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聖書個所:創世記4326節~34節               2018-3-25礼拝

説教題:ヨセフの夢の実現

【導入】

今年の125日に、「宗教者ネットワーク」などの関係者と内閣府に陳情に行き、日本同盟基督教団「教会と国家」委員会として、「首相、閣僚の伊勢神宮参拝に対する抗議声明」を読み上げて来ました。

当然の事ではありますが、事前申請、登録が必要であり、時間厳守であり、ボディーチェックは受けませんでしたが、守衛所で照会確認がありました。

建物に入ると、案内の係り官が待っており、面会所に案内されると、秘書官が待ち受けていました。

秘書官は、黙々と抗議声明、陳情を聞いているのですが、抗議を聞くのも、陳情を受け付けるのも、日常業務の一環なのでしょうし、そして退屈な時間なのでしょうけれども、全くの形式的、無関心、無表情ではなく、多少の関心を示したように見受けられました。

ひょっとすると、多少の関心、興味を示す事も、陳情者に接する秘書官のテクニックなのかも知れません。

ヨセフの兄たちを、ヨセフの家に案内した、ヨセフの家の管理人は、現代風に表現するならば、案内係官、秘書官であり、仕事として案内し、仕事として対応しても、何ら問題ありませんが、ヨセフの家の管理人は、ヨセフの兄たちの緊張を解(ほぐ)すような接待をしたのであり、行き届いた対応をしたのです。

決してテクニックとして、ではなく、主人であるヨセフに成り代って、接待し、主人であるヨセフが帰ってくるまでの時間を、寛げるように配慮したのです。

【本論】

43:26 ヨセフが家に帰って来たとき、彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝んだ。

ここに兄弟たちの人数は記されていませんが、投獄されていたシメオンが加わったのですから、ヨセフの兄弟の全て、11人が揃った訳です。

時間経過がはっきりしませんので、正確な事は言えませんが、投獄されてから、一年程が経過しているのではないでしょうか。

ヨセフの兄弟たちはシメオンに、投獄されていた間の様子を聞き、シメオンも兄弟たちに、カナンの飢饉の様子を、カナンに残した家族の事を、父ヤコブの事を、ベニヤミンを手放すに至った経緯を聞いた事でしょう。

何しろ、父ヤコブの、ベニヤミンに対する愛着、執着は、異常なのですから、ベニヤミンを手放す事は、絶対にないと確信するに充分であり、シメオンは、自分は見捨てられる、もう二度とカナンには帰れない、家族に会う事は出来ない、と覚悟していたのではないでしょうか。

それなのに、諦めていたのに、兄弟と再会出来たのであり、連れて来れるはずのないベニヤミンがいるのですから、正直、驚き、本当に感激したのではないでしょうか。

父ヤコブに、見捨てられると思っていたのに、兄弟たちは、父ヤコブを説得出来る犠牲を払えないだろうと思っていたのに、父ヤコブは、大きな危険と犠牲を覚悟し、ベニヤミンを送り出したのであり、シメオンは、父ヤコブに愛されていると、改めて確認、確信した事でしょう。

そして、父ヤコブを説得してくれ、自分を窮地から救ってくれた兄弟たちに感謝し、兄弟たちのために、どんな犠牲も払う決意をした事でしょう。

このシメオンが持った感情は、兄弟たちも同じであり、ヤコブ一族は、お互いを愛する、お互いのために犠牲を払う事を基盤とする関係に入ったのであり、新しいステージに立ったのです。

それは、神様の、アブラハム、イサク、ヤコブに委ねた働きに必要不可欠な事なのです。

さて、ヨセフの帰りを待つ、ヨセフの兄弟たちの前に、ヨセフが現れます。

ヨセフの兄弟たちは「地に伏して彼を拝」みます。

ヨセフの見た、創世記379節の夢、預言の成就ですが、「太陽と月」即ち「父と母」が欠けていますし、後日、カナンからヤコブ一族がエジプト入りしてからも、「父と母」がヨセフを「」する場面は記されていません。

ヘブル人社会において、父母が息子に平伏(ひれふ)す姿は異常であり、あり得ない事です。

だからこそ、夢であっても、父ヤコブの叱責を受け、兄弟たちの怒りを買ったのですが、父の代理であるルベンが平伏した事は、父が平伏した事を象徴していると、28節でも繰り返されていますが、父の話題から平伏に至ったのであり、兄弟たちが、父に代わって平伏したと見る事が出来そうであり、夢の、預言の成就と考えてよさそうです。

43:27 ヨセフは彼らの安否を問うて言った。「あなたがたが先に話していた、あなたがたの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。」

ヨセフは、ヨセフの兄弟たちに、カナンの父の様子を問い質します。

時間経過がはっきりしませんので、正確な事は言えませんが、エジプトに来てから十三年が経過し、豊作の七年が過ぎたのは確かです。

そして、飢饉に入って二年が経たんとしているのですから、都合二十数年も、父ヤコブとは会っていないのであり、一年程前に、父ヤコブの様子を聞いてはいますが、高齢の父ですから、何時、容態が急変してもおかしくはありません。

ヨセフは、矢継ぎ早に質問を投げかけますが、質問と云うよりも、安否確認であり、ヨセフの父を慕う想いが溢れ、滲む問いかけです。

ヨセフの兄弟たちからしてみたならば、大して親しくなくても、家族の安否を尋ねるのは、社交辞令でしょうが、ヨセフのそれは、社交辞令の域を出た熱心さであり、エジプトの宰相は、何故、こんなに父に拘るのだろう、と訝りながらも、宰相の質問に、誠実に答えます。

43:28 彼らは答えた。「あなたのしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。」そして、彼らはひざまずいて伏し拝んだ。

こうして、今回、立て続けに二度も、ヨセフの見た、創世記379節の夢が実現し、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフに対して平伏(ひれふ)したのです。

神様のご計画は、どんなに阻んでも、抵抗しても、邪魔をしても、実現します。

だからと云って、邪魔さえしなければ良い訳でもなく、何もしないでいて良い訳ではなく、好き勝手にしていて良い訳でもなく、無関心でいても良い訳でもありません。

何もしなければ、好き勝手な事をしていたならば、無関心でいたならば、理由を問われ、した事に対して、しなかった事に対して、申し開きをしなければならず、裁かれましょう。

