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                                                                 2019-4-28礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書191節~8

説教題:「イエス様の逮捕・・・無罪。しかし、鞭打ちの刑」

【導入】

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たちから、ユダヤ教宗教指導者たちに対する不満分子、反対分子の首謀者、既存のユダヤ教宗教組織に対する改革者、ユダヤ教の異端集団の首謀者と見做され、メシヤ運動、ユダヤ独立運動に関わる危険集団の首謀者との嫌疑を掛けられました。

そして、イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たちから遣わされた役人たちと、ユダヤ教宗教指導者たちの裏工作により協力を得たローマ軍によって、不当に逮捕されてしまったのです。

そして、ユダヤ教宗教指導者たちが主導する、形だけを整えた、不当な裁判に掛けられました。

そして、ユダヤ教内部の問題を、ローマ帝国、ローマ政府に対する反乱のように見せかけ、ローマ帝国、ローマ政府の手によって、不都合な者を排除しようと画策したのです。

当時、エルサレムには、自治権が与えられていましたが、自由都市ではなかったので、死刑の判決、処刑の執行に対しては、ローマ帝国、ローマ政府の許可が絶対必要条件でした。

そこで、ユダヤ教宗教指導者たちは、ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトに訴え出たのです。

総督ピラトと、イエス様との尋問の様子は、聖書の記述の通りです。

総督ピラトは、イエス様には、ユダヤ教宗教指導者たちの告訴に該当するような事実が全くない事、ローマ帝国の法に反する、何の罪も認められない事を確信し、無罪放免を宣言します。

しかし、ユダヤ教宗教指導者たちは、何としてでもイエス様を殺したいので、民衆を巻き込み、イエス様を十字架に掛ける事と、強盗と思われるバラバを釈放する事を要求するのでした。

民衆の要求は、不当な要求ではありますが、民衆の要求を受け入れる事は、今後の統治にとっては、非常に有利です。

そこで、総督ピラトは、一計を案じます。

【本論】

新改訳2017版 19:1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。

総督ピラトは、無罪のイエス様を「鞭打ちの刑」に処したのです。

総督ピラトの務めは、支配者の務めは、正義を行なう事であり、不正を罰する事です。

それは、治安の維持と、秩序の維持とに、何より有効、有益だからです。

一方、支配者は、民衆の不満が募らないように腐心し、騒動、騒乱、暴動に発展しないように、常に人臣を掌握する必要があります。

時には、民衆のご機嫌も取らなければなりません。

そこで、祭りの時に、ユダヤ人の要求する犯罪者、受刑者に恩赦を与え、解放し、民衆の不満を軽減、解消するのです。

正義を貫くなら、犯罪者の釈放ではなく、税の軽減とか、ローマ兵による不当な搾取や法外な支配を改める事をこそ、優先し、徹底すべきでしょうが、手っ取り早く、効果的なのが、恩赦を与える事であり、総督ピラトは、民衆の要求通り、バラバを釈放し、イエス様に「鞭打ちの刑」を執行したのです。

「鞭打ちの刑」は、残酷な刑です。

鞭には、金属片、動物の骨などが、取り付けられており、皮膚を裂き、肉に食い込み、その激痛は耐え難いものだそうです。

苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めな姿は、憐憫や同情を呼び起こすに、充分過ぎるでしょう。

総督ピラトが、イエス様を鞭打ちの刑に処したのには、幾つかの理由が考えられそうです。

一は、苦痛を与える事で、自白を促し、新しい事実、隠されている事実を引き出す事です。

一は、残酷、惨たらしい仕打ちを与える事で、苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めな姿をユダヤ人たちに見せる事で、ユダヤ人たちが満足し、死刑の要求を撤回するように仕向ける意図があっのではないでしょうか。

19:2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。

茨の冠」ですが、旧来は、拷問の道具の一種と見做されていましたが、近年の研究では、当時流通していた貨幣を調べた結果、貨幣に描かれている肖像の王冠は、放射状に、四方八方に、長い突起が出ており、神聖さや、不可侵な王権を象徴しています。

「自由の女神」の王冠のようなものです。

種類によっては30cmもの長さの棘も持つ茨もあるそうです。

イエス様の頭に被せられた茨の冠は、当時の王冠を模して作られたものであり、茨の棘を外側に向けて、放射状に並ぶように編んだ物ではないか、と考えられています。

紫色の衣」ですが、紫は、王位を象徴する色であり、王様や高貴な人にしか、着用は赦されていなかったようです。

総督ピラトは勿論のこと、ローマ兵も、イエス様が「ユダヤ人の王」として訴えられているのを知っていると考えられますから、苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めな姿に追い討ちをかける意味で、「茨の冠」を被らせ、「紫色の衣」を着せ、揶揄、嘲笑したのでしょう。

19:3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。

近寄り」は、平身低頭してにじり寄る、臣下の礼を真似して、揶揄、嘲笑したのであり、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んだのも、揶揄、嘲笑の類であり、「顔を平手でたたいた」のは、臣下の礼として、王様の手の甲に、口付けする代わりに、であり、徹底してイエス様を愚弄、揶揄、嘲笑したのです。

以上は、総督官邸の中での出来事であり、

19:4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

総督ピラトは、「私にはあの人に何の罪も見出せない」と、1838節でも、ここでも、次の6節でも繰り返し、釈放を試みますが、総督ピラトの言葉を受け入れようとはしないユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちが納得するための、苦肉の策として、イエス様に鞭打ちの刑を科し、ユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちの目の前に、鞭打ちの苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めなイエス様の姿を曝す事で、ユダヤ教宗教指導者たちも渋々ではあっても、総督ピラトの宣言を受け入れる事を、民衆たちから、イエス様を赦そうじゃないか、との声が上がる事を期待したのではないでしょうか。

無罪の者に対する、鞭打ちの刑は、何とか、この一件に、終止符を打ちたい総督ピラトの、苦肉の策だったのでしょう。

19:5 イエスは、茨の冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」

この人」は、侮蔑、愚弄の意味の込められた言葉です。

総督ピラトは、イエス様の苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めな姿人々の前に曝し、「こんな哀れな姿の男が、王様だと思っているのか?王様な訳がないだろう!」、「こんな惨めな姿の男を、死刑にするのか?死刑にするまでもないだろう!」、「こんな情けない姿の男が、ローマ帝国、ローマ政府にとって危険人物だとでも考えているのか」と、問い掛けて、イエス様への死刑要求を、撤回させようと図ったのです。

しかし、総督ピラトの苦肉の策は、何の効果もありませんでした。

19:6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」

総督ピラトの宣言は、ユダヤ人には十字架刑を執行する権限がない事を承知の上での提案であり、最後の説得を試みたと思われる、諦めさせる願いを込めたと思われる言葉です。

ユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちの要求を、強く跳ね除ける意志を、強く込めた総督ピラトの宣言ですが、イエス様を殺す事だけに血眼になっているユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちには届かず、効果は全くなく、ユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちは、とんでもない事を、最初の罪状とは全く違う罪状を口走ります。

