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                                               2019-5-26礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1923節~24

説教題:「イエス様の処刑・・・着物の分け合い」

【導入】

イエス様は、この世的な犯罪、ローマ帝国の法を犯す行為、ローマ政府に対する違法行為、総督ピラトに対しても、何人に対しても、如何なる罪も犯していません。

また、ユダヤ教の律法に対する違反行為、創造者にして、支配者なる神様に対する一切の罪も犯してはいません。

しかし、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、何の証拠もないのに、イエス様を無理やり裁判にかけ、誘導尋問し、言葉尻を掴んで、強引に有罪とし、十字架刑に処する事を決めてしまいました。

そして、蛇蝎のように嫌悪していたローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトを利用し、イエス様を葬り去ろうとします。

ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトを利用するために、このイエスという男は、ローマ帝国を転覆させ、王となろうとしている、と訴え出ます。

しかし、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの訴えを退け、イエス様を無罪と宣言し、解放しようとするので、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、ローマ皇帝に対する侮辱罪をでっち上げます。

総督ピラトを、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの意の方向に誘導するため、ローマ皇帝テベリオの疑い深い性格を利用して、総督ピラトのウィークポイントを突きます。

総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの、あの手この手に、口角泡を飛ばしてのしつこい申し立てに、辟易(へきえき)としたのではないでしょうか。

そして、ついに、イエス様を十字架にかける事を宣言し、ローマ兵の手に委ねます。

裁判の行なわれた場所、へロデの居城、或いはアントニア城砦と、刑場となったゴルゴタの丘との位置関係ですが、2017版は巻末地図10を、第3版は巻末地図「新約時代のエルサレム」をご参考になさってください。

凡そ500m足らずだと考えられますが、その500mは、起伏があり、徹夜の裁判の後であり、鞭打たれたイエス様には、非常に遠く感じ、辛かったのではないでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 19:23 さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。

イエス様を、裁判の行なわれた場所から、刑場まで護送したローマ兵たちが、そのまま刑を執行したのか、刑場に、死刑執行の兵士たちがいたのかは、定かではありませんが、死刑を執行する兵士は、通常四人一組であったそうです。

その死刑執行の兵士たちには役得があったようで、刑に処せられる人の着物を分け合ったようです。

持ち主のいなくなった着物ですが、現代では、遺族に引き渡されるか、廃棄処分されるかなのでしょうが、当時は、公然と、死刑執行の兵士たちが分け合うのが、慣習だったのです。

裕福ではない時代であり、着古しでも、接ぎが当たっていても、多少難が有っても、利用価値があり、ささやかな役得だったのです。

」と訳されているギリシャ語は、「着物、外套」とも訳せます。

その「衣」を、縫い目に沿って、前身頃、後ろ身頃、四つに分け、死刑執行の兵士たちが分配したのです。

一方「下着」は、縫い目なしの物であり、切り分けたなら使い物にはならなくなり、利用価値がなくなるので、

19:24 そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。

この辺りの経緯、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書は、くじを引いた事のみを記録しています。

ご参考までに聖書箇所を記しておきましょう。

マタイの福音書は2735節、2017版は61ページ、第3版は61ページ、「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた」、マルコの福音書は1524節、2017版は103ページ、第3版は101ページ、「それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた」、ルカの福音書は2334節後半、2017版は170ページ、第3版は167ページ、「彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた」、です。

死刑執行の兵士たちが、イエス様の衣を分け合い、下着をくじ引きにする事は、詩篇2218節に預言されています。

旧約聖書、詩篇2218節は、2017版は953ページ、第3版は925ページです。

彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」、です。

死刑執行の兵士たちは、事の真相を全く知らずして、聖書の預言を成就させていたのです。

大祭司カヤパが、図らずも、創造者にして支配者なる神様のご計画、即ち、イエス様の十字架の死の意味を預言したのと同じです。

ヨハネの福音書1151節、2017版は207ページ、第三版は203ページ、「11:51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」と記録されています。

そして、総督ピラトが、図らずも、創造者にして支配者なる神様のご計画、即ち、イエス様に与えられた王権を預言したのと同じです。

ヨハネの福音書1919節、2017版は225ページ、第三版は221ページ、「19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれていた」と記録されています。

死刑執行の兵士たちの、日常の茶飯事に、特別な意味などなさそうな事に、重大な意味が隠されていたのです。

イエス様の「」が四分された事には、何かの意味があるのでしょうか。

創世記210節、2017版、第三版、共に3ページ、に記されていますが、天地創造のなかで、エデンの園から川が流れ出、四つに別れ、四つの川の源となり、全地を潤した、と記されています。

福音が、四方に広がる事を現している、との説や、キリストの分裂、教会の分裂を現している、との説などがあるようですが、断定するのは控えましょう。

イエス様の「下着」は、「それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった」、と記されていますが、当時の下着が、皆、縫い目のないものであったのか、イエス様の下着が、縫い目のない特別な下着だったのかは、はっきりしません。

しかし、ユダヤ人は、「それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった」との記述から、大祭司が、エポデの下に着る「青服」を連想させたのではないでしょうか。

それで、イエス様が、真の大祭司である事を現す、との説や、或いは、教会の不可分性、教会の一致を意味する、との説などがあるようですが、これも、断定するのは控えましょう。

いずれにしても、特別な、稀有な「」や「下着」ではなく、ありふれた、普通の「」や「下着」であり、そこに神秘的な力はない、と云う事は確認しておきたいところです。

ともすると、イエス様が死の間際まで身に着けていた「」や「下着」に、或いは、イエス様の御身体を刺し貫いた「剣」に、「聖骸布」、これは、イエス様を埋葬する際に、イエス様の御身体を包んだ布の事ですが、に、特別な力や、神秘的な力が宿っている、不思議な力がある、との考えは、否定しなければなりません。

イエス様が死の間際まで身に着けていた「」や「下着」も、イエス様の御身体を刺し貫いた「剣」も、イエス様を埋葬する際に、イエス様の御身体を包んだ「聖骸布」も、どれも皆、単なる「物」であり、特別な力も、神秘的な力も、不思議な力も、持ってはおらず、与えられてはいません。

