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聖書箇所:創世記4916節から21節                     2018-7-29礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・女奴隷ビルハ、ジルパが生んだ子どもたちへの預言

【導入】

現代は、奴隷制度は存在しませんし、身分制度も存在しないとされていますが、残念な事に、今でも、世界の一部地域では、身分制度が存在し、日本の一部地域でも、部落差別、同和問題が存在し、差別を受け、不利益を被る方々がいらっしゃいます。

しかし、基本的な人権の一つとして婚姻の自由があり、結婚、離婚を繰り返しても、何の問題もなく、子どもが何人与えられても、全ての子どもには同等の権利が与えられ、差別も、区別もありません。

しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの時代には、奴隷制度があり、奴隷の子と、正妻の子には、大きな違いが存在しました。

創世記218節から13節を扱った際に、詳細に語りましたが、奴隷の子は、奴隷であり、基本的に財産分与に与る事が出来ませんが、バビロンの王ハムラビが、紀元前17世紀の在位期間中に制定し、明文化した、とされるハムラビ法典では、父の認知を条件として、奴隷の女の子は、自由の女の子と同等の権利を持つと規定しています。

即ち、父の認知があれば、正式な跡取として数えられ、相続する権利が与えられます。

しかし、奴隷の身分である事に変わりはありません。

奴隷は、主人の所有物であり、財産を持っていると云っても、主人の所有物でもある訳であり、奴隷の子も、主人の所有物であり、財産の所有者が誰なのかは、微妙であり、名目上の事でしかないのかもしれません。

もう一つの身分、相続に関する法も紹介いたしました。

ハムラビ法典の150年前に制定されたとされる、リピット・イシュタル法典では、奴隷の女の子は、自由を与える交換条件として、跡取の権利を失う、と規定されているのです。

奴隷としてではあるけれども、幾ばくかの財産を持つか、財産は与えられないが、自由の身分とされるか、です。

どちらにも長短があり、選ぶのは簡単ではありませんが、ヤコブは、正妻の子、奴隷の子の区別なく、財産と祝福を与えたのであり、財産と働きを、それぞれの子どもに継承する事を許したのであり、これは、画期的な事です。

土地が自分の所有物になるのであり、それを子どもに継承出来るのであれば、張り合いが違ってくると云うものです。

正妻レアの子どもたちへの預言に続いて、先ず、ラケルの女奴隷ビルハの生んだ子どもへの預言が語られます。

【本論】

49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。

ダン」の名前の意味は、「正しく裁く」ですが、ダンは、名前の通り、「裁き人」としての働き、活躍を期待され、イスラエル民族、ダン部族の中にあって、「裁き人」として働く事が預言されているのです。

「裁く」と云う働きには、中立性や、自主性が必要であり、広く、高い見識が必要であり、周りからの影響を受けない、独立性が必要不可欠な働きであり、政治的にも、民族的にも、自主性を保持していく事が預言されているのです。

奴隷の身分でありながら、自主性を持っている意味は、非常に大きい。

奴隷に求められるのは、従属性ですが、命じられた事だけをやっていたのでは発展、進展、永続は見込めません。

自主的な、創意、工夫、努力があってこそ、発展、進展、永続が見込めるのです。

ダンの相続地は、非常に小さいながら、エジプトとシリヤを結ぶ重要な幹線道路、沿線の地であり、交通、交易でも、文化の交流、情報の入手でも、有利に立ち回れたようであり、「裁き人」としての働きに、益となり、ダンは、イスラエル民族を牽引する、イスラエル民族発展の先駆けになると、ヤコブから預言されているのです。

更に預言の言葉は続きますが、以下の、女奴隷の子に対する預言の言葉は、抽象的な表現があり、意味不明な部分があります。

49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。

ダンは、小さな一族ですが、勇猛であり、蛇のように待ち伏せし、狡猾に動き回り、機敏に立ち回り、馬、戦車に乗って戦う敵を奇襲し、後ろに落とし、蝮のような毒で致命傷を与える様子、幾度も撃退する様子を預言するのです。

17節から、ダンが好戦的であるような印象を受けますが、強ち間違いではなさそうです。

その根拠は、士師記1818節に記されていますが、新改訳第3版は449ページ、新改訳2017462ページ、「五人の者がミカの家にはいり・・・この五人はダン部族の者たちですが・・・、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。そのとき祭司は彼らに言った。「あなたがたは何をしているのか。」18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていてください。あなたの手を口に当てて、私たちといっしょに来て、私たちのために父となり、また祭司となってください。あなたはひとりの家の祭司になるのと、イスラエルで部族または氏族の祭司になるのと、どちらがよいですか

ダン一族は、力を拠り所とする、暴力的な面を持っている事が記されているのです。

しかも、レビ記2411節に記されていますが、新改訳第3版は215ページ、新改訳2017222ページ、「そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった」。喧嘩相手を罵り、怒りの鉾先を神様に向け、神の御名までも罵る人物を輩出するのです。

それでも、士師記13章に記されていますが、あのサムソンを輩出し、イスラエルを救うのであり、功罪合わせ持つのが、人間なのでしょう。

「裁き人」としての期待を込めた預言、「戦士」としての、有益な一面が預言されました。

ここでヤコブは、子どもたちへの預言を中断して、主に祈ります。

49:18 【主】よ。私はあなたの救いを待ち望む。

唐突な感を否めませんが、自身が発した言葉、17節の「馬のかかとをかむ」の「かかと」が引き金になったのではないかと、推測します。

かかと」はヤコブの名前に由来するからであり、蛇のように待ち伏せし、狡猾に動き回り、機敏に立ち回る姿を、自身の生き様と重ねたのではないでしょうか。

神の民とは云っても、罪人であり、色々と問題があり、数々の失敗があり、神様の助け、救いを待ち望まざるを得ない心境から、神様へ祈りを献げたのでは、そして、将来を支配される神様に祈りを献げたのではないでしょうか。

それは、ある意味、自然です。

神様との契約は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヤコブの子孫へと続きます。

ヤコブの祈りは、ヤコブの子孫を通して、神様が御業を為され、ご計画を進められ、ヤコブの子孫によって、神様の御業が全うされる事を、願い求める祈りなのです。

神様の御業は、神様の主権によってのみ、進められます。

もし、ヤコブの子孫が、神様の御業に相応しくなければ、ヤコブの子孫は取り除かれてしまい、別の民が選ばれ、用いられる事になるのではないでしょうか。

そうならないように、祈るのであり、神様のご介入によってしか、為し得ない神様のご計画と、人間の弱さ、現実を見抜いた、ヤコブの深い洞察からの祈りと云えるでしょう。

49:19 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。

順番から云えば、ラケルの女奴隷ビルハの生んだ子、ダンの弟、ナフタリ、と続くべきですが、ナフタリの前に、レアの女奴隷ジルパの生んだ子、ガド、アシェルについての預言が語られます。

ガドの相続地は、ヨルダン川の東側であり、常に、外敵の脅威に曝されていた土地であり、昔から、北の列強国が、略奪のために、度々攻め入っていた所です。

しかし、ガド一族は、戦い上手な、勇敢な戦士たちであり、しかし、好戦的ではなく、積極的に攻撃に出るのではなく、攻撃されても怯まず、攻撃をものともせずに、押し返す、軍事的な、また列強国を恐れない、精神的な強さを持っていた事が暗示されましょう。

外敵の脅威、侵略と略奪に触れたので、軍備、軍事力に付いて、語りたいと思います。

理想は、一切の軍備、軍事力を持たない事ですが、人間は罪の性質を持っているので、弱さを持っているので、相手を信頼し切る事が出来ず、侵略を恐れて、抑止力として、防衛のためを口実に、最低限の軍備、軍事力を持とうとしますが、それは、相手にとっては侵略の準備と取られかねないものです。

相互が、専守防衛を掲げても、相手の軍備、軍事力を上回らばければならない、と考えたのでは、留まるところはありません。

また、現代のように、複雑な社会では、昔の軍事力バランスなどの考え方では対応出来ません。

核弾頭を搭載出来る大陸間弾道ミサイルなどがなくても、正確にコントロール出来るミサイルを、原子力施設に落とせれば、甚大な被害を与え得るのであり、各施設の制御システム、コンピューターを乗っ取れば、社会インフラをダウンさせる事も可能なのであり、社会的混乱を引き起こすのに、膨大、莫大な費用は不要なのです。

それなのに軍備、軍事力に頼るのは、滑稽であり、軍備、軍事力の増強は、軍事産業、死の商人の思う壷であると心得なければならず、話し合いによる外交こそ、柔和と譲歩こそが、平和を作るのであり、神様に喜ばれる事と、肝に命じておかなければなりません。

49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。

続いて、レアの女奴隷ジルパの生んだ子、ガドの弟、アシェルについての預言が語られます。

アシェルの相続地は、豊かな土地であると共に、沿岸地帯であり、通商路にも接しており、フェニキヤの物資が、豊かに入って来る地域であり、その食卓には、王様が食べるような種類のご馳走が並び、非常に富、栄えると、預言されているのです。

49:21 ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。

女奴隷の子の最後として、ラケルの女奴隷ビルハの生んだ子、ダンの弟、ナフタリへの預言へと続きます。

ナフタリの相続地は、ガリラヤ湖の西から北にかけての地域であり、アシェルとマナセに挟まれ、北にダン、南はゼブルン、イッサカルに囲まれた地域であり、安全が保障されたような地域ですから、「放たれた雌鹿」のように、自由に、伸び伸びと走り回り、自由を謳歌するような生き方が、預言されているのではないでしょうか。

そして、このような生き方は、自身のみならずであり、士師記4章に記されていますが、新改訳第3版は418ページ、新改訳2017431ページ、ナフタリの子孫、アビノアムの子バラクの働きによって、カナン人の圧迫から開放し、イスラエル人に自由を得させる事へと、繋がって行くのです。

【適応】

ヤコブの預言の言葉は、正妻レアが生んだ子どもたち、六人についてから語られ始め、女奴隷ビルハの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、女奴隷ジルパの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、と続きます。

普通なら、省みられる事のない、女奴隷の子どもたちへの祝福、預言が語られているのであり、分量は、ダンが2節、ガド、アシェル、ナフタリに対しては1節ずつでしかありませんが、個々人に対して、祝福が預言されているのは、とても大切な事です。

正妻の生んだ子どもたちだけが、祝福を受けるのでは、愛されている者が生んだ子どもたちだけが、特権に与るのでは、奴隷の生んだ子どもたちは、蚊帳の外、なのではありません。

