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聖書箇所:創世記451節から15節              2018-4-29礼拝

説教題:これらの事は神の摂理です

【導入】

現在、礼拝説教では、ヨセフを中心として、みことばに聞いていますが、ヨセフの仕掛けた、兄たちへの奸計は、単なる仕返しや、憂さ晴らしではありません。

困っている姿を見て、溜飲を下げているのでも、内心で、ほくそ笑んでいるのでもありません。

アブラハムからイサク、イサクからヤコブ、ヤコブからヤコブの子、孫へと、引き継がれる働きは、世界を祝福する、と云う働きであり、祝福は、福音を伝える事であり、祝福の最終目的は、人間の罪を贖い、罪人を義人と見做し、天国に招き入れる事です。

その働きは、知恵や力、組織や制度、財力の問題ではなく、赦しの問題であり、許容、受容の問題であり、犠牲の問題です。

世界を祝福する、と云う働きは、愛が大前提であり、赦しが伴い、お互いを受け入れ、隣人に寄り添い、敵を赦し、敵のために犠牲を払えるか、敵のために身代わりを引き受けられるかです。

家族、親族、同胞に対しては勿論ですが、敵対する国、民族、異なる主義主張、宗教に対しても、愛を実践し、赦し、受け入れ、寄り添い、犠牲を払い、身代わりを引き受けるのです。

これら、愛、赦し、受け入れ、寄り添い、犠牲、身代わりのないところに、祝福は存在しえません。

ヨセフが仕掛けた、兄たちへの奸計は、兄たちに愛があるか、犠牲を払えるかを知るためなのです。

その、ヨセフの仕掛けに対して、ヨセフの兄たちの中で、ずる賢さ、非情さ、人格の下劣さでは、一位、二位を争うユダが、いの一番に立ち上がり、切々と、真情を込めて、誠実に話し始め、あろう事か、ベニヤミンの赦し、赦免、開放を願い出たのではなく、自身を身代わりにしてくださいと、申し出たのです。

このユダの申し出には、父ヤコブ、ベニヤミン、他の兄弟に対するユダの真情、嘘偽りや虚栄、見栄などの一切ない愛が溢れており、ヨセフは、あのずる賢い、非情、下劣なユダが、変えられたならば、ユダのみならず、兄たち皆が変えられた事を確信し、エジプト王国の宰相という仮面をはずし、不自然な振る舞いを辞め、真実を吐露し始めるのです。

【本論】

45:1 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。

ヨセフは、ユダの告白を聴いて、心底から安堵したのではないでしょうか。

期待していた以上の応答を、あの、ずる賢い、非情な、下劣なユダがしたのであり、聖書には記されていませんが、ルベン以下、皆が、我も我もと、身代わりを申し出、ヨセフの前に、進み出たのではないでしょうか。

ユダの申し出に、他の兄弟たちが、冷ややかな視線であったならば、ヨセフもここまで、感情を高ぶらせはしないでしょう。

皆が同じ、一つの思いであったからこそ、ヨセフは兄たち皆が変えられた事を確信したのです。

みなを、私のところから出しなさい」は、事が、非常に個人的な、家族の内側の、非常に微妙な問題であり、他人を交えてはならない問題ですから、ヨセフは、ヨセフの家にいた使用人のすべてを退席させます。

家族にとっては、神聖な問題も、他人にとっては好奇心や、楽しみの材料にしかならない事も、また事実だからです。

当事者のみが関わるべき、厳粛な和解の行為であり、人払いは、当然の処置です。

教会内では、何か、オープンが美徳とされやすい傾向や、秘密、イコール、悪、と思い勝ちな傾向がありますが、決してそんな事はありません。

「口から出れば世間」と申す通り、いったん口外すれば秘密は保たれないのですから、「ここだけの話し」は、ここだけに留まらないのですから、プライベートな、微妙な情報は、知り得ても、洩らしてはならないのです。

また、「祈りのリクエスト」と云う形で、微妙な話題が伝えられてしまいますが、善意からであっても、本人の了解を得ないで、話し、洩らしてはならないのです。

45:2 しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

人払いをしましたが、家の中であり、扉一枚を隔てただけであり、扉が閉められるや否やの、号泣ですから、ヨセフの家の使用人であるエジプト人は、そして、ヨセフの家にいたパロの家に仕える者たちも、ヨセフの泣き声を聴きます。

何があったのかと、驚き、訝りましょうが、それは、ヨセフの兄たちも同じでしょう。

恐ろしく威圧的、高圧的なエジプト王国の宰相が、人払いした途端に、号泣したのですから、ヨセフの兄たちは何が起こったのかと驚愕し、狼狽したのではないでしょうか、

しかし、それも一瞬であり、感情を抑え、静寂を取り戻した中で、ヨセフの、通訳抜きの、直接の語りかけが始まります。

45:3 ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

ヨセフの一番の関心が、父の健康にあった事は、ヨセフとヤコブの絆の深さ、強さの変わらない事を物語りますが、「お元気ですか」と訳されているヘブル語の意味は、もっと直接的であり「生きていますか、命がありますか」です。

こんな事は、先の会食の時に、話題になっていそうな事柄ですが、先の会食は、公的な、社交の場であり、真実が語られるとは限りません。

社交辞令で聴くのであり、当たり障りのない回答をするのが、常識なのではないでしょうか。

大して興味がなくても、礼儀として「お元気ですか」と問い掛け、

多少の問題があっても、「恙(つつが)なく過ごしております」と答えるのが、大人の対応でしょう。

しかし、今は、私的な場であり、ヨセフは父の、真の健康状態を知りたくて、確認したくて、この質問となったのです。

しかし、「ヨセフです」名乗りを上げられ、父の健康状態を問われても、兄たちは、事の展開の意外さ故に、状況を飲み込めずにいます。

しかし、目の前の、エジプト王国の宰相の顔をじっと見つめ、ヨセフの面影を見い出し、徐々に状況を飲み込み、理解し始めるとともに、復讐されるのではないかとの考えが心に湧き上がって、驚きが恐れに変わったのではないでしょうか。

嘗て、間者の嫌疑、スパイの疑いを掛けられ、厳しい尋問を受け、シメオンが留置されたのであり、そして、今回の、占いに用いる杯の盗難事件に、復讐の意図を確信するのは、自然な流れでしょう。

逃げ出す事が叶わぬ事とは知りつつも、尻込みし、後ずさりし、じりじりと離れつつあったのではないでしょうか。

しかし、今のヨセフは、慈悲に満ちた、穏やかな表情なのであり、

45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

この「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです」は、驚き、困惑する兄たちに、状況を正しく理解してもらうために、また、これからすべき事を正しく理解してもらうために、順序立て、状況と対策を述べるために、であり、恨み言を言っているのでも、反省を促す目的でもありません。

45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。

5節から9節までに「神は」が4回も語られますが、全てが、神様の御わざである事を強調しているのであり、ヨセフを奴隷として売り飛ばした事から、今に至り、これからの事が、神様の主権、神様の摂理によっているのであり、兄たちに、神様の救いの御わざである事を、はっきりと指し示すためなのです。

ヨセフは、たまたまにエジプトに売られたのではなく、運よく、エジプト王国の宰相になったのでもなく、偶然に、運悪く飢饉に見舞われているのでもないのです。

全てが、神様のご計画であり、ヨセフ物語のスタートは、極めて人間的な、妬み、憎しみから始まりましたが、後になると、一つ一つの出来事が、はっきりと神様の御わざである事が判明するのです。

人間は、罪を内在し、有限であり、無力であり、渦中に置かれても、状況すら、正確に知る事が出来ず、どんなに抗(あらが)い、策を試みても、破滅、滅亡に向かうかありませんが、神様は主権者であり、全てを主体的に、救いと云う目的に向かって導かれるのです。

聖書に記されている出来事には、二つの面があるのであり、

一方は、人間的な、誤った、利己的、独善的、刹那的、断片的、齟齬と矛盾を内在した面と、片や、聖書的な、神様の摂理的支配、神様の完璧な意思の働かれる面を持っているのです。

人間の罪から出た行為は、大きな問題を起こし、神様のご計画を阻むかのごとくに見えますが、神様のご計画は、人間の罪に阻まれる事なく、御こころの通りに、前進するのです。

ヨセフの話は、核心に入ります。

45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。

45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

ヨセフを売った事も、エジプトに奴隷として送られた事も、エジプト王国の宰相になった事も、神様の摂理であり、飢饉の中で、ヤコブ一族を守る事が、神様のご計画である事が明らかにされます。

時に、神様なんだから、飢饉を起こさずに、ヤコブ一族を守ればいいじゃないか、との声を聴きますが、飢饉の中で守られる事で、神様の守りを体験するのであり、使命を自覚するのであり、飢饉を通して、助け合い、一致、協力を学ぶのです。

試練を経てこそ、芯の強い、使命を担い、全うする者とされて行くのです。

7節で「私をあなたがたより先にお遣わしになりました」と記されていますが、非常に重要です。

ヨセフは、兄たち、ヤコブ一族を守るための備えの働きの先遣隊であり、ヨセフと兄たちが、神様のご計画の中で、共通の使命を与えられ、担っている事が暗示されています。

あなたがた」が一つとなって、神の民として、その使命を果たすためであり、滅びて然るべき民が、神様の憐れみによって、滅ぼされずに残されるためなのです。

残りの者」はヤコブ一族の事であり、限定的な表現ですが、ノアの洪水に始まる、聖書の一貫したテーマであり、選びと救いに関わる事であり、滅びる者ではなく、生き残る者なのです。

大いなる救い」は発展的、継続的、永続的、神様の御わざであり、ヨセフの生涯を中心とした、長期間の出来事を含む、救い主誕生に至る神様の御わざです。

45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。

45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。

45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう』と。

9節の、ヨセフから、父ヤコブへの伝言が、「神は」で始まっている点は、重要です。

ヨセフが、エジプト王国の宰相になった経緯、エジプト王パロの夢を解き明かした事などは、重要ではありません。

エジプト王の信頼を得て、たまたま宰相になった、などという、不安定なものではなく、神様がヨセフをエジプト王国の宰相としたのであり、その地位が、神様の定めであり、確固たるモノ、不動のモノである事と、エジプト王から、全権を委ねられているために、ヤコブ一族が、エジプトに下って来ても、全く問題がない事を保証しているのです。

