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                                 2018-10-28礼拝

聖書個所:サムエル記第一11節~18

説教題:「ハンナの祈り」

【導入】

私たちの教会では毎週水曜日に祈る為に教会に集まります。

とは言っても、祈るのはこの一日だけという意味ではありません。

365日、毎日祈っている訳なのですが、その中でも特別に意識して、「祈りましょう」といって、集まるのが、祈祷会と言う訳なのです。

それぞれの教会で祈祷会の持ち方が違うでしょうが、祈祷会に出席出来る人も、出席出来ない人も、お互いのためにも祈れる、とても大切な時間だと思います。

祈祷会に参加出来るかどうかはとも角、私たちは、自発的にはなかなか、祈りの時間を持つ事が出来ません。

聖書通読とか、デボーションガイドを使っての学びについて、一定時間を確保する事には、意識が向きましょうが、祈りの時間を確保するとなると、結構難しいものです。

何故ならば、漠然としているからであり、具体的なテキストがないからです。

その意味で祈祷会などに参加する事は、祈りの時間を確保する為にも、弱い私たちが、お互いを支え合い、励まし合うためにも必要な事なのです。

この祈りですが、聖書は何と教えているのでしょうか。

祈りの重要性について、聖書から一緒に考えて見たいと思います。

【本論】

1:1 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。

1:2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。

2節に「エルカナには、ふたりの妻があった。

何故、エルカナは妻を二人も持ったのでしょうか。

エルカナだけでなく、アブラハムも、イサクの息子のエサウもヤコブも二人、或いはそれ以上の妻を持っていた事を、聖書は記しています。

イスラエルは勿論の事、日本も韓国も、血筋と言うものを大切にします。

自分の血を受け継ぐ者を残す、血筋を絶やさないと云う事は家長の大切な、重要な仕事の一つでありました。

モーセからヨシュアにかけてのヘブル人の歴史の中で、イスラエル民族はカナンの地に相続地を与えられました。

イスラエル人にとって、土地というものは、神様から管理をまかされているものであり、父から子へ、子から孫へと代々受け継ぐものであります。

手放したり、移したりしてはならないものなのです。

例え土地を売ったとしても、50年ごとに、やって来るヨベルの年には、元の持ち主に戻さなければならないのです。

売買するのは土地その物ではなく、収穫の回数、土地の生み出す農作物だ、と言うのです。

土地は個人の所有物ではなく、部族の物、神様から預かっている物、と言う思想が有る訳です。

ですから、土地を受け継ぐ子どもが重要になってくる訳です。

自分の血を受け継ぐ者を残す、土地を受け継ぐ血筋を絶やさないと言う事が家長の大切な、重要な仕事であった訳です。

時代が進むに連れて、妻を多く持つ事は、権力や豊かさの象徴になる訳ですが、労働力を人に頼っていた時代ですから、子どもは大切な財産でもあった訳です。

ハンナに子どもが生まれないので、ペニンナを妻として、子どもを授けて頂いた。

エルカナが二人の妻を持った理由はその辺に在るのではないでしょうか。

妻を二人持たなければならなかった理由は分かりましたが、しかし、神様は一夫多妻を認めている訳ではありません。

創世記224節、新改訳第3版は3ページ、2017版は4ページ、

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と書いてあります。

一体となっているのに、別の人とも一体になろうとしたら、これは一体どうなってしまうのでしょうか。

エルカナの家庭が決して、仲の良い平穏なものでは無かった事が続く聖書の個所からわかります。

1:3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。

1:4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。

1:5 また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。

1:6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。

1:7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。

1:8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」

エルカナはペニンナよりもハンナの方を愛していました。

でも、子孫を残すために、血筋を絶やさないために、もう一人妻を迎えたのです。

ハンナには子どもは一人も産まれていませんでしたが、ペニンナは何人もの子どもを産んでいました。

4節に「全ての息子、娘たちに」とありますが、息子も娘も複数形なので、少なくとも4人の子どもを産んでいる事が解かります。

先ほど説明した様に、子どもを産む事はとても重要な事ですから、子どもを産んでいる女性は大切にされ、愛されて当然と言えるのです。

女性蔑視のとんでもない考え方ですが、この時代に合っては、それなりに、受け容れられていた考え方なのです。

子どもを産んだ女性は大切にされ愛される。

それなのに、エルカナは、子どもを産んであげたペニンナよりも、子どもを産んでいないハンナの方を愛しているのですから、ペニンナは寂しい思い、悔しい思いをしていたに違いありません。

ハンナを憎み、嫌がらせをするのも仕方がない事なのかも知れません。

エルカナの取った方法は、この時代にあっては特別非難される事ではないかも知れません。

多くの人が、土地を受け継がせる子孫を得る手段として、複数の妻を持ったのでしょうが、人間の知恵で問題に対処する時、必ず別の問題が生じる、と言っても言い過ぎではないでしょう。

ハンナとペニンナの間にも、妻同士の争いが生じ、その家庭は決して平穏とは、言えなかったのです。

ハンナを憎むペニンナの嫌がらせは、「泣いて、食事をしようともしなかった」程ですから、相当、陰険、陰湿だったのかも知れません。

それに対するハンナの対応は……祈りでした。

ハンナは仕返しや、呪い、夫のエルカナに対する非難ではなく、神様に対して祈ったのです。

祈らざるを得ない状況だったといった方が、適切かも知れません。

ハンナと言うヘブル語は「恵み」「慈しみ」と言う意味ですから、神様からの恵みを求めて、ひたすら祈ったに違い有りません。

1:9 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。

1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

子どもが生まれないと言う事は、土地を受け継ぐといった重要な事の他に、神様の祝福を頂けていない、呪われた人と言う考えがありましたから、とても苦しい事でした。

その苦しみ、痛む心を神様に向けて、激しく泣いて祈りました。

神様の祝福を、慈しみを、憐れみを願い求める祈りでした。

自分の子どもとしてではなく、神様にささげる人、として、願い求めたのです。

自分の子どもを産む事が、自分の満足、平安、安心だけでなく、神様の栄光を現わす事へと関連させた祈りへと変えられて行ったのです。

私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。

頭に、かみそりを当てません」と言うのは、聖別の誓いです。

これは民数記65節、新改訳第3版は238ページ、2017版は245ページ、にある、ナジル人に関する教え、

ナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。」から出て来た、告白でした。

ハンナの自発的な、我が子を献げるという、誓いの祈りであったのです。

産まれてくる子どもを自分の子どもとして育てるのではなく、神様の子どもとして、神様に仕える子どもとして育てると言うのです。

これは、現代、子どもの養育、そして教会にも通用する大切な考え方です。

結婚すると、夫婦には、必ず子どもが産まれる訳ではありません。

様々な理由、原因で、子どものいない夫婦も居られますが、彼ら、彼女らも、教会員の子どもの信仰教育、信仰継承に関わるのであり、教会全体で、教会に来る子どもたちの信仰教育、信仰継承のために祈り、育てるのであり、既婚、未婚に関わらず、教会員の皆が、父親代わり、母親代わりになるのです。

