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聖書箇所:創世記5015節から21節              2018-8-26礼拝

説教題:ヤコブのことづけ?・・・兄たちの背きと罪を赦してあげなさい

【導入】

ヤコブは、為すべき事、息子たち全員を呼び集め、一人ひとりに相応しい遺言、預言、祝福を与えたのでしたが、それは、兄弟が、お互いの得手不得手を知り、欠けを補い合い、余剰を分かち合い、協力して、世界を祝福するという働きを、押し進めていくためです。

決して、それぞれが分かれて、離れて、独立して歩むためではありません。

世界を祝福する、と云う働きに求められるのは、多様性と永続性であり、ヤコブの息子たちが、それぞれに相応しい遺言、預言、祝福が与えられた意味は、お互いの多様性を認めるためであり、永続性な働きを推し進めて行く事を確認する意味でもあるのです。

多様性が尊重されなければなりませんが、それでも、まとめ役が必要であり、「要」がしっかりしていなくてはなりません。

扇子も、団扇も、「要」が根元をしっかりまとめているからこそ、風を送る事が出来るのであり、要がしっかりしていなくては、風を送るどころの話ではなくなってしまいます。

アブラハム、イサク、ヤコブの生きた時代は、族長が中心となり、要の役を果たし、一族、部族をまとめ、厳しい試練に立ち向って行った時代です。

生きるだけでも厳しい時代ですが、合わせて、「世界を祝福する」働きの、基礎を造り、基礎を固めて行くのは、生易しい事ではありません。

些細な齟齬、小さな誤解も、「世界を祝福する」働きを阻む、致命傷になりかねませんから、放っておいてはならず、手当てをしなければなりません。

しかし、過度な介入は、多様性を損なう事になりますから、慎重さが求められましょう。

「要」たる者は、悪しき兆しを察知するのを、主たる働きとしなければならず、悪しき兆しを察知した時に、直ぐに対応、取り組むために、「要」たる者は、日常的な仕事や責任を多く抱えていてはならず、委託出来る仕事は委託し、身軽にしておかなければなりません。

「要」でなければならない仕事と、そうでない仕事とを区別しなければなりません。

牧師が、説教や牧会が疎かになる程、忙しいのは、考えものでしょう。

特に、俗に「雑用」と分類される仕事で翻弄していてはならず、また、教会が、礼拝や伝道を疎かにし、交わりや体裁にばかりに、気を使っているのも、考えものでしょう。

それを許していると、その教会が霊的に枯渇し、存在意義を失うのは明らかです。

ヤコブの遺言に、将来、ユダが王権を握り、「要」となり、統治する事が預言されていますが、ヤコブの後任を、直接に指定する遺言はありません。

しかし、創世記464節、新改訳第3版は86ページ、201788ページ、「ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう」と神様から宣告されており、ヤコブの後任が、ヨセフである事は明らかですし、現実にも、エジプト王国宰相ヨセフがヤコブの実質的な後任ですが、手続きが必要であり、皆に承認されなければなりません。

ヨセフの兄たちの疑心暗鬼から、始まった、ヤコブの後任決定、周知のプロセスが、今日の聖書箇所の本筋ですが、その前提は、和解です。

【本論】

50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。

ヤコブが亡くなって、「要」が居なくなり、色々な意見や考えをまとめる者、不平や不満を抑える者、或いは、逸脱した行動を諌める者が、居なくなってしまいました。

ヨセフの兄たちにとって、ヨセフは色々な意味で特別な存在です。

ヨセフは、エジプト王国宰相であり、殺生与奪の権を持っているのであり、誰も、逆らえませんし、ヨセフに意見する事の出来る者は居ません。

ヤコブが亡くなった今、ヨセフが本性、本心を現さない保障はなく、ヨセフの兄たちは、ヨセフが、遺恨を晴らす時がやって来た、と考えているのではないか、との疑心暗鬼に陥ったのです。

まあ、当然と云えば、当然でしょう。

ヨセフの兄たちは、肉親であるヨセフを奴隷として売り飛ばしたのですから。

奴隷は、家畜や道具と同じであり、何の権利も、保護もありません。日本には昔、「士、農、工、商、穢多(えた)、非人」、と区分される身分制度があり、現代も、全く解消しているとは云えません。

有形の差別はないでしょうが、無形の差別があるのであり、この解消、解決にも、教会は努力を惜しんではなりません。

導入と、矛盾するように感じるかも知れませんが、教会は、神様と人を愛する事を教え、実践しますので、弱者、少数者の権利を守り、回復する事は、聖書の教えに決して矛盾はしません。

否、現代、教会は、余りに内向き過ぎる傾向があり、貧しい、力が無い、手が回らない、を言い訳にしてはいないでしょうか。

出来る事を、出来る範囲で行なわなければならないのであり、もっと、社会に眼を向け、社会的責任を果たさなければならないのではないでしょうか。

さて、奴隷は、人間として認められず、厳しい環境で、苛酷な労働を強いられるのであり、その恨み、辛みが、決して晴れる事が無いのは、誰もが知るところであり、ヨセフの兄たちは、ヨセフに対して、正式な謝罪を一切、行なってはおらず、ヨセフの兄たちは、ヨセフの赦しを確信出来ず、父ヤコブが亡くなった今、ヨセフが積年の恨みを晴らす行動に出るのではないかと案じたのです。

ヨセフの兄たちの意識は、ヨセフの復讐に限定していたでしょうが、未解決の問題は、何時しか、兄弟たちの結び付きを壊すのであり、兄弟たちの結びつきの崩壊は、世界を祝福する働きを阻害する事は明らかであり、速やかに、解決に取り組まなければならない、重要、且つ、重大な問題なのです。

50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。

50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。

ヨセフの兄たちは、直接ヨセフと話し合うのではなく、人を介して、ことづけましたが、ここに、知恵がありましょう。

勿論、直接話し合えれば、それが最善でしょうが、時と場合によりますが、人を介するのも、ワンクッションあって、次善策と云えるでしょう。

直接の関係者同士の話し合いは、気まずいものです。

謝罪の気持ち、赦しを乞う気持ちと共に、強がりの気持ち、弱みを見せられない気持ちや、言い訳の思いが複雑に絡み合い、素直になれない場合も、話し合いに臨めない場合も多いのではないでしょうか。

仲介者を立てるのは、和解したい気持ちの現れであり、歓迎すべき策と云えるでしょう。

しかし、ここでの「ことづて」の真偽は疑問です。

ヤコブは、「ことづて」の言葉を言ったのでしょうか。

注解書は、概ね、「言った」との立場を取っているようです。

しかし、聖書を読み進めて来た中で、ヨセフの兄たちが、父ヤコブに事の次第を告白した様子は、記されていません。

非常に重要な事であるのにです。

否、非常に重要な事だけに、告白は憚られ、ヨセフの兄たちは、父ヤコブに対して秘密を貫いたのではないでしょうか。

ヨセフの兄たちが、事の次第を、父ヤコブに告白していたならば、ヤコブは臨終に際して、ヨセフに、兄たちを赦すよう、父の権威で勧告、取り持った筈です。

父として、一族の要として、兄弟の和解と和合は、何よりの願いであり、兄弟の和解と和合のためならば、自身の命を捧げるのが父の、要の務めなのではないでしょうか。

世界を祝福する働きに、兄弟の和解と和合は、必要不可欠だからです。

しかし、ヤコブが一言も触れていないのは、告白の事実が無かったからであり、父ヤコブは、ヨセフの兄たちが、ヨセフを奴隷に売り飛ばした事実を知らなかった、との立場を、私は支持します。

