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                                                                     2019-7-28礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書2024節~29

説教題:「トマスのために現れたイエス様」

【導入】

世の中には、色々な集まりがあります。

目的は明確だが、時期もばらばら、不特定多数が集まる、自由な集まりもあれば、例えば、絵画や映画鑑賞とか、イベントへの参加などがあり、連絡を取り合って、一緒に集まり、何かをする集まり、例えば、ボランティア活動とか、BBQ大会とかがあります。

教会もその一つであり、イエス様を主と仰ぐ人々の集まりであり、礼拝のために集まります。

礼拝は連絡を取り合うまでもなく、時間やプログラムが決められていますが、特別集会などでは、集まれる人々で時間やプログラムが決められ、それに則って準備をし、活動する訳です。

ですから、集まれなかった人々のためにも、活動記録のためにも、議事録が重要になるのですが、議事録の形式をとらなくても、メモは残しておくのが、後々のためです。

大した事を決めるのではないから思って、記憶に頼っていると、抜けや漏れが生じ、齟齬が生じ、困った事になりかねません。

時には、何か明確な目的や、具体的な計画がなくても、情報交換や親睦のために集まる場合もありますが、それらの時、連絡が届かなかったりして、結果として除け者にされてしまったりしたならば、非常に悲しい思いを味わう事になるでしょう。

そんな思いを味わわせないための配慮が必要な事は、説明するまでもありませんが、漏れやミスは付き物ではありますが、仕方がない、では済まされない場合もあります。

また、偶然や諸事情が重なり、関係、影響し合って、結果として除け者になってしまう事もあり、特に、過ぎてしまった事は、終わってしまった事はどうしようもありませんが、時には、特別な対応をする場合も、必要性がある場合もあるでしょう。

復活のイエス様に会うと云う事は、単なる慰め、喜び以上の意味があります。

イエス様の復活は、これからの宣教、伝道の働きの、根幹であり、想像を伝えるのではなく、事実を伝えるのであり、復活されたイエス様の事を、明確に語れるか否かに繋がります。

特に、初期の宣教、伝道には、復活のイエス様と会う事が必要です。

何故ならば、「新約聖書」と云う宣教、伝道ツールがなかったからであり、「聖霊」が送られていなかったからです。

イエス様は、初期の宣教、伝道の働きを、どのように弟子に委ねられるのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

イエス様復活の日、日曜日に、「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマス」は、他の弟子たちとは別行動を取っていました。

全く個人的な理由なのか、弟子たちに代わっての別行動なのか、弟子たちを代表しての別行動なのか、その理由を、聖書は記していませんが、弟子たちは皆、ユダヤ教宗教指導者たちからの迫害や訴追を恐れて、隠れ家に隠れていたのであり、ひっそりと息を潜めていたのであり、不要不急の外出は控えていたはずです。

それでも、トマスには、外出する必要があったのでしょうが、そのために、トマスは、復活のイエス様に会うと云う、稀有なチャンスを逃してしまったのです。

皆を代表とする別行動であるならば、トマスの責任には帰せません。

教会の活動や働きなどは、基本的に「強制」や「皆で均等に分担」ではありません。

誰かが大きな負担や、損な役回りを引き受けざるを得ないならば、本人の納得と、合意を確認する必要はあるでしょうし、特別な配慮が必要でしょう。

教会の活動や働きの基本は、自主的判断、自発的決断であり、ご本人とイエス様との、祈りの結果と、ご本人の意思を尊重しなければなりません。

誰かの命令があり、トマスは渋々外出していたのであってはならない、と云う事です。

或いは、誰かがトマスに忠告を与えたが、トマスが自己判断、決断、強い意志で外出したのであれば、それを認めなければならず、それはトマスの人格の尊重であり、トマスの意志は最大限尊重されなければならない、のです。

教会の指導者は、忠告や意見は述べますが、決めるのはご本人です。

勿論、罪を見逃しにするとかではなく、罪である事を指摘し、止めるように強く勧め、悔い改めを促しますが、この時に、パワハラと取られかねない言動が合ってはならず、自主的判断、自発的決断を促すのであり、決めるのはご本人です。

父なる神様が、非常に良いお手本を示してくださっています。

父なる神様は、サタンの誘いで、エバが父なる神様との約束を破ろうとする時、また、エバの誘いで、アダムが父なる神様との約束を破ろうとする時、御使いを送って止めたり、直接ご介入して止めたりはなさらないのです。

明確な約束を示し、与えただけで充分なのであり、エバの判断や行動を尊重し、見守っていたのであり、アダムの判断や行動を尊重し、見守っていたのであり、傍観していて、エバやアダムに罪を犯させたのではありません。

父なる神様は、人間の人格や判断、決断、意志を最高に尊重されるお方であり、強制は一切なさらず、決して罪の助長者ではありません。

尚、「デドモ」とは「双子」の意味であり、「十二弟子」については、マタイの福音書102節、マルコの福音書36節、ルカの福音書613節、使徒の働き113節、に名前が記され、「トマス」の名前も記されていますので、後でご確認願いましょう。

20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

復活のイエス様との出会いは、衝撃的、感動的であったが故に、弟子たちの報告には、熱が入り、興奮しての、口角泡を飛ばす報告になった事は、容易に想像出来ましょう。

弟子たちの報告を聞いて、外出中だった、不在だった「トマス」は、どれ程、がっかりし、悔しかった事でしょうか。

自分の判断で外出したとしても、命令に従ったが故の外出であったにしても、復活のイエス様に、自分だけが会えなかったと云う事に、自分を納得させる事は出来ないでしょう。

そんな「トマス」に配慮する事のない、弟子たちの報告は、余計「トマス」を苛立たせたのではないでしょうか。

弟子たちの報告は、悪意なく、自慢気にでもなく、これ見よがしでもなかったでしょうが、興奮冷めやらずの中での報告であり、過ぎたるは及ばざるが如し・・・であり、「トマス」に不快感を与えてしまったのです。

トマス」はいたたまれずに、不満を口にしますが、「トマス」は決して懐疑主義者だった訳ではありません。

トマス」は悔しさから、先に復活のイエス様に会った弟子たち以上の事、先に復活のイエス様に会った弟子たちとは違う事を求めたのであり、復活のイエス様に触る事を求めただけなのです。

皆と同じではなく、それ以上を求めるのは、過剰な要求であり、少しでも、人とは違う扱いを受けたいと云う優越意識の現われでしょう。

20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

八日後」は、この場合、一週間後の日曜日と考えられます。

過越の祭も終わり、エルサレムに集まった人々が、其々自分の町に帰りつつあり、エルサレムの町の喧騒も静まり、エルサレムの町に静けさが戻りつつある中ですが、何もかもが、平常に戻った訳ではありません。

弟子たちは、ユダヤ教宗教指導者たちを恐れて、隠れ家に集まり、ユダヤ教宗教指導者たちから差し向けられる役人の足音に怯え、隠れ家に鍵を掛けて静まっている中、復活のイエス様が現れます。

