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                           2020-1-26礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙31節~7

説教題:「異邦人に福音を伝える者」

【導入】

「異邦人に福音を伝える」。

簡単な事のようですが、非常に難しい事です。

当時は、ローマ帝国が地中海一帯を、広く支配していましたから、ローマ帝国の許可さえあれば、何処へでも行く事が出来ました。

ローマ市民権を持っていれば、身の安全が保証され、大きな不自由はなかったようですが、治安は、現代ほど、良くはなかったようであり、強盗、山賊、追い剥ぎが闊歩し、命がけの旅であった事は、間違いないでしょう。

交通手段は、基本的には、徒歩であり、陸路が中心でしたが、海路も整備されていて、時間短縮に一役買っていましたが、安全の面では大きな不安を抱えており、船旅は快適、安全ではなかったようです。

それでも、商売のために、貿易のために、人の移動は盛んだったようですが、人間的な交流の面では、高い垣根と、強固な壁が存在したようです。

ことばの垣根、人種の壁、そして、文化、宗教の溝は、簡単には越えられません。

特に、ユダヤ人は、異邦人、異教徒に対して、厳格な垣根、壁、溝を持っており、これらを壊そう、乗り越えようとは、考えもしませんでした。

律法で禁じられていたからであり、その必要性がなかったから、感じなかったからです。

異邦人は汚れており、その汚れが移る事を、極端に恐れ、嫌ったからです。

ですから、福音を伝える、福音を届ける対象は、ユダヤ人に限定されていたのです。

しかし、唯一真の神の御子キリスト・イエス様は、ユダヤ人と異邦人の垣根、壁、溝を壊したのであり、福音を届け、伝える対象は、異邦人にまで及んだのですが、これを理解するのは、受け入れるのは、取り組むのは至難の業であり、誰もが、取り組める働きではなかったのです。

そこで、唯一真の神様に、異邦人へ福音を届ける働き人として選ばれたのがパウロであり、パウロは、異邦人、異教徒に福音を届ける者として召された事を宣言し、自分は、唯一真の神の御子キリスト・イエスの使徒であるとの説明を始めます。

【本論】

新改訳2017版 3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。

こういうわけで」、ここまで書き記して来た事を受けて、以前は、唯一真の神様から遠く離れていた、否、関係が切り離されていた異邦人が、今は、唯一真の神の御子キリスト・イエスの血によって、唯一真の神様と異邦人との和解が成立し、切り離されていた関係が修復され、異邦人は、唯一真の神様に近い者とされた、と宣言します。

しかし、この事は、ユダヤ人クリスチャンの一部のみぞ知る事であり、異邦人は知る術がありません。

そこで、唯一真の神様は、パウロを選び、異邦人、異教徒に和解の知らせを届ける者とされたのです。

とは言え、事実上、パウロは囚人であり、獄中にあり、自由に活動出来ません。

見たところは、ローマ帝国の牢獄に繋がれ、自由を奪われており、その現実は変えようもありませんが、霊の眼で見るならば、唯一真の神の御子キリスト・イエスの囚人として、御子キリスト・イエスに繋がれており、和解の知らせを伝える働きに不自由はないと、宣言するのです。

3:2 あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。

パウロの務めは、使徒としての任務が、何であるかであり、啓示によって示された「奥義」を伝える事であり、パウロの任務の目的と、結果を確認する事です。

順に確認して行きましょう。

パウロの「任務」とは、異邦人、異教徒に唯一真の神様との和解を伝える、もたらす、届ける事です。

全世界の造られた者、全てが対象ですが、パウロの担当は、異邦人であり、異教徒です。

パウロには、パウロの働きの場があるのであり、異邦人、異教徒が、パウロの主たる対象であり、パウロは、明確に分野を弁えていたのであり、対象を絞る事で、効率的、効果的な働きが期待出来るのです。

これは、ペテロが、主にユダヤ人を対象とした事とも、関係します。

現代でも、子ども伝道に特化した人、青年伝道に特化した人、放送伝道に特化した人、などがおり、其々が、有益な働きをしている事からも明らかです。

「奥義」とは、異邦人に、異教徒に、未信者に届けるのは、唯一真の神様との和解の福音です。

近況報告でもなければ、苦労話でもなければ、体験談でもありません。

唯一真の神の御子キリスト・イエスの十字架であり、十字架によってもたらされる、罪からの贖いであり、罪を完全に赦され、義人と見做される事であり、天国に入れる事であり、永遠の命を受け取る事であり、ユダヤ人のみならず、異邦人にももたらされている、と云う事です。

このパウロの働き、務めですが、多くの反対者たちから、悪意の込められた、執拗な非難が浴びせられていました。

これは、ユダヤ教に熱心な人々だけからではありません。

キリスト者からも、非難を浴びせられていたのです。

パウロは、使徒と自称しているだけであり、使徒とは何の関係もない。

事実、パウロには、キリスト者を迫害した過去があり、唯一真の神の御子キリスト・イエスを冒涜した過去があります。

そんな、過去や、批判を意識して、この務めは、唯一真の神の御子キリスト・イエスから受けたものだと、反論するのです。

この経緯は、使徒の働き9章に記されていますので、各自でお読み頂き、確認願う事にいたしましょう。

パウロは、パウロが使徒として召された経緯、パウロの働きは「すでに聞いたこと」だ、と言います。

これは、パウロからの手紙や、パウロから直接聞いた事ではなく、間接的に、伝わった事を意味しているのだと思われます。

パウロの働きは、パウロ自身の口から直接ではなく、間接的にも、伝わって来ているのであり、パウロの主張のみならず、客観的な情報と合わせるならば、自ずと信頼出来る情報が、浮かび上がって来るのです。