ヨセフは泣きますが、その理由として考えられるのは、兄たちの心情、恐れを、哀れに思った故に。改めて、父を亡くした事を実感した故に。改めて、親族、兄弟の結び付きを、強く感じた故に。これまでのヨセフの行為が、兄たちに届いていない、理解されていない、疑われている故に。これが最大の理由ではないかと思います。

50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」

ここでも、創世記377節、新改訳第3版は67ページ、201769ページに記されている、ヨセフの見た、兄たちの束が、ヨセフの束を拝すると云う夢は実現します。

兄たちの「私たちはあなたの奴隷です」との告白は、奴隷となる備えが出来ています、どのような扱われ方をされても、構いません、従います、との告白です。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

ヨセフの兄たちの告白に対する、ヨセフの応答は、創世記454節から11節の言葉の繰り返し、要約です。新改訳第3版は84ページ、201786ページ、45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。45:9 それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。45:10 あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。45:11 ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう。」であり、ヨセフは、繰り返し、神様がご計画の中で、全ての事を最善に導いてくださった事を確認し、強調し、兄たちに安心を与えようとするのです。

ヨセフの応答に、キリスト者が持つべき品性、態度を見る事が出来ます。

人の悪意、悪しき計画にも、神様のご介入を見る事であり、為された悪の是正は、神様に委ねる事です。

ローマ人への手紙1219節から21節、新改訳第3版は309ページ、2017318ページ、12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」。

悪に報いるのに、赦しを持って対するだけでなく、実際の思いやりの愛をもって行動する、必要を与えなければなりません。

ルカの福音書627節、新改訳第3版は120ページ、2017121ページ、6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい」。

テサロニケ人への手紙第一515節、新改訳第3版は401ページ、2017413ページ、5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」。

ペテロの手紙第一419節、新改訳第3版は458ページ、2017471ページ、4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」。

ヨセフと、ヨセフの兄たちとの和解は、恒久的、不可逆的な和解でなければなりません。

何故ならば、ヤコブの子孫に与えられた「世界を祝福する」と云う働きは、永続的な働きだからです。

ヨセフと、ヨセフの兄たちとの和解は、必然的に、各々が、契約の民の一員である事を、強く意識、自覚させた事でしょう。

そして、和解は、父ヤコブを仲介者として、もたらされた、実際的、本質的な恵み、と云う事が出来ましょう。

健康でも、莫大な財産があっても、四方八方敵だらけ、であったならば、祝福されていると云えるでしょうか。

和解は、実際的、本質的な恵み、祝福であり、兄弟の和解は、神様との和解のモチーフであり、究極的目的です。

【適応】

ヤコブは、ヨセフに、「兄たちのなした背きと、罪、咎を赦してあげなさい」、とのことづけを残したとされますが、相手の背きと罪、咎を赦すだけでは、不十分です。

ヨセフが21節で「あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう」と宣言したように、相手の必要を与えてこそ、本当に赦した事になるのです。

そして、この和解のために努力、工夫、奔走する事が大切、重要です。

間違っても、不安を煽るような、憎しみを増すような、対立感情の火に油を注ぐような行為をしては、断じてなりません。

仲介者は、両者が和解するために、可能な限りの情報を入手し、根回し、工作をしなければなりません。

何の準備もなく、和解の場に臨んだならば、決裂は必至です。

真実が、全てを解決に導く訳ではありません。

伏せておく事も必要ですし、嘘にならない程度の脚色は、許されるでしょう。

今回の、ヨセフの兄たちの、ヤコブのことづて、とされる言葉は、多分に創作の気配濃厚ですが、家長としての権威による、強い調子の命令ではなく、終始、懇願、依頼の調子である事は、重要です。

誰でも、頭ごなしに命じられたならば、反発しましょうし、良い感情は持てません。

不承不承、従ったならば、何時かは綻びますし、関係は破綻します。

しかし、穏やかに、懇願、依頼されたなら、無下に撥ね付ける訳にもまいりません。

納得して、要求を、この場では、赦しを、自発で与えるのではないでしょうか。

この、自発に導くのが、仲介者の務めです。

仲介者の権限で命じ、従わせたならば、その場は治まったように見えても、仲介者が居なくなった途端に、状況は元に戻ってしまうでしょう。

否、更に悪化するのではないでしょうか。

この仲介、和解の労を取る者こそ、「世界を祝福する」働き、そのものです。

マタイの福音書59節、新改訳第3版は6ページ、20176ページ、「5:9平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。

少し言い方を変えるなら、「和解のために奔走する者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。

「和解を受け入れ、赦す者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」。

そして、和解に伴い、相手の必要を、喜んで与える事です。

和解に際して、一方的な譲歩を受け入れるのは、難しい事ですし、必要を与える事には、合点がいかないかも知れません。

でも、これは、世界を祝福する働きの、基本であり、キリスト者の持つべき、最低限、且つ、最高の資質です。

不完全な形でも、和解し、必要を与える時、「神の子どもと呼ばれ」、キリストに似た者とされるのです。

ここにおられる皆様が、和解の仲介者となられ、神の子と呼ばれる事を、当事者である時には、和解を自発的に、積極的に受け入れ、神の子と呼ばれる者となられる事を願ってやみません。

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聖書箇所:創世記501節から14節              2018-8-19礼拝

説教題:ヤコブの荘厳な葬儀

【導入】

ヤコブは、青年期、壮年期は、伯父ラバンの下で、患難辛苦の牧畜生活を送り、故郷に帰ってからの、老年期は、最愛の息子ヨセフと共に、穏やかな日々を送ってきましたが、ヤコブのヨセフへの、偏った愛情は、ヨセフの兄たちの妬み、憎しみを買ってしまい、ヨセフを窮地に陥れてしまい、ヨセフは奴隷として売り飛ばされる事になってしまいました。

ヨセフが奴隷として売り飛ばされた事を知らないヤコブは、悲しみの毎日を送らざるを得ませんでしたが、ヨセフはエジプト王国の宰相になっており、世界規模の飢饉の中で、ヤコブ一族が生き残るための備えとなっていたのです。

紆余曲折があり、ヤコブは最愛の息子ヨセフとの再会を果たし、平穏な晩年を過ごし、いよいよ、最後を迎えるに当たって、息子たち全員を呼び集め、それぞれに相応しい遺言、預言、祝福を与えたのでした。

全員が揃うところで遺言を、預言を、祝福を与えた意味は、それぞれが分かれて、離れて、独立して歩むためではなく、十二部族が、お互いの得手不得手を知り、欠けを補い合い、余剰を分かち合い、協力して、世界を祝福するという働きを、押し進めていくためです。

しかも、一様ではなく、同時でもありません。

皆さん、「蟻」を知ってらっしゃると思います。

働き蟻、と申しますが、二~三割りの働き蟻は、全く働かないのです。

この働かない働き蟻はボーっとしていて、本当に何もしないのです。

予備的、余力的な意味であるなら、一~二割で充分と思いますし、暫しの休息であるのなら、交代で休息しているのであるなら、納得なのですが、ボーっとしている働き蟻は、相当の時間、期間、ボーっとしているのです。

効率を追求する人間社会に置き換えたなら、文句が出るどころの話ではなくなりますが、ヤコブの子孫の働きのみならず、教会の働きは、個々人の働きは、一様、一律、一斉にではなく、それぞれが、神様に示されて、働くのであり、ボーっとしているのを、どんな働き方も、やり方も、するもしないも、咎める必要はないのです。

