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聖書個所:創世記31章43節~55節 2017-4-30礼拝
説教題:「ヤコブとラバンの和解、不可侵条約締結」
【導入】
私たちの信仰の如何に関わらず、困難が起こり、悲しみが襲いかかり、苦しみがやって来ます。信仰熱心な人には、困難や、悲しみ、苦しみがない訳ではありません。
逆に、信仰熱心な人には、困難や、悲しみ、苦しみが多いのかも知れません。
祈っても祈っても、応えはなく、時に、神様の存在を疑い、神様に、何故、どうして、と叫びたくなる時がありますが、神様は、沈黙されているだけで、無視している訳でも、関心がない訳でもありません。神様は、非常な関心を持っておられ、見えないところで日夜を問わず働いておられ、遥か先を見通して、最善をなされるのです。
私たち人間は有限であり、無限の神様の、遠大なご計画に気が付かないだけなのです。
ですから、目先の損得に翻弄されて、大切な物を失うような事がないように、よくよく注意しなければなりません。
特に、神様から多くの賜物を与えられた人は、有能な人は、注意しなければなりません。
神様に頼り、委ねるより、自分の知恵と力で何とかしようとしてしまい易いからです。
そして能力が与えられているために、それが出来るから、厄介なのです。
出来るけれども、やらないのは、やりなさい、との指示が出るまで待つのは、簡単なようで、簡単ではありません。多くの人が、待てないで、失敗してしまうのです。許可を受けないでやってしまい、決められた通りにしないために、失敗してしまうのです。
神様に選ばれたアブラハムですが、約束の子を与えられるのが待てなくて、奴隷女に子を産ませますが、余計な問題を生んでしまいました。
神様の約束を知っていたヤコブですが、兄エサウに祝福が与えられそうな情況に危機を覚え、父イサクを騙し、祝福を強引に手に入れましたが、兄エサウの憎しみも、手に入れる事になってしまい、伯父ラバンに騙され、何度も苦渋を舐める事になってしまいました。
しかし、人間の不信仰に関わらず、神様はご計画を進められるのであり、時に、直接ご介入され、問題を解決に導いてくださるのです。
しかし、人間は愚かであり、神様の守りや導きに気が付きません。
教えられて、やっと、しかも朧げに知る事しか出来ないのです。
神様は、ヤコブを追い駆けるラバンに現れ、事を荒立てないように釘を刺します。
それを聞かされたヤコブですが、ラバンに対する鬱積した不満をぶち撒けずにはおられません。
徹底的な捜索にも関わらず、ラバン一家にとって大切な、守護神テラフィムは見つかりません。テラフィムを失ったショックで、弱気にならざるを得ないラバンであり、ラバンの反論を許さない、ヤコブの猛烈な抗議に接して、険悪な雰囲気が漂う中で、分の悪いラバンが折れる事で、状況が好転に向かい始めます。ラバンは弱々しく、愚痴を洩らします。
【本論】
31:43 ラバンは答えてヤコブに言った。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。
執拗な捜索にもかかわらず、結局何も見つかりません。
ばつの悪い状況であり、ラバンは虚勢を張り、ヤコブの抗議を無視する形で、意にも介しない素振りで、話題を変えますが、「すべてあなたが見るものは私のもの」・・・これがラバンの本音です。
ラバンがヤコブと約束した報酬である羊や山羊は勿論の事、娘も子どもをも、ラバンは一人たりとも、一匹たりともヤコブに渡す気持ちがなかった事が判明いたします。
しかし、ヤコブ、イサク、アブラハムの信ずる神様が、ラバンに現れ、ラバンに釘を刺したので、ラバンは、神様に服従せざるを得ず、手出しをする事が出来ないと、呻くように呟くのです。
31:44 さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」
このラバンの提案の背後に、ヤコブの神様の存在と、導きを見ない訳にはまいりません。
提案自体は、人間対人間の契約ですが、両者が共通認識する神様の前での、契約である事は重要です。
ラバンは、夢で、本物の、生ける神様の存在を確信したのです。ラバンは、49節で「【主】が私とあなたとの間の見張りをされるように」と告白しています。
契約を保障するのは、人間的信頼や、社会的信用ではありません。
こんなものは移ろい、変わります。
契約を保証するのは、絶対的存在、不変の存在、永遠の存在、である神様だけであり、この神様を仲介して契約を結ぶのであり、両者が、この認識を持つ事が重要なのです。
一見、人間対人間の契約のように見えますが、両者が神様と契約を結ぶのであり、この契約が、絶対的であり、不変であり、永続的である事を保障するのです。
そして、契約の破棄は、神様との契約の破棄であると、認識しなければなりません。
このラバンの提案は、ヤコブにとっても好都合な提案でした。
ラバンとの確執、憎しみを残したままの別れでは、何時までも、不愉快、極まりない記憶として残るのではないでしょうか。
逃亡者、との汚名を着たまま生きなければならず、傷を負ったまま生きなければならないのです。多少の問題や不満があったとしても、一応の和解の上で、父イサクの許に帰る事の益は、計り知れません。これは、実践教育、実物教育です。
難しい人間関係にあっては、恐れを抱き易く、策略を巡らせ易く、忖度をし易いものであり、口には出さずに、腹の探り合いになりがちですが、公明正大な交渉をする事が、何より大切であり、何よりの解決策なのです。
ヤコブの過激な発言も、吐き出す事に意味があります。
鬱憤は吐き出さないと、膨れ上がり、何時までも燻り続けます。意見があったなら、発言しなければならず、考えがあったなら、発表しなければなりません。その場で、が一番なのです。
後になって、ああだった、こうだった、と言っても何の解決にもつながりません。もし、言わなかったなら、意見を捨てたのであり、蒸し返すべきではありません。根に持ってはならず、終わりにしなければ、次につながりません。燻り続けるところに、発展、前進はありません。
そして、契約が不変、永続的である事の印が、両者が確認出来る印が必要であり、ヤコブは、ベテルで神様に石の柱を立て、礼拝した事を思い出したのでしょう。
31:45 そこで、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。
31:46 ヤコブは自分の一族に言った。「石を集めなさい。」そこで彼らは石を取り、石塚を作った。こうして彼らは石塚のそばで食事をした。
「石の柱」も「石塚」も契約の印であると同時に、境界の印です。
「食事」は契約の印であり、和解の印です。「食事をした」は即ち、契約が交わされた、契約が効力を発した、それを確認した、と言う事なのです。
双方、其々に思惑がありましょうが、合意した以上、相手に対してではなく、神様に対して、誠実に契約を守らなければならず、ラバンはヤコブの状態に関わらず、ヤコブはラバンの状態に関わらず、契約を誠実に履行しなければなりません。
31:47 ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。
31:48 そしてラバンは言った。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。
「エガル・サハドタ」はアラム語であり、「ガルエデ」はヘブル語であり、どちらも「証しの塚、証拠の塚」を意味します。
「ガル」の意味は「石塚」であり、「エデ」の意味は「証拠」なのです。
31:49 またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、【主】が私とあなたとの間の見張りをされるように。
「ミツパ」の意味は「見張り所」ですが、「石の柱」はへブル語で「マッツェバー」であり、「マッツェバー」と「ミツパ」は語呂合わせなのです。
49節、50節のラバンの言葉は、ヤコブに対する不信の現れのようですが、ヤコブに問題があるとしたい気持ちの現れでしょう。
自分を正当化するためには、相手に問題がある、非があるとしなければならず、相手を貶(おとし)める事で、自分の保身を図るのです。
ラバンの人格の低さが露呈する言動であり、場面です。
私たちも、こんな言動に陥らないよう、注意しなければならないでしょう。
31:50 もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」
このラバンの発言は、「親心」と見るべきなのでしょうが、娘に与えるべき財産を、何一つ分け与えないラバンなのですから、何処まで本気なのか、疑ってしまいます。
口は便利な物で、何とでも言えます。口先の言葉ではなく、身を削り、実質を持って、気持ちを現さなければなりません。
上辺を繕う言葉ではなく、娘に、孫に、相応の物を与えるべきなのではないでしょうか。
そして、ラバンの関心が何処にあったのかを匂わせるのが、ラバンの本心の現れているのが、51節以降なのではないでしょうか。
31:51 ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。
31:52 この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。
31:53 どうかアブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。
51節で、ラバンは「私があなたと私との間に立てたこの石の柱を」と言っていますが、「石の柱」はヤコブが立てたものです。
人の手柄、働きを平気で自分の業績とするのがラバンなのです。
自分の都合の良いように理解し、約束を平気で変えてしまうのが、ラバンの性のようです
いつの間にか、話を擦り替えてしまうのが、ラバンの得意技のようですが、ラバンは自分の不誠実を棚に上げて、ヤコブに不可侵の誓いを強要します。
娘の身を案じているかのような素振りを見せながら、実は、ヤコブの報復を恐れ、ヤコブに念を入れて不可侵の誓いを強要するのです。