パウロ自身の弁明も重要ですが、利害関係の薄い第三者からの情報と合わせて、判断すべきであり、偏った情報、一方だけの言い分で判断してしまう愚を犯さないようにしなければなりません。

人間は、信頼出来る人や、有名な人の話を鵜呑みにする傾向がありますが、両者の言い分を聴き、中立的な人の意見を聴いて判断しなければ、取り返しの付かない大きな間違いを犯す事になります。

3:3 先に短く書いたとおり、奥義は啓示によって私に知らされました。

先に短く書いた」事とは、このエペソ人への手紙、以外の手紙の事かも知れませんが、前後関係、文脈から、エペソ人への手紙19節から10節、及び、213節から22節に書かれている事と思われます。

「奥義」は、パウロが考え出した事ではなく、異邦人伝道は、パウロの思い付きではなく、唯一真の神様のご計画であり、パウロは、その唯一真の神様の啓示に、従っているだけだ、と断言するのです。

コリント人への手紙12章に記されていますが、パウロは、特異な体験をしています。

人は、自分自身や、自分の働きに権威付けをするために、特異な体験を引き合いに出し勝ちですが、異邦人伝道を含め、宣教、伝道の働きは、本質的に、御霊によって、であり、権威付けや、特異な体験や、特殊な能力は、一切不要です。

唯一真の神様の啓示に、忠実、従順である事が、重要なのです。

3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。

それ」とは前節の「先に短く書いた」事であり、唯一真の神の御子キリスト・イエスにあって、全く新しい信仰共同体、神の家族としての教会を形成する事です。

ユダヤ人のみの信仰共同体や、ユダヤ人のみの神の家族としての教会は、形成されていたでしょうが、異邦人や異教徒を交えた信仰共同体、神の家族としての教会には、ほど遠い状態であり、ユダヤ人には、異邦人にも、異教徒にも、到底、考え及ばない事であり、御霊によって教えられなければ、知り得ないのであり、人間には考え付かないのであり、それ故に「奥義」なのです。

3:5 この奥義は、前の時代には、今のようには人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。

この「奥義」を知るには、また、実践するには、御霊の助け、導き、が必要であり、唯一真の神の御子キリスト・イエス様が昇天され、御霊を遣わしてくださったので、「奥義」を知る事が出来たのであり、全く新しい信仰共同体、神の家族としての教会の形成に取り組む事が出来るのです。

全く新しい信仰共同体、神の家族としての教会の形成に取り組むのは、「キリストの聖なる使徒たちと預言者たち」です。

御霊」に満たされた、「キリストの聖なる使徒たちと預言者たち」であり、世の知識人でもなければ、経営手腕に秀でた人でもなく、また、信仰歴の長い人でも、聖書知識の豊富な人でも、教会の長老、執事、役員でもありません。

唯一真の神の御子キリスト・イエス様によって召され、立てられ、遣わされた教職者であり、説教を通して、牧会を通して、全く新しい信仰共同体、神の家族としての教会とは、何ぞや、を伝えるのであり、全く新しい信仰共同体、神の家族としての教会形成に導くのです。

勿論、新約時代には、全ての信徒に「御霊」が降っていますので、信徒は良き協力者、共働者ではありましょうが、先導者たる働き人は、教職者です。

教会の信徒は、教職者が、この教会形成の働きに専念、専心出来るように、御霊の助けを頂けるように、執り成し祈るのです。

教職者が、説教と牧会に充分な時間を費やせないなら、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の願われる教会形成は、絵に描いた餅に終わる事でしょう。

3:6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

「奥義」の教えるところは、「福音」が教えるところは、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の贖いに拠って、唯一真の神の子と見做され、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者、異教徒であったキリスト者は、区別がなくなり、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の贖いに拠って、御霊を内住する者とされ、御霊の内住により、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の身体に連なり、唯一真の神様の財産の、支配権の、正当な相続人となり、唯一真の神の御子キリスト・イエス様がもたらす、新天新地を支配する特権に与るのです。

3:7 私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

パウロは、7節で、抽象的な事、観念的な事を云っているのではありません。

パウロ自身の実体験を、実存的な意味での告白をしているのです。

即ち、パウロは、ユダヤ教の心酔者でしたが、キリスト者に変えられました。

パウロは、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を冒涜しましたが、唯一真の神の御子キリスト・イエス様をのみを礼拝する者に変えられました。

パウロは、律法を字義通りに、厳格に守る事を強要するパリサイ人でしたが、唯一真の神の御子キリスト・イエス様の事を伝える使徒にされたのです。

パウロは、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を信じる者を迫害するために各地を虱潰しにする者でしたが、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を僻地にまで伝える宣教師にされたのです。

