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                                                                     2019-1-27礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1616節から24

説教題:「悲しみが喜びに変わる」

【導入】

2回続けて、助け主、聖霊様、真理の御霊の働きについて確認しました。

助け主、聖霊様、真理の御霊の働きは、私たち信者、クリスチャンに必要不可欠であり、助け主、聖霊様、真理の御霊」は、なくてはならないお方、代わりになる一切がないお方です。

そして、助け主、聖霊様、真理の御霊」を受けたならば、生き方が、言動が変わる事が期待されており、生き方、言動が変わらなければなりません。

古い生き方、言動を捨て、新しい生き方、言動にならなければなりません。

とは言え、全く新しい事ではなく、正直に、嘘偽りなく、誤魔化しなく、隠し事なく、謙遜に、謙虚に、穏やかに、などなどの徳目を生かす事であり、人間が本来持っている徳目を発揮させる事です。

罪の影響で、これらの良い徳目が、殺されてしまい、良い徳目を、発揮出来ず仕舞いでしたが、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きで、良い徳目として発揮出来るようになったのであり、発揮しなければ、「助け主、聖霊様、真理の御霊」よりも、自我を優先させている証拠であり、古い自我を変えようとしない結果です。

助け主、聖霊様、真理の御霊」を与えられたならば、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を持ったならば、古い自我のままではいられなくなるのではないでしょうか。

その人の内に住まわれる「助け主、聖霊様、真理の御霊」が、生きて働化さなければなりません。

そうでないならば、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を送るとの約束を守られたイエス様は悲しまれるのではないでしょうか。

助け主、聖霊様、真理の御霊」を送った父なる神様をも悲しませるのではないでしょうか。

助け主、聖霊様、真理の御霊」を受けたならば、この世の損得、この世の人間関係ではなく、神様との関係を優先させる生き方に変わって行きます。

変わらぬ神様との関係の維持は、当然、安定したものであり、結果として、生き方も、考え方も、言動も、安定したものとなるのではないでしょうか。

悲しみ、心配の中にも、平安があり、苦しみ、痛みの中にも、安らぎが与えられるのです。

イエス様の受難と死は、目前であり、弟子たちの不安、悲しみが最高潮にならんとする状況で、イエス様は、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受ける前提で、「悲しみが喜びに変わる」とおっしゃられます。

具体的に、詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】新改訳2017版 16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

しばらくすると」と云う言葉が、二回、登場しますが、この「しばらくすると」とは、イエス様の死と、復活の間の時間を指し示している言葉であり、神様の啓示の歴史の中で、一番、不安と緊張に満ちた時間と言えるでしょう。

この、イエス様の死と、復活を繋ぐのが「しばらくすると」であり、新しい時代が生まれようとしている事、新しい時代に入ろうとしている事を、暗示しているのです。

しかし、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなります」とのイエス様のことばに、イエス様との、永久(とわ)の別れを確信し、悲しみに打ちひしがれ、イエス様亡き後の、困難や患難を思う時、不安と恐れに苛(さいな)まされたのではないでしょうか。

神の独り子が、恥と屈辱と苦しみの極みである十字架に架かり、死なれるのですから、希望は、絶望に取って変わり、夢は、藻屑と消えてしまったと確信した事でしょう。

しかし、続いて語られた「またしばらくすると、わたしを見ます」とのイエス様のことばは、安心や平安、希望を与えたのではなく、逆に、疑問と混乱、不安を招いたのではないでしょうか。

助け主、聖霊様、真理の御霊」を与えられなければ、イエス様のことばは理解出来ないからです。

16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」

16:18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。

弟子たちは、お互いの顔を見合わせ、イエス様のことばを反復しますが、何度、反復しても、そこから、ヒントは導き出せず、知恵を持ち寄っても、知恵を絞っても、意味が解らず、理解出来ず、疑問は解消出来ず、混乱は増すばかりであり、頭を抱え込むしかなかったのです。

まあ、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受けていないのですから、神様の、人間の罪の贖いと、救いのご計画を理解出来ないのは、イエス様のことばを理解出来ないのは、当然といえば、当然ですが、それでもイエス様の弟子なのですから、イエス様から教えを聴いて来たのですから、イエス様から説き明かしも受けたのですから、朧げにでも、漠然とでも、神様の、人間の罪の贖いと、救いのご計画の片鱗でも、掴んで欲しいものであり、イエス様を信頼して、イエス様に委ねて、不安を払拭し、イエス様に従う事が期待されてもいたのではないでしょうか。

人間は、持っている知識と経験、得た情報でしか、物事を判断出来ないのであり、想像を逞しくし過ぎると、根拠のない情報をもとにした、間違った判断に至るでしょうし、慎重になり過ぎると、正しい情報を捨ててしまいかねず、数多の情報に翻弄されて、何が正しい情報かの判断が付かず、正しい決断が出来なくなってしまうのです。

自分の判断だけに、重きを置くのは、視野が狭すぎますし、世に溢れる情報は珠玉混交であり、取捨選択を誤ると、非常に危険なのです。

早合点や、憶測による判断は、取り返しが付かない失態を招きかねません。

答えを出し急がず、結論を出し急がず、「分からない」に留めておくのも大切な態度です。

分からない」に止めて置くのは、分を弁えた態度であり、消極的でもなく、後退でもなく、時期を待つ謙遜さの現われ、慎重さの現われとして、評価すべきなのではないでしょうか。

16:19 イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。

イエス様は、弟子たちが疑問を持っている事と、疑問から来る不安を察知します。

しかし、イエス様は、弟子たちの疑問と、不安を解消するような答えを提供するのではなく、更に、疑問が深まるような、禅問答のような答えを弟子たちに与えます。

16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

弟子たちは「泣き、嘆き悲しむが」、この「世は喜びます」。

これは、何とか理解出来そうです。

19節の、イエス様を見なくなるとは、説明するまでもなく、イエス様が死ぬ事を意味しています。

イエス様が死なれたので、イエス様を愛する弟子たちは「泣き、嘆き悲し」み、イエス様に死を与えたので、この世は勝利したと「喜びます」。

その、世が喜ぶ様子を見て、弟子たちは更に「悲しみ」ます。

しかし、逆転が起こり、弟子たちの「悲しみは喜びに変わり」ます。

それを、分かり易く例えたのが、21節です。

16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

旧約時代の預言者は、多くの苦しみから解放される喜びを、或いは、喜びの前に味わう、短い苦悩の時期を、しばしば、陣痛、産みの苦しみに例えて語ります。その数、約25

新約でも例えられており、その数、約8。

注解書は、ミカ書49節を引用していますので紹介しましょう。

3版は旧約聖書の1522ページ、2017版は1585ページ、「4:9今、なぜあなたは大声で叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの助言者は滅び失せたのか。それで、子を産む女のような激しい痛みがあなたをとらえたのか。4:10娘シオンよ。子を産む女のように、身もだえして、もがき回れ。今、あなたは町を出て野に宿り、バビロンまで行く。そこで、あなたは助け出される。そこで、主があなたを敵の手から贖い出される」。