実子に対しては、厳しくなり過ぎたり、甘くなってしまったりの弊害が起こり得ますが、第三者の立場、目線で子どもの信仰教育に関わるのであり、その意味、意義は、非常に重要です。

教会では、母の日、父の日に祈りを献げますが、その主旨は、子どもを、神様の子どもとして、神様に仕える子どもとして養育すると云う重要な使命に対して、使命を確認し、そのための力をいただくためであり、教会として祝福を取り成し祈るものなのです。

本論に戻って、ここに、神様のご計画を見る事が出来ます。

神様のご計画は、祭司エリの後継者を立てる事でした。

祭司エリには二人の息子がいました。

ホフニとピネハスです。

当然、祭司エリの後継者は、この二人になるはずでした。

祭司の務めというものは、誰にでも出来る、あるいは、誰がなっても言い訳ではありません。

出エジプト記299節、新改訳第3版は147ページ、2017版は151ページ、

彼ら、すなわちアロンとその子たちに帯を締めさせ、ずきんをかぶらせなければならない。祭司の職は永久の定めによって彼らに帰するであろう。あなたはこうして、アロンとその子たちを職に任じなければならない。

民数記35節から10節、新改訳第3版は230ページ、2017版は237ページ、

3:5 主はモーセに告げて仰せられた。

3:6 「レビ部族を近寄らせ、彼らを祭司アロンにつき添わせ、彼に仕えさせよ。

3:7 彼らは会見の天幕の前で、アロンの任務と全会衆の任務を果たして、幕屋の奉仕をしなければならない。

3:8 彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエル人の務めを守って、幕屋の奉仕をしなければならない。

3:9 あなたは、レビ人をアロンとその子らにあてがいなさい。彼らはイスラエル人の中から、正式にアロンにあてがわれた者たちである。

3:10 あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される。

とあり、神様に仕えると言う特別な職務は、アロンの子孫とレビ族だけに許された、勤めであり、特別な、聖なる務めであった事が記されています。

でも、この二人は特別な、聖なる務めには相応しくない息子たちでした。

サムエルという偉大な預言者を育て上げた祭司エリですが、二人の息子の教育は、上手く行かなかったようです。

第一サムエル212節以降を読むと、二人が何故、神様に退けられたかが解ります。

212節「さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、」

17節「子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。」

22節「彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。

祭司エリの二人の息子は神様に仕えるに相応しい人間ではなかったのです。

そして、悔い改める事もなかったので、神様によって退けられてしまったのです。

祭司エリは非常に年を取っていた、と記されていますから、後継者の育成は急務であった訳です。

ハンナはこのような状況を知っていた訳ではありません。

そのような時に、祭司エリの後継者を立てるという、神様のご計画に、不思議な導きで、ハンナが応答して来た訳なのです。

先ほど祭司の職務はアロンの子孫・レビ族だけに許された職務だと申し上げましたが、ハンナの夫エルカナは、このレビ族の子孫なのです。

歴代誌第一633節から、レビの子としてのエルカナの系図が記されています。

新改訳第3版は693ページ、2017版は714ページ、

6:33 仕えた者たちとその一族は次のとおりである。ケハテ族からは歌い手ヘマン。彼はヨエルの子、順次さかのぼって、サムエルの子、

6:34 エルカナの子、エロハムの子、エリエルの子、トアハの子、

6:35 ツフの子、エルカナの子、マハテの子、アマサイの子、

6:36 エルカナの子、ヨエルの子、アザルヤの子、ゼパニヤの子、

6:37 タハテの子、アシルの子、エブヤサフの子、コラの子、

6:38 イツハルの子、ケハテの子、レビの子、イスラエルの子。

エルカナと言うのは「神が作った」あるいは「神が所有する」という意味で、レビ部族内で好んで用いられた人名だそうです。

神様のご計画は必要な時に、必要な人材を呼び寄せてくださり、必要な働き人を生まれさせて下さるのです。

神様のご計画に、偶然とか、たまたまとか、都合よくと言う事はないのです。

必然であり、用意周到であり、一寸の狂いもないのです。

本当に、不思議としか言いようの無い、神様のご計画なのではないでしょうか。

皆さんもそうでしょうが、私が救われたのも、牧師に導かれたのも、今こうして椎名町教会で奉仕の場が与えられているのも、皆、全て神様のご計画の内にある事であって、偶然的な要素は全くないのです。

1:12 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。

1:13 ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。

1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

1:15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。

1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

ハンナの祈りは真剣な祈りでした。

神殿ですから、多くの人が礼拝を捧げに来ていた事でしょう。

その人たちの礼拝の妨げにならない様に、慎ましやかではあったけれども、どの様に見られようとかまわずに、祈り続けました。

長い間、心を注ぎ出して祈っていました。

その祈りの姿は、声を出さず、口だけが動いている様子は、周りの人々や、祭司エリの目には、お酒に酔っている様に見える程でした。

ハンナに叱責の声をかけた祭司エリですが、状況を知った祭司エリは、ハンナを祝福します。

安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。

人は神様に対してさえも不平不満を口にしますが、ハンナは神様の主権を認め、神様に願い求めたのです。

愚痴をこぼし、不平・不満を口にして声高に騒いでも、何の解決にもなりません。

しかし、心を注ぎ出して祈ったハンナには、憂いもいらだちもありませんでした。

【適応】

ローマ828節、新改訳第3版は302ページ、2017版は310ページ、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ハンナには、この信仰があったのです。

私たちは祈りの結果を見るまで、悶々としますが、ハンナは祈りの結果を見なくても「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」という信仰があり、憂いが取り除かれ、平安で満たされたのです。

神様に全てをゆだね切った時、答えが与えられて居なくても、心は平安で満たされたのです。

これが祈りの結果です。

祈りは結果を見るまで安心できない、のではなく、神様が聴いて下さっているから安心できるのです。

この後、誕生したハンナの子はサムエルと名付けられ、イスラエルの民を導き、裁く、偉大な預言者となりました。

こうして、祭司エリの後継者を育てると言う、神様のご計画は進められて行きました。

ヤコブ516節、新改訳第3版は451ページ、2017版は464ページ、に「義人の祈りは働くと、大きな力があるのです。」とあります。

ハンナの祈りによって、サムエルは生まれてきました。

ハンナの祈りによって、サムエルは神様にささげられました。

ハンナの祈りによって、偉大な預言者が世に出ました。

そして、サムエルによって、神様の栄光が現されました。

祈りには、力があります。

私たちは弱くても、イエス様が取り成してくださるという、約束があります。

あきらめず、疑わず、信じて、祈り続けましょう。

神様は祈る者に平安を与えてくださいます。

神様は問題の解決を与えるのではなく、苦しんでいる事、悩んでいる事を知って下さり、その悩み、苦しみから開放してくださいます。

更に必要なら、願った通りになるかも知れませんし、願った以上の答えが待っているかも知れませんが、私たちに相応しい答えが用意されている事は間違いありません。

ここに居られる皆様が、祈りの結果の平安を頂き、神様の慈しみ、恵みの中に生きられますように。

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                              2018-10-21礼拝

