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聖書個所:出エジプト記32章1節から10節          2017-9-24礼拝

説教題:「真の礼拝--神が人と出会う

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

32:1 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
 32:2 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」
 32:3 そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。
 32:4 彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言った。
 32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは【主】への祭りである。」
 32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
 32:7 【主】はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。
 32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』と言っている。」
 32:9 【主】はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。
 32:10 今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」 

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聖書個所:ヨハネの福音書11:4557              2017-9-17礼拝

説教題:「ひとりの人が民の代わりに死ぬ」

【導入】

ユダヤ人は長い間、救い主の誕生を待ち焦がれていました。

イザヤ書96節に次のように記されている通りです。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」

このイザヤの預言が語られたのは、紀元前凡そ700年です。

このイザヤの預言の前後にも、何人もの預言者が救い主の誕生を預言しましたが、一向に救い主の現れる気配はなく、最期の預言者マラキの後、凡そ400年の空白の時代を経て、イエス様が誕生したのでした。

イエス様の誕生の不思議に付いては別の機会に学ぶ事にしますが、イエス様が普通の子どもで無い事は、その幼少の時から現れていました。

家族一族総出での、エルサレムへの参拝の折の逸話を思い浮かべる事が出来ますが、イエス様は神殿を指差して、「私の父の家である」と宣言したのでした。

このイエス様の言葉を、父も母も、回りの大人たちも理解出来ませんでしたし、イエス様が公生涯に入られて、弟子たちに語られた時にも、弟子たちは理解出来なかったのでした。

それは、イエス様の言葉が、時が来るまで隠されていたからであり、また、聴く耳を持たない者には何時までも理解出来ないように閉ざされているからです。

言葉だけではありません。

誰もが同じ奇跡を目撃しても、ある人には神の業との理解と、イエス様を神の子との告白させるに至らせるのですが、ある種の人々にはサタンの力であると認識させ、イエスをサタンの使いの一人と罵る言葉を吐かせるに至るのです。

勿論、世の中の奇跡の全て神様の力であるとは断定出来ません。

サタンも御使いに変装して、不思議な事を行なって人を騙す事があるからです。

しかし、アダムの時代から現代に至るまで、死んで4日も経って、腐敗が始り、臭くなっている死体に向かって「出て来なさい」と声を掛けた人がいたでしょうか。

勿論いないでしょうし、どんなに偉くても、素晴らしくても、人間の言動には何の力もありません。

しかし、ここに命を支配される神様、イエス様がおられ、イエス様が「出て来なさい」と言う言葉を発せられたのです。

神の言葉により、腐り掛かっていた死体は時間が逆戻りしたかのように、生気を取り戻し、離れていた魂はラザロの肉体に戻って、命を宿す者とされたのです。

こんな事は人類の歴史の中で一度もなかった事ですが、誰もがイエス様を神の御使い、神の力を宿す者として、受け入れた訳ではないのです。

【本論】

11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

ラザロの甦りを目撃した人々の全てが、イエス様を神の子と信じるには至らなかったにしても、少なくともイエス様に敵意を持つとは考えにくいのではないでしょうか。

しかし、中には、イエス様の人気を妬み、パリサイ人に、即ち体制側の人間に取り入って、イエス様の言動を逐一報告し、イエス様を排斥してしまおうと考える者もいたのです。

11:47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。

11:48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

イエス様の時代、エルサレム一帯、パレスチナはローマ帝国の支配下に置かれていました。

ユダヤ人にある程度の自治と、宗教の自由を与えられていましたが、それは、きちんと税金が納められている事と、政治的、宗教的混乱がない事が条件でした。

税金に付いてはザアカイの逸話を、思い浮かべて頂けたらと思いますが、ユダヤ人がユダヤ人から徴収していたのであり、決められた額をローマ政府に納めている限り問題はありませんでした。

政治的、宗教的には祭司長、パリサイ人、律法学者が民を支配し、治安を維持している限り問題はなかったのです。

万が一混乱が起こったならば、ローマ軍がやって来て平定すると同時に、それまでの支配者層は処罰を免れませんし、エルサレムの自治がユダヤ人の手から離れる事になってしまうのは確実です。

