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                                                                   2019-12-29礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙211節~18

説教題:「キリストにあって一つ」

【導入】

2019年の流行語大賞は、「ONE-TEAM」に決まったそうです。

ラグビーの、スポーツの専門用語ではありませんが、国籍を越え、人種を越え「一つになって」協力する姿は感動を呼び、共感を呼びました。

ONE-TEAM」、「一つになって」は、素晴らしいスローガンであり、スポーツに限らず、国際間でも、人種間でも、宗教間でも、実践して行きたいものですが、利害が絡み、面子が絡み、主義主張が絡むと、実践は中々難しそうです。

それでも、「ONE-TEAM」、「一つになって」を大原則として、和解、融合の道を模索して欲しいものです。

さて、創造者なる神様と人間との和解は、創造者なる神様の御子イエス様の、十字架の贖いにより達成しました。

創造者なる神様は、アブラハムを通して、人間を祝福する、と云うご計画を立てられ、創造者なる神様の、人間の罪を贖う、人間を救うとのご計画は、アブラハムの子孫を通してであり、創造者なる神様の、人間の罪の贖い、人間の救いの計画は、先ずユダヤ人を通して始められたのです。

創造者なる神様の御子イエス様は、ユダヤ人夫婦の子として、ユダヤの地でお生まれになり、ユダヤ社会、文化の中で、ユダヤ教の律法の下で、お育ちになられました。

そして、律法に込められた、創造者なる神様の御こころを人々に教えられ、実践され、福音の担い手として弟子たちを育て、弟子たちに福音宣教の働きを委ね、最後に、人間の罪を贖うために、十字架で罪のための生贄となられたのです。

創造者なる神様の、贖い、救いのご計画は、造られた全ての者に対してであり、決して、ユダヤ人限定では有りませんが、福音を委ねられた弟子たちにとって、選民意識は強く、創造者なる神様のご計画は、救い、贖い、そして祝福のご計画はユダヤ人に対して、との無意識の固定観念があり、福音の届け先はユダヤ人限定となってしまっています。

しかし、創造者なる神様のご計画は、贖い、救い、祝福のご計画は、全ての造られた者へ、です。

エペソの地で、この創造者なる神様のご計画に入れられる異邦人、異教徒も少なからず起こされていたのですが、ユダヤ人クリスチャンは、積極的には異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンと交わりを持たず、距離を取っており、少なからぬ対立があったのです。

パウロは、ユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンとの一致を求めて、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、

パウロは、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンに、救われる以前の状態を思い出させます。

人間は、救いに与ると、以前の状態を忘れるともなく、忘れてしまいます。

過去を忘れるのは、過去に拘らない、過去を引きずらないと云う点では良い事なのですが、なかったかの如く、は考えものです。

自分の以前の状態を正しく理解するのは、これからの信仰生活に非常な益となります。

先ずは「無割礼の者」であった事です。

割礼」は、単に男性器に施す体の傷ではありません。

創造者なる神様との契約に与っている事の印です。

ユダヤ人は、生まれて8日目に割礼を受けましたが、多くのユダヤ人にとって、形骸化し、形式的な、慣習となってしまっていましたが、離散したユダヤ人にとっては、ユダヤ人である事の印であり、ユダヤ人としての拠りどころであり、大切な儀式であり、誇りとしていたのです。

割礼」は、ユダヤ人と異邦人とを区別する重要な意味を持つ印であり、「割礼」に与っていない事の、重要な意味が12節に列挙されます。

2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

12節には、創造者なる神様との契約に関わりのない特徴が五つ記されています。

一つ、「キリストから遠く離れ」とは、信仰を持っていたとしても、「キリスト」を、即ち、創造者なる神様と罪人とを繋ぐ手段を持っていないので、その信仰は、或いは、礼拝は、或いは、献げ物は、或いは、奉仕は、或いは、善いとされる行為の全ては虚しいもの、全く意味をなさないものとならざるを得ないのです。

動機の点において瑕疵があれば、行為そのものが意味を失ってしまうのです。

二つ、イスラエルの民は、御子キリストの贖いによって、創造者なる神様と養子縁組され、創造者なる神様の子どもと見做され、創造者なる神様の財産全てを相続するのですが、その相続に全く与れないのが、「イスラエルの民から除外され」の意味です。

相続には一切関われず、蚊帳の外に置かれ、指を咥えて見ているしかないのです。

三つ、イスラエルの民は、御子キリストの贖いによって、創造者なる神様の民となり、神の民に委ねられた世界を祝福する、世界に祝福を届ける働きに入りますが、この契約にも、与る事が出来ないのであり、それが、「約束の契約については他国人で」の意味です。

家族や友人を祝福しても、幸せ、などなどを執り成し、祈っても、何の根拠も保証もない祝福であり、執り成しの祈りであり、何の効果ももたらさないのです。

四つ、「この世にあって望みもなく」とは、イスラエルの民は、御子キリストの贖いによって、罪を赦され、永遠の命が保証され、この世で無罪とされた喜びを味わいつつ、朧げではありますが、創造者なる神様との交わりが与えられていますが、それらにも、一切関われないのです。

罪を持ったまま、罪を処理出来ずに、この世を生きていかなければならないのであり、裁きの場に立つ事と、有罪判決を受ける事が決まっているのであり、そのために生きて行く、と云うのは悲しく、辛い事です。

五つ、「神もない者たちでした」とは、創造者にして支配者なる神様、真の神様、唯一の神様を知らない、見い出せないのであり、神の存在を信じ、神に対する信仰心を持っていたとしても、神ならぬものに対する信仰であり、的外れな信仰であり、自分中心の信仰でしかありません。

結果、コリント人への手紙第一1532節、2017版は351ページ、第3341ページ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」と記されている通り、刹那的、自暴自棄的な生き方にならざるを得ないのです。

このような、夢も希望もない異邦人でしたが、御子キリストによって道が開かれるのです。

2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

近い者」とは、創造者なる神様に召された者、神の民の事であり、「かつては遠く離れていたあなたがたも」、即ち、異邦人も、イスラエルの民と同様に、創造者なる神様に召された者とされるのです。

召された理由は、ユダヤ人であるとの血統にあるのではありません。

割礼と云う印にあるのでもありません。

礼拝でも、献げ物でも、奉仕でも、善い行いや、努力、精進、難行苦行によるのでもありません。

キリスト・イエスにあって、キリストの血によって」なのであり、これに、何を必要とする事も、加えなければならない事は一切ありません。

2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、

キリスト」は、平和の作り手ではなく、平和を生み出すお方でもなく、平和をもたらすお方なのでもなく、平和の担い手なのでもありません。

御子キリストが来られて、地道に、こつこつと、時間を掛けて、平和を作り出すのではなく、御子キリストが来られて、苦しみ、悶えつつ、苦労の末、平和を生み出すのではなく、御子キリストが来られて、創造者なる神様から預かった、平和を届けるのではなく、御子キリストが来られて、創造者なる神様から委ねられて、平和を実現するのではありません。

キリスト」こそ、「平和」そのものなのです。

キリスト」こそ、和解そのものであり、一致そのものなのです。

創造者なる神様への礼拝の妨げを、如何なる形のものでも、完全に処理されます。

二つのものを一つにし」と、「隔ての壁である敵意を打ち壊し」の意味ですが、「二つのものを一つにし」は、ユダヤ人と異邦人の関係においてです。

ユダヤ人は、選民意識の強さから、非常に強い、排他的な社会を形成しており、異邦人を極端に区別し、没交渉だったのです。

異邦人は、律法で食する事を禁じられている物を食し、律法で穢れているとする物に平気で触れますが、極めつけは、創造者なる神様を礼拝しない事と、偶像礼拝と、神の御名の乱用でしょう。

ユダヤ人にとっては、極、当然の事であっても、異邦人にはその知識がないのですから、教えられていないのですから、仕方がないのではありますが、ユダヤ人は、異邦人の、太陽、月、星、などを始めとして、数多の神々を礼拝する事や、金属や木、石などで作られた像を、何の疑問も持たずに崇め、奉る事や、お題目さえ唱えれば効果がある、繰り返す事に意味があると信じる事に、嫌悪さえ覚えたのです。