続けて、この飢饉が初期段階に過ぎず、深刻の度合いが益々厳しくなる事を、正確に語り、このままでは、ヤコブ一族の生存が危うい事を語り、猶予がない事、直ぐに避難すべき事態である事を語ります。

45:12 さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。

それでも、高齢の父ヤコブは、状況を正しく把握出来ないのではないか、エジプト行きを躊躇するのではないか、と危惧したヨセフは、父ヤコブの説得のためにベニヤミンを指名します。

ベニヤミンは、嘗てのヨセフの立場にあり、父ヤコブを、確実に立ち上がらせ得る力を持っているのはベニヤミンと見たのであり、ベニヤミンの言葉なら耳を貸し、信じ、従うだろうと考え、ベニヤミンに父ヤコブの説得を託すのです。

45:13 あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」

13節は、自慢話しではなく、父ヤコブを喜ばせようとする意図でもなく、11節の「あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう」との約束の根拠を述べているのであり、ベニヤミンや、兄たちの説得だけでは、状況を知りにくいヤコブを動かすのは、難しく、それで、エジプト王国で実権を握っている事を伝えるのであり、物心全てにおいて、全く不安がない事を確約、生活の保証を裏づけているのです。

45:14 それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。

45:15 彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。

豊かな感情表現の様子が記されています。

首を抱いて」の直訳は「首の上に倒れ」であり、軽いハグではなく、きつく抱きしめるハグであり、赦し、赦された者との新しい結びつきに相応しい情景ではないでしょうか。

【適応】

本日の説教のタイトルを「これらの事は神の摂理です」としましたが、ヨセフが直接、語った言葉ではありません。

5節、7節、8節、9節のヨセフの告白、神様が主権を持って、ヨセフをエジプトに遣わし、ヨセフをエジプトの統治者とされた、と告白しているところから、このタイトルにしたのですが、ヨセフがこのように大胆な発言、断言が出来たのは、ヨセフが神様に対して揺るぎ無い、固い信仰を持っていたからであり、神様が、ヨセフを用いて、飢饉からエジプト王国を守り、父ヤコブ一族を守ろうとの、神様のご計画を充分理解していたからです。

ヨセフは、私利私欲のために、人を服従させるために、或いは、兄たちを懲らしめるために、権力を与えられたのではない事、奴隷としての数年、冤罪からの、数年の獄中生活の全てが、そしてエジプト王国の宰相の地位に就いたのも、全てが神様のご計画であり、神様の主権で行われたと、理解していたのです。

勿論、最初から、事の全体像を、完全に理解していた訳ではなかったでしょうが、奴隷生活の全てにおいて、神様の御手、祝福を体験したのであり、ご主人の妻に言い寄られた際にも、きっぱり、神様とご主人への反逆行為であると認識していたのであり、冤罪からの獄中においても、神様の御手、祝福を体験したのであり、エジプト王パロに仕える、献酌官長、調理官長の夢の解き明かしの際にも、エジプト王パロの夢の解き明かしの際にも、夢の解き明かしは神様がなさる事だと断言し、自分の手柄とする事は、一切なく、また、利用しようとする事も一切なかったのです。

機転の利くヨセフですから、権力を掌握しているヨセフですから、上手く立ち回り、事態を意のままの方向に誘導させそうなところですが、また、何をしても、神様が祝福してくださるのですから、思いのままに行動しそうなところですが、ヨセフは一切、主体的には動かなかったのです。

冤罪に遭っても、主人に対して、積極的な弁明を行おうとはせず、エジプト王国宰相の地位に就いても、仕返しをしなかったのです。

献酌官長、調理官長への、助命嘆願も、実に簡素、冷静なものであり、エジプト王国宰相の地位に就いても、忘れていた事を、恨みはしなかったのです。

冤罪の件でも、助命嘆願の件でも、チャンスが巡って来ても、主体的に動こうとはせず、常に、神様の手足として自覚し、行動していたのです。

ヨセフの姿は、神様に対する信頼の姿であり、積極的な服従の姿であり、決して懐疑的、消極的ではなかったのです。

しかし、この感覚を持つ事は、簡単な事ではありません。

「これらの事は神の摂理です」との判断は、非常に難しい事です。

常に、神様の主権と支配、ご計画と摂理を意識し、完全な信頼と服従がなければ、なし得ない事です。

逆に、神様の摂理と云う事に誘導し、自己実現を図るのではないでしょうか。

好き勝手な事をやって、御こころだから、障害がなかった、と嘯(うそぶ)いてはいないでしょうか。

事が進むのは、御こころだ、と思い込んではいないでしょうか。

神様の御名を利用、悪用してはいないでしょうか。

今している事が、これからしようとしている事が、或いは、過去にした事が、神様の御こころか否かの判断は、神様のご計画か否かの見極めは、神様の摂理か否かの判定は、神様との深い、密な、絶え間ない交わりがあってこそです。

人生の重要な決断に際して、障害がないから御こころ、との判断は間違っています。

逆に、障害が、問題が起こるから、御こころではない、との判断も間違っています。

御こころは聖書に記され、十戒に記されています。

或いは、洗礼式、転入会式、任職式などの、聖礼典での誓約、勧告に現されています。

神様から、聖書と説教を通して、生き方、信仰生活、働き、などを教えられるのであり、神様と誓約を交わし、勧告に応答したのです。

コリント人への手紙第二614節「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」であり、

洗礼の誓約(式文p34)、「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」

「あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか」「あなたは、自分の最善を尽くして、教会の礼拝を守り、教会員としての務めを果たし、あかしの生活をすることを願いますか」「あなたは日本同盟基督教団の教憲・教規、および椎名町教会の規則に従い、その純潔と一致と平和のためにつとめることを約束しますか」

結婚の誓約(式文p128)「あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか」「あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病いの時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか」

勧告(式文p94)、「あなたがたが選んだこの愛する教師は、あなたがたの牧師として、主から遣わされました。心から感謝し、喜びと敬意をもって、受け入れることを約束しますか」「謙遜をもって聞き従い、牧師に与えられている重大な責任のために祈り、支持し、助けることを約束しますか」

他にもたくさんありますが、聖書の御ことばや、聖礼典の誓約や、勧告を思い出し、これらに反する行為は、神様の摂理に反する事であり、神様の主権を侵す事と心得なければなりません。

聖書や説教の教えに忠実に従い、誓約や勧告を誠実に守る事で、「これらの事は神の摂理です」と確信出来るのであり、逆ではないのです。

ここにおられる皆様が、聖書や説教の教えに忠実に従い、誓約や勧告を誠実に守り、神様の栄光を現される事を願ってやみません。

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聖書箇所:創世記4418節から34節              2018-4-22礼拝

説教題:ユダの犠牲的とりなし~身代わりの申し出~

【導入】

昨今、パワハラ、セクハラが話題になっていますが、法が整備され、人権が確立し、権利が最大限尊重されるようになって行くと、過去には問題にされなかった事も、問題視されるようになります。

暴言は勿論ですが、皮肉や嫌みも、パワハラと判断され、ボディータッチや猥談は勿論ですが、冗談や他愛のない一言だと言い張っても、セクハラと判断され得るのです。

犯罪においても、過去には、人権を無視した取り調べが行われ、自白が重要視された時代には、拷問による自白の強要が後を絶たなかったようです。

現在では、裁判で確定するまでは、人権は守られ、不当な取り調べや、強要された自白は証拠として採用され得ません。

状況証拠だけでは、裁判にかけませんし、法的な手続きを経ていない証拠は、証拠としての価値が認められません。

法に則っての捜査でなければならず、取り調べでなければならず、法に則って得た証拠でなければ、証拠にはならないのです。

今回の、ベニヤミンの持ち物の中から見つかった、ヨセフの銀の杯ですが、盗んだ現場で逮捕したならば別ですが、また、事件とは利害関係のない目撃者がいるなら別ですが、ベニヤミンの持ち物の中から見つかったから、即ち、ベニヤミンが盗んだ、と判断するのは早計です。

当然、兄弟皆は、ベニヤミンの弁護をし、誰かの仕組んだ悪企みに違いない、と無罪を主張するところでしょうが、一切の弁解をいたしません。

それは、ベニヤミンの無罪を確信してはいても、それを証明する術がなく、また、前回、全員の穀物の袋から、支払った筈の代金の銀が見つかった事と云い、今回も、全員の穀物の袋から、支払った筈の代金の銀が見つかっているのであり、人智を越えた、不思議な力が働いているのを目撃し、体験したからです。

4412節で「神がしもべどもの咎をあばかれたのです」と告白した通りであり、神様が、咎を暴き、裁きをなさったと、確信したからでしょう。

こんな、予想だにしない状況になってしまいましたが、父ヤコブは、4314節で「私も、失うときには、失うのだ」と独白しているのであり、父ヤコブは、最悪の事態を覚悟したのですから、兄弟たちは、ベニヤミンを残して帰る事も出来たのですが、だからと云って、父ヤコブの許には帰れません。

神様の裁きには、服するしかないからであり、16節で連帯責任を申し出ているからです。

更に、ユダは、ヨセフの事ではルベンの忠告を無視し、主導的に立ち回ったからであり、その結果、今に至っているのであり、父ヤコブに、ベニヤミンの身の安全を保証しているのですから、責任を痛感し、ベニヤミンを伴わずして、父ヤコブの許に帰る訳にはまいりません。

【本論】

44:18 すると、ユダが彼に近づいて言った。「あなたさま。どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。そして、どうかしもべを激しくお怒りにならないでください。あなたはパロのようなお方なのですから。