ヤコブの子、一人一人に対して、祝福、預言が語られ、一人一人の生き方によって祝福を受け、特権に与り、また、呪いを受け、冷や飯を食らう事になってしまうのです。

そして、女奴隷の生んだ子どもたちが、正妻レアの生んだ子どもたち、愛されている妻ラケルの生んだ子どもたちに挟まれる形で、扱われている事にも、意味がありそうです。

閑話、休題、のように感じるかも知れませんが、重要な事が語られている、或いは、重要な意味が隠されている、と理解する事が大切です。

正妻レアの生んだ子どもたちへの預言が語られ、愛する妻ラケルの生んだ子どもたちへの預言を語る、合間に、息抜きに、女奴隷の生んだ子どもたちについての預言が語られたのではなく、基本的には、生まれた順番と、関係性に従って、しかし、機械的にではなく、神様の導きに従って、順番が入れ替わって、それぞれに対して預言が語られたのです。

取り返しの付かない大失態を犯しても、長子は長子として扱われ、各々の持つ、特徴に関連して預言が語られるのです。

呪いの預言もありますが、祝福の預言が中心であり、呪いを意識した生き方、それは、弱さ、欠点を意識した生き方であり、呪いの預言が、現実とならない生き方を選択するようにとの、警告と受け止めるべきなのです。

ヤコブの、女奴隷の生んだ子どもたちに対しての預言の中に、「奴隷の子」を意識、連想させる言葉は一切ありません。

正妻、愛する妻と、全く差を、区別を付けていないのであり、創世記2110節の、アブラハムの妻サラの言葉、新改訳第3版は31ページ、新改訳201732ページ、このはしためを、その子といっしょに追い出してください」、こんな考え方が一般的であった時代にあって、差別を付けず、区別も付けず、子として扱い、祝福したのは、画期的な事なのです。

奴隷の子は、どんなに優秀でも、奴隷であり、基本的に跡取りとしての権利を主張する事は出来ません。

祝福してくださいと、願う事も出来ないのですが、ヤコブは、奴隷の子を、奴隷ではない子のように扱い、祝福を与えたのです。

奴隷、奴隷の子に対応する言葉は、自由、自由の子です。

私たちの本質は、罪の奴隷であり、罪の奴隷の子として祝福には与れない身分ですが、神様はイエス様の贖いによって、私たちを奴隷状態から開放してくださり、自由を与えられ、自由の子にしてくださいました。

神様からの祝福を受けられるのは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの子、しかも、自由の子だけでしたが、本来ならば、神様からの祝福を受ける権利のない奴隷の子が、今、神様のご計画、憐れみによって、神様からの祝福を受けたのです。

本来ならば、祝福とは縁(えん)も縁(ゆかり)もない奴隷の子が、罪の奴隷が、自由の子と、同等に扱われたのであり、祝福の中に入れられたのです。

イスラエル人、異邦人の区別なく、自由人、奴隷の区別なく、アブラハムの子孫と見做され、アブラハムの系図に組み入れられ、神様からの祝福を受けたのです。

しかも、本来なら末席に置かれて当然なのに、祝福を受ける群れの真ん中に置かれているのであり、この事だけでも、大きな祝福である事は明白です。

ここにおられる皆様も、イエス様の贖いを受けて、自由の子とされ、アブラハムの子孫と見做されて、祝福を宣言されているのです。

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聖書箇所:創世記491節から15節                      2018-7-22礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・正妻レアの生んだ子どもたちへの預言

【導入】

昨今、「○○活」のような言い方が流行っているようですが、礼拝説教で、ここのところ連続で扱っているのは、まさにヤコブの終活です。

墓の問題、遺産相続の問題は、残った者たちに任せるしかない部分もありますが、大筋というか、希望は伝えておくべきであり、折に触れて、表明しておくべきです。

遺言書、と云う正式な形ではないにしても、親しい者だけにではなく、内密にではなく、関係者全員に伝えておくべきです。

聞いてなかった、知らなかった、では済まされない事であり、また、死んでしまっていたら、確認のし様がない事だけに、はっきりさせておかなければなりません。

ヤコブは、死後の埋葬の事を、明確に遺言、指示し、ヨセフの二人の子、マナセとエフライムと、養子縁組する事を宣言し、慣習に則っての儀式を行ない、名実ともに、マナセとエフライムはヤコブの子とされました。

更に、マナセとエフライムの頭の上に手を置いて、祝福の宣言を発したのですが、次男のエフライムの頭の上に支配、権威を意味する右手を置き、エフライムを頭とし、長子であるマナセの頭の上に従属を意味する左手を置き、マナセを次席としたのです。

長子を重要視し、長子に特別な権利と責任を与えるイスラエル民族にあっては、あり得べからざる事ですが、これは、神様の御こころなのです。

神様にはご計画があるのであり、人間の常識的判断では、或いは人間の経験では理解出来ない事でも、疑問に思う事や、もっと良い方法があったとしても、神様のご計画には従うが良しなのです。

神様に従う方が得策だから、従うのでも、神様は全てを益としてくださるから、従うのでもありません。

神様が世界を支配しておられるから、従うのであり、王の王、主の主、だから従うのです。

苦しみや死が待ち受けていても、従うのであり、恥や屈辱が待ち受けていても、従うのです。

人間は神様に造られたからであり、神様に従う者として造られたからです。

そして、神様に従う訓練として、親に従い、組織の長に従うのです。

勿論、人間は罪を持っているので、常に的確な判断、正解を指示出来る訳ではありませんが、私利私欲で行動する者は、確固たる基準がなく、その場の状況、損得で行動する者は、神様が裁かれますし、自滅の道を突き進む事になりましょう。

罪や欠点を持つ親や組織の長であっても、主に従うように従う時、その家庭や組織は神様の栄光を表すのであり、祝福を受けるのです。

ヤコブは臨終を目前にして、最後の大仕事、ヤコブの子たちを祝福すると云う、大きな作業に取り組みます。

【本論】

49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。

49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。あなたがたの父イスラエルに聞け。

終わりの日」は、終末でも、審判の日でもありません。

そんな遥か先の事ではなく、しかし、ヤコブの死ぬ日の前後の事についてでもありません。

出エジプトの日でも、王国の南北分裂の時の事でも、捕囚となる時の事でもなく、具体的な日ではなく、神様との契約という視点での、神様の祝福を受け継ぐ者としての、将来の日についてです。

聖書は、普遍性を持った書物ですので、どの時代、どの民族にも当て嵌まるような事が記されていますが、必ず、皆に、全ての記述が該当する訳ではありません。

該当する事も、一部あるでしょうが、無理やりこじつけるのは、関連付けるのは、意味づけするのは、断定するのは危険です。

かと云って、過去の歴史であり、私とは、現代とは無関係と考えるのは、聖書が与えられている意味を失わせてしまいます。

聖書は、神様の御こころを知る手段であり、生活の規範、判断の基準であり、神の民として生きるための指針です。

聖書の記事は、神様からの私信であり、神の民が受け取るべき記事なのです。

あなたがた」は、直近のヤコブの子、孫、に対してだけではなく、しかし、遥か先の末裔についてでもなく、聖書を読む人に対してもです。

ルベンについての預言があり、シメオン、レビについての預言と続き、ユダについての預言・・・と続きますが、ルベンについての預言は、ルベンだけに語られているのではなく、皆に該当するのであり、シメオン、レビについての預言は、シメオン、レビだけに語られているのではなく、皆に該当するのです。

ルベンの問題点は、皆に共通する部分があり、シメオン、レビの問題点も、皆に共通する部分があるのです。

決して、聞き流しても、無関心でいてもならないのであり、我が事として、傾聴しなければならないのです。

ルベンの問題点や、シメオン、レビなどの問題点は、誰もが陥る可能性のある問題であり、決して、他人事ではないからなのです。

最初に、ヤコブの正妻レアが生んだ子たちについての預言が語られます。

49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。

わが力、わが力の初めの実」との表現は、長子が特別な存在である事を語ります。

何しろ、最初に与えられた子であり、嬉しさもひとしおでしょうが、確実に相続者が与えられたのであり、何より、神様からの祝福の証だからです。

財産が多く与えられても、相続する者がいなければ、無意味であり、健康で、長寿でも、看取る者がいなければ、血筋の断絶であり、虚しさしかありません。

財産がなくても、短命でも、跡継ぎがいたなら、これに勝る心強き事はありません。

託す事が出来るからであり、発展性が見込めるからであり、希望があるからです。

汚名返上、名誉挽回のチャンスがあるからです。

汚名も、名誉も、本人の問題であると同時に、一族の問題でもあります。

過ぎた事は取り返せませんが、償いは出来るのであり、償いをすべきでしょう。

過去は、検証してこそであり、未来を切り開き、発展の基となるのです。

すぐれた威厳とすぐれた力」は、誰もが持つ事を期待される資質であり、特に、長子の持つべき資質とされていますが、ヤコブの期待でもあります。

親であるヤコブの、長子であるルベンに対する期待でもありますが、現実はそうではありませんでした。

49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──

奔放」とは、一旦動き出すと制御し難い性質、しばしば荒れ狂う事がある様子、衝動的、自制を欠いた状態を表しましょうが、ルベンにおいては、性的な衝動を抑えられなかったようであり、あってはならない事ですが、父の側女ビルハと姦通をしてしまったのです。

創世記3521節、新改訳第3版は64ページ、新改訳201766ページ、

イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。

35:22 イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた

ルベンは、義理の母と、姦通をしてしまったのですが、これは、神様の忌み嫌うべき事であり、後の、律法が成立した時には、石打ちにすべき大罪の一つとしてとして数えられています。

ルベンもビルハも、追放か、それに準ずる厳しい処罰が科せられて当然ですが、聖書は、ヤコブの、ルベンやビルハに対しての叱責や処罰の有無に触れていません。

有耶無耶にしてしまったようですが、それはヤコブの持つ優しさなのかも知れませんが、同時に弱さであり、優柔不断さであり、曖昧にすると、悔い改めのチャンスを与えない事になってしまいます。

ルベンの件のみならず、家長として、誰に対しても、明確な叱責が必要であり、悔い改めがなされてこそ、関係性が修復され、新たな発展も見込めるのではないでしょうか。

この一件が境となってでしょうか、ルベンの信用、地位は落ち、リーダーシップを取る事が出来なくなり、ヨセフを亡き者にしようとの相談、創世記37章の逸話では、兄弟たちを制止させる事が出来ず、兄弟たちの暴走を許してしまい、長子としての発言が顧みられる事もなくなり、一族の存亡に関わる、エジプトに穀物を買いに行く相談、創世記42章の逸話でも、ルベンの提案は、一顧だにされませんでした。

この後、ルベン一族からは、士師も、王も、預言者も登場するは事なく、活躍、貢献する事はないのですが、だからといって、ルベン一族が、全く退けられたと結論するのは早計でしょう。