私が生まれ育った浅草のお寺では、79日か10日にお参りすると、「四万六千日」、即ち125年お参りしたと同じとされるのですが、こんな人間に都合の良い風習、ユダヤ人はどう思うでしょうか。

ユダヤ人と異邦人は、水と油であり、鉄と粘土であり、決して交じり合う事が、混じる事もない関係でしたが、御子キリストによって、一つにされたのです。

この一つにされた、は、ユダヤ人と異邦人の区別、差がなくなった、の意味ではありません。

御子キリストが来られる以前は、人間の努力や協力、譲歩や妥協で一致を試みましたが、不完全であり、長続きはしませんでした。

しかし、御子キリストが来られ、十字架上で犠牲となられたために、依然として区別があり、差があるのですが、御子キリストの力で、完全に一致し、持続し続けるのです。

ここにも、人間の努力や協力、譲歩や妥協は一切不要です。

隔ての壁である敵意を打ち壊し」は、エルサレム神殿の、ユダヤ人と異邦人とを仕切りの壁が、打ち壊される、と云う事です。

この壁の柱には、次のような碑文が刻まれていました。

即ち、「他国民は如何なる者も、この障壁内、神殿周辺の構内に立ち入るべからず。しかして、敢えてこれを侵犯する者は、誰にても死罪に処せらるべし」です。

ユダヤ人と異邦人の間にある、敵意、憎しみの象徴が「隔ての壁」なのですが、この「隔ての壁」を、御子キリストが「打ち壊」されるのです。

御子キリストが「打ち壊」されるであり、修復も、再建も不可能です。

この「隔ての壁」は、創造者なる神様と人間とを隔てる壁の意味でも理解しなければなりません。

異邦人向けの碑文を次のように読み替えては如何でしょうか。

即ち、「真の礼拝者に非ず者は、この障壁内、神殿周辺の構内に立ち入るべからず。

しかして、敢えてこれを侵犯する者は、誰にても死罪に処せらるべし」です。

これが、創造者なる神様の基準ですが、これに応えうる人間は、存在しません。

御子キリストの必要性は、ここにもはっきり謳われているのです。

2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、

様々な規定から成る戒めの律法」とは、十戒のほか、レビ記、民数記、申命記などに記されている「律法」と、それらに付随する、「様々な規定」です。

問題なのは、「様々な規定」です。

一例をあげると、「手を洗う事」一つに対して、26か条の規定があったそうです。

ユダヤ人でも完璧に適応していたかどうかは、疑問が残りますが、異邦人にも一字一句の適応を要求したのですから、たまったものではありません。

そんな事に付き合って入られない、没交渉で結構です、なのではないでしょうか。

そんな、ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、重荷となっていた「様々な規定から成る戒めの律法」が、御子キリストによって「廃棄されました」。

廃棄」と訳されているギリシャ語には、「働かないようにする、力を奪う、無効にする」の意味があり、「様々な規定から成る戒めの律法」を廃棄するよりも、「様々な規定から成る戒めの律法」から自由になる、「様々な規定から成る戒めの律法」に束縛されない、の意味で理解するのが、パウロの真意なのではないでしょうか。

2:16二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

14節、15節、16節に「二つのものを一つに」の意味の言葉が繰り返されていますが、「二つ」とは、主にはユダヤ人と異邦人の意味ですが、他にも、区別、差別となっていた、自由人と奴隷であり、男と女であり、文明人と非文明人、などなどを指し示します。

そして「一つ」とは、御子キリストの身体である「教会」の事です。

教会は、雑多な集合体、無機質な混交体ではありません。

ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、男と女、文明人と非文明人、などなどが、御子キリストにあって、新しく創造され、ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、男と女、文明人と非文明人、などなどが、御子キリストにあって、有機的に結び付き、まるで一つのようになって、創造者なる神様を礼拝する群れとなるのです。

その、創造者なる神様を礼拝する妨げの全てが、即ち、創造者なる神様に対する敵意、ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、男と女、文明人と非文明人、などなどの相互に存在する敵意が、「十字架によって滅ぼされ」たのです。

滅ぼされた敵意は、雲散霧消したのではありません。

御子キリストの平和によって、敵意は、祝福をもたらす力になるのです。

2:17また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

遠くにいた」と「近くにいた」は、物理的な距離ではありません。

創造者なる神様に対する、霊的な位置であり、異邦人にも、ユダヤ人にも「平和を」なのであり、異邦人にも、ユダヤ人にも、御子キリストの平和が「伝えられました」。

「御子キリストの平和」とは、創造者なる神様と罪人との平和、和解であり、「御子キリストの平和」があってこそ、ユダヤ人と異邦人との平和、和解が実現します。

創造者なる神様と罪人との平和、和解なくして、ユダヤ人と異邦人との平和、和解が実現しません、実現しようがないのです。

御子キリストの重要性は、何度語っても足りません。

パウロは更に繰り返します。

2:18このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

ここに、重要な真理、教理が提示されています。

救いは、創造者なる神様に近づく方法は、一つです。

即ち、「御霊」の働きにより、「キリスト」と云う門をくぐり、「キリスト」と云う道を通り、創造者なる「御父」に近づくのです。

ここに、ユダヤ人と異邦人の区別、差はありません。

ユダヤ人と異邦人のみならず、自由人と奴隷、男と女、文明人と非文明人、などなど、全ての人間は、「御霊」の働きにより、「キリスト」と云う門をくぐり、「キリスト」と云う道を通り、創造者なる「御父」に近づくのです。

【適応】

教会は、御子キリストによって、一つとされた者の集まりではありますが、「一つ」の意味は、渾然一体、或いは、同一化、画一化、一糸乱れぬ群れでは、皆さんご一緒にではありません。

ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで、自由人は自由人のままで、奴隷は奴隷のままで、男は男のままで、女は女のままで、文明人は文明人のままで、非文明人は非文明人のままで、一つとされるのです。

区別や、差のあるがままで、良いのであり、其々の考えや意見、賜物や行動が尊重されますが、しかし、創造者なる神様は、秩序のお方であり、好き勝手や、混乱を容認されるお方ではありません。

皆が、其々に、思い思いの方向に舵を切ったならば、混乱が起こるだけであり、目的を達成し、組織を維持する事は出来ません。

教会に於ける「一つ」とは、秩序とは、トップダウン、上位下達、否応なしに、皆が一斉に、同じ事をではなく、提案があり、相談があり、調整があり、割り振りがあり、合意があり、指示があってでしょう。

教会の目的は一つ、創造者なる神様を愛し、人を愛する事であり、そこに向かって、教会は、御子キリストにあって一つとなる、一つとされるのです。

導入でお話したラグビーのONE-TEAM」ですが、ラグビーは15人で試合に臨みますが、皆が同じポジションではありません。

15のポジションがあり、15人の選手が、各々のポジションを理解し、自分のポジションに専念し、他の選手のポジションを尊重し、相互が協力して初めて、有効な攻撃が出来、効率的な守備が出来、勝利に繋がるのです。

教会には、ラグビー的な意味でのポジションはないかも知れませんが、賜物の違いは明確でしょう。

その賜物を御子キリストにあって一つになるように生かす事が出来るなら、時には、一歩退く事が、意見を引っ込める事が、譲る事が、自然に出来るなら、創造者なる神様を愛し、人を愛する教会、麗しい形で一致する群れ、教会となるのです。

創造者なる神様を愛し、人を愛する方法は、様々であり、様々な賜物があるのです。

その賜物を、御子キリストにある秩序に従って用いる時、御子キリストにあって一つになるように活かされ、導かれ、創造者なる神様の栄光を現す教会、群れとなるのです。

このパウロの手紙は、エペソ人に向けて記されましたが、エペソ在住のユダヤ人が読む事も想定しています。

あなたがた」は異邦人であり、ユダヤ人でもあるのです。

そして「あなたがた」は、現代のクリスチャンでもあるのです。

御子キリストは、教会の集まりが「一つ」になるために、今も、働いておられます。

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                               2019-12-22礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙28節~10