イエス様は、弟子の味わう苦しみ、痛みを、陣痛の苦しみ、痛みに例えられます。

陣痛の苦しみ、痛みは、非常に厳しいものであり、長~く続き、耐え難いでしょうが、ただただ苦しいだけではなく、耐えがたく痛いだけではなく、喜びが待っている苦しみ、痛みであり、希望がある苦しみ、痛みです。

だからこそ、苦しみ、痛みに耐えられるのでしょうが、同じように、弟子を待ち受ける目前の、或いは、渦中の苦しみ、痛みは、永遠に続くように思われ、耐え難いと思われましょうが、やがては、終わりの時、切り替わる瞬間がやって来ます。

それは、イエス様の復活であり、甦りであり、やがてやって来る再臨です。

16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

先に、陣痛の苦しみ、痛みを例にされましたが、子どもとは、何時かは、別れの時が来ます。

巣立ちかも知れませんし、死別かも知れませんし、色々な事情での、別れがやって来ましょうが、イエス様は、イエス様の方から「会い」に来られ、「あなたがたの心は喜びに満たされ」、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」と宣言されます。

人間には、罪の性質があるために、人間の側から神であるイエス様に近づく事は出来ません。

近づくどころか、罪人ですから、裁かれ、罪の報いを受け、永遠の業火に陥らなければなりませんが、イエス様の方から、逢いに来られ、救い出し、喜びを与えてくださるのです。

その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」。

イエス様と、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たちの関係を壊そう、邪魔しようとする勢力の力は非常に強力ですが、イエス様と、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たちとを引き離す、関係を壊す、邪魔する事は誰にも出来ません。

22節の宣言が、神の独り子、イエス様から発せられた宣言であるからです。

しかも、再会は、一般的には、暫くすれば、再び、離れ離れになるのが定めですが、イエス様と、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たち、私たち信徒との関係は、再会の後、永遠に別れる事はなく、別離の悲しみを味わう事はないのです。

それが「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」の意味でもありましょう。

イエス様と、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たち、私たち信徒は、霊的に結び付いているのであり、如何なる力も、この結び付きを壊し、解消し、引き離す事は出来ないのです。

この結び付きは、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たち、私たち信徒の主体性で、結び付いているのではありません。

もし、そうなら、苦しくて、辛い時、結び付きを解消してしまう事があるかもしれませんが、

イエス様の主権で、イエス様を信じる者、イエス様の弟子たち、私たち信徒が結び付いているのであり、この結び付きが解消される事は絶対にないのであり、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」なのです。

16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めることは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。

「その日」は、16節の「またしばらくすると、わたしを見ます」であり、22節の「あなたがたの心は喜びに満たされ」る時でしょう。

更には、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受ける時であり、聖書の預言の意味を、イエス様の話されたことばの意味を、理解し、「何も尋ね」る必要はなくなり、宣教に、伝道に遣わされる時でもありましょう。

付け加えるならば、「何も尋ねません」、と云うよりも、イエス様と再会出来た事が、全てであり、尋ねる必要がないのではないでしょうか。

会えた事が全てであり、再会の喜び、感動は、全ての疑問を凌駕し、何も聞く必要はないのです。

ルカの福音書1511節から24節、第3版は新約聖書の147ページ、2017版は149ページに記されている放蕩息子の例え話で、父親は、息子に何も尋ねず、再会だけを喜びました。

息子が帰って来た事が全てであり、元気な顔を見られた事が全てであるのと、似ているのではないでしょうか。

23節の後半ですが、今までに、何回か、同じ意味のことばが語られていますが、神様と人間との関係が、イエス様の、十字架で成し遂げられた贖いのわざによって、イエス様を仲介者として回復したので、イエス様のお名前によって、神様と人間とは交流する事が可能となったのです。

神様と人間との関係は、大きく改善しましたが、それでも、人間は罪を持つ身であり、依然としてイエス様と云う仲介者を必要とするのであり、イエス様の「名によって父に求めることは何でも、父はあなたがたに与えてくださ」るのです。

16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

神様と人間との関係は、著しく改善し、イエス様のお名前を通してではありますが、何でも求める事が出来るようになったのです。

この特権を用いないのは、不自然ですし、関係改善に至っての、遠慮深さは美徳ではありませんが、何を求めても良い訳でもありません。

神様、イエス様と共に喜ぶために、神様、イエス様と共に喜びを分かち合うために、必要なモノを、願い求めてよいのであり、願い求めるべきなのです。

その好例が、ソロモンの祈り、願いです。

列王記第一35節から14節、第3版は旧約聖書の1522ページ、2017版は1585ページ。

ポイントとなる9節を紹介しましょう。

ソロモンは、自分のための長寿、富、敵のいのちを求めず、「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」、と祈ったのであり、神様はソロモンの祈り、願いを殊の外、喜ばれ、並ぶ者のいない優れた知恵を与え、願わなかった長寿と莫大な富と、並ぶもののない強大な王国、広大な周辺国を支配する権をも与えたのでした。

【適応】先に紹介した、放蕩息子の例え話ですが、後日談を想像してみましょう。

この親子は、しばしの別離の悲しみ、苦しみの後に、素晴らしい和解をしましたが、この先、ずっと、未来永劫、一緒に居た訳ではありません。

人間の寿命は短く、年老いた父親とは、数年後には、死別してしまったかもしれません。

仲睦まじい関係が続いたとしても、数十年であり、何時かは別れがやって来ます。

ひょっとしたら、関係が悪化して、再び、離れ離れになってしまったかも知れません。この世の人間関係は、罪を内在した者同士であり、クリスチャン同士であっても、束の間の喜びしかもたらしません。

仲良しでも、毎日見ていれば、喜びも薄れてくるでしょうし、欠点が眼に付くようになるかも知れません。

時には、裏切られる事もあるでしょうから、常に喜びを与えるような、良好な人間関係は、その維持は、簡単ではない、否、非常に難しいのです。

死ななければならない肉体を持っており、病苦があり、老い衰えて行くのであり、喜べる事ばかりではありません

否、喜べない事の方が多いのではないでしょうか。

しかし、神様、イエス様からもたらされる喜びは、尽きる事がなく、絶える事がありません。

イエス様は神であり、一切の罪がないからであり、私たちを赦し、受け入れ、包み込み、決して離れる事はなく、再び、悲しみが臨む事はないのです。

この世の人間関係に悩み、苦しみ、絶望しても、この世の人間関係は、何時までも続く訳ではありませんし、この世の人間関係は、裏切られ、失望する事が多いのではないでしょうか。

この世の人間関係に期待する必要も、縋り続ける必要もありません。

しかし、イエス様との関係は、喜びを与え、楽しみを与え、希望を与えます。

イエス様に期待して、裏切られる事もないのです。

そして、この世が終わった時、或いは、この世での寿命が尽きた時、新しい世界で、新しい身体で、更に純粋な、イエス様との関係に入るのであり、本当の意味で、喜びが尽きる事はないのです。

この、素晴らしいイエス様との関係に招かれているのですが、この世と決別をしなければなりません。

この世に生きている身であり、悲しみを経験しなければなりませんが、その先には、イエス様との深い喜び、尽きぬ喜びが待っているのです。

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                                                                     2019-1-20礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書168節から15

