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                                                         2018-11-25礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1424節から31

説教題:「あなたがたに平安を与えます」

【導入】

イエス様は、最後となる、過越の食事の席で、弟子たちに大切な事を話されました。

それは、信仰の確信に関するお話であり、イエス様が十字架で死なれる際の、励まし、慰めのことばであり、イエス様が昇天されてからの、励まし、慰めのことばであり、希望のことばでした。

イエス様は天に昇られ、暫くの間、逢えなくなるけれども、悲しまなくても良い、何故ならば、「あなたがたに聖霊を与えます」、であり、寂しがらなくても良い、何故ならば、「あなたがたを孤児にはしません」、だからです。

今回扱う聖書箇所も、この流れの中で語られました。

意味的には、重複する内容なのですが、重複しても語る必要があったのであり、それは、信仰に生きる事の難しさ、厳しさを物語っているのではないでしょうか。

ユダヤ教の絶対的支配下にあった時代と云う、特殊な状況下での事ではなく、唯一の神の御こころに従う時、何時でも、何処でも、出会う困難です。

信仰の自由、内心の自由が保障されている、現代、日本でも、信条を貫くには、摩擦を覚悟しなければならず、時には、不利益、迫害をも覚悟しなければならない場合もあるのです。

大して役には立たなくても、仲間の存在は大きいものですが、クリスチャンは、極々少数派であり、援助援軍は見込めず、孤軍奮闘は、大げさではなく、想定出来る現実なのです。

現在、この瞬間は、問題なくても、しかし、いつ何時、信仰上の問題、戦い、摩擦が起こるかも知れず、多くの人が、漠然とした不安を抱えて、信仰生活を送っているのではないでしょうか。

イエス様の愛弟子も、変わりはありません。

否、私たち以上に、不安を感じたのではないでしょうか。

何故ならば、指針となる聖書もなく、教会もなく、連絡を取り合い、安否確認、情報交換、情報共有する手段が無かった時代だからです。

そんな不安を抱える弟子たち、また、現代の私たちに、イエス様は「あなたがたに平安を与えます」と約束されます。

【本論】

新改訳2017

14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

イエス様の弟子であると、告白する者は、イエス様を愛さなければなりません。

世の中では、誰かの弟子と名乗る者は、信奉者は、師と仰ぐ人の述べる学説、理論、信条に対して信奉、信服するのであり、その学説、理論、信条を述べる人を、尊敬、敬慕はするでしょうが、愛の対象ではなく、愛しはしません。

命が脅かされる状況下で、信条を撤回する事なく、死ぬ事になったとしても、主義主張に殉じたのであり、師を愛するが故ではありません。

しかし、イエス様に対しては、その述べる事を信じるだけでは不十分であり、イエス様に対して、命をかけて、従順でなければならず、都合が悪くなったからと云って、また、考え方が変わったから、時代に合わなくなったから、と云って、見限っては、放れて行ってはなりません。

イエス様に対する従順は、夫婦のような関係であり、一心同体であり、イエス様に対する「愛」故に、従い、殉ずるのであり、世の中の、信奉、信服の類ではないのです。

イエス様を愛するが故に、イエス様のことばを守り、従うのです。

しかも、イエス様は神様であり、人間のように間違ったりしませんから、イエス様のことばを守り、従っても、全く間違いないのですが、イエス様は、神様のことばをそのまま語っているのであり、二重の意味で、従う価値があり、守る意義があるのです。

この事は、繰り返し語られて来ていますが、大切な事であり、イエス様は念には念を入れ、繰り返し語られているのです。

14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。

イエス様は、地上におられる間に、弟子たちを教えられましたが、理想論とか、机上の空論を話されたのではなく、真理を話されたのであり、実践すべき事を、具体的に話されたのです。

弟子たちが理解すると、否とに関わらず、一方的に、機械的に話されたのではありません。

大衆の面前で語られる時には、喩えで語られ、弟子たちも、理解に苦しむ時もありましたが、弟子たちには、特別に、喩えの意味を解説する時が用意され、正しく理解するための手助けがあったのです。

解説がなされなければ、当時の常識や慣習で判断せざるを得ませんから、的外れな理解や、イエス様の意図しない適応に至る事もありましょうが、イエス様の解説があるのですから、的確な理解と、意図通りの実践が期待出来ましょう。

イエス様昇天後は、弟子たちに働きが委ねられており、弟子たちの責任は重大ですが、備えが為されているのであり、しかも、一度ならず、二度、三度と、繰り返し教えられているのです。

それでも、人間には罪の性質があり、意図せずして真理を曲げてしまう性(さが)があります。

イエス様は、弟子たちを信頼し、働きを委ねつつも、弟子たちを助ける事を約束され、この事も繰り返し語られます。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