19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

ユダヤ人たちが持ち出した「律法」とは、レビ記に記されている律法の一節です。

レビ記2415節、16節、2017版は222ページ、第3版は216ページ、「24:15 あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。24:16 主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。」。

ユダヤ人たちは、「自分は神の子だ」と名乗る事を、創造者にして、支配者なる神様に対する重大な不敬罪であり、瀆神罪であり「神をののしる」事や、「主の御名を汚す」事と同等、否、それ以上と考えたのです。

決して赦されず、断じて赦されず、如何なる献げ物、生贄を持ってしても、贖われない、と考えたのであり、「自分は神の子だ」と名乗った者の死を持ってでしか、贖えない、と考えたのです。

「自分は神の子だ」と名乗った者に死を与えない場合には、イスラエル民族全部に類が及ぶと考えたのであり、これは、或る意味、正しい事であり、創造者にして、支配者なる神様に対する尊敬と、相応しい対応です。

しかし、ユダヤ人たちの、イエス様に対する罪状、申し立ては、今の今まで、「ユダヤ人の王」と自称した事であり、ローマ帝国、ローマ政府に対する反逆罪でしたが、実は、ユダヤ教の神に対する、不敬罪、瀆神罪である事が、暴露、判明するのです。

ユダヤ教宗教指導者たち、民衆たちは、総督ピラトが、ローマの法律で裁く事を、善しとしないのならば、ユダヤの法で裁くようにと、迫ります。

19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えた。

このことば」とは、7節の全体ではなく、「神の子」との部分です。

総督ピラトは、ユダヤ教の神様に対する尊敬も敬意も、畏怖も畏敬も、全く持ち合わせてはいませんが、「神の子」との言葉は、異教的な迷信と結び付き、イエス様の、苦痛に歪み、憔悴し切った、惨めな見かけに反して、もしも、超自然的な力を持つ人物であったならば、何か、不幸な事が起こりはしないか、大災害や、甚大な被害を招きはしないかと、恐れを覚えたのです。

不可抗力の自然災害でも、総督である以上、何らかの責任を負わなければなりません。

また、「神の子」とは、ローマ皇帝にのみ帰せられていた称号であり、「神の子」を名乗る事は、ローマ皇帝への政治的反逆罪と等しく感じられたのであり、「神の子」を名乗る人物が目の前にいる事に、恐れを覚えたのです。

ますます」は、一度「恐れて」いる事が前提の表現ですが、これは、ギリシャ語によく見られる用法であり、「非常に恐れた」の意味です。

こんな背景があったので、9節から、再び、総督ピラトの、イエス様に対する尋問が繰り返される事になるのです。

【適応】

古今東西、多くの支配者たちにとって、一人の人間の生死は、或いは尊厳は、最優先させるべき、最重要な関心事ではないようです。

支配者たちの、総督らの、領主らの責務、最優先させるべき、最重要な課題は、治安の維持、政治的な安定、であり、時には、大を生かすために、法を曲げる事も、正義を犠牲にしなければならない、苦渋の決断をしなければならない状況に置かれる事もあるでしょう。

この世では、法を曲げるような判断を、正義が犠牲になるような決断を支持する場合もありましょうが、無実の者が裁かれ、罰を受けるような事があってはならず、です。

勿論、全知ではない私たちであり、知り得ない事の方が多いのですから、間違った裁定を下す事もありましょう。

だからこそ、最大限の時間と費用を掛け、慎重 且つ詳細な調査をしなければならず、それ故に「疑わしきは罰せず」で、歯止めを掛けて、正義の名に恥じぬ、裁定を下さなければならないのです。

一方、神の国では、法を曲げるような事は、正義が踏みにじられるような事はありません。

裁かれるべき者は、裁かれなければならず、です。

そして、良きに付け、悪しきに付け、報いは受けなければなりません。

列王記第一832節、2017版は609ページ、第3版は593ページ、「8:32 あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪い者にはその生き方への報いとしてその頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義をもって報いてください」です。

祈り、願いの形を取ってはいますが、創造者にして、支配者にして、義なる神様のあり様です。

全ての造られた者は罪を犯したので裁きを受けなければならず、罪人である人間を裁き、罰を与える事は、義なる神様に相応しい事なのです。

しかし、愛なる神様は、人間の受けるべき罰を、全く罪咎のないイエス様に与える事で、義と愛を両立させられたのです。

総督ピラトの裁定と、義なる神様の裁定とは、似て非なるものです。

総督ピラトの裁定は、民衆の支持を得るために、治安の維持を優先させるために、保身のために、利己的な理由、人間的な判断で、罪咎のないイエス様に鞭打ちの刑を与え、この後、十字架刑に処します。

しかし、義なる神様の裁定は、神の義を全うし、神の愛を実現するために、罪咎のないイエス様を罰せられたのです。

私たちは、義なる神様に属する者ですが、この世に存在しているために、この世の影響を強く受け、神の義と、この世の義理と人情、自己保身と自己愛との間で、決断せざるを得ず、悩み、苦しみましょうが、神の義より、この世の義理と人情を、自己保身と自己愛を優先させてはなりません。

この世の義理と人情を欠く時、この世では生き辛くなるでしょう。

自己保身と自己愛を捨てる時、大きな不利益を被るでしょうが、神様の栄光が現され、天に宝を積む事に成ります。

この世では報われなくても、天に於いて、神様が報いてくださいます。

この世の報いは、取るに足りない報いですが、義なる神様からの報いは、朽ちる事なく、永遠に、燦然と輝く義の栄冠なのであり、永遠の命なのです。

この世で、常に神の義を追い求め、神の義を実現させるのは、イエス様の犠牲によって義とみなされたクリスチャンに相応しい事なのです。

本日の説教題は、「無罪。しかし、鞭打ちの刑」ですが、説明を加えるならば、「無罪。しかし、民衆の支持を得るために、治安の維持を優先させるために、保身のために、利己的な理由、人間的な判断で、鞭打ちの刑」です。

しかし、私たち、義なる神様を知る者は、「民衆の支持を得なくても、治安の維持を優先させられなくても、地位が危うくなっても、どんな評価が下されようとも、義なる神様に相応しく、義なる神様が喜ばれる事だから、無罪、釈放」を宣言しなければならないのです。

勿論、罪の性質があり、肉体的、精神的、霊的弱さを持っていますので、理想通りには行かない事も多々ありましょうが、否、理想から遠く離れていて、情けなくなる事の方が多いでしょうが、理想を持つと、持たないのとでは全く違います。

罪の世で、義なる神様の義を実現する事を理想として生きる事こそ、クリスチャンの使命です。

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                                                               2019-4-21礼拝

聖書個所:サムエル記第一311節~21

説教題:「さばきの宣告・・・預言者の使命」

【導入】

前回の学びで、創造者にして支配者なる神様がサムエルに現れ、サムエルが聞く姿勢を取った事で、サムエルが預言者に任じられた事を確認しました。

創造者にして支配者なる神様から預言者として召命を受けはしましたが、真の預言者であるかどうかは、創造者にして支配者なる神様から預かった言葉をそのまま語るか否かにかかっています。

