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                                                                 2019-8-25礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書219節~14

説教題:「さあ、朝の食事をしなさい」

【導入】

皆さんは「朝」をどのように迎えられているでしょうか。

仕事が忙しくて、夜遅くまで働いていて、なかなかゆっくり寝ている暇もなく、睡眠不足のような状態で朝を迎えられた、と云うお方。

心配事などが気になって、おちおち寝てもいられず、睡眠不足のような状態で朝を迎えられた、と云うお方。

どうしてもやらなければならない事があって、殆ど寝ていない、徹夜のような状態で朝を迎えられた、と云うお方。

また、それらを繰り返すのか、と思うと、新しい朝を迎える気分になれない、とおっしゃられるお方も、いらっしゃるでしょうが、それでも、朝は清々しく、爽やかで、希望があるのでは、良い方向への変化の期待を持てるのではないでしょうか。

そして、一日を始めるに当たっては、糧が必要不可欠である事は、説明するまでもない事でしょう。

ここで「糧」とは、「霊の糧」と「肉体の糧」の両方を考えていただきたいと思います。

どちらも大事であり、必要なのですが、肉の糧は、時間が経てば空腹を覚え、渇きを覚え、自然に欲求が起こりますが、霊の糧の必要性は、なかなか感じ難い、否、意識しないと感じられない飢えなのです。

そして、多くの人は、霊の糧の必要性を認めず、霊の糧を補給せずに生きていくので、霊的な失敗をし、霊的判断ミスをし、創造者にして支配者なる神様の御こころに反する言動を行なってしまうのです。

創造者にして支配者なる神様の御こころに適う信仰生活は、毎週毎の、教会での礼拝と、毎日の、家庭での聖書通読、或いは、デボーションの励行があってこそです。

この基本的生活は、信徒であっても、弟子であっても、使徒であっても、教職者であっても同じです。

教職者は、説教で聖書に取り組むから、と云って、聖書通読やデボーションを怠ってはならず、信徒は、専門職ではないからといって、聖書通読やデボーションを怠ってはならないのです。

聖書通読やデボーションの効果は、45日では現れては来ないでしょうが、着実に変化します。

良くも、悪くもです。

ガリラヤでの、復活のイエス様と弟子たちの様子から、私たちの霊の糧、信仰者としての歩みの指針を得たいと思います。

【本論】

新改訳2017版 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。

この状況説明は、キャンプ場などで、良く見かける情景と云えますが、ティベリア湖の湖畔に「炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた」との情景は、不自然です。

スーパーマーケットや、コンビニエンスストアがある訳ではなく、BBQセットが用意されていた訳ではなく、誰が「炭火」を用意したのでしょうか。

」と「パン」は、ともに単数ですが、これも誰が用意したのでしょうか。

イエス様は、神の御子ですから、奇蹟を起こして「炭火」を熾す事も、「」と「パン」を用意する事も、可能でしょうが、ここは、先に、漁を終えて立ち去ったグループから、彼らの使った残り火と、残り物を分けてもらった、と考えるのが自然でしょう。

ユダヤ人には、困っている人を助け、求める者に分け与える文化があるからです。

先に、漁を終えて立ち去ったグループの人たちは、イエス様の求めに応じ、イエス様お一人なのを見て、一人分に充分な「」と「パン」を残してくださったのではないでしょうか。

そして、それで充分なのです。

何故ならば、イエス様は神の御子であり、増やす事がお出来になられるからです。

マルコの福音書641節に記されていますが、五つのパンと、二匹の魚でと、5000人の空腹を満たされたからであり、マルコの福音書89節に記されていますが、七つのパンと、少しの魚とで、4000人の空腹を満たされる力をお持ちだからであり、シモン・ペテロたちに大漁の恵みを、もたらす事が出来るからです。

大事なのは、イエス様に献げる事です。

イエス様は、神の子ですから、“0”からでも、必要なモノを造る事が出来ますが、進んで、喜んで献げるモノを喜ばれ、それを豊かに用いられるのです。

イエス様に献げたモノは、小さく、僅かでも、喜んで献げる時、豊かに用いられるのであり、イエス様の命令に喜んで従うとき、あり得ない事が起こり、思いもかけない事が起こり、豊かなモノを得る事が出来るのです。

21:10 イエスは彼らに、「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。

魚を何匹か」と訳していますが、原文は「」の複数形です。

イエス様は、漁を終えて立ち去ったグループの人たちが残してくださった「」と「パン」を祝福し、増やして分け与える事も出来るのですが、弟子たちの働きや、苦労を無にはされません。

弟子たちの働きや、献げモノを受け入れてくださり、足りないモノを、補ってくださるのです。

補ってくださるから、献げなくても良い、のではなく、足らなくても、何とかしてくださる、のでもなく、自分ではなく、誰かが、でもないのです。

一人一人が、喜んでイエス様の命令に従い、惜しみなく献げる時、イエス様はご自身の栄光を現し、弟子たち、信徒たち、使徒たち、教職者たちの栄光を現してくださるのです。

21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。

ティベリヤ湖で行なわれていた網漁は、「投網」と「地引網」であり、「地引網」は、二艘の船で網を広げ、沖から岸に向かって引き絞り、陸に引き上げるのですが、シモン・ペテロたちが行なっていたのは「投網」のようです。

皆さんは「投網」を見た事、実際に投げてみた事、ありますか。

川や海で投網漁をした事はありませんが、持った事と、投げてみた事はあります。

見た目よりも重く、網が広がるように打つには熟練が必要です。

そして、百五十三匹も捕れたならば、一匹が300g程度であっても、百五十三匹ならば46kgにもなるのであり、網は持ち堪えられず、破れてしまいましょう。

しかし、網は破れる事なく、一匹も逃げる事なく、「陸地に引き上げ」られます。

網には大きな魚が、百五十三匹も入っていたのですが、この百五十三匹の意味には、諸説ありますので、少し紹介しましょう。

一は、ヒエロニムスが唱えた説で、当時、地中海地域で、一般的に知られていた「魚」の種類が153種だそうで、その数は、あらゆる種類の人間を意味し、宣教によって、あらゆる種類の人間が獲得され、救われる事を象徴している、とする説。

二は、アウグスティヌスが唱えた説で、十戒に、聖霊の賜物を示す恵みの数、七を加えると17になりますが、1足す2足す3足す・・・を17まで繰り返すと、153になるので、十戒と、聖霊の恵みによってキリストに導かれる人を意味する、とする説。

三は、モリスやフィルソンが唱えた説で、目撃者の証言の信憑性を印象付ける数であり、数自体に象徴的な意味はないとする説、などです。

魚の数の意味はともかく、大漁であった事と、網が破れなかった事が、奇跡的な事である事は、間違いなく、イエス様の御介入があった事として、記録されていると判断するに止めて置きましょう。

