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聖書箇所:ヨハネ13:3135                  2018-9-30礼拝

説教題:「新しい戒め」

【導入】

イエス様はイエス様を裏切る弟子、イエス様を置き去りにして逃げ出す弟子、イエス様の事を知らないと言い張る弟子、関りを恐れて遠くから成り行きを眺めているような情けない弟子に対しても、最高の愛を注がれ、イエス様との関係を強く意識に留めさせ、サタンの誘惑に引き込まれないように力を与えて下さったのでした。

愛弟子たちとの、数少ない食事の席で、イエス様はイスカリオテのユダを、イエス様の左の席に招き、座らせ、イエス様手ずからぶどう酒に浸したパンを与えられたのです。

主人の左の席は、最上位の席であり、主人に招かれた歓迎の証しとなる席です。

主人の手からパンを受け取るのも、最高の歓迎の印であり、ユダはイエス様から愛されており、それを弟子たち一同の中で現されたのです。

一番弟子と自他共に認めるペテロではなく、イスカリオテのユダが一番の弟子としてイエス様に認められ、招かれた席で、あろう事か、ユダはイエス様を裏切る決意を決定的なものとしたのです。

「親の心、子知らず」と申しますが、正に愛弟子のユダは、イエス様の心を知らず、イエス様を見捨ててしまい、離れて行き、敵にイエス様を売り渡してしまったのです。

不幸な成り行きではありますが、これも神様の許しの中で起こった出来事であり、神様はあらゆる事を通して、ご自身を証され、ご自身の栄光を現されるのです。

イエス様から歓迎と愛の印である、ブドウ酒に浸したパンを受け取りながら、イエス様を裏切るイスカリオテのユダ。このユダが出て行った直後に、イエス様は残った弟子たちに、大切なお話しを始められました。

【本論】

13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。

13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。

イスカリオテ・ユダの行為は裏切り行為であり、イエス様の注がれた愛情、信頼を踏み躙る行為であり、義理人情に篤い日本人でなくても、ユダの行為を非難するのではないでしょうか。

ユダの取った行動は、どの様な理由を付けても正当化されるものではありませんが、そのような悪辣な行為であっても、恩義に反する行為であっても、神様はその行為そのものを嘉とはなさいませんが、神様は導き出される結果を用いられ、神様のご計画を進める事をなされるのです。

神様のご計画とは、イエス様を殺す事であり、イエス様の死によって、私たち人間の罪を贖う事であり、続くイエス様を復活させる事によって、私たちに永遠の命を与える事なのです。

そのイエス様に臨む「死」は、十字架に付けられて与えられなければなりません。

十字架刑は、ローマ政府公認の処刑方法であり、イエス様の死が、公的な記録に残る死である事が重要です。

決して、暗殺のような形であってはならず、私刑・リンチのような形であってもならないのです。

更には、多くの民によって目撃されねばならず、

ヨハネの福音書1150節に記されている様に「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」と言う預言が伴っている事も重要です。

イエス様の死は、辺鄙な田舎の片隅で起こった出来事ではなく、大都会のエルサレムで起こらなければならず、多くの事件に埋もれてしまうような小さな出来事ではなく、歴史に記録されなければならない出来事なのです。

それもこれも、イエス様の死が、イエス様の十字架の死が、聖書の預言の成就であり、実際に起こった事であって、空想とか、妄想ではないからです。

そして、預言の成就に積極的に従う事が、神様の栄光を現すものであり、神様のご計画に従順であったイエス様の栄光を現すものなのです。

前回の学びで少し触れましたが、私たちは「すること」ばかりに目が向けられ、「したこと」の評価を気にしますが、学んだように「あなたがなすべきことを、今すぐしなさい」であり、決して「あなたがしたい事を、今すぐしなさい」ではないのです。

イエス様は神であられ、主体性をもって行動出来るのですが、決して自分の思いを優先させる事はありませんでした。

常に神様のご計画に対して従順であり「神様に仕える者」の姿勢を崩す事はなかったのです。

神様のご命令、ご計画に対して従順である事こそが重要であって、「する事」が重要ではないのです。

神様に対する「従順」こそが、何にも増して神様の栄光を現す行為であり、立派な教会を建てたとか、信徒が増えたとかが神の栄光を現す事ではないのです。

神様に対して従順であった牧会、礼拝生活において、信徒の数が増え、立派な教会が建てられたのであれば申し分ないのですが、信徒の数を増やす事に、大きな会堂を建てる事に主眼がおかれていたのでは順序が逆です。

イエス様は弟子の数を気になさった事はありませんが、弟子がどんな思いでイエス様に従っているかに付いては気を配っておられました。

聖書の理解に付いても、律法学者、パリサイ人らのような表面的な理解、適応ではなく、聖書の本質を見極めて行為する事を勧められたのです。

聖書の本義は「神を愛し、人を愛する」事であり、律法の適応も、表面的な遵法精神を奨励しているのではなく、「神を愛し、人を愛する」事に到達するための具体的な助けとして適応する事を勧め、教えられたのです。

時にイエス様の行為は、律法に反する行為のように見えますが、「神を愛し、人を愛する」行為であり、聖書にも、律法にも反していないのであり、神様の栄光を現す行為であったのです。

神様に対する「従順」は見せ掛の遵法精神ではなく、何を根拠として行為しているかであって、単純に「する、しない」ではないのです。

聖書の教え、即ち、神様のお考えを根拠として「するか、しないか」を選択しているのであれば、誰に、どんな評価を下されようと気にする必要はありません。

聖書の教え、神様のお考えを根拠としての行為であるならば、その行為は神様の栄光を称える行為となり、神様が、今、イエス様に「栄光」を与えて下さるのであり、同じ様に、神様が、今、私たちに「栄光」を与えて下さるのです。

人間的な時間感覚では、「栄光」は与えられず、「非難、蔑み」しか与えられていないように思えるかも知れませんが、神様は神様に従順な者に、「今」栄光を与えられると宣言されているのであり、見えない冠が燦然と輝いているのを、霊的な眼は目撃するのです。

13:33 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。

イスカリオテのユダが出て行った事で、イエス様の死が確実に近づいて来ました。

イエス様の死、それは弟子との別れを意味します。

別れは辛く、悲しいものですが、イエス様にあっての別れは希望に満ちています。

何故ならば、イエス様との別れは、天国に招き入れられる備えの時であり、永遠の命が与えられる序章なのですから。

別れは必要不可欠としても「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」との宣言は、どの様な意味なのでしょうか。

イエス様が向かわれる十字架は、非常な苦しみと辱めが伴います。

生半可な覚悟で向かう事は出来ません。

今の弟子たちには、その覚悟が出来ていないばかりか、弟子としても不充分です。

イエス様の足跡に倣うためには、命をかけてイエス様に従うためには、聖霊の働きが不可欠ですが、今はまだ聖霊が注がれてはいないので、イエス様に付いて行く事が出来ない、と言う宣言なのです。

