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                     2019-11-24礼拝

聖書箇所:使徒の働き109節から16

説教題:揺すぶる神

10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。

10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。

10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。

10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。

10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。

10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

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                               2019-11-17礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙120節~21

説教題:「御子キリストの権威を知る」

【導入】

10月第1週からエペソ人への手紙をテキストにして、御ことばに耳を傾けて来ました。エペソ人への手紙の導入部分、1節から14節までには、父なる神による選びについて、御子なるキリストによる贖いについて、聖霊なる神による保証ついて、語られており、三回に分けてお話させて頂きました。

しかし、エペソ人への手紙の11節から14節は、読点で繋がった一つの文章であり、ここは、三つの神の、三つの働きのお話ではなく、唯一の独りの神の、三つの働きであると、お話させて頂きました。

今日はこの前提を踏まえた上で、「御子キリストの権威を知る」と題して、御ことばに耳を傾けたいと思います。

父なる神と、御子なるキリストと、聖霊なる神は同質であり、差異はありません。

働きは違いますが、能力の差が、働きの違いとなったのではありません。

罪人である人間を救うための必要性から、神の義と、愛とを、完全な形で現すために、神の義と、愛とを、人間に知らしめる必要性から、父なる神と、御子なるキリストと、聖霊なる神として現れたのであり、有限の人間から見た時、全知でない人間から見た時、差異を感じましょうが、父なる神と、御子なるキリストと、聖霊なる神の本質は一であり、栄光も一です。

パウロは、御子キリストの栄光を、人間が考え出した神々を信じるエペソの人々に、数多の神々を信じる小アジア地域、現在のトルコ地域の人々にこの真理を伝えるべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

人は、自ら確信した事しか、自信を持って語れません。

他人から仕入れた、確信のない事は、自信を持って語れません。

「講釈師、見て来たような嘘を言い」と申しますが、上辺を繕うような話は出来るでしょうが、核心を突いた質問や疑問に、明確に答える事は出来ないでしょうし、しどろもどろな、辻褄の合わない、あやふやな応答しか出来ないでしょう。

勿論、神の本質について明確に答える事は、有限な人間には、罪を持つ人間には無理な相談なのですが、それでも、信じて語っているか、信じてはおらず、台本を読むように語っているかは、話の端ばしに滲み出て来るのではないでしょうか。

パウロは、自ら確信した事柄を、エペソの人に勧めるのですが、パウロが確信した事とは、御子キリストの偉大さと、キリストに於ける希望と、キリストの栄光ですが、決して夢物語や、空想の産物ではない事を、大胆に語ります。

その確信の根拠は「」です。

」が「その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」たのだと語ります。

よみがえり」は、摩訶不思議な事であり、奇跡中の奇跡ですが、創造主なる神様にとっては、造作もない事です。

何もない、“0”から、宇宙万物を創造されたのであり、その力で、死んでしまった身体に、命を与える事は、容易(たやす)い事です。

聖書中には、よみがえりの記事が、幾つも紹介されています。

列王記第一、17章8節には、ツァレファテの寡婦の息子をよみがえらせた出来事が、列王記第二、48節には、シェネムの裕福な女の息子をよみがえらせた出来事が、マタイの福音書918節には、会堂管理者の娘をよみがえらせた出来事が、ルカの福音書712節には、ナインの寡婦の息子をよみがえらせた出来事が、ヨハネの福音書111節には、ベタニヤのラザロをよみがえらせた出来事が、記されていますが、このよみがえりは、この世の、肉の身体のよみがえりであり、その後、再び死に、墓に葬られ、朽ち果ててしまいました。

しかし、キリストの「よみがえり」は、「永遠の生命」を与えられての、栄光のうちの「よみがえり」であり、しかも、只、地上によみがえらせたのではなく、天に引き上げ、神ご自身の「右の座」に着かせられたのです。

右の座」とは、「栄光の座」であり、名誉ある座であり、褒め讃えられる座です。

「力、支配の座」であり、神の御子のみが許された座であり、被造物を支配するための座です。

「楽しみの座」であり、父なる神との親しい、深い、密な交わりの座なのです。

この「右の座」は、神の子にのみ、許された座であり、御使いといえども、決して座る事の出来ない座なのです。

1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

支配、権威、権力、主権」とは、当時の、ユダヤ教の思想で、天使の階級を表し、意味した言葉と考えられており、パウロは、御子キリストが、すべての御使いよりも隔絶した上位に座する事を現しているのです。