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。

さあ、食事をしなさい」の直訳は、「あなたたちは来なさい、あなたたちは食事をしなさい」との、二人称複数に対する命令形です。

さあ、食事をしなさい」は、特定の誰かにではなく、少なくとも七人はいた、弟子の全てに対して語り掛けているのです。

イエス様が愛された弟子だけに対してではなく、中心的な弟子だけに対してでもなく、全ての弟子に、休息と食事を提供し、促されたのです。

ここで大切なのは、イエス様と明確に認識している事です。

休息と食事が必要だから、知らないけれども、親切な人の招きに応じたのではありません。

イエス様の招きに応じて、休息と食事を受けたのです。

もっと限定的に云うならば、イエス様の招きである事が重要なのです。

休息と食事が提供されるなら、誰の招きでも良い訳ではありません。

イエス様に敵対する勢力も、心身をリラックスさせる休息の場と、贅を尽くした豪華な食事を提供するでしょうが、そんな招きに応じてはなりません。

損得勘定で招いているのであり、後で苦い思い、嫌な思いをする事になります。

箴言236節、2017版は1122ページ、第3版は1087ページ、「物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。23:7 彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め。」と言っても、その心はあなたとともにない。23:8 あなたは、食べた食物を吐き出し、ほめことばを無駄にすることになる」のです。

逆に、湿っぽい土の上や、夜露に濡れた草の上での休息でも、焼き魚と粗末なパンだけの食事でも、イエス様の招きである事が、何よりも重要なのです。

イエス様の下でしか、本当の休息は得られず、イエス様の下でしか、必要な食事は得られないのです。

そして、食事は、肉体の必要であると同時に、和解の場であり、交わりの場でもあります。

御子イエス様との交わり、御子イエス様との食事は即ち、創造者にして支配者なる神様との交わりなのであり、創造者にして支配者なる神様との食事なのです。

21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

ここで、「パン」は単数ですが、「」も単数なのです。

即ち、一つのパンと、一つの魚を分かち合うのであり、これは先に紹介した、5000人と4000人の給食に繋がります。

さて、聖書には「」が度々登場し、重要な役割を演じますが、「」には、どんな意味があるのでしょうか。

」のギリシャ語は「イクソス(綴りはΙΧΘΥΣ)」と言いますが、ギリシャ語で「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べると「イクソス」となり、「魚」はイエス様を意味する言葉となります。

「α」を横に引き伸ばした形を「魚」に見立てて、暗号、符丁としたのです。

現代でも、シールが売られています。

そして、一つのパンの分かち合いは、聖餐式に繋がります。

マタイの福音書2626節、マルコの福音書1422節、ルカの福音書2217節、に記されていますが、今日は、マタイの福音書2626節、2017版は56ページ、第3版は56ページを開いてみましょう。「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。26:28 これは、多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」。

これらの出来事から、一日の始まりには、イエス様と出会う事と、イエス様から霊の糧、肉体の糧を頂く事が、如何に重要であるかを教えているのです。

イエス様から霊的な糧をいただかずして、罪の世界に出て行き、戦い、勝利する事は難しい、否、不可能です。

そして、イエス様から肉体も養っていただいている、との自覚も重要です。

毎朝の礼拝、毎朝の食事は、信仰者として必要不可欠なのです。

21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。

ここで、「三度目」と記されていますので、「ご自分を現された」次第を確認しておきましょう。

一度目は、ヨハネの福音書2019節以降に記録されているエピソードであり、二度目は、ヨハネの福音書2026節以降に記録されているエピソードであり、今日、扱っている、ヨハネの福音書219節以降に記録されているエピソードです。

ヨハネの福音書2011節以降に記されている、マグダラのマリヤに現れたエピソードに付いてはカウントされていませんが、これは、当時、女性は「弟子」と見做されていなかったからでしょう。

【適応】

今日の聖書箇所は、創世記の記事と密接に繋がっている事を確認したいと思います。

天地万物、創造の経緯の七日目は、創造の業の全てが完成した日ですが、創造の六日目に造られた人間にとっては、最初に迎える日、と云う事になります。

人間が、最初に迎えた日は、安息日であり、働きもせず、疲れてもいないのに、休息が与えられましたが、安息日の意味は、目的は、働かない事、と云う消極的、否定的な捉え方、見方ではなく、創造者にして支配者なる神様と交わりを持つ日、神様にお仕えするために、神様によって整えられる日、と云う積極的、肯定的な見方をする事が大切です。

これを創造者にして支配者なる神様によって造られた全ての人間は、毎週の始めの日に行なうのですが、しかし、人間は罪を犯したために、創造者にして支配者なる神様との交わりは絶たれ、神様の喜ばれる事が何であるかが分からなくなり、人間が造られた意味も分からなくなり、好き勝手、自分のしたい放題をするようになってしまったのです。

創造者にして支配者なる神様が悲しもうが、回りの人が困ろうが関係ない、であり、礼拝も、献げ物も、神様の喜ばれるものではなくなりましたが、御子イエス様がこの罪の世に来られ、私たちの罪の贖いを成し遂げ、私たちの罪は完全に贖われ、創造者にして支配者なる神様との交わりが回復しましたが、完全に回復した訳ではありません。

仲介者が必要であり、復活された御子イエス様を仲介者として、創造者にして支配者なる神様を礼拝し、復活された御子イエス様を仲介者として、交わりを持ち、復活された御子イエス様を仲介者として、献げ物を献げるのです。

御子イエス様を仲介者とするためには、毎日、一日の始まりに、御子イエス様と交わりを持ち、養っていただかなくてはなりません。

御子イエス様と出会わずして、御子イエス様に養われずして、罪の世に出て行くのは無謀であり、この世に取り込まれ、この世に埋没するのは、火を見るよりも明らかです。

また、礼拝も、奉仕も、献げ物も、創造者にして支配者なる神様の喜ばれるものとはなりません。

「来なさい、朝の食事をしなさい」との命令は、課せられた義務や負うべき責任ではありません。

大きな恵みなのであり、特権、権利なのであり、霊と肉体の必要が満たされる場への招きであり、祝福と、喜びと、平安とを与える場への招きです。

御子イエス様が待っておられ、全てを用意しておられるのですから、御子イエス様の招きに応じ、御子イエス様に会い、御子イエス様と食事をしようではありませんか。

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                                                                2019-8-18礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書211節~8

説教題:「私は漁に行く」

【導入】

皆さんは「空白の時間」をどのように過ごされて来られたでしょうか。

ここで「空白の時間」とは、一例として、高等学校を卒業してから、大学や専門学校に入学するまでの期間とか、高等学校や大学、専門学校を卒業してから、就職するまでの期間とかを考えてください。

短くはないけれども、長くもない、中途半端な期間と云えるかもしれません。

学生生活の思い出や記念として、海外も含めた卒業旅行をする方や、新しい環境に慣れるための準備期間として過ごす方もいらっしゃるでしょう。

これから忙しい状況になる事が見込めるので、今のうちに英気を養っておこうと、何もせずに、のんびりと過ごされる方もいらっしゃるでしょう。

他にも、色々な考えがあり、選択肢があり、行動がありますが、何の意味もなく、怠惰に過ごすのは、ちょっと勿体ないな、せっかくの「空白の時間」なのですから、意味のある過ごし方をしたいな、とは思います。

