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聖書箇所:創世記461節から7節              2018-5-27礼拝

説教題:恐れるな

【導入】

良いと思われる出来事でも、余りにも大き過ぎる出来事は、嬉しい反面、驚きを通り越して、恐ろしさを感じる事もあるのではないでしょうか。

20年前後も、息子のヨセフは死んだんだと、自分に言い聞かせ、忘れようとし、忘れる事が出来たと思ったヤコブでしょうが、そんな時に、最愛の息子ヨセフが生きているとの知らせが届いたのです。

しかも、簡単に帰って来る事は出来ないけれども、そこそこ幸せに、まあまあ元気に、贅沢ではないけれども普通に暮らしている、との知らせではなく、あの超大国エジプトの宰相になっている、エジプト王パロやエジプト中の人々に敬愛されている、と云うのですから、信じられないのが当然であり、何を言っているのだ、度の過ぎた悪い冗談だ、と思うのが当然でしょう。

世の中には、似た人が三人いるそうですから、食料を買いに行ったヤコブの息子たちが、エジプトでヨセフに似た人と出会ったとしても不思議ではありません。

そして、問い質したけれども、別人だった、が、話の落ちでしょうが、そんな話は、旅の土産話としては、面白いかも知れませんが、ヤコブにとっては、傷口を広げるような話、忘れたい類の話題ですから、伏せて置くのが父ヤコブに対する配慮でしょうし、ヨセフ当人であっても、自分たちの為した悪事が露見するのは確実なのですから、父ヤコブから厳しい叱責を受けないために、身の安全のために、話題に上らせないのが、隠し続けるのが、常套でしょう。

しかし、飢饉は、まだ後、五年も続き、飢饉の影響は世界規模であり、カナンにいては飢え死にしてしまう、ヤコブ一族は滅びてしまう、との情報を知らされたのであり、

ヨセフのみならず、エジプト王パロ自らが、ヤコブ一族の保護と養いを約束したのですから、父ヤコブにヨセフが生きている事、ヨセフが、エジプト王国の宰相になっている事、ヨセフと、エジプト王パロに招かれ、保護と養いが約束されている事を、伝えない訳には行かず、自分たちの為した悪事が露見する危険を覚悟の上で、必要な部分だけを伝えたのです。

ヤコブにとって、俄かには信じられない話ではありますが、エジプトからの膨大な、珍しいお土産を見て、また、見た事も、聞いた事もないエジプトの車を見て、納得し、捕えられていたシメオンを見、ベニヤミンの姿を見て、安心し、エジプト行きを決意するのです。

【本論】

46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

飢饉の恐ろしさを味わっている最中であり、カナンにいては飢え死にしてしまう事を知らされたのであり、生き残るためには、なんとしても、エジプトに行かなければならないとしても、ヤコブには、エジプト行きに、大きな抵抗、不安があります。

その一つは、創世記1210節以降に記されている、アブラハムの、エジプトでの大失態、大失敗です。新改訳第3版は17ページ、新改訳201718ページ、「12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

この作戦、嘘は、功を奏し、アブラハムは非常な好待遇を受け、多くの財産をも手に入れる事が出来ましたが、嘘が露見した時、エジプトとの関係は最悪になり、手荒な事はされませんでしたが、憎しみの渦巻く中で、エジプトから追放されてしまったのです。

もう一つは、創世記1513節に記されている、神様からアブラハムへの宣告、新改訳第3版は21ページ、新改訳201722ページ、「15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」です。

自分たちのものでない国」と云う表現であり、具体的な国名は示されていませんが、「寄留者」となる事の、「寄食者」となる事の、尋常ではないリスクが示されているのです。

そして、創世記262節に記されている、イサクへの、エジプト行き禁止の命令です。

新改訳第3版は42ページ、新改訳201743ページ、「26:2 主はイサクに現われて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。

創世記1513節の「自分たちのものでない国」が、創世記162節の「エジプト」であろう事は、自然な、必然な連想でしょう。

エジプトは、異教の地であり、偶像の溢れる地であり、淫らな行ないが平然と行なわれる地であり、決して関わるべき地では、行くべき地ではありません。

ヤコブは、父イサクから、自身の体験を聞かされ、祖父アブラハムの体験、神様からの宣告を聞かされているのですから、エジプトに行く事に抵抗を感じ、不安を覚えるのは当然です。

そして、住み慣れた地、カナンを離れる事への不安が、ない混ぜになって、逡巡したのですが、ヨセフの招き、エジプト王パロの招きを受け、エジプト行きを決意した訳なのです。

しかし、全く不安が解消された訳ではありません。

信仰者は、神様の命令に従って、行動するのであり、人の説得で、或いは、損得で、状況の変化で、行動するのではありません。

飢饉が長引こうが、一族が飢え死にしそうであろうが、神様が留まれ、と仰られるなら、行きたくても、留まり続けるのであり、神様が行け、と仰られるなら、留まりたくても、行かなければならないのです。

今回のヤコブ一族のエジプト行きには、神様の御こころが何も知らされていません。

ヤコブは、エジプト行きを受け入れましたが、長く滞在する気は「寄留者」「寄食者」となる気はなかったのではないでしょうか。

だからこそ、ヤコブは、創世記4528節で「私は死なないうちに彼に会いに行こう。」と言っているように、ヨセフに会いに行く事だけを目的に、エジプトに向かったのですが、ヤコブは、神様の御こころを確認もせずに行動した事を悔い、アブラハムにとっても、イサクにとっても、ヤコブ自身にとっても、縁の深い地、「ベエル・シェバ」で「父イサクの神にいけにえをささげた」のです。

ベエル・シェバ」はヤコブたちが滞在していたヘブロンから、エジプトに向かう途上にあり、アブラハム、イサクの生活と礼拝における重要な土地であり、ヤコブの信仰の原点でもあり、不安解消のために、神意を求めるために、エジプト行きの許可を暗に求めて「父イサクの神にいけにえをささげた」のでしょう。

46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ。」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

不安から、眠れぬ夜を過ごしていたであろうヤコブに、神様は励ましの約束を与えられます。

神様は「夜の幻」を通して、イスラエル、即ちヤコブに呼びかけます。

」も「」も、定かではない事の象徴ですが、神様は、「ヤコブよ」との呼び掛けを、明確に二度繰り返し、呼び掛けが、幻ではない事を、ヤコブに知らせます。

その神様の呼び掛けに、ヤコブは「はい。ここにいます。」と応答します。

この応答からは、「何処にも行きません。しっかり聴いております。一言も聴き漏らしません。従います。」との意思と覚悟を汲み取る事が出来ます。

神様から呼ばれたならば、作業を続け、歩き続け、顔だけを向ける、振り向く程度であってはなりません。

している作業を止めて、立ち止まり、寝ていたならば起き直り、神様の方に向きを変え、身体と顔を神様に向け、眼と耳を神様に向け、真剣になり、心の眼も耳も、研ぎ澄まさなければなりません。

そして、聴く以上、信じる事が、従う事が前提である事は、言うまでもない事です。

神様からのことばを聴いて、尚且つ、安心出来ず、不安に思い、迷い、躊躇し、逡巡するのは、信仰者の取るべき態度ではありません。

信仰者の姿は、疑問を持たない事でも、何も考えないで唯々従う事でもなく、全地全能の神様、全ての全てなる神様、変わる事なく、永遠に存在し、支配されるお方、故に信頼し、信じ、従うのであり、アブラハムが神様のことばを信じ、故郷を捨てて旅立ったように、百歳になって得た、大切な息子イサクを献げたように、です。

