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聖書個所:ヨハネ5:3047                    2015-8-30礼拝

説教題:「イエスをあかしするもの」

【導入】

世の中には数多くの宗教があります。

其々に救いの道を説き、どうしたら救われるかを教えます。

イエス様の活躍された時代にも、世界には数多くの宗教があった事でしょうが、ユダヤ人には律法が与えられており、その律法を落ち度なく守れば救われると教えられ、それを固く信じて実行してきたのです。

この考えは間違ってはいませんが、人は完全な形で律法を守る事は出来ません。

それは人には生まれながらにして罪があるからであり、幾ら頑張って律法を守っても、修行をしても、お祓いをしても、献げ物をしても、善を行なっても、それで犯した罪が赦される訳ではなく、罪を帳消しにはできないのですから、救われる事もないのです。

これでは誰も救われる事ができません。

そこで神様はご計画を立て、神の独り子を人類の救い主として地上に送りました。

この神の独り子を救い主として信じる者を、救おうと計画されたのです。

この神の独り子、人類の救い主がイエス・キリスト様なのですが、見かけは私たちと変らないので、イエス様が神の独り子かどうかが分からないのです。

信じる人もいれば、信じない人もいる。

信じる人の代表が12弟子であり、信じない人の代表が祭司や律法学者、パリサイ人たちであり、彼らから攻撃を受ける事になるのです。

私たちは色々な場面で証拠を求めますが、信仰は祥子で信じる物ではありません、

しかし、イエス様は証拠を求める人々に、信じる人になって欲しくて、5つの証、証拠を提示します。

それが今日の聖書箇所の記述なのです。

イエス様は一人も滅びて欲しくはないのです。

反対する者も、真理を受け入れて救われて欲しい。

頑なに拒否しないで、これから説明する5つの証言を受け入れて、永遠の命に入って欲しいと願って篤く語り始めるのです。

【本論】

イエス様は、最初に5つの証言を提示する必要性を説明します。

5:31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。

証言が真実かどうかは、複数の証言が一致するかどうかが重要になります。

ユダヤの律法では一人の証言では有罪にする事はできず、二人以上の証言を求めています。

また、ユダヤの律法では本人の証言は無効であり、複数の証言が一致した時、真実であると認定されるのです。

その事を充分承知し、ユダヤ人の律法を尊重しているイエス様は31節でご自分だけの証言では、法的に正しい有効な証拠と認める事ができないことを宣言します。

これはイエス様の証言が真実ではない、と言う事ではなく、ご自分以外の証言によってイエス様が神の子である事を証明しようとしている事を現しているのです。

その、ご自分以外の証言の第1はバプテスマのヨハネの証言です。

5:33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。

5:34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。

5:35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。

バプテスマのヨハネの証言は今までにも何回も取り上げています。

バプテスマのヨハネは、イエス様が神様から遣わされた神の御子であり、罪を取り除く神の小羊であると証言しました。

実際にバプテスマのヨハネはイエス様を見て

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。

御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。

私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』

私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。

多勢の人々がこのバプテスマのヨハネの証言を聞き、イエス様をお迎えするに相応しく整えられるために、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で受けました。

バプテスマのヨハネの働きと証言は遠くエルサレムにまで伝わり、ユダヤ人指導者もバプテスマのヨハネの下に使者を送り、この事を確認しています。

ヨルダン川で起こった出来事がエルサレム、ユダヤ各地に広がっていった事を証ししています。

バプテスマのヨハネは多くのユダヤ人が預言者と認める人物であり、その預言者の言葉として信憑性ある証言として提示しているのです。

2はイエス様の行なわれたわざによる証言です。

5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくので

す。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

5:36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。

これはバプテスマのヨハネの証言に勝る証言です。

イエス様は自分勝手に事を行なわれたのではありません。

父なる神様のみこころを行なったのであり、父なる神様の望む通りを行なったのです。

そのなされたわざは、およそ人間にはできない事ばかりです。

カナの婚礼の席で水をぶどう酒に変えたり、病気で死にかかっている子どもを癒したり、38年も寝たきりの病人を歩かせたり、生まれつきの盲人の目を開けたりと。

このイエス様の数々の証拠としての奇跡、わざを見れば、このわざの内に神様の臨在と力を見る事ができ、イエス様が神様から遣わされた方である事が分かるはずなのです。

曇りのない目で見れば、イエス様のなされたわざは神様の力、憐れみと恵みの現れであり、決してベルゼブルの力、サタンの力ではない事が明白です。

イエス様のなされたわざ、それがイエス様を証しする証言となっているのです。

3は聖書の証言です。

5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。

5:42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。

5:43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

5:44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

ユダヤ人は聖書の中に永遠のいのちがあると信じて熱心に調べていました。

しかし、ユダヤ人の聖書研究には致命的な欠陥がありました。

旧約聖書はイエス様を啓示する書物であるのに、ユダヤ人にはそれが分からず、神様の啓示を悟る事が出来ず、表面的な律法を遵守する事に血眼になっていたのです。

その遵守の仕方も、概念的なものであって、神様のみこころから遠く離れたものでした。

その一例を上げましょう。

ある律法学者がイエス様に尋ねました。

「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

ルカの福音書の10章に記されている記述です。

律法学者は何をすれば永遠のいのちを受ける事ができるかを字義的には知っていましたが、神様の願う意味では知りもせず、実行もしていなかったのです。

隣人を愛する事において然りならば、神様を愛する事においても然りです。

同じ様に、聖書を調べて、救い主が来る事、来られる事は知っていても、バプテスマのヨハネが証言しているイエス様が、聖書の証言する救い主と信じて一歩を踏み出すことはなかったのです。

