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2019-10-20礼拝
聖書箇所:詩篇107篇17節~22節
【聖書】
107:17 愚か者は 自分の背きの道のため また 咎のために苦しみを受けた。
107:18 あらゆる食物を 彼らの喉は受け付けず ついに死の門に至った。
107:19 この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から救われた。
107:20 主はみことばを送って彼らを癒し 滅びの穴から彼らを助け出された。
107:21 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。
107:22 感謝のいけにえを献げ 喜び叫びながら主のみわざを語れ。
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2019-10-20礼拝
聖書箇所:エペソ人への手紙1章7節~12節
説教題:「主なる神の御子イエス・キリストによる贖い」
【導入】
最初に、前回の礼拝で説明したことを確認します。
このエペソ人への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれ、パウロが西暦61年ごろ、ローマの獄中で執筆した、と考えられています。
パウロの、ローマでの獄中生活は、「獄中」と呼ぶにはちょっと語弊がありそうです。
所謂、犯罪人を収容する監獄での生活ではなく、自費で借りてはいますが、当時の一般的な住宅での生活であり、檻の中のような、閉鎖された劣悪な環境下ではなく、ドアや窓や開け、適度に息抜きも出来る、自然に接する事の出来る環境でした。
ローマ兵が見張っており、好き勝手には外出出来なかったようですが、友人が訪ねて来る事に妨げは無かったようです。
私語が制限され、手紙が禁止される環境ではなく、自由に伝道が出来、訪ねて来る信徒を教える事が出来たようです。
そんな生活の中で書き記された書簡の一つが、このエペソ人への手紙なのです。
さて、このエペソと云う町は、「アルテミス」と呼ばれるギリシャ神話に登場する女神で、ゼウスの娘であり、豊穰の女神として信仰、崇拝する処として栄えていた町でした。
立派な大神殿があり、大女神を祭り、エペソの町の職人たちは、神殿の模型を作って売り、かなりの儲けがあったようです。
パウロのエペソでの伝道には、アルテミス神殿と女神によって生計を立てていた職人たちからの、激しい妨害があました。
この辺の経緯は、使徒の働き19章23節以降、2017版は274ページ、第3版は268ページに記されていますので、後でご確認願います。
パウロたちがエペソを離れても、エペソの信徒たちへの心配は尽きず、ギリシャ神話の根強い地域の人々に対して、手紙を書き、励まし、指導していたのです。
【本論】
新改訳2017版 1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
「このキリスト」とは、主なる神様のご計画によって、この世に遣わされたお方であり、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストです。
内容的には1章3節、4節、5節と重複しますが、大切な内容であり、信仰の根幹に関わる内容なので、パウロは繰り返すのです。
「贖い」とは、元来は買い戻す事、代価を払って解放する事、であり、主には、先祖から受け継いできた相続地を、何らかの理由で手放してしまった、売ってしまったが、その相続の土地を、買い戻す事、取り戻す事、奴隷として売られてしまったが、自分自身を買い戻す事、自由の身分を取り戻す事です。
転じて、主なる神様に対する負債に対する身代金を、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって支払う事、律法の教えに反する行為に対する呪いを、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって取り除く事、内在する罪の束縛から、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって解放する事、を意味するようになります。
しかし、私たちは、自分で自分を買い戻す事、贖う事は出来ません。
買戻しの金額は、天文学的な金額であり、自分自身を売っても支払う事は出来ません。
律法違反の呪いは、動物の生贄の血によっては、完全に取り除く事は出来ません。
内在する罪による束縛からは、精進や訓練、修行や努力によって解放される事は出来ないのです。
私たちは、贖われなければならない存在であり、私たちを贖い得るのは、主なる神様の愛したもう独り子、御子イエス・キリストの血のみなのです。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血だけが、私たちを贖う唯一の方法である事を、パウロは繰り返すのです。
「背きの罪の赦し」とは、過去に犯した罪、明るみに出ていない罪、現在も犯し続けている罪、隠している罪、未来に犯すであろう罪が、全て、完全に赦されるのです。
ここに、私たちの何かが入り込む余地は、精進や訓練、修行や努力、知恵や知識、業績や能力、熱意や熱心が影響する事は、全くありません。
主なる神様の、一方的な好意であり、主なる神様の、大きな愛から出た事なのであり、只々「神の豊かな恵みによること」だと、パウロは声を大にして宣言するのです。
1:8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
主なる神様は、私たちの弱さ、愚かさ、鈍さ、頑なさ、などをご存知であり、深遠な奥義を、私たちが朧げながらでも理解し、受け入れる事が出来るために、あらゆる配慮をしてくださるのです。