ユダは、激しく怒るエジプト宰相の前に進み出て、切々と、率直に、誠実に、事実を、状況をそのまま訴えますが、それは、他に方法がないからです。

弟を救い出し、父ヤコブに、これ以上の心の苦痛を与えまい、との動機の純粋さからであり、力強く、しかし、感情を抑えて、無駄な言葉を、全く用いず、しかし、言うべき事を残さず、余さず、しかも、間者の嫌疑をかけられた事、スパイ扱いされた事には一度も、一切触れずに、細心の注意を払って、エジプト宰相に呼びかけ、語りかけます。

この「あなたさま」との呼びかけの言葉ですが、新共同訳聖書は「御主君様」と訳し、口語訳聖書は「わが主」と訳し、新改訳2017は「ご主人様」「あなた様」と訳し使い別けていますが、この呼びかけの言葉は、34節までに6回も出て来ます。

最上級の呼びかけの言葉であり、ヨセフの夢が実現している事を、聖書は、このような形でも、記しているのです。

パロのようなお方」との表現は、比類なき、絶大な権力を持ちつつも、人の訴えを聴く度量と、正しく裁く正義とを持ち、憐れみに富む、情け深いお方、寛大な、寛容なお方であるとの、賛辞なのです。

44:19 あなたさまは、しもべどもに、あなたがたに父や弟があるかとお尋ねになりました。

実際は、尋ねられて、ではなく、間者の疑いをかけられたために、スパイの嫌疑を晴らすために、自発的に、家族構成を詳細に語ったのですが、その時の状況を詳細に申し述べます。

20節からの、ユダの言葉は、単なる命乞いのための、赦してもらうための弁明、釈明ではありません。

先の時に話した、父ヤコブと、ベニヤミンとの関係を思い出してもらうためであり、父ヤコブと、ベニヤミンが、決して離れ離れにはなれない事を説明した事を思い出してもらうための言葉です。

44:20 それで、私たちはあなたさまに、『私たちには年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。そしてその兄は死にました。彼だけがその母に残されましたので、父は彼を愛しています』と申し上げました。

44:21 するとあなたは、しもべどもに、『彼を私のところに連れて来い。私はこの目で彼を見たい』と言われました。

44:22 それで、私たちはあなたさまに、『その子は父親と離れることはできません。父親と離れたら、父親は死ぬでしょう』と申し上げました。

44:23 しかし、あなたはしもべどもに言われました。『末の弟といっしょに下って来なければ、二度とあなたがたは私の顔を見ることはできない。』

ユダとエジプト宰相との間には、通訳が入っているのですから、ユダの言った言葉が、エジプト宰相に正しく伝わったかどうか、真意が伝わったかどうか、理解してもらえたかどうか、心配で、いたたまれなかった事でしょう。

しかし、ここまでは、エジプト宰相も知っている事であり、確認の意味ですが、続くユダの言葉は、エジプト宰相にとって、新たな情報であり、ユダは、経緯を切々と話し始めます。

44:24 それで、私たちは、あなたのしもべである私の父のもとに帰ったとき、父にあなたさまのおことばを伝えました。

44:25 それから私たちの父が、『また行って、われわれのために少し食糧を買って来てくれ』と言ったので、

44:26 私たちは、『私たちは下って行くことはできません。もし、末の弟が私たちといっしょなら、私たちは下って行きます。というのは、末の弟といっしょでなければあの方のお顔を見ることはできないのです』と答えました。

44:27 すると、あなたのしもべである私の父が言いました。『あなたがたも知っているように、私の妻はふたりの子を産んだ。

44:28 そしてひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまったのだ、と私は言った。そして、それ以来、今まで私は彼を見ない。

44:29 あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子にわざわいが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を、苦しみながらよみに下らせることになるのだ。』

44:30 私が今、あなたのしもべである私の父のもとへ帰ったとき、あの子が私たちといっしょにいなかったら、父のいのちは彼のいのちにかかっているのですから、

44:31 あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべであるしらが頭の私たちの父を、悲しみながら、よみに下らせることになります。

ユダは、エジプト宰相に、ヤコブの、ベニヤミンへの愛情深さと、それ故に、ヤコブと、ベニヤミンを引き離す事が、如何に難しい事かを、切々と語ります。

今回、ベニヤミンを連れて来る事が出来ましたが、簡単ではなかった事、ベニヤミンを失う事は、父ヤコブを失う事になると、訴えるのです。

27節のヤコブの言葉、「私の妻」が、ラケルの事を言っているのは明らかですが、ラケルはヤコブに、殊の外、深く愛されながらも、長生きは出来ませんでした。

その原因の一つとして、ラケルが、父ラバンの大切にしていた守り神を盗んだ事が挙げられましょう。

ラケルが盗んだ事を知らずにいたヤコブは、盗んだ者への呪いを宣言したのであり、根拠のない不用意な発言、気負っての発言の功罪を、深く考えなければなりません。

どんな形であれ、内容であれ、状況であれ、宣言は宣言であり、遵守されなければなりません。

宣言や誓約は、誠実に守らなければなりません。

不利益を被る事になってもです。

不用意な発言は、大きな損失に、掛け替えのないモノを失う事になり得ますから、慎重さが求められるのではないでしょうか。

また、不用意な発言は、気が付いた時点で、即座に、はっきりと謝罪し、修正、訂正すべきです。

いい加減、有耶無耶は、禍根を残す事になりかねないからです。

さて、ユダは、父ヤコブに、ベニヤミンの身の保護を確約しましたが、約束した時点で、こんな事になるとは、夢にも思わなかった事でしょう。

間者の疑い、スパイの嫌疑どころの話ではありません。

最悪の事態になってしまったのですが、しかし、父ヤコブとの約束がありますから、また、連帯責任を申し出たのですから、事態を好転させるために、最大限の努力、工夫をしなければならないのです。

続く、28節のヤコブの言葉、「そしてひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまったのだ、と私は言った。そして、それ以来、今まで私は彼を見ない」が、ヨセフの事を言っている事は明らかであり、「確かに裂き殺されてしまった」に違いないと、自分を納得させようとしてはいますが、「それ以来、今まで私は彼を見ない」と、まだまだヨセフを諦めていない事も、独白しているのです。

ヨセフとベニヤミンは、愛妻ラケルの忘れ形見であり、若くして死んだラケルへの愛情が、ヨセフに転嫁され、ラケルとヨセフへの愛情が、ベニヤミンに転嫁されているのですから、ベニヤミンに対する愛情が、溺愛、寵愛のレベルを遥かに超えた、異常とも言える執着を生み出すに至ったのです。

こんなに愛されていたラケルは、ヨセフは、ベニヤミンは本当に幸せ者ですが、人は必ず死ぬ者であり、異常な愛情は、或いは執着は、生き辛くしてしまうのではないでしょうか。

決して、薄情な生き方を奨励しているのではありませんが、度を越した愛情は、逆に深い憎しみも益をもたらしません。

箴言1430節に「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」と記されています。

激情は、骨を蝕むのであり、喜びも怒りも、哀しみも楽しみも、程々に、が肝要なのです。

喜怒哀楽においての、感情のコントロールは、心と身体の健康の素なのです。

過ぎた事に対して、何時までも悔やんでも、ぐだぐだと悩んでも取り返す事は出来ません。

同じ過ちを繰り返さないために、検証や反省こそ重要、旨とすべきでしょう。

ヤコブは、ラケルやヨセフを失った事で、大きな喪失感を味わった事で、妻たちへの接し方、子どもたちへの接し方、家族との関わり方を考え直すチャンスが与えられたのであり、直接には、ベニヤミンへの接し方を変えるべきでした。

しかし、ヤコブは、ラケルとヨセフを諦め切れずに、ラケルとヨセフへの愛情を、ベニヤミンに注いだのであり、ベニヤミンに依存する事になってしまったのであり、自ら問題と不幸を背負ってしまったのです。

そして、今に至っても、ヨセフを諦めてはいないのであり、ヨセフは、何処かに生きているのではないか、と絶望の思いに抵抗し、積極的な思いではないにしても、僅かながらでも、密かに希望を持ち、平安の無い毎日を、骨を蝕む毎日を送っていたのです。

親として、我が子を何時までも心配するのは、親心であり、当然ですが、死んだ者は諦めねばならず、前を向いて、歩き出さなければならないのです

そして、ここから、ユダの大胆な提案が、犠牲的な提案が、身代わりの提案が語られ始まります。

44:32 というのは、このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります』と言って、あの子の保証をしているのです。

44:33 ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。

44:34 あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

嘗て、ユダは、ルベンの忠告に従わず、積極的に立ち回り、ユダの一言で、ユダの提案で、ヨセフは奴隷として売られました。

今回、ユダは、父ヤコブとの約束を背景として、自身を奴隷とする提案をするのです。

この「あの子の代わりに、私を奴隷としてください」との提案は、エジプト宰相の哀れみを求めての提案ではなく、ベニヤミンに代わって、苦しみを受けるための、残留の申し出です。

ユダは、父ヤコブとの約束を実行したのであり、ユダは、身代わりの苦しみに、敢えて、自ら、飛び込む、引き受ける存在に変えられたのです。

ユダは、犠牲を引受ける者に変わったのであり、十人の兄弟を代表して、十人の兄弟の身代わりを申し出たのです。

父ヤコブとの約束を、誰かに押し付けるのでもなく、エジプト宰相の慈悲を求めるのでもなく、自身を差し出したのです。

過去のユダは、気に入らない者を、亡き者にしようとし、肉親を売り飛ばす、非情な者であり、旅先で神殿娼婦、遊女を買うような、俗悪さ、低俗さの持ち主でしたが、今は、他者のために、命を差し出し、身代わりを申し出る崇高さを持つ者となったのであり、やがては、イスラエル王国の祖であるダビデを輩出し、救い主イエス様を生み出す氏族へとつながる、歴史的な出発点に立ったのです。

【適応】

共同謀議に関わった者が、連帯責任を取るのは、当然の事であり、名乗りを挙げても、懲罰の引き受けを申し出ても、褒められもせず、自慢にもなりませんが、共同謀議には無関係なのに、他人の責任を負う、と云うのは、なかなか出来る事ではありません。