イエス様が張り付けられた十字架も、イエス様が葬られた墓も、神秘的な力も、不思議な力も、持ってはおらず、与えられてはいません。

万が一、偶然、イエス様が死の間際まで身に着けていた「」や「下着」の本物が、イエス様の御身体を刺し貫いた「剣」の実物が見つかったとしても、それらの遺物が、偶像になってしまわないように、礼拝の対象になってしまわないように、注意しなければなりません。

その意味で、イエス様が死の間際まで身に着けていた「」や「下着」が、イエス様に対して、何の感情も、信仰も持たないローマ兵たちに渡った事は、意味のある事なのです。

ローマ兵たちは、直ぐに売り飛ばしたか、博打の形にしたのかも知れません。

この「聖衣」と云う映画は、イエス様が纏っていた「衣、ローブ」がテーマです。

教会図書に置いてありますので、興味のある方はどうぞ。

さて、イエス様を記念するのは「物」ではありません。

イエス様が死の間際まで身に着けていた「」や「下着」ではなく、イエス様に対する信仰であり、信仰だけであり、何も付け加える物も、事もありません。

【適応】

日本には、誰か、親しい方が亡くなると、片身分けの風習がありますが、信仰者は、関わらない方が賢明でしょう。

どうしても、の時には、単純な記念に止め、そこに、何か、精神的な事とか、信仰継承とか、働きの継承などの意味が入り込まないように、注意しなければなりません。

勿論、物だからといって、雑な扱いをしてはなりませんが。

特に、教会の中では、個人が記念されたりする物や、事柄には、注意が必要です。

善意からの提案であっても、全く意識していないとしても、教会で特定の個人が称えられるような物や、事柄や、特定の個人が記念されるような物や、事柄や、特定の個人に繋がるような物や、事柄があってはなりません。

それらの類は、教会から排除しなければなりません。

教会の存在、そのものが、イエス様を指し示し、教会の中にある全てのものがイエス様に繋がり、イエス様が称えられ、イエス様が記念されるのであり、そのようにしなければならないのです。

信仰者は、イエス様の歩み、生き方、言動を受け継ぐのであり、決して「物」で引き継ぎ、引渡し、「物」で受け継ぎを確認するのではないのです。

また、直系の弟子であるとか、一子相伝的な奥義、秘義でもありません。

聖書の教えのみであり、「神を愛し、人を愛する事」だけです。

イエス様が、イエス様の死に立ち会ったイエス様の弟子たち、実際には、四人の女性と、イエス様の愛する弟子一人でしたが、に残したのは、イエス様の御身体だけであり、「物」は何も残されなかったのです。

」も「下着」も、この世の身体に、この世での生活に必要な物であり、この世に残して行くのが当然であり、御国には、必要ない物なのです。

私たちは、この世に、何も持って来なかったし、御国に、何も持っては行けないのです。

新約聖書、テモテの手紙第一67節、2017版は424ページ、第三版は411ページ、私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません」であり、旧約聖書、ヨブ記121節、2017版は876ページ、第三版は850ページ、私は裸で母の胎から出て来た。また裸で私はかしこに帰ろう」です。

この世の物は、この世に残し、この世の人々に分け合ってもらえばよいのではないでしょうか。

たいした価値のない「」や「下着」を、さも価値のあるもののようにして分け合い、くじで決めるのは、この世に属する人々に任せて置けばよろしい。

イエス様の霊に属する人々は、イエス様の霊にのみ、関心を持ち、イエス様の霊に繋がる事に、留意すればよいのです。

イエス様の霊を分け合う事に、心を用いればよいのです。

旧約聖書、列王記第二29節、2017版は650ページ、第三版は632ページ、渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください。」と言った」。

エリヤが天に上げられる時、残されるエリシャは、エリヤに、エリヤの霊を、しかも二倍をくださいと願ったのです。

エリシャが、エリヤの弟子である事を証明するものや、エリヤの力が宿っている「物」を求めたのではなく、実体のない「霊」を要求したのです。

実体がないと云う事は、この世の影響を受けない、と云う事であり、変わらない事、永遠を示唆しますが、見えるものを拠り所にし易い私たちに必要な、貴重な教訓です。

霊的な資産を引き継ぎ、引き渡す一員となる事こそ、弟子の務めなのです。

ここにおられる皆様が、イエス様の霊的資産、イエス様の教え、イエス様への信仰を後世に引き継ぎ、引き渡す一員となる事を願ってやみません。

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                                                                       2019-5-19礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1917節~22

説教題:「イエス様の処刑・・・ユダヤ人の王」

【導入】

イエス様は、何の罪、この世的な罪、ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトに対する何の罪も犯していません。

律法的な罪、創造者にして、支配者なる神様に対する何の罪も犯してはいません。

しかし、何の証拠もないのに、無理やり、強引に有罪とされ、十字架刑に処せられる事に決められてしまいました。

イエス様は、この世の悪しき力、妬(ねた)みや嫉(そね)み、憎しみの力の前に屈したかのように見えます。

しかし、決して、イエス様は、この世の如何なる力にも、敗北したのではありません。

創造者にして、支配者なる神様のご計画、人間の全ての罪を、過去に犯した罪を、現在犯している罪を、将来犯すであろう全ての罪を、イエス様の身代わりの死によって贖うというご計画が進んだ結果であり、創造者にして、支配者なる神様と、イエス様の勝利なのです。

しかし、創造者にして、支配者なる神様のご計画のためならば、妬(ねた)みや嫉(そね)み、憎しみも有益だ、と結論してはなりません。

創造者にして、支配者なる神様だけが、人間の妬(ねた)みや嫉(そね)み、憎しみさえも、有益な事に使う事がお出来になるのです。

人間は、妬(ねた)みや嫉(そね)み、憎しみを制しなければならず、常に、創造者にして、支配者なる神様の喜ばれる事だけを、選択的に、意識的に行なわなければなりません。

自分のしたい事ではなく、自分の出来る事でもなく、人から進められてでもなく、創造者にして、支配者なる神様の御こころが何かを、聖書から教えられ、祈りによって導かれ、させて頂くのです。

常に、自身の言動を吟味し、創造者にして、支配者なる神様の御こころに一致しているかを点検しなければなりません。

そのような考え方、生き方を貫く時、創造者にして、支配者なる神様の憐れみによって、人間の罪の性質は減じ、創造者にして、支配者なる神様の栄光を現す事に寄与出来る事でしょう。

イエス様は、不当な裁判、不当な死刑宣告の後に、この世の支配者たち、即ち、当時の宗教的、政治的指導者、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たちに引き渡されます。