その最大の配慮が、聖霊様を内住させてくださっている事であり、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの執り成しです。
聖霊様が私たちを適切に導いてくださり、即ち、運転手、ドライバーのようになって運んでくださり、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストが私たちに正しい道筋を示してくださり、即ち、標識、道しるべとなって方向を示してくださるのです。
主なる神様の配慮は、微に入り、細に入りであり、私たちは安心して、委ねる事が、進む事が出来るのです。
この8節ですが、新共同訳は「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて」と訳し、口語訳は「神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり」と訳しています。
主なる神様から人間に「すべての知恵と理解とを与え」、或いは「あらゆる知恵と悟りとを・・・賜わり」と理解する事が出来るのですが、主なる神様の働きに重きを置き過ぎると、人間の応答の必要性が意味をなくしてしまい、人間の側の応答に重きを置き過ぎると、行いによる贖いとなってしまいましょう。
どちらか一方を取捨選択するのではなく、どちらの訳も、意味、含蓄のある訳であり、主なる神様の「知恵と思慮」と、恵みとして人間に分け与えられた「知恵と思慮」が相乗効果を発揮し、主なる神様の御こころ、御旨が前進する、と理解するのが、適切なのではないでしょうか。
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
私たちが、主なる神様の、比ぶべきもののない御旨の奥義、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの贖いを、理解しようとし、受け入れる事によって、主なる神様の恵みは、私たちの上に完全に現れるのです。
主なる神様の恵みには、二種類あります。
第一の恵みは、一般恩寵、一般恩恵とも云いますが、太陽が昇り、日が差し、暖かさをもたらし、雨が降り、動植物を養いと、自然界に豊かに現された主なる神様の恵みあり、第二の恵みは、特別恩寵、特別恩恵とも云いますが、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストによって現された主なる神様の恵みです。
第一の恵みは、全てのものが、既に享受していますが、第二の恵みは、主なる神様の選びに応答する時、即ち、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストを受け入れる時、享受出来るのです。
意識的に応答する事が重要であり、自動的にいつの間にか、知らない内に、気が付いたら、ではありません。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの贖いは、全ての人間に提示され、どうぞ受け取ってくださいと提供されてはいますが、有無を言わさず強要され、受け取らされてしまっている訳ではありません。
受け取ります、との意思表示が必要、重要であり、意思表示した人間に、即座に無償で与えられ、その特権を即座に享受出来るのです。
1:10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
「時が満ちて」とは、単に「時間になったので」の意味ではありません。
主なる神様の、定められた時に至ったので、の意味です。
この世は罪に満ち、衝動的であり、偶発的に見え、無軌道、無秩序、混沌とした世界であり、悪意に満ちて、主なる神様のご計画を妨げ、阻止しようとする力が圧倒的に優勢に見えましょうが、主なる神様のご計画を妨げ得る力は存在せず、逆に、主なる神様のご計画を着々と実現に向かわせる力として働くのです。
毒を送ったつもりが、栄養ドリンクを与えていたようなものであり、邪魔したつもりが、背中を押し、危険を回避させていたようなものなのです。
主なる神様のご「計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが」、即ち、ユダヤ人も異邦人も、見える教会も見えない教会も、御使いも人間も、被造物の全ての全てが、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストを中心に、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの下に帰り、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの権威に服するのです。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの贖いによって、天地創造の時の、完全な秩序を取り戻し、調和の取れた世界となるのです。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの贖いは、人間の罪の問題だけに限定した、ちっぽけなものではありません。
被造物の全てに及ぶのであり、被造物は創造の目的にしたがって正しく機能するのであり、主なる神様の、壮大なご計画の完成なのです。
1:11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
「御国」は、主なる神様の支配が及ぶ処であり、決して「天国」、或いは、「エデンの園」と限定されるような場所ではありません。