さて、復活のイエス様に出会った弟子たちは、御使いの指示に従ってガリラヤに行きました。

ガリラヤでの滞在は、「空白の時間」であり、特別には何もする事がなくても、働かなくても、時間が過ぎればお腹が減り、眠くなり、衣食住の必要は付いて回るのです。

ガリラヤは、中心的な弟子たちの故郷ですから、「空白の時間」を過ごすには、そして、ユダヤ教宗教指導者たちの迫害を逃れるにも、都合の良い土地、と云う事が出来るでしょう。

多くの弟子たちがガリラヤに集合したのですが、そこでの出来事から、私たちの霊の糧、信仰者としての指針を得たいと思います。

【本論】

新改訳2017版 21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。

その後」、とは、直前の出来事に続いて、の意味ではなく、新しい展開に入る時の、前置きの言葉であり、「暫くしてから」の意味であり、ヨハネの福音書の著者が、好んで使う前置きの言葉です。

「これから、新しい展開に入るから、心して読んでね」、と云う感じでしょうか。

ティベリア湖」とは、「ガリラヤ湖」の事で、皇帝ティベリウスにちなんで命名されましたが、他にも「キネレテの海」「ゲネサレ湖」とも呼ばれます。

現代では「ヤム・キネレテ」、即ち「キネレテの海」と呼ばれているそうです。

ユダヤ人にとって馴染み深い湖であり、漁業が重要な産業であり、ローマに物資を運ぶ海路としても利用され、湖畔の町は栄えていました。

21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。

シモン・ペテロ」は、ガリラヤのベツサイダ出身であり、「ナタナエル」は、「ガリラヤのカナ出身」との説明があり、「ゼベダイの子たち」は、「ヤコブとヨハネ」の事であり、ガリラヤのカペナウム出身ですが、この「ヨハネ」は、イエス様が愛された弟子、と考えられています。

ガリラヤに集まった主要な弟子たち七名のうち、五名の名前が挙げられていますが、その五名がガリラヤ出身なのです。

働きの場は、世界各地であり、見ず知らずの土地に赴く事になるでしょうが、しかし、備えの場は、地元、土地勘のある場所である事は、非常に重要です。

何故ならば、地元、土地勘のある場所は、新しい環境に馴染むための知恵や時間は必要なく、ご近所に配慮をする必要もなく、余計な気を使わずに済みますから、準備に専念出来るのではないでしょうか。

さて、ユダヤ民族には、旅人を持て成し、寄留者を受け入れる習慣がありましたが、ティベリアは、先に説明したように、漁業が盛んで、交通の要衝でもあり、裕福な土地であり、旅人を持て成し、寄留者を受け入れる力があり、エルサレムからやって来た弟子たちを養う力があったのですが、善意に甘えてばかり、と云う訳には、「負んぶに抱っこ」と云う訳には参りません。

自分たちで生活の糧を得るためにも、地元、土地勘のある場所である事は有利でしょう。

マタイの福音書418節、2017版は6ページ、第3版は5ページに、シモン・ペテロが、21節にはゼベダイの子たちが、漁師であったと、記されていますが、残りの四名が、皆、漁師であった訳では、舟の扱いに長けていた訳ではないでしょうが、ガリラヤ出身であるなら、舟は日常の交通手段であり、見よう見まねで扱えたのではないでしょうか。

直接の漁の経験はなくても、日常的に見て育ったのであり、見よう見まねで漁が出来たのではないでしょうか。

21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

ここで、「シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った」のは、決して、イエス様を待つのにくたびれて、イエス様に従う事を諦めたのでもなく、イエス様に従う事を放棄した事の決意表明でもなく、漁師になる事の宣言でもありません。

漁に行く」の意味するところは、直接的には「食料を探しに行く」です。

しかし、マタイの福音書419節、2017版は6ページ、第3版は5ページに記されている「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」」と関連付けて考えるなら、人間を獲る働きに入る前の、予備行動であり、弟子たちだけの働きと、その結果を暗示しているのではないでしょうか。

イエス様から授けられ、委ねられた働きは、ヨハネの福音書2022節に記されているように「聖霊を受け」る事が前提の働きです。

待ちくたびれても、痺れを切らしてはならず、聖霊を受けずして、勝手な行動をしてはならないのです。

人間を獲る働きと、生活の糧を得る働きとは、一見すると関係ないように見えますが、普段の生き様は、日常生活は、伝道活動、宣教活動と密接に繋がっている事を覚えておかなければなりません。

何をするにも神の栄光を現すためでなければならず、コリント人への手紙第一1031節、2017版は342ページ、第3版は332ページ、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」です。

人間を獲る働きと、生活の糧を得る働きとは別の働きではなく、根っこは一緒、一つなのです。

誰に対しても、主に仕えるように、であり、どんな働きであっても、主の栄光を現すために、なのです。

ですからイエス様が来られるまでも、漫然と待っていて良い訳ではありません。

聖霊を受けてからの働きを想定して、聖霊を受けはいない中で、日常の仕事にも取り組むのであり、魚を獲る仕事は、人間と獲る働きを想定して、なのです。

シモン・ペテロたちは、漁の経験があり、ガリラヤ湖で夜通し働いたならば、そこそこの成果を上げられると確信していた事でしょう。

しかし、予想と反して、全く何も、雑魚一匹も獲れなかったのです。

本当にがっかりした事でしょうが、これでは、人間を獲る働きに就いても、同じ結果を見る事になるでしょう。

人間を獲る働きは、経験と頑張り、協力と共働ではありません。

人間を獲る働きは、聖霊の働きであり、イエス様と一緒の働きです。

それを経験するのが、このガリラヤ湖での漁の働きなのです。

21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。

弟子たちが、岸辺に立たれるお方をイエス様だと認識出来なかったのは、夜が明け染める頃合の、薄暗がりの中だったから、と云う理由も、あったでしょうが、復活のイエス様との出会いは、それと分からないようにされているのであり、主なる神様のご計画です。

マグダラのマリヤ、然りであり、エマオ途上の弟子たち、然りなのです。

面と向かっても、イエス様であると分からなくされているのであり、復活のイエス様だと分からないからこそ、先入観が妨げとならないからこそ、色々な事を学べるのです。

知識は重要であり、必要ですが、変な知識は固定観念、先入観となり、真実を受け入れる事の妨げとなりかねません。

復活のイエス様だと分からなくされているからこそ、正直な気持ちが現れるでしょうし、

本音の質問も出るのではないでしょうか。

夜通しの働きが不漁に終わり、疲労困憊、がっかりしている弟子たちですが、夜が明け染める頃合の、うす暗がりの中であり、弟子たちの表情や、漁の成果は見えませんが、イエス様は確信的に声を掛けられます。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」

