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                                                                     2018-12-30礼拝

聖書個所:サムエル記第一119節~28

説教題:「主に渡された生涯」

【導入】

 私たちは信仰生活の中で、折りにふれて「祈り」を献げますが、「祈り」と「願い」を混同している場合が少なからずあるようです。

「祈り」と「願い」には明確な区別がなく、広い意味で、「願い」も「祈り」の中に含まれるでしょうし、神様への語りかけで始まり、最後に「イエス様のお名前によって」を付け加えれば、皆、「祈り」になってしまいます。

しかし、願い事と、祈りには区別があるはずです。

ある本に、私たちの祈りと呼ばれているものの多くが「こうして…ください」「ああして…ください」と「ください」ばかりに終始している、と書かれていました。

確かに、否めない事実ですが、では「何何してください」と言う祈りを献げてはいけないのでしょうか。

いいえ、決して、そんな事はありません。

ハンナも「子どもを与えてください」と祈りましたし、聖書のそこ彼処に「何何してください」と言う祈りが記されていますし、ハンナも、祭司から「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」との言葉を頂いている事から、「何何してください。と言う祈りをしてはいけない訳ではない事が解ります。

問題は、何のために願ったのか、なのであり、祈った結果、どうなるか、どのように変えられたか、なのです。

ハンナはペニンナの執拗な嫌がらせを受け、つらい、悲しい毎日を送っていましたが、心を注ぎ出して、涙ながらに願い事を神様に申し上げた結果、状況は全く変らないのに、神様から平安を頂いて、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」と記されているように、心の平安を頂いたと言う事なのです。

願いは叶うまで、私たちの心に平安を与えませんが、祈りは祈った瞬間に、憂いを取り除いて、心に平安を与えてくださるものなのです。

祈りは、願い事、不安、不満、問題を神様にお渡しする、委ねる、お任せする時間であり、そのお渡しし、委ね、お任せした代りに、平安を頂く、って言う事なのです。

勿論、このような境地に至るには、信仰が弱く、猜疑心が強過ぎる私たちには難しい事ですが、何回も願う中で、繰り返し願う中で、何のための願いなのか、その結果、何がどうなるのか、にまで考えが及ぶ事を、神様は私たちに期待しているのではないでしょうか。

その願いは本当に必要な願いなのか、単なる自己満足、欲望ではないのか、を教え、更に、神様の栄光を現すと云う、私たちの造られた目的に叶った願いであるか、と云う事も試されているのではないでしょうか。

ハンナの祈りは、この場面に、1回しか記されていませんが、きっと何回も何回も祈ったに違いありません。

ダニエルは日に3度祈ったと、ダニエル書610節に記されていますが、これはダニエル固有の行動ではなく、多くのユダヤ人に見られる行動のようです。

ハンナも日に何度も、子どもを与えてくださいと祈った事でしょう。

時にはペニンナの子どもを見て、神様を呪いたい気持ちになった事があるかも知れません。

しかし、何度も祈る中で、神様のお取り扱いを受けて、祈りが整えられて、

生まれた子どもを神様に献げます、との告白に至ったのです。

ハンナにとって、もう子どもが与えられるかどうかは問題ではなくなりました。

子どもが生まれても、生まれなくても、それは神様の主権によるものである。

だから私は嘆く事も、不安になる事も、ないのだ。

この神様の主権を認めた瞬間から、神様のご計画は次の段階に入ります。

【本論】

1:19彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って来た。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。

子どもを産んでいない、と言う悲しみ、辛さから解放されたハンナは、何の憂いもなく、晴れ晴れとした、一点の曇りもない心の状態で神様を礼拝しました。

それまで、日に何度も祈っても得られなかった平安は、子どもが与えられて得られたのではなく、神様との関係が正された瞬間に得られました。

心に曇りがあっては神様を見える事が難しくなります。

心がクリアになってこそ、神様をはっきりと見る事、感じる事が出来るのです。

ハンナは今まで感じた事のない、神様との一体感の中で礼拝を献げた事でしょう。

憂いや悩みは、心だけでなく、身体をも蝕みます。

大きなストレスが身体に悪影響を与える事は、現代では常識であり、多くの病気の主要な要因にストレスを挙げる医学者も多くいます。

ハンナは神様のお取り扱いを受けて、子どものいない事から来る悩みから解放され、ペニンナの執拗な嫌がらせにも、平静に応じる事が出来るようにされ、心も身体もリラックスさせて頂いたのです。

そんな神様への揺るぎ無い信仰と、心と身体の平安こそが、新しい命を宿すに相応しい環境と言えるでしょう。

1:20 年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願したのだから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

サムエル誕生と、名前の由来を教える場面です。

サムエルと言う名前の直接の意味は、「神の名」或いは「その名は神」だそうです。

神様のお名前を常に覚え、称える意識の現れでしょう。

それは、私の子として育てるのではなく、神様から預かった子、神様のお名前に相応しい子として育てる決意の現われでもあるでしょう。

1:21 夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって、上って行こうとした。

1:22 しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。

1:23 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてこのハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。

エルカナ一家の宮詣は、年中行事であったようです。

エルカナの家族が住んでいたのは11節に記されているようにラマタイム・ツォフィムで、主の宮があったのはシロと言う所です。

直線距離で35km程離れたところですが、当時の35kmは現代の35kmではありません。

主な交通手段は徒歩です。

幼子や婦人はロバに乗ったりもしたでしょうが、ロバの背中は快適な場所ではありません。

敷き物を敷いていても、お尻は痛くなるし、ゆらゆら揺られて行くのですから、転寝(うたたね)も出来ません。

山あり谷あり川ありであり、強盗や危険な動物だっているのです。

その危険や、困難をも、物ともせず、毎年礼拝を献げるのですから、エルカナと言う人は、神様に対する信仰の篤い人であった。

そして、神様に覚えられる人でもあったのです。

ハンナの、生まれて来る子どもを神様に献げると言う請願ですが、夫の承認を必要とします。

妻の誓願は、夫が有効にも、無効にもする事が出来るのです。

これは民数記3010節に記されています。

新改訳第三版、旧約聖書288ページ、2017298ページ、

30:10 もし女が夫の家で誓願をするか、あるいは、誓って物断ちをする場合には、

30:11 夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、反対しないなら、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。

30:12 もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効となる。彼女の夫がそれを破棄したのだから、主は彼女を赦される。

30:13 すべての誓願も、自らを戒めるための物断ちの誓いもみな、夫がそれを有効にすることができるし、それを破棄することもできる。

30:14 もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。夫がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったのだから、彼はそれを有効にしたのである。

30:15 もし夫がそれを聞いて後、それを破棄するなら、夫が彼女の咎を負う。

夫エルカナに促され、宮詣に出発する時、ハンナは誓願の事を夫に告白します。

愛するハンナが、生んだ子を手元に置いておきたいと思うのは自然な感情でしょう。

ヤコブも、老いてから、愛するラケルの生んだヨセフを非常に可愛がりました。

エルカナも同じような状況にあったのですから、愛するハンナが生んだサムエルを手放すのが、非常に困難な事であったのは想像に難くありません。

しかし、神様に覚えられるような信仰の持ち主であったエルカナは、ハンナの誓願を聴いて、それを受け入れ、我が誓願とするのです。

23節の「主がそのおことばを実現してくださるように」の直訳は「主がそのことばを立たせてくださるように」であり、ハンナの誓願を承認した事の、同意した事を表明している言葉、宣言なのです。

ハンナの決意があっても、それだけでサムエルを神様に献げる事は出来ません。

夫のエルカナの承諾、了解、同意があって始めてサムエルを神様に献げられるのです。

ハンナの祈りとエルカナの信仰とがあって、神様のご計画は推進されるのであり、サムエルは神様に仕える人生を歩むべく、父母に育てられて行くのでした。

22節の「乳離れするまで」の期間がどれ程の年月かは明確ではありませんが、注解書によれば「三年」と書かれていました。

三歳で両親の許を離れて、神の宮で生活する、と言うのは、養育期間の長い、また親離れ、子離れの出来ない世代の多い、現代に生きる私たちには俄かに受け入れ難い状況ですが、当時にあっては格別、奇異な事ではなかったようです。