勿論、親が、我が子のために身代わりを申し出る、と云う事はあるでしょうし、世の中には奇特な方が、数は少なくとも存在する事を否定しませんが、奴隷の身分は、主人の意のままであり、何の保証も、保護も、権利も、未来の希望もありません。

囚人は、刑期が満了すれば、開放されますが、奴隷は、死ぬまでこき使われ、自由な行動は一切出来ないのです。

囚人は、自分で蒔いた種の結果ですから、受け入れるしかありませんが、自から進んで、好き好んで奴隷になる人はいません。

しかし、ユダは、自ら進んで、父ヤコブにベニヤミンの身柄を保証したのであり、エジプト宰相に対して、身代わりを申し出たのです。

ユダは十人兄弟の四番目であり、長男のルベン、次男のシメオン、三男のレビが立ち上がって、身代わりを買って出てもよさそうなものですが、誰よりも先に、ユダが立ち上がり、進み出たのです。

罪の刑罰を受ける謂れの無い者が、進んで罪の刑罰を受けたのであり、これは、イエス様の贖罪の予表です。

イエス様は、全く罪や咎のないお方であり、刑罰を受ける謂れはありません。

しかし、イエス様は、人間の受けるべき刑罰を、自ら進んで受けられたのであり、ユダの場合のような、神様が咎を暴かれ、ある意味、受けるべき当然の刑罰と考えられるのとでは、雲泥の差です。

ヨハネの福音書1513節「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません

このイエス様の教え、お勧めは、皆様よく知っていらっしゃると聖句だと思います。

」と訳されているギリシャ語は、字義通りには「愛する者たち」「親愛な者たち」「親しい者たち」の意味ですが、イエス様が語られる以上、イエス様から見ての、神様から見ての「愛する者たち」「親愛な者たち」「親しい者たち」であり、罪人を含む、敵対する者をも含む、全人類を意味しているのであり、イエス様の教え、お勧めを、完全な形で行える人は一人もいません。

なし得るのは、イエス様だけですが、少なくとも、意識だけは、持っていたいものですし、斯くあるようにと、祈る事が大切です。

出発点は、動機は、父を悲しませないために、弟に辛く当たった過去の咎を、少しでも軽減させるために、の意識であったとしても、神様のお取り扱いを受けて、父の寵愛を一身に受けているベニヤミンのために、他の兄弟のために、一番、損な役回りを、いの一番に、引き受け出るに至ったのです。

家族を守り、兄弟を守るために、身を差し出す事は、それはそれで素晴らしい事ですが、ユダの犠牲の教える意味は、そんな単純な事では、薄っぺらな事ではありません。

ユダ本人は気付いていませんが、イスラエル民族を守るためであり、救い主の血筋を守るためであり、世界を祝福する働きを担う道に、踏み出したのであり、犠牲的な愛を、無条件の愛を、具体的に示した事なのです。

教会に置き換えるならば、仲良くするとか、助け合うとか、知り合い、身内のための弁護、庇い合い、とりなし、なども大切ですが、教会は、人間中心の場、お互いを褒め合い、称え合う場、人を尊敬し、人を目標とする場、などではありません。

関係する人や、団体への関わり、などと云う、ちっちゃい、低い次元で右往左往するのではなく、親子の関係、親族の関係、友人・知人の関係を超えて、それらを捨てて、神様に従い、神様のために犠牲を払わなければ、教会のために我が命、一番大切なモノをも捨てなければならないのです。

マタイの福音書1929節「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」、

と記されている通りです。

何が教会の徳を高め、何が教会の純潔を守る事かを、常に念頭に置いて、行動しなけれ

ばなりません。

教会の徳を高め、教会の純潔を守るための犠牲は、何にも換えがたい貴重な事です。

イエス様が教会のために、犠牲を払い、プライドを捨て、恥を引き受けられたように、私たちも、教会のために、犠牲を払うべきであり、教会のために、プライドを捨てるべきであり、教会のために、恥を引き受けるべきです。

しかも、人を巻き込んだり、人に勧めたりするのではなく、自らが立ち上がり、自らが使命を引き受ける事です。

そんな、教会のために生きる事が、真の意味で、人を助け、人と仲良く出来るに至るのです。

ここにおられる皆様が、教会のために、イエス様のために、神様のために、プライドを捨て、恥を引き受け、犠牲を申し出る群れとなる事を願ってやみません。

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聖書箇所:ヨハネの福音書1237節~43節           2018-4-15礼拝

説教題:イザヤの預言

【導入】

12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

ヨハネは読者に対して「イエス様が、多くのしるしを行なわれた」と語りかけていますが、ヨハネの福音書の11節から、今日のテキストの1237節までに、イエス様が公に行なわれた奇蹟は6つしか記されていません。

第一は2章に記されている、カナの婚礼での、井戸水を高級な葡萄酒に変えた奇蹟です。

第二は4章に記されている、死にかかっていた王室の役人の息子の癒しです。

第三は5章に記されている、38年も病に苦しみ、ベテスダの池の側に伏せっていた病人の癒しです。

第四は6章に記されている、五つのパンと二匹の魚で5000人の空腹を満たした給食の奇蹟です。

第五は9章に記されている、生まれつき目の見えない人の目を見えるようになさった奇蹟です。

そして第六は11章に記されている、死んで三日も経っているラザロの甦りの奇蹟です。

ヨハネは以上の六つしか記していませんが、更に多くの奇蹟が行なわれたのであり、それはマタイ、マルコ、ルカの福音書に記されている通り、重い皮膚病の人の癒しであったり、喋る事、見る事、聞く事の出来ない人の癒しであったり、歩けない人の癒しであったり、手の萎えた人の癒しであったりしたのですが、それらの奇蹟は、奇蹟を行なわれたお方がどなたであるかを指し示す奇蹟であり、そのお方が神から遣わされたお方、神そのものである事を指し示していたのではないでしょうか。

世の中には不思議な事をする人は数多く存在しますが、それは手品、マジックであり、種があり、仕掛けがあり、テクニックで人の目を欺いているだけのものであり、種と仕掛けが明かされれば、その巧妙さに驚きはしますが、決して奇蹟ではない事が明かにされましょう。

しかし、イエス様の行なわれたしるしは手品でもなければマジックでもありません。

種も仕掛けもない、正真正銘の奇蹟であり、誰も真似の出来ない奇蹟なのです。

聖書には預言者が登場し、天から火を降らせて、生贄を焼き尽くしたり、王様に遣わされた兵隊を焼き滅ぼしたりしましたが、預言者はその奇蹟を用いて、預言者である事を証ししましたが、決して自らが神の子であるとは言いませんでした。

しかし、イエス様の行なわれたしるしは、証拠としての奇蹟であり、何のための証拠であるかと言えば、神の子である証拠としての奇蹟であるという事なのです。

疑う余地のない奇蹟であるのに、しるしを通して、ご自分が神の子であると証言され、その証言が嘘でない事を明かされたのですが、人々は、群集はイエス様を神の子であるとは認めようとしなかったのです。

【本論】

12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

ヨハネが引用したイザヤの預言は、イザヤ書531節に記されています。

53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

ここでヨハネがイザヤ書531節を引用したのは、ユダヤ人がイエス様のなされたしるしを信じない事だけを読者に伝えたいがためなのではありません。

今までに何回か確認したように、ユダヤ人は聖書、現代の私たちが手にしているところの旧約聖書を、驚くほど広く、深く、正確に諳んじており、続く2節以降は記す必要もなく、黙っていても思い浮かべたに違いありません。即ち

53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

以降は省略しますが、531節を引用したのは、即ち、ユダヤ人は、神様の遣わしたもうお方を信じないだけではなく、拒否する事、蔑すむ事、虐げる事と、そのお方がユダヤ人の罪の贖い、罪過の生贄となられる事の預言をも、このヨハネの福音書の読者が想起するであろう事を想定して531節だけを記しているのです。

12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。

12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」

40節でヨハネが引用したイザヤの預言はイザヤ書69節から10節に記されている事の要約です。正確には、

6:9 行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。

このイザヤ書6910節の預言は、マタイの福音書13章でも、マルコの福音書4章でも、ルカの福音書4章でも、ローマ人への手紙11章でも、コリント人への手紙第二3章でも繰り返し引用されています。

それ程、重要な訳ですが、それはユダヤ人の頑なさの表明であり、同時に神様のユダヤ人に対する関心の強さの現われでもあるのです。

ユダヤ人はイザヤがどの様な状況でイザヤ書を記したか、53章或いは6章を記したかを、説明を受けるまでもなく知っていますが、私たちは、聖書の記述の裏側を知らなければ、調べなければなりません。

ヨハネが引用したイザヤ書の様に、否定的な預言の引用の理解には注意、解説が必要です。

イザヤは神様のことばを宣教していました。

イザヤは自分の持っているもの全てを説教に投入していました。

イザヤは自分の持つ、あらゆる力、あらゆる知恵、あらゆる経験、あらゆる説得力、生活の全てを傾けて、神様のことばをユダヤ人に語ったのです。

イザヤの預言者としての活動の期間は、凡そ50年です。

50年も心血を注ぎ、大きな犠牲を払って語り続けたのです。

しかし、ユダヤ人は耳を傾けようとはしなかったのです。

理解してくれないユダヤ人にイザヤはどれ程深く絶望した事でしょうか。

頑張れば頑張る程、語れば語る程、ユダヤ人は神様に背を向け、自分勝手な生き方を変えようともせず、益々頑なになって行く。

これでは、まるで神様はユダヤ人が神様を信じないように、赦され救われないようにしているとしか思えない。

しかし、決して、そうではありません。

神様が本当にユダヤ人を見捨てているならば、預言者イザヤを遣わす事はありません。

当時ユダヤ地方一帯を支配していたアッシリヤ帝国を用いて滅ぼせばそれでお終いです。

しかし、神様はユダヤ人を滅ぼす事を望んではおられず、聞いて欲しい、悟って欲しい、見て欲しい、知って欲しい、立ち返って欲しい、癒されて欲しいからこそ、イザヤを遣わしたのであり、イザヤに逆説的なことばを語らせたのです。

