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                               2019-2-24礼拝

聖書個所 サムエル記第一2:12172236

説教題 「神への献げもの」

【導入】

エルカナ家に誕生したサムエルは、ハンナの誓約通り、乳離れするとシロの主の宮に連れて来られ、祭司エリに預けられ、その下で教えを受けて成長し、偉大な預言者となりました。

勿論、神様の導きと御介入が有った事は言うまでもありませんが、ハンナの決心、夫エルカナの同意、そして祭司エリと言う良い先生と巡り合い、幼い時に預けられた事は、サムエルにとって重要なことでした。

幼い時から、主の宮で暮らし、祭司エリの立ち居振舞いを見て育ち、ハンナの執り成しの祈りによって、神様を恐れる偉大な預言者になった、これは当然の結果とも言えますが、決して当然ではないのです。

同じような環境に置かれていながら、祭司エリの二人の息子は、偉大な預言者になるどころか、神様を侮る、よこしまな者へと成長してしまったのです。

偉大な預言者サムエルを育て上げた祭司エリですが、二人の息子の教育は、上手く行かなかったようです。

【本論】

第一サムエル212節には「さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった」とあります。

よこしまな者」の「よこしま」と言うのは、「邪悪」と言う熟語の「邪」と言う字であり、「正しくない」と言う意味です。

正しくない、と言うのは神様に対してであり、神様中心ではなく、エリの息子たちは、自分の欲望を中心とした生き方をする若者に育ってしまったのです。

そして、「主を知らなかった」、つまり、神様を神様として恐れず、或いは、神様を敬わず、神様を蔑ろにする生き方をする息子に育ってしまった、と言うのです。

同じ祭司エリの下で教えを受け、祭司として神様に仕える、その姿を見て育った三人ですが、結果は大きく違ったものになりました。

祭司の務めというものは、誰にでも出来る、或いは、誰がなっても良い訳ではありません。

出エジプト記299節、2017版旧約聖書151ページ、第3147ページ、

アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ」とあり、祭司の職は、アロンの子孫だけに許された、特別な勤めでありました。

しかも、レビ記2121節、2017版旧約聖書216ページ、第3210ページ、

祭司アロンの子孫のうち、身に欠陥のある者はだれも、主への食物のささげ物を献げようと近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンを献げるために近寄ってはならない」とあり、祭司の仕事は、神様によって定められた特別な仕事であり、多くの人の中から選ばれ、多くの仕事の中から「区別された、特別な、聖なる務め」であった事が解かります。

それなのに、祭司エリの、二人の息子、ホフニとピネハスは、選ばれた者にしか出来ない、聖い神様に仕える、特別な働きという自覚のない、自分たちの欲望の方を優先させる様な人間に育ってしまったのです。

しかも、神様の事を二の次、三の次にするだけでなく、そのやり方までもが、自分勝手なものだったのです。

2:13 民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、

2:14 これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。

2:15 そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の師弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ。」と言うので、

2:16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。

2:17 このように、子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは主へのささげ物を侮ったのである。

礼拝に訪れた人々は生贄、献げ物を持って主の宮にやって来ます。

その生贄を祭司の下役たちが預かり、屠り、神様に献げる準備をしていると、ホフニとピネハスがやって来て、横取り、いや強奪してしまうのでした。

神様に献げられる物は、祭司、レビ人など、宮に仕える人々の生きる糧となる物ですから、食べていい物ですし、自分の物として取っていい物です。

もし、食べる事を禁じられたならば、祭司やレビ人たちは何を食べれば良いのでしょうか。

祭司やレビ人たちには畑などの相続地と言う物が与えられていないのです。

生産、収穫の手段がないのです。

ですから、神様に献げられたものは、祭司・レビ人たちの食料として、神様が認められた、当然の権利と言うべき事なのです。

食べていい物ですし、自分の物としていいのですが、しかし、順序があります。

まず、特定の部分を神様に献げる事です。

特定の部分を献げる事は、いけにえの全てを神様に献げる事のあかしであり、その後で、残りの部分が祭司、レビ人たちに与えられ、自分の物とする事が出来るのです。

また、食べて良い部分と、食べてはいけない部分があります。

いけにえの脂肪と血は神様の物なのであり、食べてはならないのです。

レビ記31617節、2017版旧約聖書179ページ、第3173ページ、

祭司は祭壇の上で、それを食物として、芳ばしい香りのための食物のささげ物として焼いて煙にする。脂肪はすべて主のものである。あなたがたがどこに住んいても代々守るべき、永遠の掟はこれである。あなたがたは、いかなる脂肪も血も食べてはならない。

このように、定められているのに、祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスは、この定め、祭司の務めより自分の欲望を優先させて、神様へ献げられるべき物を、自分たちの物にしてしまったのです。

しかも献げ物の事だけでは済みませんでした。

何か一つが狂った時は、それだけに留まらず、その陰に多くの間違いが隠れていることが多いのです。

献げ物の事は表面に出てきた事の一つにしか過ぎません。

祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスの行ないは、生贄の事だけに留まりませんでした。

人々のうわさ話になるほど、性的に乱れた生活を送っていた、と言うのです。

2:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。

2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。

2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。

2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。

性の乱れ、性的な汚れは神様の忌み嫌われるものの代表的なものです。

性の問題、結婚は神様の創造のみ業の中で、重要な位置を占めています。

神様の造られた世界を従え、支配する為に定められた、特別な制度なのであり、神様は、ご自分とイスラエルの民との関係を婚姻・結婚・夫婦関係を用いて教えておられます。

性は、正しく扱わなければならない、清い、大切な、問題なのです。

それなのに、民の手本、模範とならないで、逆に悪い噂になっているというのです。

会見の天幕の入り口で仕えている女」性、と言うのは、身もこころも神様に献げて、神様にお仕えてしている女性でしょうか。

そんな女性を誘惑しているとするならば、言語道断です。

或いは、神殿娼婦の名残なのでしょうか。

神殿娼婦・神殿男娼と言うのは、バアル・アシュタロテなどの豊穣神信仰から来た風習であり、そんな悪しき風習を諌め、指導する立場にある者が、先頭切って行なっていたのなら、これも大変な事です。

生贄の事についても、乱れた行動についても、見過ごしにする訳には参りません。

祭司エリは二人の息子に、神様に対する罪の重さを諭しますが、ホフニとピネハスは、父であり祭司であるエリの言う事を聞いて、悔い改め様とはしませんでした。

22節に「エリはたいへん年をとっていた」とありますし、419節には「ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であった」と言う言葉からも分かるように、ホフニとピネハスは、「大人」であったのです。

つまり、祭司の息子としても、年齢的に見ても、若気の至りでは済まされない、「大人」としての分別ある行動を要求される立場にあったのです。

妻があり、子どもも生まれると言うのに、会見の天幕の入り口で仕えている女性と淫らな行ないを、日常的に行なっていた訳なのです。

イスラエルの民の前で、模範となる生き方が求められていたのにです。

どのように神様に仕え、どのように神様の栄光を現すかが、問われる立場にあったのにです。

それなのに、神様不在の生き方、神様は見ては居られない、といった行動を取り続けて居たのです。

よこしまな者で、主を知らないから、生贄を侮る様に、淫らな生活をするように成ったのか、生贄を侮っても、ふしだらな事をしても何も起こらないから、よこしまな者、主を敬わない者に成ったのか分かりませんが、どちらにしても、忠告を受け容れず、悔い改めなかったホフニとピネハスの責任です。