聖書箇所:ヨハネ141節から6

説教題:「イエス様を通して神様を見る、知る。そして信じる」

【導入】

先週「イエス様は、神様の御許に至る唯一の道」と題して、聖書から、御言葉を取り次がさせて頂きました。

イエス様を信じる、信頼する、と申しましても、イエス様を見た事もなければ、イエス様を直接見た人から、詳しい話を聞いた訳でもありませんから、信じるのは なかなか難しい事であり、簡単な事ではありません。

聖書を読んで、或いは、説教を聴いて、イエス様を、神様の御許に至る唯一の道、と理解し、信じるのが、非常に難しいように、イエス様から、直接お話を聴いた弟子たちも、イエス様が、神様の御許に至る唯一の道、であると理解するのも、天に居られる、父なる神様の事を理解するのも、非常に難しい事です。

言葉で伝える事の限界があるからであり、理解するにも、限界があるからです。

人間は、持っている知識、経験、能力の範囲でしか、理解出来ないのです。

持っている知識、経験、能力を超えたものは、理解出来ず、信じる事は出来ません。

それでは、どのようにして、人は神様の事を知り、理解し、信じる、即ち、信仰を持つ事が出来るのでしょうか。

最大の働きは、聖霊様による助けですが、知識は全く不要な訳でも、理解する必要など全くない訳でもなく、闇雲に信じるのが、信仰なのではありません。

聖書の知識、神様についての理解は、必要不可欠であり、何を、どう、信じているかを知り、理解している事は、信仰生活を維持するに、非常に重要です。

人間は、信じている事に対して、ふと、疑問を感じてしまう事があるからであり、疑問が嵩じて、不安に陥るからであり、不安が増すと、不信に至ってしまうからです。

可能な限り、知識を蓄え、理解を深めるのは重要な事なのです。

では、どのようにしたら、知識を蓄え、理解を深める事が出来るのでしょうか。

イエス様は弟子たちに、そして、私たちに、体験の意味を教えてくださいます。

【本論】

14:7 あなたがたが、わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

7節に「知る」と云う言葉が三回も出て来ます。

順に「完了形」「未来形」「現在形」であり、「見た」は「完了形」であり、全て複数形です。

知識の蓄積は、最初は、図書館のような、無機質な「本」の集合のようでしょうが、時の経過と共に、理解に至り、有機的に、相互に影響し合い、複雑に繋がり、理解を深め、新しい知識に繋がるのであり、更に深い理解となり、新しい発見に至るのであり、過去、現在、未来においての、知識の蓄積があってこそ、見た事のない、否、見る事の出来ないお方を、擬似的に見た、との告白に至らせるのであり、その告白を維持し続けられるのではないでしょうか。

しかし、見る事を、肉の眼でしか考えない弟子たちは、「父」を、肉的な意味でしか考えられない弟子たちは、ここまでの、イエス様の言葉を正しく理解出来ず、イエス様は、天の御国に至る道に付いて語っておられ、神に付いて語っておられるのに、理解出来ず、イエス様と的外れな応答をする事になります。

イエス様の語られる言葉を、そのままの意味で受け止めてはなりません。

イエス様が「父」の事を語られても、肉の父の意味ではなく、神様の事を語っておられると、推理、推測しなければならないのです。

しかし、見る事を、肉の眼に頼る弟子たちは、「父」を、肉的な意味でしか理解しない弟子たちは、イエス様に的外れな願いを申し述べます。

14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

ピリポの不満は、仲介者なしに、直接、神様を見たい、との要求、欲求ですが、これは、私たちも持ち得る、要求、欲求です。

好奇心の故であり、怖いもの見たさでもあり、何にでも首を突っ込みたがる、野次馬根性でもあります。

神様は栄光に光り輝くお方であり、その栄光の輝きの強さ故に、比類のない偉大さ故に、人間は直接、間近で、見る事は出来ません。

太陽を見る時、天文学的な距離であるのに、眩し過ぎて、眼を見開き続ける事が出来ないように、また、もしも、近づいたならば、その光と熱とで、一瞬で溶けてしまうように、神様は偉大過ぎて、尋常ならざる栄光の故に、見る事は出来ず、見る事が出来たとしても、神様は、自らが光りを発し、輝かれているのであり、神様には一切の影、一点の曇りもないのですから、光りの塊としか、認識出来ないでしょう。

旧約聖書に登場する、偉大な預言者モーセは、神様を見たいと、切に願いましたが、通り過ぎてからの、「うしろ」を見る事しか出来ませんでした。

これは、後姿なら見る事が出来る、と云う意味ではありません。

神様のうしろも、栄光に光り輝いているのであり、光りの塊としてしか、認識出来ないでしょうし、不用意に見てしまったならば、一瞬で溶けてしまう事でしょう。

しかし、神様の憐れみで、特別な事として、モーセは、神様の「うしろ」を拝する事が出来たのです。

人間は、直接、神様を見る事が出来ませんが、イエス様を通して、神様についての知識を深めた時、神様に付いて、より深い理解に達した時、神様を、より身近に感じた時、或いは、イエス様を、神の独り子として見る時、それは、神様を見ているに等しい事であり、肉の眼ではなく、心の目で神様を見た、と言い得るのではないでしょうか。

イエス様を知る者は、父なる神様を知る者であり、父なる神様を見た者なのです。

人間の、知識の限界、理解の限界であり、仕方のない事ではありますが、イエス様から直接、教えていただきながら、世の人々と同程度の理解に留まり、情けない願いを発するです。

14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたといっしょにいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

ピリポは、イエス様のご人格と、行なわれた「業」の意味を、全然と言っていい位、何も理解していなかったのです。

イエス様は、100%人間ですが、100%神様でもありますから、普通の人間とは、明らかな違いがあった筈です。

肉の眼では、その違いが見えないかも知れませんが、悪霊に憑かれた人は、イエス様の言動で、立ち振る舞いで、イエス様を正しく認識し、告白したのであり、霊の目には、はっきりと違って見えていたのです。

悪霊に憑かれ、常軌を逸した言動を取っていても、イエス様の素性を見抜いたのに、イエス様に心酔していた、イエス様の弟子が、イエス様と親しく交わりを持ち、寝食を共にしていたイエス様の弟子たちが、イエス様の素性を見抜けていない、とは、皮肉な事です。

