起こす前に、ヨセフを送り込み、献酌官長と調理官長に、夢は、神様の支配下にあり、夢の解き明かしも、神様のなさる事である事を、知らしめました。

布石が打たれた訳ですが、この布石は、エジプト王パロを用いるためであり、エジプト王パロに、ヤコブ一族を保護させるためでありました。

神様は、この後起こる飢饉から、直接、ヤコブ一族を守る事も、飢饉を起こさない事も、直接、エジプト王パロに、働きかける事も可能です。

何か、遠回りのような感じのする、神様のご計画ですが、憐れみと恵みに富みたもう神様のご計画であり、偶像礼拝する国に、真の神様の存在を知らしめ、神様に立ち返るチャンスを与えるのであり、飢饉を通して、農耕の恵みは、神様から与えられるモノである事を教え、ヨセフの働き、恩義に正しく報いる事を教える、などの目的があっての事です。

神様の御こころは、神様を知らない民、神様に背く人々を裁く事、滅ぼす事ではなく、神様の存在を知らしめ、神様に従う生き方を選ばせるためであり、赦す事、栄えさせる事です。太陽神などを礼拝する国でも、自らを神と宣言する王でも、どんなに罪深い者にも、神様は回復のチャンスを与えられます。

【本論】

41:1 それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。

献酌官長が復職し、調理官長が木に吊るされた時から、あっという間に、二年が過ぎてしまいましたが、これも神様のご計画です。

巷では「鉄は熱いうちに打て」と申しますが、矢継ぎ早に事を行う事が、常に正しいとは限りません。「急がば回れ」と申しますし、「急いては事を仕損じる」と申しますように、慎重さ、ある種の鷹揚さが必要な時があります。

一刻も早く、自由の身になりたいヨセフにとっては、長い二年だったでしょうが、ヨセフは忍耐を学ぶ必要があったのです。

ヨセフは十七歳までは、父ヤコブの庇護の下で、伸び伸びと、何にも妨げられる事も、干渉される事もなく、自由に生きて来ましたが、奴隷として、囚人として十三年生きる事で、苦しみ、悩み、仕える事、謙る事、忍耐、社会性などを学び、品性が磨かれ、他者への気遣い、機微を身に付けました。ヨセフの、これからの働きに必要、不可欠な資質です。

時が満ちて、神様が働かれ、エジプト王パロは夢を見ますが、それは日常に密接した夢であると同時に、不思議な夢でもありました。

「ナイル」と訳されているヘブル語は、通常「川、水路、流れ」と訳される単語であり、定冠詞が付く事で、彼の地に於いては「ナイル川」を意味するようになります。

エジプト王国は、ナイル川の恵みで栄えた都市であり、パロにとって、「ナイルのほとりに立」つ事は、生活の一部と云えるでしょう。

その

41:2 ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。

雌牛」は、私たちが思い浮かべる「肉牛、乳牛」ではなく、古来エジプトで飼われていた「水牛」の一種と考えられます。

水牛は、暑さと、伝染病を媒介する、吸血性の蚊や蝿など、蝿の代表的なのは「ツェツェ蝿」ですが、これらから身を守るために、水中にいる事を好んでいたようです。

そして、陸に上がって来ては、草、葦などを食んでいたのですが、ナイル川流域は、上流の養分豊富な土砂が運ばれて堆積した地域です。

農業に適した土地であり、牧畜も盛んであり、栄養豊富な草を食べた牛は、丸々と太っていたのであり、豊作、繁栄の象徴が「つやつやした、肉づきの良い雌牛」なのです。

エジプト王パロは、仄々とした気分となったのではないでしょうか。

41:3 するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立った。

エジプト王国に繁栄をもたらしたナイル川ですが、ナイル川は恩恵をもたらすだけの存在ではありません。

ナイル川は、上流の養分豊富な土砂を運んで来ますが、度々氾濫し、土石流は壊滅的な被害をもたらします。ナイル川だけが、エジプトに被害をもたらす訳ではありません。

雨が降らなければ旱魃になり、太陽が出なければ冷害になります。

農作物の病気も、蝗(イナゴ)や飛蝗(バッタ)などの害虫も、時に壊滅的な被害を及ぼします。

ナイル川は、繁栄と災害をもたらす存在である事を暗示しているのであり、「醜いやせ細った雌牛」は飢饉と、災害の象徴なのです。

41:4 そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。

草食の牛が、牛を食らう、とは、何たる不思議な、異様な光景でしょうか。

この不思議な、異様な夢は、縮み上がるような恐ろしい夢でも、身震いする程の怖い夢でもありませんが、異様な光景の夢であり、理解に苦しむ夢でしょう。

つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛」と「醜いやせ細った七頭の雌牛」との対比は、際立った対比であり、「食い尽く」す光景は、意味は解らずとも、記憶にしっかり留まった事でしょう。

41:5 それから、彼はまた眠って、再び夢を見た。見ると、肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来た。

41:6 すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来た。

41:7 そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまった。そのとき、パロは目がさめた。それは夢だった。

5節から7節は、「雌牛」が「」に変わっただけであり、2節から4節の繰り返しですが、異様な夢である事に変わりはありません。

先に、エジプト王国は、ナイル川の恵みによって栄えたと申し上げました。

家畜だけでなく、農作物にとっても恵みをもたらすナイル川ですが、自然の脅威は、ナイル川の恵みを嘲笑い、精魂込めて作った農作物を一瞬のうちに枯らしてしまうのです。

6節の「東風」は、文字通りに「東から吹いてくる風」の意味ではありません。

イスラエル人はパレスチナに住んでいたのですが、パレスチナに住んでいる人々にとって、アラビヤ砂漠から吹いてくる熱く、乾燥した風は、東風であり、パレスチナの人々に被害をもたらす、歓迎すべからざる風であり、「東風」は、砂漠から吹いてくる、熱く、乾燥した熱風を現す、慣用句となっているのです。

エジプト王国では、サハラ砂漠から吹いてくる熱く、乾燥した風は、南風であり、エジプト人に被害をもたらす、歓迎すべからざる風は、南風ですが、聖書記者は、イスラエル人の理解の助けとして「熱風」を意味する「東風」と云う言葉を用いたのでしょう。

この熱風「東風」は、植物に甚大な被害をもたらし、風の通り路上の緑という緑は、オーブンに入れられたように枯れてしまうのです。

飢饉を強く暗示する光景であり、更には、「しなびた七つの穂」が「肥えた良い七つの穂」を飲み込むとの光景は、異様な、不思議な光景であり、意味は解らずとも、忘れられない記憶として残った事でしょう。

肥えた良い七つの穂」と「しなびた七つの穂」の対比は、「つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛」と「醜いやせ細った七頭の雌牛」との対比とともに、際立った対比であり、エジプト王パロは、それを連続して見せられたのですから、深く記憶に留めた事でしょうし、意味を知りたいと、強く願った事でしょう。

41:8 朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった。

呪法師」を、新共同訳聖書、口語訳聖書共に「魔術師」と訳していますが、「呪文」と唱える、と云う点で共通しています。「呪法師」も「魔術師」も、祭儀、秘儀を執り行う職務であり、夢を解き明かすのは本職ではありません。

畑違いではありますが、エジプト王パロの命令なのですから、必死になって文献を探し、懸命に調べた事でしょう。

知恵のある者」とは、夢を解き明かす者を含む、様々な分野の学者や星占い、有識者たちの事と考えられます。

エジプト王パロは、エジプト王国中の知恵を結集して、夢の解き明かしに当たらせたのですが、人間に解き明かせる課題ではありませんでした。

皆が途方に暮れている、

41:9 そのとき、献酌官長がパロに告げて言った。「私はきょう、私のあやまちを申し上げなければなりません。

献酌官長は「あやまち」と言っていますが、エジプト王パロに対する過ちではありません。

献酌官長の「あやまち」はヨセフの願いを果たせないで来た事であり、複数形で表現されている事から、ヨセフの依頼を忘れていた訳ではなく、チャンスを見つけられないで来た事に対する後悔、葛藤があった事、逡巡があった事、などの意味なのでしょう。

申し上げなければなりません」を、新共同訳聖書、口語訳聖書、共に「思い出しました」と訳していますが、献酌官長の人柄、品格、謙りを感じさせる告白です。

こんな、不利に作用しかねない事柄は、言わぬが知恵であり、「私は、夢の解き明かしに秀でた者を知っています」と上奏し、自分の手柄に誘導したとしても、何の問題もないでしょう。しかし、献酌官長は、実直に、奴隷、囚人との約束を果たせないで来た事を「あやまち」として告白するのです。

こんな人柄、人格、謙りの持ち主だった事も、エジプト王パロの目に留まり、赦された要因の一つかもしれません。

箴言1812節「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」と記されている通りです。

際立って有能な者でも、高慢な者、鼻持ちならない者、慇懃(いんぎん)無礼な者とは、関わりたいと思わないのではないでしょうか。

弱い立場の者には、遠慮会釈なく、辛辣な言葉を投げかけるような者とは、上位の者には、諂(へつら)うような者とは、影で批判をするような者とは、必要以外、近づきたくはないのではないでしょうか。