詩篇9489節、2017版旧約聖書1033ページ、第31001ページ、

94:8 気づけ。民のうちのまぬけ者どもよ。愚かな者どもよ。いつになったら悟るのか。

94:9 耳を植えつけ方が、聞かないだろうか。目を造った方が、見ないだろうか。

私たちは隠せる、知られずに済むと思い易い者です。

誰でも初めから大胆な悪者はいません。

最初はびくびくしながらやっていた事も、段々慣れてしまい、平気になってしまうのです。

罪の恐ろしさはここにあります。

上手くいったから、捕まらなかったから、次々と悪事を重ねて行くのです。

経験を重ねるに連れて、巧妙、大胆、用意周到になって、地獄への道を一気に駆け下りて行く事になるのです。

今日の聖書に出て来るホフニもピネハスも、最初のうちはちょっとした、摘み食い程度、手続き、順番を省いただけ、と言う思いだったのではないでしょうか。

それが、段々エスカレートして、人が見ていようが、誰に知られようが平気な行動を取る様になっていったのです。

神様は見ていないのでしょうか。聞いていないのでしょうか。

神様は現在だけでなく、過去も、未来も見る事、知る事の出来る御方です。

神様は喋った言葉だけでなく、片隅で囁いた言葉も、心の中で思っただけで、声に出していない言葉でさえも、ちゃんと聞いておられるのです。

人には隠せ、知られずに済む事はたくさんありますが、神様に隠せる事や、知られずに済む事は、唯の一つも無いのです。

良い事であっても、悪い事であっても、神様は全てを聞いておられ、全てを見ておられるのです。

そして、人に隠していても、神様が明らかにされ、厳しい裁きをお与えになるでしょう。

詩篇9267節、2017版旧約聖書1032ページ、第31000ページ、

92:6 無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。

92:7 悪い者が、青草のように萌え出で、不法を行う者が、みな花を咲かせても、それは彼らが永久に滅ぼされるためです。

正しい者は、神様が居られる事、そして、聞いておられ、見ておられる事を知っているので、正しい行いを心がけます。

しかし、間抜けども、愚か者は、神様を認めないが故に、間抜けであり、愚かなのです。

神様など居ない、聞いていない、見ていないと思い込んでいるのです。

そして、悪の限りを尽くし、神様を悲しませ、回りの人々や被造物を苦しめているのです。

そんな、間抜けども、愚か者だからと言って、神様のみこころは、裁き、殺す事ではありません。

彼らが悔い改めて生きる事なのです。

だから、悪人が雑草の様にはびころうとも、悪さをしていい気になっていても、見かけだけの成功に満足していても、忍耐を持って、悔い改めるまで、待って下さっているのです。

しかし、愛を込めて戒めても、権威を持って忠告しても、神様の前に、悔い改めて、へりくだろうとしない者に対しては、その報いとして、滅びがやって来るしかないのです。

その滅びは、直ぐにやって来るかも知れません。

遠い未来かも知れません。

究極的にはイエス様の再臨の時かも知れません。

どのタイミングであったとしても、最終的には、滅びるしかないのです。

神の人が祭司エリのところに来て、警告を与えます。

2:27神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。

2:28 わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人の子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。

2:29 なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。

2:30 それゆえ・・・イスラエルの神、主のことば・・・あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や・・・主のことば・・・それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。

2:31 見よ。その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。

2:32 イスラエルがしあわせにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。

2:33 わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人のてによって死ぬ。

2:34 あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。

2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油そそがれた者の前をいつまでも歩む。

2:36 あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください。』と言う。」

ホフニとピネハスの行動は、父としての訓戒や、祭司としての叱責にも、預言者の忠告にも悔い改められる事はありませんでした。

神様は突然、警告も無く裁かれる事はありません。

色々な形で、何度か、警告が与えられます。

本人に直接、語られる事もあるでしょうし、幻を通して知らせる事もあるでしょう。

周りの人々を通して知らせる事もあるでしょう。

神様からはサムエルや預言者を通して、祭司エリに警告が与えられました。

ホフニとピネハスに対しては、父であり祭司であるエリを通して忠告が与えられました。

その、悔い改めのチャンスを、愚か者や間抜け者は、見逃してしまう、まだまだ間に合うと思ってしまうのです。

しかし、裁きは確実にやって来ます。

そして、裁かれてやっと気がつくのですが、それではもう遅いのです。

この34節の「ホフニとピネハス…二人とも同じ日に死ぬ」という預言は現実の事となるのです。

【適応】

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。

人に対しての罪は、神様が仲裁に入って下さいます。

また、損害を償い、罰金を支払う事で和解が成立します。

しかし、神の御名を冒涜したり、神を呪ったり、と言う罪に対しては、必ず殺されなければ成らなかったのです。

マルコ32829節、2017版新約聖書71ページ、第369ページ、

3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。

3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

聖霊をけがす者とは、聖霊の働きに逆らい続ける者であります。

つまり、悔い改めを拒み続ける者であり、このような者は、赦される事がないのです。

赦されないのではなく、赦されるチャンスを、自ら拒み続けていると言った方が正しいかもしれません。

献げ物を侮る、神様を侮るというのは、何も、ホフニとピネハスの様な大胆な行動だけではありません。

献げ物や礼拝が、習慣になっていて、何の感謝も感動もなく献げているようであっては、侮っている事になるのではないでしょうか。

収入の十分の一を献げる事についても、安息日を守る事においても、私たちは割り引いて考えてはいないでしょうか。

十分の一に満たないけれど、まあ、大丈夫だろう。

それが何時しか20分の一になり、50分の一になり、100分の一になって行くのです。

52回ある日曜日ですが、最初は1回休む事にも躊躇があっても、段々と休む事に抵抗がなくなって行くのです。

これが神様を侮る、って言う事なのです。

神様は献げる者の心をご覧になられます。

詩篇5117節、2017版旧約聖書986ページ、第3955ページ、

神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません。」

神様に受け容れられる生贄は、砕かれ、悔い改めた心なのです。

私たちはどんなに頑張っても貧しい礼拝しか献げられません。

一生懸命やっても貧しい奉仕しか出来ないし、目一杯献げても貧しい献げ物しか献げられないのです。

しかし、どんなに貧しい礼拝でも、どんなに小さい奉仕でも、どんなにささやかな献げ物でも、砕かれた心で、悔い改めた心で献げるならば、神様は喜んで受け入れて下さいます。

そして心が砕かれる事も、悔い改める事も、聖霊の働き無しには考えられません。

聖霊様が働かなければ、心が砕かれることも、悔い改めることもないのです。

そして教会に来ることも、聖書を読む事も出来ません。

聖霊様が私たちの内側で、生き生きと働くために、神様に対する感覚が鈍らないように、日曜日には教会に来て、説教に耳を傾けましょう。

神様の言葉である、聖書を毎日読み、その教えに従いましょう。

聖霊の導きに従い、悔い改めて、永遠の命を戴く者になりましょう。

神様の喜ばれる生贄は「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」

砕かれた悔いた心を持って、礼拝を献げ、感謝の献金を献げ、賛美と祈りを献げる者になりましょう。

ここにおられる皆様の心のこもった礼拝を、奉仕を、献げ物を神様は喜んで受け入れて下さっています。

これからも、神様に受け入れられる礼拝を、奉仕を、献げ物を献げ続けようではありませんか。                                           

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                                                                2019-2-17礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書176節から19