事実、イエス様のためならば命を捨てると宣言したのはペテロだけではなく、其処に居合わせた弟子たちも口々にイエス様のためなら命も惜しくは無いと告白したのです。

しかし、イエス様を捕縛する一団を見た時、我先に逃げ出して、誰もイエス様を守ろうとしなかったのですが、それは人間的な力では悪魔的な力に対抗する事が出来ない事を教えており、霊的な戦いには霊的な力が必要であり、霊的な力はイエス様を通してでなければ与えられない事を示しており、昇天されたイエス様を通して、霊的な力が与えられてからでなければ、イエス様に付いて行く事が出来ない事を宣言された、と言う事なのです。

イエス様から霊的な力を頂いた者は、霊的な働きをさせて頂くようになります。

それは、聖書の本義「神を愛し、人を愛する」者になると言う事です。

神を愛するにおいて、形式的な儀式宗教では不充分です。

殉教を覚悟した歩みを目標とします。

人を愛するにおいては「あなたの隣人を、自分自身のように愛する」と言う旧約の教えでは不充分です。

イエス様のなされた「弟子の足を洗う」愛の実践が要求されているのです。

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

新しい戒め、それは全く新しい戒めではありません。

旧約聖書に記されている「あなたの隣人を、自分自身のように愛する」の一歩上を行く、踏み込んだ教え、戒めであり、新約聖書に相応しく、旧約の教えを凌駕する「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」なのです。

イエス様は裏切る者をも愛されました。

イエス様はイエス様の事など知らないと言い張る者をも愛されました。

イエス様はイエス様のためなら命も捨てると言いながら逃げ出した頼りにならない弟子をも愛されました。

イエス様はイエス様との関りを恐れて、遠くで様子を伺うような情けない弟子をも愛されました。

あなたもイエス様と同じ様に、裏切る者、関わりを嫌う者、頼りにならない者、情けない者を愛せよと、お命じになられたのです。

それによって、イエス様の弟子である事が明かにされるのであり、それ意外にイエス様の弟子である事が明かにされる事はないのです。良い行い、施し、親切、善意、誠実、柔和、自制、奉仕、献金、などがイエス様の弟子である事の証明にはならないのであり、互いの間に愛があるなら、どんな徳目にも増して、イエス様の弟子である事の証明になると教えているのです。

【適応】

「教会」と訳されているギリシャ語は「エクレシア」と言う言葉であり、「集まり、集団」を意味します。

即ち、建物が教会なのではなく、組織が教会なのでもなく、働きが教会なのでもないのであり、立派な会堂が教会なのではなく、宗教法人格を持っているか、組織体系がはっきりしているかが教会なのでもなく、伝道をしているか、福祉活動をしているか、信徒教育をしているかが教会なのでもないのです。

集まり、しかも、互いの間に愛がある集まりこそが教会なのであって、キリストの弟子の集まりであると言う事なのです。

この視点で現代の教会を見るならば、イエス様の眼に、幾つの教会が教会として映っているでしょうか。

多くの人の集う大きな教会堂が無人の教会として映っているかも知れません。

逆に小さな群れだけれども、光り輝いて映っているかも知れません。

人は教勢を誇り、教会堂を誇り、奉仕者の多い事を誇るかも知れませんが、小人数でも、みすぼらしい教会堂でも、奉仕者が少なくても、イエス様の眼には高価で尊い教会として映っているに違いありません。

また、イエス様だけでは有りません。

世の人々も、諍いのない教会を羨望の目で見ているに違いありません。

同好の士の集まりでも、損得とは関係のない集まりでも、息のあった仲間たちだけの集まりであっても、人には罪の性質があるが故に、好き嫌いが生じ、亀裂が生まれ、分裂・解散にまでは至らなかったとしても、規模の大小はともかくセクトが生まれ、表立っているか、水面下かは別にしても勢力争いが、何処にでも存在するのです。

批判が横行し、不満が燻っている。

表立ってはいないけれども、言いたい事は多少なりとも持っている。

こんな世の中と変らないのが教会であったならば、誰が教会に魅力を感じるでしょうか。

行って見たいと思うでしょうか。

関係を持ちたいと、仲間になりたいと思うでしょうか。

人間誰しもが持っている罪故に、教会にも世の中の集まりと似たような部分がありますが、イエス様によって聖霊を注がれた者の集まりですから、イエス様に倣って愛を現さなければならず、また、イエス様の愛に倣う者とされている事を覚えて、そのために必要な一切が与えられている事を覚えて、一歩踏み出そうではありませんか。

憎しみとまで行かなくても、何となく煙たい存在であっても、何となくうまが合わなくても、私たちにはイエス様の愛が与えられているのですから、イエス様が情けない弟子を愛したように、裏切る弟子を愛したように、関りを恐れて遠く離れているような弟子を愛したように、互いの間に愛を構築しようでは在りませんか。

先ずは、行動に出る前に、祈らなければなりません。

愛せない、尊敬出来ない、受け入れられない、あの兄弟を、あの姉妹を、愛せるようにして下さい、助けて下さいと祈りましょう。

そんな祈りは確実に教会の雰囲気を変えます。

直接の関係は、一朝一夕には変らないかも知れませんが、良くしようとの思いは徐々に浸透し、別の所に現れ、各所に現れ、相互作用で強められ、悪しき思いは薄められ、遠くに追いやられ、段々と気にならなくなるに違いありません。

そんな教会に、人は自然と集まって来るでしょうし、神様もそんなイエス様の愛を実践しようと努力している人々に、助けて下さらない訳がないのです。

教会の外の人から認められる教会こそ本物であり、神様の嘉とする教会なのです。

そんな教会、集まりがイエス様の弟子と呼ばれる人々であり、天国に招き入れられている弟子なのです。

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聖書箇所:詩篇16:611                  2018-9-23礼拝

説教題:「神を前に置く」

説教者:河野 優 牧師(日本同盟基督教団 法務主事)

【聖書】

16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
16:7 私は助言を下さった【主】をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
16:8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

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聖書箇所:ヨハネ13:2130                  2018-9-16礼拝

説教題:「弟子たちの裏切り」

【導入】

先週は弟子の足を洗われるイエス様の姿から、イエス様の、弟子たちへの愛の深さ、広さ、しいては人間に対する愛の深さを学んだ事でした。

仕えると言うのは、愛すると言うのは、言葉の問題ではなく、行動に掛かっている事を、イエス様は教え、最高の奉仕の姿を見せたのであり、模範を示されたのです。

その行動も、好きな人、尊敬出来る人、上位の人、味方、仲間に対してではなく、嫌いな人、尊敬出来ない人、下位の人、敵、裏切る人に対してもなのです。

イエス様は裏切る弟子ユダに対しても、知らないと3度も否定する弟子ペテロに対しても、関りを恐れて遠くから成り行きを眺めているような情けない弟子に対しても、愛情を持って、その汚れた足を自ら洗われたのでした。

