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聖書個所:創世記3712節~24節               2017-8-27礼拝

説教題:「ヨセフへの、兄たちの悪巧み・・・殺人計画」

【導入】

昨今、サプライズが多く行われるようになって来ましたが、周到な事前準備が必要なのであり、打ち合わせがあり、担当が決められ、当日を迎えます。

直前まで本人には知らせず、突然の幕開けに、本人は驚き、関係者も喜び、両者大いに盛り上がり楽しむ訳です。

盛り上がるか否かは、秘密に出来るか否かに、予想外なアイデアか否かに、演出の出来、不出来に掛かっている訳です。

ですから、その場での思い付きではなく、在り来りな演出ではなく、凝ったアイデアと演出が必要な訳です。

しかし、独り善がりな懲り過ぎた演出や、悪趣味な演出では、顰蹙(ひんしゅく)を買う事になってしまうのではないでしょうか。顰蹙(ひんしゅく)を買う事にならないように、事前の意見交換、打ち合わせが重要な訳です。

事前の充分な打ち合わせは、何をするにも必要な手続きの一つです。

楽しい事、例えば個人的には結婚式、誕生会、エトセトラ。

教会ではクリスマス、伝道集会、エトセトラ。

悲しい事にも、打ち合わせは必要です。個人的には葬式、エトセトラ。

肯定する思いは、全くありませんが、世界的な規模なら、戦争も、テロでさえ、成功如何は、事前の調査と準備、計画が必要であり、考えられる限りのあらゆる場面を想定し、検討し、計画に組み入れなければ、成功はありません。

良きにつけ、悪しきにつけ、思い付きの行動は、計画なく目的に突き進んでは、必ず齟齬(そご)が生じ、失敗します。

全ての計画に、見直しのタイミングを組み込み、失敗を想定した計画を立てる必要があるのであり、撤退計画も立てておく必要があるのです。

失敗を想定するなんて、縁起でもない、との意見も出ましょうが、被害を最小限に抑えるためにも、撤退のタイミングを想定し、退路を考え、確保しておく事は重要なのです。

ヤコブが父イサクを騙した時の準備は、露見を想定した、微に入り細に入った準備であり、父イサクをまんまと騙し得ましたが、兄エサウの怒りを想定しておらず、20年以上も家族と離れ離れになるという結果となってしましました。

ヤコブがヨセフを溺愛する理由、同情出来ない訳ではありませんが、兄たちの嫉妬を、嫉妬が憎しみに変わる事を想定しなかったのは、ヤコブの大失敗です。

そして、ヤコブは、ヨセフの兄たちに好機を与えてしまうのであり、ヨセフの兄たちは、ヨセフ殺害の計画を立てるに至ります。

【本論】

37:12 その後、兄たちはシェケムで父の羊の群れを飼うために出かけて行った。

ヤコブの父イサクが、主な拠点としたのはベエル・シェバと考えられますが、イサクも、ヤコブも、エサウも牧畜民族、遊牧民族であり、一所(ひとところ)に定住していた訳ではありません。

ヤコブは、14節に記されているように、「ヘブロン」を拠点として、ベエル・シェバの北45km程の処にある、塩の海の西25km程の処の渓谷にある、「ヘブロン」を拠点として、遊牧生活を送っていたようです。

シェケム」は、「ヘブロン」の北80km程の処にあり、先住民ハモルから100ケシタで購入した、ヤコブ私有の土地ですから、「羊の群れを飼うために出かけて行って」何の不思議もありませんが、「シェケム」には、真新しい、しかも苦々しい、嫌な思い出があります。

創世記34章に記されている通り、ハモル、シェケム一族を皆殺しにした事です。

私有の土地ですから、使うのに誰に遠慮する必要はありませんが、周辺住民の感情を考える時、「シェケム」に行くのは憚られる事であり、不自然さを感じます。しかし、現代の私たちには知りえない、聖書に記されていない、事情があるのかも知れません。

ヤコブたちの行為は、行き過ぎの観はありますが、誘拐、強姦、拉致に対する報復であり、それを周辺住民は承認、黙認したのかも知れません。

残虐な行為ではありますが、ハモル、シェケム一族に限定して下された行為であり、周辺住民への殺戮が行われた訳ではなく、また、大規模な殺戮でもなく、法整備がなされた社会ではなく、断定は出来ませんが、私刑が認められていた社会だったのかも知れません。

37:13 それで、イスラエルはヨセフに言った。「おまえの兄さんたちはシェケムで群れを飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」すると答えた。「はい。まいります。」

ヘブロン」と「シェケム」は80kmほど離れていると申し上げましたが、羊を追っての遊牧ですから、草を食み食みの旅であり、直線ではありませんから行くだけで四~五日程は必要でしょう。

そして「シェケム」に滞在しているのですから、一ヶ月近く留守にしていたのではないでしょうか。

遊牧は、時に数ヶ月に及ぶ事もあり、それで、時々に様子を知るための使者が立てられ、送られていたようであり、また、様子を知らせる使者が立てられ、行き来があったようですが、今回は、ヨセフが使者として立てられました。

37:14 また言った。「さあ、行って兄さんたちや、羊の群れが無事であるかを見て、そのことを私に知らせに帰って来ておくれ。」こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった。それで彼はシェケムに行った。

まあ、「便りがないのは良い便り」と申しますし、何かあれば、大人である息子たち十人の、放牧の旅なのですから、息子たちからの知らせが来るのを待っていても、何ら問題はなさそうですが、レアの子も、ビルハの子も、ジルパの子も、ヤコブの息子であり、そこは親であり、心配するのが情ってものなのでしょう。

ラケルの忘れ形見であり、一刻でも手放したくはないヨセフではありますが、ヤコブの手元にはヨセフとベニヤミンしか居らず、幼いベニヤミンを使いに出す訳にはいかず、十七歳の、分別の付く年齢に達し、危急の時にも判断と対応が出来る、ヨセフを使いに出す事になったのでしょう。

ヨセフは、三~四日の野宿を経て「シェケム」に到着しましたが、居る筈の兄たちも、羊の群れも見当たりません。

分別の付かない、判断の出来ない子どもであるなら、さっさと帰って来てしまう処ですが、ヨセフは十七歳にもなっていたので、父の使命を果たすべく、兄たちを探し回ります。

しかし、何の見込みがある訳でもなく、行程表、計画書の類を提出している訳でもありませんから、兄たちは何処へ行ったのやらで、皆目見当も付かず、東へ行ってみるか、北へ探しに行くか、西へ行こうか、悩んだのではないでしょうか。

しかし、渡る世間に鬼はなく、世の中には親切な人がいるものであり、ヨセフの様子を見て、声をかける人が現れます。

37:15 彼が野をさまよっていると、ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜しているのですか。」

37:16 ヨセフは言った。「私は兄たちを捜しているところです。どこで群れを飼っているか教えてください。」

求めている答えが返って来るとは限りませんが、途方に暮れている中であり、人との出遭いは、本当にほっとしたのではないでしょうか。

そして、促されるままに、藁にも縋る思いで、思いを打ち明けます。

37:17 するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか』と言っているのを私が聞いたからです。」そこでヨセフは兄たちのあとを追って行き、ドタンで彼らを見つけた。

ドタン」は「シェケム」の北22km程の処にあり、「二つの井戸」の意味です。

現代でも最良の牧草地であり、当時から、良く潤った土地であり、泉が多く点在し、日照りが続いても、水に不自由する事はない、とされる土地であり、誰もが知っている土地だったのです。

シェケム」から一日の道程(みちのり)であり、不都合のない、問題のない場所への移動であり、父ヤコブに、特別な連絡しなくても、わざわざ使いを出さなくても、と考えて、移動したのでしょう。