子どもたちよ」は「若者たちよ、友たちよ」の意味であり、「食べる魚」は「パンと一緒に食べる副菜」の意味です。

イエス様の質問は、否定の答えを想定しての質問であり、弟子たちは、疲れ切って力もなく、弱々しく「ありません」と答えます。

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。

弟子たちは、夜通し働いて、疲れ切ってはいましたが、イエス様の威厳ある声、権威の込められた命令に従って、徒労に終わると思いつつ、網を打ちます。

その時、網が破れそうなほど「おびただしい数の魚」が獲れたのです。

その数、153匹でした。

勿論、メダカや公魚(わかさぎ)の様な小魚が153匹ではなく、鱒や鯉の様な大型の魚が153匹であり、大漁中の大漁となったのですが、それもこれも、イエス様が共に居られたからであり、イエス様に従ったからです。

日常の働きにも、生活の働きにも、イエス様が関わられるのであり、イエス様が関わられる時、大きな祝福を受けるのです。

日常の働きや生活のための働きと、宣教の働きや伝道の働きは、別物ではありません。

日常の働きや生活のための働きの同一線上に、宣教の働きや伝道の働きがあるのです。

宣教の働きや伝道の働きだけが、イエス様の祝福や聖霊の助けを受けるのではなく、日常の働きや生活のための働きも、イエス様の祝福や聖霊の助けを受けるのです。

ヤコブの手紙310節、2017版は461ページ、第3版は448ページ、

3:10 同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。

3:11泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。

3:12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。」であり、日常の働きや生活のための働きで賛美がある者は、宣教でも伝道でも賛美があり、日常の働きや生活のための働きで不平と不満を述べる者は、宣教でも伝道でも不平と不満を述べ、常日頃、人を慰め、励ます者は、宣教でも伝道でも人を慰め、励まし、常日頃、陰口をたたき、ののしる者は、宣教でも伝道でも陰口をたたき、ののしるのです。

教会生活は大事にするけれど、家庭生活は等閑(なおざり)であってはならず、伝道の働きは重要だとし、生活のための働きを軽く見るのは間違っています。

日常の働きや生活のための働きに不誠実な者は、宣教の働きや伝道の働きにも不誠実であり、日常の働きや生活のための働きに誠実な者は、宣教の働きや伝道の働きにも誠実なのです。

日常の働きや生活のための働きで手を抜く者は、宣教の働きや伝道の働きでも手を抜くのです。

大切なのは何時でも、何処でも、誰にでも、何にでも、変わらない対応を心がける事であり、そんな人に、イエス様は現われ、聖霊様が助けてくださる、のではないでしょうか。

その時、私生活も、教会生活も祝福されるのです。

21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。

裸に近かった」は、日本風に言い換えるなら「褌一丁」と云うところであり、「上半身裸」の意味でしょう。

漁という働きでは、服は波を被り、濡れて肌に纏わり付き、作業の邪魔になりますから、褌一丁こそ、漁師の働きに相応しい姿であり、皆も似たり寄ったりな姿だったのでしょうが、

シモン・ペテロ」は「上着をまとい」、「湖に飛び込」みます。

シモン・ペテロ」なりの、イエス様に対する敬意や親愛の情の現わし方でしょうが、だからといって、他の皆が、イエス様に敬意を現していない、親愛の情を持っていない、と言いたいのではありません。

この「シモン・ペテロ」の行動は、突っ込みどころ満載です。

魚を引き上げるという、重要、大切な共同作業を放棄したのであり、一人だけ先にイエス様に会いに行くなんて、チューずるいですし、夜通し働いての、疲労困憊の中での水泳は危険ですし、上着を纏っての水泳は危険です。

でも、それを補う行動だったのであり、イエス様に一刻も早く会いたい、と云う気持ちの現れですから、賞賛しても良いでしょう。

しかし、皆も「シモン・ペテロ」に倣え、と言いたいのではありません。

もしも、皆が湖に飛び込んだなら、網を手放したならば、せっかく獲った魚は逃げてしまい、網は沈んでしまい、舟を取りに行かなければならなくなり、損失は甚大です。

それぞれが、それぞれの思いで、イエス様に従い、敬意を現し、親愛の情を持てばよいのであり、他人と比較する必要も、他人と一緒である必要性も全くありません。

そして、こんな時は、文句や愚痴の一つも出そうな場面ですが、誰一人として、シモン・ペテロに文句を言ったり、不平を口にしていない事にも注目しなければなりません。

繰り返しますが、それぞれが、それぞれの思いで、イエス様に従い、敬意を現し、親愛の情を持てばよいのであり、他人と比較する必要も、他人と一緒である必要性も全くありません。

しかし、過ぎたるは・・・であり、節度と秩序を持って、を忘れてはなりません。

21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。

3節でも、8節でも「小舟」と訳されていますが、七名が乗り込み、網を打つだけのスペースが必要なのですから、井の頭公園の池や不忍池に浮かんでいるような小船ではなさそうです。

「一ペキス」は約45cmですから、「二百ペキス」は90mです。

大した距離ではありませんが、何人かが魚の一杯入った網を持ち、何人かで漕いだのでしょうから、戻るまでには、多少の時間がかかった事でしょうし、時間帯によっては、山から湖に向かって風が吹き降ろして来ますので、漕ぎあぐねたかも知れません。

それでも、網が破れる事なく、舟が転覆する事もなく、無事に岸にたどり着き、皆がイエス様と再会するのです。

【適応】

ガリラヤでイエス様との再会の時を待っていた弟子たちは、十二使徒と呼ばれる弟子たちですが、専門職ではなく、使徒職を支える仕組み、制度が整っていなかったので、即ち、祭司やレビ人のように、生活に必要な金品が支給されていた訳ではありませんから、生活のために働きながら伝道、宣教していました。

ガリラヤでイエス様との再会の時を待っていた弟子たちは、人の助けや、施しを当てにして生活していたのではなく、生活のために、自身が働いたのです。

これは、非常に重要な事です。

イエス様の弟子は、しっかり働き、人の助けや、施しを当てにして、怠惰な生活していてはならないのです。

現代に適応するならば、教会を当てにして、教会に施しを求めるのではなく、教会に献げ、教会は、本当に助けを必要としているところに、支援の手を差し出すのです。

また、専門職である牧師や宣教師の生活を全面的に支えるのです。

牧師や宣教師が、宣教団体が、その働きに専念出来るためにです。

弟子たちは、この世の働きでも、誠実に、忠実にその責任を果たさなければなりません。

テサロニケ第一411節、2017版は412ページ、第3版は399ページ、

4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。

4:12 外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです

この御ことばが語られたのは、仕事もせず、浮き足立った生活をし、怠惰な生活を送り、人の世話になる事を、当たり前と思い、遠慮も、節度も、尊厳も、品位もない生き方を、他でもない、クリスチャンと呼ばれる人たちが、送っていたからです。

