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                                                                 2019-3-31礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1812節~14節、19節~21

説教題:「イエス様の逮捕・・・大祭司アンナスの尋問」

【導入】

イエス様が逮捕され、創造主なる神様のご計画、救い主イエス様のお働き、お役目は、佳境に入りました。

ユダヤ教宗教指導者たちは、イエス様の言動を苦々しく思い、ユダヤ教に対する脅威と感じ、イエス様を首領として、ユダヤ教宗教指導者たちに対して反乱を起こすのではないか、ユダヤ教の体制を転覆、崩壊させるのではないか、と危惧します。

ユダヤ民族は、エルサレムは、ローマ帝国の支配下にあり、自治権が与えられてはいますが、地方都市での、小競り合い、小さな衝突が起こった程度ならともかく、大都市エルサレムで、大々的な騒乱、騒動、暴動が起こり、ローマ軍が介入するような事態に至ったならば、自治能力がないとして、自治権は取り上げられてしまうでしょう。

のみならず、政治的指導者でもあるユダヤ教宗教指導者たちには、厳しい処分が科せられるでしょうし、場合によっては、エルサレム神殿は閉鎖され、ユダヤ教は禁止され、ユダヤ民族、存亡の危機となってしまいます。

そうならないために、イエス様を野放しにしておく訳には行かず、ユダヤ教宗教指導者たちは、あの手この手を使って、イエス様を陥れ、イエス様を葬り去ろうと企てます。

そして、遂に、イエス様は不当にも逮捕され、捕縛され、尋問を受ける事になってしまいます。

【本論】

新改訳2017版 18:12一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、

18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。

アンナス」は紀元6年から15年の間、大祭司の職に就いていました。

この事件が起こったとされるのは、紀元30年頃ですから、現役を退いてから、15年も経過してはいましたが、実力者として、また、当時の、現役の大祭司である「カヤパ」の舅(しゅうと)として、隠然たる影響力を持ち、暗然たる支配力を発揮していたのです。

この「アンナス」には五人の息子がおりますが、皆、大祭司の職に就いており、娘婿の「カヤパ」も大祭司の職に就いていたのです。

子どもを大祭司に仕立て、親族を大祭司に仕立て、ユダヤ教、ユダヤ民族に対する、揺るぎ無い支配体制を築き、利権を手中に収め、相当な権益を得ていた訳ですから、イエス様の言動は、存在は、看過出来なかったのであり、イエス様逮捕に至ってしまうのです。

さて「カヤパ」は、紀元18年から36年の間、大祭司の職に就いており、「その年の大祭司であ」り、あらゆる事態に対する決定権と、あらゆる事件に対する審判権を有していましたが、舅(しゅうと)に対する配慮、忖度で、儀礼的に、ユダヤ教宗教指導者たちの間で注目の的となっている被告イエス様を「アンナス」の下に連れ行く事となったのでしょう。

アンナス」による尋問の後に、イエス様に対する裁判は「カヤパ」の下で行なわれる事となりますが、この流れには異説があり、「カヤパ」の下で裁判が行なわれた後に、「アンナス」を表敬訪問した、とも考えられますが、聖書の記述の通りとして、説教を続けます。

18:14 カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。

この記述の詳細は、今、学んでいるヨハネの福音書1149節以降に記されています。

2017版は207ページ、第3版は203ページ、「11:49 しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。11:50 一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

11:51このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

11:53その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。

このように、創造者なる神様は、創造者なる神様に反する者、或るいは異邦人、異教徒をも、創造者なる神様のために働く預言者として用いられるのであり、異邦人の言葉だから、異教徒の言葉だから、と侮ってはならないのです。

年端も行かない幼子の言葉であっても、尊敬出来ない人の言葉であっても、誰の言葉であっても、そこに創造者なる神様のことばが隠されているかも知れないのであり、人の意見や考えに対して、謙虚に聞く姿勢を、意識的に持ち続けなければなりません。

さて、「カヤパ」の発言には、イエス様を殺すのが最善、最適である、と云う、ユダヤ教宗教指導者たちの強硬意見が反映しており、ユダヤ教宗教指導者たちの総意を表明しているのです。

18:19 大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。

19節に記されている「大祭司」は、「アンナス」を指し示すと考えられます。

尋問」は、法廷用語ですが、正式な尋問と云うよりは、非公式の、予備的な取調べ、であったと思われます。

何故ならば、「アンナス」は、「その年の大祭司」ではなく、謂わば、予備役的「大祭司」、或いは、補佐的「大祭司」であり、裁判に対する審判権を有してはいなかったからです。

イエス様に対する尋問の背景には、イエス様は、正式に教師に任じられた訳ではない、正規の教育を受けた訳でもない、と見られていたからです。

誰でもが手を挙げて、知識を習得すれば、教師になれる訳ではありません。

ユダヤ教宗教指導者たちの、認定、許可がなければ、教師として活動出来ず、ユダヤ教宗教指導者たちの認可を受けていない者からの指導では、教師として認められなかったのです。

これは、現代にも通ずる手続きですが、本来、預言者や教師は、創造者なる神様が立てられた預言者であるか否か、創造者なる神様が遣わされた教師であるか否かです。

そこで、創造者なる神様が立てられ、遣わされたか否かを、主観性と、客観性で判断する必要があり、本人に、創造者なる神様からの召命である、との明確な自覚があるか否かと、ユダヤ教宗教指導者たちには、教師として相応しい人格者であるか否か、教師としての教育や、訓練を受けているか否か、教師としての資質を備えているか否か、を客観的に見ての判断を委ねられているのですが、体制の維持、それは利権の温存に深く、強く結び付いており、必然的に、排他的、保守的、懐疑的にならざるを得ず、改革や刷新を嫌い、避け、変化の兆しに対して、強く警戒する事になるのです。

結果として、ユダヤ宗教指導者の意向を汲んだ者のみが、教師になれるのであり、非常に人間的な人物評価にならざるを得ず、創造者なる神様が立てられ、遣わされた、とは言えない教師が乱立する事になるのです。

創造者なる神様の御こころよりも、ユダヤ教宗教指導者たちの意向が優先されるのでは、創造者なる神様の栄光を現す事は出来ません。

さて、19節の「尋問」の目的は、事実を確認、解明するためではなく、創造者なる神様が立てられ、遣わされたか否かを判定するためでもありません。

ユダヤ教宗教指導者たちは、自身や組織の安泰のために、難癖、いちゃもんを付けて、創造者なる神様が立てられ、遣わされた預言者や教師を排除、排斥して来たのであり、今、ここでも、裁判の形式を取って、イエス様を排除、排斥しようとしているのです。

18:20 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。

イエス様の答弁には、イエス様の教えが広く知れ渡っていた事実と共に、イエス様の教えが、明瞭であり、明快であり、率直であり、少しの曖昧さもなかった事を意味しています。

勿論、喩えで語り、弟子たちだけに語られた事もありますが、如何なる意味でも、秘密性を帯びた異端や、不穏なメシヤ運動や、宗教結社ではなく、政治性を帯びた結社や、ユダヤ民族開放活動ではない事を断言してもいるのです。

18:21 なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」

ユダヤ社会の裁判は、現代にも通じる公正性、透明性を有しています。

証拠は、客観性を持っていなければならず、本人の証言や自白に対しては、慎重な態度を持っていました。

ユダヤ社会の原則に拠れば、基本的に、自分についての証言は真実とは認められず、第三者、複数の者から事情を聞く事、情報を収集すべき事、証言とする事、を基本としました。

複数の証言者の、証言の一致をもって真実な証言であると判定したのです。

申命記1915節、2017版は旧約聖書349ページ、第3版は338ページ、「19:15 いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」です。

過去に、パリサイ人は、イエス様の答弁を否定しています。

ヨハネの福音書813節、2017版は195ページ、第3版は192ページ、「8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことをで証しています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」」。

これは、パリサイ人の考え方ではなく、ユダヤ教宗教指導者たちの考え方であり、ユダヤ教宗教指導者たちを指導、監督する立場にある大祭司が、イエス様に証言を求める事、自体が、通常ではないのであり、この裁判の尋問が違法である事を、明らかにしています。

21節のイエス様のお答えは、このユダヤ社会の証言のあり方を申し出たものであり、意味で訳すなら、「わたしが、わたしの事を証言しても、有効ではないのが、ユダヤの決まりです。わたしの話は、大勢の人が聞いているのですから、その複数の第三者から証言を集めてください」と言っているに過ぎないのであり、正当な主張、意見陳述なのです。