シェケム」に居なければ、当然「ドタン」を探すのが常識だろう、との意識だったのかも知れません。しかし、この常識は、大人には、「シェケム」の住民には、この辺りで放牧をする者には常識でも、幼い一時期を「シェケム」で過ごしただけのヨセフには常識ではなく、途方に暮れる事になってしまったのですが、親切な人の助言の通り、「ドタン」に兄たちの面影を見つけた時、ヨセフは本当に安堵したのではないでしょうか。

こんな恵まれた状況で、こんな豊かな土地で、本当に仄々とした、暖かいものが流れ、満ち溢れているような状況の中で、方や、兄たちを、苦労の果てに見つけ出し、単純に喜ぶヨセフであり、方や、ヨセフを妬み、隙あらば、と思っていた兄たちの再会は、仄々とした状況に相応しいものではない、醜悪な展開を見せる事になってしまいます。

37:18 彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。

遠目にもはっきりとそれと分かる、派手な「そでつきの長服」を見て、ヨセフと確信し、

誰が口火を切ったのかは分かりませんが、「彼を殺そうとたくらんだ」と言うのですから恐ろしい事ですが、最初から、全員が「本気」で「彼を殺そうとたくらんだ」訳ではないでしょう。

悲しい「イジメ」とイジメを原因とする「自殺」のニュースが後を絶ちませんが、「からかってやろう」「痛めつけてやろう」「ギャフンと言わせてやろう」が、ない交ぜになって「殺っちゃおうぜ」になり、「からかってやろう」「痛めつけてやろう」「ギャフンと言わせてやろう」が度を越してしまい、エスカレートして、抑制が効かなくなり、悲しい結果に行き着いてしまうのではないでしょうか。クラスメイトですから、最初から、明確に殺す目的ではなかったと信じたい。

勿論、「イジメ」が許される行為でない事ははっきり言える事であり、「イジメ」た側に責任があり、「イジメ」られた側に責任はありません。

「イジメ」た側には、結果について責任を取らなければならず、断じて曖昧にしてはなりませんが、子どもの社会の問題は、大人にも責任があり、社会全体で考えなければならない問題であるとの認識を持たなければなりません。

苛める意識はなくても、弱い立場の者を、或いは言い返さないおとなしい者を、責めるなんて、苛めるなんて最低な事です。

二人がかりで一人を責めるなら、「注意」と云う形であっても、それはもう「イジメ」と紙一重です。

一対一であっても、パワー・ハラスメントにならないように、注意しなければなりません。

本論に戻って、

37:19 彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。

37:20 さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」

夢見る者」の直訳は「夢の主」、この「夢」は複数形であり、穀物の束の夢と、太陽、月、星の夢を指している事は説明するまでもありません。

新共同訳聖書では「例の夢見るお方」と訳しており、多分に揶揄の、軽蔑、侮蔑を込めた、皮肉たっぷりの表現であり、ヨセフと、ヨセフの夢を嘲(あざけ)っている事は明らかです。

さあ、今こそ」と云う表現に、積年の憎しみ、恨みが感じられると共に、今までにも、何度かの機会があり、しかし、実行に踏み切れなかった、そのやり切れなさが滲み出てはいないでしょうか。

実行に移すには、良い事であっても、躊躇が付きものであり、勇気が要るものであり、まして、命に触れる事には、格段の、別格の、葛藤が伴うのであり、普通の精神状態、即ち、冷静な中で出来る事ではないでしょう。しかし、今、周囲にはヨセフを快く思っていない兄弟しかいない、否、ヨセフを憎んでいる兄弟しかいない、使用人はいない、野原の真ん中であり、誰も見ていない、見ているのは羊だけです。

二度と訪れる事の無い、絶好の機会であり、この機会を逃したら、悔やみきれないし、これから先、ずっと、ヨセフの生意気な顔を見続けなければならず、父ヤコブの寵愛を受けるヨセフを見続けなければならないのであり、それは、苦痛であり、惨めであり、そんな未来には耐えられない思いが、共通の認識となり、異様な精神状態となり、父ヤコブを欺く、完璧な言い訳も、準備され、ヨセフ殺害は、机上の空論、想像の域を出る事になってしまうのです。

37:21 しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子のいのちを打ってはならない」と言った。

37:22 ルベンはさらに言った。「血を流してはならない。彼を荒野のこの穴に投げ込みなさい。彼に手を下してはならない。」ヨセフを彼らの手から救い出し、父のところに返すためであった。

ルベンの必死の説得は、兄たちが弟を殺すという、おぞましい事件を、未然に防ごうとする、嘆願の叫びであり、父ヤコブに対する責任、兄弟を事故、危険から守る責任者としての、悲痛な叫びであり、父ヤコブに対する負い目、即ち、父ヤコブの側女ビルハと寝た事に対しての、汚名返上、名誉挽回、信頼を取り戻す好機と捉えての、心の奥底からの叫びであり、父ヤコブの愛してやまないヨセフを殺す事に、強く抵抗したのであり、殺人は、皆が、シェケムで経験した事ですが、ルベンは、誰よりも強く、殺人の罪悪性を感じていたのではないでしょうか。

殺人は、人間関係を完全に崩壊させ、長く続く憎しみを生み出します。

関係者全てを不幸にしますから、絶対に関わってはなりません。

こんな幾つかの重要な理由で、ルベンは強く反対し、ヨセフを助けようと図りますが、側女事件は、弟たちの信頼を完全に失っていたようで、ルベンの長兄としての権威に服する者はなく、ルベンの説得、叫びが弟たちの心に届く事はなく、

37:23 ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、

37:24 彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水がなかった。

20節、22節、24節に出てくる「」は、一般的な意味での「」の他に、「溜め池、水溜め」の意味があり、雨水を溜めておくための穴、乾期のための貯水用の穴を意味します。

先に「ドタン」は「二つの井戸」の意味であり、現代でも最良の牧草地であり、当時から、良く潤った土地であり、泉が多く点在し、日照りが続いても、水に不自由する事はない、とされる土地であると、説明しました。しかし、水は貴重であり、溜めておいて無駄にはなりませんから、自然の泉の他にも「溜め池、水溜め」を掘り、旱魃に備えたのでしょう。

この「」、20節22節、24節での「」は少し意味が違うようです。

20節の「」は、野獣の巣穴をイメージしているのかも知れず、22節、24の「」が、地面の「」を指している事は明白です。

どちらにしても、ヨセフの死体の隠し場所を意味しているのであり、「」は死体の隠し場所、知られてはならない物の隠し場所として最適です。

人間の知恵は、悪事に対しても、遺憾なく発揮するのであり、突然の事に対しても、状況に合わせて、アイデアを生み出すものなのです。

しかし、流石に人を殺す事には、弟を殺す事には抵抗があり、思い留まりますが、寵愛の象徴である「そでつきの長服」を剥ぎ取り、憎しみを込めて毟り取り、憎しみを込めて、ずたずたに引き裂いたのではないでしょうか。

そでつきの長服」は、ヨセフが不当に手にした物であり、自慢げに楽しんでいた物であり、憎悪の的であり、「そでつきの長服」を剥ぎ取る事は、引き裂く事は、特権、寵愛の剥奪、消滅であり、溜飲の下がる事なのです。

【適応

しかし、幾ら溜飲が下がり、積年の恨みが解消され、気分が晴れても、越えてはならない一線を越えてしまったなら、後戻りは格段に難しくなります。

そして、もう、溜飲が下がる、気分が晴れる、どころの話ではなくなってしまいます。

そでつきの長服」を剥ぎ取り、引き裂いてしまったならば、手足を縛って「」に投げ込んでしまったならば、露見の暁には、父ヤコブの叱責を受ける事は確実であり、ヨセフの口を封じるしかなく、殺すしかない、となるのは、当然の帰結でしょう。

もう、誰にも止めようがなくなり、最悪の結果になるのは、火を見るより明らかです。

強行突破する勇気と、知恵が必要な時もありましょうが、踏み止まる勇気と、知恵が必要な時もあるのであり、人間に必要なのは、踏み止まる勇気と知恵なのではないでしょうか。