しかし、多少の欠点を持ってはいても、温厚な人柄、謙遜な人柄は欠点をカバーするのではないでしょうか。

礼儀正しい人、親切な人、裏表のない人、差別しない人は、友人に事欠かないのではないでしょうか。

そして、どちらも、本人が、気が付いていない場合が多いのであり、だからこそ、日々、言動を吟味しなければならないのです。

これは、神様に対する態度でもあり、罪に対する認識にも繋がりましょう。

自分は、神様の憐れみによって、罪、赦された者に過ぎない、それなのに、罪人であるとの自覚を忘れてはいないだろうか、と吟味し、神様の前に義たり得ない者だ、神様の恵みによって、義と見做されているに過ぎない、と謙りながら生きるか、ではないでしょうか。

献酌官長の告白は続きます。

41:10 かつて、パロがしもべらを怒って、私と調理官長とを侍従長の家に拘留なさいました。

41:11 そのとき、私と彼は同じ夜に夢を見ましたが、その夢はおのおの意味のある夢でした。

41:12 そこには、私たちといっしょに、侍従長のしもべでヘブル人の若者がいました。それで彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かし、それぞれの夢にしたがって、解き明かしてくれました。

41:13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました。」

10節以降は「夢の解き明かし」三部作で紹介しておりますので、割愛させていただきますが、13節「パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました」には触れておきたいと思います。

この言い回し、直訳は「私を彼は回復し、彼を彼は木にかけました」であり、「パロは私を回復し、パロは調理官長を木にかけました」です。

元の地位に戻された献酌官長と、木に吊るされた調理官長とに、差はありません。

しかし、エジプト王パロの、一方的な憐れみ、恵みによって、献酌官長は、赦されたのであり、赦された者は、赦された事をはっきり自覚すべきであり、憐れみを受けた事実を、恵みを受けた事実を、忘れてはなりません。

献酌官長の告白は、非常に暗示的であり、それは、生き方に影響するでしょうし、言動に影響するでしょう。

【適応】

献酌官長の、赦しと裁きについての告白は、ヨハネの福音書2023節「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」を思い浮かべます。

文脈では、イエス様から聖霊を受けた弟子には、罪を赦す権威が与えられ、天国の入り口の、扉の鍵の権能を持っている事を、弟子の宣言の重要性を教えますが、もう少し、広義に解釈すると「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、あなたがたの罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、あなたがたの罪もそのまま残ります」ではないでしょうか。

一方的な憐れみ、恵みを受けた者は、自身の不利益を省みずに、無条件で、相手の罪を赦すべきであり、また、積極的に執り成しをすべきです。

献酌官長は、エジプト王パロの憐れみ、恵みを受けたのですから、パロから怒りを買う事になったとしても、冤罪で投獄されたヨセフのために、執り成すべきであり、ヨセフから何の益を受けていなくても、ヨセフのために不利益を覚悟すべきです。

赦すと云う事は、執り成すと云う事は、非常に難しい事であり、すんなりと出来る事ではありませんし、完全な赦しは、神様にしか出来ない事であり、完全な執り成しは、イエス様にしか出来ない事ですが、宣言する事、口にする事が重要です。

心で信じて「口で告白する」事が重要であるように、赦しの宣言を発する事が、執り成しの言葉を発する事が重要なのです。

赦せない思いが拭い切れなくても、赦しを宣言すべきであり、気持ちを切り替え易くなり、赦せる思いが生まれて来るのです。

執り成しを口にする事で、不思議な連帯が生まれるのです。

赦す者は、赦してもらえるでしょうし、執り成しをする者は、執り成してもらえます。

勿論、赦してもらうために、執り成してもらうために、赦し、執り成す訳ではありません。

赦されたから、赦すのであり、執り成されたから、執り成すのです。

積極的に、赦し、執り成すべきであり、それは、赦された者の義務であると共に、特権でもあります。

執り成しされた者の義務であると共に、特権でもあり、この義務は、重荷とはならず、喜びとなり、信仰の成長、心身の健康に繋がります。

赦せない思いは、心の中で燻ぶり続け、信仰を枯らし、心身を焦がし、何の益ももたらしません。

神様の赦しを得た者として、イエス様の執り成しを得た者として、赦しを、執り成しを実践する者として、2018年を歩んで行かれる事を願ってやみません。

2017/12メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

聖書箇所:ヨハネの手紙第一49節~10節          2017-12-24礼拝

説教題:「神の愛」

【導入】

クリスマス、イエス様のご降誕、おめでとうございます。

この挨拶は、考えるまでもなく変です。

今日は、クリスマス・イヴであり、アドベント四週目だからです。

ですから、この礼拝も、クリスマス・イヴ礼拝とすべきであり、明日、クリスマス礼拝を行うべきですが、そうは行かない、この世の事情がある訳です。

キリスト教国では、クリスマスが休日になっているようなので、クリスマス礼拝とクリスマス・イヴ礼拝、主日礼拝とは、それぞれ別の日に行えるのであり、差し支えも、問題もない訳ですが、日本では、主日礼拝に合わせて、クリスマス礼拝を行うので、変な日程になる訳です。

クリスマスを祝ってから、クリスマス・イブ礼拝を行い、キャロリングをする事になってしまう訳です。

今日は、16時半から、キャロリングを予定していますので、都合の付く方は、どうぞご参加願います。

日本のように、キリスト教を基準に、暦、休日が考えられていない国では、教会行事との調整が、難しくなり、変な感じになってしまう訳です。

クリスマスを1225日とするのには、諸説ありますが、イエス様の誕生日と断定は出来きません。

詳しく知りたい方は「新キリスト教辞典」などで調べていただくとよろしいでしょう。

日本などでは、1225日より前の日曜日に合わせて、イエス様のお誕生を喜び祝う礼拝を献げ、お祝いの会食を行い、1224日の夜に、クリスマス・イヴ礼拝や、キャロリングなどをする事に、ならざるを得ませんが、このようにする事に問題はありません。

ここで、大切な事は、変えてはならない事と、変えてもよい事、変えなければならない事を、区別し、対応しなければならない、と云う事でしょう。

1225日をイエス様の誕生日と断定出来ないのだから、行う必要はない、行うべきではない、と考えるのは、如何なものでしょうか。

イエス様のご降誕は、紛れもない事実であり、ご降誕を喜び、祝うに問題はありません。

しかし、「1225日はイエス様のお誕生日です」と断定するのは、問題であり、1225日に行う事に拘るのも、問題です。

イエス様のご降誕を喜び、祝う事が重要であり、柔軟に考え、対応すべきでしょう。

そして、イエス様のご降誕の意味を、しっかり受け止め、考える事も重要です。

イエス様は、偉人の一人ではありません。

キリスト教の教祖でもありません。

冤罪によって、不幸な死を遂げた人物でもありません。

イエス様は「神の愛」そのものです。

今日は「神の愛」に付いて、聖書から見てみたいと思います。

【本論】

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

ひとり子」は「独り子」であり、「神はその」と記されている通りに、「神の独り子」であり、天使や養子、使用人などの被造物ではない事は明らかです。

更には、何人かいる内の一人ではなく、かけがえのない、唯一無二の存在である事が宣言されています。

加えて、「ひとり子」には、「生んだひとり子」の意味があり、神様から生まれ出た意味、ニュアンスが込められています。

勿論、人間の出産のように、夫婦がいて、妊娠し、陣痛が起こって産んだ、の意味ではありません。

神様から別れ出た、或いは、神そのものが原因となって生まれ出た、の意味で理解しなければなりません。

しかし、神様の創造物の一つ、被造物ではありません。

また、分裂の意味でもなく、複製の意味でもありません。

分身の意味でもなく、神そのものでありつつ、三つの位格、三つの位格とは、父、子、聖霊、ですが、その一つとしての「ひとり子」なのです。

「三位一体」の教理を説明するのも、理解するのも、至難の業です。

三つでありながら、一つであり、一つでありながら、三つである。

説明の方法として、水と氷と水蒸気を例にし、或いは、両親から見たら子どもでありながら、妻にとっては夫であり、子どもから見たなら親である、を例にしたりしますが、満足な、充分な説明ではありません。

今日は、神としては一つだが、三つの位格を持つお方、との理解に留めておきましょう。「ひとり子」は「子なる神」であり、「父なる神」が「子なる神」を「世に遣わした」のです。

決して、偉人の一人でもなければ、キリスト教の教祖でもないのであり、また、天使や養子、使用人を遣わしたのでもありません。

父なる神」が「子なる神」を「世に遣わした」のは、この世を裁くためではありません。

神に遣わ」されたのは、「子なる神」であり、「私たちに、いのちを得させ」るためだ、と云うのです。

新共同訳聖書では「わたしたちが生きるようになるためです」と訳し、口語訳聖書では「わたしたちを生きるようにしてくださった」と訳していますが、神様でなければ、「いのちを得させ」る事も、或いは「生きるように」する事も出来ません。