説教題:「イエス様の祈り・・・弟子たちのため」

【導入】

イエス様は、生活、言動、などなど、全てにおいて、お手本を示されました。

聖書の教えの根本、神を愛し、人を愛する事の具体例を示されました。

勿論、限られた時間の中で、ですので、伝え切れなかった事も多々あったでしょうが、「助け主、聖霊様、真理の御霊」が送られ、イエス様の語られた事を、更に深く理解し、信仰生活に適応出来るように助けてくださるのです。

とは言え、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助け、導きは、万能、完全ではありません。

人間は「助け主、聖霊様、真理の御霊」の指示通りに動く、ロボットではないからです。

神様は、人間に主体性を与え、人間の主体性に任せているのであり、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助け、導きに従うも自由、従わないも自由、なのです。

そして、罪を持つ人間は、罪の導きに従い易く、安易な方向に流れ易く、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助け、導きには、中々、従い得ないのです。

だからこそ、先ずは、自分自身のために祈らなければならず、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助け、導きに従えるように、父なる神様の御こころ、御計画を、深く理解出来るように、父なる神様のご計画に、積極的に応答出来るように、喜んで応答出来るように祈らなければならないのです。

牧師の働きは、御ことばの説教と、執り成しの祈りを献げる事ですが、それらの働きの前に、先ずは、自分自身のために祈らなければなりません。

罪の力を抑え、「助け主、聖霊様、真理の御霊」に満たされるように、健康が守られ、家族や自身の問題に煩わされる事のないように、集中して説教に取り組めるように、集中して執り成し祈れるように、祈らなければなりません。

忙しい時、慌しい時、時間が迫っている時には、祈るより先に、物事を始めてしまい易いのですが、気持ちを落ち着かせ、いったん手を止めて、自分自身を整えるための祈りを献げなければなりません。

また、忙しい時、慌しい時、時間が迫っている時には、不思議と些事が飛び込んで来易く、忙しさ、慌しさに拍車が掛かる事がありますが、要注意であり、神様を見えなくさせる力に対抗するのは、祈るしかありません。

イエス様の置かれた状況は、闇の力が迫っており、一刻の猶予もないような状況ですが、ご自身が、父なる神様の御こころに、御計画に従順であるように、父なる神様の御栄光を現せるように祈られました。

続いて、イエス様が昇天されてから後に起こる、混乱や患難、迫害に立ち向かう弟子たちのための執り成しの祈りを、罪の世に、置き去りにされる弟子たちを、父なる神様の御手に委ねる祈りを献げられます。

【本論】

新改訳2017版 17:6あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。

弟子の本質は、父なる神様によって、一方的に「選び出」された者です。

自分から弟子入りを願い出たものは、一人も居ません。

これは、信徒たちにも同じ事が言えます。

父なる神様が「世から選び出し」、イエス様に「与えてくださった」、或いは、「委ねてくださいました」ので、イエス様が声を掛け、召し出し、弟子となったのであり、信徒となったのであり、自発ではありません。

この選びですが、何かに秀でているので、選ばれたのではありません。

だからと言って、誰でも良く、適当に、場当たり的に選ばれたのでもありません。

選ばれた事を深く受け止め、感謝して応答する者が、結果として選ばれるのです。

導入で申し上げたように、人間には主体性が与えられているので、選ばれても、拒否する事が出来ます。

弟子選び、信徒選びの段階で、父なる神様は人間の主体性を尊重され、無理強いは一切されません。

従わざるを得ない状況に追い込む事もなさいません。

父なる神様に声を掛けられ、応答した者が、弟子となる、信徒となるのです。

そして、弟子となった以上は、父なる神様の御こころ、ご計画に、積極的に従う事が期待され、求められるのは、改めて確認するまでもない事でしょう。

イエス様は、一般人として生活していた、無学な漁師、人々から敬遠されていた取税人などを選び出し、弟子とされ、父なる神様の御こころ、ご計画を、教えられました。

あなたの御名を現しました」とは、父なる神様の存在、本質、御こころを明らかにされた、と云う事です。

父なる神様の事を知らずして、イエス様に従い得ず、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受け入れる事も出来ません。

父なる神様への従順は、父なる神様についての明確な知識に基づかなければならず、父なる神様の御こころやご計画を知らないでいては、イエス様に従っていると見せかけているだけで、実は形だけの、実質の伴わないものでしかなく、父なる神様の御こころやご計画を知らないでいては、「助け主、聖霊様、真理の御霊」は受け入れようがないのです。

父なる神様の御こころやご計画を知っているから、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受け入れられるのであり、「助け主、聖霊様、真理の御霊」が働かれるので、ますます、父なる神様の御こころやご計画に応答する弟子となる事が出来るのです。

17:7あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。

あなたがわたしに下さったものはすべて」とは、イエス様の行なわれた言動の全てであり、それらが、父なる神様から出ている事は、今までに、何回も話されて来た事です。

イエス様が、自分自身のお考えで行なわれた事は、ただの一つもありません。

イエス様が繰り返し、弟子たちにお話になった事によって、弟子たちは、イエス様が行なわれた言動が、父なる神様から出ている事を理解したのです。

17:8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

父なる神様の理解のためには、父なる神様の御ことばを聴かなければなりません。

父なる神様の御ことばやご計画は、父なる神様の御ことばで理解するのです。

言い方を変えるならば、聖書は、聖書で理解するのであり、聖書の説教で、聖書を理解するのです。

勿論、イエス様が時代と文化に合わせて喩えを用いられたように、聖書以外の資料で、聖書理解の助けとする事もあるでしょうが、その場合は、慎重さが要求されましょう。

聖書が禁じている事柄の、或いは奨励する事柄の、現代への適応、対処は、聖書の他の箇所から判断する事です。

聖書以外の資料で判断するのは非常に危険です。

自分たちの都合が良い方向に誘導されかねないからです。

父なる神様の事は、イエス様の語る御ことばで知るのであり、イエス様の語られる御ことばは、父なる神様から預かった御ことばであり、全ては、父なる神様から発し、父なる神様の栄光を現す事に行き着きます。

父なる神様の栄光が現されないならば、それは、父なる神様から発した事ではありません。

どんなに素晴らしい感動的な説教も、成る程なと納得させられる聖書解釈も、神様を指し示さず、イエス様が蔑ろにされているならば、それは、キリスト教の説教では、聖書解釈ではありません。

父なる神様の御ことばだけが、父なる神様とイエス様の事を知る唯一のツールなのであり、父なる神様の御ことばだけが、父なる神様とイエス様を信じるための唯一の道なのです。

17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。

イエス様は、弟子たちをこの世に残して、去って行かなければなりません。

弟子たちの未来には、困難や苦難、迫害や殉教が確実に待っており、特別な祈りと、特別な助けが必要です。

当然、ここでイエス様は、この世が行き過ぎた困難や苦難に走らないように、行き過ぎた迫害や殉教が起こらないように、と祈るところでしょうが、イエス様はそんな事は祈りませんでした。