律法学者は律法の条文とその内容に関して誰よりも専門的に研究し、その知識において誰よりも豊かでありました。

それにもかかわらず、律法を与えたお方、律法の内に啓示されたイエス様を知る事については無頓着だったのです。

「論語」読みの「論語」知らず、と言う言葉がありますが、聖書に精通していながら、聖書の指し示すお方を知らずにいた、否、知ろうとしなかったのです。

聖書はいのちであるイエス様について語っているのに、人々はイエス様を認めようとしなかったのです。

イエス様の指摘は更に鋭くなっていきます。

イエス様を受け入れないのは、彼らの内に神様に対する愛がないからだ、と指摘します。

神様を愛する愛があるならば、神様が御子イエス様を遣わされた事が分かるはずなのです。

何故ならば、聖書は私たちに宛てて書かれた、神様からのラブレターだからです。

その聖書がイエス様を指し示しているのですから、神様を愛しているなら聖書の言葉を信じ、受け入れるはずであり、イエス様を受け入れるはずです。

それなのに、聖書が指し示しているイエス様を受け入れないのは聖書も、聖書を与えた神様をも信じていない、愛してもいないと言う事なのです。

ユダヤ人は口では神様を愛している、聖書を信じていると言いながら、神様を愛してもいないし、聖書を信じてもいないのです。

4はモーセの証言です。

5:45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。

5:46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。

5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

ユダヤ人はモーセを、神様から律法を授かった者として尊敬し、信頼していました。

そのモーセは、神様がモーセのような預言者を起こす事を預言しています。

申命記1815節「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

モーセの後に多くの預言者が現れました。

サムエル、エリヤ、エリシャ、…。

しかし、ユダヤ人は預言者に聞き従わず、預言者を迫害し、殺してきた歴史があるのですが、モーセが申命記で言っているのはそれらの預言者ではなく、一人の預言者、最大、最高の預言者イエス様なのであり、イエス様はその事を指摘しているのです。

そしてユダヤ人がモーセの命令に従わず、神様から遣わされた多くの預言者の言葉に従わなかったように、神の御子イエス様の言葉をも信頼せず、従わないであろう。

それで、モーセがあなたがたユダヤ人を訴える事になると、イエス様は仰っておられるのです。

5は、神様の証言です。

5:32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。

5:37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。

5:38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。

バプテスマのヨハネの証言も、イエス様のなさったわざによる証言も、聖書の証言も、モーセの証言も重要ではありますが、最終的な証言は神様の証言なのです。

全ての証言の根拠となっているのは神様であり、神様が働いてバプテスマのヨハネを遣わしたのであり、イエス様は神様のみこころを行なったのであり、神様に導かれて聖書が記されたのであり、神様が与えた啓示によってモーセが語ったからなのです。

多くの証言がありますが、証言者の熱意や熱心で人々の心に届く訳ではありません。

父なる神様の熱心な証言だけが人々の心に届き、人々の心を変えるのです。

【適応】

この事は大切な真理を私たちに教えています。

真理の証明が預言者の手にも、聖書にも、イエス様のわざにさえも、任せられていないなら、私たちに任されていないのは尚更です。

イエス様が神の独り子、救い主だとの証明は、人間の理論や証明能力に関りを持たない事柄なのだ、と言う事を教えているのです。

それなのに私たちは伝道に使命を感じて熱心になり、真理の証しが私たちに委ねられていると錯覚して、人々を説得し、真理を証明しようと躍起になってしまうのです。

聖書を引用し、注解書を用いて人々を折伏し、真理を受け入れさせようと努力をしますが、証明できたからといって、人々がイエス様を受け入れる訳ではありません。

多くの場合、説得され、納得させられても、二度と教会には来ないでしょう。

それは人の働きでは人を変える事はできず、神様の働きだけが人を変える力があると言う事です。

ではどのようにして証明し、人々にイエス様を紹介したら良いのでしょうか。

証明する必要はありません。イエス様の事を語るだけでいいのです。

私たちを通して神様が語って下さった時、神の真理は如何なる人の心にも届くのであり、

受け入れる事ができるのです。

バプテスマのヨハネの証言も、イエス様の行なわれたわざも、聖書の証言も、モーセの証言も、今は1冊の聖書にまとめられていますが、これは証言の二次的なものであって、

本当の証言者は神様であり、イエス様が遣わしてくださった「聖霊なる神」の働きによらなければ、だれもイエス様を受け入れる事はできないのです。

私たちは時が良くても悪くても遠慮する事なく語れば良いのであって、

折伏しようとか、入信させようなどと思う必要はありません。

教会に連れて来ようとか、そのための工夫をするのではなく、ただ誘えばいいのです。

どんなに工夫しても万人受けするプログラムは用意できないし、それぞれに趣味の違いや、都合があるでしょう。

イベントがないと誘えないというのでは順序が逆です。

誘う、誘い続ける。

あとは神様の範疇です。

聖霊なる神様が一人一人の心に働きかけて、イエス様は神の独り子、私の罪を取り除く贖い主と証明して下さるのです。

イエス様をあかしするもの、それは聖霊なる神様だけであり、この神様のあかしだけが、人の心に届いて、人を変えるのです。

私たちは心して、聖霊様の働きの邪魔をしないようにしなければなりません。

私たちの救われた時の事を思い返す時、説得されて信仰を持ったのではなく、不思議な、言いようのない喜びに満たされてイエス様を受け入れた事が心の中に甦って来るのではないでしょうか。

この不思議な喜びが聖霊なる神様の証明なのです。

この聖霊様は今日も働いて、イエス様を受け入れるように導いて下さり、

信じた一人一人を信仰から離れないように確信を持たせて下さるのです。 

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説教者:野寺恵美牧師                       2015-8-23礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書202429

説教題:「私の主、私の神」

【聖書】

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。

20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。

20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

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聖書箇所:創世記172227                 2015-8-16礼拝

説教題:「その日の内に割礼を」

【導入】

人間の記憶って、確かなようで、実はかなり曖昧です。

鮮明に記憶している部分もあれば、漠然とした部分もあり、均一に記憶しているようで、すっぽりと抜け落ちている部分もあり、都合の良い部分を選択的に記憶している事もありましょう。

同じ経験であっても、人によって記憶のパターンに特徴があり、或いは、関心を置くところが違うので、記憶も大きく違ってくる訳です。

それで、神様は折々にアブラハムに現れてくださり、記憶を鮮明、正確にしてくださり、曖昧な部分をなくし、記憶の抜け落ちをなくし、都合のよい事だけに片寄りがちな記憶を、満遍なく正しい記憶にしてくださるのです。

星の数を凌駕する子孫を与える事、その子孫の名実の伴った繁栄と、子孫に広大な、肥沃なカナンの土地を与えるとの約束を何度も何度も繰り返し、宣言し、確認し、この祝福に与る方法、手続きをも明確に示してくださった事でした。

それは「割礼」です。

割礼は神様の発案ではなく、古から行なわれていた儀式ですが、神様は、古い儀式に新しい意味を込めて、アブラハムに提示したのであり、単なる共同体の印としてではなく、大切な使命と祝福を担う群れである事を現す印としてくださいました。