聖書はハンナの申し出に対して、夫のエルカナも忠告をせず、祭司エリが何のコメントもしなかった事を記録しています。

全て、神様の導きであり、備えられた人々によって、神様のご計画は遂行されて行くのです。

ハンナはサムエルが乳離れするまで、手塩にかけて、いっぱい愛情を注いで育てた事でしょう。

1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。

1:25 彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。

この献げ物は過分な献げ物です。

エルカナ一家が非常に裕福であった事の現れであると同時に、神様に最高の物を献げる心の現れでもありましょう。

自分の子どもを献げる事だけでも特筆すべき事なのに、更に、通常の3倍の物を献げているのです。

祭司エリに可愛い我が子を託すのですから、出来る限り多く、との親心の現れでしょうが、信仰がなければ出来ない献げ物の量です。

1:26 ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。

1:27 この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。

1:28 それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。

神様は神様に信頼し、委ねる者を失望させる事はありません。

必ず祈りに応えてくださいます。

勿論、直ぐにではなく、願った通りにではない事も多々ある事でしょう。

しかし、どんな形、結果であったとしても、応えはあるのです。

問題はその後でしょう。

多くの場合、思ったような結果でない事に不満がつのり、感謝を忘れ、愚痴をこぼしてしまう。

願った通りの結果であっても、お座なりな感謝ですましてしまい、意図的ではないにしても、約束した事を忘れてしまうのではないでしょうか。

しかし、ハンナは神様との約束を忘れず、一番可愛い盛りの三歳のサムエルを連れて神の宮に詣でて、祭司エリに引き渡したのです。

ハンナの祈りは神様だけが聴いていた祈りです。

祭司エリは側にいましたが、ハンナは心の中で祈っていたので、その声を、神様との約束を聴いてはいません。

夫のエルカナとても同じです。

黙っていれば、神様との約束は誰にも知られていないし、誰からも咎めだてを受ける事はありません。

しかし、神様との約束は誰かが知っているから守るのでも、証拠として書き記してあるから履行するのでもありません。

神様と云う、約束に対して誠実な方との約束だから、天地を造り、支配しておられるお方との約束だから、そして、罪人であり、約束するのに、契約を交わすのに相応しくない身分であるのに、罪人の戯言(ざれごと、たわごと)として片付けてしまうのではなく、一人の誠実な人間とみなして下さり、神様と対等の関係で、願った祈りを聴いて下さり、願いに応えてくださったから、その事への応答として約束を履行するのです。

ハンナは賎女(はしため)の祈りに応えて下さった神様に感謝を献げ、約束通りにサムエルを献げました。

【適応】

本日の説教題は「主に渡された生涯」としましたが、主に渡されたのは、物語の上ではサムエルですが、ハンナの生涯もまた「主に渡された生涯」であったのではないでしょうか。

自分のプライドや、競争の果てに願っていた、言わば自己中心の祈り、願いから、神様に仕える子どもとして献げる、つまりは、献身者を生む事を願い、献身者を育てる、自分自身を献げる願いへと変えられて行ったのです。

医学の進んだ現代でも出産は危険を伴うと言う点では昔と変りはありません。

出産に伴う事故は決して少ない件数ではありません。

現代では帝王切開などの緊急対応が出来ますが、かの時代では母子ともに危険が伴う、命がけの大仕事であったのです。

その危険を犯し、覚悟して生んだ、自分の最愛の子を渡すと言うのは、自分自身を渡すと云う事と同じです。

ハンナは生まれて来る子を献げる事を決意し、その事を通して自分自身を献げる決意をしたのです。

自分の子という意識より、神様から預かった子、の意識で、育てたのであり、献げたのです。

自分自身を献げる決意をした者の祈りに、神様が応えて下さらないはずがありません。

ハンナは神様を信じて、必ず与えられると信じて祈ったのです。

神様はその信仰を「義」と認めて下さって、「子ども」と言う祝福を与えて下さったのです。

アブラハムが神を信じて「義」と認められ、約束の「イサク」を与えられたのと同じです。

ハンナはサムエルを生み、育て、献げた後も、定期的に上着を作って持っていき、その生活を支えました。

また、離れて生活していましたが、毎日サムエルのために執り成しの祈りを献げた事でしょう。

そのハンナの献身と祈りがあったからこそ、偉大な預言者、最後の士師、初代の王に油を注ぎ、任職を司式するサムエルが誕生したのです。

サムエルのように直接神様に仕える働き人は多くはありませんが、ハンナのように、神様に仕える者を育てる、支える、励ます働きは誰にでも出来得る働きです。

特に教会は、兄弟姉妹と呼び合う関係であり、信徒の家庭に生まれた子を、誰の子、と云う意識ではなく、教会の子、との意識で、教会全体で、信仰継承者として育て、献身者として育てるのです。

クリスチャン家庭が、教会が、献身者を送り出す事に、献身者を支える事に、宣教の働きに携わる人や団体を支える働きに、もっともっと多くの時間やお金を使うなら、日本のリバイバルは決して夢に終わる事はないでしょう。

ここに居られる皆様が、神様から与えられた賜物にしたがってハンナのように間接に、サムエルのように直接に「主に渡された生涯」を歩む事が出来ますように。

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                                                                     2018-12-23礼拝

聖書箇所:マタイの福音書316節から17

説教題:「イエス様は神の子、神です」

【導入】

ヨハネの福音書を通して、イエス様が神の子である事を確認して来ましたが、一人だけの証言、一つだけの証拠では信憑性がありません。

聖書も、「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によっては立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」と、二人、乃至は三人の証言が必要である、と教えています。

これは申命記1915節に記されています。

新改訳第3版、旧約聖書の338ページ、2017版は349ページです。

申命記などでは、咎と罪との立証に関する教えとして記されていますが、広く、一般的な証言、証拠に対する教えであり、公正、公平な態度です。

イエス様が神の子か否かについてですが、イエス様が神の子である事はヨハネの福音書のみならず、マタイの福音書にも、マルコの福音書にも、ルカの福音書にも、記されていますが、今日はマタイの福音書を通してイエス様が神の子である事を確認したいと思います。

私たちの信仰が実体のないものに対してではない事、信頼に値するものであり、信仰の対象として与えられているのはイエス様しかない理由を確認したいと思います。

【本論】

新改訳2017版 3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に下って来られるのをご覧になった。

世の中には信仰の対象は数多ありますが、半数は実体のないものに対してです。

想像上のものが、神話のものが信仰の対象であり、それらは神ではありません。

実体のある偉大な人物も信仰の対象にされますが、人であり、決して神ではありません。

勿論、祭られている人物の功績や人格を否定するものではありませんが、頂点を極め神のようだと称えられたとしても、神の如くに人々の尊敬を集めても偉人であり、「神のよう」かもしれませんが、「神」ではないのです。

しかし、イエス様は旧約聖書で預言されたお方であり、神でありながら「人」としてお生まれになり、「人」として成長され、時、至って「神」としての働きを始められるのです。

しかも、本人だけの自覚や思い込みではなく、取り巻きの意向で神に祭り上げられたのではなく、母マリヤには神から遣わされた御使いが現われ、事の次第の説明があり、父ヨセフにも神から遣わされた御使いが事の次第を説明したのです。

他にも、マリヤの親戚エリサベツも神から遣わされた聖霊に導かれて証言をし、エルサレムに住むシメオンや女預言者アンナも、神から遣わされた聖霊に導かれて証言をしたのです。

イエス様の神性は旧約聖書の預言があり、複数の証言があり、信じるに値する事だと言えるのです。

イエス様は「バプテスマを受け」、新しい出発を始められます。

イエス様は神の子ですが、凡そ30歳になるまでは両親の許で、両親に仕え、兄弟たちと共に、極、普通の、何処にでもある生活をして来ましたが、「バプテスマを受け」公生涯に入られたのです。

人の目から隠れた生活から「メシヤ」としての働きへの転換です。

このイエス様のバプテスマは、バプテスマのヨハネによって授けられました。

バプテスマのヨハネの働きも、聖書の預言イザヤ書403節の成就であり、神様のご計画であり、バプテスマのヨハネの働きが、神様から出たものである事が明らかにされます。

イエス様のお生まれ、お働きには多数の証人、働き人の備えがあるのであり、偶然でもなく、突然でもなく、周到に準備され、時、至って、実現したのであり、全てが、神様のご計画なのです。

「バプテスマ」の一般的意味は、罪人が悔い改めの印として受けるものですが、イエス様には罪がないのに、イエス様は何故、バプテスマを受けられたのでしょうか。

「バプテスマ」には、救いの手段、と云う面と、恵みの一手段、と云う面があり、イエス様には、罪が無いのですから、救いの手段としてバプテスマを受ける必要はなく、イエス様の、公生涯の働きに必要不可欠な、神様の恵みと、導きを、見える形で示し、現すために、バプテスマを受ける必要があった、と云う事なのです。

或いは、イエス様が、罪人と同じ立場に立っている事を示し、現す必要からのバプテスマ、と考える事も出来るようですが、何れにしても、イエス様は、神様の明確なご計画の内にあって、ご自分の立場を自覚され、神様のご計画に従順である事を示し、現すために、バプテスマを受けられたのです。