説教題:「聖霊の働き」

【導入】

前回、助け主、聖霊様の働きについて確認しました。

助け主、聖霊様の働きは、私たち信者、クリスチャンを助けてくださるのですが、その働きは、迫害、攻撃などの困難、患難を回避する知恵を与えるためではありません。

守ってもらうためでも、慰めてもらうためでもありません。

「助け主」ではありますが、直接、助けてくださるのでも、援助、援軍になって、共闘してくださるのでもありません。

勿論、時には、守ってくださる事も、助けてくださる事も、慰めてくださる事もあるでしょうが、本質は、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かう力や、勇気を与えてくださり、励まし、応援してくださるのであり、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かう事を通して、神様、イエス様の栄光を現わさせる事です。

霊的な戦いにおいて、霊的な勝利を掴むためです。

そして、勝利が、神様、イエス様の栄光を現す場合もあれば、問題を提起する事を通して、神様、イエス様の栄光を現す場合もあれば、殉教が、神様、イエス様の栄光を現す場合もあるでしょう。

いずれにしても、イエス様の弟子たちが、福音宣教、伝道の道具として用いられるためである、とお話しました。

福音宣教、伝道の道具として用いられるため必要な事はなんでしょうか。

具体的に、詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

新改訳2017版 16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

8節には、助け主、聖霊様の働きが明確に記されています。

罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかに」する事です。

決して、信者をこの世からの迫害、困難や患難から守り、救い出す事が主たる働きではありません。

この事につきましては、前回確認し、導入でも再確認していますので、割愛させていただきます。

世の誤り」とは、「罪について、義について、さばきについて」の理解についてであり、伝承や、伝統の類です。

詳細は、9節以降、順次、確認して行きましょう。

明らかに」すると訳されているギリシャ語は、「責める、さらけ出す、誤りを認めさせる」の意味を持つ言葉であり、「告発する」と訳す事も可能でしょう。

また、「正す」、或いは「示す」と訳す事も可能でしょうが、世は、正されたから、受け入れるのでも、示されたなら、違っている事を正すのでもありません。

自分たちの意に副う事、都合の良い事、得に繋がる事、損にならない事、を選択的に受け入れるのであり、自分に不都合な影響を及ぼすなら、間違っている事を、正そうとはしません。

その意味で、世が聞こうが聞くまいが、「明らかに」するのであり、「告発する」の意味での理解の方が、聖書が伝えたい意味に近いでしょう。

世は「誤り」を「明らかに」されても、意にも介さず、無視するでしょう。

しかし、キリスト者には、世の「誤り」を「明らかに」する責任があり、助け主、聖霊様の助けによって、世の「誤り」を「明らかに」するのです。

そこには、妥協があってはなりませんし、遠慮や忖度があってはなりませんが、冷静に、礼儀正しく、丁寧な態度を保持しつつ、の配慮は必要でしょう。

正しい事をしていない、間違っているからといって、罵りを込めたりしてはならず、人格を否定したりしてはならず、悔い改めを促す配慮をもって、世の「誤り」を「明らかに」しなければなりません。

さて、

16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

」とは、「わたしを信じない」事だと宣言します。

ユダヤ人は、「」を十戒に反する事、律法に反する事と、思いますし、私たちも、それに加えて、法律に反する事、道徳に反する事、と思いましょうが、聖書の云うところの「」とは、神様のご計画や摂理を受け入れない事であり、神様が遣わされたイエス様を受け入れない事、神様が、イエス様と云う、救いの道を示されたのに、それを受け入れず、イエス様を信じない事なのです。

イエス様を信じない、と云うだけでなく、神様を信じない、と云う事であり、聖書、ここでの聖書とは、旧約聖書の事ですが、聖書が示される救い主を信じない事です。

ユダヤ人は、自己中心の十戒、律法理解で、「」と云うものを考え、イエス様、神様のご計画に反逆している事に、気付かない、気付こうともしないでいるのです。

ユダヤ人は、「義」は行いによって得られる、と考えますが、行いによっては、義を得る事は出来ません。

そもそも、人は、罪を内在しているため、十戒や律法の、神様の願う形での理解が出来ず、当然の結果として、十戒や律法も、法律や道徳も守れません。

だからこそ、別の手段が必要であり、イエス様が必要なのですが、人々は、イエス様を頑として、受け入れようとはしないのです。

16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

ユダヤ人は、人々は、「」を行いによって得られる、と確信していますが、人は、罪を内在しているため、その行いは、尽く罪にまみれ、行いによって「」を得る事は出来ません。

義人だけが、天の父なる神様の下に行けるのであり、罪人は、当然、天に昇る事は出来ないのであり、天を見る事も出来ません。

もし、天に昇られたなら、その人は義人である事が証明されたのだ、その人には罪がない事が証明されたのだ、と云う事です。

別の言い方をするなら、天には、罪を持たない神しか行く事が出来ないのです。

そして、イエス様は天に居られる「父のもとに行」かれたのであり、イエス様が天に昇られた事が、イエス様だけが、この地上で「」なる生き方を達成した事の証拠であり、イエス様が、唯一の義人、神の独り子、神である事を証明しているのです。

イエス様は天に帰還され、ご自分の「」を明らかにされ、栄光を受けられるのです。

そして、9節と関連するのですが、イエス様を信じる者には、このイエス様の持たれる「」が転嫁され、罪人である我々が、罪なき者と見做され、義人と見做され、天におられる、父なる神様に招かれ、天に召され、イエス様と同じ栄光を受けるに至るのです。

16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

この世を支配する者」が「悪魔、サタン」の意味ではなさそうです。

本来、本当の意味での「この世を支配する者」、神が裁かれる、の意味であり、罪のないイエス様が、裁かれる事の一切ないイエス様が、私たち、罪人の身代わりとなって裁かれた事によって、終末的な審判、最終的な審判がなされたのであり、イエス様が十字架に架かられた事によって、刑が執行され、刑を終えているのです。

最早、私たち、イエス様を信じる者が、過去、現在、未来の罪について、裁かれる事も、刑に服する事もないのです。

恩赦や減刑、執行猶予ではなく、刑期満了であり、刑を終えた者として、罪の清算が終わった者として扱われるのです。

16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

イエス様の弟子たちの、別れを目前にした、悲しみの満ち溢れる心では、イエス様の語られる御ことばを、御教えを理解出来ないどころの話ではなく、受け止める事すら出来ません。

心を騒がせる渦中に置かれていては、ことばは耳を素通りし、教えは意味を成しはしません。

平静な心の状態であってこそ、悩みや問題がないからこそ、ことばに耳を傾け、教えに集中する事が出来るのであり、理解はともかく、受け止める事が出来るのです。

そして、物事の理解には順番があり、或る事の理解を前提に、次の段階の理解に進み得るのであり、基礎的な事、基本的な事を抜きにして、或いは疎かにして、高度な事は理解出来ません。

イエス様は、この世を去られるに当たって、まだまだ話したい事、伝えたい事は山程もあったでしょうが、弟子たちは整えられてはおらず、新しい教えを理解するどころではなく、過去に語った事の繰り返しさえも、受け止め得る状態ではなかったのです。