表舞台には出なくても、目立った働きはしなくても、何処かに潜んでおり、出番の時を待っているのは、間違いありません。

世界を祝福するという働きは、ヤコブ一族に与えられた働きであり、全一族が、一丸、一体となって取り組むべき働きだからであり、ルベンはいらない、事足りてます、と云う働きではないからです。

49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。

基本的に聖書は、一人一人を大切に扱い、別個の存在として扱いますし、ヤコブの子たちについての預言も、シメオンとレビ以外は別個ですが、シメオンとレビだけは一緒に扱われています。

創世記34章に記されている一件、妹ディナ救出の一件の時の、協力関係が主な理由と考えられますが、シメオンとレビとは、一蓮托生のような関係で結び付き、創世記34章の一件以外でも、行動を共にして来たのではないでしょうか。

」は人や動物を殺める時に用いる道具ですが、攻撃にも、防御にも使えるのであり、必要最低限の用い方もあれば、過剰な用い方も、残虐な用い方もあり得ます。

シメオンとレビとは、剣を使うのではなく、剣に使われており、必要以上の殺戮の道具、暴虐の道具としてしまったのです。

49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。

時に、正当な報復は、許される事もありましょうが、「怒りにまかせて」「ほしいままに」は、また7節の「激しい怒り」「はなはだしい憤り」は断じて容認出来ません。

正当な理由があったとしても、過剰な報復は、聖書の許すところではなく、眼には眼、歯には歯であり、打ち傷には打ち傷です。

ディナが、誘拐され、遊女のように扱われたのは事実でも、誘拐した者を、遊女のように扱った者だけを、加担した者だけを罰すべきであり、村を一掃するのは、皆殺しは、余りに過剰であり、残酷です。

シメオンとレビのやり方に、ヤコブはショックを受け、眉をひそめ、注意をしはしましたが、その根拠は、「土地の人々の憎しみを買うような事はしてくれるな」であり、「我々は少人数だから」でした。

ヤコブは、シメオンとレビに、はっきりと、やり過ぎである事、割礼と云う、神の民のしるしの悪用は、神様の許され、喜ばれる事ではない事、騙し討ちは、非道な行為である事を、厳しく諌めるべきでした。

それを怠ったがために、ヤコブは甘い、との認識を植えつけたとしたならば、創世記35章の、ルベンと義母との姦通スキャンダルは、起こるべくして起こった可能性を否定できません。

ヤコブは、シメオンとレビとを、二人に加担した者たちを、厳しく罰しなければならなかったのです。

シメオンとレビ、そしてルベンも、自制という点が、大きな欠点だったようです。

創世記34章に、「牛の足の筋を切った」事は記されていません。

こんな事があったのかも知れませんが、「雄牛」が、男性を意味する文化があり、男性の皆殺しを、文学的に表現したのかも知れません。

49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。

6節の「怒りにまかせて」「ほしいままに」行動してはならず、そして7節の「怒り」「憤り」は制しなければなりません。

怒り」「憤り」は、神の民に相応しいものではありません。

怒り」「憤り」を制してこそ、神の民であり、「怒り」「憤り」は、世界を祝福する働きに、不必要です。

不必要どころか、「のろわれ」るのであり、シメオンとレビとは、兄弟たちの中に、散らされる事になってしまいます。

シメオンは、ユダの相続地の中に、相続地を持つ事になりますが、シメオン一族は、一部はユダに吸収され、一部は各地に分散、離散してしまい、埋没してしまうのです。

レビも各地に分散する事になりますが、祝福の一形態として、土地に縛られず、各地で、イスラエル民族の中で、レビ人として、神様に仕えたのであり、モーセやアロンの家系、祭司として神様に仕えたのです。

シメオンとレビも、ルベンと同じように、衰退して行きますが、イスラエル民族のうちの一族であり、出番を待つ、待機状態にある、と見て間違いはありません。

将来において、世界を支配し、裁くのがイスラエル民族の使命だからであり、黙示録にイスラエル12部族が、世界を裁くと記されているからです。

49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。

ヤコブは、ユダについて、多くの節を使って祝福を預言しています。

ルベンが2節、シメオンとレビとで3節、ゼブルンが1節、イッサカルが2節であるのに、ユダには5節も費やしており、ヨセフの5節と一緒です。

内容も、ヨセフへの預言と遜色なく、呪いの部分は全くありません。

ヨセフの華々しい働きの陰に隠れてはいますが、徐々に頭角を表して来ており、ヤコブも一目置く存在になって来ているのですが、しかし、ユダの人柄は、清廉潔白とは言えないようです。

創世記381節、新改訳第3版は69ページ、新改訳201771ページに、

そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

38:2 そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところにはいった」と記されていますが、イスラエル民族に異教徒カナン人の妻は相応しくはありません。

同じく、創世記38章に記されているところですが、ユダは、息子の嫁のタマルとは気付かずに、遊女の身なりしたタマルと、関係を持ってしまいます。

ユダは、性的な面で、弱い部分を持っていたようですが、ユダは、兄弟たちの中で、一目置かれる存在となり、近隣諸国の上に立ち、皆がひれ伏すようになると、ヤコブは預言しているのです。

49:9 ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

獅子」は力、威厳、勇敢、勇猛、などを象徴し、活力に富み、恐れを知らず、大胆不敵、難攻不落な姿を表します。

うずくまり、身を伏せる」獅子に、ちょっかいを出す愚か者がいるはずはなく、誰もが、ユダの側では静まり、身を小さくするであろう、と預言しているのです。

49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

王権」は、「羊飼いの持つ杖」を表す語が使われており、リーダーシップ、権威、支配を象徴します。

古代中近東では、「王様」を「羊飼い」という語で表したようであり、王様の支配というものが、生活と密接に結び付いていた様子が窺えます。

」には、彫刻が施され、持ち主が特定出来ると共に、父から子へ渡され、支配の譲渡、継承のしるしとされたのです。

シロが来て」を、新改訳2017では「彼がシロに来て」と訳しています。

シロ」の意味は不明ですが、文脈から、「支配、支配者」の意味と考える事が出来そうであり、ダビデの支配、イエス様の支配を意味しているのかもしれません。

続いて、豊かさが、詩的に表現されています。

49:11 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。

先ず前半ですが、家畜は葡萄の葉や実を食べてしまうので、家畜を葡萄の木に繋ぐ事は勿論の事、近寄らないようにします。

ロバは非常に食欲旺盛であり、決して葡萄の木に繋ぐような事はしないのですが、ロバが食しても、痛くも痒くもない、大した損失ではない、と思える程に、有り余る収穫が得られる事を表現しており、後半もまた、豊かさの表現ですが、衣類を葡萄酒、葡萄液で洗うような事はしませんが、貴重な水よりも、さらに豊かに産出するので、湯水のように思える、と表現するのです。

土地の豊かさと共に、旱魃や飢饉が襲う事はないとの祝福を預言しているのです。

49:12 その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

曇り」を、新改訳2017は「色濃い」と訳していますが、眼に活力、英気、元気が溢れているさまを表しており、歯が白くなる程に、羊の乳が豊かである事を表しており、健康の面での祝福を預言しているのです。

49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る。

レアの子として、ゼブルンは六番目の子であり、イッサカルは五番目の子ですが、ゼブルンが先に預言の言葉を受けています。

産まれた順に、預言の言葉を与えればよさそうなものですが、そうはなっていません。

次週以降に扱いますが、ダン、ナフタリ、ガド、アシェルが産まれ順であるのに、関係性では、ダン、ナフタリは、ラケルの女奴隷ビルハの子であり、ガド、アシェルは、レアの女奴隷ジルパの子であるのに、ダン、ガド、アシェル、ナフタリの順で預言の言葉を受けています。

関係性も、順番も、無視されています。

伝承の時に、書き写しの時に入れ替わってしまった可能性を否定出来ませんが、そうであるなら、訂正すれば良い訳であり、恣意的に、産まれた順にしなかった、と考えた方が、良さそうです。

その理由を聖書は記していませんが、神様が決められた事であり、ヤコブは神様に導かれて預言した、に留めておくのが聖書的な理解でしょう。

さて、ゼブルンですが、ゼブルンの相続地は、ガリラヤ湖の近くですが、ガリラヤ湖に接しておらず、内陸部であり、海に近くもありませんから、ちょっと解釈が難しいのですが、主たる生業を商業とし、商いで生計を立てるようになる、発展する、その活動地域が、北の「シドン」にまで及ぶようになる、との預言なのかも知れません。

そして最後に、イッサカルについての預言が述べられます。

49:14 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。

ロバは、疲れ知らずの家畜であり、重労働を厭わず、従順であり、文句も言わず、人間にとって有益な家畜ですが、イッサカルは、そんなロバのような、良い面を持っていたようです。

ロバに限らず、家畜での荷物の運搬には、荷物を二つに振り分け、背負わせます。

安定するからであり、更に背負わせる事が出来るからですが、イッサカルは、働く事を苦にせず、休む時にも、荷と共に居り、直ぐに働ける生き方を選んだのでしょう。

49:15 彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。

しかし、ロバは自主性に欠け、言われた事しかしない、出来ない、愚鈍な面も合わせ持っていますが、イッサカルも、余り深く考える事をせず、成り行きに任せる、将来の事よりも、今が良ければ、それで良し、とするような生き方になると、誰に支配されても、現状を維持できるなら、問題ない、そんな考え方、生き方を選ぶようになる、そして、奴隷になってしまうであろう、とヤコブは預言しているのです。

【適応】

ヤコブの預言の言葉は、正妻レアが生んだ子どもたち、六人についてから語られ始めました。

この後、女奴隷ビルハの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、女奴隷ジルパの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、最後に、最愛のラケルの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉へと続きます。

祝福の部分があり、呪いの部分もありますが、祝福を我がものにするのも、呪いを跳ね飛ばすのも、生き方次第です。

祝福を宣言されたからといって、決定した訳でも、確実な訳でもありません。

神様の喜ばれない事を、警告を無視して行ない続けたならば、祝福は、取り上げられ、呪いが下されるのではないでしょうか。

また、呪いを宣言されたからといって、決定した訳でも、確実な訳でもありません。

神様に立ち返り、神様の喜ばれる生き方を、日々悔い改めに生きるなら、呪いは遠くに追いやられ、近づく事はなく、祝福が豊かに注がれるのではないでしょうか。

正妻の子どもたちが、祝福を受けるのでも、愛されている者の子どもたちが、特権に与るのでも、奴隷の子どもたちが、呪いを受け、冷や飯を食らうのでもありません。

それぞれの生き方によって祝福を受け、特権に与り、また、呪いを受け、冷や飯を食らう事になってしまうのです。

そして、呪い、呪いに準じる預言の言葉を受けているのは、レアの生んだ子たちだけであり、ルベン、シメオン、レビ、イッサカルの四人だけです。

この四人の中でも特徴的なのは、ルベン、シメオン、レビ、の三人で、三人とも、自制の点で、問題を持っていた、と云う事です。

ルベンは、性的な感情の自制が出来ず、欲情の抑制が出来ず、姦通という大失態を行なってしまい、シメオン、レビは、怒りや憤りの点で、感情を制する事が出来ず、非道な行為に走ってしまったのです。