イエス様のなされた業は、どんなに頑張っても、人間には出来ない、超自然的な業であり、奇跡ですが、それを見て、神様にしか為しえない業を見て、驚きはしても、感心しはしても、イエス様を、神様と同一視はしていなかったのです。

稀有な偉人の一人、偉大な預言者の一人、としてしか、理解していなかったのです。

ペテロは、「あなたは神の子です」と告白しましたが、後には、イエス様を知らないと、呪いをかけて断言しているのであり、その点で、ピリポと大差なく、弟子の皆と大差なく、弟子の全員が、イエス様に付いて深いところを、何も理解してはいなかったのです。

似たような事を、私たちも行なっているのではないでしょうか。

評判、うわさ、学歴で、或いは見た目の印象で人を判断し、教会を評価し、神様が立てられた点に注意、敬意を払わず、語っている事を、神様からの言葉として受け止めないとするなら、大問題でしょう。

イエス様と一緒にいた時間の長さが、イエス様の理解に比例してはいないのであり、教会生活、信仰生活の長さが、信仰の深さに、神様への従順に比例してはいないのです。

毎日、聖書を読み、デボーションを続けても、字面を追い、形だけをなぞっているなら、イエス様に対する、神様に対する理解の助けに、なりはしないでしょうし、本人の意識と、イエス様、神様の評価には、大きな乖離が起こってしまうのではないでしょうか。

だからこそ、ここぞと云う時に、イエス様を見限り、見捨ててしまったのであり、裏切りを働いてしまう事になってしまったのです。

14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

イエス様は神の子であり、神と同等の権威をお持ちであり、その権威によって、語り、行なう事に、何の問題もありませんが、イエス様は、父なる神の権威で語り、行なって来たのであり、その事実を、弟子たちに悟らせるべく、行動して来たのに、弟子たちは何も悟ってはいなかったのです。

これも、無理からぬ事です。

人間は、見た事、聞いた事、目の前の事象しか、理解出来ず、見えない背後の思惑には、意識的な考察を行なわない限り、思い至る事はないのです。

何でもかんでも、神様と関連付けをするのは、行き過ぎでしょうが、少なくとも、イエス様の言動の意味を、考察する事は、必要です。

言葉を発し、行為されているのは、イエス様が、ですが、父なる神様が、イエス様を通して、言葉を発し、行為されているのであり、それを、弟子たる者は、理解しなければならないのです。

弟子でない者と、弟子との違いは何でしょうか。

イエス様の言動だけを見る者と、イエス様の言動の背後で働かれる神様を見る者の、違いなのではないでしょうか。

イエス様の言動に感動、感心、影響を受けて、イエス様に従う者と、イエス様の背後に居られる神様を見出して、神様に従う者の違いなのではないでしょうか。

皆さんは、手術支援ロボット「ダビンチ」をご存知でしょうか。

遠隔操作で、手術を行なう、医療機器であり、機械として非常に優秀ですが、操作をする医師の優秀さが、要であり、手術支援ロボット「ダビンチ」が主体的に手術を行なっている訳ではありません。

患者は、操作を行なう医師を信頼するのであり、手術支援ロボット「ダビンチ」を信頼するのではありません。

手術成功のお礼は、操作した医師に対してであり、ロボットに対してではありません。

見るべきは、医師であり、ロボットでは、ないのです。

イエス様も、神様の意思に従って言葉を発し、行為されているのであり、イエス様が主体的に言葉を発し、行為されているのではないのです。

見るべきは、神様であり、イエス様ではないのです。

この事は、なかなか簡単には理解できない事ですが、イエス様は、弟子たちに、助言を与えます。

14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのいうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

わざ」は、今まで、イエス様が行なわれて来られた「わざ」と、これから行なわれる「わざ」であり、人には成し得ない「わざ」であり、神の「わざ」です。

イエス様の行なわれる「わざ」によって、父なる神様を信じるのですが、この事で、イエス様の意味が薄れる訳ではありません。

先に紹介した手術支援ロボット「ダビンチ」ですが、器械の優秀さは必要不可欠、絶対条件であり、それと共に、医師の操作と、完全な一致と調和があるか否かが、手術の成否を決定付けるように、神様とイエス様の間には、完全な一致があり、調和があり、神様の「わざ」を、神様の目的、意図、真理、いのち、に於いて、寸分違わず、行ない得るのは、神の子イエス様以外には居られません。

イエス様を通してしか、神様の存在を知り得ないのであり、神様の存在は、イエス様を通してでなければならないのです。

この世のもので、神様を知り、見る事は叶いません。

勿論、一般恩恵としての自然の営みから、神様の存在を、朧げに感じる事は出来るでしょうが、イエス様という、特別恩恵でなければ、神様を知る事は出来ないのです。

【適応】

直接、神様を見、知る事が出来れば、それが間違いの起こらない、一番の方法なのですが、先に申し上げたように、神様を直接見、知る事は出来ません。

そこで重要なのは、特別恩恵のイエス様を通して、神様を知る事なのですが、イエス様の居られない現代、直弟子たちが亡くなってしまった現代、聖書からしか、イエス様を知る事は出来ません。

その意味で、聖書の重要性は、言うまでもありませんが、問題は、知ってどうするか、でしょう。

知っているだけならば、意味はありません。

信じ、従う、に進まなければ、意味はないのです。

サタンは、イエス様の事、神様の事をよく知っています。

弟子たちよりも、クリスチャンよりも、比較にならない程、正確に知っています。

何故ならば、サタンは、神様に造られた被造物であり、もともとは天使として、神様に御仕えしていたからです。

神様のご計画に付いても、正確に知っており、イエス様のお働き付いても、正確に知っています。

しかし、神様に反逆し、神様から離れてしまい、人間を滅びに誘い込もうと、暗躍しているのです。

神様を知っていながら、神様のご計画を知っていながらの、サタンの反逆が、サタンに如何に恐ろしい結果を招くかは、説明するまでもないでしょう。

人間についても、概ね、同じ事が言えましょう。

聖書を通して、イエス様を知らされ、イエス様を知りながら、イエス様を無視し続け、神様を無視し続けるならば、その結末は、サタンと同じ所に行き着くのではないでしょうか。

せっかく、神様の恵み、憐れみによって、聖書を通して、イエス様の事を知り、イエス様を通して、神様を知り、神様に愛されている事、神様に招かれている事を知っているのですから、イエス様を信じ、従い、神様を信じ、従い、神様の御許に行こうではありませんか。