そして、「平安があなたがたにあるように」と仰せになられますが、これは三度目です。

前回もお話したように、「平安があなたがたにあるように」はユダヤ人の間で交わされる、普通の挨拶ですが、イエス様の口から発せられる時は、意味が変わります。

平安があなたがたにあるように」とは、願いのことばではなく、「平安があなたがたにあるように」とは、宣言のことばである、と云う事です。

そして、創造者にして支配者なる神様の独り子、御子イエス様の宣言であるが故に、既に現実となっている、と云う事です。

希望でもなく、将来の事でもなく、現実に「平安があなたがたにある」のです。

更に云うならば、この宣言は、トマスに聞かせるためであり、トマスのためだけに、復活のイエス様は現れてくださったのです。

そして、復活のイエス様はトマスに声を掛けられます。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

復活のイエス様は、トマスが、復活のイエス様の手をまじまじと見る事と、手と脇腹の傷とに触る事とを許されます。

トマスの不信仰を嘆く事なく、トマスの懐疑主義的発言を咎める事もなくです。

復活のイエス様に対する信仰は、熱心や激情からではなく、強制や誘導からでもなく、皆で渡れば怖くない的な乗りでもありません。

冷静な状況把握と、自己判断からです。

しかし、これは、疑問の全てが解消したら信じる、の意味ではありません。

疑問は疑問として残しつつ、何時か、御子イエス様がお示しくださる、聖霊様が教えてくださる、天国で全てが明かされる、との「信頼」で乗り越えるのです。

トマスの願いは、復活のイエス様に会ったと云う、興奮した仲間の話で信じるのではなく、仲間の話に調子を合わせて、疑問を感じながら信じるのでもなく、自分で判断し、信じたい、との素朴な願いであり、そんな、トマスの真実を追究する願いを、復活のイエス様は無碍にはしません。

そんな、トマスに寄り添う、復活のイエス様の、暖かい眼差しと、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」との勧めのことばに触れて、トマスの疑問や、仲間より優位に立ちたいと云う自我は砕かれ、素直な告白のことばを発します。

20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」

この「私の主。私の神よ」と全く同じ表現は、旧新約聖書中にはなく、「私の主」単独での表現は、53回、「私の神」単独での表現は、94回登場します。

私の主。私の神よ」に似た表現として、ダニエル書94節、2017版は旧約聖書1525ページ、第3版は1465ページに、「私は、私の神、主に祈り、告白した」との表現があり、使徒の働き2723節、2017版は新約聖書292ページ、第3版は285ページに、「昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って」との表現があります。

私の主」と「私の神」は、似て非なることばです。

私の主」は、「私の主人」の意味であり、従う事が前提となる告白ですが、「私の神」は、「私が神とするのは」「私にとっての神は」の意味であり、従う事を前提とはしていません。

トマスは、復活のイエス様を見て、単に、「師と仰ぎ、敬愛したイエス様」ではなく、「私の神であり、私の主人であるお方」と告白したのです。

信仰告白の真髄を明確に表明する告白であり、お手本的表現、告白なのです。

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

イエス様のことばは、決してトマスを非難することばでもなく、譴責のことばでもありません。

また、見たならば、信じるのが当然である、と言っているのでもなく、見ないで信じる人たちの決断や判断を、褒めているのでもありません。

見ても信じないのが、受け入れられないのが、罪人の性であり、見ないで信じる、と云う事は、罪人には出来ない事であり、イエス様に導かれなければ、決して、イエスの復活を認める事も、「私の主、私の神」と告白する事も出来ないのです。

そして、イエス様と会う事の出来ない人々が、イエス様が復活されたと信じるためには、

見ないで信じるためには、聖霊に導かれなければならないのであり、聖霊が内住され、聖霊に導かれた人だけが、見ないで信じるのです。

ですから、「見ないで信じる人たち」とは、聖霊が内住され、聖霊に導かれた人々であり、聖霊が内住され、聖霊に導かれる事が、最高の「幸い」なのです。

イエス様は、決して、人間的な判断や、決断を褒め、奨励しているのではありません。

【適応】

今日の説教題は、「トマスのために現れたイエス様」としましたが、この「トマス」のところにご自分のお名前を入れても、全く問題ありません。

勿論、この肉体の目に見える形で、復活されたイエス様が現れる事は、聖書の整備された今となっては、聖霊様が主体的に、私たちと関わられる今となっては、起こる可能性は非常に低いですが、絶対にない、とは断言出来ません。

イエス様は、信仰がなくならないように取り成してくださり、働いてくださっています。

そして、必要とあれば、目に見える形となって現れてくださるでしょう。

6年前に召された、私の友人牧師は「イエス様を見た事がある」と言っていました。

「ほぉぉ」との感想を持ちましたが、特別、疑いを持ちもせず、私も見たいとも思いませんでした。

この世界は、創造者にして支配者なる神様が、常に関心を持っておられ、御子イエス様も、聖霊様も、関わり続けておられ、決して断絶してはいないのですから、御子イエス様が現れても、或いは、御使いが現れても不思議ではないのです。

必要なら現れて下さるでしょうが、単なる興味や自己満足が理由であるなら、また、信仰の度合いを確認しよう、信仰深さをひけらかそうなどの魂胆があるなら、御子イエス様が応じられる事はないでしょう。

肉体の目で、御子イエス様を見る事は、「まずない」と言い切る事が出来るでしょう。

それでも、はっきり断言出来る事は、「あなたのために、あなたが救われるために、あなたの罪が赦されるために、イエス様は、この世に現れてくださったのだ」と云う事です。

御子イエス様は、あなたの心を満足させるために現れる事はないでしょうが、創造者にして支配者なる神様の御こころを行なうために、この世に、現れてくださり、御子イエス様の御こころを行なうための必要から、トマスに現れてくださいました。

あなたについては、あなたの救いのために、あなたの罪が赦されるために、一度、この世に現れてくださったのであり、それで充分であり、更なる現れを願うのは、御子イエス様の喜ばれる事ではありません。

御国で会える望みがあるのであり、待つ楽しみこそ、と云う事ではないでしょうか。

トマスのために現れて下さった御子イエス様は、あなたのために現れてくださったのであり、あなたが救われるために、あなたの罪が赦されるために、現れてくださったのです。

あなたは、創造者にして支配者なる神様から愛され、御子イエス様に愛され、聖霊様が住まわれ、聖霊に導かれる、最高の「幸い」の中に置かれているのです。

この幸いを喜び、感謝しようではありませんか。

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                             2019-7-21礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書2019節~23

説教題:「弟子たちの前に現れたイエス様」

【導入】

昨今、悲惨なニュース、驚愕を覚えるようなニュースが報道されています。

国内だけでなく、国際的にもキナ臭いニュースが飛び交い、自国の利益しか考えない姿勢は、対話を拒否する強硬な態度は、悲しさを通り越して、憤りさえ覚えるのは、私だけではないでしょう。

マグダラのマリヤのもたらした、イエス様のご遺体がなくなっている、との報告は、弟子たちを、信徒たちを驚愕させた事でしょう。

マグダラのマリヤの報告は、信じられない報告であり、誰が盗んだのだろうか、大祭司、祭司長たちだろうか、何かを企んでいるのだろうか、まさかポンテオピラトではあるまい、云々・・・。

弟子たちは、信徒たちも、報告したマグダラのマリヤ自身も、イエス様のご遺体がなくなっていた事を、イエス様の復活と関連付けては、全く考えてはいなかったのです。

シモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子は、自分たちのところに、即ち、仲間の弟子たちや信徒たちの集まるところ、隠れ家に帰って行きましたが、マグダラのマリヤは、自分の意志で墓場に残ったために、復活されたイエス様に最初に逢う、と云う特別な恵みを味わい、弟子たちに知らせる、と云う特別な使命を授かるのです。

何の考え、意志もなく、人に追従し、人に付いて行けば、安心、何とかなる、との考えは子どもの考えであり、弟子の、信徒の取る対応ではありません。

特別な恵みを味わい損ね、特別な使命を果たし損ねる事になってしまいます。

父なる神様の選びは、不思議です。

特別な恵み、特別な使命は、秀でた者に与えられるのではなく、即ち、有能な者、優秀な者、元気な者、若者などなどが選ばれるのではなく、選ばれるべく行動した者、この場面では、墓場に残る事を選んだ者に与えられたのです。

