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聖書個所:創世記4150節~57節               2018-1-28礼拝

説教題:異国での労苦と実り

【導入】

ヨセフは三十歳で、それまでの奴隷、囚人とは180度違う、エジプト王国最高の権力を持つ大臣と云う、最高の身分を与えられる事になりました。

思い返せば、ヨセフの人生は、幸せと不幸の両極端を行き来するような、波瀾万丈な人生でした。

ヨセフは、十七歳までは、父ヤコブの庇護の許で、大事に、特別待遇を受けて育てられましたが、ヤコブの、ヨセフへの寵愛、溺愛は、兄たちの妬みを買います。

ヨセフの言動や、夢の話は、兄たちの憎しみを煽り、殺される計画が立てられるまでに、険悪になってしまいました。

しかし、兄たちの手で殺される寸前に、ユダの提案があり、ヨセフは、殺されずに済みますが、奴隷として売られる事になってしまったのです。

今までの何不自由ない生活とは180度違う生活になってしまいました。

それでも、ヨセフの陰日向のない、誠実な生き方と、神様の守り、助けは、誰の目にも明らかであり、人々から信頼を受け、置かれた場所での、最高の地位と権限が与えられる事になります。

ヨセフは奴隷としては恵まれた環境で、生活する事になりますが、濡れ衣を着せられ、投獄の憂き目に会い、囚人とされ、奴隷よりも更に不自由な生活、拘束状態に置かれる事となってしまいます。

それでも、神様が守り、助けてくださったので、牢獄でも、一番信頼され、地位と権限が与えられ、囚人としては優遇された生活を送る事になります。

ヨセフの陰日向のない、誠実な生き方と、神様の守り、助けは、牢獄でも明らかであり、投獄されたエジプト王国の官僚を世話する事となります。

そして、今日につながるのですが、奴隷としての数年と、囚人としての数年の合計は十三年に及びます。

この十三年は、家族を離れての悲しみの生活であり、労苦と不自由な生活であり、何不自由ない生活から、どん底に落とされ、ちょっと待遇が良くなったかと思うと、更に酷い待遇に落とされると云う、肉体的にも、精神的にも、過酷な環境で生活する訳ですが、ヨセフを大きく、強く成長させたのであり、必要不可欠な、訓練の期間だったのです。

どん底を味わったヨセフですが、神様を知っており、神様の守りと助けを確信して、神様から離れず、誠実に生きて来たので、曲がらずに成長し、神様の期待通りに成長し、神様から、大きな働き、ヤコブ一族を守り、エジプトや中近東を飢饉から救うという、大事業を委ねられる事になります。

【本論】

41:50 ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。

ヨセフは、エジプト王国を飢饉から救うために、エジプト王国の宰相(さいしょう)とされ、エジプト王パロの命令と、後ろ立てを得て、働いて来ました。

神様から頂いた知恵と祝福があり、ヨセフの働きは、間違いのない、欠けのない、完璧な働きであり、飢饉到来の前に、穀物の充分な備蓄がなされたのです。

これは、簡単なようで、決して簡単な事ではありません。

強大な組織には、必ずと言って良いほど、汚職の芽や、怠惰の温床があり、備蓄穀物の横流しがあり、適当な仕事しかしない連中が蠢いているものなのです。

しかし、エジプト王パロから、全権を委任されたヨセフは、七年の大飢饉という国難を乗り切るべく、自らが出向いて指示を与え、報告をさせたのであり、汚職や怠惰が入り込む隙を与えなかったのです。

仕事や事業というものは、慣例や、なあなあで進められる時期もありますが、組織の形態をとり始めたならば、しっかりとした組織が立てられ、責任の所在と責任者が明確になされたならば、組織として動き、責任者を通して依頼し、また請負わねばなりません。

直接依頼すれば早くても、簡単でも、今まではそうして来たとしても、責任者が決められたならば、責任者を通さなければならないのです。

エジプト王パロが立てたヨセフと云う責任者を通して、備蓄計画は進められて行き、ヨセフが各地に立てた責任者を通して、備蓄事業は進められて行くのです。

組織を無視した動きや、責任者無視の、頭越しの動きは、極力避けなければなりません。

組織として動き、責任者を通して動く時、計画と事業は神様に祝福され、真っ直ぐ、正しい方向に進む事でしょう。

一方、ヨセフは、個人としても、神様から祝福を受け、二人の子どもが与えられました。

聖書は、アセナテについて、何も語らず、何も記していませんが、ヨセフとアセナテは、仲睦まじい夫婦だったのではないでしょうか。

しかし、これは、当たり前の事ではありません。

ヨセフはユダヤ人であり、アセナテはエジプト人であり、異邦人との、異教徒との、押し付けられた結婚ですが、ヨセフは、この結婚が、神様の導きによると確信し、エジプト人との結婚を厭わず、ユダヤ人の妻を得ようとは画策しなかったのです。

二人以上の妻を持つ事が、珍しくなかった時代にあって、ヨセフは一夫一婦を貫いたのであり、そんなヨセフを神様は祝福し、子どもが二人与えられたのです。

41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。

マナセ」は「忘れる」の意味の「ナーシャー」よりの派生です。

ヨセフは「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」と独白していますが、父の家そのものや、兄たちとの確執を「忘れた」訳ではありません。

逆に、過去の忌まわしい、兄たちとの確執が今なお、消えてはいない事を暗に示しており、兄たちへの憎しみや怒りがない交ぜになった、複雑な感情が、過去のものとなったのではなく、自然に忘れられるものでもなく、自然に薄らぐようなものでもなく、だからこそ、あえて「忘れる」との名前を付けたのであり、忘れようとする意志の現われ、決意の表明なのではないでしょうか。

過去に固執するのではなく、過去に囚われるのでもなく、現在を見て、現実を見て、神様の祝福を見て、感謝し、喜ぶべきなのであり、また、神様の干渉によって、今日の祝福に結び付いている事を認め、告白しているのではないでしょうか

そんな、ヨセフの決意と感謝を決定づけさせるのが、次男の誕生と、命名です。

41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

エフライム」は「実る」の意味の「パーラー」よりの派生です。

ヨセフは、飢饉を知らされた者として、対策の責任を与えられた者として、精一杯の事を行って来ましたが、地からの収穫は、予想を遥かに超えた莫大、膨大な量であり、驚くばかりの恵みと、感じたのではないでしょうか。