世界を祝福する、と云う働きに求められるのは、多様性と永続性であり、十二部族、それぞれに相応しい遺言、預言、祝福が与えられた意味は、お互いが多様性を認めるためであり、永続性な働きである事を確認するためであるのです。

ヤコブの最後の仕事は、息子たち全員に、神様から委ねられた働きを継承する事と、お互いの特質の違いや、働きの違いを認め、尊重させる事、協力させるためでした。

息子たち最初の仕事は、エジプトで、カナンで、神様の栄光を現す事であり、ヤコブの遺言の通りの葬儀を行なう事です。

【本論】

50:1 ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。

ヤコブとヨセフの関係は、異常な位、密な関係であり、強い相互依存関係でもあったのでしょう。

ヤコブにとってヨセフは、最愛の妻ラケルの生んだ子であり、ヨセフによってのみ慰めを得たのであり、ヨセフにとってヤコブは、幼くして母を亡くした悲しみを埋めてくれる無二の存在です。

ヤコブは、子離れ、と云うよりは、妻離れ、亡くなった者離れ、が出来ていなかったのかも、そしてヨセフは、母離れ、親離れが出来ていなかったのかも知れませんが、度が過ぎた依存は、お互いを不幸にしましょう。

勿論、人間のみならず、生き物は、依存を必要とするのですが、拘りの強い依存は、特定の何か、でなければならない依存は、共倒れになるような依存関係は問題です。

誰でも助けが必要であり、誰でも拠りどころが必要ですが、これ、あれ、この人、あの人じゃなければ駄目、では、非常に生き辛くなるでしょう。

勿論、何でも、誰でもいい訳ではなく、特に、教会の働き、福音伝道の働きは、教会での様々な奉仕は、信者、クリスチャンが担うべきですが、エアコンの修理は業者にお願いしても、何ら問題はありません。

信仰に関わる部分では、慎重な取捨選択を経て依存関係に入らなければならず、要所要所で吟味、チェックの上で、依存関係を維持、継続する知恵が必要でしょう。

勿論、過度な依存には注意しなければなりません。

1節の記述は、ヨセフだけが、尋常ではない悲しみを表した様子を描写しており、最後の別れを惜しみ、悲しむ様子を描写しているのです。

50:2 ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。

エジプトから、ヤコブの指定したヘブロンのマクペラの洞穴までは、400km以上の道程があります。

ドライアイスなどの無い時代ですから、遺体はあっという間に腐敗してしまうでしょうから、ヨセフは腐敗を防ぐと云う実用的な目的のために、必要な処置として、ヤコブをミイラにするよう命じるのですが、ここに、ヨセフの配慮があり、ミイラ造りの専門業者に依頼しなかった、と云う点です。

ミイラは、死者礼拝に深く結び付いています。

死者を礼拝するために、ミイラ化するのであり、或いは、上流階級の人々の、埋葬儀式の一環としてミイラ化したのですが、必然的に、宗教儀式が伴い、呪術的な要素が入り込みます。

死者の魂の扱い方にも、おどろおどろしさが伴うでしょう。

そこで、異教的儀式や呪術が入り込まないための対策として、技術的な点では全く遜色のない医者の手によって、ヤコブをミイラにするよう命じたのです。

エジプト王パロの宮廷には、医者がおり、エジプト王国宰相ヨセフの支配下にありますから、ヨセフの意を汲んで、純粋に保存のための処置として、ヤコブをミイラにするのです。

50:3 そのために四十日を要した。ミイラにするにはこれだけの日数が必要だった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

ヤコブをミイラにするのに四十日を要しました。

丁寧な方法を採用した場合には、七十日を要する事もあるそうですが、通常の場合でも、一ヶ月は必要だそうです。

ヤコブの場合、400km以上の移動であり、ある程度、丁寧な防腐処置を施す必要があり、通常よりも少し長く、日数を要したようです。

どの世界でも、喪の期間は、地位が上がるほどに長くなる傾向にありますが、七十日と云うのは、エジプト王パロの喪の期間に匹敵する長さであり、ヤコブは、直接、エジプト王国に貢献した訳ではありませんので、エジプト王国宰相ヨセフの地位、貢献に由来するものと、考えられますが、寄留者、異邦人であるのに、別格の待遇を受けたのであり、ヨセフの力が、ヨセフへの謝意が、強かった事が明白です。

因みに、モーセ、アロンの喪の期間は三十日であり、サウル、ヨナタンの喪の期間は七日であり、ヤコブの七十日は、異例中の異例と言うべきでしょう。

50:4 その喪の期間が明けたとき、ヨセフはパロの家の者に告げて言った。「もし私の願いを聞いてくれるのなら、どうかパロの耳に、こう言って伝えてほしい。

ヨセフは、エジプト王国宰相であり、エジプト王パロに直接、願い事を告げる事が出来る立場であったはずですが、使者を立てて、エジプト王パロに、願い事を伝えます。

これは、想像なのですが、エジプト王国には、独特の禁忌規定があり、喪が明けても、喪中にあった者は、エジプト王などの貴族階級には、直接謁見出来なかったのではないか、です。

穢れ、汚れに対する考え方は、時代で、地域で、文化で、宗教で様々です。

死や、死をもたらす病気を忌み嫌うのに、古今東西、大きな違いはありません。

特に、エジプトには、特異な禁忌規定が、幾つもあったようであり、その一つが、羊を飼う者を忌み嫌ったのであり、だからこそ、ヤコブ一族は、エジプト王国の辺境の地、ゴシェンの地に住む事になったのでした。

50:5 私の父は私に誓わせて、『私は死のうとしている。私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに、必ず私を葬らなければならない』と申しました。どうか今、私に父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って来ます、と。」

5節の願い事、これも想像なのですが、死者を、ましてや異邦人、外国人、特に羊を飼う者を、エジプト王国内に埋葬する事を、エジプト人は、忌み嫌ったのではないでしょうか。

大都市の問題は、人口密度、塵、糞尿などだけではありません。

墓地の問題があり、特に、土葬の時代、墓地の確保は、切実な問題です。

死体は穢れであり、人里離れた所に、埋葬しますが、何時しか、限界が来ます。

死体は、羊を飼う者の死体は、なるべく遠避けたいものであり、ヨセフの申し出は、願ったり叶ったりだったのではないでしょうか。

50:6 パロは言った。「あなたの父があなたに誓わせたように、上って行ってあなたの父を葬りなさい。」

ヨセフの願いが、エジプト王国内への埋葬であったならば、エジプト王国宰相としての、ヨセフの貢献度からも、無下には断れませんから、多少のゴタゴタ、スッタモンダがあったかも知れませんが、400kmも離れた所に埋葬するのですから、パロでなくても、誰もが、快く、承諾した事でしょう。

50:7 そこで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともにパロのすべての家臣たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、

50:8 ヨセフの全家族とその兄弟たちおよび父の家族たちも上って行った。ただ、彼らの子どもと羊と牛はゴシェンの地に残した。

50:9 また戦車と騎兵も、彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。

7節の、随行者の範囲と人数は、ヨセフのエジプト王国宰相と云う地位の故でしょう。

或いは、エジプトには、葬儀を特別に重要視する習慣があったのかも知れません。

これは、聖書の教えるところにも共通しています。

伝道者の書72節、新改訳第3版は1108ページ、新改訳20171146ページ、

祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」。

この葬儀が、エジプト王国の大臣や、貴族の埋葬であるならば、7節は至極当然な記述ですが、エジプト王国に何の貢献もなく、関係も薄い者の葬儀が、国葬並みの規模で行なわれたのです。