勿論、地上でも、御子キリストの「支配、権威、権力、主権」は、ユダヤ教の聖職者たち、異邦人の為政者たち、人間の権力一般、あらゆる栄誉、威厳を、遥かに凌駕する、と解する事も出来るでしょう。

私たち、人間は、時間、空間に支配され、遮られ、抜け出せず、現在の事も、未来の事も、過去の経験と体験を手掛かりとして、何の確証もなく、暗中模索、試行錯誤を繰り返すしかないのですが、父なる神様は、御子キリストに「支配、権威、権力、主権」を与え、御子キリストは、被造物を完全に従え、最善に導き、「今の世ばかりでなく、次に来る世においても」父なる神様を誉め讃えさせるのです。

しかも、一時的に、ある一定の期間の「支配、権威、権力、主権」の行使ではなく、「支配、権威、権力、主権」は永遠に、であり、この世は言うに及ばず、御国でも「支配、権威、権力、主権」を行使し、父なる神様を誉め讃えさせるのです。

【適応】

パウロは「御子キリストの権威」と、御子キリストに権威を与えた、「父なる神の偉大さ」とを見よ、知れ、と叫ぶのです。

「父なる神の偉大さ」は、人間の考え出した数多の神々には持ち得ない偉大さであり、「御子キリストの権威」は、この世の偶像には持ち得ない支配、権威、権力、主権」ですが、この「支配、権威、権力、主権」は、御子キリストだけに与えられたのものではないのです。

今日の説教題を御子キリストの権威を知る」としましたが、「死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」られるのは、御子キリストのみならず、であり、また、御子キリストに与えられる支配、権威、権力、主権」は、御子キリストのみならず、なのです。

それは、御子キリストの贖いによって、主なる神の子と見做された神の民には、主なる神と養子縁組されたキリスト者には、御子キリストの「支配、権威、権力、主権」が与えられるのであり、「神の右の座」が約束されているのです。

これこそが、18節「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」の本当の意味なのです。

御子キリストの権威を知る」とは、即ち、「キリスト者に与えられる権威を知る」であり、与えられる能力も、資格も、権利もない者が、塵に等しき私たち罪人が、只々、主なる神様の憐れみによって、御子キリストの贖いによって、主なる神様の子と見做され、御子キリストの持つ支配、権威、権力、主権」が与えられるのです。

なんと素晴らしい、奇しい、比類のない、主なる神様のご計画でしょうか。

益々、主なる神様を愛し、御子キリストを慕うしかありません。

教会では、この主なる神様のご計画と、御子キリストの贖いの業が語られるのであり、礼拝では、この主なる神様と、御子キリストを拝するのです。

即ち、主なる神様のご計画と、御子キリストの贖いの業が語られる場が、教会なのであり、主なる神様と、御子キリストを拝する事が、礼拝なのであり、特定の場所が教会なのでも、教会だけが礼拝の場なのでもない事は明らかでしょう。

勿論、好き勝手な場所で、好き勝手な方法で礼拝を献げてはなりませんが、主なる神様のご計画と、御子キリストの贖いの業が語られるなら、その空間は教会と化すのであり、主なる神様と、御子キリストを拝するならば、主なる神様に受け入れられる礼拝となるのです。

一方、主なる神様のご計画と、御子キリストの贖いの業が語られなければ教会ではなく、主なる神様と、御子キリストだけを礼拝するのでなければ、礼拝ではない事はしっかり覚えておかなければなりません。

繰り返しますが、教会の存在意義は、これに尽きます。

どの教会にも、創立記念日がありますが、その教会が、主なる神様のご計画と、御子キリストの贖いの業を途絶える事なく語り続けて来たか、主なる神様と、御子キリストだけを礼拝して来たかを問わなければなりません。

主なる神様が建てられた教会として、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた者として、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者として、父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様の、三重の助けによって、「主なる神様の偉大さ」と「御子キリストの権威」を正しく、深く知り、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を正しく、深く知り、父なる神様、御子キリスト様、聖霊なる神様との深い交わりから得られる、豊かな信仰生活を送ろうではありませんか。

