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                                                                2019-6-30礼拝

聖書個所:サムエル記第一4:1222              

説教題:「栄光はイスラエルを去った」

【導入】

創造者にして支配者なる神様は、お約束を必ず守られるお方です。

そのお約束は良い事であっても、悪い事であっても、必ず実現します。

直ぐにお約束が成就する時もあれば、ずっと先になって実現する事もあるでしょう。

私たちが忘れてしまっても、創造者にして支配者なる神様が忘れるという事はありません。

創造者にして支配者なる神様のご計画の内にはしっかりと覚えられており、創造者にして支配者なる神様の摂理の中でお取り扱いを受けて、創造者にして支配者なる神様の願われた時に実現するのです。

祭司エリに伝えられた、ホフニとピネハスに対する「二人とも同じ日に死ぬ(2:34)という預言は、またサムエルに直接啓示された「その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する(3:12)という預言は、時が満ちて成就する事になったのです。

この創造者にして支配者なる神様のお約束は、ペリシテ人がイスラエルに戦争を仕掛けて来た事で、具体化して行きます。

戦争ですから、人が死ぬのは仕方がない事ではありましょうが、前回学んだように祭司の息子が二人とも、同じ日に死ぬというのは異常です。

何故ならば、ホフニとピネハスは神の契約の箱に仕えていたのであり、その神の契約の箱はイスラエルの宝であり、何としても、どんな犠牲を払っても守らなければならない大切な物であり、その大切な神の契約の箱に仕える、神の契約の箱と共に行動するホフニとピネハスですから、彼らも神の契約の箱と共に守られて当然、と言えるでしょう。

それなのに、神の契約の箱に攻撃が集中し、神の契約の箱と共に居たホフニとピネハスが殺されてしまったのです。

この戦争は神の契約の箱の争奪戦ではありませんが、神の契約の箱は、出エジプト記25章に記されている通り、純金が被せられ、純金の贖いの蓋があり、純金のケルビムが作り付けられており、高価な物、価値ある物であった事は疑いの余地がありません。

しかし、純金の価値以上に、イスラエルの、創造者にして支配者なる神様の象徴であり、何よりも大切な物なのです。

それなのに、決してあってはならない事ですが、神の契約の箱が奪われてしまったのです。

神の契約の箱は、創造者にして支配者なる神様の臨在の象徴であって、創造者にして支配者なる神様そのものではありません。

しかし、象徴ではあっても、掛け替えのない大切な物であり、イスラエルの人々の落胆は非常に大きく、とても戦争を維持できる状態ではなく、各々が自分たちの天幕に逃げ帰り、これらの悲報がシロの町にもたらされる事になるのです。

【本論】

4:12一人のベニヤミン人が戦場から走って来て、その日シロに着いた。衣は裂け、頭には土をかぶっていた。

この状況描写は二つの事を表しています。

一つは、戦闘が非常に激しかったために、伝令の着物は裂け、土埃にまみれていたのではないか、という事です。

戦闘の行なわれたアフェク、エベン・エゼルは低地にあり、シロの町はエフライムの山々の頂上、海抜凡そ500mの高地にあり、凡そ35km離れています。

アフェクからシロまで、その道の殆どは上り坂であったのです。

激しい戦闘があって、ホフニとピネハスが死に、神の契約の箱が奪われたその日の内に、この悲報がもたらされたのですから、伝令は屈強な勇士であり、それこそ死に物狂いで走りに走ったに違いありません。

兎にも角にも、一刻も早く、この状況を知らせなければならないとの使命感に背中を押されて、転んでは起き上がり、着物が裂けようが、土まみれになろうが、形振りかまわずに走り続けたのでしょう。

それが、着物が裂け、頭に土を被っていた理由です。

もう一つの理由は、悲しみ、苦悩を表して、故意に着物を裂き、土を被ったのではないか、という事です。

聖書のあちらこちらに記されていますが、イスラエルの文化には、悲しみ、苦悩、或いは驚き、怒りを表わす時には、着物を裂き、土や灰を頭から被ります。

そして地面に座り込んで泣き伏すのです。

祭司の息子の死と、神の契約の箱が奪われると言う事は、非常に悲しい出来事であり、大きな悲しみを表わすために、着物を裂き、土を頭に被ったのでは、と考えられるのです。

伝令は良い知らせをもたらす者とは限りません。

悪い知らせであっても、伝えなければならないのであって、悪い知らせ、凶報である事が一目で分かるように、走りながら着物を裂き、転んだついでに土を頭に被ったのではないでしょうか。

4:13 彼が着いたとき、エリはちょうど、道のそばの椅子にすわって見張っていた。神の箱のことを気遣っていたからであった。この男が町に入って来て報告すると、町中こぞって泣き叫んだ。

祭司エリは町のメインストリートに席を設けて、今か今かと戦況報告を待っていました。

何しろ、神の契約の箱を戦場に担ぎ出す、などという事は、日常的な事ではありません。

神の契約の箱は、神様のご命令があって、始めて移動させる物であり、人間の都合で移動させた事は、かつてなかった事なのです。

この神の契約の箱は、イスラエルの民が、400年の奴隷生活を終えて、エジプトを脱出した時に作られましたが、雲の柱、火の柱が行く方向に、共に移動したのであり、人間はそれに従ったに過ぎません。

40年の荒野の旅で、常に民の先頭を歩み、民を導き、そしてヨルダン川を渡ってシロに天幕をはり、神の契約の箱を安置して現在に至っているのです。

神様の都合で、神様の命令で神の契約の箱は移動させるものであり、今回、戦場に神の契約の箱を持って行った事を、祭司エリは憂いていたに違いありません。

イスラエルの長老の要請で、神の契約の箱を持ち出す事を許したけれど、人間の都合で神の契約の箱を持ち出すなんて、何て愚かな事をしてしまったのだろう、許してしまったのだろうか。

何か悪い事が起こらなければ良いが…

見えない目を、カッと開いて、待ち続ける祭司エリの姿には、責任の大きさと、何かあったらとの不吉な予感、何も起こらなければ良いがとの、悲壮感が漲っていたに違いありません。

その不安を掻き立てるように、俄かに、町中に泣き叫ぶ声が沸き起こったと言うのです。

4:14 エリがこの泣き叫ぶ声を聞いて、「この騒々しい声は何だ」と言うと、男は大急ぎでやって来てエリに知らせた。

4:15 エリは九十八歳で、その目はこわばり、何も見えなくなっていた。

吉報であっても凶報であっても、少しでも早く聞きたがる、知りたがるのが人情でしょう。

戦場から駆けつけて来た伝令に人々は群がり、伝令も先ず祭司に報告すべきを怠ってしまったようですが、祭司に促されてエリの下にやって来て、

4:16 男はエリに言った。「私は戦場から来た者です。私は、今日、戦場から逃げて来ました。」するとエリは「わが子よ、状況はどうなっているのか」と言った。

4:17 知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」

預言者によりホフニとピネハスに下される裁きの宣告があり、サムエルによってその確実な事が知らされてはいても、預言が現実となった事を知らされた衝撃は大きかった事でしょう。

更に堪えがたかったのは「神の箱が奪われた」と言う報告です。

先にも申し上げましたが、神の契約の箱は神の臨在の象徴であり、何にも替え難い大切な物です。

それがあろう事か、敵に、侵略者に、異邦人に、偶像礼拝者に、いかがわしい神々を崇拝するペリシテ人に奪われたとの報告を受けた時、祭司エリのストレス、緊張、怒り、恐れ、悲しみ、憤りは頂点に達し、その肉体は耐え切れず、身体は硬直してしまった様です。

4:18 彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。

二人の息子の宗教教育、信仰継承については大失敗だったかも知れませんが、それでも祭司として40年もイスラエルを裁いたのです。

この「裁いた」は判決を下す、と言う意味より、教え導いた、教え諭した、の意味であり、イスラエルの民の見える罪、見えざる罪を生贄によって贖って来た事を意味しているのです。

イスラエルの人々の相談に乗り、調停役を買って出てと、民のために献げた40年であったのです。

これは決して短い期間ではありません。

23年なら気力や熱意、熱心で何とかなるかも知れませんが、40年は気力や熱意、熱心では持ちません。

ダビデの治世は40年であったと列王記第一211節に記されていますが、神様が伴って下さらなかったならば40年は持ちません。

否、神様が許して下さるから、失敗や間違いを犯しながらも、40年の治世をまっとう出来るのであり、祭司として、預言者として、王として立てられ、支えられ、仕える事が許され、出来るのです。