創造者にして、支配者なる神様から預言の言葉を預かっても、黙して語らなければ真の預言者ではありません。

割り引いて語っても真の預言者ではありません。

何かを付け加えたりしても真の預言者ではありません。

勿論、オウム返しに全く同じ事を語らなければならない、と言うのではありません。

創造者にして支配者なる神様は啓示として、預言の言葉を授けますので、預言者は預言者の持っている知性で理解し、持っている知性で預言の言葉を語ります。

聖書66巻は多くの著者によって記されていますので、それぞれに特徴、個性がありますが、創造者にして支配者なる神様から預かった言葉を語っている、と言う点では、皆 真の預言者なのであり、聖書は創造者にして支配者なる神様の言葉なのです。

サムエルもまた預言者の一人として創造者にして支配者なる神様に選ばれましたが、預言者としての真価は、預かった言葉の取り扱い方で決まって来るのです。

サムエルは創造者にして支配者なる神様から何を預かり、どのように語ったのでしょうか。

【本論】

3:11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。

「一つのこと、両耳」と、言葉遊び、ユーモアの形で創造者にして支配者なる神様は語られ始めますが、そのユーモアさとは裏腹に、その内容は非常に厳しい、辛辣なものでした。

3:12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。

3:13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。

3:14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

創造者にして支配者なる神様は厳しいお方ですが、何の前触れもなく突然怒りを落とされ、裁きを下されるお方ではありません。

何回も、人を通し、出来事を通し、聖書などを通して警告を与えられます。

時には異邦人や、他の宗教を信じる者を通してでも、間違いを知らせ、悔い改めを促します。

イスラエルの民が偶像に走ると、ペリシテ人を使って苦しめ、創造者にして支配者なる神様に赦しを乞うと士師を遣わして、その苦境から救い出される、と言うパターンが聖書には繰り返し記されていますが、創造者にして支配者なる神様の寛容と、厳しさが明確に表わされている歴史の一こまです。

祭司エリの二人の息子は、創造者にして支配者なる神様を侮り、その生活は乱れ、誰の目にも危うく映ったに違いありません。

創造者にして支配者なる神様は一人の預言者を起して祭司エリに警告を与えます。

シロに住む人々も、直接祭司に諫言をする事は躊躇したようですが、噂話として語られ、何時しか祭司エリの耳にも、二人の息子の悪行は届いていたのです。

祭司エリは祭司として、父親として何回も何回も警告を与え、悔い改めを促しますが、肉親の情なのでしょうか、厳しい処置を取る事をせず、口頭で注意するに留めてしまっていたのです。

箴言2921節、2017版は1133ページ、第3版は1097ページ、「29:21自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには彼は手に負えない者になる」と、記されていますが、幼い時にしっかりとした教育をしておかないと、神も人も恐れない、どんでもない人間に育ってしまうのです。

体罰を奨励する訳でも、肯定する訳でもありませんが、箴言231314節、2017版は1123ページ、第3版は1087ページ、「23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。

23:14あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる」とも、箴言1324節、2017版は1109ページ、第3版は1074ページ、「13:24むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」と、記されているように、ユダヤ人の歴史と文化において、鞭は必要とされていたのです。

そして、必要な鞭を控えた時に、ホフニとピネハスは正しい方向にではなく、間違った方向、滅びに突き進んで行ったのです。

創造者にして支配者なる神様の忍耐というより、人々に対する悪い影響を考えた時、ホフニとピネハスを殺す事が、イスラエル民の中から取り除く事が必要であるとして、創造者にして支配者なる神様は裁きの宣告を下されるのです。

3:15 サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉をあけた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。

サムエルが預言者として召命を受けたのは12歳か13歳頃であったろうと推測されますが、恩師である祭司エリの家に対する裁きの宣告に接して、決して心穏やかでは居られなかったでしょう。

朝まで眠った」と記されていますが、サムエルは一睡も出来なかった事でしょう。

創造者にして支配者なる神様が現れた事は祭司エリも知っている事ですし、何があったのか、と問い質される事は間違いありません。

その時、恩師であり、お世話になっているエリ先生に、何と応え、何と伝えたら良いのだろうか。

こんな嫌な役目を、何故私が…と考えたのではないでしょうか。

しかし、創造者にして支配者なる神様の言葉を語るのに、伝えるのに、職業も、年齢も、性別も、関係性も関係ありません。

創造者にして支配者なる神様の選びで預言者を任命し、使命を授けられるのであって、祭司であってもなくても、下働きであってもなくても、創造者にして支配者なる神様が語れと言葉を授けたならば、相手がお世話になった方でも、上司でも、王様でも語らなければならないのです。

夜明けまでの数時間は、サムエルにとって、貴重な時間となった事でしょう。

使命の大きさ、語る事の責任。

語らなければ、語らなかった者が裁きを受けなければならないのです。

エゼキエル書317節、2017版は1412ページ、第3版は1362ページ、「3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生るように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

3:20 また、正しい人がその正しい行ないをやめて不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行なった正しい行ないは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:21 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

預言を語るのは悪人が悔い改めて命を得るためであり、正しい者がその正しさの中に留まり続けるためであると同時に、預言者自身の命のためでもあるのです。

幼い時から主の宮で仕え、ずっとホフニとピネハスの悪行を見て来て、何時か裁かれるに違いないとは思っていても、まさか、この私がそれを告げる事になろうとは、夢にも持っていなかった事でしょう。

しかし、創造者にして支配者なる神様は夢や幻ではなく、サムエルに現れて、その大切な使命を与えられたのです。

この課題を乗り越える事が、これからのサムエルの働きの出発点になるのです。

預言者としての働きは、創造者にして支配者なる神様から預かった言葉を包み隠さず、間違いなく伝える事にあるのです。

裁かれる事の恐ろしさと、それを伝える預言者の使命と責任の重さを確認する、夜明け前の一時でした。

夜が明け、日課である主の宮の扉を開ける作業を始めたサムエル。

3:16エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。

3:17 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」

3:18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」

祭司エリは子育てには失敗しましたが、それでも創造者にして支配者なる神様に仕える祭司でした。

サムエルから全ての事を聞いた時、取り乱したり、創造者にして支配者なる神様に愚痴を溢す事をせず、創造者にして支配者なる神様の主権を認め、18節のような告白をいたします。

