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聖書個所:創世記361節~19節               2017-7-30礼拝

説教題:「エサウの歴史(系図)

【導入】

本日の説教題は、361節から持って来てエサウの歴史」とした訳ですが、「歴史」と訳されているヘブル語には「系図、経緯」の意味があります。

本日扱う聖書箇所には、エサウの子、子孫の名前だけが列挙され、その働きや、ヤコブの子、子孫との関わりについては全く触れていないので、「エサウの歴史」と訳すよりも、「エサウの系図」とした方が、読者の助けになると思い、括弧で「系図」を付けた次第です。

本日扱う聖書箇所のみならず、聖書には多くの人物の歴史、系図が記されていますが、その人物の殆が、その他大勢であり、脇役であり、何の活躍もせず、名前が記されているだけです。

しかし、聖書は、その何の働きも貢献もしない、その他大勢を、その他大勢として処理しません。

「無駄」「不必要」とも思えるスペースを割いて、何の働きもしない人物を記録しています。

神様は、脇役でも、何の活躍も貢献もしなくても、一人の人間と見てくださり、大切な人間と見てくださり、記録する事により、一人の人間と見てくださり、大切な人間と見てくださっている事を、私たちに示してくださっているのです。

勿論、皆様ご存知の通り、聖書は2000数百年前にまとめられており、ユダヤ人の歴史ですから、私たちには単なる人名の羅列としてしか理解できませんが、ユダヤ人が読んだなら、エドム人が読んだなら、私の先祖だ、私と同名だ、私のルーツはここにある、と、特別な感慨を持つのではないでしょうか。

今は敵対関係にあっても、先祖を辿れば一緒だった、のであり、忌み嫌ってはならない、のであり、和解のための、大きな助け、力になるのではないでしょうか。

だからこそ、過去を学び、調べる事に意味があるのであり、現代に適応し、未来につなげるのであり、聖書の有用性の一つなのではないでしょうか。

【本論】

36:1 これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。

旧約聖書は紀元前300年~400年にまとめらた、のではないか、と考えられていますが

本日扱っている出来事は、紀元前1700年頃の出来事です。

聖書記者は、聖霊に導かれて記しつつ、現状、即ち、エドムとの関係を脳裏に思い浮かべたのではないでしょうか。

今は敵対関係にあるけれども、エサウは、エドムは、アブラハムの孫であり、イサクの子であり、偉大な民族、国民となる事を約束されている民族だ、という事です。

申命記237

23:7 エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである

エサウは、長子の権利を蔑ろにしたために、イサクから厳しい言葉を与えられはしましたが、神様との関係が絶たれた訳でも、希望がなくなった訳でもありません。

聖書に系図が記されている事が、神様との関係が継続している事を保証し、希望がある事を雄弁に物語っているのです。

しかも、ここだけに、一箇所だけに、辛うじて記されているのではなく、祭司であり、学者であるエズラの手によって、歴代誌第1135節にもしっかりと記されているのであり、注目に値する事です。

繰り返しは、重要な事の証拠であり、見逃してはならない事、注目すべき事であると教えているからです。

36:2 エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。

36:3 それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。

エサウの妻、三人の名前が記されていますが、エサウの妻の名前が記されているのは、ここだけではありません。

先に学んだ創世記2634節と、289節にも記されていますが、整合性に疑問がある記述です。

26:34 エサウは四十歳になって、ヘテ人ベエリの娘エフディテとヘテ人エロンの娘バセマテとを妻にめとった」であり、

28:9それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった」です。

一致しているのは「バセマテ」だけですが、それも関係性が違っています。

出鱈目、と言われても、仕方がないような記述です。

伝承の過程で、間違えたのか、入れ違えたのか、エサウがエドムと呼ばれていたように、幾つかの名前を持っていたのか、或いは、三人の妻ではなく、四人の妻がいたのか、などが考えられ、複合的に絡んでいるのかも知れませんが、確認の仕様がありません。

しかし、この整合性の不備は、聖書の伝承性を否定するものではありません。

整合性を重視する余り、書き換えや、書き加え、或いは削除を行うのは、聖書に対する正しい態度ではありません。

重箱の隅を見るのではなく、聖書の全体を見なければならず、整合性に執着するのではなく、聖書の趣旨を見誤らない事に執着しなければならないのです

聖書の記された時代は、男性社会であり、男性の名前や、出自、血統が重要視された社会であり、女性の名前や、出自が慎重には扱われなかった事の名残なのかも知れません。

本日のテキストに従っての名前、関係性で話を進めたいと思います。

36:4 アダがエサウにエリファズを産み、バセマテはレウエルを産み、

36:5 オホリバマはエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらはカナンの地で生まれたエサウの子である。

結婚した順は、「アダ、オホリバマ、バセマテ」であり、バセマテはイシュマエルの娘であり、血統的に重要に扱われて然るべきですが、そのようには扱われてはいません。

聖書の系図の記し方の原則は、生まれた順番に、しかし、重要な系図は後に、です。

アブラハムの子、イシュマエルとイサクの場合には、イシュマエルの系図が先に記され、イサクの系図が後ろであったように、イサクの子、エサウとヤコブの場合にも、エサウの系図が先に記され、ヤコブの系図は後ろで、なのです。

この少し後の10節以降に記されているエサウの系図は全て「アダ、バセマテ、オホリバマ」の順で記されています。

先に紹介した原則に従うと、エサウの子孫においては、「オホリバマ」の子は重要な地位、働きを担っている事を、暗に示していると考えられるのですが、具体的には何も記されていません。

聖書の書かれた時代には、説明するまでもない、周知の事があったのかも知れませんが、

それは今では知りようがありません。

36:6 エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。

36:7 それは、ふたりが共に住むには彼らの持ち物が多すぎて、彼らが滞在していた地は、彼らの群れのために、彼らをささえることができなかったからである。

36:8 それでエサウはセイルの山地に住みついたのである。エサウとはすなわちエドムである。

この件、アブラハムと甥のロトとの件と酷似していますが、状況はもっと厳しかったようです。

エサウ、ヤコブ、共に非常に富んでいた状況は同じですが、そこにイサクの財産、家畜、使用人も加わるのですから、分かれて暮らすのは必然な事だったようです。

イサクは、3527節に記されていたように、「キルヤテ・アルバ」「ヘブロンのマムレ」を

本拠地としており、エサウは、3316節に記されていたように、イサクと離れて、「セイル」に本拠地を移しつつあったようです。

ヤコブはイサクの財産と、住んでいた地域とを相続したのであり、エサウは、長子の権利を継いだヤコブへの譲歩を示し、イサクの死を契機に全面的に退去し、セイルを本拠地とし、住みついたのでしょう。

36:9 これがセイルの山地にいたエドム人の先祖エサウの系図である。

36:10 エサウの子の名は次のとおり。エサウの妻アダの子エリファズ、エサウの妻バセマテの子レウエル。

36:11 エリファズの子はテマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズである。

36:12 ティムナはエサウの子エリファズのそばめで、エリファズにアマレクを産んだ。これらはエサウの妻アダの子である。

エサウの一番目の妻「アダの子はエリファズ」一人であり、エリファズの子、即ちエサウの孫は「テマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズ」「アマレク」の六人です。

36:13 レウエルの子は次のとおり。ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ。これらはエサウの妻バセマテの子であった。

エサウの三番目の妻「バセマテの子」は「レウエル」一人であり、レウエルの子、即ちエサウの孫は「ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ」の四人です。

36:14 ツィブオンの子アナの娘でエサウの妻オホリバマの子は次のとおり。彼女はエサウにエウシュとヤラムとコラを産んだ。

エサウの二番目の妻「オホリバマの子」は「エウシュとヤラムとコラ」であり、聖書は、エサウの子は「エリファズ」、「レウエル」そして「エウシュとヤラムとコラ」の五人であり、エサウの孫として「テマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズ」「アマレク」、「ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ」の十人を紹介、記録しています。

36:15 エサウの子で首長は次のとおり。エサウの長子エリファズの子では、首長テマン、首長オマル、首長ツェフォ、首長ケナズ、

36:16 首長コラ、首長ガタム、首長アマレクである。これらはエドムの地にいるエリファズから出た首長で、アダの子である。

36:17 エサウの子レウエルの子では、次のとおり。首長ナハテ、首長ゼラフ、首長シャマ、首長ミザ。これらはエドムの地でレウエルから出た首長で、エサウの妻バセマテの子である。

36:18 エサウの妻オホリバマの子では、次のとおり。首長エウシュ、首長ヤラム、首長コラである。これらはエサウの妻で、アナの娘であるオホリバマから出た首長である。

36:19 これらはエサウ、すなわちエドムの子で、彼らの首長である。

首長」の直訳は「千の」であり、「千人の長」「千人を束ねる頭」の意味であり、非常に大きな集団を意味します。

エサウの一番目の妻「アダの子はエリファズ」であり、エリファズの子、即ちエサウの孫の「テマン、オマル、ツェフォ、ケナズ、コラ、ガタム、アマレク」の七人が首長になり、エサウの三番目の妻「バセマテの子」は「レウエル」であり、レウエルの子、即ちエサウの孫の「ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ」の四人が首長になり、エサウの二番目の妻「オホリバマの子」は「エウシュとヤラムとコラ」であり、この三人が首長になったと言うのです。

コラ」の名前が二つ挙げられていますが、重複ではなさそうであり、エサウの孫十一人と、子三人、計十四人が首長になった訳です。

子の代で勢力を伸ばし、孫の代で勢力を伸ばしたのでしょうが、余所者が住み着くには、戦い取るにしても、融和的に馴染むにしても、長い年月を必要とします。

その点で、子の代で首長、千人規模の集団になるのは、簡単な事では有りません。

とすると、エサウの二番目の妻「オホリバマ」は「ヒビ人ツィブオンの子アナの娘」ですが、

ヒビ人ツィブオン」或いは、その子「アナ」はエサウが住むセイル地方の有力な首長であり、「エウシュとヤラムとコラ」は「ヒビ人ツィブオンの子アナの娘」の子という事で優遇され、「ヒビ人ツィブオン」或いは、その子「アナ」は孫の「エウシュとヤラムとコラ」を陰日向になって支援、援助したのかも知れません。

それで、子の代で勢力を伸ばし得、首長となり、「首長エウシュ、首長ヤラム、首長コラ」の支援と援助で、エリファズの子、即ちエサウの孫の「テマン、オマル、ツェフォ、ケナズ、コラ、ガタム、アマレク」の七人が首長になり、レウエルの子、即ちエサウの孫の「ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ」の四人が首長になれたのではないでしょうか。

こんな功績があったからこそ、エサウの二番目の妻「オホリバマ」、その子「エウシュとヤラムとコラ」は尊重され、系図において優遇され、然るべき処に記録されたのではないでしょうか。