サウル王以下、ユダ王国、イスラエル王国に多くの王様が立ちましたが、全てが良い王様だった訳ではありません。

しかし神様が立てられた王様であり、偶像に走る王様であっても40年以上の治世が与えられているのです。

これは私たちには計り知れない、神様の恵みであり、私たちの常識や判断でとやかく言う事は出来ません。

エリは、神様によって立てられた祭司であり、サムエルの母、ハンナの祈りの執り成しをして下さり、励まして下さり、祝福の言葉を与えて下さったのです。

この働きがあったからこそ、サムエルは献げられたのであり、サムエルを育て、偉大な預言者として育成したのも、祭司エリの功績と言えるでしょう。

この「エリは四十年間、イスラエルをさばいた」と言う記述は、創造者にして支配者なる神様が祭司エリにイスラエルを任せた、祭司エリにイスラエルを委ねたことを教えている記述と言えるのです。

ある一部分を見て評価、判定、批判するのは簡単ですが、創造者にして支配者なる神様が立てられた器として、王として、祭司として、預言者として見なければならず、尊敬し、聞き従わなければならないのです。

祭司エリに悲報が伝えられ、一つの悲劇が起こりましたが、一方祭司エリの息子ピネハスの家族にも悲報がもたらされ、ここにも悲劇が起こるのです。

4:19 彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて出産間近であったが、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。

4:20 彼女は死にかけていて、彼女の世話をしていた女たちが「恐れることはありません。男の子が生まれましたから」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。

4:21 彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。

4:22 彼女は言った。「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから。」

創造者にして支配者なる神様の忍耐、憐れみ、許しによって祭司エリは40年イスラエルを裁きましたが、創造者にして支配者なる神様の約束の通り、エリの二人の息子は裁かれ、エリ自身も打たれてしまったのです。

ピネハスの妻は、この悲報、訃報を聞き、陣痛が起こり、出産に至りますが、その出産は平安、平和の中で臨んだものではなく、戦争と言う異常な状況の中で臨んだものであり、生まれて来た子どもの命は守られましたが、母の命は絶たれてしまうのでした。

創造者にして支配者なる神様は憐れみ深いお方であり、ホフニとピネハスの命や、祭司エリの命は断たれましたが、ピネハスの子どもを残して下さり、祭司の家系、血筋を絶やさない様にして下さったのです。

しかし、神の契約の箱を奪われた、という事実は、ピネハスの妻をして「栄光がイスラエルから去った」と言わさしめ、子どもの名前を「イ・カボデ」訳すなら「栄光がない、栄光はいずこに」と命名するに至るのです。

【適応】

栄光がイスラエルから去った」と言うのはつまり「神様がイスラエルを離れた」と言う事ですが、これほど悲しい、恐ろしい事はありません。

どんなに素晴らしい働きをしても、功績を残しても、創造者にして支配者なる神様が居られない働きは、功績は虚しいものなのです。

先ほども申し上げましたが、イスラエルには数多の王様が立てられましたが、人間的には、この世の価値判断では大きな業績を残し、領土を拡大したとしても、創造者にして支配者なる神様の目に適わないならば、聖書には悪行の数々だけが記され、この世的な業績は、数行の記述で片付けられ、更に「主の目に悪を行ない」と不名誉な記録を残されてしまうのです。

しかし、どんなに短い治世であり、この世的な業績を残していなくても、創造者にして支配者なる神様と共に歩んだならば「主の目にかなうことをおこなった」と名誉ある記録が記される事になるのです。

祭司エリの生涯は決して素晴らしい功績を残したものではありませんし、ピネハスの妻に至っては、何の功績も記されてはいません。

しかし、二人に共通しているのは「神の箱」に対する意識、思いです。

祭司エリには、ホフニとピネハスの死が知らされましたが、その時には自分を押え、気丈に耐えて見せましたが、神の箱が奪われたことに及んだ時、呆然とし、生きる気力を失ったのです。

ピネハスの妻には、夫と姑の死と神の箱が奪われた事が伝えられ、出産の危機の中で、生きる気力、希望を失いましたが、神の箱が奪われた事を非常に重く見ている事が22節の記述から明らかです。

祭司エリは子どもを諌める事が出来ずにいましたし、ピネハスの妻は夫を諌める事が出来ずにいましたが、偶像礼拝の蔓延るイスラエルのなかで、この二人は真の意味でイスラエルの将来を憂えていたのではないでしょうか。

神の契約の箱に象徴される神の臨在。

その神の箱が奪われるという屈辱と絶望。

創造者にして支配者なる神様はイスラエルを見捨てられた、離れて行かれた。

これほど人を打ちのめす事はないのではないでしょうか。

創造者にして支配者なる神様がいない事を上回る絶望はないのです。

創造者にして支配者なる神様が居られるならば、どん底の生涯でも希望があります。

創造者にして支配者なる神様が伴って下さるなら、死と隣り合わせのような状況の中にあっても、災いを恐れないで済むのです。

詩篇23篇、2017版は旧約聖書954ページ、第3版は926ページ、ダビデの賛歌

23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。

23:4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。

23:5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。

23:6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。

逆に主が伴って下さらないならば、安全なところはなく、慰めはなく、希望はなく、苦しみ、悲しみ、災い、病、争い、そう言った忌まわしいものが纏わりつく事になってしまうのです。

祭司エリもピネハスの妻も、この事を明確に悟ってたが故に、希望を失い、生きる力を失ってしまったのです。

創造者にして支配者なる神様が共に居られない人生には、何の意味もありません。

創造者にして支配者なる神様が共に居て下さらない事を知った祭司エリと、その息子ピネハスの妻は、その現実に耐えられなかったのです。

私たちもまた、多くの苦難や障害にぶつかる事があり、創造者にして支配者なる神様の存在に疑問を持つ事があるでしょう。

罪を繰り返してしまい、罪責感に打ちひしがれ、創造者にして支配者なる神様に顔向けが出来ず、立ち上がる気力を失ってしまう事があるでしょう。

創造者にして支配者なる神様に見捨てられた、創造者にして支配者なる神様が離れていかれたと思ってしまう事があるでしょう。

しかし、私たちにはイエス・キリストの十字架があるのです。

どんな罪も私たちを創造者にして支配者なる神様から引き離す事は出来ません。

創造者にして支配者なる神様が私たちを離れる事は絶対にないのです。

希望がなくなる事も、絶望に陥る事もないのです。

再出発する事が許されており、やり直しが出来るのです。

昨日までの失敗を恐れる必要はありません。

今の今までの行動を悔やむ必要もありません。

勿論、悔い改めは必要ですが、どんなに失敗をしても創造者にして支配者なる神様が私たちを離れる事は決してないのです。

これは希望ではなく、創造者にして支配者なる神様の約束です。確実な事です。

ですから、私たちは信じて従うだけで良いのです。

ここに居られる皆様が、創造者にして支配者なる神様に愛され、創造者にして支配者なる神様が共に歩んで下さっている事を知って、絶望しないで、希望にあふれ、日々に生きる力を与えられ、キリストの僕として証しの人生を生きられますようにお祈り致します。

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                                                                  2019-6-23礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1938節~42

説教題:「イエス様の処刑・・・葬り」

【導入】

この世に生きるモノは、この世に存在するモノは、必ず死を、終わりを迎えます。

有機物でも、無機物でもです。

生物的な死を迎えるモノもあれば、命のないモノ、機械なども、家やビルなども、橋や堤防なども、使用年数、耐用年数が設定されており、壊れたり、崩れたりし、モノとしての終わりを迎えます。

変わらなく存在し続けるように見えるこの世界も、地球も、宇宙も、必ず、終わりの時を迎えます。

そして、新天新地が到来するのですが、それが何時かは、明らかにされていません。

しかし、必ず、終わりの時が来て、新天新地が始まる事は、間違いありません。

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの妬み、企みにより、この世で一番と言っても過言ではない、惨(むご)たらしく、苦しく、惨(みじ)めな十字架刑に処せられました。

イエス様が死なれた事は、悲しい事ではありますが、必要な事であり、イエス様の死を経てしか、新しい世はやって来ないのです。

まだ誰も、新しい世界を見た者はおりませんが、イエス様の死を目撃した者は、沢山おります。

そして、イエス様の死と、余人の死との違いを目撃し、それを聖書として残してくださいました。

イエス様の十字架の死は、惨たらしい死であり、スルーしたくなりますが、私たちの信仰の益となりますから、しっかり見て、検証しましょう。

【本論】

新改訳2017版 19:38 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

その後で」は、ローマ兵によって、十字架刑を何度も執行して来た、ベテランの死刑執行兵の手によって、二人の囚人に死を与え、イエス様の死が確認されましたが、万全を期して、脇腹から槍を突き刺し、心臓を貫き、血が吹き出て、イエス様の死が、確定されて後に、の意味です。

皆様、良くご存知のように、「イエスの弟子」は十二弟子だけではありません。

多くの無名の弟子がおり、多くの女性たちもイエス様の弟子でした。

聖書に、多くの女性の名前や働きが記録されている通りですが、当時の社会では、女性は軽く扱われ、一人前とは見做されていませんでしたから、記録される事は、当時の社会文化の中では、珍しい事でした。