嫌な宣告でも、聞きたくない裁きの告知でも、それを創造者にして支配者なる神様の言葉として受け止め、その成就を願う祭司エリの姿には、見習うべきものがあるようです。

自分の罪深さを充分承知していても、抗(あらが)い、言い訳をしたくなるのが私たちです。

しかし、祭司エリは一切の弁解、言い訳をせず、創造者にして支配者なる神様の裁きに委ねました。

そのような、祭司エリの示した、徹底した創造者にして支配者なる神様の主権を認める態度こそ、サムエルに対する生きた教育となったのではなかったでしょうか。

サムエルもまた、祭司エリには話しにくい事を、包み隠さず話す事が、試練であり、預言者としての資質を試す機会となっていた事でした。

預言者の務めは、創造者にして支配者なる神様から預かった言葉を包み隠さず申し述べる事です。

お世話になった人に対してでも、目上の人に対してであっても、殺生与奪の権を持つ王様であってもです。

例え殺されようとも、失礼だと罵られようとも、恩知らずだと罵倒されようがです。

サムエルも祭司エリに語る時、色々な感情が渦巻いたに違いありません。

幼い頃からお世話になって来た事。

何も知らない子どもに、一から教えて下さった事。

親代わりになり、先生となって育てて下さった恩義。

その何にも替え難い恩義に、諫言を持って応えなければならないのですから、心中の苦しみは大変大きかったに違いありません。

しかし、サムエルは人の顔色を見るのではなく、歓心を買うのではなく、創造者にして支配者なる神様に従って、創造者にして支配者なる神様から預かった言葉を祭司エリに伝えたのです。

ここにサムエルの預言者としての地位が確立する事になるのです。

それが証拠に、

3:19 サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。

3:20 全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。

3:21 主は再びシロで現れた。主はシロで主のことばによって、サムエルにご自分を現わされたのである。

主が共におられる歩み。

それは、単に同席している、側に居る、と言う事ではなく、助けて下さる、守って下さる、導いて下さると言う事です。

そして、主に全面的に従うと言う事です。

それ故に、ダンから、つまり、イスラエルの北の境界線、ヘルモン山の麓にある町から、ベエル・シェバまで、つまり、イスラエルの南の境界線、ツィンの荒野の入り口にある町まで、イスラエルの全土に渡って、サムエルの預言者としての名声は響き渡り、人々の尊敬を受け、創造者にして支配者なる神様の言葉を伝え続けたのです。

創造者にして支配者なる神様もサムエルに語らせた通りに行なわれ、サムエルが創造者にして支配者なる神様の選ばれた預言者である事を証明して下さったのです。

【適応】

好い事や、喜ばしい事を語るのに、さしたる苦労はありません。

今日はイースターであり、多くの教会で、イエス様の復活が、喜びのメッセージが、語られた事と思います。

それはそれで良い事であり、必要なのですが、厳しい事を語り、悲しい事を伝えるのは、簡単な事ではありません。

病院で、お医者さんが、ガンの告知をし、余命を宣告するのは職業とは言え、辛い事です。

主治医でなければ、伝える義務も責任もありませんが、しかし、主治医であれば言わなければならない事であり、伝えなければならない事です。

告知してもしなくても、患者は死にますが、告知されれば生き方が変ります。

知らされれば一時は辛いでしょうが、残された命をどのように生きるかを考え、悔いのない人生にしたいという願いに協力する事が出来るでしょう。

預言者はイスラエルに遣わされた主治医のような存在です。

罪そのものを贖い、清める力はありませんが、罪が何であるか、と言う事は知らせる事が出来ます。

そして、悔い改めに導く事が出来ます。

一方、知らされなければ正しい事か、間違った事かも解かりません。

大して悪くはないと考えて、悪癖を続けてしまい、悔い改める事もないでしょう。

結果は大きく違って来るのです。

預言者は人々に煙たがられる存在です。

それでも語り続けなければならないのであり、聞いてくれても、聞いてくれなくても、創造者にして、支配者なる神様から受けた啓示を余す所なく語らなければならないのです。

聞いてくださり、人々が悔い改めれば、創造者にして支配者なる神様の栄光が称えられ、聞いてくださらなくて、裁きが行なわれたなら、そこで創造者にして支配者なる神様の御名が称えられるのです。

どちらにしても創造者にして支配者なる神様が称えられるのであり、そのためには預言者は語らなければならないのです。

「沈黙は金」と言いますが、預言者にこの言葉は当て嵌まりません。

沈黙は罪を助長させるものであり、蛇足も、端折る事も厳に慎まなければなりません。

現代の預言者は牧師、伝道師、宣教師といった人々に代表される働き人でしょう。

これら、現代の預言者が創造者にして支配者なる神様の言葉を正しく伝える事が出来るように執り成し祈って下さい。

また、聞くお一人お一人も、創造者にして支配者なる神様の言葉として深く心に止め、吟味しなければなりません。

主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされた」ように、主の言葉を語る事によって、主の言葉に聞き従う事によって、教会に創造者にして支配者なる神様の栄光が現されるように祈ります。

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                                                                     2019-4-14礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1828節~40

説教題:「イエス様の逮捕・・・総督ピラトの尋問」

【導入】

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たちから、ユダヤ教宗教指導者たちに対する不満分子、反対分子の首謀者、既存のユダヤ教宗教組織に対する改革者、異端集団の首謀者、メシヤ運動、ユダヤ独立運動に関わる危険集団の首謀者と見做され、何の証拠もないのに、不当に逮捕され、大祭司アンナスの下で不当な尋問を受けられました。

通常、尋問とは、真実を明らかにする手続きであり、複数の証人が必要であり、被告には弁明するチャンスが与えられます。

正式な裁判ではなく、予備審的な尋問であったとしてもです。

それなのに、形だけ、体裁だけ整えて、被告には非常に不利な状況下で審議の場が設けられ、尋問が進められたのですが、その背景には、何としてでもイエス様を、公的に処刑しなければならない、との目論見があったからであり、そのためには、手段を選ばず、プライドも捨てたのです。

何より律法や戒律、規則や秩序を重んじられる、創造者にして支配者である神様に喜ばれない事であるのにです。

人間は、保身のためならば、どんな理由を付けてでも、自論を強行に押し進めます。

そのためには、手段を選びません。

個人の意見を、全体の意見のように紹介し、他人の意見を、都合よく利用し、言い換えをして、自分には責任が及ばないようにします。

ユダヤ教内部の問題を、ローマ帝国、ローマ政府に対する反乱のように見せかけ、ローマ帝国、ローマ政府の手によって、不都合な者を排除しようと画策したのです。

当時、エルサレムには、自治権が与えられていましたが、自由都市ではなかったので、ローマ帝国、ローマ政府は、立法、司法、行政に対して、何時でも介入することが出来、特に、死刑の判決、処刑の執行に対しては、ローマ帝国、ローマ政府の許可が絶対必要条件でした。

偶発的に、突発的に「石打ちの刑」が執行される事があったでしょうが、イエス様のように、大勢の支持者がいる人物に対しては、石打ちの刑を下しようがなく、ローマ帝国、ローマ政府の手に渡すしかなかったのです。

【本論】

新改訳2017版 18:28 さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。

彼ら」とは、イエス様を逮捕、捕縛した「祭司長、パリサイ人たちから送られた下役たち」であり、「祭司長、パリサイ人たちから送られた下役たち」は、「過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった」のであり、「ピラト」は支配者でありながら、外まで出て来なければなりませんでした。

では33節から38節の、総督ピラトの下で行われたイエス様への尋問、裁判の様子は、誰が目撃したのでしょうか。

ローマ兵の中に協力者、総督官邸で働く僕たちの中に情報提供者がいたのかも知れませんが、15節で登場した「大祭司の知り合い」だった弟子が、ローマ総督官邸で働く僕にも顔が利き、総督官邸内に入る事が出来、情報を得る事が出来た可能性が考えられそうです。