どのように優れた被造物であっても、いのちを得させ」る事も、或いは「生きるように」する事も出来ません。

人間は、自分の力、能力で生き抜いているように思いましょうが、神様の憐れみと、恵みによって生かされているのであり、「いのち」も「生きる」も、神様から与えられているのです。

しかし、人間は罪に囚われた状態にあり、神様が見えなくなっており、神様に気付く事も、神様を見出す事も、神様の前に出る事も出来ません。

これでは、本当の意味で「生きる」事は出来ませんし、「いのちを得」る事も出来ません。

神様から離れた者は、滅びに向かって突き進んでいるのであり、神様から離れた者は、死んだ者であり、長く生きても、意味はありません。

そこで、神様は、「子なる神」を「世に遣わした」のであり、「子なる神」の犠牲の上に、私たちに「いのち」を与えて下さったのです。

子なる神」によって、私たち罪人が本当の「いのち」を得て「生きる」ようになったのです。

これが、神様のご計画であり、時、至ってなされた神様の愛の業なのです。

神様は、待っているお方ではありません。

近寄って来て下さるお方であり、働きかけて下さるお方です。

人間の全ての行いには、不純な部分があり、常に純粋無垢、は無理な事です。

動機の時点で不純を内蔵しており、行為においても罪の影響を受けます。

ですから、毎日、生贄を献げなければならず、生贄を補充し続けなければなりませんが、献げる生贄には限界があり、不完全なものでしかありません。

そこで、神様は、完全に神様の御こころを行い得る方「子なる神」を「世に遣わした」のであり、完全な生贄として「子なる神」を「世に遣わした」のです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

私たちは、不完全な者であり、欠けだらけの者であり、自己中心でしか考えられない者であり、神様に背を向けた生き方しか出来ない者です。

神様を愛する事も、神様を第一にする事も出来ません。

人を愛する事も、自分を犠牲にする事も出来ません。

しかし、神様はそんな私たちのために、最高のものを遣わしたのであり、最高の犠牲を払われたのです。

神様の愛は、抽象的、センチメンタルなものではありません。

可哀想に、と思うけれども、自業自得と思い、眺めているだけではないのです。

また、条件付でもありません。

神様を愛するなら、神様も人間を愛そう、ではないのです。

神様は、一方的に人間を愛され、神様の方から、働きかけられたのです。

神様の愛は、現された愛であり、行動に移された愛であり、自己犠牲を伴う愛です。

その愛を、無償で、罪人である私たちの上に、注がれたのです。

神様の愛の対象は、有能な者でもなく、善人でもなく、義人でもなく、無能な、狡賢く、罪人である私たちです。

神様は、罪人の私たちを愛され、救うために行動を起こされ、神様が用意された、人間の罪を完全に贖う事の出来る生贄をもって、私たちを、義人と見做したのです。

子なる神」を生贄、犠牲とする事で、罪深い人間を赦したのです。

私たちの上に下るはずの神様の怒り、裁き、呪いは、想像出来ない程の大きさ、重さ、恐ろしさであり、神様の怒り、裁き、呪い、を宥めるために、宥めの供え物とするために、敢えてご自身の「ひとり子」を、この世に遣わされたのです。

宥めの供え物、生贄、犠牲を現すのは、言うまでもなく「十字架」です。

子なる神」が、十字架上で、人間の受けるべき、神様の怒り、呪いを受けられたのです。

子なる神」は「父なる神」でもあり、神様ご自身が、人間の受けるべき、神の怒り、呪いを受けられたのです。

自分で、自分の怒り、呪いを受けるなんて、あり得ない事であり、あったとしても、少しは手加減もし、手心も加えましょうが、神様は義なるお方であり、一切、手加減しませんし、手心も加えません。

怒りの全て、呪いの全てを十字架の上の「神のひとり子」イエス様の上に下したのです。

神様は、刑を厳格に、完全に執行されたのです。

それ故に、私たちは神様に対する罪の、完全無欠の赦しを得、いのちを得る事が出来たのです。

一方的な神様の憐れみ、恵みであり、人間の側には、一切の負担や責務はないのです。

人間は、何の犠牲も払わず、将来においても相応の負担を覚悟する必要も、責務を履行する必要もありません。

過去の罪、現在の罪は勿論のこと、将来の罪についても、完全な贖いを完了しているのであり、どんな形であれ、訴追される事は一切ありません。

神殿で献げられる生贄は、現在までの罪についての贖いのためであり、赦しですが、神様の愛は、イエス様の十字架の贖いは、一度で完全であり、将来の罪、これからどんなに大きな罪を犯しても、赦されるのです。

あり得ない事ですが、これが神様の人間に対する愛なのです。

【適応】

人間が悔い改めると、それに応答、付随して、神様も動き出され、赦しのプロセスに入るのではありません。

全てにおいて、神様が主権を握っておられ、主体的、主導的です。

神様が愛を示し、

ここに愛がある、との宣言から、全てが始まっています。

9節の「ここに、神の愛が私たちに示されたのです」と、10節の「ここに愛があるのです」は、原文では、それぞれの節の先頭におかれています。

神の愛を示すために、ひとり子が遣わされ、私たちにいのちを得させてくださったのです。

神様の愛は、探す必要はなく、ここにあるのであり、神様が、私たちを探し出してくださったのです。

神様の愛を受けるために、何かをする必要はなく、神様が、犠牲を払われたのです。

神様の愛の現われとして、ひとり子が宥めの供え物となったのです。

神様の、積極的な、主体的なご計画であり、ご計画が実行されて「神の独り子」イエス様が使わされたのです。

私たちは人知れず、内なる罪に悩み、苦しんでいます。

罪をなくしたい思いに、罪に支配された情けなさに、身悶えていらっしゃるのではないでしょうか。

クリスチャンとして、これでいいのだろうかと、悩んでいらっしゃるでしょうか。

神様に嫌われはしないかと、見捨てられはしないかと、心配していらっしゃるでしょうか。

そんな心配は無用です。

神様は、全ての人間を愛しておられ、神のひとり子を、この世に送り、十字架の上に、私たちのための生贄となり、私たちの罪咎を贖ってくださったのです。

犠牲を払うべきは、罪を犯した人間なのですが、人間には一切の責任や負担を合わせず、神様が責任を取り、負担を負ってくださったのです。

しかも、これらは、既に、2000年前になされているのであり、人間は、これを信じるだけでよいのです。

世の中に、上手い話はなく、必ずどんでん返しがあり、臍(ほぞ)を噛むような目に遭うのが常ですが、これからなされる、雲を掴むような救いの計画に参加するのではなく、既になされ、完成し、多くの目撃者、証言者がおり、聖書に記され、世界中に広まっているのであり、実績がある救いに招かれているのです。

そして、相手が神様だから、嘘はなく、信じるに足るのです。

この神様の大きな愛に、皆様は招かれているのです。

2017/12メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

聖書個所:創世記4016節~23節               2017-12-17礼拝

説教題:「夢の解き明かし・・・その3

【導入】

夢について、二回、聖書から見て来ました。

皆様は、毎日、寝ておられましょうから、毎日、必ず夢を見ておられる訳ですが、殆どの方が、目覚めた瞬間に、夢を見た事も、内容の殆ども忘れてしまいます。

怖い夢を見て、恐ろしさの余り目覚めてしまった時、怖かった感情は残っていても、楽しい夢を見て、暖かい気持ちで目覚めて、楽しかった感情は残っていても、夢の内容の一部始終を、鮮明に記憶している事は希です。

ほんの一部、怖かった場面、楽しかった場面だけが、記憶に残っている程度なのではないでしょうか。

そんな夢の切れ端からでも、心理学者は、深層心理の現れではないかと分析し、病理学者は、身体の異変の影響ではないかと分析します。

夢の分析では、フロイトとか、ユングなどが有名ですが、フロイトは、全ての夢を「性」に関連付けて分析し、ユングは、多角的な角度から分析を試みます。

興味のある方は、検索エンジン等で、夢分析を調べてみてください。

怪しい宗教家は、お告げであるとか、神様からの託宣である、と、もっともらしい事を述べますが、まあ、結論は、気にしない事が一番です。

何故ならば、夢や幻によっては、お告げも、託宣も与えられないからです。

2000年以上前の時代には、今、私たちが手にしている「聖書」は存在しておらず、神様の御こころを知る手がかりは、夢や幻に頼るしかない、預言者や、祭司が扱う「ウリムやトンミム」に頼るしかない部分もありましたが、今は、「聖書」があり、神様の御手によって造られた人間が、神様の御心を知る手段は「聖書」に限る、が基本です。

