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                                                              2019-9-29礼拝

聖書個所:サムエル記第一61節~12節            

説教題:「異教の占い師たちの進言」

【導入】

イスラエル人との戦いで、圧倒的な勝利を得、

更にイスラエルの宝である神の箱まで手に入れて、意気揚揚と引き上げて行ったペリシテ人でしたが、

神の箱を持ち込んだと同時に、災厄をも持ち込んでしまったのでした。

偶像ではあっても、ペリシテ人にはペリシテ人の信じる、ペリシテ人を守る神様があるのですから、

イスラエル人の神の箱などには一顧だにすべきではなく、

自分たちの信じる神様だけに忠誠を献げるべきです。

それなのに、イスラエルの神様までも自分たちの下に引き込んだために、混乱や災厄が舞い込んでしまったのです。

多神教は、つまり一途でない信仰は結局の所、何も信じていないのと同じなのではないでしょうか。

「一途」と言うのは、現代のような多様性の時代には嫌われる行為かも知れませんが、

信仰は一途であってこそ「信仰」と言えるのではないでしょうか。

熱心であっても八百万の神々に願掛けをするようであっては、誰も助けてくれないのではないでしょうか。

一途だからこそ、その人も何とかしようという気になるのではないでしょうか。

「困った時の神頼み」であったとしても、一途であるなら、それはそれで立派と言えるでしょう。

多くのご利益を願って持ち込んだイスラエルの神の箱ですが、ペリシテ人には災いをもたらすものとなりました。

この災厄で、偶像礼拝の愚かさに気付き、

本当に力のある神様に目を向け、悔い改めれば良かったのでしょうが、

人は頑なであり、トコトン強情であり、神様に平伏すことを選ばず、神様に出ていって頂くことを選択するのです。

最初アシュドデに下された災厄は、神の箱の移動とともに、その行く先々でペリシテ人の町々村々にも下され、各地に悲鳴が起こりました。

戦利品として、幸せをもたらす神様の一つとして持ちかえった神の箱ですが、

災厄をもたらす神の箱を受け入れてくれる所はなく、神の箱は野晒しになってしまっていたのです。

【本論】

6:1 主の箱は七か月間ペリシテ人の地にあった。

七ヶ月もの間、野晒しにされても、それで神様の力が弱まることはありません。

忘れようとしても、見ないようにしても、神様の力は厳然としてそこに存在するのであり、

ペリシテ人に災いを与え続けるのです。

困り果てたペリシテ人は、対策会議を開きます。

6:2 ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「主の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」

6:3彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒されるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」

6:4 人々は言った。「私たちが送るべき償いのものは何ですか。」彼らは言った。「ペリシテ人の領主の数に合わせて、五つの金の腫物、つまり五つの金のねずみです。彼ら全員、つまりあなたがたの領主たちに、同じわざわいが下ったのですから。

6:5 あなたがたの腫物の像、つまり、この地を破滅させようとしているねずみの像を造り、それらをイスラエルの神に貢ぎとして献げなさい。もしかしたら神は、あなたがたと、あなたがたの神々、そしてあなたがたの地の上にのしかかっている、その手を軽くされるかもしれません。

ペリシテ人の信じる神様に仕える祭司たち、占い師たちは、彼らの知識においての助言を与えます。

献げ物を付けて、ここペリシテ人の土地から、ペリシテ人の間から、イスラエルの神様に出ていってもらいなさい、と言う提案です。

しかし、神様の力は地域限定、民族限定、時代限定と言ったような、制限されるものではありません。

世界に及び、時代や民族を越える普遍的なものです。

出ていってもらえるようなものではなく、人の思い通りになるようなものではありません。

しかし、偶像礼拝に慣れ親しんだペリシテの祭司たち、占い師たちは、

世界を造られ、世界を支配しておられる真の神様を、人間が考え出したそこらの神々と同じように考えて、出ていって頂く算段を提案するのです。

先にも申し上げましたが、神の臨在にふれた者は、その神の前に降伏し、平伏し、

今までの生き方を修正しなければなりません。

しかし、人は頑なであり、トコトン強情であって、その生き方を変えようとはせず、

神様を追い出す、神様に出ていって頂く、神様から離れる事しか考えないのです。

イエス様の活躍された時代に、イエス様の不思議な力を目の当たりにしても、

イエス様に従うのではなく、イエス様に出ていって頂くように願ったゲラサ人と同じであり(ルカ8:37)、人間の愚かさは紀元前も紀元後も変らないものなのです。

その意味でこの神様に出ていって頂くと言う提案は、的外れな愚かな提案なのですが、

神に対して償いをしなければなりません」という点では的を射たものと言えるでしょう。

私たちの行動、考え、思い、行ないの全ては神に栄光を帰するものでなければならず、

勝利、つまり自分たちが栄光を得るために「神の箱」を持ち出す、イスラエル人のようであってはならないのです。

ではどのようにしたら「神に対して償いを」することが出来るのでしょうか。

何度も「償い」という言葉が出て来ますが、これは「いけにえ」の意味であり、「いけにえ」とは生きた献げ物のことであり、

人間の罪咎を動物の上に転嫁して、その動物を殺す事で、人間の罪咎を帳消しにする行為であり、

罪咎が消された者として、再び神様に仕える事が許されるための儀式です。

つまり、今までの自分中心の生き方を改め、神様の主権を認め、神様に従う誓いの現れです。

神様の前に罪深い者であるとの自覚と、その罪咎を神様に生贄を通して知って頂く、赦して頂くことが重要です。

これが「神に対して償いを」すると言うことです。

ですから、何でも良いから献げれば良いと言うものではありません。

勿論、献げる物が重要なのではなく、献げる心が重要なのであり、

心が込められた、心が現された献げ物である事が重要です。。

例え本来の意味である生きた動物を献げたとしても、

悔い改めの伴わない、形式だけの献げ物には何の意味もなく、何の効果ももたらしません。

しかし、偶像に仕える、否、神様を人間に仕えるものとしか考えない人間は、神様に何かを献げれば、神様は願いを聴いてくれると考えるのです。

ペリシテ人の祭司たち、占い師たちも何かを献げれば事は済むと考えて、

腫物の像とねずみの像を献げる事を提案するに至るのです。

この腫物の像とねずみの像はペリシテ人に下された災厄の象徴であり、

似た物を作り、それを何処かに捨てれば、災厄も消えると考えての行為です。

日本にもある風習ですが、流し雛や、厄払い等にその思想が色濃く込められています。

この祭司、占い師たちの提案に反対する者がペリシテ人の中にいたようです。

彼らはペリシテ人の地に蔓延している災厄を神の箱の所為とは考えず、強行に反対したようです。

その経緯、反対者たちの言葉は、このサムエル記に記されていませんが、反対者への説得のことば、結論だけが記されています。

6:6 なぜ、あなたがたは、エジプト人とファラオが心を硬くしたように、心を硬くするのですか。神が彼らに対して力を働かせたときに、彼らはイスラエルを去らせ、イスラエルは出て行ったではありませんか。

