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聖書個所:創世記4229節~38節               2018-2-25礼拝

説教題:ルベンの提案

【導入】

冤罪と云う事は、あってはならない事ですが、有限な人間が、過ぎ去ってしまった過去の事を調べ、検察側と弁護側が、それぞれに都合の良い証拠を提出し、或いは、都合の悪い証拠は提出せずに、裁判を進め、有限な人間が、限られた情報、提出された証拠を基にして裁くのですから、また、人間は全くの中立を保つ事は難しく、多少なりとも先入観念、固定観念、過去に影響されますから、冤罪は起こってしまいます。

また、悪意を持って、狂言を演じ、冤罪を謀る人間もおりますが、そんな人間は呪われて然るべきです。

冤罪が起こりうる事を想定し、人間は知恵を出し、「疑わしきは罰せず」の原則を打ち立て、人権を守ろうと努力して来ました。

今、扱っている聖書箇所、ヨセフの、兄たちへのスパイの嫌疑は、正真正銘の冤罪ですが、ヨセフの悪意からの、嫌疑、冤罪ではなく、ヨセフの兄たちの性根を調べようとするものであり、神様から、アブラハム、イサク、ヤコブに託された、世界を祝福するという、遠大な計画の推進者、継承者足るか否かを見定めるためであり、神様の許したもう事である事を、押さえておかなければなりません。

ともすると、人間は、聖書を基に、聖書の極一部分を切り取って、自分に都合の良い解釈をし、悪意ある言動をするからであり、正当化の根拠とするからです。

こんな聖書の用い方は、断じてしてはなりません。

肝に銘じて置きたいところです。

さて、ヨセフから嫌疑を掛けられた、ヨセフの兄たちの帰路は、重苦しい空気の纏い付く、重い足取りの旅だった事でしょう。

九人が開放されたとはいえ、シメオンは囚われの身となっているのであり、袋の口に入れられていた銀は、盗みの嫌疑をかける布石ではないかと案じられます。

経緯の全てを、父ヤコブに報告すべき事は重々承知してはいても、年老いた父にとっては衝撃となる事は明らかであり、思案に結論の出ないまま、不安の募る中、父ヤコブの許に到着してしまいます。

【本論】

42:29 こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った。

父ヤコブへの、報告の口火を切ったのは、長男であるルベンでしょう。

30節から34節までが、報告の内容ですが、出来事、経緯の全てとは言えないような内容、報告です。

42:30 「あの国の支配者である人が、私たちに荒々しく語り、私たちを、あの国をうかがう間者にしました。

あの国の支配者」を、新共同訳聖書は「あの国の主君」と訳し、口語訳聖書は「あの国の君」と訳していますが、ヨセフの兄たちは、ヨセフを宰相と見たのではなく、「エジプト王パロ」と見間違いをしてしまったようです。

それは、神様がヨセフを選ばれ、立てられたからであり、神様がヨセフに威厳と、それに見合う風格、風貌、品格を与えていたからであり、家臣たちも、ヨセフを神様の霊の宿る者、神様の知恵の宿る者、神様が共なる者として畏怖しつつ、エジプト王国を救う者として見、エジプト王国第二の権力者として、敬意を払い、服従していたからです。

これは、前回確認したところですが、ヨセフが「私も神を恐れる者だから」と自覚していたからでしょう。

皆が、畏怖し、尊敬し、敬意を払い、服従する時、人は高慢になり易く、与えられた地位や権力を、自身で勝ち取り、掴んだ物、自身の固有の物、自身から滲み出た物との錯覚を起こし易い者、高慢になり易い者なのです。

しかし、そうではありません。

人は、神様から与えられた物しか持ってはいないのであり、全ての良き能力、全ての良き賜物の類は神様の物であり、神様から預かった物にしか過ぎないのです。

ヨセフはそれをしっかり理解し、はっきり自覚していたので、高慢になる事なく、家臣、皆から畏怖されつつも、敬愛され、家臣、皆が服従し、エジプト王国は、飢饉の中でも秩序を保ち続けられたのです。

そして、神様を恐れ、神様に従う、謙遜、有能な僕によって、神様のご計画は進められて行くのです。

42:31 私たちはその人に、『私たちは正直者で、間者ではない。

42:32 私たちは十二人兄弟で同じひとりの父の子で、ひとりはいなくなったが、末の弟は今、カナンの地に父といっしょにいる』と申しました。

42:33 すると、その国の支配者である人が、私たちに言いました。『こうすれば、あなたがたが正直者かどうか、わかる。あなたがたの兄弟のひとりを私のところに残し、飢えているあなたがたの家族に穀物を持って行け。

42:34 そしてあなたがたの末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、あなたがたが間者ではなく、正直者だということが私にわかる。そのうえで、私はあなたがたの兄弟を返そう。そうしてあなたがたはこの地に出はいりができる。』」

報告は、ヨセフの理不尽さを強く印象付ける言葉で始まりますが、三日間、監禁所に留置された事が抜けています。

最初、九人を留置し、一人だけが開放され、家族の許に穀物を持って帰る事が許されたが、三日後には逆転した経緯が省かれています。

道中の宿で、一人の穀物の袋から、代金の銀が見つかった事も、その時、身を震わせるまでの大きな衝撃を受けた事も報告していません。

それは、高齢の父ヤコブの心労を、少しでも緩和させるための配慮からであり、エジプトからの帰路、道中、兄弟皆で相談し、ヨセフの要求の深刻さを、高齢の父に感じさせない言い方を考えての報告なのではないでしょうか。

しかし、この報告は、現実味に乏しく、ヤコブは上の空で聞いていたのではないでしょうか。

聞いていなくても、話の要点は34節であり、ベニヤミンを連れてエジプトに向かうなら、全てが解決する、今後も続く飢饉に、エジプトの援助が確実に得られる、ヤコブ一族が守られる、ヤコブ一族が生き延びられる、至っては、ヤコブ一族が神様のご計画に用いられる、と云う事です。

父ヤコブは、息子たちの報告に、何の感想も、意見も述べない中で、ヨセフの兄たちは、エジプトから持ち帰った穀物を、穀物保存用の容器に移し替えます。

42:35 それから、彼らが自分たちの袋をからにすると、見よ、めいめいの銀の包みがそれぞれの袋の中にあるではないか。彼らも父もこの銀の包みを見て、恐れた。

父ヤコブの見守る中で、九人の、それぞれの穀物の袋の中から、それぞれが支払った筈の、穀物の代金の銀が見つかります。

支払った銀は、後の時代に作られ、流通した硬貨、コインではなく、指輪、腕輪などの装飾品類、延べ板のような形の物であり、形も、大きさも、重さも様々であり、それだけに特徴があり、誰の物かが、容易に判別出来ました。

その特徴ある銀が、それぞれの持ち主の袋の口に入っていたのですから、勿論、九人は旅の途中で、同様の出来事に遭遇してはいましたが、長男ルベンの支払った銀が、ルベンの穀物の袋に入っており、三男レビの支払った銀が、レビの穀物の袋に入っており、四男ユダの支払った銀が、ユダの穀物の袋に入っており、五男ダンの支払った銀が、ダンの穀物の袋に入っており、六男ナフタリの支払った銀が、ナフタリの穀物の袋に入っており、七男ガドの支払った銀が、ガドの穀物の袋に入っており、八男アシェルの支払った銀が、アシェルの穀物の袋に入っており、九男イッサカルの支払った銀が、イッサカルの穀物の袋に入っており、十男ゼブルンの支払った銀が、ゼブルンの穀物の袋に入っており、と全員に関わっていたとは、思いも因らぬ事であり、考えの及ばぬ事であり、驚きを通り越して、強い恐れを感じ、狼狽したのではないでしょうか。

一官僚に、こんな事をする力はありません。

こんな不思議な事、あり得ない事を企んだ者に、悪意を感じざるを得ず、こんな悪意ある仕業を行い得るのは、あのエジプトの支配者しかない、との結論に至るのは難しい事ではないでしょう。

何しろ、エジプトの支配者、主君、君であり、何でも出来ない事はなく、在らぬ嫌疑をかけ、スパイと断定し、申し開きの一切を受け付けず、有無を言わさず、無理難題を押し付けて来る支配者なのですから。

ルベンの報告に、現実味を感じず、聞くともなく聞いていたヤコブですが、穀物の袋に入っていた銀を見て、ヤコブはルベンの報告が、現実の出来事であるとの認識を持たざるを得ず、不安と狼狽を言葉にします。