18:22 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。

何処にでも、体制に迎合する輩、かっとなる輩はいるものですが、大祭司に仕える輩の一人が、正義漢ぶってイエス様に平手打ちを放ちます。

分が悪いと、暴力に訴え、或いは、大声で喚きちらし、威嚇し、仲間を呼び集めて、対抗しようとするのは、創造者なる神様の前で喜ばれる事ではありません。

「力」は解決にはなりません。

お互いの考え方を尊重しつつ、話し合い、意見交換し、歩み寄り、合意に至らなければなりません。

この下役は、大祭司への阿(おもね)りから、こんな行動に出たのでしょうが、組織は、長の影響を強く受けます。

温厚な長であれば、組織も温厚な傾向を帯びて行きますし、過激な長であれば、組織も過激な傾向を帯びて行きます。

保守的、排他的な長であれば、組織も保守的、排他的な傾向を帯び、創造者なる神様の意向を第一とする長であるなら、組織も創造者なる神様の意向を第一とする群れとなるのです。

そして、それが続けば、益々、その傾向は強くなります。

下役の蛮行は、組織の様を映し出し、ユダヤ教宗教指導者たちの在り様を映し出しているのです。

勿論、良くなって行くにも、悪くなって行くにも、時間がかかりますので、長たる者の責任は重く、常に、自己反省と、自己吟味が欠かせません。

そして、組織に属する人々は、長のために祈らなければならないのです。

18:23 イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

イエス様は、こんな不当な仕打ちを受ける言葉を発した覚えはないと、強く主張、抗議しますが、保守的、排他的な長の意向を汲んだ下役は、イエス様の正当な申し出、主張、抗議を意に介さず、黙殺してしまったようです。

組織に属する者は、知らないうちに帰属意識が働いているのであり、朱に交われば、赤くなる、のであり、井の中の蛙、大海を知らず、であり、注意しなければならないのです。

尊敬する大祭司であっても、常に正しい言動ではないかも知れない、ひょっとしたら、間違っているのは、大祭司かも知れない、このイエスという男の言い分の方が、正しいのかも知れない、と考えなくてはならないのです。

これは、組織を混乱させる考え方、崩壊させる考え方ではなく、組織を健全にする考え方、組織を浄化する考え方なのです。

その意味でも、歴史や伝統を守るのが、長の任務、責任なのではなく、創造者なる神様の意向を第一とする組織造りこそ、長の任務、責任なのです。

18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。

アンナスからの尋問の後、イエス様は、カヤパ邸に送られ、カヤパ邸から、ローマ帝国の総督官邸に連れて行かれます。

【適応】

イエス様の不当な逮捕に続いて、不当な尋問、裁判が行なわれました。

本来の組織体制に従うならば、何の権限もない、序列でもないアンナスに引き渡される事は、あってはならない事であり、アンナスは、何故、自分のところにイエス様を引き連れて来たかを確認しなければなりません。

正当な手続きを経て、連れて来たのかを、決められた手順を踏んで、連れて来たのかを、であり、アンナスは、舅と云う立場よりも、組織の序列を優先させなければならなかったのです。

イエス様の尋問は、カヤパが、或いは、カヤパの次席に就く者が、扱わなければなりませんが、アンナスは、何の疑問もなく、連行されて来たイエス様に尋問を開始します。

これは、組織が私物化されている証拠であり、

組織が、組織として機能していないばかりか、誰も、それを疑問にも、不思議にも思わなくなっているのであり、組織が、腐敗の極みに達していた事を、雄弁に物語っています。

歴史や伝統、或いは、慣習や文化は、尊重しなければなりませんが、事、組織として動くべき時には、ルールに則(のっと)ってを、基本、鉄則にしなければなりません。

先ず、その年の大祭司であるカヤパのところに連行し、カヤパからの尋問を受けさせ、カヤパの手に余るようであれば、然るべき手続きを経て、適任者のところへ連行し、尋問を受けさせなければなりません。

責任者の判断を仰がず、はあってはならない事であり、そもそも、イエス様の逮捕自体が、違法性満杯です。

イエス様の逮捕に向かったのは、ヨハネの福音書183節、2017版は221ページ、第三版は217ページに記されている通り、「祭司長たちや、パリサイ人たちから送られた下役たち」であり、マタイの福音書2647節、2017版は58ページ、第三版は57ページに記されている通り、「祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ・・・た大勢の群集」であり、マルコの福音書1443節、2017版は100ページ、第三版は98ページに記されている通り、「祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ・・・た群集」であり、ルカの福音書2252節、2017版は167ページ、第三版は164ページに記されている通り、「祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たち」であり、四福音書のいずれにも、大祭司は関わったと、記されていませんが、これは、重要な事です。

勿論、緊急の事態の場合には、手続きを踏んでられない事もありましょうが、逮捕は計画的な行動であるのに、その年の大祭司の裁可を得ずして、行動したのであり、勝手に、ローマ軍の協力まで得ていたのです。

ひょっとすると、何かあった時に、大祭司に類が及ばないようにするための配慮があったのかも知れませんが、これはこれで問題でしょう。

現代の教会でも、似たような事が起こり得ます。

全員の意見を聞いて、全員の了解を得て決めなければならない場合でも、有力者の一言で決まってしまう。

組織として決めた事も、有力者の一言で覆(くつがえ)ってしまう。

或いは、何をするにも、有力者のお伺いを経ておかないと、上手く運ばない。

ここで、有力者は、意識していても、意識していなくても、同じです。

イエス様の逮捕、尋問、裁判が、ユダヤ教宗教指導者たちの総意で行なわれるなら、ユダヤ教宗教指導者たちの組織として動かなければならず、「大祭司たち、祭司長たちや、パリサイ人たちから送られた下役たち」が逮捕に向かい、「その年の大祭司カヤパ」の下に連行され、尋問を受けさせなければならないのです。

組織を蔑ろにした考え方、生き方は、信仰生活にも大きく影響します。

わたしたちが信仰上の失敗や、御こころからの逸脱から守られるのは、聖書と云う規範に、如何に忠実か、です。

人の意見に従い、時代の変化に合わせるのではなく、伝統や慣習に従うのでもなく、人間に忖度するのでもなく、聖書が語り、教えている事に従うか否かです。

聖書を基準に、判断するか否かです。

組織としては、○○教会、××教団に所属しているでしょうが、創造者なる神様を信じる群れであり、教会であり、教団ですから、創造者なる神様に従わなければなりません。

霊的な問題、信仰上の疑問などは、牧会者である牧師に聞かなければならず、運営上の問題、管理上の疑問などは、役員会などに確認しなければなりません。

組織として、また、役務として働くとき、秩序が現され、創造者なる神様の栄光も現されるのです。

個人プレイでは、組織を逸脱した働きでは、創造者なる神様の栄光は現されません。

ここにおられる皆様が、聖書と云う絶対基準、規範を遵守し、教会と云う組織と、教会規則、教団規則を尊重する時、創造者なる神様が立てられた牧師は、教会は、教団は、そして信者は、創造者なる神様の栄光を現す器、群れとなるのです。

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                                                                2019-3-24礼拝

聖書個所:サムエル記第一31節~10節            

説教題:「サムエルの召命」

【導入】

先日は、ハンナの祈りの姿から、「心を注ぎ出して祈る」と言う事について学びました。

神様は、ハンナの祈りに応えられて、産まず女であったハンナに、待望の男の子を授けて下さいました。

ハンナは神様との約束通り、乳離れすると直ぐに、幼いサムエルを祭司エリの下に連れて来て、祭司に預けました。

神様とハンナの間には祈りと行動の応答があった訳です。

さて、今日は「祈り」について、別の角度から、一緒に考えて見たいと思います。

「祈り」って何でしょうか。

教会学校で子どもたちに問い掛けますと「神様にお話する事」とか、「ご飯を食べる時とか、寝る時に、神様に感謝する事」と言ったような回答が出てくると思います。

つまり、「神様との会話である」と言ってよい訳ですが、本当に「会話」になっているのでしょうか。

「会話」と言いながら、私たちの一方的なお喋りになっていないでしょうか。

人と人との会話でも、相手の立場、考えなどには一切お構いなしで、自分の立場、考えだけを、一方的に喋り捲って、「ああ、すっきりした。楽しかった。お喋りはストレス解消よね。」と、自分だけストレス解消して、「はい、さよなら。後はよろしくね。」タイプの人が居ますが、私たちの「祈り」も神様に対して、これと似た形になっていないでしょうか。