キリスト教の歴史は、凡そ2000年であり、膨大な数の、弟子たち、信者たちが、イエス様に、神様に従って来ました。

先に、椎名町教会に縁のある方々のお名前を読み上げましたが、何らかかの方法で、教会に導かれ、聖書を手にし、説教を聴き、イエス様を知り、イエス様を通して、神様を知られた方々です。

私たちも、続いて、神様を信じ、従い続けて行こうではありませんか。

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                              2018-10-14礼拝

聖書箇所:ヨハネ141節から6節             

説教題:「イエス様は神様のみもとに至る道」

【導入】

イエス様のためならば、命を捨てると豪語するペテロ。

そのペテロに賛同し、口々に命など惜しくはない、イエス様に従うと広言する弟子たち。

そこに、嘘偽りはなかったでしょうが、イエス様に従う事を、余りにも、安直に考えていた事は、否めません。

イエス様に従う事は、肉体的にも、精神的にも、簡単な事ではないのです。

死に直面した時、肉体はひ弱であり、苦痛に耐えるのは容易な事ではありません。

迫害は、精神的にも、肉体的にも極限まで追い詰め、耐えられる人は、そう多くはありません。

イエス様に従うと、口で言うのは簡単ですが、実際に従うとなると、想像以上の困難が伴い、従い続けるのは、非常に難しく、挫折する者、裏切る者が、続出する事になるのです。

それでも、聖霊様の助けがあり、イエス様の執り成しがあって、紆余曲折しながらも、失敗と挫折とを繰り返しつつも、辛うじて、イエス様に従い得るのであり、意気込みや、根性で、人間的な熱意、熱心、情熱でイエス様に従う事は出来ないのです。

弟子たちの意気込み、情熱に、水を注すようなイエス様の言葉、ヨハネの福音書1333節、「13:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」、

同じくヨハネの福音書1336節、「13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」。

このイエス様の言葉を聴いて、意味が解らず、混乱し、不安になり、動揺する弟子たちに、イエス様は、励ましと、明確な指針を与えます。

【本論】

14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

心を騒がせ」るな、混乱するな、不安になるな、動揺するな、と言われても、無理な命令であり、「はい、そうします」とはなりません。

人間の心は、騒ぎ易く、混乱し易く、不安を払拭できず、動揺を抑えるのは簡単な事ではないのです。

自分の力で出来る事ではなく、意識を逸らすにしても、限界があります。

考えても結論が出ない事に、何時までも関わってしまうのが人間であり、忘れられないのが、直ぐに、思い出してしまい、堂々巡りをしてしまうのが人間なのです。

そんな弱い人間に、弟子たちに、イエス様は、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、力強い励ましと、揺るぎない慰めの言葉を掛けられるのです。

神を信じ、またわたしを信じなさい」の「信じ」は、動作の継続を指示する、現在命令法であり、「何時も、どんな状況でも、神を信じ続け、またわたしを信じ続けなさい」の意味で理解する必要があります。

神を信じ続け、またわたしを信じ続け」るを、座右の銘、とし、生き方の指針、とする時、心を騒がせる事や、混乱する事が少なくなり、不安に苛(さいな)まれる事や、動揺に翻弄される事が少なくなるのです。

完全な平穏、漣(さざなみ)さえも起こらない境地には至らなくても、非常に安定した状態を維持出来得るのであり、状況に左右されない、出来事に一喜一憂しない、平穏が得られるのです。

そして、重要なのは、神様、イエス様が、信頼を裏切らないお方であり、何時でも、どんな状況でも、信頼に応えて下さるお方だ、と云う事です。

常に、見守り続け、寄り添い続け、決して離れる事はないのです。

だからといって、危機には必ず助けてくださるとか、危害が及ぶ事がないとか、失敗がないと云う事ではありません。

危急の時に助けてくださらない事や、危害に遭遇する事や、失敗する事もあるでしょうが、神様、イエス様は、その危機や、危険や、失敗の時に、隣に居てくださり、一緒に居てくださるのであり、心を穏やかにし、混乱から守ってくださり、不安を静め、動揺を抑えてくださるのです。

人の慰め、励ましも、有効ですが、時に、的外れな慰め、励ましになってしまう事も、逆効果な事になってしまう事も、少なくありません。

しかし、神様、イエス様の慰め、励ましは、的確、適切、であり、危機や危険や、失敗の中でも、平安な心でいられるのです。

否、一時的には、心が騒ぎ、混乱し、不安に苛まれ、動揺しても、直に、神様、イエス様が、平安を取り戻してくださるのであり、平安を与えてくださるのです。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

聖書の多くの箇所で、「父の家」は神殿を意味し、地上の神殿を指し示しますが、ここでは、天にある父なる神様の家を意味します。

住む所」は、単に「住まい、住居、家」を意味するのではありません。

住む所」と訳されているヘブル語は「モネー」ですが、「メネー」に由来するヘブル語であり、「メネー」の意味は「神の内に留まる」であり、2節の「住む所」は、「神様と共なる場所」の意味で理解する必要があります。

住む所」は、単に雨露を凌ぐ場所ではなく、寝食の場所でもなく、寛ぎの場でも、憩いの場でも、団欒の場でもありません。

神様と共に過ごし、神様と交わり、神様と親しむ場所なのです。

その意味で、地上のような意味での「住まい、住居、家」ではありません。

天上の個々人の「住まい、住居、家」は、そのまま「神殿、教会」なのです。

天上の「住まい、住居、家」は、充分な数がありますから、入れない事も、追い出される事も、立ち退きを要求される事もありません。

全ての弟子が、全ての信徒が、全てのクリスチャンが、受け入れられるのであり、全ての弟子の、全ての信徒の、全てのクリスチャンの、永遠の「住まい、住居、家」が用意されているのです。

そうは言っても、地上の世界、有限の世界しか知らない弟子たち、私たちは、膨大な数の弟子、信徒、クリスチャンを受け入れ得るのかと、不安を覚えますが、そんな不安に対して、イエス様は、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と仰せになられ、弟子たちの不安を拭い去ってくださるのです。

これは、決して、天の「住む所」に限りがあるとか、完成途上であるとかの意味ではありません。

天の「住む所」は、この地上の模写、延長ではありません。

天の「住む所」は、広大で、延々と、無限に続く一戸建て住宅地域、何とかニュータウンをイメージしてはなりません。

一戸一戸を、分離し、独立して見る事も出来ますが、有機的に繋がっているのであり、全体として一つとなって、神様と交わりを持つのです。

身体には各器官があり、夫々(それぞれ)が独特の機能を有していますが、身体として統合され、調和し、神様に御仕えするのと、似ていましょう。

その意味で、終末の、イエス様再臨の時に与えられる新しい身体が「住む所」と考える事が出来そうです。

建物としての「住む所」ではなく、「神の内に留ま」り続け、「神様と共なる場所」として、「新しい身体」即ち「住む所」が与えられ個々人の、神様との交わりの場として「住む所」があり、「住む所」全体も一つとなって、神様との交わりの場として機能するのではないでしょうか。