エジプトを脱出した年代や、サムエルが活躍した年代を正確に知る事は出来ませんが、

出エジプトは紀元前1250年頃と考えられています。

サムエルが活躍したのが紀元前1050年頃ですので、200年近く前のエジプトでの出来事が、

遠くカナンの地のペリシテ人にも伝えられ、強烈な出来事として記憶され、語り継がれて来ていたのです。

知識層であり、指導者層である、祭司たち、占い師たちの強い説得にあって、反対者たちは沈黙し、この提案を実行に移す事になるのですが、

ここに来てもまだ、このペリシテ人を襲った災厄の真の原因がイスラエルの神に起因すると断定する事に一抹の迷いがあり

、占い師らしい提案が披露される事になるのです。

6:7 今、一台の新しい車を用意し、くびきを付けたことのない、乳を飲ませている雌牛を二頭の取り、雌牛を車につなぎ、その子牛は引き離して小屋に戻しなさい。

6:8 また、主の箱を取って車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れて、そのそばに置きなさい。そして、それが行くがままに、去らせなければなりません。

どんな動物でも、子どもを持つ母親は神経質になり、時には強暴にすらなります。

普段は大人しく、従順であっても、子どもを守ろうとする本能の現れでしょうが、人間を襲う事もあるのです。

飼い慣らされた牛であって、人を襲う事はなくても、子牛から引き離されたなら、必死になって子牛の下に行こうとするはずです。

それが自然と言うものでしょう。

その自然に逆らう提案ですから、何か見えざる力が雌牛を導かない限り、雌牛は子牛から離れようとはせず、

子牛も母牛を呼び続けるでしょうから、二重に自然に逆らうことが要求される提案であり、

更に、「くびきをつけたことのない」牛と言うことですが、

牛に限らず、動物はくびきに対して強い抵抗を示すものです。

邪魔な物であり、動きを制限される物であり、決して好ましい状態ではありません。

嫌がるのが普通であり、この二重、三重に不自然な状況であっても、それでも

6:9 注意して見ていなさい。その箱がその国境への道をベテ・シェメシュに上って行くなら、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのはあの神です。もし行かないなら、神の手が私たちを打ったのではなく、私たちに偶然起こったことだと分かります。」と神様の臨在を確認しようとする案を提案したと言うことなのです。

また、7節の新しい車を仕立てたり、

くびきをつけた事のない、つまり使役した事のない牛を用意すると言うのも、神の箱や献げ物を運ぶに最適な手続きであり、

使い古しや、有り合わせのもので代用しようとする行為に対する警鐘であり、

最高位に存在するイスラエルの神様に仕えるに相応しい道具立てとは何かを、具体的に教える記述であることは言うまでもないことでしょう。

6:10 人々はそのようにした。彼らは乳を飲ませている雌牛を二頭の取り、それを車につないだ。子牛は牛小屋に閉じ込めた。

6:11 そして主の箱を車に載せ、また金のねずみ、すなわち腫物の像を入れた鞍袋を載せた。

6:12 雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。

雌牛は鳴きながらイスラエル人の国を目指して道を進み続けました。

自然の摂理で、子牛を想い、引き離される事に鳴き声を発しましたが、

神様の力が導いたので、御者が居ないにも関らず、

牛車は右にも左にも逸れる事なく、イスラエル人の国を目指して道を進み続けたのです。

ここにペリシテ人は本物の神様を見出した事でしょう。

ねずみがもたらしたであろう、腫物の害や、農作物の害も、偶然の出来事ではなく、イスラエルの神様の業と確信した事でしょう。

それでも、本当の神様に帰依することに繋がらなかったのは残念な事ですが、

ペリシテ人の神様に接する態度には教えられる事が多々あります。

【適応】

その一つは神様を知るために、試す事が許されていると言う事です。

私たちはイエス様の荒野の40日の出来事から「神を試みてはならない」と教えられていますが、それは、神様が自分を助けるか、助けないか、

自分の願いを聞いてくれるか、聞いてくれないか、

神様を探るような事、疑うような行為を戒めているのであって、

神様を見出すために願うことや、そのために神様の応答を求めることまで禁じているのではないと言うことです。

神様は神様を訪ね求める者に応えて下さるお方であり、

直接ではなくても、存在を知らせて下さり、確信に至るように導いて下さるお方である、そのような願いに応えて下さると言うことです。

イエスの母マリヤは、自分の知識では理解できなかった時「どうしてそのようなことになりえましょう」と疑問を口にしましたが、

神様はマリヤを叱責する事なく「神にとって不可能な事は一つもありません」と応えて下さり、信じるように促して下さったではありませんか。

神様は、自己満足や虚栄心のためにではなく、神様のご栄光が現れるための祈り、願いには応えて下さるお方なのです。

ペリシテ人の神様を試みるような提案であり、行動でしたが、

ぺリシテ人を襲った災厄は神様の所為なのか、偶然なのかの問には、偶然ではない事を示し、これによって神様の存在が明確にされたのであり、ペリシテ人はイスラエルの神こそが本当の神だと知ることが出来たのです。

もう一つは、神様には最高の物を献げ、間に合わせや、使い古し、使いまわしは慎まなければならないという事です。

ペリシテ人に取ってイスラエルの神は、或いは神の箱は礼拝の対象でもなければ、大切な物でもありません。

邪魔物、厄介物であり、それを送り返すだけなのに、それなのに、手間暇掛けて、お金を掛けて新しい車を仕立て、農耕、使役に供した事のない牛を二頭も準備したのです。

牛は大切な財産です。

その大切な牛を二頭も供したのです。

最高の道具立てであり、しかもその道具立ては、二度と戻ってこない物、使い捨てです。

それなのに、異邦人が、異教徒が、最高の物を神様にと準備したのです。

比べて、唯一の神様を信じる者が、その唯一の神様に相応しい最高の物を献げている、と断言出来るでしょうか。

勿論、時には簡素な物しか準備出来ないこともあるでしょうが、それを責めているのではなく、あまりに日常的に、神様を軽くあしらっているのではないか、と言うことなのです。