ヨセフには恩義を感じるし、大事、大切にするけれども、ヨセフの父の事は、ヨセフの個人的な問題であり、エジプトとは関係ない、とは考えなかったのであり、これは見習うべき事です。

ヨセフへの恩義は、ヨセフの関係者に対して配慮する事でも、報いるべきであり、極端に言うならば、無関係な人への施しでも、ヨセフに報いる事になる、と云う事です。

施しや親切ですが、誰も、見返りを期待してする人はいないでしょう。

巡り巡って、で考え、施しや親切をするのであり、施しや親切を受けたなら、直接お礼をするのではなく、誰か困っている人に施し、親切にすれば、世の中は本当に良くなるのではないでしょうか。

日本では、余り間を置かずに返礼を考え、半返し、倍返しを心がけ、それを美徳と考えますが、韓国では、プレゼントには、直ぐには返礼しないのが、普通だそうです。

覚えておいて、すべきタイミングで、返礼を兼ねたプレゼントを贈るそうです。

エジプトの人々も、ヨセフから受けた恩義を、ヨセフに直接報いたのではなく、ヤコブの埋葬の時に表したのであり、その時、出来る最大限の事をしたのです。

ヨセフに恩義を感じるならば、ヨセフの家族に親切にし、ヨセフの家族を助けるべきなのであり、間接的に、ヨセフに報いるべきなのです。

8節の、旅に同行した兄弟家族の人数は、不明ですが、これは、出エジプトの予行演習と言っても過言ではありません。

勿論、エジプト王国の高官、長老の随行があった点も、大きな違いであり、総勢は多く見積もっても数千であり、出エジプトとは桁違い、雲泥の差です。

更に、出エジプトは、400年も後の事ですので、言葉通りの意味での予行演習ではありませんが、9節で「その一団は非常に大きなものであった」と記されており、大集団がエジプトを出る、と云う、稀有の出来事は、既になされていたのです。

9節に「戦車と騎兵も」と記されていますが、一行を守る軍隊と共に、一行の必要物資を運搬する車も必要であり、「戦車」を「荷車」として利用した、と考えた方が、事実に近いかも知れません。

50:10 彼らはヨルダンの向こうの地ゴレン・ハアタデに着いた。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行い、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。

ゴレン・ハアタデ」の位置は不明ですが、ヤコブの私有の墓地は、カナンの地、塩の海の西のマムレにあるのであり、エジプトからカナンへの、通常ルートは海沿いの道であり、塩の海の西側の地域までの何処か、と考えられます。

ゴレン・ハアタデ」の「ゴレン」は「打ち場」の意味であり、「ハアタデ」、或いは「ハ・アタデ」は人の名前と考えられます。

アタデの打ち場」と呼ばれる、広大な広場があり、麦や豆を脱穀していたのでしょうが、そこで、ヨセフは、ヤコブの葬儀を執り行います。

人の土地で、勝手に葬儀を執り行われては、困りものですが、脱穀の時期でもなく、遊休地でもあり、まあ、鷹揚な時代だったのかも知れず、エジプトの「戦車と騎兵」の非常に大きな一団を見て、尻込みしたのかも、手出しを憚られ、見ているしかなかったのかも知れませんが、13節の記述と関連付けて読む時、「ゴレン・ハアタデ」は、ヤコブの私有の墓地、マクペラの洞穴に隣接しており、アブラハムの妻サラの葬儀、アブラハムの葬儀、イサクとリベカの葬儀、ヤコブの妻レアの葬儀を執り行った実績があり、土地の人々の了解を得るまでもなかった、葬儀を執り行うに、大きな問題は生じなかった、と考えるのが、一番自然なのかも知れません。

50:11 その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。

アベル・ミツライム」の「アベル」は「嘆く」と云う意味であり、「ミツライム」は「エジプト」の事であり、「エジプトの嘆き」であり、ヤコブの葬儀が、非常な悲しみ、嘆きの中で、しめやかに執り行われたのであり、その様子が、その土地の通称となり、語り草になっている事を、記録しているのです。

50:12 こうしてヤコブの子らは、命じられたとおりに父のために行った。

50:13 その子らは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地のほら穴に彼を葬った。そこはアブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買ったもので、マムレに面している。

50:14 ヨセフは父を葬って後、その兄弟たちおよび、父を葬るために彼といっしょに上って行ったすべての者とともに、エジプトに帰った。

400km以上の旅をし、「ゴレン・ハアタデ」で荘厳、盛大な、しかし、しめやかな葬儀を執り行い、「マクペラの畑地のほら穴に彼を葬」り、全てを、滞りなく済ませ、400kmを往復し、エジプト王国に戻り、普段の生活、日常に戻ります。

【適応】

今日のポイントとして、二つを挙げたいと思います。

キリスト教式葬儀を執り行う事を前提としてお話しします。

一つは、ヨセフが、ミイラ造り専門業者に依頼しなかったように、葬儀に、異教的なもの、呪術的なものが入り込まない注意、工夫が必要である、と云う事です。

日本の葬儀は、仏教式で執り行われる事が殆どであり、葬儀業者、葬儀式場、斎場の全てが、仏教式に対応する施設となっています。

斎場は仕方がないとしても、葬儀業者、葬儀式場は、仏教式、神式になるのを避ける必要がありましょう。

葬儀業者ですが、どの葬儀業者も、キリスト教での対応をしてはくれるでしょうが、経験やノウハウの点で、キリスト教を専門とする葬儀業者に依頼するのが、一番でしょう。

病院で亡くなられた時は、自動的に病院に出入りしている葬儀業者が対応を始めますので、対応を保留してもらい、直ぐに牧師に連絡します。

終活で、身の回りの整理をする事も大切ですが、葬儀を何式でして欲しいかを、明確に家族に伝え、残しておかなければなりません。

事前に、打ち合わせておく事は、縁起でもない事ではなく、信仰の表明として非常に重要です。

事前に打ち合わせておくと、雑多な事が確認済みですので、全てが非常にスムーズです。

勿論、当日でなければ、決められない事柄も、幾つかはありますが、一から、一つずつ確認しないで済みますので、心身ともに、余裕のない中であり、既に決められていると云うのは、大きなメリットです。

キリスト教を専門とする葬儀業者であると、斎場での対応も、スムーズに進むので、本当に良い証になります。

因習の残る地方では、特に、事前打ち合わせは、重要です。

それでも、異教的なもの、因習は入り込みますが、準備があるか否かでは大違いであり、「備えあれば憂いなし」です。

二つ目は、「荘厳な葬儀」の意味を考えたい、と云う事です。

聖書に、「その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言った」と記されていますが、これを現代に、キリスト教の葬儀に適応して、「これはキリスト教の荘厳な葬儀だ」と言わしめなければならないのではないでしょうか。

葬儀を通して、唯一の神様への礼拝が行われなければなりません。

荘厳な葬儀」は、少なくとも、飾り付けを豪華にする意味でも、振る舞いの食事や会葬御礼の質の意味でもなく、葬儀参列者の人数の多寡や、社会的地位の高い方々の参列でも、感動的な弔辞や、凝った演出でもありません。

荘厳な葬儀」の意味は、世の人々が、キリスト教の執り行う葬儀は違う、との感想を持たせる事であり、故人を懐かしんだり、冥福を祈るのでもなく、祟りを恐れるのでもなく、万物の支配者であり、命の付与者である神様を覚えるのであり、神様に、故人の命をお返しするのであり、故人の生涯に関わられた神様を称えるのであり、葬儀で、神様の栄光が現されるか否かです。