説教題:「人間は神の作品です」

【導入】

皆さん、「人間」って何、と問われたら、何と答えるでしょうか。

生物学的な質問と受け止めるか。

偶然、単細胞生物が発生し、進化して、猿を経由して、人類に進化した。

哲学的な質問と受け止めるか。

人間は考える葦である。

社会学的な質問と受け止めるか。

集団性を持ち、支えあって生きる、脆弱、しかし、傲慢な生き物である。

などなどと、答えはさまざまであり、全部を網羅した、納得の行く、簡潔な答えは難しそうです。

しかし、一つの答えとして、キリスト教的な答えとして「創造者なる神の作品」と言えるのであり、私たちはこれを支持します。

人間は、創造者なる神様に似せて造られたユニークな存在であり、比類のない特別な作品であり、最高傑作なのです。

人間は、創造者なる神様の御旨に従って、この世界を支配、お世話する存在として造られたのですが、人間は、創造者なる神様との約束を破り、エデンの園を追放されてしまい、創造者なる神様と断絶した世界で生きなければならなくなってしましました。

しかし、創造者なる神様は、約束を破ったからと云って、人間を見捨てた訳でも、失敗作品として、見限った訳でも、反逆し続けるからと云って、嫌いになった訳でもありません。

人間が、エデンの園を出てからも、創造者なる神様は、ずっと人間に関心を持ち続けられたのであり、見守り続け、助け続けて来られたのです。

そして、その関心の頂点は、キリスト・イエスを十字架につけて、人間の罪を贖い、人間を義と見做した事であり、キリスト・イエスの甦りを通して、人間に新しいいのち、永遠のいのちを与えてくださった事です。

しかし、暫くは、人間は、キリスト・イエスの再臨の時まで、この世で、罪を内在したまま生きて行かなければなりませんが、罪が贖われ、新しいいのち、永遠のいのちを与えられた者として生きるための備えもしてくださっていたのです。

【本論】

新改訳2017版 2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

パウロは、エペソの人々が救われたのは、また、私たちが救われたのは、人間が救われたのは、「この恵みのゆえ」、即ち、4節、5節で述べて来た、キリスト・イエスにおいて、私たち罪人に賜る創造者なる神様の慈愛の故である、と断言します。

救いの恵みは、漠然とした話でも、広い意味の恵みでもありません。

キリスト・イエスと云う明確な出所と、人間と云う確かな方向性と、贖うと云うはっきりとした目的を持っているのであり、目当ての者に、目的的に、着実に届けられ、意識的に受け取るのです。

決して、あやふやな、いい加減な、適当な、思いつきではありません。

また、偶然、運よく、たまたま受け取ったのでもありません。

創造者なる神様が、私たちを救われるのは、創造者なる神様の主権であり、創造者なる神様の自由意志であり、創造者なる神様の自発的好意からです。

人間が救われたのは、人間の側には、全く、何の理由もありません。

信じるに至ったのも、人間の側の研究、努力、精進などなどでは、決してありません。

信じるに至ったのも、創造者なる神様の恵みなのです。

しかし、創造者なる神様の恵みが、人間にもたらされるのは、無制限、無条件ではありません。

キリスト・イエスを通してであり、信仰を管としてであり、こられの故に、恵みは正確に届けられ、自発的に受け取られ、有効に効果を発揮するのです。

創造者なる神様の恵みを受け取るのは、自発ですが、それは「行い」の意味ではありません。

受けたいと云う願い、応答であり、何かをすると、受け取れる、と云う性質のものではありません。

何かをすると、受け取れる、と云うのでは、恵みではなくなってしまい、報酬、対価となってしまします。

このことを9節で明確に宣言します。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

創造者なる神様の恵みを受け取るのに、必要な物、必要な行為などなどは一切ありません。

如何なる形でも、人間の働き、功績、徳目などなどが影響する事も、効果的に働く事も、意味を持つ事も、一切ありません。

仮に、何かを為したとしても、それすらも、創造者なる神様の恵みに負うているのであり、善い行ないは、救いの結果であり、救いの要因、原因になる事は決してないのです。

しかし、人間は救いの結果である、善い行ないをも、自分の働きの結果でもない些細な事をも、誇りとするのであり、何もないと、「気楽でいいわぁ」などと、何もない事をさえ自慢する生き物なのであり、功名心を制する事は、至難の業なのです。

人間は、責任を他人に転嫁し、他人の成果を自分の功績のように吹聴する生き物でもあり、パウロは「誇り」を、自負心を、自尊人を、功名心を強く警戒するように、警告を発するのです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

良い行い」は結果であって、目的ではありません。

神の作品」であるからこそ、「良い行い」を行い得るのであり、「キリスト・イエスにあって造られた」ので、「良い行い」を行い得るのです。

逆では、「良い行い」をするための、「神の作品」ではなく、「良い行い」をするために、「キリスト・イエスにあって造られた」のでは決してありません。

これはまた、「良い行い」をするために、創造者なる神様が、キリスト・イエスにあって、導いてくださる、支えてくださる、チャンスを与えてくださる、背中を押してくださる、と云うのでもありません。

キリスト・イエスにあって、新たに創造された故に、信仰によって義とされた故に、今まで思いも及ばなかった、「良い行い」をしたいと云う欲求が生まれ、「良い行い」を意志して行なうようになるのです。

この時、創造者なる神様が、キリスト・イエスにあって、助けを与え、協力してくださるのであり、「良い行い」をしなければならない、ではなく、「良い行い」をするのが当然でもなく、「良い行い」をしないと、落ち着かない、気まずい、でもありません。

良い行い」はあくまで救われた、新しく造られた結果であり、副産物的結果であり、目的ではないのです。

その「良い行い」は、一言で言うなら「神を愛し、人を愛する」に要約されます。

創造者なる神様は、人間に自由を得させるために、召されたのであり、良い行い」をしなければ、では、「良い行い」に縛られています。

それでは、自由ではなく、強制であり、良い行い」を演じているのであり、あらかじめ備えて」くださった事では有りません。

罪の性質が残り、長い間、罪に身を委ねた、自己中心的な生き方をして来たので、最初は戸惑いがあり、ぎこちなさがあり、面映く感じる事もあるでしょうが、人の目が気にならなくなり、人の評価が気になる事もなくなり、自分自身に対してさえ、自由になり、気にもならず、誰に憚る事も、遠慮する事も、忖度する事もなくなるのです。

そんな心根で行なえる事が、「あらかじめ備えて」くださった事です。

【適応】

神の作品」であるからこそ、「良い行い」を行い得るのであり、「キリスト・イエスにあって造られた」ので、「良い行い」を行い得るのですが、ここで、確認しておきたいのは「良い行い」が見られないから、「神の作品」ではない、「キリスト・イエスにあって造られた」のではない、とは断言出来ないし、してはならない、短絡的な結論を出してはならない、と云う事です。

しかし、「良い行い」が不要だとも、背きと罪の中に居座っていても良い、と云っているのでもありません。

人間は、本来、神の作品」であり、本質は良い行い」をする生き物なのですが、罪を犯したために、「良い行い」をしたくても、出来なくなってしまったのであり、「悪い行い」をしてしまう、弱さを持っているのです。

その、人間の本来の本質を取り戻すためには、神の御子イエス様の十字架上での死、贖いが必要なのであり、神の御子イエス様に取り扱われる必要、即ち、「キリスト・イエスにあって造られ」る必要があるのです。

私たちに必要不可欠なのは、絶対必要なのは、なくてはならないのは、神の御子イエス様のみであり、神の御子イエス様以外の、何モノをも必要とはしません。

だから、神の御子イエス様のご降誕抜きは、あり得ない話なのであり、神の御子イエス様のご降誕を喜ぶのです。

神の御子イエス様のご降誕を喜ぶのであり、神の御子イエス様のご降誕を世に知らせるのであり、神の御子イエス様を世に宣べ伝えるのであり、神の御子イエス様を礼拝するのです。