神様の御こころを知る手段が手元にあるのであり、活用しない手はありません。

何の根拠もない「夢占い、星占い、お御籤(みくじ)」に頼るのは愚かな事と言わざるを得ませんが、根拠がなくても、頼りたくなるのが、人間の弱さなのかもしれません。

さて、ヨセフたちの生きた時代は、夢や幻によって、神様の御心が示され、将来に起こる事を予言する事もありました。

ヨセフの見た夢、献酌官長、調理官長の見た夢、パロの見た夢などが、その代表です。

今日は、調理官長の見た夢から、神様の御こころを見てみましょう。

【本論】

40:16 調理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私も夢の中で、見ると、私の頭の上に枝編みのかごが三つあった。

ヨセフによる、献酌官長の見た夢の解き明かしは、まだ、現実とはなっていません。

しかも、ヨセフは一奴隷であり、牢獄に置かれた身分ですから、ヨセフの言葉には、何の保証も無く、信頼をおく事など、出来ないのではないでしょうか。

ヨセフによる、献酌官長の夢の解き明かしは、本当かも、嘘かも知れず、はっきりしないのですが、普段、冷静沈着な、論理的思考を旨とする人でも、不安な時には、何の根拠も無いものにさえ、頼ってしまうものなのです。

不安に苛(さいな)まれる調理官長は、献酌官長の夢の解き明かしが良かったのに勇気を得て、

自身の問題、己が原因については、深く考えもせず、夢判断に頼り、期待を持って、自分の見た夢を、ヨセフに語り始めます。

枝編みの」と訳されているヘブル語は、現代では使われておらず、聖書の中でも、ここだけにしか使われていないので、正確な意味は不明です。

アラビア語に、類似した単語があり、「白い」を意味しますので、「白い籠」、或いは「白いものを入れる籠」の意味で訳す事も可能であり、口語訳聖書では「白いパンのかご」、と訳しています。

その籠が三つあり、

40:17 一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」

調理官長の見た夢は、献酌官長の見た夢と比べて、非常に雑であり、曖昧です。

何を調理したのか、どのような料理だったのか、具体的ではなく、非常に特徴的なのは、調理官長の働きも、パロに仕える姿も、一切語られていない、描かれていない、と云う事でしょう。

古代エジプトの文献によれば、57種類のパンがあり、38種類の菓子があった事が確認されています。

パンと菓子だけで、この数、この種類ですから、如何にレシピが多かったかの、証拠であり、肉料理、魚料理、野菜料理の種類の豊富さは、想像を遥かに超えるものであり、エジプト王国に相応しい、豪華絢爛たるものだった事が伺われましょう。

それはパロの宮廷における、食事の重要性を示し、調理官長の役割の大きさを示すものでしょう。

調理の働きは、パロの健康に深く関わる働きであり、パロの権威や勢力を具体的に現す働きであり、その重要性は非常に大きく、高い評価を得られれば、処遇、地位、報酬に於て、与えられるものは大きかったでしょうが、

また、失敗に対する処置も、非常に厳しいものであった事は、想像に難くありません。

だからこそ投獄された分けなのです。

40:18 ヨセフは答えて言った。「その解き明かしはこうです。三つのかごは三日のことです。

ヨセフによる、調理官長の夢の解き明しが始まりました。

語り出しは、献酌官長の時と同じく、日数の事、三日の事であると、解き明かされますが、三日を示す物の違いは大きい、と言わざるを得ません。

献酌官長の場合は、「葡萄の木、三本のつる」であり、献酌官長と直接の関わりを持つ物でしたが、調理官長の場合は、「籠」である、と云う事です。

調理官長の本職は、料理であり、入れ物ではない、と云う事です。

主役である料理よりも、付随的な「籠」が描かれているのであり、本職を忘れた働き、言動、を象徴的に現しているのではないでしょうか。

勿論、献酌官長の夢の解き明かしで、説明致しましたが、働きに関わるもの全てに配慮し、広く造詣を深めなければなりませんから、「籠」であっても、疎かにしてはなりません。

しかし、「枝編みの籠」を想像してみてください。

木の枝を編んだ物ですから、通気性は抜群かも知れませんが、虫や小動物に対する配慮、埃などに対する配慮、と云う点では、如何なものでしょうか。

主役である料理を無視した入れ物を用意したのであり、至っては、パロに対する配慮の欠如、と言えるのではないでしょうか。

しかも、「頭の上」に掲げていたのでは、虫や小鳥に対する対策としては、甚だお粗末、であり、恭(うやうや)しさの演出にしても、度を越してはいないでしょうか。

日避け代わり、雨避け代わりにしていた、と見られなくもありません。

案の定、鳥が来て、パロが食すべき料理を啄ばんでしまったのです。

勿論、啄ばむのを、黙って見ていた訳ではないでしょうが、配慮と注意が足らなかった、重大な落ち度であった、と言わざるを得ません。

40:19 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」

呼び出し」は13節で説明の通り、直訳は「頭を上げさせる」ですが、新共同訳聖書は「頭を上げて切り離し」と訳し、口語訳聖書は「頭を上げ離して」と訳しています。

赦すため、名誉回復、地位回復、復職のために「頭を上げさせる」のではなく、死刑宣告のためであり、晒し者にするとの宣言のためであり、鳥の餌にするとの命令を下すために「頭を上げさせる」のです。

パロの怒りは、死刑にするだけでは治まらず、死体を木に掛けて、見せしめにし、更なる恥辱を加える事で、やっと治まる、と云うのです。

木に掛けられた者は、呪われた者であり、希望を全く打ち砕く、厳しい表現です。

それでも、鳥や獣の餌食にならないように、家族、親族、親しい者が、鳥や獣を追い払う事が許され、時期が来れば、葬る事が許されるのですが、それすら許されないのであり、惨たらしい、無残な仕打ちを命ぜられる事になる、と云うのです。

方や釈放と、名誉挽回、地位回復、復職が、宣言され、喜びに満ち溢れるのであり、方や、死刑と、死後にも晒し者とされ、無残にも鳥に啄ばまれ、獣に食い荒らされる、と宣告され、絶望に追いやられるのです。

40:20 三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。

パロの誕生日」に「祝宴を張」られたのですから、恩赦や特赦が期待される場面です。

この恩赦や特赦は、一方的な恵です。

勿論、模範囚か否かで、多少の違いがあるかも知れませんが、基本的には、どんなに大きな罪を犯していても、減刑され、刑期が短縮され、放免もあり得ます。

勿論、罪人であった事実は、生涯付いて回りましょうが、自由の身にされる事は、どんなに素晴らしい事でしょうか。

そのチャンスに、献酌官長も、調理官長も、期待に胸を膨らませていたのではないでしょうか。

そして、呼び出された時には胸の高まりを抑える事が出来なかったのではないでしょうか。

ヨセフの、二人の夢の、それぞれの解き明かしは、天国と地獄の差です。

呼び出された献酌官長と、調理官長。

大勢の家臣たちの見守る中、佇(たたず)み、固唾を飲んでパロの言葉を待っている、緊張漲る場面です。

40:21 そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。

40:22 しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。

献酌官長には恩赦、特赦が与えられ、調理官長には厳しい死刑宣告が与えられました。

聖書には、献酌官長、調理官長が犯した罪への言及はなく、献酌官長が赦された理由、調理官長が死刑にされた理由も明かしていません。

しかし、パロは絶対君主であり、パロの決定は絶対であり、誰も変える事は出来ません。

パロは、最高位の支配者であり、最高位の裁判官であり、最高位の任命権者であり、殺生与奪の権を持っているのであり、誰に相談する必要もなく、誰に助言を求める必要もなく、理由を問われる事もなく、説明する必要もありません。

献酌官長は、パロの一方的な憐れみによって、罪を赦され、復職したのであり、調理官長は、罪を犯した当然の結果として、死を与えられ、呪われて木に掛けられたのです。

本来ならば、献酌官長も、調理官長も、死刑が与えられて当然の罪を犯したのであり、恩赦、特赦などが考えられる余地もなく、死刑確実だったのではないでしょうか。

しかし、一方は、パロの憐れみによって赦されたのであり、パロに仕えるのです。

もう一方は、犯した罪に対する刑罰として殺され、晒され、葬る事も許されないのです。

憐れみ、赦す選択は、パロの内にあるのであり、献酌官長、調理官長にあるのではないです。

しかし、決してパロの気まぐれ、思い付き、で決したのではありません。

パロは、絶対であり献酌官長を赦したいから赦したのであり、憐れみたいから憐れんだのです。

パロは、調理官長を憎んだのではなく、調理官長は、決して不当な処遇を受けたのではなく、調理官長は、自らが行った罪の結果として、死刑に処せられたのです。

40:23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

献酌官長にとっては、生死に関わる事であり、忘れようにも、忘れられない事なのではないでしょうか。

しかし、忘れてしまった、その原因として幾つかの事が考えられましょう。

夢の解き明かしの通りになりましたが、ヨセフの働きかけ、口利きがあり、それが功を奏して元の地位に戻った訳ではありませんから、ヨセフに対して、特別な恩義を感じなかった、のではないでしょうか。