さて、この「総督官邸」ですが、特定の、一つの建物ではなく、ローマの地方総督の住居を構成する全ての建物を指し示します。

通常期は、エルサレムから80kmほど離れた、地中海に面するカイザリヤにある、ヘロデ王の官邸が利用されたようですが、エルサレム巡礼者の溢れる祭りの期間は、治安などや、行政上の必要性からエルサレムに移され、神殿西側のヘロデ王の宮殿か、エルサレム北西角にあるアントニヤ城砦に設置されたようです。

祭りの時期は、カイザリヤまで出かけなくて良いのであり、イエス様を訴え出るには、好都合だったのです。

次に「汚れを避け」ですが、二つの理由があります。

一つは、異邦人の住まいには偶像があり、異教の習俗で汚れており、異邦人の住まいの中に入る事は、宗教的に汚れを受けるからであり、二つは、祭りの期間に「パン種」、或いは「パン種の入ったパン」に触れる事が禁じられており、「パン種」の置いてある住まいに入る事は、儀式的に汚れを受けるからであり、それを避けたからです。

18:29 それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。「この人に対して何を告発するのか。」

有能な支配者は、情報収集能力と、情報や状況の分析能力に長けています。

多岐に亘る広い知識と見識、深い洞察力、考察力を持ち合わせていなければなりません。

世情に疎くては、鈍感では、凡庸では、有能な支配者たり得ません。

ピラト」も例外ではなく、問うまでもなく、大体の事は把握していたでしょうが、「告発」の理由を問い掛けます。

18:30 彼らは答えた。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」

悪いこと」とは、「間違ったこと」と訳す事も出来るギリシャ語ですが、抽象的であり、漠然としており、曖昧です。

しかし、「あなた」は強調形であり、「この男が、ローマ帝国の法律に触れる悪いこと、間違ったこと」をしたので、あなたに引き渡した」のだ、と強く主張し、激しく訴え出ているのです。

18:31 そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」

ユダヤ宗教指導者たちは、イエスと云う男を、何としてでも死刑にしたい、しかし、ローマ帝国の支配下では、死刑を執行出来ないので、ローマ帝国への重大な犯罪者として訴え出て、ローマ帝国に引き渡し、死刑を宣告して欲しいのです。

総督ピラトは、非常に有能であり、ローマ兵が動員されているのを見て、「祭司長、パリサイ人たちから送られた下役たち」の抽象的であり、漠然としており、曖昧な訴えを聴いて、ユダヤ宗教指導者たちの目論見を、このイエスと云う男を、ローマ帝国、ローマ政府の司直の手で処刑してもらいたいとの魂胆を見抜いたのです。

総督ピラトは、ユダヤ宗教指導者たちの策略に、利用されるのを苦々しく思い、ユダヤ宗教指導者たちが、石打ちの刑を執行出来ない事を承知の上で、31節前半の、皮肉交じりの言葉を投げかけるのです。

18:31後半 ユダヤ人たちは言った。「私たちは、だれも死刑にすることが許されていません。」

ユダヤ教宗教指導者たちの、本音が飛び出します。

イエスを死刑にしたいのだが、それは許されていないので、総督の力が必要なのだ、です。

普段、ユダヤ人は、ローマ人を異教徒として蔑み、ローマ帝国の支配、ローマ政府の立法、司法、行政への介入を快く思わず、司直を軽蔑していたのに、です。

そして、ローマ帝国の司直の手に委ねると云う事は、必然的に「十字架刑」になります。

18:32 これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。

ユダヤの律法では、「十字架刑」、即ち「木に架けられた者」は「呪われた者」との考え方、見方があり、「呪われた者」は、即ち「創造者であり、支配者である神様から呪いを受けた者」であり、創造者であり、支配者である神様の御下、即ち、御国に行く事が出来ず、創造者であり、支配者である神様との交わりが絶たれた、霊的な苦しみと、肉体的な苦しみが永遠に続く、地獄に落ちる事を意味します。

神の御子イエス様は、創造者であり、支配者である神様の呪いを受けなければならず、十字架に架けられる必要があり、「石打ちの刑」であってはならないのです。

有能な支配者、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たちの訴えを鵜呑みにして、ユダヤ教宗教指導者たちの要求どおりに、死刑執行を許さず、イエス様の尋問に取り組みます。

18:33 そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」

33節から38節は、総督官邸内での、イエス様に対する総督ピラトの尋問です。

ピラトは総督として、正式なローマ帝国法廷を開き、裁判を開始します。

当時、メシヤ運動、ユダヤ開放運動は、引きも切らずであり、メシヤ運動、ユダヤ開放運動の首謀者、一味は、政治犯として処刑されましたが、その数が、相当数に上った事が、使徒の働き536節から、また、ヨセフスの「ユダヤ戦記」、「ユダヤ古代史」からも窺い知る事が出来ます。

ローマ帝国、ローマ政府は、宗教的な内部紛争に対しては関心が薄く、取り合ってはくれません。

そこで、ユダヤ教宗教指導者たちは、イエスを政治犯として訴え出たのですが、イエスの穏やかな、しかし、凛として佇む姿は、決してメシヤ運動家、ユダヤ開放運動家、政治活動家、の姿ではなく、総督ピラトの質問「あなたはユダヤ人の王なのか」は、肯定的な意味での言葉ではなく、「あなたの様な者が、ユダヤ人の王なのか」の意味で読む必要があり、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たちの訴えを、単なるユダヤ教の内部紛争と見ていた節が窺えます。

18:34 イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」

先に、総督ピラトは、非常に有能な人物と考えられる、とお話しました。

有能な人物は、情報収集能力と、情報や状況の分析能力に長けており、多岐に亘る広い知識と見識、深い洞察力、考察力を持ち合わせており、客観的な、中立的な判断をするのですが、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たちの訴えの激しさと、イエス様の穏やかな容貌との違いに戸惑って、本来ならば、35節の「あなたは何をしたのか」の問い掛けから始まるべきでしょうが、迂闊にも、先の、陳腐な質問となったのではないでしょうか。

34節のイエス様の言葉は、示唆に富んだ言葉です。

イエス様は、総督ピラトに、裁判長として、被告に問うているのですか、と問い掛け、原告の訴えを、鵜呑みにしたりしてはいませんよね、と問い掛けているのです。

18:35 ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」

総督ピラトのプライドが、イエス様の質問に、まともに答えようとさせません。

イエスが、ユダヤ人の王であるか否かは、ユダヤ人のみの関心事であり、ローマ人、ローマ政府、ローマ帝国の見解を必要とはせず、総督ピラトにも関係がありません。

ローマ政府が、総督ピラトが知りたいのは、どんな犯罪があったのか、であり、ユダヤ宗教指導者たちの思惑、内部事情などには、一切の関心はないのであり、その犯罪は、ローマ政府が扱うべきか否か、だけです。

