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聖書箇所:創世記1718                     2015-7-26礼拝

説教題:「神様から与えられた名前:アブラハム」

【導入】

人間は、生まれて直ぐに名前を付けてもらいますが、名前は単なる識別記号ではありません。

勿論、識別、区別の意味を持ってはいますが、実質を伴います。

或いはイメージが伴いもしましょう。

「名は体を現す」と申します通りです。

芸名や四股名、ペンネーム、どれも皆、何かしらの意味が込められています。

名前が単なる識別の意味だけではないのは、世界共通でしょう。

親の思い、願いが込められ、一族の願いや希望が込められ、部族、民族としての存在意味が込められ、現されて命名される訳ですが、そして時に、心機一転を願って改名する事があります。

売れない芸人や俳優は改名しますし、負け越しが続くと四股名を変え、作風によってペンネームを使い分け、会社や組織も、時代や業種形態に合わせて改名しますが、どれも新たな出発、発展や躍進を願って改名する訳です。

聖書の世界でも、新しい働きや、特別な使命が示され、合わせて新しい名前が与えられる事があります。

ヤコブは「イスラエル」と言う名前を神様から頂きましたし、シモンは「ペテロ」と言う名前をイエス様から頂きました。

サウロは「パウロ」と言う名前を頂き、新しい働きにつきました。

アブラムは「アブラハム」と言う名前を神様から頂く事になるのですが、改名は、新しい出発の印であり、決意表明の印でもあり、必然なのでしょう。

性格や地位、役割が変り、新しい出発点に立った事を意味し、旧態依然ではない事を自覚させます。

神様が、改名と共に、アブラムに与えた地位や役割は何でしょうか。

【本論】

17:1 アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

アブラムにイシュマエルが与えられたのは、アブラム86歳の時でしたから、16章と17章には13年の隔たりがある訳です。

アブラムにイシュマエルが与えられましたが、アブラムの正当な後継者はイシュマエルではなく、アブラムとサライとの間に生まれる子が、正当な後継者であると言われて、13年も待ち続けた訳ですが、待てど暮せど、約束の子は与えられません。

アブラム99歳、サライ88歳、誰もがもう子は無理、諦めが確定したような年齢であり、状況の中で、神様はアブラムに現れてくださいます。

本日の聖書個所17章までに、神様は何回も現れてくださり、約束は徐々に、より具体的、現実的に変わっては来ましたが、神様の側の約束、アブラムの子孫を祝福する、星の数のような民族にする、広大なカナンの地を与える、との宣言に終始して来たのであり、

アブラムへの具体的指示はありませんでした。

しかし、17章で始めて、神様から祝福を頂くための具体的、積極的行動が示されました。

あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」です。

この宣言で重要なのは「わたしの前を歩み」です。

神様と共に歩み続ける事が重要です。

全き者であれ」は、罪がない、失敗がない、完全無欠である、言動一致である、道徳的に正しい生き方をする、の意味ではありません。

神様の示される道、教えから外れない生き方を心掛ける、外れている事を示されたら直ぐに戻る、神様の示される道、教えから曲がらない生き方を心掛ける、曲がっている事を示されたら直ぐに戻る、神様の示される道、教えから逸れない生き方を心掛ける、逸れている事を示されたら直ぐに戻る、神様の示される道、教えを止めない生き方を心掛ける、止めている事を示されたら直ぐに歩み始める、神様の示される道、教えから逆戻りしない生き方を心掛ける、逆戻りしている事を示されたら直ぐに正しい道に戻る生き方をしなさい、の意味であり、神様の願いを、我が思いとして歩み、その意味において、神様に正しい人であると、神様の基準にかなった人であると認められる人、の意味であり、神様との関係においての、健全さを保ち続ける事に最大限の力を、知恵を注ぎ込み続ける事なのです。

創世記524節に登場する「神と共に歩んだエノク」のような人物であり、創世記69節に登場する「全き人であったノア」のような人物でしょう。

エノクもノアも失敗がなかった訳ではなく、神様と共に歩んだ事が評価されています。

一番、相応しくないのは、誤魔化す事、隠す事、知らぬ顔をする事、なかったかのように振舞う事、であり、行動の粉飾決算や、見せ掛けの成果、損失や失敗の先送りは、神様の喜ばれるところではありません。

ありのままを報告する事、事実を告白する事が重要なのであり、隠し事が、誤魔化しが、神様との関係を破壊してしまうのです。

失敗や罪は、誰にでも起こり得る事であり、仕方がない事ですが、失敗や罪を隠す事が問題なのであり、隠し事のない神様には、隠し事なく接しなければならないのです。

失敗や罪を隠さない生き方を神様はアブラムに求め、私たちにも求められているのです。

17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

17章全体で「契約」と言う言葉が13回も使われていますが、今まで何回も確認されて来た契約が、いよいよ実行段階に入った事を、最終段階に入った事を教えます。

おびただしくふやそう」は、直訳は「たくさんに、たくさんに」であり、アブラムの子孫は、「おびただしくふやそう」の宣言通り、3つのグループに別れて、其々に大きくなります。

創世記25章に記されている通り、アブラムはハガルによってイシュマエルを得、12人の族長をもうけます。

アブラムはサライによってイサクを得、更に、ケトラと言う女性を妻として娶りますが、6人の子と、10人の孫をもうけ、其々が夥しく増え、東に北に南に大きく広がります。

神様の契約、預言、宣言の通りです。

25章に記されているのは直接には「肉、血の子孫」ですが、イサクは「肉、血の子孫」であると同時に「霊の子孫、信仰の子孫」「約束の子孫」であり、我々をも含む、示唆している事は当然でしょう。

この、一方的な祝福に接し、

17:3 アブラムは、ひれ伏した。

ひれ伏した」は、礼拝の姿ですが、過大な、棚から牡丹餅的な神様の祝福は、交渉によって得たものではありません。

受ける何らかの資格がある訳でもなく、権利を持っている訳でもなく、

神様の一方的、且つ、主体的な祝福であり、受けるに相応しくない者が、何の取り柄もない者が、何の貢献も働きもない者が、何の交渉や駆け引きもなく、祝福を受けるのであり、その場面に置かれては、ひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。

万が一に、何らかの資格や権利があったとしても、聖い神様を見る事は恐れ多く、ひれ伏さざるを得なかったのではないでしょうか。

畏まり、恐縮するアブラムに、神様は優しく、微笑みながら、暖かい眼差しと共に、

3節後半、

神は彼に告げて仰せられた。

17:4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ」のですが、

契約をあなたと結ぶ」と言うよりも、

契約が今、あなたとともにある」との宣言なのです。

神様の「契約」は、この世の契約とは性質が違います。

神様の「契約」は、双方の合意によって効力を発揮するような物ではなく、神様の一方的な選びによって、恵みとして与えられる物であり「アブラムと共にある」との表現が最適でしょう。