神様のご計画、配剤は妙なるかなです。

【適応

主流ではない、その他大勢の、消えて行く傍系の歴史にさえ、神様は関心を持っておられるのであり、滅びる事のないように、虐げられる事のないように、増え拡がり、大きな民族、国民となる事を願い、必要な助けを起こしてくださるのです。

その助けは、均等、均一、平等、同時に、ではなく、また、順番に、でもありません。

神様の主権で、質も、量も、タイミングも決められます。

神様は、先に、オホリバマの子三人を助け、大きな力を持つ民族としてくださり、次に、アダの孫七人、バセマテの孫四人を助け、大きな力を持つ民族としてくださるのです。

これは、主流であるアブラハム、イサク、ヤコブの扱いに於いても同じです。

神様は、特定の一人、ある家族、ある氏族を選ばれますが、その、特定の一人、ある家族、ある氏族だけに関わるのではなく、他の兄弟、他の家族、他の氏族を用いて、選ばれた特定の一人、ある家族、ある氏族を助け、支援し、また、訓練し、罰をも与えるのです。

特に、血縁関係は、強い協力関係を得られますし、親身になって忠告し、諌めるのも、血の繋がりがあってこそ、なのではないでしょうか。

勿論、近いが故に、軋轢も生じ易く、一度拗れると関係修復に非常な苦労をしましょうが、何と言っても兄弟は兄弟であり、親子は親子であり、親族は親族であり、神様は、助け合うように、協力し合うように、支えあうように、切磋琢磨するように創られたのです。

お互いが助け合い、皆が成長し、皆が大きくなり、皆で神様に仕えていくのです。

結果として、エサウの子、孫たちは、名前が挙げられているだけで、建設的な何の働きもせず、エサウ、エドム民族は、イスラエル民族と対立する事になり、同一一族とは断定できませんが、アマレクはイスラエルの強敵になり、宿敵として戦いに明け暮れる関係になってしまいます。この史実は出エジプト記178節に記されていますので、それぞれでご確認願います。

残念な結果ですが、神様が意図された事ではありません。

神様のご計画は、イスラエルが、エジプトに居る間、エサウ、エドムに、カナンの地を守らせ、イスラエルが戻って来て、イスラエルが主となり、エサウの協力を得て、カナンを平定し、共に神様の祝福に与るのが、カナンを足がかりにして、世界を祝福するのが、神様のご計画です。

先に、イサクは、イシュマエルと分かれましたが、イシュマエルも神様の祝福に預かる民であり、アブラハムの子孫として、イスラエル、エサウと共に、カナン一帯を支配するのが、世界を祝福するのが、神様のご計画です。

決して敵対するために、イシュマエル、エサウが置かれた訳ではありません。

今は敵対関係であっても、憎しみ合う関係であっても、過去には良好な関係の時期があったのであり、和解し、協力して、神様の御栄光を現し、世界を祝福する使命は、不変です。

イスラエル、エドムの和解が、世界の和解の基となり、世界の祝福となる事を願ってやみません。

ここにおられる皆様は、世界に和解と祝福をもたらす器としての働きが期待されています。

神様の主権に従って、神様にお仕えし、神様の御栄光を現し、祝福を取り次ぐ器となる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記3516節~29節               2017-7-23礼拝

説教題:「最愛の妻ラケルの死

【導入】

心機一転、と言う矢先に、思わぬ障害が起こる事は、決して珍しい事ではありません。

気合をそぐような、やる気を失わせるような、意気込みをあざ笑うような出来事の悲しさ、苦しさ、辛さの大きさは、気合、やる気、意気込みの大きさに比例して大きいようです。

洗礼を受けたからといって、事態が好転し、次々に問題が解決する訳ではありません。

今まで問題と思わなかった事が問題になるのであり、この世では普通の事が、教会では普通ではない事が、逆に教会では普通の事が、この世では普通ではない事が次々に出て来るのであり、教会籍を移した途端に、今まで見えなかった教会の内情が見えるようになり、がっかりする事も珍しい事ではありません。

教会生活のみならず、社会生活、家庭生活でも、進学、就職、結婚、引越しなどでも、期待を裏切るような出来事は、枚挙に暇がありません。

勿論、残念な事だけが起こる訳ではなく、悲喜こもごもが交互に、時に同時に、しかし、均等にやってくる訳ではなく、「泣きっ面に蜂」が嫌というほど続く、なんて事も珍しい事ではありません。

ヤコブは、娘の誘拐と言う心労を味わい、それに関連して地域住民の憎悪を買い、恐怖の中に置かれた時、神様のお取り扱いを受け、神様との新しい関係が構築され、イスラエル民族としての、新しい歩みを始めましたが、その矢先に、大きな出来事に、不幸に見舞われます。出来事には、時に意味があります。

特に、神様に従う者には、大きな意味が隠されている事があります。

【本論】

35:16 彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。

聖書には多くの地名が記されていますが、先に地名があった訳ではなく、後から、そう呼ばれるようになったケースも少なくありません。

人類は、未開の地に進出して行ったからであり、そこに自分の名前、子どもの名前を付け、土地の特徴を名前として冠したからです。

エフラテ」は「実り豊かな地」の意味であり、そう呼ばれていたのかも知れませんが、ヤコブが付けた、希望と期待を込めた、新しい地名なのかも知れません。

エフラテ」のあった地域はこの少し後の19節で説明されているように、後に「ベツレヘム」と呼ばれるようになりますが、全く同じ地域を現している訳ではなく、栄えては寂れ、寂れては栄えを繰り返す中で、ヤコブの後の支配者が、「エフラテ」に「ベツレヘム」と命名したのでしょう。

ベテル」と「エフラテ」は凡そ20km程、離れています。普通に歩いて56時間の距離ですが、整備されていない道を行くのであり、ロバに乗るにしても、荷車に乗るにしても、出産期の妊婦にとっては、非常に過酷な旅となった事でしょう。

ロバや荷車の上は、決して快適な空間ではありません。揺れや振動に身を任せておけば良い訳ではなく、揺れや振動に合わせなければならず、その時間は、体に力が入る時間であり、陣痛に繋がってしまったようです。

35:17 彼女がひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に、「心配なさるな。今度も男のお子さんです」と告げた。

ラケルとレアの確執は、29章、30章で確認したところですが、ラケルは妊娠しにくい体質だったようであり、中々妊娠出来ず、やっと妊娠し、出産したのがヨセフでした。

この「ヨセフ」には「加える」の意味がありますが、ラケルの切実な願いを込めた命名であり、「もう一人の男の子」を心の底から欲しての命名だったのです。

一方、姉のレアは子沢山であり、レアの子の命名の意味、ビルハやジルパの子の命名の意味は29章、30章で確認したところですが、名前の意味の多くは、神様と関連性があり、客観的な命名でした。しかし、ラケルは、自身の切なる願いを込めて命名したのであり、自身のプライドのための、神様不在の自己満足な願いを込めたのであり、自身の栄光を求めた命名だったのであり、残念です。

ヤコブ一族は、神様の栄光を現す使命を持つ一族であり、何をするにも、しないにも、神様との関連を考えなければなりません。

子どもも、財産も、名誉も、権力も、神様からいただき、神様から預かるのです。

その意識、基本を忘れると、子どもや財産、名誉や権力が、好ましいものではなくなる危険があります。悪しきモノとなり、自身や周囲に害をなす事になりかねないのです。

願いは叶えられた、しかし、失うモノが余りにも大きい、と言う事になりかねないのです。

ヤコブの生涯は正にそんな生涯だったではありませんか。長子の権利と祝福を手に入れたけれども、兄の憎しみを買い、家族と分かれて、20年も苦労しなければならなくなってしまったのです。

人間には罪があり、その行う事には、願う事には必ず、罪が付きまとい、100%良くて、欠点0と言う事も、100%悪くて、良い点0と言う事もないのです。

神様の御こころを忘れた願いには、神様を蔑ろにした願いには、問題の種が付いて来てしまいます。しかし、何かを願う時、交換条件が発生する、という事ではなく、有限な人間には、間違いを含んだ判断、決断しか出来ない、と言う事なのです。

最善の策の筈が、最悪の結果を招きかねないのです。ですから、願いを押し通すのではなく、全能の、無限の、不変の神様の御こころに委ねる事が、大切なのです。

35:18 彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。

医学の発達した現代でも、出産には大きな危険が伴います。

無事出産しても、産後に急変する事があり、母子共に安心は出来ません。

ラケルは旅の途中で、出産に臨み、「もう一人の男の子」の願いは叶いますが、自身の命を損なう事となってしまいます。

ラケルは死に臨む中で、待望の男の子に「ベン・オニ」と命名しますが、「私の苦しみの子」の意味です。

「苦しんで生んだ」の意味にも、「この子のために苦しんで来た」の意味にも取れますが、喜びの筈の出産を喜べない、葛藤の滲んだ命名ではないでしょうか。

しかし、出産は大きな喜びであり、祝福であり、ヤコブは「ベニヤミン」と命名します。

その意味は「右手の子」であり、「右手」は「力、権威、名誉」を象徴し、その根源である「神様」を象徴し、神様からの「幸運、卓越、健全、巧みさ」を意味します。

ヤコブの、信仰者としての、素晴らしい意思表示であり、最愛の妻ラケルを亡くした中でも、辛い状況の中でも、出来事を肯定的に捉え、神様を賛美し、神様に栄光を帰するのです。

35:19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、今日のベツレヘムへの道に葬られた。

35:20 ヤコブは彼女の墓の上に石の柱を立てた。それはラケルの墓の石の柱として今日に至っている。

ヤコブはラケルを妻としたくて、伯父ラバンの下で14年も働いたのであり、患難辛苦に耐えて来たのですから、ラケルの死は、どんなに深い悲しみ、苦しみ、嘆きをヤコブに与えた事でしょうか。

しかし、聖書は、ヤコブの感情を、悲しみ、苦しみ、嘆きを一言も記していません。

しかし、何も記していないからこそ、「墓の上に石の柱を立てた」との事実のみの記録の中に、ヤコブの深い嘆きが滲み出ているのではないでしょうか。

詳細に語らずとも、「墓の上の石の柱」が雄弁にヤコブの気持ちを物語っているのではないでしょうか。

陳腐な言葉の羅列よりも、無機質な情景描写のほうが、ヤコブの深い悲しみを強く表すのではないでしょうか。

人が悲しみ、嘆き、落ち込んでいる時、ありきたりの励ましの言葉をかけるより、黙って寄り添い、慈愛に満ちた眼差しを向ける方が、支えになる事もあるのです。

この「石の柱」ですが、ベテルで立てた「石の柱」と、意味は全く違います。ベテルの「石の柱」は、神様に対してであり、神様の顕現を記念してであり、神様の憐れみに対してであり、神様の与えてくださる希望に対してですが、エフラテの「石の柱」は、人間の命の儚さ、生きる悲しみ、まとわり付く苦しみに対してであり、人間の弱さ、絶望の告白です。