「神様にとって、不可能な事は一つもありません。…だから…、大丈夫ですよね。お願いします。」

これほど、極端ではないにしても、似たような一方的な祈りをしている自分を見出して、はっとさせられます。

神様との会話だと言いながら、会話などではなく、一方通行な電報や、メールのようになっていないでしょうか。

神様の下には、世界中から、毎日、何億通もの、電報やメールが届くけれども、神様からの電報やメールは、受け取り拒否、着信拒否になってしまっていないでしょうか。

私たちはどれほど、神様の声を聞いているでしょうか。

聞こうとしているでしょうか。

神様の声を聞いて、それに、真摯に応答しようとしている人が、どれほど居るのでしょうか。

今日は、神様の声を聞くと言う事について、サムエルを通して見てまいりましょう

【本論】

3:1さて、 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。

3:3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置れている主の神殿で寝ていた。

3:4 主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります。」と言って、

3:5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。

少年サムエルは、家族と離れ、祭司エリの下で、訓練を受け、神様に仕えていました。

訓練を受けて育ったサムエルですが、「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」のですから、神様の声と、祭司エリの声とを聞き分けることが出来ず、勘違いをしてしまいました。

けれども、祭司エリの声と判断したサムエルは、すぐに、祭司エリの所に、走って行きました。

真夜中の出来事ですから、ぐっすりと寝込んでいて、気付かなくても当然の時間帯です。

しかも、第一列王記1911節、12節、2017版、旧約聖書637ページ、第3619ページ、「19:11 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし、火の後に、かすかな細い声があった。」と、記されているように、神様は、かすかな声でご自身を現されます。

幼いサムエルは、勘違いをしてしまいましたが、神様の声を、祭司エリの声と判断したサムエルは、すぐに起きて、祭司エリの所に、走って行きました。

「誰かに呼ばれた様だけど、勘違いかも知れないから、もう一度呼ばれてからにしよう。」でもなく、「面倒くさいなあ。」とばかりに、ゆっくり歩いて行ったのでもありません。

すぐに、走って行ったのでした。

これはサムエルの普段の主の宮での行動を物語っています。

どんな状況であっても、どんな時間帯であっても、誰からであっても、呼ばれたら直ぐに応答する訓練が出来ていたのです。

このような備えがあり、訓練が出来ていたからこそ、神様はサムエルに声をかけられたのでしょう。

本来なら祭司であるエリに掛けられるべき神様の声が、まだ幼い下働きのサムエルにかけられたのは、エリが祭司として相応しくなかったからであり、サムエルが神様の目に適って預言者として相応しい人物だったからです。

2節に「彼の目はかすんできて、見えなくなっていた」と記されていますが、祭司エリの目は肉体的に見えなくなっていただけでなく、霊的にも見えなくなっており、耳も霊的に聞こえなくなっておりました。

ハンナの声にならない、悲痛な叫び、祈りを、酒に酔っているのではないか、と判断したのは、エリが霊的に盲目になっていたからに、霊的に耳が聞こえなくなっていたからに違いありません。

祭司は人々の献げ物を神様に取り次ぐための働き人です。

当然、祈りも取り次ぎます。

その神様に献げる大切な物を疎かに扱う息子を諌める事も出来ない祭司は、言葉に成らない祈りを汲み取り、神様に取り次ぐ働きにおいても祭司として不適格であったのです。

霊的に整えられていない祭司は、サムエルの勘違いに的確な指示を与える事が出来ず、こんな事が、三回も繰り返されてしまうのです。

3:6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。

3:7 サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。

3:8 主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。

3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。

サムエルにとって、神様に仕える祭司エリの声は、神様の声と同じように重要あったのです。

祭司エリの声と、神様の声に軽重はありませんでした。

祭司の声を、神様の声として聞く訓練が出来ていました。

祭司エリには祭司として不適格な部分が確かにありましたが、神様に仕える者として尊敬し、その声、教えに聞き従って来たサムエル。

人を神様扱いすると言う事ではなく、色々と欠点はあっても、神様に仕える祭司として、どんな状況でも、どんな時間帯でも、その声、命令に聞き従う姿勢で仕えて来たのです。

そのような訓練、備えの出来ていたサムエルに、神様は直接語りかけられたのです。

サムエルに語りかけているのが神様であると悟ったエリは、サムエルに応えるべき言葉を授けます。

神様の語りかけに対して、サムエルは、祭司エリに教えられた通りに答えます。

3:10 に主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

サムエルの様な、偉大な預言者も、その働きのスタートは、神様の声を聞く事から始まりました。

旧約聖書に登場する預言者は、皆、神様の声を聞き、神様から聞いた言葉を語りました。

イエス様もヨハネ826節で次の様に語っておられます。

2017版、新約聖書196ページ、第3193ページ、「8:26わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。

子なる神であられるイエス様なのに、ご自分の考えではなく、「父なる神様から聞いたことを、そのまま語るのだ」とおっしゃるのです。

ペテロは使徒の働き41920節で次の様に語ります。

2017版、新約聖書239ページ、第3234ページ、「4:19しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。

4:20私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。』

自分の考え、教えではなく、「イエス様のなさった事、語られた事を話すのだ」と言っているのです。

【適応】

「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

この「お話下さい」と「聞いております」の間には、訳されていませんが「何故ならば、確かに、本当に」の意味のギリシャ語があります。

直訳するならば「主よ、お話しください。何故ならば、しもべは聞いているからです。」であり、「主よ、お話しください。本当に、しもべは聞いているからです。」なのです。

「神様がおっしゃるのだから、一応聞いて置きましょう。」

「聞くけど、従うかどうかは、別ですよ。」……ではないのです。

神様は、本気で聞く事を求めておられます。

聞いて応答することを求めて居られるのです。

その応答とは、聞いて行なう事です。

聞いて従う事です。

自分の都合にあわせて聞き従うのではありません。

自分の利益になりそうだから聞き従うのではありません。

自分の名誉になる事ならば聞き従うのでもありません。

都合が良かろうが、悪かろうが、利益にならなくても、損してしまおうと、人々に馬鹿にされても、親しい人々から罵られても、神様の声に聞き従うのです。

サムエルはその召命の最初から、最後の瞬間まで神様の声に聞き従いました。

それが預言者の務めです。

人々の聞きやすい言葉だけを語るのでも、慰めを語るのでもありません。

サムエルは祭司エリに厳しい裁きの言葉を語りましたが、それが預言者の仕事、使命なのです。

主よ。お話しください。しもべは聞いております』。

先ずは聞く事から始るのです。

神様は、礼拝を通して、お話しして下さいます。

聖書を通して語りかけられます。

神様の声を聞くために、安息日を守り、教会に来て説教を聴きましょう。

神様のお心を知るために、毎日、聖書を読みましょう。

そして、神様に聴き従う事が出来る様に、聖霊様の助けを祈り求めましょう。

その時、ルカ1113節の「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」とのお約束の通り、聖霊様が私たちに下るのです。

聖霊を下された私たちは、この罪の世に預言者として遣わされて行きます。

神様の裁きを語り、罪から離れる事を命じなければなりませんし、そのお手本を示さなければなりません。

救い主イエス様の事を語り、罪赦された喜びを語らなければなりません。

私たちが救われたのは、キリスト者として召されたのはこのためです。

その意味でも、神の言葉を聞くのに受身では不充分です。

飢え渇きを持って、貪欲なまでに、御言葉を慕い求めましょう。

しかし、悲しい事に、私たちは、怠け者で、苦しい事には耐えられず、誤魔化したり、いい加減に済ませて仕舞い勝ちな性質を持って生まれて来ているので、自分の力では、神様の前に静まり、聞く事が出来ないのです。

色々な理由を付けて、安息日を守らず、礼拝にも遅れ勝ちとなり、聖書通読も三日坊主になってしまうのです。

そんな私たちを支え、導くのは神様の前に静まり、御言葉を聞くところから始まるのです。

繰り返しになりますが、聞かなければ、何をすれば良いのか分かりません。

教えられなければ、何が罪かを知る事も出来ません。

神様の御心を知る方法は聖書と説教です。

まず、神様に聞く事から始まるのです。

主よ。お話しください。しもべは聞いております』。

神様は、聖書を通して原理・原則を教えて下さいます。

礼拝を通して、具体的な適応、解説をお教え下さいます。

神様の御心を行ない、神様の栄光を現す為の必要を、願い求める。

それが、祈りの姿なのです。

勿論何でも、どんな事でも祈って良いのですが、神に受け入れられる祈りとは、自分の要求、希望、願望、進路、健康、その他もろもろの願い事ではないのです。

私たちは神様の栄光を現す為に造られ、存在している事を忘れてはなりません。

私たちの願い事は、神様の栄光を現す事、神様に仕えて行く事、神様の事を人々に伝えて行く事と、関連して要る事が重要なのです。

ヤコブ書43節、2017版、新約聖書462ページ、第3449ページ、「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」と教えています。