しかし、働きが、名前が明らかにされるのは、決して良い事ばかりではありません。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たちに知れ渡る事になり、有形無形の不利益を被る事になるからです。

その不利益は、ちょっとした嫌がらせや、嫌味を言われる程度ではありません。

ユダヤ教の礼拝から締め出されかねず、ユダヤ社会から追放されかねないのです。

それは、当時の社会制度、人権の考え方、にあっては仕方のない事でありましたが、それでも、女性や子どもは、大目に見られ、厳しい対応を受ける事は希だったかも知れません。

しかし、一人前の男性となると、話は別であり、対応は違い、厳しい処分を受けたようです。

ユダヤ人を恐れ」は、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」を恐れの意味であり、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」に敵対するイエス様、即ち、宗教犯を弁護すると云う事は、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」を敵に回すことであり、ユダヤ教から締め出され、ユダヤ社会から追放されるのであり、地位を失う事、働きを失う事、であり、死活問題なのです。

イエス様の言動に、普遍的な真理を見出し、内心ではイエス様を信じ、神の御子と信じていても、それを公言する事は憚られる社会だったのです。

アリマタヤのヨセフ」は、マタイの福音書2757節の記述によれば、2017版は新約聖書63ページ、第3版は62ページ、「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た」と記されており、非常に裕福な人であり、

マルコの福音書1543節の記述によれば、2017版は新約聖書104ページ、第3版は102ページ、「アリマタヤ出身のヨセフは・・・有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた人であった」と記され、

ルカの福音書2350節の記述によれば、2017版は新約聖書171ページ、第3版は168ページ、「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった」と記されています。

議員」とは、「ユダヤ教最高議会、サンヘドリンの議員」の事であり、ユダヤ教宗教指導者の一人であったのです。

多くの、否、殆ど全ての「議員」は、イエス様を敵視し、イエス様を殺す事に賛同したのですが、この「アリマタヤのヨセフ」は、独りイエス様の側に立ちます。

ルカの福音書2351節の記述によれば、2017版は新約聖書171ページ、第3版は168ページ、「彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった」のです。

まあ、積極的にイエス様を弁護、支援しなかったのは残念ですが、消極的にではあっても、大勢に迎合せず、不利益を覚悟して、悪に加担しなかったのは特筆すべきでしょう。

さて、死刑囚の遺体は、基本的には、埋葬禁止という加重的刑罰が与えられるのが通常でしたが、恩赦として、遺体の引取りと、埋葬が赦される事がありました。

この事は、前回、お話しましたので、詳細は割愛しますが、通常、親類縁者か、親しい友人が、遺体を引き取り、埋葬しました。

先にお話したように、イエス様は宗教犯であり、イエス様の遺体を引き取り、埋葬する事は、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」に敵対する行為と見做されかねません。

イエス様の遺体の引き取り、埋葬には大きなリスクが伴いますから、誰もが、尻込みする事でしたが、「アリマタヤのヨセフ」は、白昼公然と、イエス様の遺体の引取りと、埋葬とを、総督ピラトに願い出たのです。

イエス様の遺体の引取りと、埋葬の願い出は、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」に敵対する行為ですが、イエス様に対する、最後の愛の業となったのです。

総督ピラトが、イエス様の遺体の引取りと、埋葬の願い出を許可したのは、「アリマタヤのヨセフ」が、「金持ち」であり、「有力な議員」だったからであり、更には、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」に主導権を取られ続け、苦々しい思いを味わわされた事に対する意趣返しの気持ちがあったからなのではないでしょうか。

「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」の思い、願いは、イエス様の遺体が晒しモノになり、朽ち果て、誰もが、イエス様は神の御子などではなかったと、絶望させる事でしょうから、イエス様の遺体が丁寧に埋葬される事は、何としても避けたかったのではないでしょうか。

それなのに、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」の仲間の一人が、イエス様の遺体を引き取り、埋葬したいと願い出たのですから、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」の内部分裂、反目の兆しであり、歓迎すべき流れであり、総督ピラトは、直ぐに、恩赦を与えたのでしょう。

そんな、大胆とも云える行為を行なったのは、「アリマタヤのヨセフ」だけではありませんでした。

19:39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。

この「ニコデモ」は、「アリマタヤのヨセフ」と似たような立場の人であったようです。

ニコデモ」も、「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」の仲間と目される人です。

ヨハネの福音書31節に登場します、2017版は新約聖書179ページ、第3版は176ページ、「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった」と記し、第3版では、「ユダヤ人の指導者であった」と記しています。

「ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たち、パリサイ人たち」の一人でしたが、仲間意識に流されず、権力者に忖度する事をせず、律法に従った公正な判断、発言をする人物でした。

ヨハネの福音書750節、2017版は新約聖書195ページ、第3版は191ページ、「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか」」です。

イエス様の擁護者、弁護者ではなくても、律法の公正な適応を促す事は、何より、創造者にして、支配者なる神の前に正しく、喜ばれる事なのであり、結果的に、イエス様を擁護、弁護する事になるのです。

律法、法律で、全てをカバー出来ませんが、律法、法律は遵守してこそなのではないでしょうか。

律法、法律に瑕疵があるなら、修正すればよいのであり、裁く基準があり、はっきりしているからこそ、公平な、公正な、公明な判断になるのです。

ニコデモ」は「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」を、「百リトラほど持ってやって来」ます。

没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」は、非常に高価なモノだそうです。

冠婚葬祭では、虚栄からか、人情からか、ケチらないのが一般的であり、それだけに、冠婚葬祭に用いられる物品は、大体に於いて、高価です。

その高価な「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」を、「百リトラほど持ってやって来」たのですが、「一リトラ」は、「328g」であり、「百リトラ」は「32.8kg」であり、一人の人の埋葬には、多過ぎるどころではない、膨大な量です。

しかし、これも、預言の成就です。詩篇457節、8節、2017版は旧約聖書979ページ、第3版は950ページ、「あなたは義を愛し 悪を憎む。それゆえ 神よ あなたの神は 喜びの油を あなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。45:8 あなたの服はみな 没薬 アロエ シナモンの香りを放ち」。

19:40彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。

アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」は、二人だけでイエス様の遺体を引き取り、二人、自らの手で、埋葬の準備をしたのではないでしょう。

それぞれに、僕がおり、僕が準備万端を行なったのでしょうが、この業は、「アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」二人の働きとして、記録されるのです。

エルサレムに神殿を建てたのは、大工ですが、計画を立て、資金を出したソロモンが賞賛を受けるのと同じです。

イエス様の埋葬の準備は整いましたが、最後の難関があります。

埋葬場所ですが、ここにも、不思議な導き、備えがありました。

19:41 イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

十字架刑場と、然程、遠くないところに、墓園があり、そこに、「まだだれも葬られたことのない新しい墓」があったのです。

この墓地は、「アリマタヤのヨセフ」私有の墓地でした。マタイの福音書2759節、2017版は新約聖書63ページ、第3版は62ページ、「ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた」のです。

19:42 その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

遺体の埋葬は、安息日の備え日中、即ち金曜日の日没までに行なわなければならず、緊急を要した訳ですが、幸いな事に、否、創造者にして、支配者なる神様のご計画で、イエス様の遺体は、「アリマタヤのヨセフ」私有の墓地に埋葬される運びとなったのです。

こうして、イエス様の逮捕、裁判、死刑、埋葬の一連の出来事は、一応の決着となるのです。

【適応】

今日の、重要なポイントは、39節の「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た」と、41節の「」ではないでしょうか。

先ず、「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た」ですが、先にお話したように、「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」の価値は、非常に高価であった、と云う事です。

聖書に記されている、イエス様への献げモノは、皆、高価であり、しかも、惜しげもなく、沢山の量を献げている、と云う事です。

ヨハネの福音書123節、2017版は新約聖書207ページ、第3版は204ページ、一方マリヤは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」です。

この香油はヨハネの福音書125節に「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と記されており、当時の日当、300日分の価値がありました。

時給を900円として換算するならば、200万円以上になるでしょう。

この記録は、マタイの福音書267節、マルコの福音書143節、にも記されているので、後でご確認願います。

ニコデモは、32.8kgを献げ、マリヤは、328gを献げましたが、どちらも、10分の一以下の量で、必要量は充分満たされましょう。

しかし、二人とも、10倍以上を献げたのです。

確かに、無駄に見えましょうし、もっと有効な使い道もあるでしょうが、問題は、誰に、何を、どれだけ献げたか、です。

二人とも、イエス様に、最高のモノを、必要充分以上献げたのです。

有り余る献げモノをしたのは、新約の人物ばかりではありません。

出エジプト記3521節、2017版は旧約聖書164ページ、第3版は160ページ、心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。