神様の承認する事であったのは、「神の御霊が鳩のようにご自分の上に下って来られ」た事で明らかです。

神の御霊」が「鳩のように」であり、決して、「鳩」が下って来たのではありません。

神様は、見えないものを、見る事の出来ないものを、見えるようにしてくださったのであり、それは、当時の人々のためです。

特定の人だけに、一部の人だけに、イエス様の弟子になる人々だけに、イエス様を慕う人々だけに示しても、事は足りますが、それでは、一般性が失われてしまいます。

誰もが差別、区別なく目撃し、その上で、受け入れるか、拒絶するか、なのです。

チャンスが与えられないのは、不公平であり、公正ではありません。

同じ、事象を目撃し、その上で、どう判断するか、なのであり、また、ユダヤ人には、聖書が与えられているのであり、知識の裏付けがあり、不思議の目撃者とさせられ、総合的な判断が求められるのです。

体験の当事者とさせられるのは、神様の救いのご計画に、含まれているからであり、神様のご計画の顕現である、神の子イエス様を受け入れる助けのためです。

天が開け、神の御霊が鳩のように・・・下って来」るのを目撃した以上、知らなかった、見なかった、などの言い訳は出来ず、更に、駄目出しとなる、不思議を体験させられます。

3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

天から」は、「上から」などの、方向の意味ではなく、「神様から、神様の住んでおられるところから」の意味であり、声の主が、「神様」である事を示しています。

その声は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と宣言されますが、イエス様が、「神の子」である事を、そこに居合わせた人々に明らかに示す宣言であり、声の主の、イエス様に対する愛情が、見事に表現、強調された宣言となっています。

イエス様と、神様の特別な関係を示し、イエス様が、愛すべき子なる神である事を宣言されたのですが、それで終わりではありません。

聖書を知っている人々には、神様が遣わされ、このような宣言が伴うのは、メシヤである事、王である事、は自明の理であり、新しい時代に入った事を、否応なしに、感じたのではないでしょうか。

当時、パレスチナ、エルサレムは、ローマ帝国の支配下にあり、ある程度の自治や、自由が認められていたとは言え、屈辱的な状態であり、一刻も早い、独立、自立が望まれており、メシヤの到来は、人々に、歓喜でもって、迎えられたのです。

人々は、神の子、イエス様を目の前に見ていたのであり、「鳩」と形容されていますが、普段なら、絶対に見る事の出来ない「聖霊」を見せていただいたのであり、一般人は聴く事が許されていない、神の声を聴いたのであり、メシヤ、王の誕生は、待ち焦がれていた聖書の預言の成就であり、三位一体の神が一堂に介する場に、居合わせると云う、稀有な恵みを頂いたのです。

それもこれも、神様のご計画、到底、人には想像も出来ないような不思議を受け入れる助けのためであり、それなのに、一時の興奮が冷めると、手の平を返すが如くの、心変わりは、人間の罪深さを如実に現しており、そんな性質を、私たちも持っている事を、覚えておかなければなりません。

【適応】

神様の声は、イエス様が、神の子である事を宣言しますが、人々は、神の声を聴いて、喜びつつ、その、稀有な体験の当事者とされた事を、誇りに思いつつ、イザヤの預言を、思い起こした事でしょう。

イザヤ書421節、新改訳第3版、旧約聖書の1192ページ、2017版は1235ページ、

42:1 見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。

42:2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。

42:3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

42:4 衰えず、くじけることもなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。

ここには、明確に裁きが語られています。

メシヤは、単に、一時的な、抑圧からの開放者ではなく、裁きを執り行い、正義、公義を確立するのであり、神が、神として崇められ、神に従う国の確立のために来られるのです。

しかも、裁判官として、裁きを言い渡すのではなく、私たちの身代わりとなり、刑に服し、罪の贖いをなしてくださるのです。

イザヤ書537節、新改訳第3版、旧約聖書の1214ページ、2017版は1259ページ、

53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。

この苦難のしもべの姿を、思い起こし、現状から期待するメシヤのイメージ、即ち、ローマ帝国の支配からの解放への期待と、聖書の預言の、裁きと、苦難のしもべの姿として描かれたメシヤの差、違いに戸惑った事でしょう。

人は、自分の考えと違った時、期待するものと違った時、がっかりはするでしょうが、その後が、問題です。

自分の思いと違うからといって、反発、拒否、拒絶、反抗するか、しかし、神様のなさる事として、受け入れ、同意し、服従するか、です。

しかも、渋々ではなく、積極的に、徹底的に、です。

勿論、途中で迷いも生じるでしょうし、疑いも起こるかもしれませんが、根底に、しっかりとした神様への信頼があれば、迷いや疑いを乗り越える事が出来ます。

最初は、神様のなさる事として受け入れても、途中の色々な出来事、様々な状況の変化で、心変わりするのは、神様への信頼が薄いからであり、自我、自己中心の思いを捨て切れていないからです。

ユダヤ人の姿は、自我を捨て切れず、自己中心な生き方を変えられない者の姿です。

本日の説教題は、「イエス様は神の子、神です」ですが、先に紹介したイザヤ書の預言を補足するなら、「イエス様は神の子、神です。神様が遣わされた裁き主、救い主です」とする事が出来ましょう。

更に、意味を補足するなら「イエス様は神の子、神です。神様が遣わされた世の裁き主、私の救い主です」。

そして、「私は、このイエス様を全面的に受け入れ、徹底的に従います」なのではないでしょうか。

ここで、問題は、「イエス様は神の子、神です」と「神様が遣わされた」と「全面的に受け入れ、徹底的に従います」と、私の関係です。

「イエス様は神の子、神です」と「神様が遣わされた」を受け入れるのも意外と難しいが、「全面的に受け入れ、徹底的に従います」を受け入れるのは、もっともっと難しい。

そして、イエス様の出来事は、2000年前の事であり、

現在、イエス様は地上には居られません。

現代に生きる私たちは、イエス様に従うように、イエス様に代わって、イエス様が立てられた弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子の、弟子を全面的に受け入れ、徹底的に従います、でなければ、「イエス様は神の子、神です」を受け入れた事にはならないのではないでしょうか。

ここで、とんでもない弟子だったらどうするのか、との疑問が持ち上がりましょうが、その答えはゼカリヤ書118節にあります。

新改訳第3版、旧約聖書の1557ページ、2017版は1624ページ、

私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った」。

不届きな弟子、牧者は、神様が取り除き、裁いてくださいますから、信徒は、イエス様が立てられた弟子を全面的に受け入れ、徹底的に従えばよいのです。

皆さんは、「イエス様は神の子、神です」と告白されていらっしゃいますが、その告白に相応しい、歩みをしているでしょうか。

深く吟味し、整えて、イエス様の御降誕を祝おうではありませんか。

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                                2018-12-16礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1518節から27

説教題:「世はイエス様と弟子たちを迫害する」

【導入】

イエス様は、最後となる、過越の食事の席で、弟子たちに大切な事を話されました。

そのお話は、いよいよ最終段階に入ります。

イエス様と弟子たちとの関係は、文字通り、教師と弟子の関係であり、上下関係、保護者と庇護を受ける者の関係であり、「あなたがたに聖霊を与えます」も、「あなたがたを孤児にはしません」も、「あなたがたに平安を与えます」も、「わたしに留まりなさい」も、イエス様の、弟子を思いやる心、弟子を心配する心の込められたことばであり、麗しい師弟愛の溢れることばです。

そして、佳境に入り、「あなたがたはわたしの友です」と、宣言され、イエス様の働きの、次の段階を委ねる事を宣言されます。

その働きは、非常に特殊な働きであり、神様の御こころ、ご計画を知らなければ、神様に喜ばれる働きは出来ません。

そして、働きを引き継ぐためには、イエス様と同等の地位、資格、関係を持たなければなりません。

そこでイエス様は、弟子たちに「友」と云う身分を与え、イエス様の友として、働きを委ねられたのです。

この、イエス様の弟子でありながら、イエス様の友と云う、特殊な関係は、利点ばかりではありません。

詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

イエス様は、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と命じられましたが、それは「互いに愛し合う」事の素晴らしさを、実践し、世に示すためです。