そして、残念な事に、心が整えられ、環境が整っても、イエス様の語られる事は、この世と隔絶した世界の事であり、この世の常識、経験、知識では理解も、推測も出来ません。

イエス様の語られる御ことばの解説者が必要であり、それは、助け主、聖霊様、「真理の御霊」です。

言い方、表現は別ですが、助け主、聖霊様、「真理の御霊」は、同じお方を現すことばです。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

真理の御霊」の働きは、「すべての真理に導いてくださ」る事です。

弟子たちは、イエス様が裁かれる事も、理解出来ませんでした。

イエス様が、地上で語り尽くせなかった事を、イエス様が語られた御ことばの意味を、「真理の御霊」が明らかにしてくださいます。

ここで、イエス様が地上で語り尽くせなかった事とは、新しい教えではなく、旧約聖書のことばであり、旧約聖書に示された、神様の愛であり、神様の救いの御計画、贖いの御わざ、です。

但し、「すべての真理」と云っても、字義通り「すべて」ではありません。

この部分は「真理のすべて」と訳すべきであり、「真理」と訳されているギリシャ語には、定冠詞が附されており、「この真理のすべて」であり、「この真理」、即ち、イエス様の御人格と、語られた御ことばと、行なわれた御わざの意義、意味、に関わる真理を指し示しています。

ですから、決して、あらゆる種類の真理が教会に示されているのでない事は明白です。

物理学、数学、天文学、経済学、などなどの学術的真理までもが、教会の下にある訳でも、聖書に記されている訳でもありませんので、注意しなければなりません。

真理の御霊」が明らかにされるイエス様に関する「この真理のすべて」は、新約聖書の成立に広く、深く、大きく関わっています。

その新しい契約、福音を携えて、「真理の御霊」の助け、促しによって、弟子たちは、伝道、宣教に派遣されるのです。

13節後半の、「真理の御霊」の「語る」事とは、新しい事ではありません。

イエス様が語られた事、行なわれた事の内にある真理を、弟子たちに教えるのであり、弟子たちに説き明かすのです。

これから起こること」とは、未来の事ではなく、「今まさに起ころうとしている事」、即ち、「イエス様の十字架と復活」です。

そして、その意味です。

真理の御霊」の働きは、イエス様の御人格と、語られた御ことばと、行なわれた御わざの意義、意味、に関わる真理なのです。

ここまでに、助け主、聖霊様、「真理の御霊」の働きについて語ってきましたが、最後に、助け主、聖霊様、「真理の御霊」の、もう一つの働きが語られます。

16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

最後に挙げられた助け主、聖霊様、「真理の御霊」の働き、「わたしの栄光を現されます」ですが、最後に挙げられたからといって、どうでも良い働きなのではありません。

どうでも良いどころか、主たる働きであり、中心たる働きです。

人間を頂点とした全ての被造物の造られた目的は、神様の栄光を現す事、神様の栄光を讃える事であり、これに尽きます。

このために、助け主、聖霊様、「真理の御霊」は働かれるのであり、人間に、「この真理のすべて」を明らかにするのです。

「真理の御霊」が、イエス様の語られた事を説き明かされるので、イエス様の栄光が明らかにされるのです。

そして、イエス様の栄光を知らされた弟子たちによって、イエス様の栄光が世に伝えられて行くのです。

そのために、助け主、聖霊様、「真理の御霊」が助けてくださるのです。

【適応】

この真理」、イエス様の「すべて」を正しく伝えるのが、助け主、聖霊様、「真理の御霊」の働きであり、助け主、聖霊様、「真理の御霊」が伝えた「この真理」、イエス様の「すべて」をその通りに受け止め、何も付け加えず、何も引かず、世に伝えて行くのが、イエス様の弟子の務めなのです。

伝言ゲームでは、大切なことばが端折られたり、余計な尾鰭が付いてしまったりして、スタートの時とは、大きく違ってしまう事がありますが、そうならないように助けてくださるのが、助け主、聖霊様、「真理の御霊」の働き、と云う事が出来るでしょう。

伝道、宣教に限らず、真実、正確なことばには、力があり、信用が宿るのです。

昨今の、教会の説教、伝道集会で、神の愛、赦し、救い、などは語られますが、神の怒り、裁き、刑罰の語られる事の、何と少ない事か。

人々が敬遠するかもしれなくても、神の怒り、裁き、刑罰は語られなければなりません。

神の怒り、裁き、刑罰が語られなければ、神の愛、赦し、救い、などの必要性は、全く感じられないでしょう。

言い難くい事であっても、聖書の全体を、正確に語らなければならず、自分にとって、或いは、相手にとって都合の悪いことばは端折り、自分にとって、或いは、相手にとって都合の良いことばを付け加えるならば、もう、イエス様の弟子ではありません。

これは、伝道とか、宣教に限った事ではありません。

この世の生活においても、然りです。

特に、イエス様の弟子を自認、自負するなら、生活のあらゆる場面で、常に、正直であり、正確さを意識しなければなりません。

この世の生活と、信仰生活、どちらも、常に正直な生き方、真実のみ、正確なことばであるなら、信頼され、語ることばは真剣に聴かれるのではないでしょうか。

そして、99の真実に、1の嘘が混じっても、信用を失う事になるのではないでしょうか。

そして、嘘は吐かなくても、隠したり、濁したりするのも、誠実な態度ではありません。

嘘や誤魔化し、隠蔽は、何時かは明るみに出ますし、隠れていても、真実は、明らかにされます。

ルカの福音書817節、新改訳第3版、新約聖書126ページ、2017128ページ、

8:17 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません」であり、

黙示録2218節、新改訳第3版、新約聖書502ページ、2017519ページ、

22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。

22:19 また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる」です。

前回も確認しましたが、わたしたちは、直接の伝道、宣教の働きに携わっている如何に関わらず、皆が、イエス様の弟子であり、与えられた賜物と、置かれた場所で、イエス様にお仕えして行く務めが与えられています。

お仕えするとは、イエス様の「すべて」を正しく伝える事であり、それが、弟子の任務であり、その任務遂行のために、助け主、聖霊様、「真理の御霊が来られるのであり、更には、任務遂行に伴う迫害、攻撃、妨害、惑わし、混乱などの困難、患難に、正しく対処するために、助け主、聖霊様、「真理の御霊が来られるのです。

私たちの、この世の生活でも、信仰生活でも、様々な問題が起こりますが、問題対処のために、助け主、聖霊様、「真理の御霊が来られるのではありません。

イエス様の「すべて」をその通りに受け止め、何も付け加えず、何も引かず、世に伝えて行くために、迫害、攻撃、妨害、惑わし、混乱などの困難、患難に正しい対処を取るために、助け主、聖霊様、「真理の御霊」が来られるのです。

この年も、助け主、聖霊様、「真理の御霊」と共に、イエス様の真実、イエス様の栄光、神様の栄光を現しつつ歩んで行きたいものです。

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                                                                  2019-1-13礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書161節から7

説教題:「その時を待つ」

【導入】

イエス様は、最後となる、過越の食事の席で、弟子たちに大切な事を話されました。

そのお話は、「告別説教」と呼ぶべきであり、非常に重要な内容です。

特に重要なのは、伝道活動、宣教活動は、順風満帆ではない、何処の話ではなく、イエス様に対する信仰を持ち続ける事は、容易な事ではない、迫害は必ず起こる事であり、相当の覚悟が必要だ、と言う事です。