神様の祝福は恵みであって、働きの報酬ではなく、献げ物に対する報奨でもありません。

良い子に、良い弟子に、良い信徒に、報いとして祝福を与えるのではなく、出来の悪い子であっても、怠け者の弟子であっても、生ぬるい信徒であっても、神様から離れさえしなければ、恵みとして祝福を与えられるのが神様なのです。

15章で、煙立つ竈(かまど)と、燃える松明(たいまつ)の幻について、説教しましたが、裂かれた動物の間を通ったのは神様だけであり、契約の履行、違反の責は、神様だけが負うのであり、祝福しない時には神様が裂かれた動物のようにされますが、神様に従わず、離れてしまったなら、人間は祝福を逃すだけで、裂かれた動物のようにはされないのです。

片寄った契約であり、不当な契約ですが、神様の決められた契約なのであり、神様に従う時、比類のない大きな祝福があり、神様に従わず、離れてしまっても、何の責めも発生はしないし、祝福を貰えないだけなのですが、しかし、神様の祝福は比類のない大きなものであり、勿体無かったね、とか、残念だったね、のレベルの物ではありません。

リスク、コスト、持ち出し、は殆ど“ゼロ”、しかしメリットは“無限大”なのです。

この契約の再確認と、契約履行のスタート、即ち、新しい働きや、特別な使命が示され、合わせて新しい名前が与えられるのです。

17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。

アブラム」は「アブ」即ち「父」と、「ラーム」即ち「愛する、高い」の合成語で「父は高められる」「高貴な父」の意味と解釈され、その解釈に特段、問題はありませんが、

アブラハム」の意味は、となると、「アブラム」ほど単純ではなく、ちょっと難題です。

5節後半の記述は「アブラハム」の語源の解説であり、「多くの国民の父」と解釈している、と思われ、「高貴な父」から「多くの国民の父」へ改名された、と解釈されますが、

アブラハム」は「アブ」と「ラハム」の合成語ではないかと考えられ、「ラハム」は「ラーム」と「ハモーン」即ち「多くの」の合成語ではないかと考えられますが、語源的には結び付かず、悩ましいところなのです。

聖書は、国語辞典ではありません。

語源的な解説書でもありません。

神様は、当時の文化、言語を用い、似た言葉、関連する言葉を用い、人々が連想する事を考慮しつつ、新しい働きや、特別な使命に相応しく、「アブラム」をもじった「アブラハム」に、新しい意味を持たせた、と理解するのが良いのではないでしょうか。

イエス様はシモンにペテロ、即ち「岩」と言う名前を付けられました。

経緯はマタイ1618節以降に記されていますので、後でご確認ください。

「岩」は「教会の土台」の意味には結び付きますが、大切な「天の御国の、鍵の権能」の意味には直接結び付きません。

しかし、「ペテロ」の働きは「鍵の権能」を抜きにしては考えられません。

イエス様はシモンに新しい働きを委ね、「ペテロ」に新しい意味を持たせて、命名したのであり、語源的に無理な辻褄合わせや、解釈をするのではなく、アブラム」と呼ばれていた時には、名は体を現してはいなかったけれども、アブラハム」と呼ばれるようになってから、「高貴な父」の実質を確保し、更に「多くの国民の父」と呼ばれる働きに入った事を、宣言し、意味を持たせたと解釈するのが、良いのではないでしょうか。

古代東方の人たちにとって、名は実質であり、働きが変った時には、使命が変わる時には、改名は当然、必然であり、自覚と周知の意味で、改名が行なわれていたのです。

名前は単なる識別記号ではなく、実質を伴う物であり、名前に相応しく、名前に負けない、名前に恥じない歩みに入らなければならず、死んで名を残す、でなければならないのです。

17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。

16章まで、そして172節までの約束は、単に人数の過多、量でしたが、質が加わり、民族として世界を席巻し、王となって支配する事を預言するのです。

弱輩の、烏合の衆ではなく、強者揃い、賢者の集団となり、世界でリーダーシップを発揮する王家になる事を預言し、広い意味で、メシヤの家系に至る事を預言しているのです。

17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

契約の本質は個人的な物、一対一であり、契約者の一方が死ねば、契約は自動的に解消されます。

「一代限り」が原則ですが、神様と立てる契約は、代を越える契約であり、自動更新する契約であり、連続性を持ち、不変であり、人間の不誠実さに関わらず、人間の罪に関わらず、神様の前を歩み」さえすれば、全き者」であろうと願いさえするならば、実質が伴わなくても、イエス様の十字架と、聖霊様の働きにより、契約から締め出される事も、解約の憂き目に合う事もないのです。

その保証とも言うべき意味が込められて「アブラハム」と改名されたのであり、アブラハムの子孫であるなら「肉の関係、血の関係」のみならず、「霊の関係、信仰の関係」であっても、祝福から漏れる事はないのです。

【適応】

信仰を与えられ、洗礼を受けても、洗礼名が付けられる訳でもなく、改名される訳でもなく、親から付けてもらった名前を使っていて、何の変化も、違いもないような毎日を過ごしている私たちですが、大きな違いがあります。

私たちの名前が、神様に覚えられており、私たちの名前が、天の命の書に記されている、と言う事実です。

名前が変わっても、生き方が変わらなければ、考え方が変わらなければ、損得や利害が行動や選びの基準であるならば、名前に意味はありません。

名前が変らなくても、生き方が変れば、考え方が変れば、選びの基準が神様の御こころに従おう、近づこうであるならば、それは名前が変った以上に重要な事なのではないでしょうか。

名前を変える事が目的なのではなく、生き方を変え、考え方を変え、選ぶべき物を選ぶ事が重要なのです。

名が体を現すようになるには、途方もない時間を必要とする事でしょう。

アブラムは、アブラハムと名前を変られてからも、大きな失敗をします。

創世記20章に記されていますが、妻のサラを妹だと偽って、自分の身を守ろうと画策します。

創世記12章に記されていました、エジプトでの嘘の再燃です。

斯様に、人は名前を変えられた位で、変わりはしないのですが、変わろうと心掛け続けるなら、変わりたいと切に願い続け、祈り続けるなら、変わります。

本質は変わらないよ、本質を変える事は出来ないよ、等と申しますが、変わらないと思ったら、変わりません。

変えられないと思ったら、変えられません。

変わらない、変えられない、と思った瞬間に、心理的に変わらない事が確定し、変わろうとする力を殺ぎ、変えようとする知恵を殺ぎ、変わろうとする努力を萎えさせます。

諦めたらお終いなのです。

諦めの先には、滅びが、亡びが待っています。

諦めは、神様の前を歩まない生き方であり、神様と共に歩まない生き方であり、神様の祝福を受けられない生き方です。

失敗や躓きを恐れる、心配する必要はありません。

誰でも失敗するし、誰もが躓きます。

神様はご存知ですし、失敗や躓きを咎め立てしません。

しかし、失敗を恐れ、躓きを心配する余り、歩み出さなければ、旧態依然で良いんだ、と開き直るなら、神様は叱責なさるのではないでしょうか。

失敗しても、躓いても、諦めず、投げ槍にならず、神様の前を歩み続けさえするなら、

段々失敗が少なくなり、徐々に躓かなくなり、益々謙遜な者とされ、高貴な父、多くの国民の父と呼ばれるに相応しく変えられて行くのです。

聖書には多くの人物が登場しますが、その多くは名前の由来や解説がなく、改名されてもいませんが、多くの働きをなし、燦然と輝き、多くの証しを現代に伝え、私たちを励ましています。