悪い動機でなくても祈りが叶えられない事も、祈りの答えであるとして、受け容れる信仰が必要なのです。

愛する人に会う為には、遠くても、天気が悪くても、多少調子が悪くても,出かけて行くでしょう。

同じように、神様の声を聞くために、安息日を守り、教会堂に来て説教を聴きましょう。

貰ったラブレターを繰り返し読むように、神様のお心を知るために、毎日、聖書を読みましょう。

受身では不充分です。アクティブに成らなければ。谷川の流れを慕い求める鹿の様に、飢え渇きを持って、貪欲なまでに、御言葉を慕い求めましょう。

神様は何時語られるか、何処で語られるか、誰を通して語られるか解かりません。

整えられた者、神様の言葉を真剣に聞こうとする者だけが、神様の言葉を聞く事が出来、ご用に召され、用いられるのです。

ここにおられる皆様が、神様の声を聞く事を第一とし、召されて福音宣教の働きを担う者とされますように。                  

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                                 2019-3-17礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書181節から11

説教題:「イエス様の逮捕・・・神様のご計画」

【導入】

イエス様は、イエス様自らが召し出された弟子たちと、凡そ3年に亘って、寝食を共にされ、聖書の教えの根本、「神を愛し、人を愛する」事を、愛情を持って教えられ、その具体例を、イエス様自らが言動で示されました。

特に特筆すべきは、弟子たちを、この上なく愛した事です。

その愛を現す具体的行動として、弟子たちの汚れた足を、イエス様自らが、しゃがみ込み、洗い、ご自分の手ぬぐいで拭いてあげたのです。

行為自体は、誰にでも出来る、簡単な事ですが、汚れ仕事であり、通常、奴隷のする仕事であり、また、プライドが強く邪魔をしてしまい、誰にでも出来る事ではありません。

更に、誘惑の問題、試練、困難、患難への対処など、個人的な事、本人次第、として扱われやすい、信仰上の問題に対して、イエス様は、この直後に試みに遭う弟子たち、困難な宣教の働きに就く使徒たちのために、イエス様を直接知らない、宣教のことばだけでイエス様を信じ、受け入れる信徒たちのために執り成しの祈りを献げられましたが、これらはイエス様の愛情表現の極みであり、弟子たち、使徒たちの、取り組むべき働き、課題である事も、自然な形で教えられます。

イエス様の弟子たち、使徒たち、信徒たちの使命は、直接的に、間接的に、福音を届ける事と、執り成しの祈りを献げる事と、困っている人たち、助けを求める人たちを助ける事に関わる事です。

仕事として、直接に取り組んでも良いし、信徒として補助的に、間接的に取り組んでも良いし、出来る事を、出来る時に、出来る範囲で、取り組めば良いのです。

【本論】

新改訳2017版 18:1これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこは園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。

イエス様は、弟子たちと共に取られた最後の食事の席での後に、弟子たち、使徒たち、信徒たちのための祈りを終え、イエス様と弟子たちは、エルサレムの市中を出て、東の方に歩みを進め、エルサレムとオリーブ山の間に或る、キデロンの谷の向こうへと向かわれます。

キデロンの谷の向こうには園がありますが、「ゲッセマネの園」と呼ばれています。

18:2一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。

このゲッセマネの園は、イエス様がエルサレムを訪れた際に「弟子たちと、たびたびそこに集まっておられた」ようですが、宣教会議を開くためでもなく、宣教方策を練るためでもなく、また、弟子たちからの連絡、報告、相談を受け、指示を与える場でもありません。

弟子たちとの休息の場であり、逃れの場、隠れ家的にも利用されていたようです。

しかし、逃れ場、隠れ家、と云っても、犯罪者、逃亡者のそれではなく、癒しを求めて押し寄せる民衆からの逃れの場であり、隠れ家です。

しかも、イエス様ご自身の休息というよりは、弟子たちに休息を与えるためであり、弟子たちが働き過ぎて、肉体的にも、精神的にも疲弊し、信仰的にもダウンしないためです。

限界まで頑張るのが、無理をするのが、弱音を吐かないのが美徳とされる風潮がありますが、休息は、良い働きのために必要不可欠な要素であり、しっかり休んでこそ、良い働きが出来るのです。

マタイの福音書824に記されていますが、イエス様ご自身、舟の中で、ぐっすり寝ておられましたし、列王記第一19に記されていますが、エリヤは信仰の戦いで疲れ果て、意気消沈し、弱気になり、死を願うまでに落ち込みますが、休息を得て、働きへの復帰を果たします。

人間は、24時間頑張れず、数時間の休息と、8時間前後の睡眠が必要ですし、六日間働いたならば、一日は休まなければなりません。

神様が定められた制度であり、自身のみならず、僕や家畜にも休息を与えなければならないのです。

さて、ゲッセマネの園がある場所は、人里離れた所であり、これから起こる一大事に、相応しい場所と云えるでしょう。

エルサレム市中であれば、夜中であっても、衆目を集め、大騒動、大混乱となり、収拾がつかなくなる恐れがありますが、それでは、イエス様の逮捕に、神様のご計画に、支障を来たしかねません。

決して、偶然ではなく、イエス様は、昼間でも人影の少ないゲッセマネの園を選ばれたのであり、神様のご計画、イエス様の主権で、ゲッセマネの園が選ばれたのであり、然るべき出来事のために、然るべき場所が用意されていたのです。

18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。

一隊の兵士」は、エルサレム北西部の角にある、アントニヤ城塞に駐屯するローマ兵と思われます。

一隊」は、通常600余名を擁するようですが、その全部が動員されたのか否かは、不明です。

しかし、ユダヤ教の内部問題に対して、しかも、暴動にも発展しておらず、混乱にも陥っていないにも拘らず、イエス様の逮捕に、ローマ軍が関与する、出動する、と云うのは異常であり、あり得そうにない事です。

しかも、逮捕後、ローマ兵駐屯地、或いは、ローマ軍本部に連行もされず、ローマ軍の隊長からの取り調べも受けずに、ユダヤの宗教指導者、大祭司アンナスのところに連れて行かれた、引き渡された、と云うのも、解せません。

ユダヤ教の内部問題にローマ軍が加担する、ローマ軍には何の縁もない男の逮捕に協力をすると云うのは、奇異な事ですが、きっと、大祭司たちは袖の下、賄賂などを使い、何かしらかの便宜を図ったのでしょうが、どうしても逮捕したいがための、必死の策略であり、無謀な行動を取らざるを得なかったのでしょう。

腐敗した宗教指導者たち、神様不在の悪に染まったユダヤ社会を象徴しているのであり、保身や、体制維持のためならば、なり振り構わぬ、醜悪な姿ではないでしょうか。

その象徴とも云うべき存在が、イスカリオテのユダでした。

18:4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。

2節、3節を読むと、「ユダ」や、「一隊の兵士」たちや、「祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たち」が、主導権を持っているように描かれ、イエス様は受動的に、とうとうこの時に至ったか、の如くに描かれていますが、イエス様は「自分に起ころうとしていることをすべて知っておられ」るのであり、イエス様が主導権を握っておられるのであり、イエス様は能動的であり、且つ、積極的です。

イエス様は、成り行きに身を任せているのではなく、積極的に、「進み出て」、この受難を自ら進んで迎え入れられるのです。

これは、神様のご計画であり、一見すると、この世の勢いが勝っているように見えますが、全てにおいて、神様のご計画、神様の主権のみが、成るのです。

この、緊迫した場面においても然りであり、勢いでは勝っていたこの世が、イエス様の一言で、無勢に多勢でありながら、形勢は一気に逆転してしまいます。

18:5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。

わたしがそれだ」は、ギリシャ語「エゴー・エイミ」の訳であり、「わたしはある」「わたしはいる」などと訳す事が出来ますが、出エジプト記314ヨハネの福音書858などにも登場することばであり、神様が、ご自身を現すことば、自己紹介のことばであり、神性を現す、独特な響きを持つことばです。