ですから祭司長、パリサイ人、律法学者の仕事は、ユダヤ人の間に混乱が起こらない様に取り締まる事であり、宗教的指導力を発揮し、律法を厳格に守らせる事、そして異端、分派を徹底的に取り締まり、その芽を摘む事でした。

特に異端、分派には格別厳しく目を光らせていた様であり、末端、地方に至るまで支配が及んでいたのであり、旧来の解釈や伝統からの逸脱や、新しい聖書理解や適応を一切禁じていたのです。

如何にも聖書の権威と伝統の守護者であるかのように見せてはいても、その実体はローマ帝国から与えられた権威に固執していたからであり、支配者としての権益に執着していたからに違いありません。

歴史を見ても明かですが、体制に迎合する時、組織は安泰でも、その信条は腐敗して行きます。

体制に反しても信条を貫く時、組織は迫害を受け、時に壊滅しますが、聖さと純潔が守られるのです。

堕落、腐敗した組織は自身を守る事に精一杯になり、目先の事しか見えなくなり、神様のご計画を見る目は曇り、当然従う事もなくなってしまうのであり、祭司長たちの思惑は体制の安泰と永続でしたが、紀元70年にはエルサレムは、神殿はローマ軍に蹂躙され、荒され略奪されてしまうのです。

そうならないために、ユダヤ教の伝統と教えに反するイエスの存在は見逃す訳には行かず、カヤパの言葉に繋がるのです。

11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。

11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

11:51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

神様の御心を行なう事が、人の罪の執り成しをし、人の罪の為に生贄を献げる事が第一義である大祭司が、あろう事か、神様が送って下さったイエス様を受け入れる事なく、抹殺の決意を表明するに至るのです。

しかし、この悪意の込められた決断にも神様の御心が示されていたのです。

神様の御心は一人の罪のない者の死によって、全ての民の身代わりとなる事であり、また、神の民が集められ、民族、人種、男女、奴隷と自由人が一つとなる事であり、不思議な事に大祭司カヤパはその神様のご計画を語ったのです。

カヤパは自覚していなかった様ですが、時に神様は預言者の職務にない者を預言者として用いられるのであり、カヤパは知らずに大切な働きをさせていただいた訳なのです。

ここで、大祭司について考えたいと思います。

49節に「その年の大祭司」と記されていますが、この表現は、イエス様の時代にはユダヤの社会、特に宗教的秩序が混乱していた事を示しています。

何故ならば、モーセの律法に拠れば、大祭司の職はアロンの系図に載っている者が受け継ぐ、終生(しゅうせい)の働きなのに、「その年の」と表現されているように持ち回りである事が言葉の裏に秘められているからです。

イエス様の時代には大祭司は選挙で選ばれるようになり、その任期もまちまちでありました。

ヨセフォスの叙述(じょじゅつ)によれば、アロンからソロモンの統治までの612年間に13人の大祭司を有し、平均47年の任期、ソロモンからバビロン捕囚までの460年間に18人、平均25.5年の任期、捕囚からアンティオコスの支配までの414年間に15人、平均27.6年の任期であったのが、ヘロデの支配からエルサレム破壊までの100年間には、少なくとも28人の大祭司が立てられていたと言うのです。平均3.5年です。

この年数と人数が正確性に欠けるとしても、この数字の現す意味は重要です。

終生の職務のはずが、ローマ帝国の命令、ヘロデの指定であったのか、はたまた、他の理由があったのかは定かではありませんが、持ち回りになってしまったのです。

神様の命令よりも、この世のご都合に従ってしまったのです。

政府は宗教に介入してはなりません。

更に言うならば、民意が神様の御心に優先してもならないのです。

選挙による民意の具現、総意的選択。

如何にも説得力のある意見の様ですが、大祭司は神様が立てられる職務であり、人の都合やその時の状況で代えてはならず、変えてはならない職務なのです。

世の中には順番、持ち回りで受け持った方がよい職務もありましょうが、少なくとも、イスラエル、神の民における、祭司、預言者、王の職務は、人のご都合で変えてはならない制度であり、教会における、牧師の職務は、人の都合で決めては、変えてはならない職務なのです。