想像できない、素晴らしい世界が待っているのであり、新しい礼拝、新しい交わりが始まるのであり、イエス様は、それらの備えのために、天に行かれると仰せになられます。

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

また来て」が、「再臨」を意味すると理解するのは、間違いではないでしょう。

あなたがたをわたしのもとに迎えます」と、「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」は、導入で紹介した、イエス様の言葉、ヨハネの福音書1333節、「13:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」、

同じくヨハネの福音書1336節、「13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」、に対する回答であり、大きな試練と、厳しい迫害を目前にした初代教会の人々にとって、非常に大切な約束であり、再臨を待つ、現代の私たちにとっても、慰めと、希望に満ちた約束の言葉です。

一時は、イエス様と強制的に引き離され、離れ離れになりますが、イエス様が迎えに来てくださり、天の父の御許に引き上げてくださり、新しく「住む所」が与えられ、未来永劫、一緒に居てくださる、と約束してくださるのです。

そのためには、イエス様は、一度は、何処かへ行かなければなりませんが、

14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」と仰せになられます。

イエス様は、弟子たちが、イエス様が何処へ行くのかを、どの道を通ってかも、知っていると、仰せになられますが、弟子たちには、今の今まで、聴いた事のない事柄であり、何の事を仰せになっているのか解らず、こんな大事、重要な事を聞き漏らしていたのだろうか、と、本当に驚き、戸惑い、弟子たちは、お互いの顔を見合わせたのではないでしょうか。

14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

弟子たちも、私たちも、イエス様の言葉を、表面的、空間的、物理的な意味にしか理解出来ず、質問も、この世的な事になってしまいます。

この三次元の世界に住んでいるからであり、この世の経験しかしていないからです。

新しい世界の事は、神様のご計画は、聴かされても、充分理解出来ず、時には、的外れな理解をしてしまい、神様に、イエス様に失望してしまい、離れてしまい、裏切ってしまう事にもなるのです。

イエス様の行かれる所は、天の父の居られる所であり、そこに至る道は、神様についての真の知識と、神様と共に、命をかけて歩む経験の内にあるのであり、地図がある訳でもなく、ガイドブックがある訳でもなく、時刻表がある訳でも、マニュアル、HOW TOがある訳でも、誰かの経験を、模倣する事でもありません。

神様についての真の知識とは、聖書を諳んじる事ではありません。

聖書の知識は大事であり、必要ですが、聖書の知識を積み、蓄えても、それで神様の御許に至るのではありません。

聖書は、神様について記されていますが、神様について、漏れなく記されている訳ではありません。

聖書を通して、説教やデボーションをとおして、神様の本質、神様が愛である事を知り、その神様が罪人の私を愛してくださり、私の罪の贖いのために、イエス様を十字架に付けられた事を信じ続ける事です。

神様と共に歩むとは、完璧な信仰生活を送る事ではありません。

礼拝厳守、祈りの励行、律法遵守、奉仕は大切であり、不可欠ですが、それで神様の御許に至るのでもありません。

伝道に生涯を献げ、教会形成に尽力しても、それで神様の御許に至るのでもありません。

神様と共に歩み続ける事が、神様の身元もとに至る道なのです。

トマスの問いに対する答えは6節であり、

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

」とは、物理的な道ではなく、イエス様を信じ続け、イエス様と共に歩み続ける事であり、「これ」と特定出来得る、指し示し得る生き方ではありません。

日本には「柔道」「弓道」「茶道」「華道」などがあり、その「道」を究める事が要求されますが、イエス様を信じる「道」は、究めるものではなく、人と比較するものでもありません。

ですから、行き方は千差万別です。

職業の違いも、男女の違いも、年齢も、学歴も関係ありません。

真理」とは、神様の独り子イエス様が、私の罪の贖いのために、十字架に付けられるために、この世に来られたと云う事であり、それを信じ続ける事です。

それに何かを付け加える必要はありません。

十戒も、割礼も、聖礼典も、生き方、証、として必要な基準ではありますが、絶対必要、絶対不可欠ではありません。

そして「いのち」とは、イエス様そのものです。

イエス様から発するモノであり、イエス様から頂くモノです。

最後に、「父のみもとに行くこと」は、「わたしを通してでなければ」、即ち「イエス様を通してでなければ」不可能です。

この世では、目的地に至る「道」は、幾通りもあります。

緩やかな坂道もあれば、急峻な坂道もあり、滑らかな道もあれば、凸凹な道もあるでしょう。

真っ直ぐな道もあれば、曲がりくねった道もあり、緑豊かな花咲く道もあれば、荒涼とした茨の道もあるでしょうが、どこを選んでも、歩き続けるならば、必ず目的地に到達しますが、「父のみもとに行く」道は唯一であり、イエス様を「」と信じ、「真理」と信じ、「いのち」と固く信じて、従う道のみです。

【適応】

本日の説教題を「イエス様は神様のみもとに至る道」とし、看板は、文字数の都合で「イエス様は神に至る道」としましたが、正確に表現するならば「イエス様は神様の御許に至る唯一の道」でしょう。

イエス様を「」と信じ、「真理」と信じ、「いのち」と固く信じて、従う道しか、「父のみもとに行く」事は、即ち「天国、御国」に行く事は出来ません。

教会に毎週欠かさず来ていて、洗礼を受け、聖餐を受けていても、多くの奉仕をし、多くの献金を献げても、イエス様を「」と信じ、「真理」と信じ、「いのち」と固く信じて、従って行かなければ、「父のみもとに行く」、即ち「天国、御国」に行く事は出来ません。

イエス様に従う事が、重要、肝要であり、知っていても、従わなければ意味はありません。

サタンは、イエス様が、どなたであるか、を正確に知っており、震え上がる程でしたが

従いはしなかったのです。

知識は有益ですが、知識は活かさなければ、意味はありません。

イエス様が、どなたであるか、を知っていても、従わなければ意味はないのです。

その従い方も、表面を繕ったような従い方では、自分の都合を優先させるような従い方では、不十分どころか、意味はありません。

表面を繕ったような従い方は、自分の都合を優先させるような従い方は、困難や迫害に遭遇すると、直ぐに従わなくなります。

困難、迫害を理由として、従わない事を正当化します。

その根底には、他にも道がある、他の道を探せばよい、何回でもやり直せる、或いは、頑張りや奉仕や献金と云う手段もある、と考えましょうが、大きな間違いです。

イエス様の他に、道はありません。

他の道は、必至になって探しても、絶対に見つかりません。

何回でもやり直せるのは、確かですが、神様、イエス様を侮っているならば、赦される事はありません。

頑張りや、奉仕や献金は、道のように見えますが、断じて道ではありません。

結論は、イエス様を信じて、従い続ける、に尽きます。

しかし、一切の脇目も振らずに、一心不乱に、闇雲に、ではありません。

そんな、ピーンと張った糸のようでは、何時しか切れてしまいましょう。

弟子たちは、イエス様の前で、緊張してはおらず、恐れを抱いてもいませんでした。

極々自然体であり、非常に和やかな関係であり、礼儀正しく、節度ある振る舞いでした。

私たちも、自然体で、しかし、礼儀正しく、神様に「父」と呼び掛け、親しく、しかし、節度を持って、神の御子に「イエス様」と呼び掛け、イエス様を、神様の御許に至る、唯一の道との、確信を持って、イエス様を信じ、イエス様と共に、イエス様に委ね、イエス様に導かれるまま、イエス様に従い、イエス様に頼り、天の御国、父なる神様を目指して、歩んで行こうではありませんか。