神様のご計画を理解出来ず、積極的には応答出来なくても、神様のご計画が理解出来るように、理解出来なくても、信仰によって、従えるように祈らなければなりません。

その時、理解が与えられ、神様の栄光を拝する事が出来るのです。

43:29 ヨセフは目を上げ、同じ母の子である弟のベニヤミンを見て言った。「これがあなたがたが私に話した末の弟か。」そして言った。「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」

凡そ、二十数年ぶりの、ベニヤミンとの再会ですが、ヨセフの問いかけは、ベニヤミンを判別出来なかったからではありません。

兄たちとは二回目の再会であり、20数年ぶりとは云え、実の弟ですから、見間違える事も、見誤る事もありません。

問いかけではなく、確認であり、改めて、目の前に愛する実の弟を見ての、感動からの言葉であり、兄たちの返答を待つまでもなく、祝福を与えている事からも明らかです。

今の状況での、最大限、出来る事は、言葉をかける事であり、ヨセフは、大きな感動の中でも、冷静さを保ち、祝福を与えるのです。

わが子よ」との呼びかけは、最大限の受け入れの言葉であり、害を与えはしない、悪い事をしない、との確約の宣言でもあるのです。

43:30 ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた。

ここでヨセフは名乗りを挙げ、兄弟たちを安心させ、カナンにいる父や家族たちを助けるのは容易な事ですが、兄たちが以前と変わらず、嫉妬深く、弟を殺す事に抵抗がないような人物であれば、助ける事は益になりません。

何より、アブラハム、イサク、ヤコブから、子々孫々に引き継ぐ、神様から委ねられた、世界を祝福する働きにマイナスであり、神様の御名を汚し、人々に神様を侮(あなど)らせる事になってしまいますから、未だ身分を、明かす事は出来ません。

ヘブル人は、肉親の情に篤い民族であり、20数年ぶりの肉親との再会ですから、自分を制する事は、中々難しい事ですが、奴隷の身分、囚人の身分で辛酸を舐めて来ての、十三年で、感情の高ぶりを制する術を学んだようであり、人前で、感情を噴出させる事はありませんでした。

43:31 やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と言いつけた。

43:32 それでヨセフにはヨセフにだけ、彼らには彼らにだけ、ヨセフと食事を共にするエジプト人にはその者にだけ、それぞれ別に食事を出した。エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかったからである。それはエジプト人の忌みきらうところであった。

当時のエジプト人は、浄、不浄について、非常に厳格、極端な区別を付けていたようであり、エジプト人は、民族的、宗教的、文化的に、気位が高く、外国人を異宗教、異文化の故に、嫌忌(けんき)し、区別したようです。

エジプト人は、外国人は食物を汚す、と考え、一緒には食事をしなかったのですが、この傾向は、エジプト人王朝の時に、顕著だったようであり、外国人が王として支配した時代には、緩やかになったようです。

何故なのか、理由は明らかではありませんが、エジプト人は、羊を忌み嫌ったようであり、羊を飼い、羊を食するヘブル人を、衣食住を羊に依存しているヘブル人を、エジプト人は忌み嫌い、食事を一緒にしなかったのです。

尚、「羊」ですが、単純な事ではなく、多くの場合、羊と訳されているヘブル語「ツォーン」は、羊の他に、山羊や小家畜、群れを意味する事があり、また、羊を意味するヘブル語は約10種あるそうです。

エジプト人は、ある種の羊を嫌っており、同類として、羊全般を嫌忌したのかもしれません。

43:33 彼らはヨセフの指図によって、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらされたので、この人たちは互いに驚き合った。

兄弟の関係性は、当事者でなければ知り得ない事です。

それでも、二、三人なら、見当が付き、偶然もあり得ましょうが、十一人に対して、的確に采配を揮い、指示を与えるエジプト宰相に対して、ヨセフの兄弟たちは、エジプト宰相が神的な能力を持っている、と確信したのではないでしょうか。

このエジプト宰相は、ヨセフの兄たちに対して、間者、スパイの嫌疑を掛け、一切の弁明を受け付けず、厳しい対応をしたけれども、それは、弟を売り飛ばした暗い過去を、神的力で感じ取ったからなのではないか。

また、買い取った穀物の袋の口にあった銀の事と云い、理解出来ない事、不思議な事が、度重なっているのであり、驚き、戸惑いつつ、明確な確信には至らなかったでしょうが、何かしらかの、神様の干渉を、感じ始めたのではないでしょうか。

43:34 また、ヨセフの食卓から、彼らに分け前が分けられたが、ベニヤミンの分け前はほかのだれの分け前よりも五倍も多かった。彼らはヨセフとともに酒を飲み、酔いごこちになった。

五倍も多かった」は正確に、厳密に「五倍」ではなく、日本で「八」が、末広がりの意味を持つ、縁起の良い数であるように、エジプトでは「」が、良い意味を持つと考えられており、縁起の良い数であり、また、一種の名誉の意味もあり、食べきれない量を振舞う事により、大歓迎している事を表わし、特別な待遇を受けた事として、記されているのです。

そして重要なのは「ヨセフとともに」の「ともに」です。

30節で、身分を明かさなかった意味について触れましたが、兄たちの本質を知る必要があるのですから、酒宴を設ける必要も、接待する必要もなく、次の計画に着手してもよさそうなものですが、ヨセフは、兄たちの本質が、海のものとも、山のものとも判らない時に、兄弟たちが、勇気を振り絞って、遠路、エジプトだけに救いがあると確信し、エジプト宰相が、われわれが間者、スパイではないと認めてくださり、受け入れてくれる、シメオンと一緒に帰らせてくださると信じて、エジプトに戻って来た事を喜び、受け入れ、和解の印である、酒宴を設け、大歓迎をしたのです。