イエス様が褒められたのは、大金ではなく、レプタ銅貨二枚でしたが、それは寡婦にとって持っている物の全てだったのであり、最高の献げ物であったからです。

無くなっても困らないような物ではなく、余り物ではなく、使わなくなった物ではなく、大切な物、新しい物、良い物、無くなっては困るような物をこそ献げたいものです。

ここにおられる皆様が、真の神様を見出し、従い、最高の物を献げ、イエス様にその信仰を誉めて頂く祝福に与ることが出来ますようにお祈り致します。                         

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                                                                       2019-9-22礼拝

聖書箇所:出エジプト記201節~3

説教題:「主のほかに神を持たず」

【聖書】新改訳2017版

20:1 それから神は次のすべてのことばを告げられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、である。
20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

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                                                                       2019-9-15礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書2124節~25

説教題:「真実な証し」

【導入】

現代は情報に溢れています。

この情報の、伝達方法とスピードですが、だいぶ以前は、人伝えが中心であり、新聞のような物、或いは書籍などが登場しますが、伝達スピードは日にち単位であり、社会の隅々にまで行き亘るのには、膨大な時間が必要でした。

ちょっと前までは、ラジオやテレビなどの放送媒体が、生きの良い情報を提供し、受信機さえあれば、誰もが手軽に情報を入手出来ました。

現代は、インターネットで、或いはSNSで、世界中の情報が即座に入手出来る時代になりました。

しかし、正確さの点では、時代とともに、向上している、とは言えないようです。

人伝えはともかく、新聞、書籍、放送は、出所が確かであり、責任の所在が明らかでしたから、自浄作用が働き、明らかな嘘や、あやふやな情報は、自然に淘汰され、出鱈目が流布される事は、少なかったでしょう。

とは言え、政府の言いなりの情報を提供し、メディアとしての機能を発揮出来なかった時代、苦い経験がありますが、それでも、メディアは、情報を提供する者として、社会的責任を感じ、正確な情報を、いち早く提供する事を使命として活動して来ました。

一方、インターネット上の情報やSNSの情報は、出所が不確かであり、責任の所在も明らかでない事が多いようです。

嘘や、あやふやな情報を流し、面白がっている不届き者も横行しており、嘘と真が混在しており、情報の精度、と云う点では、一流の情報とは、言い切れません。

ウィキペデアなどは、脚注が付けられた情報が多くなり、信頼性向上に努力していますので、ちょっとした調べ事には便利なのですが、注意が必要であり、流布するのは止めた方が無難でしょう。

さて、私たちキリスト教徒は、クリスチャンは、聖書を唯一真の神の言葉と信じていますが、聖書に正確さはあるのでしょうか。

信頼性、信憑性はあるのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

これらのこと」が何かは、議論の分かれるところですが、ヨハネの福音書の1章から21章の全体であるとする見方と、21章で述べられた事に限定する見方とがあるようです。

その違いの根拠は、ヨハネの福音書の成立に関係しています。

ある学者、研究者は、ヨハネの福音書は20章で一度完結しており、21章は後で付け加えられたと考え、「これらのこと」は付け加えた21章について、と考えます。

そんな見方、考え方もあるとは思いますが、ヨハネの福音書の著者は、20章までで述べた事を補完する意味で、21章を付け加える必要を感じたのであり、「これらのこと」は、付け加えた部分だけに限定している、と考えるのは、ちょっと無理があるような気がします。

これらのこと」は、ヨハネの福音書の全体と考える方が自然かな、と思います。

真実は、天国で、ヨハネの福音書の著者に聞いてみようと思いますが、このヨハネの福音書の著者は、「その弟子」である、と明言します。

その弟子」とは、20節で登場した「イエス様が愛された弟子」であり、「ゼベダイの子ヨハネ」と考えられます。

その「ゼベダイの子ヨハネ」の人となりは、周知であり、「ゼベダイの子ヨハネ」が、人に褒めそやされたいがために、嘘を真しやかに述べる人物ではない事、話題の中心に居たいがために、針のような出来事を、棒のように粉飾して述べる人物でもない事、人の関心を集めるために、過剰に感情を込めて述べる人物でもない事、誰かを慮(おもんぱか)って、忖度を働かせる人物でもない事、そんな信頼、信用の置ける人物である事を表明したいがための目的を持って、「私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」との但し書きを付けたのであり、この但し書きの意味するところでしょう。

第三者的な表現をする事で、この書が客観性を持って書き記されている事を証ししているのです。

この証言者集団「私たち」とは、「イエス様が愛された弟子」に従う、一群の弟子たち、或いは、「イエス様が愛された弟子」が所属する教会の指導者たち、と考えられ、このヨハネの福音書を最終的に編集した人たち、と考えられます。

福音書を執筆した弟子たちは、著述を本職とする人たちではありません。

書き留めた物を集め、また、筆記用具が完備していた訳でもなく、思い出して書き留め、それらを編纂したのであり、複数の編纂者によって内容が精査され、福音書として纏められていくのです。

そして、執筆者には、聖霊様が働かれ、書き留められた内容に間違いは起こらず、編纂者にも、聖霊様が働かれ、編纂の過程での内容の精査において、間違いが入り込む事はないのです。

聖霊様が働かれているので、聖書の内容は信憑性が保証され、信頼が置けるのです。

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められない、と私は思う。

この25節の主語は「私は思う」です。

客観性を保持しつつ、ここまで書き留めて来ましたが、最後に、主観を書き留めます。

主観的な表現で書き留めてはいますが、客観性を含んだ、謙虚な表現である事には注目したいと思います。

イエス様の言動の一つ一つは、それぞれ一言では言い表せません。

どれを取り上げたとしても、稀有な奇蹟であり、それを事細かく書き留めたならば、膨大な記事になってしまうでしょう。

ですから、このヨハネの福音書に書き留められているイエス様の奇蹟、言動は、端折って纏めた物に過ぎず、断片的に集めたに過ぎず、一部を書き留めただけなのです。

2030節「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない」のであり、弟子たち不在時に行なわれた言動、奇蹟は、書き留められてはおらず、また、イエス様に関わる伝承の全てについても、全てが書き記されている訳でもないのです。