42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

この世の一切合切の不幸を背負ったような、自己憐憫に浸っている事を感じさせる言葉であり、ヨセフの兄たちに対する、漠然とした不信感を吐露した言葉ですが、事の真実を知る兄たちにとって、ヤコブの言葉は、極めて厳しく響いた事でしょう。

ヨセフの袖付の長服ですが、詳細に点検すれば、獣に裂かれた物か否かは、判別出来るのではないか。

父は何か、気付いているのではないか、確証がないので、口にしないだけなのではないか。

兄たちを、不安に陥れる言葉であり、沈黙に耐えられず、ルベンが口を開きます。

42:37 ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。私はきっと彼をあなたのもとに連れ戻します。」

ルベンは長男らしい、ルベンなりの責任と決意を持った提案をしますが、「私のふたりの子を殺してもかまいません」は、まともな考え方、提案ではありません。

ルベンの考え方は、子どもを私物化した考え方であり、命の付与者、支配者を蔑ろにした考え方です。

これと似たような表現、考え方の幾つかを紹介しましょう。

ヤコブと伯父ラバンとの会話の一齣、創世記3132節「あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである

民数記142節「イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ

士師記1130節「エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます」」。

サウル王とサウルに従う兵士との会話の一齣、サムエル記第一1439節「まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない」。

ダビデとダビデに従う民との会話の一齣、サムエル記第一2522節「もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように」。

命の付与者、裁き主である神様を差し置いて、命について、刑罰について軽々しく、軽率に誓いを立てるべきではありません。

軽率な言葉を口にしたために、ヤコブは、最愛の妻ラケルを失い、イスラエルの民は約束の地に入る事が出来ず、野で死に絶え、エフタも、大切な一人娘を失い、サウル王は、跡取り息子を失い、ダビデは、晩年まで戦いの中に置かれたのです。

誓ってはいけないと云うのではなく、大げさな誓いや、これ見よがしの犠牲を誇示する誓いをすべきではなく、神様の主権を第一とする、神様に委ねた、謙遜、柔和な誓いをすべきなのではないでしょうか。

ルベンの、気負った提案は、ヤコブの頑なな心には届きません。

42:38 しかしヤコブは言った。「私の子は、あなたがたといっしょには行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなたがたの行く道中で、もし彼にわざわいがふりかかれば、あなたがたは、このしらが頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」

ヤコブはルベンの必死の提案に、全く耳を傾けません。

イスラエル民族にとって、重要な地位を占め、その発言には一目置かれる長男の発言が、一蹴されるのは、創世記3522節に記されている、ヤコブの側女ビルハとの関係が原因となり、ルベンが全く信頼されていなかったからなのでしょうか。

一因になっている可能性は否定出来ませんが、主な理由は、ヤコブのベニヤミンに対する、異常なまでの愛着であり、ベニヤミンを手放す事への、極度の不安、恐れの故でしょう。

しかし、だからと言って、留置されているシメオンを見捨てている訳でも、ベニヤミンの命さえ助かれば、一族を犠牲にしても良いと考えている訳でもあません。

ヤコブは、ヨセフを失った悲しみから立ち直れないでいるのであり、命の付与者、支配者が見えない状態に陥っている故に、悲観的にしか考えられなくなっているのです。

よみ」とは、死人のいる所、墓などを意味するヘブル語「シェオル」の訳ですが、ヤコブは、例え死んでも、其処が安らぎの場所となる事はない、死んでなお、休息を見い出す事が出来ない、との考えを反映させた独白をしているのです。

一族の長が、こんな愚痴めいた言葉を口にする程、意気消沈した訳ですが、ヤコブも、ルベンも、見るべきお方を見ていないからこそ、情けない発言をせざるを得なかったのです。

神様から直接のお取り扱いを受けていないルベンはともかくとして、神様から直接のお取り扱いを受けたヤコブの信仰は何処に行ってしまったのでしょうか。

アブラハムがイサクを献げた信仰は、継承されなかったのでしょうか。

ヤコブが放浪の旅に出た時に現れてくださった神様との関係は、ラバンの許から逃げ出した時に助けてくださった神様との関係は、兄エサウとの再会を恐れた時に、ヨルダン川で現れてくださり、励ましてくださり、新しい名前を与えてくださった、あの神様との関係はどうなってしまったのでしょうか。

ディナの事件の折に、神様の守りを体験したのは、無駄だったのでしょうか。

そうではありませんが、人間は、弱い者であり、目の前しか見えなくなるのであり、過去を忘れやすく、右往左往し易い者なのです。

【適応】

問題のない信仰生活はあり得ません。

誰もが、生涯の中で、必ず大小、長短、軽重、様々な問題に直面します。

特に大きな、重い難題に直面した時、ルベンのように、気負い過ぎて、正常な判断、常識的な判断、誰もが思い付く、現実的な提案から、かけ離れた言動を取る事がありましょう。

また、ヤコブのように、意気消沈し、愚痴を零し、泣き言を言い、同情を誘うような言動を取る事がありましょう。

問題を解決するためならば、非常識な言動も辞さないルベンであり、父ヤコブの同意を得るためには、これ位の、思い切った提案しか、思い浮かばなかったのでしょうが、息子の命を差し出す覚悟の程については、賞賛に値すると見る方々もいらっしゃるでしょうが、自分の子どもの命の補償のために、孫の命を差し出されて喜び、安心するでしょうか。

こんな提案を受け入れ、これで納得する家族、人間がいるでしょうか。

しかし、ルベンの提案が、全く間違っている訳ではありません。

ある意味、正解であり、命は、命で償うしかないのであり、他の物、お金、或いは、労役などが、代わりにはならないのです。

誰かの命のためには、誰かの命が必要なのです。

この提案をした時点で、ルベンに何人の子どもがいたのかは不明ですが、ルベンは四人の子どもを持ちました。

エノク、パル、ヘツロン、カルミ、です。

この時点での子どもは二人であり、二人を差し出したのか、四人であったのに、半分を差し出したのかは不明ですが、しかし、孫の命が、息子ベニヤミンの命の保障になる訳ではなく、命の代わりになる訳でもなく、そんな事は百も承知であり、ヤコブはルベンの子どもの命と引き換えには同意出来ないのです。

命の唯一性と、独自性、掛け替えのなさは、人間にはどうしようもない難題中の難題なのであり、解決出来ない問題なのです。

人間の犠牲、代償の限界なのです。

しかし、神様は、この難題を解決されたのであり、ルベンの提案は、神様の救いの計画の預言と言えましょう。

神様は、人類一人一人の、唯一の命、掛け替えのない命のために、御子イエス様を犠牲にし、人類一人一人の、唯一の命、掛け替えのない命を贖われたのです。

皆様お一人お一人の命を、私の命を、イエス様の命で保証し、保障し、補償したのです。

保障の意味は、守る、であり、保証の意味は、責任を負う、であり、補償の意味は、償う、です。

誰一人として解決出来ない自身の命の問題、罪の問題、贖いの問題の解決は、神様の提案、イエス様の命で解決されるのです。

そして、この提案には、私たちの犠牲や、負担は何も無い、と云うのも特徴です。

ルベンの提案は、ありえない提案ですが、神様は、それをなし、神様だけが犠牲を払い、苦痛を味わわれたのです。

それで、私たちは律法の要求を全うし、罪の償いを為しえたと見做され、永遠の命が与えられるのです。

ここにおられる皆様が、神様のこの提案を受け入れられ、永遠の命を得られる事を願ってやみません。

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聖書個所:創世記4218節~28節               2018-2-18礼拝

説教題:神は何をされるのか

【導入】

ヨセフはエジプト王国の宰相となり、エジプト王パロに次ぐ、権威と権力を持ち、何でも意のままにならない事はありませんでした。

だからと言って、好き勝手に、何処にでも旅行出来た訳ではなく、自由に行動出来たのは、エジプト王国内に限ってです。

ヨセフの外出には、大勢の家臣が随行し、強力な軍隊が護衛しますから、そんな集団が、諸外国に出て行ったならば、侵略とみなされ、大騒動になりかねません。

地位と権力を手に入れたヨセフですが、懐かしい父の許に行く事は叶わず、エジプトや、世界を襲う飢饉が終息したならば、暇(いとま)を請い、故郷へ帰る日を想い描いて、日々を過ごしていたのではないでしょうか。