【適応】

私たちの「救い」についても、同じ事が言えます。

教会に救いがある、神様は、私のような罪人をも、赦し、受け入れてくださるに違いない、と信じて、神様の許に、教会に来た人を、神様は喜び、その人がどんな状態であっても、どんな大きな罪を犯したとしても、イエス様の十字架によって赦されており、無条件で受け入れ、大歓迎してくださいます。

私たちの不安を取り除き、赦しを宣言し、平安を与え、必要を満たしてくださいます。

何より、「ともに」いてくださり、和解の印である酒宴を設け、持て成してくださるのです。

この後、ヨセフは、兄弟たちに罠を仕掛けますが、それは訓練であり、試練であり、アブラハム、イサク、ヤコブの働き、世界を祝福すると云う働きを担う者として相応しくなるために整えられて行くのです。

私たちについても同じ事が言えます。

赦されて、救われて、そのままではありません。

神様を信じる者として相応しくなるために、天国に国籍を持ち、天国に入る者として相応しくなるために、アブラハム、イサク、ヤコブの働き、世界を祝福すると云う働きを担う者として相応しくなるために、整えられる必要があり、訓練があり、試練があるのです。

この世に、訓練や試練を必要としないクリスチャンは、一人もいません。

昨日、今日、信じて救われたクリスチャンは勿論ですが、信じて、洗礼を受けて、信じ続けてウン十年のクリスチャンも、牧師も、役員も、整えられなければならず、訓練や試練を必要とします。

訓練や試練は、必ずあります。

もしも、訓練や試練にあってないとしたら、避けているか、妥協しているか、かもしれません。

あやふやな気持ちで洗礼を受けたとしても、洗礼は有効ですから、クリスチャンにされています。

クリスチャンには当然、訓練や試練は与えられますが、しかし、同じ訓練、試練ではなく、時期、環境によって大きな違いがあります。

しかし、誰もが、洩れなく、必ず、訓練や試練に遭うのですから、訓練や試練がある事を、恐れる必要はなく、喜ぶべきであり、自分の力や、知恵で、訓練や試練に当たるのではありませんから、心配する必要はなく、訓練や試練を乗り越える、聖霊の助けを、守りを、導きを祈るべきなのです。

そして、どんな時にも、神様が見捨てる事はなく、イエス様が執り成し祈ってくださり、そして聖霊が「ともに」いてくださるのですから、安心であり、喜びです。

神様、イエス様、聖霊が「ともに」いてくださる事を忘れず、訓練、試練を避けてはなりません。

訓練や試練とともに、大きな祝福が伴うからであり、ここにおられる皆様が、訓練や試練に伴う祝福を、みすみす見逃す事がありませんように。

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聖書個所:創世記4311節~25節               2018-3-18礼拝

説教題:恐れる事はありません

【導入】

昨今、地球は温暖化が進み、異常気象が世界的な話題となっています。

北極や南極の氷が融け、穀倉地帯や草原、森林が砂漠化している状況は、深刻であり、将来のために、早急な対策が求められています。

異常気象は、温暖化だけが原因ではなく、色々な要因で起こるのであり、異常気象は、旱魃や冷害を起こし、植物の生育に大きく影響し、飢饉を引き起こします。

紀元前にも、旱魃や冷害は起こっており、聖書には、アブラハムの活躍した時代、イサクの活躍した時代にも、飢饉が起こった事が記されています。

ヤコブの活躍した時代にも、ヤコブ一族の住む、穀倉地帯であるパレスチナの地も、南の穀倉地帯であるエジプトの地も、今だかつてない飢饉に見舞われ、未曾有の飢饉の中で、人々は存亡の危機に置かれています。

しかし、エジプトには、穀物が蓄えられており、皆が穀物を求めてエジプトに出掛ける中で、ヤコブ一族は、ひっそりと鳴りを潜めています。

飢饉に苦しんでいるのは、ヤコブ一族も同じであり、喉から手が出るほどに穀物を必要としていたのですが、エジプトに行く事が出来ない理由がありました。

それは、ヤコブの息子たちに間者、スパイの嫌疑が掛けられ、末っ子のベニヤミンを連れてでなければ、エジプトに入れないからでした。

ベニヤミンを連れて行けばよさそうなものですが、ヤコブにとって、ベニヤミンは、ラケルの忘れ形見ヨセフの代わりであり、どんな理由があっても、ベニヤミンを手放す訳には行かなかったのです。

しかし、切羽詰れば、悠長な事や、我がままを言ってはいられないのは、古今東西変わりはしません。

飢饉の激しさは、筆舌に尽くしがたいものであり、エジプトの穀物を手に入れなければ、ヤコブ一族は飢え死にするのであり、ベニヤミンも飢え死にするのは、必至です。

そこで、ヤコブは苦渋の一大決心をし、族長らしい指示をするに至るのです。

【本論】

43:11 父イスラエルは彼らに言った。「もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド、

エジプトの宰相に謁見するのに限らず、誰かを訪問するのに、手ぶら、は如何な事でしょうか。

賄賂とかの類と混同してはなりませんが、最低限、不可欠の礼儀であり、謁見の喜び、感謝を、言葉と贈り物とで現すのです。

その贈り物ですが、「少々」と記されている通りであり、身分不相応な贈り物を用意する必要はないのです。

これらの品々は、エジプト人の好む品々だそうであり、「乳香と、樹膠と没薬」は樹脂、樹液から作られる香料であり、「」は、エジプトで多く産出する蜂蜜ではなく、葡萄果汁を煮詰めて作られた蜜であり、どれも皆、貴重な品々です。

くるみとアーモンド」ですが、高級料理に使われる食材であり、新共同訳聖書では「ピスタチオとアーモンド」と訳され、口語訳聖書では「ふすだしう、あめんどう」と記されていますが、「ピスタチオとアーモンド」の事です。

新改訳聖書2017では「ピスタチオとアーモンド」と訳されていますが、ナッツの入った料理は、歯ごたえが加わり、風味も増して、料理を美味しくするのであり、香辛料と共に、珍重されていたようです。

ちょっと珍しい特産品を用意する事で、敬意を表すのであり、親近感を醸し出す事が出来、ぐっと近づく事が出来るのであり、色々な交渉を、円滑に進める効果が期待される訳です。