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                               2019-11-10礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙115節~19

説教題:「主なる神の偉大さを知る」

【導入】

10月第1週からエペソ人への手紙をテキストにして、御ことばに耳を傾けて来ました。エペソ人への手紙の導入部分、1節から14節までには、父なる神による選びについて、御子なるキリストによる贖いについて、聖霊なる神による保証ついて、語られており、三回に分けてお話させて頂きました。

しかし、エペソ人への手紙の11節から14節は、読点で繋がった一つの文章であり、ここは、三つの神の、三つの働きのお話ではなく、唯一の独りの神の、三つの働きであると、お話させて頂きました。

今日はこの前提を踏まえた上で、「主なる神の偉大さを知る」と題して、御ことばに耳を傾けたいと思います。

先にお話させて頂きましたが、エペソのみならず、世界中の多くの宗教は、多神教です。

頂点に君臨する最高神は、絶対的権力と、特殊特別な能力があり、他の神々を従えますが、時に反乱に遭い、弱点を突かれて、撤退や敗北を余儀なくされる、などの場面もあり、また、スキャンダラスな場面が描かれたりしてもいます。

本物の神であるなら、撤退や敗北など、スキャンダルなどあり得ない事なのではないでしょうか。

神話の域を出ないのであり、人間の理想を投影し、人間世界の現実を映しているのに過ぎない事は明確でしょう。

しかし、これらの神話は、人間の生活や考え方に深く関わっており、その呪縛から抜け出す事は簡単な事ではないのです。

パウロは、多神教の影響を強く受けたエペソの人々に、聖霊なる神様から啓示を受けたパウロは、声の限り、知恵と知識を総動員して、時間の赦す限り、伝え、周辺地域の人々に、回覧される事を願ってこれらの書簡を記したのです。

【本論】

新改訳2017版 1:15 こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、

1:16 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。

パウロの姿は、牧会者の姿でもあります。

パウロにとっての喜びは、牧会者にとっての喜びは、一に、信徒の、イエス様に対する信仰における霊的進歩、成長です。

言い方を変えると、イエス様に似た者となる事であり、イエス様なら、どうされるか、が基本的な行動指針となる生活の確立です。

デボーションの励行、聖書通読の励行などなどが必要不可欠であり、聖書の教えの深いところを理解し、生活に生かす事です。

聖書の教えの、字面(じづら)通りの実行ではなく、聖書が意味するところを理解し、生活に適応する事です。

聖書の教えは、2000年以上も前の時代に、パレスチナ地域で記されましたから、意味不明となってしまった教えや、規則が現代では適応出来ない事や、反社会的な場合もあり得ましょうが、「神を愛し、人を愛する」との原則に照らし合わせて判断、行動すれば、逸脱は防げるでしょうし、イエス様の生き方に近づく事が出来るでしょう。

二に、隣人愛における健全な成長、実践です。

隣人に関心を持つ事であり、関心を持ち続ける事です。

「愛する」の反対は、「憎む」事ではなく、「無視する」事です。

憎まれる事は、喜ばしい事では有りませんが、まだ、望みが有ります。

少なくとも、関心があるからです。

しかし、「無視する」となると、問題です。

相手の存在を認めず、全く相手にしないならば、或いは、人間性を無視し、物のように扱うならば、これ程悲しい事はないのではないでしょうか。

パウロたちの生きた時代は、奴隷制度、厳格な身分制度が存在した時代ですが、その中で生きる時、第一歩は、制度の中で最大限の「隣人愛」を示す事ではないでしょうか。

奴隷制度の廃止、身分制度の撤廃は、次の段階の課題でしょう。

奴隷ではありますが、「人間」として扱い、同じ「主イエス様」を信じ従う者として、クリスチャンとしての交わりを持つのです。

ここでも、「神を愛し、人を愛する」原則に照らし合わせて判断、行動する事が肝要です。

多神教の根強いエペソで、パレスチナで、奴隷の存在が当たり前のエペソで、この時代で、エペソのクリスチャンたちは、イエス様に対する信仰と、隣人愛の点で、問題がなかっただけでなく、他の地域の模範となっており、その事実が、遠く離れたローマにいる、獄中のパウロにまで届いていたのです。