このラバンとヤコブの不可侵条約は、対等、平等な条件のように見えますが、ラバンに課せられているのは「石塚」だけであり、ヤコブに課せられているのは「石塚」と「石の柱」であり、二重になっています。
ラバンに課せられているのは「敵意をもって」だけであり、ヤコブは理由の如何に関わらず「この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない」のです。
ここにも、ラバンの狡猾さが、見て取れるのではないでしょうか。
ラバンは理由が付くなら、即ち、何かを探すと言う理由をつければ、娘に会いに行くと言う理由をつければ、ヤコブのところに行く事が出来るが、ヤコブはラバンの所へ行く事は出来ないのです。不平等な不可侵条約と言うべきなのではないでしょうか。
しかし、ヤコブはラバンを見限っており、絶縁を覚悟で、出て来たのであり、条件や印の有無に関わらず、ヤコブは二度と、ラバンに会う気はないでしょう。
であるならば「和解」や「石塚」「石の柱」に意味はないのでしょうか。
先に「食事」は「和解」の印だと、申しましたが、「和解」は即ち、関係の修復、関係の維持、とは限りません。
神様の示される「和解」は完全な赦しであり、関係の修復、回復、維持ですが、人間同士では、必ずしも、そう出来ない事が多いのではないでしょうか。
罪を持つ身だからですが、しかし、和解が不必要なのではありません。
少なくとも、お互いを赦し、蟠(わだかま)りを解消する努力はしなければなりません。
赦し、忘れるようにする、そのために、時間と距離をおく、のと、赦せないから会わない、のとでは、雲泥の差なのではないでしょうか。
「石塚」「石の柱」を見た時に、苦い思い出が蘇って来るでしょうが、赦した事、和解した事、不可侵を約束した事を思い出す、再確認するのではないでしょうか。
それが、重要なのです。
教会で行なわれる聖餐式も、神様の赦しは完全であり、約束に変更はありませんが、人間は忘れ易く、疑い易いので、都度、確認しなければならず、罪の大きさを確認し、赦しの大きさを味わうのです。
31:54 そうしてヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事をしてから彼らは山で一夜を明かした。
54節の「食事」は、46節の「食事」と意味合いが違うかも知れません。
46節の「彼ら」は、間違いなくヤコブ一族と、ラバン一族であり、「食事」は「和解」の食事ですが、54節は、ヤコブが、唯一の神様に「いけにえをささげ」てからの食事であり、唯一の神様に対する「感謝」の食事なのです。
では「一族」は誰なのでしょうか。そのヒントは53節にあります。
53節の、ラバンの台詞「どうかアブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──が、われわれの間をさばかれますように」は、複数形の動詞が使われており、多神教的なニュアンスの台詞であり、豊穣の神とか、多産の神などと同一視している事が窺えます。
対して、ヤコブの誓いは、唯一神に対してであり、契約の神を意識していたと思われます。
唯一の神様への感謝は、唯一の神様を信じる者たちだけですべきであり、54節の意味するところの「一族」はヤコブ一族であり、ヤコブ一族だけの、唯一の神様への「感謝」の食事なのです。
勿論、異教徒との交わりや、関係性を否定するものではありませんが、感謝は、即ち、礼拝は、異教徒と献げられる事でしょうか。
日本的宗教観では「あり」かもしれませんが、信じているものが違うのに、礼拝対象が違うのに、価値観も違うのに、一つになり、礼拝を献げられるでしょうか。
信仰の対象は一つであり、礼拝の対象も一つであり、ヤコブは、唯一の神、契約の神を信じる家族と共に、感謝の礼拝を献げ、感謝の食事をしたのです。
31:55 翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。
軋轢のあったヤコブとラバンですが、一応の和解を得て、ラバンは「子どもたちと娘たち」を「祝福」しますが、何とも空虚な、白々しい、無機質な「祝福」なのではないでしょうか。「祝福」は機械的な、言葉だけの宣言ではありません。
贈り物が伴わなければなりません。ラバンは娘や孫に、相応の贈り物を与えるべきです。
ヤコブがラバンに支払った、花嫁料の一部は、娘に与えるのが慣習でしたが、それは、当然の権利であり、それとは別に、贈り物を与えるべきです。
ラバンはヤコブにも、相応の贈り物を与えるべきです。
働きの報酬は、当然の権利であり、ラバンはヤコブへ、報酬とは別に、贈り物を与えるべきなのです。
上位の者が、下位の者を祝福するのであり、合わせて、贈り物を与えるのです。
しかし、ラバンは、最後のチャンスと言う場面においても、損になる事は一切行いはしなかったのです。残念な事ですが、形だけの和解で終わってしまったのです。
【適応】
人間同士の和解には限界があります。先に申し上げたように、人間には罪があるために、本当の意味での和解は非常に難しい事だからです。
しかし、形だけの和解であっても、軽んじるべきではありません。
お互いが赦しを確認しているからであり、多少でも進展が見込めるからです。
積極的に交流を進めるには、時間が必要でしょうし、仲介者も必要でしょう。
それまでは、消極的な手段かも知れませんが、不可侵条約を結ぶ事で、お互いに敵意を持たない事を確認するのは、大きな前進と言えるのではないでしょうか。
敵意がない事が前提で、関係悪化が防げ、交流が保たれるからです。
聖書に、ラバンの子孫と、ヤコブの子孫との、その後の交流は記録されていませんが、何時しか、敵意が、敵意から生じる誤解や疑いが克服された時、和解は完成するでしょう。
その敵意の克服は、人間の罪の問題の解決、神様との和解が前提である事は、申すまでもありません。
そして、人間の罪が、神様との和解を阻害している事は自明の理です。
人間の罪が解決されれば、神様との関係が修復し、神様との和解が回復し、必然的に、人間同士の敵意の問題が解決されるのであり、人間同士の和解が完成します。
そして、人間の罪のために、神の子イエス様が犠牲となり、罪の問題を解決してくださり、神様と人間の和解のために、イエス様が仲介役を引き受けてくださったので、神様と人間との和解が完成しました。
とは言え、人間は罪を持っていますので、神様との完全な和解には、人間同士の完全な和解には、イエス様の再臨まで待たなければなりませんが、人間の罪の問題は解決されるのですから、希望があります。
何より重要なのは、罪の問題が解決されている、と自覚する事です。
本日の説教題を「ヤコブとラバンの和解、不可侵条約締結」としました。
ヤコブとラバンの和解は、不完全なものであり、補助的に、不可侵条約を必要としますが、不完全で、補助的なものを必要としても、和解したのは、大きな前進であり、進歩であり、喜びです。
喧嘩別れ程、嫌なものはありません。心の底に、憎しみが澱(おり)となって留まり続け、何時までも凝(しこ)りとなり、傷となり、痛み、疼くのです。
完全に取り除く事は難しい事ですが、和解の確認を取り付けるならば、勿論、和解した、赦した、と言う事を、折りに触れて自分に言い聞かせ続けなければなりませんが、澱(おり)は半減し、凝(しこ)り、傷、痛み、疼き、は著しく軽減するのではないでしょうか。
そして、時と共に、更に薄まり、忘れられるのではないでしょうか。人間同士の有限な、不完全な和解でも、有用であり、これだけの効果があるのです。
ましてや、神様の用意された和解は、完全なものであり、補助的なものは何一つ必要としません。
神様と人間との和解には、イエス様の犠牲だけで充分なのであり、完全です。
人間の側の、献げ物も、奉仕も、鍛錬も、訓練も、難行苦行も必要ありません。
神様は完全に赦してくださり、何一つ要求される事はありません。
人間は、罪から完全に自由にされるのであり、神様との交わりを阻害するものは全くなくなっているのです。
但し、神様が和解をなしてくださった、私は神様と和解している、と言う自覚を持ち続ける事が、重要である事を忘れてはなりません。
神様は私を赦してくださっているし、赦し続けてくださるのです。
ここにおられる皆様は、神様に赦され、神様と和解し、祝福されており、必要の全てが与えられています。この喜びを、共に喜ぼうではありませんか。
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聖書個所:ヨハネ10:19~30 2017-4-23礼拝
説教題:「わたしと父とは一つです」
【導入】
本日の説教題を「わたしと父とは一つです」とつけましたが、この「わたし」とはイエス様のことであり、「父」とは創造主なる神様のことであることは説明するまでもないことでしょう。
では「一つです」に、イエス様はどのような意味を込めて、宣言されたのでしょうか。
私たちが「一つです」と言う時、それは、集合体を現すこともあれば、分けられない単一の物を現すこともあるでしょう。
或いは、考え方などの形のない物を現すこともあるでしょう。
イエス様がどのような意味でこの言葉を発せられたのか、共に確認して行きましょう。
【本論】
10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
イエス様の言葉と教えや行動は、ユダヤ人の中で物議を醸し出しました。
それは、今までに語られたことのなかった新しい教えであり、ユダヤ教の伝統を覆すように見える行動であったからです。
イエス様の語られる言葉、教えは、権威ある者の言葉、教えであり、律法学者やパリサイ人たちのような先祖代々受け継いだ借り物の教え、オウム返しの言葉、重箱の隅を突つくような教えではありません。
イエス様の行動は、律法学者やパリサイ人たちのあれをしてはいけない、これをしてはいけない、といった窮屈なものではなく、人を生かし、自由にするための行動でした。
病気、不具合といった悪魔の仕業と考えられていた肉体的な拘束、束縛から、また、律法による精神的な拘束、束縛から自由にし、喜びに満ち、感謝に溢れる生き方に入れるための手助けをする教えであり、行動であったのです。