また、書き留めた目的は、2031節「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」なのです。

ヨハネの福音書が纏められたのは、イエス様が神の御子である事を証しするために書き留められたのであり、人々をキリスト教信仰に導くために、最も重要、必要と思われるイエス様の言動を、聖霊の働き、導きによって書き留めたのであり、イエス様の伝記を提供しようとするものでは、イエス様についての研究論文を提供しようとするものでもないのです。

最後に、イエス様の言動を、口伝えで流布していた伝承も含めて収拾し、書き留めるならば「世界もその書かれた書物を収められない」と、結論付けます。

このことば、文字通りに、物理的な意味で受け止めるとなると、ちょっと過大表現かな、と思う節もないではありませんが、イエス様の行なわれた事を、全て、洩れなく、正しく書き留めるとなれば、一人の人の目撃談、記録だけではなく、目撃者の全てから情報を得なければならず、その情報は、膨大な量とならざるを得ないでしょう。

コンピュータのない時代に、これだけの膨大な情報を整理、整頓、保管、管理するのは不可能であり、「世界もその書かれた書物を収められない」との結論付けは、間違っているとは言えません。

しかし、コンピュータがあっても、情報が利用されなければ、無いに等しく、意味は無く、情報が正しく無ければ、意味がない、どころの話ではありません。

害を与え、混乱を招き寄せるだけです。

正しい情報だからと云って、ただただ量を集めれば良い訳ではなく、裏付けの取れた秀逸な情報、正しい情報を集める事こそ、重要なのであり、それを共有する事が大切なのです。

その点で、聖書の成立には、人間が介在しているため、執筆者とされた弟子の、考え方、歴史、文化、習慣などが反映し、そして主観が強く影響しますが、執筆者には、聖霊様が働かれ、書き留められた内容に間違いは起こらず、編纂者にも、聖霊様が働かれ、編纂の過程での内容の精査において、間違いが入り込む事がないのです。

聖霊様が働かれているので、聖書の内容は信憑性が保証され、信頼が置けるのです。

【適応】

イエス様の生涯、イエス様の言動に限らず、聖書の記述の全ては、2031節「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」に尽きます。

テモテへの手紙第二、316節、2017版は428ページ、第3版は416ページ、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」。

聖書の記述は、上記の意味において、時代や文化や、民族、主義主張を超えて、普遍的なものなのです。

聖書は、歴史書ではなく、歴史家から見たならば、文句の付けどころ満載の内容でしょうし、科学的学術の書でもなく、科学者から見たならば、突っ込みどころ満載の内容でしょうし、医学書でもなく、医師から見たならば、時代錯誤も甚だしい内容でしょうし、多くの人が、奇蹟なんか信じているの?と訝(いぶか)り、呆れるでしょうが、イエス様を信じる者には、必要不可欠なのであり、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためであ」り、「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」に、必要な教えが、具体的に書き留められているのが聖書なのです。

即ち、聖書は「すべて、神の霊感によるもの」であり、本当の著者は、天地万物を造られ、支配しておられる神様であり、その真の神様によって、書き留められた証しだからこそ、真実であり、真実な証しであるからこそ、聖書は現代まで存在しているのであり、多くの人々が読み、信仰に導かれ、信仰を持った人々がイエス様に対する確信を持ち続けるように助け、クリスチャンを教え、導き、支え、慰め、励まし、喜び、感謝に満たしてくださるのです。

「聖書なんか信じているの、聖書って神話でしょ」と揶揄されても、怯む必要も、臆する必要もありません。

聖書は、単なる「読み物」ではありません。

聖書は、事実の網羅、集大成、でもありません。

聖書は、2031節「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」に必要な、真実な証しを選び、纏めた書であり、コリント人への手紙第一、118節、2017版は327ページ、第3版は318ページ「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力」であり、テモテへの手紙第二、317節、2017版は428ページ、第3版は416ページ「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるため」に必要な、真実な証しを選び、纏めた書です。

日々、聖書を読み、聖書から確信を得、イエス様に繋がり続け、イエス様からイエス様に従う力をいただき、イエス様と共に歩む生涯を全うしようではありませんか。

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                                                                        2019-9-8礼拝

聖書箇所:ヨハネの福音書2120節~23

説教題:「あなたは、わたしに従いなさい」

【導入】

皆さんは、主なる神様、御子なるイエス様から与えられる使命、或いは召命をどのように理解され、対応されているでしょうか。

「重荷に感じる」でしょうか。

「何故、私が?・・・もっと相応しい人がいるだろうに」でしょうか。

「私には、私の計画があるのになぁ」でしょうか。

そして、仕方なく取り組んでいるのかも、なかなか主体的にはなれず、積極的には取り組めないのかも知れません。

ヨハネの子シモンは、イエス様のお取り扱いを受けてシモン・ペテロと呼ばれるようになりますが、シモン・ペテロの使命は、召命は、羊、即ち、イエス様に従う人々を飼い続ける事、イエス様に属する群れを、牧し続ける事です。

教会のために命を献げる事、即ち、殉教する事であり、そのような生涯を通して、主なる神様、御子なるイエス様の栄光を現す事です。

自分の名誉や名声を得るためではなく、地位や財産を得るためでもありません。

逆に、誤解を受け、非難され、日夜、孤立無援、四面楚歌で戦わなければならない場面に立たされ、心身ともに疲労困憊し、霊的にも疲弊してしまい、燃え尽きてしまう事もあるでしょう。

始めは、使命、召命に喜びを感じ、誇りさえ持っていたのに、何時しか、召命、使命に疑問を感じ、躊躇(ためら)いの気持ちも起こってくるのではないでしょうか。

特に、悪戦苦闘しているとき、疑問、躊躇いは、抑えきれなくなってくる事でしょう。

そんな時、ふと、横を見ると、喜びながら、楽しそうに、和気藹々と使命、召命に仕えている姿を見ると、時には、憤りすら感じるのではないでしょうか。

しかし、これは、人は罪を持つ身であり、ある意味、自然な、当然な反応といえるのですが、シモン・ペテロは、イエス様から使命、召命を受けたとき、釘を刺されています。

本日のテキストの前節、2119節「わたしに従いなさい」です。

シモン・ペテロは、使命、召命を受けた直後に、どのような反応をしたのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。