神様は何回も現れて、約束を繰り返し、約束の確かな事を繰り返しましたが、命令は一度であり、繰り返される事はありません。

アブラムへの、ハラン出立の命令は一度でした。

アブラム、サライへの、改名の命令も一度でした。

改名は実害を伴いませんが、住んでいた所を棄てる、何処へ行くのかを知らされない中での旅立ちは、苦労や実害を伴う事であり、中々直ぐに従える事ではありません。

再確認をしたり、理由を聞いたり、損得を考えたり、何時にしようか思案したり、それでも中々従えないのが普通ですがアブラムは命令を確認し直す事なく、躊躇する事もなく、即刻従ったのです。

とは言え、父テラの考えでウルを出立し、カナンに向っての旅の途中、ハランに逗留していた、と言う布石があったのであり、旅立つ事への抵抗は少なかったかも知れません。

しかし、割礼の命令は唐突な命令であり、何故、今、の思いがあるのは当然であり、しかも、実害を伴いますから、簡単に従える事ではありません。

しかし、アブラハムは躊躇せず、即刻、時を移さずに従ったのです。

【本論】

17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。

たとえ神様であっても、伝えるべき事を伝えたならば、任務が完了したならば、即刻、立ち去らなければなりません。

何故ならば、伝えるべき事を伝えたならば、後は、聞いた本人が決断しなければならないだけであり、その決断は、全くの自由意思で行なわなければならないからです。

伝達者が居残っていたならば、気になるでしょうし、不本意な決断をしてしまうかも知れません。

伝達者は、決断するまで待ち続け、様子を覗い、無言のプレッシャーを与える必要はありません。

色々言うのは、アドバイスの気持ちからかも知れませんが、誘導する必要はありません。

従うも自由、従わないも自由なのです。

強制されてでは、誘導されてでは、従順とは言えませんし、強制には喜びもなく、感謝もなく、誘導には後悔と、苦味と、苦痛しかもたらさないのではないでしょうか。

不本意な選択は、どんな結果であっても、結局は納得できないのではないでしょうか。

上手く行ったのに何なんだけれど、本当は嫌だった、不本意だったんだ、とか、結果は駄目だったけれども、自分の思った事をやれたから良かった、と言う感想を聞く事は珍しい事ではありません。

全く強制や誘導がなければ、本当に納得しての選択ですから、失敗しても、喜べるし清々しさを味わえるのではないでしょうか。

こんな事は、神様からの命令に限らず、人生の折々に経験される事でしょう。

進学でも、就職でも、結婚でも、然りであり、日常の様々な事も然りです。

本人の進学であり、本人の就職であり、本人の結婚ですから、本人が決めるしかありません。

傍目に見ていて心配でも、アドバイスをしたくても、大きなお世話、お節介です。

勿論、本人から相談されたならば、聞かれたならば、経験を話し、知っている事を話し、一般論を語っても構いませんし、参考にしてもらっても構いませんが、聞かれもしないのに、相談されもしないのに、アドバイスするのは不相応であり、越権行為である、とさえ言えるでしょう。

見て見ぬ振りをするのではなく、見守る事が、本人の自主を尊重するのが大切なのです。

神様でさえ、アブラハムの自覚、判断、決断に撒かせたのですから、余計な事を言わず、黙って、直ぐに去ったのですから、私たちも同じように、本人が自覚するまで、見守るのが、祈るのがよいでしょう。

17:23 そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。

割礼は、メソポタミヤ出身のアブラハムにとって初めての経験となります。

勿論、知識としては知っていたかも知れませんが、一族にも、家族にも、先祖にも割礼の習慣、慣例はありませんから、躊躇したであろう事は不信仰ではなく、むしろ自然と言っても良いでしょう。

誰に割礼を行なうかは、はっきりと命じられていましたから問題はありませんが、何時にしようか、何処でしようか、については思案し、悩んだ事でしょう。

迷ったのではないでしょうか。

しかも、誰に相談できる事でもありません。

割礼は、注射のような一過性の痛みではなまた、打撲や切り傷のような、痛いけれども何とかなるような痛みでもなさそうです。

創世記3425節に、割礼の実際が記されていますので、詳しい経緯は省略し、必要な所だけを読んでみましょう。

34:25 三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。

 

この町は、単なる集落、小さな町ではありません。

20節に記されていますが「門がある町」であり、防備に配慮された町である事が覗われます。

当然、相当数の人々が住んでいた事が、防備の訓練を受けた人々が住む町であった事が推測されます。

町を守る大勢の男が住む町を、それなりの規模の町を、たった二人で「難なく」絶滅する事が出来たのは、割礼の傷の痛みを、完治までの期間の痛みの大きさを物語っているのではないでしょうか。

アブラハムたちは一家族の群れであり、流浪の旅の最中にあり、町囲みもなく、堅固な城に住んでいる訳でもなく、戦闘経験があるとは言え、軍隊ではありません。

無防備と言っても過言ではありません。

攻められたなら一たまりもありません。

そんな状況、環境の中で、一族の安全を確保しつつ、神様の命令に従うのは、並大抵の事ではありません。

「何時、何処で」は命じられていませんから、先延ばしにしたい誘惑はとてつもなく大きかったでしょう。

安全な場所を見つけてから。

地域の人々との友好関係を確認してから。

攻撃や襲撃に対する備えが出来てから。

或いは、23人づつ。

色々な案や、方法、策が浮かんで来た事でしょうが、アブラハムはその場で、即刻、全員に割礼を行なったのです。

それが、神様の命令に対する最善、最高、最適な応答だと判断したからです。

安全な場所って、あるのでしょうか。

友好関係って、固い約束なのでしょうか、守られるものなのでしょうか。

23人づつなんて、悠長な事やっていていいのでしょうか。

勿論、現代のように、複雑な社会では、全てが全て、その場で、即刻、全員が、とは行かないでしょうが神様に従うか否かは、基本はその場で、即刻、全員が、なのです。

神様の命令に従う時、必ず守りがあります。

不思議な導きがあります。

神様が直接か、神様が誰かを遣わしてか、かは判りませんが、神様を信頼して神様に従う者を、神様が守らない訳があるでしょうか。

神様を信じて神様の命令を行なう者を、神様が助けない訳が、見捨てる訳があるでしょうか。

人数の多寡も、状況も、関係ありません。

小人数なら守り、助け、導く訳ではなく、大人数でも、状況が悪くても、神様の守りに差はありません。

出エジプトの時の、60万人を超える男子に割礼を行なった時も、無防備であり、旅の途中であり、孤立無援の中であっても、神様の命令に従ったので、守られたのであり、攻撃を仕掛ける者は皆無だったのです。