事の善悪に関わらず、無計画は、思いつきは厳禁であり、その場の雰囲気、勢いで、事を決め、進めてはなりません。

取り返しが付かない、どころの話ではなくなります。

歴史を見る時、踏み止める事が、どんなに大変か、力がいるか、そして、一度動き出したモノを止めるのが、如何に難しい事か、は歴史が証明しているのではないでしょうか。

憎しみに駆られて、人を殺すなどという人間の計画は、断じて許される計画ではなく、神様が承認される事は絶対にありません。

聖書に、聖絶の記録が記されていますが、許されているのは「神様の判断で」であり、「神様の命令で」です。

正戦、義戦、聖戦・・・が叫ばれます。理論上はあり得るかも知れませんが、現実にはありません。

何故なら、人間が判断しているからであり、人間の利害、利権が蠢(うごめ)いているからです。人間の罪が影響しているからであり、サタンが暗躍しているからです。

導入で、「事前の充分な打ち合わせは、何をするにも必要な手続きの一つです。」と申し上げましたが、更に重要なのは、計画の全ての段階で、神様と関わる事です。

計画の段階で、進捗の中で、変更の時に、停止するか否かの時に、中断するか否かの時に、撤退するか否かの時に、神様に祈り、この計画が、現在の進捗状況が、変更内容が、停止、中断、撤退の判断が、聖書から導かれる神様の御こころに反していないか、

人を傷つけ、悲しませる事にならないか、を確認しなければなりません。

誰かのため、ではなく、勿論、私のため、でもなく、神様が承認されるか否かを判断基準としたいものです。

先に申し上げた通り、人間は罪を持っていますので、正しい判断が出来ませんが、聖書を基準とし、神様ならどうされるだろうか、を考える時、大きな逸脱、間違い、取り返しの付かない判断から守られるのではないでしょうか。

今、個人的にも、国際的にも、多様化が進み、複雑な社会であり、思いもしない処で関係し、影響し、判断、決断の難しい時代に入っていますが、「神様を愛し、隣人を愛する」を判断、決定基準にするならば、判断の難しい問題であっても、八方塞であっても、神様が思いもよらない選択肢を与えてくださるのではないでしょうか。

「神様を愛し、隣人を愛する」を旨とした生き方、考え方こそ、神様の喜ばれる生き方であり、祝福を受ける生き方です。

ここにおられる皆様が、「神様を愛し、隣人を愛し」、祝福を取り次ぎ、もたらす器となる事を願ってやみません。

 

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聖書個所:創世記371節~11節               2017-8-20礼拝

説教題:「ヨセフの生い立ち」

【導入】

アブラハム、イサク、ヤコブ、エサウ、周辺住民の歴史を学んで来ました。

しかし、単に系図の羅列や、出来事を確認した訳ではありません。

神様の、人類に対する関わり、選びの歴史、祝福の歴史を、アブラハム、イサク、ヤコブ、エサウ、周辺住民を通して学んで来たのであり、人類を祝福するという稀有な働きの、継承の歴史を学んで来たのです。

紆余曲折があり、寄り道のような、本筋とはかけ離れた出来事も扱われますが、人間の喜怒哀楽、成功物語ではなく、神様のご計画を確認したのであり、神様の主権を確認したのです。

主流でなくても、神様は関心を持っておられ、傍流をも、他民族をも、祝福してくださる事を確認しました。

今回から、暫く、ヨセフを扱います。

ヨセフは非常に大きな、重要な働きをしますが、ヨセフが中心となったのではありません。

神様が主人公なのであり、神様とヤコブとの関係が中心、主流なのであり、神様のヤコブへの祝福が中心なのであり、ヤコブの子たちから続く子孫に対する、神様の祝福が中心である事に変わりはないのです。

ヨセフは、神様のご計画に参与し、神様のご計画を推進するために、登場しますが、アブラハム、イサク、ヤコブのように、神様から直接、祝福や使命を受けていないのです。

「夢」を見ましたし、神様のご計画に関わる事となり、夢が現実となり、ヤコブ一族を守る事となり、その経緯としてヨセフの話が語られ、記録されますが、依然としてヤコブが中心であり、ヤコブを語る上でヨセフを扱うのであって、ヨセフに中心が移った訳ではありません。

しかし、ヨセフの生涯から学ぶ意義は大きいものがあり、今日は「ヨセフの生い立ち」を開いて見たいと思います

【本論】

37:1 ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。

兄エサウはセイルの地域に住み、ヤコブは兄エサウと離れて「父が一時滞在していた地」に滞在する事になりましたが、「父が一時滞在していた地」が何処を指すのかは、不明であり、「カナンの地」は非常に広い地域を指し示しており、漠然としています。

しかし、神様が与えると約束された地に留まっていたのは賢明な事です。

嫌な思い出があろうとも、不便でも、気に入らなくても、神様が「生まれた国に帰りなさい」と仰せになられたのですから、神様が新たに示されない限りは、置かれた処に留まり続けるのが、置かれた処で神様を見上げ、最善を尽くすのが、信仰者の姿でしょう

「住めば都」ではありませんが、不平不満や、希望を挙げれば際限がありませんし、我慢しているのでは発展も、改善も期待出来ず、無駄に時間を費やすだけでしょう。

置かれた処で神様を見上げ、最善を尽くす時、「都」になるのであり、神様の新たなお取り扱いが起こるのではないでしょうか。

37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。

ここから4章を使って、延々とヨセフの生涯が記されますが、「これはヤコブの歴史である」と宣言しているのは重要です。

ヨセフの生涯を扱いますが、ヤコブの歴史の中で、ヨセフの事を語るのであり、重要だけれども、単独で起こった出来事ではなく、ヤコブの生涯の中の出来事であり、族長としてのヤコブの歴史の中での出来事であり、神様の摂理、ご計画の下での出来事である事を明確にしているのです。

ヨセフの生涯は、ヤコブの生涯と深く関わりますが、ヤコブが中心であり、ヨセフではない事を念押ししているのであり、長く続くヨセフの生涯の中に、ユダの話が織り込まれ、脱線しかねませんが、本線が何かを明確にしているのであり、読者の混乱を避ける知恵でもありましょう。

説教でも、会議でも、脱線しかねませんが、今日は何について語るのか、これから何について審議するのかを明確にしておかなければなりません。

例え脱線する事があっても、直ぐに本線に戻らなければならず、そのためにも、何を語るかを明確にしておかなければならないのです。

さて、ヨセフの立場を見てみましょう。

ヨセフはラケルの子であり、ラケルはヤコブの本妻の一人であり、本妻の子ですから奴隷ではありません。

一方、ビルハ、ジルパはヤコブの側女であり、身分は奴隷です。

そして「ビルハの子らやジルパの子ら」は奴隷の子であり、身分は奴隷ですから、ヨセフとは身分が違い、ヨセフの優位性は堅固なものでありました。

ヨセフは「ビルハの子らやジルパの子らといっしょにい」て、「羊の群れを飼って」もいたでしょうが、「ビルハの子らやジルパの子ら」は奴隷の子であり、働きに対して特別な報酬もなく、財産の分配においても非常に不利な立場でした。

加えて、本妻の子よりも低い地位に置かれていたのであり、不満があり、仕事はなおざりになり勝ちだったのではないでしょうか。

そんな「ビルハの子らやジルパの子ら」の様子、働き振り、言動を、ヨセフは父ヤコブに報告、注進したのではないでしょうか。

ヨセフの報告は、最初はよい動機から出たものかも知れませんが、褒められたい思いが大きく強くなり、誇張が織り込まれ、優越意識と、高慢が見え隠れし、鼻持ちならないものになっていたのであり、「ビルハの子らやジルパの子ら」から憎しみを買う事になってしまったようですが、更に悪い事に、

37:3 イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。

ヨセフはヤコブの寵愛を受け、特別扱いを受けていましたが、その理由を聖書は「年寄り子であったからである」と記していますが、同時に、最愛の妻ラケルの子であったからでしょう。