そもそも客人の足を洗うというのは、主人の足を洗うというのは、奴隷の仕事です。

先生とも師とも呼ばれるお方のなさる仕事ではありません。

通常なら足を洗ってもらって当然のお方が、足を洗うのが当然の弟子の足を洗われたのです。

先生とも師とも呼ばれるお方のなさった模範を、弟子は学び、行なわなければならないのです。

とても難しい事ですが、弟子には、それが期待されており、同時にその力が与えられている事を知っておかなければなりません。

イエス様の弟子には、イエス様から力が与えられており、またもしも力が与えられていなかったならば、祈り願うなら必ず与えられる事も知っておく必要があるでしょう。

神様は能力以上を要求なさるお方ではありません。

神様は持っているモノで仕える事を望まれ、場合によっては必要とするモノを与えて下さるお方です。

そして弟子には、クリスチャンには、広くは神様に造られた者は、神様から与えられた能力、賜物を正しく管理する事が求められているのです。

神様から与えられた能力、賜物ですから、神様のために使うのが当然であり、自分のために、ましてや神様に敵対する勢力に協力する様であってはならないのですが、人は罪の性質を持っているが故に、気が付かないうちに自己実現、自己表現の手段として能力や賜物を用いるのであり、時にはサタンの手先となってサタンに加担してしまうことがしばしばあるようです。

そのサタンの誘惑は、巧妙であり、きっぱりと退けない限り、しつこく、じわじわと寄り添って来て、何時の間にか懐深く入り込んでいる事に気付くのです。

こうならないように注意深くする事が肝要ですが、でも決して遅いという事はないのであり、決別する覚悟を持って臨み、神様に助けを願い求めるなら、助けは必ずあるのです。

しかし、ここに、イエス様からチャンスを与えられながら、自覚する事なく、その頑なな心のままに歩む弟子がいるのです。

それは、132節に紹介されたシモンの子、イスカリオテ・ユダでした。

【本論】

先ず2節の聖書の言葉から確認しておきましょう。

3:2夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。

何が原因となって、或いはきっかけとなって、ユダがイエス様を裏切るような思いに至ったのかを聖書は記していません。

想像する材料も多く提供されていませんので、聖書学者は様々な説を紹介しますが、決定的な理由とは言えません。

お金に対する執着とも、イエス様に対する期待外れとも、大きな転機を期待して過激な行動に出たとも言われますが、確かな所はユダに聞かなければ判りません。

しかし、ここで原因は大きな問題ではありません。

誰にでも欲望があり、期待があり、また良かれと思って、何とかしたいと思って悩んだ挙句の選択である事が多いからです。

しかし、だからと言って何をしても許される訳ではありません。

2節の時点において、サタンはユダに、何を吹き込んだのでしょうか。

それが、如何にも妥当、順当、仕方のない選択だと思える事であっても、欲望は治めなければならないのであり、期待通りでなくても、転機を期待してであっても、先走った行動を取ってはならず、神様の時を、どんなに長くても待たなければ成らないのであり、その時が来るまで耐え忍ばなければならないのです。

サタンに揺さぶりをかけられたユダは、このサタンの揺さぶりをきっぱり跳ね除けなければなりませんでしたが、その決断が出来ず、徐々にサタンの声に耳を傾け、身を任せるようになって行くのです。

そのようなユダの心の揺れを知っておられるイエス様は、ユダに対して最大限の愛情表現として足を洗ってあげ、象徴的に心を洗ってあげたのですが、ユダは心を洗われる事を拒否したのです。

そのユダの、頑なな心を知られたイエス様は18節の言葉、「13:18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。」を発せられたのであり、これから起こる事を預言されたのです。

13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。

ここに至ってイエス様は明確に弟子の裏切りを予告されます。

青天の霹靂、と言った言葉がぴったりの状況でしょう。

12弟子の働きぶり、その一人一人の能力の程を、具体的に知る事は出来ませんが、誰もが無私の心でイエス様に仕えていたのであり、「まさか」という思いしか、なかったのではないでしょうか。

しかし、驚くには及びません。

イエス様は神様ですから、誰が裏切るかを知る事が出来ますし、「ブルータス、お前もか」、本能寺の変、などなど、歴史を見れば、裏切りは決して珍しい事ではないのです。

しかし、イエス様の弟子の世界には、権力争いもなければ、勢力争いもありません。

勿論、ペテロのような一番弟子との自負や、誰が一番偉いかなどと言った事が話題となる、序列への意識は存在したでしょうが、権謀術策や、虎視眈々と隙を伺うような関係ではなかったのであり、ましてや、イエス様を出し抜こう、おとしめようなどと考える弟子がいるなどとは、考えもしなかったのです。

しかし、心の思いは隠していても現れるものです。言葉の端々に、態度に。

3年も寝食を共にしたのですから、誰にも知られずには済まないのではないでしょうか。

勿論、最初からイエス様を裏切る気持ちで近づき、弟子になった訳ではないでしょうし、徐々にイエス様に対する気持ちに変化が現れたのだと思います。

しかし、明確ではなくても、その徴候は現れるものであり、感じるのではないでしょうか。

しかし、ユダの思いは誰にも知られる事がなかったのです。

それは、ユダの働きに関係があったかも知れません。

ユダが会計を担当していた事は29節から判断する事が出来ます。

金入れを預かっている、つまりは大蔵省、或いは財務省と言ったところでしょうか。

金入れを預かるというのは、相当の信頼を得ている証拠であり、誰もが、彼に任せておけば安心だ、という思いであったに違いありません。

更には、信頼が信頼を育てると言う効果もあるでしょう。

信頼されれば、人はその信頼に応えようとするものです。

一生懸命やるのではないでしょうか。

そして、ユダも人から信頼を受ける人物であり、信頼を裏切らない人物と目されていたのです。

信頼されていながら、金入れから盗んでいる自分を、ユダはどのような思いで見つめていたのでしょうか。

何時かは知られてしまう、その前に何とかしなければならない。

告白すべきと、判っていても、信頼されている事を思うとなかなかに切り出せるものではありません。

そんな葛藤に苦しんだのではないでしょうか。

信頼が大きければ大きいほど、信頼を裏切った本人は、極端に走ってしまうのでしょう。

即ち、主人に刃を向ける事になってしまうのです。

先に、ユダがイエス様を裏切った理由を明確には出来ないと申し上げましたが、聖書にはユダが金入れを預っていた事、くすねていた事が記されていますので、この事が大きな理由の一つとなった事は否定出来ないと思います。

イエス様が弟子の全員に聞える様にお話された後の、暫しの沈黙の中で、声にない会話が交わされます。

13:23 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。

この弟子が誰なのかでも、学者の間には諸説がありますが、ヨハネの福音書の著者であるヨハネであろうとの説が、教会の歴史の中で支持されているので、私たちもこの説で話しを進めたいと思います。