人間は社会的な生き物であり、「朱に交われば紅くな」り、「長いものには巻かれろ」的な生き方に流れ易く、「出る釘は打たれる」を嫌う生き方に流れ易い生き物です。

しかし、エペソのクリスチャンたちは、多神教的風潮、偶像礼拝に染まらず、奴隷制度、身分制度に流されず、キリストに対する信仰を持ち続け、キリストの愛を実践していたのであり、それは、パウロの教えが、エペソのクリスチャンたちに留まっていたからであり、祈りの度に、この事実を思い出し、主なる神様に感謝をしていたのです。

牧会者の喜びは、教会の喜びは、信徒が信仰を持ち続ける事であり、教会を離れない事です。

加えて、信徒の家族が救われた、と云う報告を聞く事は、無上の喜びです。

そして、残念なのは、教会に来ていない、との報告であり、信仰を捨てた、との噂を聞く事です。

教会が、信仰的な成長の場となっていない事、教会にこの世的な価値観が蔓延し、この世の縮図になっている時です。

効率的か否か、損得が論議の中心になり、教勢や会計収支が関心ごとであり、救霊の働きが疎かになっているなら、教会と呼べるでしょうか。

喩え小さな群れでも、キリストに根差す信仰と愛が満ちるなら、その教会は主なる神様から大きな祝福を受ける事でしょう。

牧会者は、牧会者でなければ出来ない働きに、説教、信徒の霊的ケアに取り組むべきであり、教会は、牧会者が力いっぱい、精一杯、がっぷり、説教、信徒の霊的ケアに取り組める体制をサポートしなければならないのです。

パウロは決して喜ばしい環境に置かれてはいませんでしたが、訪ねてくる人々を迎え、信仰上の相談に乗り、霊的な問題を抱え、困っている教会を手紙を通して指導したのであり、それらの働きが、実を結ぶのを見て、主なる神様に感謝を献げ得たのです。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ここで「主イエス・キリストの神、栄光の父」との表現から、「父なる神」と「子なるイエス様」とに、上下関係があるとか、神性に差異があると考える学者や、立場がありますが、ここの意味は「主イエス・キリストが告知する神、主イエス・キリストが啓示する栄光の父」の意味であり、「父なる神」と「子なるイエス様」とは同格であり、神性に差異はありません。

知る」と訳されているギリシャ語は、透徹した、厳正で正確な、しかも、体験的な知識を意味する単語が使われており、既に神を知っている、キリスト・イエスにある忠実な聖徒たちであるが、更に深く、広く、詳細に、体験的に主なる神様を知るために、「御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈るのです。

主なる神様の事を深く、広く、詳細に、体験的に知る事は、とりもなおさず、より豊かな信仰生活へと導く秘訣だからです。

知恵」とは、一般的な啓明の賜物であり、誰にでも与え得る賜物であり、「啓示」とは、神聖な奥義を洞察する特別な賜物であり、牧会者には必要不可欠な賜物でしょう。

そして「神を知る」事は、「神と自分との関係を知る」事であり、それは「人の、人たる所以(ゆえん)を知る」事、或いは「自分を知る」事です。

神を知る事がなければ、人は己を神とします。

「神」との表現が大げさであるなら、「自己中心」と言い換えても良いでしょう。

神を知る事がなければ、人は思い上がり、傲慢になり、鼻持ちならぬ怪物になるのは必至でしょう。

神は都合の良い召使になり、偶像が蔓延る事になるのです。

人が人としての分を弁え、謙遜になるためには、神を愛し、人を愛するためには、神を知り、神との関係を知らなければならないのです。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

心の目」とは、単なる心情の意味ではなく、「知、情、意」が複合的に補完し合う、の意味であり、知性において、感情において、意志において、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」、「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」、19節「信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、「知恵と啓示の御霊」の力、働きによって、明確に理解するのです。