感情のコントロールは、簡単な事ではありません。

しかし、特に、怒り、憤り、恨(うら)み、羨(うらや)み、嫉(そね)み、妬(ねた)み、怨(うら)み、憎しみ、敵意と云った負の感情は、押さえ込むだけでなく、湧き上がらないようにしなければならず、芽の段階で処理しなければなりません。

そして、悲しみ、哀しみなどの感情に流されて、感傷的になってはならず、喜び、嬉しさ、楽しい、などの良いとされる感情も、負の感情の裏返しであり、喜怒哀楽は、野放しにしてはならないのです。

しかし、決して、感情を表に出してはならないとか、感情は、押し殺し、ポーカーフェイスを勧めているのでもありません。

感情に委ねた行動は、行き過ぎ易く、度を越してしまい易いのであり、失敗に繋がり易く、時には反感を買う事になりかねません。

箴言1430節にこんな言葉があります。新改訳第3版は1075ページ、新改訳20171111ページ穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」。

喜怒哀楽は程々にであり、感情的な、感情に支配された、浮き沈みの大きな信仰生活ではなく、辛い時も、悲しい時も、嬉しい時も、楽しい時も、怒り、憤りの中でも、神様の前に静まり、こころ穏やかな礼拝を献げたいものです。

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聖書箇所:創世記4813節から22節                 2018-7-15礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・弟は兄に勝る民となる

【導入】

ヨセフの二人の子、マナセとエフライムは、ヤコブの子とされました。

宣言がなされただけであり、見掛けも、中身も、何の変化もありませんが、ヤコブの子としての身分を与えられたのであり、ヤコブの孫から、ヤコブの子になったのです。

カナンの地を相続する時に至って、ヤコブの子と、そうでないかの違いがはっきりします。

マナセとエフライムは、ヤコブの子として、ヤコブの子らと同等の権利と責任が与えられたのであり、カナンの地を守り、子孫に引き継ぐとともに、直接、世界を祝福すると云う働きに加わったのです。

別の言い方をするならば、祝福される側から、祝福する側になった、と云う事です。

これは、非常に大きな変化でしょう。

祝福を受ける者から、祝福を与える者に変わったのであり、世話をされる者から、世話をする者に変わった、と云う事です。

何時までも、幼子のように、世話になっていてはならず、直接の支援もあれば、間接の支援もありますが、大人になって、世話をし、助け手、支援者とならなければならないのです。

世界を祝福すると云う働きを、継承していかなければならず、世界を祝福する働きを、引き渡し、引き受け、連綿と続けていかなければなりません。

世界を祝福する働きが途絶えたならば、世界は神様からの祝福を受ける手立てを失ってしまいますから、世界は暗黒に陥ってしまい、裁かれずとも、自と、滅びてしまう事は明白でしょう。

世界が滅ぼされず、存続し続けるために、悔い改めるチャンスを与え続けるために、世界を祝福し続けなければならないのであり、世界を祝福する働きを継承し続けなければならないのです。

ヤコブは、ヨセフの子、マナセとエフライムを我が子と宣言し、宣言を有効にするために、当時の慣習、即ち、ヨセフの子を、ヤコブの膝に近寄らせ、抱き絞め、引き離し、まるで、ヤコブから分離したかのように見なせる行為を行ないます。

この儀式を行なう事で、ヨセフの子、マナセとエフライムは、名実共に、ヤコブの子となりましたが、ヤコブの子として、マナセとエフライムを祝福する、と云う大きな作業が残っています。

【本論】

48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。

48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

ここで、「右手」がクローズアップされていますが、古代、右手は力の象徴であり、強い者、尊い者、選ばれた者を現します。

或いは、正義、裁き、支え、救い、守り、などを現し、箴言316節では「長寿」の意味を持たせており、非常に良いイメージを持っていますが、逆に「左手」は、呪いや、裏切り、などの意味があり、まあ、主に悪いイメージを持っていますが、箴言316節では「富と誉れ」の意味を持たせており、一様では、固定的では無いようです。

それでも、右手、即ち、権力や支配を象徴する右手をマナセの上に置き、兄弟を支配する立場である事を、内外に知らしめ、左手、ここでは、従属や服従を象徴する左手をエフライムの上に置いて欲しかったので、ヨセフは、右手でエフライムを押し出し、ヤコブの左手側に近寄らせ、左手でマナセを押し出し、ヤコブの右手側に近寄らせますが、な、なんと、ヤコブは両手を交差させ、ヤコブの右手を、エフライムの頭の上に置き、ヤコブの左手を、マナセの頭の上に置いたのです。

大して広くはない枕元で、屈み込んではいたでしょうが、二十代の青年二人の頭の上に、手を置くのは、ちょっと窮屈で、老衰の、今にも・・・の状態にあるヤコブが、手を置くのはちょっと不自然ですが、マナセとエフライムの将来に関わる事ですので、ヨセフは、ヨセフなりの期待を込めて、ヤコブも、ヤコブなりの意味を込めて、二人の頭の上に手を置いたのです。

この「手を置く」儀式は、先に紹介した幾つかの意味の成就を祈願する意味と共に、超自然的な力や、賜物の付与、伝達、継承を意味し、また、特定の責任ある働きへの任職を、意味します。

聖書の記述では、指導者の任職などで行なわれ(民数記2718節、23節、申命記349)、また、イエス様が子どもたちに手を置いた事が(マタイの福音書1913)、使徒たちを派遣する際に手を置いた事が(使徒の働き66)、信者たちに聖霊が下るように手を置いた事が(使徒の働き817)記されています。

現代では、献児式、幼児祝福式、また、補教師准允や、正教師按手、宣教師派遣などでも行なわれますが、非常に意味深く、意義深い行為です。

人間的な願い、希望、計画である以上に、神様の主権、摂理である事を確認し、神様の祝福を乞い願う意味があるからです。

祝福するのに、手を置くのは、手持ち無沙汰だから、形になるから、ではありません。

祝福の言葉も、漠然と宣べるのではありません。

私が手を置いた、この人に対して、祝福を宣言するのであり、私が祝福された事を、触れられている事で認識するのです。

とても大切な意味を持つ、意義深い行為なのです。

48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

マナセとエフライムを祝福する場面で、ヨセフに対しての祝福が宣べられていますが、ヨセフと、マナセ、エフライムが一体であり、不可分である事を現し、ヨセフを祝福する事は、とりもなおさず、マナセとエフライムを祝福する事なのです。そして、また、逆も真なりであり、ヨセフへの呪いは、マナセ、エフライムへの呪いとなるのです。

15節、16節には、ヤコブの持つ神観が明確に記されています。

一番目は「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神」との告白です。

神信仰は、漠然とした歩みではなく、神の御前の歩みだ、と云う事です。

神様は遠く離れた存在ではなく、神様と一緒に歩むのであり、歩調を合わせた歩みである、と云うものです。

しかも、24時間、毎日毎日、です。休みもなく、眠る間もなく、です。

人間は寝ても、神様は眠らず、離れず、そばにいて下さるのです。

「神様の御前」の意識を持つ事は、非常に重要であり、生き方が変わります。

神様に見守られている、神様の視線を感じる、神様の視界の中に居る、と云う意識は、行動が変わります。

隠せる事がない、しかし、それは、神様に説明するまでもなく、神様は動機も、経過も知っておられると云う事であり、正しい評価をし、報いてくださると云う事なのです。

そして、二番目は「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」との告白です。

過去形で記されていますが、継続性を意味し、「羊飼いであり続けている」の意味であり、詩篇23篇を彷彿とさせます。新改訳第三版は926ページ、新改訳2017954ページ、

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

この神様のお約束、宣言、導きは、普遍的であり、人間が離れても、神様は離れず、人間が迷ったなら、探し出してくださるのです。

飢える事がないように、渇く事がないようにしてくださり、行くべきところへ、正しい道に導いてくださり、危険なところ、災いを避け、危険なところ、災いに近づく事のないようにしてくださり、悪い獣に襲われたならば、獣の牙から逃れさせてくださるのであり、怪我をしたなら、薬を塗り、手当てをしてくださり、介抱してくださるのです。

慈しみと恵みが離れる事はなく、神様の近くから、追い払われる事はないのです。

最後の三番目は「すべてのわざわいから私を贖われた御使い」との告白です。

わざわい」は、命や自由を脅かす、全てです。

不幸な出来事、不慮の事故、病気、があり、好まざるにも関わらず、巻き込まれてしまう、戦争、争い、飢饉、災害、エトセトラから「贖われた」と告白するのです。

そもそも「贖い」とは、奴隷として売られてしまった親族を買い戻す行為であり、

親族の大きな務めであり、最優先とすべき課題ですが、多くの場合、自身の生活でアップアップの状態であり、親族の面倒にまで手が回らないのが実態でしょう。

奴隷として売られてしまうような事をしたのであり、自己責任の部分があるかも知れませんが、神様はイスラエル人に定めとして、「贖い」と云う制度を与えたのであり、相互扶助を、イスラエル民族の是()としたのです。

そして、「贖い」を広く解釈し、旅人を持て成す事、困っている人を助ける事、寡婦や孤児の世話をする事を、推奨、奨励し、イスラエル民族の是としたのです。

この三つの告白は、ヤコブ自身の体験から導き出された告白です。

ヤコブの兄、エサウとの確執から、父イサクの下を離れ、母リベカの生まれ故郷に向かって旅立ってから、帰還するまでの二十年の、患難辛苦を総括しての告白でしょう

兄エサウの、追撃を恐れての逃避行、母リベカの兄ラバンの仕打ち、ラバンの息子たちの悪意ある態度、羊飼いとしての、苦労と危険の数々は、神様の守り、ご介入なしには乗り越えられはしなかったでしょう。

その神様の守り、ご介入、祝福を、私の子どもたちに同じように、お与えくださいと願うのであり、そして、アブラハム、イサクを守り、ご介入され、祝福されたように、この子どもたちにも同じように、お与えくださいと願うのであり、この子どもたちが、神様から離れてしまう事のないように、ヤコブの名前と、アブラハム、イサクの名前とがセットとなり、神様との契約が、引き継がれて行く事を、決して途切れる事が無いようにと願うのです。

子孫の断絶は、契約の解消であり、世界を祝福すると云う働きの終焉です。

そんな事にならないように、子孫が絶えないように、契約が引き継がれるように、世界を祝福する働きが継続、継承される事を、願うのです。

48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」

ヨセフの、父ヤコブの行為に対する「まちがっていると」の思い込み、「父の手をつか」む行為、父ヤコブの手を「エフライムの頭からマナセの頭へ移そうと」する行為は、そして、父ヤコブに対して「そうではありません」と、諭す行為は、越権行為であり、父ヤコブの尊厳を貶(おとし)める行為、言動です。