そして、このラケルの死は、単純な、不運な出産事故ではありません。

ラケルは、父ラバンが大切にする、一族の守護神テラフィムを盗んだのであり、狡賢く隠したのであり、ヤコブは、「盗んだその者を生かしてはおきません」と誓っているのです。

人間の目には隠されていても、神様は見ておられ、聞いておられ、その通りになさるのではないでしょうか。

私たちは、自分の正しさを誇張する余り、ついつい勢まいて、大げさな誓いや宣言をしてしまい勝ちですが、無分別に言った事でも、正式に取り扱われる事があるのであり、発する言葉には注意と、吟味が必要でしょう。

勿論、正式に訂正し、修正するならば別ですが、そのままにしておいたなら、その通りに進みます。

人間は、常に正しくあり得ないのであり、神様の前の、罪深い存在である事を、失敗ばかりする愚かな存在である事を忘れてはならず、神様の憐れみで生かされ、歩み続けるのであり、これを忘れてはならないのです。

さて、

何時までも、深い悲しみに身を委ねていてはならず、立ち上がり、進まなければなりません。

35:21 イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。

悲しみの中で旅を続けるのは、容易な事ではありません。

ヤコブは、「エフラテ」から程遠くないところ、「ミグダル・エデル」に天幕を張ります。

ミグダル・エデル」の直訳は「群れの塔」であり、「羊を見張るための塔」の意味であり、ミカ書48節の記述から「シオンの丘」即ち「エルサレム」の事と考えられます。

地理的に「エフラテ」即ち「ベツレヘム」と、「ミグダル・エデル」即ち「シオンの丘、エルサレム」は隣接しており、重要な地名が次々に示されるのです。

今は、一時滞在であり、戻って来るのはずうっと先の事であり、ヤコブたちは知る由もないのですが、神様の遠大なご計画の一端を、緻密なご計画を教える貴重、重要な箇所なのです。

35:22 イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。さて、ヤコブの子は十二人であった。

ヤコブ一族の醜聞、スキャンダルが、これ以上簡潔に出来ない位、簡潔に記録されています。ヤコブの心中、家族の反応、神様のお取り扱いの一切が記されていません。

ヤコブは何の対応も取らなかったのであり、これは問題、と思いましょうが、創世記493節以降や、歴代誌第151節に、ルベンが長子の権利を受けられなかった理由を記していますが、この処置こそ、長子の権利に異常な執着を示したヤコブならではの処遇なのではないでしょうか。

兄を押し退け、父を騙しても手に入れる価値のある長子の権利であり、祝福を与えない事以上の仕打ち、処遇はないのであり、ヤコブの考え得る、行ない得る、最大の罰を与えた、と言う事なのです。

長子が長子の権利と祝福を受け取れない事が、どんなに大きな恥辱であるかを知るヤコブならではであり、それだけの事をルベンはしてしまった、と言う事なのです。

35:23 レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。

35:24 ラケルの子はヨセフとベニヤミン。

35:25 ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。

35:26 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。これらはパダン・アラムでヤコブに生まれた彼の子たちである。

ヤコブの子たちの名前が、母親別に列挙されていますが、パダン・アラムで11人が生まれ、「エフラテ」の手前、神様の約束の地に入って1人が生まれ、イスラエル一族、イスラエル12部族の完成となるのです。この記述も、含蓄のある記述なのではないでしょうか。

神様は完成品を持って来るのではなく、カナンの地で完成品に仕立てるのであり、エジプトの守りの中で数を増やし、充分力を付けてからカナンに帰還させるのです。

カナンで偶像と戦い、神様に相応しく整えられ、完成に向かうのです。

神の民が、御こころに適う者となるのは、イエス様再臨の時まで待たなければなりません。

神の民は、この地上で完成する事はなく、日々訓練を受け、整えられ、完成を目指して歩み続けるのです。

現代の私たちも同じです。

洗礼を受けて完成するのではなく、洗礼を受けてから、死ぬまで訓練を受け、少しずつ聖とされて行くのです。このプロセスを「聖化」と言いますが、一朝一夕には完成しません。

日々の、聖化を意識した生き方、日々の、聖書通読とデボーション、祈り、週毎の、礼拝を通して、聖とされて行くのです。

35:27 ヤコブはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。

父イサクのところに行」く事は、旅の終焉であると共に、家督の継承のためでもあります。

父イサクが生きている間は、家督を相続、継承する事は出来ません。

父が死んで後に、正式に家督を相続、継承するのであり、その手続きのために、父イサクが住む「キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレ」に行ったのです。

ミグダル・エデル」と「ヘブロンのマムレ」とは30km程離れており、ヤコブは「ミグダル・エデル」に10年ほど滞在した後に、イサクの死を見取ったようです。

35:28 イサクの一生は百八十年であった。

35:29 イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子エサウとヤコブが彼を葬った。

イサクの死により、歴史はヤコブ、イスラエルに移りますが、葬りは重要な事です。

特に「自分の民に加えられた」との表現は重要です。

自分の民」は「先祖の列」の意味であり、人間は「個」でありつつ、「特定の群れ・集団」に属するのであり、アブラハム、イサク、ヤコブ・イスラエルの流れ、血縁に加えられる事、加えられる生き方をしたか、が重要なのです。

即ち、どのように使命に生きたか、が重要なのです。

アブラハムに与えられた、世界を祝福する働きの継承者である事の意識、自覚が重要なのです。何をなしたかではなく、働きを継承した事の自覚が重要です。

自覚があれば、変化が期待出来るからであり、自分では為し得なかったにしても次世代に継承出来るからです。

そして、何処に葬られたかも重要です。

イサクは、父アブラハムの私有の墓所、マクペラの墓地に葬られたのであり、アブラハムを祖とする神の民に加えられたのであり、将来、ヤコブも同じ墓所に葬られるのです。

人間は、死んでおしまい、なのではなく、死に方、死んだ後が大事です。

継承者を残して死に、継承者に委ねて死に、神の民の群れに加えられ、神の民として生きた事を、後世に伝える事が大きな役割、使命なのです。

神の民として生きた事を、墓を通して証するのです。

【適応

ヤコブにとってラケルは最愛の妻であり、アブラハム、イサクから働きを継承して、神の民としてカナンに定着し、増え広がり、開拓して行く、同志であり、戦友でしょう。

ヨセフの活躍、ベニヤミンの働きを見たかったでしょうし、見せてあげたいのが人情でしょう。

ヤコブにとって、ラケルは、なくてはならない人ですが、人には、それぞれ、働きの場と、時がある事を忘れてはなりません。

居て欲しくても、居なくなる時が来るのであり、働いて欲しくても、働けなくなる時が来るのです。

どんな働きかを、指定出来ないかも知れません。

レアと、ビルハ、ジルパは子を産む働きを終えても、生き永らえますが、ラケルは、子を産む働きを終えたなら、即刻、舞台から退場しなければならなかったのです。

何人産むかも、それぞれですし、一様ではないのです。

もっと働きたくても、退場しなければならない事があり、ここで働きたくても、別の所が、働きの場なのかも知れません。

第一線から退くタイミングは、本人の主観的判断によるのではなく、第一線に加わるタイミングも、本人の主観的決断によるのではなく、神様の主権によるご計画で、です。

神様の主権は、環境を通して現され、状況を通して示されます。

同盟教団では、秋に、教師試験の時期を迎えますが、教師になりたい人を教師にするのではなく、聖書、キリスト教に関する知識や学力、説教原稿、論文を調べ、同盟教団に関する歴史、教憲、教規、規則の理解を調べると共に、第三者数人の推薦、人物評価が大きな比重を占め、第三者の客観的な判断と、教師試験委員、理事が、教師として相応しいかを総合的に判断します。

学力があり、知識があり、聖書を正しく説経出来ても、それだけが教師の条件ではないのです。

引退は、本人に任される部分が大きいのですが、同労教師や、理事の判断、助言を謙虚に聞き、引退の時期を判断すべきでしょう。

神様に仕えるのですから、本人だけの問題ではなく、神様の御栄光を現す大切な働きですから、客観的な判断を仰がなくてはなりません。

自分のしたい事、出来る事を、自分の判断、決意でする、しないのではなく、神様の主権に、聞き従うのでなければなりません。

最愛の妻であろうとも、神様のご計画で取り去られるのであり、最悪の息子でも、生き永らえ、兄弟をまとめて行くのです。

ヤコブは、ラケルとの関わりで、神様の主権を学んだのではないでしょうか。

ラケルと結婚したかったのに、ラバンの策略でレアと結婚させられ、人を騙す事の苦さを知った事でしょう。

ラケルの子を欲していたのに、生まれて来るのはレアの子、ビルハの子、ジルパの子ばかりであり、ラケルの子は、諦めた時に、与えられたのです。

ヤコブは、人の生き死を支配しておられるのは、神様である事を学びました。

どんなに願っても、願いの通りにはならず、神様の時を待たなければならない事も学んだ事でしょう。

ラケルの存在は、ヤコブに与えられた大きな試練であり、ヤコブは、神様の主権を学んだのであり、知恵と策略で立ち回る事の愚かさを学んだのでありこれから、イスラエルとして新しい歩みに入って行くのです。

ここにおられる皆様も、神様の僕としての明確、堅固な自覚を持ち、神様の主権に従って、神様に仕え、神様の御栄光を現す事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記351節~15節               2017-7-16礼拝

説教題:「神様の示された目的地・・・ベテルでの礼拝

【導入】

私たちは、状況を好転させるために、知恵を出し合い、創意工夫をいたしますが、必ずしも効果的であるとは限りません。

逆効果である事も、しばしばなのではないでしょうか。

関係者全てに最善をもたらす策、との確信があっても、結果に対する期待値の差は少なからず存在し、喜ぶ者も居れば、「話が違う」と不満を持つ者も居る、と言うのが現実でしょう。ましてや、悪意を込めた計画が、更なる、大きな問題を引き起こさない筈がなく、疑心暗鬼に取り付かれ、最初の悪意を上回る悪意の応酬合戦が始まりましょう。

悪意は、雪達磨式に大きくなり、際限なく広がり、多くの人々を不幸に巻き込みます。

シメオンとレビが立てたシェケムの住民殺戮の計画と実行は、それだけで充分、恐ろしい事であり、大きな憎しみを買う事ですが、他の兄弟たちが行なったシェケム殲滅と略奪は、より一層の憎悪を煽る事ではないでしょうか。