しかし、死刑を執行出来るのはローマ帝国、ローマ政府であり、イエス様の身柄は、最終的にローマ兵に引き渡される事となります。

【本論】

新改訳2017版 19:17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれる所に出て行かれた。そこは、ヘブル語でゴルゴタと呼ばれている。

当時の慣習とは云え、自分が架けられる「十字架を負って」行くのは、何とも惨めで、残酷な事なのではないでしょうか。

人間を高く掲げる十字架なのですから、丈夫な木材で、しっかりと作られていた事でしょう。

木材の種類によりますが、相当な重量があったと思われます。

その十字架を、イエス様は、裁判の場所から、処刑場まで運ばされる事になったのです。

裁判が、ヘロデの居城が置かれていた、エルサレムの西で行なわれたとしても、ローマ軍が駐屯していたアントニア城砦があった、エルサレムの北で行なわれたとしても、刑場と思われる「「どくろの場所」・・・、ヘブル語でゴルゴタと呼ばれている」場所は、エルサレムの北西にあり、直線距離で450m程度しか、離れていません。

しかし、エルサレムは丘の上にあり、起伏があり、坂道があり、500m足らずですが、十字架を運ぶのは、相当きつかった、辛かったと思われます。

「どくろの場所」・・・、ヘブル語でゴルゴタと呼ばれている」由来は、諸説あるようですが、地形が、髑髏に似ているからとも、髑髏が、晒されているからとも、そこ彼処に、髑髏が埋まっているからとも、言われています。

どれにしても、気持ちの良い呼び名ではありません。

さて、イエス様が十字架を負って坂道を登られる姿は、アブラハムが、イサクに薪を背負わせて、モリヤの山を登る姿を彷彿とさせます。

この逸話は、旧約聖書、創世記22章、2017版は34ページ、第3版は32ページに記されていますので、後でお読み願います。

イサク自身が生贄となり、生贄を焼き尽くすための薪を背負い運び、黙々とモリヤの山に登り、イエス様ご自身が宥めの供え物となり、神様の呪いを受けるための十字架を背負い、「「どくろの場所」・・・、ヘブル語でゴルゴタと呼ばれている」場所に登るのです。

19:18 彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。

イエス様と一緒に処刑される事になった「ほかの二人の者」ですが、マタイの福音書2738節、マルコの福音書1527節には、「強盗」と記されており、ルカの福音書2332節には、「犯罪人」と記されていますが、具体的な事は分かりません。

また、何故、一緒に処刑される事になったのかの理由も、経緯も不明です。

ほかの二人の者」は、一説によれば、「熱心党的な、革命主義者たち」と云われています。

イエス様の嫌疑は「ユダヤ人の王」になろうとしている事、即ち、ローマ帝国、ローマ政府に対する反逆罪であり、或いは、「神の子」を名乗っている事、即ち、ローマ皇帝に対する不敬罪で、処刑しようとしているのですから、「熱心党的な、革命主義者たち」と一緒に処刑する事で、イエス様に「熱心党的な、革命主義者」のレッテルを貼る事が出来るのは、イエス様を救い主、神の御子、と信じる人々の、拠り所を砕く効果は期待出来そうであり、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちにとって、非常に好都合と云えるのではないでしょうか。

また、「ほかの二人の者」が、「熱心党的な、革命主義者たち」ではなかったとしても、「強盗」「犯罪人」のレッテルを貼れるのですから、イエス様を師と仰ぎ、預言者と信じる人々の、拠り所を砕く効果は期待出来そうであり、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちにとって、好都合である事に変わりはなさそうです。

そんな、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちの思惑とは、関わりなく、創造者にして、支配者なる神様のご計画は進んで行きます。

19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれていた。

当時、犯罪者は、その罪状書きを、首にぶら下げていたそうです。

合わせて、「罪状書きも書いて、十字架の上に掲げ」るのは、当時の慣例だったそうです。

しかし、ここで、言わずもがなな事を、記すまでもない慣例を、敢えて記録しているのには、意味があっての事です。

掲げた」は「掲げさせた」の意味で訳す事が出来、総督ピラトの、強い意志が見て、取れるのです。

ユダヤ人の王ナザレ人イエス」との表現には、ユダヤ人たちが、自分たちの王にしたいと願っているかのようにも取れる表現であり、総督ピラトの、足掻きにも近いような抵抗の現われ、皮肉を込めた意思表示なのではないでしょうか。

19:20イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書かれていた。

処刑には、見せしめ、警告、犯罪抑止、治安維持などの狙いがあり、多くの場合、公開処刑であり、処刑場は生活圏から程近い所に置かれます。

この「イエスが十字架につけられた場所」は、「都に近か」く、即ち、「エルサレム」に近く、人の往来も盛んだったようです。

日本でも、江戸には、三箇所の刑場がありました。

北は、荒川区南千住に小塚原刑場、南は、品川区南大井に鈴ヶ森刑場、西は、八王子市に大和田刑場がありました。

どれも街道筋にあり、人の往来も盛んで、江戸に出入りする人々の目に留まり、見せしめ、警告となり、犯罪抑止となった事でしょう。

さて、聖書に戻って、時は「過越の祭り」の時期であり、普段に倍して、人の往来は盛んであり、ユダヤ人のみならず、多くの国籍の人々が行き交います。

そして、当時の公用語、国際語であった「ラテン語、ギリシヤ語」でも記された罪状書きは、通りすがりの人々、多くの人々、不特定多数に目撃され、記憶され、語り伝えられ、瞬く間に、遠くまで広がって行った事でしょう。

これは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちの、願う事ではありません。

先に、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」との表現には、ユダヤ人たちが、自分たちの王にしたいと願っているかのようにも取れる表現である、とお話しましたが、その通りであり、間違って伝わり、面白おかしく伝えられ、尾鰭がついて伝えられ、誤解され、真実のように吹聴され、類が及ぶようになっては、その火消しは並大抵の事ではなくなりましょう。

19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちの、

ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」との、非常に強い口調の要求は、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちの、イエス様を原因とする騒動に、これ以上巻き込まれないが為の、必至の自衛策です。

総督ピラトは、今まで、妥協を強いられ、譲歩を重ね、渋々ユダヤ人の要求を呑んで来ましたが、この時ばかりは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちの、強固な要求を意に介さず、頑として譲らず、譲歩の気配も、妥協の素振りも見せません。