パウロは、キリスト者の命を奪いましたが、自身が命の危機に瀕し、そこから脱したのです。

これらは、唯一真の神様の力であり、恵み、哀れみ、赦しの結果です。

当時、ギリシャ、ローマの哲学者や詩人、文化人たちは、天地を見回して、神の全知全能を知りましたが、多分に推理や推測、思弁の域を出ないものでした。

しかし、パウロは、唯一真の神の御子キリスト・イエス様のお取り扱いを通して、神の全知全能を知り、奥義を知らされたのであり、体験の強みは、何にも変えがたいものです。

現代のクリスチャンは、知識の面では非常に秀でているが、体験の面で脆弱さを内蔵しているようです。

知識が、体験や経験の面での裏づけが出来ていないので、表面的、外見的なキリスト者になってしまっているのではないでしょうか。

現代、クリスチャン、と云う事で、迫害を受けたり、不利益を被る体験をした人は少なかろうと思いますが、パウロの時代のみならず、日本でも戦前、戦中は、有形無形の不利益を被り、パウロは、同胞であるユダヤ人から命を狙われたのです。

そのような中で培われた信仰は、芯のある信仰者を育て、根の張った献身者を育んだ事でしょう。

同胞からの無理解、迫害、命を狙われる体験が、パウロを異邦人への宣教師としたのでしょう。

【適応】

異邦人に福音を伝えると云う働きは、パウロが考え抜いた末の働きでも、使徒たちの合議による結論でもありません。

同胞の理解を得られず、異邦人に向かわざるを得なかった部分はありますが、それも含めて、唯一真の神様のご計画であり、導きです。

キリスト教と云っても、ユダヤ教の素地があるのであり、ユダヤ教の影響は大きく、ユダヤ教徒への伝道は、困難な中にも、分かり合える部分があります。

しかし、異邦人、異教徒には、ユダヤ教の素地はなく、お互いが毛嫌いしていたのであり、交流は断絶していたのですから、そもそも話を聞いてはくれないのであり、伝道どころの話ではありません。

そんな、困難が想定され、徒労に終わる可能性の高い異邦人伝道ですが、効果的か、有望か、可能性の有無は、問題ではありません。

異邦人、異教徒は救いの対象であり、誰かが福音を届けなければならないのであり、唯一真の神様が、パウロを選ばれたのです。

パウロが選ばれた理由を、詮索しても意味はありません。

当時、一流の学者に師事していた、博学であった、人望があった、ローマ市民権を持っていて自由に旅行が出来た・・・等々は後付の理由であり、パウロの選びは、唯一真の神様の主権で、です。

唯一真の神様が、パウロを選ばれ、パウロは応答した、従った、のです。

現代、宣教師、牧師は、成り手の少ない働きですが、リクルートするような働きではなく、公募するような働きではありません。

唯一真の神様が召されるのであり、その召しに応答するか否かなのです。

ですが、傍観していて良い訳ではありません。

宣教師、牧師が起こされるように、異国の地に、福音を届ける働き人が起こされるように、異教の地に、福音を届ける働き人が起こされるように、宣教の困難な地に、福音を届ける働き人が起こされるように、祈り続けなければなりません。

そして、宣教師、牧師が心置きなく福音宣教の働きに従事出来るように、全面的な支援、バックアップをしなければなりません。

時には、自分自身が、その働き人であると、示されるかも知れません。

その時には、即座に応答しなければなりません。

子どもに信仰を継承し、クリスチャンホームを建設する事を祈り、子どもが献身者となる事を祈るのも大切ですが、人の背中を押し、人に勧めるのではなく、自分自身が献身者となる事を意識する祈りも、大切な祈りの課題なのではないでしょうか。

「異邦人に福音を伝える者」は、専門的な働きでしょうが、「異邦人に福音を伝える者」は、本質で表現し直すと「福音を伝える者」であり、他でもない、皆さんが取り組める働きなのです。

ここにおられる皆さんが、「福音を伝える者」となり、津々浦々にまで、福音が届けられ、日本が福音化する事を願ってやみません。

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                        2020-1-19礼拝

聖書個所 サムエル記第一8:122                

説教題 「神を退ける民」

【導入】

比類ない唯一真の神様を、数多の偶像の一つとしか考えず、神の箱を戦利品の一つとしてダゴンの宮に奉納するペリシテ人。

その唯一絶対の神を恐れもせずに、好奇心の対象とし、神の箱を覗き込むという不敬を働き、比類ない唯一真の神様に相応しい敬意を払わないイスラエル人。

このような不遜な民を、唯一真の神様はそのままにして置く事はなさいません。

ペリシテ人、ベテシェメシュの人々を懲らしめ、病苦を与えたイスラエルの神ですが、唯一真の神様は悔い改め、寄り縋る者には憐れみを示して下さるお方です。

ペリシテ人に攻め込まれ、窮地に陥り、助けを叫び求めた時、唯一真の神様は自然を支配する力でもって、天候を急変させ、ペリシテ人の内に混乱を起し、同士討ち、自滅へと導かれたのです。