自分の考えと違うと、「まちがっていると」思い、正そうとし、手を出し、口を出すのは、僭越です。

誰が、ヨセフを、父ヤコブの補佐官、摂政(せっしょう)、にしたのでしょうか。

監視役、ご意見番にしたのでしょうか。

父ヤコブは、不自然な形になる事を厭わず、わざわざ、敢えて、意識的に手をクロスさせて、右手をエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭の上に置いたのです。

不自然な状況、状態には、意味があるはずであり、僭越にも、中断させ、意見を挟んだのは、ヨセフの大きな間違いであり、大失態です。

何時もと、明らかに違う、ちょっとしたミスなどではなさそうな場合、何か、知らされていない事がある、隠されている事がある、と謙り、状況を見守る事が大切なのではないでしょうか。

軽率な判断や行動は、混乱を生むだけであり、秩序の崩壊になりかねませんから、自重が重要です。

ここでは、ヨセフの軽率な行動、言動は、父ヤコブの尊厳に、傷を付ける事になってしまったのです。

厳しい叱責を受けて、当然の場面ですが、それでも、ヨセフに甘いヤコブは、ヨセフを叱責する事なく、優しく諭します。

48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

ヤコブの「わかっている」との言葉は、極めて強い表現であり、ヨセフの反論を、或いは願いを、きっぱりと否定、拒絶しますが、根底には、神様の決定を自覚している、ヤコブの固い信念があるからこそでしょう。

兄のマナセは、相続する土地の広さにおいて、弟のエフライムに勝っており、マナセが相続した地域は、シェケム、サマリヤなどの重要な都市を含み、交通の便も非常に良い地域であり、低地、平地であり、農耕に適しておりますが、エフライムが相続した地域は、高地であり、農耕に適しているとは言えず、重要な都市もなく、交通の便も良くはありませんが、エフライムは、北に住む部族の頭となり、北イスラエル王国は、エフライムの名前で呼ばれる事になり、この時点で預言は成就したかのように見えますが、北イスラエル王国は、アッシリヤ帝国によって滅亡しており、預言の成就・・・とは言えません。

人口の面では、エジプト脱出時の人口調査では、民数記133節、35節、新改訳第3版は227ページ、新改訳2017234ページ、エフライム部族は40500人、マナセは32200人でしたが、カナンの地に入る時の人口調査では、民数記2634節、37節、新改訳第3版は280ページ、新改訳2017289ページ、マナセは52700人、エフライム部族は32500人、であり、決して預言の成就と見る事は出来ませんし、先に述べたように、北イスラエル王国は、アッシリヤ帝国によって滅亡しており、預言の成就・・・とは言えません。

しかし、預言は、現時点では潰えたように見えても、見えないところで前進、進展、漸進しているのであり、時至れば、文字通りになるのは、間違いありません。

19節の預言は、そして20節の預言は、ヤコブの願いではなく、ヤコブを通して語られた、神様のご計画であるからです。

48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。

エフライムをマナセの先にしたのは、この20節が最初ではありません。

創世記485節で、ヤコブは、ヨセフの子を、自身の子にするとの宣言をしていますが、そこで、既に、エフライムをマナセの先にしているのです。

明確な予兆が示されていたのであり、ヨセフは、ヤコブの意思を知らされていた、と云う事なのであり、ヨセフが、注意深くヤコブの言葉を聴いていたなら、17節以降の失態は、防げた事でしょう。

真理を聞かされても、思い込みは、先入観や色眼鏡は、真理の受け入れを阻みます。

注意をしなければなりません。

48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。

48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」

21節は、創世記4834節「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう」の繰り返しであり、4730節「私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ」の確認の意味の発言でしょう。

しかし、22節は、難解です。

「シェケム」は、創世記3318節で扱われており、ヤコブが、町の一部を百ケシタで正式に購入した事が記録されています。

創世記34章では、シェケムの住民を皆殺しにした、非常に不幸な歴史が記録されていますが、決して、ヤコブが「剣と弓とをもってエモリ人の手から取った」のではありません。

もし、この事であるなら、シェケムを撃ったのは、シメオンとレビとであり、歴史の改竄、美化であり、聖書に相応しくはありません。

では、どう解釈したらよいのでしょうか。

聖書は、預言的性格を持つ書物であり、未来の事を、過去形で記述する事がある書物であると、理解しておく事が重要です。

「私」はヤコブ自身ではなく、子孫であり、

子孫が、カナンの地を征服する、との預言として読まなければならないのです。

ヨシュア記2432節、新改訳第3版は412ページ、新改訳2017424ページに記されていますが、シェケムは、ヨセフ族の相続地となり、ヨセフは、シェケムに葬られる事になります。

シェケムは、ヤコブにとって、思い入れのある土地であり、そこをヨセフに与えたのは、ヤコブのヨセフへの愛情の現われなのです。

【適応】

「弟は、兄に勝る民となる」は、エフライムとマナセに限っての、特別な事ではありません。

アブラハムの長子はイシュマエルですが、神様のご計画で、次男のイサクがアブラハムの後を継ぐ事になり(創世記1718節~)、イサクの長子はエサウですが、神様のご計画で、次男のヤコブがイサクの後を継ぐ事になります(創世記2523)

逆転は、聖書では珍しい事ではなく、長子が活躍し、多大な貢献をする訳ではありません。

ダビデは七男ですが、神様のご計画で、イスラエルの王とされ、イスラエル王国の基礎を築いたのであり、ダビデの長子はアムノンであり、ソロモンは十男ではないかと思われますが(歴代誌Ⅰ、31節~)、神様のご計画で、ソロモンが、ダビデの後を継ぐ事になるのです(列王記Ⅰ、1)

しかし、決して、下克上を奨励しているのではなく、秩序や序列、制度や慣習を否定しているのでもありません。

聖書は、むしろ、秩序や序列を重んじ、制度や慣習を尊重する事を教えますが、逆転も、秩序や序列、制度や慣習も、神様のご計画にあって、である事を忘れてはなりません。

聖書には、切り取り方によっては危険になる思想が数多くありますが、文脈で、前後関係で、神様のご計画を踏まえて、考え、理解しなければなりません。

聖書の、私的解釈は危険であり、「弟は、兄に勝る民となる」を普遍的な真理としては、金科玉条としてはならないのであり、兄たちに対して不遜な態度を取ってはならないのであり、兄たちを蔑ろにしてはならないのです。

秩序や序列を重んじるのは、決して卑屈を意味しません。

制度や慣習を重んじるのは、決して保守的を意味しません。

秩序や序列、或いは制度や慣習は、神様が立てられたのであり、基本は、秩序や序列、制度や慣習を重んじなければなりません。

神様が立てられた秩序や序列、制度や慣習を重んじる時、神様のご栄光が現されるのであり、混乱や齟齬のない組織が維持されるのです。

その神様が立てられた秩序や序列、制度や慣習の中で、神様が、逆転を許される事がありますが、預言が伴う事を見落としてはなりません。

預言者が立てられ、特別な事である事が啓示されるのです。

「弟は、兄に勝る民となる」事が宣言され、兄も弟も受け入れる、その時、兄弟関係が破綻する事もなく、いがみ合う事もなく、助け合い、協力し合って、神の国の建設が、世界を祝福する働きが大きく前進するのです。

家庭においては、神様が立てられた家長、親に従う事が秩序であり、教会においては、神様が立てられた教師、牧師夫妻に従う事が秩序であり、宣教区、教団においては、神様が立てられた役務者、理事に従う事が秩序であり、「あれっ、おやっ」と思う事があっても、先ずは、従うべきです。

間違った指導者、悪い羊飼いは、神様が取り扱われ、取り除かれます。

神様に先立って判断してはなりません。

ヨセフは、ヤコブの行動を間違っていると思い、行動を阻止し、誘導し、諌めましたが、こんな事をしてはならないのです。

羊は羊飼いに、民は指導者に従うのであり、従順と忍耐を学び、家庭が、教会が、宣教区が、教団が、神様の栄光を現し、世界を祝福する働きが、前進するのです。

ここにおられる皆様が、神様の立てられたご計画、神様のお考えに従い、神様の栄光を現される事を、世界を祝福する働きが前進する事を願ってやみません。

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聖書箇所:創世記481節から12節                  2018-7-8礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・ヨセフの二人の子は私の子にする

【導入】

将来の事について考えを廻らし、決めておき、伝えておく事は重要です。

特に重要な事は文書に認(したた)めておくべきであり、それは自身の考えを、再度、都度、確認する意味でも有益です。

一つの例として死に付いてですが、医療技術が発展した現代では相当の期間の延命が可能であり本人の意思に反した延命措置が行なわれたりする事があり、臓器提供の意思があるにも関わらず家族の理解が得られず、臓器提供が出来なかったりもします。

命の尊厳についての理解、生命倫理に対する考え、聖書の教えと理解とが複雑に絡み合うので答えは単純明快ではありませんが、だからこそ、どうしたいかを明確に伝えておいた方が混乱を回避するに益となり、家族の判断の助けになるのであり、本人の意思を最大限に尊重した結果となるのではないでしょうか。

前回確認したように、墓地の問題についてクリスチャンは明確に意思を伝えるべきであり、葬儀についても同様です。

産まれた時は神社で神道で、結婚式は教会でキリスト教で、葬式はお寺で仏式で、が慣例の日本ですから、亡くなれば自動的に仏式で事が進んでしまいますし、墓地も家族の意見で決まってしまい、お寺、或いはお寺が経営、管理母体の墓苑に埋葬される事になってしまいます。

ですから葬儀について、埋葬される墓所について考えを家族に伝えておかなければならず、クリスチャンとして生きた証を残すよう準備しておかなければなりません。

それでも本人の意思に反してしまう事があるでしょうが、少なくとも意思は伝えなければならず、クリスチャンの責任でしょう。

ヤコブは異教の地、エジプトに埋葬される事を断固拒否し、神様が与えると約束した地、カナンに、マクペラの私有の墓地に埋葬する事をヨセフに約束させます。

単なる口約束に留めず、腿の下に手を差し入れての約束を交わすのであり、誠心誠意、誠実確実に行なう事を誓わせます。

これで一つの懸案事項は解消しましたが、もう一つ大きな懸案事項があります。

それはヨセフに長子の特権を与える事であり、ヨセフに他の兄弟に倍する財産を与える事です。

【本論】

48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。

これらのことの後」とは、即ち墓についての遺言の後であり、大きな懸案事項が片付いて、暫くしての記録である事を読者に知らせます。

聖書は時系列で記されていない出来事も多々あるのであり、前後が逆になっている事もあるのですが、47章の記録、墓についての遺言に続くのが、48章である事を読者に知らせます。