或いは、獄中の一奴隷の願い、約束など、まともに関わってはいられない事であり、完全に無視される結果となってしまった、のではないでしょうか。

或いは、獄中生活は、不名誉な事であり、一刻も早く、全て忘れたい事であり、思い出す必要もなく、忘れ去られてしまったのでしょうか。

或いは、一度はパロに罪を犯し、パロの怒りを買い、投獄された事実を持つ身であり、パロの機嫌を損なう可能性のある事は、事の大小に関わらず、口にする事が出来なかった、憚られたのではないでしょうか。

心に引っかかるけれども、保身のために、忘れるしかなかったのでしょうか。

しかし、忘れてしまった訳ではなく、チャンスを待っているうちに、時が過ぎてしまった、と云うのが、真相なのかもしれません。

【適応】

今日のポイントは、2122節のエピソードであり、「赦し」と「裁き」です。

献酌官長、調理官長、共にパロに対して、罪を犯したのであり、共に、死刑に処せられるべき身です。

しかし、パロは、献酌官長の、何の功績、実績、有用性、或いは除名嘆願、誰かの口利きで赦したのではありません。

パロの一方的な憐れみによって、恵みとして赦したのです。

パロは、生かし、殺す権限を持っており、徴用し、放逐する権限を持っており、赦し、懲罰を与える権限を持っているのです。

調理官長は、自身の犯した罪の、当然の報いとして、死刑に処せられたのであり、パロの気まぐれで、弄(もてあそ)ばれ、不運にも死刑を命じられたのではないのです。

神様と私たちの関係も、同じです。

私たちは、献酌官長、調理官長と同じように、否、献酌官長、調理官長以上に罪深い者です。

罪と知らずに、罪を犯してしまったのではなく、罪と知って、罪を犯したのです。

繰り返しますが、聖書の言うところの「罪」は、犯罪に限定されません。

神様のお考えに対して外れている事が「罪」であり、神様を愛し、人を愛する、生き方、行動から外れている行為は、全て罪です。

神様のみを神様とせず、神様が嫌われる事を行い、神様が願う事をしない、のは罪です。

マタイの福音書522節に「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と記されている通りです。

言葉に出さずとも、心の中で思うだけでも罪であり、無視し、差別するのも、助けの手を差し伸べないのも罪です。

信仰から出ていない行為も、全て罪です。

同じ行為でも、信仰から出ていなければ罪であり、如何にも信仰深そうに振舞っても、信仰から出ていなければ、それは罪です。

そして、一度でも、これらを行った者は「有罪」なのであり、過去の功績、実績、将来の有用性、反省の度合い、或いは、除名嘆願、誰かの口利きで赦される事は、決してありません。

しかし、パロが献酌官長を憐れみ、恵を与え、赦したように、パロの宮廷に召し入れられたように、神様は、私たち罪人を憐れみ、恵を与え、赦してくださり、神の宮廷、神の都、神の国に招き入れてくださるのです。

神様の一方的な憐れみ、恵で赦してくださり、神の国に入れてくださるのです。

私たちの何の功績も、親の功績も、子孫の行う功績も、神様の赦しの理由ではありません。

神様は、唯々、罪人を憐れんで、恵を与え、赦して下さるのです。

しかし、神様は、人間が受けるべき刑罰を、有耶無耶にはなさいません。

「義」である神様は、刑罰を厳格に執行しなければならず、その、神様の義の、目に見える形が、イエス様の十字架であり、イエス様の受けられた苦しみ、辱めによって、私たちの罪が贖われたのであり、刑罰を受けなくて済んだのです。

神様の「義」は、正しい者を正しく扱い、罪人に刑罰を与える事です。

神様の「義」は、人間に与えるべき刑罰を、ご自身が受ける事で「義」を全うしつつ、私たち罪人を、愛し、赦し、義人と見做し、神の国に招き入れてくださるのです。

この神様の憐れみ、恵みを感謝しつつ、神様にお仕えしようではありませんか。

2017/12メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

聖書個所:創世記409節~15節               2017-12-10礼拝

説教題:「夢の解き明かし・・・その2

【導入】

父ヤコブから、格別な寵愛を受けたヨセフですが、ヤコブが、ヨセフの見た夢を聞いた時には、流石にヨセフに甘いヤコブもヨセフを叱り、咎めました。

兄たちはヨセフに対する妬(ねた)みを増大させましたが、ヤコブは、その夢を心に留めておき、無下にはしませんでした。

世の中には、不思議な事が起こり、理解出来ない事が起こりますが、不思議な事だから、理解出来ない事だからと云って、無視するのも、気にしないのも、直ぐに忘れてしまうのも、正しい対応とは言えません。

勿論、気にし過ぎ、悩み込み、それが高じて病んでしまったりするのは行き過ぎですが、心に留めて置く程度は、必要な事なのではないでしょうか。

取捨選択が必要、重要なのであり、心に留め置くべき事と、忘れるべき事との区別が大切です。

人其々ですが、心には容量があり、限界があります。容量を超えれば、溢れてしまい、それがきっかけとなって、病んでしまう事も多いのです。これには、自身の考え方の癖、気持ちの切り替え方の上手下手がありますが、相手に精神的負担を与えるような言動は、慎まなければなりません。

親切心、良かれと思って言わせて頂きますは、大きなお世話、って事がなきにしもあらず、です。意見する立場にあるか、否かを、考えないとならないのです。

俗に、「鬱病」の人に、「頑張って」は禁句とされています。これも、状況によりけりでしょうが、励ましさえも、時に負担になる事がある、意見するのは一人でも、聴く人も一人であり、何人もから聞くのであり、大きな負担になる事を弁えておかなければなりません。

意見するならば、状況、タイミングを図らなければならず、意見しない事も、選択肢の一つである事を、弁えなければならないのです。

ヤコブは、夢の事で、ヨセフを叱りましたが、夢について語る事や、夢に関心を持つ禁じた訳ではありません。もしも、ヤコブがヨセフに、夢について語る事や、夢に関心を持つ事を、固く厳しく禁じていたならば、監獄での出来事に対するヨセフの対応は違っており、ヨセフの進退も、イスラエル民族の将来も、大きく違った事でしょう。

【本論】

40:9 それで献酌官長はヨセフに自分の夢を話して言った。「夢の中で、見ると、私の前に一本のぶどうの木があった。

ヨセフの促しに、最初に応じたのは献酌官長でした。

献酌官長が話し始めたのは、自身が見た夢に不吉な要素を感じなかったからであり、藁にも縋りたい気持ち、このモヤモヤを晴らしたい気持ちが、背中を押したからでしょう。

40:10 そのぶどうの木には三本のつるがあった。それが芽を出すと、すぐ花が咲き、ぶどうのふさが熟して、ぶどうになった。

40:11 私の手にはパロの杯があったから、私はそのぶどうを摘んで、それをパロの杯の中にしぼって入れ、その杯をパロの手にささげた。」

献酌官長の語る夢は、非常に現実的で、詳細な描写です。

曖昧な部分が一切ないのであり、これは非常に重要な事です。

何故ならば、曖昧な情報では、曖昧な回答しか与えられないからです。

正確な情報があってこそ、正しい判断につながり、正しい選択と、正しい決断に繋がります。

10節、11節は、「3」が重要なポイントになっています。

三本のつる」が一番目、二番目が「芽を出す」「花が咲き」「ふさが熟し」と云う一連の流れであり、三番目は「パロ」が3回登場する事です。

四番目は「」が3回語られた事であり、五番目は「摘んで」「しぼって入れ」「ささげた」と云う一連の流れです。

40:12 ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。

一番目の「三本のつる」については12節で解き明かされている通り「三日のことです」。

三日と言えば、旧約聖書では、アブラハムの、イサクを献げるモリヤの山までの旅が三日であり、ヤコブとラバンの確執からの脱出、追跡には、三日がポイントになっており、ヨナが三日三晩、魚の腹の中に置かれたのであり、旧約聖書では82回、「三日」について触れられています。

新約聖書では35回、「三日」について触れられており、七つのパンで四千人の腹を満たしたのは三日目の事であり、ラザロは墓に入れられて三日経ってから、甦らされた事が記されており、イエス様の復活が、最大のポイントでしょう。

然様に「三日」は、聖書では意味が秘められた日数なのであり、重要なのです。

二番目の「芽を出す」「花が咲き」「ふさが熟し」と云う一連の流れについて解説いたしましょう。献酌官長は「発芽、開花、結実」を見守っていたのであり、献酌官長の務めを、象徴的に描いている、と云う事であり、献酌官長は、単に、最高級の葡萄を仕入れて来て、パロに献げる役職ではないのです。