ご参考までに諸説を紹介すると、イエス様が甦らされたラザロである、マルコの福音書に登場する富める青年である、他の知られていない弟子である、などがあります。

13:24 そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」

「合図をして」。

聖書の記述からシモン・ペテロやヨハネが漁師であったことはご承知の事と思いますが、船の上は、即ち湖の上は、音を反射する物がないので、声は広がり、非常に聞き取り難くなります。

風が吹けば声を吹き払ってしまいます。

寒さから耳を覆っていたりしては尚更、通常の声による会話では不都合が生じます。

また、声に出すと同業者に、漁場を知られてしまうので、そこで、漁師には手振り、身振り、即ち「合図」で仲間に意志を伝える方法を持っていたようです。

シモン・ペテロとヨハネは誰にも知られずに、会話をする術を持っていたのです。

シモン・ペテロの依頼を受けた、

13:25 その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」

13:26 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリテ・シモンの子ユダにお与えになった。

13:27 彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」

この一連の会話が、皆に聞える声で為されていたのであれば、28節の疑問は起こらなかったであろうと思います。

ですから、25節、26節の会話は、イエス様とイエス様の愛する弟子の二人だけで交わされた会話、と考えなければならないのですが、それを知るには、当時の食事の様子を解説しなければなりません。

当時の食事は「最期の晩餐」に描かれているようなテーブル席、椅子席ではありませんでした。

円形の座卓のようなテーブルに、U字型に並んで座り、左脇を下に身体を横にします。

すると、右側の人の頭が胸の当りに来る訳で、イエス様とヨハネの関係は、イエス様の胸元に、ヨハネの頭が来る格好になる訳であり、25節、26節の会話は、小声で、耳元で交わされた事が難なく想像出来る訳なのです。

椅子席のように不自然に身体を傾け、寄せる事なく、顔を捻るだけで、秘密の会話が出来た、と言う事なのです。

更に重要なのがユダの座っていた位置ですが、イエス様は立ち上がる事もなく、ユダにぶどう酒に浸したパン切れを与えたのですから、イエス様の左側に座を占めていたと想像出来るのです。

勿論、見て来た訳ではありませんので、絶対ではありませんが、少なくとも遠く離れた席ではなく、手を伸ばせば届く距離にいた事は間違いないでしょう。

そして、金入れを預り、皆に信頼される弟子と目されながら、イエス様を裏切るイスカリオテのユダが、遠く離れた位置ではなく、イエス様の近くに座を占めていたという事に、考察の余地があるのではないでしょうか。

ユダヤ人の習慣によれば主人の左側の席は、最も栄誉ある位置であり、最も親しい友人のための席である、と言う事です。

人々の信頼や、推薦ではなく、主人の信頼を得ているのであり、主人が事の外、愛している人の席なのです。

特別な席であり、その時々に、イエス様から名指しで呼ばれ、座る名誉に与ったに違いありません。

今日の場面でも「ユダよ、ここに来てわたしの側に座りなさい。特に、君に話したい事があるからね。」、こんな会話が、かわされたのではないでしょうか。

一番の席に招くと言うのは、ユダの心に対するチャレンジであり、サタンの誘いに揺らいだ心を、イエス様の下に引き寄せる、サタンと決別する招きの言葉なのではないでしょうか。

そして、ぶどう酒に浸したパン切れを与えたのです。

これも、主人の歓迎の心を現した行為であり、特別な意味を持つ行為なのです。

それは、現代の聖餐に繋がるものであり、罪になびき易い自分を見つめ、吟味する事であり、古い自分との決別の証しなのです。

このイエス様の愛を込めたパン切れですが、ユダの頑なな心は、そのイエス様の愛を刎ねつけてしまい、その反動とも言って良いのでしょうか、サタンを受け入れてしまうのでした。

あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」とは、「あなたがなすべきことを、今すぐしなさい」であり、ユダのなすべき事とは、祭司長にイエス様を売り渡す事ではなく、サタンとの関係を清算する、金入れからくすねていた事に対して清算する、イエス様の左側に座る事を許された事に対する、霊的な応答の促しではなかったのでしょうか。

そんな、イエス様の愛の執り成し、招き、促しに対して、ユダは背を向けてしまったのです。

13:28 席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。

13:29 ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。

13:30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。

イエス様に招かれ、一番の席に座らされ、イエス様手ずからのパン切れを受けながら、ユダはイエス様の愛に応えようとせず、背を向けて、光であるイエス様から離れ、暗い、希望のない、滅びの世界に飛び込んで行ってしまったのです。

ユダはチャンスをふいにしてしまったのであり、この後、ユダは滅亡の道を、坂を転がるようにして突き進んで行ってしまったのです。

【適応】

イエス様と物理的に、距離的に近くにいても、心もイエス様の御側近くにあるとは限りません。

ユダの姿と行動、これは決して他人事ではありません。

第二のユダ、第三のユダにならないと言う保証はないのです。

今日の聖句でもありますが「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」は、積極性ばかりを強調して読み取ってはなりません。

文字通りに受け取ってしまう時、イエス様を裏切る事になりかねせん。

私たちは「すること」ばかりに目が向けられ、「したこと」の評価を気にしますが、

解説した様に「あなたがなすべきことを、今すぐしなさい」であり、決して「あなたがしたい事を、今すぐしなさい」ではないのです。

更に具体的に言い換えるならば「あなたがなすべき、あなたに委ねられた、神様の御心を、今すぐしなさい」ではないでしょうか。

あなたがなすべき事は、留まる事であるかも知れません。

罪と縁を切る事であるかも知れません。

イエス様があなたに期待する事を知って、それを行なう事、或いは、止める事、留まる事、戻る事は何でしょうか。

色々な事が出来る人ほど、自分の行動を吟味しなければなりません。

イエス様は、あなたの思う、その方向は間違っていると仰られているかも知れません。

その働きは、あなたにも出来るし、あなたの方が上手に出来るかも知れないけれども、その働きを、イエス様は、あの人にやらせたいと思っておられるかも知れません。

積極的に行動する事は素晴らしい事ですが、イエス様の御心を知って、それに応答する行動が、決断が重要である事を見逃してはなりません。

イエス様は、あなたの好き勝手な行動を奨励しているのでもなければ、容認されているのでもありません。

ましてや、ユダのように人をおとしめる行為を奨励しているのでない事は明白です。

イエス様の、あなたへ期待されている事を読み取らなければなりませんが、それは、聖書から、説教から、日々のデボーションから、教えられなければなりません。

更には、自分に都合の良い方に解釈するのではなく、聖書的か、信仰的かで判断しなければなりません。

コリント人への手紙第1102324節の言葉、新改訳第3版は332ページ、2017版は341ページ、「「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」です。

イエス様の「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言う語り掛けと合わせて読むとき、イエス様の御心に適う僕としての、神様に喜ばれる行動を選択する事が出来るのではないでしょうか。