迫害や殉教が起こるのを見越して、具体的な助けや保護を求め、祈ったのではなく、「お願いします」とだけ、祈りました。

ここに、万感の思いが込められているのではないでしょうか。

ぐだぐだと、一々、細かい事を祈らなくても、父なる神様は、全てを知っておられ、ご自分に属する者を知っておられます。

弟子たちを、困難や苦難、迫害や殉教から守ってくださいと祈るのではなく、弟子たちが、困難や苦難、迫害や殉教に遭う中で、弟子として相応しく振舞えるように祈ったのであり、弟子たちの言動で、神様の御栄光が現されるように祈ったのです。

17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。

10節でも、イエス様は、イエス様と父なる神様とが、その所有の関係において、目的と意図において、相互的である事、一体である事を宣言します。

イエス様の弟子たちは、父なる神様の弟子であり、弟子たちの働きに於いて、イエス様と父なる神様とのお考えは一致しており、弟子たちの働きを通して、父なる神様とイエス様は共に栄光を受けられるのであり、これらの点において、父なる神様とイエス様は完全に一致しておられるのです。

17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。

11節後半の、イエス様の祈りは、弟子たちが「一つになるため」に「彼らをお守りください」です。

けっして、弟子たちが、困難や苦難、迫害や殉教から守られる事を祈ってはいません。

イエス様は、弟子たちが困難や苦難、迫害や殉教の中で、「一つになる」ように祈ったのです。

これは弟子たち同士の、横のつながりを奨励しているのではありません。

父なる神様の御こころやご計画に、イエス様が完全に一致しているように、弟子の一人一人が父なる神様の御こころやご計画と一致する事を願っての、執り成しの祈りであり、「教会」のための特別の祈り、と云う事が出来ます。

教会の存在目的は、父なる神様と結びついた信徒が、一つとなって、イエス様によって完成された、父なる神様のご計画の全貌を、この世に伝え、十字架によって現された、父なる神様の、犠牲的愛を知らしめる事です。

教会は、仲良しクラブでもなければ、旧友との再会の場でも、旧交を温める場でもありません。

再会を喜ぶのではなく、再会までに、何を為して来たか、を確認、報告する場であり、過ぎた一週間の、弟子としての歩みの報告であり、新しい一週間を、弟子として歩むために、祈る場、励ましあう場、です。

17:12彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。

この世に置かれた弟子たちは、この世の様々な影響を受けますが、イエス様が盾となり、壁となって、弟子たちに向けての、この世からの攻撃を受けてくださり、弟子たちを守ってくださいました。

しかし、イエス様が去られたならば、世に残された弟子たちは、今までのように、イエス様に守ってもらう事が出来ません。

この世の攻撃の矢面に曝され、あらゆる誘惑が襲って来るでしょう。

巧妙な罠が張り巡らされ、あの手、この手で、この世に引き戻そうとするでしょう。

絶え間のない攻撃、誘惑、罠に陥らないためには、自分の考えや価値観を優先させるのではなく、父なる神様の御こころやご計画を優先させ、イエス様を信じて、意識的に従う事です。

信仰が、惰性や習慣となってしまっては、この世に足を掬われます。

自分は父なる神様、イエス様を信じ続ける、従い続けると、常に意識していなければなりません。

油断をするならば、イスカリオテのユダのように、大失敗をしてしまうのです。

17:13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。

イエス様の祈りは、お手本であり、弟子たちに聞かせる意図を持って祈られました。

イエス様の喜びとは、弟子たちが福音を宣教する事によって、弟子たちが味わう喜びの事であり、イエス様と弟子たちが、一体であり、苦楽を共有する関係である事を教えています。

弟子たちが苦しむ時、イエス様も父なる神様と共に苦しんでおられ、弟子たちが悲しむ時、イエス様も父なる神様と共に悲しんでおられ、弟子たちが喜ぶ時、イエス様も父なる神様と共に喜んでおられるのです。

17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

イエス様が弟子たちに、父なる神様のことば、即ち、真理を与える時、悪の支配下にあるこの世は、真理を排除しようとして、真理に立つ弟子たちを憎み、攻撃します。

この世が、神の真理に立つ、弟子たち、教会を憎み、攻撃するのは当然な事なのです。

父なる神様に属する者は、誰でも、世に憎まれるのであり、攻撃を受けるのです。

もし、憎まれず、攻撃を受けないならば、その弟子たちは、教会は「自称」であり、イエス様の認める弟子たち、教会ではないのです。

この世から憎まれ、攻撃を受けるのが、真の弟子たち、教会の印であるのですから、憎まれ、攻撃を受ける事に、怯んではなりません。

また、この世と摩擦、諍いが起こらないように、距離を置くのも、イエス様の弟子たち、教会の取るべき手段ではありません。

イエス様の弟子たち、教会は、この世に出て行き、真理を、福音を宣教しなければならないのであり、そのために、この世から守ってくださるようにと、イエス様は祈ります。

17:15 わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

イエス様の弟子たちは、安全地帯に派遣されるのではなく、この世という、危険地帯に派遣されるのであり、父なる神様が、イエス様をこの世に派遣され、御こころ、ご計画を成し遂げられたように、イエス様は弟子たちをこの世に派遣され、弟子たちは委ねられた働きを成し遂げなければなりません。

働きの前進のために、守られるのであり、身の安全や、名誉を守られるのではありません。

17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

弟子たちは、この世に身を置いていますが、この世に属する者ではありません。

弟子たちは、この世の影響を受けますが、この世に溶け込んでしまってはなりません。

弟子たちは、この世の人々と関わりを持ち続けますが、この世の人々と同化してしまってはなりません。

弟子たちは、この世に遣わされているのであり、この世と断絶してはなりませんが、近寄りすぎてもなりません。

弟子たちは、この世に影響を与え、この罪の世に神の国を現して行く、崇高な働きについているのであり、この世と妥協してはならないのです。

17:17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

今まで学び、確認して来たように、「真理」には幾つかの意味が含まれています。

「イエス様」を意味する時もあり、父なる神様を出所とする「御ことば」を意味する時もあります。

「イエス様、御ことば」によって、罪ある弟子たちを「聖別」、即ち、福音宣教の働きに相応しく、整えてください、と祈ります。

「イエス様、御ことば」は、万能であり、「イエス様、御ことば」によって「イエス様、御ことば」を理解し、「イエス様、御ことば」によって「真理」を明らかにし、「イエス様、御ことば」によって「罪」を指摘し、「イエス様、御ことば」によって「赦し、救い」を宣言するのです。

イエス様の弟子たちには、この「イエス様、御ことば」が委ねられ、世に遣わされるのです。

17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

父なる神様は、この罪の世と和解するために、イエス様を世に遣わされましたが、同じように、イエス様は、この罪の世が、父なる神様と和解した事を知らせるために、弟子たちを世に遣わします。

本当に大切な働きなのですが、この世は、父なる神様との和解には、興味を示しません。

父なる神様との和解など、どうでも良い事であり、かえって煩わしくなるだけ、今のままでいい、どうせ死んでお仕舞いなのだから、と考えましょう。

厭世観が蔓延し、刹那的な生き方で何が悪い、と云うでしょう。

そんな世に遣わされるのですから、弟子たちの苦労は、並大抵ではなく、暖簾に腕押し、であり、福音宣教に諦めムードも漂いましょう。

しかし、父なる神様は、この罪の世を見捨てず、イエス様を遣わされたのであり、イエス様も、この世に見切りを付けず、弟子たちをこの世に遣わされ続けるのです。

17:19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。

イエス様ご自身の「聖別」とは、イエス様ご自身が大祭司として、弟子たちのために、生贄を献げる事であり、ご自身を、完全な生贄として献げられる事です。

イエス様ご自身が生贄になられる事よって、17節の「弟子たち」の「聖別」が完成します。

弟子たちの聖別は、イエス様によってなされますが、弟子たちの聖別は、父なる神様の御こころであり、ご計画であり、ここにも、父なる神様の主権と秩序が、明確に現されており、イエス様の、弟子たちのための祈りによって、弟子たちは、父なる神様の絶対主権と、秩序を強く、印象付けられたのではないでしょうか。