43:12 そして、二倍の銀を持って行きなさい。あなたがたの袋の口に返されていた銀も持って行って返しなさい。それはまちがいだったのだろう。

二倍の」は、「より多くの」「別の」を意味し得るヘブル語であり、ヤコブは、穀物の代金に倍する銀を持って行くよう、指示を与えます。

ヤコブらは、最初の時に支払った代金が、それぞれの穀物の袋に入っていたのは、何かの間違いであると考えていますが、それは、ヤコブらの考えであり、盗んだとの嫌疑を掛けられかねません。

何しろ、一方的に間者、スパイの嫌疑を掛け、一切の弁明を聴いてはくれないエジプト宰相なのですから。

その時の対策のために、「二倍の銀」を用意したのでしょう。

後日、律法化され、出エジプト記224節に記されていますが、盗みに対しては「二倍」を弁償するのがルールとなります。

そんな背景があっての、ヤコブの指示なのでしょう。

43:13 そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。

ヤコブが、この決断に至ったのは、飢饉が深刻化し、余裕がなくなったから、切羽詰ったからだけではありません。

長い期間の、葛藤、逡巡、苦悶の末ではありましょうが、足掻いても無駄だと諦めた訳でも、自棄(やけ)っぱちになった訳でもありません。

息子たちが、信頼に値するようになったからでもありません。

43:14 全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」

と、全てが、全知全能の神様のなさる事、と観念し、同時に、信仰を持って、積極的に神様に委ねたのであり、ベニヤミンへの執着を断とうと、自らに言い聞かせた上での決心であり、このヤコブの決心は、神様への信頼、信仰が回復したからこそ、なのではないでしょうか。

私も、失うときには、失うのだ」は、厭世的な意味でも、足掻いても無駄と観念しての意味でもなく、神様の主権、支配、摂理を肯定的に受け止めた上での発言でしょう。

新改訳聖書2017では「私も、息子を失うときには、失うのだ」と訳し、より積極的、より具体的に応答しているヤコブの心情、姿として記しています。

仕方がない、どうしようもない、からではなく、どんな事が起こっても、「神様のなさる事であり、その通りです、アーメン」と応答するのであり、それこそが、神様の僕の姿、応答なのです。

一族を守るために、ベニヤミンの命を差し出す、と云う場面なのではなく、一族の働きを継承させるために、大切なものでも手放す信仰が試される場面なのであり、信仰こそが、世界を祝福する働きに、必要不可欠な要素なのです。

43:15 そこで、この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った。

ヨセフにとっては、待ちに待った再会の喜びの瞬間だったでしょうが、喜びを押し隠したヨセフの姿があり、ヨセフの兄たちにとっては、これから、どんな展開になるのか、不安と恐れ、慄きに満ちた場面であり、固唾を呑んで立ち竦む兄たちの姿があります。

ヨセフの兄たちには、全く予期しない対応が用意されており、新たな疑惑、不安の幕開けとなります。

43:16 ヨセフはベニヤミンが彼らといっしょにいるのを見るや、彼の家の管理者に言った。「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから。」

43:17 その人はヨセフが言ったとおりにして、その人々をヨセフの家に連れて行った。

16節の、ヨセフとヨセフの家の管理者との会話は、エジプトの言葉での会話であり、ヨセフの兄たちには何も知れされていないのであり、何処に連れて行かれるのかも解らないのですから、不安と恐れは最高潮に達した事でしょう。

ヨセフの兄たちの思いは、恐ろしい宰相がいるエジプトなのであり、物見遊山の旅でもないのですから、エジプトに長居するつもりは全くありません。

直ぐに宰相と謁見し、嫌疑を晴らし、穀物を買い、早々にエジプトを後にする計画だったのではないでしょうか。

43:18 ところが、この人たちはヨセフの家に連れて行かれたので恐れた。「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕らえるためなのだ」と彼らは言った。

正しい情報であっても、人間は自分に都合の悪い情報は捨て、都合の良い情報だけを取り入れ、間違った決断をする事があります。

ましてや、間違った情報、根拠のない情報では、正しい判断は出来ません。

ヨセフの兄たちの疑心暗鬼は不安を煽り、想像は悪い方向に膨らみ、思い込みは根拠のない結論に誘導してしまいますが、まあ、二年前の出来事があり、今もこんな状況なのですから、悲観的に考えてしまうのは仕方がない事なのかもしれません。

根拠のない、想像の域を出ない、一笑に附すような考えですが、ヨセフの兄たちにとっては真剣であり、必死です。

このままでは取り返しの付かない、大変な事になると思い、不安な気持ちを押さえつつ、釈明を始めます。

43:19 それで、彼らはヨセフの家の管理者に近づいて、家の入口のところで彼に話しかけて、

43:20 言った。「失礼ですが、あなたさま。この前のときには、私たちは食糧を買うために下って来ただけです。

43:21 ところが、宿泊所に着いて、袋をあけました。すると、私たちの銀がそのままそれぞれの袋の口にありました。それで、私たちはそれを返しに持って来ました。

43:22 また、食糧を買うためには、ほかに銀を私たちは持って来ました。袋の中にだれが私たちの銀を入れたのか、私たちにはわかりません。」

20節からの説明は、状況説明であると同時に、決して盗みを働いてはいないとの、必死の釈明です。

先にも説明しましたように、盗人には、厳格な処罰が科せられるのであり、法体系の整っていない地域、時代においては、不相応な重罰が科せられる事も、身分が剥奪される事も、奴隷にされる事も、場合によってはリンチに遭い、殺される可能性だってあり得るのです。

真実は、何時かは明らかにされますが、そんな悠長な事は言っておられません。

どんな小さなチャンスも逃すべきではなく、懸命になって、必至になって釈明するのは、当然でしょう。

ヨセフの兄たちは、疚しい事が全くない事を、切々と訴えます。

43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。

ヨセフの家の管理者は、「安心しなさい。恐れることはありません」「あなたがたの銀は私が受け取りました」と明確に断言し、「あなたがたの神、あなたがたの父の神」からの贈り物に「違いありません」と言うのです。