主なる神様が造られた全世界、全宇宙、被造物のすべてであり、「私たちは」主なる神様が造られた全世界、全宇宙、被造物のすべてを「受け継ぐ者となりました」。
この特権は、偶然の産物では、成り行きで仕方なくではありません。
「あらかじめ」であり、創造の時に既に「そのように定められていたのです」。
ここでも、私たちの何かが入り込む余地は、私たちの願望とか、精進や訓練、修行や努力、知恵や知識、業績や能力、熱意や熱心が関係する事は、全くありません。
1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
7節「その血による贖い、背きの罪の赦しを受けてい」るのは、8節「あらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ」るのは、9節「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」ったのは、「私たちは御国を受け継ぐ者とな」ったのは、即ち、贖いの究極の目的は、「神の栄光をほめたたえるためです」。
贖われて、無罪放免、自由の身になったのは、好き勝手し放題、自由気ままに生きるためではありません。
「神の栄光をほめたたえるためです」。
【適応】
主なる神様を讃えるために、礼拝するために、主なる神様によって選ばれたのですが、そのことについては、前回確認しました。
しかし、人間には罪があり、選ばれたままでは主なる神様を讃え、礼拝する事が出来ません。
主なる神様を讃え、礼拝する事の妨げとなっている人間の罪を贖う必要があり、人間は、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われる必要があるのです。
否、既に、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われたのであり、その主なる神様のご計画、御旨を受け入れる事だけが、私たちの選択に委ねられています。
委ねられているだけであり、私たちの判断に対して一切の強制も、恣意的な誘導もありません。
私たち人間は、「神の栄光をほめたたえるため」に造られたのであり、人間の本来の姿を知り、本来の目的に戻り、本来の働きに就く時、この世界の秩序は回復し、被造物の全てが「神の栄光をほめたたえる」のです。
「この世界」と申し上げましたが、パレスチナ地方とか、地球とかの限定した世界ではありません。
秩序を回復するは、全宇宙であり、全宇宙が、「神の栄光をほめたたえる」のです。
なんと壮大な、美しい世界となるのでしょうか。
しかし、現実はまだ「神の栄光をほめたたえる」世界とはなっていません。
しかし、その世界を確信して、信仰の道を歩んだのが、先に紹介した方々です。
主なる神様のご計画、お約束の故に、目に見えない事を、まだ見ぬ事を確信するのが信仰であり、その信仰の道を歩んだのが、先に紹介した方々です。
先に紹介した方々が、主なる神様に選ばれたのは、また、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われたのは、そして信仰者として歩めたのは、決して何か取り柄があったからであるとか、人格者、徳のある人であったからであるとか、キリスト教の発展に役に立つ、立派な人だったからではありません。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われたからであり、それを確信したからです。
主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われると、人は変わります。
勿論、一気呵成に、ではなく、牛歩の歩み、蝸牛の歩み、三歩進んで二歩後退するような、遅々とした歩みでしょうが、徐々に「神の栄光をほめたたえる」者に変えられます。
失敗ばかりの多い私たちですが、その失敗が殆どの生涯の中で、きらりと輝くのは「神の栄光をほめたたえる」瞬間です。
人に見せる、これ見よがしの「神の栄光をほめたたえる」姿ではなく、人目につかない所での「神の栄光をほめたたえる」姿こそ、隠れた所で見ておられる主なる神様に、相応しい姿なのではないでしょうか。
それこそが、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた者の姿です。
主なる神様の選びに応答し、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた者として、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた全ての被造物と共に、主なる神様を讃える生涯を歩み続けようではありませんか。
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2019-10-13礼拝
聖書個所:創世記3:1~13
説教題:「あなたはどこにいるのか」
【導入】
私たちは何か失敗をすると、その失敗を隠そうとしますし、堂々としていることができなくなってしまいます。
恥ずかしい思いや、恐ろしさなど、理由は色々あるでしょうが、人の顔をまともに見ることはできなくなってしまいます。
隠れてこそこそしてしまう訳ですが、それはその人との信頼関係が崩れてしまったからです。
大好きな人であっても、失敗を、約束を破ったことを指摘されたならばと考えると落ち着かず、平安ではいられません。
同じように、神様との関係が崩れた時、神様の存在は好ましいものではなくなってしまうのです。
いや、うっとうしい方、関りたくない方にさえなってしまうのです。
【本論】
先ほど読んで頂いた聖書には、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」と記されていました。