大豊作は、人の知恵で得られるものではありません。

神様の祝福があってこそ、豊かな実りを得たのであり、この神様の祝福を記憶するための命名なのです。

更には、地からの収穫は、預言の成就であり、ヨセフが神様から遣わされた預言者である事の証拠ですから、喜ばずには居られなかったのであり、子の命名に結び付いたのでしょう。

更には、苦しみは、実りの前提であり、苦しみや悲しみが、苦しみや悲しみのままには終らない事を自覚し、告白し、子の命名となったのです。

マナセ」と「エフライム」との名前は、ユダヤ人の名前であり、エジプト人の名前ではありません。

ヨセフは、エジプトに住み、エジプト人の文化と習慣の中で生き、エジプト人の妻と義父を持ち、エジプト人との混血の子を儲けますが、ユダヤ人としての自覚を忘れてはおらず、子にも、ユダヤ人の自覚を忘れないように、ユダヤ人の自覚を引き継ぐようにとの、希望と願いを込めて命名したのです。

ヨセフは、神様への信仰と信頼を失わなかったのであり、ヨセフの神様への信仰が変わらなかった事が現れた命名なのです。

子の名前は、時代の影響、文化の影響を受けますが、親の考えや、願いが込められるのであり、信仰が伝わるような命名を、子どもが親の信仰を受け継ぐような命名をしたいものです。

41:53 エジプトの地にあった豊作の七年が終わると、

41:54 ヨセフの言ったとおり、七年のききんが来始めた。そのききんはすべての国に臨んだが、エジプト全土には食物があった。

エジプト人のみならず、中近東の人々は、この豊作が、まだまだ続くと思ったのではないでしょうか。

七年も豊作が続けば、豊作が当たり前になり、凶作の事など考えもしなくなるでしょう。

しかし、凶作は必ずやって来るのであり、飢饉は必ず訪れるのです。

勿論、大凶作、大飢饉と呼ばれるようなものは、頻繁にはやって来ないでしょうが、豊作、凶作は、繰り返すのであり、豊作が、何時までも続く事はないのです。

勿論、凶作もずうっと続く事ではありませんが、耕す人がいなければ、農地は荒れ、収穫量は激減し、必然的に凶作となり、飢饉が続く事となってしまうでしょう。

ですから、凶作の時期でも、農地の手入れを怠ってはならず、農地が荒れ果ててしまい、手の施しようがなくなる事のないように、充分な管理をしなければならないのです。

ヨセフの指示で、豊作の時期にも、凶作への備えを怠らず、充分な管理を施したがために、エジプト全土には、文字通り、有り余る穀物が蓄えられ、飢饉に備える事が出来ました。

41:55 やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

エジプト全土の、収穫の100%が備蓄された訳ではありません。

判断の材料となる資料がなく、断定出来ませんが、農地の収穫の五分の四が、農地の持ち主の取り分であり、残りの五分の一が税として徴収され、王家の農地の収穫が、エジプト王国のものとして備蓄されたのではないか、と考えられています。

王家の農地が如何ほど有ったのかは不明ですが、相当の面積の農地が、良質な農地が、王家の所有であった事は、そして、大半の穀物が王家の所有であり、ヨセフの管理下にあった事は、想像に難くないでしょう。

だからこそ、55節の命令となるのであり、56節、57節の記述につながるのです。

土地の持ち主にも、飢饉の到来は告知されていたでしょうから、私有、王家所有合わせて、莫大な量の穀物が、エジプト全土に備蓄されていたのです。

ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ」との言葉は、教示的です。

エジプト王パロは、一貫してヨセフに委任したのであり、その姿勢を貫いたのです。

エジプト王パロは、全責任をヨセフに委ねたのであり、口出しや、自分の考えの一切をしなかったのです。

時に、大変な実務や、悪い結果報告は他人に任せておいて、良い報告は自分がする、と云う、美味しいとこ取りする輩が、結果が見えて来ると、しゃしゃり出て来る輩がいますが、慎みたい行動です。

そして、「彼の言うとおりにせよ」とのパロの言葉は、示唆に富んだ言葉なのではないでしょうか。

従う事の大切さ、従う事の結果としての祝福を教えているからです。

王様には従うけれど、ヨセフには従わない、であってはならないのです。

パロがヨセフを大臣に任命したのですから、ヨセフには従わなくてはなりません。

余所者であっても、ユダヤ人であっても、元囚人であっても、元奴隷であってもです。

パロが立てられた人物だから、パロの名において従うのです。

ヨセフも、人間ですから、完璧ではありません。

指示ミスや、指示忘れもあった事でしょう。

計画の変更や、予定の変更もあった事でしょう。

意にそぐわない命令もあった事でしょうが、それでも従わなくてはならないのです。

パロが立てた、と云う理由だけで、です。

そして、神様が立てられ、遣わされたイエス様なのですから、祭司長、律法学者、パリサイ人、長老は、イエス様に従わなくてはならないのであり、神様が立てられ、遣わされた教団、宣教区、教会の指導者には、従うのが最善なのです。

従う事は訓練であり、従う事が祝福をもたらすのです。

但し、無条件の服従や、誰にでもの隷従を勧めているのではありません。

ヨセフが、私に従いなさい、と言ったから従うのではありません。

パロの命令だから、従うのであり、ここを間違えてはなりません。

パロの命令、神様の命令があって、パロの命令、神様の命令に従い、ヨセフに従うのであり、教団、宣教区、教会の指導者に従うのであり、祝福を受ける事につながるのです。

41:56 ききんは全世界に及んだ。ききんがエジプトの国でひどくなったとき、ヨセフはすべての穀物倉をあけて、エジプトに売った。

41:57 また、ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。

飢饉は、世界的な規模になった訳ですが、エジプトは、ナイル川と云う豊富な水によって潤っており、パレスチナは、地中海からの降雨によって潤っており、両地方が飢饉に見舞われる事は、また同時に飢饉に見舞われる事は、非常に希な事でした。

聖書には、アブラハムの時代に飢饉があり、エジプトに避難した事が、創世記12章に記されており、イサクの時代にも飢饉があり、エジプトに難を避けようとしていた事が、創世記26章に記されています。

しかし、今回の飢饉は世界的な規模であり、エジプトもパレスチナも飢饉に見舞われ、世界中が飢え、穀物を必要としていたのです。

そして、エジプト中の人々も、世界中の人々も、ヨセフの指示で蓄えた穀物によって養われ、ヨセフの指示に従う事で、飢饉によって滅びる事を免れました。

神様によって立てられた者によって、世界は守られ、神様が立てられた者に従う事で、祝福を分かち与えられ得るのです。

【適応】

ヨセフは、自分の意思で、異国に、異教徒の国に、やって来たのではありません。

ヨセフは、兄たちの企みで、奴隷として売り飛ばされてしまい、異国に、異教徒の国にやって来たのであり、労苦の連続であり、ちょっと状況、待遇が良くなると、今まで以下の境遇に落とされる、の繰り返しであり、失意と絶望の連続の中で、望郷の念が薄らぐ事はなく、兄たちへの憎しみも薄らぐ事はなかったでしょう。