ヤコブは、神様の前に静まり、聞き耳を立て、神様のことばを一言も聴き漏らさぬよう待ちます。

46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

神様は、ヤコブの一番の心配事に、的確、明瞭な答えを宣言されます。

しかし、「恐れるな」と言われても、恐れを持ってしまうのが、人間の持つ弱さです。

確証となるものが欲しいし、常に確認し続けないと、不安がぶり返しますし、何回も念を押さないと、安心できません。

そんな弱さを持つ人間に、神様は付き合ってくださり、心配しないで、信じ、従えるように助けてくださいます。

そんな逸話を一つ紹介しましょう。

ギデオンが、極少数の民を従えての、海辺の砂のような大群との戦いにおいて、本当に心細かった時、ギデオンの不安を解消すべく、神様はギデオンの願いに答えてくださいます。

士師記636節から、新改訳第3版は425ページ、新改訳2017438ページ、

6:36 ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、

6:37 今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」

6:38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。

6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」

6:40 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。

神様を試みるなんて、しかも二度も試みるなんて、不信仰の極みのようですが、後ろを振り返りながら従うよりも、嫌々ながら従うよりも、渋々従うよりも、覚悟を決めて従うべきであり、覚悟を決めるためならば、神様は、神様を試みる事を許してくださり、明確な答えを下さるのです。

現代は、聖書が記されており、過去の事例が記録され、指針となり、励まし、助け、慰めになるばかりでなく、聖霊様がこころの内に住んでくださり、助けてくださり、イエス様が天において、取り成してくださるのですから、本当に良い時代です。

さて、「恐れるな」に続いて「わたしはそこで、あなたを大いなる国民にする」との宣言を与えられます。

そこ」とはエジプトの事であり、「あなたを大いなる国民にする」とはエジプト滞在が、短期ではない事、非常に長期間である事を暗示します。

多産のヘブル人とは云え、複数の妻を持つ事が、特別な事ではなかった時代だったとは云え、子どもが無事に大人になる事は、簡単な事ではなく、一家が、国民と呼ばれるまでになる事は、容易な事ではありませんが、神様が保証されているのであり、これは、本当に凄い事です。

エジプト行きは、単にヨセフに会いに行く、飢饉の過ぎるのを待つ、ついでにエジプト見物も・・・程度の事ではなく、アブラハムとの約束に関わる事であり、世界に祝福をもたらす働きに、入ったのであり、ヤコブは認識を変えざるを得ないのです。

46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

嘗てヤコブは、神様の使いと格闘し、神様を実在するお方として認識しましたが、それ以来、神様との、直接の交わりは途絶えており、何時しか、神様は遠い存在に変わってしまっていました。

特に、ヨセフを失ってからは、神様に直接に、愚痴は零さないまでも、霊的にも、肉的にも、生きる屍のような状態になってしまっていたのですが、ここに至って、神様とヤコブの関係は、新たな段階に突入したのです。

嘗ては、神様の使いとの交流でしたが、これからは、神様ご自身が、ヤコブに一緒になってエジプトへ下ってくださり、時、至ったならば、即ち、ヤコブ一族が「大いなる国民」なった時に、ここに、即ち、ベエル・シェバに、ヘブロンに、カナンに、神様ご自身が「導き上る」と宣言されたのです。

嘗て、ヤコブは、ヨセフを失った時、悲哀に暮れ、創世記3735節、新改訳第3版は68ページ、新改訳201770ページ、「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と嘆き、ぼやいたのですが、神様は、涙を、喜びに変えてくださり、悲しみを、平安に変えてくださり、安らかな、本当に満ち足りた生涯となる事を、愛する者に見取られる幸せを約束、宣言されたのです。

46:5 それから、ヤコブはベエル・シェバを立った。イスラエルの子らは、ヤコブを乗せるためにパロが送った車に、父ヤコブと自分たちの子や妻を乗せ、

46:6 また彼らは家畜とカナンの地で得た財産も持って行った。こうしてヤコブはそのすべての子孫といっしょにエジプトに来た。

パロが送った車」は、快適とは云えないまでも、当時は、基本、徒歩であり、ロバや駱駝を利用する事もあったでしょうが、動物の背の上では、横になる事は出来ません。

日差しに晒され、風を受け、ゆらゆら揺れるのも、苦痛です。

しかし、台車であるなら、寛ぐのは無理としても、横になれるのであり、長旅では、老人、女性、幼子にとって、どんなにか、助かった事でしょうか。

ヤコブらは、「家畜とカナンの地で得た財産も持って行」来ましたが、エジプト王パロの言葉を信用しなかった、ヨセフに与えられた権威、権力の永続性を疑った、と云うのではなく、牧畜を生業として来た者が、家畜を捨てるのは、行き方を捨てる、と云う事であり、また、一族が、一生、王家に寄宿する、厄介になる、と云う事であり、エジプトに依存してしまわないように、何時でも出て行く覚悟と、準備の意味でも、持って行ける物は、持って行くのが賢い方法と云えるでしょう。

荷物は、或いは財産は、多く持ち過ぎてはなりませんが、必要なものは、用意しておくべきでしょう。

46:7 すなわち、彼は、自分の息子たちと孫たち、自分の娘たちと孫娘たち、こうしてすべての子孫を連れてエジプトに来た。

ヤコブ一族が向かったエジプトですが、ここまでの聖書の記述において、エジプト人の国民性、民族性が記されていません。

創世記4332節を扱った時に、「当時のエジプト人は、浄、不浄について、非常に厳格、極端な区別を付けていたようであり、エジプト人は、民族的、宗教的、文化的に、気位が高く、外国人を異宗教、異文化の故に、嫌忌(けんき)し、区別したようです。

エジプト人は、外国人は食物を汚す、と考え、一緒には食事をしなかったのですが、

この傾向は、エジプト人王朝の時に、顕著だったようであり、外国人が王として支配した時代には、緩やかになったようです。」との説明をいたしました。

エジプト人は、外国人を蔑視していた訳ですが、逆に言えば、イスラエル人の固有性を保持するに好都合であり、結婚による同化から守られたのであり、民族としての血統を保てたのであり、宗教的にも、エジプトの偶像、儀式に同化しなかったのです。

エジプトが、外国人に対して、寛容でない時代に、ヤコブ一族は、エジプト入りしたのであり、当然、差別があり、後には迫害にも遭う訳ですが、これらの戦い、困難に対しても、恐れるな、との励ましを与えているのです。

神様の意図を見る必要がありましょう。

【適応】

本日の説教のタイトルは、3節から取って「恐れるな」としましたが、聖書に「恐れ」と云う言葉は599回も記されており、関連する言葉で「こわく(怖く)、こわい(怖い)」は3回記されており、人間が、如何に恐れと無縁ではない生き物であるかが明らかです。

それで、神様は人間を励ますために「恐れるな」、また「恐れてはならない」との言葉を掛けてくださるのですが、「恐れるな」は41回、また「恐れてはならない」は47回、記されていまして、私たち、弱い者、恐れる者を、励ましてくださり、慰めてくださいます。

全部を紹介するには、時間が足りませんので、一つだけ、有名な聖句を紹介しましょう。イザヤ書4110節、新改訳第3版は1190ページ、新改訳20171233ページ、恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

聖書には「主」とか「神」との言葉が混在し、表記されていますが、「主」と訳されているのは「ヤハゥエ」と云うヘブル語で、「唯一の神、創造主なる神」の意味であり、「神」と訳されているのは、主に「エル」、「エロヒーム」と云うヘブル語で、一般的な、広い意味での「神」です。

ヤコブの新しい名前「イスラエル」ですが、「イスラ」と「エル」の合成語で、「イスラ」は、戦うの意味であり、「エル」は神の意味であり、合わせて「神と戦う、神は戦われる」の意味となるのです。

創世記461節、2節、またイザヤ書4110節の「神」は「エロヒーム」と云うヘブル語が、創世記463節は、最初が「エル」で、次が「エロヒーム」と云うヘブル語が使われていますが、皆、「唯一の神、創造主なる神」の意味で理解しなければなりません。