イスラエル人は労せずして大勝利を得、ペリシテ人に奪われていた5つの大きな町と、その周辺の村々を奪還し、平和を享受する事が出来たのでした。

強力な軍隊を持つペリシテ人を打ち負かしたイスラエル人に、周辺諸国も一目置く様になり、エモリ人との間にも平和が構築されました。

この平安は決して自力で得たのではなく、外交努力によってもたらされた成果でもなく、唯一真の神様の力によって与えられたのであり、唯一真の神様が壁となり盾となって、外敵から守り、周辺諸国の人々とも良い関係を保つことが出来たのでした。

唯一真の神様中心、唯一真の神様に頼る事こそが、唯一真の神様に選ばれた民に相応しい事であり、平和を築くために必要不可欠な事なのです。

最新の武器を揃える事や、強力な防衛線を構築する事ではなく、平和条約を結ぶ事でもありません。

これらの政策は一時的には平和をもたらすかも知れませんが、恒久的な効果は期待出来ません。

常に相手の動向を探り続けなければならず、相手を上回る軍備を保持しなければならず、遂には疲弊し、立ち行かなくなってしまうものなのです。

しかし、唯一真の神様が守って下さるなら、その守りは完全であり、永遠であり不変です。

この唯一真の神様の約束は変わる事がありませんから、毎年更新手続きをする必要もありません。

私たちが忘れても、唯一真の神様が忘れる事などないのです。

この見えない唯一真の神様の、見えない守りよりも、見える物に頼りたくなるのが人間の弱さであり愚かさなのです。

唯一真の神様は士師を送り、預言者を送って、イスラエル人を裁き、イスラエル人を助け、イスラエル人を守って下さいました。

しかし、イスラエル人は神の民である事よりも、周辺諸国のようになる事を願い求めてしまうのでした。

その切欠となったのは、サムエルが老いて、その指導力に翳りが出て来た事でした。

【本論】

8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。

8:2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。

その生涯を神様と共に歩んで来た偉大な預言者サムエルですが、人は年を重ねれば老いて行き、弱くなり、若い時のように何でも出来る、という訳にはまいりません。

出来ない事が増えて行き、その働きの多くを誰かに委ねなければならなくなっていきます。

働きを引き継ぐ…というのは簡単な事のようですが、とても難しい事です。

特に、サムエルのように幼い頃から唯一真の神様に仕えて来た働き人の代りは、おいそれと見つかるものではありません。

唯一真の神様に仕える働きは、誰がなってもよいものではなく、唯一真の神様の選びと召命があって成り立つ働きです。

どんなに優秀でも、敬虔でも、尊敬できる人物でも、それが唯一真の神様に仕える資格となるのではありません。

逆に能力が低くても、弱くても、欠点だらけでも、唯一真の神様が選ばれたならその働きに就くしかなく、選ぶのは唯一真の神様であり、唯一真の神様が召し、立てて下さった人物だけが唯一真の神様の働きに着く事が出来るのです。

ですから、問題があろうが、気に入らない部分があろうが、尊敬できなくても、唯一真の神様が選び立てて下さったなら、受け入れなければならないのです。

それらの意味でも士師や預言者という働きは世襲ではなく、唯一真の神様の召命だけなのです。

但し、祭司やレビ人の働きは世襲ではありますが、唯一真の神様の選びによって世襲しているのであり、全て唯一真の神様に仕える働きは、唯一真の神様の選びだけが、その働きに就く決定権を持つのです。

唯一真の神様に選ばれ、唯一真の神様と共に歩んだサムエルですが、息子たちは親の生き方から学ぶ事はなかったようです。

8:3 しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。

サムエルは幼い時から唯一真の神の宮で過ごし、その生涯の終りまで唯一真の神様と共に生きて来ました。

祭司エリの二人の息子の行状も、つぶさに見て来たのですが、その経験を生かす事は出来なかったようです。

信仰継承はかように難しいものであり、人の思いの及ばない事であり、唯一真の神様の支配される世界である事を教えます。

だからといって信仰継承をいい加減にして良いと言う訳ではありません。

親にとって信仰継承こそ最優先の課題であり、唯一真の神様から委ねられた大切な働きです。

学校教育による文化の継承以上に大切な働きであり、唯一真の神様を知る事こそ知識の始めなのです。

神を知る事とは、神知識を増す事ではなく、唯一真の神様を恐れる事であり、唯一真の神様を敬う事です。

唯一真の神様を何よりも大事にする事であり、唯一真の神様の命令に100%聴き従う事です。

正しい行ない、不正を遠ざけ、汚れを忌み嫌い、聖さを追求する事です。

唯一真の神様の基準はとても高く、人はどんなに頑張ってもその基準には達し得ませんが、努力する姿を唯一真の神様は喜んで下さいます。

唯一真の神様は失敗を叱るお方ではなく、努力を認めて下さるお方なのです。

究極的にはイエス様の犠牲によってしか人間が義とされる事はないのですが、失敗を繰り返しつつも、信じるに相応しく生きる事が大切なのです。

祭司エリの二人の息子、ホフニとピネハスは、父の訓戒に聴き従う事なく、悔い改める事をしなかったため、唯一真の神様に打たれましたが、悔い改めるならば、赦されない罪はないのです。