イザヤを遣わしたのは、厳しいことばを語らせて、厳しさの中に込められた神様の愛を知って欲しいがためなのです。

イザヤが語った当時のユダヤ人の頑なさを、イエス様の時代のユダヤ人は何と見ていたのでしょうか。

イエス様の時代のユダヤ人はきっと思った事でしょう。

「私たちがイザヤの時代に生きていたなら、イザヤの語ったことばを聞いて悔い改めたであろう。

そしてアッシリヤに滅ぼされる事なく、バビロンに滅ぼされる事もなく、ローマ帝国に支配される事にもならなかっただろう」と。

しかし、当事者となると客観的には見られないものであり、イザヤより勝れた預言者、神そのものであるイエス様の奇蹟を見、ことばを聞いても、悟る事もなく、神様に立ち返る事もなかったのであり、イザヤの時代のユダヤ人よりも悪質であって、イエス様を信ぜず、受け入れないばかりか、排除、抹殺する決断をするに至るのです。

12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

イザヤは紀元前720年ごろ活躍した預言者ですが、イザヤ書65節に「万軍の主である王を、この目で見た」と記しています。

「万軍の主である王」即ちイエス様を見たイザヤは、このイエス様の事をイザヤの時代のユダヤ人に語らざるを得なかったので、聞かなくても、頑なでも語ったのです。

そして、そのイザヤの語りかけは時を隔てて、イエス様の時代の頑なな、聞こうとしないユダヤ人にも語られたのです。

イザヤはイエス様の前触れであり、イザヤの時代のユダヤ人がイザヤのことばを聞かなかった様に、イエス様の時代にもユダヤ人はイエス様の言葉を聞かなかったのであり、歴史は繰り返すのです。

12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。

12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。

多くの指導者、即ち祭司、律法学者、パリサイ人らが強硬にイエス様に反対し、群集はイエス様の奇蹟を見ても、ことばを聞いても、その頑なな心を変えようとはしませんでしたが、神様のことばが何の働きもしないで、空しく消えて行く事はありません。

水に石を投げ入れれば、波紋が広がり、水に浮いている木の葉を揺らすように、イエス様の行なわれた奇蹟、語られたことばは、人々の心に何かしらの影響を与えました。

指導者と呼ばれる人とは、宗教的指導者の事であり、祭司、律法学者、パリサイ人たちの事です。

彼らは聖書に通じていましたから、聖書を調べるまでもなく、イエス様が普通の預言者ではなく、特殊な存在で或る事に気が付かない筈がありません。

しかし、気が付いても、どの様に理解し、反応を、応答をするかは別問題でしょう。

特別な預言者、神の子と理解するか、サタンの使い、人々を惑わす者と理解するか。

知らぬ振りをするか、積極的に関るか。

弟子となるか、強硬に反対するか。

そして人は建前と本音を使い分ける事の出来る生き物ですから、心ではイエス様を神様の遣わしたもうた預言者、神の子と思ってはいても、それを表明するのに躊躇を覚える人々も少なからず、否、大勢いたのでした。

その躊躇の理由をヨハネは2つ挙げています。

即ち「会堂から追放されないため」「人からの栄誉を愛したから」である、と言うのです。

先ず「会堂から追放されないため」と云う理由ですが、「追放」は「除名」とも訳せることばであり、この処置は一番厳しい処置と言っても過言ではなく、単に礼拝堂への出入り禁止、と云うようなものではなく、ユダヤ社会からの追放、一切の宗教行事に関れなくなる事を意味します。

宗教行事に関れなくても、それの何が大変なの?とお思いになるかも知れませんが、宗教行事とは、罪の贖いに関する事であり、聖めに関する事であり、宗教行事を行なえない事は即ち、罪の贖いが出来ず、聖くされ得ず、死んで後に天国に入れない事を意味する事であり、ユダヤ人にとって死よりも何よりも恐ろしい事なのです。

日本でも昔「村八分」と云う処罰がありましたが、それでも火事と葬式だけは処罰の対象外でした。

しかし、ユダヤ社会では「追放」は神様との関係を断たれるのであり、死刑判決以上に恐ろしい処罰であり、地獄行きを決定されたに等しい処置なのです。

その決定権を持つのがパリサイ人であったので、パリサイ人に睨まれる事を何よりも恐れたわけなのです。

続く「人からの栄誉を愛したから」と云う理由は、私たちにも理解出来る理由ではないでしょうか。

日本人は特に他人の評価を気にする人種かも知れません。

「隣組」と云う制度で、相互監視をさせ、「連帯責任」と云う仕組みで、それを徹底的に教え込まれた歴史を持っています。

指導者たちにとっては、人に悪く思われたくない、と思う以上に、人に認められたい、誉められたい、尊敬されたい、と云う思いが強かったのですが、認められたい、誉められたい、尊敬されたい、と思うのが悪いと云うのではなく、神様に認められたい、誉められたい、用いられたい、と思い、そのように行動するのが、宗教指導者の本分であって、人の評価を気にして、神様の評価よりも重要視するのは問題だ、と云う事なのです。

宗教指導者と言っても罪人であり、誉められない部分もあったでしょうし、尊敬出来ない部分もあったでしょうが、ここぞと云う所で、神様の側に立って判断、決断出来るかが問われるのであり、人の目を気にして判断を変えたり、本意を偽った決断、告白であってはならないのです。

人に対して忖度してはならず、神様に対して忖度を働かせるのが、宗教指導者の本分なのです。

【適応】

以前、確認したように、キリスト教はイエス様に対する「信仰」のみ、が重要である事を皆様は十分承知しておられる事と思いますが、「告白」が重要である事もまた真理です。

心でどんなに思っていても、告白しなければ意味をなしません。

黙っていては、伝わらないばかりか、拒絶したと思われても仕方がありません。

ヨハネがイザヤの預言を引用したのは、決して新しい教えをもって、群集の、指導者の悔い改めを促したのではなく、古くから伝えられている教え、ユダヤ人なら誰もが知っている聖書を通して、イエス様がイザヤの預言した贖い主、罪からの聖め主である事を告白するように勧めているのです。

神様はユダヤ人が、頑なな心を捨てて、真理を認め、告白する事を願って、イザヤを遣わし、また、イエス様を遣わしてくださったのです。

「会堂」と云う立派な施設があり「祭司、律法学者、パリサイ人」と云う働き人が置かれていても、神様に目を向けていなければ、施設は強盗の巣と同然であり、有能な働き人も烏合の集、人々の躓きでしかないのです。

形式だけは立派で、組織立ってはいても、神様のために機能していなければ無用の存在であるばかりでなく、神様の働きを阻害するもの、神様に弓引くものとなってしまうのです。

現代の私たちには「聖書」が与えられ、誰もが、何時でも、何処でも、自由に読む事が出来ます。

数は少ないかも知れませんが、各地に「教会」が建てられ、毎週「説教」が語られています。

イエス様の時代の会堂、イザヤの時代以前の神殿とは比較にならないほど、日本の教会は小さく、みすぼらしく、人々に認知されてはおらず、イエス様の時代の宗教指導者、イザヤの時代の預言者とは比較にならないほど、日本の牧師は尊敬もされず、権威もなく、どちらも社会的な影響力もありませんが、神様が建てられた教会であり、神様が遣わしたもう牧師ですから、教会でみことばが語られ、牧師がみことばを取り次いでいる間に、神様の裁きが下る前に、みことばを聞き、悔い改め、告白しようではありませんか。

イエス様の時代のように、イザヤの時代のように、預言者の言葉を聞かない頑なな群集、指導者であってはなりません。

イエス様の時代の人々は、イザヤの時代の人々は「聖書」は信じるけれども、神様のみこころを取り次ぐ「預言者の語ることば」は信じない人々でした。

現代人にもそのような傾向が見られましょう。

聞いて欲しい、悟って欲しい、見て欲しい、知って欲しい、立ち返って欲しい、癒されて欲しいからこそ、記された聖書であり、遣わされた牧師ですから、イザヤの預言を聞かず、イエス様の業を拒否したユダヤ人のような頑なな心であってはならず、柔らかい心で日々聖書を読み、毎週説教を聞いて、神様の救いに与ろうではありませんか。

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聖書個所:創世記441節~17節             2018-4-8礼拝

説教題:兄弟たちへの奸計 企み

【導入】

2018年も4月、新年度に入り、入社式が行われ、これから入学式も行われるようです。

この時期は、桜の花の満開の季節であり、桜といえば、お花見と、宴会が付き物のようであり、陽気な、和気藹々とした宴会は、見ていても楽しくなるのではないでしょうか。

ヨセフと、ヨセフの兄弟たちとの宴会は、本当に楽しい一時だったのではないでしょうか。

あの、厳しい嫌疑は、間者、スパイの嫌疑は、何処へ行ったのか、何だったのか、と訝るような、親しい、信頼の置ける者同士が行うような宴会が行なわれたのです。

ヨセフはまだ正体を明かしてはいませんが、また、身分の違い、言葉の壁も存在しましたが、正体も、その身分の違いも忘れさせるような、親しい宴会が行なわれたのです。

緊張が緩み、旅の疲れもあいまって、すっかり酔いごこちになり、夜を明かしてしまい、朝を迎え、帰路につく事になってしまい、新たな場面、ヨセフが仕掛けた、ヨセフの兄弟たちへの試みの幕開けです。

この試みは、「和解のための備え」として、見る必要があります。

兄弟たちに仕掛けた奸計、企(くわだ)ては、水戸黄門の印籠のように、恐れ入らすためではなく、ヨセフに対して行った悪に対する、謝罪要求のためでも、積年の鬱憤を晴らすためでもありません。

兄弟間のみならず、誰に対しても、羨(うらや)みや、妬(ねた)み、やっかみなどを持つ時、それらは何の益ももたらさないどころか、憎しみや不和に発展し、殺意や分裂を引き起こし、滅亡する事を知って欲しいからであり、考え方、生き方を変えて欲しいからであり、どんな時にも、兄弟は、家族は、一致協力して行く関係である事を知って欲しいからです。