その「唯一の神、創造主なる神」が私たちと共にいる理由は、私たちを強め、助け、守る理由は、「唯一の神、創造主なる神」が、人間を造られたからであり、人間にとって神は、「唯一の神、創造主なる神」だけだからです。

恐れるな」と励ましてくださるのは、夫々に与えられた場所に行き、そこで神様にお仕えするためです。

創世記463節、4節の「あなた」は、ヤコブ、乃至はヤコブの子孫を意味し、イザヤ書4110節の「あなた」は、イザヤを意味していますが、「あなた」を、広く、「神の民」への、普遍的な呼び掛け、宣言であると、理解しなければなりません。

人間の中から、有能な者を選ぶのでも、熱心な者を選ぶのでも、従順な者を選ぶのでもないのです。

神様は唯一なのですから、全ての人の神様であられ、私たちと共におられ、私たちを強め、助け、守られるのです。

この約束から洩れる人は、一人もいません。

神様は、恐れるな、そして頑張れ、負けるな、勇気を出せ、進め、と、遠く離れて応援するお方なのではなく、恐れるな、わたしと一緒に頑張ろう、一緒に戦おう、一緒に進もう、共にいるよ、何時も一緒だよ、離れる事はないよ、決して見捨てないよ、と、傍らで支援するお方、寄り添ってくださるお方なのです。

ここにおられる皆様にも、寄り添い、恐れるな、と声を掛けてくださり、常に、強め、助け、守られ、寄り添われるのです。

「唯一の神、創造主なる神」の伴われる幸いを感謝し、恐れずに、夫々が遣わされた場所で、神の民として歩もうではありませんか。

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聖書個所:使徒の働き2:14                   2018-5-20礼拝

説教題:「父の約束してくださったもの」

【導入】

今日の礼拝はペンテコステ記念礼拝です。

ペンテコステは教会の記念日の一つで「教会の誕生日」と言われています。

ペンテコステの時まで、現代のようなキリスト教の教会は存在せず、ユダヤ教の会堂が礼拝の中心でした。

礼拝といっても私たちが想像するような現代の礼拝ではなく、モーセ五書や預言書の朗読が中心の礼拝です。

当時、ローマ政府はキリスト教をユダヤ教の流れの一つと見ていましたし、事実、イエス様も弟子たちも律法を守り、モーセの教えにも従っており、ユダヤ教の会堂で礼拝を献げておられました。

しかし、祭司、律法学者、パリサイ人から迫害を受け、イエス様が十字架に掛かられてからは、弟子たちは公然とユダヤ教の会堂に出入りする事が出来ず、密かに集まっては祈りに専念していたのです。

ユダヤ人当局の迫害を恐れ、小さくなって、隠れるように過ごしていたのですが、イエス様の約束であり、天の父なる神様の約束である聖霊が与えられた時、弟子たちは聖霊の力を受けて、ユダヤ教の会堂から独立した新しいイエス・キリストの弟子の集まり、これをエクレシアと言いますが、会堂ではなく、弟子の集まりが中心となる、新しい時代が始ったのです。

この事を覚えてペンテコステを祝うのですが、元々ペンテコステは五旬節と言い、これは50日目の祭りの意味で「種を入れないパンの祭り」から数えて50日目に行われた(レビ2315以下)事から生れた祭りです。

この五旬節の基準となる「種を入れないパンの祭り」は、「過ぎ越しの祭り」と重なっています。

過ぎ越しの祭りは、皆様良くご存知の様に、イスラエルの民がエジプトを脱出するきっかけとなる、エジプト人に下された10の災いの10番目。

王様の子どもから奴隷の子どもに至るまで、男の初子の全てと、家畜の雄の初子の全てが殺されるという災いが、イスラエル人に及ぶ事のないように、家の門に羊の血を塗りつけ、災いが過ぎ越して行く事の目印とした故事を記念する祭りです。

そして、この過ぎ越しの祭りから50日目に祝ったのが「五旬節」「ペンテコステ」なのであり、「刈り入れの祭り」とも重なっています。

過ぎ越しの祭りは、イエス様が十字架に掛かられた事で、罪が見逃される、罪から来る裁きを過ぎ越して下さる事の象徴として扱われるようになりました。

そして、刈り入れの祭りは、罪を赦された魂の刈り入れが始まった事が、福音宣教の働きが始った事が、象徴的に現されているのです。

新しい礼拝、教会の始りとともに、聖霊が下された事の、もう一つの大切な点を確認しておきましょう。

イエス様は天に昇られる前に、聖霊が与えられる事を予告しておられましたが、具体的な日時は予告していませんでした。

しかし、イエス様の弟子たちは、ユダヤ人の祭りを大切にしていましたから、過ぎ越しの祭りに、神様の罪の赦しのご計画の実現を目撃したように、その50日あとに控えている刈り入れの祭りにも、神様の働きを期待していたのではないでしょうか。

その弟子たちの期待の高まりが1節に描かれています。

【本論】

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

弟子たちはユダヤ人の迫害を恐れて隠れていましたが、ユダヤ人が必ず守らなければならない大切な3大祭りの一つである五旬節をともに祝うために集まっていたのです。

イエス様は先祖の言い伝えや習慣、律法主義には異を唱えましたが、先に説明したように、ユダヤ教の一派であり、聖書の教えそのものを否定したり、モーセ五書を捨てたりした訳ではありません。

イエス様はユダヤ教の律法を守りつつ、神様の御こころと教えに従って聖書を解釈し、神と人とを愛する事を実践して行っていたのです。

イエス様がいなくなった今も、律法を大切にすると言う点では弟子たちも同じ考えですから、五旬節の祝いのために集まって来たのです。

勿論、ユダヤ当局の迫害を恐れて、ユダヤの会堂で公には祝う事は出来なかったでしょうが、仲間が集まって、イエス様が仰られた、使徒の働き14節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」との言葉を信じて、113節「彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」のです。

父なる神様の約束である、聖霊のバプテスマを受ける事を期待して、イエス様が天に昇られてからずっと祈りに専念していたのです。

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

神様が、イエス様が私たちの祈りに、期待に答えて下さらない訳がありません。

弟子たちにとっては突然の出来事かも知れませんが、イエス様の、神様のご計画、約束の成就は思いつきで行なわれるのではありません。

1節に「五旬節の日になって」と訳されていますが、ここは「五旬節の時が満ちて」と訳せるのです。

即ち「刈り入れの時が満ちて」この出来事が起こったのです。

弟子たちの熱心な祈りも功を奏したでしょうが、神様のご計画の時が満ちたので起こった出来事なのです。

弟子たちの祈りによって、聖霊を受け入れる備えが出来ており、合わせて神様のご計画の時が満ちて、神様の聖霊が注がれたのです。

神様のご計画の前進には、神様の一方的な働きだけでなく、人間の側の積極的な働きかけ、篤い祈りが必要なのです。

「果報は寝て待て」ではなく、「神様のご計画は祈って待て」でしょう。

祈って待った時、神様は不思議な方法で聖霊を与えてくださいました。

この聖霊降臨という不思議な、全ての人にとって必要不可欠な重要な出来事は3つの超自然的なしるしを伴っておこりました。

その第1が2節に記されているしるしです。

それは東でも西でもなく、南でも北でもなく「天から」と記されています。

天からとは神様からと言う事であり、この出来事の主導権を握っているのが神様である事をあかししています。

また「激しい風が吹いてくるような響き」と記されている事も注目したいところです。

突風や暴風が吹いたのではなく、激しい風のような音が響き渡った事を描写しているのです。

聖霊がやって来たのは人類の歴史で始めての出来事です。

誰も経験も体験もした事のない出来事なので、誰もが経験した事のある台風や低気圧の前線に伴う突風で、その時の状況を描写しているのです。

ここで「風」と訳されている「プニューマ」というギリシャ語は「息」とも訳せる言葉であり、昔から「聖霊」を象徴して使われてきた言葉であり、新約聖書で「聖霊」「御霊」と訳している箇所はこの「風」「息」と同じ言葉なのです。