総督ピラトの「あなたは何をしたのか」の問い掛けに、イエス様もまともに答えようとはしませんが、真理を語ります。

18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

イエス様が、王である事に違いはないが、この世の王、支配者ではない事、この世のあらゆる力には、屈しない事、この世のあらゆる力に、妨げられはしない事を宣言するのです。

」は、この世の、現実の国ではなく、特定の支配領域の意味ではなく、普遍的な意味であり、包括的な意味であり、支配の本質を意味します。

しかし、イエス様の言葉を理解出来ない総督ピラトは、

18:37 そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」

総督ピラトにとって、ローマ政府にとって、ローマ帝国にとって、この世の、実在する国以外の事など、全く関心がなく、ローマ帝国に対する、ローマ政府に対する、反逆罪が成立するか否かだけです。

イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

イエス様の目的は、政治革命、独立運動ではなく、ユダヤ宗教指導者たちが脅威を感じ、怯えた、宗教改革的な意味合いであり、創造者であり、支配者である神様の御こころをなすために来られたのであり、創造者であり、支配者である神様についての真理を伝える事であり、ことばと業に於いて、創造者であり、支配者である神様の義を明らかにし、創造者であり、支配者である神様の愛を示す事です。

この真理を理解出来るのは、宗教的熱心や、人間的愛ではなく、この世の権力的支配でもなく、創造者であり、支配者である神様の義に関心を寄せる者であり、愛に根ざした霊的力による、愛による支配を願う者です。

18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。

霊的な事には、全く関心を示さない総督ピラトは、皮肉交じりの台詞を発し、イエス様を残して、「祭司長、パリサイ人たちから送られた下役たち」のところに出て行き、あなた方が訴え出ているような事実は、全く認められないと、無罪判決を宣言するのです。

そして、犯罪者の一人に恩赦を与える「過越の祭り」の慣わしを持ち出し、相談、提案を持ち掛けます。

18:39 過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」

18:40 すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。

強盗」と訳されている語は、「荒くれ者の山賊、情け知らずの略奪者」を意味するギリシャ語ですが、この「バラバ」は、ユダヤ解放運動に関わりを持つとも、熱心党員であるとも、過激な革命的運動家であるとも言われており、そうであるならば、ローマ帝国にとって、ローマ政府にとって、治安維持を最優先させる役割に就いている総督ピラトにとって、一番、解放したくない、釈放したくない人物ですが、「バラバ」は、ユダヤ人たちから、絶大な人気を得ていた訳であり、「バラバ」を釈放する事は、ユダヤ人たちの歓心を買う事であり、政治的な効果は絶大だったのです。

総督ピラトは、ユダヤ人たちとの関係を悪化させてまで、イエスを庇い、釈放する義理も人情もなく、ローマ帝国、ローマ政府にとっては、全く益にはなりませんが、総督ピラトの、政治上の、治安上の益は見込め、重大犯罪人釈放の責任は、ユダヤ人に被せる事が出来るのですから、「バラバ」は釈放される事になるのです。

【適応】

当時の支配者たちにとって、一人の人間の生死は、重大な関心事ではありません。

支配者たちの、総督らの、領主らの責務、最優先させるべき課題は、治安の維持、政治的な安定、であり、これに加えて、税の徴収とか、道路整備、治水事業などに労力を供出させる事なども挙げられましょう。

時には、大を生かすために、小を犠牲にしなければならない、苦渋の決断をしなければならない状況に置かれる事もあるでしょう。

エルサレムの安定的統治、エルサレム住民の人心の掌握のためには、多少の犠牲は仕方のないことであり、無実の人間を処刑する事も、容認しなければならなかったのですが、果たして、無実の人間を処刑し、処刑すべき人間を無罪放免するのは、正しい事でしょうか。正義を行なった、と云えるのでしょうか。

正しくはないが、この世的には、政治的な判断としては、間違ってはいない、との評価が下されるのではないでしょうか。

しかし、イエス様が証しされたように、支配権は、権力による支配ではなく、創造者であり、支配者である神様の義を、この世に実現させる事であり、愛に根ざした霊的力による、愛による支配を実現させる事であり、適切なお世話、手助け、管理をする事です。

勿論、罪をもつ人間ですから、創造者であり、支配者である神様の思い通りのお世話、手助け、管理をする事は、出来ないでしょうが、近づく事は出来るのではないでしょうか。

支配者らには、支配権は、創造者であり、支配者である神様から与えられた、付与された、預かっているに過ぎない、との意識が必要です。

ローマ人への手紙131節、2017版は318ページ、第3版は310ページ、「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」。

支配者は常に、創造者であり、支配者である神様のお考え通りのお世話、手助け、管理をする事を大前提としなければならないのです。

被支配者も、創造者であり、支配者である神様が立てられた権威として、従わなければならず、両者に、支配者とは、創造者であり、支配者である神様が立てられた権威である、との認識がある時、その支配は、創造者であり、支配者である神様の御こころに限りなく、近づき得るのです。

しかし、残念な事に、この世の支配者にも、被支配者にも、創造者であり、支配者である神様が立てられた権威、との認識はなく、支配において、混乱が起こるのは、当然なのです。

そもそも、ユダヤ教内部の問題を、解決に導けず、ローマ帝国、ローマ政府の司直の助け、総督ピラトの助けを得ようとするのは、ユダヤ教宗教指導組織の権威の失墜であり、敗北です。

本来、ユダヤ教宗教指導組織は、世の中に燦然と輝く、組織であるべきであり、この世の、お手本になる組織であるべきです。

しかし、ユダヤ教宗教指導たちの、保身や既得権益の保持が、目を曇らせ、判断を誤らせ、創造者であり、支配者である神様の権威を失墜させ、創造者であり、支配者である神様に、泥を塗る事になるのです。

そして、更に悲しい事には、現代、キリスト教会内でも、この世の支配が横行している事実です。

牧師が、教会を意のままに支配しようとし、そのために御ことばを利用し、権威を振りかざしているならば、信徒も、何でも、多数決で決めたがる、それが正しい事だと確信している、信徒の役目は、牧師の暴走を阻止する事、などと言っているようでは、自分の面子や、評判ばかりを気にしている、風見鶏のような群れであるならば、創造者であり、支配者である神様が立てられた教会では、信徒ではありません。

そもそも、人間は罪を内在していますから、創造者であり、支配者である神様に喜ばれるような言動は出来ません。

それでも、「創造者であり、支配者である神様が立てられた権威」を意識する時、創造者なる神様が立てられた牧師は、教会は、教団は、そして信者は、創造者なる神様の栄光を現す器、群れとなり、創造者であり、支配者である神様を知らないこの世に、証をし、警告を与える事になるのであり、「地の塩、世の光」となり、教会の、牧師の、信徒の使命を果たすのです。                                                           

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聖書箇所:ヨハネの福音書1815節~18節、25節~27

説教題:「イエス様の逮捕・・・シモン・ペテロの否定」

【導入】

イエス様は不当にも逮捕され、大祭司アンナスの下で不当な尋問を受けられました。

正式な裁判ではなく、予備審的な尋問である事を受け入れたとしても、律法を、或いは戒律や規則を、非常に尊重し、一字一句を守ろうとするユダヤ民族であり、ましてや、手本を示す立場にある、ユダヤ宗教指導者たちの採るべき手段ではありません。