先ずは、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」ですが、第一に、復活と不死です。

死んでいた者は蘇り、生きていた者とともに、不死を着ます。

第二に、キリストのかたちに変えられる事です。

滅び行かなければならない肉の身体から、新しい身体に変えられ、キリストに似たものとされます。

第三に、御国の相続における、永遠性です。

主なる神様と養子縁組がなされ、神の子として神のものを全て、永遠に相続します。

第四に、来るべき御国において、キリスト共に御国を治める事です。

主なる神様と養子縁組がなされ、神の子として御国を永遠に支配するのです。

次に「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」ですが、「受け継ぐもの」と訳されているギリシャ語の原意は「彼の相続財産」であり、「神がくださる物」の意味です。

「神がくださる物」とは、主なる神様が造られたものであり、この宇宙、世界の全てであり、被造物の全てであり、イエス様の贖いにより、被造物は本来の栄光を取り戻し、被造物の全が主なる神様を讃えるのです。

否、被造物の存在自体が、主なる神様の栄光を現すのです。

勿論、被造物の最高峰に位置する人間が、その栄光の筆頭である事は言うまでもありません。

1:19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を、パウロは言葉で、文字で表現しようとしますが、言葉では説明する事の出来ない、言葉では言い表せないもどかしさを感じて、「神の大能の力の働きによって・・・知ることができますように」、とまとめますが、これは大切な態度です。

私たちは、世の人々が、家族や友人知人が主なる神様を知るように、信じるように、誠意を尽くし、熱意を持って、口角泡を飛ばすようにして説得を試みます。

これは非常に貴重ですし、悪い事ではないのですが、私たちの誠意や熱意に反比例するように、相手には届かない事や、理解されない事も多いようです。

相手との関係性を頼りに、相手の人格を認め、理解してくれると確信してお話しても、逆に反発されてしまう事も、関係が悪くなってしまったりする事も、少なくありません。

語るべき事を語ったならば、伝えるべき事を語ったならば、後は主なる神様に委ね、「神の大能の力の働きによって・・・知ることができますように」、とするのが、分を弁えた態度なのかもしれません。

十二使徒に勝るとも劣らない大伝道者、大説教者のパウロでさえ、なのですから。

【適応】

主なる神様の偉大さ」と、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を、罪を持つ人間には正確に言い表し、間違いなく伝える事が出来ず、罪を持つ人間には正しく受け止め、理解する事は、無理な事なのかも知れませんが、パウロは、否、聖書は、「神の大能の力の働きによって・・・知ることができ」る、と言うのです。

特に、御子イエス様の贖いに与った者は、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者は、父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様の、三重の助けがあるのであり、正確ではないにしても、間違いなくではないにしても、完全にではないにしても、かなりの精度で、必要充分に「主なる神様の偉大さ」と、私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」を知り得るのです。

そして、ここに、神を愛し、人を愛する上で、との但し書きをつけると良いでしょう。

或いは、信仰生活を送る上で、牧会者としての働きを全うする上で、との但し書きをつけるべきでしょう。

主なる神様の偉大さ」と、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を知る事は大切ですが、幼子が、奥義を知っていても、宝の持ち腐れ、であり、大の大人が、知っていなければならない事を知らなかったならば、恥ずかしい事でしょう。

知るべき事、知っておくべき事は、信仰暦によっても変わりますし、立場によっても変わるでしょう。

知る必要のない事は知らなくて良いし、知る必要はありません。

何にでも興味を示し、知りたがろうとする癖があるならば、厳に慎むべきでしょう。

主なる神様の偉大さ」を知る上で、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を知る上で、間違った解釈、私的解釈は起こりうる問題であり、大切な、重大な、永遠の課題ですが、御子イエス様の執り成し、聖霊なる神様の助けにより、間違いや誤解から守られ、勘違いや思い込みからも守られます。

主なる神様の偉大さ」を知る事は、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を知る事は、大きな効果をもたらします。

信じる対象を理解出来るので、迷いや疑いから守られ、確信や安心に繋がり、平安や喜びを保持し続ける事が出来るからです。

主なる神様の偉大さ」を知るのは、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を知るのは、世の人、他の人と比べて、優位に立つためではなく、自身の信仰の確立のためであり、神と人とを愛するためです。

主なる神様の選びに応答し、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた者として、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者として、父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様の、三重の助けによって、「主なる神様の偉大さ」を正しく、深く知り、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」を正しく、深く知り、父なる神様、御子イエス様、聖霊なる神様との深い交わりから得られる、豊かな信仰生活を送ろうではありませんか。