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                              2018-10-7礼拝

聖書箇所:ヨハネ13:3638                  

説教題:「死を覚悟する信仰」

【導入】

イエス様はイエス様を裏切る弟子、イエス様を置き去りにして逃げ出す弟子、イエス様の事を知らないと言い張る弟子、関りを恐れて遠くから成り行きを眺めているような情けない弟子に対しても、その汚れた足を丁寧に洗うと言う、奴隷の行なう仕事を通して、人を愛すると言う事を具体的に示されました。

それは神の子が人のために命を捨てる事にも繋がる行為であり、イエス様は弟子たちに最高の愛を注がれ、イエス様との関係を強く記憶に留めさせ、サタンの誘惑に引き込まれないように力を与えて下さったのでした。

更には、イエス様の弟子たちには、イエス様が示された奴隷の仕事、お互いがお互いに仕える事を通して、最高の犠牲的愛を、この世に現す事を期待されており、そのような無私の愛、見返りを求めない愛、自分を低くして仕える者の姿を通して、イエス様の弟子である事が人々に知られるようにしなさい、と命じられたのです。

イエス様の弟子である事の証拠とは、奇蹟を行なう事ではなく、病人を癒す事でもなく、立派な会堂を立てる事に貢献する事でもなく、伝道に尽力する事でもなく、お互いを愛する事であり、イエス様の示された、イエス様の行なわれた最高の愛、アガペーの愛を真似る事なのです。

好きな人を、尊敬出来る人を、偉大な人を愛するのではなく、嫌いな人を、好きになれない人を、尊敬出来ない人を、取るに足りない人を、愛するのです。

更には、愛の最高の形は、相手のために、自分の命を捨てる事です。

イエス様はイエス様に従う人々、イエス様を愛する弟子たちのためだけではなく、罪人、極悪人のために十字架に掛かられたのであり、最高の愛を示されたのです。

しかし、このイエス様の示された愛は、誰でもが、簡単に、何時でも出来る事ではありません。

イエス様に従う事、イエス様を真似る事は、簡単な事ではなく、イエス様の執り成しと、聖霊様の助けが必要不可欠であり、決して自分の努力とか、精進によって得られるモノではありません。

しかし、弟子たちはこれらの事を、まだ理解してはおらず、自分の力でイエス様に従い得る、イエス様の愛を行ない得ると思い込んでいたのであり、イエス様の語られた「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言う宣言に反発を覚え、憤慨するのは、弟子たち全員の思いであり、その気持ちを現すべく、シモン・ペテロが代表してイエス様に抗議の声を上げるのでした。

【本論】

13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

このイエス様の言葉には二つの意味が含まれているようです。

一つは、この後の、イエス様を見捨てて逃げる事であり、知らないと言い張る事に繋がる、人間的な力による所の、弟子としての歩みです。

イエス様の弟子と呼ばれる人々と、世の組織、団体に所属する人々とは大きな違いがあり、それは「他力本願」と「自力本願」の違いと言う言葉で現せるのではないでしょうか。

キリスト教の信仰に留まり続けるのは、一方的な神様の赦しと力、愛に根ざしていますが、世の宗教、団体、組織は自分の力で留まり続け、努力、精進によって目的を達成しようとするものです。

努力、精進は立派な事であり、世の中では価値ある事と賞賛されましょうが、努力、精進では神様の基準には達し得ないのであり、従って目的、即ち、罪の贖いを得る事は出来ず、義とされる事はなく、天国に行く事は出来ないのです。

しかし、神様、イエス様の愛による、イエス様を十字架に掛ける事によって罪の贖いをなそうとの神様のご計画を信じる者は、その信仰によって義と見なされ、天国に入る事が許されるのです。

当時の弟子たちは、自分たちの熱意や、イエス様に対する愛を根拠に、イエス様に従っていたのであり、従って行けると思い込んでいたのです。

しかし、それは非常に脆いもの、危ういものであり、試練に耐え得るものではないのです。

弟子たちの不甲斐なさは皆様ご承知の事と思いますが、それは人間的な力の結果であり、聖霊様の助けが不可欠であり、聖霊様の注ぎがあってこそ、弟子として歩ませて頂ける事を忘れては成らないのです。

二つ目は「今は」と言う言葉に現されている神様のご計画であり、段階があると言う事です。

イエス様を信じた瞬間に、完全な者、神様の御心に適う者になる訳ではありません。

キリスト教では「聖化」と言いますが、坂道を一歩ずつ登る様に、休み休み登る様に、徐々に登って行くのであり、時には足を滑らせて後戻りしてしまいますが、時をかけて、段々と頂上に近づく様に、神様から課題を与えられ、失敗したり、上手く行ったりを繰り返しつつ、整えられて行くのです。

イエス様の一番弟子のシモン・ペテロ、然り、イエス様の弟子を迫害したパウロ、然り、です。

誰もが同じ課題を神様から与えられる訳ではありませんし、同じ課題でも、求められている答えは違っているのです。

神様の時を待つ事が重要であり、神様が待て、と仰せになられるなら動いてはならず、神様が行け、と仰せになられるなら留まっていてはならないのです。

先に、弟子としての歩みに、聖霊様の注ぎが不可欠であると申しましたが、必要不可欠なものであっても、小さな器に大きなモノは入れられません。

小さな器、それは神様との親しい、深い交わりによって、徐々に大きくなって行きます。

大きくされて行く、と言った方が正しいかも知れません。

大きな器には、大きなモノが入れられるのであり、神様は器に相応しい賜物を与え、働きを委ねられるのです。

当時の弟子たちは、小さな器であり、これから起こる試練に耐え得る器ではなかったのであり、それを知っておられるイエス様は「今はついて来ることができません」と仰られたのであり、神様の与えて下さる聖霊様の助けによって「後にはついて来」るようになると仰せられたのです。