イエス様から委ねられた働きは、どんなに熱心に、積極的に取り組んでも、人間の働きとなってしまってはなりません。

イエス様、神様のご計画は、神様、イエス様の主権で進められなければならず、直接、眼に見える働き人は、弟子たちであっても、背後に、神様、イエス様が浮かび上がって来るようでなければ、神様、イエス様の働きである事が、感じられなければ、如何に成果があったとしても、それは失敗と言わざるを得ません。

逆に、何の成果が無かったとしても、神様、イエス様のご計画に忠実であったなら成功であり、後日、思いもかけない形で、回り回って、巡り巡って、成果として現れて来るのではないでしょうか。

成果も大事ですが、神様、イエス様に従っての行動であったか、プロセスであったか、が大事なのです。

そこに至るのは、聖霊様の働き、助けであり、聖霊様の助けがあってこそ、神様、イエス様の御こころに従えるのです。

聖霊の働きによって、教えられた事を思い起こさせられるだけではなく、それまで思い至らなかった深い意味が明らかにされるのです。

特に重要なのは、イエス様の人格と贖いのわざ、贖罪の犠牲に関する理解です。

何故、神が人となり得るのか、無限の、比類なき存在が、有限な、か弱い存在になり得るのか。

何故、イエス様お一人の十字架刑での死が、全人類の罪の贖いになり得るのか、しかも、過去、現在、未来に亘って、罪を贖い得るのか。

簡潔に答えるならば、イエス様が神であり、神様のご計画だからですが、納得出来るのは、聖霊様の働き、助けに完全に依存しています。

他の、如何なる哲学や学問でも、答えは見い出せず、答えに至りません。

弁舌が立ち、流暢に解説され、合理的な答えが提示されても、納得するか否かは、聖霊様の働きに依っているのです。

聖霊様の働き、助けによって、イエス様の人格と贖いのわざを理解するに至るのですが、更に、聖霊様の働きは続きます。

14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

皆、押しなべて平安を求めますが、本当の平安は何処にあるのでしょうか。

エレミヤ書にはこのように記されています、

613節、新改訳第三版は旧約聖書1251ページ、2017版は1298ページ、

預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。

6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」。

霊的指導者自らが、偽りを行い、人々を騙し、この世での快楽や、安定した生活、暫しの自由、思い描いた生活、夢、を追い求めさせ、現実逃避に走らせ、真理から眼を逸らせます。

そして、その行き着く先は、裁きと刑罰です。

この世での平安は、見せ掛けの平安であり、一時的な平安であり、必ず来る裁きの前の前触れ、嵐の前の静けさ、でしかありません。

しかし、イエス様は「わたしの平安を与え」る、と仰せになられます。

イエス様の与える平安は、この世に対する勝利者としての平安、或いは、死に対する勝利者としての平安であり、死後の裁きを免れ、天国に憩い、永遠の命が与えられるところの平安です。

「与える」と訳していますが、その意味は「招き入れる」であり、従って、誰にも奪われず、減りもせず、失くす心配もありません。

イエス様の内に招き入れられるのですから、完全な安全と、絶対の安心、究極の平安が保証されるのであり、故に、「心を騒がせてはな」らず、「ひるんではな」らないのです。

14:28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

ここで三つの事が語られています。

一は「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」です。

これは143節の繰り返しであり、イエス様は、弟子や信徒たちのために、場所を備え、弟子や信徒を迎えに来られる事を、繰り返されます。

二は「わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです」です。

イエス様は神様ですが、人間の姿になられているので、何かしらと制限が生じますが、父なる神のもとに行かれ、全能の力を、完全に回復されるのです。

父なる神のもとに行く事は27節にも関わって来ます。

イエス様の与えてくださる平安は、父なる神、ご自身の平安であり、完全な平安なのです。

更に、父なる神の隣で、弟子や信徒たちのために執り成してくださるのであり、イエス様が与えてくださる平安は、二重、三重に保障されているのであり、イエス様が父なる神のもとに行く事は、喜ぶべき事なのです。

三は「父はわたしよりも偉大な方だ」ですが、このことばをもってして、アリウス派は、イエス様の神性を、父なる神よりも劣る、下位にある、と考えるのですが、イエス様は、父なる神に従順であり、地上での謙卑の状態を言い表したことばであり、秩序、摂理に対する態度を表したことばである、と理解しなければなりません。

神様のご計画に、イエス様は従い、イエス様に、聖霊様が従い、神の栄光が現されます。

これが、秩序なのであり、混乱を防ぐ秘訣なのであり、

教団、教会でも、社会、家庭でも、神様が立てられた秩序、権威に従う時、神の栄光が現されるのです。

14:29 今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。

「それ」は、直接にはイエス様の十字架刑であり、昇天ですが、神様のご計画、人間の、罪からの救いのご計画であり、全てが、神様の救いのご計画であり、全てが、ご計画の内に、進められた事を知り、イエス様に対する信仰を、確固たるものにするのです。