法が整備され、福利が進んだ現代社会であっても、法が隅々にまで行き渡り、皆が福利の恩恵に浴しているか、と云うと、そうではありません。

漏れる人々は多いのであり、隅々にまで行き届かないのが実情なのです。

その、穴というか、漏れを補うのが、「互いに愛し合う」事であり、色々な問題点や、不条理を解消に導く、有効な手段なのです。

しかし、これが、中々難しい。

自然に任せておいたならば、自分中心になり易く、排他的、批判的になり易く、愛するよりも、憎み易く、妬み易いのです。

だからこそ、イエス様は、「互いに愛し合う」事を強く、命じられ、率先して実践する事を命じられたのです。

愛されたから、愛するのではなく、愛される前に、愛するのであり、そんな、「互いに愛し合う」世界を造る事を命じられたのです。

しかし、愛を実践する者が、世に受け入れられる、と云う訳ではありません。

神様はこの世を愛し、愛する独り子イエス様をこの世に遣わしました。

この世に遣わされたイエス様は、この世を愛し、病気や、悪霊に苦しむ人々を愛し、病気や、悪霊の苦しみから解放してくださいました。

直接、自分自身が、病気や、悪霊の苦しみから解放されなくても、ユダヤ人は、連帯感の非常に強い民族ですから、自分自身や家族、親族が苦しみから解放されてはいなくても、友人や知人、同民族が苦しみから開放されたのですから、イエス様を受け入れ、イエス様を愛するのが、普通なのですが、人々は、イエス様を受け入れず、イエス様を憎んだのです。

複雑な心理、不思議なものに対する畏怖、理解出来ないものに対する拒絶の思いが働き、社会構造、支配層の意向には逆らえない体質、社会から爪はじきにされる事を恐れ、逸脱を嫌い、周りと同調する風潮、などが影響したのでしょう。

それは、イエス様に限らず、イエス様に従う弟子たちにも当て嵌まる事であり、弟子たちが世に遣わされる時、憎しみに遭い、迫害に遭うのは必至なのです。

この世は、神様を無視した、神様に背を向けた生活を営んでおり、この世に属する者が、この世から憎まれ、迫害に遭う事はないのです。

しかし、イエス様が、世から憎しみを受け、迫害されたように、イエス様の真の弟子たちは、この世から憎しみに遭い、迫害に遭うのであり、驚く事ではなく、イエス様は、「覚悟しておきなさい」、との警告の意味を込めて、語られます。

15:19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

弟子たちは、イエス様に選び出され、この世から切り離され、この世から分離され、イエス様に繋がれ、イエス様の一部となっています。

イエス様からの使命を帯びて、この世に遣わされています。

それは、この世と同調するためではありません。

「行って」「実を結び」「実が残るようになる」ためです。

弟子たちは、イエス様のものであり、この世のものではなく、この世と調子を合わせないのであり、この世から憎まれ、迫害を受けるのは、当然であり、避けられないことだ、と言われるのです。

否、19節の最後のことばは「世はあなたがたを憎むのです」であり、「憎むかもしれない」でも、「憎まれることもある」でもなく、確実に「憎まれるのです」。

一歩、突っ込んで言うならば、憎まれないならば、弟子ではない、なのです。

勿論、弟子とは言っても、超ベテランから新米まで様々ですが、イエス様に忠実であればある程、イエス様に従順であればある程、世から憎まれ、迫害を受けるのです。

役に立つ弟子程、憎まれ、迫害を受けるのです。

毒にも薬にもならない弟子は、世は相手にしないのです。

世は、そんな非効率な事はしません。

勿論、「将を射んとすれば、先ず馬を射よ」のことばがありますから、落とし易いところから、攻撃を加えるでしょうが、無意味な攻撃はしないのであり、攻撃を受けているなら、その組織は、世から憎まれていると、判断出来るのです。

日本ウィクリフ聖書翻訳協会で、残念な事態が起こりましたが、腐っている組織だから、不祥事が起きた、と云うよりも、世が、この組織に脅威を感じたから、攻撃を加えた、との考え方が有効でしょう。

聖書が世に広まっては、世は困るのです。

だから、組織内から問題を起こし、組織を崩壊させようと目論んだのではないでしょうか。

イエス様の弟子は、或いはイエス様に従う組織は、「憎まれる」事を恐れてはならず、世に出て行って、実を結び、実を残さなければならないのです。

15:20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しもべは、主人の代理人であり、主人に成り代って、事を行ないます。

そして、しもべは、主人の受ける待遇を受けます。

しもべと主人が、一体と見做されるように、イエス様と父なる神様は、一体と見做され、イエス様とイエス様の弟子も、一体と見做されるのです。

イエス様は、父なる神様の代理として、この世に来られ、父なる神様の御こころを行い、父なる神様の受ける栄光を、父なる神様と共に受けられました。

イエス様の弟子は、イエス様の代理として、世に遣わされ、イエス様の御こころを行い、イエス様の受ける栄光を、イエス様と共に受けるのです。

そして、イエス様が世に憎まれ、世から迫害を受けたならば、イエス様の弟子も、世に憎まれ、世から迫害を受けるのです。

しかし、これは、悲しむべき事ではなく、恐ろしい事であると、理解しなければなりません。

何故ならば、イエス様の弟子を憎み、迫害する事は、イエス様を憎み、迫害する事であり、父なる神様を憎み、迫害する事だからです。

神様を憎み、迫害して、ただで済む訳がなく、この世に対する裁きの恐ろしさは、ことばに言い表せないのではないでしょうか。

逆に、イエス様の弟子だから、と云う事で、弟子のことばを受け入れ、従うならば、イエス様を受け入れたのであり、父なる神様を受け入れたのであり、父なる神様の与えてくださる祝福から漏れる事はないのです。

イエス様から選ばれた「友」であるならば、世の憎しみ、迫害を受けるのは必至であり、これを免れる事を願うならば、「友」である事を否定する事であり、父なる神様の与えてくださる祝福に与る事はないのです。

15:21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。

この世は、イエス様が、父なる神様から遣わされた方である事を知らないので、或いは、知ろうとしないので、イエス様に敵対し、イエス様を憎み、迫害し、イエス様に従う者たちを、イエス様の弟子たちを、憎み、迫害するのです。

しかし、本当に知らなかったのでしょうか。

15:22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

識字率の低い時代であり、文字、即ち、聖書を読める者はわずかであったでしょうし、聖書は希少であり、誰もが聖書を手にする事が出来ない時代ではあったでしょうが、イエス様は、人の知恵によらない、或いは、伝統によらない聖書解釈をしたのです。

イエス様の教えは、この世には見られない、権威ある教えであり、誰も、真似の出来ない、威厳に満ちた教えでした。

何故ならば、父なる神様から聞いた事を話されたからです。

マタイの福音書728節、新改訳第3版、新約聖書の12ページ、2017版は13ページ、

7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。

7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

民衆は、イエス様の語られたことばに驚きを禁じ得ず、権威を認めながら、最終的には、イエス様を憎み、迫害したのであり、弁解の余地はありません。

15:23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。

23節については、20節のところで触れていますので、割愛します。

15:24 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。

22節とともに、イエス様は、人の力によらない、薬の類や、治療ではない奇跡を行なったのです。

ヨハネの福音書1032節、新改訳第3版は199ページ、2017版は203ページ、

イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか」。

イエス様は、ことばと、わざとの二面を示したのであり、イエス様のことばを聴いて、イエス様のわざを見て、イエス様を神の子として、認めようとしなかったユダヤ人たちの態度は、全く弁解の余地はなく、弁護のし様もありません。

15:25 これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。

引用されている二重鍵括弧は、詩篇からの引用です。

当時は詩篇を、律法の一部と見做していたようです。

詩篇3519節、新改訳第3版、旧約聖書の938ページ、2017版は967ページ、

35:19 偽り者の私の敵を 私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が 目くばせし合わないようにしてください

詩篇694節、新改訳第3版は971ページ、2017版は1002ページ、

69:4 ゆえなく私を憎む者は 私の髪の毛よりも多く 私を滅ぼそうとする者 私の敵 偽り者は強いのです。私は 奪わなかった物さえ 返さなければならないのですか」。

人は、思う程には論理的、理知的ではなく、冷静沈着でも、意思強固でもなく、否、かなり直感的、短絡的であり、感情的であり、周囲の影響を受け易く、深い考えもなく同調し易く、簡単に憎み、迫害に加わってしまうのです。

イエス様も、イエス様の弟子も、少数派であり、力もなく、この世の勢力、多数派によって、イエス様が葬り去られ、弟子たちも散らされ、イエス様から与えられた使命は、簡単に潰えてしまいそうに見えますが、イエス様のことばと行いは、イエス様が世を去ってから、受け継がれ、伝えられて行くのです。

その担い手、証人となるのが、弟子たちであり、父なる神様から出る、聖霊との共働によって、なのです。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