病気」と記されてはいますが、創世記4731節でヤコブは寝たままの状態でヨセフに挨拶をした様子が記録されており、この時、既に寝床から動けない状態であった訳ですが少しずつ衰弱し、更に思わしくない状態に至りつつある事を表しての意味で使われているようです。

48:2 ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。

この時、ヨセフは五十六歳にならんとする前、ヤコブは百四十七歳にならんとする前の出来事です。

そして、ヨセフの息子は創世記4150節、新改訳第3版は76ページ、新改訳201778ページ、「ききんの年の来る前に、ヨセフにふたりの子どもが生まれた。これらはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだのである。

41:51 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた。」からである。

41:52 また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた。」からである」と記されている通り、飢饉の来る前に産まれています。

ヤコブ一族がエジプト王国入りしたのは飢饉に入って二年目の時ですから、この時、次男のエフライムは少なくとも二歳にはなっていたと思われます。

それから十七年が経とうとしていますので、次男のエフライムは十九歳前後、そして長男のマナセは二十歳前後であり、充分、分別のある年齢に達していたと考えられます。

さて、ヤコブは身体は弱っていましたが頭脳ははっきりしていたようで、家人との受け答えにおいても齟齬はなく、ちゃんと状況を把握、理解し、ここでは起き上がるべきと考え身体を起こし座位をとります。

47章の出来事の暫く後の出来事であるのに「力をふりしぼって」ではありますが座位を取れたのですから、ヤコブの状態には波があった事が見て取れましょう。

付け加えて解説するならば、墓の問題は重要な意味を持っていますがヤコブ個人の案件であり、ヨセフへの個人的な依頼ですが、本件の養子縁組、遺産相続の問題はヤコブ一族に関わる重要案件であり、ヤコブの子、特に長子であるルベンに直接影響するヤコブの財産の取り分に関わる案件です。

語り手は姿勢を正して宣言し、聴き手も襟を正して傾聴したのです。

48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、

48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

3節の「ルズ」は「ベテル」の古い呼び方であり、ヤコブが兄エサウとの確執から父イサクの下を離れ、母リベカの兄ラバンの住むパダン・アラムに向かう途中に神様が現れてくださった時の事と、ラバンの下での二十年の患難辛苦の後に父の下への帰還の途中、シェケムでの一時滞在で起こってしまった不幸な出来事の後に神様が現れてくださった時の事との、二つの体験を思い出しての告白です。

それぞれ創世記2813節以降、創世記359節以降に詳しく記されていますので、必要な方は後でご確認願います。

忘れられない出来事であり、ヤコブの信仰の原点であり、ヤコブ一族の発展とカナンの地を所有する約束であり、この約束はヤコブの十二人の子どもに、子孫に関わる約束ですが、ヨセフを特別扱いしヨセフの子の身分に関する事を提案、宣言するのです。

48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。

ヤコブの話は本題、核心に入りますが、単にヨセフの子を養子にする、との宣言ではありません。

ヤコブの子になると云う事はヤコブの財産を直接、相続すると云う事であり、ルベンやシメオンと同等の権利を与える、相続財産を与えるとの宣言なのです。

ここで確認ですが、ヤコブには十二人の子が与えられています。

レアから産まれた子、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ビルハから産まれた子、ダン、ナフタリ、ジルパから産まれた子、ガド、アシェル、ラケルから産まれた子、ヨセフ、ベニヤミン、の十二人です。

ここにヨセフの妻アセナテから産まれた子マナセとエフライムが加えられ、十四人がヤコブの子として扱われる事になるのです。

ヤコブ一族は四百三十年のエジプト寄留を経てエジプトを脱出し、四十年の放浪の後にカナンの地に入りと、カナンの地を分割する時までには相当の年月の経過と紆余曲折がありますが、十四部族がカナンの地を分割、相続した訳ではありません。

レビとヨセフは土地の相続には関わらず、残りの十二部族が土地を相続しますが、巻末の地図、新改訳第3版は「12部族に分割されたカナン」、新改訳2017は地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧頂くと、土地の分割、分与が均等ではない事が一目瞭然です。

律法によれば、長子には他の兄弟の二倍を与えなければならないのであり、大きい一族か小さな一族かは財産分割には関係ないはずであり、財産の相続は均等であるはずですが、山岳地帯か平野か、痩せた土地か肥えた土地か、森林地帯か草原地帯か、の違いがあり、単純に等分すると云う訳にまいりませんが、マナセの取り分の広大さは異常なのではないでしょうか。

ヤコブの子で考えるならば長子以外は皆が等しく十三分の一ずつをもらえるのであり、長子だけは十三分の二をもらえるはずです。

しかし、ヨセフの子以外は十三分の一ずつであり、ヨセフの子は十三分の三を受け取ったのです。

しかも、広さにおいて著しい差があったのです。

このカナンの地の分割にヤコブは直接関わってはおらず、モーセやヨシュアが神様の導きで土地の分割を行ない、籤(くじ)で相続地を決めたのでが、神様は何故このような差を付けられたのでしょうか。

貢献の度合いに従って、でしょうか。

従順さの度合いに従って、でしょうか。

失敗の大きさ、罪の重さに従って、でしょうか。

世の中の基準ではそれらが加味されるでしょうが、神様の基準は恵もうと思う者を恵むのであり、憐れもうと思う者を憐れむのであり、ある者を選び立てられ、ある者を退け打たれるのであり、人間の側の働きなどには由来しないのです。

この後、弟のエフライムが兄のマナセに先立つ者とされますが、理由は神様の選びであり、君たる者はユダ族から産まれますが、全ては神様の選びであり、神様のご計画なのです。

48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。

ヨセフの第一子マナセ、第二子エフライムはヤコブの子にするが、ヨセフの第三子、第四子はヨセフの子とし、第三子はマナセを名乗り、第四子はエフライムを名乗れ、と命じるのです。

聖書に、ヨセフに第三子、第四子が産まれた、との記述はありませんが、第三子はマナセを名乗り、第四子はエフライムを名乗らなければならないのです。

ここにイスラエル社会の独特の文化を見る事が出来ます。

名前は個人を識別する名詞、固有名詞であると共に、一族、氏族、部族を識別する名詞、固有名詞であり、働きを意味するのであり、嗣業を意味するのである、と云う事です。

イスラエル社会において嗣業とは、土地を引き渡し受け継ぐ事であり、個人の名前は土地の所有と相続、存続を意味し、土地を受け継ぐために名前も受け継ぐのです。

ヨセフの第一子のマナセはヤコブの第十三子としてマナセを名乗りヤコブの嗣業に関わり、ヨセフの第二子のエフラムはヤコブの第十四子としてエフライムを名乗りヤコブの嗣業に関わり、これから産まれるヨセフの第三子はマナセを名乗りヨセフの第一子に成り代ってヨセフの嗣業を継がなければならないのです。

これから産まれるヨセフの第四子はエフライムを名乗りヨセフの第二子に成り代ってヨセフの嗣業を継がなければならないのです。

ヨセフの第三子、第四子は自分の土地を持つ事も出来ず名前も残せない立場であり、非常に惨めに情けなく感じましょう。

ユダの長子エルは神様を怒らせたために子を残さずに召されてしまいました。

弟のオナンは兄のために長子を残し、兄の名前と土地を引き継がせなければなりませんでしたが、長子を差し出す、と云うのは簡単な事ではありません。

長子はその人の力の始めであり、特別な祝福を受けており、特別な存在です。

その大切、無二の存在である長子を差し出す事が承服出来ず、ユダの長子エルのために自分を捨て、兄エルの子を残す事をしなかったために、神様を怒らせてしまい、神様に打たれてしまい不名誉な記録として聖書に残されてしまいました。

この逸話は創世記38章に記されています。新改訳第3版は69ページ、新改訳201771ページです。

しかしボアズはエリメレクの名前を、エリメレクの子マフロン、キルヨンの名前を残すために自分の財産や名前を捨て、マフロンの妻であったルツとの結婚を受け入れたのです。

その結果、ボアズの名前はダビデの系図に残され、語り継がれイエス様の系図として聖書に記され今に至るのであり、名誉が与えられたのです。

この逸話はルツ記に記されています。新改訳第3版は458ページ、新改訳2017471ページです。

自分を捨てる事は一族、集団を生かす事であり、一族、集団を生かすために自分を捨てるのであり、自分を捨てる事は神様への従順であり、神様を称える事なのであり、神様からの賞賛を頂く事なのです。

48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

唐突にラケルの事が語られますが、ヨセフはラケルの忘れ形見であり、ヨセフの二人の子マナセとエフライムを自分の子にすると云う事は、マナセとエフライムをラケルの産んだ子と見做す、と云う事です。

愛するラケルへの愛情表現の一つの形がマナセとエフライムを特別扱いする事であり、マナセとエフライムを特別扱いする事で、ラケルへの愛情が全く薄らいではいない事を、そしてヨセフへの愛情も変わってはいない事を暗に物語っているのです。

ヤコブがヨセフを特別扱いした事で兄弟の間に妬み、憎しみを生じさせ、殺意にまで膨らんでしまい、家庭に大きな不幸を招いてしまい、自分自身もヨセフを失う事になってしまい、悲しみ苦しみましたが、全く学んでおらず懲りておらず、またしても、ヨセフを特別扱いしてしまうのです。

意識して均等、平等、公平に扱っても、兄弟は、人間は差を感じるものであり、どんな小さな事でも特別扱いをすべきではありません。

どうしてもであるなら、誰もが納得出来る特別な理由がなくてはならず、その理由に合致するなら誰にでも与えなければなりません。

100点取ったならご褒美を与える、と約束したなら、100点取った者、全てに与えなければならず、条件や理由は明確にしておかなければなりませんし、周知に充分な時間をかけておかなければなりません。

そこまでしたとしても、人間には罪の性質があるので全く不満が起こらない保証はないのです。

48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」

ヤコブがエジプト入りした時、マナセとエフライムは二歳から0歳であり、十七年も近くに住んでいたのであり良く知った間柄ではありましたが、暫く逢っていなかったので見定める事が出来なかったのでしょうか。

10節に「イスラエルの目は老齢のためにかすんでい」た、と記されていますが、今で言うところの白内障などを患っていて判別出来なかったのでしょうか。

それもあるでしょうが、確認する事が重要であり、思い込みは危険です。

ヨセフと一緒だからヨセフの子、と考えるのは早計です。

ヨセフの仕え人かも知れず、使用人に重要な内容を洩らしてはなりません。

秘密は無い方が良いかも知れませんが、何でもオープンは考えものです。

適切な人物に、適切な時期に、適切な内容を、の配慮を欠かしてはなりません。

48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。

財産の分与、嗣業の地の譲渡、そして子孫などは、何時の時代でも、どの社会でも、誰にとっても重要事項であり、関心深い事柄ですが、イスラエル人にとっては「祝福」はそれ以上に重要事項であり、関心深い事柄です。