最愛の妻ラケルの忘れ形見であり、ラケルへの愛情をヨセフに注いだのです。

そでつきの長服」がどのような着物なのかを、具体的に知る事が出来ませんが、何らかの権威を示す類の物らしく、それは、ヨセフに相応しいと、誰もが思う事ではなく、妬みの原因、憎悪の対象、抗争の原因となってしまうのでした。

そして、ヨセフは「そでつきの長服」を何の抵抗もなく、当然の事として受け入れ、喜んで着ていたようですが、そんなヨセフの態度は、側女の子たちだけでなく、レアの子たちからも反感を買い、

37:4 彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。

兄弟間の不仲は、ヨセフにも原因があったでしょうが、ヤコブの責任は重大と言えるでしょう。

ヤコブは一度ならず、数度は、この種の着物をヨセフに作り与えていたようであり、ヨセフへの寵愛を、他の兄弟たちに見せ付けていたようであり、ヨセフを特別な存在として意識的に、意図的に区別していたのです。

その背後には、ヨセフに財産、跡目を継がせたい、意識があり、それを内外に示したかったが故の、意識的な特別扱いだったのです。

そんな父ヤコブの意識を、17歳のヨセフは敏感に感じ取り、父の権威を傘に着て、兄弟たちの気持ちなど意にも介さなかったようです。

思い返せば、ヤコブは、エサウとの間で、苦い経験をしたのであり、偏った愛情は、兄弟に、家族に、不幸をもたらすと、経験したのではないでしょうか。

しかし、ヤコブは、ヨセフを愛してやまなかったのであり、ヤコブの寵愛は、兄弟間の不仲を増長させ、ヨセフを孤立させるのですが、ヤコブもヨセフも、大した事はないと、高を括っていたようです。

しかし、ある事をきっかけとして、事態は大きく、悪い方向に進んで行きます。

37:5 あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

37:6 ヨセフは彼らに言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

37:7 見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

37:8 兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

この夢、聖書を良く読まれている皆様には、説明するまでもありませんが、軽く説明しておきたいと思います。

ヨセフは兄たちの憎しみを買い、奴隷として売り飛ばされてしまいますが、紆余曲折の後、エジプトで王様に次ぐ地位である、宰相と言う役職に就く事になります。

時に、「乳と蜜の溢れる地」と形容されるカナンに、未曾有の飢饉がやって来るのであり、ヨセフの兄たちは父ヤコブに促され、食料を求めてエジプトを訪れ、宰相となったヨセフと謁見するのですが、ヨセフの兄たちは、平身低頭、ヨセフと知らずに、ヨセフを拝するのであり、その様子は、7節から8節に記述された、擬人化された穀物の束のような光景なのです。

エジプトでの謁見、を予言する内容です。

当時の、夢に対する認識は、神様からのメッセージ伝達の一手段、です。

兄たちは、ヨセフの夢をそのまま受け止め、否定的に反応し、憎たらしい、と感じたのではなく、君臨したい願望の現われ、と感じ、反発したのでもなく、憎たらしい弟が、神様からのメッセージを受け取ったと考えられる事に反発し、憎んだのであり、憎たらしい弟の語った事が、神様によって事実となる事を恐れ、不吉な事を語る者を憎んだのです。

これは、古今東西変わらない、人間の心理でしょう。

神様の裁きを否定出来ないし、神様を憎めないが、神様の言葉を取り次ぐ預言者を憎むのと、同じ構図なのです。

憎たらしい者の言動は、真実か否か、正しいか否かで判断されるのではなく、最初から、否定され、拒絶されるのです。

ヨセフが、兄たちに愛されていたなら、兄たちの反応は全く違ったものとなっていた事でしょう。

37:9 ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。

この夢も、また説明するまでもなく、太陽、月、星を擬人化して描いていますが、ヤコブ一族が、エジプト入りした時の様子を、予言する内容です。

ヨセフは、ここでも得意気に、悪びれる様子もなく、無邪気に語りますが、決して兄たちを蔑む気持ちはなかったろう、と考えられます。

ヨセフ本人が、重大な意味が秘められているとは考えていなかったようであり、深く考えもせず、見た夢を、そのまま語ったに過ぎないのでしょう。

兄たちを蔑む気持ちがあれば、一回目の、穀物の束の夢を語った時の、兄たちの憎しみの満ちた眼差しを思い出して、語りはしなかったでしょう。

しかし、今回強く反応したのは父のヤコブでした。

37:10 ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

37:11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた。

この時、ラケルは召されており、「おまえの母上」がラケルでない事は明らかですが、夢と現実との区別は曖昧であり、辻褄が合わないものです。

しかし、夢の事であっても、父権が絶対的であった社会にあって、父が息子を拝するのは異様であり、ヤコブは見過ごしにする事は出来ずに、ヨセフを強くたしなめます。

何時もは優しい、何でも許してくれる父ヤコブが、厳しい態度で臨むので、ヨセフは驚き、戸惑ったのではないでしょうか。

一方のヤコブも、夢が神様からのメッセージであるとの認識を持っていますから、無下に否定する訳には行かず、無視する訳にも行かず、相当悩んだのではないでしょうか。

それで「このことを心に留めていた」のです。

夢は、神様からのメッセージかも知れない。

しかし、具体的な事を想像出来ないし、関連付けられる状況を想定出来ないし、夢の解き明かしは簡単な事ではありません。

不思議な事に出会ったその時、人は二つの態度のどちらかを取るでしょう。

1は、感情的になり、懐疑的になり、軽率な行動を取る、2は、冷静になり、謙虚になり、慎重な行動を取る、でしょう。

上位の者が、下位の者に額づく・・・常識ではあり得ない事ですが、神様のご計画で、息子のヨセフを拝する事になるのだろうか。

思い起こせば、騙して得たとはいえ、イサクの働き、財産、祝福、長子の権、継承者は自分なのですが、兄エサウに対して、臣下の礼を七回も繰り返したのであり、この事と、何かの関連があるのではないかと、思い巡らしたのではないでしょうか。

人間には不条理に思えても、常識では考えられなくても、神様の御手が、事を成すのであり、神様に人を選ぶ権利があり、神様が選ばれた人を通してご計画は進められるのです。

権謀術策を旨として生きて来たヤコブですが、神様が現れてくださり、神様から直接お取り扱いを受けて来たヤコブであり、これから益々神様との深い交わりが期待されるところですが、今回は、神様はヤコブには現れずに、ヨセフを通して間接的に未来を示されたのです。

ここで神様の主権が語られ、神様の主権に接した者の従順が語られているのです。

ヤコブが中心ではなく、神様の主権で、人が選ばれ、啓示が与えられるのです。

選ばれなかったからといって、腐ってはならず、反発してはならず、冷静になり、謙虚になり、「心に留めて」、慎重な行動を取るべきなのです。

【適応

普段、温厚な人が、遥か下位の人からの助言や、何の権威も持たない人からの忠告に、激昂する事があります。

大統領や大臣が、記者からの質問に対して、激昂した事などが思い出されますが、他人事ではありません。

今回、扱った出来事の背景を見てみましょう。

この時代は、父兄が絶対的権威を持つ時代であり、その中での出来事であり、父の権利や権威、兄の権利や権威を脅かす行為は、一家、一族を危険に晒す行為であり、許される行為ではありません。

ヨセフの見た夢は、父権を侵す夢であり、兄たちを蔑ろにする夢であり、それを公言するなど持ってのほか、であり、ヤコブが最愛のヨセフを勘当し、放逐しても当然であり、ヨセフも逃げ出さざるを得ない状況を、自ら作ってしまったのです。