サムエルの二人の息子はヨエル、アビヤと言う名前を付けられました。

ヨエルとは「ヤハウェは神である」と言う意味であり、アビヤとは「ヤハウェは我が父」と言う意味です。

二人ともイスラエルの神に因んだ名前を付けられているのに、その行状は唯一真の神様を侮るものであり、唯一真の神様を悲しませるものでした。

8:4 イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、

8:5 彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

イスラエルの長老たちの言い分はもっともですが、果して最善の要求と言えるのでしょうか。

預言者、祭司、指導者、裁き司、何と表現しても言いのですが、唯一真の神様が立てたこれらの職務は、唯一真の神様に任命権があります。

唯一真の神様が選ばれ、無名の人が預言者として立てられます。

そして、廃する事も唯一真の神様がです。

ゼカリヤ書118節、20171624ページ、第31557ページ、「私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も、私を嫌った。」と記されているように、唯一真の神様自らが預言者を廃されるのです。

唯一真の神様が立てられた働き人を、それを人の判断で廃してはなりません。

もし、サムエルの息子ヨエルとアビヤの行状に問題があるなら、その事を唯一真の神様に申し述べ、改善を求めればよいのであって、王様を下さいとの要求は筋違いであり、不当な要求です。

唯一真の神様の主権を蔑ろにする行為であり、そのような要求をする者を唯一真の神様は必ず裁かれます。

直接裁かれるか、不毛の生涯となるかは唯一真の神様のみこころですが、決して良い結果は招きません。

サムエルもこのイスラエルの不当な要求に憤慨し、唯一真の神様にその不満を申し述べます。

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。そこでサムエルは主に祈った。

8:7 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。

8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

8:9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」

唯一真の神様が立てられた預言者、士師、祭司、裁き人を退けるのは、唯一真の神様の主権を侵すに留まらず、唯一真の神様を退けた事になると言うのです。

これは恐ろしい事です。

唯一真の神様への要求が、時には唯一真の神様を退けた事となると言うのです。

偶像礼拝や、異教の神々への礼拝が唯一真の神様を退ける事だ…と言うのは納得出来ましょうが、何故、王様を求める事が、唯一真の神様を退けた事と見なされるのでしょうか。

それは見えない唯一真の神様を見える形にする偶像礼拝と本質が同じだ、と言う事です。

見えない唯一真の神様に従う不安より、見える王様に安心を求める心の現われなのです。

イスラエル人は唯一真の神様が選び、この世から分かたれた特別な存在です。

世と違うところにこそ特徴があるのであり、その違いを保持し続ける事が、イスラエル人に与えられた使命なのです。

十戒に代表される様々な規定、律法もイスラエル人を縛り、窮屈にするものではなく、世と違った生き方の基準として与えられているものなのです。

その大切な使命を放棄して、「ほかのすべての国民のように」なりたいと言うのは、イスラエル人に与えられた使命を放棄する事であり、唯一真の神様と縁を断つと言う事なのです。

こんな大それた、不遜な要求ですが、それでも唯一真の神様はその要求を受け入れて下さいます。

とは言っても、イスラエル人は唯一真の神様に選ばれた民であり、常に唯一真の神様の支配の中に置かれています。

王様を立てるに際しても、その王様は唯一真の神様が選ばれ、唯一真の神様が立てられるのです。

世の王様は力があり、知恵があり、統率力があり、指導力があり、を基準に選ばれるのでしょうが、イスラエルの王様は唯一真の神様が任命されます。

唯一真の神様が選ばれて王様とするのであって、初代のイスラエルの王様も唯一真の神様によって選ばれ、サムエルによって油を注がれ、イスラエルの王様として任命を受けるのです。

唯一真の神様が立てられる王様ですが、王様には様々な特権が与えられます。

8:10サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、主のすべてのことばを話した。

8:11 彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちをとり、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。

8:12 また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。

8:13 また、あなたがたの娘たちをとり、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。

8:14 あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。

8:15 あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。

8:16 あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。

8:17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。

8:18 その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王ゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」