14:30 わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。

イエス様は、充分な時間を費やし、懇切丁寧に疑問の払拭に取り組み、言い忘れた、言いそびれた、などは一切無いのであり、聖霊様の助けをも、確約してくださったのです。

この世を支配する者」は、この世の主権を掌握し、自由に振る舞い、神様のご計画が頓挫、停滞、崩壊したかのように見えるでしょうが、それは、一時的であり、見かけだけであり、イエス様を支配する事も、イエス様に対して主権を振るう事もないのです。

イエス様は、「この世を支配する者」の力、策略によって、攻撃、反発を受け、働きを阻害され、いのちを奪われたかのように見えましょう。

イエス様はこの世に遣わされましたが、この世に属してはいないのであり、「彼はわたしに対して何もすることができません」であり、イエス様は、父なる神様の御こころ、ご計画の通りに進まれ、イエス様は、自ら、いのちを献げられたのです。

そして、最終的には「この世を支配する者」は追い出される事が決まっているのです。

14:31 それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

31節は、24節と対になっています。

イエス様を愛し、イエス様のことばを守る、と云う事は、イエス様が父なる神様を愛し、父なる神様のことばに従う事に、繋がっており、弟子と信徒たちが、イエス様を愛し、イエス様のことばを守る時、世は、父なる神様を知るきっかけとなるのです。

ですから、弟子たるもの、信徒たるものは、この世に生きていますが、この世に所属しているのではなく、イエス様に属している、との自覚を持ち、この世と一線を画した生き方が求められましょう。

行くのです」は、用法として「近づく敵を迎え撃とう」の意味で使われます。

軍隊用語では「行進する、進軍する」の意味であり、30節と合わせて意訳すると、「この世を支配するものが攻めて来る。

勿論、彼は、わたしをどうすることもできない。

わたしが父を愛し、父から命じられたとおりに行なう事を世に示すために、さあ、出て行って、彼を迎え撃とうではないか。」であり、31節は、明確な派遣命令なのです。

【適応】

本日の説教題「あなたがたに平安を与えます」とは、大きなギャップがありますが、平安は、安穏と生きる事ではなく、隠遁生活でもありません。

この世を支配する者」は、誰彼かまわず、否応なしに、支配下に置くのであり、全ての人が、当事者であり、免れるものは一人もいません。

この世を支配する者」に従うと、平安が与えられるのではありません。

この世を支配する者」の顔色を窺う生活は、決して平安では、ありません。

搾取や強奪、差別や迫害、支配や抑圧が起こり、それが日常なのですから、平安などとは、ほど遠い状態に置かれます。

重要なのは「この世を支配する者」の最後は、滅びであり、「この世を支配する者」に従う事が、如何に愚かな選択か、なのです。

逆に、イエス様に従う事に於いても、戦いがあり、自制や犠牲を強いられるでしょうが、それは、確実な勝利に繋がっているのであり、その勝利に必ず与れる、決して洩れる事はない、と云う、絶対確実な希望があり、深い喜びがあり、それこそが、真の平安なのではないでしょうか。

勝つか、負けるか判らない状態は、不安であり、平安ではありません。

しかし、間違いなく勝利が待っているなら、苦しくったって、辛くったって、それが、迷いに、恐れに、疑いになる事はないのです。

イエス様が「あなたがたに平安を与えます」と仰られるのは、安全な特別席が用意されていて、そこで、ピザを食べ、コーラを飲みながら、イエス様と「この世を支配する者」とのバトルを観戦する、の意味ではありません。

あなたが「この世を支配する者」と戦うのですが、イエス様に代わって戦うのであり、イエス様が応援し、助けてくださるので、戦いの最中にあっても、平安でいられるのであり、この平安を奪う、如何なる力も、モノも存在しないのです。

イエス様の弟子や信徒には、この平安が与えられているのです。

それは、「この世を支配する者」と戦うためであり、勝利を得るためであり、イエス様と共に、天の御国に、勝利の凱旋をするためです。

恐れず、臆せず、「この世を支配する者」との、信仰の戦いに立ち向かおうではありませんか。

 

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聖書箇所:ルカの福音書111節から13

説教題:「祈りの心」

説教者:渡辺 真理(まこと)牧師 (日本同盟基督教団 支援教師)

【聖書】

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

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聖書箇所:ヨハネの福音書1418節から23

説教題:「あなたがたを孤児にはしません」

【導入】

前回「あなたがたに聖霊を与えます」と題して、聖書から御言葉を取り次がさせて頂きました。

私たちクリスチャンは「信仰から出ていない事は、みな罪です」と教えられています。

これはローマ書1423節に記されています。

新改訳第三版は新約聖書312ページ、2017版は321ページです。

「信仰」と云うことばを、具体的な言い方に変えるならば「聖書の教えに反する事は、みな罪です」であり、或いは「神様を愛し、人を愛する事に反する言動は、みな罪です」であり、「罪」は狭義の犯罪だけでなく、広義に解釈、適応して、道徳的、倫理的に、しかも時代や文化にも影響されない普遍的な解釈をし、適応しなければなりません。