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                         2019-11-3礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙113節~14

説教題:「聖霊なる神による保証」

【導入】

10月第1週からエペソ人への手紙をテキストにして、御ことばに耳を傾けて来ましたが、今日は「聖霊なる神による保証」と題して、御ことばに耳を傾けたいと思います。

さて、このエペソ人への手紙ですが、第1回目は、11節から6節までをテキストとして「神による選び」と題して、御ことばを取り次ぎました。

2回目は、7節から12節までをテキストとして「主なる神の御子イエス・キリストによる贖い」と題して、御ことばを取り次ぎました。

そして今日、第3回目は、13節から14節までをテキストとして「聖霊なる神による保証」と題して、御ことばを取り次ぎますが、実は、11節から14節までは、句点がありません。

読点だけで繋がっている、一つの文章なのです。

すると、動詞や修飾詞などが、どの単語に掛かっているか、などの問題が起こって来ましょうから、読み方も、意味も変わって来ましょうが、数多の学者が研究し、何度も論議を重ねて、句読点を付し、今の形に訳されたのであり、意味において、伝えたい事柄において、大きな齟齬はない、と考えてよいでしょう。

それでも、句点がない事を知っているのは、大切な事だと思います。

主なる神に付いて語り終え、次に御子キリストに付いて語り終え、最後に聖霊に付いて語っているのではなく、実は、一つの神に付いて語っているのだ、と云う事です。

「主なる神」「御子なるキリスト」「聖霊」は、別の神ではなく、一つの神である事を示しているのが、1節から14節が一つの句で記されている理由なのです。

エペソのみならず、世界中の宗教の多くは多神教です。

最高神を頂点に置き、序列、ヒエラルキーが構築されています。

夫婦、親子などの相関関係もあり、人間社会の縮図、と云っても過言ではありません。

多神教の思想は、文化、社会習俗と密接な関係にあり、広く、深く、強く根付いていますから、それを払拭するのは、簡単な事ではありません。

否、人間が社会性を持つ生き物である限り、不可能といっても過言ではないでしょう。

人間は、独りでは生きられない生き物であり、社会の中で、助け合って、支え合って、協力し合って生きるしかないからです。

だからこそ、多神教に対抗するためにも、「教会」と訳されている「エクレシア」、即ち、「群れ」の存在意味は大切なのです。

唯一の神を信じる「群れ」、「エクレシア」、「教会」ついての「聖霊なる神」の役割、働きについて、聖書から見ていきましょう。

【本論】

新改訳20171:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

「イエス・キリスト様」のお働きは、私たちの主なる神様に対する罪の贖い、でした。

私たちの、主なる神様に対する罪の罪責、負債、損害などなどを、帳消しにするのが、贖いの意味でした。

旧来は、私たちの、主なる神様に対する罪の罪責は、動物の命を絶つ事、動物の血を流す事で、贖いましたが、この贖いは、過去と現在の罪科に対してしか、効果はありません。

これから犯してしまう罪科に対しての贖いは、また、新たに動物の命を絶ち、動物の血を流さなければなりませんでした。

それでも、完全に贖う事は出来ず、これを一生涯、繰り返し続けなければならなかったのです。

この、永遠の課題とも云うべき、動物の血による贖いの不完全性の問題を解決したのが、イエス・キリスト様の身代わりによる贖いの業です。

全く罪科を持たない神の御子が、人間の、主なる神様に対する罪の生贄、犠牲になる事で、私たちの、主なる神様に対する罪の罪責は、完全に、永久に、贖われるのです。

贖われる事は、罪科がない、と見做される事であり、創造者なる神様の養子になる、子と見做される、のであり、当然の結果として、創造者なる神様の財産を相続する事になるのです。

即ち、「イエス・キリスト様」の贖いの業によって、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャンも、創造者なる神の子と見做され、御国を受け継ぐ者となるのです。