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聖書箇所:ヨハネの福音書131節から20          2018-9-9礼拝

説教題:弟子たちの足を洗うイエス様 

【導入】

56日の礼拝で、「イエス様は世を救うために来られた」と言うタイトルで、イエス様の働き、その働きが父なる神様の御心、ご計画に忠実であった事を確認しました。イエス様は神様であられるのに、ご自分のお考えや、思いは一切出さず、父なる神様のお考えに従ったのです。

父なる神様のお考えに従う。

これは簡単そうですが、決して簡単な事ではありません。

神様のお考えは、常に自分の考えと一致している訳でもなく、隠されている部分が大きいからです。

聖書の知識、即ち、救い主に関する記述、数々の預言を知っていても、不思議な事であり、理解し難い事であり、受け入れ難い事です。

聖書を知らない人に取っては尚更です。

即ち、人は罪の中にあるので、神様のご計画を知る事が、理解する事が、受け入れる事が出来ないのです。

それでも絶望する事はありません。

イエス様は私たちが罪の中にあり、もがき苦しんでいるのを知っておられ、憐れんで助けて下さるお方だからです。

そのイエス様の憐れみ、助けの根源は、私たち人間に対する「愛」です。

神様の本質が「愛」であるから、イエス様はこの世に来られた時、人を愛し、裁く事をなさらなかったのです。

勿論、神様が罪を容認する事はなく、最期の審判がなされるのですが、神様の御心は、全ての人が悔い改めて、救われる事なのです。

そのためには、あらゆる事が用いられ、あらゆる人が用いられます。

イエス様に敵対する祭司、律法学者、パリサイ人も用いられたのであり、どっちつかずの群集も用いられたのです。

だからと言って敵対しても良いのだとか、どっちつかずで居ても良いのだと言っている訳ではありません。

神様のご計画に従う事、協力的である事は、人の造られた目的に合致する事であり、何よりも神様が喜ばれる事です。

神様の喜ばれる事の一番は、神様の本質と切り離せない「愛」の実践です。

イエス様は最期の時が近づいた時、その「愛」を余す所なく現されました。

【本論】

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、

2節に付いて詳しくは次の機会に学ぶ事に致します。

3節の最期に「知られ」とありますが、イエス様は神様ですから、ユダの裏切りを含めて全てを知っておられます。

ですから、この時始めて、父なる神様のご計画や、ご自身に起こる事を知られた、と言う意味でない事は明白です。

ではどういう意味かと言えば、それは、神様のご計画の最期の段階に至った事、十字架の時が来た事を知られた、と言う事でしょう。

イエス様は凡そ3年という短い期間に、多くの事を弟子たちに教えました。

しかし、教えは実践してこそ意味があるのであり、知識だけでは何の役にも立ちません。

実践のない知識は意味がないばかりでなく、有害となりかねないのです。

その例が祭司、律法学者、パリサイ人の行動でしょう。

祭司、律法学者、パリサイ人の知識は豊富で、微に入り細に入った知識であったでしょうが、それを行なう事は考えてはいませんでした。

神様が定めた律法は「神を愛し、人を愛する」事のためであり、神ありき、人ありき、であって、律法ありき、ではないのです。

律法として実践するためでなく、愛の正しい現し方として、律法という基準が与えられているのです。

別の言い方をするなら、律法の上に愛があるのであり、律法の数々の規定よりも、愛に起因する行動の方が優先する、と言う事なのです。

その良い例が、安息日の癒しです。

安息日にしてはならないのは、働く事であり、働かせる事です。

それは強制労働からの解放であり、憩う事の奨励です。

自分の事よりも、神様を愛する事、困っている人を助ける事に主眼が置かれなければならない日なのです。

勿論、毎日、神様を愛し、毎日、困っている人を助けるのですが、安息日には更なる愛の実践が求められているのではないでしょうか。

その愛の実践は、愛するのに困難を覚えない人、例えば家族、友人、同胞、尊敬出来る人を愛する事だけではなく、

愛せない人、好きではない人、自分より下位の人、敵対する者、裏切る者さえも対象なのです。

その裏切る者として、2節にイスカリオテ・ユダが記されているのであり、イエス様はユダにも愛を注いだ事が記されているのです。

13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

私たちの文化、習慣でも、食事中に足を洗う事はありません。

イエス様の生きた、2000年前のパレスチナ、ユダヤ人の文化、習慣でも同じです。

イエス様は大切な食事の交わりの中で、弟子たちとの親密な食事の席にありながら、やおら立ち上がり、上着を脱ぎ、何時も使っている手ぬぐいを腰に差し込み、たらいに水を汲み、弟子の足を一人一人、丁寧に洗い始められたのです。

そもそも、足を洗うのは奴隷の仕事であり、しかも、外出から帰って直ぐに、即ち、食事の前にするのが当たり前です。

汚れた手足を洗ってから、清くなってから食事をするのが当時のユダヤ人の習慣でした。

そのユダヤ人が守るべき習慣を行なわずに、食事が始ってしまったのでしょうか。

聖書には、その理由が記されていません。

しかし、推測する事は可能です。

即ち、律法、習慣、順番を守る事よりも、飢え渇き、疲れている者に、食事と休息を与える事が優先されて然りであって、必要が満たされてから、足の汚れを清める事も、神様は容認されると言う事なのではないでしょうか。

順番、手順も大切ですが、今の必要を与え、満たす事も重要なのです。

これこそ「愛」の実践なのです。

食事前に手足を洗わない事を非難したり、食事中に足を洗うなんてと訝ったり、或いは、食事中に関係ない事を始めるなんて、と非難するよりも、先ず、人々の危急の必要に応えてから、一息吐いてから、本来の順番を守る、次ぎに為すべき事を始める事に同調、協力するのが愛ある行動なのです。

神を愛し、人を愛する、と言う事が根底にあるならば、全ての事はしても良いのであり、許されているのです。

許されているとは言っても、イエス様の行動は常識を、習慣を外れた行為です。

何故ならば、足を洗うのは奴隷のやる仕事であったからです。

一番身分の低い者が行なう仕事を、13節に記されている様に、先生とも呼ばれるお方が行なったのであり、それは、謙りの究極の姿、行動なのです。

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

今はわからないが、あとでわかるようになります

これは聖書の真理の一つです。

私たちは何でも理解出来る、知恵がある、知っている、と思っていますが、実は分からない事、知らない事、理解出来ない事の方が多いのです。

どれだけ、他人の行動の真意を知っているでしょうか。

全く誤解がないのでしょうか。

十分な時間をかけて審議して、一番と思える結論を出しても、少し時間が経てば、新しい意見が出て来るものなのではないでしょうか。

「想定外」と言う言葉がありますが、それは人間の独善性の現われであり、思いやりの限界なのかも知れません。

分かったつもりで居ても、実は何も分かっていないのが、人間なのです。

決してペテロだけが早合点をする慌て者でもなければ、イエス様の行為を理解出来ない愚か者でもなく、そこに居合わせた弟子の全てが、イエス様の行為を、聖書の記述を十全には理解出来ず、常識に縛られた反応しか出来ない者、神様の御心を汲んだ的確な応答が出来ない者たちなのです。