合わせて、時代に合わせた解釈、適応もしなければなりません。

男女の差別、割礼、生理などに関する様々な規定や、食物の禁忌規定、反芻しない動物を食する事、具体的には豚肉を食する事、鱗の無い魚を食する事、具体的には鰻を食する事、屠殺した動物の血抜きの規定などは、現代に合わせての解釈と適応が為されて然るべきでしょう。

勿論、変えるべき規定、変えても構わない規定、変えてはならない規定の判断は、神様の導きで、でなければなりません。

しかし、そうである事は解っていても、時代の影響を受け、文化の影響を受け、歴史の影響を受けている私たちは、時代、文化、歴史から全く自由に判断、行動する事は出来ず、神様の御こころに適った判断をする事は難しい事です。

だからこそ、聖霊様の導き、支え、助け、守りが必要不可欠であり、イエス様のお約束、「あなた方に聖霊様を与えます」とのお約束が、如何に必要な事かが、大切な事かが、お分かり頂けるのではないでしょうか。

弟子たち、私たちの信仰に、必要不可欠な、聖霊様であり、イエス様に代わる、重要なお働きを担われるのですが、聖霊様が来られるのは、イエス様が、天に昇られてから、なのですから、そこには、大きな不安や悲しみが伴いましょう。

イエス様と別れる悲しさ、置き去りにされる不安、頼るお方不在の不安。

それを解消するお約束、心構えが、本日のテキストの内容なのです。

【本論】

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

と、不安に怯える弟子たちに、優しく語り掛けます。

あなたがたを捨てて孤児にはしません」には、四重の意味が掛かっています。

一番目は、16節「父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」のお約束の通り、助け主をお与えになるので、「孤児」になる事はない、と理解出来そうです。

この助け主、聖霊様は、肉の目には見えませんが、父なる神様がお与えになられるので、存在は確実であり、その助け主、聖霊様は「いつまでも、あなたがたとともにいる」と、父なる神様が約束されているのですから、この点でも確実、安心です。

二番目は、19節の「あなたがたはわたしを見ます」と関連付けて、復活されるイエス様と会う事を約束するもの、と理解する事が出来そうです。

字義通りの孤児は、親と、親族と死に別れ、永続的に逢えない状態であり、逢える希望は全くありません。

しかし、イエス様が死なれ、弟子たちと別れても、それは、一時的に留守にしているだけの状態であり、暫くすれば、イエス様は復活され、墓から出て来られるのであり、その時、復活されたイエス様とお逢い出来るのであり、希望があるのです。

三番目は、143節の「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と関連付けて、イエス様との再臨において成就する、と理解出来そうです。

イエス様は復活され、弟子たちと暫くは一緒に居ますが、やがて、イエス様は天に昇られます。

それは、弟子たちとの別れではなく、弟子たちの居場所を用意するためであり、用意が出来たら、迎えに来られるのであり、その後は、何時までも、弟子たちと一緒に居るのであり、希望があるのです。

四番目の意味については、23節でお話いたしますので、それまで暫くお待ち願います。

14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

19節は、先にお話したように、復活のイエス様との再会のお約束、宣言と理解出来そうです。

孤児は、捨てられ、何の保障も、保護も、権利もなくなってしまいますが、19節のイエス様のお約束、宣言は、弟子たちに、弟子たちは復活のイエス様に繋がり、イエス様ご自身の永遠のいのちにあずかる事、イエス様とともに生きる事、即ち、永遠のいのちが与えられる事を確信させる約束、宣言なのです。

イエス様との別れは、辛く、悲しい事ですが、一時的な事であり、それがあってから、それを経てから、イエス様が生きられる如くに、あなたがたも生きるようになる、と宣言されるのです。

14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうにいることが、あなたがたに分かります。

19節までの、また、それ以外の箇所での、様々な疑問などなどは、「その日に」全て、解消、氷解する、とイエス様は仰せになられるのです。

しかも、一々、説明するまでもない事であり、何故ならば、「わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうにいる」からであり、

父なる神様の内に子なるイエス様がいるのは言うまでもなく、説明するまでもなく、なのですが、イエス様の内に弟子たちがいるのであり、弟子たちの内にイエス様がいるのであり、イエス様と弟子は、一体となり、必然的に、イエス様のお考え、神様のお考えを、我が事のように理解し、様々な疑問は、腑に落ちるのであり、その事によって、父なる神様、子なるイエス様と、一体になった事が分かる、弟子たちは、イエス様と親密な交わりの内に生きている事を理解するようになる、それを実感、確信する、と言うのです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