但し、これには一つの条件があります。

真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じ」る事です。

言い方を変えると、「イエス・キリスト様の贖いの業」を信じる事です。

私たちの、主なる神様に対する罪の罪責を、動物の血によってではなく、良い行いや節制によってでもなく、修行や訓練によってでもなく、忍耐や努力によってでもなく、礼拝行為や献げ物によってでもなく、唯々、イエス・キリスト様の贖いの業によるとの信じるのであり、救いの御業によると信じるのです。

イエス・キリスト様の贖いの業は、一方的な恵みです。

私たちに、何か、良いところがあるとか、贖ってあげると、役に立つとか、ではありません。

創造者なる神様は、哀れみ深く、情け深く、愛に富みたもうお方なので、良いところなど一つもなくても、全く役に立たなくても、多大な犠牲を払われ、贖われるのであり、最愛の御子イエス様を、惜しみなく差し出されるのです。

このことをパウロは繰り返し、強調するのですが、繰り返しが過ぎる事も、強調し過ぎる事もありません。

他に手段、方法がないのですから、何度繰り返しても、強く強調しても当然です。

約束の聖霊によって証印を押されました」の「証印」とは、一般的には、所有権を示す印であり、品質の正真正銘性を確証する印であり、安全性を保障する印です。

当時、手紙などに用いられた封印や印章を意味する言葉であり、記された内容の真正性を証明する印であり、国王の書簡や公文書である事を証明するための印でした。

ここでは、信じた者の内に、「聖霊」が住んでおられる事を保証し、その信者が救われた事を保証し、その信者が神の子とされた事、神の民とされた事を保証します。

そして、この保証は、信じると同時に起こります。

信じると、その瞬間、間髪を入れず、聖霊が住むようになり、完全に救われ、疑う余地もなく神の子とされ、遅滞なく神の民に加えられます。

当然、御国を相続する権利も発生します。

試用期間は存在せず、クーリングオフもなく、解除、破棄される事もありません。

そして、「証印を押されました」が重要です。

一方的な主なる神様の恵みとして「証印」が押されるのです。

その「証印」は、人間の目には見えませんが、「証印を押され」たようには見えないかもしれませんが、「聖霊」なる神様「によって証印を押されました」なのであり、創造者なる神様ご自身が保障されるのであり、疑いの余地は全く有りません。

客観的な事実なのであり、明確な事実なのです。

そして、「証印を押され」た者は、それを意識出来るのであり、実感出来るのであり、深い喜びや平安が心を占める事でしょう。

しかし、罪の力は強く、喜びや平安が揺るがされる事も多々あるでしょうし、救われた事に疑いを抱く瞬間が訪れるかも知れませんが、「聖霊」なる神様「によって証印を押されました」なのであり、「聖霊」が住んでおられる事、その信者が救われた事、その信者が神の子とされた事、神の民とされた事は、揺るぐ事はありません。

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

保証」は、当時の商人たちの業界用語からの転用のようです。

一般的には、売買契約の手付金を意味し、時が来れば、全額を支払う約束の上での商行為です。

聖霊の内住は、私たちの救いの確信ばかりではなく、救いが完成する時に、信者が御国を受け継ぐ事を保証します。

時至れば、御国の全てが相続され、手渡されるのです。

動揺し易い私たちの信仰に対し、創造者なる神様は、このような恵みを与えてくださるのです。

私たちが贖われて神のものとされ」の原文は、「獲得物の贖いへ」であり、ちょっと難解な部分ですが、その意味するところは、「私たちが贖われ」る事と、「神のものとされ」る事とは、同時進行であり、同じ意味だ、と云う事です。

私たちが贖われ」る、と云う事は、「神のものとされ」る、と云う事であり、「神のものとされ」る、と云う事は、「私たちが贖われ」る、と云う事なのです。

私たちは、御子の血による贖いに与った者であり、神のものとされた者ですが、尚、救いの御業の完成は、贖いの御業の完成は、御子イエス様の再臨の時を待たねばなりません。

聖霊の証印は、聖霊による保証は、最終的な救い、贖いの完成の保証なのです。

聖霊の内住は、私たち信仰者に寄り添い、慰め、励まし、支え、助け、導きますが、それ以上に大切、重要なのは、救いの保証であり、贖いの保証だ、と云う事なのです。

この世で生きる限り、患難辛苦があり、誤解、誹謗中傷があって、落ち込み、崩折れ、疲労困憊する事は引きも切らないでしょうが、尚、救いと贖いとが、補償されており、それが微塵も揺らぐ事はないのです。