それは、私たちも同じです。

知りたがろうとする熱意と、持っている知識への自信、確信は貴重ですが、分からない事の方が多い、と言う謙虚な姿勢こそが大切でしょう。

足を洗うのは奴隷の仕事。

そこに何の教えがあるのか、付加価値があるのか、を理解出来ない

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

足を洗う事の意味を明確に悟る事が重要であるのに、その教えを乞う事なく、「手も頭も洗ってください」と要求するペテロの姿は、イエス様の行動の表面しか見ず、非難する祭司、律法学者、パリサイ人と、本質は同じです。

では、足を洗う事と、イエス様との関係とはどの様な事なのでしょうか。

それには3つの意味が隠されています。

一つ目は、13節に繋がる事なのですが、愛の実践の奨励、しかも下位の者、愛せない者への愛を実践する事であり、二つ目は、イエス様の行為を拒否、否定する者は、イエス様の愛を拒絶する事であり、イエス様との交わりが断たれると言う事なのです。

クリスチャンだけでなく、世の人々の中に、奉仕に熱心な方、人を助ける事に生きがいを、使命感を持っておられる方を、何処の教会にも、社会にも見受けますが、それらの方は、奉仕される事、助けられる事を拒否、遠慮される方が多い事もまた事実です。

日本人的な表現で言えば、奥ゆかしい方、犠牲的な方、と評価されましょうが、イエス様は奉仕される事も、助けられる事もまた必要である事を教えておられ、助けたり、助けられたりが、神の民に相応しい姿であり、常に一方的に奉仕する側、助ける側にいる事を奨励してはいないのです。

然程に助けられる必要がなくても、助けを受ける事は、助けた方にも喜びを与える事であり、心の負担を軽くする事であり、お互いの存在を必要とする、尊重する、愛を確認する手段でもあるのです。

私は奉仕し、助けるけれども、助けられる必要もないし、奉仕されなくていい、と言うのは、神様、イエス様にお仕えし、お助けするけれど、神様、イエス様に助けて頂くのは恐れ多い、自分の始末は自分でつけます、と言っているのであり、神様の救いのご計画も、イエス様の贖いの十字架も要りません、と言っているのと同じなのです。

これでは、イエス様に「あなたはわたしと何の関係もありません」と言われても当然です。

三つ目は、10節に繋がる、聖めの教えです。

13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

イエスの弟子として歩む者であっても、一切の汚れ、即ち罪が無い訳でも、罪を犯さなくなる訳でもありません。

一度洗礼を受ければ、その後、生涯罪を犯さず、聖められる必要が無くなる訳ではありません。

日々に、罪の告白と悔い改めが必要なのであり、それが足を洗う事に象徴されているのです。

外出しなければ足は汚れませんが、私たちは罪の世に使わされるのですから、また、罪の性質を持っているのですから、日々に足を洗って頂く必要を覚えて歩まなければならないのです。

13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。

13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

私たちは。信仰のみ、と云い、それは重要な真理です。

重要な真理ですが、信仰だけで十分なのではなく、行う時完全になるのです。

ヤコブの手紙214節、に次の様に記されている通りです。

新改訳第3版は447ページ、2017版は460ページ、

2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。

2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、

2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

そして、この行ないも、誰もが出来る事、簡単な事、困難なく出来る事、では不充分です。

誰にでも出来ない事、難しい事、強い意志と固い決意が必要な事でなければ意味がありません。

イエス様の行なわれた弟子の足を洗う行為は、先生とも主とも呼ばれる者が、何の苦もなく出来る事ではありません。

奴隷であっても、埃だらけ、泥だらけ、汗まみれの足を洗うのに抵抗がない訳では在りません。

奴隷だから、仕方がないからやっているのであって、その足を洗う行為に誇りを持っている訳でも、喜んでやっている訳でもありません。

しかし、イエス様は、神様で在られるのに、弟子の足を洗う事を喜びとし、誇りとしたのです。

それはイエス様が弟子をこの上もなく愛したからであり、愛し続けて来られたからであり、これからも愛し続けるからなのです。

例えイエス様を裏切る事があっても、イエス様を知らないと言う事があってもです。

先生とも主とも呼ばれる立場の者が、仕える者の姿をとる時、

世の中の、上の者が下の者に仕えられるのが当然と言う社会に、本当の平等、差別の無い社会、創造者である神と、被造物である人間と言う正しい関係の世界が始るのではないでしょうか。

これは理想世界を夢見ているのではなく、神様の御心を知り得る立場にありながら、民衆のためにそれを行おうとせず、執り成し、仕える事をせず、指導者としての働き、お手本を示す事もなく、支配者の立場に甘んじ、仕える事を要求する祭司、律法学者、パリサイ人に対する警告でもあるのです。

13:18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。

13:19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。

イエス様が仰しゃられた18節の聖書の言葉は、

詩篇419節、新改訳第3版は946ページ、2017版は975ページ、

私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた」からの引用です。

イエス様が信頼した者、イエス様と一緒に食事までした親しい者が、叛く、かかとを上げる、即ち、足蹴にすると仰っているのです。

悲しい事ですが、これが現実なのです。

日本のことわざに「飼い犬に手を噛まれる」と言う言葉がありますが、正に、従順で、忠実と思って居ても、その性根は罪に支配されているのであり、イエス様の執り成し、犠牲があり、弟子にもイエス様に対する信頼と従順があってこそ、御心にそう歩みが、辛うじて保たれるのです。

神様の御心に従うよりも、自分の考えに固執する者は、結果として神様にかかとを上げる者となるのであり、イエス様はその事を予告されたのです。

13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」

弟子はイエス様の全権を受けて遣わされているのであり、イエス様もまた神様の全権を受けて遣わされています。

更に、弟子は、イエス様に愛されており、足を洗って頂くまでの存在であると言う事なのです。

ですから、弟子を受け入れる者はイエス様を受け入れているのであり、神様を受け入れていると言う事になるのです。

逆に言えば、弟子を受け入れない者はイエス様を受け入れない者であり、神様を受け入れない者なのです。

【適応】

現代日本において、お客様をもてなす手段の一つとして足を洗うと言う行為は行なわれてはいませんし、謙遜や愛を現す手段としても行われてはいませんが、クリスチャンには、この精神が受け継がれているのではないでしょうか。

尊敬する人、愛する人に喜んで仕えるだけでなく、尊敬出来無い人、嫌いな人、愛せない人に対しても、心から仕える事、喜んで仕える事、奴隷が主人の足を洗うような仕え方が、クリスチャンに求められているのです。