イエス様は、イエス様を愛しているか否かは、「わたしの戒めを保」っているか否かで判断できる、と仰せになられます。

イエス様の与える戒めへの、服従の度合いが、イエス様への愛の度合いに現れると、仰せになられるのです。

口約束に、或いは、戒めを知っている、に留まっていても、意味はありません。

実行してこそであり、イエス様の戒めに対して、誠実に取り組んだか、戒めにしたがった行動をしたか否か、が問われるのです。

勿論、イエス様の与える戒めに、完全に服従する事など、罪を持つ弟子たちには、私たちには無理な相談ですが、助け主、聖霊様が助けてくださり、執り成して下さるのですから、安心です。

しかし、聖霊様の力だけで服従出来るのではありません。

人間の側の、積極的応答が必要であり、ある意味の、頑張り、努力、継続が必要です。

それでも、失敗や挫折する事もありますが、聖霊様は、動機も、経過も、経緯も、全て知っておられますから、誠心誠意、取り組んだならば、一切の咎めは無く、イエス様の与えられた戒めに、服従した、従順であったとの、評価がなされるでしょう。

しかし、聖霊様、イエス様を侮り、適当に誤魔化し、見掛けを繕っていたならば、聖霊様に、イエス様に、一切の隠し事は出来ませんから、戒めに反し、不従順であった、との評価がなされ、厳しい処分を受ける事になるでしょう。

行動の動機が問われ、経過、経緯が問われ、言い訳、言い逃れは出来ないのです。

14:22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」

この質問は、イエス様のことばに対する、ユダの素朴な疑問から発せられた質問でしょう。

イエス様が、弟子だけに限定する意味を、諮(はか)りかねたのです。

ユダは、イエス様が弟子だけにしか、語らないのは、弟子だけにしか、ご自身を現そうとなさらないのは、イエス様の力の限界を示すように感じられ、不自然、不思議を感じたのです。

ユダは、弟子であると、弟子に非ずとを問わず、全ての者にご自身を現すべきであると考えたのです。

この考えは、イエス様の実の弟たちも同じです。

ヨハネの福音書73節、4節、新改訳第三版は新約聖書188ページ、2017版は192ページ、そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行なう人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい」。

この世は、神様に対して反抗的であり、神様の御ことばを受け入れようとはせず、イエス様の、どんな言動に対しても、無感動、無反応であり、死人の中から甦える者があっても、信じようとはしないのであり、病人を癒し、悪霊を追い出しても、マルコの福音書322節、新改訳第三版は新約聖書69ページ、2017版は70ページ、また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている。」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた」なのであり、サタンの力、ベルゼブルの力を借りて不思議な事をして、人々を惑わしている、との評価を下すのです。

この世の評価は、この世に都合の良い評価を下すのであり、都合の悪い指摘に対しては、非常に厳しい反応を示します。

イエス様に対する評価、然り、バプテスマのヨハネに対する評価、然りであり、世の反応、評価に対して敏感になる必要はありません。

むしろ、無視すべきであり、弟子としてなすべき事を認識し、それに取り組むべきなのです。

ユダの、自然な疑問に対して、

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

イエス様の御ことばへの服従、戒めに対する従順において、イエス様への愛を現さない者は、イエス様をも、父なる神様をも愛する事は出来ず、イエス様をも、父なる神様をも受け入れる事は出来ず、イエス様にも、父なる神様にも受け入れられはしないのです。

逆に、イエス様の御ことばへの服従、戒めに対する従順において、イエス様への愛を現した者は、イエス様に、父なる神様に愛を現したのであり、イエス様を、父なる神様を受け入れた事を表明したのであり、イエス様にも、父なる神様にも受け入れられるのです。

イエス様の語られたことばは、父なる神様の語られた御ことばであり、イエス様が与えられた戒めは、父なる神様が与えられた戒めであり、イエス様への従順、服従は、イエス様を遣わされた父なる神様への従順、服従なのです。

ですから、父なる神様に受け入れられるのは、当然であり、18節で、「孤児にはしません」の四番目の意味については、23節のところで申し上げるとしましたが、父なる神様に受け入れられる事が、四番目の意味なのです。

聖霊なる神様との、親しい交わりが与えられ、子なるイエス様との、親しい交わりが与えられ、全知全能なる父なる神様との、親しい交わりが与えられるのであり、この世でも、新しい世界でも、孤児にされる事はないのです。

【適応】

イエス様の時代は、普通に生きるのも困難な時代であり、寡婦や孤児、病気や怪我で働けない者は、本当に悲惨でした。

それでも、イスラエル民族の、弱者、貧者に対する憐れみの精神は引き継がれ、施しが実践されてはいましたが、どの町にも寡婦がおり、孤児がおり、病気や怪我で働けない人が、本当に大勢いたのです。

自分たちの食い扶持だけで手一杯、他人の面倒まで見る余裕はなく、施しを受けたくても、受けられない人が大勢いたのであり、餓死は、非日常の出来事ではなく、孤児は、想像の域の問題ではなく、現実の問題であり、切実な問題であり、明日は我が身の問題なのです。