多くの民が、金、銀、青銅、撚り糸、亜麻布、山羊の毛、羊やじゅごんの皮などの貴重品を、惜しげもなく献げたのです。

36:5民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです」。

ここで、注目したいのは、貴重な品々だけど、誰も無理をしていない、喜んで献げている、と云う事であり、誰も、他人と比較したり、競争したり、見栄を張ってもいません。

持っているモノを献げるのであり、自分に出来るモノを献げるのです。

教会の必要のためにと言って、使い古しの家具などを献げる事があります。

まだ使えるモノかも知れませんが、良いモノを、貴重なモノを、惜しげもなく献げた、旧約、新約の人々の献げ方を見習いたいものです。

さて、イエス様に献げた「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」や、「純粋で非常に高価なナルドの香油」は、非常に大量でしたが、決して無駄にはなっていません。

没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」は、薄暗い墓穴を、ひんやりした岩穴を、麗しい香りで満たし、穴の外、遠くまで広がったのであり、「純粋で非常に高価なナルドの香油」は、質素、素朴な家を、麗しい香りで満たし、家の外にまで広がったのです。

そこに居合わせた人々は、本当に幸福な気持ちになったのではないでしょうか。

イエス様に献げた「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」や、「純粋で非常に高価なナルドの香油」は、イエス様のお身体から流れ滴りました。

イエス様に献げたモノは、イエス様に留まらず、イエス様から流れ出て、人々に届き、祝福となり、恵みとなる、と云う事です。

イエス様は、何も必要とはされませんから、何も献げる必要はありませんが、イエス様に献げたモノは、民を祝福し、恵むのであり、良いモノを惜しみなく献げる時、献げる祝福に与り、イエス様から溢れて、人々に届き、人々を祝福するのです。

没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」や、「純粋で非常に高価なナルドの香油」は、言い換えると、自分自身であり、イエス様にお献げし、イエス様から世に遣わされ、世にキリストの香りを放つのです。

次に、聖書で「」と言って思い浮かぶのは、「エデンの園」ではないでしょうか。

「エデンの園」は、人間のスタート地点であり、楽園であり、喜びに溢れる場所であり、創造者にして、支配者なる神様と霊的に交わりを持つ場所でしたが、アダムが罪を犯し、霊的な死、創造者にして、支配者なる神様との霊的な交わりが絶たれ、追放された、いわく付の場所です。

ここに戻る事が、人間の願いでしょうが、人間の力で戻る事は出来ません。

しかし、イエス様の十字架の死によって、人間の罪は赦され、戻る事が出来るのです。

41節の「」は、墓場の事であり、この世の、人間の終着地点です。

希望はなく、喜びもない、ただただ死と、汚れあるのみの場所であり、人間の力ではどうしようもない、死の支配する場所ですが、イエス様が葬られた事により、墓場に、イエス様がお持ちの力、働きがもたらされ、墓場に、罪からの聖め、罪の赦し、汚れの洗い流し、永遠の命がもたらされたのです。

言い換えるなら、「」はこの世であり、この世に、命の君、イエス様が来られたのであり、この世に、罪からの聖め、罪の赦し、汚れの洗い流し、永遠の命がもたらされるのです。

「墓場」からの脱出と、「エデンの園」に戻る事とが、イエス様の十字架によって、成し遂げられたのです。

イエス様が墓に納められた事により、墓場から、腐敗臭ではなく、「没薬と沈香を混ぜ合わせたもの」の、えも云われぬ芳香が、漂い、広がるのです。

それは、必要以上のモノを献げた結果、惜しみなく献げた結果です。

ここにおられる皆様には、罪を赦され、罪から聖められ、永遠の命を与えられた喜びに満ち溢れて、喜んで、最高のモノを、自分自身をイエス様に献げられる事と、世に遣わされ、キリストの香りを放つ生き方をされる事を願ってやみません。

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                                                                   2019-6-16礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1931節~37

説教題:「イエス様の処刑・・・血と水」

【導入】

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの妬み、企みにより、この世で一番と言っても過言ではない、惨(むご)たらしく、苦しく、惨(みじ)めな十字架刑に処せられました。

このような事が起こったのは、人間の罪が原因です。

罪は、自分を知恵ある者と思い、他と比較し、小さな違いを見つけて優位に立とうとします。

まあ、自分が一番、全て正しいとは思わなくても、自分の考えは、少なくとも間違ってはいない、自分の意見は、皆が支持してくれる、と思い込み、時に、無意識のうちに、自分の意見や考えを強く推し進めようとします。

そして、上手く行けば、自分の手柄、失敗すれば、他人の所為にするのが、人間の常です。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、事が思い通りに進むのを目撃して、自分たちの考えは正しかった、だから障害が起こらない、とほくそ笑み、ユダヤ社会に波紋を起こした異端の首謀者、危険分子を取り除いた、これでユダヤ社会は安泰だ、と安堵したのではないでしょうか。

そして、このイエスという男は、神の子などではなかった、と確信し、創造者にして、支配者なる神様に喜ばれる事をした、と鼻高々になったのではないでしょうか。

失敗は勿論の事、上手く行っても、反省とか、検証という作業を怠ってはなりません。

失敗した原因を探り、上手く行った理由を確認しつつ、失敗に至り得る可能性の有無を探らなければなりません。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、一連の行為が本当に正しい心で行なったのか、創造者にして、支配者なる神様に、本当に喜ばれる事だったのか、を検証しなければならなかったのです。

反省や検証は、吟味と言う言葉に置き換えても良いでしょう。

罪の影響や、神に敵対する者の、巧みな誘導に対処出来るのは、創造者にして、支配者なる神様に対する信仰と、信仰に基づく自己吟味です。

信仰に基づかない吟味は、単なる反省や検証であり、失敗しないためには、上手く行くためにはどうすれば良いかの思考に終始するでしょう。

一方、信仰に基づく吟味は、創造者にして、支配者なる神様の栄光を現す事、神を愛し、人を愛する事につながります。

イエス様の十字架の死は、惨たらしい死であり、スルーしたくなりますが、しっかり見て、検証する事で、私たちの信仰の益としましょう。

【本論】

新改訳2017版 19:31 その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。

その日」は、現代の金曜日の事であり、木曜日の日没から、金曜日の日没までの事です。

備え日であり」は、通常の意味での「備え日」の事であり、即ち、金曜日の日没から始まり、土曜日の日没までの「安息日」の前日の事です。

通常の「安息日」を迎えるのであっても、「備え日」は忙しく、慌しいのですが、「翌日の安息日は大いなる日であったので」とあります。

大いなる日」とは、ここでは「過越の祭り」を意味し、「安息日」と「過越の祭り」が重なったために、「備え日」はより一層、忙しく、慌しい日となったのですが、それだけではありません。

ユダヤ人は、死体などを「汚れ」と関連付けて考え、汚れたモノを晒しておくのは、放置しておくのは、創造者にして、支配者なる神様に対する重大な不敬行為であり、罪であり、創造者にして、支配者なる神様から呪いを受けないために、一刻も早く処分、処置しなければならなかったのです。

しかし、死体の処置、処分は、簡単な事ではありません。

ローマの慣例では、死刑は囚人の死を以て終わる訳ではありません。

十字架の上で晒しモノにされ続け、また、「埋葬の禁止」と云う、加重的な処分が加えられるのが通例でした。

犯罪者に対する尊厳は認められず、死体にも一切の敬意は払われません。

死体は、埋葬が許されず、晒しモノにされ、鳥の餌食にされたのです。

また、塵(ごみ)のように扱われ、死体置き場に投げ捨てられ、山積みにされ、野晒し、雨晒しにされ、獣の餌食にされたのです。

それでも、有力者が、総督に申し出れば、相応の賄賂が贈られれば、恩赦として、死体が引き渡される事もあったようですが、特殊な事だったようです。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たちの申し出は、十字架上に死体を晒したままにしない事、形式的ではあっても埋葬する事であり、その根拠は、申命記2122節の教えです。

2017版は旧約聖書の353ページ、第三版は341ページ、「21:22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない」です。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、土地が汚れを受けないように、自身が、ユダヤの民が、汚れを受けないように、そして、創造者にして、支配者なる神様から呪いを受けないように、日夜、ユダヤの民を指導していたのであり、エルサレムの住民を監視していたのであり、涙ぐましい努力と行動をしていたのです。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、イエス様の言動で、創造者にして、支配者なる神様から呪いを受けないように、イエス様を排除するために、イエス様を十字架に架けて抹殺しましたが、今度は、イエス様の死体を晒す事によって、扱い方によって、創造者にして、支配者なる神様から呪いを受けないようにしなければならなくなった、と云う事なのです。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの嘆願は「ピラト」に聞き入れられ、

イエス様たちの死亡を確実なものにするための処置、即ち、「脚を折って」後に、死体を「取り降ろ」す事が、認められます。

19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた一人目の者と、もう一人の者の脚を折った。

簡単に、一言、「脚を折った」と記されていますが、丸太のような物、大きな木槌のような物で、死刑囚の脚の骨を叩き潰し、確実に絶命させるのであり、それは、死んだように見せかけ、取り降ろされ、死体置き場に投げ捨てられた後に、逃げ出さないがための処置でもありましょう。