あなたの名前は如何でしょうか。

神様に覚えられ、燦然と輝いているでしょうか。

人々に覚えられ、人々の励まし、希望になっているでしょうか。

新しい名前ではなくても、クリスチャンではない両親を通して付けられた名前であっても、神様に覚えられている名前であり、神様の前を歩む事が期待されている名前である事を覚えて、共に神様の前を歩み続け、全ったき人との評価を得ようではありませんか。

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聖書箇所:創世記161016                               2015-7-19礼拝

説教題:「混乱する家庭にも注がれる神様の恵み」

【導入】

現代のように、日進月歩、否、一日で科学や技術が大きく革新し、社会や生活が大きく変化する時代はありません。

次から次に新しい技術が生まれ、不可能と思われていた技術が実用化され、社会や生活は目まぐるしく変り、取り残されてしまわないようにするのが精一杯、付いて行くのがやっと、なのではないでしょうか。

時代の変化に合わせて、新しい物を取り入れる生き方こそ、現代的であり、時代のスピードに合わせる事を求められます。

即座が、遅れない事が、早い事が、待たせない事が美徳であり、企業も、社会も、凄いスピードで走っていますが、果たして人間は、そんな早さに付いて行けるのでしょうか。

正常な事なのでしょうか。

急ぐ美徳もあるでしょうが、急がない美徳もあるのではないでしょうか。

或いは焦らない美徳、待つ美徳、と言っても良いでしょう。

直ぐに取りかかるべき時、事と、待たなければならない時、事がある事を弁える事が重要であり、その選択を間違わないようにする事が重要なのですが、直ぐに取りかかるべき時に、なかなか取りかからず、待たなければならない時に、先走ってしまうのが、私たちであり、アブラムです。

アブラムは、神様から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」との指示を受けた時には即座に応答しましたが、

あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」との指示には勝手な判断をして、本妻サライからではなく、女奴隷ハガルによって子を得ようとし、家庭に混乱と憎しみ、争いと分裂をもたらしてしまったのでした。

しかし、神様のご介入があって、ハガルは身分と立場を確認させられ、サライとアブラムの下に戻り、従順を学ぶように説得されます。

神様が望まれはしないアブラムとハガルの関係ですが、神様の眼はハガルに注がれ、アブラムへの祝福とは別個に、ハガルの子孫の繁栄を約束してくださいます。

【本論】

16:10 また、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

主の使いの祝福、約束は、ハガルが主人サライの下に戻る事、ハガルが家長アブラムの下に戻る事が前提での、祝福、約束です。

苛められたのが原因で逃げたとは言え、身分不相応に振る舞った結果なのですから、サライの下に戻るのは、並大抵の事ではありません。

逃亡奴隷は殺される可能性もあり、非常に厳しいお仕置きを覚悟しなければなりません。

相当の勇気と覚悟が必要だった事でしょうが、戻れば数え切れない子孫が与えられるのであり、それは、神様が守ってくださる事を前提としており、ハガルの命が保証されているのであり、生まれてくる子どもの命も保証されている事を暗示しているのであり、ハガルを励まし、立ち上がらせたのです。

16:11 さらに、【主】の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。【主】があなたの苦しみを聞き入れられたから。

イシュマエル」の意味は「神は聞かれる」であり、ハガルの苦しみ呟きの全てを、洩らさず聞かれていた事を宣言し、サライの下に戻ってからの、新たな苦しみをも聞いてくださる事を保証しての宣言であり、更には、ハガルの子、イシュマエルの叫びをも、イシュマエルの子孫の叫びをも聞いてくださる事の保証の宣言でもありましょう。

ハガルは奴隷であり、何の身分的保証も、財産の保証もありませんが、イシュマエルは奴隷の子ではあっても、アブラムの子であり、財産も分与されるのであり、身の安全、子孫の安全、子孫の繁栄が保証されます。

しかし、これらの保証は、全て、サライの下に、アブラムの下に戻ってこそであり、御使いの宣言は、奴隷と言う、全く希望のない身分でしかないハガルに、大きな希望となり、

また、サライの下に戻れば、更なる仕打ちが待っているかもしれない不安に対しても、大きな慰め、励ましとなったのではないでしょうか。

但し、

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

「野生のロバ」と言う言葉に、パレスチナの人々は、「素早く走り回る、飼い馴らされる事の困難さ、荒々しさ」をイメージした事でしょう。

主の使いの言葉「野生のロバ」には、自由奔放に生き、定着を拒み、落ちついた生活を拒む、遊牧民となる事が預言されているのではないでしょうか。

加えて、遊牧民と言う言葉は、誇り高い独自性、孤高の独立性を現してもいましょう。

草原、砂漠、荒野を走り去っていく姿は、颯爽とし、勇敢であり、誰からの干渉も拒絶する姿勢を現してはいないでしょうか。

そして何時しか、遊牧それ自体が目的となってしまい、他の民族との摩擦が、自己存在証明になってしまうのです。

問題を起す事で、存在を確認する、知らしめるのであり、

その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」は、正にイシュマエルの子孫の将来を預言しているのです。

遊牧生活は、単に家畜を遊牧させるのみならず、アブラムの僕とロトの僕との争いを思い出していただければ分るように、毎日が牧草地捜しであり、皆が欲しがる牧草地争奪の連続であり、家畜に飲ませる水の争いがあるのであり、遊牧民は、他の民族と争って生きて行くしかないのです。

敵対」は、協調しない、譲歩しない、に加えて、挑発的であり、軽蔑の意を含む敵対関係を現します。

アブラムの約束の子孫に対する、対抗勢力となる事を預言しているのであり、今日のアラブ人は、自分たちはイシュマエルの子孫であると主張しているそうですが、中東の不安定な政情の火種は、ここに誕生を見るのです。

しかし、誤解してはならないのは、中東の政情不安は、神様がそう仕向けられたのではなく、また、遊牧民が皆、好戦的、敵対的な訳でもありません。

イシュマエルの、野生のロバのような、自由奔放な生き方が、協調を拒む生き方が、譲歩を嫌う生き方が原因であり、預言されているとは言え、抗(あらが)い得ない決定事項ではなく、野生のロバのような生き方をするな、続けるな、との警告として受け止めなければならないのではないでしょうか。