そして、言い放ちます。

19:22 ピラトは答えた。「私の書いたものは、書いたままにしておけ。」

総督ピラトは気付いてはいませんし、単に、煮え湯を飲まされ続けた事に対する、精一杯の抵抗で、腹いせの気持ちで、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」との罪状書きを認(したた)めさせ、これを強硬に押し通させました。

民も、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちも、最後まで受け入れませんでしたが、創造者にして、支配者なる神様は、異邦人、異教徒、この世で蠢(うごめ)き、この世でしか通用しない権威しか持たない支配者を用いて、イエス様の本来の姿、イエス様が持っておられる三権の一つを証言させているのです。

イエス様の本来の姿は、イエス様が持っておられる三権は、「預言者、祭司、王」であり、特に、今日の聖書箇所では、イエス様の王権について、異邦人、異教徒、この世で蠢(うごめ)き、この世でしか通用しない権威しか持たない支配者を用いて、証言させているのであり、当時の国際語、公用語「ラテン語、ギリシヤ語で書かれ」、イエス様の王権が、全世界に及ぶ事を、示唆、暗示させているのです。

【適応】

総督ピラトは、図らずも、創造者にして、支配者なる神様のご計画を預言したのであり、イエス様の王権を預言したのです。

大祭司カヤパが、図らずも、創造者にして、支配者なる神様のご計画を預言したのと同じ構図です。

ヨハネの福音書1151節、2017版は207ページ、第三版は203ページ、

11:51 このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」。

イエス様の王権は、創造者にして、支配者なる神様によって与えられたのであり、時の支配者、異邦人、異教徒、総督ピラトの口を通して、預言されたのです。

しかも、ユダヤの言葉で、ユダヤ人を対象に預言したのではなく、当時の公用語、国際語、ラテン語とギリシャ語を用いて、全世界に向けて預言したのです。

一地方で起こった、ローカルな、小さな出来事ですが、各地から人々が集まる、過越の祭りの時期に合わせて、起こった出来事です。

街道沿いの、処刑場から、全世界に向けて、グローバルな内容、命の君、イエス様の王権が発信されたのです。

そして、弟子ではない人々、名もない人々、たまたま、エルサレムに寄り、通過して行った人々、過越の祭りを奉げるために、エルサレムに集まって来た人々、過越の祭りで一儲けしようと、商売のために、エルサレムに集まった人々。

そして、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司長たち、律法学者たちに対する、腹いせで。

理由は様々ですが、皆、意識せずして、創造者にして、支配者なる神様のご計画、イエス様の王権についてを伝え、広める働きに用いられたのです。

意識しないでも、イエス様に敵対していても、創造者にして、支配者なる神様のご計画、イエス様の王権についてを伝え、広める働きに用いられたのであれば、イエス様を愛する故に、意識して、創造者にして、支配者なる神様のご計画、イエス様の王権についてを伝え、広める働きに加わるならば、どんなに大きな祝福でしょうか。

意識せずして用いられた人々は、イエス様の王権について、神学的な知識を持っていた訳ではありませんが、それでも創造者にして、支配者なる神様は用いられたのです。

現代社会は、価値観が多様化し、非常に複雑で、「王」という言葉一つでも、その理解、イメージは、文化により、地域により、時代により、個々人により様々です。

それでも、イエス様の三権についてを伝え、広める働きは、特定の組織や体制ではなく、信徒に委ねられているのであり、担っているのが信徒である点に変わりはありません。

エルサレムで起こった出来事は、名もない人々によって伝え、広められましたが、教会で語られた説教は、信徒の皆さんによって伝え、広められるのです。

ここにおられる皆様も、イエス様の三権についてを伝え、広める働きが委ねられているのであり、担っているのです。

このイエス様の三権についてを伝え、広める働きは、言葉に限りません。

イエス様を王として、主人として、イエス様の命令に従って生きているか、です。

イエス様を預言者として、教師として、イエス様の教えを基準として生きているか、です。

イエス様を祭司として、罪からの贖い者として、イエス様に委ねて生きているか、です。

ここにおられる皆様が、本当の意味で、イエス様を預言者、祭司、王として、生きる事を願ってやみません。

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                                  2019-5-12礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書199節~16

説教題:「イエス様の逮捕・・・再尋問」

【導入】

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たちから、ユダヤ教宗教指導者たちに対する不満分子、反対分子の首謀者、既存のユダヤ教宗教組織に対する改革者、ユダヤ教の異端集団の首謀者と見做され、ユダヤ教宗教指導者たちは、イエス様を殺すために動き出したのです。

そして、イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たちから遣わされた役人たちと、ユダヤ教宗教指導者たちの裏工作によって協力を得たローマ軍とによって、不当に逮捕されてしまったのです。

そして、ユダヤ教宗教指導者たちは、イエス様を殺すための、形だけを整えた、不当な裁判を開きました。

当時、エルサレムには、自治権が与えられていましたが、自由都市ではなかったので、死刑の判決、処刑の執行に対しては、ローマ帝国、ローマ政府の許可が絶対必要条件でした。

そこで、ユダヤ教宗教指導者たちは、ユダヤ教内部の問題を、ローマ帝国、ローマ政府に対する反乱のように見せかけ、ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトに訴え出たのであり、ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトの手によって、イエス様を抹殺しようと画策したのです。

総督ピラトと、イエス様との尋問の様子は、聖書の記述の通りです。

総督ピラトは、イエス様には、ユダヤ教宗教指導者たちの告訴に該当するような事実が全くない事、ローマ帝国の法に反する、何の罪も認められない事を確信し、無罪放免を宣言します。

しかし、ユダヤ教宗教指導者たちは、何としてでもイエス様を殺したいので、一計を案じ、「この人は・・・自分を神の子としたのです」と、新たな内容で告発するのです。

神の子」とは、ローマ皇帝にのみ帰せられていた称号であり、「神の子」を名乗る事は、ローマ皇帝への政治的反逆罪と等しく、総督ピラトは、「神の子」を名乗る人物が目の前にいる事に、恐れを覚えたのであり、こんな経緯があって、再び、総督ピラトの、イエス様に対する尋問が繰り返される事になるのです。

【本論】

新改訳2017版 19:9 そして、再び総督官邸に入り、イエスに「あなたはどこから来たのか」と言った。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。