ヨセフの見た夢は、今後の展開を予言する性格の夢ですが、家族に周知する必要性は、全くありません。

ヨセフの心の内に秘めておいても、何の問題も起こりません。

兄たちの憎しみを買わなくても、神様の守りの計画に支障をきたしはしません。

神様は、悪意をも用いて益とされますが、悪を必要とはされず、奨励しもせず、悪を見逃しもしません。

神様の義を明らかにするために、悪を行う必要は全くないのです。

人は、常に、善を行ない、他の人の益となる事を図らなければなりません。

人を貶(おとし)めるような言動を取ってはならず、そんな言動に加担してもなりません。

他愛のない夢の話しであっても、意味のない夢の話しであっても、話しを聞いた人が嫌な思いをする可能性があるなら、話してはならないのです。

神様の特別なご計画の一端を見る事が、秘密を知る事が許されるかも知れません。

イエス様の弟子たちは、イエス様とモーセとエリヤの会合を目撃しましたが、人々に話す事を禁じられました。話すべきタイミングがあるのです。

神様のご計画に関わる事を知り得ても、吹聴すべきではなく、「心に留めて」おくべきであり、時が来るまで、祈り備えるべきです。

それは、試練であり、訓練なのかも知れません。

聞いた者の対応にも知恵が必要です。

何にでも首を突っ込みたがる人がいますが、自重しなければなりません。

詳しく聞く必要はなく、一緒になって騒ぎ立てる事は、控えなければなりません。

吹聴したりしてはならず、同調者を募って抗議する必要もなく、正義感に燃えて、黙ってはおれない、と息巻く必要もないし、徒(いたずら)に混乱を煽り立ててもなりません。

心に留めて」おくのが、最善の対処法なのです。

不適切な言動に対して、注意はしなければなりません。

しかし、必要以上に動き回る必要はなく、神様が明かされない事に対して、詮索したりしてはならず、神様が閉じておられる事に対して、抉()じ開けてはならないのです。

そんな態度が、神様の主権を尊重するという事であり、従順という事なのです。

神様が明かされるまで、開けられるまで、自分のすべき事を行うのが信仰者の姿です。

神様の主権に従って、神様にお仕えし、神様の御栄光を現し、祝福を取り次ぐ器となる事を願ってやみません。

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聖書個所:ヨハネの福音書11:1744              2017813礼拝

説教題:「よみがえったラザロ」

【導入】

本日の説教題の「よみがえった」と言う言葉から、復活を連想される方も多いかと思います。

復活といえば、イースター、イースターとくれば、イエス様ですが、現代は、本来の主人公を蚊帳の外に置いて、お祝いだけを楽しむ時代になってしまいました。

それは、クリスマスも同じですが、本来のクリスマスは、救い主のお生まれを祝う時です。

救い主がどなたか、かは、申すまでもなく、イエス様です。

世のキリスト教会が挙って、イエス様のお生まれを祝うのは、また復活を祝うのは、イエス様が神の子でありながら、人類の罪をその身に引き受けて、十字架の上で死なれるために、この世に来て下さったからであり、その死により私たちの罪が贖われ、義人と認められ、天国に入る事が許されたからなのです。

聖書にはイエス様が病気を治されたり、盲目の人の目をあけたり、死人を甦らされたり、水の上を歩かれたり、嵐を静めたり、5つのパンで5000人を養ったりした奇蹟の数々が記されていますが、これらの出来事は一過性の出来事であり、病気を治してもらっても、目をあけてもらっても、食事を与えてもらっても、結局人間は死ぬのであり、奇蹟は何の解決にもなってはいないのです。

ではあまり大きな意味のない奇蹟が何故記されているのでしょうか。

奇蹟の数々はイエス様が神の子である事を指し示すためのモノであり、一番重要なのは、罪のない神の子が罪を負われて死に、罪を処理され、復活により死に打ち勝たれた事なのです。

この罪の問題と死の問題は、人間にはなす術のない問題です。

どんなに努力しても、難行苦行に励んでも、献金を献げても、奉仕をしても、善行に励んでも、罪に対して何の効果も、影響も及ぼさず、罪が軽減される事はなく、それ故に刑罰としての死を免れる事は出来ないのです。それ故に、罪と死の問題は、神様の提示されたイエス様を、罪の贖い主、永遠の命を与えて下さる方として受け入れるか否かにかかっているのであり、イエス様の誕生と、十字架上の受難と、死より甦られた復活が重要である事を覚えなければならないのです。

人間と同じ肉体を持ち、誘惑、悲しみ、苦しみ、痛み、喜びを味わわれたイエス様の死と甦りと関連付けつつ、人間の死の問題に付いて考えて行きたいと思います。

【本論】

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。

ラザロの住んでいたベタニヤとイエス様の居られたエルサレムは3km程しか離れていません。

大人の足なら、一時間と掛からない距離ですが、イエス様はラザロの病状を聞きながらも、ラザロの下に急ぐ事なく、エルサレムで弟子と共に過ごし、弟子を教え、エルサレムの住民の必要に応えていたのでした。

神の子イエス様であっても、人間と同じ肉体を持つ以上、その行動、活動には制約がありましたから、何かしらの優先順位を付けて行動されていた訳です。

それにしても一時間足らずで行ける距離のベタニヤに、4日も先延ばしにして行かなかったのは、エルサレムに重要な事があったからではなく、ベタニヤに重要な意味があったからであり、その重要な意味とは、ラザロが死に、葬儀が行なわれて、ラザロの死が確実、不動のものとなる必要があったからなのです。

以前の学びで確認した様に、人は仮死状態に置かれる事があります。

その仮死状態は数時間、精々一日程度であり、現代でも医師により死亡が宣告されてもなお、24時間は火葬、埋葬する事が禁じられているとおりです。

心臓も止まり、呼吸もない。誰の目にも死は明らか。しかし、万に一つ以下かも知れませんが蘇生する事があり、イエス様はラザロの死が確実である事を、人々が納得するまでの時間を確保されたのです。

11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。

ユダヤの葬儀は一週間程続くそうです。

最初の3日は泣いて過ごし、また埋葬して一週間は墓に行って嘆き悲しむ習慣があったそうです。

泣き悲しむ事で、愛する家族を失った悲しみが晴れる訳ではありませんが、悲しみ、苦しみ、辛さは内に秘めて置くよりも、吐露する時、その悲しみ苦しみはより早く軽減する様です。

私たちは家族を失って悲しみに沈む人々に、何と言って慰めたら良いか分からず、掛ける言葉も見つからず、無言でいるしかありません。

言葉の空しさ、自分の非力を痛感しますが、寄り添う事が一番の慰めなのかも知れません。

励ましの言葉は、時に、聞くに辛いものがあるかも知れません。

泣く者と一緒に泣くのが、一番の慰めなのではないでしょうか。

ベタニヤの人々がマルタに、マリヤに寄り添って、慰めを与えているその時に、イエス様がベタニヤに到着しますが、イエス様は村には入らず、到着を伝えるに止まります。

イエス様はマルタ、マリヤの下には直接行かれず、マルタとマリヤが出て来る事を望まれました。

これには2つの意味があります。

1つは、死と向き合い、墓場に行って過ごすと言う非日常から脱出し、日常に戻る事を促し、2つは、死の支配に打ちひしがれる生活から、命の支配者である神様の下に参じる事を促すモノであると言う事なのです。

私たちはこの世に生きて、この世の制限を受けていますが、この世に支配されてはいけません。

愛する家族を失った悲しみは、避けられませんが、悲しみに埋没してしまってはならないのであり、そこから立ち上がり、神様の下へ行き、神様と共に生きる事が求められているのです。

何故ならば、神様の下に永遠の命があるからであり、希望があるからなのです。

11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

21節のマルタの言葉は、イエス様に対する非難の言葉、とのニュアンスが含まれている様に読めますが、続く

11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

と合わせて読むと、非難ではなく、無念さの現われであり、イエス様、神様の全能、主権の告白である事が分かります。

私たちは神様の全能を信じていますが、この世の常識にも強い影響を受けており、その支配下にあります。

あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」と告白しつつ「もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とこの世の常識で判断してしまうのです。