そして、聖別された弟子たちによって、福音宣教の働きは、前進するのです。

【適応】

父なる神様の御こころならば、ご計画ならば、父なる神様に確認するまでもなく、どんどん進めるべきと考えましょうが、常に、父なる神様の御栄光が現されるために、父なる神様に献げる祈りを通して、確認を行わなければなりません。

大筋でも、個別の案件でも、過去にあった事の再現であっても、似たような事例であってもです。

父なる神様の御こころやご計画は、弟子たちの経験や、前例で進めてはなりません。

それでは、弟子たちの判断や経験の結果であり、弟子たちの栄光は現されましょうが、父なる神様の御栄光は現されません。

徹頭徹尾、父なる神様の御栄光のためであり、常に、父なる神様の御こころやご計画を確認しつつ進めるのが、イエス様の弟子たる者の務めです。

イエス様の、弟子たちのための祈りは、常に、父なる神様に対する祈りであり、6節から19節までの、14節の間に、父なる神様を示すことば、「聖なる父」「あなた」とのことばは24回も登場します。

イエス様の祈りは、常に父なる神様を強く印象付ける祈りであり、弟子たちは、父なる神様を意識せざるを得なかったでしょうが、これからの伝道、福音宣教の働きには、欠かす事の出来ない態度です。

神の御子イエス様は、全てにおいて手本となられましたが、祈りにおいても、手本を示されたのです。

イエス様の弟子たちは、イエス様の弟子であると共に、父なる神様の弟子であり、常に、父なる神様と一体である事を意識しなければなりません。

横のつながり、即ち、弟子同士のつながりも大切ですが、基本は、父なる神様とのつながりです。

これは、弟子のみならず、信徒全てに当て嵌まる事です。

弟子の一人一人が、父なる神様としっかり繋がっている事が大切なのであり、イエス様の祈りは、弟子の一人一人が、父なる神様との結びつきを意識させる目的を持って祈られたのであり、弟子たる者の祈りも、他の弟子たちが、父なる神様としっかり繋がるように祈るのです。

弟子同士が、仲良く伝道出来るようにではなく、弟子の一人一人が、父なる神様、イエス様との縦の関係の一体となるよう、祈るのであり、それが出来ると、弟子同士も一体となれるのです。

父なる神様との関係がしっかり構築出来ていない者の群れは、烏合の衆であり、何の働きも出来ないばかりではなく、混乱を招くだけの存在になってしまいます。

父なる神様としっかり結び付いた弟子たちが集まることによって、伝道、福音宣教の働きは、前進するのです。

祈りは、先ず、自分自身が、父なる神様、イエス様としっかり結び付くように、父なる神様の御こころとご計画に正しい応答が出来るように祈り、続いて、他の弟子たちが、父なる神様、イエス様としっかり結び付くように、父なる神様の御こころとご計画に正しい応答が出来るように祈るのです。

弟子たるあなたの祈りは、如何ですか。

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                                                        2019-2-10礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書171節から5

説教題:「イエス様の祈り・・・ご自分のため」

【導入】

イエス様は、人間の罪の贖いのための、十字架の死を目前にされ、弟子たち、信徒たちに、動揺しないように、悲しまないように、慰めと励ましのことばを語られ、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を送ると、約束されました。

助け主、聖霊様、真理の御霊」が送られるのは、この世から隔絶された安全地帯のような場所で、何の苦労も不安もない、楽しい平穏な信仰生活を送るためではありません。

真逆であり、イエス様に従う歩みには、困難や患難が待ち受けているのであり、迫害や殉教も覚悟しなければならないのです。

しかし、「助け主、聖霊様、真理の御霊」が共におられるので、困難や患難、迫害や殉教をも、恐れずに、怯まずに信仰を守り続け、罪の世に出て行って、イエス様を証しし続ける事が出来るのです。

イエス様について、天の父なる神様について、神様のご計画について、証しするためには、聖書の教えを正しく理解しなければならず、聖書の教えを正しく理解するためには、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助けが必要、不可欠なのです。

即ち、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の、知的助け、霊的助け、現実的助けによって、この罪の世に、戦いを挑むのですが、この罪の世との戦いは、俗に言うところの戦い、血肉の戦いであると共に、特殊な戦い、霊的な戦いであり、そのためには特別な祈りが必要なのであり、本日の聖書箇所は、その事を扱っています。

詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

イエス様は、弟子たちに、神様の御心、聖書の教えるところの真理について、また、これからの宣教の働き、伝道の働きに必要不可欠な知識を、大切な事を話されました。

これらは、イエス様の働きの「預言者」の部分、と云う事が出来ましょう。

イエス様は、ご自分の考えを述べられたのではありません。

イエス様は、父なる神様に従って、父なる神様から預かったことばを、そのまま述べられ、伝えられたのであり、これは、「預言者」の働き、そのものです。

そしてイエス様には、他に「大祭司」、「王」としての働きがありますが、これから扱うのは、イエス様の「大祭司」としての働き、そして「王」に関わる部分と云う事が出来ましょう。

新改訳2017版 17:1これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ。時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

イエス様は、先ず、ご自分のために祈られます。

大祭司も、民のために「生贄」を献げ、執り成しの「祈り」を献げますが、先ずは、自身自身のために「生贄」を献げます。

同じように、イエス様も、先ずは、ご自分のために祈り、続いて、6節から19節にかけて、イエス様が去られた後の弟子たちのために祈り、20節から26節にかけて、弟子たちの宣教の働きによって信徒となる人々のために祈られます。

目を天に向けて」は、祈りの姿勢であり、ユダヤ人の祈りの姿勢として一般的、標準的な姿です。

目を天に向けて」は、非常に重要です。

どなたに向かう祈りなのか、どなたへ献げる祈りなのか、が明確に表明されているからです。

勿論、謙遜の意味で、下を向く事もありましょうが、人間同士の会話でも、明後日の方を向いて喋っていたならば、失礼極まりない事なのではないでしょうか。

ましてや、神の民は、神様に選ばれた民であり、この世の数多の偶像に対しての祈りではない事を、態度で示す必要があり、クリスチャンは、イエス様の執り成しによって、直接、父なる神様に祈る事が許されているのですから、父なる神様に顔を向け、正面を向いて、祈るべきなのではないでしょうか。

祈りに限らず、賛美も、楽譜、譜面を見る関係でしょうが、下を向いての賛美は如何な事でしょうか。

御在天の父なる神様への賛美なのですから、意識して、顔をあげるべきなのではないでしょうか。

イエス様は、父なる神様に向かって、親愛の情を込めて、「父よ」と呼び掛けられます。

父なる神様との、深い人格的な交わりがある呼びかけであり、父なる神様への、強い信頼が秘められた呼びかけである事が明らかです。

時が来ました」は、父なる神様の御許への、帰還の時が来た事を示し、イエス様が栄光を受けられる時、即ち、十字架に架かられる時が来た事を示します。

そして、これらが、偶然ではなく、想定外でもなく、父なる神様のご計画であり、寸分違わず進行して、今に至っている事を表明しているのです。

また、イエス様は、十字架に架かられ、ご自分のいのちを捨てる事によって、「父なる神様の栄光を現す」事が出来るように、と祈ったのです。

神の御子イエス様であっても、いのちを捨てる事は、容易な事ではありません。

死の後に、復活が約束されていても、一時的であるにしても、父なる神様との断絶を体験しなければならないのであり、父なる神様への、絶対的信頼なくしては、受け止める事は出来ません。