か細く消えてしまいそうな、誰にも気付かれないで聞き逃してしまうような、吹いているのか吹いていないのか分からないようなしるしではなく、誰にでも分かるように圧倒的な重量感と存在感を伴ったしるしとして現れてくださったのです。

第2のしるしは

2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

ここでも著者は「炎のような」と言う表現で、聖霊の属性を象徴しています。

先に風とか息は聖霊を象徴的に現すと申しましたが、炎とか火もまた聖霊を象徴的に現す言葉としてユダヤ人が用いてきた言葉なのです。

そして火が聖めのために用いられるように、聖霊は汚れた罪深い魂を聖めるためになくてはならないものなのです。

ここでも神様は弟子たちに、聖霊が下って来た事と、一人一人の上に留まった事が理解出来るように眼に見えない聖霊を眼に見える形で下してくださったのです。

弟子たちは聖霊を始めて見たのですから「炎のような」としか表現出来なかったのでしょう。

そして更に興味深いのは、炎のようであっただけでなく、「舌」が現れたと表現しているのにも重要な意味が隠されているのです。

舌と訳された言葉は「言語」「ことば」を意味しており、4節では「他国のことば」と訳されていますが同じ単語なのです。

つまり舌は福音の言葉を語らせる聖霊の働きを暗示しているものと見ることが出来るのです。

その聖霊の働きの通りに、

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

これが聖霊降臨の第3のしるしです。

聖霊に満たされた人々が、聖霊の話させてくださるとおりに、別の国ことばで話し出したのです。

その具体的な内容に付いては5節以降13節までに詳しく記されていますが、決して意味不明なことばや、誰にも知られない言語ではなく、集まって来た人々の理解できる言葉だったのです。

聖霊の働きは混乱を招いたり、無秩序に行なわれるものではありません。

私たちから見たら、突然であっても、聞いた事もないような言語であっても、神様のご計画によってタイミング良く、そこに居る人々の言語で語られ、誰もが理解出来たのです。

聖霊に満たされた者は、聖霊に促されて、福音の言葉を語らずにはいられなくなるのです。

五旬節と言うパレスチナ一帯に散らばっているユダヤ人が集まる祭りの日に、福音が語られるために、聖霊が下されたのであり、偶然でも、たまたまでもありません。

神様のご計画通りであり、イエス様の約束通りの出来事なのです。

【適応】

この聖霊降臨の出来事、世の中一般では、クリスマスほど知られてはいないし、教会内でもクリスマスほどには祝われてもいません。

これは、お祝いをしろ、と言う事ではなく、その重要性はクリスマス、イエス様の御降誕、イースター、イエス様の復活に引けを取らない重要な出来事だと知って欲しいのです。

何故ならば、私たちには罪の性質があるので、自分の力では教会に来る事も、聖書を読む事も出来ません。

自分の意思で教会に来たように思っているでしょうし、聖書ぐらい字が読めるのだから問題ない事だと考えると思いますが、決してそんな簡単な事ではないのです。

誰かに誘われた時、トラクトを見た時、そこに聖霊が働いたからキリスト教に興味を持ったのであり、教会に行く気になったのです。

聖書は本屋さんに売っているし、図書館には必ず置いてあるし、ホテルにも置いてある事が多いですから、誰でもが一生の内に何度かは手にし、見た事はあるでしょうが、読むとなると、誰でもがとはいかないし、お金を払ってまでして手に入れはしないのです。

もっと安くて面白い本は一杯あり、興味をそそる本は山積みされているからです。

その多くの本の中から聖書を選び、取り組むのは聖霊の働きなのです。

私たちは聖霊を見た事も、その声を聞いた事も、触った事もないでしょうが、2000年前に神様が約束してくださった聖霊は今日も私たちと伴に居てくださり、助け手となってくださっているのです。

聖霊は私たちを教会に導き、聖書を読ませ、説教を聞かせ、イエス様を信じ、信仰に至らせる助け手なのです。

私たちは聖書を読む時、創造主なる父なる神様の存在を知る事が出来ますし、イエス様の来臨と、十字架の死、三日目に復活されたことによって贖いが完成した事を知る事が出来ますが、これらを私の事として受け入れるとなると誰にでも出来る事ではないのです。

神であるイエス様が人間としてお生まれになった事も、イエス様が私たちの罪のために十字架につかれて死なれた事も、三日目に甦った事も、天に昇られた事も、聖霊の助けがなくては理解する事も、受け入れる事も出来ないのです。

天地創造の話しも、神話としてしか理解しないでしょうし、人間は、猿から進化したと教えられていますが、進化論は、一つの可能性でしかないのです。

処女降誕も荒唐無稽な作り話としてしか見る事が出来ないのです。

人間には罪の性質があるので、自分の力ではイエス様を信じ続ける事も、従い続ける事も出来ないのです。

信仰を持つ事も、信仰を持ち続ける事も、皆、聖霊様の働きであり、聖霊の助けがあってこそ出来る事なのです。

ユダヤ人の迫害を恐れて隠れていた弟子たちが、人々の前で大胆にあかしできたのも聖霊が注がれて、聖霊の励ましを受けてからの出来事である事を忘れてはなりません。

自分自身の信仰も、福音をあかしする事も、皆、聖霊の働きなのです。

だから神様の約束してくださった聖霊が下ったペンテコステの出来事は重要であり、クリスマス以上に、イースター以上に私たちにとって祝福といえる出来事なのです。

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聖書箇所:創世記4516節から28節              2018-5-13礼拝

説教題:未練を残してはならない

【導入】

この世は、この世界は、神様のご支配の下にありますが、不可解な事や、理不尽な事、何故、どうして、と云うような事が起こります。

しかも、時々、たまにではなく、日常的に、またか、と言いたくなるような頻度でです。

神様は何故に、このような事を許されるのだろう、不義や不正を見逃し、正義や正直を守られないのだろうかと、悩み、憤慨すら覚えるのではないでしょうか。

しかし、全ては、人間の罪の結果であり、罪によって、この世の、この世界の秩序が乱れ、この世に、この世界に混乱を招いてしまったのです。

神様がこの世を、この世界を、人間を造られた時、全てが秩序正しく機能していました。

一点の曇りも、欠点もありませんでした。

しかし、人間の罪により、秩序は乱れ、正しく機能しなくなり、人間のみならず、この世は、この世界は、お互いに悪影響を及ぼすようになってしまったのです。

勿論、全てが、必ず悪だけを起こし、悪影響を及ぼす訳ではありません。

人間は、この世は、この世界は、神様によって造られていますので、良い部分を持っており、良い影響も与えますが、罪の影響を全く排除する事は出来ませんので、良いと言われる事にも、善意からの行いにも、罪が影響を及ぼすのです。

ですから、常に、言動を、聖書に照らして、客観的に吟味し、罪の影響のあるなしに注意し、警戒を怠ってはなりません。

そして、罪の気配を感じたならば、罪である事を教えられ、示されたならば、きっぱりと断ち切らねばなりません。

そこには痛みや、苦しみなども伴いましょうが、痛みの先には、平安があり、苦しみの先には、喜びが待っているのです。

今、ヨセフを中心とした部分の聖書を読み進めていますが、ヨセフが主人公ではありません。神様のご計画に、ヤコブが、ヨセフやヨセフの兄たちが召され、加えられ、神様のご計画が進んで行くのです。神様のご計画には、否応なしに加えられる場合と、選択と決断の上で加わる場合とがあります。