過去のわだかまりを捨て、和解し、協力して行かなければ、罪の満ちるこの世で、神様に従い、神様に仕え、神様の栄光を現す事は出来ないのです。

ヨセフの知る兄たちは、父ヤコブに原因の一端があるとは言え、羨(うらや)みや、妬(ねた)みの塊でした。

父ヤコブの寵愛を受けているベニヤミンは、嘗てのヨセフの立場にあり、ベニヤミンを窮地に陥れる事で、兄たちがどのように振舞うかを見る事が出来、兄たちの心の中を伺い知る事が出来ます。

そこで、ヨセフは、兄たちに奸計、企(たくら)みを仕掛け、兄たちが、兄弟のためにどのような言動をとるのか、犠牲を払えるのか、自分の命さえも差し出せるのかを試すのです。

【本論】

44:1 さて、ヨセフは家の管理者に命じて言った。「あの人々の袋を彼らに運べるだけの食糧で満たし、おのおのの銀を彼らの袋の口に入れておけ。

44:2 また、私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」彼はヨセフの言いつけどおりにした。

2節の「杯、あの銀の杯」は、食器としても用いられますが、占い、即ち、祭儀にも用いられる器と考えられ、「杯」と云うよりも、「鉢」のような、茶道で用いる「椀」に近い形状の物と考えられます。

なみなみと注いで、回し飲みをしたのかも、宴席に連なる者たちと、一体感を感じさせるための演出に必要な、貴重な、最適な器として用いられたのかも知れません。

この「杯、あの銀の杯」が占い、即ち、祭儀でも用いられていた、となると問題です。

「占い」も「祭儀」も、国家的な政(まつりごと)に深く関わっており、「」を盗む事は、単なる窃盗ではなく、破損や紛失は、過失で済まされず、国家に対する犯罪、失態と見做され、処罰は相当に厳しく、死罪になる事もあったのです。

エジプト高官にとって、「」はとても大切、貴重な器なのであり、その大切、貴重な器を接待に用いる事で、大歓迎している事を印象付け、示しているのです。

44:3 明け方、人々はろばといっしょに送り出された。

ヨセフの兄弟たちは、間者、スパイの嫌疑が話題にもならない事に、何の咎めもない事に、心底、安堵したのではないでしょうか。

無事に、人質、シメオンを返してもらえたのであり、ヤコブ一族が、飢饉を乗り越えるために必要な、穀物を買う事が出来たのです。

これからも、自由にエジプトに出入りする事が保障されたのであり、全てが順調に運んだ事を喜びながら、帰路についた事でしょう。

44:4 彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家の管理者に言った。「さあ、あの人々のあとを追え。追いついたら彼らに、『なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか。

この「」は、ヨセフの家での、過剰とも云える接待、大歓迎であり、無罪放免の処置であり、穀物の袋の口に入っていた、穀物の代金の事でしょう。

ヨセフの家の管理者は、「あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません」と言いましたが、この言葉の意味は、「神様が働かれて、誰かに憐れみの心を起こし、誰かに入れさせた」、のであり、その誰かの善意を踏み躙る行為をしていると、問い詰めているのです。

親切を受けた、もてなしを受けた時の、聖書の教えは、お返しをする事ではありません。

別の誰かに、親切にする事、別の誰かを、もてなす事です。

(えん)も縁(ゆかり)もなくても、困っている人を助ける事であり、時にもてなす事です。

親切や、もてなしを、広げて行く事です。

それなのに、盗みを働くとは何たる事か、と問い詰めているのです。

44:5 これは、私の主人が、これで飲み、また、これでいつもまじないをしておられるのではないか。あなたがたのしたことは悪らつだ。』と言うのだ。」

44:6 彼は彼らに追いついて、このことばを彼らに告げた。

ここで、「杯、あの銀の杯」の正体が明かされます。

古代社会では、占い、呪(まじな)いが、政治や祭儀、生活と密接に関わっていました。

エジプトでも、呪法師や、夢の解き明かし人が、繁盛し、誰もが、呪(まじな)いや、占いを頼りにしていましたが、しかし、ヨセフの家の管理者の言葉から、ヨセフが呪(まじな)いや、占いをしていた、と考えてはなりません。

ヨセフは、エジプト王パロの夢の解き明かしに際し、夢は神様からの知らせであり、夢の解き明かしも、神様のなさる事、と明言しています。

吉兆や、将来は、呪(まじな)いや、占いで知る事は出来ないのを、ヨセフは誰よりも知っていたのであり、呪(まじな)いや、占いに頼る事は一切ありません。

しかし、権力者の常として、ステータス・シンボルとして、呪(まじな)いや、占いの道具を持っていたのです。

そして、15節、16節とも、相互に関連しますが、ヨセフが、呪(まじな)いや、占いでも、類(たぐい)希なる能力を持っていると、思い込ませるために、即ち、ヨセフの家で、兄弟の年齢の順に、席が用意されていた事を、思い出させ、そして、ヨセフの兄たちの隠し事の全てを、知っていると思わせるための道具として、「杯、あの銀の杯」にスポットを当てているのです。

最初の時の、間者、スパイの嫌疑でも驚愕しましたが、この度の嫌疑は、青天の霹靂、身が凍るような驚きだったのではないでしょうか。

(まじな)いや、占いとは、縁のないヤコブ一族ですが、呪(まじな)いや、占いの存在と、道具の存在は知っていた事でしょう。

そして、その道具の価値も、知っており、それを盗む事が、どれ程の、大罪かも知っていた事でしょうから、ヨセフの家の管理者の、謂れのない嫌疑と追求に、必死になって、しかし、ここで、相手を怒らせるのは得策ではありませんから、

言葉を選びつつも、激しく、盗む事などあり得ない事を強調し、抗弁を致します。

44:7 すると、彼らは言った。「あなたさまは、なぜそのようなことをおっしゃるのですか。しもべどもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。

44:8 私たちが、袋の口から見つけた銀でさえ、カナンの地からあなたのもとへ返しに来たではありませんか。どうしてあなたのご主人の家から銀や金を盗んだりいたしましょう。

44:9 しもべどものうちのだれからでも、それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」

何であれ、平気で盗むような者たちであるなら、

態々(わざわざ)、遠路、代金と考えられる銀を持っては来ないし、問われてもいないのに、こちらから先に申し出しもしないでしょう、と抗議します。

極めつけは9節です。

(まじな)いや、占いの道具は、別格の貴重品であり、この種の犯罪が、死刑を意味する事を理解、承知していたのであり、もしも盗んでいたならば、殺されてもかまわない覚悟を持っている、との意思表示をしたのであり、盗んだ本人だけでなく、全員で連帯責任を負う、との意思表示をしたのです。

44:10 彼は言った。「今度も、あなたがたの言うことはもっともだが、それが見つかった者は、私の奴隷となり、他の者は無罪としよう。」

44:11 そこで、彼らは急いで自分の袋を地に降ろし、おのおのその袋を開いた。

ヨセフの兄弟たちは、身の潔白を証明するために、謂れのない嫌疑から逃れようとして、積極的に、ヨセフの家の管理者に協力し、穀物の入った袋を降ろし、また、合わせて、様々な私物、雑貨の入った袋も降ろし、穀物の袋の口を開き、私物、雑貨の入った袋の口を開き、点検を促します。

44:12 彼は年長の者から調べ始めて年下の者で終わった。ところがその杯はベニヤミンの袋から見つかった。

ここまでに、ヨセフの指示で、ヨセフの家の管理者が、袋の口に入れた、穀物の代金も見つかっていますが、それは問題にされていません。

不思議な事ですが、問題は、呪(まじな)いや、占いに用いる「杯、あの銀の杯」の有無であり、それだけなのです。

ヨセフはエジプト王国の宰相であり、その屋敷なのですから、「杯、あの銀の杯」よりも価値のある品物は、家宝の類は、数多くあったはずであり、仮の話ですが、それらが幾つも見つかったとしても、問題にはされません。

杯、あの銀の杯」だけの有無が問題なのです。

ヨセフの兄弟たちは、穀物の袋の口から次々と出て来る、穀物の代金の銀を、どんな思いで見ていたのでしょうか。

前回の、全員の穀物の袋の口に返されていた銀の事といい、今回の、全員の穀物の袋の口に返されている銀を見せ付けられて、説明の付けようのない、不思議を見せ付けられ、言いようのない不安の中に置かれ、重大な事が、進みつつある、神様の御手によって、何かが起こりつつあると、漠然と感じたのではないでしょうか。

そして、予想は、悪い方に当たってしまい、ベニヤミンの袋から、あの「杯、あの銀の杯」が出て来てしまったのです。

不思議な事でも、普通の事でも、何でも、神様に直接、結び付てしまう考え方、見方は問題ですが、何でも合理的にしか考えないのも、問題です。

合理的に考えれば、「杯」が歩くはずはありませんから、誰かが入れたはずですが、その誰かを、問題とするのではなく、何故、こんな事が起こったかを、詮索すべきです。

ヨセフの兄たちは、前日までは、創世記4318節「われわれが連れ込まれたのは、この前のとき、われわれの袋に返されていたあの銀のためだ。われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕らえるためなのだ」と合理的な考え方をしていましたが、

今回も同じように、「杯が見つかったのは、われわれを陥れ、われわれを襲い、われわれを奴隷として、われわれのろばもいっしょに捕らえるためなのだ」とは考えなかったのです。

弟を憎み、その存在を疎み、売り飛ばし、幾ばくかのお金を手に入れましたが、父ヤコブを悲しませ、父ヤコブを騙し続けなければならなくなりました。

前回、穀物の袋に入っていた、穀物の代金は、不安をもたらす厄介なモノであり、今回、父ヤコブの溺愛するベニヤミンの袋に、穀物の代金と共に、「杯、あの銀の杯」も入っていたのであり、ベニヤミンを失う事になり、カナンにいる父ヤコブを打ちのめすのは必至です。