その、マグダラのマリヤのもたらした新たな報告も、弟子たち、信徒たちには理解出来ず、次なる行動には繋がりません。

復活の理解の難しさは、イエス様から直接、復活の事を聞いた弟子たち、信徒たちでさえも、であり、宣教の難しさは当初からであり、人々が福音を受け入れる事を阻みます。

イエス様は、弟子たち、信徒たちとどのように関わられるのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

その日、すなわち週の初めの日」とは、日曜日の事です。

キリスト教会が日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を守るのは、この復活されたイエス様の現れと、弟子たちとの出会い、これを「顕現」と言いますが、イエス様の弟子たちが、復活されたイエス様との出会いを大切に考え、記念するからです。

そして、このイエス様と弟子たちとの出会いは、「弟子たちがいたところ、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」ところで行なわれたのです。

即ち、隠れ家で行なわれたのであり、秘密裏に行なわれたのであり、密閉されたところで行なわれた事に注意しなければなりません。

最初の礼拝は、「隠れ家で行なわれた」のであり、一般的な意味での、広い意味での「教会や礼拝堂」ではありませんでした。

即ち、場所の問題ではなく、集まる人たちに意味がある、と云う事です。

立派な教会堂、設備の整った礼拝堂は、必ずしも必要ではなく、イエス様を信じる者が、イエス様を中心に集る事が重要なのです。

立派な教会堂でも、御ことばが語られなければ、意味はありません。

イエス様を信じる者たちが集まっても、人間が中心になっていては問題です。

常に、イエス様が中心であり、秩序を保つ上での必要から、牧師などの霊的指導者が立てられますが、牧師が中心ではありません。

しかし、牧師を差し置いて、一信徒が指示、采配を振るうなら、教会は混乱の極みに達するでしょう。

そんな教会に、イエス様の栄光は現れません。

次に、最初の礼拝は、「秘密裏に行なわれた」のですが、これは秘密結社の意味ではありません。

礼拝は、弟子たち、信者たち、求道者たちとで献げるのであり、人数稼ぎで、献金を当てにして、誰でもどうぞ、ではないのです。

勿論、誰にでも開かれてはいますが、それでも、「キリスト教の事、イエス様の事をよく知りたい、深く知りたい」、「イエス様に従いたいが、どうすればよいのだろうか」などなどが動機である必要があります。

入信する気は全く、更々、これっぽっちもないけれども、拝んでおいて損はないだろう的な考えで来る方には、適度に関わっておいた方が得策だろう的な考えで来る方には、罰が当たると困るから、邪険にはしない、的な考えで来る方には、慎重に対応しなければなりません。

エズラ記41節、旧約聖書、2017版は820ページ、第3版は798ページ、

4:1 ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々がイスラエルの神、主のために宮を建てていると聞いて、

4:2 ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て言った。「私たちも、あなたがたと一緒に建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めたいのです。私たちをここに連れて来たアッシリヤの王エサル・ハドンの時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを献げてきました。」

4:3 しかし、ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。ペルシヤの王キュロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりです」なのであり、経済的理由などなどで、未信者に頼ってはならず、助けてもらう必要はないのです。

父なる神様が、助けてくださるからです。

争いや問題が起こった時、知識や経験があるからといって、未信者を裁判官に立ててはならないのです。

裁は、父なる神様に委ねるべきです。

この事は、コリント人への手紙、第一、61節、新約聖書、2017版は333ページ、第3版は323ページ、に詳しく記されていますので、興味のある方は後でお読み願います。

次に、最初の礼拝は、「密閉されたところで行なわれた」のですが、これは礼拝の基本です。

教会のスタンスは、「オープン」であり、求める者全てに開かれていますが、この世と関わりながらでは、本当の礼拝は献げられません。

一定の時間、期間、この世と断絶しなければなりません。

テレビやラジオの音が聞こえて来ては、スマホや携帯の着信音が鳴り響くようでは困ります。

今は、選挙期間中で、街宣音が説教の邪魔をしますが、落ち着いて礼拝に集中するために、出来れば、遮音された礼拝堂であると申し分ないでしょう。

ここで確認しておきたいのは、子どもの泣き声などを理由に、子どもたちを礼拝から締め出してはならない、と云う事です。

この世の喧騒と、子どもの泣き声を混同してはなりません。

どうしても泣き止まない時に、落ち着くまで礼拝堂の外に出る事があっても、落ち着いたなら戻ってくるべきであり、親子一緒の礼拝こそ、祝福される礼拝です。

そもそも、礼拝の目的は、派遣のためであり、この事を踏まえるなら、子どもの泣き声は、たいした問題ではなくなりましょう。

さて、音などの問題のほかに、午後の天気とか、今晩の献立とか、明日の仕事の段取りとかを考えながらの礼拝が、父なる神様や、イエス様の喜ばれる礼拝となり得るでしょうか。

考えるまでもない事でしょう。

そんな、隠れ家に、秘密裏の、閉鎖されたところに、イエス様が現れます。

鍵が掛けられた部屋に、イエス様はどうして入る事が出来たのでしょうか。

復活のお体であり、「霊体」のようなお体だったからではありません。

十字架で受けた手の傷、脇腹の傷がある「肉の体」ですが、創造者にして支配者なる神様の御子であり、願われるならば、被造物には一切の制限を受けないので、壁をすり抜け、何処にでも現れる事がお出来になられるのです。

そして、「平安があなたがたにあるように」と仰せになられます。

これは、ユダヤ人の、一般的な挨拶の言葉、定型句であり、父なる神様に平安を祈り願う言葉、定型句なのですが、父なる神様の御子、イエス様が発せられたのであり、イエス様ご自身が平安を与えられるのです。

これは、ヨハネの福音書1427節の預言の成就です。

2017版は215ページ、第3版は211ページ、

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

今までは、父なる神様に、お願いするしかなかったのですが、これからは、父なる神様の御子イエス様が、直接、永続的な平安を与えてくださる事となったのです。

マグダラのマリヤの言った通りに、復活されたイエス様を見ても、復活されたイエス様のことばを聴いても、弟子たちは呆然としています。

20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

弟子たちは、イエス様の「手と脇腹」の傷を見て、イエス様である事を確信しますが、これは、ヨハネの福音書1616節の預言の成就です。

2017版は218ページ、第3版は214ページ、

しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」です。

しかし、預言の成就である事は、聖霊の助けで理解されるのであり、この時点では、弟子たちは、預言の成就を自覚してなく、イエス様の復活が預言の成就である事も、充分理解してはおらず、イエス様を見て、ただただ単純に喜んだだけなのではないでしょうか。

20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様は、単純に喜ぶ弟子たちを前にして、再び「平安があなたがたにあるように」と仰せになられます。

平安を二度も宣言される理由は何でしょうか。

これは、イエス様が弟子たちの前に現れた理由でもあり、21節後半、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わ」すために必要だからです。

21節後半は、「派遣命令」と云う言い方が出来ますが、主日が制定された主たる目的の一つです。

礼拝は、御言葉に聴き、祝福を受け、世に遣わされ、福音を宣べ伝えるのです。

自分の中で収束してしまって、世に何の働きかけもせず、影響も与えずでは、礼拝の意味は半減してしまいます。

信仰を持ったばかりでも、幼い信仰でも、浅い知識でも、神学や教理を深く、充分理解していなくても、出来る事があるはずであり、誰もが、イエス様から送り出される、派遣される宣教師、伝道師、証人なのです。