仮に、復活がなかったとしても、それが父なる神様の栄光を現す事であるならば、イエス様は父なる神様に従ったでしょうし、犠牲を、甘んじて受ける事が、イエス様ご自身の栄光を現す事なのです。

父なる神様への絶対的信頼をベースとする従順があってこそ、父なる神様、子なるイエス様、両者の栄光が現れるのです。

17:2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。

すべての人を支配する権威」とは、単純な「支配者・命令権者」の意味ではありません。

イエス様の働きは、「預言者」と「大祭司」と「王」ですが、人間の運命、将来、行く末を、究極的に決定する意味に於いての「支配する権威」であり、イエス様は、究極的な意味に於いての「王」なのです。

即ち、イエス様の十字架の死を通して、人間の罪を贖い、人間を救うとの、父なる神様のご計画を信じない者を、苦しみの世界に閉じ込め、永遠の苦しみを与える権威であり、この、父なる神様のご計画を信じる者を、天の御国に招き入れ、永遠のいのちと喜びを与える権威なのです。

すべての人」が、イエス様の支配下、権威下に置かれるのであり、神に属すると、否とに関わらず、神様のご計画に応答したと、否とに関わらず、人間は全て、イエス様の権威に従い、服さなければならず、これを拒む事は、何人にも出来ないのです。

一方、「あなたが下さったすべての人」とは、父なる神様に属する民の事であり、それらの人々に、イエス様は「永遠のいのちを与える」のであり、この「すべての人を支配する権威」に於いて、父なる神様のご計画と、子なるイエス様の実行とは、完全に一致しているのです。

17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

イエス様が、神様のご計画に従って与えようとしている「永遠のいのちとは」、消耗しない体力、老いず、病まない身体、衰えない思考などの意味もありますが、それだけなのではありません。

唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」だ、と宣言します。

知ること」とは、単に知識を持つ事を意味しません。

聖書が云うところの「知る」とは、全人格的な意味に於いてであり、絶えず増大し、深まり行く経験的な意味に於いてであり、「一体となる」との意味として、理解すると良いでしょう。

即ち「唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストと一体となる」のです。

「知っている」との、知識のレベルから、一方通行の関係から、「一体となる」との、全人的な関係になる事、双方向の関係になる事なのです。

これは「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きであり、イエス様の十字架の死を通してでなければ、得られません。

弟子たちの、信者たちの信仰は、完全にイエス様と「助け主、聖霊様、真理の御霊」に依存しているのです。

17:4わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。

4節は、今までに繰り返し記されてきた、イエス様の、父なる神様に対する従順であり、謙りの総括の確認でしょう。

物事は、計画や立案の段階があり、そして、実行の段階を経て、成果に至りますが、評価されるべきは、計画の立案者でしょう。

昨今、ニーマルニーマル(2020)に向けて、競技場などの建築ラッシュですが、競技場は、その設計者が評価されるのであり、建築業者は影の存在です。

イエス様のお働きは、稀有なお働きであり、最高の評価を得て然るべきですが、イエス様の行われた事は、全てが、父なる神様のご計画であり、イエス様は、父なる神様のご計画に、徹底的に従ったのであり、神様の栄光を現す事にのみ、終始、専念されたのです

この4節のイエス様の発言は、イエス様の十字架の前、復活の前、昇天の前であり、厳密な意味では、全ての「わざを成し遂げて」はいませんが、先取りした形で、父なる神様のご計画の完成を、語られているのです。

この宣言は、先に学んだ1633節の「わたしは既に世に勝ったのです」との宣言と呼応しています。

父なる神様のご計画の完遂は、即ち、父なる神様と、子なるイエス様の勝利の結果であり、イエス様が、この世に勝利されたので、この世のあらゆる妨害、嫌がらせ、攻撃をものともせず、父なる神様のご栄光が現れたのです。

17:5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。

ここでも、イエス様は、再度、父なる神様に向かって、親愛の情を込めて、「父よ」と呼び掛けられます。

祈りは、父なる神様に向けてのモノでありますが、祈り続けているうちに、独り言のようになってしまってはいないでしょうか。

或いは、人を意識して、美辞麗句に意識が向いてしまってはいないでしょうか。

何時の間にか、独り言になってしまわないように、人を意識し過ぎてしまわないように、常に、父なる神様に意識を集中させる必要がありましょう。

その意味でも、イエス様の祈りは、私たちの祈りのお手本と言えるでしょう。

」は、時間を示す「今、この時、この瞬間」の意味ではありません。

論理的な展開に於ける「」であり、「そうしてここで、ここに至って、計画に従って」の意味で理解すると良いでしょう。

後半は、イエス様が、「世界が始まる前」から、父なる神様と共におられた事を宣言する、重要な教理です。

イエス様は、「世界が始まる前」からおられたのであり、被造物ではない事、イエス様は、「世界が始まる前」からおられたのであり、始めから父なる神様と同等の「栄光」を身に纏っておられた事の宣言であり、このヨハネの福音書の冒頭11節に、他にも、858節、133節、1628節、1724節でも語られています。

イエス様の御栄光は、新たに与えられ、受けるものではなく、剥奪されていたものを、取り戻すのでもなく、始めから持っていたものであり、人となられたために、制限されていた、覆いが被せられていたが、制限がなくなり、覆いが取り除かれ、本来の輝きが現れるのですが、それすらも、父なる神様の主権で、ご計画で、なのであり、イエス様の徹底した従順が、語られているのです。

自分のものを、自分の好きなようにして何の問題がある、ではないのです。

斯様に、祈りとは、父なる神様に、徹底して従って行くためであり、父なる神様の御こころを確認するため、父なる神様のご計画を、余すところなく行なうためのツールなのです。

【適応】

イエス様は神の御子であられ、父なる神様に祈らずとも、父なる神様の御こころを確認するまでもなく、父なる神様の御こころを、ご計画を寸分違わず、成し遂げられるのに、謙り、ご自身が、父なる神様のご計画に従順であるように、父なる神様のご栄光を現す事が出来るようにと祈られました。

先ず、ご自分にために祈られたのですが、これは本当に大切な事であり、祈りのお手本と言う事が出来るでしょう。

先ず、自分自身のために祈るのであり、それは、全てに於いて、父なる神様が第一となるためであり、全てに於いて、父なる神様の御栄光が現されるためです。

私たちの祈りは、如何でしょうか。

公同の礼拝や、祈祷会では、代表としての祈りですから、自分の事はさて置き、となりましょうが、個人的な祈りの時は、先ず、自分自身のための祈りから始めてみては如何でしょうか。