ヨセフの兄たちの、先の創世記4318節の告白は、ヨセフの兄たちの基本的な考え方であり、そんな考え方をしていたのです。

人を陥れ、人を襲い、人を騙すような生き方、考え方は、自身にそのまま返って来るのであり、16節に記されているように、「神がしもべどもの咎をあばかれた」との、告白に至ったのであり、ここに、大きな進歩、信仰の前進が見られましょう。

44:13 そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返した。

ベニヤミンの身に起こった事であり、ベニヤミンが負うべき事ですが、先に、連帯責任を負う意思を表明した通りに、そして、16節の告白の通りに、自分たちの事として受け止め、

町に引き返したのです。

44:14 ユダと兄弟たちがヨセフの家にはいって行ったとき、ヨセフはまだそこにいた。彼らはヨセフの前で顔を地に伏せた。

44:15 ヨセフは彼らに言った。「あなたがたのしたこのしわざは、何だ。私のような者はまじないをするということを知らなかったのか。」

15節のヨセフの言葉は、「」を盗んだ事を責めているのでも、「」の意味、重要性を語っているのでもありません。

15節の真意は、全てを知っておられるお方の存在と、見つからない事、明るみに出ない事、隠し通せる事はない、との宣告なのであり、お前たちの、過去の忌まわしい行いは、全て知られている、との宣言なのです。

14節から、「ユダ」が先頭に記されていますが、ユダの犠牲的行動の始まりであり、父ヤコブとの約束を果たすべく、エジプト宰相を相手に、怯まず、堂々と、弁明、嘆願する姿が、生き生きと描かれ、記されています。

44:16 ユダが答えた。「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」

ベニヤミンが盗んだのではない事を確信している兄たちですが、実際にベニヤミンの持ち物から、「」が出て来たのは、動かせない事実です。

そして、盗んだとされる物が物だけに、返せば済む問題ではありませんから、申し開き、弁解は何の意味もなしません。

それでも、ユダは、そして、兄弟たちは、ベニヤミンの身に起こった事は、常識では考えられない、合理的な説明が出来ない出来事であり、神様からの、自分たち皆への、咎めであると、理解したのです。

神様からの咎めであるならば、ベニヤミンにだけ負わせて済む問題ではなく、自分たちも負わなければならない問題であると、理解し、全員が奴隷となる事を申し出たのです。

人には、思い出したくない罪があり、心の奥底に仕舞い込み、忘れたと思っても、忘れてはいないのであり、きっかけがあれば思い出すのです。

どんな小さな罪でも、炙り出し、清算しなければならず、ヨセフの兄たちの、ヨセフへの仕打ちは、清算しなければならない過去であり、罪です。

ヨセフの仕掛けた、ヨセフの兄たちへの奸計ですが、ヨセフの兄たちへの復讐のための、兄たちを再起不能にするための、打ち砕くための、或いは、辱めるための、計画なのではなく、罪を思い出し、罪を認めさせるために、考えられた計画であり、人を神の前に生かす、計画であり、神様のご計画、お働きに加わるために、整えられるための計画なのです。

44:17 しかし、ヨセフは言った。「そんなことはとんでもないことだ。杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい。」

」を持っていなかった者は、留まる必要はない、との、ヨセフの言葉は、何かの条件を出すでもなく、話の打ち切りを宣言するヨセフの言葉は、ヨセフの兄たちの、心の苦しみを一層深刻にした事でしょう。

ヨセフの兄たちは、ベニヤミンを伴ってでなければ、父ヤコブの許には、カナンには帰れないのですから、ヨセフの言葉は、非情であり、ヨセフの兄弟たちは、進退窮まってしまったのですが、活路は、必ずあるのです。

【適応】

ヨセフの兄たちの咎、ヨセフを奴隷として売ってしまった事は、誰にも知られない、兄弟たちだけの秘密であり、兄弟で口裏を合わせて、父ヤコブを騙し続けて来ました。

隠し通せる、騙し続けられる、と思った事でしょうし、あの出来事から十三年以上が経過しているのですから、もう安心。

これからも、隠し続け、騙し続けられると、自分たちさえ、忘れる事が出来たと、思ったのではないでしょうか。

しかし、「天知る、地知る、我知る」と言う言葉通りであり、人が口を堅く閉ざし続けていても、天も、即ち、神様は、知っておられ、地も、即ち、被造物も、知っているのであり、知られない秘密はないのであり、何時かは、暴かれるのです。

暴かれてからの自白は問い詰められてからの告白は、消極的であり、褒められた行為ではありません。

しかし、暴かれる前の自白は、問い詰められる前の告白は、積極的であり、それで赦されはしませんが、褒められるのではないでしょうか。

どんな事でも、良い事でも、悪い事でも、全て、神様が見ておられ、神様が知っておられ、神様が暴かれる、と云う意識を持つ事は重要であり、どんな罪も全て、神様の前に告白し、赦しを乞うのが、神様に喜ばれる事なのです。

神様が暴かれる、と云う意識は、生き方が、考え方が変わります。

否、もっと積極的、肯定的に、全ての行いは、神様に献げる、神様が報いられる、との意識を持つ事が重要です。

何をするのも、しないのも、神様に対するモノであり、神様に献げる、となれば、必然的に、良い行い、誠実、正直に成らざるを得ません。

神様が報いられるのですから、人に知らせる必要はなくなります。

人に見せるのでもなく、人に褒められるためなのでもなく、なのですから、誰に対しても、同じように振舞う事、接する事、誠実、正直になるでしょう。

ヨセフの兄たちの生き方、考え方は、人を騙し、神様に隠し事を持つ生き方でした。

こんな生き方、考え方では、神様に仕える事も、人に祝福を届ける事も出来ません。

不誠実な人に、大切な働きを委ねるでしょうか。

嘘吐きな人の言葉を、祝福の言葉として受け取れるでしょうか。

誠実な人を、神様は働き人として選ばれ、正直な人を、祝福を届ける者として用いられるのです。

しかし、最初から誠実な人、正直な人はいません。

神様から訓練を受けて、整えられて、誠実さを身に付け、正直さが備わって行くのです。

この神様の訓練を受けずに済む人間は一人もいません。

皆、必ず、訓練を受けなければならず、訓練を受ける事を喜びとしなければならないのです。

ここにおられる皆様が、神様からの訓練を受けられ、神様に仕え、世に遣わされ、祝福を届け、神様からの報いを受けられる、祝福された生涯を歩まれる事を願ってやみません

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聖書個所:マタイの福音書281節~7節             2018-4-1礼拝

説教題:ここ(墓)にはおられません。よみがえられたからです。

【導入】

イースターおめでとうございます。

イースターとは、イエス様の復活、よみがえりをお祝いする、教会行事の一つであり、クリスマス、ペンテコステとともに、重要な教会行事の一つです。

イースターは、過越の祭が、由来とされ、また、ヨーロッパに住む、チュートン族は、毎年4月に女神Eostreに生贄を献げていましたが、主イエス・キリストの復活を祝うのに、この異教の習慣が取り入れられたと推測出来ますが、確たる証拠はありません。

このイースターが行われる日ですが、ユダヤ教の過越の祭りに倣って、ニサンの月、太陽暦の3月から4月の、14日に復活を祝う教会と、その次の日曜日を復活日と定める教会とが生じてきました。すなわち、小アジヤの教会では、ユダヤの太陰暦のニサンの月の14日を、曜日にかかわりなく固定して復活日として守ったのです(14日遵守派)。

それに対して、アレキサンドリアの太陽暦の影響を受けたローマでは、ニサンの月の14日に続く日曜日を復活日と決めました。従って、年ごとに復活日が変ったのですが、(移動的復活日制定派)、ユリウス暦、グレゴリウス暦によっても違いが生じましたが、グレゴリウス暦に統一されて行き、今日、私たちは「春分の日の後の、最初の満月の後に来る日曜日」を復活日と定めています。

春分の日以降である事は、間違いないのですが、満月が関係してくるので、一ヵ月ほども、ずれが生じてしまいます。

固定してない不便さは否めませんが、自分たちの都合、便利さではなく、神様に合わせ、従う訓練と考えれば、納得出来るのではないでしょうか。

その、イースターの発端となった出来事を見てみましょう。

【本論】

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

ここに言う「安息日」は、ユダヤ人たちにとっての「安息日」ですから「土曜日」と云う事になります。因みに、イスラム教での「安息日」は「金曜日」であり、キリスト教での「安息日」は「日曜日」です。

ユダヤ人社会の一日は、日没から、翌日の日没までですから、安息日は、金曜日の日没から、土曜日の日没までであり、日没以降は、安息日の規定に縛られず、自由に行動出来ました。イエス様が十字架刑に掛けられたのは金曜日であり、イエス様は、金曜日中に、アリマタヤのヨセフの持つ墓に、埋葬されました。

イエス様の埋葬に立会い、イエス様の埋葬を見守った女性たちは、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、イエス様を埋葬するために、布や没薬などを購入しようとしたのですが、日が沈み、安息日が始まってしまいましたので、安息日は、安息日の規定に従って休み、安息日明けに、即ち、土曜日の日没以降に、布や没薬を購入し、日曜日の早朝に、イエス様が埋葬された墓に到着した、と云う場面なのです。

イエス様が埋葬された墓に行ったのは、「マグダラのマリヤと、ほかのマリヤ」の二人ですが、当時の墓は、横穴式であり、獣が荒らすのを防ぐために岩を蓋として塞いでおり、女性の力で蓋とされている岩を動かす不可能です。

それでも、番兵が手伝ってくれるだろう、何とかなるだろうと話しながら、イエス様が埋葬された墓に到着した、と云う場面なのです。

28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

二人の女性の到着に合わせて、到着と同時に、地震が起こり、墓を塞いでいた岩の蓋が、脇へと転がされました。

これは、非常に重要な記録です。

この瞬間まで複数人の番兵が見張っていたのですから、墓からは誰も、何人も、出てはおらず、勿論、墓には誰も、何人も入って行ってはいません。

即ち、イエス様が出てくるために、墓の蓋が脇へと転がされたのではないのであり、既に、墓の中に、イエス様がいない事を、人々に解らせるために、女性たちの到着を待って、墓の蓋が脇へと転がされたのです。