この事に付いては、12月の説教でお話しました。

その迫害者ですが、伝道に赴いた先の、異教徒たちでもなければ、宣教地に住む、異邦人たちでもありません。

同胞の、しかも、宗教的指導者たちが、挙ってイエス様の弟子たちを迫害するのです。

或いは、日和見的なユダヤ人たちが、寄らば大樹の陰の如くに、宗教的指導者たちに取り入り、宗教的指導者たちの手先となって、イエス様の弟子たちを迫害するのです。

そこに、深い洞察や考察はありません。

何が正しいか、神様に喜ばれるか、ではなく、どちらが損か、得か、なのであり、この世で生き易い方を選ぶのです。

ユダヤ人たちにとって、宗教的指導者たちは、殺生与奪の権を握る権力者たちです。

何故ならば、宗教的指導者たちは、ユダヤ人社会を支配しており、逆らえば、ユダヤ人社会から追放されてしまいます。

ユダヤ人社会からの追放は、神殿、会堂に入れない、即ち、礼拝に与れないと云う事であり、それは、即ち、生贄を献げられないと云う事です。

生贄は、罪を赦すために重要な、唯一の手段であり、生贄を献げられない事は、罪を赦される唯一の手段を断たれる事であり、罪を持ったままであり、罪を持ったままでは天国には入れないのですから、死活問題であり、宗教的指導者には、一切、逆らえず、唯々従うしかなく、取り入るしかなかったのです。

宗教指導者たちから「お墨付き」をもらうに、イエス様の弟子を迫害するのは打ってつけであり、一部のユダヤ人たちは、積極的にイエス様の弟子たちを迫害する事に加担するのです。

しかしそれは、もう少し先の事、イエス様が十字架に掛かられてから後に起こる事ではありますが、

事前に知っておく事のメリットは、計り知れません。

心構えがあると、ないとでは大違いです。

詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

新改訳2017版 16:1 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。

つまずく」と訳されている動詞ですが、翻訳に困難なギリシャ語であり、日本語的な「石ころに躓く、段差に躓く」の意味ではありません。

似たギリシャ語に「バネ仕掛けの罠」の意味を持つ単語があり、そこから類推して、「不意を食らう、意外な事に驚く」の意味と理解すると良いでしょう。

日本語的には「藪から棒、寝耳に水」のニュアンスに近く、「不意打ちに遭わないため、挫折しないため」と訳し、会堂からの追放や、迫害によって、イエス様に対する信仰から離れないように、との意味で理解すると良いでしょう。

予備知識があれば、不意を食らっても、最小限の動揺で済み、想定外な事であったとしても、挫折するまでに至る事は防げるのではないでしょうか。

備えあれば憂いなし、であり、備えを怠れば、余計な被害を蒙る事になるのです。

そのために、イエス様は必要な事を、適切なタイミングで話されたのであり、後で、臍を噛む事にならないためにも、聞く耳のある者は、先入観なしで、しっかり、傾聴、拝聴しなければならないのです。

都合の良い部分だけの、選択的聞き方や、一部を聞き齧(かじ)って、全体を推測するような聞き方は、或いは、思い込みで憶測するような聞き方は、厳に慎まなければなりません。

しっかり聞いて、しっかり理解してこそ、知識として正しく身に付き、知恵となるのであり、知恵を持つなら、対処のし様も生まれて来ると云うものなのではないでしょうか。

16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。

このことばは、聴衆である、イエス様の弟子たちには、驚きの宣言であり、このヨハネの福音書が記されたのは、研究によれば、西暦85年から90年と考えられていますから、2節の言葉は、既に、現実の事となっていたと思われますから、読者には、切実に響いた事でしょう。

しかし、イエス様の弟子たちは、宗教的指導者たちを非難した訳でも、旧来の体制に反旗を翻した訳でもありません。

会堂から追放されるような事はしていないのであり、宗教的指導者たちと、同じ神様を信じ、同じように礼拝しているのであり、宗教的指導者たちを尊敬しこそすれ、侮ったり、軽んじたりしている訳ではなく、神様に対して、不敬を働いている訳でもなく、そんな意識もありません。

否、神様はどんな礼拝を喜ばれるのか、神様はどんな献げモノを受け入れてくださるのかを、聖書を正しく解釈して教えてくださるイエス様に従っているのであり、聖書を絶対の基準として、真剣に考えているのです。

イエス様の教えは、伝統や慣習を、何の疑問も持たずに、繰り返したり、人の言い伝えや、指導書の言い分を鵜呑み、丸呑みにし、何も考えずに従うのが、神様に喜ばれる信仰生活ではありません、であり、行動と動機が、神様の御こころに叶っているか、聖書の教えるところの真意に合致しているかを吟味するのが大切だと、教えているのです。

聖書は、神を愛し、人を愛する事を教える書物であり、その主旨、精神は、全く変わってはいません。

しかし、時間が流れ、人を経る度に、慣習や伝統が継承され、強い影響力を持つようになり、聖書の主旨、精神から離れ、形式が重要視されるようになってしまったのです。

イエス様はそれに、警鐘を鳴らしたのであり、礼拝や信仰生活が、神様の喜ばれるモノとするように、教えたのです。

しかし、宗教指導者たちは、形式を重んじる事が、最高の礼拝、信仰生活と考え、旧来の慣習、伝統、形式に異を唱える者たちを、異端、反分子として「会堂から追放」し、ユダヤ人社会から排除したのです。

そして、どの組織にも過激な考え方、行動を取る者たちがいますが、イエス様の弟子たちを追放、排除するだけではなく、殺すのが、抹殺するのが御こころだと思い込み、過激な行動を正当化するに至るのです。

奉仕」と訳されているギリシャ語は、「礼拝を献げる」の意味であり、「奉仕」も「礼拝」も、神様の喜ばれる事でなければならないのに、神様が最高に悲しまれる「殺人」を、最高の礼拝、奉仕だと思い込んで献げるのです。

考え違いも甚だしい事ですが、現代でも、異教徒に対する、異文化に対するテロを正当化するところに、通じる考えであり、

16:3 彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。

」、即ち、イエス様を遣わされるお方が誰であるかも、知らず、「わたし」、即ち、弟子を遣わされるお方が誰であるかも、知らず、そして、弟子の背後に居られる、天の父なる神様の事も、神の独り子なるイエス様の事も、全く知らない、否、知ろうともしない結果だ、と仰るのです。

知らない事は、そんなに恥ずかしい事ではありませんが、知ろうとしない事は、恥ずかしい事であり、特に、異論に対して、聴く耳を持たず、全く取り付く島もなく、強硬に拒否、拒絶するのは、大問題でしょう。