ユダヤ人は、創造者なる神様を現す「ヤハウェ」と云うヘブル語を不用意に口にする事を憚り、「ヤハウェ」に代えて「アドナイ」と云うヘブル語を使いましたが、「エゴー・エイミ」も、使う事を、口にする事を憚られるギリシャ語の一つであり、ユダヤ人なら知らない者はいない、威厳に満ちた、威厳を感じずにはいられないギリシャ語なのです。

それこそ、三つ葉葵のご家紋の入った印籠を見て驚き、平伏(ひれふ)すお代官様、お殿様のように、この「エゴー・エイミ」と云うギリシャ語を耳にした時、一種異様な感覚に襲われたのではないでしょうか。

18:6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。

倒れた」は「平伏(ひれふ)す」と訳す事の出来るギリシャ語ですから、「ユダ」はともかく、「エゴー・エイミ」と云う、日常会話では、使われる事のないギリシャ語、イエス様が発せられた、神様しか使わないギリシャ語を聴いてしまった「祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たち」が、驚愕し、尻込みし、平伏すのは、至極当然な反応なのです。

18:7イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。

イエス様と、イエス様逮捕のために遣わされた者たちの立場は、完全に逆転してしまっています。

イエス様が主導権を握り、静かに佇(たたず)み、しかし、威厳を持って問い掛ける姿。

勢い勇んで乗り込んで来た「祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たち」の、意気消沈し、怯え、動揺する姿。

固唾を呑んで、成り行きを見守る、ローマ兵と思しき「一隊の兵士」たちの姿。

三者の、何とも不思議な、奇妙な姿なのではないでしょうか。

18:8 イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」

18:9 これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。

イエス様の使命の一つは、弟子たちを守る事であり、牧会的な配慮をする事です。

8節のイエス様のことばは、弟子たちの安全と自由は、イエス様が保障される事を、弟子たちの安全と自由は、イエス様の身代わりの結果である事を、9節のイエス様のことばは、弟子たちは、イエス様に帰属する事を、イエス様に帰属する弟子たちが、失われる事は決してない事を宣言しておられるのです。

続く10節、11節は、神様の救いのご計画の成就に必要なのは、イエス様、唯お一人である事の宣言なのです。

18:10 シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。

シモン・ペテロの行動は、勇敢ではありますが、短絡的であり、衝動的であり、神様のご計画を妨げる行動です。

剣を使う者は、剣によって滅ぼされます。

シモン・ペテロが、剣を持っていたのは偶然ではありません。

ルカの福音書2236節、38節にこんな会話が記されています。

2017版の新約聖書の166ページ、第3版の新約聖書の164ページ、「22:36 すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。22:38 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分。」と答えられた。

これは、財布が暗示する、お金の必要性、袋が暗示する、日用品の必要性を教え、そして、剣の必要性と、剣の時代、力を持つ者が支配する時代になる、との預言ですが、注意を要する聖句です。

決して「お金を貯めておきなさい、日用品を確保しておきなさい、剣に対抗するために、剣を用意しておきなさい」との命令ではありません。

現世的な準備の勧めではなく、霊的、信仰的な勧めであり、「今、なすべき備えに意を用いなさい」との警告であり、意識改革の勧めであり、時代の変化に警戒しなさいとの警告です。

38節の「それで十分」が、良く現しており、答えであり、神様の備えたもう物によって、養われ、また、守られるのです。

しかし、何もしないで良い訳ではなく、各々の霊的備えは、必要なのです。

18:11 イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」

ここで、イエス様がシモン・ペテロを制しなかったならば、次の一撃でマルコスは殺され、「剣が二本」あったのですから、騒動はより一層、激しいものになった事でしょう。

そして、イエス様の裁判は、イエス様の起こした騒乱罪と、殺害に関わった事、が争点となり、全く、違った方向に進む事は確実です。

それは、イエス様の本意ではなく、神様のご計画でもありません。

シモン・ペテロの取った行動は、神様が立てられた方法を妨害する事であり、神様のご計画とは全く別の方法で、この世の悪の力に立ち向かおう、とするものです。

弟子たち、使徒たちの働きは、イエス様をお守りする事ではなく、イエス様に従う事です。

剣を持って、イエス様をお守りする事ではなく、また、剣を持って、信徒を、教会を守る事でもありません。

神様のご計画は、イエス様のなすべき事は「父がわたしに下さった杯を飲」む事です。

杯を飲」むとは、神様の怒りを受けられる、と云う事であり、十字架の死、木に掛けられ、神様の呪いを受ける事なのです。

弟子、使徒、信徒の働きも、剣を持って、信徒、教会を守り、信徒、教会のために戦う事でもなく、神様の御こころ、イエス様に従う事で、神様、イエス様の栄光を現す事です。

【適応】

イエス様の逮捕は、決して偶然でも、不幸な出来事でも、避け得る事でもなく、神様のご計画であり、イエス様の主導で、能動的に、積極的に、の結果であり、必然であり、ご計画通りであり、避けてはならない事なのです。

イエス様は、神の独り子であり、神様のご計画の全てを、充分、完全に知っておられますから、逮捕の顛末に際して、正しい対処が出来ました。

わたしたちは、如何でしょうか。

わたしたちの代表、象徴として、シモン・ペテロを見るならば、色々と示唆を受ける事が出来ましょう。

シモン・ペテロは、イエス様の弟子の筆頭と自負し、行動にも自信を持っていました。

十二弟子のまとめ役でもあり、イエス様を諌める事までしたのです。

これらも含めて、自分の知恵、知識、経験を拠り所に判断し、行動し、良かれと思って取った行動ですが、神様のご計画、イエス様の行動を妨げる結果となってしまったのです。

主観的な見方と、客観性を持った見方とがありますが、自然と主観的な見方をしてしまうのが人間であり、意識しないと、客観性を持って見る事は出来ません。

イエス様逮捕の場面に居合わせたならば、弟子たる者にとっては、阻止しなければならない大事件ですが、客観性を持って見るならば、イエス様の預言の成就であり、神様、イエス様の栄光を拝する場面です。

シモン・ペテロに限った事ではありません。

私たちは、知恵の限界、知識の限界、信仰の弱さ、があり、間違った情報、正確とは言えない情報、忖度が影響した情報、尾鰭の付いた情報、などなどしか得られず、珠玉混交の中から、何が正しく、何が間違っているかも分からない中で、判断せざるを得ないのであり、間違った判断をしてしまい易く、間違った選択肢を選んでしまい易い者なのです。

ころっと騙されるのは、大きな失敗をするのは、良かれと思って、神様やイエス様のご計画を妨害してしまいかねないのは、社会経験があり、人生経験があり、信仰歴も充分で、自分に自信がある人なのではないでしょうか。

神の独り子イエス様の正しい判断とは、比べようもありませんが、少なくとも、間違った情報かもしれない、知り得ない情報が隠されている、そして、間違った判断をしている可能性がある、との思いを持っているのとでは、雲泥の差でしょう。

人間は、正しい善悪、正邪の判断が出来ない者だ、欠けだらけの者だとの自覚を持ち、

大局的な見方、客観性を持って見る事を心がけるならば、些事に足をとられる事を防げるのではないでしょうか。

シモン・ペテロは、8節のイエス様のことば「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」をしっかり聴いていたならば、そして、イエス様のことばの意味を探ったならば、今までのイエス様の語られたことばを総合的に判断し、客観的な見方をしたならば、失敗を防げたのではないでしょうか。

わたしたちが信仰上の失敗や、御こころからの逸脱から守られ得るのは、謙虚、謙遜な思いで、イエス様のことばを聴く事であり、聖書を読み、蓄える事であり、神様のなさる事も、周りで起こる人間の営みから起こる様々な事も、完全には理解出来ない、と知る事であり、シモン・ペテロのように、性急に結論を出し、行動するのではなく、神様、イエス様のご計画、主権を尊重し、隠されている間は、静観し、見守り、様子を見つつ、時、至ったならば、神様、イエス様の主権の下で、能動的に、積極的に関わる時に、神様、イエス様の栄光が現れるのです。

皆様は如何でしょうか。

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                                                                2019-3-10礼拝