人間が手を出してはならない、神様が定められた制度なのです。

誰を大祭司に選ぶか、誰を牧師に任命するかも、神様が決められます。

相応しい人物が現れるまで、大祭司は生き永らえさせ、相応しい人物が現れたとき、前任の大祭司は召されるのです。

大祭司には、名誉職の部分がありますが、だからこそ、人間の勝手な都合で、持ち回りにしてはならないのです。

イエス様は、イザヤの預言の通り「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」お方なのであり、それは「祭司、預言者、王」を意味しています。

そしてイエス様のもう一つの職務は、「人の罪のための贖いの生贄」としての生涯は、神様が与えたもうものであって、誰も取り上げても、変えてもならないし、従わなければならない事なのです。

聖書の隅々までを熟知している祭司長、パリサイ人たちですが、イザヤの預言がイエス様を指し示している事に気付かず、否、無視して、

11:53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

11:54 そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。

この議会の決議を境として、イエス様に対する質問攻め、迫害はがらりと様相を変えてしまいます。

今までは言葉尻を捉えて、失言を誘発させ、イエス様の失脚を狙うものでしたが、これからはイエス様を殺すために、知恵が集結される事となったのです。

しかも、その死刑の理由は前述したように、宗教的なモノであってはならず、ローマ帝国に歯向かう者、安寧秩序を乱す者として処分しなければならなかったのです。

イエス様に対する敵意に満ちた眼差し。

そこで、イエス様はベタニヤを離れ、エルサレムの北東凡そ20km程の所にあるエフライムの町に滞在される事となったのです。

イエス様がエルサレムを離れる一方で、過ぎ越しの祭りを祝う人々が続々とエルサレムに集まって来るのでした。

11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。

11:56 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」

11:57 さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。

イエス様の時代、祈りを献げたり、律法を学ぶのは各地に点在していたシナゴグでしたが、シナゴグで生贄を献げてはならず、生贄はエルサレム神殿だけで献げられる規則でした。

しかも生贄は罪の贖いですから、非常に重要であり、敬虔なユダヤ人はエルサレムに登って生贄を献げる事を、この上もない喜びと考えていたのです。

また、エルサレム詣では一種の行楽でもあり、久し振りの神殿での礼拝と、エルサレムの賑わいに浸る事は、ユダヤ人にとってこの上ない楽しみでもあったのです。

この平和の祭典、エルサレム神殿の安泰、エルサレムの賑わいは決して壊してはならず、危険分子は取り除かなければならないと考えた祭司長たちは、イエスを見かけた者は届けなければならないとの通達を出すのでした。

【適応】

今日のポイントは「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」と言う大祭司の言葉です。

これは神様のご計画そのものであり、イエス様による贖いを告白している言葉です。

言い換えて読むならば「イエス様が罪人の代わりに死んで、人類が滅びない事が、あなたがたに与えられた最大の得策、プレゼントだ」です。

イエス様はこの人類が滅びない様にするために来られたのです。

イエス様の働きは多岐に渡っています。

病気を治したり、眼の見えない人、耳の聞えない人、口のきけない人、歩けない人、手が萎えた人など、不自由な思いをする人々の健康を回復させ、重い皮膚病、治療法のない疾患に苦しみ、且つ、社会との交わりを断たれた苦しみ、悲しみに悩む人を癒し、社会に復帰させ、交わりを回復させて下さったのです。

これだけでも素晴らしい働きですが、これらの人々も、身体の不自由、病苦に悩み苦しまなかった人も、必ず死ぬのであり、この死の問題の解決がない限り、心身が健康になっても、社会との人々との交わりが回復しても何の意味もありません。