この発言は、ヨセフの支配権がエジプトに浸透していた事、ヨセフが信頼出来る人物であり、皆が、喜んでヨセフに服従していた事、また、ヨセフの、神を畏れる生き方を反映しての事、ヨセフの、神様を畏れる生き方が本物であり、僕たちにも浸透していた事を雄弁に物語っています。

ここでも、僕たる者の、積極的な従順が暗示されています。

僕は、命じられた事だけをするのではありません。

主人なら、どうされるだろうか、と考え、主人の意を汲み、主人の代わりに判断し、行動しなければならないのですが、決して主人になり代わるのではありません。

与えられた裁量と権限の範囲で、実務を代行するのである、を忘れてはなりません。

油断すると、主人の威を借りた、不遜な僕になってしまいますから、自重と吟味が不可欠です。

積極的でありながらも、出しゃばってはならず、分を弁えつつも、消極的になってもならないのです。

僕は徹底して、主人に仕えるのであり、主人を立てるのであり、僕は常に、日陰の存在に徹しなければならず、主人よりも目立ったり、先走ったりしてはならず、これを弁えている者が、有能な僕なのです。

家には、色々な働きがありますが、水汲みは、桶の水に気を配り、主人の到着、お客の到着に合わせて、清浄な水を用意します。暑い日には冷たい水を、寒い日には暖かい水を、です。

料理人は、食材に気を付け、主人の様子を伺い、気候を勘定に入れて、品目を考え、味付けに工夫をします。茹だるように暑い日にはさっぱりした料理を、寒い日には暖かな料理を、です。

管理者は、全体に気を配り、指示を出し、まとめ、齟齬がないようにします。主人が憩えるように、客人を最大限にもてなす、です。

各人が、割り振られ、与えられた働きに専念し、創意工夫する時、その家は秩序が保たれ、調和が保たれ、主人の栄光が現れるのです。

教会も似ている部分がありますが、少し注意が必要です。

教会の働きは、好き嫌い、上手下手、得意不得手、で決めるものではありません。

また、自分で決めるもの、自発でもなく、強制でもなく、割り振り、割り振られる働きでも、義務でもありません。

神様の召しに応答した働きであり、各人の能力、賜物、働きは一様ではなく、期待される働きも単一ではありません。

頼りない担当者や牧師であっても、その担当者の働き、牧師の働きを尊重し、各人が、担当する働きに専念するなら、そして、教会全体をまとめる者として、主が立てられた牧師として、主にあって従う時、教会に秩序が保たれ、調和が保たれ、神様の栄光が現されるのです。

意見の違い、考え方の違いは、必ずありますが、主が立てられた担当者故に、委ねるのであり、主が立てられた牧師故に、牧師に従うのであり、それは、双方にとって有益な訓練なのであり、教会の栄光、即ち、イエス様の栄光が現れるのです。

43:24 その人は人々をヨセフの家に連れて行き、水を与えた。彼らは足を洗い、ろばに飼料を与えた。

ヨセフの家の管理者の言動は、困惑、狼狽しているヨセフの兄たちに、優しく届いた事でしょう。

ヨセフの家の管理者の対応は、実に行き届いており、親切です。

足を洗う水を与えたのは、綺麗に磨き上げられたヨセフの家を汚さないため、ではありません。

旅人を持て成す気持ちの現れの一つであり、旅の疲れを癒すため、さっぱり気持ちよくさせるためであり、先ず、手を洗い、汗を拭い、身なりを整え、足を洗い、旅人が薄汚れた足で、高貴な人に謁見し、恥をかく事のないための、身分の差が大きい中で、惨めな思いをさせないための、行き届いた配慮なのです。

長旅で疲れているのは、お腹が減っているのは人間だけではありません。

ロバには飼料だけでなく、水も与えられたのであり、ロバに言及したのは、行き届いた配慮がロバにまであった事の証拠なのです。

43:25 彼らはヨセフが昼に帰って来るまでに、贈り物を用意しておいた。それは自分たちがそこで食事をすることになっているのを聞いたからである。

ヨセフの兄たちは、思わぬ事の成り行きに驚き、訝りながらも、事が順調に進んでいる事に、心底から安堵し、心を暗くしていた暗雲は、綺麗さっぱり消えた事でしょう。

これで、全てが上手く行った、シメオンと共に、父ヤコブや家族の許に帰れると確信した事でしょう。

【適応】

ヨセフの兄たちは、管理者に「恐れることはありません」と励まされました。

この時点で、不安の種は何もありませんでした。

しかし、ヨセフの兄たちは、過去の出来事を根拠に、エジプト宰相のあらぬ嫌疑、厳しい対応がトラウマとなって、怯え、恐れていましたが、ヨセフの家の管理者に励まされ、安心を得る事が出来たのです。

私たちも同じように、恐れる必要のない事を恐れ、怯えてはいないでしょうか。

イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて、ペテロたちの乗った船に近づかれた時、ペテロはイエス様にお願いして、水の上を歩かせていただきましたが、「風を見て怖くなり、沈みかけ」てしまいました。

皆さんは、風を見た事がありますか。

風を肌で感じたり、旗や木の枝の動き、雲の流れによって風を知る事は出来ますが、風は見えません。

しかし、ペテロは、見えない風を見てしまったのです。

実際には見えないものを、見たと思い込んでしまったのです。

ペテロはイエス様を見ないで、風を見てしまい、怯えてしまったのです。

人間には、想像力が与えられ、空想力が与えられているのですが、それらが良い影響力のみを与えるとは限りません。

人は、見なければ信じないと、嘯(うそぶ)きますが、同じ人が、見えないもので怯える時があるのです。

そして、サタンは、見えないものを見たと思い込ませ、怯えさせ、見るべきものから眼を逸らさせ、不安にさせ、怯えさせるのです。

不透明な先行き、予想される困難、などなど、人生は困難と苦難の連続でしょう。

不安になり、恐れを抱かざるを得ませんが、「あなたがたの神、あなたがたの父の神」が常に見ておられ、導いておられ、助けてくださり、支えてくださり、守ってくださっている事を忘れてはなりません。