イエス様の両脇の十字架の、二人の死刑囚は、まだ息があり、確実な死を与えるために「脚を折」られ、絶叫を上げて、絶命しました。

19:33イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。

役目とは言え、死刑囚の脚の骨を叩き潰し、確実に絶命させるために、丸太のような物、大きな木槌のような物を振り回すのは、簡単な事ではありません。

絶叫を聞くのも、気持ちの良いものではありません。

しないで済むならば、しないに越した事はありませんが、しかし、何もしないのは、憚られますし、死体を取り降ろす事は出来なかったようです。

19:34 しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。

十字架上の死刑囚を、絶命させるための方法ですが、通常は、十字架上に放置しておき、窒息死、衰弱死するのを待つのです。

しかし、今回のように、急ぐ場合には、脚を折って絶命させたようですが、他にも、槍で、脇腹から心臓を突き刺して絶命させる事も、行なわれたようです。

しかし、これは、血が吹き出て、血を浴びる事になりかねず、また、槍が血と脂肪で汚れ、槍の手入れが必要になるので、積極的には行なわれなかったようです。

しかも、今回は、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たちが願い出た方法ではなく、総督ピラトに命じられてもいない方法であり、命令に忠実無比なローマ兵が、取る方法ではありません。

ある意味、あり得ない事が起こったのですが、これは、後述の36節、37節の聖書の預言の成就なのです。

さて、「血と水が出て来た」ですが、医学的、生物的には、決して特殊な事ではありません。

槍は、心臓を突き刺して絶命させるために、脇腹から突き上げるのであり、胃を突き通し、胃の内容物、水などが出て来るのであり、心臓を突き刺し、血液が吹き出て来るのです。

イエス様の死が、確実である事の、客観的な証拠であり、また、「血と水」には、神学的な意味合いが込められています。

」が流されずに、罪からの聖めは、罪が赦される事はあり得ません。

レビ記59節、2017版は旧約聖書の182ページ、第三版は176ページ、「それから罪のきよめのささげ物の血を祭壇の側面にかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出す。これは罪のきよめのささげ物である」であり、ヘブル人への手紙922節、2017版は新約聖書の448ページ、第三版は435ページ、「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」です。

罪が赦されてこそ、義と認められるのであり、「」は「義認」のために、必要不可欠なモノなのです。

続いて「」はバプテスマ、永遠の命、を意味します。

ヨハネの福音書414節、2017版は新約聖書の182ページ、第三版は179ページ、「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」であり、ヨハネの福音書738節、2017版は新約聖書の194ページ、第三版は190ページ、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」です。

槍で突き刺された時に、「血と水」が流れ出るのは、奇跡ではなく、自然な事ですが、神学的な、信仰の根幹に関わる意味が秘められているのであり、この記録は、非常に重要なのです。

19:35 これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。

これを目撃した者」が誰なのかは、意見の分かれるところですが、「イエス様の愛された弟子」ではなさそうです。

しかし、ヨハネの福音書の執筆に、大きく貢献した人物である事と、私たちの信仰に大きな貢献をしている事は間違いないでしょう。

19:36 これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、

過越の羊の骨は、折ってはならないのであり、イエス様が、過越の羊である事の証拠としています。

出エジプト記1246節、2017版は旧約聖書の121ページ、第三版は117ページ、「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない」であり、

民数記912節、2017版は旧約聖書の253ページ、第三版は246ページ、「そのうちの少しでも朝まで残してはならない。また、その骨は折ってはならない。すべて過越のいけにえの掟のとおり、それを献げなければならない」であり、

詩篇3420節、2017版は旧約聖書の965ページ、第三版は936ページ、「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、折られることはない」などが挙げられ、十字架上のイエス様を、過越の小羊とし、預言の成就である事を提示しているのです。

19:37 また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。

ゼカリヤ書1210節、2017版は旧約聖書の1626ページ、第三版は1559ページ、「12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く」です。

このように、十字架上のイエス様を、預言の成就と見ているのです。

【適応】

今日の、重要なポイントは、「イエス様の脚の骨が折られなかった」事と、「血と水」が流れ出た事です。

先ず、イエス様の脚の骨が折られなかった事について、確認しましょう。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの嘆願は、イエス様の脚の骨を折る事でしたが、そこには、ユダヤ教の律法や文化、歴史が関係しています。

例えば、「脚、足、脛」などの言葉でも、ユダヤ人と日本人とでは、連想の流れ、思い浮かぶ事柄は大きく異なりましょう。

日本人ならば、親の脛をかじる、脛に傷を持つ身、弁慶の泣き所、などなどが挙げられましょう。

ユダヤ人が連想する事、思い浮かぶ事を、紹介する事出来ませんが、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、イエス様の言動は、由々しき言動であり、野放しにしていたならば、創造者にして、支配者なる神様から呪いを受けると、確信していたのです。

ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、ユダヤの民衆たちの、イエス様に対する評価とか、噂なども知っており、イエス様が「神の小羊」と呼ばれている事を知っています。

それらの情報と、旧来から持っている律法、伝承などの知識、「小羊」は、「過越の生贄」と深く関連している事、「過越の生贄」の骨が折られてはならない事などを知っています。

そして、意識してか、無意識でかは別として、次のような連想があったのではないでしょうか。

即ち、イエス様の骨が折られたならば、イエス様は「神の小羊」でもなければ、「過越の生贄」でもない。

ですから確実に、イエス様の骨を折り、普通の死刑囚としての死を与えなければならない。

そこで、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、総督に、イエス様の脚の骨を折る事を願い出たのであり、その背後には、ローマ兵は、命令に忠実であり、一切の逸脱は行なわないとの前提があるからこそです。

しかし、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの目論見は外れ、創造者にして、支配者なる神様のご計画は、予定通りに進められ、異邦人、異教徒であるローマ兵が用いられ、イエス様の骨が折られる事はなく、逆に、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」との聖書の預言を成就させてしまったのです。

人の知恵や妨害で、創造者にして、支配者なる神様のご計画が頓挫する事はありませんが、だからといって、創造者にして、支配者なる神様のご計画に無頓着、無関心、懐疑的、否定的であってはなりません。

常に、創造者にして、支配者なる神様のご計画に参画、参与するとの意識と言動が、全てのクリスチャンに求められている、期待されているとの認識を持つ事が肝要です。

最後に「血と水」ですが、「」には、罪からの聖め、罪の赦し、などの神学的意味があり、「」には、バプテスマ、永遠の命、などの神学的意味があるとお話しました。

」は、ユダヤ教の教えでは、「命」そのものであり、イエス様から、「命」が流れ出たのであり、イエス様から、「真の命」がこの世にもたらされたのです。

人は、命を得るために、努力し、苦労しますが、イエス様の下に行けば、「真の命」が受け取れるのです。

さて、ユダヤ教の教えでは、「」には、洗い、聖めの意味がありますが、同じ「」でも、「たまり水」と「湧き水」には雲泥の差があります。

「たまり水」、或いは「汲み置きの水」は死んでおり、洗い、聖める力を有しませんが、「湧き水」「流れる水」は「生きている」「」であり、洗い、聖める力がある、と云う事です。

「水」の貴重なパレスチナでは、「水」に対する意識は、日本人のそれとは比較になりません。

その神的な力を持った「」が、イエス様から流れ出たのであり、イエス様の下に行けば、「湧き水」「流れる水」「生きている水」によって、洗い、聖められる、と云う事です。

血と水」の意味には、重複する部分がありますが、それは重要である事、貴重である事を意味しており、人間にとって、必要不可欠なモノ、何にも変えがたい価値があるモノなのですが、人間の知恵や努力で、工夫や精進で、律法を守る事や祭儀を執り行う事では、手に入れる事は出来ないのです。

しかし、イエス様の下に行けば、手に入る、誰にでも与えられる、のです。

その事を象徴的に現し、示したのが、「血と水」なのです。

ここにおられる皆様には、是非、イエス様の下に行って、「血と水」を受けられ、罪を赦され、罪から聖められ、永遠の命を得られる事を願ってやみません。

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聖書箇所:ヨハネの福音書1928節~30

説教題:「イエス様の処刑・・・完了した」

【導入】

イエス様は、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの妬みにより、この世で一番と言っても過言ではない、惨(むご)たらしく、苦しく、惨(みじ)めな十字架刑に処せられました。

何もここまでしなくてもと、追放するだけでも充分じゃあないか、と思いますが、悪は、罪は、徹底的に排除しなければなりません。

いい加減な対応は、罪や悪を容認する事であり、その責任を負わなければならなくなります。

その意味に於いては、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちに賛同しますが、妬みからの、死刑にするための裁判、全てがお膳立てされている裁判、証言の捏造や、言葉尻を掴んでの誘導尋問、には賛同出来ません。