しかし、故郷を思い描いても、兄たちへの憎しみを思い返しても、何の解決にもならず、何の進展もありません。

返って、辛くなるばかりなのではないでしょうか。

変えられない状況に、思いを廻らしても、現実逃避にもならず、建設的ではありません。

悲観的になり、自己憐憫に浸っていては、気持ちは沈み、持っている素晴らしい力を発揮する事は出来ません。

それよりも、現実をそのまま受け入れ、そこで、精一杯生きる事の方が、何かしらかの展望が見込める生き方なのではないでしょうか。

気持ちを明るくすれば、持っている素晴らしい力を発揮するチャンスを見逃さないでしょうし、誰かの目に留まり、誰かが引き立ててくれるのではないでしょうか。

ヨセフは、不当な扱い、境遇の中に置かれても、ふて腐れる事なく、自暴自棄になる事もなく、神様を信じ、神様に信頼し、神様の導きに従い、誠実に歩んで来たので、神様の助けがあり、引き立ててくれる人が起こされ、奴隷、囚人の身分から、一気に宰相の地位にまで、登り得たのです。

辛い労苦も沢山ありましたけれども、神様はその労苦を、祝福に変えてくださり、エジプト王国で、パロの次の地位にまで登り、パロの絶対的信頼を得、家庭にも恵まれ、素晴らしい妻と、二人の跡継ぎまで与えられたのです。

勿論、労苦には、必ず報いがあり、祝福に与る事が保証されている訳ではありません。

この世では労苦ばかりで、何の祝福も味わわずに、一生を終える方も、少なからずいらっしゃいますが、神様を知っている事、神様に知られている事に勝る祝福はありません。

この世でそこそこの成功を収めても、神様に見放されていたならば、何の意味もありません。

しかし、私の生涯は労苦ばかりだったけれども、神様と共に歩んだ、神様が共におられた生涯だった、と思い返せたならば、何にも勝る生涯なのではないでしょうか。

この世には、何一つ残せなくても、天に宝を積む生涯であったならば、最高の人生、素晴らしい生涯だったと、評する事が出来るのではないでしょうか。

そして、神様と共に歩む人生こそ、最高の人生であり、祝福された生涯なのです。

それは天の御国に住まう事だ、と言い換える事が出来ます。

嫌がらせを受け、不当な扱いを受けても、それは天に宝を積んでいる事なのですから、腐る事も、悲観する事もありません。

また、払いのける必要も、戦う必要もありません。

神様が払いのけてくださいますし、神様が戦ってくださるからです。

そして、嫌がらせをし、不当に扱うのは、自身の頭に燃える炭火を積む事であると、心得なければなりません。

あなたの人生は、労苦の連続でしょうか。

嫌がらせや、不当な扱いを受け続けている人生でしょうか。

安心してください、見ておられるお方がいらっしゃいます。

そして、報いてくださり、祝福を与えてくださいます。

不当な扱いに対しても、誠実な対応をする事こそ、神の民の行動原則であり、神を信じる者の行動原則です。

ここにおられる皆様が、厳しい労苦、嫌がらせ、不当な扱いを、訓練として受け止められ、耐えられ、神様への信仰を失わず、神様から労苦、嫌がらせ、不当な扱いに倍する祝福を受けられますように。

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聖書個所:創世記4137節~49節               2018-1-21礼拝

説教題:ヨセフ、エジプト王国の支配者となる

【導入】

2018年を迎えて、早くも三週間が過ぎてしまいましたが、残りの四十九週も、あっという間に過ぎ去ってしまう事でしょう。

無為に時を過ごしてしまい、後悔しないためにも、計画を立て、その計画を達成するためには、努力を惜しんではなりません。

皆様も、この年に、何かしらの計画や予定を考えられている事と思います。

その計画ですが、初めから、細部に至るまで、詳細に決める、と云うのは、如何な事でしょうか。

余りにも詳細に決めてしまうと云うのは、状況の変化、進捗状況の変化に対応出来ません。

意気込みや性格の現われでしょうが、計画全体に影響を与え、計画の頓挫、挫折に直結してしまう事もあるのではないでしょうか。

特に、長期計画の場合は、大まかに決め、中期計画を立て、短期計画を立て、詳細は、都度、状況の変化、進捗状況の変化に合わせて、立てる、変更するのが計画の達成に不可欠な要素なのではないでしょうか。

また、計画立案の段階で、隙間、空白の期間を入れて置くのも重要な事です。

遅れを吸収する時間を確保し、計画を見直すためにも、有益だからです。

また、机上の論議だけで計画を立てる、と云うのも考え物です。

計画は、実践あってこそ、であり、実践を考えずして立てた計画に齟齬が生じるのは明らかです。

現地調査然り、市場調査然り、環境調査然り、です。

これらを怠る時、計画は素晴らしくても、志が正しくても、時代の要請に叶っていても、計画の完成は、目標への到達は難しくなるでしょう。

今、エジプト王国は、未曾有の飢饉に晒されようとしていますが、その前に大豊作も来ようとしているのです。

飢饉は黙って耐え、やり過ごすだけが対策ではありません。

病気に強い品種、乾燥に強い品種を準備する事は、対策の一つでしょう。

一種類の作物だけでなく、色々な種類を作付けるのも、対策の一つでしょう。

得た情報を独占するのではなく、広く公開し、地域全体で取り組むべきでしょう。

他国の飢饉は、自国にも強く影響するからです。

そして、豊作の期間も、自然に任せていてはなりません。

飢饉が控えているのですから、美味しい品種ではなく、量を重要視すべきであり、備蓄に適している品種を作付けすべきであり、保管についても配慮、工夫しなければなりません。

そして、これらの対策に取り組むに当たって、強力な指導力を持つ人が必要である事は言うまでもない事です。

【本論】

41:37 このことは、パロとすべての家臣たちの心にかなった。

ヨセフによる、エジプト王パロの夢の解き明かしは、「パロとすべての家臣たち」に、衝撃と驚きを与えた事でしょう。

その衝撃と驚きは、ヨセフに対する畏敬の念を呼び起こし、ヨセフを特別な存在に仕立てた事でしょう。

心にかなった」の直訳は「目によかった」であり、新共同訳聖書は「感心した」と訳し、口語訳聖書は「目にかなった」と訳していますが、「受け入れられた、歓迎された」の意味です。