クリスマスは、キリスト・ミサであり、神の御子イエス様を礼拝する事です。

クリスマスの意味は、ここにあります。

お祝いが目的ではなく、神の御子イエス様のご降誕を喜び、礼拝するのです。

それが、「神の作品」である人間の使命です。

それが、「キリスト・イエスにあって造られた」人間のなすべき事です。

神の作品」であるとの自覚、「キリスト・イエスにあって造られた」者であるとの自覚こそが重要なのであり、「良い行い」は自ずと、自然と、生まれて来るものなのです。

良い行い」は、義務感や、使命感、責任感からではなく、促されてでも、期待されてでも、割り振られてでもなく、なのです。

しかし、「神の作品」であるとの自覚、「キリスト・イエスにあって造られた」者であるとの自覚は、「良い行い」をしなければ、との思いに繋がってしまう事は否めません。

良い行い」が自ずと、自然な行動になって来るまでには、時間が掛かります。

否、この世に生きる限り、罪を内在する限り、創造者なる神様の御こころに達する事はありません。

何故ならば、贖われた、救われた、とは云っても、聖化の途上にある身であるからです。

それでも、「良い行い」は、創造者なる神様に喜ばれる事であり、「良い行い」が自然に出来るように、自由に出来るように、なりたいものです。

そのために、神の御子イエス様の贖いに与ったのですから。

良い行い」の第一歩は、神の御子イエス様を喜ぶ事です。

その喜び方は、喜びの表し方は、多種多様です。

神の御子イエス様の贖いに与った者として、神の御子イエス様のご降誕を、本来の意味で喜び、神の御子イエス様の再臨を待ちつつ、神の御子イエス様を礼拝しようではありませんか。

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聖書箇所:エペソ人への手紙21節~7

説教題:「死から新しいいのちへ」

【導入】

皆さん、「いのち」って何でしょう。

或いは「生きる」って何、と問われたら、何と答えるでしょうか。

哲学的な質問と受け止めるか、生物学的な質問と受け止めるか、社会学的な質問と受け止めるかなどなどで、答えはさまざまであり、完璧、簡潔には答えられそうにありません。

しかし、一つの答えとして、キリスト教的な答えとして「創造者なる神の恵み」と言えるのではないでしょうか。

では「死」って何、と問われたら、なんと答えるでしょうか。

これも、哲学的な質問と受け止めるか、生物学的な質問と受け止めるか、社会学的な質問と受け止めるかなどなどで、答えはさまざまであり、完璧、簡潔には答えられそうにありません。

しかし、一つの答えとして、キリスト教的な答えとして「肉体と霊との分離」であり、重要なのは「創造者なる神との断絶」ではないでしょうか。

パウロは、「死」を、遠い将来の、漠然とした事とは考えず、また、否定的な、消極的な、抗(あらが)う事の出来ない現実とは考えず、現在の我が身の事として、知覚し、創造者なる神様との関係において考えます。

エペソのクリスチャンたち、また、現代の私たちも、人は死んでお終い、消滅する、と考え、或いは、虚無の世界に彷徨う、と考え、または、転生輪廻思想、生まれ変わるのではないか、などなどと考えますが、パウロは、死とは存在の中断、消滅ではない、そして、いのちとは何かを伝えるべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪との中に死んでいた者であり、

背きと罪」を、新共同訳聖書、聖書協会共同訳聖書は「過ちと罪」と訳し、口語訳聖書と、新改訳第3版は「罪過と罪」と訳しています。

背き」と訳されているギリシャ語は、一般に「外に現れた悪行」、「」と訳されているギリシャ語は、一般に「内なる悪心、悪い性質」と解される事が多いようですが、神学者アウグスチヌスは「背き」を「意図しないで犯したもの」、「」を「故意に犯したもの」と、解釈し、神学者ヒエロニムスは、「背き」を「思いにおける罪の始まり」、「」を「実際の行為に現れた罪の結果」と、解釈します。

背きと罪」は、厳格に区別し難く、同義と見做して差し支えはないでしょう。

人は、実際の行為となって現れた罪と、その結果だけを問題視しがちですが、パウロは、否、創造者なる神様は、実際の行為となって現れた罪と、その結果だけではなく、誰にも知られていない、こころの中の罪も、問われるのだ、と迫り、「あなたがたは・・・死んでいた」と断言するのです。

人は「背きと罪」を軽く考え、自力で贖える、償う事が出来る、その方法は幾らでも有る、と考えますが、決してそうではありません。

背きと罪」を犯した瞬間に、いのちの付与者である、いのちの源泉である創造者なる神様と離反するのであり、「背きと罪」を犯した瞬間に、死に定められ、死から逃れる事は出来ないのです。

背きと罪」は、「死」に直結しているのですが、現実的には、生きながらえ、肉体と霊は、分離せずにいますが、暫しの間、ほんの一瞬です。

また、「背きと罪」を犯した者は、創造者なる神様との断絶を、実感出来ずに過ごしますが、時、至れば、死が訪れます。

死は、存在の消滅ではなく、肉体と霊の分離であり、肉体は朽ち果て、霊は創造者なる神様との断絶の悲しみ、苦しみを、永遠に味わわなければならないのです。

2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

この世の流れ」の原文は「このコスモスのアイオーン」です。

「コスモス」は「世、世界、宇宙」などと訳せるギリシャ語です。

「アイオーン」は「世代、時代、世」などと訳せるギリシャ語ですが、パウロは、単に風潮とか、流れと言った漠然とした、抽象的な事を伝えたかったのではなさそうです。

「アイオーン」は、アレキサンドリヤでは人格化し、神として祭られていたそうですから、エペソの人々は「アイオーン」を神として認知していたのであり、エペソの人々に伝わるように、明確に、具体的に、あなたたちは「この世を支配する神」に従っていると、迫ったのです。

空中の権威を持つ支配者」とは、堕落し、天上世界を追い出された御使い、天使の事であり、「サタン、悪魔」を指し示します。

地上は、人間に支配が委ねられていますので、また、人間の住処(すみか)として与えられていますので、「サタン、悪魔」は、地上には存在し得ず、「サタン、悪魔」は、人間を越える能力を持っており、人間界、地上以上の存在であり、本々は天上に存在し、天上に住んでいたのですが、天上を追い出され、天上は、創造者なる神様に忠実な御使い、天使に委ねられていますので、また、創造者なる神様に忠実な御使い、天使の住処ですので、「サタン、悪魔」は、天上にも存在し得ず、「サタン、悪魔」の居場所ではなく、その中間、空中しか存在し得ないのです。

どっち着かずの悲しい立場ですが、同情するには及びません。

御使い、天使の身分を弁えず、創造者なる神様をないがしろにし、創造者なる神様に歯向かい、創造者なる神様の立てられた秩序、制度、ご計画を崩壊しようと画策したからです。

そして「サタン、悪魔」は、自己中心の人間、自我の砕かれていない人間、自分こそ立派な人間だ、役に立つ人間だと自負するような人間、無意識のレベルで、自分は正しい、自分を義とする人間に、創造者なる神様に従わない人間に、勿論、表立って従わない事はないでしょうが、面従腹背な生き方をする人間、創造者なる神様よりも、自分の考えを優先させるような人間に、即ち、「不従順の子ら」、に働きかけ、「不従順の子ら」を引き寄せ、創造者なる神様に敵対し、混乱を起こさせようと暗躍しているのです。

2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

この節で重要なのは「生まれながら」です。

私たちもみな」、私たちは全て「生まれながら」の罪人です。

決して後天的に「罪人」になった、なってしまった、のではなく、先天的に「罪人」なのです。

ローマ人への手紙310節、2017301ページ、第3293ページ、「義人はいない。一人もいない。3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない」と、記されている通りです。生まれながら持っている罪を「原罪」と呼びます。