そんな折に、懐かしくも、苦い思い出を持つ兄たちと再会したのですから、ヨセフの心中は、非常に複雑だったのではないでしょうか。

兄たちは、ヨセフと気が付かないのですが、ヨセフが名乗ったならば、兄たちは驚きもしましょうが、これ幸いと、ヨセフを利用しようとするかも知れません。

兄たちの気質が以前のままであるならば、即ち、ヤコブのヨセフに対する寵愛に対して、妬み、ヨセフの夢に対して、憎しみを持ち、ヨセフを殺そうとまでする性質が変わっていないならば、ヨセフを利用して、エジプトで地位と名誉を手に入れようとし、兄弟間での争いに発展するのではないか、と危惧するのは自然な流れでしょう。

それは、唯一の神様を信じる民に相応しい姿ではなく、

世界を祝福すると云う重大な使命にとってマイナスでしかありません。

それで、ヨセフは、名乗る事を止め、兄たちに厳しい言葉を投げかけ、スパイの嫌疑をかけて、拘束し、兄たちの言動を窺う事とする訳です。

【本論】

42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。

最初に厳しい条件を提示し、

暫くの交渉の後に、少し緩い条件を提示する、と云うのは、交渉の常套手段です。

しかし、ヨセフと兄たちの交渉は、ご破算になっても、別の手段がある、と云うものではありません。

なにしろ世界的な規模の飢饉なのですから、飢えた人々はエジプトの穀物に頼るしかなく、ヨセフに一方的な分があるのは歴然です。

こんな状況の下では、ヨセフの最初の条件では、兄たちの気質を探るのは難しいのではないでしょうか。

ヨセフが最初に提示した条件は、一人だけを開放する、と云う条件ですが、これでは運べる穀物は、多寡が知れた量であり、飢えに苦しむ、家族を救うための穀物としては、到底足りません。

だからこそ、切羽詰って、ベニヤミンを連れて来る事に有利に働くかも知れませんが、切羽詰ってが、曲者です。

切羽詰る時、人は正常な判断が出来なくなるからであり、強引に事が進められるからであり、本当の人柄を知る事に、支障となる可能性が大だからです。

勿論、切羽詰って、本性が現れる、と云う効果も期待出来ますが、本性を抑え、制する理性を持っているか否かを見極める事の方が重要です。

ヨセフの真の目的は、ベニヤミンと逢う事ではなく、ヤコブ一族を救い、守り、養う事です。

至っては、ヤコブの子孫が世界を祝福する働きのためであり、一時的な感傷が妨げになってはならないのです。

兄たちの気質を知るために、なすべき事は、切羽詰らせる事ではなく、充分な時間を掛けて、考えさせる事、この危機を脱出するために協力する事、家族、兄弟を守るために、犠牲を払えるかを確かめる事、父ヤコブを説得させる、誠実さを持っているか否かを確かめる事です。

ヨセフの「私も神を恐れる者だから」との言葉は、支配者の持つべき重要な徳の一つです。

最高の権威と権力を手にした時、頂点に立った時、人は高慢に陥りやすくなり、不遜になり易いのです。

更に上の権威、権力を持つお方が居られる、頂点には別のお方が立って居られる、地位や権威、権力は付与されているに過ぎない、との意識は、人を謙遜にし、柔和にするでしょう。

政治に対して、支配に対して、健全な影響を与える事が明らかです。

ヨセフの、兄たちへの語りかけは、必要な時には、憐れみを示す人物である事を示し、話の分からない堅物ではない事を示し、誠実な人柄を持つ人物である事を感じさせる言葉です。

今後の展開において、首尾よく運ぶための、厳しくはあるが、物分りの良い人物との印象を与える言葉です。

42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。

42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

ヨセフは、三日間考え、最初とは正反対とも云うような条件を提示します。

九人を帰すなら、何より、父ヤコブの心の衝撃は大きく軽減されるでしょう。

勿論、誰が拘束されても、親は悲しいでしょうが、九人が拘束されているとの、一人が拘束されているのとでは、雲泥の違いでしょう。

父ヤコブが、エジプトの宰相は、話の分かる人物であり、憐れみの心を持つ人物であると知るならば、ベニヤミンを送り出す可能性に有利に働くでしょう。

何より、九人が運べる穀物の量は、相当な量ですから、当面、食料の心配はなくなります。

そして、兄弟たちも、誰が残るにしても、本当にほっとしたのではないでしょうか。

九人もいれば、牢獄でも心強いでしょうが、カナンに残した家族への心配は尽きる事がないでしょう。

開放された一人も、行く末の不安は尽きないでしょう。

しかし、九人が開放されるならば、今後について大きな違いをもたらします。

牢獄で幾ら時間をかけて相談しても、全く動きようがありませんが、開放されての相談ならば、様々な可能性があり、大きな進展性が見込めます。

道中、今後に付いてのみならず、今までに付いても、考える時間を与える事となるでしょう。

まだ開放が宣言されただけであり、肉体的には開放されていないにも関わらず、精神的には開放され、早速効果が現れます。

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

肉体的な拘束や、精神的な抑圧は、自由な発想を著しく制限します。

或いは、特定の方向に、思考が誘導される、と言っていいのかも知れません。

大方が、マイナス思考に陥り、抜け出す事は、時に困難であり、何事も起こらなければ、同じ思考を繰り返すのみであり、思考に大きな変化は起こさず、行動に変化も与えませんが、何かのきっかけで、大きな抑圧がかかり、或いは、その抑圧がなくなると、思考の飛躍が起こり、現在の状況が、過去の様々な記憶と結び付き、新しい理解に至らせる事があるのです。

説教作りでも、度々行き詰る時があり、注解書を読んでも、机に向かっていても中々進展しないのですが、意味も無く歩き回ったり、全く違う大工仕事や片付けなどをすると、聖書や教理の理解に、大きなヒントが浮かぶ事があるのです。

ヨセフの兄たちに降りかかった災難は、エジプトの宰相なら当然考え得る嫌疑であり、決して理不尽な嫌疑ではありませんが、ヨセフの兄たちにとっては、まさか、な嫌疑であり、理不尽な事と受け止めて終わらせてしまっても、そして、意気消沈し、思考が停止しても仕方が無いところですが、開放が宣言され、抑圧がなくなって、思考も開放され、自分たちの過去の、ヨセフに対する理不尽な行いに結び付け、ヨセフの味わった苦しみに思いを至らせ、ヨセフへの仕打ちに対する、罰として受け止めたのは、非常に意味のある事です。

兄たちの行った事は、過去の事であり、取り返しも、やり直しも出来ませんが、兄たちの、妬みと憎しみが占める心に、同情と哀れみの心が芽生えたのですから、大きな変化であり、過去の反省は、未来に希望を与えましょう。

42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

ルベンの言葉は、3722節を美化した表現であり、自己正当化し、責任逃れの言い分のように聞こえなくはありませんが、長男としての責任を感じての発言であり、皆に、連帯責任を意識させる意図、目的を持った発言なのではないでしょうか。

ヨセフを殺そうとの相談では、積極的な役割を果した者もいれば、ルベンのように反対した者もいたでしょうし、どっちつかずの者もいた事でしょう。

しかし、結果としてヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまったのであり、兄弟皆で、口裏を合わせて、父ヤコブを欺いたのであり、連帯責任は免れません。

42:23 彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。

ヨセフの風貌は、エジプト人の風貌とは明らかに違っていたはずですが、兄たちは、次から次への想定外の展開に戸惑い、冷静に周囲を見渡す余裕も無く、ここに同胞が紛れて居るのではないか、と、通訳以外に、ユダヤの言葉を理解出来る者が居るのではないか、と、注意を払う余裕を失っていたようであり、まあ、夢中で、自国の言葉で、嘘も、偽りも、飾りもない、本音を吐露してしまったのでしょう。

兄たちの本音を聴いたヨセフは、感情が高ぶってしまい、

42:24 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰って来て、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

シメオンは次男であり、序列から考えるならば、長男であるルベンが適当かと思われますが、ルベンを選ばなかった理由、シメオンが選ばれた理由を、聖書は記していません。

ルベンを選ばなかった理由としては、ヨセフを助けようとした実績があったから、長男であり、父ヤコブを説得するに適任、と考えた、などが考えられます。

シメオンが選ばれた理由としては、ルベンの次だから。

また、シメオンは、三男のレビと共に、激情の持ち主であり、残酷な面を持っており、34章に記されていますが、妹ディナの事件の折に、シメオンとレビは共謀して、ハモル、シェケムを襲い、町中の男を皆殺しにしているのです