過去の事に対する後悔、負わなければならない責任、過去の出来事を原因としての、将来の不安、などなどが人間を苦しめますが、決定的な解決策を、人間は持っていませんし、物品での償いや備えには限界があり、完全な償いや備えは出来ないのです。

しかし、神様は、人間が負わなければならない全ての責任を、過去から、将来に亘って負ってくださり、将来のための備えも、完全になしてくださるのであり、「安心しなさい。恐れることはありません。」と仰っておられるのです。

人間の励ましでも、効果があり、多少でも安心出来ますが、全知全能、不変、永遠の神様の励ましは、絶対、確実、永遠であり、ここにおられる皆様が受け取られる安心、平安は、絶対、確実、永遠なのです。

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聖書個所:ヨハネの手紙第一5章14節から15節            2018-3-11礼拝

説教題:「神に対する私たちの確信

説教者:河野優牧師 (説教は非掲載です)

【聖書】

5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

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聖書個所:創世記431節~10節               2018-3-4礼拝

説教題:ユダの提案~一族の結束

【導入】

分裂しかかり、或いは、修復不可能かと思えるような関係が続く中で、事態を好転させるために、何とかしなければと思いつつ、妙案も浮かばず、返って関係を抉らすばかりの時には、飢饉や災害、戦争などの一大事が、関係改善へのきっかけとなる事がありましょう。

勿論、飢饉や災害、戦争などは、あって欲しくはありませんが、危急の時には、一致団結しなければならず、困難を乗り越えるためには、確執を忘れて、協力しなければなりません。

ヤコブ一族は、一見、結束が固そうに見えますが、その根底には、えこ贔屓(ひいき)が存在し、羨(うらや)みや妬(ねた)みが存在します。

父ヤコブは、ヨセフに対して特別待遇を公然と行い、兄弟間の分裂の種とし、ヨセフの兄たちは、気に入らない者を排除し、口裏を合わせて、素知らぬ振りをし、兄弟間に殺意を核とする結束を作りますが、こんな結束は、百害あって一利なしです。

父ヤコブとヨセフの兄たちの間には不審が芽生え、ぎこちない関係が生まれてしまい、全面的な信頼関係は望むべくもありません。

こんな関係では、アブラハム、イサク、ヤコブと継承されて来た、世界を祝福すると云う重大な使命を全う出来ません。

祝福するどころか、神様に対する背信行為であり、御名が侮られて、呪いの基となってしまいましょう。

それでも、神様の「選び」は変わる事なく、新しい者を採用するのではなく、一度選ばれた者を見捨てる事なく、訓練を与え、整えてくださり、時に強制的に関わり、正しい方向に修正し、用い続けてくださるのです。

神様のご計画で、ヨセフは、庇護者を失い、エジプトで奴隷として不自由な生活を送り、囚人として更に苛酷な生活を送り、十三年間の訓練を受けました。

父ヤコブはヨセフを失った悲しみ、シメオンを失った苦しみ、ベニヤミンを失わんとする恐れ、と云う訓練を受け、ヨセフの兄たちは、あらぬ嫌疑を掛けられ、理不尽な苦しみを押し付けられる事、ベニヤミンに固執する父ヤコブを説得する事で訓練を受け、関係者皆が、神様に与えられた使命に相応しく、整えられて行くのです。

【本論】

43:1 さて、その地でのききんは、ひどかった。

ヤコブ一族の住むカナンは、比較的安定的に穀物を生産する地域であり、不作になる事は珍しい事なのですが、今回、カナンを襲った飢饉は、非常に厳しく、全くと言って良いほど、収穫がなく、それが、二年も続いたのですから、深刻です。

この状況は、エジプトでも全く同じであり、カナンもエジプトも、近隣地域に穀物を供給する事が出来ず、全世界に影響を及ぼします。

何処も彼処も、飢えに苦しみ、誰も彼もが、穀物を求めて走り回っていました。

ヤコブ一族も同じであり、カナンの地、エジプトの地を襲う飢饉は、まだ後、五年続きますが、エジプトにはヨセフがおり、ヨセフの働きで膨大な量の穀物の蓄えが有ります。

しかし、カナンの地に蓄えはなく、エジプトに依存するしかありません。

ヤコブの息子たちが、エジプトから持ち帰った穀物は底を尽き、再び穀物を調達しなければならなくなります。

43:2 彼らがエジプトから持って来た穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。「また行って、私たちのために少し食糧を買って来ておくれ。」

この時、ヤコブは重大な選択、即ち、一族を守るか、ベニヤミンを手放すかの選択を迫られていたのですが、決して、ベニヤミンの命と、一族の命を引き換えにする、と云う話ではありません。

しかし、ヤコブはベニヤミンに固執、執着しており、一刻でも離したくなく、離れられず、ヤコブはベニヤミンを手放す事に、非常な恐れを感じているのであり、側に置いておかなければ、安心出来なかったのです。

これは、理屈ではなく、感情的なものであり、ヤコブ自身も持て余していたのではないでしょうか。

一族を救わなければならないが、ベニヤミンは手放したくないのであり、しかし、ベニヤミンを手放さなければ、穀物を得る事は出来ず、ベニヤミンは飢えてしまうのです。

即ち、ベニヤミンの命を守るためには、ベニヤミンの命を手放さなければならないと云う大きな矛盾を抱えており、葛藤し、苦しんでいたのであり、一族を生き長らえさせるための穀物を得る、と云う問題の対処を先延ばしにして来たのですが、とうとう穀物が底を尽き、決断を迫られ、息子たちに指示を出す事になったのです。

43:3 しかしユダが父に言った。「あの方は私たちをきつく戒めて、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と告げました。

43:4 もし、あなたが弟を私たちといっしょに行かせてくださるなら、私たちは下って行って、あなたのために食糧を買って来ましょう。

43:5 しかし、もしあなたが彼を行かせないなら、私たちは下って行きません。あの方が私たちに、『あなたがたの弟といっしょでなければ、私の顔を見てはならない』と言ったからです。」