やり直すチャンスは幾らでもあるのであり、進む道は選べるのであり、和解は決して叶わぬ夢ではないのです。

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。

エル・ロイ」を直訳すると「見る事の神」であり、「自ら見る事」とも「他から見られる事」とも、意味し得る言葉です。

神様は私たちを見ておられます。

なす事の、なさない事の全てを見ておられます。

また、神様を見る事が出来ます。

霊の目で見るとの比喩的意味のみならず、神様の存在は、自然の中に示されているのであり、私たちは、神様を見る事は出来ない、との固定観念を持っているようですが、時と場合によっては肉の目でも、神様を見させてくださる事もあるのです。

アブラムに現れてくださり、ハガルに現れてくださいました。

12弟子や、数多の弟子、信徒に現れてくださり、ステパノ、パウロにも現れてくださっています。

必要なら、私たちにも現れてくださるでしょう。

しかし、「神様」の本質は「聖さ」であり、汚れた物全てを焼き尽くす、消滅させるパワーを持っていますから、神様を見る事は非常に難しい事でしょう。

神様の特別な配慮がなければ、神様を見る事は叶いません。

ですから、13節後半のハガルの叫びは、聖なる神様を見て、尚、生きている、存在している事への驚きの表現であり、神様の特別な配慮、守りへの讃美、感謝の叫びなのではないでしょうか。

16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

ハガルはエジプトへの街道沿いにある、旅人に良く知られた泉の傍らで、神様に見(まみ)えた訳ですが、その幸いを感謝、記念して井戸に「ベエル・ラハイ・ロイ」と名付けました。

その意味は「私を見られる、生きておられる方の井戸」です。

今日のアラビヤ人は、この井戸を、カデシュ・バルネアの北西19kmの所にあるアイン・ムウェーレであろうと考えており、「ハガルの井戸」と呼んでいるそうです。

真偽の程はともかく、井戸は旅人になくてはならぬものであり、井戸に行き着くか否かが、命の分かれ目であり、人は神様の導きなくして正しい道を歩む事かなわず、

神様と出会うか否かが、命の分かれ目であり、神様は生きておられ、人を見ておられ、人との出会いを求めておられるのです。

しかも、単に出会うだけではなく、深い交わりと、信頼関係を構築する事を願っておられ、人間は神様を必要とする存在である事に気付き、神様の下に憩う事を願っておられるのです。

16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

神様との出会いを体験し、導きを得て、戻るべき所に戻ったハガルは、経緯の全てをアブラムに、サライに報告した事でしょう。

そして、ハガルは時満ちて男子を出産します。

神様の指示通り、イシュマエルと名付けます。

16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

アブラムは、イシュマエルこそ、約束の子と思った事でしょうが、神様のお考えとは違っていました。

ローマ書「9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。

9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

ガラテヤ書「4:23 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

ローマ書、ガラテヤ書に共通するのは「約束」ですが、神様の約束こそが、神様の宣言こそが、拠り所であり、信頼の基準なのです。

どんなに実現不可能な計画であり、荒唐無稽な案であっても、神様が発せられた約束、計画は邪魔をしようが、阻止しようが、必ず実現します。

逆に、如何にも実現可能な案であり、問題もなさそうな、順調にすすみそうな計画でも、神様が関わられない約束、計画は実現しません。

収拾のつかない問題を引き起すだけです。

イシュマエルは、数え切れない程に増えますが、アブラムの子孫でありながら、人々に光りと希望を与える存在にはならなかったのであり、救いの計画の推進には関わっては来ないのです。

【適応】

神様は全てを見ておられます。

ハガルが孤独だと思っていた時に、神様はちゃんと見ておられました。

ハガルが誰も助けてくれないと、絶望の底にいると思っていた時に、約束の言葉をかけてくださいました。

私たちに対しても同じ、否、それ以上です。

神様が全てを見ておられ、イエス様が見ておられ、聖霊様が見ておられ、イエス様が執り成してくださり、聖霊様が助けてくださいます。

混乱の中でも、争いの中でも、沈み込んでいる時でも、落ち込んでいる時でも、神様は見ておられ、その時一番必要としている助けを、慰めを、励ましを与えてくださり、立ち直るまで、寄り添ってくださり、立ち上がる時、支えてくださいます。

神様にそこそこ従っている時だけ、調子の良い時だけ、及第点の状態の時だけではありません。

神様に従わず、勝手な事をやってしまい、失敗し、背負わなくてもよかった重荷を背負ってしまった時にも、突き放す事をせず、見捨てる事もせず、近寄ってくださり、失敗への気付きを与えてくださり、告白に導き、悔い改めに導いてくださいます。

撒いた種の結果は刈り取らなければなりませんが、刈り取る前に、祝福を与えてくださるのが、神様なのです。

負債を払い終えてから、責任を果たしてから、祝福を与えるのではなく、負債や責任が残っている時点で、祝福してくださり、立ちあがり、立ち帰るようにしてくださるのが、神様なのです。

嵐の真っ只中にあるような家庭でも、問題だらけの私たちでも、嵐が去るまで、嵐が静まるまで、問題が解決するまで待っているのが神様ではありません。

嵐の中に飛び込んで来てくださり、問題の渦中に入って来てくださり、希望を与え、祝福を与え、未来を約束してくださり、先ず私たちを安心させてから、一緒に嵐に立ち向かい、問題解決に奔走してくださるのが神様なのです。

そして、全能の神様が一緒に居る、全てを見ておられる、事こそ、何よりの祝福なのではないでしょうか。

孤立無援、誰にも理解されない事、人に誤解されている事、一人ぼっちに耐える事は難しい事ですが、神様が援護してくださり、神様が理解してくださり、神様が全てを正しく知っていてくださるのですから、一人ではないのですから安心なのではないでしょうか。

神様は、私たちがどんな状態でも、祝福してくださいます。

反省してからでも、原点に戻ってからでも、負債に対処してからでもなく、

先ず、祝福してくださいます。

慰め、希望を与えてくださる神様、イエス様と共に生きようではありませんか。

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聖書箇所:創世記1619                     2015-7-12礼拝

説教題:「間違った妊活…家庭の不和・混乱」

【導入】

アブラムと神様との関係は、常にべったりくっ付いた関係ではありませんでした。

見える訳でもなく、触れる事が出来る訳でもなく、声を聞ける訳でもなく、神様が存在している事を疑う事はなかったでしょうが、常に傍に居られるとは、思わなかったのではないでしょうか。

アブラムの時代の「神観」と、現在の私たちクリスチャンの持つ「神観」とは大きく違っていたと思います。

アブラムにとって、神様は遠い存在であり、近寄り難い存在であり、恐ろしい存在だったのではないでしょうか。

現代の私たちクリスチャンにとって、神様は非常に身近な存在であり、親しい関係である事を教えられていますし、生活や信仰の規範である「聖書」を与えられていますが、それでも、自分勝手な判断をして、失敗するのですから、誘惑に負けてしまうのですから、神観の違うアブラムであり、十戒すら与えられていなかったのですから、時に、大きな失敗もしてしまいました。