神様の御顔を避けるような心の変化は何処から生まれたのでしょうか。
それにもかかわらず、神様は「あなたは、どこにいるのか。」と、人とその妻に声を掛けられました。
神様は、人とその妻が、アダムとエバがどこに居るのか解からなかったのでしょうか。
私達人間や動物、草木は、被造物ですから、時間と空間の支配を受けます。
時間と空間の制限の下に置かれて居ます。
神様がそのように造られたからです。
ですから、未来に行く事も出来ないし、過去に戻る事も出来ません。
また、同時に2箇所以上に存在する事が出来ません。
しかし、神様はこの天と地の創造者です。
全てを造られました。時間も、空間も造られました。
ヨハネはヨハネの福音書1章3節で「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と、証言しています。
造られた方が、造った物に制限を受ける事は有りません。
ですから、神様は、時間の制約も受けないし、空間の制限を受ける事も有りません。
人間的な表現になりますが、過去にも未来にも自由に行き来が出来ますし、今この瞬間にも世界中どこにでも存在する事が可能なのです。
ですから「あなたは、どこにいるのか。」と、問いかける必要もなく、何処に居るかも、何故隠れているのか、その理由についても、誰かに教えてもらう必要もなく、知りたいと思われるならば、知る事がお出来になるのです。
神様はエバが蛇に誘惑される、そのやり取りの一部始終を知る事が出来るのです。
エバが実を取って食べた瞬間も、夫のアダムに与えて、アダムが食べた様子も見たいと、願われるならば、見る事が出来るのです。
食べてはならないと言われていた善悪の知識の木の実を食べた結果、自分たちが裸である事を知って、いちじくの葉で腰の覆いを作っている姿も見る事が出来るのです。
園を歩かれる神様の声を聞いて、神様の御顔を避けて、慌てふためいて園の木の間に身を隠す様子も知ろうと思われるならば、知る事が出来るのです。
全てを知る事が出来るのに「あなたは、なんと言う事をしたのか。」と言う叱責ではなく、「あなたは、どこにいるのか。」と言う、優しい呼びかけをして下さったのです。
神様と人にとって、「善悪の知識の木の実」は、どんな意味があるのでしょう。
「善悪の知識の木の実」は創世記2章15節に出てきます。
2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
園のどの木からでも思いのまま食べてよいが、善悪の知識の木の実だけは「食べてはならない」と言う約束事に人は「食べません」と言う応答をした訳であります。
つまり人は神様と「善悪の知識の木の実は食べない」と言う契約を結んだ訳です。
それなのに食べてしまったのであり、契約違反をしたと言う事なのです。
契約には最低限の約束事だけが必要です。
神様と人との契約について言うならば「食べない」と言う事と「食べたら死ぬ」と言う事が確認されました。
更に突き詰めて言うならば「食べない」と言う事だけが重要で、「食べたら死ぬ」とか、何故食べては行けないかを知らせる必要はありません。
それは、この世の契約で、たとえば納期ならば、「何月何日の何時までに何処に納めるか」が重要であり、どのような方法で運ぶか、何に使うか、幾らで売るかなどについては問題ではないのと同様です。
契約を破るような人と、商売を続ける人は居ないでしょう。
契約を破る事は信頼関係を破壊する事です。
約束を守らない人に、任せることはできません。
「食べない」と言う契約を破った事は、神様と人との信頼関係が破られたと言う事なのです。
約束を守らない人にエデンの園の管理を任せる訳にはいきません。
そして、サタンの狙いは、この神様と人との信頼関係、愛の関係の破壊・断絶にありました。
契約を破った事は大変な事です。
契約を守らなければ、何らかしらの罰則が発生します。
損害賠償や民事訴訟、刑事責任が問われる事もあるでしょう。
神様と人との間においては、死ぬ事が宣告され、エデンの園を追放されました。
アダムとエバは大きな代償を背負う事に成ってしまったのでした。
契約を破った事は、大きな問題ですが、更に、大きな問題は、隠そうとした事ではないでしょうか。
隠そう、誤魔化そうとする事が大きな問題である事の例として、有名自動車会社のリコール隠しと、電力会社の点検洩れ隠し、或いは食品偽装を思い出す事が出来るでしょう。
欠陥や点検洩れはないに越した事は有りませんし、その様に努力する事が企業の責任ですが、充分なチェックを行っても、人間はミスをする生き物ですから、欠陥や洩れが発生する事はやむを得ない事も有ります。
しかし、欠陥や洩れが見つかった時には、いち早く報告、連絡、相談し、然るべき処置を取る事が重要です。
そうすれば、次の事故を未然に防ぐ事が出来、全体として責任を果たす事が出来るのです。
しかし、隠す事、騙す事、誤魔化す事は許される事では有りません。
隠した結果、更なる被害を引き起こしました。事故を未然に防ぐ事が出来ませんでした。
事故を防ぐための点検で有ったのに、その目的を果たす事が出来ませんでした。
神様が人に「あなたは、どこにいるのか。」と、問われたのは「あなたは、何故隠れているのか。」と、問われたのであり、「あなたは、何か隠れなければならないような事をしたのか。」と、問われているのではないでしょうか。
ですから、この神様の「あなたは、どこにいるのか。」との、問いに対しての答えは「わたしは、あなたとの約束を破り、食べてはならないと言われていた、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。」と答えるべきではなかったのではないでしょうか。
それなのに、この事を隠して「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」と、答えたのです。