神様と、アブラハム、イサク、ヤコブと交わされた約束の故に、ヨセフと、ヨセフの兄弟たちは、神様のご計画に加えられましたが、ヨセフと、ヨセフの兄たちには、自覚がなく、そして、人間の持つ罪、それ故に、ヨセフと、兄たちの間に軋轢が生じ、妬みが生まれ、憎しみとなり、神様の願わない方向に進んで行ってしまいました。

しかし、背後で神様が働かれ、軌道は修正され、神様の願う方向に歩み出そうとしています。ヤコブ一族を守り、世界を祝福する、と云う働きのためにです。

【本論】

45:16 ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜んだ。

事は、ヨセフ個人の事であり、大騒ぎする事ではありませんが、ヨセフと、ヨセフの兄弟たちとの再会は、「パロもその家臣たち」をも巻き込んだ「」びとなったのであり、ヨセフが如何に慕われていたか、身近な存在となっていたか、重要な存在となっていたか、感謝すべき存在となっていたかを、如実に現しています。

人間は、高い地位に就き、権力を握ると、謙遜さの代わりに、傲慢さが生まれ出てくる生き物です。勿論、謙遜でい続ける人もいますが、立身出世を妬む人、羨む人がいるのであり、喜べない人も、冷ややかに見ている人もいるものです。

しかし、ヨセフは常に神を恐れ、常に神の前に誠実に歩んで来たのであり、そんなヨセフを皆が慕ったのであり、ヨセフの喜びを我が喜びとしたのです。

ヨセフの兄弟たちを歓迎し、ヨセフと共に喜ぶ事で、ヨセフへの感謝を現したのです。

その感謝は、溢れる喜びは、口先だけの感謝に留まらず、具体的にならざるを得ません。

本当にヨセフに対して感謝しているので、見える形にせざるを得なくなるのです。

45:17 パロはヨセフに言った。「あなたの兄弟たちに言いなさい。『こうしなさい。あなたがたの家畜に荷を積んで、すぐカナンの地へ行き、

45:18 あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』

先に、ヨセフは兄弟たちに、保護と、生活の保証を口にしましたが、ヨセフは、エジプト王国の宰相ではありますが、その権限は限定的であり、ヨセフ個人の範疇での保護と、個人的に生活の保証を約束したに過ぎません。

しかし、今度の、エジプト王パロの、ヨセフの兄たち、ヨセフの父の家族の生活の保証は、個人的なものではありません。

ヨセフの申し出があって、エジプト王パロが容認したのでもありません。

エジプト王パロ自らが、自発で、積極的に、提案したのであり、エジプト王国として、ヨセフの父の家族の保護と、生活を保証したのです。

18節の「最良の地」を、新共同訳聖書は「最良のもの」と訳し、口語訳聖書は「良い物」と訳し、新改訳2017は「最良のもの」と訳しています。

カナンの地から、移り住むための「土地」に限定、言及しているのではなく、もっと広義に、「最良のもの」を何なりと、全て、提供する意思と、用意がある事を、宣言、約束しているのです。

ヨセフに対しては、恩義を感じ、感謝を持ってはいても、ヨセフの家族の事は、ヨセフ個人の問題であり、ヨセフの責任で、ヨセフの財布で対応すべき、と考えましょうが、エジプト王パロは、ヨセフ故に、ヨセフの家族を守り、養うと宣言したのです。

エジプト王パロの招待は、ヨセフの故に、最高の待遇を提示したのであり、これは、救いの雛形です。ヨセフの、エジプトに対する働き、ヨセフの、エジプト王パロへの忠実さ故に、エジプト王国に対する何の働きもなく、エジプト王パロに何の貢献もしていない人々が、エジプト王国の保護を受け、糧を得、命を永らえ得るのです。

エジプト王国とは無縁の、何の権利もない者にとって、飢饉に苦しむ者にとって、願ってもない提案であり、最も必要とする約束です。

エジプト王パロは、更なる提案を致します。

45:19 あなたは命じなさい。『こうしなさい。子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい

エジプト王パロは、保護と糧を約束、保証するに留まらず、エジプト王国に来るための、送迎用の車まで用意するとの提案をいたしますが、こんな提案はあり得ない事です。

エジプト王国に来るならば、来たならば、保護し、糧を約束、保証する、のではなく、エジプト王国の、最良の地に住まいを用意し、最高品質の食料も用意し、連れて来てもあげる、と提案するのです。

ホテルのスイートルームに招待し、豪華なディナーも用意するけれど、現地までの交通手段や、交通費は自分で用意してね、ではないのです。

至れり尽くせり、とはこの事でしょう。

救いはエジプトにあるけれど、エジプトに行くのは至難の業であるなら、エジプト王パロの招待や、エジプト王国の存在は無意味と言っても過言ではありません。

しかし、エジプト王パロは、エジプト王国に行く手段まで提供すると云うのであり、これも、救いの雛形です。努力、精進、頑張った人だけが、完走した人だけが、辿り着いた人だけが、救われるのではなく、勿論、強制的に、自動的に、ではありませんが、皆が招かれており、道案内がおり、手を貸し助け、時にはおんぶしてくださり、重い荷物を持っても下さるのです。とは言え、長年住み慣れ、親しんだ家を離れる事は、簡単な事ではありません。

そこで、エジプト王パロは、もう一つの提案をし、エジプト王国行きを促します。

45:20 家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから』と。」

カナンの地に、惜しむべき何かがあったとしても、エジプト王国で得るものは、その全てに勝る、との確信を与え、約束する言葉です。

住み慣れた家を持っていく事は出来ず、使い慣れた道具や衣服の全てや、その土地ならではのモノも持っていく事は出来ません。

丹精込めて耕した畑や、育てた果樹も持って行く事は出来ませんが、それ以上の、最高のモノが、用意されている、と云うのです。これも、救いに関係する事です。

この世との関係性、地位、名誉、財産は、救いに関係ありません、

関係ないどころか、枷(かせ)となり、箍(たが)となって、救いの妨げとなります。

カナンを離れるためには、家財を捨てなければならず、家財を捨てられなければ、カナンに留まるしかなく、エジプト王国に入らなければ、飢え死にするしか、ないのです。

救われるためには、全て、一切を捨てなければならず、惜しんで捨てられなければ、失う事を恐れては、そして、離れなければ、命を失うのです。

しかし、捨てれば、それ以上のモノが手に入るのであり、失っても、それ以上のモノが約束されているのであり、離れれば、命が保証されるのです。

45:21 イスラエルの子らは、そのようにした。ヨセフはパロの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧をも与えた。

ヨセフの願いは、父ヤコブや、兄弟たちが、エジプト王国に来る事であり、ヨセフの力で、父ヤコブや、兄弟たちを保護し、養う事でしたが、エジプト王パロの命令は、ヨセフの願いを遥かに大きく上回り、エジプト王国として、ヨセフの一族を受け入れ、保護するのみならず、エジプト王国に来るための車と、道中の食料までをも、与えたのです。

これらの、エジプト王パロの提案は、エジプト王パロの、ヨセフへの絶大、絶対の信頼だけではありません。

アブラハムとの約束、イサクとの約束を誠実に守ろうとする、神様の故であり、ヤコブを導き、ヨセフを導く、神様の故であり、神様が誠実であられるからです。

45:22 彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。

45:23 父には次のような物を贈った。エジプトの最良の物を積んだ十頭のろば、それと穀物とパンと父の道中の食糧とを積んだ十頭の雌ろばであった。

22節、23節は、ヨセフ個人からの、兄弟たちや父ヤコブへの贈り物ですが、エジプト王パロからの贈り物、約束とは別の贈り物です。

エジプト王国に来る前に、最高のモノが与えられるのです。

カナンに持って行ったモノを、また、エジプト王国に持って帰って来るのですから、手間であり、無駄ですが、カナンの家財に未練を残さないための、ヨセフなりの配慮でしょう。遠い将来、良いモノを手にするのではなく、今、良いモノを手にするのであり、エジプト王国での豊かさを、そのほんの一部を、味わう事が許されるのです。