しかし、人間的な力に頼り、神様の時、神様の助けの必要性を理解しないペテロは、イエス様の言葉に憤慨して言い放ちます。

13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

ペテロの「いのちも捨てます」との言葉は本心から出た言葉であり、嘘偽りがない事、決して回りにいる弟子たちを意識しての大げさな表現でない事と思います。

ペテロの思いは、3年間も一緒にいたのに、イエス様は私の事を何も解かってくれていない、と言う不満だったのではないでしょうか。

ペテロは漁師でしたが、その安定した働き、収入、地位を捨てて、イエス様の弟子となったのでした。

其処には弟子としての自負と共に、イエス様を愛し、イエス様を師と仰ぎ、イエス様と共に生き、イエス様と共に死ぬ、イエス様に殉ずる覚悟があった事でしょう。

今まで口にした事はないけれども、私は何時も死を覚悟してあなたに従って来たんですよ、との思いで、先の言葉を発したのではないでしょうか。

しかし、死は、人間的な意気込み、勢いで発して、受け入れ得る結果ではなく、人間的な熱意だけで為し得る行為でもないのです。

本日の説教のタイトルを「死を覚悟する信仰」としましたが、この覚悟は軽々しく誓える決意ではなく、その時の空気を読んで、調子を合わせて発してはならず、自分の弱さ、欠点、足りなさ、を深く熟考した上で、それでも、神様が私に死を与えるなら、その死を受け止める事が出来るように弱い私を助けて下さい、

この試練に立ち向かえる聖霊様の助けを与えて下さいと祈る事が重要であり、死を覚悟して頑張るとの、檄の言葉、発破をかける言葉ではないのです。

イエス様もペテロに対して「ペテロよ、あなたはまだ死の覚悟が出来ていない。

死を覚悟して私について来なさい」と仰られたのではなく、「ペテロよ、あなたはまだ弟子として整えられていない。整えられたなら、ついて来る事が出来るし、其処には無理もなく、悲壮感もなく、恐怖もなく、自然体で、喜びに溢れて死に赴く事が出来るようになる」と仰られているのではないでしょうか。

聖霊様のお取り扱いによって整えられる事が重要であるのに、それを理解しないペテロは自分を前面に出し、自分の力と決意によってイエス様に付いて行く、死など恐れていない、死を覚悟していると宣言するのです。

13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロの告白が真実なもの、本心から出た告白であった事に異議を挟みはしませんが、人は弱い生き物であり、肉体も弱く、精神力も弱く、苦痛や威圧には長くは耐えられはしない生き物なのです。

そんな人間の弱さを知っておられるイエス様は、ペテロがイエス様との関係を否定する事を予告されたのでした。

その三度の否定の言葉は「鶏が鳴くまでに」発せられる、と言う但し書きがある事に注目したいと思います。

マタイの福音書では「今夜、鶏が鳴く前に」と記し、マルコの福音書では「今夜、鶏が二度鳴く前に」、ルカの福音書では「きょう、鶏が鳴くまでに」と記しています。

都会で鶏の鳴き声を聞く事は少ないと思いますが、鶏は夜明けに鳴く事が多い様です。

空が白んでくると、鶏が時を告げ、朝が来た事を知らせる事になる訳ですが、鶏は朝を知らせる為に鳴く訳ではありません。

真夜中に鳴く事もあり、鶏は何かに驚いても鳴くのであり、決してある特定の時間を現してはいないと言う事です。

ペテロの裏切りは、2時間後とか3時間後と言う限定された時間ではない、しかし、今夜と言われている間の出来事となるのです。

即ち、何時とか何処で、とかは、解からないが、必ず終りの時が来る事を教えているのではないでしょうか。

試練は必然であり、神様のご計画の内にあって起こります。

偶然には起こらないのであり、そして最期の時、イエス様の時がやって来るのです。

ペテロに対する神様からのチャレンジは3度。

そして、その3度の試練に、ペテロはイエス様に対する信仰告白をする事が出来ず、イエス様を裏切ってしまうのでした。

【適応】

このペテロの裏切りですが、イスカリオテのユダの裏切りとは決定的な違いがあります。

どちらもサタンの計画であり、二人ともイエス様を裏切るのですが、それは計画的なものか、突発的なものかの違いです。

ペテロの裏切りは、ペテロの計画によるものではありません。

暖を取るために当っていた焚き火の側で、たまたま居合せた女中に、他の男に、別の男に問い質されて、咄嗟に出てしまった否認の言葉であり、決して予想していた事でもなければ、計画的でもなかったのです。

しかし、イスカリオテのユダの裏切りは、計画的であり、時を覗っていたのであり、周到に準備されたものであったのです。

イエス様の対応もペテロに、イスカリオテのユダに相応しいものであり、頑なに決意を固めているイスカリオテのユダに「あなたの為すべき事を、今すぐしなさい」と諭されたのであり、

熱心だけれども衝動的なペテロには、熱心だけでは弟子として不充分であり、衝動的な所には弱さが隠れている事を自覚するべく計画された事がある事を、そして、ルカの福音書223132節、新改訳第3版は163ページ、2017166ページ、「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と記されているように、試練の予告と共に使命が与えられたのです。

私たちが試練に合うのは、私たちのためであり、必然です。

試練に負けてしまう事があるのも、私たちのためであり、自分の弱さを自覚し、兄弟の弱さに同情出来る者となるためであり、試練に合う兄弟を力づけてやるためなのです。

立ち直って支配者となるためではなく、裁き人となるためでもないのです。

自信を持つ事は重要ですが、自信は慢心を生み、慢心は思わぬ試練に出会った時、失敗に行き着いてしまう危険を孕んでいるのです。

「死を覚悟する信仰」は自分の信仰に自信を持った生き方を奨励しているのではなく、常に「試練」を意識し、試練に伴う「死」を意識し、試練と死に立ち向かう備えと、試練と死を乗り越える信仰を持たせて頂けるよう、聖霊の助けを願い求める生き方を奨励しているのです。

そんな試練と死を覚悟した生き方は、自分を正しく認識し、自分の弱み、強みを知って、謙遜に生きる事です。

「私は大丈夫」。そんな人が危ないのです。

「こんな罪人の私を憐れんで下さい」と告白する者に、神様は助けを与えて下さるのです。

「あなたは三度わたしを知らないと言います」

このイエス様の言葉は、イエス様は私たちの弱さを知っている、との言葉であり、弱さに同情出来るお方である事を教えています。

決してペテロの弱さを明るみに出し、糾弾しているのではありません。

弱さ、欠点を知って尚、自分の命を捨てるまでに愛するのです。

私たちの言葉も、人の弱さ、欠点を糾弾し、追及するものであってはなりません。

人を生かし、励ます言葉を発し、イエス様の愛をこの世に現して行かなければなりません。

それがイエス様を愛する事であり、イエス様に愛されている者の務めなのです。

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