否、健康になった分、交わりが回復した分、死の恐怖は拠り大きくなるのではないでしょうか。

しかし、イエス様の十字架の死により、私たちの罪は赦され、義とされ、罪としての死の恐怖から解放されたのです。

この世のものである肉体は、何時か死を迎えますが、新しい身体が与えられ、病苦のない、神様との平和な交わりが恒久的に与えられるのです。

このイエス様の贖いの働きにこそ注目しなければならないのであり、贖いを完成させる為に、この世に生まれた事を喜ばなければならないのです。

イエス様は私たちの祈りを何でも聴いてくださり、叶えてくださいますが、イエス様がこの世に来られたのは、私たちの自己実現や、順風満帆な生涯などのこの世での満足ではなく、次ぎの世での、永遠の命と、神様に直接お仕えする喜びなのです。

イエス様は神様からのプレゼントです。

プレゼンとは権利ではありません。

恵みです。

神様からの恵みである、イエス様と言うプレゼントを受けとって下さい。

神様のご計画だから、ではなく、神様の義であり、神様のあなたへの愛の現れだからです。

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聖書個所:コリント人への手紙第二12章9節から10節          2017-9-10礼拝

説教題:「喜んで私の弱さを誇る

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】 

 コリント人への手紙 第二

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

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聖書個所:創世記3725節~36節               2017-9-3礼拝

説教題:「ヨセフ、エジプトに売られる」

【導入】

昨今、サプライズが多く行われるようになって来ました。

お祝いなどの、嬉しい、楽しいサプライズもありますが、病気や事故、事件などの、嫌な、苦々しいサプライズもあります。

周到に準備、用意されたサプライズ、偶然がもたらしたサプライズ。

しかし、世の中には偶然はありません。

一見、偶然のように見えても、幾つもの段階を通り、至るべくして至ったのであり、一つでも欠けていれば、何処かがずれていれば、違う結果になっているのです。

そして、全ての事象は、神様の許しなくしては起こりません。

雀一羽さえ、神様の許しなくして、地に落ちる事はないのであり、明日は枯れる野の花の一輪にさえ、神様は関心を持っておられるのです。

まして、神様に似せて造られた人間に対して、無関心でいられるはずがなく、神様の知らぬところで産まれる事も、病気になる事も、死ぬ事もないのであり、成功する事も、失敗する事も、上手く行く事も、上手く行かぬ事も、神様の許しの中で起こっている事なのです。

そして、残酷な、悲惨な事故、事件も、神様の許しの中で起こっているのですが、神様が残酷な、悲惨な事を起こしているのではありません。

また、見過ごして、事件、事故を防がないでいるのでもありません。

罪ある人間が、残酷な事を行い、悲惨な事件を起こすのであり、神様は人間に委ねているのであり、委ねた以上は、余計な口出し、手出しをいたしませんが、時に相応しい、警告を与え、聖書を通して如何に生きるべきかの事例を示されます。

そして、聴くか聴かぬか、読むか読まぬか、従うか否か、は人間次第です。

今、ヨセフの生涯を扱っていますが、ヨセフに何の落ち度もなく、兄たちに全責任がある、と言いたいのではありません。

ヨセフにも問題があり、兄たちにも問題があり、父ヤコブにも問題があり、これらが複雑に絡み合って、神様の御こころの意図しない方向に進んで行ってしまうのですが、ヤコブ一族を守る、と云う大前提と、ヤコブの子孫を通して、世界を祝福すると云う神様の御計画は変わらないのであり、そのための、必要最低限のご介入に留められるのです。

神様の、世界を祝福するご計画を、ヤコブの紆余曲折の歴史を通して確認しているのです。

17歳にもなっていたヨセフですから、疎まれているとは、薄々感じていたとしても、それでも兄弟なのですから、殺そうとするまで憎まれているとは、夢想だにしなかった事でしょう。

そんな油断が、兄たちに機会を与えてしまったのであり、兄たちは、この時、とばかりに、前後も考えず、積年の恨みを晴らし、溜飲の下がる、わくわくするサプライズとなった事でしょう。