15:27 あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。

イエス様のことばとわざは、復活されたイエス様の要請により、父なる神様から遣わされた助け主、聖霊様とイエス様が選び、友とされた直弟子たちを証人として、伝えられ、直弟子たちが選び、任命した次の「友」である弟子たち、信徒たちによって現代に伝え続けられているのであり、これからも連綿と伝え続けられて行くのです。

弟子と信徒は、初代から、相当数、代替わりしていますが、聖霊様と聖書を機軸としているので、変わる事もなく、薄まる事もなく、人の考えが入る事もなく、イエス様のことばとわざは、伝え続けられて行くのです。

【適応】

イエス様の敵対者は、イエス様を憎み、迫害したのは、唯一の神様、世界の創造主である神様、全知全能の神様を知らない民、異教徒、異邦人ではありませんでした。

それなら、まあ、理解出来ない事もありません。

事実、現代でも、宗教的な憎しみ、民族的な迫害は引きも切らないからです。

しかし、イエス様を憎み、迫害したのは、イエス様の弟子を憎み、迫害する事になるのは、異教徒でも、異邦人でもなく、他でもないユダヤ人であり、宗教的指導者、長老、学者だった事に注目しなければなりません。

そして、民衆は、宗教的指導者、長老、学者の言う事を支持し、イエス様を憎み、迫害し、イエス様の弟子たち、信徒たちを憎み、迫害したのです。

2000年前の出来事でありますが、過去の事、終わった事ではありません。

現在も、教会やキリスト教組織の中でも起こり得る事です。

本人は、正しい事を行なっている、神様に喜ばれる事を行なっていると、自負していますし、支持する人々がいるのも、事実ですが、宗教的指導者、長老、学者も、民衆もそうでした。

実は、自分の考えを、神様の名を騙って言っているのに過ぎず、自分のしたい事を、神様の名前を持ち出して行なっているに過ぎないのです。

神様の御こころ、と言いながら、実は、自分のしたい事をしているのであり、神様の前に正しい、と言いながら、自分が正しいと思う事をしているのであり、知らずに、神様に敵対し、イエス様や弟子を憎み、迫害しているのです。

自我が砕かれていないからであり、自尊心がそのまま残っているからです。

繰り返しになりますが、聖書の教えに反する事以外は、何をするも、しないも、自由です。

色々な考えがあり、色々な方法があり、神様がそれを認め、イエス様がそれをよしとされています。

それなのに、自分と違う考え方、方法を非難するのは、イエス様の主権を侵す事であり、神様の上に自分を置く事です。

今は、アドベント、イエス様の御降誕、クリスマスの時期ですが、祝い方、飾り付けについては、色々な方法があっていいのです。

ちっと、余談になりますが、クリスマス、イースターの由来を見てみましょう。

元々、キリスト教の行事は、もっと質素で、簡素でした。

しかし、クリスマスは、土着の宗教行事、ミトラ教の祭典や、古代ローマの農業神サトゥルヌスの祭典と結び付けられ、イースターも、土着の宗教行事、チュートン族の春の女神の祭典と結び付けられ、人間のための、人間中心の楽しみのイベントに変質してしまったのです。

Holy night:聖なる夜が、Holiday night:お祭りの夜に変身し、意義も意味も変質してしまったのであり、土着の宗教行事を取り入れたのは、キリスト教会なのであり、キリスト教の歴史の汚点と言わざるを得ません。

Holidayholy + dayが語源との説がありますが、その意味からしても、お祭り騒ぎは相応しい事ではありません。

土着の宗教に対抗するために、多少の譲歩、妥協は仕方がない事かもしれませんが、いち早く、軌道修正し、何が神様に喜ばれる事かを、教えなければなりません。

現代に伝わる古い伝統は良い、とは限らず、由来を調べ、現代に相応しい方法を考えなくてはならないのです。

その意味でも、旧来の方法でクリスマスやイースターを祝うのではなく、旧来の慣習を捨て、離れる工夫こそすべきなのです。

ミトラ教風クリスマスであってはならず、チュートン族風イースターであってもならないのです。

ですから、ここで原点に戻って、クリスマス、イースターの意味を考えての、祝会にすべきであり、そうしてこそ、イエス様に相応しい祝会になるのです。

祝会をしない、と云う選択肢があってもいいのであり、このような話し合いは、建徳的、有益ですが、祝会の中身で、混乱や、非難が起こるような事があるなら、悲しい事です。

今からでも遅くはありません。

この椎名町教会からでも、心をイエス様に向けて、イエス様の恵み、憐れみを、深く思い味わう、イベントを発信したいものです。

教会が、世に取り込まれてしまわないように、教会が、世と区別され、聖さを保ち続けるためにも、飾り付けではなく、薄っぺらな有り難さでも、軽薄な演出でもなく、静謐の中に、イエス様だけを力強く証するイベントを提供しなければなりません。

イベントに対する考え方や、伝統、歴史などの違いから、教会の中に混乱が起こらないよう、一人ひとりが、思いを吟味しなければなりません。

自分は正しい事をしている、との考えを、一度、横に置き、何が父なる神様の御こころか、に思いを馳せ、巡り巡って「イエス様と弟子たちを迫害する」事にならないように、イエス様、神様の栄光を現す、祝福されたHoly night:聖なる夜を迎えようではありませんか。

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                               2018-12-9礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1511節から17

説教題:「あなたがたはわたしの友です」

【導入】

イエス様は、最後となる、過越の食事の席で、弟子たちに大切な事を話されました。

そのお話は佳境に入ります。

イエス様と弟子たちとの関係は、文字通り、教師と弟子の関係であり、上下関係、保護者と庇護を受ける者の関係であり、「あなたがたに聖霊を与えます」も、「あなたがたを孤児にはしません」も、「あなたがたに平安を与えます」も、「わたしに留まりなさい」も、イエス様の、弟子を思いやる心、弟子を心配する心の込められたことばであり、麗しい師弟愛の溢れることばです。

これらのことばは、素晴らしいことばであり、弟子のみならず、信徒にとっても、慰めと、励ましと、希望とを与えることばですが、イエス様との関係は、イエス様昇天に際して、師弟関係、上下関係、保護者と庇護を受ける者の関係を脱しなければなりません。

脱する、と云うより、次の関係に移らなければならないのです。

イエス様が地上におられる間は、イエス様が弟子たちと神様との間を取り持ってくださいましたから、弟子たちは、神様のお考えを直接知らなくても、問題はありませんでした。

神様のお考え、ご計画を知らなくても、イエス様に従えば問題はありませんが、イエス様が昇天されてからは、神様のお考えを取り継ぐ方が居なくなるのですから、事は深刻です。

弟子たち、信徒たちは、イエス様から働きを委ねられましたが、その働きは、非常に特殊な働きであり、神様の御こころ、ご計画を知らなければ、神様に喜ばれる働きは出来ません。

しかし、働きの内容を知っているのみでは、働きを引き継ぐ事は出来ません。

働きを引き継ぐためには、イエス様と同等の地位、資格、関係を持たなければなりません。

一般社会でも、ある働きがあり、その働きを遂行する知識、能力があっても、地位、資格がなければ、その働きに携わる事は出来ません。

自動車の運転技術があっても、自動車免許を持っていなければ自動車の運転をしてはならないのに似ていましょう。

聖書の知識があり、聖書を解き明かす能力があっても、所定の手続きを経て、按手、准允を受けなければ、牧師の働きには就けません。

牧師は、イエス様の弟子でありながら、イエス様の友として、働きを委ねられており、信徒も、イエス様の弟子でありながら、イエス様の友として、働きを委ねられているのです。

この、イエス様の弟子でありながら、イエス様の友と云う、特殊な関係について知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

新改訳201715:11わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満あふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

イエス様の与える戒めを守る事は、イエス様を愛する事であり、イエス様の与える戒めを守る事は、イエス様との生ける交わり、イエス様との親しい交わりを保つ秘訣であり、真のいのちと、尽きる事のない、完全な喜び、満足を与えるものなのです。

イエス様の与える戒めとは、具体的には、隣人を愛する事ですが、しかも、一時的なものではなく、特定の誰かではなく、関わる全ての人を、分け隔てなく、常に愛する事です。

しかし、「言うは易し、行なうは難し」であり、意見の違い、考え方の違い、価値観の違い、などなどで、衝突も、諍いも絶えないのが、人間関係です。

しかし、イエス様は、それらの障害を乗り越えて、敵をも愛してこそ、イエス様の弟子であると教えます。

敵を愛するのは、困難が伴い、或いは、苦痛が伴う事もあるでしょうが、イエス様の教え、戒めに対する、積極的な応答であり、イエス様と喜びを共有する秘訣です。

渋々従うのではなく、積極的に取り組む時、何より、イエス様が喜ばれる事、神様が喜ばれる事であり、イエス様の遺志を継ぐ事であり、擬似的に、イエス様に成り代る事であり、イエス様と喜びを、共有している事、イエス様の喜びを、擬似的に体験している事なのです。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