何故ならば、イエス様が連れて行かれた大祭司アンナスは、重鎮であり、大御所であり、一目置かれる存在であったでしょうが、予備役的であり、補佐的であり、部外者であり、先ずは当時の、現職の、序列の頂点に在籍している大祭司カヤパの下に連れて行かれるべきです。

それなのに、序列でもない、手順でもない、部外者である大祭司アンナスのところに連れて行かれ、一人の第三者の証言者も居合わせない、では、不当を通り越して、邪悪さに溢れ、悪臭プンプンなのではないでしょうか。

何としてでも、イエス様を葬り去ろうとする、ユダヤ教宗教指導者たちであり、イエス様を葬り去るためには手段を選ばず、良心の呵責もなく、平気で悪事を行なうユダヤ教宗教指導者たちは、醜悪であり、非常な嫌悪を覚えます。

とは言え、保身に奔走すると、誰もが、ユダヤ教宗教指導者たちのように成り得るのであり、徹底的な、自己吟味と、客観的な状況把握能力の取得、客観的な判断決断能力の取得が必要不可欠です。

本来、部外者であるはずの大祭司アンナスの下で、悪意に満ちた尋問が行なわれるのと同時並行的に、別のお話が展開していました。

【本論】

新改訳2017版 18:15 シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、

18:16 ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。

イエス様が、不当な逮捕をされた時、弟子の一人は、剣を抜いて抵抗しましたが、イエス様の「剣を鞘に収めなさい」の一声で、抵抗は一気に終息し、また、多勢に無勢であり、弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように、逃げてしまいました。

その様子は、マタイの福音書にも、マルコの福音書にも記されていますが、マルコの福音書1450節以降を紹介しましょう。

この後もマルコの福音書14章から引用しますので、栞か何かを挟んでおいてください。

2017版は後ろの方、新約聖書の100ページ、第三版は98ページ、14:50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。

14:51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕えようとした。

14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた」。

何とも滑稽な顛末ですが、事前の弟子たちの、決意や意気込みは立派なものでした。

その様子も、マタイの福音書にも、マルコの福音書にも記されていますが、マルコの福音書1431節を紹介しましょう、2017版は後ろの方、新約聖書の99ページ、第三版は97ページ、14:31ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った」。

私は」は、「私だけは」の意味で発言しているのであり、ペテロのみならず、弟子たち皆が、異口同音に、イエス様に従う決意を、殉じる覚悟を、表明、宣言したのです。

見方によっては、頼もしい発言ではありますが、自信過剰も甚だしい、と云わざるを得ません。

現実には、弟子たち皆が、この言葉とは裏腹な行動を取ってしまったのです。

人間、誰しもが持つ、肉体の弱さ、精神的な弱さが原因ですが、弱さに打ち勝つのは、苦痛への備えや、強靭な精神力を養う事ではありません。

自分の弱さを知る事であり、耐える力もない事を知る事であり、創造者なる神様、救い主なるイエス様、助け主なる聖霊様に、縋るのみの者でしかない、と知る事です。

自分が頑張るのではなく、創造者なる神様、救い主なるイエス様、助け主なる聖霊様に、全面的に助けて頂くのであり、自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを隠すのでもなく、創造者にして、支配者なる神様、救い主なるイエス様、助け主なる聖霊様の助けを誇り、創造者にして、支配者なる神様、救い主なるイエス様、助け主なる聖霊様の栄光を現すのです。

さて、一度は逃げ出した「シモン・ペテロともう一人の弟子」ですが、逮捕されたイエス様の後を、付かず、離れずの距離を置いて、付いて行きます。

もう一人の弟子」が誰なのかは、諸説ありますが、「イエス様の愛された弟子」、即ち「ヨハネ」ではなさそうです。

「イエス様の愛された弟子」ヨハネは、ゼベダイの子であり、ガリラヤ出身であり、飛ぶ鳥を落とす勢力を持つ大祭司アンナスの邸宅に、自由に出入り出来る程の関係がある、とは考え難く、ヨハネとは別の、エルサレム出身の有力者の子であるならば、大祭司アンナスの邸宅にも、度々出入りしていて、門番にも顔馴染みであり、こんな差し迫った、緊迫の場面でも、大祭司アンナスの邸宅に、顔パスで出入り出来たのではないでしょうか。

もう一人の弟子」は、問題なく、大祭司アンナスの邸宅に入れましたが、「シモン・ペテロ」は、顔パス、とは行かず、門の外で、様子を窺うしかなかったのです。

そこで、「もう一人の弟子」の口利きがあって、「シモン・ペテロ」も大祭司アンナスの邸宅に入る事を得ましたが、ちょっとしたアクシデントが起こります。

18:17 すると、門番をしていた召使の女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。

門番をしていた召使の女」の発した「あの人」と云う言葉は、多分に揶揄的、軽蔑的な意味合いを持つ言葉であり、「あんなやつ」「あの野郎」と云った調子の言葉であり、少なくとも、尊敬などの意味を持つ言葉ではありません。

あの人の弟子ではないでしょうね」との言葉を投げ掛けたのも、懐疑を、不審を払拭する意味合いではなく、「もう一人の弟子」と、「シモン・ペテロ」の会話から、「シモン・ペテロ」が、ガリラヤ出身である事を察し、大祭司の邸宅に入った事などないであろう地方出身者に、「あんたぁ、あいつの弟子じゃないわよね」程度の、からかい半分、冗談半分の気持ちで投げかけた言葉であり、「あったりまえでしょ」「冗談でしょ」的な、軽口が返って来る事を予想していたのではないでしょうか。

しかし、「シモン・ペテロ」にとっては、青天の霹靂であり、必要以上に、強く「違う」と、ムキになって否定する事になってしまったのです。

この場は、「何、この人、ムキになっちゃって。変な人」、で終わったようです。

この一連の出来事は、3月から4月にかけての、夜更けの時間帯に起こった事であり、寒さはまだまだ強く残っており、人々は火を焚いて暖を取っており、「シモン・ペテロ」もその中に、混じっていました。

18:18 しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。

暫くすると、地方出身者である「シモン・ペテロ」は、暇を持て余した都会人、エルサレムの住民である人々の、恰好の餌食となりました。

18:25 さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。

25節の、「人々」の「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」との問い掛けは、17節の「門番をしていた召使の女」の問い掛けと似たり寄ったりであり、じっとしていると、寒さが身にしみるので、軽口を叩いて、冗談を言い合って、気を紛らわす程度の、他愛ない戯言であり、17節と同じように、からかい半分、冗談の気持ちで投げかけた言葉であり、退屈凌ぎに、軽口を叩き合い、からかい、言葉のキャッチボールを楽しんで、「あったりまえでしょ」「冗談でしょ」的な、軽口が返って来る事を予想していたのではないでしょうか。