その喜びを、食事を通して味わいますが、この喜びは束の間の喜びであり、兄たちは直ぐに、厳しい現実に直面する事になります。

【本論】

37:25 それから彼らはすわって食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデから来ていた。らくだには樹膠と乳香と没薬を背負わせ、彼らはエジプトへ下って行くところであった。

食事」は日常の、極、普通の事ですが、状況によって、意味が変わります。

弟を実質的に殺しておきながら、普通に食事をする事が、どれ程、非情で、異常な事か、と云う事です。

非常な悲しみ、苦しみの中に置かれたならば、食事は喉を通らないのではないでしょうか。

戦争であっても、人を殺した後には、異常な精神状態に陥り、食事も取れなくなり、眠れなくもなるそうです。

精神と身体は密接に関係しており、精神的なものは、身体に強く影響するのです。

兄たちは、まだ弟を殺してはいませんが、殺したい思いがあった事が露見してしまったのであり、これからヨセフを殺さんとする直前なのですから、普通ではいられないのではないでしょうか。

自分を見つめて、こんな思いがあったんだ、と悔やんだり、情けなさ、自己嫌悪を感じるのではないでしょうか。

それなのに、弟を実質的に殺しておきながら、野獣が殺した、と言う言い訳が通用するか否か、父が納得するか否かも、判らないのに、和気藹々と食事をする、なんて、非情さの極みを、憎悪の強さを、端的に現す状況がさり気なく記されているのです。

その時に、偶然にも「イシュマエル人の隊商」が通りかかり、弟の先行きに、大きな方向性を与える事となります。

兄たちが遊牧している「シェケム」「ドタン」は、ガリラヤ湖、ヨルダン川の東に位置するギルアデと、エジプトを結ぶ通商路に隣接しており、頻繁ではないにしても、人の往来があるのであり、偶然ではなく、兄たちが弟殺しと云う大罪を犯さないために、神様が遣わして下さったのではないでしょうか。

37:26 すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。

37:27 さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが彼に手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。

ユダの提案から、単純にユダが打算的であると、或いは、命をお金に代える、恐ろしい人物であると、結論付けるのは早計です。

イシュマエル人の隊商」を見ての思い付きではありますが、弟殺しの恐ろしさに気付いたのではないでしょうか。

勿論、ユダだけでなく、居合わせた全員にその可能性を否定できません。

そして、ヨセフを助ける、危機を救う、最も効果的、且つ、皆の賛同を確実に得られる案として提案したのではないでしょうか。

当時、奴隷は、労働力として貴重な存在であり、シリア、パレスチナからエジプトに供給されていたようです。

有能な奴隷は、厚遇されたでしょうが、奴隷は、基本的に家畜と同じ扱いであり、人権はなく、消耗品です。

奴隷としてエジプトに売られる、と云う事は、二度と遭う事はない、と云う事であり、①悪事が露見する心配はなく、②殺人を犯さないで済み、③ヨセフの顔を見ないで済み、しかも、④幾ばくかの収入も得られると云う、一石四鳥とも云うべき、これ以上の策はないと断言出来る妙案を提案するのです。

37:28 そのとき、ミデヤン人の商人が通りかかった。それで彼らはヨセフを穴から引き上げ、ヨセフを銀二十枚でイシュマエル人に売った。イシュマエル人はヨセフをエジプトへ連れて行った。

イシュマエル人」と「ミデヤン人」の関係について、触れておきましょ

この「イシュマエル人」との表現は、一般的には、アブラハムの息子イシュマエルの子孫を指し示しますが、ここでは、厳密な人種を指し示しているのではなく、「遊牧民の商人」の意味で使われており、広い意味で使われていたようです。