イスラエル人は財産も、嗣業の地も、子孫も、祝福あってこそ、と考えます。

呪われていたならば財産も、嗣業の地も、子孫も、幾らあっても、全く意味がありません。

盗まれ、錆が生じ、腐り、古くなり、使い物にならなくなってしまいましょう。

しかし、逆に祝福されたならば、財産も、嗣業の地も、子孫も、必要が満たされ、過不足無く、最適が保たれ、感謝と喜びが溢れるのです。

星の数ほどあっても、呪われたならば瞬く間に消えてしまいますが、ほんの僅かでも祝福されたならば必要を満たし余りさえ生まれるのです。

量の問題、質の問題、ではなく、祝福を受けているか否か、呪われているか否か、が問題なのです。

そして祝福を発するのは、ヤコブですが、祝福を与えるのは神様であり、神様の祝福である事が重要です。

教会では礼拝の最後に「祝祷」を宣言しますが、これは「祝福」を宣言するのであり、「神様から発信された祝福」であり、「祝福」に与るか否かは大きな違いです。

市井の、名の知られぬ牧師であっても、天地万物を造られた唯一の神様のお名前で祝福を宣言するのであり、有効、確実であり遜色は全くないのです。

48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。

かすんでいて」の直訳は「重くなる、鈍くなる、無感覚になる」などですが、瞼を開ける力もなかったのかも知れず、それで「見ることができなかった」のかも、先に説明したように白内障などを患っていて、それで「見ることができなかった」のかも知れません。

祝福の宣言は、発せられる「ことば」に大きな意味がありますが、対象が何であるか、何に対しての、誰に対しての宣言であるかが重要です。

ヤコブの祝福はヨセフの二人の子に対してであり、それを確認するのは極めて重要です。

神様の祝福は誰にでも与えられ得る祝福ですが、受け手を想定して発せられるのであり、受け手を明確にする必要があります。

畑や田んぼに肥料を散布しますが、種を蒔いていない畑や田んぼに、畑でも、田んぼでも、農園でも、牧草地でもない地に肥料を散布するでしょうか。

種が芽を出す事、成長する事、花が咲く事、実が実る事をイメージして肥料を散布するのではないでしょうか。

同じように成長を、結実をイメージして肥料を散布するように、どんな風に育つか、どんな実を実らすかは神様に委ねても、祝福する相手をはっきり見つめ、この人に祝福を宣言するのです。

ヤコブは眼が不自由でしたから、ヨセフの子を抱いて祝福を与えたのです。

48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」

ヤコブの独白は、計算外の事、想像する事も出来なかった事、夢のようだ、の意味であり、全く神様の業である事を告白しているのです。

私の知恵と策略を駆使した生き方は全く無駄だった、虚しさしか生まなかった、絶望しか生まなかった、苦しさや悲しみしかもたらさなかった。

しかし、神様は考えられないような喜び、幸せと充実感、充足感を味わわせてくださった、と告白しているのです。

しかも、これは神様のアブラハム、イサク、ヤコブとの約束の故であり、約束に対する、神様の誠実さの故であり、ヤコブにも、良いところがあったからではないのです。

一方的な神様の恵みであり、憐れみです。

48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。

ヨセフの子はヤコブに抱き寄せられ、ヤコブの膝のところに佇んでいたようですが、ヨセフはヤコブの膝のところから二人の子を引き寄せます。

これは古代の養子縁組の際の儀式的行為のようです。

古代、子を産めない女性は女奴隷などを夫に与え妊娠させ、女奴隷の産む子を妻が膝で受け、妻の子と見做す仕来りがありましたが、この儀式に類似しており、同じような意味合いを持たせているようです。

即ち、膝から子を引き寄せる事でその人自身から別れ出たと見做し、以降はその人の子として扱われるのです。

先にヤコブは言葉を持って養子縁組を宣言しましたが、儀式を行なった事でこの養子縁組が成立した事を関係者全員が確認するのです。

【適応】

こうしてヨセフの二人の子は正式にヤコブの子となりました。

何の功績も無く、働きも未知数ですが、ヤコブには十二人も子どもがいるのですから、敢えて増やす必要はありませんが、愛するヨセフの子であると云うそれだけの理由でヨセフの子はヤコブの子になったのです。

宣言が発せられても、象徴的行為が行なわれてもヨセフの子マナセとエフライムに何かの変化が起こる訳ではありません。

見かけにも実質にも何の変化もなく、今まで通りのマナセであり、今まで通りのエフライムですが、身分はヨセフの子からヤコブの子に変わったのであり、もうヨセフの子ではないのです。

見かけも変わらず、実質にも何の変化もありませんが、ヤコブの子となったのであり、ルベンやシメオンらと同じ身分になったのです。

以前はルベン伯父さんでありシメオン伯父さんであり、伯父に対する尊敬や、甥としての立場を弁えた態度を取らなければなりませんでしたが、今は兄弟の関係になったのであり、勿論、年長者に対する尊敬や立場を弁えた態度を取らなければなりませんが、同等になったのであり上下関係がなくなったのです。

しかし、責任もルベンやシメオンらと同じになったのであり、甘えてはいられず一緒になってヤコブ一族のために粉骨砕身しなければならなくなったのです。

責任は大きくなりましたが、ヤコブの財産を嗣業を一緒に担って行くのであり、同等の関係で協力し助け合い、ヤコブ一族を繁栄に導く使命を担って行くのです。

神の民として一丸となって世界を祝福するのであり、その大きな、大切な、稀有な働きに加わった、加えられたと云う事なのです。

何よりヤコブの子になる、ヤコブから直接祝福を受ける、と云うのはとてつもない大きな恵みです。

ここには、洗礼を受けられてクリスチャンになられた方々が大勢いらっしゃいますが、洗礼の宣言は、神様が「○○はわたしの子にする」であり、洗礼の儀式は「○○は神様の子になった」と、関係者全員が認識し、確認する作業なのです。

洗礼の宣言も、洗礼の儀式も、何かが変わる訳ではありません。

受ける前と後とで、見かけも実質も何の変化もありません。

しかし、身分はこの世の民から神の子に変わったのであり、神の子としての責任と使命とが与えられ、担っていかなければならなくなったのです。

皆で同じ事を、ではありませんが、与えられた賜物を有効に活用し、世界に祝福をもたらす働きに召されたのであり、更に重要なのは神様から直接、祝福を受ける身分になったのであり、神様が常に見守ってくださっている、伴ってくださっている、助けてくださっているのであり、これは比類ない恵みであり特権です。

何の功績もなく、可能性も未知数ですが、否、失敗だらけ、何の働きもなくても、神様はイエス様の贖いの故に「わたしの子にする」と宣言され、洗礼を授けてくださるのです。

この恵みに、皆様は招かれているのです。

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聖書箇所:創世記4727節から31節                  2018-7-1礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・墓地について

【導入】

当時の大穀倉地帯、カナンの地、エジプトの地を襲った大凶作はヨセフのエジプト王パロの夢の解き明かしの通り七年で終息し、例年の収穫に戻りました。

しかし、例年の収穫があると云うのは稀有な事なのであり、普通の事ではないのです。

何故ならば、激しい長く続く凶作は人口、即ち農業従事者数を激減させます。

耕作意欲は削がれ、農民は離散し、土地は手入れをされずに放置され荒れ廃り、例年の収穫を生み出すには数年を必要とする事も珍しい事ではないのです。

しかし、エジプト王国ではエジプト王国宰相ヨセフの政策により、家畜も農地も、農民も国有化され、家畜も農民も、エジプト王国によって養われたために労力に於いて減少する事なく、農地、国土に対して計画的な先行投資が、公共事業が行なわれ、計画的な農民の配置が、労力である家畜の配備が行なわれ、土地は荒れ廃れる事なく、凶作の終息と共に例年の収穫を得る事が出来たのです。

エジプト王国の国力は多少の疲弊があったにしても大きく削がれる事はなく、近隣諸国に比べ格段の優位に立つ事が出来たのであり、永く続く繁栄に繋がったのです。

ヨセフもヤコブも神様によってエジプト王国に遣わされたのであり、ヨセフの働きによって、またヤコブの祝福によってエジプト王国は長く続く繁栄を得ましたが、これはまさに神の民の働きです。

エジプト王国が神様の祝福を受けるに相応しいか否かを考える必要はありません。

神の民は誰にでも祝福を与えるべきであり、誰に対してでも益となる事をして差し上げ、益となる助言を与えるべきです。

決して呪っては、意地悪や不利益となるような言動を執ってはなりません。

そして、悪意に対しても善意で応えなければならず、それが神の民の使命であり存在理由です。

神様が悪人に対しても太陽を昇らせ、雨を降らせ、自然の作物で養う如くに、神の民はイエス様の執り成しと聖霊様の助けをいただいて、悪人に対しても祝福を宣言し、愛を注ぎ、寛容に接し、親切な対応をし、善意で応え、誠実、柔和に接しなければならないのです。

神の民が存在する事でこの世の民は神様を知る事が出来るのであり、神の民が執り成す事でこの世の民は神様の祝福を受ける事が出来るのです。

神の民はこの世の民と良い関係を持たなければなりませんが、決してこの世に同化してはならず、この世に帰属してもなりません。

この事を明確に教えるのが今日の聖書箇所です。

【本論】

7:27 さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住んだ。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえた。

凶作が終息し、飢饉の脅威は去り、安定的な収穫を得られるようになりましたが、人間の存続を脅かすモノはこの世に多く存在します。

事故然り、戦争然り、病気、伝染病、風土病然りであり、神様は人間の寿命を百二十年と決められましたが、その寿命を全う出来るのは当然、自然ではないのです。

何かの脅威で大幅に人口が減少し、脅威が去って徐々に元の人口に戻り、以前よりも少し増えたと云うのが、農耕を主体とする古代社会なのであり、そのような中で寄留の民が年を追う毎に増える、増え続けると云うのは、何かの力が働かない限りあり得ない事なのです。

ヤコブ一族がエジプト王国で増える事が出来たのは、エジプト王パロとエジプト王国宰相ヨセフの庇護を受けていたと云う特殊な事情があるにしても、また、イスラエル民族は多産であると云う特異性があるにしても、一度、伝染病や風土病が猛威を振るうと終息させる手段がない古代社会に於いて、「非常にふえ」る事はあり得ない事なのであり、これは神様の約束の故であり、ヤコブがエジプトに下る途中、ベエル・シェバで現れた神様の約束の成就の故です。