どこから来たのか」との、問い掛けですが、イエス様の素性、即ち「ガリラヤのナザレで、大工の息子として育った」事は、把握していた事でしょう。

何しろ、総督の地位に就くくらいの、有能な人物なのですから。

更には「ユダヤ教の一派の教師として活動している。

そのため、ユダヤ教宗教指導者たちから妬まれている」程度の事も知っていたに違いありません。

ですから、総督ピラトのこの質問が、場所の意味でも、一般的な意味でもない事は明白です。

7節に記されている、ユダヤ教宗教指導者たちの、この人は・・・自分を神の子としたのです」との、新たな告発を受けて、一体何者なのか、何を根拠に「神の子」を自称するのか、本当に「神の子」の権威を得ているか、を知りたくて、どこから来たのか」との質問を発する事となったのでしょう。

このイエスという男は、普通の人間なのか、神的な起源を有する者なのか、であり、最も重要な事であり、的を射た質問です。

「神の子」カエサルの、御落胤を名乗る者は、真偽の程はともかく、各地にいたようであり、「神の子」を名乗る者の扱いには、苦慮したのではないでしょうか。

ローマ帝国皇帝の権威、権力は絶大であり、万が一、本物のカエサルの子を、手荒に扱ったならば、命取りだからです。

総督ピラトの関心は、このイエスという男が、ローマ皇帝カエサルに繋がるか否かであり、繋がりを持つ者であるならば利用出来るし、権謀術策の世界で、利用しない選択肢はありません。

そんな総督ピラトの思惑に、イエス様は全く関心を示さず、何もお答えにはなりません。

19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」

総督ピラトは、自分の持っている権威をひけらかし、答えを要求しますが、イエス様にとっての権威は、創造者にして、支配者なる神様の権威以外には考えられません。

総督ピラトの持つ権威は、ローマ帝国の支配圏の中でしか通用しない権威であり、政治的な権威であり、非常に限定的、制限付の権威でしかありません。

しかし、そんな限定的、制限付であっても、創造者にして、支配者なる神様から、付与された権威であり、創造者にして、支配者なる神様の御こころに従って、行使しなければなりません。

この世の支配者が、創造者にして、支配者なる神様の御こころに叶う権威の用い方をする限り、支配者の権威を尊重し、支配者に従わなければなりません。

19:11 イエスは答えられた。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」

世の支配者に付与された権威は、「」、即ち、創造者にして、支配者なる神様から付与された権威です。

新約聖書、ローマ人への手紙131節、2017版は318ページ、第3版は310ページ、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」。

支配者は、創造者にして、支配者なる神様の御こころに沿って、権威を正しく行使しなければなりませんが、総督ピラトは、権威は、ローマ帝国、皇帝カエサルから付与されたと考え、ローマ帝国安泰のためや、ローマ皇帝への忠誠こそ、全てに優先すると考え、また、権威の私的利用にも、禁忌を感じはしなかったようです。

創造者にして、支配者なる神様に対して、権威を正しく行使し、創造者にして、支配者なる神様の正義を行なう使命については、無頓着だったのです。

総督ピラトは、創造者にして、支配者なる神様から付与された権威を、正しく行使出来なかったのであり、創造者にして、支配者なる神様に対する責任について、免れ得ず、そして、ローマ帝国から付与された殺生与奪の権威を、正しく行使出来なかった責任についても、免れ得ません。

嘘の訴えを取り上げ、無罪の者を鞭打ちの刑に、十字架刑に処したのですから。

そして、ローマ帝国の属権を利用して、不当な判決を要求した、ユダヤ教宗教指導者たちの責任と罪は、更に大きい、非常に大きい、比べ物にならない程に大きい、と云わざるを得ず、「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです」。

とのイエス様のことばに繋がるのです。

ユダヤ教宗教指導者たちの責任と罪と、総督ピラトの責任と罪とを比べるならば、ユダヤ教宗教指導者たちの責任と罪は、重大であり、総督ピラトの責任と罪を、軽減させるニュアンスを感じさせます。

それでも、総督ピラトの責任と罪は重大であり、「使徒信条」で追及され続けているのであり、本当に不名誉な事なのではないでしょうか。

それでも、総督ピラトは、イエス様のことばに、幾分か責任を免除されたかのように感じ、ちょっとは安堵し、勇気付けられたのではないでしょうか。

そして、総督ピラトは、イエス様の釈放に努力した事が記録されています。

19:12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

12節の、総督ピラトの「釈放しようと努力した」事が、どれ程の事だったのかに付いては、全く触れられていません。

ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちは、総督ピラトの術策には乗らず、ひたすら、イエス様の死刑を要求し続けたのであり、ローマ帝国の属権にしがみ付く、総督ピラトの弱点を突く叫びを上げたのです。

この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています」。

このユダヤ人たちの叫びの効果は覿面(てきめん)でした。

何故ならば、時のローマ皇帝は、テベリオですが、「疑い深い暴君」との異名があり、謀反の疑いを掛けられたなら、総督の地位で安全が保証されはせず、身が危険に曝されるのは必至なのです。

そんな危険を犯し、不利益を甘んじてまで、イエス様を守る義理も責任もなく、最終的な決着を付ける決意をします。

19:13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

敷石」は、「大理石モザイク舗道」の意味であり、アントニヤ城砦内であろうと考えられています。

現代のような、司法制度ではなく、裁判所がある訳ではなく、裁判を開く所が、裁判所であり、官邸が裁判所になり、居城が裁判所にもなったようであり、総督や領王が、裁判官となり、判決を言い渡したようです。

19:14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」

およそ第六の時」とは、夜明けから数えてであり、現代の正午頃と考えられますが、時計の類はなく、時計を持ってはおらず、時間は凡そ、であり、「第六の時」イコール「12時」と考えてはなりません。

聖書は、数年以上後に、思い出しつつ記述されているのであり、時間は凡そ、でしかないのです。

それで、他の福音書と、整合性が取れない事が起こってしまいますが、無理に帳尻を合わせるのではなく、時間計測機器のない時代に起こったのであり、時間に重きを置かない文化の中で起こったのであり、決して聖書が間違っているのでも、いい加減なのでもありません。

重要なのは、不当な裁判が開かれた事であり、ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちの不当な要求が、総督ピラトの権威を抑え、イエス様が十字架に掛けられた、との事実なのです。