それは表面的な仕え方ではなく、徹底して自分を低くする事、虚しくする事、全く価値のない者となる事です。

難しい事ですが、イエス様が模範を示して下さいました。

16節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。」と記されているように、どんなに頑張っても、イエス様に勝る事は出来ませんが、イエス様に近づく事、似た者となる事は出来ます。

最初は無理をしても、我慢しても、であっても、イエス様が助けて下さり、力を与えて下さいます。

愛せない人を愛そう、尊敬出来無い人を愛そう、嫌いな人を愛そう、とする時「神を愛し、人を愛する」と言う、黄金律が全うされるのであり、その人は神様から祝福されるのです。

祝福された人生、信仰生活は、何もしないでやって来る訳ではありません。

失敗しながら、失敗を繰り返しながら、完全でなくても良いんです。

足りない所はイエス様が補って下さいます。

地上では低い地位、身分にある者こそが、天の御国で高い地位と高貴な身分を与えられるのです。

イエス様は正にこの事を教えられ、実践されたのです。

イエス様の弟子であると自認するならば、徹底して仕える者として歩み、仕える者の祝福を頂こうではありませんか。

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聖書箇所:創世記5022節から26節              2018-9-2礼拝

説教題:ヨセフの遺言・・・自身による遺骨埋葬地の指示

【導入】

要である家長ヤコブ亡き後、ヨセフの兄たちは、ヨセフの報復を恐れ、ヨセフに正式な謝罪を行い、ヨセフとヨセフの兄たちは正式な和解を為し得ました。

これは、非常に重要な事です。

(わだかま)りや、疑いのあるところに、信頼関係は構築し得ません。

信頼関係の無いところでは、協力も出来ませんし、苦労を共にすることも出来ません。

信頼関係無くしては、世界を祝福する働きは、進みようが無いばかりか、神様の栄光を汚すのみです。

ヨセフとヨセフの兄たちの和解があってこそ、神の民たり得るのであり、世界を祝福する働きは、大きな進展を見るのです。

世界を祝福する働きに就くのは、まだまだ先の事ですが、ヨセフを中心、要としてヤコブ一族はまとまりを保ち続け、エジプト王国宰相ヨセフを介して、エジプト王国からの養いを受け、長く厳しい飢饉を乗り越えたのでした。

五年の歳月は、長いようですが、あっという間です。

ヨセフがエジプト王国宰相に就任したのは、ヨセフ三十歳の時です。

それから、七年の豊作があり、飢饉の二年目に、ヨセフは兄たちと再会し、父ヤコブとも再会を果たした訳ですが、この時ヤコブは百三十歳、ヨセフは三十九歳でした。

ヤコブは百四十七歳で亡くなりましたので、この時ヨセフは五十六歳であり、先の話し合いがあって、兄たちとの和解に至った訳です。

それから、今日の聖書の箇所までの五十四年間は、平穏な、安定した、平和な日々を過ごして来たのですが、それもこれも、超大国であるエジプト王国に守られ、養われ、安全への、食料への不安が無かったからです。

人類の歴史は、安全確保と、食料確保の歴史といっても過言ではありません。

安全な場所を確保するために、また、安定的に食料を得るために、知恵を働かせ、工夫をして来たのです。

エジプト王国に守られ、養われ、それらの苦労をしなかったために、そしてエジプト王国辺境のゴシェンの地に住んでいたために、エジプト文化の影響も最小限で済み、アブラハム、イサク、ヤコブの神との交わりも保たれ続け、ユダヤ人独特の文化も保持、継承されたのです。

そのユダヤ人独特の文化の中で重要なのが、墓であり、今日の説教題も、副題として「自身の遺骨埋葬地の指示」とした訳です。

【本論】

50:22 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。

ヤコブが亡くなったのは百四十七歳であり、その時、ヨセフは五十六歳でしたから、五十四年生き永らえた訳です。

当時、エジプト人の寿命の理想は、百十歳とされていたようです。

当時の医療技術、環境、などなどから、平均寿命は二十歳から二十五歳だったようですが、平均寿命とは、0歳児が何歳まで生きられるか、の平均であり、幼少期を乗り越えられれば、そこそこの年齢まで生きたようであり、勿論、裕福な王族や貴族と、貧しい一般庶民とでは、寿命も大きく違った事でしょうが、ラムセスⅡ世は、九十二歳まで生きたそうです。

伝承によれば、ペピⅡ世の寿命は百十歳だそうで、エジプトの理想が入り込んだ可能性を否定できませんが、ヨセフはエジプト人の理想とする寿命を全うした訳であり、有終の美を飾った事が記録されている、と云うところなのです。

50:23 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。

イスラエル人、ヘブル人の文化では、多くの財産を持つ事、長寿と共に、子沢山も、神様の祝福を受けている現われと、考えられていましたから、「百十歳まで生きた」事を、「三代の子孫を見た」事を、「子らも生まれて、・・・ひざに抱」いた事を描写して、神様からの大きな祝福を受けて、幸せな余生を送った事の証拠としているのです。

これは、あくまで、当時の考え方、イスラエル人、ヘブル人の文化の中での事であり、現代も子沢山が、神様からの祝福の現われであると、結論付けてはなりません。

子ども=幸せ、子なし=不幸では、長寿=幸せ、短命=不幸では、多くの財産=幸せ、貧しい=不幸ではありません。

ヤコブの生涯を見ても、子沢山は祝福でもありますが、兄弟間のいざこざがあり、憎しみが渦巻き、ヤコブは苦しみ、悩みも味わったのであり、最愛の妻ラケルは、ベニヤミンの出産で命を失ったのです。

アブラハムも、イシュマエルとイサクの事で悩んだのであり、イサクも、エサウとヤコブの事で悩んだのです。

ダビデの生涯を見ても、子どもの事で、心に深い傷を負い、苦労をしましたし、子どもは、苦労と、苦難の種でもあるのです。

そんな、立場、見方で変わるような、曖昧な幸不幸の見方ではなく、子どもは、神様のご計画と摂理の中で、与えられるのであり、時に、神様のご計画と摂理の中で、与えられない事もあるのであり、長寿も、神様のご計画と摂理の中で、与えられるのであり、時に、神様のご計画と摂理の中で、与えられない事もあるのであり、財産も、神様のご計画と摂理の中で、与えられるのであり、時に、神様のご計画と摂理の中で、与えられない事もあるのである、と云う事を忘れてはなりません。

この三つ以外にも、健康の事、結婚の事で、進路の事などでも、神様のご計画と摂理の中で、なのであり、それらを受け入れるのは、神様に対する信仰の現われであり、環境、状況に左右されない、恒久的、安定的な平安を得る事であり、パウロが、ピリピ人への手紙412節、新改訳第3版は387ページ、2017400ページ、4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言っている通りなのではないでしょうか。