シェケムの町の住民は、孤立していた訳ではなく、近隣の町や村と相互に助け合い、協力し合い、外敵に対抗して、生き残って来ていたのです。

シェケムの町の住民の関係者が、そこ彼処に住んでいるのであり、シェケムの町の住民に助けられた人々が、そこ彼処に居るのであり、それらの人々が、シェケムの町の住民の敵討ちに、余所者の横暴に対する制裁に、立ち上がらないはずがありません。

非常な緊張感の漂う中であり、双方が、下手に身動き出来ない、そんな状況の中で、神様がご介入され、ヤコブの身の処し方に、方向性が与えられます。

【本論】

35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

神様は、ヤコブの身勝手な考えからのスコテ滞在、シェケム逗留、シェケムの町に対しての非道を非難しません。

神様は、直接、非難のことばを発しませんが、決して、ヤコブの行動を認めた訳ではなく、赦した訳でも、理解を示した訳でもありません。

身勝手な行動が招いた、緊張感、恐怖は、何時までも、何処までも付き纏うのであり、一生、背負わなければならないのです。これは、本当に重い十字架でしょう。

心底から安心出来ず、本当の平安に憩う事が出来ないのです。

何時も緊張を強いられ、何処に行っても恐れ、怯えながら生きなければならないのです。

心身共に疲弊し、バランスを崩し、病気になってしまうのは必至でしょう。

報復に怯え、身動きの取れないヤコブに、神様は明確に命じるのであり、それは、信仰の原点を確認する作業であり、信仰の復興を促す作業です。

ベテルは、ヤコブが神様と出逢った場所であり、御ことばを掛けて頂いた場所であり、慰めと励ましと、希望を頂いた場所であり、最初の祭壇を築いた場所です。

ヤコブの信仰の原点であり、ヤコブの信仰において帰るべき場所であり、ヤコブの信仰において離れてはならない場所です。

これは地理的に、の意味ではなく、心においての意味であり、常に、神様と自分との深い、密な、豊かな関係は、ベテルでスタートした事、ベテルに祭壇がある事を忘れてはならないのです。

現代の私たちに適応するなら、洗礼を受けた事と、何処で洗礼を受けたか、に相当するでしょう。

私は、あの教会で洗礼を受けたんだ、あの教会で私の信仰は始まったんだ、との認識はとても重要、貴重です。

信仰生活は、順風満帆ではありません。紆余曲折があり、停滞頓挫があり、失敗挫折が付きものです。

私の信仰は本物だろうか、との迷いが生じるのは、誰もが、必ず経験する事です。

そんな時、私はあの教会で洗礼を受けたんだ、あの教会で私の信仰ははじまったんだ、は揺ぎ無い事実であり、常に心に留め置く事は、時には、実際に行ってみて確認するのは、とても有益です。

ですから神様の御ことば「住みなさい」は定住、永住の意味ではなく、「留まりなさい」の意味である事は、次回学ぶ、16節の記述からも明らかです。

そして「祭壇」は礼拝と、献身の場である事を理解しなければなりません。

献げ物をもって感謝を表し、神様に仕える事を誓うのです。

これは、現代の礼拝に通ずるところでもありましょう。

礼拝は、習慣でも、義務でも、規則でもありません。

神様に愛され、罪を贖われ、罪を赦され、招かれた事に感謝して、であり、神様に従う生き方の決意を確認し、新たにする時なのです。

神様の前に出るのですから、備えが必要である事は言うまでもありません。

35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。

自分の家族」のみならず、「自分といっしょにいるすべての者」が「異国の神々を取り除き」「身をきよめ、着物を着替え」なければなりません。

自分といっしょにいるすべての者」は、僕を含み、奴隷を含み、捕虜を含みます。

ヤコブは自身や家族のみならず、使用人、捕虜に至る全ての人々の中から、「異国の神々を取り除き」「身をきよめ、着物を着替え」させます。

この徹底さは、学ぶ必要がありましょう。

異教の神々を身に付けたままで、或いは身近に置いたままで、卑劣で残忍な行為を行ったままの姿で、神様の前に出る事は出来ません。

これらは宗教的行為であり、象徴的行為であり、神様との関係を正し、維持するためにしなければならない、大切な条件、儀式、行為です。

しかも、単なる儀式ではなく、悔い改めを表し、新しくされる事を意味する儀式、行為です。

礼拝の心得は、1に、二心のない忠誠であり、2に、聖潔であり、3に、異教的なもの、魔術的なものの放棄、です。

順番に確認して行きましょう。

1、二心のない忠誠。神にも仕え、この世にも仕え、であってはならず、この世の事は大切であり、必要ですが、神様より上位に置いてはなりません。

2、聖潔。聖い、尊い、偉大な神様の前に出るのですから、それを意識した服装でなければならず、清潔さが求められましょう。

決して作業着、普段着で礼拝に出てはならないと言っているのではなく、沐浴してからでないと礼拝に出てはならないと言っているのでもありません。

ずっと年下の者、遥かに下位の者の結婚式であっても、よれよれの普段着で、ぼさぼさの頭で、汗臭いままで出席しますか。決してそうではないでしょう。

罪人の献げる礼拝であり、欠けだらけであり、貧しい礼拝しか献げられないのですから、せめて、その時出来る事をして、正装でなくても、新調でなくても、身綺麗にして、礼拝に臨みたいものです。

3、異教的なもの、魔術的なものの放棄。明確な偶像礼拝や異教神礼拝は言わずもがなであり、お守りの類、縁起担ぎ、迷信、俗信、拘り的なものなど、意味のないものを放棄しなければなりません。祟りとか、呪いなんてありません。勿論、ラッキーアイテム、ラッキーカラー、ラッキーナンバーなんてものも、根拠のないものでしかありません。

こんな意味のないものに、意味のない慣習に縛られてはなりません。

徹底的に捨てなければならないのです。

35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

礼拝は、時間的にも、空間的にも、精神的にも、区別される必要があります。

とは言え、絶海の孤島に行く、と言うのは現実的ではありません。

この世の生活と連続性を持っていますが、だからこそ、時間を区切り、家庭を離れ、仕事を離れ、一人静まり、一対一で神様の前に立たなければなりません。

しかも、八百万の神に礼拝をささげるのではなく、天地万物を造られた唯一の神様に、共に歩んでくださる神様に、何時も側に寄り添って、慰め、励まし、助け、導いてくださる神様に礼拝を献げるのです。

35:4 彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。

耳輪」は単なる装飾品を意味する訳ではありません。

「お守り」「護符」の類であり、宗教的意味を持つものであり、唯一の神様に相応しいものではありません。

耳輪以外にも指輪、腕輪、髪飾り、ネックレス、ブローチ、・・・様々な装飾品がありますが、そのルーツを調べると、宗教的であったり、呪術的であったり、富や地位の象徴であったりしますので、扱いには注意が必要でしょう。

聖書も、外面的な飾りではなく、内面的な人格、品格を豊かにする事を教えていますが、少なくとも礼拝には不必要であり、華美な装飾品は着けない、のがベストのチョイスなのではないでしょうか。

35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。

残虐非道な事を行ったのはヤコブ一族であり、その責はヤコブ一族が引き受けるしかありません。しかし、神様は、特別に介入され、ヤコブ一族が報復を受ける事にならないようにしてくださったのです。

ヤコブ一族に、守られる資格があった訳ではありません。一方的な、神様の恩寵であり、受ける資格がない者に与えられた、神様の特別な恵みなのです。

この神様の恵みに預かる秘訣は、神様の命令に従ってシェケムを出る事です。

シェケムに留まり続けるなら、双方が、常に緊張状態に置かれる事になり、何かの切欠で、均衡が崩れれば、ヤコブ一族は壊滅的な痛手を受ける事になるでしょう。

しかし、神様の守りがあって、ヤコブ一族は何事もなく、撤収する事が出来たのです。

35:6 ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。

35:7 ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。

兄からのがれ」た時の次第は、創世記28章に記されていますが、その時ヤコブの持ち物は、杖一本でした。しかし、シェケムに到着した時点で、ヤコブは富豪と呼ばれる財産を持つに至っていたのであり、シェケムの町から奪い取った物を合わせると、大富豪と呼ばれるに相応しい者になっていたのです。

パダン・アラムで得た物も、シェケムで得た物も、神様の約束、神様の誠実の故であり、ここでも、受ける資格がない者に与えられた、神様の特別な恵みなのです。

神様の恵みは、一方で注がれるけれども、他方で垂れ流し状態、雲散霧消、プラス・マイナス・トントン、なのではありません。

神様の恵みは、四方八方から注がれて、溢れ出て、周りを潤し、関係者を祝福するものなのです。敵にさえも、祝福をもたらすのが、神の民の使命です。

その点で、ディナの軽率な行動と、シメオンとレビの残虐な行動は、祝福をもたらすはずのヤコブに相応しいものではなく、残念な事です。

ベテル」は「ベト・エル」「神の家」の意味であり、「エル・ベテル」は「エル・ベト・エル」「神の家の神」の意味です。

重複し、強調しているだけでなく、神の臨在を示しての、命名である事が明らかです。

6節の「ベテル」と、7節の「エル・ベテル」は同じような意味で使われていますが、少し区別しなければなりません。

ベテル」は、元々は広い地域を表す言葉ですが、ここではもう少し狭く、特定の狭い範囲、祭壇を築いた場所、礼拝を献げた場所を示すと考え、「エル・ベテル」は物理的な、固定的な場所、空間ではなく、神様が介入された霊的な場所、ぼんやりした空間、をイメージすると、理解の助けになるでしょう。

ヤコブが祭壇を築く場所は、礼拝を献げる場所は「ベテル」なら何処でもよいのではなく、「兄からのがれていたとき」祭壇を築き、礼拝を献げた場所でなければならないのです。

祭壇は神聖なものであり、神様に帰属するものだからです。

礼拝も神聖なものであり、神様の主権に属するものであり、神様の招きで献げるものだからです。

そこに神様が臨在されるからです。

人間が勝手気ままな場所に祭壇を築き、勝手な手順で礼拝を献げてはなりません。

祭壇を築く場所、礼拝を献げる場所、礼拝の形式が決められていなかった時代もあったでしょうが、祭壇を築く場所、礼拝を献げる場所は、神様によって示された場所で、形式も、教会の歴史の中で整えられた形に変わって行きます。

アブラハム、イサク、ヤコブは遊牧民であり、エジプトを出てからも流浪の毎日であり、固定した場所での礼拝ではありませんでしたが、それでも、神様が現れた場所に祭壇を築き、礼拝を献げる原則は変わっていません。