この地震を起こしたのは「主の使い」です。

自然現象ではなく、偶然でもなく、神様が明確なご計画で、女性たちの到着に合わせて地震を起こされ、墓を開かれ、イエス様がいない事を明らかにされたのです。

主の使い」が現れ、また、働かれた記述は、そう多くはありません。

しかし、重要な場面で登場するのであり、旧約で、22回程登場し、新約で、9回程登場し、人を励まし、慰め、正し、導くために登場します。

9回の中には、イエス様のところにも現れ、励ました回数も含まれていますが、これは、イエス様も励ましなどを受けなければならない、と云う事ではありません。

イエス様は神様であり、助けも、励ましも、導きも必要とはしませんが、神様は、困っている人にだけ現れるのでもなく、助ける必要のある時だけ現れるのでもなく、必要の如何に関わらず、誰にでも寄り添っている事を教えるためであり、誰一人として、神様が無関心でいる事がない事を、常に神様に覚えられている存在である事を示すために、記されているのです。

主の使い」は、私たちが、神様を知るために、神様のご計画を知るために、遣わされるのであり、合わせて、なすべき事をも啓示されます。

28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになっ」てしまいました。

番兵たち」は、正式なローマ兵であり、勇猛果敢であり、ちょっとやそっとの事では動じない、胆の据わった豪胆な人たちです。幾たびもの戦場を経験し、死を覚悟した事は数知れず、剣にも、槍にも、戦士にも尻込みするような事のない猛者たちです。

その「番兵たち」が、「恐ろしさのあまり」「死人のようになった」のです。

」が「いなずまのように輝き」、「」が「雪のように白った」のは、つけ足しであり、「御使いを見て」「死人のようになった」のです。

御使い」は、この世のものではなく、比類のない威厳と尊厳とを持つものであり、特別に許された者しか、見る事が許されていないからこそ、不相応に見てしまったために、恐れ慄いたのでしょう。「死人のようになった」が、「茫然自失」状態を表すのか、「気を失った」状態を表すのか、「腰が抜けた」状態を表すのか、は解りませんが、暫くの間、正常な判断、行動が取れなかった事は、間違いなさそうです。

しかし、もう一方の目撃者、女性たちも、恐ろしくはありましたが、腰が抜ける程には、恐れなかったようです。それは、女性たちが「選ばれた者たち」であり、「御使い」を見る事が許された者たちであったからです。また、イエス様よみがえりの証言者となるためであり、「御使い」から使命を授かる者であったからです。

28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

女たち」が、手に「布や香料」を持っている事から、また、ユダヤ人が「穢れ」に関する事に、何より注意深く、慎重に扱う事は説明するまでもありませんが、墓地、墓は「穢れ」の代表格であり、それ故に、墓地は、間違って触れる事のないに、不用意に近づく事のないように、町外れの、寂しいところにあり、ピクニックにやって来たのでも、散歩でもない事は、そして、イエス様の埋葬のため、である事は明らかです。

しかし、イエス様は「よみがえられた」のであり、埋葬の用意は不要です。

この「よみがえられた」事は、マタイの福音書からだけでも、1621節、179節、23節、2019節、2632節などの預言の成就なのであり、「前から言っておられた」事なのだ、と「御使い」は言うのです。

更に、「御使い」は、墓の中を覗き込むよう促し、イエス様のお身体がない事を確認するように促します。

この確認は、イエス様よみがえりの証言のためであり、イエス様よみがえりの証人となるためです。

イエス様よみがえりの証言は、初回においてのみ、現場に立ち、目撃しなければなりませんし、それで十分です。

この後、女性たちの証言を聞いて、弟子たちも墓に来て、イエス様のお身体のない事を確認しますが、大きな意味があるのは、初回のみです。

封印された墓が開かれた時に立ち会った事に、意味があるのであり、この世で、一回しか起こらなかった事を、信じるか否かが問われるのです。

一番大切な事、本当に重要な事、世にも希なる不思議な事は、一回しか起こらないのではないでしょうか。

目撃者の証言を聴いて、信じるか否か、なのです。

神の御子、救い主の誕生、然り。

人類の罪の、贖いのために死なれたお方のよみがえり、然り。

人類のための執り成しと、住まいを備えるために天に昇られたお方、然り、なのです。

更には、当時、女の証言は、社会的に、法的に、全く信ずるに値しない、とされていましたが、その、女性の証言を、神様は信じるように、採用するように促されるのです。

社会的に、法的に信用のある男性の弟子ではなく、社会的に、法的に認められていない女性の弟子を、神様は選ばれたのであり、常識を覆す出来事を、常識を打ち破って信じなければならないのであり、真の意味で、神様への信仰が問われ、試されるのです。

しかし、闇雲に信じなければならないのではなく、イエス様の数々の預言があったのであり、備えがあり、助けがあった事を忘れてはならないのです。

イエス様の預言を、良く理解出来なくても、しっかり受け止めた者は、女性たちの証言を受け入れ易かったでしょうが、イエス様の預言を、批判した者は、誰の証言であっても、受け入れ難いのではないでしょうか。

イエス様の教えを、真摯に聞いたか、自分の都合や、この世の常識と云う、フィルターを通して、聞きたい事だけを聞いたか、の違い、とも言えるでしょう。

さて、神様の業の目撃者は、或いは体験者は、自分のところで終わらせてはなりません。

誰かに伝えなければならず、知らせなければなりません。

28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

御使いは、四点を確認します。

一、急いで、二、お弟子たちに、三、よみがえられた事、四、ガリラヤで会える事、を伝えたのです。

よみがえられた事に付いては、先に述べましたので省きましょう。

先ず、急がなければなりませんが、慌てる必要はありません。

余りにも不思議な事なので、話して良いものか否か、悩み、迷うでしょうが、証言者は、見た事を、新鮮な内に語らなければなりません。

証言者は、見た事を、そのまま、省略もなく、脚色もなく、解説もなく、感想もなく、勿論、尾鰭の付け加えもなく、語らなければなりません。

誇張は、不自然になり、受けを狙うと、どんどん脱線し、歪みを生じさせ、真実味を失わせます。

ありのままは、理路整然とした、生き生きとした証言にならざるを得ません。

次の、お弟子たちに、ですが、十一弟子だけではなく、イエス様に従って来た、名もなき弟子たち全部にです。

イエス様のよみがえり、は、重要な真理ですが、秘義ではありません。

特定の弟子に伝授する事柄ではなく、弟子の誰もが、共有する真理、弟子の皆が、拠りどころとする真理なのです。

最後のガリラヤで会える事ですが、会うのが目的ではありません。

ガリラヤは、イエス様が宣教を開始された場所であり、宣教の働きを弟子たちに委ねるに相応しい場所と言えるでしょう。

その意味で、ガリラヤは宣教の出発点、スタート地点なのですから、エルサレムに留まっていてはならず、また、ガリラヤは目的地、ゴールではないのですから、ガリラヤに留まっていてもならないのです。

【適応】

女性たちが伝える言葉は、御使いの言葉であり、信じなければなりませんが、当時の女性の地位を考えたならば、簡単な事ではありません。

しかし、それでも聴かなければならず、信じなければならないのです。

現代は、女性の言葉も、男性の言葉も、区別なく扱われますが、別の区別が、即ち、社会的地位、などで、扱われ方に差が生じています。

有名な先生の言葉は、熱心に聴き、忙しくても、時間を割き、遠くても、お金を払ってでも聴きに行き、信じ、従うけれども、無名の先生の言葉は、聞き流すし、近くても、暇でも、聞きにも行かない、がまかり通ってはいないでしょうか。

しかし、御使いの言葉、神様からのメッセージは、伝える者、語る者の権威には依存しません。

言葉、メッセージ自体に権威があるのであり、伝える者、語る者を良く知らず、信用しても良いものかと思っても、神の言葉を伝えるなら、語るなら、信じ、従わなくてはなりません。

しかし、彼の時、女性たちには、弟子たちには、イエス様の預言が前提として与えられていたように、現代の私たちには、聖書が与えられているのですから、聖書に照らし合わせて、信じ、従うかの判断をしなければなりません。

聖書に親しんでいなければ出来ない事ですから、聖書通読は必須であり、その前提での、礼拝厳守、デボーションの励行、と言えるでしょう。

次に、イエス様はよみがえられ、ここ、墓地、墓にはおられません。

しかし、ガリラヤに行けばお会い出来ます、ですが、ガリラヤは、地方都市であり、エルサレムからは直線距離で120km程も離れていますから、四日はかかります。

イエス様がよみがえられた事を信じるのは、た易い事ではなく、さらに、遠路出かけるのは、難しい事です。

しかし、ガリラヤに行かなければ、イエス様には会えないのです。

エルサレムは、色々な意味で魅力的な町であり、何をするにも便利ですが、それだけに、世俗的であり、誘惑に満ちています。

今を、維持したままで、イエス様にお会いするのは、非常に難しい事なのです。

エルサレムの喧騒を離れ、四日の旅路を経て、整えられてこそ、よみがえられたイエス様にお会いするに相応しい心に近づくのではないでしょうか。

忙しい現代ですが、安息日を聖とするために、イエス様にお会いするに相応しく整えられるために、土曜日の過ごし方が、非常に重要になって来ます。

日曜日に悪い影響を及ぼすような、一週間の過ごし方は、慎むべきであり、しっかりとした休暇を取らなければなりません。

働く事は、素晴らしい事ですが、働きすぎは問題であり、人命を扱う仕事もありますから、一律には扱えませんが、安息日を守れない仕事は、工夫の余地はあるでしょうし、考え直す必要があるかも知れません。

近くに、福音的な教会がなければ別ですが、遠い教会に行くよりも、近くの教会で礼拝を守るのも、選択肢の一つでしょう。

イエス様にお会いするには、信仰の決断と、大きな犠牲が必要なのですが、それ以上の祝福が、喜びが待っているのです。

ここにおられる皆様が、よみがえられたイエス様との深い、親しい交わりを味わわれることを願ってやみません。

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