ティベリヤ湖畔での、イエス様とヨハネの子シモンとの遣り取りが終わり、朝食を終えての、道すがら、先頭を歩くイエス様に従う形で、ヨハネの子シモンが続きます。

シモン、即ちペテロは、弟子の筆頭ですから、自然な形ではありますが、ペテロがふと振り向くと、「イエスが愛された弟子がついて来るの」が見えます。

この「イエスが愛された弟子」は、諸説ありますが、一般的には三人の名前が挙げられます。

シモン・ペテロであり、ゼベダイの子ヤコブであり、ヤコブの兄弟ヨハネの三人ですが、この場面には、「夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である」との注釈が付けられており、ヨハネの福音書1323節に記されている、過越の食事の席での出来を示しており、ヤコブの兄弟ヨハネと考えられ、このヨハネの福音書の著者と考えられています。

ペテロは積極的であり、色々な場面で口を出し、イエス様に注意、叱責を受けてしまう事も少なからぬペテロに比べて、「イエスが愛された弟子」ヨハネは、余り目立ちはしませんが、重要な役割を果たしています。

「シモン・ペテロ」と、「イエスが愛された弟子」ゼベダイの子ヨハネは、イエス様に愛されている点では、遜色ありませんが、使命、召命、働きの点では全く違うのです。

とは言え、使命、召命、働き、賜物に、優劣がない事も確認しておかなければなりません。

使徒としての使命は特別だが、信徒としての召命は普通だとか、この働きは重要だが、あの働きは大した事ない、とかはないのです。

更には、この賜物は素晴らしいけれど、あれは賜物と呼べるようなものではない、などの区別も、差もないのです。

使命も、召命も、働きも、賜物も、比べるものではなく、ましてや、ひけらかすもの、自慢するものではないのです。

使命も、召命も、主なる神様、御子イエス様の一方的な選びであり、選ばれる理由を、私たちは持っていません。

働きも、賜物も、主なる神様、御子イエス様から与えられたものでしかなく、預かったものを自慢する事ほど、愚かな事はないのです。

「シモン・ペテロ」の働きは、「羊を牧し、飼う事」であり、「殉教」と云う、劇的、英雄的な生涯ですが、牧師が立派な働きで、殉教が素晴らしい生涯なのではありません。

イエスが愛された弟子」ヨハネの働きは、劇的でもなく、英雄的でもありません。

シモン・ペテロに従属するようなかたちで、宣教の働きをします。

伝承によれば、「イエスが愛された弟子」ヨハネは、異教文化の中心都市エペソに定着し、宗教的体験や、思弁的、抽象的思索を拠り所として、真理を見失い迷う人々を、イエス様に引き寄せ、しっかり繋ぎ止める働きをし、加えて、反キリスト者たちと戦ったのであり、聖書に記録されてはいませんが、主なる神様、御子イエス様から与えられた働きを全うしたのです。

21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。

ペテロは、イエス様から殉教を示唆することばを掛けられ、思わず、「この人はどうなのですか」と、尋ねてしまったのでしょうか。

ペテロは、道すがら、軽口をたたくような気持ちで、冗談の一つとして聞き流し、受け流すような、他愛ない会話の一つとして、イエス様に、質問を発した、と云う意識もなく、問い掛けたのでしょうか。

イエス様から使命、召命、働きを与えられ、殉教を預言された直後ではありますが、ペテロは、決して、イエス様から与えられた使命、召命、働きが嫌だった訳でも、殉教に恐れを覚え、負担に感じた訳でもないでしょう。

使命、召命を与えられ、殉教を予言され、なんとなく、不安を覚え、心が重くなり、それを逸らす意味で、なんとなく、他の人に話題を転じたのであり、詮索する気持ちが起こったのでもなく、根掘り葉掘り知りたがった訳でもなく、ましてや、他人と比較する意識など、全くなかった事でしょう。

それでも、弟子の筆頭であり、イエス様が愛された弟子の一人であり、イエス様の期待は、他の弟子とは比較になりません。

更には、2119節で「わたしに従いなさい」と、釘を刺されているからです。

ペテロよ、あなたに与えた使命、召命、働きは、特別な使命、召命、特殊な働きだけれども、「わたしに従」うならば、達成できる働きだよ、なのであり、他の誰とも関わらない働きであり、ある意味、誰からも協力を得られない、得てはならない、孤独な働きなのです。

イエス様だけが任命者であり、命令者であり、主権者であり、イエス様だけが理解者であり、助け手である使命、召命、働きなのです。

十二弟子には、何となく序列があるかも知れませんが、シモン・ペテロにはペテロの、ゼベダイの子ヤコブにはヤコブの、ヤコブの兄弟ヨハネにはヨハネの、アンデレにはアンデレの、ピリポにはピリポの、バルトロマイにはバルトロマイの、マタイにはマタイの、トマスにはトマスの、アルパヨの子ヤコブにはヤコブの、タダイにはタダイの、熱心党員シモンにはシモンの、そして、イスカリオテ・ユダにはユダの働きがあるのであり、個々人が「イエス様に従う」のであり、ヒエラルキー的に、監督する必要も、或いは、相互に、アドバイスを与える必要も、忠告する必要も、干渉する必要も、監視する必要もないのです。

21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

「イエスが愛された弟子」ヨハネが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、ゼベダイの子ヤコブが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、アンデレが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、ピリポが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、バルトロマイが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、マタイが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、トマスが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、アルパヨの子ヤコブが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、そして、タダイが短命でも、長寿でも、その働きが何であれ、働きの成果が何であれ、ペテロよ、「あなたに何の関わりがありますか」であり、その人の立つも座るも、何をするもしないも、主人であるイエス様の御こころ次第であり、「あなたは、わたしに従いなさい」なのです。

弟子の筆頭、リーダー的存在であっても、御国の門の鍵を預かっていても、他の弟子の働き、成果に、何の口出し、手出しをする必要も、任務も、義務も、権利も、責任もありません。

弟子、使徒、牧師、教職は、委ねられた「羊、信徒」が救われ、霊的に成長し、永遠の命を保ち続け、「羊、信徒」に、主なる神様と御子イエス様の栄光を現す生き方とは何かを教え、イエス様から与えられた賜物を生かすように、そのお手伝いをするのが、弟子の、使徒の、牧師の、教職の務めです。