手順は単純であり、生贄を献げる事が中心でしたが、段々と現代の形式に整えられて行ったのです。

現代は、一箇所で一生を終える、と言うのは希で、多くの人は就職、転勤、引越し、結婚などで、何回か教会が変わりますが、先週はA教会、今日はB教会、来週はC教会、その次はD教会と、教会を転々と渡り歩くのは、礼拝者として相応しい事ではありません。

これは、一度決めたら、他の教会には一切行ってはならない、と言っているのではありません。

ベースとなる教会を決め、礼拝を献げる教会を決め、その教会を中心にして、信仰生活を送る事が大切なのです。

中心となる教会がある事が大切、重要なのであり、何処が中心か分からない、勝手気ままな、浮き草のような礼拝を戒めているのです。

35:8 リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。

唐突にヤコブの母、リベカの乳母「デボラ」の死が記録されていますが、注解書によれば、推定で160歳から170歳と考えられているそうです。

何時、何処で合流したのか記されていませんが、どんな働きをしたのかも記されていませんが、高齢ながら、ヤコブ一家にとって大きな役割を果たし、大きな影響を与えていたので、ここにその死が記されたのでしょう。

35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。

35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

イスラエル命名の記事は、3228節の繰り返しですが、単なる繰り返しではなく、再確認であり、同時に、ヤコブ個人の体験が、ヤコブ一族共通の認識に変わった瞬間でもあるのです。

ヤボクの渡しでの体験は、隠された体験であり、命名もヤコブだけしか知りません。

しかし、ここで公になったのであり、イスラエル民族がここから始まった事が明確にされた箇所なのです。

父母の住むベエル・シェバを出立してからの逃避行が終わった事、パダン・アラムからの帰還の旅が、完結した事、アブラハム、イサクから引き継がれ、ヤコブから12部族へと急激に拡大する、新しい歴史が、ここから始まった事を示しているのです。

35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。

35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」

35:13 神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られ

神様の、アブラハム、イサク、ヤコブへと続いた祝福は、個人的な祝福であり、個人的な契約ですが、ヤコブから先は、選びの民としての祝福に変わり、ヤコブは、大きな分岐点となるのです。

個人としてのヤコブは、民族としてのイスラエルであり、一族への祝福が、民族への祝福に変わり、民族を超えた、普遍的な祝福へと、変貌して行く、転換点とされた人物なのです。

「ヤコブ」「押しのける者」から「イスラエル」「神は戦われる」に変わったのであり、「自分の力で切り開いて行く」から「神の力で切り開いて行く」に変わったのです。

ヤコブは、交渉で、兄エサウから、長子の権利を手に入れ、父イサクを騙して、長子の祝福を奪い取り、と自分の才覚で生きて来ましたが、パダン・アラムでは、神様の守りで、家畜を増やし、神様の啓示で、自分の物となる家畜を選ぶ事が出来たのです。

神様の守りと導きで、兄エサウと再会し、和解したのであり、神様の守りで、シェケムを無事に脱出する事が出来たのです。

「ヤコブ」から「イスラエル」への変化は、生き方の変化であり、神様との関係の変化なのです。

35:14 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。

35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。

石の柱」は記念碑であり、礼拝の対象ではありませんが、人間は、意識せずして、人や物を神格化し、礼拝の対象にしてしまう傾向がありますから、親愛の情や尊敬が、愛着、思い出の品が、神様と同格にならないように、偶像化しないように、よくよく注意しなければなりません。

ぶどう酒」は、神様への献げものであり、「」は、聖別のためです。

献げものをしても、石に変わりはなく、礼拝の対象ではありません。

聖別しても、石に変わりはなく、礼拝の対象ではありません。

神様は、後日、礼拝の対象となる事を危惧され、石の柱を立てる事を禁じられます(レビ26:1、申16:23)。

この14節、15節は、7節の詳細説明ですが、「ベテル」と「エル・ベテル」の違いはそこで説明した通りですが、ヤコブは意識的な、明確な使い分けをしたようではなさそうです。

【適応

ヤコブはベテルに戻って、本当の意味で、新しいスタートを切る事になります。

ベテルは目的地ではありません。

一度目は、神様を個人的に知る旅の、スタート地点であり、だからこそ、礼拝を献げ、

二度目は、神様と共に歩む民としての、スタート地点であり、だからこそ、礼拝を献げ、

神様との関係を確認し、正したのです。

信仰の歩みは、順風満帆ではなく、紆余曲折があり、停滞頓挫があり、失敗挫折がありますが、そんな時こそ、神様から促されるまでもなく、初心に帰るべきであり、信仰の原点に戻るべきです。

場所的原点に戻り、精神的原点に戻り、神様との関係を点検、確認しなければならないのです。

「ベテル」「神の家」と言いながら、自分が中心になっていないかを点検、吟味しなければなりません。

私たちは、日曜日毎に教会に戻って来ますが、教会が「神の家」になっているか、教会で「神の家の神」に礼拝を献げているかを、点検しなければなりません。

私たちの礼拝が、形だけになっていないかを、点検しなければなりません。

現代、礼拝は教会だけでなく、家庭でも、個人的にも献げられますが、何処で礼拝を献げるにしても、相応しく、整えられているでしょうか。

信仰の状態は、服装とか、身だしなみ、立ち振る舞いに大きく影響します。

これは決して、ラフな服装や、カジュアルな服装はよろしくない、と言っているのではありません。

午後に予定があるとか、旅行先で礼拝を献げるなら、ラフにならざるを得ません。

しかし、服装やアクセサリーに気を回しすぎて、心が神様に向いていないなら、大問題です。

他人の服装やアクセサリーが気になるようでは困ります。

礼拝を献げながら、あの服にした方がよかったかなあ、とか、このアクセサリーは合わないなあ、って考えているなら大問題です。

教会と言う場所が目的地になり、教会に着いた事で安心して、心、ここに在らず、であるなら、これも大問題です。

仕事の事や、家庭の問題など、心配の種は尽きませんが、心を神様に向けなければ礼拝に意味はありません。

遅刻も、問題です。

5分前、10分前には着席し、心を整え、心を神様に向けなければ、御ことばは素通りしてしまうのではないでしょうか。

教会、礼拝に対する意識、位置付けが重要なのです。

礼拝は、神様の招きであり、神様に逢うのであり、神様と時間と空間を共有するのです。

罪の世で生きて来て、疲れた霊性を回復し、弱った信仰を強めていただき、整えられてから、罪の世に出て行き、神様の栄光を現して行く、そのための教会であり、礼拝なのです。

整えられるためには、内側を整えなければなりません。

内側を整えるために、土曜日に、憂いとなるものを、礼拝の妨げとなるものを処理するのです。

礼拝前日の過ごし方は特に重要であり、一週間の過ごし方も重要になってきましょう。

これは決して、土曜日に遊びに行くなとか、仕事をするな、と言っているのではありません。

教会や礼拝が、信仰生活の原点になっているか、原点との意識を持っているか、なのです。

ここにおられる皆様が、「教会、礼拝」を中心とした生活を送られ、

「教会、礼拝」をこの1週間のスタート地点、次の1週間のスタート地点、とするような、

神様との深い、親しい交わりに入られ事を願うものです。

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聖書個所:創世記351節~15節               2017-7-16礼拝

説教題:「神様の示された目的地・・・ベテルでの礼拝

【導入】

私たちは、状況を好転させるために、知恵を出し合い、創意工夫をいたしますが、必ずしも効果的であるとは限りません。

逆効果である事も、しばしばなのではないでしょうか。

関係者全てに最善をもたらす策、との確信があっても、結果に対する期待値の差は少なからず存在し、喜ぶ者も居れば、「話が違う」と不満を持つ者も居る、と言うのが現実でしょう。ましてや、悪意を込めた計画が、更なる、大きな問題を引き起こさない筈がなく、疑心暗鬼に取り付かれ、最初の悪意を上回る悪意の応酬合戦が始まりましょう。

悪意は、雪達磨式に大きくなり、際限なく広がり、多くの人々を不幸に巻き込みます。

シメオンとレビが立てたシェケムの住民殺戮の計画と実行は、それだけで充分、恐ろしい事であり、大きな憎しみを買う事ですが、他の兄弟たちが行なったシェケム殲滅と略奪は、より一層の憎悪を煽る事ではないでしょうか。

シェケムの町の住民は、孤立していた訳ではなく、近隣の町や村と相互に助け合い、協力し合い、外敵に対抗して、生き残って来ていたのです。

シェケムの町の住民の関係者が、そこ彼処に住んでいるのであり、シェケムの町の住民に助けられた人々が、そこ彼処に居るのであり、それらの人々が、シェケムの町の住民の敵討ちに、余所者の横暴に対する制裁に、立ち上がらないはずがありません。

非常な緊張感の漂う中であり、双方が、下手に身動き出来ない、そんな状況の中で、神様がご介入され、ヤコブの身の処し方に、方向性が与えられます。

【本論】

35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」

神様は、ヤコブの身勝手な考えからのスコテ滞在、シェケム逗留、シェケムの町に対しての非道を非難しません。

神様は、直接、非難のことばを発しませんが、決して、ヤコブの行動を認めた訳ではなく、赦した訳でも、理解を示した訳でもありません。

身勝手な行動が招いた、緊張感、恐怖は、何時までも、何処までも付き纏うのであり、一生、背負わなければならないのです。これは、本当に重い十字架でしょう。

心底から安心出来ず、本当の平安に憩う事が出来ないのです。

何時も緊張を強いられ、何処に行っても恐れ、怯えながら生きなければならないのです。

心身共に疲弊し、バランスを崩し、病気になってしまうのは必至でしょう。

報復に怯え、身動きの取れないヤコブに、神様は明確に命じるのであり、それは、信仰の原点を確認する作業であり、信仰の復興を促す作業です。

ベテルは、ヤコブが神様と出逢った場所であり、御ことばを掛けて頂いた場所であり、慰めと励ましと、希望を頂いた場所であり、最初の祭壇を築いた場所です。

ヤコブの信仰の原点であり、ヤコブの信仰において帰るべき場所であり、ヤコブの信仰において離れてはならない場所です。

これは地理的に、の意味ではなく、心においての意味であり、常に、神様と自分との深い、密な、豊かな関係は、ベテルでスタートした事、ベテルに祭壇がある事を忘れてはならないのです。

現代の私たちに適応するなら、洗礼を受けた事と、何処で洗礼を受けたか、に相当するでしょう。

私は、あの教会で洗礼を受けたんだ、あの教会で私の信仰は始まったんだ、との認識はとても重要、貴重です。

信仰生活は、順風満帆ではありません。紆余曲折があり、停滞頓挫があり、失敗挫折が付きものです。

私の信仰は本物だろうか、との迷いが生じるのは、誰もが、必ず経験する事です。

そんな時、私はあの教会で洗礼を受けたんだ、あの教会で私の信仰ははじまったんだ、は揺ぎ無い事実であり、常に心に留め置く事は、時には、実際に行ってみて確認するのは、とても有益です。