そして、三日の後に復活されますが、24時間の三日の後、即ち72時間後ではなく、凡そ36時間乃至40時間後に復活されます。

これも、日没前に埋葬され、一日置いて、早朝に復活されている事からの推測であり、凡そ、でしかありません。

さて、総督ピラトは、自分の意に反する判決を言い渡さざるを得ず、最後の抵抗でしょうか、皮肉交じりの言葉を投げ掛けます。

見よ、おまえたちの王だ」。

19:15 彼らは叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちの叫びは、絶叫、狂い叫びの体ですが、総督ピラトは臆せず、又もや、皮肉を込めて、言い返します。

その総督ピラトの皮肉に対して、釣り込まれてしまったのでしょうか、

ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちの応答は、耳を疑う、恐ろしい言葉でした。

カエサルのほかには、私たちに王はありません」。

「イスラエルの神こそ、真の神、唯一の神」を金科玉条とし、信仰の指針とするユダヤ人たちの、ユダヤ教宗教指導者たちの口から、事もあろうか、「カエサルのほかには、私たちに王はありません」との言葉、宣言が飛び出たのであり、イエス様を瀆神罪で訴えた張本人たちが、これ以上重大な瀆神罪は考えられないような瀆神の言葉を発したのです。

イエス様を処刑するための嘘に過ぎないかもしれませんが、もう、形振り構わず、善悪、前後の見境なく、瀆神行為に走ったのであり、絶対に口にすべきではない言葉を、取り返しの付かない言葉を発してしまったのです。

19:16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。

ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちの叫びは勝ちを得、これで、イエス様の死刑は確定します。

ユダヤ人たち、ユダヤ教宗教指導者たちの勝利、悪魔の勝利のように見えますが、創造者にして、支配者なる神様のご計画、御こころが、一歩、完成に近づいたのです。

【適応】

総督ピラトは、有能な支配者でしたが、この世の組織に従い、この世の権威と価値観で行動し、何が正しい事かを、充分承知の上で、正しくない選択をしてしまいました。

イエス様が無罪であり、何も罰すべき点がないにも関わらず、鞭打ちの刑を与え、死刑を宣告したのです。

その不当な裁判、刑の宣告に対して、イエス様は沈黙を守られ、不当な判決、刑に服されました。

神の御子であり、この世の全ての権威、権力の上におられる方が、この世の権威、この世の権力に従われたのです。

先に、ローマ人への手紙131節、新約聖書、2017版は318ページ、第3版は310ページ、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」、と紹介した通りです。

愚かな人間であり、能力にも、知る事にも限りがあり、大きな間違いを犯す人間であり、何が正しいかを知っていても、正義を行なわず、確信的に不正を行なう人間ですが、イエス様は「神によって立てられている」故に、時の総督に従われたのです。

勿論、イエス様は、祭司長たちに対しても、総督に対しても、語るべき事は語られましたが、反論や自己弁護はなさいませんでした。

総督や、祭司長たちの言動に対しては、総督や、祭司長たちを「立てられ」たお方が裁かれます。

イエス様と同じような対応をしたダビデと云う人物を紹介しましょう。

ダビデは、サウル王に仕えていましたが、一切の謀反の心を持たず、サウル王を非難したり、サウル王を蔑ろにしたりはしませんでしたが、サウル王から妬まれ、疑いを掛けられ、ダビデ自身の弁明や、サウル王の息子ヨナタンの執り成しにも関わらず、しつこく命を狙われ続けます。

そんな中で、サウル王を殺す機会が二度も訪れますが、しかも、ダビデに忠実な部下が、今がチャンスだと進言し、サウル王を殺させてくれ、と嫌な役目の引き受けを申し出ても、一切取り合わず、次のような言葉を発します。

サムエル記第一244節、旧約聖書、2017版は524ページ、第3版は510ページ、「ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。

24:5 後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。

24:6 彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油そそがれた方なのだから。」

24:7 ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった」。

サムエル記第一268節、旧約聖書、2017版は529ページ、第3版は515ページ、「アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」

26:9 ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」

26:10 ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。

26:11 私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しとを取って、ここから出て行こう」、です。

イエス様も、ダビデも、不当な扱いを受け、命の危険に曝されましたが、イエス様は、時の支配者に従い、ダビデは、逃げ回る事に徹したのです。

創造者にして、支配者なる神様が、私たちに求めているのは、創造者にして、支配者なる神様が立てられた権威に、徹底的に従う事です。

それは、何より秩序を尊ばれる神様の喜ばれる事であり、私たちにとっては、従順を学ぶ、訓練だからなのです。

十戒に反する指導や、神と人とを愛さない命令には、異議を申し立て、従ってはなりません。

しかし、積極策を選び、戦ったり、追い出すのは、神様が立てられた権威に対する対応として相応しくはなく、神様の主権を犯す事になりかねません。

イエス様のように、不当な扱いを、甘んじて受けるのが、創造者にして、支配者なる神様の、僕の務めなのであり、ダビデのように、不当な扱いを、耐えるのが、創造者にして、支配者なる神様の、民の務めなのです。

不当な扱いを、甘んじて受けるとき、不当な扱いに、耐えるとき、創造者にして、支配者なる神様が報いてくださるのです。

この世での報いは、この世の名誉や、地位、財産、命は、一時的で、小さなもので、無くなってしまうものですが、御国で受ける報いは、この世とは比較にならない報いであり、永続的で、とてつもなく大きなもので、決して朽ちる事がないのです。

是非、この、創造者にして、支配者なる神様からの報いを、取り逃さないでください。

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                                                        2019-5-5礼拝

聖書個所:サムエル記第一4:111       

説教題:「預言の成就・・・ホフニとピネハスへの裁き」

 【導入】

神様から預言者として選ばれ、祭司エリに対する裁きの宣告を預かったサムエルです。

サムエルは神様に選ばれて預言者となりましたが、真の預言者であるかどうかは、預かった預言の言葉の取り扱いに掛かっているのです。

この事は前回の学びで確認しましたが、預言者は神様から預かった言葉を間違いなく語るところに、その使命があります。

言い難い事だからと言って、語らなかったり、割り引いてしまうような事があってはなりません。

逆に、少し驚かしてやろうとか、自分自身に権威を持たせるかのように、大仰に語ったり、神様が語りもしない事を付け加えて語る事も慎まなければなりません。

サムエルは預言者に任じられ、最初に与えられた仕事が、お世話になった祭司エリに対する裁きの宣告でありました。

お世話になったお方に、厳しい裁きの宣告をしなければならないのですから、非常な葛藤があった事でしょう。

眠るに眠れず、朝を迎え、そして、祭司エリに呼び出されて、全てを、包み隠す事なく語った時、サムエルの預言者としての第一歩が踏み出されたのです。

この時、隠し事があったり、明確に語らなかった部分があったならば、以降のサムエルの働きはずいぶんと違ったものとなった事でしょう。

サムエルは最初の試験に合格し、真の預言者として働きを始める事が出来ました。

そして、サムエルの預言はことごとく、現実となり、イスラエルの人々はサムエルこそが真の預言者、唯一真の神様から遣わされた真の預言者である事を認めるようになって行ったのです。