ペテロは、イエス様から殉教を示唆することばを掛けられ、思わず、「この人はどうなのですか」と、尋ねてしまったのでしょう。

イエス様はペテロの考え違いを正すために、「その弟子」を引き合いに出し、殉教とは違う使命、召命、働きがある事を示されたのであり、そして、イエス様の例話は、そこに居合わせた全員に聞かせる目的を持って話されている事にも注目しなければなりません。

ペテロの考えは、ペテロ独自の特殊な考え方ではなく、誰もが似たような考え方を持っています。

どうしても、他人の事が気になり、知りたくなり、また、世話を焼きたくなる。

有能な人ほど、その傾向は強いかもしれません。

ペテロは、余計な事を考える癖があるようで、色々と心配をするのでしょうが、しかし、「この人はどうなのですか」と、尋ねる必要は全くないのです。

イエス様が「その弟子」の責任を持ってくださっているからです。

ペテロの権限は、「羊、信徒」に対してであり、他の弟子はイエス様の直属であり、ペテロに何の権限もありません。

他の弟子の生き死には、イエス様の権限の内にあり、イエス様だけが知っていれば良い事なのです。

イエス様は、居合わせた弟子たちにも聞かせる意図を持って、「その弟子」を引き合いに出して、それぞれに違う使命、召命、働きがある事を示されたのですが、居合わせた弟子たちは、イエス様のことばを誤解してしまいます。

21:23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

イエス様のお話の主旨は「その弟子」の生死ではありません。

あなたは、わたしに従いなさい」です。

人は、短い文章でも、一言一句を正確に覚える事は難しく、また、特徴的な単語や、興味のある単語、理解した単語しか記憶に残りません。

それで、誤解が生じ、正しく伝わらない事になってしまいます。

しかし、主旨を正しく受け止め、意図を間違えなければ良いのであり、この場合なら、「その弟子が死なないとしても、私と何の関わりがあるか」であり、「その弟子の生死と関わりなく、私はイエス様から与えられた使命、召命、働きに努める」でしょう。

仮に、イエス様が「その弟子は死なない」と言われたと理解してしまったとしても、「あなたに何の関わりがありますか」であり、そんな話に、現(うつつ)を抜かしていてはならないのであり、「あなたは、わたしに従いなさい」なのです。

【適応】

人間は、群れで生きる、社会的生き物であり、どうしても他人の事が気に掛かりますが、イエス様のお話の主旨は、他人の事を考え、気にする事を禁じているのではありません。

お互いの状況などを知り、改善のために、前進のために、打開のためには祈るのであり、その祈りは、イエス様に対しての、隠れた祈りであり、静かな祈りです。

決して、頭として立ち、指導する事が期待されてはいません。

先にお話しましたが、その人の立つも座るも、何をするもしないも、主人であるイエス様の御こころ次第であり、今は立つべきとか、座るべきとか、あれをしなさいとか、これをしては駄目とかを指示する権限も、任務も、義務も、権利も、責任も与えられてはいません。

しかし、これは、誰もが、黙ってみているべきだ、無関心でもいい、と言っているのではありません。

この権限、任務、義務、権利、責任があるのは、「弟子や使徒」が、「羊、信徒」に対してであり、「牧師や教職」が、「信徒、クリスチャン」に対してであり、それも、イエス様からの任命を受けてであり、按手を受けた者にのみ与えられた特別な責務だ、しかも、遣わされたところに於いて、と云う条件付だ、と云う事です。

弟子が弟子に対してでは、信徒が信徒に対してではありません。

これを間違えると、組織や教会の中が、指導者だらけ、船頭だらけになってしまいます。

「羊、信徒、クリスチャン」の指導者は、古参信徒でも、年配信徒でもありません。

「羊、信徒、クリスチャン」の指導者は、弟子、使徒、牧師、教職であり、弟子、使徒、牧師、教職の責務は、限定された責務、即ち、救いに関する事、信仰生活に関する事、であり、更には、任された教会の中で、が原則です。

そして、「弟子」「使徒」「牧師」「教職」の指導者は、同労者ではありません。

「弟子」「使徒」「牧師」「教職」の指導者は、イエス様であり、「弟子」「使徒」「牧師」「教職」は、イエス様に従うのです。

あなたは、わたしに従いなさい」の直接の意味は、「弟子」「使徒」「牧師」「教職」に対してであり、イエス様よりも、他の「弟子」「使徒」「牧師」「教職」との関係性を優先させたり、忖度、遠慮したりしてはならないのです。

そして、「羊、信徒、クリスチャン」に対しても、「あなたは、わたしに従いなさい」なのですが、実際には、実践的には、イエス様が立てられた「弟子」「使徒」「牧師」「教職」として、

「弟子」「使徒」「牧師」「教職」に従うのであり、「弟子」「使徒」「牧師」「教職」に従う事を通して、イエス様に従い、「あなたは、わたしに従いなさい」を実践するのです。

この秩序、原則が重要なのです。 

「弟子」「使徒」「牧師」「教職」と「信徒、クリスチャン」は、イエス様に従う事を、身をもって示すのです。

「弟子」「使徒」「牧師」「教職」がイエス様に従うとき、また、「羊、信徒、クリスチャン」が、イエス様が立てられた「弟子」「使徒」「牧師」「教職」に従うとき、組織は、教会は秩序が保たれ、主なる神様、御子なるイエス様のご計画が進められ、主なる神様、御子なるイエス様の栄光が現されるのです。

一人一人がイエス様に繋がり、イエス様からイエス様に従う力をいただき、イエス様と共に歩み、イエス様から与えられた使命、召命、働き、生涯を全うしようではありませんか。

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聖書箇所:ヨハネの福音書2115節~19

説教題:「あなたは・・・わたしを愛しますか」

【導入】

皆さんは、失敗をどのように処理、対応されているでしょうか。

「臭いものに蓋」でしょうか。

「なかった事にするのが無難だ」でしょうか。

「いまさら蒸し返してもなぁ」でしょうか。

日本社会では、「言わぬが花」であり、阿吽の了解で済ませてしまう事が多いかも知れませんし、それで大方は問題ないかも知れません。

しかし、有耶無耶にしておく事は、本当に大事な人間関係、大切な人間関係を壊しかねないのであり、その場は治まり、何事もなかったかのように繕えても、何時か、問題となり、膨大な労力、時間を必要とする事になってしまうのであり、また、その時には修復不可能って事もあり、百害あって一利なしです。