ですから神様の御ことば「住みなさい」は定住、永住の意味ではなく、「留まりなさい」の意味である事は、次回学ぶ、16節の記述からも明らかです。

そして「祭壇」は礼拝と、献身の場である事を理解しなければなりません。

献げ物をもって感謝を表し、神様に仕える事を誓うのです。

これは、現代の礼拝に通ずるところでもありましょう。

礼拝は、習慣でも、義務でも、規則でもありません。

神様に愛され、罪を贖われ、罪を赦され、招かれた事に感謝して、であり、神様に従う生き方の決意を確認し、新たにする時なのです。

神様の前に出るのですから、備えが必要である事は言うまでもありません。

35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。

自分の家族」のみならず、「自分といっしょにいるすべての者」が「異国の神々を取り除き」「身をきよめ、着物を着替え」なければなりません。

自分といっしょにいるすべての者」は、僕を含み、奴隷を含み、捕虜を含みます。

ヤコブは自身や家族のみならず、使用人、捕虜に至る全ての人々の中から、「異国の神々を取り除き」「身をきよめ、着物を着替え」させます。

この徹底さは、学ぶ必要がありましょう。

異教の神々を身に付けたままで、或いは身近に置いたままで、卑劣で残忍な行為を行ったままの姿で、神様の前に出る事は出来ません。

これらは宗教的行為であり、象徴的行為であり、神様との関係を正し、維持するためにしなければならない、大切な条件、儀式、行為です。

しかも、単なる儀式ではなく、悔い改めを表し、新しくされる事を意味する儀式、行為です。

礼拝の心得は、1に、二心のない忠誠であり、2に、聖潔であり、3に、異教的なもの、魔術的なものの放棄、です。

順番に確認して行きましょう。

1、二心のない忠誠。神にも仕え、この世にも仕え、であってはならず、この世の事は大切であり、必要ですが、神様より上位に置いてはなりません。

2、聖潔。聖い、尊い、偉大な神様の前に出るのですから、それを意識した服装でなければならず、清潔さが求められましょう。

決して作業着、普段着で礼拝に出てはならないと言っているのではなく、沐浴してからでないと礼拝に出てはならないと言っているのでもありません。

ずっと年下の者、遥かに下位の者の結婚式であっても、よれよれの普段着で、ぼさぼさの頭で、汗臭いままで出席しますか。決してそうではないでしょう。

罪人の献げる礼拝であり、欠けだらけであり、貧しい礼拝しか献げられないのですから、せめて、その時出来る事をして、正装でなくても、新調でなくても、身綺麗にして、礼拝に臨みたいものです。

3、異教的なもの、魔術的なものの放棄。明確な偶像礼拝や異教神礼拝は言わずもがなであり、お守りの類、縁起担ぎ、迷信、俗信、拘り的なものなど、意味のないものを放棄しなければなりません。祟りとか、呪いなんてありません。勿論、ラッキーアイテム、ラッキーカラー、ラッキーナンバーなんてものも、根拠のないものでしかありません。

こんな意味のないものに、意味のない慣習に縛られてはなりません。

徹底的に捨てなければならないのです。

35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

礼拝は、時間的にも、空間的にも、精神的にも、区別される必要があります。

とは言え、絶海の孤島に行く、と言うのは現実的ではありません。

この世の生活と連続性を持っていますが、だからこそ、時間を区切り、家庭を離れ、仕事を離れ、一人静まり、一対一で神様の前に立たなければなりません。

しかも、八百万の神に礼拝をささげるのではなく、天地万物を造られた唯一の神様に、共に歩んでくださる神様に、何時も側に寄り添って、慰め、励まし、助け、導いてくださる神様に礼拝を献げるのです。

35:4 彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。

耳輪」は単なる装飾品を意味する訳ではありません。

「お守り」「護符」の類であり、宗教的意味を持つものであり、唯一の神様に相応しいものではありません。

耳輪以外にも指輪、腕輪、髪飾り、ネックレス、ブローチ、・・・様々な装飾品がありますが、そのルーツを調べると、宗教的であったり、呪術的であったり、富や地位の象徴であったりしますので、扱いには注意が必要でしょう。

聖書も、外面的な飾りではなく、内面的な人格、品格を豊かにする事を教えていますが、少なくとも礼拝には不必要であり、華美な装飾品は着けない、のがベストのチョイスなのではないでしょうか。

35:5 彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。

残虐非道な事を行ったのはヤコブ一族であり、その責はヤコブ一族が引き受けるしかありません。しかし、神様は、特別に介入され、ヤコブ一族が報復を受ける事にならないようにしてくださったのです。

ヤコブ一族に、守られる資格があった訳ではありません。一方的な、神様の恩寵であり、受ける資格がない者に与えられた、神様の特別な恵みなのです。

この神様の恵みに預かる秘訣は、神様の命令に従ってシェケムを出る事です。

シェケムに留まり続けるなら、双方が、常に緊張状態に置かれる事になり、何かの切欠で、均衡が崩れれば、ヤコブ一族は壊滅的な痛手を受ける事になるでしょう。

しかし、神様の守りがあって、ヤコブ一族は何事もなく、撤収する事が出来たのです。

35:6 ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。

35:7 ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。

兄からのがれ」た時の次第は、創世記28章に記されていますが、その時ヤコブの持ち物は、杖一本でした。しかし、シェケムに到着した時点で、ヤコブは富豪と呼ばれる財産を持つに至っていたのであり、シェケムの町から奪い取った物を合わせると、大富豪と呼ばれるに相応しい者になっていたのです。

パダン・アラムで得た物も、シェケムで得た物も、神様の約束、神様の誠実の故であり、ここでも、受ける資格がない者に与えられた、神様の特別な恵みなのです。

神様の恵みは、一方で注がれるけれども、他方で垂れ流し状態、雲散霧消、プラス・マイナス・トントン、なのではありません。

神様の恵みは、四方八方から注がれて、溢れ出て、周りを潤し、関係者を祝福するものなのです。敵にさえも、祝福をもたらすのが、神の民の使命です。

その点で、ディナの軽率な行動と、シメオンとレビの残虐な行動は、祝福をもたらすはずのヤコブに相応しいものではなく、残念な事です。

ベテル」は「ベト・エル」「神の家」の意味であり、「エル・ベテル」は「エル・ベト・エル」「神の家の神」の意味です。

重複し、強調しているだけでなく、神の臨在を示しての、命名である事が明らかです。

6節の「ベテル」と、7節の「エル・ベテル」は同じような意味で使われていますが、少し区別しなければなりません。

ベテル」は、元々は広い地域を表す言葉ですが、ここではもう少し狭く、特定の狭い範囲、祭壇を築いた場所、礼拝を献げた場所を示すと考え、「エル・ベテル」は物理的な、固定的な場所、空間ではなく、神様が介入された霊的な場所、ぼんやりした空間、をイメージすると、理解の助けになるでしょう。

ヤコブが祭壇を築く場所は、礼拝を献げる場所は「ベテル」なら何処でもよいのではなく、「兄からのがれていたとき」祭壇を築き、礼拝を献げた場所でなければならないのです。

祭壇は神聖なものであり、神様に帰属するものだからです。

礼拝も神聖なものであり、神様の主権に属するものであり、神様の招きで献げるものだからです。

そこに神様が臨在されるからです。

人間が勝手気ままな場所に祭壇を築き、勝手な手順で礼拝を献げてはなりません。

祭壇を築く場所、礼拝を献げる場所、礼拝の形式が決められていなかった時代もあったでしょうが、祭壇を築く場所、礼拝を献げる場所は、神様によって示された場所で、形式も、教会の歴史の中で整えられた形に変わって行きます。

アブラハム、イサク、ヤコブは遊牧民であり、エジプトを出てからも流浪の毎日であり、固定した場所での礼拝ではありませんでしたが、それでも、神様が現れた場所に祭壇を築き、礼拝を献げる原則は変わっていません。

手順は単純であり、生贄を献げる事が中心でしたが、段々と現代の形式に整えられて行ったのです。

現代は、一箇所で一生を終える、と言うのは希で、多くの人は就職、転勤、引越し、結婚などで、何回か教会が変わりますが、先週はA教会、今日はB教会、来週はC教会、その次はD教会と、教会を転々と渡り歩くのは、礼拝者として相応しい事ではありません。

これは、一度決めたら、他の教会には一切行ってはならない、と言っているのではありません。

ベースとなる教会を決め、礼拝を献げる教会を決め、その教会を中心にして、信仰生活を送る事が大切なのです。

中心となる教会がある事が大切、重要なのであり、何処が中心か分からない、勝手気ままな、浮き草のような礼拝を戒めているのです。

35:8 リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木の下に葬られた。それでその木の名はアロン・バクテと呼ばれた。

唐突にヤコブの母、リベカの乳母「デボラ」の死が記録されていますが、注解書によれば、推定で160歳から170歳と考えられているそうです。

何時、何処で合流したのか記されていませんが、どんな働きをしたのかも記されていませんが、高齢ながら、ヤコブ一家にとって大きな役割を果たし、大きな影響を与えていたので、ここにその死が記されたのでしょう。

35:9 こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現れ、彼を祝福された。

35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

イスラエル命名の記事は、3228節の繰り返しですが、単なる繰り返しではなく、再確認であり、同時に、ヤコブ個人の体験が、ヤコブ一族共通の認識に変わった瞬間でもあるのです。

ヤボクの渡しでの体験は、隠された体験であり、命名もヤコブだけしか知りません。

しかし、ここで公になったのであり、イスラエル民族がここから始まった事が明確にされた箇所なのです。

父母の住むベエル・シェバを出立してからの逃避行が終わった事、パダン・アラムからの帰還の旅が、完結した事、アブラハム、イサクから引き継がれ、ヤコブから12部族へと急激に拡大する、新しい歴史が、ここから始まった事を示しているのです。

35:11 神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。

35:12 わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」

35:13 神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られ

神様の、アブラハム、イサク、ヤコブへと続いた祝福は、個人的な祝福であり、個人的な契約ですが、ヤコブから先は、選びの民としての祝福に変わり、ヤコブは、大きな分岐点となるのです。

個人としてのヤコブは、民族としてのイスラエルであり、一族への祝福が、民族への祝福に変わり、民族を超えた、普遍的な祝福へと、変貌して行く、転換点とされた人物なのです。

「ヤコブ」「押しのける者」から「イスラエル」「神は戦われる」に変わったのであり、「自分の力で切り開いて行く」から「神の力で切り開いて行く」に変わったのです。

ヤコブは、交渉で、兄エサウから、長子の権利を手に入れ、父イサクを騙して、長子の祝福を奪い取り、と自分の才覚で生きて来ましたが、パダン・アラムでは、神様の守りで、家畜を増やし、神様の啓示で、自分の物となる家畜を選ぶ事が出来たのです。