飢饉の真っ只中に置かれた時には、エジプトに逃げ、身の安全を確保するために、妻サライを差し出しもしました。

じっくり考える間もない、危急の時の失敗と言えるでしょうが、差し迫った脅威でないにも関わらず、何もしないで待つ事に耐えられなくなったアブラム、サライは、神様に相談する事もなく、当時普通に行なわれていた方法で、子どもを得ようとし始めてしまいます。

【本論】

16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

子や孫が与えられ、子や孫を祝福するとの神様の約束を微塵も疑う事のなかったアブラムであり、サライですが、子や孫が与えられない中では、祝福は重荷となってしまったのではないでしょうか。

子や孫が与えられないのは、自分たちに何かしらの問題があるのではないか、

何かをしなければならないのではないか、

人の側でも最善を尽くさなければならないのではないか、神様もそれを期待されているに違いない、と考えたのでしょう。

先にも申し上げたように、「神観」が違い「聖書」も与えられてはいませんが、普遍的な事があるのであり、それは「神様に聞く事」であり、「神様のことばを待つ事」「神様の時を待つ事」ではないでしょうか。

古代においては「幻、夢」や「啓示」によって答えが与えられたでしょうし、現代においては「聖書」に聞き、「聖書」から答えが与えられるでしょうが、どちらも「待つ事」が重要です。

答えは直ぐには与えられません。

忍耐を通して、成長するのですから、何年も、何十年も待たなければならず、慣習や風習に従っては、言い伝えを採用しては、早急に行動に移してはならないのです。

しかし、待つ事に耐えられなくなった二人であり、心の深い所では、不妊の屈辱に耐えられなくなった

16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

サライの申し出、提案は、古代中近東で良く知られた方法です。

紀元前19世紀、古代アッシリアの結婚契約書には、

「二年以内に世継ぎを産めない時は、女奴隷を入手して夫に与えなければならない」との取り決めが記されているそうです。

「世継ぎ」が重要なのは理解出来ないでもありませんが、「二年以内」の取り決めは、如何なものでしょうか。

女性の人権や悩み、苦しみを無視した取り決めですが、当時の寿命や、医学のレベルを考慮するなら、仕方のない取り決めなのかも知れません。

不妊の原因究明は、医学の進んだ現代においても難題です。

基礎体温の記録から始まり、不妊治療を受け、体外受精を試みても、必ず妊娠する訳でもなく、果てには代理出産をも試みますが、倫理的な問題、感情的な問題が付き纏い、親権争いも起こり得るのです。

サライの提案は、医学の発展していない古代、妊娠のメカニズムの知られていない古代、確実に「世継ぎ」を得る方法であったでしょうが、人間の知恵には、必ず限界があり、万事解決しませんし、円満解決もしません。

手に負えない、複雑な問題引き起こすだけなのではないでしょうか。

勿論、サライの申し出が悪いと言っているのでも、妊活の全てが悪いと言っているのでもありません。

神様は四回も現れてくださり、約束のことばを与えてくださいました。

約束のことばは少しずつ違いますが、その意味する所は「星の数ほどの子孫を与える」との約束であり、神様が発せられた約束であるのに、待てなかった所に問題があるのです。

人間の知恵によって、神様の計画、約束の実現をもたらそうとするのは、神様の主権を侵す、越権行為でしかありません。

16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

カナンの土地に住んでから十年後」即ち、アブラム85歳、サライ75歳の時に、

サライは、サライの所有物であった「女奴隷のエジプト人ハガル」をアブラムに与えます。

十年後」は人間的な尺度では充分な待ち時間でしょう。

無為に過ごした10年ではなく、民間療法を試したでしょうし、良いと言われる事は何でも試した事でしょう。

万策尽きて、辿り着いて出した結論であり、サライの毅然とした申し出に、異を唱えるのは憚られ、アブラム自身の内なる思いも、サライと同じ事を考えていたのではないでしょうか。

もう充分待ったのだし、色々と試したのだし、

サライの申し出を、神様の許しの意思の現れ、神様の思し召し、と判断したのは、無理からぬ事でしょう。

こうして、「女奴隷のエジプト人ハガル」はアブラムの所有物となります。

アブラムの所有物となった事は重要ですので覚えておいてください。

16:4 彼はハガルのところに入った。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

アブラムとサライの選んだ方法は、当時の社会では何の問題もない方法であり、誰もが採用した方法であり、誰も非難しないでしょうが、神様に訊ねもせずに選んだ方法であり、

しかも、神様が定められた一夫一妻の教えに反する方法であり、神様の主権をないがしろにする方法ですが、間違った方法でも、アブラムとサライの思惑通りに進み、ハガルは妊娠します。

待望の「世継ぎ」を身篭りましたが、それは、サライとハガルの関係に、地位に、立場に大きな影響を、しかも、悪しき影響を与えます。

先に、ハガルはアブラムの所有物となったとお話ししましたが、アブラムの所有という立場、身分に置かれたハガルは、妻サライと遜色ない地位、立場になったと勘違いし、更に、妊娠の事実により、その地位、立場が妻サライを凌ぐようになったと思い違いをしたのです。

ハガルの慢心でしょうが、アブラムの所有になったとは言え、奴隷の身分である事に変わりはなく、妻の地位、立場とは雲泥の差がありましょう。

16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。【主】が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

横柄さ」を、新共同訳聖書では「不当な目」と訳し、口語訳聖書では「」と訳しています。

横柄さ」と訳されているヘブル語は、新改訳聖書の他の個所では「暴虐」と訳していますが、ハガルの態度の急変、身分不相応な態度は、実害を伴ったモノであり、それはアブラムの所為だと、サライは言うのですが、アブラム所有の奴隷の不当行為の責任は、アブラムにあるのであり、アブラムが責任を持って対処しなければなりません。

サライは、アブラムの指導不足、管理不行き届きを責めたのであり、サライの要求は正当なもの、単なる内輪揉めの愚痴や、泣き言、恨み辛みの吐露ではないのです。

16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

サライとハガルの関係悪化に、薄々気付いていながら放置していたアブラムの責任は大きいでしょう。

争い事は避けたいものであり、なるべくなら余計な責任は負いたくはありませんが、問題は小さい内に、早い内に対処してこそであり、問題が大きくなってからでも、表面化してからでも、遅くはありませんが、早いに越した事はないでしょう。

アブラムの提案は古代中近東に見られた方法と思われますが、ハムラビ法典に引き継がれています。

即ち「不妊の妻が夫に自分の女奴隷を与え、その女奴隷が挑発的態度をとるなら、その女奴隷を再び自分の奴隷とする事が出来る」です。

夫の所有する奴隷に対しては一切の命令権も、指示権を持ってはいないので、自由にする事は出来ないので、自分の所有に戻して、命令、指示を出すのです。

アブラムの提案は、ハムラビ法典に則った形を取ってはいますが、責任逃れである事は明白です。

ですが、単純に責任逃れ、責任の押し付け、と判断するのは早計かも知れません。

ハガルを差し出したサライも、受け取ったアブラムも、元の所有に戻したのも、この世の知恵で行動したのであり、この世の知恵で対処したのであり、人間の知恵の限界を示しているのではないでしょうか。