原罪を持つ身、故に、「背きと罪」を離れる事が出来ず、「背きと罪」を行なわざるを得ないのです。

そして、創造者なる神様の「御怒り」は、人間の怒りとは非なる怒りであり、一切の怒気、感情的なもの、感傷的なものを含まない、聖く、義しい怒りであり、冷静な怒りであり、約束の遂行、最終審判的怒りなのです。

罪を犯した人間が、創造者なる神様の「御怒り」を受けるのは、報復でも、懲罰でもありません。

約束であり、契約です。

人間は創造者なる神様と、「園の中央にある木の実を食べてはならない、食べると必ず死ぬ」との約束を交わしたのであり、人間が、その約束を破ったために、創造者なる神様との交わりが絶たれ、関係が断絶し、創造者なる神様の「御怒り」を受ける結果となったのです。

そして、この創造者なる神様の「御怒り」を逃れる人間は、一人も居ません。

それが「私たちもみな・・・御怒りを受けるべき子らでした」との表現に現れています。

人間は全て、創造者なる神様の「御怒り」の宣告の下にある者なのであり、必ず創造者なる神様の「御怒り」を受けるのです。

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださ」ったのは、創造者なる神様の一方的な主導権によるものであり、恵みです。

創造者なる神様は、「あわれみ豊か」だからであり、創造者なる神様の、「その大きな愛のゆえ」であり、人間の如何なる働きも、精進も、努力も、熱心も、熱意も、一切不要です。

更には、人間は「背きの中に死んでいた」のであり、何の力もなく、何の働きも出来ない存在なのです。

良い行いに見えても、本質が「罪人」なので、その行なう事は、罪の穢れに塗(まみ)れた、醜悪なものでしかないのです。

そこで重要になるのは、「キリストとともに」であり、言い方を変えるなら「キリストの故に」です。

キリストに結び付く事によって、キリストの身に起こった事が、私たちにも適応される、と云う事です。

そしてこの「生かして」は、再生とか、復活、甦りの意味ではなく、「いのちをつくる」と云う意味の言葉であり、新しいいのちの創造なのです。

また、「生かしてくださいました」であり、「救われた」ですが、これらは、完了形で表現されていますから、「既に、生かされている」、なのであり、「既に、救われている」、なのです。

救いは、単に罪が赦された、無罪放免となった、創造者なる神様の「御怒り」を受けないで済む、と云う消極的な事象ではありません。

新しく造られ、新しいいのちを与えられ、創造者なる神様との関係が修復され、新しい関係に入る、と云う、発展的、積極的な事象なのです。

2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

ここでも創造者なる神様は、「キリストの故に」、「私たちを・・・よみがえらせ」、「天上に座らせてくださいました」。

霊的な死の状態から、本来の意味でのいのちを与えられるのであり、創造者なる神様の子としての身分に与り、天上界へ招き入れられるに至るのです。

しかも、やがて来る終りの日に、多分、「よみがえらせ」、「座らせてくださ」るだろう、ではないのです。

人間にとって、将来の事は、不確定、不確実でありますが、創造者なる神様にとっては、過去も現在も未来も同じであり、確定であり、確実であり、創造者なる神様が「よみがえらせる」と仰せになられたならば、それは「よみがえらせた」なのです。

創造者なる神様が「座らせる」と仰せになられたならば、それは「座らせた」なのです。

創造者なる神様が「赦す」と仰せになられたならば、それは「赦した」なのです。

創造者なる神様が「救う」と仰せになられたならば、それは「救った」なのです。

2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。

最後に、人間をよみがえらせる、天上に座らせる目的が記されます。

私たち罪人の救いは、創造の時に既に決まっていましたが、その創造者なる神様のご計画は、永遠の未来にまで変わる事はなく、連綿と継続されるのです。

それは、創造者なる神様が、4節に記されている、豊かな憐れみ、大きな愛を持つお方であり、7節に記されている、慈愛、豊かな恵みを持つお方である事を、指し示すためであり、創造者なる神様は、豊かな憐れみを、大きな愛を、慈愛を、豊かな恵みを、「キリスト・イエスにあって私たちに与え」るのです。

創造者なる神様に従う者たちは勿論の事、創造者なる神様に楯突き、逆らい、反発する者たちも、これを目撃するのであり、創造者なる神様の素晴らしさ、憐れみの豊かさ、大きな愛、慈愛に富み、豊かな恵みを認めざるを得なくなり、結果、創造者なる神様の素晴らしさ、憐れみの豊かさ、大きな愛、慈愛に富み、豊かな恵みを讃える者の群れに、加わるに至るのであり、創造者なる神様のご計画なのです。

勿論、全ての者が創造者なる神様を讃える群れに加わるには至らないでしょう。

創造者なる神様を頑なに拒む者たちも多く存在するでしょうし、創造者なる神様を讃える群れに加わろうとする者たちを妨害し、引き止め、創造者なる神様を讃える群れに加わった者たちを説得し、引きずり出そうとするためには、手段を選ばないでしょうが、それらの悪しき力の中にあって、圧倒的な勝利を掴むのは、創造者なる神様であり、キリスト・イエスに従う群れなのです。

【適応】

「死」は、決して終わりでは、消滅ではありません。

「死」は、肉体と霊との一時的な分離であり、この世限定の「肉体」は滅びますが、キリスト・イエス様再臨の時、新しい身体、病む事も、老いる事もない「新しい身体」が与えられ、「霊」は新しい身体と共に永遠に存在し続け、生き続け、創造者なる神様と共に過ごすか、創造者なる神様と断絶して過ごすかの、二者選択をしなければなりません。

その二者選択の決定権は、人間には与えられていません。

キリスト・イエス様が、創造者なる神様と共に過ごすか、創造者なる神様と断絶して過ごすかを決定するのであり、「死」は、新しい生き方の分岐点なのです。

そして「新しいいのち」は、「死」と密接に関係しています。

「新しいいのち」は、創造者なる神様と共に過ごすか、創造者なる神様と断絶して過ごすかで、大きく違ってきます。

創造者なる神様と共に過ごすなら、創造者なる神様が住まわれる天上世界、創造者なる神様の支配される世界で過ごす事になるのであり、創造者なる神様の持つ、豊かな憐れみを、大きな愛を、慈愛を、豊かな恵みを、享受し、満喫出来るのです。

即ち、「新しいいのち」は、新しい生き方の、創造者なる神様に喜ばれる選択肢なのです。

一方、創造者なる神様と断絶して過ごすなら、創造者なる神様の居られない、「ハデス」で過ごす事になるのであり、創造者なる神様からの、豊かな憐れみ、大きな愛、慈愛、豊かな恵みとは、一切無縁の世界で、死ぬ事も出来ずに、永遠に過ごすしかなくなるのです。

「死から新しいいのちへ」は、再生でも、復活でも、甦りでもなく、また、寿命の長短でも、寿命の有限、無限でもなく、創造者なる神様との関係性を謳った言葉なのです。

全ての人間は、確実に「ハデス」行きです。

と同時に、全ての人間には、創造者なる神様が住まわれる天上世界に行く可能性を持っています。

即ち、キリスト・イエス様を信じるなら、確実に創造者なる神様が住まわれる天上世界に、創造者なる神様の支配される世界に、創造者なる神様の御こころが、余すところなく行なわれる世界に行くのです。

そこに、人間の、何の働きも、精進も、努力も、熱心も、熱意も、一切不要ですし、影響しません。

全ての人間に「新しいいのち」を与えるために、キリスト・イエス様はこの世に生まれ、創造者なる神様が住まわれる天上世界に招くために、再び、キリスト・イエス様はこの世に来られるのです。

キリスト・イエス様の再臨を待ち望みつつ、キリスト・イエス様のご降誕をお祝いしましょう。

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                   2019-12-8礼拝