あなたの家庭には、あなたの住む地域には、あなたの通う学校や職場には、牧師は入って行く事が出来ません。

だから、あなたが必要なのであり、御言葉によって整えられ、御言葉を蓄え、御言葉を携え、祝福を受けて、祝福を携え、祝福を届けるのです。

だから、礼拝で、説教を聴き、祝祷を受けるのです。

20:22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

そして、祝福を受ける事と劣らず、重要なのが「聖霊を受け」る事です。

広い意味での宣教、伝道、証の働きに、似た働き、活動は、出来るかもしれませんが、イエス様の意図する働きは、「聖霊を受けな」いでは、出来ない働きです。

宣教、伝道、証は、イエス様に派遣されての働きであり、神学や教理の知識があれば出来る働きではありません。

また、熱意や熱心、情熱だけで出来る働きでもありません。

神学や教理の知識とともに、熱意や熱心、情熱も必要ですが、それを生かすのは、「聖霊を受け」る事です。

全てにおいて、父なる神様と、御子イエス様が栄光をお受けになるためであり、父なる神様と、御子イエス様と、聖霊様が崇められるためです。

20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

そして、派遣されての働きは、弟子たち、使徒たちの使命は、罪の赦しを宣べ伝え、罪の赦しを宣言する事です。

それは、父なる神様との和解をもたらす事でもあります。

罪人と、父なる神様との和解以上の重大事があるでしょうか。

だから、これを「福音」、「良き訪れ」と言うのです。

その、この世で最高ともいえる働きを担っているのが、弟子であり信徒なのです。

その働きは、人間に委ねられていますが、宣言の権威は、父なる神様に依存している事忘れてはなりません。

「父と子と聖霊」の名によって、罪の赦しを宣言するのであり、この意味で、宣言者が誰であるかは、関係ありません。

関係ないと云うのは、牧師の宣言に優劣はない、との意味であり、また、過日、問題を起こし、除名された牧師であっても、赦しの宣言は有効であるとの意味であり、決して、誰が宣言しても良いと云う事を言っているのではありません。

手続きを経て、資格を有する者、即ち、按手を受けた牧師の専任事項であり、牧師不在、近隣の牧師とも連絡が取れないなど云う時、緊急の場合には、一刻を争う場合には、例えば、死にそうであるとかの時には、牧師の委任、承認を受けた者が、長老や役員が罪の赦しを宣言する事がありますが、勝手な判断で行なう事は、断じてあってはなりません。

【適応】

今日の説教題は、「弟子たちの前に現れたイエス様」としましたが、イエス様が弟子たちの前に現れた理由は、イエス様の死を悲しんでいる弟子たちに慰めや喜びを与えるためでも、指導者を失い、途方に暮れている信徒たちを励まし、立たせるためでもありません。

慰めや励ましは、求道者たちや信仰を持ったばかりの信徒たちの必要に応じてです。

弟子、信徒を自認するなら、慰めを受け、励ましを受ける事ばかりを願うのではなく、世の中の、罪に苦しむ人々、希望を失っている人々、打ちひしがれている人々、虐げられている人々に、福音を届けなければならず、また、寄り添い、慰めなければならないのです。

時には、励ます事もあるでしょうが、頑張って来て挫折した人には、励ましは逆効果になる場合もありますから、安直な励ましは控えなければなりません。

黙って、側に居てくれるだけで、何よりの励ましになる事もあると知らなければなりません。

罪の世に、罪の赦しと、福音、慰め、励ましを届ける働きのために、イエス様は弟子たちの前に現れて、平安を与え、息を吹きかけ、聖霊を受けるようにと命じられたのです。

父なる神様の御こころならば、何の問題が起こらない訳でも、何でもが、とんとん拍子に進む訳でもありません。

父なる神様、イエス様の御こころであればある程、父なる神様、イエス様に忠実であればある程、抵抗も大きく、様々な妨害や反対、迫害や嫌がらせ、誹謗中傷などなどが組織ぐるみで起こる事でしょう。

時には、模範的な弟子や、忠実な信徒が、父なる神様、イエス様にお仕えしていると固く信じつつ、妨害や迫害に加担している事もあるのです。

イエス様を迫害し、殺した、祭司長、律法学者、パリサイ人たちのように、イエス様を裏切った、イスカリオテ・ユダのように、イエス様を知らないと、呪いをかけて誓った、シモン・ペテロのようにです。

祭司長、律法学者、パリサイ人たちや、イスカリオテ・ユダやシモン・ペテロと、同じ過ちを犯さないためにも、イエス様から平安を与えられ、イエス様から聖霊を受けなければならないのです。

父なる神様、イエス様にお仕えする道は、茨の道です。

理解されない悲しみ、誤解される苦しみに気落ちし、逃げ出したくなる事もしばしばでしょう。

罪の赦しの宣言、福音の伝道は、常に不安が襲う使命だからこそ、非常に困難な使命だからこそ、イエス様から頂く平安が必要であり、聖霊を受けなければ出来ない働きなのです。

もう一度確認しますが、イエス様が弟子たち、信徒たちの前に現れた理由は、これは、礼拝の目的と言う事が出来ますが、弟子たち、信徒たちを罪の世に遣わすためであり、聖霊を与えるためであり、罪の世に、罪の赦しを宣言させ、罪の世と父なる神様との和解をもたらすためです。

イエス様に信任されての、使命であり、個人的な動機、熱心や情熱から、或いは、知識や知恵を生かしたい、などを動機とする使命感や、召命感とは区別しなければなりません。

この区別の判断は、父なる神様、イエス様による召しか否か、です。

これを知るのは難しい事ですが、第三者による、複数による人物評価で浮かび上がって来るのではないでしょうか。

最後に、イエス様から信任されての、使命ですが、皆に同じ働きが期待されている訳ではありません。

牧師には牧師の働きがあり、信徒には信徒の働きがあり、牧師経験数年の牧師と、多くの経験を積んだ教師とでは、働きは違います。

洗礼を受けて数年の信徒と、長年信仰生活を積んだ信徒とでは、働きは違います。

それでも、イエス様から平安を頂く点では、聖霊を受ける点では、同じなのです。

また、罪の赦しの宣言の権威も同じです。

ここにおられる皆さんは、教会に何を期待して来られたのでしょうか。

慰め、励まし、癒し、喜びでしょうか。

勿論、これらも大事ですが、イエス様の使命を担うために選ばれた方々であり、平安と聖霊を与えられ、罪の世に遣わされ、罪の赦しがある事、父なる神様との和解を知らせるためではないでしょうか。

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                                                                         2019-7-14礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書2011節~18

説教題:「復活のイエス様に最初に会ったのは誰」

【導入】

昨今、フェイクニュースが巷を賑わしていますが、嘘のニュースと、真実のニュースを見分けるのは、真実なニュースだけを得るのは、簡単な事ではありません。

(まこと)しやかな嘘があり、嘘のような真実とが混在するのが、この世です。

そこで、「人は信じられない」となり、「この眼で見たら信じる」とか、「この眼で見たものしか信じない」となるのですが、果たして、この眼で見たものは、或いは、この耳で得た情報は、真実を現しているのでしょうか。

自分だけしか信じられないとしても、その自分すら、信じるに足る存在ではないのです。

何故ならば、人は得た情報でしか、判断出来ないからであり、得られる情報には、制限があり、嘘と真実が混りあっており、悲しい事に、嘘を見破れないからです。

嘘に翻弄されたり、嘘で悲しい思い、辛い思い、嫌な思いをされた方は、引きも切らないのではないでしょうか。

意識的に嘘を吐くのはもっての外ですが、人は自己愛から、保身から、無意識に嘘を吐き、或いは、都合の良い辻褄合わせを行い、何時しか、その嘘はその人のうちで真実となってしまいます。