人間の知恵で始めてしまった事でも、気が付いた時点で神様の前に戻り、神様の知恵によって対処し、解決に導かれたいものです。

神様は、不思議な結末に導いてくださるのではないでしょうか。

勿論、真摯に吟味し、悔い改めなければなりませんし、それなりの痛みは伴うでしょうが、人間の知恵では及ばない、素晴らしい結末となるのではないでしょうか。

さて、ハガルはサライの支配下、管理下に戻った訳ですが、サライは溜まった鬱憤のありったけの限りを、ハガルにぶつけたようです。

いじめた」は「苦しめた、手荒く扱った」であり、逃げ去った」程ですから、相当な仕打ちであったのでしょう。

16:7 【主】の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

6節でハガルは「逃げ去った」訳ですが、ハガルは生まれ故郷であるエジプトを目指し、エジプトの北東、国境近くの町「シュル」に至る道の「」で暫しの休息を取っていたようですが、そこで、主の使いに声を掛けられます。

16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」

主の使いの言葉は、ハガルを現実に引き戻します。

奴隷の身分は、立場は逃げても変りません。

身分を隠して生きるのは簡単な事ではなく、逃亡奴隷に待っているのは過酷な現実です。

奴隷に逃げ場はなく、帰る当てが合っても、帰れはしません。

何故ならば、逃げ出した動物と同じであり、見つけた人は持ち主に返さなければならないからなのです。

しかも、女性が一人で生きるのは難しい時代です。

主の使いの質問は、ハガルに、目標のない逃避行であり、惨めさ、希望のなさを自覚させる質問でした。

主の使いと出会い、現実に引き戻されたハガルは、立場、身分を自覚し、告白します。

16:9 そこで、【主】の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

身を低くしなさい」を新共同訳聖書は「従順に仕えなさい」と訳し、口語訳聖書は「身を任せなさい」と訳しています。

ハガルは奴隷の身分のままで、従順を学び、忍耐を学ばなければならないのです。

苦しい事かも知れませんが、帰るべき所に帰る事が、祝福の基盤なのであり、奴隷の身分であっても、アブラムの傍に居る事で、アブラムに注がれる祝福の恩恵に与れるのであり、将来、ハガルの子、イシュマエルが神様から特別な祝福を受け、大きな民族になる事につながるのです。

【適応】

人間の知恵や工夫、技術や文化、科学や医学、などなどが悪い訳ではありませんし、採用する事が悪い訳ではありませんが、神様の命令、神様の計画、神様の指示に、人間の知恵や工夫、技術や文化、科学や医学などを優先させるのは、如何なものでしょうか。

神様の命令、神様の計画、神様の指示には、終始、神様の考え、神様の予定、神様の時を確認して行動しなければならず、人間の先走り、勝手な判断は厳に、慎まなければならず、例え、これで十分、と思える程に待ったとしても、それでも、神様の指示がなければ、更に待ち続けなければならず、無駄のように思えても、愚直に繰り返さなければならず、もっと効果的な、有効な方法があっても、勝手な変更をしてはならないのです。

この世で普通に行なわれており、特別、奇異な事でもなく、異教的でもなく、反社会的、倫理に反する事ではなくても、神様に訊ねもせずに、勝手な判断、安直な判断、思い込みで採用してはなりません。

一般社会の問題であろうと、宗教的な問題であろうと、区別はありません。

礼拝や教会に関する事、信仰に関する事は、神様に聞くし、従うけれど、社会的な事、仕事の事は、この世の人の知恵を拝借する、のではありません。

神様は、この世の全ての支配者ですから、社会的な事も、仕事の事も、神様の支配下にあり、神様に聞き、従わなくてはなりません。

会社の事も、商売の事も、ご近所との事も、人間関係の悩みも、神様に聞くのです。

神様の考えは、聖書に記されていますから、聖書に照らし合わせて判断します。

しかし、この世は複雑になっていて、新しい事が次から次に生まれ、聖書の記された時代と、現代とでは雲泥の差がありまから、聖書の一言一句を、そのまま現代には適応できないでしょうが、基本は変りません。

即ち「神様を愛し、人を愛する」です。

別の言いまわしをするなら「神様を喜ばせ、人を喜ばせる」、「神様を悲しませず、人を悲しませない、人を困らせない」でしょうか。

それでも、神様の教え、願いと現実は、非常に乖離していて、神様の考え、願いに従うのは非常に難しい、困難が伴う、それどころではなく、時代錯誤、絶対無理、出来ない、と言う事もあるでしょう。

しかし、出来る出来ないも大事ですが、神様の考え、願いを知っているか否か、神様の考え、願いに従おうとする事を第一に考えているか、願っているかが、大事なのではないでしょうか。

最初から神様は蚊帳の外で、神様の考えを聞かず、神様の願いを確認せず、神様の時を考慮しないのと、どんな問題でも区別せずに神様を交え、神様の考えを聞き、神様の願いを確認し、神様の時を考慮し、考え抜いた挙句の苦渋の選択であるなら、結論は同じでも、プロセスは違うのであり、神様抜きでの選択であるならは、全ての責任は自身で負わなければならないでしょう。

当然の事です。

しかし、神様を交えての、神様と共に考え、神様と共に選んでの選択であるならば、神様も当事者ですから、神様も連帯で責任を負って下さるのではないでしょうか。

アブラムとサライの妊活では、この世的には問題とされない、普通に行なわれていた方法ですが、神様に相談もなく、神様が喜ばれない方法を採用してしまい、アブラムとサライとハガル、三つ巴の混乱が生じ、反目し合い、家庭は険悪になり、分裂にまで至ってしまいましたが、神様のご介入があり、分裂は修復されるのです。

分裂は修復されましたが、和解が成立したのではなく、混乱や反目は完全に解消したのではなく、澱となって残り、家庭は歪を抱え、ハガルの子イシュマエルと、サライの子イサクの間にも、悪しき影響を与え続けるのです。

アブラムとサライの選択肢の問題でなく、神様を蚊帳の外に置いた事が問題なのです。

今日の私たちも、様々な選択を余儀なくされますが、私たちの知恵や経験、社会や文化から導き出される最善を選ぶのではなく、神様を巻き込んで、神様に訊ね、神様に喜ばれ、人にも喜ばれる方法を選び、神様の祝福を受けて歩んで行きたいものです。

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聖書箇所:創世記15721                     2015-7-5礼拝