意見の違いを知ってこそ、発展性があり、成長が見込めるのです。

奉仕」とは、「礼拝」とは、これだ、これだけだ、他にはない、との断定は、断言は如何な事でしょうか。

奉仕、礼拝に限らず、これだ、これだけだ、他にはない、と断定、断言出来る事は、そう多くはありません。

「神を愛し、人を愛する」に反しなければ、多様性、汎用性は、認められて然るべきでしょう。

律法や規範の、画一的な適応は、教え易く、従い易い反面、機械的であり、非人間的であり、冷たさを感じましょう。

律法や規範は、人を縛るものではなく、逸脱を防ぐものであり、人に窮屈な生き方を強いるものではなく、人に安心と平安と喜びを与え、人を生かすものなのです。

しかし、律法や規範の、神様の御こころに叶う適応は、中々に難しい事です。

それでも、「神を愛し、人を愛する」が、根底にあり、常に謙虚さを失わず、人の意見を聴く耳を持ち続けるならば、大きな逸脱は防げるでしょうし、聖霊様の助けが期待出来ましょう。

自分は律法の第一人者だ、神様に選ばれ、立てられている指導者だ、との意識が強すぎ、行き過ぎると、とんでもない失態を演じる事になってしまうのです。

更に悪い事には、言動を省みる事や、思考に対する考察、吟味がなされないので、暴走に陥り易いのです。

そして、宗教的指導者たちは、宗教的指導者たちに従う事を是とする民衆は、この悪循環に陥り、暴走に歯止めを掛けられず、御こころと信じ込んで、御こころと思い込んで、神様に敵対する者となってしまい、それすら気付かずにいる事になってしまうのです。

16:4これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。

イエス様が地上におられる間、宗教的指導者たちや、宗教的指導者たちに従う事を是とする民衆からの、迫害や攻撃は、イエス様のみに集中していました。

イエス様を叩き潰せば、イエス様の働きは潰(つい)え、神様のご計画は頓挫するからです。

ですが、イエス様の昇天後は、状況は大きく変わります。

イエス様の伝道、宣教のお働きが、弟子に引き継がれるからであり、神様のご計画がイエス様から、イエス様の弟子たちにシフトするからです。

必然的に、迫害や攻撃の矛先が、イエス様から、イエス様の弟子たちに移り変わるのです。

イエス様の栄光の働きは、イエス様の弟子たちに引き継がれ、イエス様の受けられた屈辱や苦難もまた、イエス様の弟子たちに引き継がれるのです。

これらをイエス様の弟子たちが実感するのは、イエス様が昇天されてからですが、迫害を伴ってこそ、イエス様の弟子たちは、イエス様の語られた事の全容を、正しく理解出来るのです。

イエス様が地上におられた間も、弟子たちは各地に派遣されましたが、全くと言って良い程、迫害は受けませんでしたから、イエス様の働きを引き継ぐ事を、安直に考えていたかも知れません。

しかし、これからは、即ち、イエス様が昇天されてからは、状況は全く変わります。

迫害、攻撃の時は、目前であり、イエス様は弟子たちに、迫害、攻撃に怯えず、働きに邁進するよう、励ましを与えるのです。

16:5 しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。

尋ねなかったのは、興味が湧かなかった、関心がなかった、理解出来なかった、からではありません。

ヨハネの福音書1336節に記されていますが、シモン・ペテロは皆を代表して「主よ、どこにおいでになるのですか」と、問いかけており、皆の関心事であった事は明らかですが、イエス様との別れが、目前である事をひしひしと実感し、6節に記されている通りに、「あなたがたの心は悲しみでいっぱいになって」、また、イエス様の語られる内容が、特殊な内容だけに、尋ねる事を憚られたからでしょう。

16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

7節は、1416節以降の繰り返しです。

イエス様が去られる事が、「助け主」が「遣わ」される条件であり、「助け主」、即ち「聖霊様」を受けてこそ、宣教、伝道に遣わされ得る者となるのであり、「助け主」、即ち「聖霊様」が、迫害、攻撃などの困難、患難の中に置かれた、イエス様の弟子たちを助け、導き、励ましてくださるのです。

迫害、攻撃などの困難、患難は、無いに越した事はありませんし、無いように願ってしまい、祈ってしまいますが、迫害、攻撃などの困難、患難は、必然であり、迫害、攻撃などの困難、患難がない事をこそ、順風満帆をこそ、警戒しなければなりません。

助け主」、即ち「聖霊様」の助けとは、迫害、攻撃などの困難、患難を消滅させ、或いは遠ざけ、時に迂回させるのではなく、「助け主」、即ち「聖霊様」の助けとは、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かい、四つに取り組むためであり、迫害、攻撃などの困難、患難の中で、神様、イエス様を証しし、神様、イエス様の栄光を現して行く事なのです。

【適応】

わたしたちは、直接の伝道、宣教の働きに携わっている如何に関わらず、皆が、イエス様の弟子であり、与えられた賜物と、置かれた場所で、イエス様にお遣えして行く務めが与えられています。

その任務遂行のために、助け主、聖霊様が来られるのを待ち、更には、任務遂行に伴う迫害、攻撃などの困難、患難の来るのを待つのです。

助け主、聖霊様が来られるのを待つのは、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かうためです。

勝利するか否かは、別問題です。

助け主、聖霊様が来られるのを待つのは、迫害、攻撃などの困難、患難を回避する知恵を得るためではありません。

守ってもらうためでも、慰めてもらうためでもありません。

「助け主」ではありますが、直接、助けてくださるのでも、援助、援軍になって、共闘してくださるのでもありません。

勿論、時には、守ってくださる事も、助けてくださる事も、慰めてくださる事もあるでしょうが、本質は、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かう力や、勇気を与えてくださり、励まし、応援してくださるのであり、迫害、攻撃などの困難、患難に立ち向かう事を通して、神様、イエス様の栄光を現わさせる事です。

霊的な戦いにおいて、霊的な勝利を掴むためです。

そして、勝利が、神様、イエス様の栄光を現す場合もあれば、問題を提起する事を通して、神様、イエス様の栄光を現す場合もあれば、殉教が、神様、イエス様の栄光を現す場合もあるでしょう。

いずれにしても、イエス様の弟子たちが、福音宣教、伝道の道具として用いられるためであり、イエス様の弟子たちを、大事に仕舞い込んで置くため、大切に保管して置くため、傷が付かないように飾って置くためでない事は確かです。

イエス様からお話を聴いた弟子たちは、ヨハネの福音書を読んだ弟子たちは、助け主、聖霊様が来られるのを期待して待ち、迫害、攻撃などの困難、患難が待ち受けている現場に出て行くのを、今か今かと、わくわくしながら待ったのではないでしょうか。

使徒の働き540節、新改訳第3版、新約聖書237ページ、2017243ページ、

5:40 使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。

5:41 使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」。

これは、自虐ではなく、歪んだ熱心でもなく、人間的な賞賛を得たいがためでもなく、イエス様、聖霊様を信頼するゆえであり、こんな欠けだらけの、使徒と呼ばれる資格もない者が、イエス様に用いられた事を無常の喜びとしたからでしょう。

日本政府は戦前回帰、政府の権限の強化、集中、掌握を目論んでいる様です。

反動的に、国民の権利や自由は、制限付きになるでしょう。

宗教への介入、内心の自由の制限は、現実味を帯びて来ています。

迫害、攻撃などの困難、患難が待ち受けているし、手を変え、品を変えての誘惑、惑わしは避けられませんが、助け主、聖霊様が遣わされている時代である事に感謝し、この年も、助け主、聖霊様と共に、神様の栄光を現しつつ歩んで行きたいものです。