そして「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と、問われると、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、答えます。
神様は人とその妻が「善悪の知識の木の実」を食べた瞬間に、現われて、その罪を指摘する事も出来ました。
しかし、園を歩く神様の声を聞かせ、「あなたは、どこにいるのか。」と、呼びかけ、「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」と、問われ、2度も3度も悔い改めるチャンスを下さったのです。
それなのに、食べた事を隠しつづけ、最後には、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、原因は神様にある、神様のせいだと言わんばかりの言い訳を述べるのです。
神様と人との言葉のやり取りを見ていると、裸だから、この女のせいで、蛇が、と自分のプライドを守る事に一生懸命である事が分かります。
つまり、罪の根源はプライドに有ると言う事なのです。
女を惑わしたサタン、元々は天使の一人でした。
神の被造物である天使が自分の領域を守らず、自分の居るべき所よりも、より高い地位、神の座に座る事を願ったのです。
その結果、サタンは神様の怒りに触れて、天上の世界を追い出されてしまいました。
罪の根源はプライドであり、それが神様への反逆に至るのであります。
人間がサタン(蛇)にそそのかされて食べる事を禁じられていた木の実を食べたことにより、人間界にも罪が入ったのですけれども、それは人が神のようになるという蛇の誘いに乗ったからです。
神の様になる、何んとプライドをくすぐる言葉ではないでしょうか。
プライドが蛇の誘惑を受け容れてしまったのです。
そして、罪によって膨れ上がったプライドは、罪を認める事が出来ず、謝る事を拒否するのです。
つまり、罪の特徴は、罪を認めない、罪を隠す事だと言えるのではないでしょうか。
もちろん、神様との約束を守らなかった事も、罪の一種でしょう。
他にも、神様以外のものを、第一とする生き方や、十戒を守らない事も罪の一種でしょう。
罪を的外れと説明する事も出来ます。
この世の法律、社会ルール、道徳を守らない事も罪に数える事が出来るでしょう。
しかし、更に重要なのは、自己のプライドを守る為に、罪を隠す事です。
なかった事にする事です。
犯した罪を隠し、罪を犯した事がないように振舞う事なのです。
心の中の罪を隠す、偽善者の生き方なのです。
イエス様はマタイの福音書23章27節28節で語っています。新約聖書48頁です。
23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
ここでイエス様が教えているのは、心の内側の汚れを隠し、外側だけ美しく、正しく見せた生き方は、神様の前に正しい生き方では無いと言う事でしょう。
更にルカ18章9節以下で次のように語っています。新約聖書152頁です。
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ここで、イエス様が教えておられるのは、罪を犯した事や、罪がある事よりも、自分が罪人である事を認める事、罪を隠さない事が大切であり、自分には罪が無い、自分は義人だと思い込んでいる事にこそ、問題があると言うことなのです。
そして、どんな犯罪者であっても、自分の罪を認める者には、天国への道が開かれているのです。
ルカの福音書23章40節、168頁です。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
神様は罪を問題にされていません。
罪の問題はすでに解決されています。
それは、創世記2章2節で創造のわざの完成を告げられたからであり、へブル人への手紙4章3節でも「みわざは創造の始めから、もう終わっているのです。」と、罪の問題も、その解決も、神様のご計画の内に有って、イエス・キリストの十字架によって、既に解決されている事を教えているからです。
【適応】
神様は罪を犯したアダムに、そして私達に「あなたは、どこにいるのか。」と、声を掛けてくださっています。
罪に怯え、隠れている私達に、やさしく「あなたは、どこにいるのか。」と、声を掛けて下さっています。
声を掛けるだけでなく、イエス様をこの世に送ってくださり、私達を探し出して下さっているのです。
神様は両手を広げて「私のところに帰ってきなさい。」と待っていて下さっているのです。
そして、私たちとの関係の修復を願っておられるのです。
崩れ去った信頼関係の修復を願う言葉が「あなたは、どこにいるのか。」なのです。
隠れる事など出来ないのに、神様から隠れたと思いこんでいる生き方。
神様に隠せる事など何一つ無いのに、隠し続け、言い訳をする生き方。
隠れている所から出てきて、イエス様を受け容れましょう。
イエス様を受け容れる生き方は、イエス様に心の中心に座って頂く生き方です。
それはイエス様に自分の心の中を全て見て頂く事です。
神様の前で何にも隠さない、ありのままの自分を認める生き方です。
赦して頂く資格など無い、だから「こんな罪人の私をあわれんでください。」「私を思い出してください。」と、願うしかないのです。
それが義とされる生き方なのです。
それはプライドの無い、子供のような生き方なのです。
だからイエス様はマタイ18章3節で「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と、語られたのです。
ここで、「子どもたち」と訳されているギリシャ語は「幼子」を意味します。
子どもより更に小さい、幼子のような生き方が求められているのです。