つまり、新しい教え、律法に外れるように見える行動、といっても、律法の本質である「神と人とを愛する」ことを教える教えや行動から逸脱したものではなく、律法と矛盾する言動ではなかったのです。
しかし、このイエス様の言動は全ての人々に理解され、歓迎され、受け入れられた訳ではありません。
好意的に見る人もいれば、否定的な見方をする人もいた訳です。
否定的に見る人の大多数はユダヤ宗教指導者たちで、人々に対する指導力の強さ、影響力の大きさと言う点で侮れないものがあったのです。
また、生まれつきの盲目の人の癒しの所で学んだ時に確認したように、会堂に所属するか、会堂から追放するかの決定権を持っており、ユダヤ宗教指導者たちと反対の立場をとることは非常な不利益を被ることであり、イエス様の教え、行動に同調し、それを公然と表明する人は皆無、と言っていい状況だったのです。
とは言え、羊の囲いの喩え、羊の門の喩え、良い羊飼いの喩えと、それに続く復活の預言の言葉は隠されていても隠し切れるものではなく、完全な理解ではなくても、人々の心に良い意味でも悪い意味でも波紋を広げます。
喩えを理解できない人々は憎憎しげに言います。
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
自分たちに理解できない喩えが語られたためとはいえ、誰に対してであれ「悪霊につかれて気が狂っている」とは、何とも非礼な無礼な発言であり、失礼では済まされない言いようでしょうか。
現代風に言うならば不適切な発言であり、謝罪と責任問題に発展しそうな言葉です。
一方、全面的にイエス様を擁護し、イエス様と共にユダヤ宗教指導者たちに立ち向かうことはできなくても、微力ながら擁護することまでは放棄しなかった一部の人々が立ち上がります。
10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
このイエス様をおとしめようとする反対派の人々の意見に対して、イエス様を擁護する人々は積極的な発言ではありませんが、イエス様のなされた癒しの力が何処から来たかを考え、その癒しの力と合わせてイエス様の言葉を理解するよう促すのです。
私たちは中々言動が一致する所までは行き着きません。
語った通りに行動できず、言葉と行動が矛盾したり、理想ばかりを語ると言った癖から抜け出せません。
ある時は自分が損をしても正しいことを語りますが、ある時は自分の都合や利益を優先させて正しくないことを語ってしまう。
ある時は正しい行動をとるが、ある時は正しくない行動をとってしまう。
人を助ける時もあれば、人を傷つける時もあるのが人間です。
しかし、イエス様の言動は終始一貫しています。
常に人を助け、人を癒し、人を生かし、人に希望を、人に命を与えるために語り、行動するのです。
生まれつきの盲目の目をあける力は、人を生かす力です。
人に希望を与える力です。
人に将来を与える力です。
この人を生かし、希望を与え、将来を与える力は神様に所属する善なる力であり。
比べて悪魔の力は、人の希望を奪い、人を殺し、将来を絶望させる悪なる力です。
人に希望と将来を与える癒しの力は、悪魔にはできない働きであり、神様から遣わされた者にしかできない働きなのです。
神様には暗い部分も、悪なる部分もありません。
神様は良いこと、正しいこと、人の益になることしかなさらないのです。
この、人は勿論のこと、霊的な力を持つ悪魔にもできない癒しの力を発揮するのだから、その語る言葉も当然、人からのものでも、悪魔からのものでもないと見なすことができるじゃないか、と言うのが彼らの考え方なのです。
少数派のイエス様擁護派でしたが、この論理的な考え方には、多数派の反対派も反論できなかったのでしょうか、議論は中断してしまいます。
10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
聖書にはイエス様が「宮きよめ」をされたことが記されていますが、22節の「宮きよめの祭り」は、それとは関係ありません。
22節の「宮きよめの祭り」は紀元前165年のユダス・マッカバイによる神殿再奉献に端を発するとされるお祭りのことです。
エルサレム神殿は何度も異教徒に踏みにじられておりますが、シリヤのアンティオコス・エピファネス王によって蹂躙された歴史はユダヤ人に取って真新しい、忘れられない傷となって残っています。
エピファネス王は熱烈なギリシャ文化の愛好家で、ユダヤ教を徹底的に排除し、ギリシャの宗教と文化をパレスチナに導入しようとしました。
紀元前170年にエルサレムを攻撃し、紀元前168年にはエルサレム神殿の祭壇を、ギリシャの主神ゼウスの祭壇に変えるという暴挙を敢行したのです。
更には、異教の神々のために祭壇に「豚」を生贄として献げたのです。
豚はユダヤ人の忌み嫌う汚れた動物であり、このようにして徹底的に汚されてしまった神殿を、ユダヤ人は激しい戦いの末に奪い返し、聖め、聖別して奉献したのです。
この逸話はマカバイ記第一、4章36節から59節に記されています。
マカバイ記とは旧約聖書続編とか外典と呼ばれているもので、カソリック教会では第二正典として権威を与えられています。
プロテスタント教会では正典には含まれませんが、聖書を補うものとして活用しています。
(上記箇所の朗読)
この祭りは毎年祝わなければならない、大切なお祭りであった訳です。
マカバイ記に記されていたキスレウの月は、現代の暦では11月中旬から12月中旬であり、23節の「時は冬であった」に附合します。
激烈な戦いの末にエルサレムを奪還し、悔い改めの涙とともに神殿を修復し、聖めて献げたことを記念する、ユダヤ人に取って大切なお祭りです。
イエス様もこのお祭りを大切に思われ宮に行かれました。
何故ならば、神殿が修復され聖められ献げられることは、神様との関係の修復、回復であり、本当の意味での神様との関係の回復のためにこそイエス様は人となられて、この世に来て下さったからです。
イエス様は聖書も、神殿も、生贄も律法も否定され、廃棄されたのではありません。
イエス様は聖書を尊重され、神殿以上のものを用意され、完璧な生贄となり、律法を完全な形で行なわれたお方です。
しかし、ユダヤ宗教指導者たちはイエス様の言動を快くは見ていません。
この宮きよめの祭りに来たのにも、何かの意図があってのことではないかと邪推し、イエス様を捕まえて言葉尻を掴もうとします。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
ユダヤ人の言葉を好意的に解釈し、受け止める訳には行きません。
彼らユダヤ宗教指導者たちは悔い改めの気持ちでこのように発言しているのでも、
イエス様をキリスト、メシヤとして受け入れようとしているのでもありません。
彼らの目的は、宮きよめの祭りの邪魔をさせないためであり、イエス様を葬り去ることであり、一気に片をつける口実を掴むところにあるからなのです。
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
ユダヤ宗教指導者たちとの問答は同じ内容の繰り返しです。
イエス様が正当な律法学者の下で律法を学ばなかったとしても、必要な手続きをふまず、伝統に則って教師としての任命を受けなかったとしても、真の任命者であり、律法の制定者である神様から教えを受け、任命を受けたことは、その言葉、行ない、癒しの力、悪霊を追い出す力に充分現されているではありませんか。
生まれつきの盲目は、現代の進んだ医学でもどうしようもありません。
そのどうしようもない問題を解決できるのは、人を造られた神様だけであり、生まれつきの盲目を癒したことは即ち神の力であり、神の力を与って働くイエス様こそ、キリスト、メシヤであることの疑いようのない証拠なのです。
その疑いようのない証拠、証言を受け入れられないのは、神様に属していないからなのであり、神様に敵対しているからなのです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
この27節、28節は前回の学びで確認したところです。
「わたし」とは真の羊飼いであり、キリスト、メシヤであるイエス様のことであり、「羊」とは、イエス様に導いて頂かなければ、天国に入ることも、永遠の命を頂くことも出来ない、私たち人間、罪人たちのことです。
イエス様の群れに属する羊だけが、イエス様の声に従って付いて行くのであり、イエス様に付いて行く限り、必ず天国に入れるのであり、滅びることはないのです。
そして、イエス様だけが真の羊飼いであり、命がけで羊をありとあらゆる危険から守って下さるお方なのです。
このイエス様と私たちの関係は、神様のご計画に基づくものであり、イエス様のものとされた私たちは同時に神様のものとされているのであり、誰もこの関係を破棄し、解消することはできないのです。
何故ならば、
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
神様は全てに優って偉大なお方であり、王の王、主の主、であり、神様がイエス様に委ねられた羊を、イエス様を頭とする群れから引き離すことはできず、奪い去ることは誰にもできないのです。
10:30 わたしと父とは一つです。」
ここにおいて、イエス様と神様が一つであることの意味が明確にされます。
「一つです」の意味は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の、三位格の内、第一格の神と、第二格の御子の一致を現しているのではなく、人間を救うご計画の推進、実行において、神様のお考えと、イエス様のお考えは一つであり、人類に提供された救いの方法が一つであることの宣言なのです。
【適応】
私たちは中々言動が一致する所までは行き着きません。
言った通りに行動できず、言葉と行動が矛盾したり、理想ばかりを語ると言った癖から抜け出せませんが、イエス様の言動は終始一貫しています。
それはイエス様が神様だから、と言う理由だけでなく、神様のお考えに従順だからなのです。
イエス様が神様だから失敗や矛盾がないのではなく、人となられたイエス様が神様のお考えに全く同調して、寸分違わずに従っているから失敗も矛盾もないのです。
その意味で「わたしと父とは一つ」なのです。