これも、救いに関係する事です。将来の祝福の約束のみならず、今も祝福されるのです。

天国に行ってから祝福を受けるのではなく、この世でも祝福を受けるのです。

将来の祝福のために、今を耐え忍ぶのではなく、将来の祝福の大きさを想像させるために、今を祝福してくださるのです。

この世でも祝福を受ける事を、教えている箇所であり、罪深い、私たちの内に、聖霊なる神様が住んでくださり、導き、助け、守ってくださる事と理解すると良いでしょう。

45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「途中で言い争わないでください。」

言い争い」は、「震える、揺れる、わななく」を基本的な意味とするヘブル語であり、兄たちの、ヨセフに対してなした悪しき行いについて、兄たちの内には、未解決の問題として残り、留まっておるが故に、心の安定を欠いた状態であり、心が定まらず、揺れ動いている状態であり、互いに対する非難や、責任の押し付け合い、擦り付けに発展しないように、釘を差しているのです。

ヨセフの兄たちは、自らベニヤミンの身代わりを申し出るまでに変えられましたが、ヨセフに対する悪しき行いについては、ヨセフに対しても、神様に対しても、隠したままであり、解決していません。

そんな不安定な土台の上では、身代わりも手柄になり、自慢の種になりかねません。

罪は告白してこそであり、告白するから、進展が見込めるのです。

45:25 彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地に入り、彼らの父ヤコブのもとへ行った。

45:26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

ヨセフの兄たちが、ヨセフが獣に殺されたように工作し、父ヤコブに嘘の報告をしてから、20年近い歳月が過ぎていますから、父ヤコブは、ヨセフの事を諦め切れていなかったにしても、ヨセフは死んだんだ、と20年も、自分に言い聞かせて来たのですから、俄かに信じられないのは、無理からぬ事でしょう。

生きているのが見つかった、と云う事さえ、奇跡的な事であり、全くの驚きであるのに、更には、あの巨大なエジプト王国を実質的に支配しているとは、あらゆる想像や願望を越えた、考えられない事であり、どう考えても、結び付けられはしませから、余計に混乱してしまったのです。

ここで、真実、ヨセフを奴隷として売ってしまった事、父ヤコブを騙した事を、打ち明けられれば良かったのですが、それは出来なかったようです。

45:27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

息子たちの報告だけでは信じられなかったヤコブですが、エジプトの車、しかも、実用的な荷車ではなく、見た事も、聞いた事もない、人を乗せるための、快適な客車を見て、やっと状況を理解し、納得し、「元気づ」きます。

この「元気づいた」と訳されているヘブル語は「霊が生きた、息が生きた」と訳す事が出来、ヨセフを失って以来、沈み込み、息をしているだけの屍のような状態だったヤコブに、生気が甦った、失っていた活力を回復した、生きる力を取り戻した、姿を記しているのです。

ヤコブは、ヨセフが生きているとの報告を受けて、豪華な客車を見て、エジプトからの、たくさんの、珍しい、貴重な贈り物を見て、神様が、人間のあらゆる考えや期待を遥かに越えて、素晴らしいモノを、必要なモノを用意してくださる事を、改めて認め、感謝し、神様の御名を褒め称えたのではないでしょうか。

45:28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

それで十分だ」は、非常に意味深長です。

ヤコブは、ヨセフと、兄たちの間に確執がある事には、気付いており、自分に原因の一端がある事を自覚していたでしょうし、ヨセフと、兄たちの間に、何かがあったのではないかと思いつつも、確証がないために、問い質す事を憚ったのであり、それら、一連の事を、ヨセフの生存で、良しとしようと、自分に言い聞かせたのです。

しかし、非常に人間的な、終わらせ方ではないでしょうか。

ヤコブも、ヨセフの兄たちも、それぞれが告白すべきであり、膿というか、澱というかを出し切り、沈殿物を濾過しなければならないのではないでしょうか。

阿吽の内の、暗黙の了解は、信仰においてはマイナスです。

告白は、明確にする事であり、確認作業です。

確認するからこそ、解決が見出され、合意に至るのです。

告白するからこそ、赦しに至るのであり、赦すからこそ、和解に至るのです。

なんとなく、は、結局、何も変わっていなし、変わりようがないのです。

こんな形で終わらせたからこそ、ヤコブは、ヨセフと、兄たちの和解を明確に導くチャンスをふいにしてしまったからこそ、

5015節「ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。

50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』」なのです。

傷を抱え、傷と膿と澱を隠した生き方にならないよう、すべき事は遅滞なく、なのです。

【適応】私たちは、持っているモノを、後生大事に抱え、握り締め、失う事を恐れ、避けてはいないでしょうか。

しかし、失う事は、違うモノ、新しいモノ、より良いモノを手にするチャンスなのです。

そして、持っているモノを手放してこそ、次のモノを手にする事が出来るのです。

握り締めていては、次のモノ、新しいモノ、より良いモノを掴む事は出来ません

そんな事、改めて言われるまでもありませんが、人間は、本当に保守的であり、変化を嫌います。

持っているモノを手放すのは、勇気が要りますし、未練を持つでしょうし、時には、一度は手放しても、取り戻すために奔走する事さえあるのではないでしょうか。

物質的なモノ、お金や資産だけでなく地位や名誉、学歴や資格、権力や能力、趣味や趣向、精神的な拠り所、親、子ども、そして自分自身、などなど、人其々、様々なモノと、離れられず、捨てられずにいるのではないでしょうか。

それらが枷(かせ)となり、箍(たが)となって、不自由にしているのに、もっと良いモノを見逃しているのに、今のモノで満足し、今のモノで安心してはいないでしょうか。

しかし、今持っているモノは、今しか通用しません。

この世でしか通用しませんし、将来の保証にはならないのです。

しかし、エジプト王パロと、ヨセフが保証したように、カナンのモノを捨て、カナンを離れてこそ、エジプトに行ってこそ、もっと素晴らしいモノが与えられるのであり、命を永らえ得たように、聖書の言葉、神様の約束を信じて、この世の、財産、拠り所の全てを捨て、離れてこそ、自分の命をも捨ててこそ、イエス様への信仰を持ち、神様の懐に飛び込んでこそ、新しい命が与えられ、神様のモノを全て相続する事が出来るのです。

この世のものは、全て、残らず、錆付き、腐り、時に盗まれます。

しかし、神様が与えてくださるモノに錆は付かず、腐らず、盗まれる事もありません。

神様が与えてくださるモノは、本物であり、何にも代え難いモノですから、この世のモノとは比較になりませんから、惜しむ必要も、未練を残す必要も、全くありません。

そして、私たちが失い、捨てるものを惜しむ思いに比べて、神様、イエス様の捨てたモノが、犠牲が、如何に大きいかに思いを馳せていただきたいのです。

神の子の身分を捨てて、この世に来られたのであり、全ての尊厳、威光、栄誉を捨てて、代わりに、罪を、裁きを、呪いを引き受けられ、死にまでも従われたのです。

この神様、イエス様の捨てられたモノ、犠牲に比べたならば、私たちのモノは、何の価値があると云うのでしょうか。

そして、私たちは、自分のモノと考えますが、そもそも、私たちは、何も持っていないのであり、全て、神様から与えられたモノ、神様から預かっているに過ぎないのであり、捨てても、離れても、失っても、何の損失もないのです。