赤ちゃんの様な生き方が求められているのです。
幼子は在りのままです。プライドなど一欠けらも有りません。
裸でも恥ずかしいなどとは思いません。
おしめを取り替えてもらう時も、身体を綺麗にしてもらう時も、恥ずかしがったりしません。
隠すと言う知恵を持っていません。
知恵は人を賢くもするし、ずるくもします。
与えられた知恵は、神様の栄光の為に用いましょう。
神様に隠せる事など何一つ無いのですから、隠し続け、言い訳をする生き方を捨てて、神様に全てを知って頂き、罪を認め、神様の前に隠す事の無い、幼子のような生き方を求めましょう。
「あなたは何処に居るのか」
今日も神様は私たちを探し続け、声を掛け続けて下さっているのです。
神様に隠している事があったならば、人に原因を押し付けたりせず、全てを告白して赦して頂き、神様の懐で憩う人生を歩もうではありませんか。
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2019-10-6礼拝
聖書箇所:エペソ人への手紙1章1節~6節
説教題:「神による選び」
【導入】
これから暫く、エペソ人への手紙から、御ことばに聴きたいと思います。
このエペソ人への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれ、パウロが西暦61年ごろ、ローマの獄中で執筆した、と考えられています。
パウロの、ローマでの獄中生活は、「獄中」と呼ぶには語弊がありそうです。
所謂、犯罪人を収容する監獄での生活ではなく、自費で借りてはいますが、一般的な住宅での生活であり、檻の中のような、閉鎖された劣悪な環境下ではなく、ドアや窓や開け、適度に息抜きも出来る、自然に接する事の出来る環境でした。
ローマ兵が見張っており、好き勝手には外出出来なかったようですが、友人が訪ねて来る事に妨げは無かったようです。
私語が制限され、手紙が禁止される環境ではなく、自由に伝道が出来、訪ねて来る信徒を教える事が出来たようです。
この辺の様子は、使徒の働き28章30節31節に記されています。
2017版は296ページ、第3版は288ページ、「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、28:31少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた」のです。
その獄中で書き記された書簡の一つが、このエペソ人への手紙なのです。
この手紙の主題は、1章23節「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」であり、教会論を扱っている、と言われています。
教会のあるべき姿、教会の働き、教会とは、などなどについて、御ことばに聴いていきましょう。
【本論】
新改訳2017版 1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
始めに自己紹介が記されますが、これは、型どおりの自己紹介文であり、公式な、ギリシャ風の自己紹介文です。
型に嵌っていて、堅苦しく、親しさと云う点では、冷たい感じもしますが、「親しき仲にも礼儀あり」でもあり、特にパウロは、この手紙が回覧される事を想定していますので、失礼の無いように、型に従った自己紹介文を記すのです。
その自己紹介文の始めには、「神のみこころによる」との但し書きを附していますが、これは非常に重要です。
「召命」と云うものは、自発ではなく、使徒職は自称でもなく、人の上に立ちたい、と云うような思いからでも、神様のお役に立ちたい、と云うような思いからでも、また、人の推薦によるのでもありません。
「召命」は、主なる神様から発するのであり、人知を超えての選びであり、常識や、能力や、経験や、経歴や、出自も関係ありません。
農業に携わっていても、牧畜に携わっていても、漁業に携わっていても、取税人でも、医者でも、学者でも、パリサイ人でも関係ありません。
主なる神様が選ばれ、立てられ、遣わされるのです。
当然、必要な能力、賜物も与えられる事は必然です。
勿論、持ち合わせている能力や経験も、生かされる事は、言うまでもありません。
その「召命」は、「キリスト・イエスの使徒」として、であり、働きの種類は様々ですが、「キリスト・イエスの使徒」として、「キリスト・イエス」を宣べ伝える事に限定されます。
勿論、直接「キリスト・イエス」を宣べ伝えるだけではなく、状況によって様々な働きをするでしょうが、間接的に「キリスト・イエス」を宣べ伝える事もあるでしょうが、使徒は、「キリスト・イエスの使徒」なのです。
形式的には、教団から遣わされ、教会から遣わされる形を取るでしょうが、使徒は、「キリスト・イエスの使徒」なのです。
そしてパウロは、主なる神様の任務である事を、「キリスト・イエスの使徒」である事を、明確に自覚し、「キリスト・イエスの使徒」としての権威を持ってこの手紙を書いた事を宣言するのです。
ここで自身を指し示して「パウロ」である、と自己紹介していますが、「パウロ」と云うのはローマ名であり、ユダヤ名は「サウロ」です。
ユダヤ人であるサウロは、この「サウロ」と云うユダヤ名に強い、何モノにも代えがたい誇りを持っています。
その誇りは尋常ではありません。
不利益を被ろうが、損になろうが、迫害を受けようが、死ぬ事になろうが、であり、それは、主なる神様の選びの民である事を、主なる神様との強い繋がりを、何よりも大切、重要視しているからです。
しかし、その主なる神様との繋がり、何モノにも代えがたい誇りを象徴するユダヤ名「サウロ」と云う名前をあっさり捨てて、「パウロ」を名乗ったのです。
それは、ユダヤ名以上に、主なる神様からの働き、異邦人に対する働きを自覚していたからであり、ローマ名を名乗る事を、使命の一環と理解していたからです。