そんな時代の中で、イエス様の弟子たちは、マルコの福音書1028節、新改訳第三版は新約聖書87ページ、2017版は88ページ、「ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」」であり、職を捨てて、家族を捨てて、土地を離れて、祭司、律法学者、パリサイ人を敵に回して、イエス様に従って来たのであり、イエス様が離れていかれるのは、現実の、切実な問題だったのです。

イエス様はユダヤ教に反する教え、異端の教えの一味の首領であり、弟子たちを保護するのは、異端に加担する事であり、イスラエル社会からの追放を覚悟しなければならない事であり、あり得ない事なのです。

そんな弟子たちの不安を知り抜いての、17節の「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」との宣言なのです。

どんなに大きな、揺るぎない励ましとなった事でしょうか。

現代の日本で、クリスチャンは、少数派であり、社会的影響力も小さく、弱く、その点で、イエス様の時代と似ている部分がありますが、クリスチャンだからといって、クリスチャンに加担したからといって、迫害を受ける事は無いでしょう。

それでも、家庭や、親族の中で、葬儀や、墓参りなどで、職場や、学校などでの、式典などで、ちょっとした摩擦が起こり、それを経験された方も、いらっしゃる事でしょう。

家族、親族の中で、職場や、学校で、クリスチャンは、自分一人。

孤立、無援を味わわれた方がいらっしゃる事でしょう。

しかし、眼には見えませんが、聖霊なる神様、イエス様、父なる神様が居て、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と仰せになられ、孤立、無援でない事を示しておられます。

遣わされている家庭で、地域で、職場での、生活の様々なステージでの、様々な信仰上の戦いで、神様、イエス様、聖霊様の助けを頂けるのは、神様の栄光を現す事が期待されて、であるのは、間違いありません。

イエス様が送ってくださった聖霊様と共に、内に住まわれる聖霊様とともに、天におられる神様、イエス様と共に歩み続けようではありませんか。

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                                                  2018-11-4礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1412節から17

説教題:「あなたがたに聖霊を与えます」

【導入】

前回「イエス様を通して神様を見る、知る。そして信じる」と題して、聖書から、御言葉を取り次がさせて頂きました。

大切なのは、イエス様を見る事でも、イエス様の人となりを知る事でもなく、イエス様を神の御子と信じ、従う事だ、と確認した訳ですが、これが難しい。

イエス様の弟子たちは、イエス様と凡そ三年もの長きに亘って、寝食を共にして来ました。

イエス様の口から出る御ことばを、直接聴いて来たのであり、イエス様のなさる数々の奇跡を、直接見て来たのです。

そして、人は、律法を完全には守る事が出来ない事、律法を守っても、神様の基準には達し得ない事、伝統や伝承が、如何に虚しいものか、自由を拘束するものでしかない事を知ったのであり、神の御子であるイエス様に従う事でしか、天国には行けない事を知ったのであり、イエス様に対する信頼と確信は、私たちの比ではありません。

イエス様の弟子たちは、あんなに強く、はっきりと、イエス様に殉ずる覚悟を宣言したのです。

しかし、ここぞ、と云う時に、イエス様を裏切り、見捨て、呪いを掛けて否認したのです。

何故でしょうか。

自分の信念、意気込み、熱意を過信していたからであり、自分の弱さ、精神的弱さ、肉体的弱さを甘く見ていたからですが、一番の理由は、聖霊を受けていなかったからです。

勿論、聖霊を受ければ、全ての問題、困難に、何の逡巡や、迷いもなく従える訳でも、死さえも、恐れを感じずに、臨める訳でもありませんが、聖霊を受けていないところの業、働きは、人間の業、働きとなり、神様の栄光は、現れようがありません。

聖霊を受けているか、否かが大切であり、人が聖霊を受けるためには、イエス様が天に昇られなければならず、その点で、弟子たちの失敗は、当然であり、本日のテキストは、聖霊を受ける事の必要性と、重要性を教える逸話なのです。

【本論】

14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

ここで言うところの「わざ」は、直接的には、五つのパンと二匹の魚とで、五千人を満腹させた奇跡でも、山から吹き降ろす風で荒れ狂う湖を、お言葉一つで、凪(なぎ)にした奇跡でも、足の萎えた人を立たせ、歩かせた癒しでも、生まれつきの盲目の眼を、見えるようにした癒しでもありません。