イエス様との関係においては、尚更です。

信仰生活然り、宣教、伝道の働き然りです。

信仰生活も、宣教、伝道の働きも、人間の生活、働きの一部ではありますが、単なる生活、単なる働きではありません。

信仰生活は、特別な生活であり、宣教、伝道の働きは、特殊な働きであり、イエス様と密接な関係がなければ、イエス様との本当の信頼関係がなければ、信仰生活や宣教、伝道の働きは維持、達成出来ません。

イエス様と密接な関係を構築し、本当の信頼関係を維持しなければならないのであり、そのためには、失敗を有耶無耶にしてはならないのです。

ヨハネの福音書1337節に記されていますが、「ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためになら、いのちも捨てます。」」、と豪語しながら、1817節以降に記されていますが、イエス様を知らないと三回も言い張り、三回目には、呪いをかけてまでイエス様との関係を否定したのです。

この失敗は、重大な失敗であり、この失敗をこのままにしておいて、「これから後、人間を捕るように」になる事は出来ず、「教会の指導者として立てられ、重い責任と、重大な使命」を果たす事は出来ません。

ヨハネの子シモンが、「ペテロ」、即ち「」と呼ばれるに相応しく整えられる必要があるのであり、今日のテキストは「ヨハネの子シモン」が、「シモン・ペテロ」になるところを扱っているのです。

【本論】

新改訳2017版 21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

イエス様は、「シモン・ペテロ」に、「ヨハネの子シモン」と呼び掛けられます。

「名は体を現す」と申しますが、名称、或いは役職名というのは、非常に重要です。

「君」とか「あなた」とか、「お母さん」とか「お父さん」とかの呼称は、万人に通用する便利な呼称ですが、反面、曖昧な表現です。

「部長」「課長」、或いは、「先生」などの役職名も、曖昧な表現であり、現代の会社の多くは、役職名ではなく、「さん」付けで呼ぶようです。

より、親近感も芽生えるのではないでしょうか。

重要、大切な場面では、固有名詞を使い、対象をはっきりさせる必要があるでしょう。

この場面では、「ヨハネの子シモン」以外に、少なくとも六人はいますので、誰が、をはっきりさせるために、固有名詞で呼びかける事は必然ですが、例え、一対一の場面であっても、固有名詞で呼びかける事は重要です。

後で、私の事だと思わなかった、だとか、聞いていなかった、などと云う事にならないためにもです。

イエス様は「ヨハネの子シモン」に向かって、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と問い掛けますが、直訳は、「この人たち以上に、わたしを愛していますか」であり、「この人たち以上に、わたしを愛してくれますか」の意味で理解する事も出来るでしょう。

この質問が、ヨハネの福音書1337節、2017版は213ページ、第3版は209ページに記されていますが、「ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためになら、いのちも捨てます。」」や、マタイの福音書2633節、2017版は52ページ、第3版は56ページに記されていますが、「ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」」や、この直後の、イエス様との関係を三度も否んだ事を前提とした質問である事は明らかです。

「シモンよ、あなたは自信たっぷりに宣言しましたね。他の弟子たちを引き合いに出してまで、力強く誓い、断言しましたね。言い張りましたね。豪語しましたね。でも、しかし、現実はどうでしたか」。

イエス様に対する愛は、他の弟子たちと比較するものではありません。

他の弟子たちと比較して、これなら安心、と安堵するものでも、足りないからと云って、頑張るものでもありません。

イエス様は、シモンに、現実を思い出させ、それでも、そんな事があっても、今でも、これからも、どんな事が起こっても、あの時と変わらず、「わたしを愛してくれるのか」と、問い掛けているのです。

決して、叱責の意味や、詰(なじ)る意味はありません。

逆に、励まし、期待を持っている事を伝えたいがための質問なのです。

この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」との問い掛けは、「ほかの何ものよりも、わたしを愛していますか」と訳す事が出来ます。

自分の命よりも、家族の命よりも、地位や財産よりも、血筋や名誉よりも、「わたしを愛していますか」と問い掛けるのです。

イエス様との関係を、何よりも大切にしているか、比較にならないものとしているかどうかの確認の問い掛けなのです。

この、イエス様の問い掛けに対して、シモンは、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、控えめに、しかし、誠実な思いを込めて答えます。

このシモンの答えに対して、イエス様は「わたしの子羊を飼いなさい」と応じます。

イエス様の質問の「」のギリシャ語は「アガペー」であり、無償の愛、犠牲的愛、最高位の愛を意味するが、シモンの答えの「」のギリシャ語は「フィレオー」であり、友情などの、有限の愛、条件付の愛を意味するとし、この違いに大きな意味を見出そうとしますが、同義的に用いられており、大きな違いは、大きな差は、大きな意味が込められてはいないようです。

同じく、15節の「子羊」は、信仰を持ったばかりの者、16節の「」は、成長した信仰者、17節の「」は、信仰者の群れを意味する、と考える向きもありますが、15節の「子羊」と、16節の「」と、17節の「」とは、同義的に用いられており、大きな違いはなさそうです。

同じく、15節の「飼いなさい」、16節の「牧しなさい」、17節の「飼いなさい」も、同義的に用いられており、大きな違いはなさそうです。

暫しの時間が経過し、

21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

イエス様は同じ質問を繰り返され、シモンも同じ答えを繰り返し、イエス様は同じ命令を繰り返されます。

ここでもまた、暫しの時間が経過し、

21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

イエス様は同じ質問を繰り返され、シモンは先の応答よりも更に控えめに、謙虚な答えを繰り返し、イエス様は同じ命令を繰り返されます。

イエス様の死による罪の赦しと、復活による新しい命は、個々人に与えられ、個人的に受けなければなりません。

そして、使命においても、個々人に与えられ、個々人が受けなければなりません。

「人間を捕る漁師」にしていただくためには、イエス様から個人的なお取り扱いを受けなければならず、シモンは、キリスト教の草創期に、教会の指導者として立てられるのであり、その責任と、使命は、他の弟子たちとは大きく違い、遥かに重要であり、他の弟子たちとは違うお取り扱いを受けなければならず、シモンは三度、イエス様から特別な扱いを受ける必要があったのです。

先に、イエス様との関係を三度否んだから、三度確認の必要性があった、と云うのではなく、自分の力を過信し、足りなければ頑張り、他人と比較し、一喜一憂すると云う、この世的な生き方を捨て、イエス様に一切を委ね、イエス様の導きに頼り従い、イエス様から必要の全てを満たして頂くと云う、霊的な生き方に切り替えるために、この生き方をシモンがはっきり自覚するためには、三度必要だった、と云う事なのでしょう。