聖書個所:サムエル記第一218節から2126         

説教題:「ハンナへの祝福、或いは報奨」

【導入】

信仰生活を送る中で、私たちは神様と約束をする事があります。

その約束は自分自身の行動に関する事であったり、何かしらの献げ物の約束であったりする事でしょう。

私たちにとっては重大な決意を必要とする事であったり、とても難しい事であったりしますが、神様にとっては取るに足りない、些細な事ばかりです。

何故ならば、神様は人の影響を受ける事はありませんし、人の助けなどは必要としませんし、全ては神様の物であるからです。

しかし、神様は取るに足りない些細な事だからと言って、いい加減に済まそうとはされません。

どんなに些細な約束でも、どんな小さな献げ物でも、その約束を守ろうと努力する心をご覧になって喜び、実際に献げられた物をご覧になって、或いは、行動の変化をご覧になって喜ばれるのです。

約束を全く守れず、或いは半分しか約束を守れなくても、心をご覧になって喜んで下さるのが神様なのです。

ましてや、その人にとって最高のものを、唯一無二のものを惜しげもなく献げたならば、神様はどんなに喜んで下さる事でしょうか。

ハンナは長年、子どもが生まれずに苦しみ、子どもが生まれない事で苛められ、本当に辛い思いをして来たのですから、待望の我が子サムエルは、何にも替え難い宝物だったに違いありません。

その大切な我が子を手放すのは、簡単な事ではなかったでしょう。

しかし、ハンナは約束の通りに、サムエルを親戚でも友人でも、知り合いでもない祭司エリに預けたのです。

その時、神様の不思議な祝福が働き始めるのです。

【本論】

2:18 さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。

ハンナは乳離れしたサムエルをシロの主の宮に連れて来て、祭司エリに預けました。

乳離れの時期は人それぞれですが、凡そ3歳ぐらいであったろうとされています。

3歳位の子どもですから、特別な仕事は出来なかったでしょうし、させてももらえなかった事でしょう。

返って足手まといになっていたかも知れません。

しかし、主の宮に何人か居る下働きの人々に混じって、エリの指導を受けながら、ハンナが心を込めて作ってくれた亜麻布のエポデを身にまとい、幼いながらも両親の期待に応えようと熱心に、誠実に、神様に仕えていたのです。

この「エポデ」と言うのは、祭司が神様に仕える時身にまとう、宝石が散りばめられ、金糸銀糸で刺繍が施された豪華絢爛な物ではなく、質素な物、簡素な物だったでしょうが、サムエルはエポデを身にまとう時、特別な働きに付く者との自覚を持ち、働きに対する畏怖、畏敬の念を持ったのではないでしょうか。

エポデというのは一種の制服です。

制服と言うのは、区別を表し、権威を象徴するものです。

先に学んだように、主の宮で主に仕える、と言うのは、誰もが自由勝手、きままに出来る事ではありません。

特別に選ばれた人々の中から、身に欠陥のない者が、決められた年齢の期間、決められた働きをさせていただく事なのです。

規格化統一された制服、エポデではなかったでしょうが、それぞれが意匠を凝らして、神様に仕える決意を現していたのではないでしょうか。

2:19 彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くときは、それを持って行った。

「小さな上着」と言うのは、マントのような、或いは日本の半纏、掻い巻きのような物ではなかったかと思われます。

普段は羽織って寒さをしのぎ、寝る時には毛布のように身を覆って、夜の寒さをしのいだようです。

3歳で両親の元を離れ、一人で生活するのですから、しかも、夜は主の宮で一人寝ですから、どんなに寂しかった事でしょうか。

その時、この毛布のような、掻い巻きのような物に包まって、その匂いを嗅ぐ時、両親を思いだし、寂しい中にも、一時の慰めを得たのではないでしょうか。

子どもの成長には目を見張る物があります。

少し見ないうちに、ずんずんと成長していきます。

ハンナはサムエルの成長に合わせて上着を作り、礼拝のためシロに行く時、持っていったのです。

この上着はエポデと共に正式な制服ではなかったようですが、お母さんが作ってくれたエポデと上着はサムエルにとって晴れ着であり、誇らしげにまとって神様に仕えていたのです。

聖書にはエポデと上着の事しか記されていませんが、両親は下着も、身の回りの必要にも気を配り、十分応え得る物を持った行った事でしょう。

サムエルは両親とは離れて暮らしていましたし、自分から両親に会いに行く事は出来ませんでしたが、両親の用意して下さったエポデや上着を通して、何時も、両親の愛情を肌身に感じ、背後の祈りを感じていた事でしょう。

2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように。」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。

主にゆだねられた子」の部分を新改訳第3版は「主がお求めになった者」と訳していますが、ハンナにこの「求められた」との意識はなく、128節にも「主におゆだねいたします」と記されているように、自発的にサムエルを献げた、と思っていた事でしょう。

しかし、新改訳第3版が訳しているように「主がお求めになった」のであり、ハンナは神様のご計画、御旨と知らずに応答していたのです。

神様のご計画は、明確な啓示の中に示される事もありますし、本人がそれと気が付かないうちに導かれる事もあるのです。

勿論、どちらの場合でも、啓示を受けた人は拒否する事も出来ますし、従う事も出来ます。

ヨナのように、明確な啓示、指示があったのに拒否し、逃げ出す事も出来ますし、自由奔放に見えるサムソンの行動ですが、神様のご計画であった事が記されている通りです。

ハンナにもエルカナにも、サムエルを献げる事が神様のご計画だとは知る由もなかった事ですが、毎年シロに詣でる信心深いエルカナ、神様に全てを委ねるハンナを用いて、神様のご計画は進められた行ったのです。

この「主にゆだねられた」は、128節の「主におゆだねいたします」と対句になっている事は明かです。

主がハンナに求めた。ハンナはそれに応じた。

別の言い方をするならば、ハンナは主にサムエルを預けた、ハンナは主にサムエルを貸し付けた事になり、「主主にゆだねられた子の代わりに」の「代わりに」が貸し付けに対する利子、利息、或いは、報奨である事が浮かび上がってくるのです。

全てのものは神様のものですが、人が神様に献げるのは、神様に貸し付けるのと同じであり、神様はその行為に対して、利息を払って下さるお方だ、報奨を与えられるお方だ、と言う事が記されているくだりなのです。

2:21 主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。

ハンナ、エルカナの夫婦はサムエルと言う男の子一人を神様に貸し付けましたが、神様はハンナ、エルカナ夫婦に三人の息子と二人の娘、合計五人の子どもを利息として、報奨として与えて下さったのです。

神様という銀行は500%の利率なのです。

否、30倍、60倍、100倍にして返して下さるお方なのです。

例え、この世で利息を受け取らなかったとしても、天に積んである宝は朽ちる事も、盗まれる事も、価値が下がる事もないのですから、天に召された時、膨大な利息を受け取る事になるのは疑う余地のない、確実な事なのです。

ですから、惜しみながらではなく、嫌々ながらでもなく、せい一杯を喜んで献げましょう。

神様はそれを喜んで預かって下さり、想定外の利子、利息、報奨を与えて下さる事でしょう。

飛んで、

2:26 一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。

この記述は212節の「エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった」と対照的です。

主にも人にも愛されたサムエル。

一方は人々の悪い噂になり、神様から裁きを受けるような人間になってしまっていたのです。

同じような環境に育ちながら、何がこんなに大きな違いを生んでしまったのでしょうか。

早くから両親の元を離れて、自立させる事が大切だとか、祭司という親の七光りの中で、甘やかして育てたのが原因だとか、早計な結論を出す事は控えなければなりませんが、本当の意味で主のみもとで成長するか、否かが大きな違いとなっていくのです。

主の宮で同じように神様に仕えていても、神様と共に歩まないならば、どんどん離れていってしまいます。

始めは恐る恐るのツマミ食いでも、次第に大胆になり、何時しか神も人も恐れない傲慢不遜な人間になり、ついに神様に見捨てられてしまいます。

一方、失敗しつつも、常に神様を恐れ敬いつつ、益々謙遜に生きるなら、神様は決して見捨てる事はないのです。

【適応】

ユダヤ社会にあって、子どもを産まない女性は非常に惨めな立場に置かれていました。

単に子どもが居ないと言う寂しさに留まらず、神様の恵みを受けられない者、神様の祝福から弾き出された者と言う、肩身の狭い思いを生涯背負って生きなければならなかったのです。