12節は、1334節で語られた事の繰り返しですが、大切な内容だからこそ、イエス様は、繰り返し語られます。

イエス様に愛され、イエス様の愛を知ると、イエス様と同じように、人を愛そう、との思いが生まれて来ます。

弟子として、戒めとして、従わなければならない、との消極的な応答ではなく、取るに足りない、罪だらけの、反逆的、反抗的、ちっぽけな私が、イエス様に愛されたなら、私も、少しでもイエス様に近づきたい、イエス様の真似をしたい、イエス様のお考えに従いたい、との思いが生まれ、積極的な応答として、イエス様のように、敵をも愛そうと思うようになり、行動に現れて来るのではないでしょうか。

それは、例え、上手く行かなくても、長続きしなくても、イエス様が喜ばれる事なのです。

敵を憎むのは、誰にでも出来ますが、敵を愛するのは、イエス様にしか出来ない事であり、イエス様の弟子、イエス様が友と見做してくださる者の務めであり、生涯を掛けて、取り組む務めなのです。

15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

イエス様は13節で、最高の愛、自己犠牲の愛を語られますが、イエス様は「最高の愛」を語られ、示されただけではなく、実際に行なわれたのであり、目の前の弟子たち、信徒たちを愛し、未来、将来の弟子たち、信徒たちを愛し、また、過去、現在、未来の、右も左も分からずに彷徨っている人々を愛し、憎み、罵しる人々をも愛し、自らのいのちを捨てられたのであり、模範を示されたのです。

家族愛、同族愛、同国民愛も、それぞれに素晴らしい愛ですが、友のためにいのちを捨てる犠牲の素晴らしさは、更に、敵をも含み込み、注がれるイエス様の愛は、至高の愛であり、これ以上、大きな愛は、存在しないのです。

相手のいのちを、自らのいのち以上に尊ぶのみならず、相手のいのちのために、自らのいのちを犠牲にするのは、人には為しえない事であり、この愛を持ち合わせるのは、成し遂げられるのは、イエス様、神様だけであり、人は聖霊様の助けが必要不可欠です。

聖霊様の助けを受けても、罪をもつ身であり、イエス様の完全な愛には達し得ないでしょうが、崇高な願いであり、イエス様が喜ばれる事は、聖霊様の助けがある事は間違いありません。

15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

わたしが命じること」とは「互いに愛し合うこと」であり、知っているだけでなく、座右の銘にするだけでなく、これを実践する事であり、そのとき、イエス様は、弟子を、信徒を、「」と呼んでくださるのです。

呼び方の問題ではありません。

関係性の問題であり、主従関係も無く、師弟関係も無く、上下関係も無く、優劣も無く、「」と呼び、同等、同格に扱ってくださるのです。

勿論、イエス様と同質ではなく、罪を持つ身ではありますが、イエス様の「義」を、転嫁してくださり、罪を持たないかの如くに扱ってくださり、決して越えられない身分の差、神様と、被造物にして罪を持つ我らの差を、イエス様は解消してくださり、神様に直接呼び掛ける事、直接願いを申し述べる事、直接御こころを伺う事が許されるのです。

この、イエス様との関係性の変化は、神様との関係性も、大きく変えました。

イエス様来臨以前は、祭司や預言者を経由して、神様と交流するしかありませんでしたが、イエス様が来られて、我らを「」と呼び、「」の身分を与えてくださったので、神様と直接交流する事が可能となったのです。

即ち、神様の御こころを知り得る立場、身分になったのであり、一方的に命じられ、唯々従う事だけの立場から、命令とともに、ご計画を知らされる事となったのです。

15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

しもべ」と訳されていることばは、「奴隷」と訳す事の出来ることばであり、主人は「しもべ、奴隷」に、理由を知らせる必要はなく、同意を得る必要もなく、「しもべ、奴隷」は、無条件の服従だけが要求される立場ですが、「」は、理由が知らされ、同意の上で、賛同ゆえに服するのであり、「」と呼ぶよりは、「仲間、同士、同労者、共働者」なのであり、目的や、目標、計画などを知らされ、共に神様のご計画に参与するのです。

神様のご計画が示されるのは、それを受けて、他に伝えるために選ばれた者に対してだけであり、言い換えるなら、「」にだけ、神様のご計画が知らされるのです。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

イエス様の「」選びは、自薦、他薦、ではありません。

イエス様の一方的な選びであり、「任命」であり、使徒となって、「行って実を結び」「その実が残るようになるため」、また、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです」。

選ばれたのは、能力があるからではなく、従順だからでもなく、努力家だからでもなく、忍耐強いからでもなく、人徳があるからでもありません。

選ばれる前の状態、状況ではなく、選ばれてから、どのように応答するかなのです。

こんな私を選ばれた事に感謝して、「」と見做して下さった、最高の友であるイエス様のためにいのちを捨てるか、否か、なのです。

大した能力は持っておらず、従順でもなく、努力家でもなく、忍耐強くもなく、人徳が乏しくても、イエス様はそんな人物をも選ばれるのであり、どんな人物でも、イエス様の働き人になり得る事を教え、どんな人物でも、イエス様が選ばれた働き人、立てられた働き人、遣わしたもう働き人として見、聴き従う必要がある事を教えます。

立派な人物だけが選ばれるなら、世の中と変わりは無く、尊敬に値する働き人にだけ聴き従うなら、世の中と変わりはありません。

イエス様が選んでくださったから、従うと云う応答をするのであり、イエス様が選ばれ、立てられ、遣わされた働き人だから、受け入れるのであり、聴き従うのです。

その時、イエス様が選ばれ、立てられ、遣わされた人を用いて、神様が働かれ、「実を結び、その実が残るようにな」り、神様、イエス様の栄光が現されるのです。

イエス様が選ばれ、立てられ、遣わされた働き人だから、受け入れるのであり、聴き従う、と云う対応は、非常に重要です。

ちょっと方針が違う、ちょっと考え方が違う、今までのやり方と違う、と言って反発し、批判するなら、イエス様を拒否しているに等しく、神様に反抗しているに等しく、実の結びようがなく、その実の残りようがありません。

何回か、過去にお話していますが、明確に聖書の教えに反する事であるなら、断固として、聴き従ってはならず、信仰の根幹に関わる事であるなら、はっきり確認しなければなりません。

しかし、どちらでも良い事、色々な方法ややり方がある事であるなら、例えば、今は、クリスマスの時期ですが、リース、イルミネーションなどの飾り付け方、時期、祝会の手順、出し物、食事の内容など、些事で貴重な時間を消費するのではなく、忙しく、慌ただしい中でイエス様をお迎えするのではなく、心を整え、静かに待つ事こそ、最優先させるべきです。

イベントの度に、ざわつき、気忙しくあるようでは、イベントが終わって、ほっとするようでは、イベントで疲れてしまっては、何のためのイベントなのか。

ルカの福音書1038節、新改訳第3版は新約聖書134ページ、2017版は136ページ、

10:38イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。

10:39 彼女にはマリヤという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。

10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」」。

各々が、其々の方法でイエス様を迎えればよいのであり、混乱を避ける意味で、イエス様が選ばれ、立てられ、遣わされた働き人に聴き従うのが、秩序であり、訓練でもあり、祝福の基であり、「実を結び、その実が残るようになる」のです。

」は、ブドウの喩えからの流れで語られていますが、実体としての「」ではなく、イエス様の弟子たち、信徒たち、選びの民を生み出す働きであり、業です。

決して、イベントでも、出し物でも、お土産などでもない事は明確です。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれをあなたがたに命じます。

ここでも、イエス様は1334節を繰り返します。

イエス様は「互いに愛し合うこと」を命じられたのであり、「互いに注意しあうこと」を命じられたのではありません。

直接言わずに、影で「批判すること」がありますが、教会を毒し、教会を死に至らしめる、危険な行為である事を肝に銘じておかなければなりません。

イエス様が弟子たち、信徒たちを「」と呼ばれるのは、イエス様にとどまりつづけ」る時であり、」と呼ばれる者の使命は、イエス様が示された愛を、互いに愛し合う事を通して、実践するのであり、その時、世に神様の栄光が現され、弟子たち、信徒たちの真価が現されるのです。