ヤコブの信頼を失っていた長男ルベンに代わって、四男のユダが立ち上がり、父ヤコブに状況を説明しますが、次男シメオンは捕虜となっているのですから当然としても、三男のレビを飛ばしての発言は、何故なのでしょうか。

理由は、神様に伺うしかありませんが、働きは、年功序列ではなく、能力でもなく、神様の選びであり、神様の導きです。

創世記4814節以降に記されていますが、ヤコブは臨終の床で、ヨセフの息子二人を祝福していますが、弟を先にし、兄を後にしました。

神様の導きに従って祝福したのであり、神様の選びです。

創世記49章に記されていますが、ヤコブは臨終の床で、息子たちを呼び寄せて、それぞれの将来を告げていますが、年齢順ではありません。

神様の導かれるままに告げたのであり、神様の選びです。

さて、本論に戻って、ユダの説明は、改めて説明、確認するまでもなく、周知の事ですが、確認するまでもない事を、解っている事を繰り返すのは、ヤコブが優柔不断に過ぎるからです。

エジプトから穀物を得るためには、ベニヤミンが必要であり、ベニヤミンと穀物が切り離せない事を、確認しているのです。

穀物を得る手段は、ベニヤミンしかないのであり、一切の妥協や譲歩、別の選択肢がない事を、きっぱりと宣言し、断言しているのです。

決めた事、解りきっている事実を蒸し返す人、覆そうとする人がいますが、建設的ではありません。

混乱を招きますし、ぐずれば、ごねれば変わるとなれば、悪しき前例となり、秩序はなくなります。

勿論、一度決めたならば、未来永劫、変えてはならない訳ではありませんが、少なくとも、結論に至った経緯を尊重し、決議を遵守しなければなりません。

疑問や意見があるなら、その場で確認すべきであり、充分な質疑の時間を持つべきであり、その上で決まった事ならば、従わなくてはなりません。

ユダの説明は、過不足のない、明快な説明ですが、ヤコブはそれでも愚痴っぽく、否定的な態度を取り続け、八つ当たり的な言葉を口にします。

43:6 そこで、イスラエルが言った。「なぜ、あなたがたにもうひとりの弟がいるとあの方に言って、私をひどいめに会わせるのか。」

イスラエル、即ちヤコブには、父としての、一族の長としての責任の自覚や、個人的な要求や希望を抑えて、大局的な判断や決断をする能力はないのでしょうか。

まあ、自覚や能力の問題もありましょうが、するべき決断は判ってはいても、口にするのを恐れているのであり、責任を負うのを恐れ、避けようとの思いの現われなのでしょう。

責任を取らざるを得ない立場である事は承知していても、責任を取りたくはないので、逃げ腰な発言、断定を避けるような発言、明言を濁すような発言をし、責任を息子たちに転嫁するような発言をするに至るのです。

出来れば責任は負いたくないでしょうが、一族の長なのですから、好き嫌いではなく、責任は負わなければなりません。

この時の、ベニヤミンの年齢ですが、ヨセフの弟である事や、豊作の七年、凶作の二年を考え合わせると、四十歳以下である事は確実です。

断定は出来ませんが、三十歳前後だろうと考えられます。

父親が、三十歳の息子に注ぐ愛情としては、世間ずれした感、過剰な感は拭えませんが、子に対する愛情は様々であり、異常だとか、正常ではないと云うつもりはありません。

イスラエルの、ベニヤミンへの愛情は、過多な愛情と云うよりは、

無意識でしょうが、己の拠り所としての存在になっており、愛情を注ぐ事で、己を保っているのであり、精神的支柱になっていたが故に、ベニヤミンを失う事は、支柱を失う事と思われ、ベニヤミンを手放す事に恐怖に近い感情を持たざるを得なかったのでしょう。

子離れ出来ていなかった、特定の子に依存していたのです。

そもそも、息子たちは、ヤコブの命令でエジプトに穀物を買いに行ったのであり、その時の状況で、必要と思われる事を発言したのであり、不必要な事や、秘密にすべき事を暴露した訳では有りませんから、非難を受ける筋合いはないはずです。

43:7 彼らは言った。「あの方が、私たちと私たちの家族のことをしつこく尋ねて、『あなたがたの父はまだ生きているのか。あなたがたに弟がいるのか』と言うので、問われるままに言ってしまったのです。あなたがたの弟を連れて来いと言われるとは、どうして私たちにわかりましょう。」

聖書を読んでいる私たちには、7節の弁明は、ヨセフの強力な誘導尋問に遭って、仕方なく言ってしまった、との弁明に聞こえ、少し違うなと感じましょうが、スパイの嫌疑を掛けられた中であり、スパイの嫌疑を解くために、自発的に家族構成を語ったのであり、カナンにいる家族の許に、穀物を持って行くために、身の潔白を証明しなければならず、積極的に家族関係について語ったのであり、また、ヨセフの前での弁明を、ある程度の時間経過の後に思い出し、語ったのであり、多少の脚色、誇張、省略が起こり、思い込みや自己弁護の思いが織り込まれるのは、仕方がない事でしょう。

43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。

ユダは強い決意を持って、父イスラエルにベニヤミンをエジプトに送り出してください、と提案し、父の決断を促します。

ベニヤミンを連れてでなければ、エジプトで穀物を買う事は出来ないのであり、穀物はエジプトにしかないのですから、イスラエル一族を養う事は出来ないのです。

凶作が七年も続く事、飢饉が七年も人々を苦しめる事は、人の力ではどうしようもないのであり、エジプトに頼るしかないのです。

そして、ユダは、父の決断を促すために、思い切った提案を付け加えます。

43:9 私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。

ユダは、自分自身が「保証人となります」と申しますが、果たして、人は「責任を負」えるものなのでしょうか。

罪ある者となる」とは云っても、具体的には何が、どうなるのでしょうか。

一般的な意味での保証とは、負債、損害に対して責任を負い、代替品で保証するか、金銭的に保証するかしか出来ず、命の保証は出来ません。

命の場合には、命を金銭に換算して、慰謝料とするしかないのですが、それで平安を得られる訳ではなく、どんなにお金を積まれても、納得出来る訳ではないのです。

命に限らず、本当の意味で「責任を負」う事は出来ないのです。

ユダはルベンの提案を聞いて、父イスラエルの反応を見て、身代わり、モノ、では解決しない事を悟り、精神的なモノでの提案をするのです。

この世で、何か事件があった時に、金銭ではなく、謝罪の言葉を要求する場面を目撃しますが、起こってしまった事は取り返しがつかないのであり、であるならば、精神的な慰め、癒しに繋がる謝罪を要求するのでしょう。