そんな中にあって、やっと生まれたサムエルですから、いつまでも手元に置いておきたいと思うのが人情でしょう。

神様に献げると約束はしたけれど、まだまだ先でも構わないじゃないか。

ユダヤ社会では13歳くらいになると、長老たちの前に立たされ、聖書の暗唱や諮問がなされ、合格すると大人の仲間入りをしたそうです。

今でも、ユダヤ人社会ではそのような儀式が持たれているようです。

ユダヤの風習にしたがうならば、13歳で神様に仕えるようにしても、遅くはないと考えるのが普通でしょうが、ハンナはそうではなく、乳離れしたら献げる事を自分で決め、実行したのです。

誰に勧められたのでも、強制されたのでもありません。

「三つ子の魂100まで」と言いますが、幼いうちに神様との生活を始める事が、神様に献げた人生に相応しいと考えて、それを実行したのです。

献身も悔い改めも、遅いと言う事はありませんが、早いに越した事はありません。

早ければ早いだけ、神様との良い関係が長く続くからです。

そして、神様の祝福も沢山頂けるからです。

サムエルを幼いうちに献げたのは、サムエルにとっても好都合でしたが、ハンナにとっても好都合だったのです。

聖書にはハンナが何歳でサムエルを生んだのかを記録していませんが、高齢であった事は間違いありません。

ハンナに子どもが生まれないのでペニンナを娶り、ペニンナには少なくとも4人の子どもが生まれていたのですから。

神様に不可能はありませんから、ハンナがどんなに高齢でも、子を産み育てる力を与えられるでしょうが、子育ては大変です。

少しでも若いうちのほうが余裕を持って子育て出来るでしょう。

その意味でも、早いうちに約束通りサムエルを献げた事は、ハンナに有利に働きました。

サムエルを献げる事を躊躇し、先延ばしにしていたならば、20節の「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように。」と言う祭司エリの言葉は頂けなかったでしょう。

サムエルの後に与えられる子どもも5人ではなく、もっと少なかったかも知れないのです。

皆様の中に、神様と誓約を交わされた方がおられるでしょうか。

それを忘れてはいないでしょうか。

何か、神様との約束を先延ばしにしている事はないでしょうか。

それは、折角の神様の祝福を取り逃がしている、先延ばしにしている事なのです。

神様は私たちを一杯祝福したいと願っています。

しかし、私たちが神様との約束を守っていなければ、先延ばしにしていたならば、

それが妨げとなって、神様の祝福を頂く事が出来なくなってしまうのです。

昨日も今日も生きて来ましたが、明日も生きていると言う保証はないのです。

明日がやって来なかったならば、神様との約束はどうするのでしょうか。

どんな小さな約束でも、神様は約束を守るのを待っておられます。

どんな大きな罪でも、神様は悔い改めるのを待っておられます。

それは神様との関係を正す事にほかなりません。

皆さんの家には水道管が繋がっていると思いますが、水道管が錆びて、或いは、異物が詰まっていたならば、カランを捻っても、水はちょろちょろとしか出て来ません。

そんな時は、水道管のメンテナンスをし、錆や異物を除去し、詰まりを除けば、水道管は完全に開通し、水がほとばしって出るようになるでしょう。

同じように、神様との関係が正されたならば、神様の祝福が溢れるばかりに注がれるに違いありません。

ここにおられる皆様が神様の前に誠実に歩み、約束を守り、日々に悔い改めて、神様の祝福を豊かに受けられますようにお祈り致します。

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                                                                    2019-3-3礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1720節から26

説教題:「イエス様の祈り・・・信徒たちのため」

【導入】

イエス様は、イエス様自らが召し出された弟子たちと、凡そ3年に亘って、寝食を共にされ、聖書の教えの根本、「神を愛し、人を愛する」事の具体例を示されました。

勿論、限られた時間の中で、ですので、伝え切れなかった事も多々あったでしょうし、弟子とは云っても、旧来の慣習が根強く残っており、ユダヤ教の教え、律法から逸脱するような言動は、なかなか採れるものではありません。

罪の性質を持っており、神様の喜ばれる事をするのは非常に難く、また、ユダヤ教指導者層からの監視や迫害、同胞からの非難は、保身に走らせて、イエス様を裏切る事さえしてしまうのです。

イスカリオテ・ユダや、ペテロの失敗は、この二人だけの問題ではなく、誰もが持っている弱さであり、肉の力の影響を払拭しきれない人間の宿命であり、誰もがイスカリオテ・ユダや、ペテロになり得るのです。

イエス様から直接、教えを受けた、懇切丁寧な解きあかしを受けた弟子たちでさえ、イエス様と共に活動し、寝食を共にした弟子たちでさえ、この有様なのですから、イエス様を見た事のない人々が、イエス様を神の子、イエス様が十字架で受けられた刑罰を、人間の罪の贖いであると信じるのは、人間業では出来ない事なのです。

だからこそ、「助け主、聖霊様、真理の御霊」が送られなければならないのです。

ここで、「弟子」と「使徒」「信徒」を便宜上の理由で区別しておきたいと思います。

イエス様から直接、教え、指導を受けた弟子は「使徒」と、「使徒」から教えを受け、指導を受けた者を「信徒」と呼びたいと思います。

これは、混乱しないためであり、厳密な区別の意味ではありません。

イエス様の遣わされる使徒の語ることばに耳を傾けられるのも、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きがあってこそであり、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きで、見た事のない、イエス様を信じるのですが、使徒たちの働きの重要性が失われる事は、薄れる事は全くありません。

イエス様の事を伝える、広める働きは、使徒たちの語る「ことば」をもって為されるのであり、不思議な事をしたり、奇跡を行なったり、権力に取り入ったりして為されるものではありません。

イエス様に選び出された使徒たちの、地道な、多くの犠牲と困難を伴う、「宣教」の働きを通して、イエス様が選ばれた者たちに届けられるのであり、使徒も、使徒の教えを聴いて信徒になる者も、イエス様の選びと、神様の救いのご計画の内にあるのです。

先に、イエス様は、宣教の働きに就く使徒たちのために、執り成しの祈りを献げられましたが、今回、イエス様は、使徒たちの働きによって、信徒となる人々のために、執り成しの祈りを献げられます。

【本論】

新改訳2017版 17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

この人々」、次の段落の「彼ら」とは、イエス様の「直弟子、使徒たち」の事であり、イエス様は「直弟子、使徒たち」のために、執り成し祈られましたが、続く、「わたしを信じる人々」とは、「直弟子、使徒たち」の働きによって「信徒」となった人々の事であり、イエス様は「信徒」たちのために、執り成しの祈りを献げられます。

宣教の働きは「ことば」によって為されるのであり、使徒たちの、直接的宣教の働きによって、信徒となる人々に対する執り成しの祈りであり、また、使徒たちの宣教の「ことば」が、聖霊の助けと、導きとによって、これを「聖霊による霊感」と言いますが、使徒たちの宣教の「ことば」が文書化され、「新約聖書」が誕生し、聖書が用いられる事に対する執り成しの祈りなのです。

ですから、使徒たちから教えを受けた人々のみならず、「彼らのことば」、即ち「聖書」を読んで「わたしを信じる」に至った人々も立派な「信徒」なのであり、福音宣教の多様性のために、執り成し祈られた事が明白です。

イエス様は、「直弟子、使徒」と「信徒」を区別されますが、差別ではありません。

「使徒」は連綿と続いて、現代にまで続く、福音宣教の働きに直接、携わる人々であり、その働きは、イエス様によって支えられ、導かれ、継承されて行きますが、「使徒」は、神学を学ぶ必要があり、狭い意味の献身者であり、宣教の対象、範囲は広範です。

一方の「信徒」の働きも、イエス様によって支えられ、助けられ、家族への伝道の働きかけとなり、信仰継承の形で伝えられ、友人、知人への働きかけとなり、教会に誘う形で進められて行きます。

「信徒」の働きは、特別な学びをしなくても、イエス様への愛と信仰があれば、誰にでも出来る働きであり、イエス様を信じる者であれば、誰もが取り組むべき働きと言えるでしょう。

どちらも大切、不可欠であり、遜色はありませんし、どちらも、イエス様の執り成しと、「助け主、聖霊様、真理の御霊」の働きがあってこそです。

17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

父なる神様と、子なるイエス様とは、父なる神様と、子なるイエス様との間にある「愛」によって結び付いていますが、イエス様と「使徒」の結び付きも、イエス様と「信徒」の結び付きも、「使徒」と「信徒」の結び付きも、信徒同士の結び付きも、本質は、父なる神様と、子なるイエス様との間の結び付きと同じ「愛」によって結び付いています。