説教題:「神様の約束は四代目の子孫の時代に」

【導入】

神様は何回もアブラムに現れてくださいました。

本日のテキストの個所迄でも四回も現れてくださり、子孫の繁栄と、広大な土地を支配するようになるとの約束を与えてくださいました。

四回目の時は、アブラムが凡そ75歳前後であったろうと想像されますが、初回が何歳の時であったか、途中二回が何歳の時であったかは不明ですが、2030代の青年期ではなく、

4050代の壮年期の可能性も低く、60代以降の高齢期にさしかかっての事であろうと思われます。

神様は、アブラムが生活力も、思考力も、行動力も、指導力も、体力も、気力も充実した、冒険心に溢れた、血気盛んな時に現れてくださったのではなく、アブラムが高齢期に入り、無理が利かなくなり、疲れ易くなり、忘れっぽくなり、新しい事には二の足を踏むようになり、自分の力には頼れなくなった時に現れてくださり、命令を与えられましたが、その命令、即ち「何処へ行くのかを知らされないで出て行け」は祝福を伴う命令であり、広大な土地と、数え切れない数の子孫を与えるとの約束が伴う命令でした。

途中、何回か試練が与えられ、失敗もしましたが、何より神様のことばを信じ続け、神様に頼り続け、神様に従い続けた事を評価してくださり、四回目に現れた時には、アブラムの子孫の繁栄を確約してくださり、子のないアブラムに、夜空に無数に煌く星を見せて、アブラム自身から産まれる子が、このように数え切れない数となるであろうと、約束の確かな事を、約束の変らない事を、約束が何時までも続く事を見せてくださったのです。

そして神様はもう一つの祝福、広大な土地を与えるとの約束の確かな事を、これも目で見える形で示してくださいます。

【本論】

15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。」

アブラムの目の前に広がるのは、カナンの地でした。

肥沃な土地であり、食料としての穀物、果樹、家畜の飼料としての牧草は勿論の事、建材や燃料としての樹木も豊富であり、見渡す遥か先までが正に「乳と蜜の流れる肥沃な土地」なのです。

春の雨、秋の雨に潤い、季節毎に美味しい農作物が収穫される土地であり、地中海の温暖な気候の中で家畜が育ち、無い物が無い土地なのです。

そして神様は「この乳と蜜の流れるカナンの地を、アブラムに与えるために、カルデヤのウルから連れ出したのはこの私だ」と宣言されるのです。

カルデヤのウルで出会った、その同じ神様が、今、再び現れて、アブラムを祝福されたのです。

これは神学的に重要な事です。

神様は唯一、不変、絶対主権者である事を示唆しており、ウルで現れた神も、途中何回か現れた神も、今現れた神も同じであり、将来に亘っても神であり続け、約束が変わる事はなく、世界を支配し続けておられる事を示し、宣言しているのです。

広大な土地が与えられました。

嬉しい事ですが、現代のように登記簿がある訳ではありませんから、権利を主張するための証拠、根拠がありません。

現に、カナン人が住んでおり、1920節に記されている人々が住んでいるのであり、

それらの問題に目を向けるのは自然、当然であり、

15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

神様のことば、宣言をそのまま信じられないのは弱さには違いありませんが、分らないままに、疑念を持ったままに、漠然と受け入れるのは、信仰とは言えません。

神様は積極的に関わり、疑念を晴らす事をこそ、望んでおられます。

アブラムの疑念は、不信仰故の反論、神様のことば、宣言への疑い故の反論、問い掛けではなく、神様を信じる故に、更に確かめようとする熱心、積極性の現れからの問い掛けであり、神様は、アブラムが疑念を持った事を咎めず、問い掛けを無視もなさらず、

かと言って、直接答える事はなさらず、アブラムに一つの指示を与えます。

15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」

この指示は、古代中近東、アブラムの故郷「カルデヤ」でも行なわれていた契約の儀式に必要不可欠の品々であり、アブラムにとっては馴染みの深い契約を連想させる品々でした。

雌牛、雌山羊、雄羊とも皆三歳ですが、三歳に大きな意味は無く、充分に成長した、価値のある家畜を意味しているのでしょう。

契約は重要であり、重要な契約に相応しい品々を持って、契約に臨む必要があるのです。

神様は、常に、人間に分る手続きを用いられます。

神様主体でありながら、神様の形式ではなく、人間に分る、人間が良く知っている形式を用いられます。

闇雲に信じろ、ではなく、ノアとの契約も、虹をしるしとして用いられ、アブラムとの契約も、星をしるしとして用いられました。

人間に分るしるし、納得しやすいしるし、理解し易く、何時までも忘れないしるしをもって、契約のしるしとされます。

9節でも、人間同士の契約の手続きを用いられ、約束の確かな事を示してくださいます。

神様が用意するように指示された品々が、契約手続きのための品々である事を察したアブラムは、

15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。

前節で揃えるように命じられた雌牛、雌山羊、雄羊とも皆三歳でしたが、三歳の雌牛は種類や育て方にもよりましょうが、肉は柔らかく、癖も無く、食べ頃であり、非常に美味しいそうです。

それはともかく、三歳の家畜は、充分に成長した家畜と言う事であり、それなりの大きさがあり、重量があり、肉だけでなく、骨も断つのですから、「真っ二つに切り裂」くのは簡単な事ではありません。

かと言って、大勢で取り掛る仕事でもありませんから、数人掛りで、手分けして、三頭を、二羽を、契約の儀式用に切り裂きます。

15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

猛禽」を、新共同訳聖書では「禿鷹」と訳し、口語訳聖書では「荒い鳥」と訳していますが、大型の、肉食の鳥の類であり、鷹、鷲、隼、等であり、小動物、小鳥を襲い、死体のみならず、腐った死骸をも啄ばむ鳥を指し示しています。

地上に、活きの良い上等の肉、ご馳走が並べられているのであり、猛禽は隙を覗い、ひっきりなしにやって来たのであり、

聖書は「追い払った」と訳していますが「追い払い続けた」のです。

契約には、様々な妨害、障害、問題が付き物であり、妨げを排除し続ける必要があるのであり、問題を解決する必要があるのです。

神様との契約は、漫然と待っていれば自動的に結ばれるのではありません。

主体は神様ですが、私たちの積極的な関わりが大切、必要不可欠なのです。

15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。

今日取り扱っているテキストの個所は、創世記151節からの連続であり、夜空に煌く、夥しい数の星を眺めつつ、夥しい数の子孫が与えられると言う神様の約束を確認した出来事との連続であり、夜明けと共に闇が去り、大きく広がって行く、鮮明に開けていく視界の中で、広大なカナンの地を与えるとの宣言がなされたのであり、殆ど徹夜明けの状態で、一日を過ごしたのであり、眠気に襲われるのは当然ですが、深い眠り」は通常の深い眠りではなく、神様が与えられた特別な、特殊な眠りであり、ここでは、神様の啓示を受け得るようにさせられている状態なのです。