【本論】

4:1 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。

サムエルの働き、預言者としての働きは、不思議な事をしたり、派手なパフォーマンスを披露する事ではありません。

病気を癒したり、悪霊を追い出したり、雨や雹や火を降らす事でもありません。

単純に、しかも明確に神の言葉を語る事に尽きましょう。

預言者が預言の言葉を語るのは、時に不思議な業を行なうのは、人々を自分の方に引きつけるためではありません。

人々の心を神様に向けさせ、神様を崇め、神様に従うように促すためです。

ですから、その語る事の中心は、偶像礼拝や、自己中心の生き方を改め、神様だけを礼拝し、神様中心の生き方を求めるように、促す事です。

この使命の通りに、サムエルは語り続け、サムエルの言葉は全イスラエルに行き渡りましたが、イスラエルの人々の心は、その生き方は一朝一夕には変わらなかったようです。

相変わらず、イスラエルの民は、唯一の神様にも、カナンの地の偶像にも仕えていたのです。

その間違いを正すために、神様はペリシテ人を備え、外敵としてイスラエルの脅威となるように仕向けられたのです。

神様は厳しい裁きを下されますが、それは悔い改めるためであり、神様に帰るためであるのです。

ペリシテ人を遣わすのは、外国人に支配されるのと、神様に支配されるのとの違いを教えるためであり、偶像に仕えるのと、唯一の神様に仕えるのとの違いを教えるためなのです。

その神様の使命を担って遣わされたペリシテ人ですが、ペリシテ人と言うのは、その祖先を辿って行くとエジプトに行き着くようです。

アブラハム、イサク、ヤコブが活躍した族長時代にエジプトから離れ、北上し、クレテ島や地中海沿岸に渡り、住みついたようです。

彼らペリシテ人は高度な文明を持っており、鉄の道具や武器を所持しており、イスラエルの民のみならず、周囲の国々の脅威となっていたのです。

そのペリシテ人がアフェクに陣を敷いた、と記されています。

このアフェクですが、2箇所あるのです。

1番目は塩の海の西北、地中海に近い所、エフライムの所有地の左上隅の所にあり、2番目はガリラヤ湖、またはキネレテ湖の東、直ぐ横の所にあります。

実は、これらの地図には記載されていませんが、ガリラヤ湖、またはキネレテ湖の西側、アシェルの所有地のキション川の河口にもアフェクと言う都市があるのです。

2017版では、地図4に1番目のアフェクが、地図6に2番目のアフェクが、第3版では、「12部族に分割されたカナン」の地図に両方のアフェクが記されています。

サムエル記4章に登場するアフェクは、前後の出来事や、そこに登場する土地の名前との関係から、エフライムの所有地にあるアフェクと考えられます。

そしてアフェクを中心に、地中海沿岸の都市にペリシテ人が住みついており、イスラエル人を脅かし、勢力争い、小競り合いが日常的に行なわれていたのです。

しかし、今回はそんな小競り合いなどではなく、強力な武器を持って戦いに備えて出て来たのです。

一方のイスラエル軍ですが、イスラエルは「エベン・エゼル」に陣を敷いた、と記されています。

このエベン・エゼルですが、意味は「助けの石」で、サムエル記712節に「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言って、一つの石を置いたところから付けられた地名であり、4章の時点では名もない土地であったのです。

石を置いただけの場所ですから、地図上に「ここ」と特定出来ませんが、アフェクの近くであったことは間違いないでしょう。

数キロを隔てて向かい合い、

4:2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。

多勢に無勢であっても、武器の優劣があろうとも、神様の支配には、ご計画には関係ありません。

イスラエルの歴史には、聖書には多くの戦いが記録されていますが、神様が戦われるならば、敵の数は、武器は関係なく、勝利を得る事が出来ます。

しかし、神様が戦われないならば、弱小都市の、貧弱な敵であっても、手強い相手となり、敗走を余儀なくさせられてしまうのです。

神様が戦って下さるか、戦って下さらないかは、私たちの、イスラエルの熱心に寄るのではなく、神様の憐れみでしかないのです。

神様が助けようと思し召されるなら、丸腰でも、老人でも、女性、子どもだけでも勝利を得るのであり、神様が苦しめようと思し召されるなら、どんなに強力な武器を用意し、勇猛果敢な人員を配備しても、徹底的に打たれるしかないのです。

今回の戦いでも、戦うと決断した以上、多少でも勝算があった事は間違いありません。

負けると解かって戦いを挑む者などいません。

何かしらの勝算があって、戦いを挑むのであり、この4000人の負傷者、死者というのは想定外の出来事だったのでしょう。

4:3 兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」

イスラエルの長老たちの「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう」と言う告白は、重要です。

今日の負け戦を、「主が…打たれた」と告白しているからです。

目の前の敵ではなく、背後におられる神様を忘れていなかった証拠だからです。

神様がおられるなら、敵の武器、人数、作戦は関係ない、という告白だからです。

この告白をしながら、更に踏み込んで、神様が助けて下さらなかった理由を深く考察しなかったのは残念です。

イスラエルの長老たちは、良い所まで気が付いたのですが、自分たちの罪の問題にまで考えが及ばず、短絡的に、神様を連れてくれば良いのだ、と言う結論を出してしまうのです。