クリスチャンの、悪しき習慣、悪を見逃す事を、不適切な言動に目を瞑る事を、愛だと思い、細かい事を注意するのは、了見が狭い、不寛容と思われる、など、「愛」や「赦す」事の意味を履き違い、それを自他共に行なっていたのです。

勿論、ほんの一部の人たちの言動でしょうが、ほんの一部でも、影響は非常に大きいのです。

特に、教会の中心的なクリスチャンや、古参クリスチャンなどが、陰口を叩き、批判的なことばを口にするなら、その悪しき影響は、教会を混乱させ、破壊させます。

逆に、ほんの一部のクリスチャンたちでも、尊厳と、品位を持って生きるなら、家庭でも、学校でも、会社でも、社会でも、一人一人がクリスチャンとして自覚し、しっかり責任を果たすなら、クリスチャンは評価され、至っては、主なる神様、イエス様が称えられ、主なる神様、イエス様の栄光が現されるのです。

愛を持って、注意、叱責するのであり、悔い改めたなら、完全に赦すのが、クリスチャンの言動です。

私は漁に行く」は、私生活でも、信仰生活でも、クリスチャンとしての責任を果たす生き方の宣言であり、一信徒の、この世に及ぼす影響力が少なからぬ事を宣言しているのです。

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                           2019-8-11礼拝

聖書個所:サムエル記第一5:112              

説教題:「ペリシテ人を打つ主の御手」

【導入】

創造者にして支配者なる神様はお約束を必ず守られるお方です。

そのお約束は良い事であっても、悪い事であっても、必ず実現します。

但し、私たちの願い通りではなく、創造者にして支配者なる神様の主権と摂理の中で、と言う条件に於いてである事は忘れてはなりません。

祭司エリに伝えられた、二人の息子ホフニとピネハスに対する「二人とも一日の内に死ぬ」という預言は悲しい事に成就してしまいました。

更に、神の契約の箱と言うイスラエルの宝であり、何としても、どんな犠牲を払っても守らなければならない大切な物が奪われてしまったのです。

神の契約の箱は、主なる神様の臨在の象徴であって、神そのものではありません。

しかし、象徴ではあっても、掛け替えのない大切な物であり、イスラエルの人々の失望、落胆ぶりは非常に大きく、とても戦争を維持できる状態ではなく、各々が自分たちの天幕に逃げ帰ってしまいます。

この訃報と悲報がもたらされると、シロの町には泣き叫びが起こり、祭司エリは死に、ピネハスの妻も生きる力を失い、「栄光はイスラエルを去った」と叫んで死んでしまいます。

この「栄光はイスラエルを去った」と言う告白は、ある意味では正しいのですが、本当の意味では間違っています。

何故なら、神の栄光は神の契約の箱によって現すのではなく、イスラエル人の生き方で現すものであり、唯一の神に従う事によってしか現せないものだからなのです。

イスラエル人は偶像にも仕え、唯一の神にも仕えると言った生活を送って来ました。

それは主なる神様の忌み嫌われる事であり、そんなイスラエル人に耐え切れず、イスラエル人を助ける事なく、イスラエル人を離れて行かれたのであり、その現れが神の契約の箱が奪われると言う形でイスラエルの人々に示されたのです。

しかし、神の契約の箱は只の箱ではありません。

神の契約の箱、そのものには何の力もありませんから、戦場に持ち出してもイスラエル人を助けてはくれませんでしたが、神の契約の箱には主なる神様の目が注がれています。

不当な扱いを受けたり、畏敬の念を現さなければ、主なる神様の御手が下る事になります。

イスラエル人を打ち破ったペリシテ人は、神の契約の箱を戦利品として奪い、戦場から意気揚揚と引き上げて行きました。

【本論】

5:1 ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデに運んで来た。

先日学んだように、エベン・エゼルはイスラエル人が陣を設営した場所です。

そこに安置されていた神の契約の箱は、ペリシテ人の支配する町の一つ、アシュドデに運ばれました。

アシュドデは巻末の地図、2017版は「地図4、イスラエルの各部族への土地の割り当て」を、第3版は「12部族に分割されたカナン」をご覧頂きますと、地中海沿岸、左下の方にあります。

ペリシテ人は大きく5つの都市国家に分かれて住んでおり、5人の王様がそれぞれの都市国家を支配していました。

イスラエル人が陣を敷いたエベン・エゼルの場所ははっきり特定出来せんが、ペリシテ人が陣を敷いたアフェクはエフライム部族の所有地の北西にあり、そこから南西へ凡そ50km離れたアシュドデに神の契約の箱を運んで来たと言うのです。

5:2 それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

ペリシテ人は多神教の人々です。

ご利益があるなら、何だって拝み奉る人々です。

イスラエル人の神であっても、ご利益があるならと、ペリシテ人の信じる神々の主神であるダゴンの宮に運び込み、そこに安置したと言うのです。

イスラエル人を守らない神の契約の箱なのに、単なる戦利品と見なされず、神々の一つとして安置した、と言うところに、人間の愚かさを見て取る事が出来るでしょう。

何でもいいから、いっぱいあった方がいい。あれもこれも。そうすれば、こっちが駄目でも、あっちがある。あっちが駄目でも、そっちがある。

人間は保証を求めて、あっちこっちに手を伸ばしますが、本当に必要なのは一つであり、それを取捨選択しなければならないのです。

幾つのも保険を掛けて置きたいと思うのは、人間の自然な感情かも知れませんが、主なる神様は、私たちに一つを選択するように願っておられます。

主なる神様はイスラエル人の神でありますが、世界が主なる神様によって造られたからには、全ての人の神も、唯一お独りであり、主なる神様はそれに気付くように願っておられます。

ペリシテ人にも、神はお独りであると気が付く様に、主なる神様は不思議をなされます。

 

5:3 アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

うつぶせ」と言う姿は、平身低頭の姿であり、従順、恭順の現れです。

ペリシテ人の信じるダゴンが、神の契約の箱にひれ伏す姿は、イスラエルの神がダゴンより上位にある事の証しであり、勿論、ダゴンは人間が作った単なる像に過ぎませんが、動くはずのない像が動いて、イスラエルの神を礼拝している光景を目撃させ、唯一の神様自らが、唯一の神の存在を証しされたのです。

しかし、人間という生き物は恐ろしく鈍感であり、頑なであり、自分の都合の良いようにしか、物事を解釈しません。

人が運ばなければ、動かさなければ、何日でも何年でも、置かれたままの状態なのに、そのダゴンの像が、イスラエルの、神の契約の箱の前にひれ伏しているのに、何も感じ取る事が出来ずに、倒れていたダゴンの像を起し、元の所に安置させるのでした。

5:4 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。

5:5 それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。

ダゴン」と言う神は、伝承によれば穀物の神、豊穣の神であり、バアルの父であるとされ、また、語源が「魚」を意味するので、下半身が魚の半魚神であったのではないか、水を支配する魚をイメージし、豊かな実りを祈願したのではないかとされています。