仏教式葬儀での読経は、読教に馴染みの薄い人々にとって、解り難く、ちょっとの忍耐を強いられる時間になっているかも知れませんが、キリスト教の葬儀ならば、少なくとも理解出来る言葉で語られるのです。

葬儀の説教だけで、キリスト教の全体をお伝えする事は出来ませんが、キリスト教への敷居が低くなれば、大きな意味と意義があるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様には、葬儀はキリスト教で、と伝え残し、最後まで神様に従い、神様と共に歩み、神様の栄光を現す、祝福された生涯を送られる事を願ってやみません。

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聖書箇所:創世記4929節から33節                     2018-8-12礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・埋葬地の指示

【導入】

波乱万丈の生涯を送ってきたヤコブですが、その晩年は穏やかであり、ヤコブは十二人の子どもたち一人ひとりに、おのおのに相応しい祝福を与え、静かに最期の時を迎えようとしていました。

何回かお話しましたが、以心伝心は現実的な、正確な確実な伝達方法ではありません。

伝えたい事は言葉に、或いは文字にしなければならず、関係者全員に周知させなければなりません。

後日のトラブルや混乱を避けるためであり、末永く良い関係性を保ち、協力関係を維持させるためです。

特にアブラハム、イサク、ヤコブ、その子孫に与えられた使命は「世界を祝福する」と云う稀有な働きであり、十二部族が協力し続けなければならない継続的な働きであり、十二部族が欠けを補い合う相互扶助を必要不可欠とする働きだからです。

意見の相違はあっても反目し合ってはならず、分離、離脱してはならず、主にあって譲歩し、主にあって合意し、主にあって犠牲を惜しまず、主にあって負担を嫌がらず協力し、主にあって積極的に目的に向かって進み続けなければならないのです。

「おのおのに相応しい祝福」を共通認識とする事は、おのおのに与えられた、預かっている能力、賜物の違いを認める事であり、一律でもなく、一様でもなく、おのおのが与えられた、預かっている能力、賜物を活かす事に繋がり、あらゆる地域に、あらゆる時代に、あらゆる文化に、あらゆる方法で「世界を祝福する」事に繋がります。

「世界を祝福する」と云う働きは自主性と主体性、独自性などを必要とする働きなのですが、反面、協調性と従属性、多様性と受容性も必要な働きであり、ヤコブの子孫は「おのおのに相応しい祝福」をもって「世界を祝福」し続けるのであり、その第一歩といえるのがヤコブの埋葬なのです。

昔、日本には「村八分」と云う制裁制度がありましたが、火事と葬儀だけは確執、恨みを忘れて協力するのを旨としてきました。

何がきっかけの、どんなに根深い諍(いさか)いでも一時休戦すると云うのは素晴らしい事であり、クリスマス休戦、ラマダン休戦が和平の道を開くきっかけとなるならば、何より神様が喜ばれ祝福される事でしょう。

【本論】

49:29 彼はまた彼らに命じて言った。「私は私の民に加えられようとしている。私をヘテ人エフロンの畑地にあるほら穴に、私の先祖たちといっしょに葬ってくれ。

このヤコブの指示は、死期を悟った者のあるべき姿です。

死に際して不安になり、心配になり、恐れ、怯えるのは人間の常ではありますが、神様を信じ、神様に全幅の信頼を置いているからこそ、安心していられるのであり、冷静さを保ち、うろたえずにいられるのです。

神様を信頼していても死後の世界は未知の世界であり、想像の世界であり、不安は募り、心配や恐れが引きも切らず押し寄せ、怯えを一蹴する事は出来ませんが、神様が側に居られる事を、寄り添いを確信するなら、不安、心配、恐れ、怯えは大きく軽減するのではないでしょうか。

ヤコブは、ヨセフへ与えた祝福の言葉で、自分自身の神観を再確認したのであり、神様の全知全能、永遠性、不変性、無限性を確信し、神様の祝福がこの世界のみならず、死後の世界にまで及ぶ事を確信したのであり、死に際して、不安、心配、恐れ、怯えを、退け、毅然として、凛として命じる事が出来たのです。

この命令、指示は創世記4729節から31節で語った言葉であり、ヨセフ個人に命じた指示ですが、兄弟全員が揃う所で改めて、兄弟全員に対して命令、指示します。

ヤコブは先に「おのおのに相応しい祝福」、おのおのに異なった祝福を与えましたが、それは決して別々の道を選び進む事を奨励しているのではない事を、ヤコブの息子たちは、至っての子孫たちは一つの群れに属する者である事を、共通の使命に生きる者である事を改めて意識させるための再確認させるための命令、指示なのです。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、その子孫の所有すべき約束の地はカナンである事の再確認でもあり、ヤコブの神様への、アブラハムの神、イサクの神への信仰のあかしなのです。

49:30 そのほら穴は、カナンの地のマムレに面したマクペラの畑地にあり、アブラハムがヘテ人エフロンから私有の墓地とするために、畑地とともに買い取ったものだ。

この逸話は創世記23章に記されています。

掻い摘んでご説明差し上げますと、アブラハムの妻サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで亡くなり、サラを埋葬するために、アブラハムはヘテ人の町の主だった人々の前で、持ち主エフロンに交渉し、エフロンの畑地と洞穴を通り相場で銀400シェケルで買い取り、アブラハム私有の墓地としたのです。

その墓地が通り相場で銀400シェケの価値に値するか否かも問題ですが、町の人々の前で正式に交渉した事、売買の様子の一部始終を町の人々が見届けた事、エフロンの言い値に対して一切の値引き交渉も無くそのまま受け入れた事、カナンの地で私有の墓地を手に入れた意味は大きいでしょう。

登記簿などの無い時代ですから、所有権は町の人々の記憶に頼る事になりましょう。

そこに住み続けるならば別ですが、アブラハムは旅人であり、ヘブロン滞在も一時滞在に過ぎず、エフロンの畑地と洞穴がアブラハムの所有である事は、当事者同士しか知らぬ事であるならば、特別な出来事と結び付かなければ、人々の記憶には残らず、時の流れと共に忘れ去られてしまうでしょう。

五年後、十年後に戻って来ても、あやふやになってしまっているのではないでしょうか。

しかし、町の有力者を集めて交渉したのであり、破格の価格で売り渡したのであり、羨望の眼差しと共に皆の記憶に鮮明に残り、代々語り継がれて行った事でしょう。

人々は、エフロンのものだった畑地と洞穴を見る度に、エフロンは上手い事やったなぁ、大儲けしたなぁ・・・、アブラハムと云う人はお人よしだなぁ・・・と、当時を懐かしく思い出すのではないでしょうか。

後日、アブラハム一行が立ち寄る際にも、滞在する際にも、自然な口実になり、誰も難癖を付ける事はないでしょう。

逆に、美味しい話にありつけるのではないかと、歓迎さえするのではないでしょうか。

通り相場の十倍近い価格の畑地と洞穴に埋葬されたのは、アブラハムの妻サラだけではありません。

49:31 そこには、アブラハムとその妻サラとが葬られ、そこに、イサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った。

アブラハムの妻サラが埋葬された事は創世記2319節に、アブラハムが埋葬された事は創世記259節に、イサクとイサクの妻リベカが埋葬された事は創世記3528節に記されています。

ヤコブの妻レアが葬られた事は、ここまでに言及されていませんが、ヤコブ一族がエジプトに避難して行った折のリストにレアの名前がありませんので、レアはエジプト避難以前に亡くなり、エフロンの畑地の洞穴に埋葬されたと考えられます。