21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

自分で帯をして」は、自発、自主、自立の意味であり、「自分の望むところを歩きました」は、自分の計画、判断、決断の意味でしょう。

そして、自分で責任を取る意味も含まれましょう。

続く、「あなたは両手を伸ばし」、「ほかの人があなたに帯をし」は、従属、服従の意味であり、「望まないところに連れて行きます」は、イエス様のご計画、ご判断、ご命令の意味でしょう。

そして、イエス様が責任を取られる意味も含まれましょう。

宣教や伝道、牧会の働きは、この世での、人間を介在する働きですが、イエス様が来られる時に向けての、イエス様の代わりになっての働きであり、主体は、主権者はイエス様です。

勿論、人間はロボットではなく、意志も感情もあります。

また、イエス様は冷酷無慈悲な支配者ではなく、人間の意志や感情を最大限配慮、考慮、優先してくださり、イエス様の命令を拒否する事も出来ます。

それが、本論の冒頭でお話したように、「この人たちよりも、わたしを愛してくれますかとの、質問なのであり、シモンの過去の言動を根拠に、「この人たちより以上に、わたしを愛しなさい」と命じる事も出来たのですが、イエス様はシモンの人格を尊重し、「この人たちよりも、わたしを愛してくれますか」と懇願されるのです。

イエス様を愛すると云う事は、イエス様に従うと云う事であり、自我を捨てると云う事です。

これらは、決して強制であってはならず、自発でなければならないのです。

イエス様を愛するとき、イエス様に従うとき、当然、積極的には望みもしない状況に導かれる事も起こり得るでしょう。

21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

自分で選んだ道ならば、自分の計画通りの結果ならば、死を受け入れるに、然程の困難は覚えないでしょうが、不本意な死に方を受け入れるのは、なかなか出来る事では有りません。

無念があったり、挫折を覚えたり、遣り残してしまった感が燻ぶるでしょうが、イエス様を愛し、イエス様に従った結果であるならば、イエス様が受けるべき死であり迫害を受けるのであり、栄誉な事ではないでしょうか。

イエス様に最後まで従い抜いたのであり、達成感を味わえるのであり、イエス様がよしとされたのですから、未練や不満を覚える事は最小限に止められるでしょう。

テルトゥリアヌスは、ペテロが十字架刑、しかも、逆さ十字架刑に処せられたと証言します。

ペテロのみならず、多くの弟子たちが残酷に処刑され、殉教の死を迎えましたが、泣き叫んで命乞いをしなかったのであり、喜んで死を受け入れられたのも、イエス様を愛して、イエス様に従ったから、の一言に尽きます。

シモンが、イエス様に従ったのは、イエス様が神の御子で、逆らえなかったから、弟子の筆頭故、皆の手前、従うしかなかったから、ではありません。

この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」との質問に対して、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたからです。

或いは、「この人たちよりも、わたしを愛してくれますか」に「はい」と答えたからです。

この問い掛けと応答に、強制や誘導、力関係や忖度はありません。

シモンの自由意志で「はい」と答えたのであり、「ヨハネの子シモン」が、「ペテロ」、即ち「」と呼ばれるに相応しく整えられ、「」として生きる事になったのです。

【適応】

ヨハネの子シモンは、この後、シモン・ペテロとして、人間を捕るようになり、課題山積、問題噴出の、草創期のキリスト教会の指導者として、重い責任と、重大な使命を果たす事になります。

その功績は比類のない功績であり、他の追従を許さぬ、突出した働きであり功績ですが、弟子たち全てに、信徒たち全てに、第2、第3のペテロとなる事が、ペテロと同じような働きが期待されている訳ではありません。

シモンが誇れるのは、働きや成果ではなく、イエス様を愛し抜いた生涯であった事に尽きるのであり、イエス様を愛する者、全てに期待されている生涯です。

シモン・ペテロには遠く及ばなくても、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」との質問に対して、「この人たちよりも、わたしを愛してくれますか」との質問に対して、「はい」と答えるなら、それでよいのです。

イエス様を愛する事に、年齢も、性別も、国籍も、人種も、民族も、学歴も、能力も、知識も、知恵も、経験も、財産も、地位も、資格も、全く関係ありません。

誰を憚る事もなく、誰に遠慮する事もなく、誰に忖度する事もなく、強いて云うならば、素直に、正直に、謙虚に、謙遜に、本心を申し述べればよいのです。

「今はまだ、「はい」と答えられない」でも良いし、「そんな、自信はない」でも良いのですが、イエス様の「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」との質問の前に、「わたしは、あなたの罪のために、十字架にかかったよ。わたしは、あなたが永遠の命を得るために、甦ったよ。それはあなたを愛しているからだよ」、と言われている事を、知っていただきたいのです。

だからといって、交換条件的に、イエス様を愛する事が要求されているのではありません。

そして、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」の質問の後に、だったら、もっと真面目に礼拝に出なさいとか、一生懸命に奉仕しなさいとか、もっと沢山の献げ物をしなさいとか、聖く、正しく、美しい生き方を心がけなさい、に繋がる事は、

これらを強制する事は決してないのです。

この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」の質問は、自分の弱さ、無力、忍耐力のなさ故に、イエス様を愛する事に、イエス様に従う事に自信を持てない我々に対する、励ましを込めた問いかけであり、イエス様にお献げする物を何も持たない我々に対する、慰めに満ちた問い掛けである事を、知っていただきたいのです。

失敗からの回復の意味合いよりも、関係性の回復の意味合いの問い掛けであり、イエス様は、どんな犠牲を払っても、わたしたちとの関係の回復と維持を願っておられるのであり、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」との応答を願っておられるのです。

どんな失敗でも、イエス様の十字架によって解決しているのであり、イエス様との関係性は、応答をもってして、回復、解決するのです。

そのとき、イエス様を愛する力を与えてくださるのは、イエス様に従う力を与えてくださるのは確実です。

イエス様の問い掛け「この人たち以上に、わたしを愛してくれますか」、「ほかの何ものよりも、わたしを愛してくれますか」に「はい」と応じ、イエス様から、イエス様を愛する力をいただき、イエス様に従う力をいただき、イエス様と共に歩もうではありませんか。 

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