4節で頭と両腕が切り離されていた事が記され、脚には言及されていないので、この半魚神と言う説が支持される理由となっているようです。

半魚神であるかどうかはさて置き、不思議はダゴンから、アシュドデの人々に及ぶようになって行きました。

5:6 主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。

この災害は64節に記されているように「ねずみ」によってもたらされた事がはっきりしています。

そこで、この「腫物」はペストによるリンパ節の腫れではないか、と考えられています。

ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛みます。

リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がるそうです。

ペスト菌は肝臓や脾臓でも繁殖して毒素を放出するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、多くは1週間くらいで死亡するそうです。

死亡率は50から70パーセントと言われています。

ペストは放置しておけば半数以上が死ぬ恐ろしい伝染病であり、そのペストと考えられる伝染病を用いて、主なる神様はご自身をペリシテ人に現されたのです。

この主なる神様のお考えの通りに、

5:7 アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」

と、この伝染病の原因が、「ダゴン」の像に起こった事の原因がイスラエルの神にある事を告白します。

自分たちの信奉するダゴンの無力さを知り、48節で「ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、われわれを救い出してくれるだろうか。これは、荒野で、ありとあらゆる災害をもってエジプトを打った神々だ。」と告白し、更に今回の伝染病を通してイスラエルの神の力を知らされながらも、真の神様に帰依しないところに、人間の頑なさが現れています。

5:8 それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。

ガテ」と言う都市はアシュドデの東20km程離れたところにあり、ペリシテ人の領主の一人が支配する都市国家です。

力ある神に出会い、その力を目の当たりにしても、ダゴン礼拝を止めず、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と謙り、悔い改める事をせず、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と、人間中心の生き方を改めようとしない人間の罪深さにはあきれるばかりです。

5:9 それがガテに移された後、主の手はこの町に下り、非常な大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。

5:10 ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」

神の契約の箱の行く先々で非常な大恐慌が引き起こされます。

エクロン」と言う都市は「ガテ」の町の北、10km程の所にある都市国家です。

防備は固くても、衛生と言う観念の稀薄な時代であり、薬も治療方法も稚拙な時代ですから、伝染病の蔓延には、成す術がなく、ただただ恐怖に慄くしかなかったのです。

神の契約の箱を持ち出しても、送り返しても、真の解決がなされなければ、それらの行為は一時的な気休めにしかならず、無駄な労苦にしかなりません。

かえって災厄を広げる結果しかもたらさないのです。

5:11 それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。

5:12 死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。

この5章には3つの都市の名前が記され、災害に見舞われた事が記されていますが、実際には次々と飛び火し、その災厄は村々町々に蔓延していったのです。

数年毎に発生する、鳥インフルエンザや豚コレラなどは記憶に新しい出来事です。

対策遅れなどが指摘されてはいますが、徹底した殺処分と移動の禁止、交通遮断、薬の散布を行なっても、簡単には終息宣言が出されません。

壊滅的な被害を受けた養鶏、畜産農家は数知れません。

伝染病の蔓延は、現代でも阻止するのが大変な作業である事は洋の東西を問いません。

ましてや、人間への直接の被害をもたらす伝染病は現代とは比べ物にならない恐怖であり、本当に命が危ぶまれる、悲痛な叫びが上げられたのでした。

主なる神様はこのようにしてペリシテ人を打たれました。

神の契約の箱は、戦場に持ち出されたときには何の働きもしませんでしたが、イスラエル人の手を離れてから、主なる神様は働きを始められたのです。

主なる神様は私たちの期待通り、願い通りになさるとは限りません。

主なる神様は私たちの僕、召使、便利屋さんではないからです。

私たちこそが、主なる神様に仕える者であり、主なる神様の僕、召使、働き人なのです。

主なる神様は私たちの気付かない所、見えない所で働かれます。

このサムエル記5章でも、イスラエル人の全く知らない所で、主なる神様は働かれ、ペリシテ人を打たれたのです。

伝染病で亡くなったペリシテ人の人数は記録されていませんが、ペストの流行が非常に甚大な被害をもたらす事は、周知の事実です。

当時の都市国家はヨナ書に記されているように12万人前後が参考になると考えてよいでしょう。

その50%から70%が死んだのです。

しかも、一つの都市ではなく、三つの都市、その近隣、周辺の町々村々にも蔓延したのですから、20万人以上の人々が死に、相当数の人々が後遺症に苦しんだのです。

【適応】

主なる神様は主なる神様に信頼する者を必ず助けて下さいます。

但し、願った通りではないかも知れませんし、即時ではないかも知れません。

しかし、目に見えない所で、私たちの知らない所で働かれる事もあるのです。

イスラエルの人々は、神の箱を奪われてから、61節に記されているように7ヶ月も野原に放置されていることも、神の箱がどこにあるかもわからなかったのですが、その間、主なる神様は神の契約の箱とともにおられ、休まれる事もなく、ペリシテ人に災いを与え続け、恐怖を与え続け6章の記事へとつながって行くのです。

ペリシテ人とイスラエル人との直接の戦いではイスラエル人4000人が打たれ、主なる神様が与えた疫病でイスラエル人3万人が倒れましたが、ペリシテ人への伝染病は、その10倍にも匹敵するような被害を与えたのです。

助けて欲しかった時には、何の助けも与えられず、落胆、悲報にくれましたが、主なる神様はイスラエル人を見捨てた訳ではなく、ペリシテ人の所に残って、捕虜のようになり、ダゴンの宮に奉納されるという屈辱的状況に置かれましたが、圧倒的な勝利を得ておられたのです。

主なる神様は決してイスラエル人を、約束の民を見捨てる事はないのです。

見捨てる事はないのですが、甘やかし、何でも言いなりになるお方でもありません。

見捨てたように見えても、背後で働いて下さり、悔い改めて帰ってくるのを待っておられるお方である事を忘れてはなりません。

また、主なる神様の働きは目に見える変化を起すものだけではありません。

見えない所で働かれ、人を変え、状況を変えて下さいます。

後になって、主なる神様が働かれていた事を知らされる事もあるのです。

この5章の史実は、イエス様の十字架の出来事の予表と言われています。

イエス様は、祭司長たちに捕らえられ、なぶられ、見世物にされ、十字架の上で死にましたが、それは見掛けだけのものであり、私たちの知らない所でその使命を果され、死に打ち勝たれ、栄光を現されました。

神の契約の箱は、ペリシテ人に略奪され、ダゴンの宮に奉納され、盥回しにされましたが、ペリシテ人を打ち破り、栄光を現されたのは、神の契約の箱に象徴される唯一の神様だったのです。