イエス様はイエス様に聴き従う者に罪の赦しを宣言され、イエス様の義を付与してくださり、天国に招き入れ、永遠の命を与えてくださいます。
この地上では苦しみ、悲しみ、病気などが次から次へとやって来るかも知れませんが、それらがイエス様を引き離すことはないのです。
私たちは弱く、疑いやすいので、苦しみや悲しみの中に長く置かれていると、神様のご計画、イエス様の約束を疑い、その手を離してしまうことがあるかも知れませんが、イエス様が私たちの手を離すことは絶対にありません。
それはイエス様が真実なお方であり、約束を誠実に履行されるからでもありますが、イエス様は神様に従順なお方であり、神様と常に一つの関係を持ち続けられ、神様のご計画の実行者であるからなのです。
イエス様はご自分の持っておられる神の御子としての力と権威で神様のご計画を推進されるのではなく、神様に従順な者として、人の状態がどうであろうと、自分勝手でも、裏切っても、神様から預っているので私たちを見捨てることなく、私たちを守り導いてくださるのです。
ここにおられる皆様は、神様がイエス様に委ねられた大切な魂です。
イエス様によって一つの群れとされ、イエス様と共に神様の下に憩うことが約束されている群れなのです。
宮がどんなに汚れ破壊されていても、聖められ修復され、神様に献げられたように、私たちもまた、どんなに罪深く、汚れ、神様から離れていても、イエス様の力、働きによって聖められ修復され、イエス様の守りによって滅びから引き上げられて神様に献げられるのです。
ここにおられる皆様が、神様と一つであると宣言されるイエス様に守られ、導かれ
神様との関係を修復され、聖い神様の住む生きた宮としての人生を歩まれますように。
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聖書個所:コリント人への手紙第一15章1節~5節 2017-4-16礼拝
説教題:「復活」
【導入】
本日の説教のタイトルを「復活」としましたが、どんな言葉も、文化と時代の影響を受け、特に宗教的な言葉については、土着の宗教の影響を強く受けます。
ユダヤ教は、ユダヤ人独自の宗教であり、ユダヤ人社会、ユダヤ人文化の中で育った宗教であり、ユダヤ人がよって立つ宗教です。
非常に厳格に教えを守るのが特徴で、必然的に非常に排他的な宗教です。
しかし、カナンの宗教の影響を受け、ギリシャ文化の影響を受け、ローマ文化の影響を受けています。
復活に限定しても、ギリシャ人は、魂の不死、永遠性を信じていましたが、身体の復活は信じていませんでした。
ユダヤ教において、復活の理解、立場は一枚岩か、と言えば、そうではありません。
ユダヤ教の二大勢力であるサドカイ人と、パリサイ人でも、大きな違いがあります。
使徒の働き23章8節に記されていますが、「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていた」のです。
サドカイ人は、人は死ぬと、例外なくシオルに行くと、考えました。
この「シオル」とは、地獄ではなく、死者の住まいであり、灰色の世界であり、神様から離れた世界です。
同じユダヤ教でも、こんなに大きな違いがあるのですから、異教徒は押して知るべしでしょう。
コリントは、ギリシャの町の一つであり、手紙の宛名のコリント人は、ユダヤ人ではなく、異邦人ですが、イエス様の弟子たちの教えを聞いて、クリスチャンになった人々です。
イエス様を神の御子と信じ、イエス様の復活を信じる点では、問題なかったのですが、「人間の復活」には疑問を感じ、「死者の復活はない」との考えが支配的であり、イエス様の復活と、自分たちの復活を別けて考え、混乱を招いていたのです。
パウロは、異教文化の中で生きるクリスチャンに、イエス様の復活を正しく理解してもらうために、間違いを正すために、手紙をしたためた、と言う訳なのです。
【本論】
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
パウロの口調は、あたかも新しい事を語るかのような口調ですが、そうではありません。
新共同訳聖書は、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と訳し、口語訳聖書は「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、・・・あの福音を、思い起してもらいたい」と訳しているように、一度は「あなたがたが受け入れ」た教えであり、「それによって立っている福音」なのです。
福音の大きな働き、役割は、信徒に安定を与える事です。
福音は、単純であり、明快であり、変わらない教えだから、よって立てるのです。
難しくて、曖昧で、時間と共に変わるならば、よって立つ事は出来ません。
何処でも、何時でも変わらないから、確固たる規準となるのであり、安心出来るのです。
とは言っても、時間の経過と共に、記憶は曖昧になり、文化や社会の影響を受けますから、常に、基準からずれていないかを確認しなければなりません。
指導者たる者は、基準からずれていないかを常に見張り、繰り返し語り続け、教え続けなければなりません。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
「よく考えもしないで信じたのでないなら」を、口語訳聖書では「いたずらに信じないで」と訳していますが、「確かな根拠なしに信じたのではないでしょう」の意味であり、コリント人の知性や、教養を尊重している事が感じ取れる表現です。
ここで、重要なのは、知っている事ではなく、知っていた事でもなく、「しっかりと保ってい」る事です。
信仰を奪おうとする試みは、絶える事がありません。
サタンは、手を変え、品を変え、日夜惑わし続け、日々試み続けます。
サタンの惑わしの力、試みに打ち勝つ力は、福音のみであり、福音を根拠とする確信だけです。
そして「救われるのです」は、経過を表す現在形であり、救われた、でもなければ、救われるでしょう、でもないのです。
「救い」は、過去の事でもなければ、未来の事でもありません。現在の事なのです。
そして、この「救われるのです」が、「福音のことばをしっかりと保っていれば」が条件である事は間違いないでしょう。
サタンの惑わしの力、試みは強力です。
「福音のことばをしっかりと保ってい」なければ、救いから離れてしまうかも知れないのです。
自分勝手な福音の解釈をしてはなりません。
間違った福音であるならば、自分では救われていると思っていても、全く違う方向に向かっているかも知れません。
そこで、その大切な「福音」について、パウロは話を進めます。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
「最もたいせつなこと」を「伝えた」のであり「私も受けたこと」です。
「福音」は、パウロの考え出した教えでも、誰かが思い付いた教えでもありません。
「福音」は、イエス様の直弟子から、伝えられた教えであり、パウロは、イエス様の直弟子、直伝の「福音」を「伝えた」と断言しますが、それは「福音」の唯一性と不変性、伝承性と継承性を強く、印象付ける宣言です。
唯一の「福音」を変える事なく「伝え」続ける事は、教会の最も大切な、最大の、最高の働きであり、「福音」は伝道者が、牧会者が、足してはならない、引いてはならない、薄めてはならない、歪めてはならない、極めて重要な教えです。
教会が、福音を正しく語らなければ、それはキリストの教会ではありません。
牧師が、福音を正しく語らなければ、イエス様から任命を受けた牧師ではありません。
福音を、「良き訪れ」と言い換え、「愛」を強調し、「赦し」を語りますが、それは、福音の一面でしかありません。
何故イエス様は死ななければならなかったか、何のためによみがえられたのかを、聖書に従って理解しなければなりません。
その重要な、唯一無二の教えは、3節後半から、
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
重要な事の第一は、3節後半、4節真ん中の「聖書の示すとおりに」です。
イエス様が「死なれたこと」と「葬られたこと」、そして、「よみがえられたこと」と「現れたこと」は、聖書に預言されていた事なのです。
重要な事の二番目は、「死なれたこと」であり、「贖罪の死」であった、と言う事です。
イエス様の死は、無実の罪を着せられての冤罪の死ではありません。
歴史上の事実であり、私たち人間の罪を贖うための死であった、と言う事実です。
これはイザヤ書53章4節から8節、他に預言されています。「53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
人間の罪は、罪を犯した人間の死でしか償えないのであり、その償いを引き受けられるのは、罪のない者だけであり、罪のない者は、神様以外にはありえず、人間となられた神様以外にはありえないのです。
重要な事の三番目は、「葬られたこと」であり、「死なれたこと」と合わせて見なければなりません。
「葬られたこと」は、イエス様が「死なれたこと」の確かさを示す上で重要です。
イエス様は、完全な死を遂げられたのであり、ユダヤの埋葬の習慣に従って、衆目の中で埋葬されたのです。
決して仮死状態だったのではありません。
時に、死者が蘇生する事がありますが、イエス様は完全に死んだのであり、百人隊長が死を確かめ、葬る事を許したのです。
医者でもない一兵卒の軽率な判断だ、として疑問視する人々がおりますが、多くの死刑囚の死を確認して来た百人隊長であり、誤認はありえません。
もしも、誤認したならば、責任を問われ、自身の死を以って誤認の償いをしなければなりませんから、軽率ではありえないのです。
イエス様が葬られる事はイザヤや、マタイなどが預言しています。
イザヤ書53章9節「53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」
マタイの福音書12章40節「12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」
確実に「死なれ」、間違いなく「葬られ」たのであり、神様の力で「よみがえられた」のです。