ヨセフは、誰の反対も、異議、反論もなく迎え入れられたのですが、これは、夢の解き明かしだけの効果ではありません。

権謀術策の世界に生きて来て、エジプト高官の地位を狙い続けて来た家臣たちにとって、有能な新参者は、自分の出世のための障害でしかありません。

厄介な存在、疎ましい存在、排除、排斥したい存在でしかないはずです。

しかし、ヨセフは、こんな権謀術策の世界に生きて来た、エジプト高官に受け入れられたのです。

その背景には、エジプト王国に限らず、高級官僚に登り行くためには、実力だけではだめであり、人望が必要であり、協力者が必要であり、人知を超えた存在の助けが必要であり、神を信じ、神の助けを切望していたからです。

ヨセフの、4116節の言葉「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」は、夢の解き証しによって、ヨセフが特別扱いを受けてしまう事がないようにとの、ヨセフの配慮ですが、ヨセフに神の助けがある事の証拠であり、解き明かしに間違いがない事の宣言でもあります。

夢の解き明かしの類は、難しい事柄であり、なかなか断言出来ない事柄ですが、ヨセフは、誰もが納得する夢の解き明かしをやってのけたのであり、ヨセフに神の力が宿っている事が明確になったのですから、ヨセフを、神様を敵にまわす事の愚かしさを知り尽くす家臣たちが、ヨセフを受け入れるのが最善と考えたのは、自然の成り行きと云えるでしょう。

そんな考えを持つに至ったのは、家臣たちだけではありません。

41:38 そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」

パロの「神の霊」との表現は、多神教の色彩の影響を強く受けた表現であり、一神教に立つ意味での発言ではありませんが、唯一の神様が立てられた人物に対する評価であり、当(とう)を得た表現です。

この発言の背景には、先に引用したように、4116節のヨセフの言葉「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」が影響している事は否めないでしょう。

常に神様を意識した発言は、己を高慢や優越から守るために有益ですが、家臣の意識を唯一の神様に向け、己を神の子とするパロの意識を唯一の神様に向ける事になるのです。

41:39 パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。

パロの言葉は、ヨセフの背後に居られる神様を意識し、神様を讃える言葉にほかありません。

有限な人間に、全知全能、無限の神様のご計画を知る事は出来ませんが、「神の霊」が宿っているなら、「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば」話は別です。

41:40 あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」

40節の「私の家」の意味は、狭くは、王宮であり、広くは、王国を意味し、「治め」と訳されているヘブル語の直訳は「上にある」であり、王宮を管理、支配する宮内大臣を意味し、王国を管理、支配する総理大臣、宰相(さいしょう)を意味し、両方を兼ねた働き、役職を意味します。

どちらにしても、パロの代理として、であり、パロに成り代って、である事に変わりはありません。

パロの家臣ではありますが、パロの権威と同等な権威を与えられたのであり、エジプト王国での、最高の地位、役職に任命されたのです。

そして、「命令に従おう」と訳されているヘブル語の直訳は「口に、口付けする」であり、パロは、エジプト王国民が、挙ってヨセフを「敬愛する、尊重する、讃える」と宣言しているのです。

41:41 パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」

41節は、40節前半の繰り返しですが、「支配させよう」と訳されているヘブル語の直訳は「与える、渡す、置く」であり、ヨセフへの権限付与が、より具体的に宣言されている事が明らかです。

私の家」から「エジプト全土」であり、「治めてくれ」から「支配させよう」であり、その具体的な支配権の付与の、見える化が、42節です。

41:42 そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。

指輪」は単なる装飾品の指輪ではありません。

新共同訳聖書が訳しているように「印章のついた指輪」であり、ヨセフは、エジプト王パロの「実印」を預かったのであり、エジプト王パロの名前を使って、何でも出来る権限を与えられたのです。

更には「亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛け」られましたが、「亜麻布の衣服」は、高級な布地であり、特別な身分の人のために作られ、特別な用途のために使われます。

法廷で着る上着であり、宮廷で着用する服であり、名誉の印です。

神殿祭司の装束にも使われる布地であり、聖と俗とを区別する印です。

かつて、ヨセフは、ヤコブだけの一方的な寵愛を根拠として「袖付きの長服」を与えられましたが、今回、ヨセフは、エジプト王パロと、エジプト王国から、全面的な信任を受け、権力の付与を伴う名誉の印として「亜麻布の衣服」を与えられたのです。

「袖付きの長服」は、兄弟の妬みを買う物でしかなく、真に価値のある物ではありませんでした。

しかし、「亜麻布の衣服」は権威や名誉の伴う服であり、誰もが認める、本当に価値のある物なのです。

金の首飾り」も、名誉の印であり、王家に重んじられている事を現し、一般には、過去の働きに対する褒章として与えられたようですが、大臣として任官する時にも与えられるようになったようです。

宮廷に登庁する時には、身分と権威を表す印として身に付けますが、「亜麻布の衣服」と「金の首飾り」は、最高の名誉と、最高の権威を象徴する印であり、エジプト王国の家臣たちも、これを喜んだのです。

名誉や栄誉は、そして権力は、得ようと腐心、工作、画策するものではなく、周りの皆が挙って与えるものであり、皆が賛同するものであり、皆の喜びの中で与えられるものなのです。

だからこそ、今後の働きに益となるのであり、皆の理解、賛同、協力が得られる事になるのです。

ヨセフに与えられた名誉と権威を確固たるものとするのが43節です。

41:43 そして、自分の第二の車に彼を乗せた。そこで人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうして彼にエジプト全土を支配させた。

第二の」は、「次に立つ者、次に位する者」の意味であり、エジプト全土の中で、パロの次に立つ者、パロの次に位する者、の意味です。

大臣は多数存在しており、王家に貢献した者も多数存在したでしょうから、「亜麻布の衣服」を身に着けた者も、「金の首飾り」を掛けた者も、多数存在したでしょうが、その中で、ずば抜けた地位を与えられたのが、ヨセフであり、パロの次に位する者として「第二の車」が与えられる待遇を得たのです。

ひざまずけ」と訳されているヘブル語「アブレーク」の意味は不明です。

新共同訳聖書ではそのまま「アブレク(敬礼)」と訳していますが、命令形であり、「道をあけよ」「気をつけよ」などと訳す事も可能です。

41:44 パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中で、だれも手足を上げることもできない。」