パスカルは次のようなことばを述べています。

曰く、「人は生来、信じ易くして、信じ難く、小心であるかと思えば、大胆である」。

そんな人間が、信じ続け、確信し続けられるのも、主なる神様の恵みである、聖霊様の内住による、保証によってなのです。

そして、7節「その血による贖い、背きの罪の赦しを受けてい」るのは、8節「あらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ」るのは、9節「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」ったのは、11節「御国を受け継ぐ者とな」ったのは、即ち、贖いの究極の目的は、聖霊による証印、保証は、「神の栄光をほめたたえるためです」。

贖われて、主なる神のものとされ、聖霊による証印が押され、聖霊による保証がなされたのは、「神の栄光をほめたたえるためです」。

これが、唯一の主なる神を信じる「群れ」、「エクレシア」、「教会」の使命です。

【適応】

神の栄光をほめたたえ」るのが、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者、「群れ」、「エクレシア」、「教会」の唯一無二の使命ですから、「群れ」、「エクレシア」、「教会」が、世の人々を教会に集めるために、世に迎合し、カルチャークラブ化していたり、サロン化していたり、同好会の様相を呈していたり、旧交を温める場などと化していたならば、即ち、世俗化し、「神の栄光をほめたたえ」る場となっていないならば、教会の存在意義はありません。

存在意義がないどころか、世に害毒を振りまく醜悪な存在でしかありません。

カルチャークラブ、サロン、同好会、旧交を温める場などは、世に任せておけば宜しい。

「群れ」、「エクレシア」、「教会」は、独自の価値観、即ち神の栄光をほめたたえ」ることに突出し、「神の栄光をほめたたえ」る事をのみ、追及すべきなのです。

すると、必然的に、「神の栄光をほめたたえ」るのに不必要な事物は、排除する事になります。

装飾の類、掲示物も、吟味しなければなりませんし、私たちの服装も、体調も吟味しなければなりません。

神の栄光をほめたたえ」るに相応しい健康管理、「神の栄光をほめたたえ」るに相応しい生活習慣、「神の栄光をほめたたえ」るに相応しい環境などなど、調整しなければならない事を数え上げたならきりがないでしょうが、気が付いた事から、変えられるところから変えていけば、「神の栄光をほめたたえ」るに相応しい、整えられた「群れ」、「エクレシア」、「教会」となるでしょう。

また、「神の栄光をほめたたえ」る場が、教会堂限定ではない事も明らかになりましょう。

何時でも、何処でも、どのような状況ででも、「神の栄光をほめたたえ」るのであり、言い換えるならば、生き方そのもので、「神の栄光をほめたたえ」るのです。

教会に来る事が目的になってしまうと、教会に来る事で疲れてしまい、安心して寝てしまうって事になりかねません。

更には、教会生活と、家庭や社会や会社での生活との切り分け、ダブルスタンダード、教会生活と、この世的な生活とを切り替えるような二重生活になってしまうかも知れません。

そんな生き方は、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者として相応しいでしょうか。

勿論、完全にならならければ、救われない、のではありません。

聖霊の証印を受けた時点で、救いは、贖いは確実なのですが、聖霊に保証された者としての生き方が期待されている事もまた事実です。

「日本同盟基督教団の教会教育 現状と提言」、「成人を対象とした教会教育」の中から、困難を覚える事を幾つか抜粋、紹介しますと、「忙しく、疲れている人が多い」、「世の中の常識を捨てる事が難しい」、「礼拝よりも他の事を優先する」、「信仰歴がある程度長い方や、他の教会から転入会してきた方々への教育。信仰や教会観が凝り固まってしまっている場合が見られる」、「古くからの信徒が模範にならないことが多い」、などなどの意見が上げられていましたが、これらの意見が、私たちに当てはまる事の無いようにしたいものです。

主なる神様の選びに応答し、主なる神様の独り子、御子イエス・キリストの血によって贖われた者として、聖霊の証印を受け、聖霊に保証された者として、主なる「神の栄光をほめたたえ」る事を優先する信仰生活を歩み続けようではありませんか。

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