しかし、この謝罪や、精神的な負い目、決意表明は、万能ではありません。

心の中の事であり、見えず、本心を知る手掛かりがないからです。

結局、ルベンの提案と比べて、際立って優れている点も、致命的な欠点もなく、遜色ない提案なのでしょうか。

しかし、「罪ある者」の意味を考える時、ユダの提案には、真理が啓示されています。

どんな償いをしても、「罪ある者」に変わりはなく、息子の命を差し出しても、自分自身を差し出しても、帳消しになる訳ではないのです。

ルベンの提案は、息子の命で帳消しにしようとの提案ですが、ユダの提案は、帳消しにする事が出来ない事を認識しており、この点では、ルベンの提案よりも優れていると言えるでしょう。

「罪」は「的外れ」の意味であり、的外れな行為を行った事実は、生涯、付き纏い、なかった事には出来ないのです。

ルベンの提案も、ユダの提案も、完全ではなく、両方がバランスよく揃ってこそ、心に届く可能性があるのです。

ルベンの提案も、ユダの提案も、人間の提案であり、欠点もありますが、罪を物質で償う事が主体である、旧約の世界から、罪の意識的な自覚が主体となる、新約の世界への転換が示されたのであり、とても重要な事です。

罪ある者」との認識と、それを意識した行動が、重要なのです。

ユダの告白には、ヨセフを売り飛ばしてしまった事、それを隠し続けている事への、自責の念も、含まれているのではないでしょうか。

ユダの告白を聞いた、他の兄弟たちの心にも、同様の自責の念が生まれたのではないでしょうか。

導入で「ヨセフの兄たちは、気に入らない者を排除し、口裏を合わせて、素知らぬ振りをし、兄弟間に殺意を核とする結束を作」った、と申しましたが、ここに至って180度の大転換が起こったのであり、「罪ある者」との意識を核とし、共通認識とする結束に入ったのであり、兄弟間には、新しい、神様の目に喜ばしい結束が生まれたのです。

お互いが、罪ある者、との認識は、自制が働き、寛容、誠実、柔和、にならざるを得ず、謙遜を生み出し、譲歩を生み出し、和を生み出し、喜び、平安に満たされた生き方になるのではないでしょうか。

これらは、眼に見える変化ではありませんが、ヨセフの兄たちの心が大きく変化したのであり、父イスラエルは心で感じ、ベニヤミンを手放す決断を促す力となるのです。

43:10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう。」

創世記4511節に「飢饉はあと五年続きます」と記されていますから、10節の言葉は、飢饉が始まってから凡そ2年間の出来事であり、本当に深刻な状況であったのであり、もう、猶予はない事を示し、父イスラエルの決断を促すのです。

罪ある者」との自覚は、神の前に喜ばれるのみならず、「罪ある者」との自覚を持つ集団は、結束を固め、一致して困難を乗り越えるのです。

【適応】

神様は、イエス様の十字架によって、私たちの罪を贖ってくださいましたが、罪の刑罰を負ってくださったのであり、罪が帳消しになった訳ではありません。

罪を持つ身である事に変わりはなく、罪がない者と見做されているに過ぎないのであり、「罪ある者」の認識を持つ事は、非常に有益です。

先に申し上げましたように、何事に対しても、自制が働き、寛容、誠実、柔和、にならざるを得ず、謙遜を生み出し、譲歩を生み出し、和を生み出し、喜び、平安に満たされた生き方になるからです。

クリスチャンは、過去の「罪を赦された者」であり、現在から将来に亘って「罪を赦され続ける者」であり、「罪ある者」なのに、得てして、イエス様の十字架によって「罪なき者」とされていると勘違いしてしまうようです。

しかも、無意識のレベルでです。

罪を赦された者」と「罪なき者」は雲泥の差です。

イエス様を受け入れ、洗礼を受けて暫くは「罪を赦された者」との意識が強く働きますが、年を経ると、信仰の経年変化を起こし「罪なき者」との意識へと変質する事があります。

問題なのは、これに本人が、気が付いていない事です。

意識の内では、罪を自覚し、罪をゆるされた者にしか過ぎないと、自覚していますが、また、謙遜して「私は罪人です」と告白しますが、「罪を赦された者」と「罪なき者」が同列に置かれ、心の深いレベルで、区別が曖昧になっており、明確に区別されていないのです。

信仰歴の長さが、信仰深さに比例するかのような勘違いを起こし、クリスチャン家庭の方が、信仰深いかのような錯覚を起こし、奉仕の質、量、長さを、信仰深さのバロメーターのように見てしまい、尊敬し過ぎたり、手本、目標にしたりし易いのですが、キリスト教の発展や、布教活動に貢献した人も、「罪を赦された者」に過ぎず、昨日、信仰を持った者も、何十年と云う信仰生活を過ごした者も、違いはなく、「罪を赦された者」なのです。

罪を赦された者」に優劣も、上下もありません。

支配、服従の関係は存在せず、それぞれが貴重な掛け替えのない存在なのであり、「罪を赦された者」との共通認識だけが、一致する秘訣なのであり、結束を固めるのです。

罪を赦された者」との認識は、お互いの失敗や、欠点を受け入れる集まりとなり、責任を負い合う集まりとなるでしょう。

寛容な社会は、違いを認める社会は「罪を赦された者」との認識の中で育つのです。

現代は、不寛容の時代だ、と言われますが、皆が自分は正しい、間違っているのは自分以外だ、と考える社会は、不健全な社会であり、一致や結束は見込めません。

そんな社会の中で、キリスト教会が、クリスチャンが健全な一致と結束を示して、神様の栄光を現すのです。

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