人は、人に騙され、惑わされ易いだけでなく、状況にも、情報にも、常識にも、文化や慣習にも騙され、惑わされ易いのであり、その事を自覚しなければなりません。

人は死んだなら、生き返る事はありません。

極、希に、蘇生する事がありますが、それは数時間の内の事であり、それでも異例中の異例であり、三日も経ってから蘇生する事は絶対にありません。

心臓が止まると同時に、脳細胞は死滅し始め、大腸、小腸などの内臓器では腐敗が始まります。

これは厳然たる事実であり、常識中の常識です。

イエス様の死は、経験豊かな死刑執行人が、確認しているのであり、心臓を槍で貫いて止めをさしているのです。

それを、皆が目撃し、確認しているのです。

四方(よも)や誰一人として、イエス様の死を疑う事などないのです。

ですから、マグダラのマリヤが墓を見ての判断は、「誰かがイエス様のご遺体を盗んだ」であり、マグダラのマリやのもたらした報告を疑うものは、誰一人としていませんでした。

シモン・ペテロと、イエス様が愛された弟子が、墓に走ったのも、「誰かがイエス様のご遺体を盗んだ」事の確認であり、復活を意識してはいないのです。

今日の聖書箇所は、復活のイエス様と、マグダラのマリヤとの対面です。

マグダラのマリヤは、イエス様から復活を聞かされ、聖書の預言を知らされていていましたが、世の常識の力は非常に強く、イエス様のご遺体がない事と、復活とを結び付けて考える事を阻みます。

イエス様は、マグダラのマリヤとどのように関わられるのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 20:11 一方、マリヤは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

マグダラのマリヤの知らせを受けて、イエス様のご遺体が納められた墓に駆けつけるシモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子に遅れる事、暫くの後に、マグダラのマリヤも、イエス様のご遺体が納められた墓に到着します。

イエス様のご遺体がない事を確認したシモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子は、マグダラのマリヤを残して、自分たちのところに帰って行ってしまいます。

一人残されたマグダラのマリヤは、何の指示も受けてはおらず、何をするかも思い浮かばず、何も考える事も出来ずに、呆然と佇み、「泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込」ます。

20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。

マグダラのマリヤは、シモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子が見なかったものを見る事になりますが、マグダラのマリヤは、意識せずして、シモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子に追従や付随する事を選ばなかった、

何か引っかかるものを感じて、残る事を選んだ、結果なのです。

シモン・ペテロと、イエス様の愛された弟子が帰っていくのですから、普通なら、男性の行動に従うのが、二人の弟子の後を追うのが、当時の女性のありようでしょう。

しかし、マグダラのマリヤは、残ったのです。

「皆で渡れば怖くない」と言いますが、皆と同じ行動を取れば指摘を受けない、と云う消極的な生き方でしょう。

マグダラのマリヤも、二人の弟子と共に、帰る事を選ぶ事も出来たのですが、帰る事を選んだならば、特別な恵みに出会う事はなかったのです。

皆と同じ行動を選ぶ事は、安心な部分もありますが、皆と同じ行動を選ぶ事は、決して最善の選択とは限りません。

何が何でも、人と違う行動を選ぶ事を奨励しているのではありませんが、人と違った行動を選ぶ事を、恐れてはならず、遠慮してはならず、控えてはならないのです。

創造者にして支配者なる神様の喜ばれる事を選ぶのであり、神と人とを愛する事において、正しい、良いと思える事を選ぶのであり、そこに、誰の賛同や、同調者を募る必要も、誰かに遠慮、忖度を働かせる必要もありません。

常に、創造者にして支配者なる神様の前に、恥じない行動を選ぶのであり、そこに道は開かれ、思わぬ恵みと祝福に行き着くでしょう。

天に至る道は狭くて、見つけ難く、天に至る道を見出すものは希なのです。

20:13 彼らはマリヤに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

白い衣を着た二人の御使い」が現れ、

マグダラのマリヤに「女の方、なぜ泣いているのですか」と、呼び掛けます。

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書では、現れた「御使い」は、イエス様の復活を伝えているのに、ヨハネの福音書では、呼び掛けるだけで、イエス様の復活を伝えません。

聖書の記述の違いについては、前回説明しましたので詳しい説明は省きますが、聖書の記述は、記者の個性や興味が反映されているので、違いが生じ、福音書が四つある事で、より立体的に描かれ、私たちの理解の助けになっているのです。

この場面でも、マグダラのマリヤは、イエス様の復活を、微塵も考えてはいません。

あくまでイエス様のご遺体を誰かが盗んだ、誰かが持ち去った、と考えています。

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。

大好きなお方、お仕えして来たお方、イエス様を見て分からないなんて、あり得ない、とお思いになられるかもしれませんが、人は思い込むと、見えているものも見えなくなり、聞こえていても聞こえなくなり、冷静な時には、普段なら何でもない事が、パニックに陥ると、簡単な事なのに、思い出せなくなり、何もかもが、分からなくなってしまうような、脆弱な思考、精神の持ち主なのです。

(まなこ)が涙で曇って、見誤った訳ではありません。

15節に記されているように「園の管理人だと思っ」たのであり、甦ったイエス様は復活のお身体であり、栄光に輝いて見えなかった訳でもありません。

15節に記されているように「園の管理人だと思っ」たのであり、普通の人のように見えたのであり、イエス様の十字架の死を目撃し、その事実が、衝撃が、余りにも強烈だったから、立っているお方が、話しかけて来るお方が、イエス様などとは、思いもよらなかったに違いありません。

茫然自失の態で、見るともなく眺めているマグダラのマリヤに、イエス様は話しかけられます。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」

イエス様の質問「なぜ泣いているのですか」の頭には、13節の御使いの質問と同じように、「女の方」と訳されるギリシャ語があるのですが、ここでは訳されていません。

新共同訳は「婦人よ」と訳し、口語訳と、聖書協会共同訳は「女よ」と訳しています。

この呼び掛けは、当時の文化では普通の事、礼儀正しい呼び掛け方であり、何の問題もないのですが、他人行儀な感じは拭えないので、イエス様の、マグダラのマリヤに対する親しみを損なわないために、訳していないのかもしれません。

イエス様の呼び掛けに、マグダラのマリヤは、「園の管理人だと思っ」て、イエス様のご遺体の事を知っているに違いないと確信し、イエス様のご遺体の引き取りを、涙ながらに申し出ます。

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。

イエス様の呼び掛けには、大切な意味があります。

イエス様は良い羊飼い、大牧者であり、一匹一匹の名前を呼ばれる、と云う事、呼ばれた者はイエス様と認識し、大牧者に付いて行くのです。

ヨハネの福音書103節、2017版は202ページ、第3版は198ページ、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名で呼んで連れ出します。10:4羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです」です。

イエス様の、親愛の情を込めた呼び掛けで、誰かがいる、「園の管理人」がいる、との認識から、復活の主を信じる信仰への目覚めが起こるのです。

私たちは、罪人であり、その眼は曇っており、感覚は鈍り、自分の力で救い主、復活の主を見る事は、探し出す事は出来ませんが、イエス様の呼び掛けで、霊の眼が開かれ、霊的感覚が覚醒し、また、蓄積された知識や体験、イエス様の言動や聖書の預言の意味が理解され、その人の内で結びつき、救い主、復活の主を認識させて頂くのです。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