17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。

17:25 その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。

24節は1節の繰り返しですが、新しい出発を、名実ともに神の民となった事を、契約が発効した事を現しているのであり、記念すべき、特筆すべき、強調すべき事なのです。

アブラハムの99歳と言う年齢は、人生の終盤とも言うべき年齢ですが、神様に従うに年齢は関係なく、遅過ぎる事もありません。

命令を受けた時が最適の時であり、命令に即刻従うのが、最善なのです。

年齢を重ねると、経験とか、知識とかが、豊富になり、人間関係に大きく影響を受け、左右され易くなり、決断が鈍り、決断の先送りをしてしまいますが、だからこそ、アブラハムの決断は、従順は、私たちに励ましを与えるものとなるのではないでしょうか。

さて、ここでイシュマエルが割礼を受けた事が、抜き出されて記され、イシュマエルの年齢が、アブラハムと並べられて記されていますが、決してイシュマエルの優位性を現しているのではなく、イシュマエルは約束の子、契約の子ではないが、アブラハムの受ける恵みに与り得る事を教えているのであり、また、祝福を受ける事と、契約を担う事とは別である事を教えているのです。

儀式、形式は一緒でも、含まれる内容が違い見掛けも、形も同じ割礼ではありますが、

アブラハムの契約を担い、引き継ぐのは、イサクであり、イシュマエルではないのです。

17:26 アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。

17:27 彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

2627節は、23節の繰り返しですが、その日の内に、全ての男子が割礼を受けた事を強調する記述でしょう。

アブラハムは家長として、初代族長として、重大な、そして後世の模範となる決断を迫られ、見事に、神様が喜ばれる、的確な、模範となる応答をしたのであり、この、たった6節の短い範囲に二回も記述されて、アブラハムの行為を記念し、記録しているのです。

【適応】

重要な決断であればある程、慎重の上に慎重をきし、時間を掛けて調査し、広く情報を収集し、俗に言う知識人、見識者の意見を求め、関係者と相談し、総合的な判断をするでしょうし、それがこの世の常識でしょう。

しかし、神様に従う事は、この世の常識ではありませんし、調査や情報で判断出来る事ではなく、人間の意見や知識、経験や事例で選択する類の事ではありません。

同じような事例であったとしても、他人の事例が私に適応できませんし、私の事例を他人に適応する事も出来ません。

例え一人でも、一人だけでも、誰も賛同しなくても神様に従わなくてはなりませんし、この世では沈思黙考は美徳であり、思い立ったが吉日的な生き方は、軽薄の謗りを受けかねませんが、神様の前では、沈思黙考は美徳ではなく、命ぜられて即、応じる事が美徳なのです。

しかも、徹底的に従うのであり、アブラハムが自らと、イシュマエルと、僕、奴隷、使用人など、全てに割礼を行なったように、徹底して行なう事が求められています。

勿論、アブラハムの時代と現代とは違いますから、全く同じような状況にはならないと思いますが、中途半端は神様が悲しまれましょう。

人生には、神様に従うか、この世に従うかを迫られる事が多くあり、社会が複雑になっている分、難しい決断を迫られる事になるでしょう。

その時、重要なのは、早い決断と、即時の実行です。

優柔不断は、結局、何も決められ無い事が、先延ばしは、結局、何時まで経っても手付かず、な事が多いのではないでしょうか。

信仰の道での決断は、蛮勇ではなく、猪突猛進でもなく、ましてや賭けでもなく、天地万物の創造者、天地万物の支配者、人間を造られ、人間を最善に導かれる神様を信頼しての決断であり、「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如し」の「風林火山」的な信仰が求められているのではないでしょうか。

武田信玄が掲げ、孫子が込めた意味をそのまま適応出来ませんが、神様に対する揺るぎ無い信仰は、悪戯に動ずる事なく、冷静な判断をし、素早い決断と、徹底した行動に現れるのです。

神様からの命令があった時、問題が起こった時、重大な決断を迫られた時、信仰を持って、判断し、決断し、即座に応答する者でありたいと願うものです。

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聖書箇所:創世記171522                 2015-8-9礼拝

説教題:「神様から与えられた名前、サラ」

【導入】

折々に神様はアブラハムに現れてくださり、星の数を凌駕する子孫を与える事、その子孫の名実の伴った繁栄と、子孫に広大な、肥沃なカナンの土地を与えるとの約束を何度も何度も繰り返し、宣言、確認してくださった事でした。

しかし、この約束はメイン・キャストのアブラハムに語りかけた約束であり、もう一人のキャスト「サライ」は、アブラハムの子孫を産むという非常に重要な役割にありながら、

子を産むために、エジプト人の女奴隷ハガルを夫アブラハムに与えると言う、この世的な策を弄する女、目論見通り、ハガルが子を宿すと、ハガルに原因があるとは言え、ハガルが逃げ出す程に辛く当ると言う、嫌な役回りを演じさせられてしまいました。

男性中心の社会構造であり、族長を中心とするユダヤ人の歴史の記録であり、女性の立場が低かった時代であり、女性はサブでしかなかった時代とは言え、ちょっと酷過ぎるのではないかと思います。

そんな、傍目には嫌な役回りを担わされてしまったサライですが、神様はサライを嫌っていたのでもなく、その他大勢の端役と見ていたのでもなく、神様の眼がアブラハムに注がれていたと同じように、サライにも注がれており、神様は、サライを通して、サライによって、アブラハムを祝福すると言うご計画を進められるのであり、サライでなければ駄目なのであり、サライの産む子でなければ駄目なのであり、サライを通して、サライによって、神様はご自身の栄光を現そうとご計画されたのです。

とは言え、男性中心の社会であり、族長を中心とした歴史の展開であり、サライへの神様の思いや祝福、与えられた役割の伝達は、アブラハムを通して伝えられます。

神様は、エジプト人の女奴隷ハガルには現れてくださり、祝福してくださったのですから、サライに現れてくださってもよさそうなものですが、ハガルの場合は緊急措置であり、例外的措置でしょう。