これらの教えは、王国と言うものは、莫大な税金によって維持されるものであり、軍人や役人の維持、戦いの時の褒賞を賄うために使われる事を教えているのです。

唯一真の神様が守って下さる国は、唯一真の神様が費用を負担して下さいます。

しかし、王様が支配する国は、国民がその費用を負担しなければならないのです。

正当な要求は勿論の事、不当と思われるような要求でも拒んだり出来ない事を事前に忠告しているのです。

11節から17節に「取る」と言う意味の言葉が6回程出て来ます。

ここにも王様の支配と唯一真の神様の支配の違いが明確に現されています。

王様は様々な形で取り上げる方ですが、唯一真の神様は与えるお方であり、無償で一番良いものを与えられるお方なのです。

祝福を与えて下さるお方です。恵みを与えて下さるお方です。

最終的には17節、王様の奴隷をされるのに対して、唯一真の神様は子どもとして下さるのです。

この大きな違いにも関らず、人は頑なであり、見える物に安心を求め、その要求を引っ込める事はしないのです。

8:19 しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。

8:20 そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

8:21 サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それを主の耳に入れた。

8:22 主はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。

唯一真の神様はイスラエル人の要求に屈して、許可を与えたのではありません。

申命記1714節、2017346ページ、第3335ページにこの事が予告されています。

17:14 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、

17:15必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。

40年の荒野での生活は近隣諸国と隔絶された生活であり、また、唯一真の神様に頼るしかなかったでしょうが、

カナンの地に定住し、近隣諸国との関係が重要になってくると、国の代表が必要になり、政府に権限を与えて、国際関係を調整しなければならなくなってくるのは必然でしょう。

更には近隣諸国とは違った、神の民として生きなければならないのですから、その使命は重大です。

故に、唯一真の神様もこの事を見越しておられ、王制を承認しておられたのです。

【適応】

時代の趨勢として、王制は必然であったとしても、その制度を取り入れる時期と手続きが問題です。

あくまでもイスラエル民族は神制政治であり、王制政治でもなければ、民主政治でもありません。

王様が立てられたとしても、その王様は逐一唯一真の神様に聴き政治を行なわなければならないのであり、民衆から代表が選ばれる事になっても、多数決で決められるようになっても、唯一真の神様のみこころを追い求め、唯一真の神様のみこころを反映していかなければならないのです。

どのような政治形体であっても、唯一真の神様に聴き従わなければならず、人間の側からではなく、唯一真の神様が必要と思われる時に示された方法に従うのが、イスラエル人の生き方なのです。

真の支配者は唯一真の神様です。

直接には預言者であったり、士師であったり、王様であるかも知れませんが、本当の支配者は唯一真の神様なのです。

ですから、唯一真の神の民と自認するなら、現在唯一真の神様が立てられている制度に従って、唯一真の神様が立てられた指導者に従い、唯一真の神様が相応しくないと判断され、退けられるまで待つのが、神の民に相応しい生き方です。

問題があるからといって、制度を変えるのではなく、現行の制度の中で、唯一真の神様に聴き従う指導者を立てて頂くことを願い求めるのが正しい選択なのです。

その時、唯一真の神様が祭司エリの二人の息子を退けられたように、祭司エリを退けられたように、相応しくない指導者ならば唯一真の神様ご自身が彼らを退けられ、唯一真の神様がサムエルを立てられたように、唯一真の神様ご自身が相応しい指導者を立てて下さるのです。

王制が必然であったとしても、唯一真の神様の主権を無視し、唯一真の神様の時を待たず、人間の願いで事を進める時、必ず歪が生じます。

どのような制度であっても、良い点があり、欠点があります。

欠点のない制度などなく、多かれ少なかれ欠点は存在します。

そして唯一真の神様のみこころに先走った要求、無理をして立てた制度は、唯一真の神様のご計画による結果ではないので、そこに歪が大きく現れて来る事でしょう。

唯一真の神様に聴き従うと言いながらも人間の思いが先行し、唯一真の神様のみこころは何時も後回しにされてしまうのです。

結果、イスラエルの国が繁栄するのはほんの一時であり、その繁栄も民衆の苦しみの上に建てられたものであり、民衆の反発を招き、分裂し、跡形もなくなってしまったのではないでしょうか。

イスラエルの国に、真の意味で王制が確立し、その繁栄を享受することはなかったのです。

見かけは立派な王国が出来ましたが、それは人間が建てた王国であり、唯一真の神様を退けた民に安息は与えられませんでした。

何故ならば、唯一真の神様が建てようとされた王国は、サウル王朝でもなければ、ダビデ王朝でもありません。

唯一真の神様が建てようとされたのは、イエス様を王とする王国だからです。

このイエス様を王とする国こそ唯一真の神様の認められた王国であり、私たちが招かれている王国です。

ここにおられる皆様が、良かれと思って、気が付かないうちに唯一真の神様を退けてしまい、

唯一真の神様の祝福、安息から退けられてしまうことがありませんようにお祈り致します。

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                             2020-1-12礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙219節~22

説教題:「神の家族としての教会」

【導入】

凡そ2000年前の使徒の時代、キリスト教は、キリスト教と言う独立した宗教組織、団体ではなく、ユダヤ教の一派と見做されていました。

ユダヤ教の経典が正典とされ、律法や、律法に付随する種々、様々な規定を守る事が重要視されていました。

即ち、クリスチャンと呼ばれるようになっていても、割礼を受け、律法を守る事など、ユダヤ人として生きる事が求められていたのです。

ユダヤ人としての誇りは、尊いものですが、異邦人や異教徒を差別する、排除する、距離を置くとなると問題です。

創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスは、ユダヤ人と異邦人の壁を壊したのであり、創造者なる唯一真の神様の前に、ユダヤ人と異邦人の間には、何の差別もなくなったのです。

しかし、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャンも、ユダヤ人と異邦人の壁が壊された事、ユダヤ人と異邦人の間には、何の差別もなくなった事を理解してはいません。