神の契約の箱に象徴される、生きた神の臨在に触れたとき、私たちはどのように対応したら良いのでしょうか。

ペリシテ人のように、本当の神様には出て行って頂く、帰って行って頂くのが正しい対応でしょうか。

12節のように、苦しさを呪い、叫ぶのが正しい反応でしょうか。

それとも、苦しみを通して、本当の神様に出会った事を感謝し、今までの偶像礼拝、多神教、自己中心の生き方を悔い改めて、本当の神様の下に額ずく事でしょうか。

苦しみの中で叫んでも、神を呪っても解決はありません。

正しい選択こそが解決を与えるのです。

苦しい時の神頼みではありませんが、苦しい時こそ、自分の生き様を顧みるチャンスと言えるでしょう。

イスラエル軍の敗北、祭司の息子の死、神の契約の箱を奪われると言う屈辱。

ペリシテ人には、自分の信じていた神の敗北、伝染病の蔓延を通して、主なる神様は悔い改めのチャンスを与えて下さっているのです。

逆境の時は勿論の事、順調に進んでいる時は尚更の事、主なる神様との関係を点検して歩んで行きたいものです。

ここにおられる皆様が、神の臨在に触れたとき、拒絶するのではなく、逃げ出すのではなく、心を閉ざすのではなく、心に入って頂き、王座に座って頂き、主なる神様のご支配に委ねて得られる平安に生きられるよう、願ってやみません。

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聖書箇所:ヨハネの福音書2030節~31

説教題:「ヨハネの福音書執筆の目的は」

【導入】

世の中には、色々なジャンルの書籍、学術書、歴史書、伝記、小説、雑誌などなどが溢れています。

洋書も手軽に手に入りますし、ネットを利用すれば、探し回る苦労もなく、目的の書籍を探し出す事が出来ます。

まあ、独特の匂いの漂う古本屋で、ひと時を過ごすのも、楽しみの一つではあり、目的以外の、思わぬ書籍と出会う楽しみもありましょうが、わざわざ神田などの古本屋街に足を運ばなくても、絶版になってしまった書籍を探す事が出来ます。

それらの書籍が執筆された目的は、知識の公開であったり、教養を高めたりするためであり、文化として共有財産とするためでありましょう。

また、娯楽の一分野であったりもし、人生、生活に潤いを与えますが、時には、毒になりかねない書籍もないではありません。

非常に偏った、過激な思想の書籍や、不安を煽るような内容の書籍や、扇情的な内容の書籍は、よく吟味しなければなりません。

これらの書籍の著者は、自分の思想やアイデアを文章に纏め上げた訳であり、自分の考えを世に発表したに過ぎません。

勿論、著述業として、生活のために執筆し、印税収入に大きな期待をかけているでしょうし、著作が、世に大きな影響を与える事も、執筆活動の原動力ではありましょう。

さて、私たちは、今、「聖書」を手にしています。

「聖書」は、文字通り「聖なる書物」であり、「聖(せい)」の意味は、勿論、「聖い」ですが、「区別されている」の意味でもあり、世の中の書籍とは区別されています。

何故でしょうか。

ヨハネの福音書は何と語っているでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

イエス様のご生涯は、イエス様のなされた「しるし」は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、そして、このヨハネの福音書に記されています。

それぞれ、別の人物が、それぞれの視点で記しているので、違いがあります。

同じ「しるし」を扱っていても、全く同じではなく、差異があります。

この時代、筆記用具は、一般的ではなく、ある意味、貴重品であり、識字率も高くはありませんでした。

ボイスレコーダーがあった訳でも、専属の書記がいた訳でもありません。

記憶に頼って、後日、書き記したのであり、「しるし」に違いが生じるのは、無理からぬ事です。

因みに、それぞれの福音書の執筆年代ですが、マタイの福音書は、西暦60年代に執筆されたのではないか、と考えられており、マルコの福音書は、西暦50年代とも、68年ごろとも考えられており、ルカの福音書は、西暦60年以前に執筆されたのではないかと、考えられています。

そして、このヨハネの福音書は、西暦85年から90年の間に執筆されたのではないかと考えられています。

マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書は、イエス様の復活後、昇天後、20年から30年後に執筆されたのであり、ヨハネの福音書に至っては50年以上経ってから執筆されたのです。

「記憶」が唯一の時代であり、現代の「記録」に頼る我々とは違って、相当鮮明に記憶していたとしても、齟齬が生じるのは当然ですが、福音書が執筆された目的は、正確な記録ではなく、「しるし」全ての網羅、羅列でもありません。

幾つかの重要な「しるし」を、選択的に記述する事で、目的は充分果たせます。

即ち、イエス様の身分と、イエス様のお働きが何であるか、に繋がる「しるし」です。

ですから、四つの福音書を見比べて、「しるし」の違いを論議するのは、全く意味がありません。

ヨハネの福音書に記されたイエス様の行なわれた言動は、ほんの一部に過ぎないのですが、イエス様の身分と、イエス様のお働きが何であるか、を示すには充分なのです。

20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

ヨハネが、イエス様のなされた「しるし」を記し、イエス様のご身分と、イエス様のお働きを書き記したのは、或いは、聖書記者が、天地創造の経緯、ユダヤ人の歴史、多くの預言の言葉を書き記したのは、ベストセラーになって、印税ががっぽり入る事が目的ではありません。

イエス様のご生涯は、波乱万丈であり、行なわれた「しるし」は目を見張るものですが、マタイもマルコも、ルカもヨハネも、イエス様の伝記を記したのではなく、イエス様を偉人の一人として扱ったのでもありません。

福音書が執筆された第一の目的は、「イエスが神の子キリストであること」を示すためです。

イエス様は、決して、偉人の一人でも、聖人の一人でも、教祖の一人でもありません。

イエス様は、偉人の部分を持ち合わせ、聖人の筆頭に上げられるでしょうし、教祖として扱っても強ち間違いではありませんが、これらは、二次的、副次的な評価であり、本来の姿は、「神の子」であり、「キリスト」、即ち「メシヤ」である、と云う事です。

キリスト」、或いは「メシヤ」とは、「王、祭司、預言者が、その職務に任命される時、油を注がれる」事であり、任職を受けた事を現す言葉ですが、後に「救済者」をも意味するようになります。

時代によって、意味合いは変化しますが、イエス様が、「王、祭司、預言者」であり「救済者」である事を、ヨハネは明確に語っているのです。

神の子」だから、偉人の部分を持ち合わせ、聖人の筆頭に上げられるでしょうし、教祖として扱っても強ち間違いではないのですが、「神の子」である事を、なおざりにしたならば、いい加減に扱うならば、「キリスト」、即ち「メシヤ、油注がれた者」である事を、はっきりと表明しないならば、有耶無耶にしたならば、ヨハネの福音書も、マタイの福音書もマルコの福音書も、ルカの福音書も、意味はありません。

神の子キリスト」が語られなければ、「福音書」ではなくなります。

神の子キリスト」が語られなければ、単なる偉人伝であり、世界に影響を与えた人リストに挙げられた一人にスポットを当てた、単なる特集版でしかなくなります。

神の子キリスト」を伏せておいて、偉人伝、聖人伝、教祖伝として語るなら語り易いでしょうし、人々は聞く耳を持つでしょうが、「神の子キリスト」を語り出した途端に、拒絶されるでしょうが、「神の子キリスト」の事を伏せてはならないのであり、「イエスが神の子キリストであること」を示すのが、福音書の第一目的なのです。