サライの主はアブラハムであり、必要な事はアブラハムに知らせ、その上で、アブラハムを通してサライに伝えれらるのが、秩序であり、神様のお考えなのです。

それは、アブラハムの権威を尊重するものであり、アブラハムとサライの関係を配慮、考慮した措置なのです。

【本論】

17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。

サライ」と「サラ」の違いは何でしょうか。

違いは「古語」と「現代語」程度の違いであり、サライ」の新しい言い方が「サラ」と考えられます。

サライ」も「サラ」も、その意味する所は「王女」です。

サラ」の語源は「サル」で、その意味する所は「つかさ、支配者」であり、転じて「王女」と訳される訳ですが、意味する所は同じでも、サライにとって大きな転機であり、

画期的な違いと言えるのではないでしょうか。

何故ならば、神様によって示され、与えられた名前であるからです。

アブラハムの命名の時のような解説はされていませんが、神様によって命名されたと言う事実は、意味を凌駕するのではないでしょうか。

名前の持つ意味の重要性は認めなければならないところですが、古い時代の、古い考え方の、黴が生えたような名前ではなく、新しい時代に、新しい使命に生きる、生き生きとした名前が与えられたのです。

立派な名前を付けてもらっても、名前に反する人間に育ってしまったならば、意味はありません。

鳴かず飛ばずでは、毒にも薬にもならないのでは、名前が泣きましょう。

しかし、ありふれた名前でも、神様と共に歩むなら、神様の栄光を現すなら、神様に覚えられるのであり、天の命の書に名前が記されるのであり、それ以上に素晴らしい事はないのではないでしょうか。

新しい名前には、神様の祝福が込められています。

17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

アブラハムへの祝福とは全く別に、ハガルへの祝福とも全く別に、サラは神様から個人的に、直接の祝福をいただきます。

古から、神様からの使命と祝福は家長に与えられ、家長を通して家人に注がれます。

使命と祝福は神様から家長へ、家長から家人へ、が基本であり、神様の秩序です。

神様から祝福を受けるために、祝福を受け続けるために、家長は神様に従って歩み続けなければなりませんし、家人に割礼を施し、家人を教育しなければなりません。

かように家長の責任は重大なのですが、常に家長だけがその重責を担う訳ではありません。

使命と祝福は先ず家長に、その後に、必要に応じて、使命と祝福が個々人に与えられる事もあるのであり、皆が皆、同じではないのです。

民族としての使命と祝福がありながら、部族としての使命と祝福があるのであり、

更に、一族としての使命と祝福があるのであり、尚且つ、一個人としての使命と祝福があるのです。

アブラハムには民族としての使命と祝福が与えられ、サラには一個人として使命と祝福が与えられたのです。

勿論、サラの使命と祝福は、アブラハムに与えられた使命と祝福と離れて、無関係にあるものはなく、密接に関係し、相互に関係し、影響し合い、補い合い、1+1が2ではなく、3050100倍になるのです。

アブラハムはサラと共に、神様の使命と祝福に関わって行くのであり、アブラハムには既にハガルによってイシュマエルが与えられていますが、アブラハムに委ねられた使命を担って行くのはイシュマエルではなく、アブラハムに与えられた祝福を引き継いで行くのもイシュマエルではなく、サラの産む子が、約束の子であり、使命を担い、祝福を引き継いで行く者である事が宣言、確認されます。

しかし、当時の文化、常識、経験にどっぷり浸かっているアブラハムには、神様の言葉が心には染み込まず、理解される事もなく、表面的な、この世的な理解に留まります。

神様が何と仰られようと、サラが子を産むのは不可能だ、です。

17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

笑った」と訳されているヘブル語は「戯れる、からかう」の意味を持つ言葉です。

創世記219節では、

そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。」と訳しています。

実際にちょっかいを出したり、意地悪をしている、と言う場面の描写であるよりは、まだまだ上手に出来ないイサクを小馬鹿にし、失敗しているイサクを笑いものにしている姿を記しているのでしょう。

アブラハムの反応は、もう、イシュマエルがいるではないか、イシュマエルがいるのに、同じ言葉を繰り返す神様に辟易(へきえき)とし、神様にからかわれている、と思っての反応だったのかも知れません。

或いは、神様の仰られる言葉に同意出来ない故の、苦笑いだったのかも、余りにも現実離れした言葉故の、意外さ故の、驚きの発露だったのかも知れません。

それらが渾然となった感情が、17節後半

「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」なのではないでしょうか。

神様は神様だけれど、この世の事は何も知らないんですね。

90歳で子どもを産むなんて、ないない。

アブラハムの心の奥底の呟きであり、神様の言葉を意に介さないで、鼻で笑ったのであり、篤く、熱心に、繰り返し語りかけられる神様を、軽くあしらい、苦笑い、驚きの笑いで応じたのです。

17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

神様が何と仰られようが、私たちに、サラに子は産めない。

何と言っても、イシュマエルは正当な手続きで得た我が子だ、正式な後継ぎだ、とアブラハムは確信していたのであり、神様の約束の子はイシュマエルに違いないし、イシュマエルで十分ではないか、との考えがアブラハムの根底にあり、イシュマエルの祝福こそ、アブラハムの願いであり、サラの願いであり、ハガルの願いであり、神様の願いであるはずだ、なのです。

この考えは、誰もが陥り易い考え方です。

この世的な部分がある事は認めるけれども、十分祈った結果出した答えであって、信仰的だし、教会にとっても有益だし、実現は十分可能であり、聖書に照らしても、教団や教会の規則に対しても問題はない。

神様のお考えも一緒だろう、神様も同意されるに違いない、神様が反対される訳がない。

非常に人間的、独善的であり、自己中心の極みです。

しかし、神様のお考えは違いますし、神様に不可能はありません。

聖書で判断し、祈りに導かれているかも知れませんが、適応する聖書の個所が間違っているかも知れませんし、自説に都合の良い聖書個所を探し出した、我田引水、かも知れません。

この世では、黙っていると「同意」「イエス」と取られるかも知れませんが、神様からの答えがないのは「イエス」ではなく「ノー」かも知れません。

アブラハムの、この世の経験や対処法から導き出した確信に対して、まるで神様を諭すような、神様に生命の道理を教えるような発言に対して、

17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

この世の常識では安全な出産年齢を大幅に越し、母子共にリスクが高まる年齢も大幅に過ぎ、生理も止まり、90歳を過ぎて誰もが絶対に妊娠不可能と断定する年齢になっていても、神様が願われれば、神様のご計画ならば、不可能はないのであり、しかも、奇蹟的に石から産まれるのではなく、コウノトリが運んで来るのでもなく、10ヶ月程の月日をかけて、サラの母体内で、骨を組み上げ、筋を編み、筋肉を付け、眼、耳、口、鼻を造り、臓器を造り、サラに産みの苦しみと共に、出産の喜びを与えると約束、宣言されるのです。