聖書個所 サムエル記第一6:1321

説教題 「イスラエル人を打つ主の手」

【導入】

5:1 ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。

5:2 それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

5:3 アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

5:4 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。

5:6 主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。

ペリシテ人の信じるダゴンの神の像をバラバラにし、ぺリシテ人に病苦を与え、更に農作物にも甚大な被害を与えたのは誰なのか。

それはイスラエルの神の箱なのか、それとも偶然なのか。

その真偽をはっきりさせるべく、人々の期待を背負った牛車は、問題の神の箱を乗せて、ベテ・シェメシュへ至る道を、右にも逸れず左にも逸れず、真っ直ぐに進んで行くのでした。

神の箱は7ヶ月もペリシテ人の野に放置されていたと、61節に記されていますが、このペリシテ人の野とはエクロンの郊外であったろうと推察されます。

エクロンとベテ・シェメシュは凡そ20km離れています。

その土地を繋ぐ道は真っ直ぐな道ではなく、曲がり角もあり、枝道もあります。

主要な街道であって、整備されているとはいえ、3000年前の道路事情ですから、轍(わだち)もあり、泥濘(ぬかるみ)もあったことでしょう。

そこを御者も無しで進むのですから、決して偶然で辿りつける場所ではありません。

ペリシテの五人の領主は、神の箱を乗せた車を引いて、鳴きながら歩く牛の後に付いて歩いて、曲がり角を曲がる度に、枝道に入り込まない度に、轍や泥濘を上手に避けて歩いて行く姿を見て、ペリシテ人に病気や災害をもたらしたのは、あの神の箱に間違いないと確信を深めて行ったことでしょう。

そして、とうとう神の箱を乗せた牛車はイスラエル人の町、ベテ・シェメシュに辿りつくのです。

【本論】

6:13 ベテ・シェメシュの人たちは、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げると、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。

小麦の刈り入れの季節は、現代の暦では5月末から6月中旬です。

日本では梅雨に入る時期ですが、パレスチナでは乾季に入り、晴れの日が続き、収穫に適した季節です。

豊かに実った小麦を刈り入れる喜びは、農耕の苦労を忘れさせる大きな喜びとなったことでしょう。

その収穫の喜びに、もう一つの、大きな喜びがやって来たのです。

盥回しにされた数ヶ月、野晒しにされた7ヶ月。

その間、イスラエル人は神の箱を見捨てて逃げてしまった事に対する罪責感に苦しみ、神の箱を奪われてしまった喪失感に悩んでいたのではないでしょうか。

何としても神の箱を取り戻さなければ…とは思っても、相手は手強いペリシテ人です。

神の箱が何処にあるかも解かりません。

生活に追われ、神の箱どころではない、と言うのが現実だったかも知れません。

そこに、ひょっこり、何の前触れもなく神の箱が帰って来たのですから、その驚きと喜びは私たちには想像も出来ない大きな喜びであったに違いありません。

6:14 車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に来て、そこにとどまった。そこには大きな石があった。人々は、車の木を割り、雌牛を全焼のささげ物として主に献げた。

6:15 レビ人たちは、主の箱と、そばにあった金の品物の入っている鞍袋を降ろし、その大きな石の上に置いた。その日、ベテ・シェメシュの人たちは全焼のささげ物を献げ、いけにえを主に献げた。

今日の出来事の舞台となったベテ・シェメシュと言う土地の名前は、ヨシュア記1938節に登場します。

この聖書箇所は、モーセ亡き後のイスラエルの指導者ヨシュアによるカナン征服の後の、土地分割の場面です。

このベテ・シェメシュはくじによってナフタリ部族に与えられ、更に殺人者の逃れの町として選別され、祭司、レビ人の住む町としてアロンの子孫に与えられます。

この事はヨシュア記2116節前後に記されています。

ペリシテ人から送り返された神の箱が、アロンの子孫、祭司、レビ人の住む町に辿り着く、と言うのにも、偶然ではなく、神様の導きを強く感じるのではないでしょうか。

生贄は誰が献げても良い物ではありません。

アロンの子孫だけに許された職務であり、他の者が行なう事は堅く禁じられていました。

神の箱の取り扱いについても同様です。

神の箱はアロンの子孫、祭司、レビ人だけに取り扱うことが許されており、他の者が触ったり、運んだりしてはならない物なのです。

ですからベテ・シェメシュは神の箱が返還されるに相応しい町だったのです。

もしも、レビ人のいない一般のイスラエル人だけが住んでいる町に返されたなら、人々は神の箱の取り扱いに困ったことでしょう。

良かれと思ってしたことであっても、知らなかったでは済まされません。

決められた人だけが、決められた手順でしなければならない働きであり、祭司、レビ人だけに許された聖なる務めです。

間違いが起こりうる可能性があった訳ですが、レビ人の住む町に神の箱が返されたので、レビ人が中心となって、間違いが起こらないように、教えに従って生贄が献げられ、神の箱が取り扱われたのです。

6:16ペリシテ人の五人の領主は、これを見て、その日エクロンに帰った。

エクロンとベテ・シェメシュは直線距離で凡そ20km離れています。

大人の脚でも5時間はかかる距離です。

朝早く出立してもベテ・シェメシュ到着は昼頃でしょう。

そして、神の箱の顛末を目撃してエクロンに帰って行くのですから、エクロンに帰りついたのは日の沈んだ時刻となったことでしょう。

一日歩いて、脚は棒のようになり、くたくたになったに違いありません。

しかし、五人の領主の顔には安堵の表情が浮かんでいたに違いありません。

ペリシテ人に降りかかった数々の災害は決して偶然ではなかった。

神の箱が原因だった。

その神の箱は無事にイスラエルに返却した。

これで、災害、病苦はペリシテを去るだろう。

5人の領主は最後まで見届け、責任を果して帰って行ったのでした。

6:17 ペリシテ人が償いとして主に返した金の腫物は、アシュドデのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。

6:18 すなわち、金のねずみは、五人の領主に属するペリシテ人の町の総数によっていた。それは、砦の町と城壁のない村の両方を含んでいる。彼らが主の箱を置いたアベルの大きな台は、今日までベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑にある。

金の腫物の像、金のねずみの像の大きさ、重さは記されていませんが、天に上る叫びに対する献げ物ですから、相当の大きさ、重量があったのではないでしょうか。

使い捨ての牛車にも新しいものを用意し、使役した事の無い雌牛を用意したのですから、金の像も、ちゃちな物で無かった事は想像に難くありません。

このようにペリシテ人は神の箱に対して、イスラエルの神に対して、礼をつくし、最高の敬意を現しました。

異邦人が最高の礼を尽くす一方で、その最高の礼を受けるに相応しい神に仕えるイスラエル人は不敬を働いてしまうのでした。

6:19 主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。

神の箱は、ペリシテ人に奪われるまではシロの神の宮に安置されていました。

シロとベテ・シェメシュは直線距離で55km程離れています。

現代の55kmではありません。

現代のように交通の手段は便利、快適ではなく、歩くしかなく、ロバなどに乗れるのは少数の人々だけの時代です。

強盗山賊は勿論の事、野獣、病気、怪我などで、遠路の旅は命がけの覚悟が必要だった時代です。

シロの神の宮に詣でる事は、命がけであり、ひょっとしたら一生に一度の行事であったでしょうし、一度も詣でたことが無い人もいたのではないでしょうか。

そんな人々の中に、神の箱がやって来たのですから、人々の興味、興奮は最高潮に達して、一目でも神の箱を見てみたいという衝動を喚起したようです。

そして、あろう事か、興味本意で神の箱の中までをも覗いてしまった、と言うのです。

聖書には、神の箱の中を見ること一切が、明確に禁じられている記述はありません。

関係箇所として、民数記420節に「彼らが入って行って、一目でも聖なる物を見て死ぬことのないようにするためである」と言う教えを見ることが出来ます。

これはアロンの子孫だけが聖なる物に直接触れることが許されているのであり、レビ人が聖なる物に直接触れる事を禁じる教えに付随する教えであり、部外者が勝手に触ったり、覗くことを禁じた教えであり、例え担当者であっても、聖なる物には最大限の注意を払わなければならないことを教えているものです。