第二の目的は、「あなたがたが信じるためで」す。

ここでは「信じるため」と訳されていますが、「信じ続けるため」と訳す事が出来ます。

福音書が執筆された目的は、イエス様を「信じ続けるため」です。

イエス様を信じる、或いは信じ続けるのは、容易な事ではありません。

概念的な理解や、感情的な熱意では、長続きしません。

聖書は、創造者にして支配者なる神様、主なる神様、悪を憎み、汚れを忌み嫌われる神様、人間を愛し、関係を維持しようと苦心され、人間の罪の故に断たれた関係を回復なさろうとされる神様の事を正しく知るためであり、主なる神様のご計画、イエス様をこの世に送られた目的を正しく知るためであり、これらの原理、原則を信じ続けるためです。

人間は、一度聞いても、時間が経つと、大部分を忘れてしまい、自分にとって都合の良い解釈に変えてしまいます。

常に、原理、原則を忘れてはならず、原理、原則を確認する必要があるのです。

毎週の、主日毎の説教だけでは、その必要に応える事は出来ません。

ですから、毎日の聖書通読は必要不可欠、絶対条件です。

ここで、聖書を読めない環境、特殊な状態に置かれている人にも、聖書通読を強制しているのではありません。

特殊な状態でもないのに、聖書通読の優先度を、趣味や娯楽よりも低くしているならば、それは大問題だ、と云っているのです。

人は、弱気になり易い者であり、疑い易い者であり、迷い易い者であり、不安になり易い者であり、一度信じたら、一切の弱気、疑い、迷い、不安と無縁になる訳ではありません。

絶えず、弱気に苛まれ、疑いが去来し、迷いが襲い、不安が募ります。

信じ続ける事は、決して簡単な事、自然な事、当たり前の事ではないのです。

信じ続けるために、弱気、疑い、迷い、不安を払拭するために、福音書、聖書が執筆されたのです。

大事なのは、弱気になった時、疑いを持った時、迷いを感じた時、不安が襲った時に福音書、聖書、御ことばを読むのも有益ですが、普段からの、御ことばの蓄積が重要であり、泥縄、付け焼刃は、いざと云う時に役に立ちません。

そもそも、御ことばの蓄積が足りないから、弱気に苛まれ、疑いが去来し、迷いが襲い、不安が募るのではないでしょうか。

第三の目的は、「信じて、イエスの名によっていのちを得るためで」す。

創造者にして支配者なる神様の御子イエス様の事を正しく知り、信じ続けるのは、「イエスの名によっていのちを得るためで」す。

クリスチャンと呼ばれるに相応しく、聖く正しく、美しい人生を送るためでも、徳を積むためでも、人からの賞賛を受けるためでもありません。

イエスの名によって」、即ち、イエス様のお名前を通して、永遠の命を得るためであり、永遠の命は、イエス様を私の罪の贖い主、と告白する者に与えられるのであり、永遠の命は、イエス様のお名前によってしか得られず、それ以外の、如何なる方法、修行、訓練、犠牲、奉仕、献金などによってもたらされる事は絶対にありません。

これらが、福音書、或いは、聖書が記された目的です。

福音書は、聖書は、決して道徳の書でも、人生訓でも、理想的な人間とは、について書かれた指南書でもないのです。

【適応】

ヨハネの福音書、そして聖書66巻が執筆された目的は、創造者にして支配者なる神様の事、即ち、父なる神様の事、御子イエス様の事を正しく知るためであり、私たちの罪が贖われる方法と、私たちが救われる方法とについてであり、それ以外の効能があるとしても、即ち、罪を犯さなくなり、汚れに近づかなくなり、御霊の実を結ぶようになったとしても、それらは、副次的であり、二次的なものでしかありませんし、罪が贖われ、罪が赦される条件ではありません。

ヨハネの福音書、そして聖書66巻が執筆された目的は、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり」、「信じて、イエスの名によっていのちを得るためで」す。

それ以上でも、それ以下でもありません。

信仰は、漠然とした「神」を信じる事ではなく、洗礼を受けると救われ、礼拝を献げ、献金を献げ、聖餐を受けるとクリスチャンでいられる訳でも有りません。

イエス様を、天地の創造者であり支配者である神の御子と信じ続け、このイエス様の犠牲によって救われる、イエス様がお持ちの「義」が、罪人に転化されて、罪人が「義人」と見做される、と信じる事です。

簡単な事であり、何かとてつもなく難しい課題をクリアしなければ達し得ない事ではありませんが、課題や目標がないだけに、達成感や到達感もなく、確信を持ち難いのも、確かです。

洗礼を受けるに際して、聖書知識を確認したり、信仰生活の基本を学び、洗礼後も学びを継続しますが、大事なのは、信仰告白であり、福音書を読む事で、「イエスが神の子キリストであることを」心で信じて、口で告白する事により救われ、「信じて、イエスの名によっていのちを得る」のです。

救われるためであり、永遠のいのちを得るためであり、良い人になるとか、正しい人になるとかが目的ではありません。

家庭円満になるためであるとか、人間関係を円滑にするためではありません。

イエス様のお人柄を知って、似た者となる事を目標に生きるのでもありません。

患難辛苦に耐え、不当な扱いに甘んじるために、イエス様の生き様を学ぶのでもありません。

福音書は、聖書は、歴史書の形式を取り、預言書の形式を取り、人物伝の形式を取り、手紙の形式などなどを取りますが、目的は、「イエスが神の子キリストであることを」伝え、「信じて、イエスの名によっていのちを得るためで」す。

さて、「福音書」「聖書」の必要性、大切さについて語ってきましたが、これは、決して、他の一般書籍を否定しているのではありません。

或いは、映画などの娯楽文化の類などを否定しているのでも、一般社会問題や政治、学際などなどを扱った講演会やシンポジウムなどの学びを否定しているのでもありません。

また、クリスチャンだけの交際を奨励し、一般社会とは距離を置く事を奨励しているのでもありません。

「井の中の蛙」にならないために、ある意味、積極的に社会の情勢、動向を知らなければなりません。

社会の情勢、動向を知らなければ、善し悪しの判断の付けようがなく、対処の仕様がないからです。

世情に疎くては、簡単に騙されてしまいます。

救いに関しても、然りです。

いい加減な救済論や贖罪論、異端の巧みな誘いに騙されないためにも、ある程度の知識は必要です。

そのためにも、キリスト教関係書籍も、益ではありますが、補助的なものであり、「イエスが神の子キリストであることを信じ」、「信じ続けて」、「イエスの名によって永遠のいのちを得る」ために必要なのは、「福音書」「聖書」のみであり、他には一切ない事は、しっかり、記憶していただきたいと、切に願います。

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