そこで、ヨセフは、シメオンとレビとを分けるが良いと考え、ルベンの次の、シメオンを残したのではないでしょうか。

42:25 ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じた。それで、人々はそのとおりにした。

42:26 彼らは穀物を自分たちのろばに背負わせて、そこを去った。

ヨセフの目論見を知らない兄たちは、ヨセフの目論見の仕込まれた穀物を、カナンの家族の許に運ぶために、シメオンを残し、エジプトを立ち去ります。

ヨセフの目論見は、兄たちが穀物の代金である銀を見つけた時の、兄たちの困惑、驚き、戸惑いであり、混乱する姿でしょう。

悪戯心、の意味合いもありましょうが、第一には、家族を助けたい思いの現われであり、代金をそのまま返したのですが、値引きをしたり、おまけを付けるのも、時と場合によりけりです。

大勢の人々が群がる買い出しの場では、公平、公正を旨とすべきであり、不正と見える取引は、すべきではありません。

場に混乱をもたらすからです。

代金は、代金としてしっかり請求し、ちゃんと払ってもらい、確実に受け取るべきです。

しかし、必要なら、誰にも分からないように返せばよいのです。

この、見えない、隠された出来事だったからこそ、28節の告白につながったのです。

教会でのお金の遣り取りにも、同じ事が云えます。

金額の大小にかかわらず、立て替え分はきちんと清算しなければなりません。

献げたい思いがあるなら、先ずは受け取った上で、黙って献金箱に入れるべきです。

受け取りを遠慮、辞退するのは、信仰的な行為とは云えません。

清算して受け取って、誰にも知られないように献げるのが、信仰的な行為です。

奉仕や献品についても、同じように考える事が出来るでしょう。

献金、献品、奉仕は神様への献金、献品、奉仕なのですから人に知られない方が良いのであり、誰がやったか判らなくて良いのであり、神様に献げれば、神様が報いてくださいます。

第二には、兄たちの悪意からの仕打ちに対して、善意で応じ、益をもたらす悪戯で報いるのです。

悪意に対して、悪意で応えるのは、神様を信ずる者の対応ではありません。

意地悪や、嫌がらせに対して、善意で応え、誠実に対応するのは、神様を信じる者にしか出来ない事であり、神様はそんな力を与えてくださいます。

そして、第三には、ヨセフが単なる権力者、雇われの宰相ではなく、本当の支配者、本当の権力者であると、実感せざるを得なくなる事であり、ヨセフを働かせる存在、即ち、神様に目を向けさせる狙いもあるのではないでしょうか。

42:27 さて、宿泊所で、そのうちのひとりが、自分のろばに飼料をやるために袋をあけると、自分の銀を見つけた。しかも、見よ。それは自分の袋の口にあった。

42:28 彼は兄弟たちに言った。「私の銀が返されている。しかもこのとおり、私の袋の中に。」彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

穀物の代金が、穀物の袋の口に入っている、とは何とも理解に困る状況です。

一人がこの不思議を発見した時、他の兄弟たちも、俺も俺も、と調べなかったのでしょうか。

そんな疑問も当然出て来ましょうが、飢饉が酷くなって、数日かけて買い出しに来たのですから、一人一袋のはずはありません。

一人が何匹ものロバを連れての買い出しであり、一匹に数袋を背負わせていたのであり、何袋かは調べたかも知れませんが、全袋を調べた訳ではなく、4312節に記されているように、何かの「まちがいだった」と結論するしかなかったのでしょう。

しかし、不思議な事、あり得べからざる事が起こったのであり、スパイ容疑の上に、盗みの容疑まで掛けられ得る状況であり、考えて理解出来る事でも、結論の出せる事でもなく、

神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」との言葉となったのでしょうが、この自問的な言葉は、教育的であり、示唆的であり、重要です。

神様のなさる事に限らず、人間に理解出来ない事は山ほどもあり、結論の出ない事、結論を出せない事も山ほどもあります。

全てを、理解しなければならない必要も、結論を出さなければならない必要もなく、あるがままを受け入れる事も、委ねる事も、重要なのではないでしょうか。

出エジプトの時、モーセに現れた神様は、自己紹介の言葉として「わたしは、「わたしはある」という者である」と告げられました。

出エジプト記314節に記されています。

答えになっているようで、何の答えにもなっていません。

しかし、神様は、理解する対象ではなく、信じる対象であり、受け入れる対象であり、

従う対象です。

そして兄たちが「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」に留めておいたところも重要です。

この場から、返金のために、エジプトに戻ったならば、ヨセフの目論見は水の泡です。

カナンに戻って、全員の穀物の袋から、穀物の代金丸まるが発見されるから効果的なのであり、「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」が更に効果を増すのです。

この世では、理由の探求が推奨され、結論の先延ばしは、褒められないかも知れませんが、信仰の世界では、先ず、従ってみる事が重要であり、意味付けは、後から付いて来るのであり、理由は後に、判明するのです。

信仰を持って、踏み出す時、葦の海は分けられ、ヨルダン川は堰き止められ、エリコの城壁は崩れ去るのです。

【適応】

信仰生活において、重要な徳目は何でしょうか。

消極的であるよりは、積極性である方が好ましいのでしょうか。

他にも、ガラテヤ書522節に記されている「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」でしょうか。

2ペテロ15節に記されている「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」でしょうか。

これらも勿論大切ですが、基となっているのは「信仰と従順」であり、これこそが重要なのです。

ローマ書1423節「信仰から出ていないことは、みな罪です」であり、

1サムエル1522節「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」です。

そしてパウロが賞賛しているのは、

2テサロニケ14節「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています」であり、「従順と信仰とを保っていること」が賞賛に値する事であり、多く献げたとか、犠牲を払った、積極的であり、熱心さ、ではない事は明らかです。

今日の説教のタイトル「神は何をされるのか?」が、教えるのは「従順」です。

信仰生活において、聖書を読んで、実生活との整合性で、疑問や躊躇があり、葛藤があり、逡巡があります。

そんな時、合理的な説明があり、且つ、正当な理由であり、納得したなら従う、では、信仰は何処にあるのでしょうか。

合理的な説明が出来ない事は沢山あります。

正当な理由が見つからないケースも多々あるのではないでしょうか。

皆が皆、或いは、全ての事が、納得出来る訳ではありません。

それでも、神様のなされる事だから従う、のが、信仰者の姿であり、選択肢なのではないでしょか。

アブラハムがイサクを献げた時、合理的な説明があった訳でも、正当な理由があった訳でもなく、完全な納得があった訳ではありませんが、アブラハムは、神様の命令に従ったのです。

28節の「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」を、

新共同訳聖書は「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と訳し、

口語訳聖書は「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」と訳し、

新改訳聖書2017は「神は私たちにいったい何をなさったのだろう」と訳しています。

どの訳も、不安や疑問が表現された訳ですが、実生活において、色々な場面で「神は何ということをなさったのだろう」、「神は何をされるのか」、或いは「どうしてこんな事が起こるのか」、「何でだろう」と感じる事がありましょう。

理由を探る事は、悪い事ではありませんが、先ず「受け入れる」事、そして「従う」事が重要なのです。

ドイツでは、第2次世界大戦の反省から、教育現場では「鵜呑みにするな」「まずは疑ってかかれ!」を基本姿勢として取り組んでおり、一人ひとりが自分で考える習慣が浸透し、身に付いているそうです。

しかし、信仰の面では少し弊害となって現れているそうですが、説教を鵜呑みにする、牧師の言葉への不条件の服従は、正しい信仰の姿ではありません。

使徒の働き529節「人に従うより、神に従うべきです」であり、

使徒の働き1711節「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べ」なければならないのです。

そして聞き従うなら申命記1127節「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、

もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」なのです。

ここにおられる皆様が、疑問や不安の中で、神様を信じ続け、神様に従い続け、神様からの祝福を受け続けられる事を願ってやみません。

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聖書箇所:ヨハネの福音書12:2736               2018-2-11礼拝

説教題:イエスを信じない人々

【導入】

「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

イエス様は、この世に来られた目的を告白なさいました。

イエス様は死なれるために、この世に来られたのであり、イエス様の死によって、多くの人に命が与えられる、と云う事であり、それは、イエス様の弟子としての生き方、心構えについての教えでもあります。

12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

イエス様は弟子たちに、クリスチャンに、命を捨てる事、イエス様の足跡に付いて行く事、何処であろうとイエス様に伴う事を要求なさいました。

このイエス様の促しに、弟子たちが、イエス様に面会を求めたギリシャ人たちが、祭りのためにエルサレムに集まって来たユダヤ人たちが、どの様な応答をしたのかを聖書は記していません。