遊牧の性質上、自然に交易を担う事になり、品物と文化の橋渡しを行う人を、便宜的に「イシュマエル人」と呼んだようです。

また、人種で用いられる場合には、「ミデヤン人」を含む、総称であり、「イシュマエル人」と「ミデヤン人」は同義語であると考えて、問題なさそうです。

銀二十枚」の価値は、評価の難しいところですが、恐らくは20シェケル。

1シェケルは11.5gですから、20シェケルは230g

2017830日当日の銀相場は、1g、約70円でしたので、16100円。

これでは全く、参考になりません。

列王記第2、7章16節に、小麦1セア、即ち7.3リットルが1シェケルで売られた、との記述があるので、20シェケルなら、小麦146リットルが買える訳です。

スーパーマーケットで、小麦1リットルは幾らなのでしょうか。

仮に100円として14600円。200円でも29200円。

これも、ちょっと参考に出来そうにありません。

しかし、人間一人が、146リットルの小麦と同じ位の価値であった、と、大した金額でない事は、断定出来そうであり、この端金(はしたがね)10人で分割する場面を想像してみてください。

等分するにしても、差を付けるにしても、一人当たり2シェケル前後です。

コイン2枚相当の端金で、肉親を売り飛ばした、と判断して間違いなさそうです。

37:29 さて、ルベンが穴のところに帰って来ると、なんと、ヨセフは穴の中にいなかった。彼は自分の着物を引き裂き、

37:30 兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」

ここで、ルベンだけがこの場に居なかった、と判断、断定するのは早計です。

羊、山羊は相当数いたのであり、兄弟が交代で世話をしており、交代で休憩していたのです。

ルベンを筆頭に、兄弟数人が羊、山羊の世話をしに出かけ、

ユダを筆頭に、兄弟数人が休憩を取り、食事をしていた、と考えて、不自然ではありません。

ルベンの忠告に反対の立場の兄弟たちが、ルベンたちの居ない間に、ヨセフを売り飛ばしてしまったのかも知れません。

何しろ、ヨセフを殺す事に、ルベン以外は賛成なのですから。

さて、ヨセフを売り飛ばしてから、ルベンたちが戻って来るまでの、時間経過は不明ですが、一度成立した売買は、不変であり、イシュマエル人たちが見える所に居たとしても、取り返す事は出来ません。

もう、後戻りは出来ず、別の策を選ぶ事も出来ず、当初の計画通り、野獣に襲われたように見せかける工作を行うのです。

37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。

ヤコブはかつて、山羊の毛皮と、エサウの晴れ着を用いて、父イサクを騙しましたが、今度は、山羊の血と、ヨセフの袖付の長服、晴れ着を用いて、騙される事になってしまったのです。

何とも言いようのない、皮肉、なのではないでしょうか。

必ずしも、同じ手口で騙される訳ではありませんが、策を弄する者は、策に足を掬われるのです。

策で人を騙す者は、策で騙されるのです。

自分の利益のために、相手に不利益を与えるような事がないように、関係者を騙す事のないようにしたいものです。

37:32 そして、そのそでつきの長服を父のところに持って行き、彼らは、「これを私たちが見つけました。どうか、あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください」と言った。

あなたの子の長服」・・・何と冷淡な言いようなのか、と感じましょうが、この表現は、冷淡さを現すためではなく、客観性を表現しているのであり、所属や所有権を現す表現であり、ユダヤの文化的表現なのではないでしょうか。

そう考える根拠は、偶像礼拝を行う民にたいして、神様がモーセに語ったことばと、それに対する反論、弁護するモーセの言葉がヒントになっています。

出エジプト記327節「32:7 主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。

決して「モーセの民」ではなく、「神の民」であり、「わたしの民は、堕落してしまった」と表記すべきですが、ユダヤの文化での表記方法としては、モーセに指導監督責任があり「あなたの民」なのです。