パロが、パロである事に変わりはありませんが、エジプト全国民の一挙手一投足が、ヨセフの指示によるのであり、パロは、ヨセフの知恵、即ち、ヨセフを通して示される神様の知恵が、エジプトを救うと確信する故の、絶大な信頼を表明しているのです。

41:45 パロはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻にした。こうしてヨセフはエジプトの地に知れ渡った。

ヨセフには、「ツァフェナテ・パネアハ」と言うエジプトの名前が与えられますが、意味について、一致した意見はありません。

「神が語ったので、彼は生きる」「事物を知っている者」などの意味であろうと考えられていますが、確かなところは不明です。

オン」は「太陽神レー」礼拝の中心都市であり、カイロの北東10km程の地にあります。

ポティ・フェラ」の意味は、「(太陽神)レーが与えた者」で、エリート中のエリート神官である事が伺い知れる名前です。

「ポティファル」の完全形ですが、ヨセフを買い取ったポティファルとは別人です。

アセナテ」の意味は、「彼女はネート(女神の名前)に属する」です。

41:46 ──ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった──ヨセフはパロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた。

ヨセフが奴隷として、エジプトに売られて来たのが17歳の時でしたから、13年が経過した訳です。

この13年間で、エジプトの言葉と文化を充分吸収した事でしょうが、エリート中のエリート神官の義父と、妻とによって、更には、「エジプト全土を巡り歩」く事によって、言葉に磨きがかかり、文化や、地方の特質などに対する造詣も深めた事でしょう。

エジプト全土を巡り歩」く事によって、「ヨセフはエジプトの地に知れ渡」ります。

アブラハムの、イサク誕生までの期間、ヤコブの、ラバンの下での労役の期間は、忍耐の期間であり、何れも豊かな実りに結び付いていますが、しかし、それぞれの形も、経緯も、結果も同じではありません。

しかし、神様の主権で起こっているのであり、訓練と成長が期待されている事は共通していると言えそうです。

ヨセフは「エジプト全土を巡り歩」きますが、管理と対策のための労力を惜しまなかったのであり、他人任せにしなかったのです。

部下に権限を委譲し、責任を持たせる事は重要ですが、下調べもせず、対策案の提示もせず、相談にも乗らずに、唯々、全面的に委任するのは、不適切です。

責任を持って「エジプト全土を巡り歩」き、それぞれの地で、適切な人物を立て、指示を与え、報告、連絡、相談の手筈を整えた上で委ねたのであり、飢饉の到来を周知させ、対策を怠らなかったのです。

41:47 さて、豊作の七年間に地は豊かに生産した。

エジプト王パロに示された夢が、ヨセフの解き明かしの通りに現実となりました。

この後の、飢饉の到来を知らなければ、無駄に消費し、需要と供給の関係で、買い叩かれ、大した儲けもなく、売り捌いてしまうところでしょうが、飢饉の到来を知っているのですから、せっせと収穫に、備蓄に励みます。

41:48 そこで、ヨセフはエジプトの地に産した七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々にたくわえた。すなわち、町の周囲にある畑の食糧をおのおのその町の中にたくわえた。

それこそ、一粒たりとも無駄にせず、隅々まで刈り取り、せっせと備蓄し、備蓄に際しても注意を怠らず、腐らないように、黴ないように、輸送のコストを抑え、今後の利便のために、分散して備蓄する事とします。

集中備蓄、一括管理も有益ですが、余りにも大量の時には、分散するのがリスク回避になりましょう。

巨大な倉庫を作るよりも、中小規模の倉庫を沢山作るほうが、コストやリスクを抑えられ、大きなメリットを得られましょう。

41:49 ヨセフは穀物を海の砂のように非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。

現代なら、インターネットでの、クラウドサービスでの、ローカルからの情報入力、中央での一括管理と指示が可能でしょうが、ヨセフの時代は、全てが人力です。

そして、時間も費用もかかります。

量る事が目的ではありませんから、飢饉を乗り越えるだけの穀物が備蓄されたのが確認されれば、それ以上は、余剰ですから、後は量る事に労力を費やすのは無駄です。

量る事よりも、備蓄穀物の品質保持に労力を費やすべきであり、切り替えが必要であり、管理者は、全体を見渡し、状況に応じた対策を考え、適切な指示をしなければなりません。

【適応】

ヨセフは、奴隷の身分から、冤罪からの囚人生活から解放され、自由の身になったのみならず、何の後ろ盾も、支援者も、保護者もいないのに、何の実績も、功績もないのに、当時最大、最強のエジプト王国の宰相に任命されたのですから、有頂天になり、大失態、大失敗をしてしまっても、高慢になり、顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまっても、仕方のないところですが、若かりし頃の、無分別な発言や行動は鳴りを潜めてしまいました。

だからといって、慎重になり過ぎたり、消極的になってしまった訳ではありません。

ヨセフは、与えられた使命、エジプト王国を、未曾有の飢饉から救うという使命のために、直ぐに行動を起こします。

ヨセフは、エジプト王パロと云う、強力な後ろ盾を得たのですから、何でも出来たはずであり、何でも命令出来たのですから、王宮で踏ん反り返り、部下を派遣し、報告をもたらさせても良かったはずであり、それを、誰もが、普通の事と思った事でしょう。

否、慣例や制度を重んじる事こそが、最優先するべき事として、身に付いていた事でしょう。

ですから、エジプト王国の宰相、自らが「エジプト全土を巡り歩」く、等とは、前代未聞の事だったのではないでしょうか。

前代未聞でも、前例がなくても、エジプトを襲う大飢饉に対処するには、前例や慣例に従っていては、旧態依然の策しか思い浮かばないでしょうから、新しい発想と、大胆な、自らの行動で対処しなければならないのです。