これを根拠に、まさか神の箱を覗くことなど、想定していなかったので、禁止事項として記されなかったのかも知れません。

しかし、禁じられていないから何をやってもいい、と言うことにはなりません。

明文化された法にだけ従えば良いのではなく、その精神を読み取らなければならないのです。

明文化された法は完全なものではありません。

全てを想定して記したならは、十戒どころではなくなってしまいましょう。

ここで、神の箱を必要も無いのに覗き込むのは、自己満足と言う欲望の現れであり、分を越えた行為であり、何より神様を恐れない心の現れだ、と言うことです。

神様を恐れず、軽くあしらう気持ちがあるからこそ、覗き込めるのであり、話題の種にしようと我先にと覗き込む事になってしまい、その不敬を神様に指摘され裁かれてしまったのです。

6:20 ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。私たちのところから、だれのところへ上って行くのだろうか。」

6:21 彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を遣わして言った。「ペリシテ人が主の箱を返してよこしました。下って来て、あなたがたのところに運び上げてください。」

キルヤテ・エアリムはベテ・シェメシュの東北東20km程の所にある都市です。

ここに神の箱を移動させれば、災いもなくなる、軽減するだろうとは、ペリシテ人と全く同じ考え方です。

人は神様から離れれば何とかなる、と考えますが、とんでもない間違いです。

真の悔い改めがない限り、何の解決もないのであり、問題の解決を先延ばしにしているに過ぎません。

何時かは、この問題に対峙しなければならず、解決しなければ、永遠の滅びに至る事は確実なのです。

ペリシテ人は偶像の一つとして扱い、その不敬を裁かれ、ベテ・シェメシュの人々は、神の箱を覗き込むという不敬を犯して、その罪を裁かれました。

【適応】

神様はイスラエル人だからと言ってえこ贔屓し、何でも許しを与えるお方ではありません。

誰であっても間違った事をすれば、裁きを与えられます。

何人であっても、正しい事をすれば、祝福を与えられます。

その正しい事の代表とも言える行動は、悔い改める、と言うことです。

神の前に正しい事とは、良い行ない、敬虔な生活、慎み深い態度などではありません。

献金でも、奉仕でも、礼拝出席率でもありません。

失敗を隠さず、誤魔化さず、言い訳をしないで、悔い改める事です。

これは簡単なようで非常に難しい事です。

何故ならば、人はプライドが邪魔をしてなかなか罪を認める事、悔い改める事が出来ない生き物だからです。

謝る事が出来ず、有耶無耶にしようとしてしまいます。

更に、神様が素晴らしいお方であると解かっても、世界を支配しておられるお方だと解かっても、それでも神様の前に謙れないのは、善悪の知識の木の実を食べたからであり、その結果、神と同じようになったと思い込んでいるからなのです。

どんな状況になっても、それでもまだ神の前に平伏さないで、神様に出て行って頂く事、神様から離れる事しか考えないのです。

神様の裁きにあうことは、決して楽しい事ではありません。

出来れば避けたいし、先延ばしにしたいことでしょう。

しかし、先延ばしにしても解決はありませんし、避けられないことならば、もっと積極的に神様に関って見たならばどうでしょうか。

20節で「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。」と誰もが神の前には立ち得ない罪人であると告白したならば、続けて自分の犯した罪を認め、悔い改めることを考えなければならないのではないでしょうか。

当時の人口で千人当たり五人が打たれるというのは、人数に誇張があったとしても、異常な事態です。

この厳しい神様の裁きに会った時、逃げないで、隠れないで、避けないで、神の前に出て、悔い改めて、「私たちのところから、だれのところへ上って行くのだろうか」ではなく、「私たちのところから、出て行かないで下さい。私たちは悔い改めますから、私たちを見捨てないで下さい。」と願うべきではないでしょうか。

神様は悔い改める者と共にいて下さり、離れて行かれる事は決してありません。

出て行って頂く事に解決はありません。

神様がいて下さってこそ、解決の希望があるのです。

神様がペリシテ人を打たれるのは、真の神様を見出して欲しいからであり、神様がイスラエル人を打たれるのは、真の神様を信じるに相応しく神様に仕えて欲しいからなのです。

神様に打たれる事を、裁きと捉えるのと、悔い改めへの促し、と捉えるのとでは雲泥の差が生じます。

裁きと捉えれば、嫌なことであり、逃げ出す事を考えるでしょうが、悔い改めへの促しと捉えれば、そこに神様の愛を感じることが出来るのではないでしょうか。

神様は愛する者に鞭を与えます。

ヘブル人への手紙125節から8節、2017454ページ、第3440ページ、

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ。主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」

12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生子であって、本当の子ではありません。

あなたが当然受けるべき鞭を受けていないとすれば、それはあなたが神の子でないからなのかも知れません。

あなたが厳しい懲らしめを受けているなら、それはあなたが神の子であり、神様に愛されている証拠と言えるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様が、神様から懲らしめを受けた時、神様に愛されている証拠だ、と捉え、直ぐに悔い改めて、神様の前に謙ることが出来ますように。

その時神様はあなたを正しい者として立たせて下さり、神様は与えた懲らしめ以上の祝福を与えて下さいます。

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聖書箇所:エペソ人への手紙122節~23

説教題:「教会を知る」

【導入】

皆さん、「教会」って何でしょう。

「教会」って何、と問われたら、何と答えるでしょうか。

クリスチャンが集まるところ、イエス様、神様を礼拝するところ、子どもさんならば、十字架が立っているところ、教会学校をやっているところ、クリスマスになると飾り付けがされ、お祝いをしているところ、などなどの答えが返ってくるのではないでしょうか。

間違ってはいませんし、そう云う部分はありますが、「教会」の本質ではありません。

「教会」と云うのは、建物の事ではない、「群れ、集い、集会」を意味する言葉を由来としている、と何回も言って来ましたが、多くの場合は、建物を指している事が多いのも、事実です。

しかし、事実や思い込みは、決して真実、真理ではありません。

いま、日本の教会は、ここでは建物の事を意味しての発言ですが、クリスチャン人口の伸び悩み、高齢化、壮年層の減少などなどで、教会を維持する事が難しくなり、閉鎖を余儀なくさせられる場合も少なくありません。

事実、K兄弟が洗礼を受けられた目黒マルティン・ルーテル教会は閉鎖され、解消され、六本木ルーテル教会に吸収、統合されました。

教会と云う建物がなくなる事は、寂しい事ですが、悲しい事ですが、命あるものは、必ず死に、形あるものは、必ず崩壊するのが自然の摂理ですから、世の習いとして受け入れなければなりません。

しかし、教会の、ここでは建物の事ではなく、存在の意味については、正しく理解しなければなりません。

パウロは、エペソのクリスチャンたちに、もともとはアルテミス神殿を誇って来た、建物や歴史、来歴に意義を持って来たエペソのクリスチャンに、そして現代の私たちに、教会とは何かを伝えるべく、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 1:22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

すべてのもの」と云う言葉が二回出て来ました。

一般の世界、この世と、キリスト教世界とは、別世界、別次元ではありません。

唯一の神がこの世を、全宇宙を支配している以上、そして、御子キリストにこの世と、全宇宙の支配を委ねた以上、キリスト教世界と一般の世界、この世は、一つの世界であり、一つの次元なのです。

唯一の神は、キリスト教会を、一般の世界、この世、キリスト教世界の上に置いて、一般の世界、この世、キリスト教世界を支配させておられます。

決して、一般の世界とこの世は、この世の俗権に支配を委ね、キリスト教世界は、キリスト教会に支配を委ねているのではありません。

この世の俗権と、キリスト教会は、並列、同等に位置し、存在するのではありません。

キリスト教会は、一般の世界、この世に冠する位置に存在するのであり、唯一の神の御こころを行なうのです。

唯一の神は、「すべてのものをキリストの足の下に従わせ」「キリストを、すべてのものの上に立つかしらとし」ましたが、キリストは唯一の神の独り子であり、「主の主、王の王」であり、「すべてのものを足の下に従わせ」「すべてのものの上に立つかしらと」なられましたが、「すべてのもの」は、御子キリストの下に存在するだけでは不十分です。