さて、23節に、「マキルの子ら」と記されていますが、マキルは、マナセの子の中で、1位、2位を争う、強力な一族となり、ヤコブの子孫が、カナンの地を占領して行くに当たって、重要な働きを為すのですが、その事が暗示されているのでしょう。

50:24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」

ヨセフの遺言は、エジプトは寄留の地である、との告白であり、エジプトは、永住する地ではない、との告白であり、神様が、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地こそ、永住すべき地である、との告白であり、アブラハム、イサク、ヤコブの信仰を継承しているが故の告白です。

ヨセフは、何時かは分からないけれども、「神は必ずあなたがたを顧み」られる、「この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださ」る、と確信していたのであり、神様に対する揺るぎ無い信仰を告白したのです。

信仰は、継承しますが、借り物、貰う物ではなく、自分で獲得し、自分のモノにしなければならず、自分のモノにするのは、自分の意思と実践にかかっているのです。

信仰上の試練は、自分で乗り越えるしかありません。

勿論、祈りの手助け、直接の手助け、助言も役には立ちますし、それが、神の民の役目ではありますが、自分自身での理解と納得の上での、自発でなければ、信仰ではなくなってしまい、誘導と洗脳では、信仰ではなく、似ても非なるものでしかありません。

50:25 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください」と言った。

25節は、24節の確信があってこそ、発し得る命令、願いです。

神は必ずあなたがたを顧みてくださる」は、典型的な、確信であり、この希望があるからこそ、現状に希望は持てなくても、耐えられるのではないでしょうか。

そして、重要なのは、死で終わらない人生観であり、ヨセフの信仰は、死後の、死体の埋葬場所を指定、指示するところに、現れています。

アブラハム、イサク、ヤコブが埋葬されているところに、自分も葬られたい、との思いは、単なる哀愁意識でも、民族意識でも、父祖偏重意識でもありません。

信仰共同体意識であり、連帯意識であり、選民意識でしょう。

ここでの選民意識は、「世界を祝福するために選ばれ、召された」、であり、決して優秀であるとか、他民族を従える、の意味ではありません。

神様の約束、カナンの地、占領の業は、奇しくも、マムレに面したマクペラの洞穴を、アブラハムが買ったところから始まっていたのであり、この墓地を足がかりに、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、カナンの地を占領して行くのです。

50:26 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。

ヨセフの遺体をミイラにした理由は、ヤコブの場合と同じであり、カナンの地へ運ぶための準備であり、カナンの地へ運ぶまで、腐敗しないようにするためです。

現実には、400年以上、保管されるのですが、その長期の保管期間に耐え得る、防腐処理が施されたのであり、ヤコブの時よりも、費用を掛け、手間を掛けたのは、間違いないでしょう。

そして、地中に埋葬する事なく、「棺に納めた」ままにして置いたのも、出エジプトを意識しての処置であると同時に、棺に納め置くのが、エジプトの埋葬様式であるのも、不思議な神様の導きでしょう

聖書を読んでいる私たちは、一晩で出エジプトした事を知っていますが、着の身着のまま、身の周りの物だけを持って出たのであり、墓を掘り起こしている余裕は無かったのであり、ヨセフの遺体は、何時でも、直ぐに持ち出せるようにしておいたのであり、エジプトの慣習が、ヨセフの遺体の持ち出しを、可能ならしめた事が伺い知れる記述です。

聖書中、ミイラにされるのは、ヤコブとヨセフのみです。

そして、ヤコブの子は十二人ですが、下から二番目のヨセフが、兄たちに先んじて、最初に亡くなっているのですが、兄弟皆に、看取られて、悲しまれて、惜しまれて、亡くなったのであり、神様のご配慮なのかもしれません。

ヨセフ亡き後、エジプト王が代替わりし、イスラエル人、ヘブル人に対する苛酷な仕打ちが始まりますが、それを見ないで済んでいるのは、ヨセフに対する配慮の意味があるのかもしれません。

【適応】

ヨセフが眼を閉じるのに合わせて、創世記も幕が降りるのですが、埋葬地の指示が、創世記4727節以降、4929節以降、そして、5025節と、創世記の最後の最後に集中しているのには、何かの意味があるのではないでしょうか。

日本の葬儀は、火葬であり、しかも、火力が強いので、骨の大部分は燃やされてしまい、これで終わり感、何もかも無くなってしまった感、が漂いますが、イスラエル人の、ヘブル人の埋葬は、遺体を洞穴に安置し、朽ち果てるのを待ち、横たわったままの形で残った遺骨を収集し、石棺に納めます。

非常にリアルであり、死を、実感、体験すると同時に、これで終わりではない、続きがあると、感じ、確信するのではないでしょうか。

そう、当時の、イスラエル人、ヘブル人の死生観は、死は終わりではなく、次のステージを待つ、始まりを暗示するものなのです。

黙示録的であり、死者の復活に繋がります。

死者の復活の時を想定しているからこそ、埋葬地に拘(こだわ)るのであり、アブラハム、イサク、ヤコブと共に、葬られる事が、重要になるのです。

復活の時を迎えるのは、異郷の地で、異教徒と共にではなく、

嗣業の地で、唯一の神を信じる同族、世界を祝福する働きを担って来た者たちと共に、なのです。

死が終わりであるならば、何処に葬られようと大して違いも、意味もありませんが、復活があるならば、埋葬地は、誰と葬られるかは、非常に重要な意味を持ちましょう。

朽ち果てた物、として処理、処分されるか、復活を待つ者、として扱われ、保存されるかです。

勿論、どのように処理、処分されようが、丁寧に扱われ、保存されようが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる」のであり、全ての人間は、必ず復活させられます。

その時、神の民としての群れの中に置かれているか、神に背き、反抗し、好き勝手に生きたものの群れの仲に置かれるかは、大きな違いであり、重要なのではないでしょうか。

勿論、神の民に所属していても、諸事情があって、不本意にも、希望する通りにはならない事もあるでしょう。

旅の途中であって、荒野に埋葬されてしまったり、水葬される事もあったでしょうし、水難に遭い、海底に横たわる事になってしまう事も、戦争などでは、敵味方入り混じり、異教徒と共に、埋葬される事もあるでしょうが、ここで確認したいのは、何処に、誰と葬られたいかを、考えているか否かであり、死に付いて、埋葬地に付いて、いい加減、適当、任せておいて良い問題ではないとの、自覚を持たなければならない、と云う事なのです。

死や、葬儀、埋葬に対する意識は、不吉とか、縁起でもない、と云うような否定的な意識ではなく、人生の終止符をどう打つか、と云うような消極的な意識でもなく、未来の備え、復活の備えとして重要であるが故に、肯定的、積極的な認識に改め、持たなければならないのです。

だからこそ、創世記の終わりに、集中的に記され、私たちの意識改革を促しているのです。

ここにおられる皆様が、神の民として、復活を意識して、死を、葬儀を、埋葬地を考える者となられる事を願ってやみません。

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