ヤコブの妻ラケルは早くに亡くなっています。

創世記3516節に記されていますが、伯父ラバンの下を離れ、ヘブロンに住む父イサクの下に向かう旅の途中であり、ベツレヘムの道の傍らに埋葬されました。

ベツレヘムとアブラハム私有の墓地のあるヘブロンは直線距離で20km程度ですが、当時の旅の困難さを考えたなら私有の墓地に遺体を搬送するのは無理な事だったのでしょう。

49:32 その畑地とその中にあるほら穴は、ヘテ人たちから買ったものである。」

30節と重複する内容ですが、30節では個人の名前エフロンを上げ、ヤコブ個人の歴史を語りますが、32節では民族の名前ヘテ人を上げています。

表現が変わるのは見方が変わった徴(しるし)です。

個人からグローバルへの変化の現われであり、エフロンから買ったのは確かであり、その通りなのですが、ヘテ人たちの見ている処で買ったのであり、ヘテ人を証人として買ったとの意識の変化なのです。

アブラハムとエフロン、個人と個人の関係から、イスラエル民族とヘテ人、群れと群れの関係への変化であり、出エジプトまでの非常に個人的な歴史の先に、カナンの地の住民と関わる新しい歴史の始まり、広がりを予感させているのでは、ヤコブの子孫がグローバルな働きに入る事を暗示しているのではないでしょうか。

49:33 ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。

ヤコブは力を振り絞って「おのおのに相応しい祝福」を宣言しました。

更には、自分の埋葬される場所を指定、指示、命令し終え、全ての責任を果たした者として身支度を整え、息を引き取ります。

「大往生」の場面ですが、ここでのポイントは二つ、一つ目は「足を床の中に入れ、息絶えて」です。

何の変哲も無い、当たり前の事のようですが、決してそうではありません。

ヤコブは力を振り絞って「おのおのに相応しい祝福」を宣言した後、身支度を整えて死を受け入れたのです。

死に際して、本人も、関係者も、取り乱す事があります。

本人は非常な不安の中に置かれるのであり、家族も親しい友人も、大きな別離の悲しみの中に置かれるのであり、泣き悲しむのは自然かも知れませんが、神様の下に行くのであり、天国に行くのですから、何時までも不安を抱えているのは、また大仰に泣き、悲しみに埋没するのは如何な事でしょうか。

なかなか「喜んで死を受け入れる」とは参りませんでしょうが、神様に委ね、委ねた以上、気持ちを切り替える必要はありましょう。

恐れ慄いて死を迎えるのと、平安のうちに穏やかに死を迎えるのとでは雲泥の差であり、後者が良い証になるのは言うまでもありません。

二つ目は「自分の民に加えられた」事です。

死んで先祖の墓に葬られ、先祖の骨と一緒になったと云う物質的な面と、アブラハム、イサクの信じる神様に従い通した生涯を送った者として先祖と一緒になったと云う霊的、信仰的な面とであり、両方ともそれぞれに重要です。

肉体的にも精神的にも、唯一の神様に仕える民、従う民として生きて来た事を証しするのが「自分の民に加えられた」との表現なのです。

唯一の神様への信仰に生きた事の証であり、この世での使命を全うした事の証です。

世界を祝福する、と云う働きは一代限りでもなく、一族の働きでもなく、霊的な熱意と知的な能力が連綿と継承される働きであり、アブラハムはその始祖であり、イサクとヤコブは働きを担う者たちを生み出す働きを担い、ヤコブの子どもたちは400年かけて働きを担う者たちを増やしたのであり、ヤコブはその働きを終えて「息絶え」たのです。

ヤコブの子孫たちは律法を与えられ、訓練を受けましたが不信仰に陥り、不本意な形になってしまいましたが、捕虜となって強制的に世界に散らされたのです。

ローマ帝国では筆舌に尽くしがたい迫害を受けますが、ローマ帝国はキリスト教を国教とし「世界を祝福する」働きを担う事になるのです。

【適応】

皆さんには「おのおのに相応しい祝福」が与えられています。

言い方を変えるなら「おのおのに相応しい賜物、働き」が与えられています。

その働きを自覚していないかも知れません。

否、この世は神様の造られた世界ですが、神様の存在を認めず、神様に従う事、神様に信頼する事を知的な行為ではない愚かな事とし、「おのおのに相応しい賜物、働き」が与えられている事を自覚する事を妨げます。

自己実現こそ、この世に生を受けた目的だ、と言う人がおり、また、人間を含む全ては、自然発生であり、偶然の産物であり、目的もないし意味も無い、と言う人がいます。

特別な意識を持つ事も、人生の意味を考える事もなく、なんとなく、ぼーっと生きて来てしまったかも知れませんが、人間は神様に造られたのであり「おのおのに相応しい賜物、働き」を期待されています。

そして「おのおのに相応しい賜物、働き」に生きてこそ、満足感も、充足感も、生き甲斐も、存在意義も感じられるのではないでしょうか。

その「おのおのに相応しい賜物、働き」は非常に個性的であり、個人的なものです。

違いがありますが、遜色はありません。

この働きが優秀で、あの働きは劣っている、はありません。

ましてや、この民族は優秀で、あの民族は劣っている、はありません。

宗教や神様の存在を認める人々の中に、一神教を狂信的だ、排他的だ、攻撃的だ、と言う人々がおり、一神教が戦争の原因だ、諸悪の根源だ、と吹聴します。

確かに、過去の歴史を見れば、ある宗教が他の宗教を迫害し、排斥した時代があり、宗教が戦争を肯定し、戦争の後押しをし、戦争に加担し、戦争を推進させた事実は明らかですが、宗教団体が他の宗教を迫害し、排斥したのか、戦争を肯定し、戦争の後押しをし、戦争に加担し、戦争を推進させた、のかを、神様が他の宗教を迫害し、排斥したのか、戦争を肯定し、戦争の後押しをし、戦争に加担し、戦争を推進させた、のかを、よく検証する必要があります。

事実は、聖書を、経典を、教義を、人間の都合によく曲解したのであり、人間の思惑によって、聖書を曲解して、経典を曲解して、教義を曲解して、他の宗教を迫害し、排斥し、戦争を肯定し、戦争の後押しをし、戦争に加担し、戦争を推進させたのです。

「聖絶」は旧約聖書の時代でのみ許されており、現代に適応すべき根拠ではありません。

「聖戦」思想も危険であり、聖書を根拠にして「聖戦」を掲げるのは、或いは、悪は根絶すべきとして「聖戦」を正当化するのは如何なものでしょうか。

現代は多様性を認め、少数派を尊重する時代であり、「聖絶」も「聖戦」も現代に適応すべき思想では断じてありません。

他の宗教との関係も、先ずは尊重であり、違いを学び、違いを認め、共存への努力なのではないでしょうか。

「おのおのに相応しい賜物、働き」は個人の命の尊厳を尊重する事であり、個人の考えを尊重する事であり、自分の考えを押し付ける事ではありません。

自分のしたい事、出来る事をする事でもありません。

勿論、好き勝手を、混乱を奨励しているのではありませんが、神様が重んじられる秩序の中で、神様が受け入れられた人をそのまま受け入れるのであり、個性の多様性を認め、多様性を受け入れ、活かす事です。

教会は単色の人々の集まりではなく、皆が揃って同じ方向を見て、同じ方向に一糸乱れず進むのでもありません。

個性が発揮され「おのおのに相応しい賜物、働き」が活かされ、満足を感じられるような生涯を生きたいものであり「足を床の中に入れ、息絶えて」「自分の民に加えられ」たいものです。