自分自身を整えてから、次に身の周りの、近しい人々のために、そして、更に範囲を広げて、の順が、よろしいのではないでしょうか。

イエス様も、先ず、ご自身のために祈られ、次に、イエス様が去られた後の弟子たちのために祈り、更に、弟子たちの宣教の働きによって信徒となる人々のために祈られました。

「紺屋の白袴」「医者の不養生」であってはならず、自分自身が整えられる事が、最初であり、先決です。

自分自身が整えられていないのに、他の事に構ってはいられないのではないでしょうか。

ルカの福音書641節、第3版、新約聖書121ページ、2017122ページ、「6:41 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。6:42 あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟。あなたの目のちりを取り除かせてください。』と、どうして言えるのですか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます」。

「あなたのために祈ります」の前に、自分自身のために祈らなければならず、自分自身の信仰の確信を点検、吟味し、父なる神様への信頼、父なる神様のご計画、御こころへの従順を祈らなければなりません。

自分自身の信仰はグラグラ、あやふやで、父なる神様への固い信頼もなく、父なる神様のご計画、御こころへの従順もなく、と、お手本にも、参考にもならないような、いい加減さであっては、誰が、あなたの祈りに期待するでしょうか。

「アーメン:その通りです」と同意するでしょうか。

更には、信仰がグラグラ、あやふやで、神様への信頼がいい加減で、神様の御心、ご計画よりも、自分の都合を優先させる事が多くて、それが、父なる神様に喜ばれる祈りとなり得るのでしょうか。

サムエル記第一319節、第3版、旧約聖書470ページ、2017484ページ、「3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった」。

彼のことばを一つも地に落とされなかった」とは、サムエルの発したことばは、必ず、全て、その通りになった、サムエルの祈りは、必ず、全て、祈った通りになった、云う事です。

サムエル」の所に、「イエス」様のお名前が入るのであり、「イエスは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった」。

また、この祈りのありようは、信仰生活でも同じです。

毎、週始めの主日には、欠かさずに礼拝に出席し、御ことばを聴き、整えられ、御ことばによって養われ、御ことばの力によって一週間の社会生活を送るのであり、毎日、毎朝、何をするより、先ず聖書を読み、整えられてから、祈りを献げ、罪の世界、この社会に派遣され、証をし、伝道し、宣教するのです。

自分自身が整えられずして、父なる神様の喜ばれる信仰生活は出来ません。

自分自身が整えられていない状態での奉仕や献金には、伝道や宣教には全く意味はありません。

イエス様の祈りは、先ず、自分自身を整え、父なる神様との関係を確認し、正すところの大切さを教え、模範を示しているのです。

あなたの祈りは、このようでしょうか。 

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                               2019-2-3礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1625節から33

説教題:「わたしは既に世に勝ったのです」

 【導入】 

助け主、聖霊様、真理の御霊の働きについて確認して来ました。

イエス様との別れについても、お話ししました。

イエス様との別れは一時的な事であり、悲しみを経た先には永遠に続く喜びが待っている事をお話ししました。

しかし、これらはイエス様が復活されてからの事であり、イエス様は弟子たちが「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受ける前提で、「悲しみが喜びに変わる」とおっしゃられます。

最終的にはイエス様が再臨され、「この世の悲しみは消え去り、喜びに満たされた世界となる」事でしょう。

これはイエス様の再臨の結果であり、言い方を変えるなら、イエス様がこの世に勝利されるからであり、死や病苦の苦しみ、憎しみ、妬み、自己中心、などなどが処理されるからです。

イエス様の勝利について、詳しく知るべく、聖書を開いてみましょう。

【本論】

新改訳2017版 16:25わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。

これらのこと」とは、目前に迫ったイエス様の受難と死についての全てです。

単純に十字架に架かられるとか、復活されるとかではなく、十字架の死の意味、復活の意味、神様のご計画についての全てです。

たとえ」とは、16節の「しばらくすると」との表現に対してであり、21節の「女が子を産むときの苦痛」と云う例話に対してです。

イエス様の「たとえ」は、時に隠されていて分かり難い「たとえ」もありますが、弟子たちには、或いは、聴こうと心掛ける者には、理解しようと願い求める者には、具体的で分かり易い、解説を付けてくださるのですが、それでも、罪を持つ身であり、この世の常識、知識、経験に縛られる弟子たちにとって、十分な理解は、難しい事あり、十分な理解のためには、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受けなければならず、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助けを得て、完全に近い理解に至るのです。

それが、25節の後半の意味するところです。

助け主、聖霊様、真理の御霊」の働き、助けを前提として、霊的な理解力、洞察力が与えられ、最早、「たとえ」で話す必要がなくなる時が来るのです。

イエス様が話されて来た、数々の「たとえ」に対しても、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の導きによって、十分な理解に達する時が来るのです。

この世は、父なる神様に対しての理解、イエス様の言動に対しての理解の邪魔をします。

罪の贖い、義とされる事について、生贄で、行いなどで達しようとします。

この世に属する人々は、この世の常識、知識、経験に照らして判断し、理解出来ない事は、拒絶し、排除します。

しかし、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受ける事によって、この世の常識、知識、経験と云う覆いが取り除かれ、「父について」「はっきりと」理解出来るようになるのです。

「百聞は一見にしかず」であり、百の説明を聞くよりも、解説付きの「たとえ」を聞かされるよりも、であり、「たとえ」は不要になるのです。

否、間接的な「たとえ」は邪魔、余計なものになるのです。

美術館に行って、目の前に、本物の絵があるのに、カタログの絵を見つめている人がいるでしょうか。

勿論、見比べる事はあるでしょうが、本物を見なければ意味はありません。

イエス様の仲介によって、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を受ける事によって、もっと直接的に、父なる神様についての理解に至るので、回りくどい、まどろっこしい、余計な「たとえ」は不要になるのです。

16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。

弟子たち、私たち信徒は、父なる神様についてはっきりと、正確に理解出来るので、仲介者、即ち、イエス様に祈って頂く必要がなくなり、直接、父なる神様に求める事が出来るようになるのです。

これは、イエス様が必要なくなった事を意味するのではありません。

イエス様は、父なる神様の隣の御座で、弟子たち、私たち信徒、罪人たちのために執り成し続けていてくださるのであり、イエス様の働きの必要性が減じる事はないのです。

否、新しい時代は「助け主、聖霊様、真理の御霊」に教えられ、導かれ、励まされ、助けられた弟子たち、信徒たちの働きで前進するのであり、イエス様の執り成しの働きは、ますます重要性を増すのです。

16:27父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。

父なる神様が、罪人に過ぎない、弟子たち、信徒たちを「愛して」くださるのは、弟子たち、信徒たちがイエス様を愛する故であり、イエス様が、父なる神様のもとから出て来たと信じたからです。

ここで、神様に愛される秘訣が、生贄、行いなどではない事が、明確に宣言されます。

神様に愛される秘訣は、イエス様に対する愛であり、イエス様に対する信仰です。

勿論、イエス様を愛し、信じる事も、罪人である弟子たち、信徒たちの成し得る業ではなく、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働き、導きです。

助け主、聖霊様、真理の御霊」を、幼子のような心で、受け入れる事、と言い換える事が出来るでしょう、

助け主、聖霊様、真理の御霊」を受け入れるので、イエス様を愛し、イエス様が、父なる神様から出て来られた、と信じる事が出来るのです。

そして、イエス様の故に、父なる神様が、弟子たち、信徒たちの祈りを聴いてくださると確信するので、恐れず、遠慮せず、憚らず、父なる神様に、直接祈る事が出来るのであり、この世に身を置きつつも霊的に、天の御国の、恵みの御座に、近づき得るのです。