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                                                             2019/1/6礼拝

聖書個所:サムエル記第一21節~11

説教題:「ハンナの讃歌」

【導入】

日本には神社仏閣に詣でて入学、合格祈願、病気からの回復祈願、商売繁盛、家内安全、等々などの願掛けをする風習があります。

それは、神道、仏教徒特有の風習ではなく、私たちクリスチャンの風習でもありましょう。

そして祈願が成就したあかつきには、御礼参りをするというのも古くから行なわれている風習です。

何かしらのお金や供物を持って、神社仏閣、そして教会に詣でる姿は、それはそれで良いと思いますが、この世にある全ての物は、創造者である神様の物ですから、どんなに多額の献金を献げても、どんなに多くの供物を献げても、それで神様が喜ばれる事はありません。

では、願いを適えて下さったお方に対して、それ相応の感謝を、どのように現したら良いのでしょうか。

前回、神様への応答は、約束を守る事だとお話しして、ハンナを例にして、待望の男の子を約束通りに神様に献げた事、そして、それは自分自身を献げた事に繋がるのだ、という事を確認しました。

神様は一番大切な物、献げるに大きな決断、勇気を必要とする物を献げる事を喜んでくださいます。

究極には自分自身を献げる事を何よりも喜んでくださいます。

ハンナは一番願っていた、やっと与えられた、一番大切な我が子を献げ、自分自身を献げたのです。

しかし、この事はハンナへの賞賛に変ってしまい易いので注意が必要です。

「ハンナって偉いよね」、「やっと授かった男の子を神様に献げたんだって」、「3歳で離れ離れよ、私には出来ないわぁ」。

本人も「私は約束を守ったわ」、「神様の喜ばれる事をしたんだわ」、って思い、何時の間にか自分が、人間が中心になって、願いを適えてくださったお方のことは隅に追いやられてしまう結果になってしまうものなのです。

しかし、ハンナは、私たちに信仰者としての姿、手本を残して下さいました。

子どもを与えて下さった事、サムエルを献げる事をクドクドと申し述べる事を一切せず、

神様の素晴らしさだけを明確に語ったのです。

【本論】

2:1 ハンナは祈って言った。

キリスト教界では、祈りとは独り言ではない、神様との双方向の対話である、と教えられますが、更に言うならば、祈りとは神様の呼びかけに対する応答だ、という事なのです。

神様は私たちを愛して、滅びないように、生きるように、声をかけて下さっています。

喩えて言うならば、神様は、迷子になって森を、山奥をさ迷い歩いている子どもを捜して、必死になって呼びかけているお父さん、お母さんのような存在です。

何処に居るのか解からない、このままでは死んでしまう。

だから声の限り叫び、血眼になって探し回って下さっているのです。

そして、そのお父さんお母さんの声を聞いて「ぼく、ここに居るよ」「わたしはここよ」と叫び返すのが応答の祈りなのです。

ハンナは心の苦しみ、悲しみ、悩みを神様に訴えました。「神様、助けてー!」

その叫びに対して、神様はハンナが苦しみから立ち上がるように、悲しみに沈みこまないように、「ペニンナを憎む」という罪を犯さないように、神様はハンナに子どもを与えられました。

そして、ハンナは苦しみから、悲しみから立ち直った時、神様への応答として、神様に神様の物、つまり授かったサムエルをお返ししたのです。

更に、ハンナは神様に応答の祈りを献げます。

1節後半「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。

2:2 主のように聖なる方はいません。まことにあなたのほかにだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。

その祈りは、神様を讃美する言葉、神様に対する頌栄の言葉です。

人は地位を誇り、血統を誇り、学歴を誇り、経済力を誇り、家庭円満を誇り、健康を誇り、その行ないを誇ります。

ルカの福音書1810節、新改訳第3版、新約聖書152ページ、2017155ページ、

18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてものから、十分の一を献げております。』

18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。罪人の私をあわれんでください。』」

パリサイ人の祈りは自分が中心です。

取税人の祈りは神様が中心です。

どちらが神様に受け入れられたか、義と認められたかは、皆さん良く知っておられる事でしょう。

ここでもう一つの問題は、自分は正しい、間違った事はしていないとの、自負であり、それを指摘されても、反発こそすれ、自分を省みない事です。

律法学者は、自分の「正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれですか」。

これはルカの福音書1029節に記されています。

新改訳第3版、新約聖書134ページ、2017136ページです。

指摘を受ける事は、好ましい事ではありませんが、また、時には、指摘が、当たっていない事もありましょうが、指摘を受けた事は、好機到来であると受け止めなければなりません。

自分の正しさは、自分の基準であり、客観的な判断では、好ましくない部分があるやも知れず、それを知る、絶好の機会、好機到来、チャンスなのであり、指摘を受けた事を感謝し、自分を吟味する時とするならば、神様に喜ばれる生き方に近づくのです。

指摘を受けてこそ、であり、指摘を受けなくなったならば、それは、成長のチャンスをなくしたと云う事なのであり、見捨てられたと云う事なのではないでしょうか。

さて、私たちは、何も誇る事が無くても、誇る事が出来るのです。

「私は何も無いわ、身軽で良いわよ。あなた何々の問題で大変だそうね。何も無くって良かったわぁ。」と何も無くても人と比較する事で誇るのです。

結局自分が中心なのです。

しかし、本物の信仰者、クリスチャンは神様が中心です。

「私は、私が」と私の事を誇るのではなく、「神様は、神様が」と神様を主語にして神様を誇るのです。

このハンナの祈りは、ルカの福音書1章に記されているマリヤの讃歌のベースになっていると言われています。

ハンナの祈り自体も、ハンナオリジナルの物ではなく、言い伝えられてきた古いヘブル詩の引用であるとか言われていますが、オリジナリティーの問題ではなく、誰を誇っているか、誰を称えているかが問題なのです。