イサク」、当時の社会では、ありがちな名前であり、特別な名前ではありませんが、

神様が付けよと命じられた名前であり、イサク」の意味は「彼は笑う」ですが、「イサク」は「yshq」であり、「笑う」は「shq」であり、語路合せ、17節でアブラハムが笑った事に対する、神様の答えであり、苦笑いをも、心の底からの感謝と喜びに変えて下さるのが、神様なのです。

更には、アブラハムが笑い、イサク自身が笑う、との意味と共に、「神よ、彼に微笑んでください」の意味で理解する事が可能であり、神様ご自身が、微笑みかける事を約束する意を込めた命名であり、神様の祝福と守りが込められた名前でもあるのです。

17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。

イシュマエルのついての祝福は、創世記1610節以降でハガルへ与えた祝福、約束の再確認ですが、ハガルに与えた祝福の言葉より、具体的です。

十二人の族長たち」の詳細に付いては創世記2512節以降に記されていますので、ご確認願いただけたらと思いますが、現在のアラブ人は、中東、パレスチナの地に定着し、繁栄していますが、イシュマエルの末裔であると自負しているそうです。

研究資料によれば、アブラハムは紀元前2165年の誕生と考えられるそうですから、神様の約束は4000年以上経過しても変わらず、祝福は注がれ続けているのであり、神様のお約束の確かさ、変わりなさを垣間見、神様の誠実さに驚嘆するばかりです。

17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

単なる祝福と、契約を担う事での祝福は別の事であり、アブラハムとの関係性の中で、神様はイシュマエルを祝福しますが、アブラハムとの契約は、約束の子イサクに引き継がれ、イサクは契約を担い、契約に伴ってイサクは神様から祝福を受けるのです。

聖書を読むと、例えばロトはアブラハムに注がれる祝福の余禄に与り、ラバンはヤコブに注がれる祝福の余禄に与り、ポティフェラは、ヨセフに注がれる祝福の余禄に与り、エジプト国はヨセフに注がれる祝福故に、国が守られます。

神様の祝福は、直接に祝福を宣言されなくても、関わる人々を祝福し、滞在する地域、国を祝福します。

アブラハムに注がれた祝福は、家族、子孫は勿論の事、民族を越えて祝福し、国を越えて祝福し、時代を越えて祝福しますが、祝福を受ける器が必要であり、器は誰でも良い訳ではなく、誰もが器になれる訳でもなく、神様の選びと、選びに対する応答が必要なのです。

この神様とアブラハムとの約束、契約は「イサク」を通してであり、イサクの子孫を通して、全ての民族は、全ての地域は、全ての時代は祝福を受けられるのです。

17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。

【適応】

神様からの使命と祝福は、アブラハムからイサクに引き継がれ、イサクからヤコブに引き継がれと、個人に継承されて行きますが、個人は集団を代表しており、集団、群れを通して使命を担い、祝福を引き継いで行きます。

しかし、単に集団、群れに属している事で使命を担い、祝福を引き継ぐのではなく、個々人と神様との関係によって、応答するか否かによって、使命を担うか否かが、祝福を受けるか否かが決まります。

たまたまアブラハムの集団に属していて、が理由でアブラハムの受ける祝福のお零れをいただくのと、神様から使命を与えられ、合わせて神様からの祝福を受けるのとでは、大違いです。

サライは、アブラハムの妻として、アブラハムの祝福のお零れをいただいていました。

それで十分、が当時の社会でしたが、何故ならば、女性の社会的地位が非常に低かった時代、女性の働き、存在が顧みられなかった時代、子どもを産むことでしか価値を見出されなかった時代であり、男尊女卑の社会であったからです。

しかし、サライに神様の眼が注がれ、神様から名前を与えられて、サラとなり、祝福を受けた事は画期的な事であり、神様からのお取り扱いを受けて、90歳を越えてイサクを産み、神様の使命と祝福を引き継ぐ者として育てると言う特別な働きに仕えたのです。

男女の差別なく、優劣の差別もなく、個々人と神様との関係こそ重要だ、必要な能力は与えられる、と言う事を教えるエピソードでもありましょう。

アブラハムの時代からずっと、集団に帰属する事が重要視されていました。

集団から外される事を極端に恐れ、集団に罪をもたらす事に注意を払い警戒していました。

イエス様が殺されるに至った要因の一つは、個々人の活き活きとした神様との関係、生きておられる神様との、生きた応答を奨励したからであり、神様抜きの、集団に帰属する事に重点を置いた死んだ生き方を否定したためです。

人間は見える組織に帰属する事で安心を覚え易い生き物ですが、アブラハムの信仰は、神様への個人的な応答であり、アブラハムを頂点とする集団は、割礼という個人的な応答をした者の集まりなのであり、集団ありき、ではないのです。

サラも、集団に属してはいましたが、その中で、個人的な召命があったのであり、アブラハムと協力して、神様のご計画を推進させる事になるのです。

集団に帰属するのではなく、神様に帰属し、神様から集団、教会に遣わされ、集団、教会と協力して、使命に当り、祝福を受けるのです。

神様は秩序を尊ばれ、教会を通して、一致をはかり、ご計画を進められます。

女性が軽んじられたのは過去の話しではありません。

現代でも、女性は軽んじられ、能力がない者、小さな者、社会的弱者、何の働きも期待出来ない者は顧みられる事がありませんが、神様は軽んじられるような者をも選んで、新しい名を与えてくださり、相応しい使命を与えてくださり、働きを始める前に大きな祝福を与えてくださるのです。

サラは不妊の女であったのに、子を宿す力を与えられました。

必要な力や賜物は、神様が使命と共に与えてくださいます。

常に、神様に帰属する者である事を忘れず、遣わされた教会で、遣わされた家庭で、遣わされた会社で、遣わされた地域で、使命に生き、祝福を受けたいものです。

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聖書箇所:創世記17914                 2015-8-2礼拝

説教題:「契約のしるし、割礼」

【導入】

神様が始めてアブラムに現れたのは、カルデヤのウルであったか、ハランであったか、

また、アブラムが何歳の時であったのかは、正確には分りません。

聖書の記述を根拠に確定的に言える事は、ハランで神様がアブラムに現れたのが、アブラム75歳の時であり、エジプト人の女奴隷ハガルによってイシュマエルが生まれたのが、アブラム86歳の時でした。