正しい手続きによる裁判、厳正な証拠、証言の採用、中立、公正な判断と、適正な処罰でなければなりません。

こんなユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの暴挙が行なわれたのは残念ですが、創造者にして、支配者なる神様のご計画であり、世の人々の罪を贖うためには、イエス様は十字架で死なれる必要があり、イエス様は自らのご意志で、創造者にして、支配者なる神様のご計画に従われたのです。

さて、十字架刑の死亡原因は、窒息死、衰弱死と考えられます。

十字架刑は、体重を支えるための腰掛け台も足を乗せる台もなく、全体重を両手両足に打ち込まれた釘で支えるのであり、呼吸の度に両手両足に耐え難い激痛が走るそうです。

息も満足に出来ず、絶え間ない激痛に耐えなければならない状態が数時間以上続くのであり、惨たらしい刑罰の筆頭に上げられましょう。

そんな惨たらしい十字架刑ですが、さらに恐ろしいのは、「呪われた者」との烙印を押される事です。

「呪われた者」とは、創造者にして、支配者なる神様に呪われた者、であり、この世で一番の残酷な死を味わい、死後も、創造者にして、支配者なる神様との交わりを絶たれた世界で苦しみ続けなければならないのです。

本来であるならば罪を犯した張本人である我々が、十字架にかけられなければなりませんが、創造者にして、支配者なる神様は、我々が受けるべき刑罰を、イエス様の上に下されたのです。

そして今、イエス様は全てを終えられ、締めくくりをなさいます。

【本論】

新改訳2017版 19:28それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

すべてのこと」とは、創造者にして、支配者なる神様のご計画の全てであり、イエス様が為すべき事、全てです。

イエス様がしたい事の全てではありません。

神の御子のイエス様ですが、イエス様が主権を持って、主体的に推進するのではありません。

常に、全てに於いて、父なる神様が主権を持っておられ、主体的にご計画を推進されます。

父なる神様が、全てに於いて全てとなるためです。

創造者にして、支配者なる神様の知らない事柄がありはせず、創造者にして、支配者なる神様の関与しない事柄がありはしません。

しかし、これは、全てに於いて、創造者にして、支配者なる神様自らが、直接関わっている、の意味ではありません。

何から何まで、創造者にして、支配者なる神様が直接コントロール、制御、管理、支配しているのではなく、創造者にして、支配者なる神様は、宇宙万物を造られ、この地球の維持管理を人間に委ねられたのと同じです。

人間の罪の贖い、と云うご計画を、神の御子イエス様に委ねられ、イエス様が、父なる神様のご計画に沿って、父なる神様のご計画通りに行われた、と云う事なのです。

完了した」も、イエス様の認識で「完了した」のではなく、「完了したのを知ると」、であり、父なる神様が「完了した」事を認証したのです。

創造者にして、支配者なる神様のご計画であり、完了したか否かの判断も、創造者にして、支配者なる神様が判断すべきです。

神の御子のイエス様であり、父なる神様と同質であっても、父なる神様の主権を侵してはならないのです。

人間同士の関係でも、この関係性を尊重しなければなりません。

経験があっても、年長者であっても、より有能であっても、創造者にして、支配者なる神様が立てられた権威には従わなければならず、それは、創造者にして、支配者なる神様の摂理であり、秩序です。

イエス様の示された模範は、我々に対する、従順とは何か、権威とは何か、秩序とは何か、の教えのお手本です。

さて、28節に、イエス様は、創造者にして、支配者なる神様のご計画の「すべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた」、と記されているのですが、「聖書が成就するために」については、特定の箇所ではなく、聖書の全体であり、イエス様の生涯、この世に来られた目的、受難などについて、と考えて間違いなさそうです。

一方、何故「わたしは渇く」と言われたのかの意味はよく分かりません。

聖書が成就するために」、何故、「「わたしは渇く」と言われた」のでしょうか。

どのように関わるのかが、よく分かりません。

渇く」には、生物的に、ことば通りの意味と、精神的に、信仰的な意味が考えられましょう。

聖書が成就するために」と、「「わたしは渇く」と言われた」事とについて、注解書は、詩篇2215節を挙げています。

ここは、生物的に、ことば通りの意味で、と考えられるのですが、詩篇2215節、旧約聖書、2017版は953ページ、第三版は925ページ、「22:15 私の力は、土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上に、あなたは私を置かれます」です。

注解書にはないのですが、精神的に、信仰的に関係していると考えられるのが、詩篇631節、旧約聖書、2017版は995ページ、第三版は965ページ、「63:1 神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、衰え果てた乾いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます」などです。

しかし、どちらも、イエス様の生涯、この世に来られた目的、受難などと、「「わたしは渇く」と言われた」事の、関連性、意味を説明してはいません。

聖書にも、注解書にも手掛かりがないとは、困ったものですが、何回かお話したように、聖書の全ての箇所に、理由を付けるのは、人間的な試みであり、賛同する事は出来ません。

人間は、創造者にして、支配者なる神様のお考え、ご計画の全てを知る事は許されていません。

合理的な説明が、蓋然性のある説明が出来ない聖書箇所があるのであり、聖書のみならず、創造者にして、支配者なる神様が造られた万物についても、人間の理解を超えている事のほうが、圧倒的に多いのです。

理解を超えている事に、分からない事に、無理やり理由をこじつける事にどんな意味が、意義があるのでしょうか。

分からない事は、分からないとし、変な理由付けや、意味付けをしない、隠されている事は、時が来るまで暴かない、そんな、謙虚な考え方、生き方こそを選択すべきなのではないでしょうか。

本論に戻りましょう。

19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。

イエス様のつぶやき、「わたしは渇く」を、ことば通りに理解したのが、十字架の根元、イエス様の足元にいたローマ兵たちです。

十字架刑場には、2種類の葡萄酒の類がありました。

一つ目は、刑場に到着した時に差し出される、没薬を混ぜた葡萄酒です。

没薬には、麻酔作用があり、痛みや苦しみを軽減させる目的があったようで、エルサレムに住む婦人たちが用意し、死刑囚に与えたそうです。

鞭打ち刑の痛み、苦しみを和らげ、これから味わう、十字架の痛み、苦しみに対する備えの意味であり、慈悲、憐れみの込められたモノと考えられます。

しかし、イエス様はこれを飲むのを拒否、拒絶しています。

マルコの福音書1523節、新約聖書、2017版は103ページ、第三版は101ページ、「彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった」。

イエス様は、十字架刑を、朦朧とした意識の中で受けられたのではなく、明確な意識の中で、強い意志で、十字架刑に臨まれたのです。

二つ目は、ラテン語で「ポスカ」と呼ばれる飲み物で、葡萄酒から造った酢を、水で薄めた飲み物で、ローマ兵たちの喉の渇きを潤す飲み物だったそうです。

ルツ記にも登場する飲み物で、ユダヤ人にとっても、古くからある、馴染み深い飲み物です。

興味ある方は、ルツ記214節、旧約聖書、2017版は473ページ、第三版は460ページをご覧願います。

さて、「ヒソプの枝」ですが、ユダヤ人が「聖め」の儀式に使う特別な植物であり、この場、十字架刑場にあるのは、場違いであり、不思議であり、相応しくありません。

そこで、学者は、「ヒソプ」の綴り「ヒュソーポス」と、「投げ槍」の綴り「ヒュソー」の類似に目をつけ、書き写し間違いの可能性を示唆します。

しかし、聖めに関する事であり、ここは聖書の記述の通りに、「ヒソプの枝」が用いられたと考えるべきでしょう。

ヒソプは、民を聖めるためにいられる、重要な意味を持つモノです。

レビ記144節、旧約聖書、2017版は200ページ、第三版は194ページ、「14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。14:5 祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。14:6 そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。14:7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す」のです。

詩篇517節、旧約聖書、2017版は984ページ、第三版は955ページ、「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなります」です。

また、神の怒りを過ぎ越させるための、重要な意味を持つモノでもあります。

出エジプト記1222節、旧約聖書、2017版は119ページ、第三版は116ページ、「ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない」です。

19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。

完了した」は、旧約聖書の預言を全て成就し、贖いのわざを成し遂げた、勝利の宣言であり、決して、「やっと終わった」的な安堵感の意味や、断末魔の叫びの意味は、全くありません。

しかも、主体は常に、創造者にして、支配者なる神様であり、自分のなすべき事をし終えた、完成に漕ぎ着けた、終わった、の意味でもありません。

イエス様の、この世に来られた目的は、ここに完遂されたのです。

創造者にして、支配者なる神様に受け入れられる、完全な生贄が、今、献げられたのです。

イエス様は「頭を垂れ」、即ち、この世の働きを全て終えた事の確証として「頭を垂れ」、ご自分を世に遣わされたお方に、父なる神様に、ご自身の「」をお渡しになられたのです。