これに対して、モーセは神様に反論します。

12節「どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

お互いが「あなたの民」と表現するのであり、冷淡な心からの発言ではない事が、責任逃れの発言でもなく、ユダヤの文化に拠る表現ではないか、と考えるのです。

聖書の其処彼処に「あなたの○○」と言う表現がありますので、注意して読む必要がありそうです。

本論に戻って、「私たちの弟の長服であるかどうか」を確認するのではなく、「あなたの子の長服かどうか」を確認するのです。

これは、父の尊厳や、権威を尊重する表現であり、父の判断を最優先する、父の判断に従う従順からの表現なのです。

そして、この投げかけの言葉、父を欺くと同時に、合法的に自分たちの責任を免れるためである事にも注目しなければなりません。

行方不明であるならば、兄弟の責任大、ですが、野獣に殺されたとなれば、責任は免除されます。

野獣に殺された、と父が宣言すれば兄弟は責任を免れるのです。

また、更に巧妙な作戦が盛り込まれてもいましょう。

即ち、行方不明ならば、一縷の望みも持ち得ましょうが、家族は何時までも心配を抱え、心の休まる間もありません。

しかし、野獣に殺されたならば、非常に大きな衝撃と、悲しみを受けましょうが、諦めを付けるしかなく、何時かは時間が癒してくれるのではないでしょうか。

先に、ヨセフを奴隷として売り飛ばす事は、一石四鳥だ、と申しましたが、ヨセフが野獣に殺されたとなれば、①父を欺き、②責任を逃れ、③家族に大きな心配をかけずに済む、と云う、一石三鳥の策なのです。

37:33 父は、それを調べて、言った。「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ。」

ズタズタに引き裂かれ、血まみれであっても、記憶に新しい、ヨセフに与えた袖付の長服であり、忘れるはずも、見誤る訳もありません。

ヤコブは、悲痛な叫びを挙げつつ、ヨセフが野獣に殺されたと宣言し、ヨセフの事は忘れられて行く・・・筈でしたが、

37:34 ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。

荒布」は粗末な布であり、特別な物ではありませんが、悲しみや嘆きを現す物であり、視覚を通して、悲しみや嘆きを表現し、訴えるのであり、ユダヤの文化です。

そして、ユダヤの、パレスチナの喪の期間は、通常一週間から十日程です。

この間に、存分に悲しみ嘆き、気持ちに折り合いを付け、気持ちを切り替えるのですが、ヤコブは通常の喪の期間を遥かに超えて、泣き悲しみ続けました。

37:35 彼の息子、娘たちがみな、来て、父を慰めたが、彼は慰められることを拒み、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。こうして父は、その子のために泣いた。

ヤコブにとって、ヨセフは特別な存在なのですから、悲哀の度合いも強く、激しいだろうとは予想したでしょうが、ここまで落ち込み、嘆き悲しむとは、想定外であり、真相を知っているルベンやユダたちは、狼狽したのではないでしょうか。

兄弟の誰かが、父ヤコブに同情し、真相を暴露、ヨセフは生きている、奴隷として売ってしまった、と告白するのではないか、と身の縮む思いだったのではないでしょうか。

兄弟たちが、父ヤコブの下に行ったのは、父を慰める目的もあったでしょうが、兄弟の誰かが裏切らないかを、見張る目的もあったのではないでしょうか。

非常に深い後悔をしたでしょうが、もう、どうしようもありません。

嘘を吐き通すしかなく、誤魔化し続けるしかないのです。

そして、兄弟の間に、罪を共有し、罪に縛られると云う、希望のない関係を維持しなければならなくなってしまったのです。

そのころ、

37:36 あのミデヤン人はエジプトで、パロの廷臣、その侍従長ポティファルにヨセフを売った。

パロ」は「エジプト王」の称号であり、「侍従」と訳されているヘブル語には、他に「料理人、死刑執行人、護衛」の意味がありますが、語意と関係なく、宮廷に使える廷臣、高級官僚を意味して、一般的に使われたようです。

ポティファル」は典型的なエジプト名であり「 (太陽神) ラーが与えた者」の意です。

通常、奴隷は、奴隷市場で売買されますが、ヨセフを買ったミデヤン人は、エジプトの高級官僚との伝があり、懇意にしていたようで、奴隷市場を通さず、エジプト高級官僚の下で働く事になります。

劣悪な環境に置かれる事なく、苛酷な労働を強いられる事もなく、奴隷としては、恵まれた環境ですが、庇護者もなく、不自由な境遇に置かれる事で、家族の有難さを肌で感じるのです。