しかし、このイエス様の促し、弟子としての歩みが、簡単な事ではないこと、相当の覚悟と、文字通り命がけの決意が必要である事は説明するまでもない事でしょう。

何故ならば、命を失う事は、決して穏やかな死ではなく、殉教を意味する事であり、そこに至るまでには執拗な迫害や、耐え難い苦痛が伴うからであり、イエス様に付いていく事、イエス様と共にいる事は、茨の道であり、地位も名誉も何もかも捨てる事であり、本人のみならず、家族にも、親族にも類が及ぶ事が容易に想像されるからです。

固い覚悟であり、真摯な決意であっても、肉体も精神も弱いものであり、痛めつけられれば覚悟や決意とは裏腹に、恐れが生じ、心が揺らいでしまうのは、仕方がない事なのです。しかし、恐れに身を任せ、心が揺らいだままにして置いてはなりません。

恐れている事を告白し、揺らいだ心の平静を祈る時、神様は助けを送って下さり、恐れを和らげ、心の平静を保って下さるのです。

イエス様も、これから身の上に訪れる十字架を思う時、決して平静では居られませんでした。

【本論】

12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。

神の子であるイエス様にとっても死は恐ろしいものです。

何故ならば、イエス様は私たちと全く同じ肉体、心を持っておられたからであり、苦しみも、痛みも、悩みも、恐れも、悲しみも、不安も私たちと同じように感じられたからです。

しかし、イエス様の受けようとしている苦しみ、痛み、悩み、恐れ、悲しみ、不安は、私たちのそれとは全く性質の異なるものである事を覚えておかなければなりません。

私たちの味わう苦しみ、痛み、悩み、恐れ、悲しみ、不安は、私たち自身の持つ罪に起因するものであり、自業自得的な意味合いの強いものです。

しかし、イエス様は罪のないお方であり、苦しみ、痛み、悩み、恐れ、悲しみ、不安を感じる必要もいわれも全くないのです。

罪のないお方が、十字架の死を迎えられるのであり、この十字架の死は、全人類の罪を背負う死であり、神の怒りをその身で受け止めるのであり、その重さ、厳しさを思う時、平静でいる事は出来なかったのです。

この不安な気持ち、恐れを口にするのは、決して恥ずかしい事ではありません。

自分の今の、心の状態を正直に告白する事を、神様は喜んで受け入れて下さいます。

恐れているのに隠す事、不安なのに平静を装う、嘘や虚栄こそ、神様の忌み嫌う事である事を忘れてはなりません。

正直に、不安な気持ちを告白しつつ、

いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

との、神様の主権を認め、神様のご計画に従う決意を表明、告白する事こそ重要なのであり、イエス様は弟子たちに献身を促すと同時に、それに伴う苦労や苦痛、恐れを告白する事が恥じではない事を、身を持って教え、お手本を示して下さったのです。

神様は、不安や恐れを押し隠して頑張る事を、私たちに求めているのではありません。

不安や恐れを告白しつつ、神様に委ね、神様のご計画に従う事を通して、神様の栄光が現される事が重要なのであり、イエス様は神様に従う事を宣言し、従う事を通して、

12:28 父よ。御名の栄光を現わしてください。」と願い求めるのです。

そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

「すでに現した栄光」とは、第一に、弟子たち、群集たちの記憶に新しい、ヨハネの福音書1140節の「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」に始る、ラザロの甦りや、イエス様のなされた数々の奇蹟と、イエス様が語られた数々のことば、即ち、神の子の受肉を通してもたらされ、現された父なる神の栄光であり、第二には、あらゆる時代に、ノアの洪水以前の時代に、族長たちの時代に、モーセの時代に、律法の下における時代に、士師の時代に、王制時代に現されて来た神の栄光であり、イスラエルの歴史、預言に示された救いの雛型、予表に示された神の栄光です。

「もう一度現す栄光」とは、旧約に語られて来た預言の成就、即ち、十字架の死と、葬られて三日目の復活を通して現される、救いの完成を通して現される神の栄光なのです。

自分の願い、考えを捨てて、恐れ、戸惑い、不安を捨てて神様に従う時、神様の栄光が現されます。

そして、神様に従う者が、神様の栄光を第一とする者が、神の栄光を拝する恵みと特権に招き入れられるのです。

この恵みは神の御子、救いの完成をなさるイエス様にのみ当て嵌まる恵みなのではなく、イエス様を信じる全ての者に提供されている恵みです。

イエス様に従う者が、イエス様と共に歩む者、神の栄光を第一とする者が決して蚊帳の外に置かれる事はありません。

名前を呼ばれて招き入れられ、隔ての幕が取り除かれた聖所で、神様と顔と顔とを会わせて拝する特権に与るのです。

わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」との神様の言葉は、イエス様に聞かせる目的で語られたのではありません。

不従順な民に対しての、過去に現された神様の御業を思い出し、悔い改めて、神様の下に帰る事への促しであり、頑なな民に対しての、十字架を通して現される神様の裁きと赦しを目撃して、悔い改めのチャンス、神様の栄光を拝する場への、招きの言葉、宣言であるのです。

それは

12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

と記されている通りです。

イエス様はご自分がされようとしている事を、こらから起ころうとしている事を、全て正確に理解していました。誰からも説明を受ける必要はありません。

28節の神様の声は、イエス様には不必要であり、これは弟子たち、群集に語られた言葉なのです。

同じように、27節、28節のイエス様の、神様への語りかけも、神様に対する語りかけ、と言うよりも、23節から語られたご自身の歩みと、弟子に対しての心構え、勧めを聞いて、戸惑いと恐れを感じているであろう弟子たち、群集に対する、励まし、解説なのです。

イエス様も神様も、お互いの確認ためではなく、弟子たちのため、群集のために、敢えて、わざわざ27節から30節までの会話を聞かせたのであり、それは真理を悟って、イエスに仕える者となり、父なる神様から報いを受けるため、光の子どもとなるためなのです。しかし、不従順で頑なな民は、神様の声を聞く備えが出来ていなかったので、

12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。

何でも合理的、理性的に考える人々は、雷だ、自然現象だと考えたのであり、神秘的に考える者たちは、御使いを引合いには出すのですが、決して自分たちに語られたとは考えなかったのです。

神秘的に考える人たちは、見かけは敬虔で、信心深そうに見えますが、神様の教えを表面的にしか理解せず、深く考えようとはせず、また色々な現象も、自分たちの理解出来る範囲でしか考えず、理解出来ない現象は拒否し、適応を考えず、的はずれな応答しかしないのです。

神様の言葉は、滅びに至る人々には愚かな言葉として届き、救いに至る人々には神の力となる原理と同じです。

聴こう、教えられよう、教えて下さい「主よ、お話下さい。僕は聞いております」という謙った心で聴くならば、真理は明らかにされるでしょう。

しかし、聞いてやろう、という高慢な態度、何言ってんだ、との疑いの心や、系図や出自などの、この世の基準や、好き嫌いで聞くならば、真理を悟る事は出来ないでしょう。

生半可な聖書知識ほど始末の悪いものはありません。

その的外れな理解や、頑なな心は、イエス様が解説して下さっても、変りません。

しかし、イエス様は、聖書は、そんな頑なな者にも、語り続けて下さいます。

12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

一つ一つの言葉は難しい言葉ではありませんが、文章となると理解に苦しみます。

特に「さばき」と訳されている言葉が難解です。

「さばき」と訳されている言葉は、他の聖書箇所では「公義、正義、刑罰」とも訳されています。

ある神学者は、これは、信者と未信者を区別する事だと考えます。

またある神学者は、改革、正しい秩序が始まる事であると考えます。

別の神学者は、この世の絆から解放され自由になる事だと考えます。

他にも諸説ありますが、「さばき」の場では有罪か無罪かが決定され、有罪ならば刑罰が科せられる事が明白です。

後半の「今、この世を支配する者は追い出されるのです」と合わせて考えるならば、「さばき」は「有罪とされる」と言う意味となり、アダムに始まる罪の支配する世界は有罪とされ、イエス様の死を持って、罪と死が追放されることによって結審し、イエス様の支配する新しい秩序世界、即ち神の国が確立する事を暗示しているのです。