神様の守りと導きで、兄エサウと再会し、和解したのであり、神様の守りで、シェケムを無事に脱出する事が出来たのです。

「ヤコブ」から「イスラエル」への変化は、生き方の変化であり、神様との関係の変化なのです。

35:14 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。

35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。

石の柱」は記念碑であり、礼拝の対象ではありませんが、人間は、意識せずして、人や物を神格化し、礼拝の対象にしてしまう傾向がありますから、親愛の情や尊敬が、愛着、思い出の品が、神様と同格にならないように、偶像化しないように、よくよく注意しなければなりません。

ぶどう酒」は、神様への献げものであり、「」は、聖別のためです。

献げものをしても、石に変わりはなく、礼拝の対象ではありません。

聖別しても、石に変わりはなく、礼拝の対象ではありません。

神様は、後日、礼拝の対象となる事を危惧され、石の柱を立てる事を禁じられます(レビ26:1、申16:23)。

この14節、15節は、7節の詳細説明ですが、「ベテル」と「エル・ベテル」の違いはそこで説明した通りですが、ヤコブは意識的な、明確な使い分けをしたようではなさそうです。

【適応

ヤコブはベテルに戻って、本当の意味で、新しいスタートを切る事になります。

ベテルは目的地ではありません。

一度目は、神様を個人的に知る旅の、スタート地点であり、だからこそ、礼拝を献げ、

二度目は、神様と共に歩む民としての、スタート地点であり、だからこそ、礼拝を献げ、

神様との関係を確認し、正したのです。

信仰の歩みは、順風満帆ではなく、紆余曲折があり、停滞頓挫があり、失敗挫折がありますが、そんな時こそ、神様から促されるまでもなく、初心に帰るべきであり、信仰の原点に戻るべきです。

場所的原点に戻り、精神的原点に戻り、神様との関係を点検、確認しなければならないのです。

「ベテル」「神の家」と言いながら、自分が中心になっていないかを点検、吟味しなければなりません。

私たちは、日曜日毎に教会に戻って来ますが、教会が「神の家」になっているか、教会で「神の家の神」に礼拝を献げているかを、点検しなければなりません。

私たちの礼拝が、形だけになっていないかを、点検しなければなりません。

現代、礼拝は教会だけでなく、家庭でも、個人的にも献げられますが、何処で礼拝を献げるにしても、相応しく、整えられているでしょうか。

信仰の状態は、服装とか、身だしなみ、立ち振る舞いに大きく影響します。

これは決して、ラフな服装や、カジュアルな服装はよろしくない、と言っているのではありません。

午後に予定があるとか、旅行先で礼拝を献げるなら、ラフにならざるを得ません。

しかし、服装やアクセサリーに気を回しすぎて、心が神様に向いていないなら、大問題です。

他人の服装やアクセサリーが気になるようでは困ります。

礼拝を献げながら、あの服にした方がよかったかなあ、とか、このアクセサリーは合わないなあ、って考えているなら大問題です。

教会と言う場所が目的地になり、教会に着いた事で安心して、心、ここに在らず、であるなら、これも大問題です。

仕事の事や、家庭の問題など、心配の種は尽きませんが、心を神様に向けなければ礼拝に意味はありません。

遅刻も、問題です。

5分前、10分前には着席し、心を整え、心を神様に向けなければ、御ことばは素通りしてしまうのではないでしょうか。

教会、礼拝に対する意識、位置付けが重要なのです。

礼拝は、神様の招きであり、神様に逢うのであり、神様と時間と空間を共有するのです。

罪の世で生きて来て、疲れた霊性を回復し、弱った信仰を強めていただき、整えられてから、罪の世に出て行き、神様の栄光を現して行く、そのための教会であり、礼拝なのです。

整えられるためには、内側を整えなければなりません。

内側を整えるために、土曜日に、憂いとなるものを、礼拝の妨げとなるものを処理するのです。

礼拝前日の過ごし方は特に重要であり、一週間の過ごし方も重要になってきましょう。

これは決して、土曜日に遊びに行くなとか、仕事をするな、と言っているのではありません。

教会や礼拝が、信仰生活の原点になっているか、原点との意識を持っているか、なのです。

ここにおられる皆様が、「教会、礼拝」を中心とした生活を送られ、

「教会、礼拝」をこの1週間のスタート地点、次の1週間のスタート地点、とするような、

神様との深い、親しい交わりに入られ事を願うものです。

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聖書個所:マタイの福音書5章13節から16節               2017-7-9礼拝

説教題:「御名をあがめさせたまえ

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
 5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 

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聖書個所:創世記3413節~31節               2017-7-2礼拝

説教題:「悪巧み・・・御名の悪用

【導入】

前回「恥ずべき事」と題して御言葉に聞きましたが、恥ずべき事に限らず、私たちは、行なった事、発言した事の顛末についての責任がある事は申すまでもない事でしょう。

良かれと思って行なった事でも、悪意がなかった事でも、不本意な結果になってしまったとしても、責任を取らなければなりません。発言には責任があり、勝手な都合で変更したりしては、なかった事にしては、有耶無耶にしてはなりません。

政治の世界に眼を向けると、相変わらず、失言、暴言が横行し、失言、暴言を発した当人が登場し、釈明をし、言い訳をし、発言を取り消して、撤回して、謝罪もなく、責任も取らずに、幕引きにしてしまいますが、発言を取り消せるなら、撤回出来るなら、こんな便利な事はありません。言いたい放題であり、責任も秩序もあったものではないのではないでしょうか。

勿論、状況は変わり、環境も変化するのですから、約束事にも軌道修正は必然ですが、修正するならするで、然るべき手続きを取らなければならません。

言動に対して、改める点は改め、非があるなら認め、原因を探り、同じ轍を踏まないようにしなければなりません。なかった事にするなど、有耶無耶にするなど、もってのほかであり、失敗を糊塗するために、工作をするなど、言語道断です。しかし、人間は、自分の身が可愛いのであり、相手に責任を転嫁し、相手を糾弾する事で、自身の身の安全を図り、名誉を守るのです。

そして、利用出来るものは何でも利用します。悪巧みであっても、抵抗なく採用し、神様の名前さえ持ち出し、悪用しかねません。そこに人間の尊厳は存在せず、醜悪さ、腐臭しかないのですが、人間は気付かず、したり顔で、生きて行くのです。

【本論】

34:13 ヤコブの息子たちは、シェケムとその父ハモルに答えるとき、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、悪巧みをたくらんで、

34:14 彼らに言った。「割礼を受けていない者に、私たちの妹をやるような、そのようなことは、私たちにはできません。それは、私たちにとっては非難の的ですから。

ヤコブの娘、ディナの件に関しての交渉は、ヤコブではなく「ヤコブの息子たち」が交渉に当たりました。

これは、二つの意味で正しいと思われます。一つは、ヤコブの実の娘の事ですから、直接関わらない方が懸命だ、と考えられるからです。どうしても感情的になるからであり、直接、利害が絡むからです。冷静に考えられる立場の者を、利害関係を持たない者を立てるべきでしょう。

二つは、族長であるヤコブは、一族の代表であり、全体を見守る事が責務だからです。細々(こまごま)とした交渉は、実務レベルは、息子や執事の手に託し、ヤコブは、族長は、決定だけを下すのです。合理的であり、組織的であり、秩序的ですが、しかし、人選に問題がありました。この交渉、ヤコブの息子たちが当たったのですが、全員で当たったのではなさそうです。ディナは、レアの子ですが、レアの子は他に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、がおり、ディナは、彼らの実の妹であり、直接の関係者として、中心的に交渉に当たったのですが、直接の関係者を交渉役にした事は、問題です。

先に申し上げたように、どうしても感情的になるからであり、直接、利害が絡むからです。

第三者を立てるべきでしょうが、ヤコブが信頼出来る、ヤコブの代理となれる執事はいなかったようであり、シメオンとレビは、冷静を装って交渉役を買って出たのではないでしょうか。

シメオンとレビが出した条件、提案は、神の民の根幹に関わる「割礼」ですが、「割礼」は神の民のしるしであり、神聖な契約のしるしであり、恵みのしるしです。

慎重に扱うべきであり、軽々しく扱われるべきではありません。

表面的には、如何にも順当な条件、提案であり、正論ですが、悪巧み、の手段として用いたのは、悪質であり、大問題です。

割礼のない者との結婚を拒否する事自体は、正しいし、神の民として最小限、守るべき地歩でしょうが、しかし、割礼を受ければ神の契約に預かる者となる訳ではない事は、弁えなければなりません。割礼は、神の民となった事のしるしであり、割礼を受ける事で、神の民となる訳ではありません。しかも、この「割礼」ですが、アブラハムとイシュマエル、イサク、その当時の僕、使用人、奴隷らの全員が受けた事は間違いありませんが、ヤコブ一族の、慣習となって、定着していたか、となると疑問です。

ヤコブは若くしてイサクの許を離れたのであり、一人でパダン・アラムに滞在していたのであり、ラバンの許に身を寄せていたのであり、ラバンにこき使われていたのであり、知識としては知っていたでしょうが、なすべき事と弁えていたでしょうが、息子たちに割礼を施す、時間的、精神的余裕はなかったのではないでしょうか。勿論、全員が、の意味ではなく、息子たちの何人かは、使用人の多くは、割礼を受けていなかった可能性を否定出来ません。そんな状況の中で、シメオンたちは、シェケムたちに「非難の的」だ、として割礼を条件とし、提案、要求したのですが、悪質極まりない事なのではないでしょうか。

34:15 ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。

34:16 そうすれば、私たちの娘たちをあなたがたに与え、あなたがたの娘たちを私たちがめとります。そうして私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となりましょう。

15節、16節の提案は、349節、10節に記されているハモルの提案に呼応する応答ですから、ハモルの提案に同意する素振りを見せているのであり、思わせ振りな、巧妙な心理作戦と言えるでしょう。しかも、割礼は、宗教的な意味だけを持っている訳ではありません。割礼はユダヤ民族、独自、独特のものではなく、広く、パレスチナ、カナンの地で行われていた慣習であり、不衛生な生活環境の中での、性病対策の一つでもあり、結婚に際しての通過儀礼の一つであり、結婚生活への導入の儀式として行われており、決して特殊な条件を提案、要求した訳ではないのです。