これからの十三年を、備えの期間として、「廷臣、その侍従長」の下で、訓練の期間を送る事、エジプトの言葉を学び、エジプトの文化を学び、管理の手法を学び、経営の手法を学び、将来の備えをする事になるのです。

兄たちにも、課題が与えられています。

失意のどん底にあり、生きる希望を失った父ヤコブを見続けなければならないのであり、軽はずみな行動を取ってしまった代償の大きさを、日々感じながら生きなければならないのです。

将来、ユダが、ベニヤミンの身代わりを申し出るに至るのも、この訓練があったからこそなのではないでしょうか。

【適応

ヤコブ、ヨセフ、ルベン、ユダ、の思惑が、複雑に絡み合い、修復不可能な、最悪の結果となってしまいましたが、神様に見捨てられた結果ではありません。

各々の自由意志の、選択の中で、行われた事であり、結果について文句は言えず、甘んじて受けるしかありませんが、全てを神様がご覧になっている事を、見落としてはなりません。

神様は、各々が、各々の思惑で策を練り、動き回り、事態を混乱させ、縺(もつ)れさせるに任せている訳ではありません。

決して放任主義ではありませんが、しかし、逆に、過保護に、手取り足取り、負んぶに抱っこ、でもありません。

人間は、プログラムされている通りに動く、ロボットではなく、何を選ぶのも自由であり、するもしないも自由なのです。

ヤコブには、ヨセフを溺愛し、特別扱いする自由があり、ヨセフには、父の寵愛を享受する自由があり、夢を自慢げに語る自由があり、兄たちには、ヨセフを快く思わない自由があり、悪巧みを立て、実行する自由があります。

そして、神様には、これらを事前に止めたり、違う選択肢に誘導する事も出来ますが、それはなさいません。

更には、この後二十年後に、未曾有の、七年もの飢饉がやって来ますが、神様には、飢饉を防ぐ事も、災害を防ぐ事も出来ますが、それもなさいません。

人間は、飢饉や災害、問題に向き合って、取り組んで、経験して、失敗して、挫折して、色々な事を学び、成長する生き物なのです。

他者を思い遣り、他者のために犠牲を払い、共存、共栄する道を選ぶ事も出来ますし、他者を押し退け、他者を踏み台にし、他者の犠牲の上に、胡坐(あぐら)をかく道も選べるのです。

しかも、二者選択ではなく、二者の間を揺れ動いているのであり、人間の持つ、罪の性質ゆえに、自己犠牲よりも、他者に犠牲を強い、他者を思い遣るよりも、自分の利益を優先させてしまい易いのです。

それでも、神様は人間に、気付き、を促され、自分の力のなさ、意志の弱さ、不甲斐なさ、に気付き、人に頼る愚かさ、或いは、人を利用する虚しさに気付き、神様を信頼し、神様に頼る道を選ぶ事を望まれます。

人間社会に起こる、様々な出来事は、人間の営みであると同時に、神様のご計画でもあり、神様の許しの中で起こっている事なのです。

ヨセフがエジプトに売られた事は、人間の業ですが、ヨセフがエジプトに行った事は、神様の、ヤコブ一族を守るためのご計画でもあります。

しかし、神様のご計画だったからと云って、兄たちの悪巧みが弁護される訳でもなく、罪なしとされる訳でもありません。

ヨセフを売り飛ばすのは、罪であり、断じて許してはならず、ヤコブを騙すのも、罪であり、断じて許してはなりません。

ヤコブが、長子の権利と祝福を手に入れるのは、神様のご計画ですが、ヤコブが、兄エサウと父イサクを騙したのは罪です。

人間社会で起こる、様々な出来事を、神様と無関係と見てはなりませんが、しかし、何でも、神様の御こころと結びつけるのも危険です。

特に、御こころを利用して、自分の思い通りの方向に誘導するとしたら、危険であり、結果を見て、御こころだった、と総括するのも危険です。

常に、神様の視点を意識する必要があるのです。

ここにおられる皆様が、常に神様の前に静まり、自らの言動を吟味し、御こころに反していないかを吟味し、神様の栄光を現す器となられる事を願ってやみません。

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