【適応】

今日の、重要な聖句は、「すべてのことが完了したのを知ると」「「完了した」と言われた」であり、この関係です。

完了した」の宣言は、ご計画の立案者、ご計画の推進者であり、創造者にして、支配者なる神様であり、創造者にして、支配者なる神様の御子であっても、ご計画を全権委任されていても、イエス様ではありません。

御子イエス様の立場は、報告の義務があるだけで、「完了した」の判断は、宣言は、ご計画の立案者、ご計画の推進者であり、創造者にして、支配者なる神様だけです。

イエス様は、ご計画の立案者、ご計画の推進者であり、創造者にして、支配者なる神様の御子ですから、父なる神様の立てられたご計画と寸分違わず、ご計画を推進させ、完了する事が出来ますが、それと、完了したか否かの判断と、宣言とは別です。

完了したか否かの判断と、宣言は、ご計画の立案者、ご計画の推進者であり、創造者にして、支配者なる神様の専権事項です。

何人も、これを侵す事は出来ません。

そして、先に、聖書の理解に付いて触れましたが、聖書理解においても、聖書の本当の筆者である、創造者にして、支配者なる神様を差し置いて、理由付け、断定的な判断をしてはならないのです。

聖書は、聖書で理解すべきであり、それを補助するのが、注解書や辞典(ことば)、事典(こと)、そして説教や、奨励です。

あくまで補助であり、聖書の真の理解は、罪人である我々には無理である、との態度が重要です。

けれども、創造者にして、支配者なる神様の憐れみによって、真理の一端を垣間見る事が許されているのであり、創造者にして、支配者なる神様の恵みによって、奥義の一端を知る事が許されている、のであり、聖書を完全に理解出来ず、聖書の教えに完全に従えなくても、創造者にして、支配者なる神様が祝福してくださるのです。

旧約聖書に、ヨブと云う人物が登場します。

2017版は875ページ、第三版は849ページ。

全部で58ページ程ありますから、極々簡潔にまとめ、紹介します。

ヨブは、大富豪でしたが、驕らず、高慢にもならず、創造者にして、支配者なる神様を畏れ、敬い、出来得る限りの聖さ、正しさを追求する生活を続けて来ました。

子どもたちが、万が一もの罪を犯した時のためにと、定期的に罪のための生贄を献げ、自身も、落ち度のない生活を続けて来ましたが、ある日、突然の不幸が続けざまにヨブを襲います。

次々と家畜を全部失い、一瞬にして子どもたち全員を亡くし、自身も重い皮膚病に罹ってしまいます。

自分は、創造者にして、支配者なる神様に対して、落ち度なく、完璧に生きて来たのに、と嘆き、何時しか不満を呟くようになります。

神様が分からない。

何故、どうして、応えてくださらない、教えてくださらない、示してくださらないと呟き、三人の友人たちの、ヨブに対する非難めいたことばに刺激され、ヨブは、神様を非難することばを発してしまうに至るのです。

延々と問答が続きますが、四人目の友人に諭され、最後に、創造者にして、支配者なる神様の御介入があって、ヨブは自身の小ささ、無知、無思慮を痛感し、悔い改め、創造者にして、支配者なる神様は、理解の対象ではなく、主人であり、一方的に従う対象である事を悟り、創造者にして、支配者なる神様との新しい関係に入ります。

創造者にして、支配者なる神様を理解して従うのではなく、創造者にして、支配者なる神様を信頼して従うのです。

しかも、創造者にして、支配者なる神様は、横暴な主人ではなく、非情な支配者でもなく、厳しい主人でもなく、情け容赦のない支配者でもありません。

私たちを愛し、憐れみ、慰め、守り、導き、最善を為してくださるお方なのです。

そして、最後の最後まで、徹底的に導いてくださり、責任を持ってくださるのであり、だから安心して従えるのであり、完全に委ねられるのであり、最後の最後の瞬間まで、平安でいられるのです。

イエス様はいのちを献げると云う大役を果たしましたが、気負いもなく、決死の覚悟もなく、悲壮感もなく、厭世感もなく、ある意味、淡々と、粛々と十字架に向かわれたのであり、いのちを引き渡されたのです。

そして、「すべてのことが完了した」との、創造者にして、支配者なる神様の承認を受けて、イエス様も「完了したと、復唱されたのです。

私たちも、このイエス様の従順、謙卑に倣い、創造者にして、支配者なる神様の承認を受けるまで、創造者にして、支配者なる神様から与えられた、キリスト者としての使命、聖書の教えに徹底的に従い、創造者にして、支配者なる神様を愛し、人を愛する生き方を全うしようではありませんか。

それは、自己犠牲が伴い、耐え忍ばなければならない部分もありますが、決して、苦しいだけの、辛い日々の連続ではなく、喜びと、感謝に溢れ、平安が約束されている生き方です。

最後には、創造者にして、支配者なる神様から「よくやった、良い、忠実な僕だ」、「あなたは与えられた使命を立派に果たした、完了した」との、最高の評価が頂ける生き方なのです。

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                               2019-6-2礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書1925節~27

説教題:「イエス様の処刑・・・新しい親子の関係」

【導入】

イエス様は、この世で如何なる罪も犯してはいません。

ローマ帝国の法を犯す行為をも、ローマ政府に対する違法行為をも、総督ピラトに対する敵対行為をも、何人に対しても、一切の罪を犯していません。

また、ユダヤ教の律法や戒律、伝承に対する違反行為、創造者にして、支配者なる神様に対する一切の罪も犯してはいません。

しかし、イエス様の言動の真意を知らないと、イエス様がユダヤ教の律法や戒律、伝承に対する違反行為を行なっていると、創造者にして、支配者なる神様に対して、不敬を犯していると、そして、人々を悪しき方向に誘導していると見えた事でしょう。

それでも、これはユダヤ社会の伝統でもありますが、本人の告白、弁明を詳しく調べれば、決して、ユダヤ教の律法や戒律、伝承に対する違反行為を犯していない事、創造者にして、支配者なる神様に対して、如何なる不敬をも犯していない事が理解出来たはずです。

しかし、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、イエス様の告白、弁明に対して聞く耳を持たず、一切受け入れず、無視をし、死刑ありきの裁判を、強引に推し進めます。

誘導尋問し、言葉尻を掴んで、強引に有罪とし、十字架刑に処する事を決めてしまいました。

そして、蛇蝎のように嫌悪していたローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトを利用し、イエス様を葬り去ろうとします。

ローマ帝国、ローマ政府、総督ピラトの了解を得るために、このイエスという男は、ローマ帝国を転覆させ、王となろうとしている、と訴え出ます。

しかし、総督ピラトは、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちの訴えには、根拠がない事、妬みからの訴えである事を見抜き、イエス様を無罪と宣言し、解放する事を、宣言します。

それでも、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちへの配慮、忖度で、イエス様を鞭打ちの刑に処したのです、

それにも屈しない、ユダヤ教宗教指導者たち、祭司たち、律法学者たちは、イエス様の罪は、ローマ皇帝に対する侮辱罪、反逆罪であると、嘘の罪をでっち上げ、ローマ皇帝テベリオの疑い深い性格を利用して、総督ピラトのウィークポイントを突きます。

そして、ついに、総督ピラトは、イエス様を十字架にかける事を宣言し、ローマ兵に委ねます。

そして今、イエス様は、ローマ兵の手によって、十字架に架けられてしまったのです。

【本論】

新改訳2017版 19:25イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリヤとマグダラのマリヤが立っていた。

この様子を、マタイの福音書は次のように記しています。2755節、562017版、第三版共に62ページ、「また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。27:56その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子たちの母がいた」です。

マルコの福音書は次のように記しています。1540節、2017版は104ページ、第三版は102ページ、「女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、サロメがいた」です。

マタイの福音書、マルコの福音書共に、イエス様の母マリヤについて言及していません。

理由は分かりませんが、云うまでもない事なので、言及しなかったのではないでしょうか。

マグダラのマリヤ」に付いては、三つの福音書に共通していますので問題なしですが、

十字架のそばに・・・立っていた」女性と、「遠くから見ていた」女性が同一なのは、ちょっと不自然でしょう。

しかし、時間経過を考えに入れれば、問題は解消しそうです。

しかし、ヨハネの福音書の「イエスの母の姉妹」と「クロパの妻マリヤ」、マタイの福音書の「ヤコブとヨセフとの母マリヤ」と「ゼベダイの子たちの母」、マルコの福音書の「小ヤコブとヨセの母マリヤ」と「サロメ」、の関係性、同一人物であるか、否かについては、中々手強く、新聖書辞典で「クロパ」、「サロメ」、「マリヤ」を調べてみましたが、「これ」と自信を持って断言出来る、正確なところは分かりませんでした。