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

「地上から上げられる」には二つの意味があります。

一つは33節に説明されているように十字架に付けられる事であり、二つ目は天に昇られる事です。

イエス様が十字架につけられる事で、この罪の世は有罪とされ、裁かれ、神の国が次のステージにスタートします。

イエス様が天に昇られる事で、弟子である私たちは、イエス様の居られる所にイエス様と共にいる事になるとの26節の言葉が成就するのです。

しかし、この希望に満ちた、栄光の約束のイエス様の宣言も、頑なな人々、不信仰で御言葉を悟らない人々には、伝わる事はありません。

12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

イエス様のなされた数々の奇跡、人々の歓迎の様子を知っている群衆は、深い理解ではありませんでしたが、イエス様をキリストではないかと考えていました。

キリストは永遠に治めるお方であり、永遠に生きておられるお方です。

その永遠性に疑問を抱かせる2425節の言葉であり、32節のイエス様の言葉ですから、群集の質問も、もっともとは思いますが、群集は聖書の預言の全体を正しく理解していなかったので、この様な質問に至ったのです。

聖書には「キリストはいつまでも生きておられる」と言う教理が各書に記されていますが、同時に、「苦しみを受ける」「断たれる」と言う教理も記しているのです。

群集はこの部分を見落していたのであり、聖書の全体を知る事が如何に重要かを教えています。

聖書の一部の知識をもってして、聖書の全体を理解しているような錯覚に陥ってイエス様に質問する群集に向かって、イエス様は聖書知識の欠如を糾すのではなく、生き方を正す様に勧められます。

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

ヨハネの福音書1章で確認した様に、光とはイエス様の事であり、このイエス様が来られたからにはイエス様に従う事が新しい生き方なのです。

聖書知識の充実は重要ですが、ここに聖書の示される御子イエス様が受肉して来られたのですから、このお方に従う事こそ更に重要な事なのです。

ですが、決して聖書が不用になったと言う事ではありません。

聖書は大切な書物であり、生活全般の指針であり、矯正と義の訓練とのために有益ですが、イエス様と言う土台がなくては、その有益性を発揮する事は出来ません。

31節で宣言された様に「この世を支配する者は追い出され」るのですが、それの完成はまだまだ先の事です。

ですから、罪の支配する世界は暫く続きましょう。

罪は最期の悪足掻きをし、人々を滅びに至らせようと躍起になっています。

しかし、罪に惑わされず、イエス様と共に歩む事、光の中を歩む事こそ、滅びから確実に脱出し、天国に至る道、光の子どもとなる道なのです。

【適応】

キリスト教はイエス様に対する「信仰」のみ、が重要である事を皆様は十分承知しておられる事と思いますが、「聖書」の知識が不用である訳ではありません。

イエス様は悪魔の試みを受けられた時、聖書をそのまま引用し、正しい聖句をもって悪魔を退けられました。

エバは蛇の誘惑を受けた時、神様から受けた命令を引用しましたが、神様のことば、そのままではなく、曖昧な表現をしてしまったのであり、そこに付け込まれ、蛇の誘惑を退ける事が出来ずに、罪を犯してしまいました。

正しい聖書知識が重要である事の例です。

今日、登場した群衆も、決して聖書知識がなかった訳ではありません。

ユダヤ人の聖書知識の広さ深さは、私たちの想像を超えるものです。

特に、紙が普及していない時代にあっては、口伝が中心であり、重要な聖句は暗唱していたのです。

勿論、口伝の弊害である、伝達ミスがあった事でしょうが、民族全体の口伝ですから、民族全体で監視され、ミスは修正され、捕囚時代に口伝から巻き物に書き記され、書物として伝え続けられ、オリジナルにほぼ近い文章のままでイエス様の時代まで伝え続けられたのです。しかし、その聖書知識の活用は片寄ったものであり、救い主の華やかな面の知識でしかなかったのです。

救い主の苦しみ、人々に蔑まれ、罵られる負の面の知識は生かされなかったのです。

つまり、神様の恵み、キリストの支配、ユダヤ人の王国の確立と言う、華やかな面は覚えているし、それを待ち望んではいましたが、神の裁き、キリストの受難と言う、厳しい面、キリストと言う門を通らなければ御国に入れないと言う試練の道は敬遠され、思い出しはしなかったのです。

現代の私たちにも、同じような傾向を見る事ができましょう。

今は、新約の時代だから、旧約は不要だ。

十字架の赦し、神様の愛を語るのが教会の使命であって、裁きや刑罰は十字架によって終っているのだから、解決しているのだから語らない方が良い。

厳しい事を言ったなら語ったなら、人々は教会に来ない。

律法に縛られない自由が与えられているのであるから、窮屈な生活はしなくて良い。

などなどなど。

「イエス様を信じない人々」とはイエス様を完全否定する祭司、律法学者、パリサイ人たちだけではなく、一部は信じるけれども、其処は信じられないとする、ご都合主義の人々も含まれるのです。

更に、自分の知識で理解出来ないと拒否、拒絶する自己中心の人々も含まれましょう。

即ち、イエス様を100%信じる人以外は「イエス様を信じない人々」なのであり、その人々の特徴は「聖書」の理解にあると言っても間違いではないのです。

群集は34節で「律法」を引合いに出して問うていますが、その律法の知識は偏ったもの、だったのです。

しかし、イエス様は律法の一点一角まで疎かにしてはならない事を教えておられますし、律法をなおざりにしてはいけないとはっきり仰られています。

「世の光、地の塩」たる教会の使命は「希望」と「聖さ」を語る事です。

希望と聖さは、分ける事の出来ないものであり、イエス様の血によって聖められたからこそ、御国に入る希望が確実となるのです。

希望ばかり語って、聖さの重要性、必要性を語らなければ、希望は絵に描いた餅でしかなくなってしまうのです。

取捨選択は重要ですが、事、聖書に関しては、また聖書を解き明かす説教、奨励に関しては、謙虚な姿勢で聞く事が重要です。

イエス様の言葉を理解しないで「イエス様を信じない人々」の仲間に数えられてはなりません。

聖書を読まず、説教を聞かず「イエス様を信じない人々」の仲間に数えられてもなりません。

日々聖書を読み、毎週説教を聞いて「イエス様を信じる人々」としてイエス様のおられるところに引き寄せて頂こうではありませんか。

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聖書個所:創世記421節~17節               2018-2-4礼拝

説教題:ヨセフと兄たちの再会

【導入】

ヨセフは十七歳の時に、兄たちの策略によって、奴隷として売り飛ばされてしまいました。

兄たちは、ヨセフを奴隷として売り飛ばしたのですが、父ヤコブには、ヨセフは猛獣に殺された、と口裏を合わせて報告し、ヤコブもそれを信じるしかなかった事でしょう。

ヤコブは、兄たちが、ヨセフに対して妬みや憎しみを持っていた事には、薄々気が付いていたのではないかと思いますが、まさか、弟を殺す相談をしていた、実行に移す寸前で、思い止まり、奴隷として売り飛ばしたとは、そして、父を騙すとは夢にも思わなかった事でしょう。

ヨセフにとっても、まさか、そこまで憎まれているとは夢にも思わなかった事でしょうが、本人だけが、気が付かないでいる、と云う事は珍しい事ではないのですから、普段の言動を吟味し、相手の立場に立って考え、また配慮しなければならないのではないでしょうか。

思った事を、状況も、相手の事も考えずに発言するのは、天真爛漫では済まされません。

年相応の配慮と、節度ある発言が求められるのであり、状況に合わせた発言が期待されるのであり、ヨセフは、奴隷とされ、囚人とされて、十三年、労苦の連続の中に置かれ、相手の立場に立って考える事、配慮する事、状況に合わせて発言する術を学んだ事でしょう。

兄たちにとっての十三年は、父ヤコブの気落ちした姿を見せ付けられた十三年であり、何とも言い表しようのない、苦い十三年だったのではないでしょうか。

父ヤコブにとっても、最愛のヨセフを失った悲しみを抱えて生きなければならず、喪失感を抱えた、目的のない十三年であった事でしょう。

そんな経緯、背景、問題を、それぞれが抱えて、ヨセフは兄たちと再会するのですが、その再会のシーンは、感動的でもなければ、劇的でもなく、秘められた再会であり、隠された再会であり、神様によって計画された、過去を清算し、将来の備えとしての再会なのでした。

【本論】

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」

エジプトと、ヤコブたちの住むカナンは、日常的に、交易、交流が盛んであり、カナンの農作物、葡萄やイチジクなどと、エジプトの穀物とが、交換、売買されていたようです。

アブラハムの時に起こった飢饉でも、イサクの時に起こった飢饉でも、エジプトには豊富な穀物があった事が記されていたように、カナンにとってエジプトは、穀物倉であり、飢饉の時などの非常時には、なくてはならない存在だったのです。