アブラムが99歳になった時、アブラムは神様によってアブラハムと改名されましたが、折々に神様はアブラハムに現れてくださり、子孫の繁栄と、カナンの土地を与えるとの約束を何度も何度も確認してくださった事でした。

しかも、この約束が神様とアブラハムだけの密約ではなく、神様がアブラハムを祝福して下さっている事実が、周囲の国々、周辺の住民にも知れ渡っている事を、シャレムの王メルキゼデクを遣わして明らかにしてくださいました。

これは大切な事です。

神様との関係は一対一の関係であり、第三者の入り込む余地はありませんが、秘密にしておく関係ではなく、周囲に知られている事、知らせる事が大切です。

何故、神様はアブラハムを特別に祝福するのだろう、と考えさせ、神様に従う歩みから来る喜び、平安、希望を世に知らせなければなりません。

神様からの、言葉だけの約束に留まらず、第三者からの、言葉だけの祝福に留まらず、

約束の確かな事を、祝福が代々続く事を、日常的な夜景、夜空に瞬く無数の星を見せて、アブラハムの子孫はこの星のように夥しく増えると保証してくださり、カナンの地を見せて、この広大な土地をアブラハムの子孫に与えると約束してくださり、その保証として、日常的に行なわれていた契約の手続きである裂かれた動物を、幻によって見せ、同じく幻によって、煙の立つ竈と、燃える松明を見せて、神様ご自身が契約の当事者である事を暗示させ、約束の確かな事を保証してくださいました。

アブラムは、神様によってアブラハムと呼ばれるようになりましたが、約束が確かな事を、祝福が絶えない事を、改名に込めて示してくださったのです。

名前は個人に付いて廻りますから、何処に行っても、何時でも、神様の祝福を忘れる事は無いのですが、神様は更に、約束の確かな事を、祝福の絶えない事を身体に刻み付ける事を命じます。

【本論】

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

神様は、煙立つ竈、燃える松明となって現れてくださり、裂かれた動物の間を通ってくださり、契約を成立させられました。

そして、174節で、アブラハムの子孫を夥しく増やし、単に数だけの問題ではなく、支配者を輩出する国となり、王国が連綿と続く事を約束してくださいましたが、その神様の約束、契約に対する、アブラハムの応答は別の言い方をするなら、神様の約束、契約にアブラハムが、アブラハムの子孫が与る条件は、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」でした。

前回、学んだとおりです。

神様が立てられた約束、契約であり、全てにおいて神様が主体、主役ですが、主体、主役だけでは話しは進みません。

従者、脇役が必要であり、重要な役割が、アブラハムに与えられたのであり、その役割は「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」です。

何故、この役割が与えられたか、ですが、あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と言う生き方を通して、神様の栄光を現すのが人間に与えられた働きであり、人間の存在理由です。

神様が人間を造られた目的は、被造物の支配、被造物のお世話をするためであり、神様が造られた目的に従って、被造物が増え広がり、機能を発揮し、相互にとって素晴らしい世界となるための手助けをするのです。

神様の存在を知らない人々に、神様の存在を知らしめ、神様に従う歩みから来る喜び、平安、希望を知らせるのです。

しかし、罪の世にあって、罪の汚れに染まった世界は、被造物の全てが、皆が皆、自分中心であり、自分の好き勝手にし放題であり、被造物は混迷の中にありますが、神様は黙って見ている訳では、放って置かれる訳ではありません。

極、少数かも知れませんが、神様に従って被造物のお世話をする人々を立てられるのであり、アブラハムは神様に選ばれ、被造物を神様の願う方向に導いて行く使命が与えられたのです。

しかし、神様の前を歩み続ける事は、簡単な事ではありません。

常に、神様の喜ばれる道を選び、神様を愛する生き方は、損する事が多く、報われず、

理解されず、罵られる事も少なくありません。

しかし、損しても、報われなくても、理解されなくても、罵られても、あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」でなければならないのです。

簡単な命題ではありません。

常に心に思い浮かべ、忘れないように注意しても、別の事で心が一杯になってしまうのが、忘れてしまうのが、人間です。

そこで、忘れないように、直ぐに思い出せるように、身体に印を刻み付ける事を、神様は命じられます。

17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

割礼」は11節に記されている通り、男性器を覆っている皮膚を切り取る事ですが、ここで始めて「割礼」と言う行為が始まった訳ではありません。

パレスチナ、エジプト等では古から、少なくとも紀元前23世紀以前から割礼の習慣が存在していた事を、エジプトの墓のレリーフ等から知る事が出来ます。

また、エレミヤ書925節以降の記述から、エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、等、荒野の住民でこめかみを刈り上げている者たちが、割礼の習慣を持っていた事を知る事が出来ます。

しかし、古から行なわれていた「割礼」は、神様が制定された「割礼」とは持つ意味が違います。

古の「割礼」は「大人の仲間入りのための儀式」であったり、「結婚前の儀式」であったり、「共同体に加入するための儀式」でありました。

しかし、神様がアブラハムに命じた「割礼」は、形は、手続きは、見掛けは類似していますが、独特の意味を与えられており、「神様との契約の印」であり、「神の民となる印」であり、「神様への従順」と、「神様への愛と献身」を意味し、「神の民に連なり、神に連なる」事を表明する印なのです。

神様は既存の物や事象、方法や名前に新しい意味を与えられました。

虹然り、星然り、名前然りです。

割礼」というパレスチナ、エジプトで行なわれていた儀式を採用し、新しい意味を与えたのです。

霊的、内的な契約を、肉に、外に現すのであり、神様と契約関係にある、神様への従順を誓った、神に連なっている、と言っても、内面的な事であり、或いは「口約束」であり、

時が経てば、記憶は曖昧になり、本当にそんな約束をしたのだろうか、契約を交わしたのだろうかとなってしまいましょうが、割礼」と言う印によって、神様との契約関係にある事を確認し、神の民に連なり、神に連なっている事を、確認するのです。

17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。

17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。

「割礼」に付いての、細則が記されます。

パレスチナ、エジプトで行なわれていた割礼は、「大人の仲間入りのための儀式」であったり、「結婚前の儀式」であったり、「共同体に加入するための儀式」でしたから、成人になってから受けましたが、「神の民」と言う共同体への加入は、生まれて直ぐに、が原則です。