この「よみがえられたこと」「復活」が四番目に重要な事です。
この復活は、霊的な意味ではなく、抽象的、概念的な復活ではありません。
身体のよみがえりであり、過去の事であると同時に、今も生きておられる事実を強調しているのです。
「よみがえられたこと」は、ダビデや、ホセアなどが預言しています。
詩篇16篇10節から11節「16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
詩篇49編15節「49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ」
ホセア書6章2節「6:2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」
復活は、神様に愛されている事のしるしであり、神様に受け入れられた事を証します。
愛する価値のないものを甦らせはしません。
受け入れる必要のないものをよみがえらせはしません。
神様が愛される者だから、復活させられたのであり、受け入れる前提で復活させられたのです。
そして、神様に対して執り成しをする仲保者となられたしるしです。
イエス様は復活の後に、天に昇られましたが、それは神様の側に着座されるためであり、神様に執り成しをされるためです。
誰のために取り成すかと言えば、私たち人間のためである事は明白です。
そして、イエス様を信じる者の、復活の保証なのです。
人間となられたイエス様の復活は、人間の復活の、確実な前例であり、実証であり、保証なのです。
そして最後に「現れたこと」「顕現」が五番目に重要な事です。
復活しても、眼に見えなければ意味はありません。
眼に見える形でなければならず、複数の目撃者がいる事が、復活が確認される上で重要な事なのです。
眼に見えるから、復活の証拠になるのです。
眼に見えてこそ、復活は事実と認定されるのです。
一回限りなら、一人なら、疑いましょうし、説得力も、信憑性もありません。
しかも、一人ではなく、十二弟子に現れ、五百人以上の兄弟たちに同時に現れなさったのです。
一回限りではなく、少なくとも五回以上も現れたのです。
決して幻ではなく、夢でもない事の証拠です。
聖書を確認してみましょう。
ルカの福音書24章33節から36節「24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。」
マタイの福音書28章16節から17節「28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。」
よみがえられたイエス様にお会いしたからこそ、紛れもない事実だからこそ、使徒たちは力強く宣べ伝えたのであり、弟子たちも力強く宣べ伝え続けて来たのであり、2000年経った今でも、連綿と伝え続けられているのです。
「ケパ」とは、アラム語で「岩」の事であり、ペテロの愛称です。
ペテロは、イエス様を否んだにも関わらず、復活の証言者として選ばれたのであり、コリント人への手紙の著者パウロは、キリスト者を迫害したにも関わらず、福音の担い手として選ばれたのです。
【適応】
イエス様の復活を祝うイースターですが、本質は、私たちの罪が、イエス様の死によって贖われた事であり、贖いに拠って、私たちが、罪のない者と見做されたのであり、義人と見做されたのであり神様に受け入れられる存在になった事なのです。
神様に受け入れられる存在とは、実体のある存在であり、神様と共に生きる存在であり、必然的に新しい身体と、永遠の命が伴うのです。
イエス様が何のために死なれ、何故、よみがえられたかを忘れた祝いであるなら、意味がないどころか、害するものとなってしまうのではないでしょうか。
祝う事が目的ではありません。
自分の罪が贖われ、新しい身体と、永遠の命が与えられる事が約束された事を、共通の喜びとして、同じ信仰の仲間と喜ぶのです。
その喜びの表現として、美味しい物を食べ、贈り物を交換する、などするのです。
自分の食べたい物を食べるのが、普段食べられない物を食べるのが、目的ではありません。
教会やクリスチャンとは無関係に行われる、世の中、一般の、イースター関連イベントとは、似て非なるものであり、似て非なるものでなければなりません。
教会のイースターが、形だけを追っていないか、本質を忘れていないか、吟味しなければなりません。
その意味では、イースターと、ペンテコステ、クリスマスとは、少し区別して考えなければならないかもしれません。
勿論、全て、教会の喜びですが、御子イエス様の誕生と、聖霊の降臨は、世に対しての証に重きが置かれていますが、イースターは世に対する証であると共に、信者に対してのより強い、重要なメッセージであるからです。
クリスチャンの信仰の根幹であり、立ち所、拠り所であるからです。
復活は、東洋思想、仏教、ヒンドゥー教などに言うところの、生まれ変わり、輪廻転生ではありません。
似たようなものでもありません。
生まれ変わり、蘇生、生還、ではありません。
「甦り」「蘇り」と言う漢字を当てるのも、慎重でなければなりません。
漢字は表意文字だからです。
聖書の教えるよみがえりは、魂だけとなって、永遠に生きるのではなく、今現在の肉体とは全く違う、新しい身体が与えられるのであり、病気になる事もなく、老いる事もなく、動かなくなる事もないのです。
五感が備わり、感情を持ち、食べたり、飲んだりし、神様との交わりを、仲間と共に楽しむ事の出来る、新しい身体が与えられるのです。
イースターの祝いは、その前味、特権なのです。
ここにおられる皆様が、イエス様の死、葬り、復活の意味をしっかり確認し、握り締めて離さず、救いの道を歩み続けられる事を願ってやみません。
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聖書個所:創世記31章36節~42節 2017-4-9礼拝
説教題:「パダン・アラムでヤコブを守られた神」
【導入】
神様は、神様に不従順な者に対しても、神様を全面的には、完全には信頼しない者に対しても、約束を誠実に守られるお方であり、神様の側から、約束を反故にされる事はなく、祝福しよう、守られようとなさいます。
勿論、神様に対して不従順であるなら、神様を全面的に信頼しないならば、拒否、拒絶するならば、祝福の与えようがありませんし、神様の守りの御手を振り払うならば、神様の下から逃げ出すならば、守りようがありません。
それでも、神様は自業自得として切り捨てる事はなさらず、見捨てる事はなさらず、探し出し、近づき、寄り添い、決定的な滅亡、自滅に至らないように、日夜守って下さっています。
そして、神様の存在に、寄り添いに気が付き、神様に立ち返るのを待っておられ、祝福を与えようと持ち構えていらっしゃるのです。
神様に見捨てられたかの如き状態が続いても、神様は守り続けて下さっているのであり、神様の守りに気が付かないだけなのです。
苦しみ、悩みの渦中にある時には気が付かなくても、苦しみ、悩みが過ぎ去り、振り返るなら、神様の微に入り細に入った、的確な守りに気が付くのではないでしょうか。
ヤコブは、兄エサウの怒りを買ってしまい、エサウの怒りが静まるのを待つために、パダン・アラムに向かう旅の途中、べテルでアブラハムの信じる神様、イサクの信じる神様との出会いを体験します。
神様の約束を信じ、勇気を得てパダン・アラムに向かう旅を続け、パダン・アラムでは、伯父ラバンに仕えて二十年を過ごしました。
この異郷の地での二十年は、過酷な二十年であり、ラバンの仕打ちに悩み、苦しみ、神様が見えなくなってしまった事でしょう。
しかし、べテルで現れた神様が二十年後に現れ、カナンに帰る事を命じられた時、ヤコブは神様の約束を再確認し、更に、伯父ラバンとのやり取りの告白で、神様の守りを悟り、神様の守りに気が付き、神様との新しい関係に入って行くのです。
【本論】
31:36 そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。
「口答え」と訳されていますが、ヤコブとラバンのやり取りは、ラバンの思い込み、嫌疑故の、一方的な、高飛車な、決め付けた言いように対抗してであり、反抗的な態度の意味ではなく、「反論して」と訳した方が、状況を的確に表現しているのではないでしょうか。
ラバンが血眼になって探している「私の神々」即ち「テラフィム」は見つかりません。
執拗な捜索は、気持ちの良いものではなく、そもそも、疑われた事は心外であり、長年、誠実にラバンに仕えて来たヤコブに対する侮辱であり、ヤコブは、怒り心頭、怒髪天を衝く、そんな思いだったのではないでしょうか。
31:37 あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。
「さわってみて」を、新共同訳聖書は「調べてみて」と訳し、口語訳聖書は「探られたが」と訳しています。
聖書は極普通の事、在り来たりの表現で記録していますが、ラバンは、ヤコブの持ち物、レアやラケルの持ち物、ジルパやビルハの持ち物、子どもたちの持ち物、僕たちの持ち物を、徹底的に調べたのです。
ラバンの手のみならず、ラバンの息子たちの手、ラバンの僕たちの手によって、隅々まで念入りに探られたのです。
空港の保安検査は、危険なものが機内に持ち込まれないかをX線や金属探知機で調べますが、非常に簡単であり、直ぐに終わりますが、時に、カバンを開ける事や、身体検査を要求される事があります。
気分の良いものではありませんが、乗客は、安全のために、規則だから仕方がないと観念しており、係員も、安全のために、規則で行なっているのであり、対応は丁寧であり、口調も穏やかです。
しかし、ラバンたちの捜索は、手作業であり、目視確認ですから、時間が掛かり、乱雑に扱われ、特に女性にとっては、屈辱の時間であり、とても長い時間と感じたのではないでしょうか。
執拗で、念入りな捜索にも関わらず、ラバンの持ち物は、何一つ見つかりません。
ヤコブの潔白が明らかになった時、ヤコブの、押さえに抑えた感情が、怒りが噴出しました。
ヤコブは、ラバンの「テラフィム」を探すと言うのは口実で、ヤコブが何か、ラバンの持ち物を持ち出してはいないかとの、言い掛かりではないかと、考えたのでしょう。