サウロは、主なる神様の使命に対して、命を捨てる覚悟があったのであり、その現われが、ローマ名を名乗る事だったのです。
パウロの、並々ならぬ覚悟の程を知る事が出来るのです。
次に、「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と続きますが、「忠実」と「聖」の関係を、神学者カルバンは、次のように解説します。
「聖くなければ、忠実ではあり得ず、忠実でなければ、聖くはあり得ない」。
即ち、「忠実」と「聖徒」は同じ意味の言葉なのです。
「聖徒」は、一般的な信徒の意味ではありません。
「聖徒」は、主なる神様のご計画、御用のために、主なる神様により、この世から選び分けられた者、即ち、聖別された者であり、主なる神様の選びによって、使命を受け、その使命に「忠実」であるが故に、誤解、迫害、誹謗中傷、有形無形の不利益を受け続けているのであり、2節の慰め、宣言が必要となるのです。
最後に、「エペソの聖徒たちへ」と訳されていますが、有力な写本には「エペソの」が、欠落しています。
これは、欠落ではなく、最初から回覧される事を想定していたために、敢えて宛名を記さなかったのであり、手紙の内容は、エペソ教会宛ではなく、その地域全体の教会で受け止めて欲しいとの願いから、と考えられます。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
「父なる神」と「主イエス・キリスト」が並列に記されていますが、「父なる神」と「主イエス・キリスト」が同格である事、その栄光に差がない事を宣言し、「父なる神」と「主イエス・キリスト」とから、「恵みと平安があなたがたにありますように」と祝福を宣言します。
この「恵みと平安」は、一般的なギリシャ風の挨拶「喜びと平安」をもじったものです。
「喜び」のギリシャ語は「カイレイン」であり「恵み」のギリシャ語は「カリス」ですが、同じ語を源としています。
即ち、「喜び」は「恵み」の一つであり、「恵み」こそが、全てであり、「恵み」をもたらす根源、即ち、「父なる神」と「主イエス・キリスト」を紹介、宣言する挨拶文なのです。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
「ほめたたえられますように」と訳していますが、命令でも、願望でもありません。
形容詞であり、ここは「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられるお方だ」の意味で理解すると良いでしょう。
何故ならば、「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださ」ったからです。
「霊的祝福」とは、この世とは隔絶した祝福であり、この世と比べるモノのない祝福です。
具体的には、4節の「世界の基が据えられる前から・・・の選び」であり、「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」事であり、5節の「ご自分の子にしようと・・・あらかじめ定めておられ」た事であり、7節の「キリストにあって・・・その血による贖い、背きの罪の赦しを受け」た事であり、11節の「キリストにあって・・・御国を受け継ぐ者とされ」た事などです。
では、一つずつ確認して行きましょう。
1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
「選び」は、「世界の基が据えられる前から」であり、主なる神様の主権的な、一方的な選びです。
人間は、その姿形も全くない時に、生まれる遥か以前に、即ち、何の功績も成果もない時に選ばれたのであり、人間の功績や成果の入る余地は全くありません。
逆に、どんなに大きな、罪や失敗を犯そうが、罪責、負債があろうが、それが選びから洩れる理由にはならない、と云う事でもあります。
その確実な証拠の聖句が「聖なる、傷のない者にしようとされた」との文言です。
「聖なる、傷のない者」を選んだのではないのです。
旧約の時代での、生贄となる動物の条件は「聖なる、傷のない」ものでした。
細心の注意が払われ、条件に合致する動物が、生贄として選ばれましたが、「聖なる、傷のない」もの、完全な生贄であるイエス様の贖罪の働きによって、私たちは「聖なる、傷のない者」と、見做されたのです。
別の言い方をするなら、イエス様の持っておられる「聖なる、傷のない」状態が、私たちに転嫁されたのです。
更に別の言い方をするならば、「聖なる、傷のない」イエス様に似た者とされる、と云う事です。
何故、「聖なる、傷のない者」にするのでしょうか。
答えは5節にあります。
1:5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
「ご自分の子にしようと」するためであり、ご自分の民にするために、私たちを選ばれたのです。
その選びは、「イエス・キリストによって」であり、「イエス・キリストを通して」です。
但し、「私たちを・・・ご自分の子にしようと」するため、とは言っても、実子ではありません。
謂わば、養子縁組ですが、養子であっても、実子と変わらぬ権利があり、実子と同等の特権に与るのであり、実子と全く遜色はありません。
主なる神様の子にさせて頂けるのであり、また、「私たちを・・・ご自分の子にしようと」は、「ご自分に似た者にしようと」の意味で理解する事が出来ます。
これは、創造の経緯の、人間を造る時の、主なる神様の思し召しとも合致します。
創世記1章26節、2017版は2ページ、第3版も2ページ、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」です。