勿論、遠く離れた両国ですから、一般民にとっては馴染みの薄い存在だった事でしょうが、飢饉が深刻になれば、自分たちで調達しなければならず、エジプトに穀物がある、との情報は、巷に流れており、ヤコブは家長として、一族を守るために行動を起こすのです。

勿論、兄たちにもエジプトに穀物があるとの情報は伝わっていたでしょうから、兄たちなりに、思案してはいたでしょうが、躊躇し、言い出せなかったのではないでしょうか。

また、人間は、危機が迫っていても、一族存亡の危機と認識していても、他人に依存する傾向になり易い性質を持っており、誰かが、何とかしてくれる、まだまだ大丈夫、と思い、自らが率先して行動する事をしないのです。

パニックを防ぐには有効な、行動心理でしょうが、対策、避難のタイミングを逸しかねないので注意が必要です。

ヤコブは、ヨセフを失って気落ちし、腑抜けのような状態が続いてはいても、百三十歳と云う高齢であっても、一族の責任者として、的確な指令を発するのです。

42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」

42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。

ヤコブの命令が発せられるや否や、ヨセフの兄たちは間髪を入れずに、穀物の買出しのために、エジプトに向かい、出発します。

私たちは聖書を読んでおり、エジプトに大量の、量る事が出来ないほどの穀物があると知っていますが、ヨセフの兄たちは、知る由もなく、愚図愚図していたならば、売り切れ、って事態になりかねませんから、直ぐに出発するのが賢明です。

12節の「穀物」と3節で「穀物」と訳されている言葉は、違うヘブル語が使われています(ヘブル語は右から左に読みます)

12節は「rbv rbs :シブルー」であり、3節は「rB rbv rb rbs :シブルーバール」です。

12節のヘブル語「rbv」は、「破滅、廃墟、傷、解釈、穀物」などと訳され、3節のヘブル語「rB」は、「清い、清潔な」などと訳され、「rB rbv」で「籾殻のない穀物、良質な穀物」などと訳されます。

ヤコブは単に穀物を買って来なさい、と命じたのですが、ヨセフの兄たちは、籾殻のない穀物を買い求めたのであり、籾殻のない分、食用部分を多く運べるのであり、効率の良い買い物、と言う事が出来ましょう。

飢饉に対する、遠路の旅の、買い物ですから、少しでも多く調達しなければならず、こんなところにも、判断の大切さが描かれているのです。

42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

ヤコブの判断は、兄たちへの不審が晴れてはいない事を暗示させましょう。

兄たちの平素の、ヨセフへの態度には、尋常ならざるものがあり、兄たちのところへ行ったまま戻らないのに、兄たちの態度には解せぬところがあります。

心底から心配する様子はなく、形式的な報告に終始し、責任を感じさせる言葉は出てきません。

兄たちの平素の品性からも、態度からも、不審を持たざるを得なかったのではないでしょうか。

わざわい」は、単なる災害ではなく、「致命的な事故、死に至る災厄」を意味します。

ヨセフを失った悲しみ、苦しみは癒しがたい事でしょうが、ヨセフの弟ベニヤミンを寵愛する事で、悲しみ、苦しみを紛らしたのでしょうから、ベニヤミンを一時でも手放す事は出来なかったのでしょう。

42:5 こうして、イスラエルの息子たちは、穀物を買いに行く人々に交じって出かけた。カナンの地にききんがあったからである。

最初は限定的、小規模であった凶作、飢饉が、カナン全土に広がっていた事が、特別な事ではなくなっていた事が明らかであり、カナンの地の蓄えは底を尽き、カナン全土から、エジプトに食料を求める人々が、引きも切らなかったのです。

42:6 ときに、ヨセフはこの国の権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。

ヨセフがエジプト全土の支配者となっていた事は、既に学んだように、明らかですが、「権力者」を、新共同訳聖書は「司政者」と訳し、口語訳聖書は「つかさ」と訳しています。

ヨセフが、エジプト王国全域に対して、完全な統治権を有していた事を強調する表現ですが、ヨセフが何時も、直接、穀物を売っていた訳ではなさそうです。

一口に穀物と言っても、麦だけでも、大麦、小麦、裸麦、スペルト小麦があり、レンズ豆、そら豆、いなご豆があり、あわ、などが聖書に出て来ます。

ヨセフは、権力者、宰相として臨席し、人々からの挨拶を受け、何時もは、直接には、任命を受けた部下が担当し、裁量の範囲で、何種類かの穀物を売っていたのでしょうが、裁量の範囲を超えた量に対して、判断を下し、指示を与えていたのでしょう。

ヤコブから遣わされた10人もの集団は、目立った集団であり、ユダヤ人独特の風貌も、人目を引いたのではないでしょうか。

当然、買い入れる量も、大量であり、権力者、宰相の了解を得るために、ヨセフと知らずに「顔を地につけて彼を伏し拝んだ」のでしょう。

このシーン、ヨセフは特別な事として、受け止めたのではないでしょうか。

一番目の夢の通り、創世記377節の通りになったからです。

畑の収穫物の束は、まさしく、穀物のイメージであり、束がお辞儀をしている場面は、ヨセフの兄たちの平身低頭の姿、そのものではありませんか。

兄たちは、ヨセフの夢の実現を阻んで、ヨセフを亡き者にしようとしましたが、神様のご計画は着々と進み、ヨセフはエジプト王国の宰相になっており、ヨセフに対して、兄たちは深々とお辞儀をする事になったのです。

この一番目夢の実現は、二番目の夢の実現を強く暗示するものです。

二番目の夢は、太陽と月と、十一の星がヨセフにお辞儀をする夢ですが、太陽と月が暗示するのは両親であり、十一の星が暗示するのは、親族の代表としての、ヨセフの兄弟たちです。

ヨセフは、今日の兄弟たちとの関わり方の如何が、両親や親族との関わりに影響する、関係すると、直感したのではないでしょうか。

ヨセフは、兄弟と再会出来た、と単純に喜ぶほど、幼くはなかったのであり、夢の通りになった、と有頂天になるほど、単純ではなくなっていたのです。

ヨセフは、両親、一族の将来は、兄たちとの対応如何によると感じ、この場で、身の上を明かす事は控えます。

42:7 ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いにまいりました。」

ヨセフは「荒々しいことば」で兄たちに対応しますが、決して、兄たちに対する憎しみからのものではありません。

色々あったにしても、兄たちの仕業を忘れようと、神様の前に決意したのであり、決意の表明として、我が子に「マナセ」と命名したのです。

懐かしい兄たちに接して、見知らぬ者のように振舞うのは、並大抵の事ではありません。

湧き上がる感情を抑え込むには、どうしても、無愛想、不自然にならざるを得ず、強面(こわもて)を演ずるしかなかったのでしょう。

42:8 ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかった。

ヨセフと兄たちは、十三年も全く会わずに来たのであり、兄たちは、十三年前の、幼さの残るヨセフの姿しか知らないのですから、労苦と絶望、悲哀を経験したヨセフは、歳以上に見えた事でしょうし、まさか、目の前にヨセフが居る、しかも、エジプト王国の宰相になっているなんて、兄たちの想像を余りにも越える事であり、誰が想像出来るでしょうか。

しかし、これは、今後の展開において好都合です。

42:9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」

かつて彼らについて見た夢」と「間者」に直接の結び付きはありませんが、6節に加えて、夢について少し解説を加えましょう。

兄たちは、ヨセフの夢に対して、鷹揚に聞き流す事が出来ず、ヨセフを憎んだのであり、兄たちの心が、以前と変わらなければ、即ち、妬み、憎しみが渦巻く兄たちならば、兄たちを受け入れる事は難しい事でしょう。

それは、ヨセフにも、ユダヤ民族にも影響する事だからです。

兄たちを赦してもなお、兄たちが以前と変わらなければ、兄たちに対する憎しみは忘れる事が出来ないからです。

兄たちの言動を見る毎に、過去を思い出すのであり、それは耐え難い事といわなければなりません。

また、兄たちをエジプトに呼び寄せ、養った時に、ヨセフの地位を妬み、或いは、エジプトにおいて地位争いのような事が起こり、兄弟間に妬みや憎しみが渦巻いたならば、唯一の神様、全知全能の神様に召し出され、世界を祝福する、と云う使命を担う民として、相応しくない言動であり、証になりません。