【適応】

世の中の「友」は、利用するような関係である事が多いようです。

利用する価値が無くなれば、関係を断ち、利用されていると知れば、文句を言い、遠ざけるのではないでしょうか。

イエス様は、弟子たち、信徒たちを「友」と呼んでくださいますが、本来、「友」は、evenな関係です。

evenとは「平らな、釣り合いの取れた、対等・同等、貸し借りのない、損得のない」などの意味を持つことばですが、イエス様と、弟子たち、信徒たちとは「平らな、釣り合いの取れた、対等・同等、貸し借りのない、損得のない」関係ではありません。

桁違いであり、不均衡であり、膨大な借り・負債があり、莫大な損失・被害を与えています。

「友」と呼んでいただく資格も、権利もないのに、それなのに、イエス様は、一方的な恵み、憐れみで、受け入れてくださり、「友」と呼んでくださるのです。

そして、「友」として、父なる神様に、直接、声を掛け、祈り、願う特権を与えてくださったのです。

アドベント、イエス様の御降誕、クリスマス、十字架の死、復活、イースター、ペンテコステ。

これらの全てが、神様のご計画なのであり、イエス様を中心とするご計画なのですから、イエス様中心の、アドベント、クリスマス、イースター、でなければならないのに、いつの間にか、人間中心の、人間のための、楽しみのイベントに成り下がってはいないでしょうか。

心をイエス様に向けて、イエス様の恵み、憐れみを、深く思い味わう、イベントとして過ごしたいものです。

教会が、世に毒されてしまわないように、教会が、聖さを保ち続けるためにも、派手な飾り付けではなく、薄っぺらな有り難さでも、軽薄な演出でもなく、静謐の中に、イエス様だけを力強く証するイベントを提供しなければなりません。

イエス様にとどまりつづけ」る事だけが、重要、大切、不可欠であり、イエス様が「」と呼んでくださる事を忘れず、イエス様から、真の栄養を受けて、豊かに養われ、豊かな実を結び、神様の栄光を現す、祝福された信仰生活を送ろうではありませんか。

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                                                                     2018-12-2礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書151節から10

説教題:「イエス様に留まる、留まり続ける」

【導入】

イエス様は、最後となる、過越の食事の席で、弟子たちに大切な事を話されました。

それは、信仰の確信に関するお話であり、イエス様が十字架で死なれる際の、別離の際の、慰め、励ましのことばであり、イエス様が昇天されてからの、迫害、働きに対しての、励まし、慰めのことばであり、希望のことばでした。

イエス様は天に昇られ、暫くの間、逢えなくなるけれども、悲しまなくても良い、何故ならば、「あなたがたに聖霊を与えます」、であり、寂しがらなくても良い、何故ならば、「あなたがたを孤児にはしません」、であり、恐れ、怯えなくても良い、何故ならば、「あなたがたに平安を与えます」だからです。

今回扱う聖書箇所は、これらのイエス様のことばと深く、密接に関わっています。

イエス様のお約束は、疑う余地の無い、確実な約束であり、イエス様のことばは必ず実現するのですが、しかし、誰にでも、無条件に、ではありません。

イエス様に留まり続ける限りに於いてであり、イエス様から離れない限りに於いてです。

小さな子どもではないのですから、離れては駄目、の意味ではなく、働きの性質上、留まり続けては、働きは前進しないのに、の意味でもなく、留まるも、離れてはならないも、物理的にではなく、信仰的に、イエス様を離れてはならず、霊的に、イエス様に留まり続けなければならないのです。

その理由を語るのが、今日のテキストの箇所なのです。

【本論】

新改訳201715:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。イエス様は、喩えを用いて話されます。喩えは、非常に効果的なのですが、それは、生活に密着し、誰もが知っている事、細々とした説明をするまでも無く、全体を正しく思い描ける事が条件でしょう。

その点で、羊の喩えや、葡萄の喩えは、適切、的確です。

ユダヤ人は、小麦、大麦などを栽培していましたが、元来は牧畜を生業とする、遊牧民族です。

子どもは、比較的従順な、比較的扱い易い羊の世話をし、将来の、牛などの大型の家畜の世話の、備えをするのです。

勿論、大人しく、扱い易い部類に属する羊でも、発情期の雄羊は気が荒く、雌羊でも力は強く、大人でも扱いかねますが、子どもは、子羊とともに育ち、羊の扱い方を学ぶのです。

一方、葡萄は、比較的、乾燥に強いので、栽培しやすい植物であり、雨期の麦類、乾季の葡萄が、カナンの大地からの、植物の恵みなのです。

葡萄の木は、栽培種、野生種、ともに、ユダヤ人の馴染みの植物であり、その育成は、誰もが知っている、生活に密着した植物なのです。

更には、葡萄は、「神の民、イスラエル」に喩えられ、聖書の随所に登場します。

葡萄を喩えに用いるのは、言外にイスラエルの民、神の民を暗示しているのであり、心して聴く必要がある事を、注意喚起を促しているのです。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。どんな種類の植物も大きく分けて、根と、幹と、枝と、葉や実に分類されましょう。

根や幹は、文字通り、根幹であり、雑な移植をすると、幹を不用意に剪定すると、その植物を殺してしまいます。

しかし、葉や実は勿論の事、枝を剪定しないと、葉ばかりが茂り、実を実らせず、刈り込みをしないと、小さな実しか実りません。

農夫は、枝の状態と、実となる芽を見極め、剪定、刈り込みをするのであり、剪定、刈り込みを的確に行なわないと、収穫は激減するのです。

教会堂の前に、柿の木がありますが、私が赴任してから、満足な実を食べた事がありません。

数年前に小さな実が実りましたが、食べられる程にはならず、ここ数年は、実となる芽さえ、現れません。

せっかく柿の木があるのに、残念な事であり、がっかりする事ですが、剪定や刈り込みは勿論の事、水や肥料さえも、与えてないのですから、期待する方が間違っていましょうが、しかし、神様は、イエス様を言う代価を払われて、弟子たち、信徒たちに実りを期待されているのです。

葡萄の木に喩えられるイエス様と云う根と幹があり、枝に喩えられる弟子たち、信徒たちと云う枝があり、農夫に喩えられる父なる神様が、剪定、刈り込みをなさいますが、それは、枝に、多くの、美味しい実、即ち、有用な実を実らせる事が期待されているからです。

それは、私の、柿の実の実りに対する期待とは雲泥の差、です。

この節で、「取り除き」と「刈り込み」、そして3節の「きよい」が語呂合わせになっています。

「取り除き」の、ヘブル語は「airei」であり、「刈り込み」の、ヘブル語は「kathairei」であり、3節の「きよい」の、ヘブル語は「katharoi」です。

即ち、「取り除き」と「刈り込み」は「きよい」に関連しているのであり、継続的に「取り除き」、「刈り込み」をされる必要があり、絶えず「きよくされ」続けなければならないのです。

聖書は、野生種の枝が、純良種の木に接木される例を用いて、イエス様に繋がれた弟子たち、信者たちが、イエス様によって養われている様子を証言しています。

ローマ人への手紙1117節、新改訳第3版は新約聖書307ページ、2017版は316ページ、「11:17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている」。

この証言は、イエス様に接ぎ木されている事を誇ってはならない、との文脈の中で語られていますが、豊かな実を結ぶ事が期待されているのは、説明するまでもない事でしょう。

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。

イエス様の教えが、虚しく、通り過ぎて行く事はありません。

イエス様のことばには「力」があるので、必ず、人に、何かしらの影響を与えます。

人は、イエス様のことばを聴いて、何かしらの反応をするのです。

好意的に受け止める場合もあるでしょうし、反発する場合もあるでしょう。

従ってみようとの思いが生まれる事もあるでしょうし、今までの生活を捨てられない場合もあるでしょうが、イエス様のことばが、聴いた人の内に入った事に変わりはなく、聴いた人は「きよい」と、見做されるのです。

この、「見做される」と云う見方、考え方は非常に重要です。

イエス様に対する信仰を告白し、洗礼を受け、聖餐で信仰の確認、信仰生活を吟味をしても、人には罪の性質が根強く残っていますから、本当の意味で聖くはなれないのですが、イエス様の「義」が罪人である人間に転嫁され、罪人である人間は「義」と見做され、神様から義人に与えられる祝福を、罪人でありながらも、受ける事が出来るのです。

祝福を受ける秘訣は、イエス様に「とどまる」「とどまり続ける」事であり、4節以降に10回も繰り返されて、その重要性を訴えています。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

イエス様のことば、悲しまなくても良い、何故ならば、「あなたがたに聖霊を与えます」、寂しがらなくても良い、何故ならば、「あなたがたを孤児にはしません」、恐れ、怯えなくても良い、何故ならば、「あなたがたに平安を与えます」とのお約束は、イエス様にとどまっていてこそです。