献酌官長は、葡萄の育成の、全ての段階を見守っている、責任を持っている、葡萄酒の仕込み、熟成の全ての段階、品質管理を含む、全てに責任を負っている、と云う事です。

勿論、葡萄作りに従事する、の意味ではなく、管理、監督責任があると云う事であり、葡萄作りの人々に任せておけば良い訳ではないのです。

当然、他の事に関わっている暇も、時間も、余裕もない筈です。

自分に与えられた仕事、責任に、全身全霊で取り組むのであり、研究し、工夫し、試行錯誤を繰り返し、品質向上に努めるのです。

仕事として、割り切って取り組むのではなく、生きがい、自分はこのために存在しているのだ、位の熱意を持ち、24時間、365日、葡萄の育成に関心を持ち、情熱を注ぎ込むのです。勿論、休むな、寝るな、を奨励しているのではありません。

人間は、六日間働いて、七日目は休まなければなりません。休んで、疲れを払拭し、美味しいものを食べて、健康を保ち、レジャーを楽しみ、趣味でストレスを発散し、英気を養い、また働くのです。

芽を出す」「花が咲き」「ふさが熟し」と云う一連の流れは、献酌官長に、取り組むべき職務を明確に示しており、見えない働き、地味な働き、影の働き、評価されにくい働きを大切にし、否、見えない働き、地味な働き、影の働き、評価されにくい働きにこそ、注力し、情熱を注ぎ、手を抜きやすい働きをこそ、忠実に、誠実に取り組まなければならない事を教えるのであり、余所見をしたり、責任範囲以外に首を突っ込んだり、関心を持ったりする事に、警告を与え、自粛する事を教えているのです。

そして、明確に復職を示しているのです。

三番目は「パロ」が3回登場する事であり、「王」と云う一般的な名詞ではなく、「パロ」と云う、特定の地位を明確に指し示す名詞を使っている事です。

他の誰に仕えるのでもなく、王の王、主の主、当時、世界最大、最強の王国、エジプト王パロに仕える事を、その確実性を示しているのです。

同じ仕事であっても、誰に仕えるかは重要です。当時も、数多の王様が、其々の地域を支配していた事でしょう。エジプト王でなくても、近隣の、エジプト王に匹敵する王様の下で働けばいいや、ではないのです。上位の王国なら、どの国も、待遇、処遇に、大きな違いはなく、どこも遜色ないかも知れませんが、モチベーションが大きく違います。

パロ」に仕えるために生きるのであり、「パロ」のために、死をも避けない、厭わないのです。それが、真の僕の生き方であり、生甲斐なのではないでしょうか。

四番目は「」が3回語られた事であり、献酌官長の直接の職務、目に見える職務です。

間接的には、葡萄の栽培に関する、監督、管理も職務の一環ですが、本職は「献酌」です。

献酌のために研鑽を怠ってはならず、「」を粗雑に扱ってはならないのです。

献酌官長の働きは「」に凝縮されています。

経過も重要ですが、結果が最重要です。丹精込めて作った葡萄を、葡萄酒を、薄汚れた「」に注ぐのは、葡萄作りへの、最大の侮辱ではないでしょうか。

そして、同時に「パロ」への最大の侮辱、軽蔑であり、蔑みの極みではないでしょうか。

最高の葡萄は、最高品質の「」、綺麗に洗われ、磨きあげられた、傷や曇りの一切無い「」が相応しいのではないでしょうか。

五番目は「摘んで」「しぼって入れ」「ささげた」と云う一連の流れです。

この動作は、全て「手」の働きです。「手」は、献酌官長の、清廉さ、潔白さを現しているのであり、薄汚れた手ではない事を、謀反や、不義がない事を象徴しています。

行動に、嘘、偽り、作為があてはならず、常に、聖い手で、お仕えしなければならないのです。

そして、これらは、「パロ」に仕える確実性を、色々な角度から表現しているのであり、赦され、復職するのは、疑いようがない、と断言できるのです。

40:13 三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたは、パロの献酌官であったときの以前の規定に従って、パロの杯をその手にささげましょう。

呼び出し」は、普通の意味の「呼び出し」ではなく、判決を言い渡すための、出頭命令でもありません。

呼び出し」の直訳は「頭をあげさせる」であり、身分を剥奪され、地位から落とされ、投獄され、怯え、項垂(うなだ)れている者を、呼び戻し、引き上げ、頭を上げさせる事であり、身分、地位の回復を意味する言葉です。

更に、「もとの地位に戻す」、「以前の規定に従って」と、身分の回復を明言、断言しているのです。即ち、完全復帰が宣言されたのです。

13節でも「パロ」が3回繰り返され、「あなた」が3回繰り返されます。

もとの地位」「以前の規定」「ささげましょう」の一連の言葉も、暗示的です。

献酌官長は、冤罪でも、誤解でもなく、有罪であったのに、「パロ」の一方的な憐れみによって、罪を赦された、のみならず、身分の、地位の、働きの完全復帰が許されたのです。

有能な献酌官長であっても、失敗はあり、良かれと思って、パロの意に副わない行動を取ってしまいますが、そのような罪を、「パロ」の一方的な憐れみによって、罪を赦された、のみならず、身分の、地位の、働きの完全復帰が許されたのです。

献酌官長は、以前にも倍して、「パロ」のために働くのではないでしょうか。「パロ」に罪赦されたものは、「パロ」に仕える事を喜びとし、生きがいとし、目的とするのです。

40:14 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。

ヨセフは、条件付で夢の解き明かしをした訳ではありません。

ヨセフに与えられた賜物、能力は、発揮するために与えられているのであり、活用させる事を優先すべきです。

その上で、相応の報酬なり、見返りを要求すべきであり、この順番は重要です。

条件を出して、その条件を受け入れてくれるなら、夢を解き明かしましょう、ではないのです。

そして、働きに相応しくない、過小な報酬は、或いは、支払うべき報酬を遅らせる事、忘れる事は、論外です。働かせた者は、働いた者に、働きに相応しい報酬を支払わなければならず、必要としているか否かは関係ないのです。

働かせた者は、色々な理由を付けて支払いを遅らせ、言い訳をしますが、そのような事をしていたら、働き人を通して注がれた祝福が、取り上げられてしまう事は確実です。或いは、不毛の状態に陥ってしまう事は、疑いようもないでしょう。

祝福を取り上げられる損失は、計り知れない程に大きいのですが、見えないだけに、また、直ぐには現れて来ないだけに、疎かにしてしまい易いですから、そんな事にならないよう、よくよく注意しなければなりません。

人は、忘れっぽい者です。決して恩知らずな人ではなくても、嬉し過ぎたり、悲し過ぎたり、の時には、大切な約束や、すべき事を忘れてしまうものです。

しかし、すべき事はしなければならず、忘れてはならないのです。

40:15 実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」

さらわれて来た」と訳されているヘブル語は「盗まれた」の意味の言葉です。

しかも、重複しているのですが、一度しか、訳し出していません。

この部分を直訳するなら、「実は私は、ヘブル人の国から、盗まれて来た、盗まれて来たのです」です。

ヨセフの兄弟たちが、ヨセフを売り飛ばしたのですが、ヤコブの目から見たならば、不意にいなくなったのであり、盗まれた感覚なのであり、ヨセフは、父親の感情を共有、共感して語っているのではないでしょうか。

また、この表現に、ヨセフの成長を見る事が出来るでしょう。兄弟に売り飛ばされた事を、そのまま他国人に語る程、世間知らずではなくなっていたのです。

事実を話しても、同情や共感を得られるとは限りません。

兄弟に売り飛ばされるような何かを仕出かした、とんでもない人物、助けてもらったけれども、関わらない方が良い、と考えるかも知れません。

今後の展開において、兄弟たちとの再会の場面において、ヨセフの兄弟たちに対する感情は、決して好ましいものとはならないでしょう。

ヨセフ大臣を、売り飛ばした、酷い兄弟たち、との評価が付き纏いますし、ヨセフと兄弟の関係を、面白可笑しく、吹聴されるのではないでしょうか。

事実を述べるのは、正しい事ですが、相手の名誉や、今後を考え、別の言い回しをする知恵は必要でしょう。

【適応】

今日のポイントは、1011節の「3」に関わるエピソードであり、特に、二番目以後のありようです。

二番目の「3」で「芽を出す」「花が咲き」「ふさが熟し」と云う一連の流れについて解説いたしましたが、献酌官長の働きは、最高級の葡萄を仕入れて来て、パロに献げるのではない、献酌官長は、葡萄の育成の、全ての段階を見守っている、責任を持っている、葡萄酒の仕込み、熟成の全ての段階、品質管理を含む、全てに責任を負っている、と申し上げました。

私たちも、それぞれ与えられた働きの、全体に配慮し、関心を持ち、関係するところにも、気を配らなければならないのです。

自分に与えられた仕事、責任に、全身全霊で取り組むのであり、研究し、工夫し、試行錯誤を繰り返し、自己研鑽に努めるのです。

仕事として、割り切って取り組むのではなく、生きがい、自分はこのために存在しているのだ、との熱意を持ち、24時間、365日、取り組んでいる働きに関心を持ち、関連する情報を仕入れ、広い知識、見識を得る事にも、情熱を注ぎ込むのです。