そこで、兄たちの変化を知るのに、絶好の口実が「間者」だったのです。

エジプト王国の北東の国境は、外敵侵入の可能性が最も高く、厳しい警戒の目が向けられていましたから、カナンの地からの来訪者には、厳しい取調べが行われていたのです。

来訪者に嫌疑を掛けるのは、自然な事であり、兄たちの反応を知るのに好都合だったのです。

そこで、ヨセフは、先ず兄たちを拒絶し、兄たちの真の姿を探るために、「間者」の嫌疑を掛けたのです。

42:10 彼らは言った。「いいえ。あなたさま。しもべどもは食糧を買いにまいったのでございます。

42:11 私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」

兄たちの弁明は、私たちは、何処にでもいる平凡な民であり、兄弟皆で、この飢饉を乗り越えようとしているだけであり、他意がない事、悪意がない事、敵意がない事、危害を加えるような者ではない事、を表明しているのです。

42:12 ヨセフは彼らに言った。「いや。あなたがたは、この国のすきをうかがいにやって来たのだ。」

ヨセフの厳しい、決め付け、断定的な言葉は、エジプトを外敵から守る宰相として当然の判断であり、理不尽な感は否めませんが、兄たちへの報復ではありません。

報復ではなく、兄たちを追い詰め、兄たちの真情を吐露させるための方策なのです。

人間は、切羽詰ると、上辺を取り繕ったり、表面を飾れなくなります。

ぽろっと、本音が出るのであり、言わずもがな、を語ってしまう者なのです。

42:13 彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」

兄たちの弁明の言葉は簡潔ですが、末の弟、即ちベニヤミンが、ここに居ない本当の理由は、容易に察した事でしょう。

父ヤコブが、どんな理由であれ、手元から離したがらないほど、ベニヤミンを可愛がっていること、それは即ち、父ヤコブが、ヨセフを忘れていない事の証拠です。

しかし、弁明の、最後の部分については、まあ、奴隷として売り飛ばしました、とは言えないでしょうし、他に言いようもないでしょうし、ヨセフは、真実が、詳細に語られる事を期待してはいなかったでしょうが、簡潔な表現に、他人行儀な表現に、がっかりしたのではないでしょうか。

醜聞を晒すのは、恥ずかしい事でしょうが、隠す事の方が、最も恥ずかしい事であり、神様に喜ばれない事、神様に嫌われる事だと覚えなければなりません。

聖書は、物語を通して、隠す事の愚かさを教え、告白する事の重要性を教えています。

然るべき立場の人には、然るべき状況下では、正直に告白する事の重要性を教えています。

42:14 ヨセフは彼らに言った。「私が言ったとおりだ。あなたがたは間者だ。

42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。

42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」

ヨセフの駄目出しの嫌疑は続きます。

15節、16節の「パロのいのちにかけて言うが」は、エジプト人としての誓いの表現であり、常套句です。

ヨセフは、決してアブラハム、イサク、ヤコブの神様を忘れた訳ではありませんが、ヨセフはエジプト王国の宰相として振舞っているのであり、エジプト王国宰相の立場からの、公式な要求である事を示し、交渉や、譲歩の余地がない事を示します。

ヨセフの要求は、兄たちの、昔との違いを知るためであり、9節で解説した通り、エジプトに招き入れるか否かの判断のためなのです。

ベニヤミンを連れて来い、との命令で、兄たちを試すのであり、ベニヤミンは、かつてのヨセフの位置におり、父ヤコブの寵愛を受けている者を連れて来るのは至難の業です。

父ヤコブを説得出来るか否かは、父ヤコブが兄たちを信頼しているか否かです。

兄たちがベニヤミンを連れて来れないと云う事は、兄たちは父に信頼されてない、と云う事であり、兄たちは変わっていない、と云う事なのです。

42:17 こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。

ヨセフは、兄たちを監禁所に入れますが、自分の味わった苦しみ、不安の、ほんの少しでも知って欲しい、との人間的な動機が多少はあったかも知れませんが、報復ではなさそうです。

なぜならば、三日で解放しているからであり、報復にしては余りにも短か過ぎるからです。

今後について祈り、考える必要からの三日だったのではないでしょうか。

また、イエス様、復活までの三日が、暗示されているのかもしれません。

それはさて置き、14節から16節のヨセフの宣言は、誰か一人だけが、カナンに戻れるのであり、九人は監禁されたまま留められる、と云うものです。

しかし、これでは、兄たちの人間性を見る事は出来ません。

一人だけが、父ヤコブの許に戻ったならば、全ての判断や決断は、戻った兄と父ヤコブに依存する事になりますが、九人を、父ヤコブたちの許に戻したならば、道中、兄たちは、この経緯について、思案するのではないでしょうか。

21節に「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ」と記されていますが、この告白は三日間、監禁所に置かれた後の告白である事は、注目に値します。

反省は、こころの中で思っているだけでは不十分であり、口で告白してこそです。

この罪を告白し、共有するところから、新しい展開が始まるのではないでしょうか

勿論、責任転嫁の議論になる事も予想されますが、それも必要なのです。

誰かの責任にしても、解決しません。

自分も関わっていた、との自覚から、進展が見込めるのです。

そして、皆で協力して、父ヤコブを説得するのではないでしょうか。

一人のカリスマ性に依存するのは危険であり、永続性にも問題が起こります。

飢饉を乗り越えるだけなら、一人のカリスマ性に依存するだけで充分でしょうから、ヨセフの力で、ヤコブ一族を養う事も可能でしょうが、ヨセフ亡き後も、一族が安定的に発展するためには、一族の結束と、協力が必要不可欠なのです。

皆で協力して取組む事が、安定的、継続につながるのです。

皆が、それぞれの持ち味を生かし、一族の永続のために協力して行く事が、ヨセフの願いであり、神様の願いなのです。

そのために、ヨセフが兄たちに与えた試練なのです。

【適応】

お膳立てが整い、兄たちは、この後、飢饉を乗り越える食料が与えられ、一人を残して解放される事になりますが、兄たちに必要なのは、飢饉を乗り越える算段、食料なのではなく、

罪の自覚と、告白であり、兄弟相互の協力です。

アブラハム、イサム、ヤコブに与えられた、世界を祝福するという使命を自覚し、協力していく事です。

旧態依然では、この飢饉を乗り越えられても、次なる試練で分裂、滅亡してしまうのではいでしょうか。

世界を祝福するために、存在し続けるのであって、醜態を晒し続けるのでは、意味はありません。

個人個人に与えられる試練、家族などの集団に与えられる試練、教会などの組織に与えられる試練、内容が違い、対応もそれぞれですが、神様と向き合うために、と云う点では一緒です。

ヨセフが兄たちを「間者」と断定、指摘したように、私たちは「罪人」であり、神様に対して「的外れ」な生き方をしている者です。

兄たちは「私たちは、平凡な市民です、正直者です、間者ではございません」と弁明しましたが、妬み、憎しみに支配された生き方であり、世界を祝福する働きに召されている、と云う事を自覚、実践した生き方ではありません。

私たちも「大した問題は起こしていないし、まあまあ全うな生き方をしています」と答えるかも知れませんが、神様のために、どれだけ、時間的、金銭的、有形無形の犠牲を払ったのでしょうか。

礼拝のために、奉仕のために時間を割いたでしょうか。

自分の都合を優先させはしなかったでしょうか。

自我を捨てた生き方を心がけて来たでしょうか。

兄たちが「弟はいなくなりました」と言葉を濁したように、私たちは、罪についての自覚が希薄、曖昧であり、告白も充分ではありません。

そんな生き方では、兄たちが、嫌疑を掛けられ、牢獄に入れられたように、私たちは、この世に埋没し、神様との深い交わりを断たれてしまうのではないでしょうか。

兄たちは、目の前のヨセフに気が付きませんでしたが、私たちも、上辺を飾る事にあくせくし、周りの目を気にし、神様が見えなくなっており、形式ばかりの、自己満足な礼拝をしてはいないでしょうか。

神様との、深い交わりからの喜びを、断たれてはいないでしょうか。

ヨセフの兄たちは、監禁所での、三日間で、ヨセフに対する仕打ちの惨たらしさを自覚し、

告白に至りますが、私たちも、日々、神様の前に静まり、言動を吟味し、告白し、神様との交わりを妨げる、あらゆるものを取り除かなければなりません。

ここにおられる皆様が、日々静まり、吟味する時間を確保し、神様とお会いする備えを欠かす事がありませんように。

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