4:4 兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。

契約の箱」は万軍の主の臨在の象徴です。

象徴であって、実体ではありません。

仮に、実体であったとしても、助けてくださるか否かは別問題です。

神様が主体的に、神様が主権をもって、私たちを助け、守り、導き支えるのであって、私たちに主権があって、神様が従属的に助け、守り、導き支えるのではありません。

あくまで神様の御こころが中心であり、神様のお考えが優先されるのです。

それなのに神様の御こころを知ろうともせず、「契約の箱」さえあれば勝利は間違いない、と愚かな考えで「契約の箱」を持って来させるのです。

この時、祭司エリの二人の息子も「契約の箱」と一緒にエベン・エゼルにやって来ます。

契約の箱」に一番相応しくない人間が同行して来たのです。

神様の御こころに適い、神様が一緒に居て下さる人間は多くはありません。

否、一人も居ない、と言っても過言ではありません。

それなのに、一番相応しくない人たちが同行して来た、と言うのです。

彼らは何のために「契約の箱」と同行して来たのでしょうか。

契約の箱」さえあれば勝利は間違いないと考え、その凱旋の時、自分たちも賞賛を浴びよう、喝采を浴びようと考えたのではないでしょうか。

神様を侮るような人間に、神様は賞賛を与えません。

神様の前に謙る人間にこそ、神様は栄光の冠を授けて下さるのです。

偶像礼拝から離れない人々、神様を侮る仕え人。

愚かな彼らは、神様が離れている事に気が付かず、神様に捨てられている事に気が付かず、

4:5 主の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

4:6 ペリシテ人はその歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう」と言った。そして主の箱が陣営に来たと知ったとき、

4:7 ペリシテ人は恐れて、「神が陣営に来た」と言った。そして言った。「ああ、困ったことだ。今までに、こんなことはなかった。

4:8 ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。

ペリシテ人の反応は滑稽なほどに過剰な反応でした。

人は良い意味でも、悪い意味でも見せ掛けに騙されやすい生き物です。

契約の箱」が来た事で有頂天になって喜ぶイスラエル人。

契約の箱」が来た事で怯え、息消沈し、振るえ上がるペリシテ人。

契約の箱自体には何の力も有りはしませんが、両者の反応は、ある意味、正しい反応と言えるでしょう。

神が居て下されば何でも出来る、不可能はないのです。

ペリシテ人は自分たちの宗教観ではありますが、「だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ」と告白しているのです。

イスラエルの神の力の絶大性を認め、イスラエルの神の自然を支配する力を認めています。

そして、恐れ慄いているのです。

しかし、「契約の箱」がイスラエルを助け、ペリシテ人を打たれるのではありません。

唯一の神を信じ、従う者を、神様は助けられるのです。

そこにイスラエル人とペリシテ人の違いはありません。

誰であっても唯一の神を信じるなら助けて下さるのであり、イスラエル人であっても、唯一の神を侮るなら打たれるしかないのです。

神様は、この場面では沈黙を守り、イスラエル人に何の助けも示されませんでした。

4:9 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」

4:10 こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

4:11 神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。

10節で「打撃」と訳されている言葉は「疫病」とも「災害」とも訳せる言葉です。

当時の戦闘で、当時の人口で、3万人の死傷者というのは想像を超えた数だったのではないでしょうか。

勿論、この3万人という数は正確な数ではなく、推定であり、多少の誤差があるにしても、単なる戦闘の結果ではなく、疫病の蔓延、思わぬ災害が起こり、そこに、神の裁きの御手を見たのではないでしょうか。

頼りにしていた、必ず助けてくれると信じていた「契約の箱」は奪われ、そして、ホフニとピネハスが死ぬと言う預言がここに成就する事になるのです。

【適応】

このイスラエルの神の象徴とも言うべき「契約の箱」を奪われると言う屈辱的歴史から、ホフニとピネハスの死から、3万人が倒れたと言う記述から、私たちは何を学べば良いのでしょうか。

神の契約の箱が奪われるという出来事と、ホフニとピネハスの死は別々の出来事ではありません。

個人の罪は全体に影響し、全体の罪は個人に影響するのです。

ホフニとピネハスの神を侮る行為は、二人の責任による所が大きいでしょうが、イスラエル全体に、神を侮る風潮が蔓延していた結果の現れでもあるのです。

偶像礼拝をし、勝手気ままな生き方をして来た、イスラエル民族のつけが、具体的現れがホフニとピネハスであり、ホフニとピネハスの勝手を赦し、黙認してきたつけが、イスラエル民族に現されて、3万人という死傷者と、神の契約の箱を奪われるという結果を生み出したのです。

ホフニとピネハスの死、3万人の死、神の契約の箱が奪われることを通して、神様から見捨てられた事、神様が離れて行かれた事を現しているのです。

現れた罪は勿論の事、隠れた罪、悔い改めない罪を神様はいい加減にはなさいません。

必ず、清算しなければならないのであり、その時は必ず来るのです。

契約の箱がイスラエルを守るのではありません。

律法を守る事や、割礼に救う力があるのではありません。

神の幕屋がイスラエルを守るのではありません。

神殿での礼拝がイスラエルを守るのではありません。

現代に適応するならば、聖書を読む事が私たちを守るのではありません。

洗礼を受ける事や、聖餐を受ける事が私たちを救うのではありません。

礼拝を献げる事が私たちを守るのではありません。

聖書も洗礼も、聖餐も礼拝も奉仕も、唯一の神様に聞き従う生き方への変革を願う、強い願望と言う裏づけがなければ、単なる行為であり、そこには救う力も、助ける力も、導く力も、支える力もありはしないのです。

失敗しながらであっても、迷いながらであっても、神様に聞き従いたい、と言う強い願望があってこそ、聖書で教えられた通りに生きる事が出来るようにされていくのであり、洗礼が新しい生き方を願う決意の表明になるのであり、聖餐が今の生き方を吟味するもの、悔い改めを促すものとなるのであり、礼拝や奉仕が、私たちに力を与え、神様に聞き従う生き方となって現れて来るのです。

ホフニとピネハスの死は、神の契約の箱を奪われると言うのは、他人事ではありません。

私たちの生き方への警告、警鐘です。

神様を蔑ろにした生き方への警告であり、形骸化した礼拝への警告なのです。

神様は形骸化した礼拝を忌み嫌われ、教会を取り去ってしまうのではないでしょうか。

或いはうなじの強い民を追い払い、神様に聞き従う民を招き入れられるのではないでしょうか。

ここにおられる皆様が、日々に自分を吟味し、悔い改めて、神様に相応しい生き方を願い求められます様に。

神様は必ずその祈り願いに応えて下さり、私たちを見捨てる事なく、離れる事なく、助け、守り、支え、導いて下さるでしょう。

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