これはマルタに限った事ではなく、私たちの信仰の限界と言えるでしょう。

私たちは色々な願い事を神様にしますが、叶わないと御こころではなかったのだと、自身を納得させますが、これは自己中心の現われなのではないでしょうか。

「御こころ」と言う言葉を使ってはいますが、自分中心であって、神様中心ではありません。

神様中心は、叶わない事も、神様の御こころ、と受け止める姿であり、其処から学ぼうとする姿、教えられようとする姿、神様のご計画を知ろうとする姿なのではないでしょうか。

マルタは精一杯の信仰告白をしたのであり、イエス様はマルタの信仰を引き上げるべく、マルタの信仰を明確にすべく、マルタに教えるべく23節の言葉を掛けます。

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

このマルタの告白は当時のユダヤ教の教え、そのものの、模範的な告白です。

死んでしまったら、終りの日が来るまで眠っている。

それは虚無の世界であり、何時まで続くか分からない世界であり、即ち、死と希望を結びつける事は、死と喜びを結びつける事はないのです。

しかし、イエス様の仰られる意味は違います。

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

この禅問答のようなイエス様の言葉は、理解に苦しみましょうが、2526節が言わんとするのは、イエス様は死の問題を、今、解決するために来られたお方であり、決して遠い未来の事ではなく、単なる希望を語っているのでもありません。

朽ちて行く肉体を離れた魂は、イエス様と共に生き続けるのであり、魂の死を迎える事がないと言う事なのです。

この約束が、ユダヤ教の教えの様に遠い未来の事ではなく、希望のないモノではなく、

イエス様によって現実となったのだ、今、朽ちる事のない、病気も苦しみも悲しみも死もない新しい身体が与えられる事を教えているのです。

ユダヤ教の教えでは、死に希望はありませんが、イエス様は、肉体の死は絶望や虚無に繋がるものではなく、新しい命、新しい体の約束、希望に繋がる事を教えているのです。

この事を信じますか、との促しに、

11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

と答えますが、これも模範的な答えであり、イエス様によって死の問題が解決し、永遠の命が今与えられている事をまだ理解はしていないようです。

それでもマルタの信仰告白は賞賛に値するモノである事は間違いありません。

人間と何も変わらない姿であるけれども、神の子であると、告白しているからであり、「キリスト」即ち「油注がれた者」即ち「王、祭司、預言者」であると告白しているからです。

漠然とした告白ではなく、マルタの様に確固たる告白をする信者でありたいと願う者です。

11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。

 

11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。

11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、

11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」

11:35 イエスは涙を流された。

33節の「霊の憤り、心の動揺」そして35節の「涙を流された」事をどの様に理解したら良いのでしょうか。

このイエス様の憤り、動揺は、人間が「死」と言う問題に対して無力であり、そのなすがままに従うしかない姿と、サタンの力、神様に対する希望を打ち砕く力が非常に強い事に対する憤りと動揺であって、また、臨終の床にあって、悲しみ、絶望、不安を味わったラザロへの同情の涙、ラザロの死を悲しみ、涙する人々に対しての同情の涙でもあるのです。

イエス様はご自分でなさろうとする事、即ち、ラザロを生き返らされるのですから、涙を流す必要はありませんが、人々の悲しみを共有されるお方であり、痛み、苦しみを共有されるお方である事を教えているのです。

11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

このイエス様の愛の行きつく先が、憐れみの涙であり、執り成しの祈りなのであり、十字架の死なのです。

11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」

イエス様の言葉と行動は、常に神様の栄光を現すものであり、人々の信仰が成長するためのものでした。

ある出来事を通して、本人だけでなく、回りの人々も、神様の栄光を拝するのであり、神様への讃美に繋がるように、配慮されたのです。

イエス様ご自身で石を取り除ける事も出来ましたが、敢えて人々を巻き込み、この奇蹟に参与させ、単なる目撃者ではなく、当事者となし、証し人としての使命を与えられるのです。

大きな石を動かした時の感触、汗、手の汚れは、このラザロの甦りと言う奇蹟が夢などではなく、現実である事の確証となったのです。

11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

手足を布でぐるぐる巻きにされていたのですから、歩いて出て来たのではなく、芋虫の様に転がって、這いずって出て来たのでしょう。

そこで、巻かれていた布切れを解く事によって、生き返ったラザロに触れる事によって、ラザロの甦りが間違いない事実である事を人々は確認したのです。

【適応】

今日のポイントとなる聖句は「主はどんなに彼を愛しておられたことか」です。

この「彼」の所をご自分の名前に置換えて読んで見て下さい。

主はどんなに○○○○を愛しておられた事か」イエス様はこの私の為に涙を流されたのです。

罪の縄に縛られ、死に繋がれ、苦しみ、悲しみ、希望もない人生を歩んでいる姿に涙されるのです。

イエス様はこの私の為に、天の御国を捨てて、神の子と呼ばれる身分を捨てて罪の世に来られたのです。

イエス様はこの私の為に、十字架に掛かって下さったのであり、イエス様はこの私の為に、甦って下さったのです。

イエス様はこの私の為に、天の御国の、神の右の座で執り成しをしていて下さっているのです。

サタンの誘惑に負けて、犯したあの事、この事。サタンはそれを思い出させ、神は正しいお方だから、正しくないあなたを天国に入らせては下さらない。

あなたの罪は死に価するから、死んで後は永遠の苦しみに入れられる、と言うでしょう。

しかし、イエス様は私の罪の身代わりに死んで下さったのであり、天国で永遠に憩う為に甦って下さったのです。

その、目に見える証拠が、ラザロの甦りであり、マルタとの一連の会話なのです。

イエス様の教え、聖書の教えは全てが完全に理解出来るものではありません。

理解出来ない事の方が多いのではないでしょうか。でも、それで良いのです。神様は理解するものではなく、信じるものだからです。

理解してから、との考えは自分中心です。理解出来ない事もある、との謙虚な姿勢が、聖書の読み方であり、神様の御こころの受け止め方なのです。

白黒きっちりさせる事も重要ですが、神様が明確になさらないならば、そのままにしておく、そのまま受け入れる事が、私たちの選択なのではないでしょうか。

そして、神様から明確な指示が与えられたならば、臭くなっていようが、常識では考えられなくても、非常識と罵られようが、石を取り除けなければならないのであり、その時、私たちは神様の不思議の目撃者とされ、証言者となるのです。

私たちの心には常識とか、知恵と言う大きな石が立て掛けられています。

この石を取り除けない限り、常識と言う世界から出て行く事が出来ないのであり、神様の声を聴く事も、それに従う事も出来ないのです。

石を取り除くのは、自分の力だけではなく、人の助けも必要です。

その意味で、傍観者であってはならず、常に積極的な関係をイエス様と持ち続け、イエス様の命令を聞き漏らさず、聴いて行わなければならないのです。

世の中は、これからもお祝いムードだけを楽しむ人々で一杯でしょう。

そして、その風潮は教会を侵食しつつあります。

しかし、教会こそ、イエス様の言葉を信じ、聴き従う群れである事を忘れてはなりません。

イエス様に愛されている者であるとの自覚を持ち続け、歩み続ける者でありたいと願うものです。

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聖書個所:創世記3620節~43節               2017-8-6礼拝

説教題:「先住民の歴史(系図)・・・祝福

【導入】

本日のテキストには、エサウの系図に引き続いて、先住民の系図が記されていますので、説教題を先住民の歴史(系図)」としました。

何故、先住民の系図が記されているのでしょうか。

詳細は本論で語る事といたしますが、私たちが知り得るのは極一部であり、私たちの知り得ない出来事が、私たちの背後で、複雑に絡み合い、不思議な事が起こっているのであり、軽率な判断や、思い込み、常識や慣習に囚われた、固定観念に気を付けなければなりません。