これらも、「わざ」に違いはなく、弟子たちも悪霊を追い出し、ペテロも、パウロも、癒しを行ないましたが、これがイエス様が仰られた「わざ」の主たる意味ではありません。

イエス様の仰られる「わざ」の意味は、宣教の働きであり、福音を届ける働きです。

イエス様のなされた宣教の働きは、期間限定、地域限定、限定された対象であり、たった三年間の、パレスチナに限定された、「イスラエルの家の滅びた羊」が対象でしたが、弟子たちの働きは「さらに大きなわざ」であり、イエス様、復活後の、弟子たちの働きは、地上でのイエス様の働きよりも、その働きの期間に於いて、現代に引き継がれて来た働きである事、これからも連綿と続く働きである事、その働きの地域に於いて、桁違いに広い事、全世界である事、その働きの対象に於いて、桁違いに多い事、全人類である事、異邦人、異教徒も対称なのであり、イエス様を信じる者、信徒の全てが、この働きに召されているのです。

奇跡は行なえずとも、病気を癒す事は出来ずとも、福音を語らなければならず、宣教の働きは続けなければならないのです。

勿論、与えられた「賜物」に応じてであり、幼子、若者、壮年、老年、男性、女性、健者、病者、それぞれに、与えられた場で、出会う人々に、福音を届け続けなければならないのです。

無理する必要も、頑張る必要も、出来ない事をする必要もありません。

無理も、頑張りも、人の力であり、聖霊の働きではないからです。

聖霊の働きによってこそ、永続的、継続的、連続的、宣教となるのです。

14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

13節の御ことばは、1516節でも、1623節でも語られています。

それだけ、重要だ、と云う事なのであり、繰り返し語られ、この約束の確かな事を、強調されているのです。

イエス様のお名前による祈りは、あたかもイエス様ご自身が祈られたかのように、神様に聞かれるのであり、確実性、大であり、信頼性、大なのです。

求めることは、何でも」、本当に何でも、どんな事でも祈って良いのですが、「父が子によって栄光をお受けになるためで」あり、祈りによって、祈りの内容によって、父なる神が、子なるイエス様が、蔑(さげす)まれたり、侮(あなど)られたり、非難を受けるような事を祈ってはならず、そんな不遜な祈りは、自身に跳ね返って来る事になるでしょう。

「人を呪わば穴二つ」・・・なのであり、「求めることは、何でも」ですが、利己的な祈りが聞かれる事を意味しないのであり、更には、独善的な祈り、排他的な祈り、などなどが聞かれる事もないのであり、究極の祈りは、「主の祈り」であり、御こころが地上でなされる事を祈るのが、弟子と信徒の祈りなのです。

「主の祈り」は、お手本であり、目標ですが、自分のために、友のために祈ってはならない、と云う意味ではありません。

自分のために祈っても、何の問題もなく、友のために祈るのは、素晴らしい事ですが、そこに終始していては、幼子の祈り、なのではないでしょうか。

大人の祈りは、神様、イエス様の栄光のために生かされる事を祈るのであり、それに付随して、関連して、自分の事や、友の事も祈るのです。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

14節は、13節の繰り返しです。

イエス様が地上を去って、何時も、父なる神様の前で、弟子たちの、私たちの祈りを執り成してくださるのであり、その執り成しによって、弟子たち、私たちは、12節の「さらに大きなわざを行」う事が出来るのです。

弟子の働きは、弟子の働きの影響力は、より一層、広範囲に及ぶようになるのであり、そんな祈りを、神様、イエス様は求めておられるのです。

イエス様のお名前によって献げられる祈りは、イエス様ご自身の祈りと見做されるのですから、祈る者は、イエス様と見做されるのであり、必然的に、イエス様によって示された、神様の御こころへの、全き従順と、全的献身を促すに至り、イエス様の宣教の働きを、引き受け、引き継ぐのであり、更に大きく拡大、前進する働きに、加わる事を願わざるを得ず、こんな結果をもたらすのが、御こころに叶う祈り、弟子の祈り、なのです。

14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

ちょっと、唐突な感じの、前後の文脈との、違和感を覚える15節ですが、先に、イエス様の名によって献げられる祈りは、必然的に、イエス様によって示された、神様の御こころへの、全き従順と、全的献身を促すに至る、と申し上げました。

イエス様の、神様への全き従順と、全的献身は、神様への愛の現われであり、イエス様は、神様に喜ばれる事を、喜んでするのです。

同じように、イエス様を愛する人は、イエス様の喜ばれる事を、喜んでするのであり、イエス様の喜ばれる事とは、イエス様の与える戒めを守る事であり、1421節「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現わします」、1517節「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」。

聖書や十戒は「神を愛し、人を愛する」事を示し、教える書物だ、戒めだ、と申し上げて来ていますが、イエス様が与え、命じる「戒め」も、全く同じです。

イエス様が与える「戒め」とは、「あなたがたが互いに愛し合うこと」であり、とてつもない難行苦行でも、無理難題でもないのであり、重荷にはならないはずですが、この「戒め」を、イエス様が願われる意味で、守るとなると、敵対する人を好きになる、嫌いな人を好きになる、虫の好かない人を好きになる、となると、難題中の難題、苦痛でしかなくなりましょう。