死の床で自身の生涯を振り返る時、紆余曲折があったのは当然であり、数多くの失敗があったのも、神様に背き、神様を悲しませた生涯であったのも、罪を持つ身であり当然ですが、神様と離れない生涯であったと総括出来るなら、「おのおのに相応しい賜物、働き」が少しは出来たかな、と思えるなら、素晴らしい生涯だったと評価出来るのではないでしょうか。

評価は神様だけがするもの、与えるものであり、人がするもの、与えるものではありません。ここにおられる皆様も、おのおのに相応しく与えられた賜物を活かした働きをなし、神様に従う、神様と共に歩む、祝福された生涯を送られる事を願ってやみません

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聖書箇所:創世記4922節から28節                      2018-8-5礼拝

説教題:ヤコブの遺言・・・最愛の妻ラケルが生んだ子どもたちへの預言

【導入】

前回、奴隷制度について触れ、奴隷の子どもには、基本的に、財産を相続する権利がない事、しかし、父の認知があれば、財産をもらえる事をお話しました。

また、妻が何人いても、子どもが何人いても、長子には、他の兄弟の2倍を相続財産として与えなければならない事、長子以外の兄弟には、何の差も付けてはならない事などをお話しました。

現代は、兄弟間に差はなく、長子も末子も、同等の権利があるのですが、正確にお伝えするならば、多少の差を付ける事が可能であり、法的にも認められています。

仮に、子どもが5人いれば、そして、何の遺言も残していなければ、子ども一人には、5分の1が、法的な分配となります。

しかし、遺言を残し、ある子どもだけに財産を与えようとしても、子ども一人には、本来相続する分の2分の1が法的に保障されています。

5人兄弟であるなら、一人当たり10分の1が保障され、残りは、どのようにでも配分出来るのであり、可愛い子どもには、最大10分の6を与える事が可能なのです。

ヤコブは、当時の慣習に則って、ルベンには他の兄弟の2倍を与えなければならず、可愛いヨセフには、ヨセフの二人の子どもを、養子縁組する事で、他の兄弟の2倍を与える事にしたのですが、実際の相続は、出エジプト後に、モーセとヨシュアの時代に行なう事となりますから、相当先の話になってしまうのです。

ヤコブは子どもたち、一人一人に、それぞれに相応しい祝福、預言を与えます。

割り振られた祝福、預言の言葉の、節数、単語数が、相続分と比例する訳ではありませんが、それでも、ヤコブの祝福、預言の言葉には、ヤコブの気持ちが込められているのであり、ヤコブの気持ちを汲み取りつつ、祝福、預言の言葉を読む必要がありましょう。

最初に、ヤコブの正妻レアが生んだ子どもたち六人への預言が語られ、次に、女奴隷二人が生んだ子どもたち四人への預言が語られ、最後に、最愛の妻ラケルが生んだ子どもたち二人への預言が語られます。

ここで、ヨセフの二人の子ども、マナセとエフライムについて直接、名前が挙げられ、祝福、預言の言葉が語られていませんが、ヨセフへの預言が、そのままマナセとエフライムへの預言なのです。

イスラエルの文化では、父への祝福は、子どもへの祝福であり、子どもへの呪いは、父への呪いであるからです。

【本論】

49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。

ヤコブの、ヨセフへの祝福は、神様の豊かな祝福を受けたヨセフに相応しい祝福ですが、ユダへの預言程には、はっきりせず、具体的でもありません。

そもそも、ヘブル語は、あいまいであり、はっきりしない要素が多く、文法的な例外が多いため、多様な解釈が可能であり、現代では、使われていない言葉も多く、意味不明な言葉があり、言葉は生きており、時代の影響を受けますから、意味が変わってしまう事も、珍しくはありません。

それでも、22節から26節の預言の言葉は、約束の地にあって、神様から受け得る祝福を意味します。

」との表現は、数多い果樹の中でも、イスラエルでは「葡萄の木」を示す事が多く、「葡萄の木」の「若枝」が「垣を越え」、増え広がり、繁殖する様子を語ります。

それは、ヨセフの支配が広がる様子を表し、支配地を平定し、安定的に、継続的に発展し、支配地から、豊かな農作物と畜産物が、産出される様子を描写しているのです。

葡萄、葡萄の実、葡萄液、葡萄酒の豊かさは、神様からの恵みの豊かさを表し、祝福の大きさを表しますが、ヨセフは、神様から豊かな恵みと、大きな祝福を受けて、彼の地で増え広がる事が、預言されているのです。

49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。

49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。

この23節、24節は、ヨセフの過去について語っているとも、ヨセフの子孫が、将来直面する戦いについて語っているとも考えられます。

ヨセフの過去について、であるならば、兄弟たちから受けた仕打ちであり、エジプトで体験した奴隷生活、囚人生活の事でしょう。

兄たちに嫌われていた、とは云っても、父ヤコブの下に居た時には、父の寵愛を受け、父の保護を受け、直接、虐めや、嫌がらせを受けた訳ではなく、何不自由なく暮らしていましたが、奴隷の身分に落とされてからは、何の保護もなく、昼夜を問わず働かされたのであり、冤罪から囚人の身になってからは、更に苛酷であり、蔑みの視線に曝され続け、悩み、苦しんだのですが、アブラハム、イサク、ヤコブの神様が何時も守ってくださり、常に助けてくださり、なす事、全てを成功させてくださったので、奴隷の身分の時にも、囚人の身分の時にも、優遇され、エジプト王国宰相にまで登る事が出来たのです。

ヨセフの子孫の将来について、であるならば、出エジプト後の、カナンの地での戦いでは、カナン人たちの強烈な反撃に合い、厳しい戦いを余儀なくされ、非常に苦労はするけれども、アブラハム、イサク、ヤコブの神様が守ってくださり、助けてくださり、戦ってくださり、カナンの地を所有するようになる、との預言を与えるのです。

49:25 あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。

24節、25節には、神様の属性、神様の称号が語られています。

24節、「全能者」、「岩なる牧者」、25節、「助けようとされる・・・神」、「祝福しようとされる全能者」です。

24節、「全能者」との属性、称号は、神様の全知全能を、誰にも頼らず、誰の影響も受けない事を表し、「岩なる牧者」との属性、称号は、神様の不変性、無限性を、表します。

その神様は、25節「助けようとされる・・・神」、「祝福しようとされる全能者」であり、憐れみに富み、慰めに満ち、三つの方向から助け、祝福してくださるのです。

上よりの天の祝福」、具体的には、雨、日の光、風、露、霧、雷、などであり、「下に横たわる大いなる水の祝福」、具体的には、地下水、泉、川の流れ、などであり、必要な時期に、必要なものが与えられるのです。

雨期に、雨が降らなければ困りますし、収穫期に、雨が降っては困ります。

時宜にかなった天候の恵みが必要であり、過不足なく与えられる事が、時宜に合わせて与えられる事が、豊かな収穫に繋がるのです。

人の住まないところにも、山奥にも、海の上にも雨は降りますが、見えないところで、巡り巡って、地を潤すのであり、無駄なように見えましょうが、無駄は何一つないのです。

更に、「助けようとされる」、「祝福しようとされる」は、継続的、持続的、永続的な働きである、と云う事です。

期間限定、場所指定、の恵み、祝福ではなく、常に、何処でも、神様の恵み、祝福が注がれるのです。

この神様の恵み、祝福は、他の誰でもない「あなた」に注がれるのであり、特権、特別な恵み、祝福である事が、明白です。

神様の恵み、祝福は、満遍なく、誰にでも、の部分もありますが、神様は、恵もうと思う者を恵まれ、憐れもうと思う者を憐れみ、祝福しようと思う者を祝福されるのです。

アブラハム、イサク、ヤコブに属する子孫を恵まれ、憐れまれ、祝福されるのです。

或いは、アブラハム、イサク、ヤコブを通して、関わる人々を、恵み、憐れみ、祝福されるのです。

世界を祝福する、と云う働きは、まさに、アブラハム、イサク、ヤコブを通してであり、本来、無関係な人々に、アブラハム、イサク、ヤコブを通して、神様が祝福されるのです。