ハンナは主なる神様を誇り、称えます。

2:3 おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

「口は災いの元」って言いますが、私たちは知り得ない事にまで口を挟み、根拠の無い噂話をまことしやかに語り、生半可な知識で人を中傷します。

逆に「慇懃無礼」って言葉がありますが、言葉は丁寧でも、心の中では舌を出している事だって在り得るのです。

高ぶって知識をひけらかしたり、横柄な言葉で接したりと、人は知らず知らずの内に、神様に喜ばれない行動をしてしまう生き物なのです。

比べて神様は全てを知っておられます。
神様の行なわれる事と、神様のお考えとには寸分の間違いもありません。

人は良かれと思って行動しても、真意が伝わらず、気まずい結果になってしまう事も多々ある事でしょう。

しかし、神様の思いと行ないとに齟齬は生じません。

神様が行なわれる事は常に正しく、常に最適、最善、最高です。

その神様の素晴らしさをハンナは具体的に告白します。

2:4 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯びます。

神様は勇士の弓矢を砕かれます。

強い者が強力な武器を持っているから勝つのではありません。

神様が戦って下さるから、守って下さるから、弱い者でも力強い働きをする事が出来るのです。

神様が、勇士の拠り所である弓矢を砕かれ、虐げられていた弱い者に力を与え、立ち上がらせて下さるように、

2:5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。

しかし、神様は弱い者の味方でもなければ、強い者の敵でもありません。

神様は正しく生きようとしているのに虐げられている者を解放し、強い事の故に傲慢になっている者を打ち砕いて、和解を提供して下さるお方なのです。

昨今、沖縄の米軍基地問題が論議されています。

専門家でも、評論家でもありませんが、キリスト者として言える事は、武力で平和は維持出来ない、軍備は抑止力にならないという事です。

軍備の増強や、兵力は平和を維持するものとはなり得ません。

何故ならば、軍備の増強や、兵力によって、弱点や死角のない完璧な防備を敷くなどというのは机上の空論、夢物語だからです。

攻撃者はどんな小さな隙をも見つけだします。

いざ戦いとなれば、双方が強力な軍備を持っているだけに、戦闘員だけでなく、非戦闘員、民間人にも未曾有の犠牲を覚悟しなければならないのです。

被害、犠牲が0の戦いなんてないのです。

だからこそ、兵力の均衡こそが平和を維持する、兵力の増強は抑止力となる、意味があるのだ、と言うのですが果してその通りでしょうか。

軍備の増強が経済に負担となっている事は周知の事実です。

そこで歯止めをかけようとして、軍縮条約や核拡散防止条約などが締結されていますが、条約を破棄すればその限りではなく、結局、条約は何の役にも立たないのです。

継続可能な平和とは、兵力の均衡ではなく、軍備による抑止力ではなく、こちらからは勿論の事、相手側からも絶対に攻撃をしない、侵略しないという双方の信頼だけなのではないでしょうか。

そして、この信頼の維持は、人と人との間では不信が、猜疑が起こるでしょうが、双方が絶対主権者である神様の仲介によって維持可能となるのです。

力ある者も弱い者も、富んだ者も貧しい者も、子を持つ女も子を持たない女も、高慢を砕かれ、虐げ、蔑みから解放され和解する事が神様の願いなのです。

そして、双方の和解に必要なのが、

2:6 主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。

2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。

2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。

2:9 主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。

2:10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油そそがれた者の角を高く上げてくださいますように。」

と記されている神様の主権を認める事なのです。

強くても、裕福でも、子を沢山与えられていても、それで自分が優位に立ってると思い、偉いと思っても、神様は簡単にひっくり返してしまいます。

弱くても、貧乏でも、子に恵まれなくても、卑下したり、自暴自虐になる必要はありません。

神様が見ておられ、神様が裁いて下さり、神様が守って下さるのです。

その主権は地上だけでなく、陰府の世界にまで及びます。

人は死んでお終いなのではありません。

死んでも裁きが待っています。

神様の支配を逃れられる者は、唯の一人もいないのであり、逃れられる場所は何処にもないのです。

ハンナは嫌がらせをするペニンナを憎んだり、呪いを掛けたりはしませんでした。

子が与えられない事で、神様を呪ったりもしませんでした。

唯、神様に縋り、神様の助けを求めたのです。

その時、神様は祈りに応えて下さり、サムエルを与えて下さいました。

ハンナは、その神様の恵み、憐れみに応答して、サムエルを献げ、神様に讃美を献げたのでした。

2:11 エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。

主役はハンナですから「その後、ハンナはラマの自分の家に帰った。…」と記して閉じても良さそうなものですが、聖書は何故、ハンナではなくエルカナと記したのでしょうか。

それはこの一連の出来事が、ハンナ個人の業ではなく、エルカナの業であり、一家の主人の決断により、この一連の出来事がなされた事を現しているのです。

前回学んだように、妻であるハンナと神様との約束は、主人であるエルカナが有効にも無効にも出来ます。

どんなにハンナが強く願っても、サムエルを献げるか否かはエルカナに決定権があるのです。

男尊女卑のユダヤ社会の中で、エルカナはハンナの人格を尊重し、ハンナと神様との約束をエルカナは尊重し、エルカナ自身と神様との約束と捕らえたのです。

エルカナはサムエルが祭司エリのもとで主に仕えることを許した、それで聖書にはハンナではなく、頭であるエルカナが記録されたのです。

これは神様の秩序であり、神様のご計画なのです。

個人が称えられる事もありますが、頭が称えられるのが神様の摂理なのです。

そして、人の全ての営みは、頭である神様が称えられるためであるのです。

【適応】

祈りの、祈願の、祈祷の行き着く先は、頭である神様への讃美です。

合格祈願も、病気の治癒も、商売繁盛も、家内安全も、神様を称える生活に繋がっているかが問われているのです。

何のための合格祈願なのか。

何のための病気治癒なのか。

何のための商売繁盛なのか。

何のための家内安全なのか。

他人より良い暮らしをするための合格祈願であり、病気治癒であり、商売繁盛であり、家内安全であるなら、それは単なるエゴであり、自分の栄光を求める事であって、世の人々の願いと同じでしかないのです。

クリスチャンの祈りは、というより人間の存在目的は神様讃美です。

合格を祈り、病気の治癒を祈り、商売繁盛を祈り、家族の平安を祈っても、必ずしも祈りの通りになるとはかぎりません。

しかし、例え不合格でも、病気が治らなくても、商売不振でも、心配事がなくならなくても、そこでも神様を讃美出来るのがクリスチャンなのです。

願った通りにならない事も、神様の御心だ、と諦めてしまうと言うような否定的な考えではなく、

それでも、神様を讃美する事が出来るのがクリスチャンなのです。

中々難しい事ではありましょうが、結果が良い時だけ感謝、讃美するのでは、クリスチャンでない人と同じです。願った事と違う結果であっても、神様に感謝を献げられるのがクリスチャンなのです。

クリスチャンと世の人々の違いは、どんな時でも、どんな状況でも神様を褒め称え、讃美する事、感謝する事です。

ハンナの祈りは、子どもと別れる時に献げられました。

普通の母親ならば、子どもの健康や成長や、活躍を願うところでしょうが、それらの事には一切触れていません。

ハンナは冷たい母親だったのでしょうか。

そうではありません。

神様は全知全能ですから、そんな事、一々言わなくても、触れなくても知っておられる。

神様は私たちが祈る前から、何が必要かを知っておられるのです。

ですから、ぐだぐだと細々とした事を祈るのではなく、神様を信頼して、委ねて、その信頼に応えて下さる神様のまこと、神様の義と愛を称えたのが、このハンナの祈りであり、私たちの務めなのです。

6節から10節の祈りは、サムエルの活躍や健康を祈る前に、サムエルが神を恐れるように、神を愛するように、とサムエルに諭すように祈ったのではないでしょうか。

「主を恐れることは知識の初めである。」箴言17節のことばです。

先ず、神様がどのようなお方かを知ることです。

そして、神様との関係が正されていれば、後は自ずと決まって来ましょう。

ここに居られるお一人お一人が神様に愛されている事を知り、愛する者のために最善を尽くして下さると信じて、どんな状況にあっても、神様に感謝を、神様に讃美を献げる生涯を歩もうではありませんか。

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