葡萄作りは、畑の事にも、肥料の事にも、天候にも知識がなくてはなりません。

経済状況にも、政治状況にも、アンテナを張っていなければなりません。

世間の動向に疎くては、肥料の高騰、政治的混乱などに対処できません。

役に立たないような事でも、回りまわって役に立つ事もあるのであり、経験も、知識も、無駄になる事はありません。

教会奉仕も、会社勤めも、神様に献げる働きであり、誠心誠意、働かなければなりません。

見えない働き、地味な働き、影の働き、評価されにくい働きを大切にし、否、見えない働き、地味な働き、影の働き、評価されにくい働きにこそ、注力し、情熱を注ぎ、手を抜きやすい働きをこそ、忠実に、誠実に取り組まなければならないのです。

三番目に「パロ」が3回登場しましたが、私たちは、他の誰に仕えるのでもなく、王の王、主の主、イエス様に仕える事を意識した生き方、働き方、奉仕をしなければなりません。

現代は、価値観が多様化しています。

それぞれの価値観を認め、多様性を認めつつも、イエス様に仕えるために生きるのであり、イエス様のために、死をも避けない、厭わないのです。

それが、真の信仰者の生き方であり、生甲斐なのではないでしょうか。

四番目に「」が3回語られましたが、イエス様の犠牲によって贖われ、イエス様のものとなった私たちには、聖霊が注がれており、私たちは、聖霊をお入れする「」と云えるでしょう。

ですから、聖霊を受けるに相応しい「」となっているかを、常に吟味しなければなりません。

神であられる聖霊を、薄汚れた「」に注ぐのは、聖霊への、最大の侮辱ではないでしょうか。

そして、同時に、聖霊を注いで下さる、神様、イエス様への最大の侮辱、軽蔑であり、蔑みの極みではないでしょうか。

私たちは、綺麗に洗われ、磨きあげられ、傷や曇りの一切無い「」となっているかを、点検し、もしも、相応しくない部分があるならば、イエス様に祈り、整えていただかなくてはなりません。

五番目の「摘んで」「しぼって入れ」「ささげた」と云う一連の流れ、この動作は、全て「手」の働きだと、申し上げました。

少し、付け加えるなら、「私の手」の働きであり、私の手でお仕えするのです。

他人を当てにした働きは、責任の所在が曖昧になります。

協力して働く場面でも、一人ひとりが責任者であり、その自覚を持たなければなりません。

信仰による自発が重要であり、たった一人でも、やらなければなりませんが、与えられた能力、賜物、時間、環境の中で、が重要です。

大変だから、と応援を頼むのも、一つの方法ですが、規模を縮小するなり、範囲を限定するなり、方法を変えるなりする知恵と勇気が必要です。

教会でも、人が中心になってしまって、或いは、伝統を尊重し過ぎる傾向があり、始めた事をとめられない、やめられない、と云う事が多々あります。

もう何年もやっているんだから、今更止められない。

先生が言い出した事を止められない、云々。

いつの間にか、神様のためではなく、自分たちの面子とか、プライドが足枷になっている事があるのです。

強いられている部分があるので、喜びがなくなっているのに、それにも気が付かないで、頑張っている。

頑張り自体は、悪い事ではありませんが、喜びが無ければ、無意味であり、信仰から出ていないならば、それは罪です。

そんな奉仕や働きを、神様は喜ばれません。

献酌官長の見た夢は、1011節は、私たちの奉仕や働きに対する、警鐘ではないでしょうか。

2017/12メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

 聖書個所:創世記401節~8節               2017-12-3礼拝

説教題:「夢の解き明かし・・・その1

【導入】

父ヤコブから、格別な寵愛を受けたヨセフですが、兄たちの妬みと憎しみを買い、ヨセフの見た夢が、兄たちの憎しみを煽り、兄たちに殺される事になってしまいます。

しかし、殺される寸前に、神様によって守られ、命を失う事はありませんでしたが、遠い異国、エジプトに奴隷として売られてしまいました。

しかし、神様の導きによって、ヨセフは、エジプトの高官、ポティファルに買われ、神様がヨセフのする事の全てを成功させ、ポティファルの持ち物の全てを祝福してくださったので、ヨセフはポティファルの家の、全てを任されるまでの信頼を得ました。

しかし、ヨセフは、ポティファルの妻に言い寄られ、濡れ衣を着せられ、監獄に入れられてしまいました。

冤罪ですから、無実を訴える事に必死になり、一言の弁明のチャンスさえも与えてくれないポティファルに対して、濡れ衣を着せたポティファルの妻に対して、憎み、不貞腐れ、自暴自棄になってしまっても、身の不運を嘆き続けるような生き方になってしまっても、仕方がないような状況です。

しかし、ヨセフは、置かれた所、何処ででも、誠実な生き方、前向きな生き方、にこやかな生き方を貫き通すのです。

そこには、アブラハム、イサク、ヤコブと続く、神様への信頼があったからです。

監獄と、収容されている人々のイメージは、劣悪な環境であり、荒くれ男の巣窟であり、秩序もなく、殺伐とした雰囲気を想像するでしょう。

監獄なのですから、何処も、似たり寄ったりの環境、状況であった事でしょうが、何処でも、誠実に、前向きに、にこやかに生きるヨセフであり、神様がヨセフのする事の全てを成功させ、監獄の全てを祝福してくださったので、ヨセフは監獄の全てを任されるまでになりました。

ヨセフがエジプトに売られたのは、ヨセフ17歳の時です。

そして、凡そ10年が過ぎた頃、冤罪事件が起こり、ヨセフは投獄の憂き目に会うのです。

ポティファルの家で過ごした10年の生活は、決して無駄な事ではなく、ポティファルの人脈、即ち、エジプト王の側近、高官、官僚と懇意になる環境であり、

ポティファルの家に併設されている監獄での生活も、決して無駄な事ではなく、ポティファルの人脈以外の、エジプト王の側近、高官、官僚との人脈を構築する期間となったのであり、エジプトの宰相になる時の、備えであったのです。

ヨセフは、自身の見た夢を話す事によって、憎しみを買い、奴隷として売られる事になり、監獄生活にまで落とされますが、今度は、他人の見た夢との関わりによって、新しい展開が始まります。

【本論】

40:1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官とが、その主君、エジプト王に罪を犯した。

ヨセフは監獄でも、誠実な生き方、前向きな生き方、にこやかな生き方を貫き通し、信用を得、信頼され、監獄の一切を任されるようになる時に合わせて、「献酌官と調理官」が「エジプト王に罪を犯し」ます。

献酌官」と「調理官」ですが、新共同訳聖書、口語訳聖書共に「給仕役」「料理役」と訳しています。

しかし、言葉の意味は、地域、時代、文化によって大きな違いを持ちます。

紀元前21世紀の、ラメセスⅢ世の時代の文献によれば、「献酌官」は「裁判官」の役割を果たした事が記されており、「献酌官」は、エジプト王パロの、単なる給仕役などではなく、エジプト王パロの相談役の一人、重要な側近の一人であったのです。

ネヘミヤ記111節によれば、ネヘミヤは、ペルシャのアルタシャスタ王に仕える献酌官であり、王と直接、言葉を交わす様子が記録され、ネヘミヤの願いを聞き入れている事からも、単なる給仕役などではなく、相談役、ブレーンとして王に仕えていたのであり、1節に登場する「献酌官」も、エジプト王パロの側近、相談役、ブレーンの一人と考えられます。

そして「献酌官と調理官」は「罪を犯し」たので、投獄される事になります。

罪を犯し」を、新共同訳聖書は「過ちを犯し」と訳しています。

40:2 それでパロは、この献酌官長と調理官長のふたりの廷臣を怒り、

40:3 彼らを侍従長の家に拘留した。すなわちヨセフが監禁されている同じ監獄に入れた。

罪の具体的内容、どのような過ちを犯したのかは記されていませんが、エジプト王パロの気まぐれで投獄されたのではない事が明白です。

献酌官と調理官」は、ヨセフと出会うために、冤罪で投獄されたのではありません。

投獄されるような過ちを行った、と云う事実は重要です。

神様は常に正義を行うお方であり、ヨセフを救い出し、用いるために、無実の人を冤罪で苦しめ、投獄し、汚名を着せる事はありません。

罪人をも、用いられるのであり、用いるために、罪を犯させると云う事はありません。

人は、自身の欲望から罪を犯すのであり、神様がそそのかしたり、仕向ける事もありません。

40:4 侍従長はヨセフを彼らの付き人にしたので、彼はその世話をした。こうして彼らは、しばらく拘留されていた。

1節や5節では「献酌官と調理官」と訳され、2節では「献酌官長と調理官長」と訳されていますが、それぞれ同一人物を指しており、別人ではありません。

献酌官長と調理官長」は投獄される事になりますが、奇しくも、否、神様の導きで、ヨセフの入れられている、ポティファルの家の監獄に入れられる事になります。

先に、「献酌官」は「裁判官」の役割を果たした事例があると申し上げましたが、侍従長ポティファルは、エジプト宮廷内で司法の責任を与えられていたようであり、エジプト王パロに対して罪を犯した者を拘束し、監視する役割も与えられており、「献酌官長と調理官長」を引き受け、監禁する事になります。