創世記463節、新改訳第3版は86ページ、新改訳201788ページ、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから」との約束があってこそです。

ヤコブがエジプト王国入りしたのはヤコブ百三十歳の時、ヨセフ三十九歳の時であり、凶作が終息したのがヤコブ百三十五歳の時、ヨセフ四十四歳の時であり、その十二年後の出来事を扱っているのが今日の聖書の箇所なのです。

47:28 ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえたので、ヤコブの一生の年は百四十七年であった。

繰り返しになりますが、たった十七年間でヤコブ一族が「非常にふえた」のは神様の約束の故であり、神様の祝福が与えられた結果です。

先にヤコブの先祖を遡り、齢を確認し、ヤコブの齢は確かにわずかである事を確認しましたが、問題は神様との関係性にある事を確認しました。

二百年、三百年と生きながらえても、神様との関係が希薄、皆無であったなら意味はなく、罪を積み重ねるだけの人生であるなら意味がない処の話ではなくなりましょう。

逆に二十年でも、三十年でも神様との関係が密であり、常に神様に歩調を合わせた人生であったなら意味と意義のある生涯だった、と最高の評価を得るのではないでしょうか。

ヤコブは自分の生涯は「ふしあわせ」であったと総括していますが、十二人の男の子を跡継ぎとして与えられたのであり、エジプト王国での十七年の滞在の間に非常に多くの孫を得たのであり、齢とは別の祝福を得ていたのです。

更には、見えない祝福にも目を留めなければなりません。

人間は影響を受け易い生き物であり、同調し易く同化し易く、埋没してしまう生き物なのですが、ゴシェンの地でイスラエル人としての血統を守り、イスラエル人としての固有性を保持し続けて来たのですが、これもまた神様の祝福なのです。

この世と交流する事自体が悪い訳ではありませんが、この世と妥協しこの世に吸収され消滅してしまってはなりません。

この世に関わりつつも、この世と一線を画していかなければならず、この世に対して諌める事も、悔い改めを迫る事も祝福の一種であり、この世と妥協してしまっては、この世を諌める事が出来ず、祝福する事も出来なくなってしまいます。

ヤコブ一族のエジプト王国での生活は、エジプト王国と関わりを持ちつつも一線を画し、神の民として生きて来たからこそ、子孫の数に於いての祝福も与えられたのです。

47:29 イスラエルに死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。

47:30 私が先祖たちとともに眠りについたなら、私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってくれ。」するとヨセフは言った。「私はきっと、あなたの言われたとおりにいたします。」

29節で「あなたの手を私のももの下に入れ」て誓わせますが、これはアブラハムがイサクの嫁を探すために僕を遣わした時に僕との間の誓いとして採用した儀式的、慣習です。

元々の意味は不明ですが、「もも」はユダヤでは「子孫、性器」を暗示する言葉であり、腿の下に手を入れる事は子孫の存亡に関わる事を暗示し、性器、即ち性交は全人的な交わり、一体となる事を意味しますが、それと同等の意味を持たせているのではないかと考えられます。

誓いの確認の儀式であり、命懸けの誓いである事を双方が言葉と行為とによって確認する儀式なのです。

ヤコブの告白はエジプト王国に移住しては来たが、エジプト王国に骨を埋める気がない事、即ち、エジプト王国に属する者となったのではない事の告白であり、ヤコブもヨセフもエジプト王国での生活は一時的なものに過ぎない事、神の民が生き残るための緊急避難の場でしかない事、将来、神の民として世界に広がり世界を祝福するために、神の民の数を増やすための場に過ぎない事、飛躍的な働きのために力を、数を蓄える場だと云う事を、しっかりはっきり認識していたのです。

ヤコブの「私をエジプトの地に葬らないでくれ」との願望は、ヤコブの個人的な、故郷に葬ってくれ、先祖と共に葬ってくれ、との願いであるよりも、神様とアブラハムとの約束、創世記1513節、新改訳第3版は21ページ、新改訳201722ページ、「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。

15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。

15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。

15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」との約束に基づくものであり、神様とヤコブ自身との約束、創世記464節、新改訳第3版は86ページ、新改訳201788ページ、「わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう」との約束に基づくものであり、確信です。

エジプト王国は寄留の地であり永住の地ではない事を、遺体さえ留め置く場所ではない事をはっきり、しっかり自覚していたのです。

30節の「先祖たちの墓」とは、アブラハムが妻サラのためにヘテ人から買った墓地です。

創世記2317節、新改訳第3版は35ページ、新改訳201736ページ、「こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、

23:18 その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。

23:19 こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。

23:20 こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった

アブラハム自身もイサクも、イサクの妻リベカもヤコブの妻レアも葬られています。

創世記4931節、新改訳第3版は93ページ、新改訳201796ページ、「そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った

先祖と共に葬られる事は先祖と一緒になる事であり、朽ちてはいても肉体として一緒になる事であり、霊的にも一緒になるのであり特別な意味があるのです。

一緒とは、渾然一体になる、の意味ではなく、集いとして一緒になるのであり、共同体、神の民の群れとして生きていても一つであり、死んでも一つなのです。

神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、神の前では生きている者も死んだ者も同じであり、神の民の群れに属している事が何より重要なのです。

神の民として生きた証が神の民に加えられる事であり、神の民に加えられる事が神の民であった事の証なのです。

ですから、決して「死んでお終い、骨は何処にでも」ではないのです。

47:31 それでイスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」そこでヨセフは彼に誓った。イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした。

ヤコブはヨセフに、ヤコブの遺体をマクペラの私有の墓地に埋葬する事を誓わせます。

床に寝たまま」を、新共同訳聖書は「寝台の枕もとで」と訳し、口語訳聖書は「床のかしらで」と訳し、新改訳2017は「寝床の枕もとで」と訳していますが、「床」と訳されているヘブル語は「ミッター」であり、「杖」「マッター」と全く同じ子音で構成されていて、「杖の頭にもたれて」と訳す事が可能です。

ヤコブの生涯では「杖」が重要な意味を持っています。

創世記3210節後半、新改訳第3版は58ページ、新改訳201759ページ、「私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです」。

「杖」は羊飼いの象徴であり、「杖」は王権の象徴でもあり、ヤコブに相応しいと言えるのではないでしょうか。

床に寝たまま、おじぎをした」と云うのはちょっと不自然で、違和感を感じますが、ヤコブの願いを受け入れてくれたヨセフに対して、出来る限りの、精一杯の感謝を現したのです。

親しい仲でも、感謝の意ははっきりと現し伝えなければなりません。

【適応】

先に、アブラハムが妻サラのために私有の墓地を購入した件、創世記2317節を紹介しましたが、この件は201636日の説教で扱っています。

今回と同じように墓地について扱っていますが、前回の時の【適応】のポイントは、自前の墓地の重要性についてであり、借りるのではなく買う、所有すると言う事、必要に対して出し惜しみをしないと言う事、支払いは速やかに行なうと言う事でした。

今回は墓地の持つ意味について考えたいと思います。

墓地は人生の最終地点、到達点ではありません。

「死んでおしまい」ではなく、墓は遺体、遺骨置き場ではないのです。

先にお話したように、墓は地上での歩みを証しするものであり、地上での歩みを終え、先達の群れに加えられ、新しい歩みに入るのであり、何処に向かっているかを、或いは、何を待っているかを証するのです。

お寺のお墓に埋葬されたなら、仏教徒として歩んだ人物である事を証しするのであり、仏教の教えに帰依した人と理解し、天国を想像し、そこに憩う姿を想像するでしょう。

神社に合祀されたなら、神道に生きた人物である事を証ししましょう。

キリスト教の墓地に埋葬されたなら、クリスチャンとして歩んできた人物である事を証しします。

この世に残された人々は、キリスト教の事を詳しくは解らなくても、葬式での説教を通して甦りの事を知るのであり、慰めてくださるお方の存在を知るのです。

ここで、仏教や神道を非難する意図は全くありません。

キリスト教を心からお勧めしますが、信教の自由が保障されているのですから強制は出来ず、仏教を信じても神道を信じても、イスラム教を信じてもよいし、勿論、無神論もありです。

強制は出来ませんが、しかし、葬式を通して、埋葬される場所を通して証しする務めがある事は覚えておかなければなりません。

葬式は大きなイベントであり、参列者は半強制的に説教を聴かされます。

葬式でキリスト教の真髄、創造者である神様の存在、罪について、死の意味、裁き、神の御子であるイエス様の存在、贖い、甦り、永遠の命、助け主である聖霊様の存在、などなどを知るのです。

勿論、制限された短い葬式時間の中での説教ですので全てを網羅出来ませんが、幾つかの重要なポイントに触れる事は間違いありません。

そして、埋葬された墓を通してクリスチャンであった事が語り継がれるのであり、記念会などで説教に触れ、キリスト教について知識を深めるのです。

ヤコブはエジプトでの寄留期間が四百年である事を知らされておりますが、埋葬される場所は自分の死後の人々に任せるべき問題ではなく、自分で判断し指示しなければならない重要な問題として認識しており、ヨセフにエジプトには決して埋葬してはならない事、「カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬」る事を誓わせるのです。

エジプトとヘブロンは直線距離で400km以上離れており、ヘブロンに埋葬するのは容易な事ではありません。

しかし、必要な事なのであり、しなければならない事なのです。

ヤコブの死後の関心は、盛大な葬式を執り行う事でもなく、墓参りをするのに便利な所に立派な墓を建てて埋葬する事でもなく、命日毎に記念会を催し忘れないように思い出して欲しい、でもなく、あの「カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬」る事を誓わせるのです。

埋葬後は出エジプトするまで一度も墓参りをした事はありませんが、神の民として生きた事が重要であり、神の民に加えられる事が重要なのであり、肉体は朽ちても、魂の永遠を信じ、復活を信じ、新しい身体が与えられる事を信じているからこその指示なのです。

キリスト教の墓は、遺体、遺骨の埋葬場所ではなく、神の民として生きた事を証しする場であり、イエス様の再臨を待つ場であり、復活を待つ場なのです。

新しい身体、死ぬ事のない身体、病気もなく老いもしない身体と、永遠の命が与えられる時を待つ希望の場なのであり、この世の墓の別離が支配する悲しみの場とは全く違う意味がある事を知らなければなりません。

墓地の問題は死後の問題ではなく、神の民として生きた事を証しするのであり、神の民に加えられた事を証しする故に重要なのです。

もし、遺言を残さず、お寺の墓に埋葬されてしまったならば、何代目か後には、何時しか仏教徒として扱われるようになってしまうのではないでしょうか。

ヤコブの遺言は、墓の問題は重要な信仰の問題であり、何処に埋葬されるかをはっきり指示すべき、疎かにしてはならない問題なのであり、クリスチャン全てが考えなければならない問題なのです。

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