イエス様の前半の言葉「わたしにすがりついていてはいけません」は、既に、縋り付いているので、離れなさい、と命じる言葉か、今まさに、縋ろうとしているのを、制止する言葉か、が議論されますが、主旨は、父なる神様の御もと、天に昇ろうとされるイエス様の御わざを妨害してはならない、であり、禁止や制止の命令ではなく、優しくたしなめている、と理解するのが良いでしょう。

イエス様が「父のもとに上」らなければ、救いの御業、贖いのご計画は、達成率50%であり、天に昇られて、父なる神の右の座に着かれ、聖霊様、助け主を送られて、ご計画は完成するのですから、そのご計画を妨げてはならないのです。

続くイエス様の言葉「わたしの兄弟たち」とは、イエス様に贖われた者たちの事であり、弟子たちであり、現代に続くクリスチャンたちです。

決して、イエス様の実の兄弟を指し示しているのではありません。

わたしの父」、「あなたがたの父」、「わたしの神」、「あなたがたの神」との表現は、非常に重要です。

イエス様が「わたしの父」と呼び掛ける理由と、弟子たち、クリスチャンが「わたしたちの父」と呼び掛ける理由とは、全く違うのです。

イエス様にとっては、文字通り「わたしの父」「実の父」ですが、弟子たち、クリスチャンにとって、創造者にして支配者なる神様は「実の父」ではありません。

創造者にして支配者なる神様とイエス様とは、紛れもなく、永遠に、変わる事なく、本当の父と子の関係、一体の関係ですが、弟子たち、クリスチャンたちは、創造者にして支配者なる神様の憐れみ、恵みによって、イエス様の贖いの業、執り成しによって、「子としての身分を与えられた」のであり、養子縁組で、「子と見做された」のです。

それでも、この関係は、創造者にして支配者なる神様の決定であり、永遠に、変わる事なく、本当の父と子のように扱われるのです。

最後にイエス様は、マグダラのマリヤに、大切な使命を与えられます。

わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい」です。

何かを目撃した者は、何かを知った者は、その事を伝えなければなりません。

勿論、見た事、聞いた事、知り得た事、何でもかんでもではありません。

伝えるべき事を、全て、正しくであり、脚色せず、自分の考えや意見を織り込まずです。

自分の考えや意見は、はっきり区別して、或いは、別の機会で、話すべきです。

イエス様は、マグダラのマリヤに、語るべき事を伝えたのであり、マグダラのマリヤは、一字一句をしっかり聞き取り、正確に伝えなければならないのです。

伝えるべき事は正確にであり、うろ覚えで、適当に、では駄目であり、必要に応じて、メモや記録をしなければなりません。

20:18 マグダラのマリヤは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

マグダラのマリヤは、イエス様から与えられた使命を全うします。

先ず、必要最低限の状況、「私は主を見ました」と語り、イエス様が語られた事のみを、語り伝えます。

曖昧な言い方をせず、イエス様が話された事を伝えます。

これが、伝道、宣教の基本です。

説教も、聖書の言葉を説き明かし、伝えますが、常に、聖書の言葉を取り次ぐ、と云う意識、聖書の言葉を語る、と云う意識を持ち続け、脱線しないようにしなければなりません。

体験談は最低限に、自慢話は厳禁です。

【適応】

今日の説教のタイトルを、「復活のイエス様に最初に会ったのは誰」としましたが、サブタイトルとして「復活のイエス様から最初に使命を授かったのは誰」を加えたいと思います。

どちらのタイトルにしても、当時の社会情勢を考えるなら、十二弟子の中から選ばれるのが、男性の弟子から選ばれるのが、当然と考えられたでしょう。

しかし、創造者にして支配者なる神様のご計画は、お考えは違いました。

弟子ではなく、一介の信徒を、しかも、女性信徒を選び、イエス様復活の証言者とし、大切、重要な「伝える」との使命を与えたのです。

その女性信徒、マグダラのマリヤですが、マグダラのマリヤは、ガリラヤ湖の南西に位置するマグダラの出身であり、7つの悪霊に苦められる、辛い日々を過ごしていましたが、イエス様によって癒され、それ以来、献身的な、イエス様の弟子の一人となったのです。

この次第は、マルコの福音書16章9節、ルカの福音書8章2節に記されていますのでご確認願います。

尚、マグダラのマリヤは、遊女であったという説がありますが、その根拠は、ルカの福音書7章37節に記されている「罪深い女」と混同しているためであり、マグダラのマリヤは「罪深い女」「遊女」ではありません。

とは言え、当時の女性の社会的地位は非常に低く、軽んじられ、下働き、補助的な働きしか出来ないと考えられ、大切な働きを、重要な使命を委ねられる事はありませんでした。

しかし、イエス様は、最も社会的地位の低かった女性に、その発言を顧みられないような女性に、大切な働き、重要な使命を、委ねられたのです。

多くの男性は、名誉欲、プライドが強く、権力、地位への執着が強く、復活のイエス様に最初にあったならば、しかも、更に、大切な働き、重要な使命を委ねられたならば、有頂天になり、イエス様に命ぜられもしない事を、イエス様が命ぜられたかのごとくに言い出し、イエス様に成り代って、好き勝手な事を始めるのではないでしょうか。

その点、多くの女性は、男性程ではなく、慎ましやかに、使命だけを全うするのではないでしょうか。

しかし、これは、何も男性だけに限った事、女性だけの特徴ではありません。

誰にでも、当て嵌まり得るのであり、それは、人間は罪の性質を持っているからです。

これらの意味で、復活のイエス様に最初に会う」栄誉に与ったのは、「復活のイエス様から最初に使命を授かる」特権に与ったのは、男性の弟子からではなく、女性の信徒からでもなく、最も謙遜で、私利私欲がなく、指示命令に忠実な者であり、イエス様の多くの有能な弟子たち、信徒たちの中から、マグダラのマリヤが選ばれたのです。

先に説明しましたが、マグダラのマリヤは、7つの悪霊に取り付かれた、言葉に言い表せない悩み、想像を絶する苦しみ、理解してもらえない悲しみの中から救い出され、新しく生まれ変わらせていただいたのであり、自分のしたい事、願い、考えを優先させる人生ではなく、イエス様に全てを献げた生涯に入っており、本当にイエス様の僕としての覚悟と決意が出来ていたのです。

能力などの多寡、優劣よりも、謙遜、忠実、従順と、イエス様との関係の確立こそが用いられる僕の条件です。

プライドなんかないといっても、プライドがあるのであり、何かしらかの考えを持っており、独自の教会観、牧師観があり、クリスチャン像があり、それに沿わないと、影で非難をし、裏で排斥に加担するのです。

マグダラのマリヤには、それらが一切なかったので、そして、イエス様との関係が確立していたので、弟子の行動に、何の考えもなく追従する事がなかったので、

イエス様に最初に会う栄誉と、イエス様に最初に用いられる特権に与ったのです。

これらの徳目の類は、神を愛し、人を愛するために、イエス様に用いられるために、世に遣わされるために必須、不可欠な徳目です。

しかし、謙遜は、度が過ぎると、卑屈になり、忠実、従順は、度が過ぎると、追従、奴隷となってしまい、イエス様との関係の確立は、度が過ぎると、独善的、依怙地になってしまいますので、注意、自己吟味が必要です。