ここにおられる皆様が、神様、イエス様の招きに応じ、この世の全てへの未練を捨て、永遠の命と、天国の富とを手に入れられることを願ってやみません。

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聖書箇所:ヨハネの福音書1244節~50節         2018-5-6礼拝

説教題:「イエス様は世を救うために来られた」

【導入】

イエス様は、イエス様に従う弟子たちに、どっちつかずにいる群集に、そして反対、攻撃する宗教的指導者たちに、神様からの私信を語り続けました。

イザヤの預言の通りに、拒み、受け入れない人々に対してもです。

イエス様を受け入れない人々は、人からの栄誉を愛したからであり、会堂から追放されないためであった、と記されています。

人からの栄誉とは、人々からの賞賛の声、尊敬の眼差しを得るために、長い祈りをする人々であり、わざわざ一目でパリサイ人、律法学者、預言者である事が分かるような服装、態度を取る人々です。

それは地位に固執した生き方であり、神様に従う故に身なりを気にしないバプテスマのヨハネとは正反対の生き方と言えるでしょう。

会堂からの追放とは、ユダヤ社会からの追放であり、ユダヤ教の祭儀に与れない事を意味します。

それは、生贄を献げられない事であり、罪が贖われない事であり、天国に入れない事を意味しました。

この考えは、ある意味で正しかったのですが、生贄による罪の贖いは完全なモノではなく、完全な贖いがなされるまで繰り返さなければならず、その祭儀を執り行う祭司も、生け贄や律法の意味を教えるパリサイ人も、生け贄や律法の意味を研究する律法学者も完全ではなく、

完全なお方が現れ、贖いが完成するまでの、一時的に人々を導く働きでしかない事、大切な働きではありますが、神様から委ねられた働きであり、真の大祭司、真の教師、真の王が現れたなら、直ぐにその全権を引き渡さなければならない、と言う事を忘れているのではないでしょうか。

ここに、イエスというお方が現れ、人には出来ない事をなされ、人には語れない奥義を語ったのですから、しかも、ご自身がキリスト、メシヤ、神の子であると宣言されたのですから、多少の疑問や理解の及ばない事があっても、聖書に照らし合わせて、客観的な判断を下し、率先してイエスを受け入れる事が、人々をイエス様に誘うのが祭司の、律法学者の、パリサイ人の責務であったのに、その責務を果さず、自分たちも完全な贖いに入らないばかりか、人々をもイエス様から離れさせ、完全な贖いの恵みに与らせない様にしたのです。

これはまさにサタンの働きです。

サタンの手先となって人々を惑わす宗教指導者に対して、愚かで、頑なな群集に向かって、イエス様は最期の宣言、説教をなさいます。

【本論】

12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。

と宣言します。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。

また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」とは、どの様な意味でしょうか。

「わたし」とはイエス様の事であり、「わたしを遣わした方」とは父なる神様の事です。

イエス様を見て、イエス様を信じた人は、父なる神様を見て、父なる神様を信じた事なのだ、と言うのです。

ここで、ヨハネはイエス様と父なる神様がイコールだと言う事を説明しているのではありません。

私たちは父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様を信じています。

この3つの神様は一つである、これを三位一体と言いますが、ヨハネはこの教理の説明をしている訳ではありません。

イエス様は神様としてこの地上に来られたのではなく、人々が父なる神様を信じる事が出来る様にするためであり、イエス様は父なる神様の使命を帯びて、神様の国の大使として、父なる神様の代理人として来られた、と言う事なのです。

大使、代理人は、神様そのものではありませんが、神様に代って、神様の私信を携え、神様の権力、神様の全権を委ねられた人です。

その、神様の全権を委ねられた人を受け入れると言う事は、背後に居られる神様を受け入れると言う事なのです。

イエス様は神の御子であられるのに、ご自分を空しくし、神様の遣わされた者として神様の使命に従順に従われたのです。

その神様から委ねられた使命ですが、ヨハネの福音書にはイエス様の働き、使命が、比喩を使って紹介されています。

その一つが「光」です。

12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

ヨハネの福音書812節でも「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と、ご自分を「光」だと紹介しています。