エサウはカナン人の女性を見初め、カナン人の女性を二人も妻としてしまいましたが、父イサクの気に入らない事と知るや、イサクの兄イシュマエルの娘を妻として迎えます。

カナン人の女性との結婚は、神様の喜ばれる事ではありませんが、失敗を繕うかの如き、同族の女性との結婚は、余りにも早計であり、短絡的です。

また、カナン人の妻を離婚したなら、それも問題です。

切り捨て、離れなければならない選択肢もあり、現状を受け止めつつ、変えて行く選択肢もあります。

故意か、知らずにか、で対応も変わりましょうが、悪癖、罪は、即刻、何を犠牲にしても切り捨て、離れなければなりませんが、結婚は、二人の人間が一人の如くになったのであり、最早、離れる事は出来ませんから、二人で解決策を模索して行くしかありません。

勿論、神様に委ねつつであり、その努力の中で、神様は不思議な導きを示してくださり、予想もしない解決を与えてくださるのではないでしょうか。

エサウの、カナン人女性との結婚は、望ましいものではありませんが、神様は、エサウ一族がカナンの地で守られるための、増えるための、備えとしてくださるのです。

その経緯、「ヒビ人ツィブオン」或いは、その子「アナ」はエサウが住むセイル地方の有力な首長であり、「エウシュとヤラムとコラ」は「ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ」の子という事で優遇され、「ヒビ人ツィブオン」或いは、その子「アナ」は孫であり、エサウの子である「エウシュとヤラムとコラ」を陰日向になって支援、援助したのかも知れません。

それで、子の代で勢力を伸ばし得、首長となり、「首長エウシュ、首長ヤラム、首長コラ」の支援と援助で、エリファズの子、即ちエサウの孫の「テマン、オマル、ツェフォ、ケナズ、コラ、ガタム、アマレク」の七人が首長になり、レウエルの子、即ちエサウの孫の「ナハテ、ゼラフ、シャマ、ミザ」の四人が首長になれたのではないでしょうか、とお話しましたが、今日のテキストにはその根拠となる系図が記されています。

【本論】

36:20 この地の住民ホリ人セイルの子は次のとおり。ロタン、ショバル、ツィブオン、アナ、

36:21 ディション、エツェル、ディシャンで、これらはエドムの地にいるセイルの子ホリ人の首長である。

アナ」は、362節では「ヒビ人ツィブオンの子」と紹介されていましたが、20節と24節で「ホリ人セイルの子」の子孫として紹介されています。

ヒビ人」と「ホリ人」では「月とスッポン」程も違いますが、ヘブル語では、実は僅かな違いでしかないのです。

yWIxi」と「yrIx」です。

アルファベットに置き換えると「yvh」と「yrh」の違いであり、「v」と「r」に相当するヘブル語は、横棒の長さの違いでしかありません。

書き写す時の、間違いの可能性が考えられますが、正確な情報伝達の意味で、一点、一画、を慎重に扱わなければならないのは、言うまでもない事です。

ヘブル語と同じように、日本語、数字には似た字が多数あり、例を挙げたら切りがありませんが、情報伝達の時には、丁寧に、正確に、誰が見ても見誤らないように、注意して書かなければなければなりません。

伝言メモ一枚でも、疎か、粗雑に扱ってはならないのです。

本文に戻って、民族名や、地名は、厳格な区別の意識を持って、使い分けていたのではなく、大まかな区分、必要最低限の区別で使い分けていたのであり、混在や、複数の呼び方があったのかも知れず、「ヒビ人」と「ホリ人」の違いが、現代の私たちに与える影響は、“0”と言い切れるでしょう。

さて、2122節に「ホリ人セイルの子」七人の名前が挙げられています。

重要なのは、エサウの系図に関わりを持つのは「ツィブオン」であり、「ツィブオン」の子、孫を記述するだけで充分目的を果たしますが、聖書は六人も付け加えて記しています。

聖書としてまとめられ、文字として書かれたのは、紀元前400年頃でしょうが、口伝としては紀元前1700年頃の事であり、関係者が存在しており、名前を挙げる事が必要、不可欠だったのかもしれません。

それと共に、神様の関心の広さ、深さを如実に示しているのではないでしょうか。

この事は繰り返しになりますが、神様は、脇役を、その他大勢で一括りにする事はありません。

一人一人の存在そのものを、大切に扱われます。

一人一人の名前を記録してくださるのであり、一人一人の名前を呼んでくださるのです。

聖書に働きや、その後が記されていなくても、名前を記す事で、神様に覚えられる存在であった事を私たちに伝えているのです。

献げものにおいても、奉仕においても、同じです。

全く同じ物を献げても、全くの別物として扱われ、同じ奉仕であっても、共同で行っても、別々の奉仕として扱ってくださいます。

ですから、誰かと、何かと、比べる必要はなく、出来ない事で、小さくなる必要も、卑屈になる事はなく、優越意識を持ったり、高慢になる事があってもなりません。

喜んで献げる時、受納されるのであり、嫌々ながら、人の目や評価を気にしてでは、神様は悲しまれましょう。

出来る事を、出来る範囲で、喜んで、が大切です。

ホリ人セイルの子」七人に続いて、それぞれの子、即ち孫の名前が記されます。

36:22 ロタンの子はホリ、ヘマム。ロタンの妹はティムナであった。

36:23 ショバルの子は次のとおり。アルワン、マナハテ、エバル、シェフォ、オナム。

36:24 ツィブオンの子は次のとおり。アヤ、アナ。このアナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき荒野で温泉を発見したアナである。

唐突に「温泉」に言及しますが、ここだけに出てくる名詞であり、何を指し示すのかを、正確に示す事は出来ません。

「毒蛇」を意味する、「騾馬(ラバ)」を意味する、との注解書もあるのですが、「ヒビ人」と「ホリ人」のところで説明したように、一点、一画、の違いで言葉は大きく変わり、意味も変わります。

そこから「毒蛇」を意味する、「騾馬(ラバ)」を意味する、との解釈も可能になるのですが、「水」の貴重さ、大切さは格別ですから、訳の通りが妥当かと思います。

本文に戻って、

36:25 アナの子は次のとおり。ディションと、アナの娘オホリバマ。

36:26 ディションの子は次のとおり。ヘムダン、エシュバン、イテラン、ケラン。

この25節と26節の扱いがちょっと難しいのです。

20節に単純に従えば、「アナ」も「ディション」もセイルの子と考えられますが、聖書の系図の記載は、子をまとめて列挙し、孫をまとめて列挙する訳ではありません。

子の名前を列挙する中に、孫の名前を織り込む事もあり、24節の記述を根拠に、セイルの子は「ロタン、ショバル、ツィブオン、エツェル、ディシャン」の五人であり、「アナ」は「ツィブオン」の子、「ディション」は「アナ」の子として、扱うのが妥当かと思われます。

子、孫、曾孫の関係性は、現代の私たちが知る由もない事ですが、当時の人々には周知の事であり、説明するまでもなく、同列においても、聞き手、読み手に混乱を起こす事はなかったのでしょう。

さて、エサウの妻「オホリバマ」の出自が、ここで明確に記され、エサウの子孫が優遇された経緯が明らかにされます。

聖書は、時に、重複し、細かく記しますが、時には事実のみを記すだけに留まります。

ついつい、色々な事を付け加えたくなりますが、説明したくなりますが、本筋から離れた事は、簡潔に、なのでしょう。

再びセイルの子の系図に戻ります。

36:27 エツェルの子は次のとおり。ビルハン、ザアワン、アカン。

36:28 ディシャンの子は次のとおり。ウツ、アラン。

繰り返しになりますが、聖書は、彼らの働き、その後を何も記していません。

記していないからといって、何もしなかった、消えてなくなった、と結論してはなりません。

世の中には、無名の働き人、無冠の賢者が、数多居るのであり、何処にも記されず、記憶もされないでしょうが、神様は見ておられ、決して忘れる事はありません。

アモス書87節に記されている通りです。

8:7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。」

その証拠が、聖書に名前が記されている事なのです。

人々の記憶に残るのは、教会の記録に残るのは、教団の記録に残るのは、キリスト教界の歴史に残るのは、ほんの一握りの人々でしょうが、神様は何時までも、決して忘れず、報いてくださり、栄冠を与えてくださるのですから、弛(たゆ)まず、止まらず、与えられた賜物を用い、使命を果たさなければなりません。