その点で、ヨセフは、エジプト王国の、支配階層のヒエラルキーを登って来なかったので、慣例や、制度に縛られない、自由な発想が出来、行動がとれたのです。

ヨセフ自身が「エジプト全土を巡り歩」き、実情を知り、対策を考え、実行したのです。

実情を知る、と云う事は非常に重要です。

土地の台帳だけで考え、収穫量を計算していては、未曾有の大飢饉を乗り越える事は難しい事になるでしょう。

台帳に載っていなくても、ちょっと手を入れれば、農耕に適した土地はあるのであり、それは、行って見なければ知り得ない事です。

4634節に、ゴシェンの地は、牧畜に適した土地である事が記されています。

牧畜も重要ですから、牧草を残さなければなりませんが、一部に穀物を作付け、飢饉の備えとするのです。

こんな事が、エジプト王国全土で行われたのであり、飢饉の備えがなされたのです。

エジプト王国を救うためには、自らが足を運び、実情を調査し、対策を実行するしかないのです。

この、ヨセフの考え、行動は、神様の考え、行動でもあります。

神様は、王の王、主の主であられるのに、全知全能であられるのに、この世を救うために、人となられ、自らこの世に来られ、巡り歩かれ、実情を調査されます。

ソドムとゴモラの時、然りであり、イエス様の時、然りであり、自らが実情を調査され、裁きに際しても温情が示されます。

律法では救われない事、動物の生贄では罪の贖いが不完全である事、人の努力では律法を守る事も、神様に喜ばれる事も出来ない事を、宣べ伝えられたのです。

対策を講じられ、自らを生贄とし、十字架に架かり、人の罪、咎の、完全な贖いを成し遂げられたのです。

エジプト全土の国民を飢饉から救うために、穀物倉庫が各地に作られ、穀物が備蓄されたように、この世の民を救うために、各地に教会が建てられ、救いの御ことばが語られているのです。

命をつなぐ食料、穀物は、遠い地にあるのではなく、民の住む町のそばに備蓄されたように、魂を救い、永遠のいのちを与える御ことばは、遠い地にあるのではなく、探さなければ見つからないのでもなく、各地の教会に置かれ、誰もが直ぐに受け取る事が出来るのです。

罪の世界に来られ、巡り歩かれるのが、神様の愛であり、救いを提供してくださるのが、神様の憐れみなのです。

ここにおられる皆様が、この神様の愛と、憐れみを知り、神様の愛と憐れみを受け取られ、魂の救い、永遠のいのちを得られる事を願ってやみません。

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聖書個所:マルコの福音書14章66節から72節            2018-1-14礼拝

説教題:「弱さが露わにされたとき

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。
14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

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聖書個所:創世記4114節~36節               2018-1-7礼拝

説教題:エジプト王パロの見た夢の解き明かし

【導入】

聖書の記されていなかった時代、神様は、神様の御こころを人々に知らせる時に、多くの場合に「預言者や祭司」を立てられ、「夢や幻」を用いて、御こころを伝えられました。

夢や幻を見た者は、その見た夢や幻に対する、神様の御こころに従わなければなりません。

直ぐに、人々に語り伝える場合もあれば、文字として認(したた)める場合もあれば、時が来るまで、語る事を禁じられる場合もありました。

語りたくなくても、語らなければならない場合があり、語りたくても、語ってはならない場合もあるのです。

更には、夢や幻を見た者は、語る事や記録する事だけが、働きではなく、具体的な行動を取る事が、神様の御こころである場合もあります。

人々に、奇異に思われるような行動を取らなければならない場合もあり、何かを象徴するような行動を取らなければならない場合もあります。

イザヤは、神様の御こころを人々に伝えるために、3年間、裸で過ごしました。

これはイザヤ書20章に記されています。

エゼキエルは、神様の御こころを人々に伝えるために、鍋を立て、その横で、430日も寝たきりで過ごし、また、荷物を背負い、壁に穴を開けて通り抜けらされたのです。

この事はエゼキエル書4章と12章に記されています。

夢や幻が与えられるのは、神様に従う事が前提であり、行動する事が期待されて、である事を忘れてはなりません。

或いは、能力、地位、権力が与えられているのは、神様の御こころに従って、正しく用いる事が前提であり、良き管理者である事が期待されて、である事を忘れてはなりません。

能力や権力を、私利私欲のために用いるのは、自身に滅びを招き寄せている事と同じです。

能力や権力を、神様の御こころに従って用いるのは、神様の栄光を現す事であり、巡り巡って、自分自身と、関わる人々に祝福をもたらすものである事を覚えておくべきでしょう。

渦中にいる時には解らないかもしれませんが、過ぎてから振り返って見ると、神様に従って得た祝福の大きさに驚愕するのは間違いありません。

捨てたように思えても、多くを所有するようになっているのであり、損したように思えても、大きな益を得ている事を知るに至るのです。

目先の損得ではなく、経験からの判断ではなく、未来を支配しておられる神様の導きに従う時、危機から脱する事が出来るのであり、関わる全てに、祝福をもたらすのです。

今日は、エジプト王パロの夢から、神様の御こころを探ってみましょう。

【本論】

41:14 そこで、パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。

献酌官長のアドバイス、執り成しがあって、ヨセフは、エジプト王パロの前に、呼び出される事となります。

そこで、ヨセフは、伸びていた、或いは、伸ばしていた「ひげをそり」落とす事になります。

エジプト人に、髭を伸ばす習慣はなく、例外的に、服喪期間中の人や、捕虜となった人、或いは屈辱の中に置かれている人が、その意思表示として、髭を伸ばしたそうです。

ヨセフは、冤罪によって投獄されたのであり、その屈辱の意思表示として、髭を伸ばしていたのかも知れませんし、また、イスラエル人として、髭を伸ばすのは普通の事であり、特別な意味はなかったのかも知れません。

しかし、エジプト人にとって、髭は、服喪の意味であり、また、屈辱の印であり、髭面は、王様の前に出るに、相応しい姿ではなく、ヨセフは「ひげをそり」落とす事になりましたが、「着物を着替え」る事と合わせて、ヨセフの地位、名誉の回復、汚名返上の意味でもありましょう。

名誉回復、汚名返上は、周囲の人々がお膳立てしてくれてこそ、効果的であり、自分自身で工作しても、それは逆効果になってしまう事が多いようであり、空回りするばかりであるのみならず、誤解を大きくし、抉(こじ)らせ、複雑にするだけです。

「果報は寝て待て」と申しますが、誤解を解こうと躍起にならなくても、執り成しをしてくれる者が現れるのであり、誤解ならば、何時かは晴れるでしょう。

究極的には、全てをご存知の神様に、真実なる神様に、全てを委ねて、平安を得るのが一番です。

神様から与えられる平安を奪う事は、誰にも出来ないからです。

41:15 パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

エジプト王パロは、ヨセフが目の前に、引き出されるや否や、心の内に引っかかっている事を、打ち明けます。

」は単数形であり、エジプト王パロは、二つの夢が同じ意味の事と直感していたのでしょうか。

それも解釈としては可能でしょうが、神様の主権、ご支配、ご計画は、異教の民の中にも、異郷の地の隅々にまでも、行き渡っているのであり、エジプト王パロの無意識の言動にも、神様の導きがある事は間違いありません。