地への恵み、祝福は、子孫を恵み、祝福します。

乳房と胎の祝福」、具体的には、即ち、子育て、出産、などであり、天地の全てが、祝福されるので、多くの農作物、畜産物を得る事が出来、その結果、多くの子孫を得る、との祝福が語られるのです。

49:26 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。

神様のくださる、恵み、憐れみ、祝福は、先細り、ではありません。

先着何名様まで、でもありません。

アブラハム、イサク、ヤコブに注がれた恵み、憐れみ、祝福に勝る恵み、憐れみ、祝福が、ヤコブの子孫に注がれるのであり、ヤコブの子には、子孫には多くの子どもが与えられ、益々、発展し続け、増え続け、広がり続け、いよいよ一つの国民とされて行くであろうとの、方向性を示す預言が語られるのです。

しかし、聖書に、26節の預言の成就を連想させる、ヨセフの子孫の活躍は記されていません。

モーセは、レビ族の出ですし、モーセの後を継いだヨシュアは、エフライム族の出ですし、預言者サムエルはベニヤミン族の出ですし、初代の王サウルも、ベニヤミン族の出ですし、ダビデは、ユダ族の出です。

しかし、神様のご計画は、聖書に記されているのは、極一部であり、遠い将来、ヨセフの子孫が起こされ、立ち上がり、活躍するのは間違いありません。

その時、聖書の預言は成就するのです。

49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」

最後に、ラケルの子、ヨセフの弟、ベニヤミンについての預言、祝福が語られます。

ベニヤミンは、「かみ裂く狼」に、喩えられていますが、狼からイメージする、獰猛さの意味よりは、狼の持つ、勇気と力の意味に喩えられ、褒め称えられているようです。

」「」は、合わせて「何時も」の意味であり、常に、敵からの分捕り物、略奪物、戦利品が豊富な様子が描かれており、好戦的と思われる性格を暗示させます。

ヤコブの、27節の預言に、性的な奔放さを暗示させる言葉はありませんが、士師記19章から21章に、おぞましい歴史が記録されています。

レビ人と側女が旅の途中、ベニヤミン族に属する町、ギブアに立ち寄った時の事です。

夜中に、ギブアの町のならず者が、レビ人を襲い、側女を辱めた挙句、側女を死なせてしまったのです。

レビ人は、事の次第をイスラエル中に知らせ、どうすべきかとの問いを投げかけます。

イスラエル中の人々が集まり、協議をし、こんな淫らな、恥ずべき事を行なった者は、取り除くべきだ、ギブアの町は滅ぼさなければならない、との結論に達し、ベニヤミン族に使者を立てますが、ベニヤミン族は、ギブアの住民、淫らな行い、恥ずべき行いをした者たちを、同族である事を理由に、不問に附し、保護し、徹底抗戦する事にするのです。

紆余曲折あり、双方に非常に多くの犠牲者を出してしまいました。

こんな、恥ずかしい、悲しい歴史を持つのですが、全く有益な働きがなかった訳ではありません。

士師記312節以降に記されていますが、エフデはベニヤミン族の出身であり、モアブの王の圧制から、イスラエルを開放し、サムエル記第一9章以降に、サウルと云う、ベニヤミン族の出身者が登場しますが、神様に選ばれて、イスラエルの初代王に任命され、ペリシテ人の圧制から、イスラエルを開放したのです。

人間は、誰しもが、功罪を行うのであり、選民意識、優越意識を持つ、鼻持ちならない考え方も、自虐史観、で卑屈になる考え方も、建徳的ではありません。

正確な歴史認識、事実認識と、そこに立っての反省こそが、神様に喜ばれる歴史になるのです。

9:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。

ヤコブの、息子たち十二人への祝福は、「おのおのにふさわしい祝福」でした。

何かしらかの物質的財産を残すのも、それはそれで良いのですが、財産は、使ってしまえば、なくなります。

盗まれる事もあるでしょうし、価値が暴落する事もあるでしょう。

そして、なくなってしまった財産は、使ってしまった財産は、取り戻しようがありません。

しかし、生き方の指針、言い方を変えるならば知的財産ならば、無くならず、盗まれず、変わらず、残し伝えるに、一番相応しいものなのではないでしょうか。

勿論、聞き流してしまう事が多いかも知れませんし、忘れてしまうかも知れませんが、「おのおのにふさわしい祝福」ではありますが、兄弟全員が聞いているのであり、兄弟全員の共通認識、兄弟全員の生き方の指針になるのであり、「皆にとってふさわしい祝福」なのであり、契約の民としての約束に与るべき者としての祝福であり、子孫へ残すべき、掛け替えのない財産と云えるのではないでしょうか。

【適応】

ヤコブの預言の言葉は、正妻レアが生んだ子どもたち、六人についてから語られ始め、女奴隷ビルハの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、女奴隷ジルパの生んだ子どもたち、二人への預言の言葉、最後に、最愛の妻ラケルの産んだ子どもたち、二人への預言の言葉と続きました。

ヤコブは「おのおのにふさわしい祝福」を語ったのですが、聖書は普遍的な性格を持っていますので、「おのおのにふさわしい祝福」であると同時に、「全ての者にふさわしい祝福」でもあるのであり、「神の民にふさわしい祝福」でもあるのです。

私に語れている、として聴き、受け止める必要があるのであり、ルベンに語られているからといって、ルベンだけが聴けば良い、のではなく、シメオン、レビに語られているからといって、シメオン、レビだけが聴けば良い、のではないのです。

ヤコブの、子どもたちへの祝福、預言の言葉は、子どもたちの個性や、長所、欠点の羅列ではありません。

ルベンの性的失敗は、私と無関係ではなく、この種の誘惑には、誰もが無縁ではないのです。

シメオン、レビの怒り、憤りに任せた行動は、私と無関係ではなく、感情のコントロールは、誰もが、生涯をかけて、取り組まなければならない課題なのです。

欠点も、長所も、個性の一部でしょうが、個性だからといって、野放しで良い訳ではありません。

有耶無耶にしてしまってはなりません。

素材は、素材のままでは、役に立ちません。

玉、磨かざれば、光なし、であり、手を加え、整え、鍛錬し、矯正してこそ、役に立ち得るのであると云う事を忘れてはならないのです。

欠点は云うまでも無く、長所と云えども罪の影響を受けているのであり、罪の自覚、罪の影響を受けている欠点を抑え、罪の影響を受けている長所を生かす願い、祈り、コントロールがあってこそ、神様は、願い、祈りに応えてくださり、神の民としてくださり、世界を祝福する働き人、として用いてくださるのです。

神様は、罪を自覚し、欠点を克服しようと自制する人物を、神様の助けによって、長所を伸ばそうと研鑽する人物を用いてくださるのであり、そんな謙遜、柔和な人物たちの働きによって、世界は祝福されるのであり、世界を祝福する働きは、引き継がれるのです。

ここにおられる皆様も、この働きに召されているのです。

知的財産、聖書に記されている教えを受け取られ、世界を祝福する、貴重な働きを担われる事を願ってやみません。

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