父なる神様の愛、イエス様の愛によって、一致が形成されるのであり、時代、文化、人種、職業、地位、を超えて、一つ群れとなるのであり、単なる外面的、形式的な一致ではありません。

全世界的に、時代を超えて、信徒の群れは一致するのであり、一致させる原動力は、父なる神様と、子なるイエス様との間にある「愛」であり、全面的に、父なる神様から発する「愛」に依存しているのです。

更には、父なる神様と、子なるイエス様との間にある一致は、目的、意図に於いても一致しており、使徒の働き、信徒の働きに於いても、一致しており、全世界に出て行き、全ての造られた人に福音を届ける、ところにあるのです。

この使徒の目的、意図の一致によって、信徒の目的と、意図の一致によって、父なる神様のご計画が、この世に現されたとき、この世は、父なる神様と、子なるイエス様を知り、信じるようになるのです。

勿論、簡単には行きませんが、使徒、信徒の愛による一致は、この罪の世に、自己中心の世界に、変革をもたらす事は間違いありません。

22節と23節は、略21節の繰り返しですが、重要であるからこそ、イエス様は繰り返されます。

17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

父なる神様の愛は、十字架に架かられたイエス様の従順、犠牲のうちに現され、父なる神様と子なるイエス様の一致によって、イエス様は栄光を受けられましたが、イエス様の愛は、イエス様を信じる信徒の従順、犠牲のうちに現され、イエス様と信徒の一致によって、信徒は栄光を受けるのです。

イエス様と信徒と云った縦のつながりは、非常に重要ですが、信徒同士、或いは教会同士の横のつながり、一致も、重要であり、イエス様が与えられる栄光は、イエス様にあって信徒同士、或いは教会同士が一致するとき、一層輝くのです。

17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

父なる神様の愛が、子なるイエス様のうちにあり、子なるイエス様の愛が、信徒たちのうちにあるのは、信徒たちが、完全な一致に至るためです。

一致とは、繰り返しますが、目的と意図とに於いてであり、全世界に出て行き、全ての造られた人に福音を届ける、です。

決して仲良くが目的ではなく、皆が一緒にが目的でもありません。

福音を届けるのが目的であり、色々な考え方が尊重され、色々な意見、色々な方法で福音を届けるのです。

福音を届ける意味での一致が、イエス様が「彼らのうちにい」る事の証明であり、信徒のうちに、イエス様がおられる事が明らかとなるとき、イエス様は栄光を受けられ、信徒たちが一致するとき、イエス様は栄光を受けられるのです。

信徒一人一人がイエス様の栄光を現し、信徒の群れも、イエス様の栄光を現すのです。

これらの事によって、世は、父なる神様が、この罪の世を救うために、イエス様を遣わされた事、父なる神様が、イエス様を通して信徒を愛される事、父なる神様が、イエス様に注がれる愛を、信徒一人一人にも注がれる事、を知るのです。

17:24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。

イエス様は、父なる神様にお願いします。

イエス様を信じる信徒たちが、イエス様のいるところ、即ち、天の御国にいる事を。

しかし、これは、信徒たちがこの世から取り去られるように、との願いではありません。

信徒たちが、常にイエス様との深い交わりを持ち続けられるように、との願いであり、イエス様との霊的な交わりの絶えざる事を求め、願っているのであり、肉体はこの世にあっても、霊はイエス様と共に、霊において、常にイエス様の栄光を拝するようにしてください、との願いなのです。

また、ユダヤ教指導者は、ユダヤ人は、神様がエルサレム神殿を栄光で輝かせ、イスラエルを復興してくださる事を熱望していました。

そのために日夜、熱心に祈り続けたのですが、自我を捨てる事が出来ず、自分たちの願う形での、自分たちの思いを優先させてしまい、神様の主権を忘れ、高慢になり、神様の遣わされた預言者のことばを侮り、自分勝手に解釈し、イエス様を神の御子であるとは、決して信じませんでした。

いの一番に救い主、神の御子を拝する特権を与えられ、その場に居合わせながら、その特権をふいにしてしまったのです。

しかし、自我を捨て、謙遜になり、イエス様の召しに応答した者たちは、肉の目で神の御子を拝し、イエス様の栄光を見る事が出来たのです。

そして、使徒のことばに応答した者たちも、霊において、イエス様の栄光を拝する特権に与るのです。

最後の段落ですが、宇宙万物は、父なる神様によって創造されましたが、イエス様は被造物ではなく、神であり、宇宙万物の創造に立ち会われた事の宣言であり、御子イエス様は、創造者なる神様と同じ栄光を身に纏っておられると、宣言されるのです。

17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。

この世」は、「正しい父」即ち「聖であられ、義であられる」神様を知る事は出来ません。

神様やイエス様に敵対する者たち、受け入れようとしない者たちは言うに及ばず、使徒たちも、信徒たちもです。

何故ならば、ここで「知る」と言うのは、知的レベルだけではなく、全人格的な意味に於いてであり、神様は余りにも偉大で、計り知れず、人間の知性ではお手上げだからであり、人間には罪の性質があり、穢れており、不義であり、聖い、義なる神様と全人格的な交わりを持つ事が出来ないからです。

しかし、我々罪人でしかない者が、イエス様と云う神の御子を介在する事によって、イエス様を、神様が罪の世に遣わされた御子であると信じ、受け入れる事によって、恰(あたか)も、神様を全人格的に知った、と見做して下さるのです。

イエス様を、神様が罪の世に遣わされた御子であると信じ、受け入れる者には、イエス様の義が、我々罪人に転嫁され、我々が義人と見做されるのと同じです。

17:26 わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

あなたの御名」とは、呼び方などや、うわべの問題ではありません。

神様がどのようなお方か、神様の聖と、義に付いての知識、真理、原理であり、聖について、神様はどんな小さな穢れも、過去、現在、未来の穢れも忌み嫌われ、義について、神様はどんな小さな罪、軽い罪、過去、現在、未来の罪に対しても、死を与えられる、と云う事であり、イエス様を、神様が罪の世に遣わされた神の独り子、世の罪の贖い主、罪人の救い主であると信じ、受け入れる者には、その人の穢れを完全、且つ永久に聖め、その人の犯した、小さな罪、軽い罪、過去、現在、未来の罪に対して完全な赦しを与え、イエス様の聖と義が、その人に転嫁され、聖なる義人と見做される、と云う事です。

これが「あなたの御名を知らせ」ると云う事であり、イエス様は、この真理、原理を使徒たちに知らせ、使徒たちは、罪の世に知らせ続けるのであり、神様の愛を受け入れた者は、父なる神様の愛と、御子なるイエス様の愛との中に、招き入れられるのです。

【適応】

11節に「聖なる父」との呼び掛けがあり、25節に「正しい父」との呼び掛けがありますが、神様の聖さは、神様が信徒たちを世の罪、穢れから守ってくださる事の保証であり、神様の正しさは、神様が信徒たちを見捨てないでいてくださる事の確証です。

そして、20節から26節のことばを、相互に関連付けて読むならば、イエス様から直接ことばを聴いて信じた人々、即ち直弟子の、穢からの聖め、罪の赦しと、使徒のことばを聴いて信じた人々、即ち直弟子以降の信徒たちの、穢からの聖め、罪の赦しとに、全く差異がない事がお分かりいただけるでしょう。

そして、これは、非常に重要な教理を教えています。

イエス様から直接であろうと、使徒からであろうと、使徒の弟子からであろうと、弟子の弟子からであろうと、聖めと、赦しは、父なる神様、御子なるイエス様に起因するのであり、使徒や弟子の力、功績、地位には因らない事、従って、何世代も経た弟子からであろうと、不祥事や問題を起こした牧師からであろうと、聖めと赦しに、なんら影響しないと云う事なのです。

その保証、確証が、20節から26節にまとめられているのであり、2000年を経てなお、聖めと赦しは有効であり、これからも有効なのであり、私たちが受ける洗礼に保証と確証を与えるのです。

メガ・チャーチであろうと、6畳位の礼拝堂の教会であろうとも、高名な牧師からであろうと、無名の牧師からであろうと、父と子と聖霊の御名によって弟子、使徒、信徒となった者は、聖霊が内住しているのであり、父なる神様、御子なるイエス様の愛、交わりの中に置かれているのであり、この愛、交わりから、追い出される事はないのです。

イエス様を見た事も、その声を聴いた事もない信徒に、拠り所となり、確証と確信を与え、平安と慰めを与えるイエス様の執り成しの祈りなのです。

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