ひどい暗黒の恐怖」は、聖なる神様の臨在に曝された時の恐れと、預言の持つ重大さが渾然一体となった時の感情を表現した言葉でしょう。

聖書における神様臨在の場面の多くは、神様の遣わしたもう「御使い」であったり、神様の「声」だけであったり、「音」だけであったりですが、ここでは神様御自らが裂かれた動物の間を通られるのであり、その予兆が漲り、並々ならぬ緊張が一帯を支配していたのを、アブラムは感じ、恐れたのでしょう。

15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

13節、14節は説明するまでも無く、エジプト滞在と奴隷生活、出エジプトの顛末と、エジプトへの裁きを預言している事は明白ですが、エジプト滞在も、奴隷生活も、出エジプトも、エジプトへの裁きもが、神様のご計画であり、偶然でもなく、成り行きでもなく、人為的でもない事を宣言しているのです。

13節「奴隷とされ…苦しめられ」る生活も、14節「仕える」生活も「訓練」であり、「忍耐の時、待ち時間」であり、400年の訓練を受けてこそ、400年待ってこそ、夥しい子孫に至り、広大なカナンの地を受けるに至るのです。

13節で、エジプトでの滞在生活、奴隷生活を「四百年」と宣言していますが、出エジプト124041節、ガラテヤ317節に記されているのは「四百三十年」であり、使徒の働き76節ではステパノが「四百年」と証言しています。

どちらが正しいのか、調べたくなりますが、正確な記録、資料がある訳ではなく、断定は出来ませんから、四百三十年」前後だろう、概算「四百年」との理解が、妥当と思われます。

15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。

アブラムは、イサクとイシュマエルの手によってマクペラの洞穴に葬られます。

その経緯は創世記257節以降に記されていますが、アブラムの一生は175年であり、人間の一生が120歳になりつつあった時代にあっては、長寿命であり、息子たち、孫たちに囲まれて、「平安のうちに」最後を迎えます。

平安のうちに」は「問題もなく、無事に」の意味ではありません。

問題があり、患難があり、試練があり、失敗があり、紆余曲折があり、しかし神様に「守られて、満たされて」なのであり、そんな生涯をアブラムは送ったのです。

聖書の預言の通りです。

15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」

四百年」の後に「四代目の者たち」が、と言うのは、現実的ではありません。

しかし「四代目」と訳しているヘブル語は、「四つの世代」と訳せ、世代」は、「一生涯、周期」を意味しますから、一つの世代を100年と考えるなら、四つの世代は400年となり、矛盾は解消しましょう。

それにしても、400年後の約束とは、何と先の長い、悠長な話しでしょうか。

しかし、それには理由があります。

エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからであり」、即ち「エモリ人」に対する神様の憐れみであり、猶予であり、忍耐なのです。

「罪、咎」は断罪されなければなりませんが、即刻ではなく、正義の行動であっても、短絡的な行動は、性急な判断は厳に慎まなければならず、何百年も待たなければならない事もあるのです。

アブラムの子孫は、神様の正義のために遣わされる道具であり、アブラムの子孫が正しいから、回りの民族よりましだから、遣わされるのではありません。

最悪の民族が用いられる事もあり得るのを忘れてはなりません。

神様に仕えているからと言って、神様に用いられているからと言って、正しい訳でも、聖い訳でもありません。

信仰を持っているから、信仰生活が長いから、沢山の奉仕をしているから、と言って高慢になってはならず、他者を批判してはならず、まして、異教徒だから、堕落しているから、と言って、勝手な判断で裁いたり、攻撃したりするのはもってのほかです。

常に、神様の御心に忠実であるか否かを吟味しつつ、お仕えし、神様の御計画に従って行動するのでなければなりません。

15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

アブラムが見守る中、神様は裂かれた動物の間を通り過ぎて行かれました。

通常、契約では、契約当事者双方が裂かれた動物の間を通り、契約を破った者は、殺され、肉は裂かれ、骨が断たれる事を確認し合いますが、この契約では神様だけが裂かれた動物の間を通られたのであり、この契約は神様だけが一方的に責任を負う事が、示されているのです。

神様が主導であり、神様だけが責務を負われ、神様だけが責任を負われるのです。

神様は「」の中に現れ、「」で象徴されますが、煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は神様臨在のしるしであり、この約束、契約に神様が直接関わられた事を、この約束、契約は神様が保証され、不変、永久である事を現しているのです。

煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」が通り過ぎる様子は、異常な光景であり、生涯忘れられない記憶となった、鮮明に残る記憶となった、のであり、神様はことばと共に、映像としてもアブラムの記憶に刻み付けてくださったのであり、竈を見る度に、松明を見る度に、この記憶を思い出したのではないでしょうか。

15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。

15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、

15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、

15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

ここに列記されている民族は、全部で10ですが、10の部族に限定しているのではなく、エジプトとの国境から、カナンの地の北と東の端までの完全制覇、完全所有を意味、宣言しているのです。

【適応】

神様のご計画は遠大であり、人間の尺度では測れません。

人間は短命であり、神様のご計画の一端、極、一部を見るのが精一杯でしょう。

アブラムへの約束の成就は四代目でした。

決して短くはありませんが、しかし、長くはありません。

神様にとって、1000年は1日のようであるからです。

400年なんて、それこそ「あっという間」です。

400年は、私たちの時間の感覚では、決して短くはありませんが、年月の長短は問題ではありません。

人間が願って、神様を説き伏せて、神様から約束を引き出したのではありません。

神様が主体的に発せられた約束であり、宣言だからです。

神様がアブラムを選び、祝福を約束し、宣言され、私たちにも、

使徒の働き1631

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

ヨハネの手紙第一515

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」とのことばを与えてくださっています。

このことば、約束を信じて、家族や友人の救いを願い、日夜祈り、働きかけていますが、

一向にその気配を感じられず、諦めてしまったり、家族や友人に、疎んじられたり、うるさがられてしまい、逆効果なのではないかと思う事も、一度や二度ではないでしょう。

しかし、神様のお約束は確かであり、恵みは千代に及ぶのであり、私たちが存在していると言う事だけで、相手に少なからぬ影響を与えているのであり、諦める必要も、断念する必要もありません。

私たちには人を変える力はなく、躓かせる事の方が、倒してしまう事の方が多いでしょうが、神様はそうではありません。

神様には人を変える力があり、躓きをステップ、ジャンプに変える力をお持ちなのです。

神様にとって不可能はなく、針の穴に、駱駝を通らせる事も出来るのです。

また、神様の約束ですが、たとえ私たちが忘れても、神様は忘れません。

否、忘れる事が出来ないのです。

神様は変る事なく、永遠であり、神様が発した一言一句は、必ず、その通りになります。

しかし「神様の主権で」なのであり、明日ではないかも知れませんが、明日でないと断言も出来ず、1年後、10年後かも知れず、もっと待たなければならないかも知れませんが、

それは、忍耐を学ぶためであり、信仰を保ち続ける訓練であり、

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ書53節から5節の約束です。

忍耐して待ち続け、神様の祝福を子々孫々に引き継ごうではありませんか。 

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