夢のお告げを信じる文化、夢から、将来起こる事を予知しようとする文化の中で、エジプト王パロは、非日常の、不思議な夢を見たのであり、夢に、尋常ならざる、神秘を感じ、異教の民ではありますが、真の神様の存在と、導きを感じ、夢の出所を単一と考え、先の表現となったのではないでしょうか。

加えて、聖書記者が、この夢の性質を、読者に暗示させる意図が込められているのではないでしょうか。

ヨセフが、25節で「パロの夢は一つです」、26節で「それは一つの夢なのです」と、解説している事と符合します。

さて、エジプト王パロがヨセフを呼び出したのは、本来、夢を解き明かすはずの者たちが、夢を解き明かせなかったからですが、ヨセフへの期待は、本来、呪法師たちのすべき事のみであり、夢の解き明かしのみです。

エジプト王パロは、ヨセフを、エジプト中の、夢の解き明かし人、呪法師、知恵者よりも、勝っていると思っていたでしょうが、それ以上の期待は、即ち、対策、進言を期待していた訳ではありません。

それも、無理はありません。

エジプト王パロは、ヨセフとこの時、初めて会ったのであり、ヨセフに注がれる神様の恵みを、ヨセフが何処にいても、何をしても全て成功させてくださると云う、ヨセフと、世界を支配しておられる神様との関係を、全く知らなかったのですから。

エジプト王パロは、ヨセフを、夢を解き明かす能力に秀でた者、との認識しか持っていなかったのです。

ヨセフは、献酌官長、給仕官長の、夢の解き明かしの時にも、明言しましたが、夢の解き明かしは、即ち、未来の事を夢によって知らせるのも、夢の解き明かしをするのも、神様のなさる事であり、人間の業ではありません。

しかし、エジプト王パロは、エジプト王国中の人々は、夢は人が解き明かし得ると考えていたのであり、人間の知恵と才覚で、将来の事は知り得ると考えていたのであり、そんな認識の中で、夢の解き明かしを行ったならば、人間、即ち、ヨセフが讃えられる事になりかねません。

それは、何としても、避けねばならない事です。

栄光は神様に帰するべきであり、人間が受けてはなりません。

ヨセフは、エジプト王パロの、期待を込めた言葉に、間髪を入れずに、真正面から拒絶します。

41:16 ヨセフはパロに答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

この「私ではありません」は、原語では一つの単語であり、しかも、殆ど、叫びのような言葉であり、意訳するなら「違う」であり、「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが」に対する、異議申し立てであり、「夢を解き明かすのは、私ではなく、神様です」と断言しているのです。

ヨセフは繰り返し、神様だけが、唯一の啓示者であり、神様だけが、正しい夢の解き明かしをし得るのだ、と強調しているのです。

そして、神様だけが解決を与え、恩恵を与えるお方である事を、暗に含んだ発言でもあるのです。

これは、非常に重要な事です。

人は、つい、自分の手柄にしてしまう誘惑に駆られます。

褒められれば嬉しいですし、悪い気はしませんし、解決の道を示してあげたい、参考になるような事を提示したい、と思いますが、人間の持つ、能力、知恵、などの賜物は、全て神様から預かったものであり、神様に目を向けさせるべきであり、神様に感謝すべきであり、神様への感謝に誘導すべきです。

続く、「神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」は、「パロに納得がいき、平安が与えられるように答えてくださるのは、神様です」の意味です。

人間からの慰めや、励ましから、本当の平安は得られません。

神様からの慰めと、励ましだけが、本当の平安を与えるのであり、

人間の教え、過去の経験から、本当の繁栄は得られません。

過去の歴史を見ても明らかであり、人間は、悲惨な戦争を何度も何度も繰り返しています。

神様の教え、導きだけが、本当の繁栄、平和に誘うのです。

ここでもヨセフは、エジプト王パロの目を神様に向けさせる事を忘れません。

こんな、布石があったればこそ、38節で、「神の霊の宿っている人」と、エジプト王パロに言わせるを得たのではないでしょうか。

41:17 それでパロはヨセフに話した。「夢の中で、私はナイルの岸に立っていた。

41:18 見ると、ナイルから、肉づきが良くて、つやつやした七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいた。

41:19 すると、そのあとから、弱々しい、非常に醜い、やせ細ったほかの七頭の雌牛が上がって来た。私はこのように醜いのをエジプト全土でまだ見たことがない。

41:20 そして、このやせた醜い雌牛が、先の肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。

41:21 ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのがわからないほどその姿は初めと同じように醜かった。そのとき、私は目がさめた。

41:22 ついで、夢の中で私は見た。見ると、一本の茎によく実った七つの穂が出て来た。

41:23 すると、そのあとから東風に焼けた、しなびた貧弱な七つの穂が出て来た。

41:24 そのしなびた穂が、あの七つの良い穂をのみこんでしまった。そこで私は呪法師に話したが、だれも私に説明できる者はいなかった。」

17節から24節までの夢の話は、411節から8節までとほぼ、同じですが、19節に「私はこのように醜いのをエジプト全土でまだ見たことがない」と、21節に「ところが、彼らを腹に入れても、腹に入ったのがわからないほどその姿は初めと同じように醜かった」と、エジプト王パロの感想、描写が加えられています。

この19節、21節の言葉は、24節後半のエジプト王パロの言葉に架かり、人間からは、答えを得る事が出来なかった、不安を払拭出来なかった、その残念さ、虚しさを強く印象付ける告白なのではないでしょうか。

41:25 ヨセフはパロに言った。「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

ここでも、ヨセフは「神様が、パロに知らせようとしている事」を強調し、エジプト王パロの目が、神様に向くように、との配慮を怠りません。

つい、事を急ぎ勝ちになってしまい易い状況でも、言うべき事は言わなければなりません。

時に、端折ってもよい場面もありましょうが、「言わずもがな」的な配慮は、不要であり、繰り返す事は、確認する事は、念を押しておく事は重要です。

その上で、本題に入る時、本題の趣旨が、正しく伝わる事になるでしょう。

決して、夢の解き明かしに焦点があるのではなく、神様は、何故、将来起こる事を啓示されたのか、将来起こる事を知らされたならば、知らされた者はどう対応するか、なのです。