自分の意志や努力、熱意では、継続する事は困難であり、如何にも不自然な事であり、破綻は必至でしょう。

イエス様の与える戒めを守る力を、弟子も、私たちも、持ってはいないのです。

イエス様の与える「戒め」を守るのに大切なのが、信仰生活で、一番重要なのが、16節です。

14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

助け主」の原意は「・・・のそばに呼ばれた者」であり、「ある人の友となり、助言し、忠告し、必要とあれば、弁護するために、その人の傍らにいるようにされた者」の意味であり、「弁護者」「仲保者」などとも訳す事が出来ます。

この説明、イエス様に、そのまま当て嵌まります。

ヨハネの手紙第一21節に記されている通りです。

新改訳第三版は465ページ、2017版は478ページ、「私の子どもたち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます

2017版で「とりなしてくださる方」と訳している部分ですが、第三版では「弁護する方」と訳しています。

イエス様と聖霊様は、似た働きをされますが、位格に於いて、別であり、区別のために、16節で「もう一人の助け主」と仰せになられ、「助け」と「あなたがたとともにいる」は、聖霊様の受け持つ働きである事を、明確に宣言しておられます。

更には、イエス様と聖霊様が、同質であり、且つ、異なる位格である事を示されたのです。

この三位一体の教理は、特に三つの位格は重要です。

父、子、聖霊、に別けられるのであり、これで全てであり、特に「助け、とりなし」は、イエス様と聖霊様の専任事項であり、イエス様と聖霊様との連携事項であり、イエス様の母や、聖人と呼ばれる人々が入り込む余地は、全くありません。

続けて、イエス様は「助け主」が「真理の御霊です」と宣言されます。

14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

この世に、助けは数々ありますが、イエス様が、神様が送ってくださる「助け主」は、「聖霊」様であり、この世の助けとは、比類なきお方、比較のしようがないお方であり、「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」と言うのですが、イエス様を見ようとも、知ろうともしない者は、聖霊様を見る事も、知る事もなく、聖霊様を受け入れる事もないのであり、当然、助けを得る事もないのです。

否、全知全能の神様を退けるに等しい事であり、こんな愚かな選択はないのではないでしょうか。

【適応】

イエス様を信じ、イエス様に従う事が、神様によって造られた人間にとって、一番の選択だと判っても、イエス様を信じ続ける事も、イエス様に従い続ける事も、簡単ではありません。

否、罪を持つ人間には、不可能と言っても、過言ではないでしょう。

そこで、イエス様は、イエス様を信じ続けられるように、イエス様に従い続けられるように、助け主を送ってくださるのであり、その助け主が「あなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようにな」り、昼夜を問わず、365日、片時も離れる事なく、守り、導き、支え、助け続けてくださるのです。

しかも、有能な弟子、見込みのある信者に対して、選択的に、聖霊様を送る、と云うのではなく、「いざ」と云う時に逃げ出してしまう、情けない弟子にも、頼りにならない、がっかりな信徒にも、分け隔てなく、聖霊様を送られるのです。

聖霊様を受けてから、弟子は、信徒は変えられるのであり、変わり得るのであり、それぞれが、置かれた場所、与えられた地位で、預かった賜物で、弟子として、信徒として、福音を伝え、伝道の働きを継承して行くのです。

そのために、聖霊様が送られ、共にいてくださり、内にいてくださるのであり、自己実現や、利己的目的達成のために、聖霊様が送られるのではない事は、しっかり確認したいところです。

弟子や信徒たる者は、神様の栄光、イエス様の栄光のために、働くのであり、そのために、イエス様は聖霊様を与えると、約束されたのです。

17節の「あなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられる」とは、聖霊様の、この世的な面と、個人的な面とを現した御ことばです。

聖霊様が、この世に送られて、聖霊様が働かれているので、イエス様を見た事のない者が、イエス様を知らなかった者が、イエス様に反発すらしていた者が、教会に導かれ、説教を聴き、聖書を読み、イエス様に対する確信、信仰が与えられるので、イエス様を受け入れる事が出来るのです。

すると更に、個人の内に、聖霊様が与えられ、益々、神様の、イエス様の深いところの理解と確信、信仰が与えられ、内に住まわれる、聖霊様の促しに応答する形で、決して強制されてでもなく、マインドコントロールでもなく、喜んで、宣教の働き、福音を証しする働きに、取り組むに至るのです。

ここにおられる皆様は、聖霊様の、この世に対する働きかけで、教会に導かれ、イエス様を知り、信じ、受け入れ、更に、聖霊様が内に住まわれ、聖霊様から、個人的なお取り扱いを受けて、今に至っているのです。

与えられている賜物が違いますので、皆が牧師になる必要はありませんが、遣わされている家庭で、地域で、職場で、生活の様々なステージで、神様、イエス様の栄光を現す事が期待されているのは、間違いありません。

イエス様が送ってくださった聖霊様と共に、内に住まわれる聖霊様とともに、歩み続けようではありませんか。

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