ヨハネの福音書は、ヨハネの視線で「十字架のそばに・・・立っていた」女性の名前をリストアップし、マタイの福音書とマルコの福音書は、マタイとマルコ、それぞれの視線で「遠くから見ていた」女性の名前をリストアップしているので、同一人物を表していると考えるのではなく、また、相互の関係性は薄い、と考えるのが自然なのかも知れません。

ここに限らず、聖書の記述の、無理な辻褄合わせは、控えるべきでしょう。

尚、ルカの福音書は、女性たちについては言及していませんが、この差は、違いは、間違いによる差異ではなく、一つの出来事を、多角的に見た結果の差異であり、事実を、より立体的に見るための、正しく、知るための差異と考えなければなりません。

19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。

愛する弟子」が誰であるかについては、諸説ありますが、ヨハネの福音書の著者であるヨハネであろうとの説が、教会の歴史の中で支持されているようですので、私たちもこの説で話しを進めたいと思います。

ご参考までに諸説を紹介すると、イエス様が甦らされたラザロである、マルコの福音書に登場する富める青年である、他の知られていない弟子である、などがあります。

さて、「イエス様の母」と「愛する弟子」とは、ここで初めての「ご対面」ではないでしょう。

何度か会っており、或る程度は、気心知れた仲だったのではないでしょうか。

初対面同士の者に、いきなり、ではなく、何度か会っていて、重要な事を紹介する、案件を依頼する、が順当な手順ではないでしょうか。

女の方」との表現には、現代に生きる、私たちは違和感を禁じ得ませんが、ユダヤの、当時の文化であり、特別奇異な言葉ではありません。

逆に、礼節の意味を持った言葉、表現であり、母に対する礼儀を込めた、呼び掛けなのです。

この「女の方」との言葉は、カナの婚礼を思い出します。

ヨハネの福音書24節、2017版は178ページ、第三版は175ページ、「すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」」です。

カナの婚礼のタイミングでは、イエス様とイエス様の母との関係は、普通の肉親の関係、普通の親子の関係でした。

イエス様の母は、息子の助けを求めて、イエス様に窮状を訴えましたが、イエス様は、この世の困難、窮状を解決するために来られたのではなく、人間の罪の問題という、究極の問題解決のために来られたのであり、その意味で、まだ、「わたしの時はまだ来ていません」なのです。

しかし、今、「時が来た」のであり、イエス様とイエス様の母との関係は、新しい関係に入ったのです。

血縁関係や、同情心に基づく、単なる人間的な交わりとは、根本的に異なる関係が始まったのです。

新しい関係は、イエス様とイエス様の母との関係のみならず、であり、イエス様と人類との関係が、人間と人間の関係が、新しい関係に入るのです。

19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

イエス様が十字架に付けられ、人間の罪の贖いが完成すると、イエス様を中心とした、十字架を中心とした交わりが生まれ、始まるのです。

罪が解決されないと、小さな違いを、大きな差として認識し、優劣、貧富、地位などなどが、絶対的な力を持っているかのように、錯覚し、人間関係、夫婦関係、親子関係、友人関係を歪めます。

罪が、イエス様の死によって解決されてから、新しい交わりが始まるのです。

この交わりの特徴は、イエス様が、私たち、人間のために死んでくださった事の故に、互いに兄弟姉妹であると云う意識によって、結び合わされている交わりです。

横の「交わり」であって、上下関係や依存関係の結び付きではありません。

対等な「交わり」であって、同情心や利害関係の結び付きではありません。

「兄弟姉妹」と表現しますが、兄や姉が上で、弟や妹が下の関係ではありません。

父や母が上で、子どもが下の関係でもありません。

夫が上で、妻が下の関係でもありません。

経営者が上で、従業員が下の関係でもありません。

牧師が上で、信徒が下の関係でもありません。

全ての人間は、イエス様を頂点として、誰もが同じ距離で繋がっているのであり、イエス様に近い人間も、遠く離れた人間もありません。

イエス様を中心として、皆、平等、対等なのです。

勿論、経験、得手不得手、老若男女、貧富、働きの違いなどなどがありますが、違い、即ち、個性であり、差、即ち、優劣、上下ではありません。

経験豊富な者が、未経験者を侮ってはならないし、上手に出来る者が、上手く出来ない者を馬鹿にしてもならないのです。

裕福な者が、驕り高ぶってはならないし、貧しい者が、卑下する必要もありません。

能力がある、多くの金品を持っている、と云っても、信仰深い、信仰を持ったばかり、と云っても、神様の目から見たならば、能力の差も、貧富の差も、信仰暦も、僅かでしかないのであり、何の意味もないのです。

27節、28節は、新しい親子関係の樹立の宣言であり、新しい兄弟関係の樹立の宣言であり、イエス様を中心とする、新しい人間関係樹立の宣言です。

違いは、役割の違い、働きの違いであり、秩序を保ち、維持する上で必要ですが、役割の違いは、決して、上下関係の差ではないのです。

また、27節、28節は、新しい扶養関係のお勧めではありません、

現代も、親族が中心、主体となって親族の世話をしますが、イエス様の時代も、現代と同じであり、イエス様には四人の弟と、少なくとも二人の妹がいましたが、イエス様は、ご自身の弟妹を蔑ろにしたのでも、当時の秩序を否定したのでもありません。

自分のところに引き取った」の意味は、「自分の家屋に、住まいに引き取った」の意味ではなく、

主イエスの愛された弟子と、その家族と、友人たちの保護の下に移された」の意味で理解しなければなりません。

物理的、経済的に、主イエスの愛された弟子の扶養家族になったのではなく、霊的な、教会的な、キリスト者の交わりに移された、の意味なのです。

しかし、困窮している人に対する援助を否定し、親族が扶養の負担を全て負うべき、と言っているのでは、断じてありません。

教会は、本当の寡婦(やもめ)、孤児(みなしご)を養わなければならず、未信者にも、敵対者にも援助の手を控えてはならないのです。

さて、教会の交わりは、霊的な、対等、平等な共同体としての交わりであり、イエス様を中心とした交わりであり、依存関係、扶養関係、福祉、奉仕が目的ではないのです。

イエス様を中心とした霊的交わりがあってこそ、福祉的な働きや奉仕が生きるのであり、喜びとなるのです。

また、依存関係や、扶養関係があったとしても、それが負担になったり、負い目になったりする事が防げるのです。

【適応】

この世の親子の関係は、兄弟姉妹の関係も、「罪の力」が強く影響し、扶養関係、保護関係、主従関係、従属関係に、悪しき影響を与えます。

勿論、教会の中の信徒同士の関係も、牧師と信徒の関係にも、「罪の力」が強く影響しますが、それを上回るのが、イエス様が与えてくださる「愛と赦し、受容と寄り添い」の力です。

罪を持つ者、同士の交わりであり、罪人の力では、イエス様の願われる交わりを持つ事は出来ません。

しかし、イエス様の十字架により、罪を赦された者、同士の交わりに変わり、イエス様に受け入れられた者、同士の交わりとなり、イエス様に赦された故に、赦し合う交わりとなり、イエス様に受け入れられた故に、受け入れ合う交わりとなるのです。

イエス様に寄り添われた故に、寄り添う交わりとなるのです。

当時の社会構造を考えた時、イエス様の母親が、ユダヤ宗教指導者たちの指示で爪弾きにされ、ユダヤ社会から交わりを断たれる可能性は大です。

ユダヤ社会からの追放は、非常に厳しい生活となるでしょう。

その時、居場所が提供される事ほど、喜ばしき事はないのではないでしょうか。

寄り添ってくれる者の存在は、何よりの励ましなのではないでしょうか。

テモテへの手紙第一51節、2017版は422ページ、第三版は410ページ、5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、5:2年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい」です。

勧めなさい」と訳されているギリシャ語は、「諭す、懇願する」などの意味と共に、「慰める」の意味を持つ言葉です。

「慰める」の意味を、もう少し、広く解釈するなら、「寄り添う、交わりを持つ、」ではないでしょうか。

現代は、非常に複雑な社会になっており、ニート、引きこもり、不登校、鬱、などなど、生きるのは簡単、普通の事ではなくなってきています。

そんな時、寄り添い、交わりを持ってくれる存在は、何よりであり、イエス様の生き方が、まさに、寄り添い、交わりを持ってくれる生き方でした。

イエス様は、母親に、愛する弟子に、そんな生き方を命じられたのであり、母親、愛する弟子のみならず、十字架のそばに居た女性たちにも、遠くから見ていた女性たち、弟子たちにも、命じられ、現代の私たちにも、命じられているのです。

教会の役に立つ人を受け入れ、寄り添うのではなく、社会から爪弾きされている人を受け入れ、寄り添うのです。

これは、宣教と共に、教会の重要な使命です。

ここにおられる皆様が、イエス様の霊的資産、弱者を受け入れ、寄り添う生き方を引き継ぎ、イエス様の教え、聖書の教え、「神を愛し、人を愛する」事を実践する一員となる事を願ってやみません。

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