ユダヤ人の家系に生まれたならば、組み入れられるのは当然ですが、ユダヤ人ではない外国人、ユダヤ人に買い取られた奴隷、使用人も、その子も、割礼を受け、神の民に組み入れるよう命じているのです。

人権尊重、個人主義の発展、定着した現代から見ると、人権を無視している、無謀と思える命令ですが、見方を変えると違ってきましょう。

神の民に組み入れられると言う事は、神様の祝福を受けられると言う事であり、神様に守られ、神様に導かれ、正しい道を歩めると言う事であり、子孫が連綿と与えられ、土地を代々支配する、即ち、土地の管理、動植物のお世話をする、と言う事であり、人間が造られた本来の目的に戻る、使命を達成する事なのです。

その大切な使命に、生まれて直ぐに召されるのです。

能力のある者が召されるのではなく、努力家が召されるのでもありません。

能力がなくても召されるのであり、諦め易い者も召されるのです。

ユダヤ人だけが召されるのでもなく、自由人だけが召されるのでもなく、外国人でも、奴隷でも、神様に仕える事が出来るのであり、民族主義、純潔主義、身分制度を破棄する、革新的な教えであり、命令なのです。

誰でもが受け入れられ、組み入れられる、曖昧な制度ではありません。

とかく、血統を大事にし過ぎる民族主義、純潔主義に対する、神様の祝福、恵みの普遍的性格が示されている命令なのです。

しかし、その分、親と支配者の責任、そして集合体、組織、群れの責任は重大です。

年端も行かぬ幼子に、反抗的な奴隷であっても、刹那的な異邦人であっても、神の民としての教育を施さねばならず、教えた通りの手本を示さなければなりません。

一部の人が教育に当り責任を負うのではなく、集合体、組織、群れが連帯で教育に当り責任を負います。

時には、集合体、組織、群れとして庇い合い、助け合い、責任を負い合いますが、逆に、集合体、組織、群れとして祝福を受け、恵みを分かち合い、栄光を受けるのです。

神様の祝福を受ける条件が、血筋によらない事、国籍によらない事、自由人奴隷などの身分の区別によらない事、等などが、ここに宣言されたのであり、福音の原型が示されたのです。

17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

血筋によらない事、国籍によらない事、自由人奴隷などの身分の区別によらない事、等などが、ここに宣言されましたが、それは、例えアブラハムの直系の子孫でも、大切な独り子でも、どんなに願っても、宝を積もうが、功績を積もうが、割礼を受けていなければ、神の民には決して組み入れられないのであり、祝福には与れないのです。

律法を守っていれば、生け贄を規定に従って献げていれば、神の民に組み入れられるのではありません。

断ち切られなければならない」は、直接には「死」を意味しますが、神の民から断ち切られると言う事は、祝福を受けられない事であり、罪の赦しの手段がなく、贖われる事がなく、赦しがなく、希望がなく、永遠の亡び、死が待っていると言う事であり、死の宣告と同様な厳しい宣告なのです。

この世では栄華を極め、長寿を得ても、何の意味もない事なのです。

【適応】

「割礼」と言う印、儀式は、神の民になる儀式であり、現代においては「洗礼」と言う儀式に該当し、神の民、クリスチャンになる儀式です。

救いは「心で信じて、口で告白」する事で完成し、天に国籍が与えられますが、洗礼はその印と言えるでしょう。

イエス様を信じたけれども、信じた事に疑いはないけれども、色々な事情で、洗礼を受ける事に躊躇する事があり、反対される事があり、洗礼を受けない事があります。

信じる事が大切で、信じているのだから、洗礼を受けても、受けなくても、大差ないとお思いでしょうが、明確にイエス様を救い主、罪の贖い主、と確信し、告白し、どんな事が合っても信仰を持ち続けられると確信していても、時が経つと、喜びが薄れ、決心も薄れ、色々と問題が起こり、信仰の確信が揺らぐ事は、決して珍しい事ではなく、誰もが必ず経験、体験する試練であり、不信仰の現れではありませんが、洗礼を受けていないと、棄教に至る事が、信仰を棄ててしまう事が多いのです。

また、キリスト教の事は良く分らないから、もう少し経ってから、良く考えてから、とお考えの方もいらっしゃいましょうが、洗礼はゴールではなく、神の民に加わる事であり、神の民としてスタートする事です。

日本は八百万の神々を信仰する国であり、生活や習俗に仏教的要素、神道的要素、民間宗教的要素が深く、広く浸透していますから、クリスチャンとして生きるために、多少の予備知識、基本的な事の確認は必要ですが、洗礼を受けて、スタートしてからが大切であり、神の民として実践的学びを死ぬまで続けるのです。

異教的要素が溢れる日本でクリスチャンとして生きる時、問題が起こり、

また、人生において、信仰において、試練や挫折は誰にでも与えられますが、試練に対して立ち向かい、挫折に対して立ち上がり、乗り越える力を継続的、且つ、強力に与えるのが「洗礼」を受けたと言う体験なのです。

洗礼が棄教の歯止めになるのです。

自分は洗礼を受けている、と言う体験が、励ましとなり、慰めとなり、力となり、様々な障害、試練を乗り越えさせるのです。

勿論、洗礼は手続きであり、洗礼自体で摩訶不思議な力を得られる訳ではありません。

洗礼は、身体を水に沈めらるだけの事であり、割礼は、身体の極一部を切り取るだけの事でありますが、洗礼の体験が、割礼の体験が「神の民に組み入れられた確信となる」のであり、神様との繋がり、関係を自他共に確認し、内面の確信を、外的に現し、信仰の道を進み、誘惑と戦って行くのです。

ここに居られる方々は、皆、洗礼を受けられていますが、家族や、友人、知人が洗礼を受けるか否かで悩んでいる時、或いは子どもの洗礼を考える時、アドバイスとして、洗礼を受ける事を勧めてください。

洗礼を受ける「益」は、先に説明したように山ほどありますし、非常に大切、重要です。

心で信じるだけの「隠れキリシタン」的生き方は、何時しかこの世に戻り、この世に埋没してしまうでしょうし、何より、隠れる事は、神様が悲しまれ、嫌われることです。

心で信じるだけでなく、洗礼を受け、クリスチャンとなった事を公に表明して生きる事こそ、神様の栄光を現す事であり、神様に喜ばれる事なのです。   

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