41:26 七頭のりっぱな雌牛は七年のことで、七つのりっぱな穂も七年のことです。それは一つの夢なのです。

25節でも「夢は一つです」が語られましたが、ここ26節でも「一つの夢なのです」と繰り返し、夢の示すところが一つである事を強調します。

ヨセフは、複数の解釈が成り立たない事、他の解釈があり得ない事を強調するのです。

41:27 そのあとから上がって来た七頭のやせた醜い雌牛は七年のことで、東風に焼けたしなびた七つの穂もそうです。それはききんの七年です。

41:28 これは、私がパロに申し上げたとおり、神がなさろうとすることをパロに示されたのです。

41:29 今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。

41:30 それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、

41:31 この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。

41:32 夢が二度パロにくり返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。

ここまでの、ヨセフの発言で特徴的なのは、全て「・・・です。」「・・・ます。」と明確に、断言している事です。その数、13回。

人間の考え、解釈であるならば、「・・・と考えられます。」とか「・・・と思います。」等と、言い逃れの出来る言い方をせざるを得ないでしょう。

断言してしまっては、責任を取らなければならないからです。

しかし、神様に遣わされた預言者は、神様からの「ことば」を語るのですから、曖昧な言い方は出来ません。

神様に遣わされた預言者、現代の御ことばの説教者は、神様の「ことば」を取り次ぎ、語るのですから、厳しい事でも、言い難い事でも、明言、断定せざるを得ず、はっきり言い渡さなければなりません。

神様に遣わされた預言者、現代の御ことばの説教者は、警告者です。

エゼキエル書317節から21節「3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

3:20 もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

3:21 しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

警告の働きを等閑(なおざり)にして、耳障りの良い事ばかりを語るなら、それは神様に遣わされた預言者でも、御ことばの説教者でもありません。

偽預言者、偽説教者に騙されてはなりません。

個人の見解を述べるような預言者、説教者の話しを見分ける力が必要である事は申すまでもない事です。

その力は、霊の糧をしっかり取る事、聖書通読で養われます。

さて、警告を無視した人々が裁かれるのは勿論の事ですが、警告を与えられなかった人々は裁かれ、警告を発しなかった預言者、説教者も裁かれます。

しかし、警告を聞いて、悔い改めるなら、どんな大きな罪であっても、赦され、祝福を受けるのであり、神様に遣わされた預言者、現代の御言葉の説教者も、祝福を受けるのです。

ヨセフは預言者として、近づいている危機を知らせた後、対策をも進言します。

41:33 それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。

41:34 パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。

41:35 彼らにこれからの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。

41:36 その食糧は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地がききんで滅びないためです。」

警告を受けても、危機を逃れる方法も同時に提示しなければ、警告の意味は半減します。

悪戯に混乱を起こし、不安を煽るだけになってしまうでしょう。

警告を受けた者は、行動を起こさなければなりません。

特に、神様は、指導者に期待を掛けておられますが、指導者にも、得手不得手があり、得意分野と、疎い分野があります。

自分の得手不得手を心得、不得手な事に、疎い分野に、必要な人材を送り込むのが、良い指導者です。

これからエジプトを襲う飢饉は、未曾有の大飢饉であり、エジプト建国以来の危機です。

今までの経験では対応出来ず、また、専任の、強力な指導者が必要です。

ヨセフは、預言者として、過不足なく、神様の御こころを伝え、対策を教えます。

34節の「備えをなさいますように」を新共同訳聖書、新改訳聖書2017、共に「五分の一を徴収なさいますように」と、口語訳聖書は「五分の一を取り」と訳しています。

この違いは、新改訳聖書第3版までは「武装する、備える」を意味する動詞として読み、訳し、新共同訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書2017では「五」を意味する動詞として読み、訳しているからです。

翻訳の難しさの現れたところですが、広い意味で「備え」と訳すか、狭い意味で、具体的な数字として「五分の一」と訳すか、ですが、40章、41章では、数字に大きな意味を持たせていますから、ここでも「五分の一を徴収なさいますように」が、しっくりする訳のようです。

これで、ヨセフは、自分のなすべき事は終えたと、安堵した事でしょう。

ヨセフは、自分を売り込む気は、微塵もありません。

ヨセフは、夢の解き明かしの報酬として、奴隷状態からの解放、冤罪からの牢獄生活からの解放を申し出て、晴れて自由の身になる事だけを思い描き、願った事でしょうが、この後、ヨセフの身の上には、思いもしない展開が待ち受けていたのです。

【適応】

この、エジプトを襲う大飢饉ですが、神様の裁きとして描かれてはいません。

人生の中で起こる、予期出来ない出来事の一つとして、描かれ、神様の警告に対して、どのように対応するかが、隠されたテーマです。

自然災害であり、仕方がない、警告されても、自然災害を防ぐ手立てはない、と諦めてはなりません。

その時になったら、考えればいいや、でもありません。

その時では、もう手遅れなのです。

誰かが、何とかしてくれるだろう、も論外です。

警告と共に、対策、進言も与えられたのですから、素早く応答し、的確な行動を取る事が求められているのです。

神様は、積極的な応答を求められておられます。

応答するのに、慎重であるべきかもしれませんが、悠長にしていては機を逸します。

消極的であってはならず、積極的に取り組むべきです。

即時に反応し、積極的であっても、的外れな行動では意味がありません。

素早く、積極的に、しかし、慎重、的確に、です。

そして、良い支配者は、良い管理者であるべきであり、

不測の出来事から、民を守るべく、注意力、情報収集力、指導力を発揮しなければならないのです。

今の時代は、イエス様の再臨を待つ時代です。

7年の豊作、7年の飢饉、のように、時期は明確にされていませんが、裁きの時は、刻々と近づいています。

まだまだ来ない、と思っていたなら、必ず後悔するでしょう。

手をこまねいていたならば、取り返しのつかない事になります。

渦中に放り込まれたならば、普段なら出来る事も出来なくなるのです。

出来るうちに、出来る事をやるのが、鉄則です。

説教者は、時代の流れを読み、広く情報を収集し、説教に全力を注ぎますが、聴衆在ってこそです。

聴衆の目を、耳を、心を神様に向ける説教を、聴衆に届く説教を、悔い改めに導く説教をしなければなりません。

聴衆は、自分自身の事として、説教を聴き、悔い改めなければならず、神様から見ての、的外れな生き方を離れ、的を射た、的を意識し、的を目指した生き方を選ばなければなりません。

しかも、来月ではなく、来週でもなく、明日でもなく、聴いた瞬間から、生き方を変えなければなりません。

イエス様は、明日来られるかもしれないのです。

ここにおられる皆様が、神様の一方的な憐れみ、恵みを受け、警告を受けた者として、

裁きに備えた生き方をされる事を願ってやみません。

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