教えられてはいないからです。

ですから、ユダヤ人クリスチャンは、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンと交わりを持たず、距離を取っており、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンも、積極的にはユダヤ人クリスチャンに近づかず、双方に、少なからぬ対立、近付き難さがあったのです。

パウロは、ユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンとの一致を求めて、筆を進めます。

これらの事は、既に学んだ事ですが、差別がなくなった事を知っても、生き方が変わらなければ、行動が変わらなければ意味はありません。

パウロは、ユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンとの、新しい関係を願って、筆を進めます。

【本論】

新改訳2017版 2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

パウロは、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンも、過去のわだかまりを持っており、ユダヤ人は、ユダヤ人としての誇りを中々捨てられない、旧来の考え方を切り替えられない事を十分理解しており、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンは、ユダヤ人の宗教的厳格さを知っており、中々ユダヤ人クリスチャンの中に入って行く勇気がない事、どうしても躊躇してしまう事を知っています。

ユダヤ人クリスチャンと、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンと、どちらが多数派であり、少数派かは分かりませんが、パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教の教師であり、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスの任命を受けた教師としての権威を持って、異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンに対して、

クリスチャンの仲間として受け入れたいとの強い、篤い思いを込めて、招きの言葉を贈ります。

こういうわけで」、即ち、12節から語って来た事を受けて、「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」と宣言するのです。

この宣言は、当時の国際社会状況を良く表しています。

国家と国民、都市と市民の関係であり、国家に、或いは都市に帰属しない、無国籍者、市民権を持たない者は、何の保護も得られず、何の権利も与えられてはいなかったのです。

ローマ市民であるならば、ローマの属国では人権と安全が保証されましたが、ローマ市民でなければ、人権はなく、保護もされず、何の助けも得られはしませんでした。

国家や都市に帰属しているか否かが、生死を分けるのであり、安全を決定するのであり、人権が保障されるのです。

そんな社会であるからこそ、パウロの宣言は、実感をもって、エペソの異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンの心に届き、大きく強く響いたのではないでしょうか。

創造者なる唯一真の神の国の国籍を持つ者とされている、創造者なる唯一真の神の家族とされている、との宣言は、何よりの福音だったのではないでしょうか。

勿論、この世では、旅人であり、寄留者であり、足の裏で踏む程の土地さえ、与えられてはいませんが、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスの贖いによって、創造者なる唯一真の神の国の市民権を有する者とされているのであり、これを剥奪する、如何なる力も、働きも存在しません。

異邦人であるとの現実は変えようがなく、異教徒であった過去は拭い去る事は出来ず、おぞましい慣習に対する、その負い目は消しようもありませんし、ユダヤ人の、ストイックな信仰生活には、近寄り難さを、強く感じていたのではないでしょうか。

同じようには出来ない、一緒にはなれない・・・、それがエペソの異邦人クリスチャン、異教から改宗したクリスチャンの偽らざる思いだったのではないでしょうか。

しかし、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスの贖いによって、創造者なる唯一真の神の国の国籍を持つ者とされたのであり、更には、創造者なる唯一真の神の家族とされていたのです。

その事実を、ユダヤ教の教師であり、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスの任命を受けた教師としての権威を持つパウロから教えられたのです。

国民や市民と、家族とでは、大きな違いがあります。

家族の関係性、親密度は、同国民、同市民、同胞の関係性、親密度とは比較にならない、強固な関係性であり、切り離す事の出来ない親密度です。

家族の関係性、親密度が重要なのは、創造者なる唯一真の神様が関わっているからです。

創造者なる唯一真の神様は、アダムとエバを創造され、「夫婦」と云う関係性を構築され、最小の基本単位として「家族」を創られたのであり、「家族」こそが、創造者なる唯一真の神様の御こころを行なう、「核」なのです。

「家族」は、小さな単位ですが、小さな集まりですが、創造者なる唯一真の神様の注目、関心の的であり、「家族」を見守り、祝福されるのです。

その大切な「家族」を「建物」に例えてパウロは説明を続けます。

2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。

「家族」は人が集まり、「建物」は材料があれば、事、足りるものではありません。

人や材料を繋ぎ止める物が必要であり、更には、人や材料を受け止め、支える堅固な土台が必要です。

その人や材料を繋ぎ止めるモノ、纏め上げるモノとして、パウロは「使徒たちや預言者たち」を挙げます。

先ず「使徒たち」ですが、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスの直接的な弟子であり、創造者なる唯一真の神の御子キリスト・イエスから聴いたことばを伝える「メッセンジャー」と云えるでしょう。

教師としての権威を帯び、教会の統治者としての権威を帯びている人々であり、主に、新約聖書に登場する、指導的立場にある人々です。

次に「預言者たち」ですが、創造者なる唯一真の神様に召し出され、時に応じて、御霊に導かれ、聖霊によって語る人々であり、主に、旧約聖書に登場する、霊的指導者たちです。

現代、「使徒たちや預言者たち」の働き、ことば、教えは、聖書66巻にまとめられていますので、「聖書」が繋ぎ止めるモノであり、纏め結び付けるモノであり、「土台」と考えて良いでしょう。