ラバンの、ヤコブに対する思いが、判明したのであり、ラバンは、ヤコブに対して、不信感を持っていたのであり、ヤコブを信頼しておらず、ヤコブの誠実さを微塵も認めてはいなかった事が、ヤコブの働きを評価していなかった事が判明したのです。
ヤコブの抗議の声が、響き渡ります。
ヤコブは、ラバンの不当な扱いに対する抗議の声を上げ、ラバンの言を左右しての、曖昧な態度と、伯父、甥の関係に終止符を打つ決意を表明するのです。
31:38 私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことはありませんでした。
「あなたといっしょにいました」は、41節の「あなたの家で過ごしました」と同じへブル語列であり、文脈で訳し分けているだけで、どちらも同じ意味です。
しかし、「いっしょにいました」或いは「家で過ごしました」は「・・・の下に」と訳せるヘブル語であり、用例では「しもべとして」と訳す事があり、意訳するなら「あなたの僕として過ごしましたが」であり、身内として扱われなかった事、働きが正当に評価されなかった事、当然受けるべき物も受けなかった事を抗議しているのです。
「流産したことはなく」は、手厚い、絶え間ない世話があってこそ、可能な事です。
家畜の世界でも、出産は親子に危険が伴います。
病気から守り、野獣の餌食にならないようにするのは、並大抵の働きではありません。
それこそ39節後半に記されている通りに、昼夜の別なく見守っていなければならないのです。
牧童は、点在する牧草地に家畜を連れて何日も掛けて旅するのであり、相応の食料を持参しますが、時に、遠くまで出かける事があり、食料が底を尽く事があります。
そんな時には、家畜を食べる権利があったのですが、それをしなかった、否、それが許されるような雰囲気ではなかった、と抗議しているのです。
31:39 野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。
「野獣に」襲われるのは、不注意だけが原因ではありません。
野獣は隙を窺って襲って来るのであり、見通しの利かない夜に襲って来るのであり、時に群れとなって襲って来るのですから、防ぐのは簡単な事ではありません。
しかも、人間は猛獣とは比べ物にならない程、脆弱です。
自分の身を守りつつ、家畜も守る、のは簡単な事ではないのです。
家畜は、牧童の命令通りに動く訳ではありません。
好き勝手な所に行ってしまう家畜がおり、蹲って動かない家畜もいるのです。
ですから、牧童に重大な落度がない限り、償う必要はありません。
出エジプト記22章13節に、ハムラビ法典266条に、この事が明記されています。
明文化されるのは、後の時代であっても、これは、一般的な慣例であり、常識なのですが、ラバンはそれを受け入れない、過酷な主人、否、過酷な伯父だったのです。
31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。
牧畜は、牧歌的であり、長閑(のどか)なイメージを想い起させますが、現実は、甘くはなく、聖書の示す羊飼いの姿は、厳しいものです。
厳しい環境の中で、命がけで家畜の世話をするのであり、ダビデの姿、然り、アモスの姿、然り、そして、イエス様の姿、然りです。
「暑さ」「寒さ」を、新共同訳聖書は「猛暑」「極寒」と訳していますが、日を遮るモノがない中で、家畜の世話をするのであり、洞穴や、岩陰で夜露は凌げても、寒さを防ぐモノがない中で、野宿をしなければならないのです。
現代のような、便利なテントがある訳でもなく、温かい寝袋がある訳でもないのです。
真夏でも、野宿は過酷です。
現在は、温暖化の影響でしょうか、特に都会はヒートアイランド現象で、夏の夜の暑苦しさはご承知の通りですが、都会を離れれば、夏でも夜は冷え込み、体温を奪い、身体の心から冷えますから、休めたものではありませんが、ヤコブは、こんな二十年を過ごしたのです。
31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。
「あなたの家で過ごしました」を、口語訳聖書は「あなたの家族のひとりでありました」と訳していますが、38節で説明したように、僕と変わらぬ処遇だったのであり、この言葉は、ヤコブの皮肉であり、現実との大きなギャップが暗に示され、悲哀と、苦悩とが込められ、語られているのです。
日本流で言うならば、滅私奉公の二十年、であり、使用人でも、暖簾分けの褒賞が期待出来るのではないでしょうか。
ましてや、身内なのですから、言わずもがな、でしょう。
「私は・・・あなたの家族のひとりでありました」それなのに「幾度も私の報酬を変えたのです」。
新共同訳聖書は「十度も」、口語訳聖書は「十回も」報酬を変えたと、記しています。
聖書に記されているのは、レアとラケルの一件、山羊の件で二回、計三回ですが、記されている以外にも、何度も、繰り返し報酬を変えたのでしょう。
騙した方は、加害者は、ラバンは覚えていなくても、被害者は、ヤコブは、忘れはしないのです。
一方、神様は約束を忘れず、約束を変える事もなく、約束を守られるのです。
しかし、時がある事も忘れてはなりません。
私の願う時、祈った時、皆が思う時、皆で祈った時、ではなく、神様のご計画の時に、神様がご介入されるのです。
31:42 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」
ヤコブの、ラバンの下での二十年は、「悩みと苦労」の積み重ねの二十年であり、一日一日が長い一日であり、二十年は、四十年にも五十年にも感じられたのではないでしょうか。
それだけの苦労をし、ラバンを富ませても、ラバンはヤコブを利用するだけであり、難癖を付けて、ヤコブの報酬を取り上げ、「何も持たせずに去らせたことでしょう」。
しかし、アブラハムの神、イサクの神が、ヤコブに付いておられ、ベテルでの約束を覚えておられ、パダン・アラムでの働きに相応しい報酬を与えて下さるのです。
神様はベテルにおいて、ヤコブに具体的な、報酬を約束してはおられませんが、ヤコブの子孫が増える事を約束しておられ、ヤコブを守る事を約束しておられます。
守りは、外敵からの守りであり、衣食住の守りでもあります。
病気や事故からの守りであり、不当な扱いや、搾取、誹謗中傷からの守りでもあります。
正当な支払いを惜しみ、報酬を変えるなら、ヤコブが黙っていても、レアやラケルが黙っていても、誰が黙っていても、ヤコブの手紙5章4節に記されている通り「労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、・・・叫び声は、万軍の主の耳に届いてい」るのです。
すると、神様が立ち上がり、神様がご介入され、神様がラバンの物を取り上げ、ヤコブが受け取るべき分を支払って下さるのです。
ラバンは神様の裁きを受けるのであり、この時、ラバンに猶予はありません。
厳重に隠していても、使ってしまっていても、仮に破産していても、神様は何らかかの方法でラバンから取り上げ、ヤコブの分をヤコブに与えられるのです。
恥ずかしい事であり、困るのは目に見えています。
こんな憂き目に会わないためにも、正当な支払いを惜しんではならないのです。
【適応】
神様はヤコブを守られますが、ヤコブとの直接の約束であると同時に、アブラハムとの約束を覚えておられ、忘れてはいないからであり、イサクとの約束を覚えておられ、忘れてはいないからです。
親元を離れ、保護し、悩みを聴いてくれ、励まし、助けてくれる父や母がいなくても、十度も報酬を変えるような、強欲な伯父の許でも、意地悪な従兄弟に囲まれていても、天涯孤独、四面楚歌と思われるような状況に置かれても、神様は常に側にいて下さり、全てを見ていて下さっていたのです。
助けがないのは、忘れられていたからではなく、神様の時に至っていなかったからです。
自分の知恵と力に頼って、何とかしようとし続けたので、神様は助けを控えておられただけなのです。
目の前しか見なかったので、見えるモノに気を取られていたので、神様の存在と、臨在に気が付かなかっただけなのです。
順調な時にも、苦労や困難の時にも、神様は側にいて下さり、見守っていて下さるのです。
助けがないように思えても、実は、助けはあるのであり、神様が許された苦労や困難が、見える形で起こるのであり、神様の主権で、見えない形で、守りがあり、助けられているのです。
神様は、過酷な環境に置かれたヤコブを、陰日向になって守って下さったのです。
神様は、飢え乾くヤコブに、食料と水を与えて下さったのです。
神様は、不当な責任を負わせられたヤコブに、負担した以上の物を与えて下さったのです。
神様は、猛暑、極寒の中で、ヤコブを守って下さったのです。
神様は、幾度も報酬を変えられ手も、ヤコブの家畜が増えるようにして下さったのです。
神様は、追い駆けるラバンを戒め、逃げ出すヤコブを守ってくださったのです。
ヤコブは、ラバンに鬱憤をぶっつけますが、その鬱憤は、そのまま神様の守りであった事に気が付いて、42節の告白となったのです。
不平不満は、ないにこした事はありませんが、不平不満を持ってしまっても、不平不満の中に埋没せず、状況を見て失望、見えるもので落胆するのではなく、苦労や困難の、経緯を思い起こし、最悪の事態を予測するのは、有益な方法です。
不思議と危険を脱した事に、損失の少ない方向に展開して行った事に、最悪の事態に至らず、今に至った事に気が付くのではないでしょうか。
そして、背後に、神様の守りと助けを確信するに思い至るのではないでしょうか。
大きな出来事の時には、神様に守りと助けを祈り、守りと助けを具体的に認識し、実感し、確認し易いでしょうが、神様の守りと助けは、日常の中で、小さな事柄の中で、些細な事柄の中で、気が付かない中で、意識しない中で、起こっているのです。
数えてみなければ、如何に多くの守りと助けがあったかに気が付かず、数えてみれば、如何に多くの守りと助けがあった事に気が付くのではないでしょうか。
ここにおられる皆様の中には、苦難と試練の中に置かれている方がおられかもしれませんが、神様が、倒れないように、守って下さっているのであり、神様が、立ち上がり、歩き出せるように、助けて下さっている事を忘れず、神様の祝福と守りの中を歩まれ続ける事を願ってやみません。