そして、「私たちを・・・ご自分の子にしようと」する理由は、6節です。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配する」と同時に、
主なる神様の「恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」。
私たちを、主なる神様を誉め讃える者とするために、選んだのであり、私たちが、主なる神様を誉め讃える者となる事こそが、主なる神様中心の生き方なのです。
この「恵み」ですが、神学者の間では、二種類が考えられ、議論されているようです。
一は、賜物としての恵みであり、わたしたちに生じた結果です。
主なる神様が、恵みによって、私たちを慈しまれる恵み、であり、カソリック教会が支持する考えだそうです。
二は、源泉としての恵みであり、わたしたちに向かって働く、主なる神様のご好意です。
主なる神様が、恵みを働かせて、私たちを慈しまれる恵み、であり、プロテスタント教会の多くが支持する考えだそうです。
賜物か、源泉か、ですが、違いを模索し、違いを詮索し、違いを審議し、二者択一を迫るのではなく、どちらも主なる神様から発するのであり、恵まれる資格も権利もない人間を、恵まれるのであり、感謝して恵みを受け取りましょう。
私は、そんな資格も権利もない、と言って遠慮、辞退するのは、敬虔なのではなく、神様に対する不敬の極みなのではないでしょうか。
私は、そんな資格も権利もない、しかし、畏(かしこ)まり、受け取り、感謝するならば、神様に対する最高の尊敬、賛辞なのではないでしょうか。
「恵み」によって「滅び、裁き、刑罰から救われ」、主なる神様を「ほめたたえ」るのであり、「恵み」は、決して、安心や平安などを得られる事や、恐れや不安からの解放などの、心の状態なのではなく、また、病気治癒などの願いの成就でも、人間関係の改善や和解などでもありません。
「恵み」は、主なる神様から離れてしまった人間が、主なる神様の下に戻って、主なる神様を讃えるため、礼拝するためであり、それ以外の何のためでもありません。
【適応】
主なる神様を讃えるために、礼拝するために、主なる神様によって選ばれたのです。
主なる神様を認めず、無視し、罪の蔓延るこの世で、主なる神様を讃え、礼拝するのは、愚かな事として揶揄の対象となるでしょうし、また、主なる神様を中心とした生き方を心がける事は、狂信的だと罵られ、蔑まれる事にも繋がるでしょう。
状況によっては、非国民と罵られ、外国の宗教を信じ、喧伝(けんでん)するのはスパイに違いないと疑われ、非常な不利益を被らざるを得ない時代もありました。
パウロとは違う形で、国民性や文化に縛られ、強い影響を受けている私たちですが、主なる神様を讃え、礼拝するために、主なる神様によって選ばれたのであり、主なる神様の子とされるために、主なる神様によって選ばれたのであり、主なる神様の御国を相続するために、主なる神様によって選ばれたのです。
あなたがたや私たちが、主なる神様に選ばれたのは、私たちやあなた方のためではありません。
信仰を持ったがために、平安に生きられるようになったとか、落ち着いた生活になったとか、人との争いが少なくなったとか、人を赦せるようになったとか、死後の世界の存在を知り、病気や死を恐れなくなったとか、などなどのためでは、断じて、決してありません。
ある意味、逆であり、窮屈になったと感じたり、制限が増えたと感じもしましょう。
何も知らなかった方が、気楽で良かった、などの感想を聞く事もありますが、私たちが、主なる神様に選ばれたのは、創造の目的に、本来の姿に、真の姿に戻るためであり、主なる神様によって造られた人間が、主なる神様に仕えるためです。
先に紹介した創世記1章26節を再度、ご確認願いましょう。
2017版は2ページ、第3版も2ページ、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう」。
一人一人が、主なる神様によって選ばれたのであり、一人一人が、イエス様の十字架、贖いと執り成し、聖霊様の働きによって、救われたのであり、ここに、人間の一切の働きは、個々人の能力、価値などなどは、或いは努力、精進、訓練、忍耐などなどは、関係ありません。
私たちは、家族、友人、知人のために祈り、また働きかけますが、その祈りによって、或いは、働きによって救われるのでは決して、断じてありません。
徹頭徹尾、全て、主なる神様の選びであり、クリスチャンホームだから救われるとか、信仰教育の成果で救われるのでは決して、断じてありません。
クリスチャンホームであるとか、信仰教育の有無は、影響を与えはしますが、徹頭徹尾、全て、主なる神様の選びです。
主なる神様に選ばれる事が、全てのスタートなのです。
ですから、クリスチャンホームに生まれた事が幸福なのでも、クリスチャンホームに生まれなかった事が不幸なのでも、信仰深い両親により、信仰教育を受けられた事が幸運なのでも、不信仰な両親で、信仰教育を受けられなかった事が不運なのでもないのです。
家族、友人、知人の救いのための執り成しの祈りは、家族、友人、知人が、主なる神様の選びに、応答するように、執り成し祈るのであり、イエス様と聖霊様が、家族、友人、知人に働かれ、家族、友人、知人が、主なる神様の選びに、応答するように、執り成し祈るのです。
家族、友人、知人の救いのための執り成しの祈りは、家族、友人、知人が、主なる神様を讃える者になるためであり、内憂外患の中でも、どんな状況でも、主なる神様を信じ続けるためであり、家族、友人、知人の今生の幸せ、病気治癒のためではなく、クリスチャンとして穏やかな生活を送るためなどではないのです。
これは、自分自身に当て嵌めても同じです。
主なる神様の選びに応答し、主なる神様を讃える生涯を歩み続けようではありませんか。
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