すべてのもの」は、御子キリストの足元に膝を屈め、頭(こうべ)を垂れ、絶対的な服従をしなければならないのであり、渋々の服従や、状況に応じての服従や、出来る限りの範囲での服従であってはならないのです。

喜んでの服従であり、どんな状況であってもの服従であり、絶対的服従です。

何故ならば、唯一の神は、御子キリストに、全てを卓越した偉大な権限と栄光を与えられたからです。

御子キリストに勝る権限も、栄光もなく、比べようもなく、並べようもないのです。

その御子キリストを、唯一の神は、教会に与えられたのです。

教会に与えられたと申しましても、教会に従属する、の意味ではありません。

口語訳聖書が、「彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」と訳しているように、新共同訳聖書が、「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」と訳しているように、唯一の神は、御子キリストを「万物の上に立つかしら、すべてのものの上にある頭」とされたのです。

御子キリストは、教会とは別の存在ではありません。

しかし、御子キリストと教会は、渾然一体の融合体でもありません。

明確な区別がありながら、一体として存在するのです。

その答えが23節です。

1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

教会は、単に信仰者の群れ、集まり、集会ではありません。

頭である御子キリストと、有機的に結合しており、教会は、御子キリストから、御子キリストの霊的命を注がれ、受け、満たされ、霊的に成長し、霊的な完成を目指して進む群れ、集まり、集会なのです。

教会は、頭である御子キリストの良い助けを受け、御子キリストの御旨、御業を、キリスト教世界に対して行なうのみならず、一般の世界、この世に対して行なうのです。

教会は、御子キリストが、一般の世界、この世を、歴史を支配しておられる事を知っており、これを認めます。

これこそが、教会を教会とするものです。

サタン、悪魔は、御子キリストが、一般の世界、この世を、歴史をも支配するお方である事を知っていますが、これを認めません。

ルカの福音書45節、2017115ページ、第3114ページ、「4:5 すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、4:6 こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。4:7 だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてをあなたのものとなる」と、御子キリストに言い寄ります。

自分たちが一般の世界、この世を唯一の神から任されている、支配している、と自負し、豪語しますが、とんでもない誤解、甚だしい勘違いですし、キリスト教世界とこの世を区別する、聖俗を区別する二元論的考え方であり、危険な考え方です。

唯一の神は、悪い人にも、良い人にも、太陽を上らせ、正しくない人にも、正しい人にも、雨を降らせられます。

これを一般恩恵と言いますが、この一般恩恵に加えて、その恵みの与え手である御子キリスト御自身が臨在され、満ちておられるところ、それが教会なのです。

教会は、御子キリスト以外の、如何なる者をも頭として持たず、教会は、唯一の頭なる御子キリストのカラダなのです。

この関係が、教会の本質です。

御子キリストが頭であり、カラダである教会、すなわち、信徒がカラダとして機能しているなら、それが教会なのです。

【適応】

教会は、聖書の教えに対して一切の妥協や、嘘偽りなく、人間に対して忖度なく、この世から、何の見返りも期待しません。

一般の世界、この世を、そして、キリスト教世界を、唯一の神の御こころに従って支配し得るのは、御子キリストを頭とする教会のみです。

前回の繰り返しになりますが、パウロは「御子キリストの権威」と、御子キリストに権威を与えた、「父なる神の偉大さ」とを見よ、知れ、と叫びます。

「父なる神の偉大さ」は、人間の考え出した数多の神々には持ち得ない偉大さでだからあり、「御子キリストの権威」は、この世の偶像には持ち得ない支配、権威、権力、主権」だからですが、この「支配、権威、権力、主権」は、御子キリストだけに与えられたのものではないのです。

今日の説教題を教会を知る」としましたが、御子キリストに与えられた支配、権威、権力、主権」は、御子キリストのみならず、教会に与えられており、教会は、唯一の神の御こころに従って、支配、権威、権力、主権」を行使し、罪の満ちる、罪の力が支配する一般世界、この世に、唯一の神の御こころを知らせるのです。

教会が「キリストのからだであ」る、とは、どういう事でしょうか。

一つは、御子キリストのお考え、御思いが、教会の隅々まで行き亘る、と云う事でしょう。

一つの例として、御子キリストは立ち止まり、留まりたいのに、進むべきだとして、立ち止まらず、進み続けるなら、御子キリストの教会ではなくなってしまいましょう。

これは良い事だからと、強引に、また、伝統だからと、旧態依然を続けるなら、御子キリストの教会ではなくなってしまいます。

決して、伝統を守る事や、体裁を整える事ではありません。

先週、太田先生がお話された事ですが、変えてよい事、変えるべき事と、変えてはならない事とを混同してはならないのです。

先日、ローマ法王が来日しましたが、カソリックの改革に取り組んでおられます。

その一つとして、LGBTの人々を糾弾、排除するのではなく、彼ら彼女らも、救いの対象として見るべきであるとする、寛容な姿勢を見せていました。

教会は伝道すべきですが、伝道の方法も、変えてよいでしょうし、賛美にラップを取り入れても良いのです。

伝道の方法は、チラシを配布し、伝道集会、召天者記念礼拝、創立記念礼拝、クリスマス礼拝、等々を開くだけではありません。

信徒の生き様が伝道なのであり、信徒一人一人が唯一の神、御子キリストを信頼し、どんな時にも平安のうちにあり、喜び、感謝が絶えないなら、どんな著名な講師を招くより、有益です。

講師は年に一回程度、しかし、信徒の生き様は365日です。

それは逆に、信徒の責任が如何に重要か、と云う事でもありましょう。

人間のカラダが一つの器官から出来ていないように、カラダには色々な器官があり、別々の働きがあり、固有の働きをしますが、全体として調和が取れているのであり、調和が取れている時、健康的なカラダとなります。

同じように教会も、同じ人の集まりではありません。

色々な人がおり、別々の働きがあり、固有の働きをしますが、全体として調和が取れている時、健全な組織を形成します。

御子キリストの目となって、御子キリストに仕え、御子キリストの耳となって、御子キリストに仕え、御子キリストの口となって、御子キリストに仕え、御子キリストの手となって、御子キリストに仕え、御子キリストの脚となって、御子キリストに仕えるのです。

しかし、決して御子キリストに成り代わるのではありません。

御子キリストがなさったようにです。

色眼鏡で見るのではなく、先入観を持って聴くのでもなく、叱咤激励するのでもなく、先手先手を打って、代行するのでもなく、ただただ来るのを待っているのでもありません。

ありのままを受け入れ、こちらから近づき、手を添え、寄り添い、歩調を合わせて、なのです。

こちらのペースではなく、相手のペースに合わせてです。

私のしたい事をして差し上げるのではなく、相手の欲するところを、です。

聖書は、ルカの福音書631節、2017122ページ、第3120ページ、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい」と教えますが、「あなたの望む事」と「その人の望む事」とは違います。

良かれと思ってしたとしても、それは自己中心の行動でしかありません。

常に相手の考えを尊重し、「その人の望む事」を提供しなければ、大きなお世話であり、ありがた迷惑どころの話ではなくなってしまうでしょう。

癒しが必要な人に対しても、御子イエス様のお考えで、御子イエス様のタイミングで癒されるのではなく、「良くなりたいか」と確認されてから、癒されるのです。

教会は、信徒を用いて、御子キリストを具現化する場、と言い換えても良いでしょう。

そして、唯一の神の御こころを知らせるのに特化しているのが、教会です。

御子キリストをかしらとし、信徒が御子キリストに満たされ、各部分として存在するのが教会です。

牧師は、御子キリストに満たされ、御子キリストを指し示す説教を取り次ぎ、

信徒は、御子キリストに満たされ、それぞれの賜物、持ち味が生かして、御子キリストに仕える時、教会は、一般の世界、この世、キリスト教世界に御子キリストの栄光を現し、一般の世界、この世は、御子キリストが教会に満ちていると認めるに至るのです。

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