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聖書個所:創世記31章22節~35節 2017-4-2礼拝
説教題:「ラバンの手からヤコブを守られる神」
【導入】
人間社会には、平等な関係を構築、維持するために、円滑に手続きを進めるために、様々な慣習や暗黙のルール、明文化された決まり、規則があります。
これらは多少、否、多分に形式的、事務的、機械的、杓子定規になり勝ちで、冷たく感じ、もっと融通を利かせてよ、と言いたくもなり、今流行の、忖度が働くと、形式的、事務的、機械的な規則に縛られつつも、スムーズな対応となる訳ですが、忖度を働かせ過ぎると、問題になってしまいます。
相手の気持ちを思い図り、相手の身になって考えるのは、大切な事ですが、特別扱いは問題であり、平等を意識しないと不公平になり、問題が生じます。
瑕疵に眼を瞑り、問題を見逃してあげるのは問題ですが、適切なアドバイスや親切な指導は大歓迎でしょう。
規則がある事で、平等が保たれ、円滑に物事が進められる訳です。
大勢の人間を苦しめる戦争にも、国際的なルールがあり、宣戦布告をするなら正当な行為と見做されますが、不意打ちや騙まし討ちは非難を浴び、違法行為として責めを受ける事になります。
戦闘行為と、宣戦布告が同時であっても問題はありませんが、宣戦布告が遅れたならば、戦闘行為が先んずれば、国際的な非難を浴びる事になるでしょう。
個人的な労働契約でも、有給休暇は権利ですが、勝手な休暇の取得や、無届の遅刻、早退は問題であり、職場放棄や職務怠慢にも罰則が設けられましょう。
賃金の遅配は問題であり、働きに見合わない低賃金も問題でしょう。
ラバンとヤコブが交わした労働契約は、誰が見ても大きな問題を抱える、不公平な契約ですが、少なくともラバンが押し付けたのではなく、ヤコブから申し出た契約であり、双方に効力を持つ契約です。
この契約には、報酬は確認されていますが、期間が確認されていませんから、契約の解消のためには双方の協議が必要な事は申すまでもありません。
報酬を変えられたからと言って、勝手に職を放棄するのは、適切な対応とは言えません。
神様は秩序を重んじられるお方であり、報酬は報酬として取り扱われなければならず、期間は期間として取り扱わなければならないのです。
ヤコブがラバンの下を勝手に逃げ出したのは、神様の喜ばれない行為である事は、記憶しておかなければなりません。
【本論】
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、
31:23 彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。
22節の「知らされた」は、解釈が分かれるところではないでしょうか。
黙って、誰にも知られないように逃げ出し、ヤコブや家族、家畜や家財一切がない事が判り、大騒ぎになって、その知らせがラバンの下に届いた、とも考えられますが、ヤコブはラバンの羊や山羊の世話をしていたのですから、放置しておいて黙って逃げ出したとしたとしたら、それでは余りにも無責任です。
20節の「知らせなかった」は「悟られないようにした」と訳せるとお話しました。
誰にも悟られないように慎重に行っても、知られない秘密はありません。
ラバンの僕たちも、薄々気付いていたのではないでしょうか。
しかし、ヤコブの忠実さ、誠実さは、皆の知るところであり、ラバンの狡賢さ、横柄さも、皆の知るところです。
ラバンの僕たちは、ヤコブに好意的であり、ヤコブの逃走に協力的だったのではないでしょうか。
ヤコブはラバンの家畜に対する責任から、逃げ出す直前まで入念な世話をし、ラバンの僕たちに見送られ、それからラバンの下に知らせが届いた、のではないでしょうか。
ラバンは「自分の羊の毛を刈り取るために出ていた」のであり、知らせるのに「三日」かけ、そして「七日」目に追い付いた、のではないでしょうか。
「ギルアデ」はパダン・アラムから400km程離れたところにある土地です。
ヤコブは足の遅い仔羊や仔山羊、大勢の家族を連れて七日で400kmを旅したのであり、ラバンは四日で400kmプラスαを走破したのです。
ヤコブの旅は、一日当たり60km程度であり、それでも相当の強行軍ですが、ラバンの追跡は、一日当たり100km以上であり、想像を超えた過酷な強行軍であった事でしょう。
ラバンがヤコブに追い付いた時に、ラバンは疲労の極みだったのではないでしょうか。
同時に、怒りも頂点に達していたのではないでしょうか。
そんな、ラバンに神様が現れます。
創世記12章に記されていますが、アブラハムに敵対するエジプト王パロに現れ、創世記20章に記されていますが、ゲラルの王アビメレクに現れ、アブラハムを守られた神様が、創世記26章に記されていますが、イサクに敵対するゲラルの王アビメレクに現れ、イサクを守られた神様が、ここでも現れ、直接ご介入され、ラバンに警告を与え、ヤコブを守られます。
31:24 しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現れて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」
ラバン、ヤコブ、双方に言い分がある事は明白です。
どちらにも正しい点があり、どちらにも責められる点があります。
善悪を論じたならば、正邪を主張したならば、対立が強く、大きく、深くなる事は確実であり、和解は非常に困難になるでしょう。
これは、善悪、正邪を有耶無耶にする事の奨励ではなく、自分の善や正を主張するのではなく、相手の悪を暴露し、邪を追求するのではなく、自分の悪を省み、自分の邪を吟味する事を、相手の善を認め、正を評価する事を勧めているのです。
「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように」であり、神様と「事の善悪を論じ」る事自体を禁じているのではありません。
特に、今回の脱出劇は、神様の指示で旅立ったのであり、「何故、如何して」は神様に問う問題であるのです。
言い方を変えるなら、神様に委ねるのです。
これこそ、破局を避け、対立を避け、関係性を切らないための知恵なのではないでしょうか。
神様に委ねる時、ラバンは神様のご計画の推進に寄与するのであり、委ねる事が、ヤコブのための神様のご計画を進める、唯一の、最善の方法なのです。
31:25 ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。
ラバンは、400kmプラスαを四日で走破したのですから疲労困憊であり、ヤコブに追い付いた安心もあり、ヤコブの動向を見張る意味も兼ねて、ヤコブの天幕に隣り合わせて、自らの天幕を張り休息を得るのです。
しんと静まった山中ではありますが、羊や山羊、ロバなどの家畜の鳴き声が聞こえる度に、静かな緊張が走ったのではないでしょうか。
ヤコブやラバンの緊張をよそに、家族や僕も、屈託のない寝息を立てている。
ヤコブとラバンは、お互い息を潜めつつも、お互いの動向を伺っているのです。
ヤコブは、ラバンが襲って来やしないかと緊張し、ラバンは、ヤコブが逃げ出しはしないかと気を緩められないでいるのです。
安心しての、平安な眠りは得られなかったでしょうが、少しはまどろみ、暫しの休息を得て、夜明けと共に、ヤコブとラバンの静かな対決が始まります。
31:26 ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いて行くとは。
ラバンの言葉は、非常に強い表現であり、怒りを込めた表現ですが、ラバンの心の葛藤が滲み出ている表現でもあります。
ラバンの言葉は、まるで娘たち家族が誘拐されたかのような、全く落度のない被害者の立場を強調する表現ですが、真実からは遠い、否、全くズレており、娘たちは父ラバンに対しての不平不満を口にし、積極的にヤコブに従ったのであり、ヤコブを励ましたのです。
ラバンは、この言葉を発しながら、成り行きを見守る娘たちの表情を見たのであり、娘たちの表情は、ラバンに対して同情的ではなく、寧ろ、冷ややかなものだったのであり、ラバンは矛盾と葛藤を感じていたのではないでしょうか。
31:27 なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。
これもまた、大仰な表現であり、芝居じみた誇張表現なのではないでしょうか。
ヤコブは明確に申し出たのであり、決して隠れてした事ではありません。
ヤコブは、帰郷の承諾と、レアとラケルと、子どもたちを連れ行く事と、ジルパとビルハの所有権の放棄と譲渡、ジルパとビルハの子どもたちの所有権の放棄、譲渡を申し出たのです。
しかし、ラバンは話をはぐらかし、働きと報酬にすり替え、期間を定めずに働かせたのであり、ラバンは良心の呵責を感じていたので、反発的に、大げさな言葉を口走ったのではないでしょうか。
31:28 しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。
本来ならば、一部を娘に分配する性質である花嫁料を、全て我が物としたラバンですが、父親の情が全くなかった訳ではなさそうです。
娘や孫との分かれを取り上げられた辛さは、察して余りありますが、これも、身から出た錆であり、ヤコブへの非難の言葉は、そのまま自分に向けた自戒の言葉でもありましょう。
私たち人間は「全く愚かなことを」するものです。
喜んで送り出せば良かったものを、変な交渉をせず、過分と思えるような贈り物を与えておけば良かったものを、娘たちにも相応以上のものを与えておけば良かったものを。
そうすれば、こんな情けない思いも、惨めな思いも、言っている本人が恥ずかしい思いもしないで済んだのではないでしょうか。
本当に悔やまれるのではないでしょうか。
過ぎた事は、取り返しも、やり直しも出来ませんが、今後には生かせます。
今から、良い関係を作ればよいのです。
今から、ヤコブに惜しみない贈り物を与え、レアとラケルに充分な相続財産を分配し、孫にもそれ相応のものを与えるなら、物理的には分かれても、心において繋がり続けるのではないでしょうか。