そして「献酌官長と調理官長」に付き人、世話係りを用意した事から、「献酌官長と調理官長」が投獄されても、付き人が付けられる程の高級官僚であった事が明らかになります。

そして、ポティファルは、ヨセフを「献酌官長と調理官長」の付き人、世話係りにするのですが、

献酌官長と調理官長」が非常な重要人物であり、粗相があってはならない重要人物であるからこそ、信頼の置けるヨセフを付き人にしたのです。

ここにも、神様のご計画があり、ヨセフの裏表のない、誠実な生き方、前向きな生き方、にこやかな生き方を貫いたからこそでしょう。

下級官僚であるならば、何事であっても、エジプト王パロから相談される事も、上奏するチャンスも少ないのでは、否、ないと言い切っても過言ではないでしょう。

しかし、高級官僚であるならば、エジプト王パロから相談される事も、上奏するチャンスも多いのではないでしょうか。

事実、後日の、エジプト王パロの見た夢の、解き明かしの際の人選では、「献酌官長」がヨセフを推薦、上奏し、採用され、ヨセフは宮廷に召し出されるのですが、その布石と云うべき、高級官僚の投獄なのです。

40:5 さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。

40:6 朝、ヨセフが彼らのところに行って、よく見ると、彼らはいらいらしていた。

古今東西を問わず、夢に価値を認め、夢を予言的に捉えるようであり、エジプトでも、夢の研究は盛んであり、夢の解釈の専門家が多く存在し、多くの書物が記されたようです。

その一部がパピルスに記され、現代に残っています。

一例を挙げると、「大きな猫」は「吉」であり、「深い井戸を見下ろす」は「凶」だそうです。

聖書でも、夢が扱われ、大きな役割を果たしますが、聖書、全体から見れば、その役割は限定的であり、非常に小さく、夢の解釈が扱われているのは、ここと、ダニエル書のみです。

しかも、異邦の地、エジプトと、メソポタミヤに於いてであり、異邦人に対して、解き明かしをしたのであり、夢と、その解釈は、限定された事である、と弁えなければなりません。

現代でも、夢占い、星占い、干支占いなど、様々な占いが盛んですが、吉凶、進退などを、夢や占いに頼るのは厳禁です。

そんなものに、予言的意味も、将来を変える如何なる力もありません。

しかし、古代は、神仏、夢や占いに、吉凶や将来を託していたのであり、王の怒りを買ってしまい、監獄に入れられ、どのような処分が下されるか解らない状況において、何年もの懲役や、場合によっては死刑もあり得るのであり、決定が下されるまで不安な日々をすごさなければならないのですから、不安になるのは当然でしょう。

夢を啓示的に受け止める人にとっては、不思議な夢を見た事、その夢を解き明かす事の出来ない環境下に置かれていては、「いらいら」するのは当然でしょう。

新共同訳聖書は「ふさぎ込んでいた」と訳し、口語訳聖書は「悲しみに沈んでいた」と訳していますが、「献酌官と調理官」二人の、不安に陥り、余裕を失った状態、姿が記されているのです。

40:7 それで彼は、自分の主人の家にいっしょに拘留されているこのパロの廷臣たちに尋ねて、「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」と言った。

ヨセフの有能性は、ここでも遺憾なく発揮されています。

ヨセフは、周囲への気配り、配慮、状況把握能力が秀でていたのであり、物事に対して広く関心を持ち、素早く反応、対応するのです。

単に、投獄や扱いに対する不満のイライラと、精神的な原因からの、深いところから湧き上がる不安からのイライラを、ヨセフは区別し、認識し、適切な対応を取るのです。

ヨセフにとっては、赤の他人の事であり、放置して何の問題もなく、責任も生じないでしょうが、ヨセフの誠実な人柄が現れたのであり、黙って見過ごせず、尋ねるに至らせるのです。

ヨセフの、興味本位からではない、何にでも首を突っ込む野次馬根性でない呼びかけに、「献酌官と調理官」は頼る者のいない監獄で、光明を得たのであり、藁にも縋る思いで、「いらいら」の原因を吐露します。

40:8 ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

献酌官と調理官」の言葉は、ヨセフに夢の解き明かしを期待しての言葉ではありません。

ヨセフの有能性を認めていても、夢を解き明かせるとは、夢にも思っていなかったのではないでしょうか。

しかし、「夢の解き明かし」は人間の仕事ではありません。

未来は神様の手の内にあり、人は占いや夢によって未来を知る事は出来ません。

もしも、意味のある夢を見させる事があるのならば、夢によって何かを知らせる事があるのならば、人間を造られた神様に、夢を見させる神様に聞くべきではないでしょうか。

ヨセフの宣言は、アブラハム、イサク、ヤコブにご自身を現し、契約を結ばれた、天地万物の創造者、唯一の神を意識しており、夢の解き明かしは、人の業ではない事を、人が扱うべきではない事をはっきり宣言します。

しかし、「献酌官と調理官」にとっては、ヨセフの言うところの「神」と、エジプトの神々とに大きな違いはなく、夢を解き明かす神様がいる、程度の意味でしか受け止められなかったでしょう。

エジプト人にとって、夢の解き明かしは、夢占い師に聞くべき事柄なのです。

それでも、否、だからこそ、「夢を解き明かすことは、神のなさることではありませんか」との宣言には、大きな意味があるのです。

理解しなくても、誤解しても、後日、明らかにされるからです。

後日、「献酌官と調理官」の二人は、今まで経験した事のない、完璧な夢の解き明かしを、体験するのです。

【適応】

人は未来を知ろうとして、占いをし、家内安全、病気治癒、商売繁盛、五穀豊穰、学業成就などなどのために占いをし、加持祈祷をしますが、そんなものに全く意味はありません。

有名な学者が、或いは専門家を名乗る人々が、統計を取り、分析をし、傾向を調べ、それを科学的な裏づけ、根拠として、予測、予想をしますが、予想、予測であって、確実なもの、未来を見た訳ではありません。

予測、予想がぴったり当て嵌まる事は、非常に希な事であり、一部は当っているが、評価としては甘く見て5060%程度、即ち五分五分、当たるも八卦、当たらぬも八卦、即ち、占いには、何の信頼性もないのです。

病気治癒、問題解決のために、壺を買っても、お百度参りをしても、護摩行をしても、全く意味はありません。

いい加減な生活を送り、過ちを犯し、投獄されて、夢で吉凶を占うのではなく、祈りで解決を図り、事態の好転を願うのではなく、思い込みによる判断、独り善がりな行動、組織を軽視した行動、手続きを無視した行動、いい加減な生活、不摂生な生活、怠惰な生活、無理し過ぎ、働き過ぎ、過剰な願望、身の丈に合わない生き方を改めるべきです。

神様から与えられた能力、環境、状況を感謝して受け止める事が大切であり、神様から与えられた能力、環境、状況の中で最善を尽くし、生きれば良いのです。

そして、神様から離れた生き方、神様に対しての的外れな生き方でないか否かを吟味し、もしも、思い当たるなら、直ぐに悔い改めるべきです。

神様の正義と善、即ち、愛を信じて、何処でも、何時でも、神様に対して忠実な生き方、人に対して誠実な生き方を心がけ、失敗を誤魔化さず、隠さず、罪の告白と悔い改めをし、報告、連絡、相談を怠らず、人の益のために生きるべきなのです。

健康で長生き、順風満帆が人に与えられた目的なのではなく、神様と共に歩む、生きる事が、人に与えられた目的だからです。

病気がちで、短命でも、苦労の連続で、平穏な日々が少なくても、誤解や冤罪を晴らせなくても、神様と共に生きたなら、それは最高の生き方であり、祝福でしょう。

夢の解き明かしは神様のなさること」との告白は、分を弁えた考え方、生き方であり、ヨセフの考え方、生き方です。

神様のなさること」、即ち、神様の領域にまで踏み込んではならないのであり、神様のなさる事をする必要はありません。

神様のようになる必要もなく、即ち、アダムのように、善悪の知識を手に入れる必要はないのです。

善悪の判断は、神様の範疇であり、神様にお聴きするのが、正しい判断です。

夢、或いは、何かの啓示が与えられたなら、この世の賢者、知者と呼ばれる人々に聞くのではなく、それぞれが、自分の目に正しいと思う行動を取るのでもなく、神様、即ち、聖書に聴き、従わなければなりません。

毎日聖書を読み、祈り、神様と親しく交わる時間を持っているなら、神様の喜ばれる判断、決断が出来るでしょう。

ここにおられる皆様が、多様化した社会、複雑に絡み、影響し合っている社会、判断の難しい問題が山積する社会の中にあっても、神様のお考え、教えを基準として判断、行動され、罪の世に、神様を無視する社会に、神様の存在を示し、神様の御栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

2017/12メッセージに戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る