ホテルがあり、暖かく快適な部屋、美味しいたくさんの料理、寝心地の良いふかふかのベットが用意されていても、ホテルに入らなければ、これらの恩恵を受ける事は出来ません。

同じように、イエス様のお約束は、イエス様にとどまらなければ、とどまり続けなければ、享受する事は出来ないのです。

それは、葡萄の枝が、幹に繋がることによって、豊かな実を結ぶ事に、似ています。

イエス様に繋がっていれば、豊かな実を結ぶ事が出来るのであり、何でも出来るのです。

信仰生活に於いても、教会奉仕に於いても、伝道活動、宣教活動に於いても然り、です。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

イエス様にとどまる、と云う事は、イエス様が罪人である私のうちにとどまる事であり、イエス様のいのちに与る、イエス様と共に生きる、と云う事です。

ガラテヤ人への手紙、新改訳第3版は、新約聖書366ページ、220節から、2017版は、377ページ、219節後半から、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今 私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」。

イエス様が、罪人である私の内にとどまってくださり、生きておられるので、イエス様の助けがあり、罪を持つ身でありながらも、信仰を動機、起点とするので、ことごとくが、神様の受け容れたもう、神様に喜ばれる事が出来るのであり、させて頂けるようになり、「多くの実を結」ぶ事が出来るようになるのです。

逆に言えば、イエス様不在では、何も為しえないのであり、為す事のことごとくが、信仰によらないので、神様に受け入れられる事はなく、神様を喜ばせる事はなく、罪を積み上げる事でしかないのです。

神様に喜ばれないだけではありません。

15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

直接的には、イエス様に対する信仰を告白せず、神様に背を向けたままの生き方を、頑なに続ける者に対する警告の宣言ですが、広義に解釈するならば、神様、イエス様が、弟子たち、信徒たちに与える訓練を拒み、イエス様が、弟子たち、信徒たちに与えた戒めに服さないような、形だけの弟子たち、名目だけの信徒たちに向けて、発せられた警告の宣言として受け止めなければなりません。

似非(えせ)クリスチャン、サンデー・クリスチャン、イベント・クリスチャンの、何と多い事か。

洗礼を受けた途端、洗礼という目的を達したから、もう、教会に用はない、かの如くに、教会に来なくなる、日曜日しか、聖書を開かない、奉仕の当番に当たっている日曜日にしか、教会に来ない、イベントでは張り切り、先頭に立って行動する、イベントがあると、教会にやって来るけれども、イベントがないと教会にやって来ない、やれ、飾り付けがどうの、祝会の出し物がどうの、と、些事にばかり、気を配り、本来の目的、神様に対する礼拝、イエス様への感謝を忘れた人々の、何と多い事か。

神様、イエス様は、悲しまれているのです。

実を結ばない枝が取り除かれ、刈り込まれ、集められた枯れ枝が、火に投げ込まれるように、そんな害毒を撒き散らすような似非(えせ)弟子たち、偽信徒たちは、時至って、本物の弟子たち、本当の信者たちから切り離され、イスカリオテ・ユダのように、行くべき所に行く事になるのです。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

ここの「何でも欲しいものを求めなさい」が、私利私欲の類、自己実現、栄達などではない事は、しっかり、押さえておかなければなりません。

信仰生活に、本当に必要なもの、霊的成長に、必要不可欠なもの、神様、イエス様が喜ばれるようなもの、即ち、列王記第135節、新改訳第3版は旧約聖書581ページ、2017版は597ページ、「3:5ギブオンで主は夜の夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

3:6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。

3:7 わが神、主よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。

3:8 そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。

3:9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

3:10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

3:11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、

3:12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。

3:13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもをあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。

3:14 また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」なのであり、

それはかなえられます」が、「わたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら」との条件付である事を教えます。

願い事、自体は、神様、イエス様に喜ばれる願いであっても、素行や言動が、神様、イエス様の戒めに反するようでは、神様のご栄光を現す事は出来ませんから、願いが叶えられる事は難しいでしょう。

15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

弟子たち、信徒たちが、イエス様にとどまり、とどまり続けるなら、弟子たち、信徒たちは、豊かな実を結ぶ事が出来るのであり、豊かな実を結ぶなら、イエス様の弟子たち、信徒たちである事が解るのであり、世は、彼らが、イエス様の弟子たち、信徒たちであると認めるのです。

実を結んでこそ、イエス様の弟子たち、信徒たちであり、実を結ばないのは、イエス様の弟子たち、信徒たちではない、とも言えるのです。

勿論、「」は、人間が評価するものではなく、「」は、人間的な成功でも、貢献でも、成果でもありません。

神様の評価、イエス様の評価であり、神様、イエス様への従順の度合いで、神様、イエス様の栄光が現れるのであり、従順の度合いが「」として評価されるのは、言うまでもありません。

決して、直接的な、教勢とか、受洗者の数、伝道集会の動員数などではないのです。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

愛する事と、戒めを守る事とは、不可分の関係です。

イエス様が、父なる神様に従われたのは、父なる神様と、イエス様の間に、永遠の相互愛、永遠の相互信頼があったからです。

イエス様は父なる神様を愛するが故に、父なる神様を信頼するが故に、父なる神様に従われ、父なる神様はイエス様を愛するが故に、イエス様を信頼するが故に、イエス様の従順を確信して、使命を与えられたのです。

イエス様は、弟子たち、信徒たちを愛するが故に、弟子たち、信徒たちを信頼し、戒めが守られる事を確信するが故に、戒めを与えられるのであり、弟子たち、信徒たちも、イエス様を愛するが故に、イエス様を信頼するが故に、喜んで戒めに従うのです。

戒めを守る、服従の生活は、決して苦痛とはならず、イエス様との生ける交わり、真のいのちと満足と、喜びを与えるのです。

この「どどまる」は、「とどまり続ける」の意味で理解し、適応しなければなりません。

一時停止、ではなく、碇を下ろし、停泊するのです。

この世では、停止や停滞は、マイナス評価が下されましょう。

しかし、イエス様にとどまるのは、停止、休止ではなく、イエス様に「繋がり続ける」の意味であり、イエス様から栄養をいただき、平安をいただき、聖霊を受け、力を受け、この世に対して、神様の栄光を現し、預かった賜物を豊かに用いる秘訣なのです。

【適応】

本日の説教題「イエス様にとどまる、とどまり続ける」は、簡単そうで、決して簡単ではありません。

その理由、第一に、人間は忍耐強くはなく、不従順だからです。

とどまりなさい、と命じられても、とどまる事が出来ず、あちらことらと動き回ってしまいます。

或いは、待ちなさい、と命じられても、待っている事が出来ず、勝手に振舞ってしまいます。

それは、祝福を逃す事であり、呪いを招く事です。

サムエル記第一1313節、新改訳第3版は旧約聖書485ページ、2017版は499ページ、サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。

13:14 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ

サムエル記第一1515節、新改訳第3版は旧約聖書491ページ、2017版は505ページ、サムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」」。

第二に、人間は、思う以上に自信過剰だからです。

経験や知識は有用であり、大切ですが、経験や知識は、自信過剰に繋がり、従順の大きな障害となります。

自分で何でも出来るし、経験を活かし、知識を活用すれば、困難は乗り越えられると考えましょうし、この世は、それでやって行けますし、それが奨励され、それが誉めそやされますが、信仰者の生き方は、この世の生き方が、そのまま通用するとは限りません。

常に、神様、イエス様、聖霊様の助けと支えをいただき、導かれなければなりません。

マタイの福音書1623節、新改訳第3版は新約聖書33ページ、2017版は34ページ、下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

第三に、環境の影響を受け易く、状況に惑わされ易いからです。

聖書の教えは理解出来るけれども、時代に合わない、時代錯誤だ、文化が違う、理想でしょ、と言われると、そんなもんかなぁ・・・と納得してしまいます。

勿論、聖書の記述によっては、時代や文化に合わない箇所もありますが、それでもって、聖書を否定し、安直に聖書に従わなくてもよい理由にしてはなりません。

神様に祈り、神様の声を聴き、神様の導きを受けつつ、時代や文化に合わせた解釈を試み、御こころから離れる事のないように、絶えず、チェックを欠かしてはならないのです。

そうしないと、イエス様から離れる事になり、イエス様から栄養を受ける事が出来ず、平安を得る事も出来ず、聖霊が力を発揮する事に支障が起こり、この世に取り込まれ、神様の祝福から零れてしまいます。

イエス様にとどまりつづけ」、真の栄養を受けて、豊かに養われ、豊かな実を結び、神様の栄光を現す、祝福された信仰生活を送ろうではありませんか。     

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