わたしは光としてこの世に来た。わたしは光そのものだ。と仰るのです。

光の働きは全てを明るみに引き出す事です。

イエス様は手術台のライトの様です。

適度な明るさですが、影は全くないのです。

イエス様という光に照らされると、隠していた事、仕舞い込んでいた事、忘れていた事、全てが明らかにされます。

人間同志なら隠しおおせるかも知れません。

騙し続ける事が出来るかも知れません。

しかし、イエス様に隠し事は出来ないし、イエス様は全てを白日の下に晒されます。

この光の下に、明るみに出されるのは、闇の中に留まる事のないためだと言います。

明るみに出す目的は、罪を曝け出して、糾弾し、追及し、逃げ場をなくし、止めを刺すためではないのです。

自分がどんな状態にあるかは、暗闇では解らないから、明るみに出すのです。

自分の状態を正しく知る事が次のステップに繋がります。

庭や川原に転がっている石の下には、小さい虫が沢山蠢いています。

表面は綺麗な石でも、持ち上げると裏側は湿っていて、泥がくっ付いていて、小さな虫が大慌てで影を求めて、動き回ります。

もぞもぞ、ちょろちょろ、どんなに小さな石でも、その下に潜り込んで身を隠します。

私たちの心の中も、光に晒さなければ、小さな罪が蠢いている事を知る迪がないのです。

一度石を持ち上げれば、暫くはその石の下に虫はいなくなります。

でも、石を戻して置いて、暫くすれば、その石の下から逃げていた虫は、逃げていた小さな石から戻ってきます。

そして、表面からは見えないけれど、また沢山の小さな虫が生息を始めるのです。

しかし、イエス様の光に照らされ続けるならば、虫は留まる事が出来ず、寄り付かなくなります。

自分ではどうしようもないが、イエス様に光を当てて頂いて、罪を追い出して頂くのです。

信仰生活は、この繰り返し、と言う事が出来るでしょう。

頻繁に石を持ち上げて、光の中に曝け出す。

長く持ち上げて、戻って来られない様にする。

この繰り返しが、大切なのではないでしょうか。

誰でも一度持ち上げただけで、永久に虫が居なくなる、つまり罪がなくなる訳ではないのです。

イエス様の光の中に留まり続けるならば、闇の部分はなくなり、闇に巣くい、蠢く罪は留まり続ける事が出来なくなるのです。

12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

先程もお話しましたが、イエス様がこの世に来られた目的は裁くためではありません。

世を救うためだと仰います。

別の言い方をするならば、警告のために来られたのです。

光に照らされて、罪を明るみに出し、罪に戻る事のないためです。

私たちが罪から離れて、救われるために、来られたのです。

その働きの形態の一つの比喩が「光」であった訳ですが、イエス様はご自分を、他に648節で「わたしはいのちのパンです。」

107節で「わたしは羊の門です。」

1011節で「わたしは良い牧者です。」

1125節で「わたしは甦りです。いのちです。」

146節で「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」

151節で「わたしはまことのぶどうの木です。」と例えを用いて紹介されていますが、どれも、いのちと関係ある言葉です。

羊の門、良い牧者、の例えは羊の命を守る事を現しています。

ぶどうの木、の例えもぶどうの木から命を頂いてこそ、豊かな実りに繋がる事を教えています。

裁判官、検察官など、私たちを罪に定める役回りの例え、比喩でない事が特徴的です。

これらの例えからも、イエス様が来られた目的が、私たちを救う為である事に疑いの余地はありません。

イエス様はユダヤ人が生活の中で良く知っている例えを用いて、ご自身がどの様な方か、どの様な目的を持って、この世に来られたかを解り易く教えておられます。

どれも有名な言葉で、教会学校では暗唱聖句の定番で、私たちの信仰を支えてくれる、慰めに満ちた言葉です。

例えば1011節の「わたしは良い牧者です。」は詩篇23篇を彷彿とさせます。

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

たましいを生き返らせ…罪に死んでいた私を生き返らせて下さるのです。

そして、何時までも主の家に住まいましょう…主の家、天国の永住権を約束されているのです。

この、私たちが救われる、天国に入るために来られ、そのために働かれているイエス様を拒む者を、裁かれるのは誰でしょうか。

12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

先程から何回も申し上げていますが、イエス様は裁きのために来られたのではありません。

イエス様は救うために世に来られたのですから、イエス様と出合った人はイエス様を受け入れるか、拒否するかの選択をしなければなりません。

そして、ここで裁かれるのはイエス様を拒否した人である事を確認しておかなければなりません。

イエス様の言葉を聴いて、聴いた上で、拒み、受け入れない人たちが対象であり、彼等が裁かれるのです。

イエス様を拒み、イエス様を受け入れない者は、イエス様の言葉が裁くと言うのです。

言葉が人を裁く。抽象的な表現です。

この48節は、続く4950節、そしてヨハネの福音書11節が理解の助けになります。

12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

11節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

イエス様は幼い頃は両親に仕え、大人になってからは大工として働き、家族を養ってきました。

そして、凡そ30歳の時に、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられてから公生涯に入りました。

公生涯というのは教祖として活動を始められたと言う事なのではなく、神様の命令で、天国の事、聖書の事、神様を愛し、人を愛する事を教え始められた生涯、と言う事です。

自分で考えた事、思いついた事を語ったのではありません。

ユダヤ教から分裂、或いはユダヤ教を発展させた新しい教えではありません。

聖書の言葉が成就するために来られたのです。

ですからイエス様が話された言葉は、聖書に書いてある事です。

神様のお考えです。

イエス様が語られた事は、神様のお考えを「そのままに話しているのです」が、一言一句そのままずばりではありません。

神様が口移しで言葉を授けた訳ではありません。

ワイヤレスマイクの様に、神様が喋った言葉を天国から送信し、イエス様が地上で受信して機械的に声を発した訳ではありません。

神様が語る様に命じられた言葉を、イエス様の生きた時代の言葉で、誰もが理解でき、納得できる様に、例えを用い、解り易く、子どもにも、大人にも、知識人にも、そうでない人にも解るように話されたのです。

難しい外国語で話されたのではありません。

日常の会話の中で、ガリラヤ地方の訛りもあったでしょう。

でも、律法学者のように、知識の羅列、言葉の羅列ではありません。

権威を持って語られたのです。

神様を喜ぶ具体的な方法を教えられたのです。

人を愛するとはどう言う事かを教えられたのです。

どれもこれも聖書に記されている事であり、神様のお考えです。

新しいものは一つもありません。

言葉、表現は違っていても、聖書に書いてある事を、500年以上前に書かれた事を、イエス様の生きていた時代の人々に解り易く教えられたのです。

律法を守る事では「義人」となる事が出来ない事。

生贄を捧げる事では、罪を拭い去る事が出来ない事。

そして、救われる為の方法、永遠のいのちを手に入れる為の方法を話されたのです。

ですから、イエス様を受け入れない人々は、自分の力で永遠のいのちを手に入れると言う選択をしたのです。

つまりは、神様の言葉を余す所なく語ったイエス様を拒否したと言う事は、神様の言葉を拒否した事であり、神様を受け入れなかった、神様を拒否したと言う事なのです。

神様の提案を退け、自分の力で義に到達し、永遠のいのちを掴む、天国に入る、と言っているのです。

しかし、律法を守る事で「義人」となる事は出来ません。

申命記625節に「私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである」と記されていますが、「このすべての命令を守り行な」って始めて「義となる」のであり、一つでも欠けたならば、義とはなれないのであり、ローマ書310節に「義人はいない、一人もいない」と記されている通りです。

律法はその全てを完全に守ってこそ、意味があるのであり、例え一つでも、違反すれば完全ではなくなり、神様の基準には到達しない事になってしまいます。

生贄も、神殿での礼拝も、本物をかたどった物にしか過ぎません。

間に合わせ、仮の姿、一時的な物で、模型に過ぎません。

本物ではないのですから、偽札で買い物が出来ない様に、神様の基準に達する事が出来ないのですから、永遠のいのちも、天国に入るチケットも手に入れる事は出来ないのです。

救われる為の手段を拒否したのですから、天国に入る事が出来ないのは当然です。

人間の行き着く先はイエス様の言葉を信じて救われるか、裁きしかないのです。

そして裁きの座では、行ないに応じて判決が下され、火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

48節の「わたしの話したことばが、終りの日にその人をさばくのです」とは、イエス様の言葉を拒否した者は、その事が裁きの結果を決定付ける、の意味として理解出来るでしょう。

また、11節に「ことばは神であった。」とありますので、「ことば」つまり神様が終りの日に裁かれる、と理解する事も出来るでしょう。

【適応】

イエス様はご自分の考えでは何もなさらず、全て神様の御心を行ないました。

イエス様は神様の命令が、人々に永遠のいのちを与える事であると認識し、その為に、何を言い、何を話すべきかを正しく受け止めて、その命令を達成する為に話し、行動したのです。

イエス様は神様ですから、神様に成り代わって、世を救う為だけでなく、裁きも同時に行なう事も出来た事でしょう。

しかし、神様の命令だけを忠実に遂行したのです。

イエス様は能力があり、権威があり、権限を持ちながらも、その権限を行使なさろうとはせず、神様の命令だけを遂行されたのです。

それはイエス様が従順の見本を示されただけでなく、神様の憐れみ、世を救おうとの願いが、どれ程強いかを示すものでもあったのです。

神様の願いは一人として滅びる事なく、全ての人が救われる事です。

だからと言って無条件で、罪を見逃し、罪を犯さなかったかの様にして、天国に招き入れる事はなさいません。

心のきよい者でなければ天国には入れません。

しかし、哀しい事に、この世に心のきよい者は誰一人いないのです。

皆、罪に汚れ、そのままでは天国に入る事が出来ないのです。

唯一天国に入れる方法が、イエス様です。

イエス様の聖い光に照らされて、罪、汚れを明確にし、イエス様の流された血潮によって、私たちを清めなければ、天国に入る事が出来ないのです。

自分の力で、努力で、知恵で、忍耐では、誰一人として神様から合格点は貰えません。

イエス様は世を救うために来た、この言葉を信じて「私のような罪人も救って下さい」と、イエス様の前に出て行くなら、イエス様はあなたを、私を受け入れて下さいます。

イエス様の招きは、誰にでも開かれています。

招きに応じるか、背を向けて離れて行くかはあなた次第です。

天国は招待券と言うか、ビザと言うか、が必要です。

誰にでも招待券を下さいますし、無審査でビザを発給して下さいます。

でも、招待券がなければ、パスポートにビザのスタンプがなければ天国には入れないのです。

イエス様を受け入れると言う事は、招待券を貰う、ビザを貰う、と言う事です。

私たちが正しいから、聖いから招待券、ビザを下さる訳ではありません。

イエス様が私たちの保証人になって下さるから、招待券が与えられ、ビザが貰えるのです。

ただで貰える訳がない、審査なしでビザが発給される訳がない。

この世の常識ではその通りですが、神様のお考えはただで、無審査でなのです。

イエス様は私たちを招待する為に来たのです。

イエス様は世を救うために、私たちを救うために来たのです。

まだ、イエス様の招きに応じていない方は、どうぞ、招待券を受け取って下さい。

無審査でビザの発給を受けてください。

イエス様はその為に、この世に来られたのです。

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