勿論、モノが繋がりを作るのではなく、モノに込められた心が繋がりを維持するのですが。しかし、物欲の強いラバンは、見えないモノにではなく、見えるモノにしか興味を示しません。
それが如実に現れているのが、29節の言葉です。
31:29 私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ』と言われた。
「害を加える力を持っている」は、ヤコブを殺す事が出来る、ヤコブのモノを根こそぎ奪う事が出来る、
それを行う正当な理由がある、権利がある、と豪語するのです。
奴隷の身分でありながら逃亡したかの如くの言いようであり、娘たちを誘拐した事が、羊や山羊を盗んだ事が前提のような言いようです。
しかし、ヤコブは奴隷ではなく、帰郷と、妻や子どもの同道を申し出、女奴隷とその子どもの譲渡を願い出たのであり、本当に控え目な要求しかしなかったのです。
ラバンには、ヤコブの働きを正当に評価して来なかった事、相応の報酬を与えなかった事、申し出を無視した事、など、ヤコブに対する負い目があり、神様の臨在を経験し、神様の言葉に逆らう事は、災いであると知るが故に、無力感を感じざるを得ず、強がるしかなかったのでしょうが、悪あがきであり、恥の上塗りなのではないでしょうか。
31:30 それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」
「それはそうと」は、単なる接続の言葉ではありません、話の転換の意味ではありません。
意訳するなら「そんな事はどうでもいいが」であり、ラバンが血相を変えて、400kmを四日で踏破した、ヤコブを追い駆けた本当の理由が語られます。
「私の神」即ち「守り神の像」がなくなっていたので、ヤコブが盗んだとして追い駆けて来たのです。
ティグリス川の東、現代のイラク、キルクーク近くで発見された粘土板の記録によれば、神の像は、一家に代々伝えられるものであり、神の像は、長男が受け継ぐものであり、神の像は、その家の宗教、祭儀に関わる大切なものであり、神の像は、一家を治め、まとめて行くのに、なくてはならない大切なものなのだそうです。
神の像の紛失は、一家の大問題、存亡の危機、なのです。
それこそ、顔面蒼白になって追い駆け、顔を真っ赤にして怒鳴り込んだ、が真相なのでしょう。
31:31 ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。
ヤコブの懸念が語られますが、ラバンならやりかねません。
ヤコブの必死の願いを、ぬらりくらりと、はぐらかすのがラバンであり、約束を平気で違えるのがラバンです。
こんな悪い前例、実績があるから、信じられないのであり、交渉では埒が空かないから、約束が守られないから、逃げ出すと言う手段を取らざるを得なかったのです。
31:32 あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。
ヤコブ自身には、疚(やま)しい点は寸分もありませんから、強気な発言をいたします。
ヤコブは、盗んだ者は殺す、と誓うのですが、しかし、愛するラケルが盗んだのであり、知らなかったとは言え、誓った以上、家長として宣言した以上、この誓いは、何らかの形で果たさなければなりません。
思い込みや勘違いを根拠に、知り得た情報だけを根拠に、強気な発言をする事は、断定的に決め付けるのは、断言するのは如何なものでしょうか。
間違っていた時、どうするのでしょうか。
振り上げた拳を、どう引っ込めるのでしょうか。
勘違いでした、知らなかったんです、情報が間違っていたんです、すみません、では済みません。
ばつが悪く、有耶無耶にしてしまい勝ちですが、はっきり謝罪しなければなりません。
そうしなければ、信用を失います。
ヤコブは家長であり、家族に対する責任があり、その発言には責任が伴います。
知らなかったでは済みませんし、済まされません。
ラケルの死の様子が創世記35章16節以降に記されています。
聖書の記事は、相互に関係していますから、全く無関係ではない事は、確かであり、記憶に留めておかなければなりません。
因果応報で考えてはなりませんが、しかし、誓った事は必ず果たさなければならず、不用意な誓いは、厳に慎まなければならないのではないでしょうか。
31:33 そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にも入って見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕に入った。
31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。
31:35 ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。
ラバンが徹底的な捜索を行った様子が記録されていますが、如何に大事なもの、掛け替えのないものであったかが、伺い知れるのではないでしょうか。
貴重品、代々伝わる家宝の類ではなく、象徴的なもの、シンボル的なものでもなく、実質的な意味を持つものであり、神聖が宿るものであり、礼拝の対象であり、力そのものと見ていたのです。
血眼になって探しても見つからず、途方に暮れ、目の前が真っ暗になったのではないでしょうか。
ラケルは、父の精神的、実質的支えである「守り神の像」を「らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていた」のですが、これは、実は大変な事なのです。
先ず、駱駝の鞍に貴重品を隠す、などと言う事は、誰もが考えそうな事です。
しかし、ラバンは何の疑いも持ちません。
それには「汚れ」が関係しますが、「女の常のこと」とは、生理の事であり、ユダヤ社会において、血は大きな意味を持っていました。
一に、命であり、清めであり、二に、汚れ、穢れ、障りである、と言う事です。
日本人には別々の事柄であり、ぴんと来ないでしょうが、ユダヤ人にとっては、一つであり、表裏の関係なのです。
血は命そのものであり、血の取り扱いは慎重でなければならず、命を与えると同時に、命を奪うものなのです。
汚れた者を清めると同時に、扱う者を汚すのです。
特に、本日のテキストに関しては「汚れ」の意味で見なければならず、「守り神」の上に「生理中の女性」が乗っかるなど、想像出来ない事、考えられない事、あり得ない事、絶対にあってはならない事、なのです。
だから、ラバンは、ラケルのラクダを調べる事をしなかったのです。
このような背景があるからこそ、ラケルは「守り神」を信じてはいなかった事の証拠にもなるのであり、「テラフィム」を持っていれば、ラバンの財産に対する相続権を主張出来る、との認識しか持ってはいなかった、と考える事が出来るのです。
盗んだ事は重大な問題でありながら、聖書は特別な咎め立てをしていません。
しかし、認めている訳ではありません。
先に、ラケルの死の様子が創世記35章16節以降に記されている事を紹介しましたが、
罪はそのままにしていてはならず、悔い改め、清算しなければならないのではないでしょうか。
【適応】
神様はヤコブを守られますが、ヤコブとの直接の約束であると同時に、アブラハムとの約束を覚えておられ、忘れてはいないからであり、イサクとの約束を覚えておられ、忘れてはいないからです。
約束の多くは、特別な但し書きがない場合には、当事者限りですが、神様とアブラハム、イサク、ヤコブとの約束は、未来永劫続く約束であり、人間の側が約束を守らなくても、破棄しても、神様は約束を守られるのであり、神様が破棄される事はありません。
ヤコブの行動は、手本となるような行動ではありません。
神様が、カナンに帰りなさい、と命じられたのですから、神様が責任を持ってくださり、あらゆる障害を取り除き、全てを整えてくださいます。
逃げ出さなくても、工作をしなくても、いいのです。
ラケルの行動も、褒められた行動ではありません。
ラケルは、ヤコブの祝福の中に置かれているのであり、ヤコブに従うなら、ヤコブを経由して、神様の祝福が注がれ続けるのです。
わざわざ、ラバンのモノを持ち出さなくても、神様は、それ以上のモノをくださるのです。
そして、大事なのは、ラバンの行動です。
ヤコブもラケルも、そしてレアや子どもたち、ジルパやビルハ、その子どもたちは、神様が守ってくださる、神様が祝福してくださるから、神様に任せておけば良い、ではありません。
また、ヤコブが裕福だから、別に困っていないから、良いだろう、でもありません。
ラバンは、ヤコブを、ラケルを、レアを、ジルパを、ビルハを、子どもたちを祝福しなければなりません。
ヤコブたちを祝福する、即ち、報酬を支払い、花嫁料の分配をし、目一杯の贈り物をして、祝福して送り出す時、ラバンが神様から祝福されるのであり、守られるのです。
祝福は、守りは、連鎖的に、減らずに続く性質のものだからです。
ヤコブは、ラバンから、受け取らなければなりません。
ラバンから受け取る事が、ラバンの祝福に繋がるからです。
報酬、分配、贈り物を辞退するのは、一見、良い事のように思えましょうが、祝福のチャンスを奪っている事と、知らなければなりません。
例え、苦しい中でも、報酬を払い、分配をし、贈り物をする時、祝福されるのであり、守られるのです。
この世のモノを手放す時、神様からの素晴らしいモノを手にするのです。
ヤコブは、ラバンから受け取っているのではなく、神様から受け取っているのであり、ラバンはヤコブに与えているのではなく、神様に献げているのであり、神様から祝福と守りをいただくのです。
ヤコブを守られる神様は、ラバンにも現れてくださり、ラバンに本物の神様の存在と、本当の祝福と本当の守りを教えてくださいました。
しかし、従わなかったのであり、本物の神様の祝福と守りを逃し、ありもしない偽物の神の祝福をも逃してしまったのです。
ここにおられる皆様は、本物の神様に出会った方々です。
本物の神様に従い、この世のものに執着せず、本当の祝福と守りの中を歩まれる事を願ってやみません。
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