16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」

28節前半は、ヨハネの福音書842節の繰り返しであり、後半は、165節の繰り返し、反復です。

イエス様は、父なる神様のご計画で、この世に遣わされたのであり、父なる神様のご計画で、この世を去られ、父なる神様の下に行かれるのです。

イエス様の謙卑、従順が明確に語られています。

父なる神様の御座の隣には、子なるイエス様、ご自身がおられるのであり、弟子たち、信徒たちのための、執り成しがなされるのです。

16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。

16:30あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」

イエス様は、人間の心の中を知る事の出来るお方です。

1619節に記されていましたが、イエス様は弟子たちが質問したがっている事を見抜かれ、弟子たちが質問を発する前に、疑問に答えてくださいました。

イエス様は、「すべてをご存じであり」、即ち、イエス様は、弟子たちの心の中を見通しておられたのであり、「だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました」、即ち、必要ならば、尋ねなくとも、教えてくださるお方だ、と告白します。

弟子たちは、イエス様の霊的な洞察力に感銘を受け、イエス様の持つ、超自然的な洞察力こそ、天から来られた事の証拠であると考え、30節後半の「あなたが神から来られたことを信じます」との告白となったのでしょう。

弟子たちは、勢い込んで、興奮気味に、すべてを悟ったような応答の言葉を発しますが、しかし、この「あなたが神から来られたことを信じます」との告白は、まだまだ十分な理解には至っておらず、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の到来を待たなければならないのです。

イエス様が天から、父なる神から来られたお方、との理解と告白は、イエス様の十字架の死、復活と、昇天とが、不可欠な前提条件であり、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の助けがあってこそであり、福音宣教に不可欠な要素であり、新約聖書の成立にも、深く関わります。

イエス様は、弟子たちの興奮を制するように、

16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。

16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。

イエス様の31節のことばは、疑問文のニュアンスで訳されていますが、「あなたがたは今ごろになって、やっと信じたのですか」とも、肯定文として「あなたがたは今、信じています」と、訳す事も出来ます。

そして、続く32節のイエス様のことばと合わせて、「あなたがたは今、信じていますが、あなた方の信仰が揺り動かされ、散らされ、イエス様を残し、見捨て、自分の居たところに帰る時が、直ぐに来ます」と意訳出来そうです。

弟子や信徒は、肉の身で、罪を持ってこの世に生きているので、自分の身が可愛く、損得勘定が働いてしまい易く、保身に走り易く、イエス様が捕らえられ、裁判に掛けられる時、イエス様を見捨ててしまいますが、父なる神様は、決してイエス様を見捨てる事はなく、イエス様がお一人になる事はないのです。

イエス様の、十字架上の姿は、見た目の通りではありません。

人間の眼には、肉の眼には、孤独な姿を曝しているように見えましょうが、霊の眼ならば、父なる神様がイエス様と共におられ、天の軍勢がイエス様を取り囲んでおるのを見る事になるでしょう。

しかも、よくよく見れば、イエス様の母と、愛する弟子が、見守っているのであり、理解者、支援者は、霊的世界だけではなく、この世にもいるのですから、この世でも慰めを得られるのではないでしょうか。

勿論、この世の慰めは、本当の意味で慰めにならず、頼ってもなりませんが、神様は人を通して働かれるのであり、霊的にも、実存的にも、励ましと、慰めを与えてくださるのです。

16:33これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

信仰生活、伝道の働きは、「苦難」を覚え、挫折する事も、決して珍しい事ではありません。

否、熱心であればある程、冷や水を注すような事が起こり、従順であろうとすればする程、「苦難」が起こるでしょうが、イエス様が昇天され、父なる神様の隣で、私たちのために執り成し続けてくださっているのであり、「助け主、聖霊様、真理の御霊」を送ってくださって、24時間、365日、見守り続けてくださっているのであり、私たちに「平安を得」させてくださるのです。

イエス様は、「苦難」が起こる事を宣言し、合わせて「平安」を約束されるのです。

苦難」と「平安」はセットであり、「苦難」のない、信仰生活、伝道の働きはないのであり、「平安」のない、信仰生活、伝道の働きもないのです。

もしも、「苦難」がないならば、その信仰生活、伝道の働きが、父なる神様の御こころかどうかを疑わなければなりません。

また、「平安」がない時も、その信仰生活、伝道の働きが、父なる神様の御こころかどうかを疑わなければなりません。

苦難」の中にも、「主が共におられる平安」があり、主が共におられるから、「苦難」に立ち向かえる、耐えられる、のではないでしょうか。

さて、信仰生活、伝道の働きは、不安やストレスなどと無縁ではいられませんが、イエス様は「勇気を出しなさい」といわれます。

この「勇気を出しなさい」と訳されているギリシャ語は、「しっかりする」の意味を持つ動詞の、命令形ですので、「しっかりしろ」、或いは、新改訳第3版などで訳しているように「勇敢でありなさい」と訳すのも可能でしょう。

もう少し柔らかい表現で、「臆するな」「尻込みするな」、或いは、「逃げるな」「踏み止まれ」と訳しても良いかもしれません。

どちらにしても、イエス様が、「世に勝」ったからであり、この「世に勝」たれたイエス様が、父なる神様と共におられるからであり、弟子たち、私たちの味方だから、臆する事なく、尻込みする事なく、逃げ出さず、踏み止まり続け、「勇気を出し」前進し続けるのです。

【適応】

イエス様は弟子たち、信徒たちに「勇気を出しなさい」と命じられます。

そして、「わたしはすでに世に勝ちました」と宣言されます。

ここは注意深く読まなければなりません。

イエス様が、「世に勝」利されたのであって、弟子たち、信徒たちの勝利が保証されているのではないのです。

この世の戦闘では、一進一退の攻防が常であり、戦傷、戦死が付き物です。

宣教の働きでも、無敗、犠牲“0”ではありません。

多くの殉教者がおり、宣教を断念する事、撤退する事も、教会の閉鎖を強制させられる事も、色々な事情で、教会の閉鎖を余儀なくされる事も、あるでしょうが、それで怯んではならず、臆してはならないのです。

最終的な勝利は、イエス様にあるのであり、しかも、イエス様は「わたしはすでに世に勝ちました」と過去形で宣言されています。

弟子たち、信徒たちは、不信仰の世に遣わされており、苦難に遭いますが、イエス様の執り成しと、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きによって、勇気を与えられ、苦難の中にあっても平安が与えられ、それらを、豊かに、深く味わう事になるのです。

イエス様の、「わたしはすでに世に勝ちました」との宣言は、イエス様が、一番伝えたかった事であり、父なる神様のご計画の成就である事を確信し、宣言されるのであり、弟子たちも、このイエス様を信じ続ける限り、罪と死に打ち勝つを得るのであり、イエス様と共に、勝利を味わう事になるのです。

死は最早、私たちに対して、何の力もありません。

この世で生きている身であり、生物としては死を迎えるでしょうが、霊として、イエス様、父なる神様と共に、永遠に生きるのであり、この世に生きている身であり、苦難を経験しなければなりませんが、苦難の中でも、イエス様と共なる平安、深い喜び、尽きぬ喜びがあり、来る世では、真の平安、真の喜びが待っているのです。

世に勝」たれたイエス様と共に、勇気を持って、苦難に立ち向かおうではありませんか。

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