しかし、「シモン・ペテロ」は、ここでも、本気で、真剣に、否定の言葉を発してしまうのです。

17節の問い掛けも、25節の問い掛けも、何の根拠も、確信もない問い掛けであり、本心からの懐疑や、不審でなかったからこそ、それ以上発展しなかったのです。

そして、今までの、二度の問い掛けは、退屈凌ぎの軽口や、冗談の類であったでしょうが、居座り続けたために、遂に、抜き差しならぬ状況に追い詰められてしまいます。

18:26 大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」

ペテロに耳を切り落とされた人」とは、ヨハネの福音書1810節に記されているように「マルコス」の事であり、「マルコス」の親類筋に当たる人が現れ、爆弾発言をします。

この鍵括弧内、新共同訳聖書は、「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」、と訳し、口語訳聖書は、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」、と訳し、新改訳聖書第三版は、「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました」、と訳しています。

26節と、17節、25節とは、全く状況が違います。

17節、25節は、何の根拠も、確信もない、戯言ですが、26節は、目撃者の証言であり、決定的な目撃証拠です。

「三度目の正直」であり、二度の余震、予兆は、本震、本番の前触れであり、二度の予兆に対して、緊張はしたでしょうが、安穏とやり過ごしてしまったたがために、本震、本番をまともに受ける事になってしまい、大失敗に繋がってしまったのです。

18:27 ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。

28節には、簡潔に「再び否定した」と、記されていますが、マタイの福音書、マルコの福音書には、呪いを掛けて否定した件が記されています。

マルコの福音書1471節を紹介しましょう。

2017版は後ろの方、新約聖書の101ページ、第三版は100ページ、14:71するとペテロは、嘘ならのろわれてよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った」。

イエス様と一緒のところを、しかも、シモン・ペテロが剣で撃った場面を目撃した者が現れては、絶体絶命です。

しかし、ここでも、シモン・ペテロの逮捕が行なわれた様子は、何かしらかの混乱も起こった様子も、記されていません。

ユダヤ教宗教指導者たちの狙いは、あくまでイエス様であり、弟子たちを歯牙にかけてはいなかったのです。

一方、ルカの福音書2261節は、印象的な場面を記録しています。

もう一度ルカの福音書から引用しますので、栞などを挟んでおいてください。

2017版は後ろの方、新約聖書の168ページ、第三版は165ページ、22:61 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。

22:62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。」。

イエス様の目は、何を湛え、何を訴えていたのでしょうか。

裏切った事、見捨てた事への悲しみ、或いは怒りでしょうか。

情けない弟子たちへの絶望でしょうか。

十字架の死に対する、恐れでしょうか。

否、失敗する、失敗を繰り返す弟子たちを、見捨てはしないとの、見限りはしないとの、愛情の込められた、優しさに溢れる、慈愛の眼差しだったのではないでしょうか。

だからこそ、シモン・ペテロは、激しく心を揺す振られ、激しく泣いたのでしょう。

睨まれたならば、言い訳がましい考えが出るでしょうし、逃げ出して、戻って来ない弟子たちを非難する事で、自分を正当化する思いも出るでしょうが、優しい眼で見られたならば、自分の弱さ、不甲斐なさに気付かされ、後悔に至らせるのです。

そして、後悔に留まらず、更には、悔い改めへと導いていただき、失敗を糧として、創造者にして、支配者なる神様の用いられる器へと、成長を続けるのです。

そして、自身の成長に留まらず、働きが委ねられます。

ルカの福音書2231節、2017版は後ろの方、新約聖書の166ページ、第三版は163ページ、22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

失敗、挫折した者は、イエス様の執り成しの祈りによって、立ち直り、次には、失敗、挫折した兄弟たちを力づける役割に回るのです。

決して、叱咤、激励ではなく、原因の追究、今後の対策でもなく、です。

勿論、これらも必要でしょうが、先ずは、信仰がなくならないように、力づける事なのです。

信仰をなくさないように、寄り添うのです。

教会から離れないように、執り成し祈るのです。

わたしたちは、ついつい、叱咤、激励してしまい勝ちですが、イエス様の眼差しを受けたものとして、イエス様と同じような対応をこそ、すべきなのではないでしょうか。

【適応】

シモン・ペテロの、失敗と、挫折に関連した事について、学んだ事ですが、失敗、挫折は、ないに越した事はなく、自ら、失敗、挫折に飛び込む必要はなく、可能な限り避けるのが賢明でしょう。

愛する人の事が心配なのは、大切な人の事が気になるのは自然ですが、必要以上に心配するのは、気にかけるのは、如何でしょうか。

ましてや、大祭司邸にまで押しかけるのは、賢明な事ではありません。

イエス様の状況を知りたい、見届けたいとの願いは、果たして信仰から出た事でしょうか。

ローマ人への手紙1423節、2017版は後ろの方、新約聖書の321ページ、第三版は312ページ、「14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」。

行為の問題や、経過の問題、結果の問題ではなく、動機の問題であり、信仰を動機としない全てが罪なのであり、信仰を発端としない全てが罪なのです。

イエス様の事が心配で、心配でたまらなくても、不安で、不安でいたたまれなくても、自由に出入り出来ない場所であるなら、入ってはならなかったのではないでしょうか。

軽口のようであっても、警告を受けたなら、その場に留まり続けていてはならないのではないでしょうか。

イエス様の、不当な逮捕と、不当な尋問、結果ありきの裁判、十字架刑は、弟子たちに事前に知らされており、心を騒がせてはならないとの、忠告まで受けているのです。

全ては、創造者にして、支配者なる神様のご計画にあって、起こっている、との信仰で受け止めなければならず、創造者にして、支配者なる神様に委ねなければならないのではないでしょうか。

何かの事で、心配で、心配でたまらなくても、不安で、不安でいたたまれなくても、全ては、創造者にして、支配者なる神様のご計画にあって、起こっている、との信仰で受け止めなければならず、創造者にして、支配者なる神様に委ねなければならないのではないでしょうか。

心配しても、どうにもならず、不安を抱えていても、何も解決しません。

否、信仰を持っているのに、何故、神様に委ねないの、あなたの信仰は何処にあるの、と、未信者に訝られるのでは、笑われてしまうのでは、ないでしょうか。

そんな姿は、創造者にして、支配者なる神様を知らない、世の人々と何も変わらないのではないでしょうか。

信仰の浅い人には、躓きとなるのではないでしょうか。

信仰者には、未信者に対する証し人、としての働きが、信仰の浅い人に対しては、力づけが期待されているのにです。

シモン・ペテロのように、イエス様が心配で心配でたまらず、イエス様の後を付いて行くのではなく、創造者にして、支配者なる神様を信頼して、イエス様を見送り、動揺する弟子たちを落ち着かせ、過激な行動に走る事を諌め、他の弟子たちと共に、創造者にして、支配者なる神様の御こころがなるようにと、祈り続ける事が、期待されているのです。

ここにおられる皆様の信仰は如何でしょうか。

心配で、不安で、右往左往するのではなく、創造者にして、支配者なる神様に委ねて、泰然と構える姿こそ、信仰者のあるべき姿であり、地の塩、世の光となり、創造者にして、支配者なる神様、救い主なるイエス様、助け主なる聖霊様の栄光を現すのです。

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