これらの徳目の類を、イエス様との関係の確立の中で、イエス様にあって用いる時、イエス様の栄光の姿を拝し、イエス様に用いられる働き人とされるのです。

ここにおられる皆さんは、イエス様の使命を担うために選ばれた方々ではないでしょうか。

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聖書箇所:ヨハネの福音書201節~10

説教題:「イエス様のご遺体は何処に」

【導入】

「井の中の蛙、大海を知らず」と申しますが、本人(蛙)はこの世界の事は何でも知っているし、他の蛙なみに理解していると思い込み、大海の存在すら知らず、当然、大海の事など考えた事もないでしょうし、それで済み、大海を知らずしても何の不自由もなく、問題なく一生を終えられるでしょう。

しかし、大海、或いは外の世界は確実に存在しているのであり、井の中に大きな影響を与えています。

人間社会でも想定外の事が起こらなければ別の世界の事など考える事もなく、平々凡々とした一生を終えるでしょうし、それで何の問題もなく、不自由を感じる事もないでしょう。

しかし、この人間社会に影響を与える存在は、確実に存在するのであり、それは、創造者にして、支配者なる神様の存在であり、聖書と、聖書に記された預言です。

多くの人は、創造者にして、支配者なる神様の存在を知らず、また、啓示として与えられた聖書の存在も、その権威も認めはしないでしょう。

しかし、創造者にして、支配者なる神様は、間違いなく存在されるのであり、聖書の預言は、確実に成就するのです。

しかし、創造者にして、支配者なる神様の存在も、聖書の預言も、霊的な眼が開かれていなければ、理解出来ず、悟れません。

聖書の預言が成就しても、それを認める事が出来ないのです。

そして、霊的な眼は、精進や難行苦業、儀式によって得られるモノではありません。

創造者にして、支配者なる神様のご計画、憐れみ、恵みと、イエス様の執り成しと、聖霊様の助けによるのです。

しかも、時が至って、であり、時が来るまでは、何の事か分からないのです。

イエス様は、ご自分の死、十字架による死刑と、復活、三日目に墓から甦る事とを、度々お話されましたが、また、イエス様の死刑は、復活は、聖書の預言の成就であるとも語られたのですが、弟子の誰一人として、理解出来ていませんでした。

イエス様の十字架刑を目の当たりにした弟子たちは、怯え、自分の世界に逃げ込んでしまいました。

今日の聖書箇所は、イエス様、甦りの現場です。

そこに居合わせた、弟子たちの霊の眼は、閉じていたのでしょうか、開かれていたのでしょうか。

イエス様の復活を、どのように理解したのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。

週の初めの日」は、現代の日曜日の朝の事です。

金曜日の日没から始まった安息日が、土曜日の日没と共に終わり、安息日の律法、行動制限から解放されて、自由な行動が取れるようにはなりましたが、現代のような街路灯はなく、道もデコボコですから、また、夜の闇に紛れて、隠れてコソコソの遺体処理は、イエス様に相応しくはありません。

そこで、夜明けと共に、「朝早くまだ暗いうちに」、意を決した「マグダラのマリヤ」が、イエス様に仕える女性信徒が、アリマタヤのヨセフ私有の墓地にやって来たのです。

この様子を他の福音書は、次のように記しています。

マタイの福音書281節、2017版は新約聖書63ページ、第3版は62ページでは、「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤともう一人のマリヤが墓を見に行った」と、女性が二人であったと記します。

マルコの福音書161節、2017版は新約聖書104ページ、第3版は102ページでは、「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」と、女性が三人であったと記します。

ルカの福音書2410節、2017版は新約聖書172ページ、第3版は169ページでは、「それは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった」と、女性が五人以上であったと記します。

他にも、ヨハネの福音書との違いがあります。

「主の使い」と出会っている事、地震があった事、などですが、決して記録ミスでもなければ、いい加減な記録であった訳でもなく、聖書記者の目の付け所の違いであり、何を重要視したかの違いです。

女性信徒が勇敢で、堂々と行動した事を伝えたい訳でも、男性信徒が臆病で、コソコソ隠れていた事を伝えたい訳でもなく、それぞれの記者が目撃した事実を、知り得た伝聞を、聖霊の働きで、取捨選択し、記録したのです。

聖書は、色々な人が見たり、聞いたりした事を、総合し、まとめた記録、即ち、責任の所在が曖昧な記録ではなく、マタイの見た事、聞いた事を、マタイの責任で記録したのであり、ヨハネが見た事、聞いた事を、ヨハネの責任で記録したのです。

さて、マグダラのマリヤは、「墓から石が取りのけられているのを見た」だけで、イエス様の遺体が無いと判断したのでは、他に移されたと思い込んだのではありません。

マグダラのマリヤは、アリマタヤのヨセフやニコデモが、イエス様を埋葬している様子を見ており、イエス様が納められた位置も熟知しており、墓の中に入るまでもなく、墓を覗き込むだけで、イエス様の遺体が無い事を確認したのです。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

イエス様の弟子には、女性信徒も沢山おりましたが、男性信徒が中心であり、当時の社会は男性社会であり、物事の決定権は男性が握っていましたから、マグダラのマリヤたちには、知らされていない動きがあったのかも知れません。

また、連絡方法は、現代のように携帯電話で、メールで即座に、ではなく、伝言か手紙であり、人力に頼っていましたから、どうしても遅れ勝ちであり、齟齬や混乱も生じていた事でしょう。

シモン・ペテロ」たち、男性の弟子たちは、アリマタヤのヨセフ私有の墓地から、程遠からぬ所に集まって、今後について相談していたようであり、そこで、マグダラのマリヤは確認のために走って、「シモン・ペテロ」たちに、問い質しに向かいます。

しかし、マグダラのマリヤの質問は、「シモン・ペテロ」も知らない事であり、この時点で、弟子たちは、男女を問わず、イエス様の復活、甦りを理解しておらず、マグダラのマリヤの報告に対して、弟子たちは「何、寝ぼけた事を」「冗談でしょ」と思ったのではないでしょうか。

それでも、本当ならば、大変な事であり、無視する訳にはまいりません。

20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。

20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

シモン・ペテロ」たちの集まっていた所と、アリマタヤのヨセフ私有の墓地とが、どれ程離れていたのかは分かりません。

然程遠く離れてはいなかったようですが、墓に着くまでには、多少の差が生じたようであり、「イエスが愛されたもう一人の弟子」が、先に墓に着きます。

20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。

これは、遅れた「シモン・ペテロ」、十二弟子筆頭に対する節度ある、礼儀を弁えた行動なのではないでしょうか。

イエスに愛された」事で、尊大に振舞い易いのが、秩序や礼儀を無視し易いのが人間です。

第一発見者になり、もてはやされたいのが、皆の中心に居座りたいのが、無意識の内に出しゃばってしまい易いのが人間でしょうが、「イエスが愛されたもう一人の弟子」は、礼儀を弁え、節度を弁え、秩序を尊重したのです。

身をかがめると」と、訳されているギリシャ語は、「一心に見つめる、はっきり見る」の意味で訳す事が出来るギリシャ語であり、漠然と眺めたのではなく、身を乗り出すように覗き込んだ様子を記しつつ、入らなかった事を強調しているのです。

20:6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れた所に巻めてあった。

せっかちな性分の「シモン・ペテロ」は、状況も確認せずに、墓に着くや否や中に入ります。

マグダラのマリヤの報告、「だれかが墓から主を取って行きました」の確認のために、遺体持ち出しの痕跡、足跡の有無などを確認すべきではありましょうが、まあ、警察ではないのですから、仕方の無いところでしょう。

それでも、イエス様の身体に巻かれた「亜麻布」の存在を確認し、「イエス様の頭を包んでいた布」の存在も確認します。

イエス様の身体に巻かれた「亜麻布」や、「イエス様の頭を包んでいた布」は、抜け殻のような状態だったのか、巻き解いた状態だったのか、は不明ですが、イエス様の遺体が無かったのは、確かであり、イエス様の遺体を盗むのに、わざわざイエス様の身体に巻かれた「亜麻布」や、「イエス様の頭を包んでいた布」を解きはしません。