36:29 ホリ人の首長は次のとおり。首長ロタン、首長ショバル、首長ツィブオン、首長アナ、

36:30 首長ディション、首長エツェル、首長ディシャン。これらはホリ人の首長で、セイルの地の首長である。

29節、30節は、先の20節、21節と同一の名前であり、セイルの子孫が、一人も欠けることなく首長になった事を記しています。

セイルの子と、孫が、同列にされ、記されていますが、これも神様のなさる不思議であり、区別されますが、差別されない事の現われなのではないでしょうか。

人間は、小さな差を見つけて序列を付けたがり、評論しますが、逆に、正当に評価せず、尊敬を払わず、悪意を持って下位に置く事さえします。

しかし、神様は能力や働きによって序列を付けられず、誠実か、正直かを、正しく評価され、取り扱われます。

人に取り入るのではなく、神様の前に誠実に、正直に歩みたいものです。

36:31 イスラエル人の王が治める以前、エドムの地で治めた王たちは次のとおり。

36:32 ベオルの子ベラがエドムで治め、その町の名はディヌハバであった。

36:33 ベラが死ぬと、代わりにボツラから出たゼラフの子ヨバブが王となった。

36:34 ヨバブが死ぬと、代わりにテマン人の地から出たフシャムが王となった。

36:35 フシャムが死ぬと、代わりに、モアブの野でミデヤン人を打ち破ったベダデの子ハダデが王となった。その町の名はアビテであった。

36:36 ハダデが死ぬと、代わりにマスレカから出たサムラが王となった。

36:37 サムラが死ぬと、代わりにレホボテ・ハナハルから出たサウルが王となった。

36:38 サウルが死ぬと、代わりにアクボルの子バアル・ハナンが王となった。

36:39 アクボルの子バアル・ハナンが死ぬと、代わりにハダルが王となった。その町の名はパウであった。彼の妻の名はメヘタブエルで、メ・ザハブの娘マテレデの娘であった。

32節から39節に、エドムの地を治めた王様の名前が列挙されていますが、その特徴は、王位が世襲ではない、と言う事でしょう。

これも、特筆すべき事です。

「王」の名称と、権力を、現代の感覚で捉えてはなりませんが、小さなものでも、王位は、権力は、どうしても渡したがらない性質のものであり、実の子どもに渡したがるものであり、一族で囲い込みたがるものであり、

息のかかった者に渡したがりますが、

王位は、神様から委託された地位、働きであり、人間の自由に出来る性質のものではありません。

誰に譲るかは、神様が決める事であり、人間の考え、希望を優先させてはなりません。

個人的な土地、財産であるとか、所有権、営業権などはともかく、王位、これに準ずる地位は、人間的に決めてはなりません。

モーセ然り、ヨシュア然り、ギデオン然り、サムソン然り、サウル然り、ダビデ然り、であり、神様が召し出し、任命したのです。

ダビデからは、ダビデの子、子孫が王位を継ぐ事になり、祭司は、アロンの子孫が継ぐ事になりますが、どちらも神様の命令で、です。

この世の支配者は神様であり、神様の委託を受けた者が、神様の代理として、この世を支配するのですが、王位は、支配ではなく、「お世話、ケア」であり、王権で、力で外敵を防ぐのではなく、外交をもって友好関係を築くのです。

教会も然りであり、神様の委託を受けた者が遣わされ、神様の代理として、教会のお世話、ケアをするのであり、一族が一族の思いで、一族に教会を引き継ぐのでは、それはもう神様の教会とは言えません。

神様が頭ではなく、人間が頭になっており、人間の教会です。

誰が立てられるのかも、教会の存続すらも、神様のお考えのみなのです。

最後にエサウから出た首長の名前が記されます。

36:40 エサウから出た首長の名は、その氏族とその場所によって、その名をあげると次のとおり。首長ティムナ、首長アルワ、首長エテテ、

36:41 首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、

36:42 首長ケナズ、首長テマン、首長ミブツァル、

36:43 首長マグディエル、首長イラム。これらの者は、彼らの所有地での部落ごとにあげた、エドムの首長たちである。エドム人の先祖はエサウである。

前述の、15節から18節のリストと比較すると、

首長ケナズ、首長テマン」だけが重複していますが、後は、別人です。

この二つのリストの違いは、15節のリストは、「エサウの子で首長は」であり、43節のリストは「彼らの所有地での部落ごとにあげた、エドムの首長たちで」す。

15節のリストは、初代の、49節のリストは、二代目、三代目のリストなのかもしれません。

リストの違いからも、エサウの子孫が、エドムの地で増え広がっていった事が伺えるのです。

【適応

前回、神様は、主流ではない、その他大勢の、消えて行く傍系の歴史にさえ、関心を持っておられるのであり、滅びる事のないように、虐げられる事のないように、増え拡がり、大きな民族、国民となる事を願い、必要な助けを起こしてくださる、とお話しました。

傍系であってもアブラハムの子孫であり、神様が増やすと約束、宣言されているのですから、関心を持たれるのは当然であり、訝る事ではありません。

しかし、神様は、異邦人、異教徒の歴史、系図にも関心を持っておられ、滅びる事のないように、虐げられる事のないように、増え拡がり、大きな民族、国民となる事を願い、必要な助けを起こしてくださるのです。

その神様のご意思が明確に分かるのが、系図の位置関係です。

36章前半にエサウの歴史、系図が記され、36章末に、再びエサウの系図が記され、サンドイッチされる形で、ホリ人セイルの系図が記されているのですが、これは偶然ではなく、神様が意図されて、なのです。

異邦人、異教徒は、神様から捨てられた存在ではなく、無関心の存在ではなく、神様の愛する民から離れた存在ではなく、神様を愛する民の周辺を離れず、近寄らず、ではありません。

逆に、異邦人、異教徒は、神様に囲まれた存在であり、関心の的であり、神様の愛する民に守られる存在であり、神様を愛する民の、中心に置かれる存在なのです。

異邦人、異教徒は、神様を信ずる民を通して、祝福を受けるのであり、神様を信ずる民は、異邦人、異教徒を包み込み、祝福を与え、守り、繁栄に導くのです。

神様の御こころは、異邦人、異教徒を排斥し、滅ぼす事ではありません。

神の民は、異邦人、異教徒を包み込み、神の民は、異邦人、異教徒に、神を愛するとはどうゆう生き方か、人を愛するとはどういう生き方かを見せるのであり、神様に愛される事が、どんなに大きな祝福かを示さなければなりません。

その点で、神の民に、内輪もめ、悪い意味の競争、勢力争いがあったなら、どんなに悲しい事でしょうか。

アブラハムと甥ロトとの関係、イサクとイシュマエルの関係、ヤコブとエサウとの関係。どれも良好であり、周囲の異邦人に良い影響を与えたのではないでしょうか。

勿論、諍いの無い関係なんてありませんが、自己主張の先には破綻あるのみ、なのであり、譲歩と誠実な対応の先には、和解の希望があるのではないでしょうか。

周辺の異邦人、異教徒に希望を与え、祝福を与えるのが、神の民の使命であり、使命を果たす事が、祝福の基なのです。

エサウの子孫は、カナンの先住民の中に置かれ、四面楚歌になったのではなく、逆に、カナンの先住民が、神様に従う民の中に置かれ、周りから祝福を受けたのです。

日本において、クリスチャンは少数であり、四面楚歌の状態のように見えましょうが、クリスチャンは、神様に従う時、一騎当千ですから、恐れる事はなく、異教徒を包み込み、祝福を与える使命に、召されている事を自覚しなければなりません。

神様の主権に従って、神様にお仕えし、神様の御栄光を現し、祝福を取り次ぐ器となる事を願ってやみません。

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