これが、シメオンたちの提案、要求の巧妙な所です。

決して無理難題な条件ではなく、強引な交渉ではなく、ハモル、シェケムも、脅迫とは、無理難題を押し付けられた、とは思わなかったようです。

34:17 もし、私たちの言うことを聞かず、割礼を受けないならば、私たちは娘を連れて、ここを去ります。」

シメオンたちの、有無を言わさぬ、きっぱりとした物言いですが、脅迫ではありません。

異教の地で生きるためには、このくらいの決意と、信念が必要なのではないでしょうか。

異教の民と妥協し、異教の民に同化する事ほど、愚かな事はありません。

この世の富や安定と、永遠の命や喜びを交換する事ほど、損な事はありません。

異教の地に進出し、大金を叩いて地歩を得ても、滅びては元も子もありません。

滅びないためには、神の民として生きるためには、どんな大きな犠牲をも払わなければならないのですから、最悪の場合、ディナを犠牲にしても、一族の安定を図らなければならず、そんな厳しい、冷酷な決断をしなければならない事もあるのです。

これは決して、大を生かすために、小を犠牲にする事があっても、仕方がない、という事ではありません。

神の民として生きるためには、肉を裂き、血を流す覚悟が必要だ、と言う事です。

そして、そんな状況に近づかない知恵と、注意が必要だ、と言う事なのです。

一方、シェケムは、どんな要求も呑む覚悟で、交渉に当たったのですから、こんな緩い条件なら、願ってもない好条件と感じたのではないでしょうか。

34:18 彼らの言ったことは、ハモルとハモルの子シェケムの心にかなった。

シェケムたちにとって、割礼は周知の事であり、シメオンたちが拘るのは、純粋に一族の掟、宗教的理由によると、思い込んでおり、隠された理由がある、とは考えなかったのでしょう。シェケムたちにとって、寧ろ、これ以上ない好条件であり、

34:19 この若者は、ためらわずにこのことを実行した。彼はヤコブの娘を愛しており、また父の家のだれよりも彼は敬われていたからである。

何事でも、最初になるのは、一歩を踏み出すのは、勇気のいる事です。

ですから、責任ある立場の者が決断し「ためらわずに・・・実行」するなら、後に続く者は、勇気百倍であり、混乱や遅滞を、最小限に押さえる事が出来るのではないでしょうか。

生きるか死ぬかの瀬戸際では、一瞬の迷いが、遅れが命取りになりかねません。

一族郎党は、族長、首領に命を預けなければならないのであり、それだけに、族長、首領の普段の生き方が重要なのであり、信頼を構築しておく事が大切です。

そして、シェケムの積極性と、普段の生き方は、一族の信頼に値するものであったようであり、率先して割礼を受ける事を決断します。

34:20 ハモルとその子シェケムは、自分たちの町の門に行き、町の人々に告げて言った。

34:21 「あの人たちは私たちと友だちである。だから、あの人たちをこの地に住まわせ、この地を自由に行き来させよう。この地は彼らが来ても十分広いから。私たちは彼らの娘たちをめとり、私たちの娘たちを彼らにとつがせよう。

34:22 ただ次の条件で、あの人たちは私たちとともに住み、一つの民となることに同意した。それは彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男子が割礼を受けることである

34:23 そうすれば、彼らの群れや財産、それにすべての彼らの家畜も、私たちのものになるではないか。さあ、彼らに同意しよう。そうすれば彼らは私たちとともに住まおう。」

ハモルとシェケムは、ヤコブ一族を受け入れる事が、如何に有益かを、熱弁します。

シェケムの町に、大きな損失はなく、ヤコブの莫大な家畜が、共有財産になるのですから、拒む理由はありません。

23節の言葉は、皆を納得させるための方便かも知れませんし、このような下心があったのかもしれません。何れにしても、益は大きく、損失は微々たるものなのですから、拒む理由はなく、反対者は皆無だったようです。

34:24 その町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けた。

34:25 三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。

34:26 こうして彼らは、ハモルとその子シェケムとを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。

何とも残酷な場面です。

プロの外科医でも上手下手があり、どんな簡単な手術でも、手際よく、適切な処置を施せば、痛みは少なく、回復は早いでしょうが、逆もまた真なり、です。

不衛生な環境であり、手当ても消毒もお座なりでは、回復は遅れ、痛みが強く長びくのは当然であり、シェケムの住民は、戦うどころの話ではなく、一方的に、為す術もなく、殺されてしまったのです。

城壁に守られていない、無防備な町だったので、簡単に絶滅されてしまったのではなく、ヤコブ一族を信頼していたので、まさか、悪意、殺意を持ってやって来るとは、露ほどにも思わなかったから、騙まし討ちにあってしまったのです。

痛みに苦しみながらも、シメオンとレビを歓迎し、客人として迎え入れたのであり、剣はあっても、客人の持て成しには不要であり、シメオンとレビの騙し打ちに、応戦する間もなく、殺されてしまったのです。

この凄惨な、一方的な殺戮劇は、ディナを連れ出したところから、様相は一変し、他の兄弟たちと入れ替わって、略奪行為が始まってしまいます。

34:27 ヤコブの子らは、刺し殺された者を襲い、その町を略奪した。それは自分たちの妹が汚されたからである。

34:28 彼らは、その人たちの羊や、牛や、ろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、

34:29 その人たちの全財産、幼子、妻たち、それに家にあるすべてのものを、とりこにし、略奪した。

27節に記されている名目は立派ですが、実は腐臭プンプンであり、人間の醜さがこれでもか、と言う形で記録されています。

人種差別、権力の横暴に対抗する抗議デモが、何時しか暴徒と成り下がり、破壊と略奪に走るのは、昔も今も変わらないようです。怒りや欲望に火が付くと、誰にも止めようがなくなってしまうのであり、無為な殺戮、無慈悲な略奪の嵐は、止めを刺され、息の根を止められ、略奪するものがなくなるまで、収まらないのです。

この、凄惨な出来事は、ヤコブに内緒で計画、実行したようであり、

34:30 それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」

憎しみは連鎖し、爆発的に増殖します。殺られたら、殺られた以上に殺り返す。奪われたら、奪われた以上に奪い返す。これが罪ある人間の性なのです。

シェケムの住民を皆殺しにしたのですから、ヤコブが報復を恐れるのは当然です。

しかも、シェケム殺戮の理由は、誰もが納得する理由ではありません。

確かに、誘拐、強姦、拉致は重大犯罪ですが、だからと言って、シェケム皆殺しの理由にはなりません。

ヤコブは、ディナを取り戻す方法を、穏便に取り戻す方法を、考えていたのではないでしょうか。それは、消極的であり、妥協策かも知れません。

なるべくなら、選びたくない策であっても、その不利益は、甘んじて受けるしかないのではないでしょうか。何しろ、自分で蒔いた種なのですから。

一方、シメオンとレビは、自分たちに正義があると思い込んでいますから、褒められて当然と思い込んでいますから、聞く耳を持ちません。

ヤコブの言葉に腹を立て、不満をぶつけ、過剰な復讐を正当化します。

34:31 彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」

ディナは、シェケムの欲望の犠牲になってしまいましたが、捨てられた訳ではなく、シェケムに愛されているのであり、正式な結婚とするために、犠牲を覚悟しているのであり、決して「遊女のように取り扱われ」た訳ではありません。

シメオンとレビの発言は、短絡的であり、非常に悪意に偏った、一方的な、断定的な見方ですが、これが、罪ある人間が陥る見方なのです。

シェケムの味方になる、と言うのではなく、難しい事ですが、シェケムの立場に立って考え、見る事は非常に大切であり、有益です。これが無理であるなら、少なくとも、客観的な見方をするべきであり、中立的に見る訓練をすべきです。色々な事が見えて来るからです。自分だったらどうしただろう、どうするだろう。何故、こうなってしまったんだろう。

相手を非難するだけでは、相手に要求するだけでは、解決に至りません。

決して無条件な妥協を勧めているのではなく、100%正しい、100%悪い、なんて事はないのであり、決めつけるばかりで、多角的な見方をしないと、問題を起こし、行ってしまった事に対して、反省をしないと、同じ問題を繰り返す事になるのです。

【適応

本日の説教に「御名の悪用」とのサブタイトルをつけましたが、「御名の乱用」とも「御名の私的利用」とも「御名の借用」と言い換えて良いかもしれません。

人間は、自分の行動が正義である事を印象付けるために、神様の名前を持ち出す事があり、他人を納得、同意させるために、神様の名前を利用する事があります。

ある国を、悪の枢軸と決め付けて、確たる証拠もないのに、攻撃を仕掛ける。聖戦と宣言し、義戦と位置付ける。殺す事は、正義を行う事だと、平和をもたらすものだと、喧伝する。この戦いは、この攻撃は、神様が認めておられる。

本当でしょうか。

身近な所でも、似たような事が起こっていないでしょうか。

勿論、殺人などと言う、恐ろしい事に関わる事はないでしょうが、マルコの福音書711節、「7:11あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、

7:12その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。

神様に献げるから、と言う理由で、神様の名前を悪用して、父母を養う事を拒否しているのです。

教会に行く事を理由に、家族としての責任を果たしていないなら、それは「御名を乱用」していると言う事なのではないでしょうか。

未信者が、クリスチャンとの結婚を望み、形だけ礼拝に出て、洗礼を受けるような事があります。

誓約をしますが、本心から出ていないなら、神様を騙しており、「御名を悪用」して、結婚と言う宝を手に入れたのです。

続けて教会に行く、と約束しても、半年と経ずして、教会に行かなくなり、クリスチャンも巻き込まれて教会に行かなくなってしまう。

これはクリスチャンにも責任があります。

神様の教えよりも、人の言葉を優先させたのであり、或いは、神の教えを、自分たちの都合に合わせるような解釈をした、と言う事なのであり、謗りを受ける事なのではないでしょうか。

珍しい事ではありませんが、これらは、十戒の第三戒「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」に抵触する事なのではないでしょうか。

仲の良い友達からの誘いが、日曜日に重なった時には、早天礼拝に出る、夕拝のある教会に行く、などの工夫をし、調整し、誘いに応じながら、そうでもない人からの誘いには、教会があるから無理、と断っているなら、それは、「御名を私的利用」している、って事なのではないでしょうか。

暇そうなので、ちょっと手伝ってくれない、ってお願いした時に、今、お祈りしているところなの、聖書を読むところなの、教会に行くところなの、と言って断ったなら、それは「御名の借用」であり、本当の意味で神様を愛している事でしょうか。人を愛する事でしょうか。自分の思い通りにしたい時、神様の御名を持ち出して、強引に誘導する事がないでしょうか。自分や相手を納得させる手段として、神様を持ち出す事がないでしょうか。

これらは最も「恥ずべき事」なのではないでしょか。

ここにおられる皆様が、「恥ずべきこと」として「御名の悪用、乱用、私的利用、借用、誤用」から離れ、神様との深い、親しい交わりに入られ事を願うものです。

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