明確に、復活、甦りを、客観的に示す証拠となっていますが、そこには考えが及ばなかったようです。

シモン・ペテロ」は、呆然とし、立ち竦んでしまいます。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。

この「そして見て、信じた」は、何を意味するのでしょうか。

一説は、イエス様の復活、甦りを信じた、とする説。

もう一説は、「マグダラのマリヤ」たちの報告を信じた、確認したとする説です。

状況を客観的に見るならば、そして、9節を読むならば、「マグダラのマリヤ」たちの報告を信じた、と考えるのが妥当かもしれませんが、それでは、この世の常識や、蓋然性を肯定し、聖書の必要性や、信仰の意味を失わせ、弱めてしまいます。

ここは、やはり、「信仰」を基準として考え、理解しなければなりません。

即ち、イエス様の身体に巻かれた「亜麻布」や、「イエス様の頭を包んでいた布」が、イエス様の納められた場所に、そのまま置かれているのを見るだけで、復活の主イエス様、甦られたイエス様に出会わずとも、イエス様が誰かの陰謀、策略、手によって、持ち去られたのではなく、創造者にして、支配者なる神様のご計画、大能の御業、神の御手によって、復活させられたのだ、甦らされたのだ、と信じるのです。

ヨハネの福音書2029節、2017版は新約聖書228ページ、第3版は224ページ、「イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」」の言葉の通りであり、「イエスが愛されたもう一人の弟子」は、「見ないで信じる人たち」の先駆者となったのです。

勿論、完全な形、即ち、聖書の預言と関連付けてでない事は、9節の通りです。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

復活の、甦りの、聖書の預言の理解と、受け入れは、イエス様が天に昇られ、聖霊様が送られ、聖霊様の助けがあってこそですが、それでも、「信じた」のは、画期的な事なのです。

初代の弟子は、復活のイエス様、甦ったイエス様に出会ったでしょうが、以後は、誰も、復活のイエス様、甦ったイエス様に出会っていないのです。

復活のイエス様、甦ったイエス様に出会わなければ信じられないならば、この世にクリスチャンは存在しません。

伝えられた言葉を信じて、聖書の預言を信じて、イエス様の復活、イエス様の甦りを信じるのであり、現代の私たち、イエス様を見た事もない人々の信仰は、ここに端を発するのです。

20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。

聖書を、まだ理解していなかった」弟子たちは、「自分たちのところに帰って行った」のですが、これは決して、敗北とか、後退ではありません。

「聖書の理解」には、イエス様昇天後の、聖霊様の降臨が必要であり、聖書理解は、研究の成果ではなく、努力の結果でもなく、知恵によるのでもなく、また、熱心な伝道によるのでも、力強い説教によるのでもありません。

唯々、聖霊様の内住と、助けと、導きなのです。

その時を待つために、待機するのであり、イエス様のご遺体が無いと云って、右往左往するのではなく、探し回るのでもなく聖霊様の来られるのを静かに待つ事こそ、「聖書を、まだ理解していな」い弟子たちの務め、なすべき事なのです。

【適応】

今日の説教のタイトルを、「イエス様のご遺体は何処に」としましたが、イエス様のご遺体を捜しても、見つかりはしません。

遺体は歩かず、動きませんから、人手をかけ、虱潰しに捜すなら、時間はかかるけれど、何時かは見つかる、と考えましょうが、イエス様のご遺体は見つかりません。

何故ならば、イエス様は復活され、甦られ、今は天にいらっしゃいますから、この世を隈なく探しても見つかりません。

また、仮に、遺体を見つけたとして、イエス様かどうかを確かめても、意味はないのです。

何故ならば、復活され、甦られたからであり、遺体には、或いは、イエス様が身につけていた物には、何の力も無いからです。

聖書を調べても、文献を調べても、イエス様は見つかりません。

教会に行っても、イエス様は見つからないでしょう。

何故ならば、イエス様は探すお方ではなく、信じるお方だからです。

探す事に意味は無く、信じて従う事にこそ意味はあるのです。

マグダラのマリヤの言葉、「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません」は、私たちが、何を求めているかを問い掛けます。

イエス様であっても、遺体に何の意味があるのでしょうか。

遺体を捜す事に何の意味があるのでしょうか。

遺体を取り戻し、丁寧に埋葬しても、そこに何の意味があると云うのでしょうか。

シモン・ペテロは、イエス様に対して、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しましたが、現実では、告白に相応しい行動はとれず、イエス様を否み、イエス様を見捨ててしまいました。

そんな、後ろめたさも一因となって、イエス様の遺体が無いとの報告を受けた時、墓場に駆けつけたのではないでしょうか。

イエス様に対する告白は重要ですが、更に重要なのは、イエス様を信じる事であり、イエス様の発せられたことばを信じ、イエス様に関する聖書の預言を信じ、イエス様に従う事です。

聖書に対する態度も同じです。

聖書を何回通読しても、精読しても、古典として愛読しても、研究対象として、調べ尽くしても、聖書の権威を認めず、信じず、従わなければ、意味はありません。

礼拝も、出席する事、熱心に聴く事に意味があるのではありません。

聴いて、自分に適応し、従ってこそ、意味があるのではないでしょうか。

そこに、尊敬出来る説教者であるとか、可能な限り、出来る範囲で従います、などの条件を付けてはなりません。

説教者は、神様が遣わされた方として、受け入れ、説教者を通して、神様が語っておられるとして、聴き従うのです。

教会は、イエス様に会えるところ、会うための場所ではありません。

わざわざ教会に来なくても、イエス様は常に、皆さんと共におられます。

だからといって、教会に行かなくても良い訳ではありません。

教会は、罪人の群れであり、弱さを持つ者の集まりであり、罪の誘惑や、弱さに抗(あらが)えない者の集まりであり、お互いの罪、弱さのために、執り成し祈る場所と、云う事が出来るでしょう。

教会は、群れであり、共同体であり、存在の意味と、重要性は大きく、イエス様が命がけで守ってくださるのが教会です。

個々人にとっての教会の意味は、イエス様の痕跡を探す場所ではなく、世に遣わされ、福音を届けるために、イエス様に対する信仰を確認するところです。

自分の弱さや、罪を確認するところであり、その弱さや罪を、イエス様に委ねるところであり、イエス様の執り成しと、聖霊様の助けによって整えられるところです。

そして、兄弟姉妹と共に、これらを分かち合い、共有するのです。

奉仕も、交わりも、これらの目的のためであり、これらの目的以外は、教会にふさわしくありません。

教会は、仲良しクラブでもなければ、社交の場でも、旧交を温める場でもありませんが、多くの教会が、仲良しクラブ、社交の場になってはいないでしょうか。

今日の説教題は、「イエス様のご遺体は何処に」ですが、「あなたは墓場に何を探しに行くのですか」、と言い換える事が出来るでしょう。

更に言い換えるならば、「あなたは、教会に何を求め、何を探しに来たのですか」ではないでしょうか。

この世的な慰めや、励ましを受ける事、イエス様に愛され、人に愛される事を求めて、も目的の一つではありますが、そこに終始していては、教会に導かれ、救われた目的は半分しか達成していません。

受けるより、与えるが幸いであり、神を愛し、人を愛するために、世に遣わされるために、整えられるために、教会が存在するのであり、ここにおられる皆さんは、そのために教会に来られた方々ではないでしょうか。

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