その大切な「土台」ですが、「土台」を支える「要の石」「基礎」が必要であり、「要の石」「基礎」の良し悪しが、建物の良し悪しを決定付けます。

使徒たちや預言者たちという土台」は立派。

だけれども「要の石」が貧弱では、建物の重みに耐えられず、不均衡に沈み込み、「基礎」がなければ、建物は歪み、使い物にはならなくなるのは、確実です。

使徒たちや預言者たちという土台」が生きるも死ぬも、「要の石」次第なのです。

2:21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。

使徒たちや預言者たちという土台」と、「キリスト」と云う「要の石」の上に、ユダヤ人クリスチャン、異邦人クリスチャン、異教からの改宗クリスチャンが繋がり、纏まり、「全体が組み合わされて」「神の家族」を形成し、「成長し」続け、「主にある聖なる宮」となるのです。

主にある聖なる宮」とは、創造者なる唯一真の神様がご臨在される場所、住まい、であり、クリスチャン一人一人です。

決して「建物」の事ではありません。

そして、「神の家族」は、この世の「家族」の進化形でもなければ、理想形でもありません。

神の家族」は、創造者なる唯一真の神様を信じるクリスチャンの集まりです。

つまり、「神の家族」は、血縁や縁故、義理や人情の関係ではなく、懐かしいとか、安心するとか、でもなく、また、親愛の情を深め、仲良く、和気藹々、でもなく、この世の家族がお手本とするような家庭像を提供するのでもなく、「使徒たちや預言者たちという土台」と「キリスト」と云う「要の石」の上に、創造者なる唯一真の神様がご臨在される者の集まりなのです。

クリスチャン一人一人が「主にある聖なる宮」であり、クリスチャンの集合体である教会も「主にある聖なる宮」なのであり、時代と共に増える諸教会も「主にある聖なる宮」なのです。

エペソの人々は、「聖なる宮」と云う言を聞いた時、エペソのアルテミス神殿を思い浮かべたでしょうし、ユダヤ人は、「聖なる宮」と云う言を聞いた時、エルサレム神殿を思い浮かべた事でしょう。

アルテミス神殿は、御利益宗教の象徴、偶像礼拝の代表であり、エルサレム神殿は、宗教的に堕落し、あって無きが如き存在となっていました。

しかし、ここに、時代を貫き、世界を覆う、「聖なる宮」、キリストの体なる教会が聳え立ったのです。

さて、「神の家族」ですが、当時、クリスチャンは極少数派であり、社会的弱者であり、ユダヤ社会からは弾き出されていましたから、経済的にも困窮していました。

そこで、共産的な、相互扶助的なコミュニティーを形成し、共同生活を送っていましたので、「神の家族」と云うことばは、正に、現状を云い得ていた訳です。

現代、「神の家族」と云うことばに、共産的な、経済的な相互扶助の意味合いや、共同生活的コミュニティーの意味合いはなくなっていますが、霊的な相互扶助や分かち合い、交わりの重要性は、益々増しているのではないでしょうか。

何しろ少数派なのですから、霊的な話や相談をする相手は皆無に近いのであり、霊的な話や相談をする関係として「神の家族」は、なくてはならない存在なのです。

2:22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

ユダヤ人であっても、エペソ人であっても、異邦人であっても、異教徒であっても、「キリストにあって」「御霊によって」「神の御住まいとなるのです」。

神の御住まい」となるのは、クリスチャンが和気藹々、仲良く生活するためではありません。

一人一人のクリスチャンが、創造者なる唯一真の神様がご臨在される事を、世に示すためであり、神を愛し、人を愛するためです。

パウロの導く結論は、これです。

神の家族」と云うことばは、非常に人間的な関係性を強調していることばのように感じますが、人間的な繋がりを奨励する意味はありません。

クリスチャンは、「キリストにあって」「御霊によって」歩むのであり、「キリスト」「御霊」を頼り、拠り所とするのです。

神の家族」は、頼り所、拠り所、ではなく、霊的な話や分かち合い、交わる関係として、必要な存在なのです。

【適応】

教会に、人間的な繋がり、親密さを求めて来られる事も多いかと思います。

きっかけとしては、それもありでしょうが、そこに留まっていては不十分です。

また、そこに留まり続けさせてはなりません。

キリストにあって」「御霊によって」歩む手助けをするのであり、「キリスト」と「御霊」を頼り、拠り所とする生き方を示すのが、「神の家族」の役割であり、働きでしょう。

実の家族でも、手の掛かる子どもでも、何時までもお世話ばかりしていては、自立出来ません。

丸抱えのお世話は、ある時期迄であり、自分でやらせ、見守り、ヒントを与えるに止めなければ、成長、自立出来ません。

成長、自立のお手伝いをするのが、家族の重要な役割です。

神の家族」の役割も似ていましょう。

人を頼り、人を拠り所とする信仰生活は、良い人間関係が保たれている間は、順調でしょうが、何かのきっかけで齟齬が生じると、見る見るうちに破綻します。

人に頼る人は、人に躓きます。

人を信頼し過ぎる人は、人に裏切られ易くもあります。

形だけの交わりは、見せ掛けだけの繋がりは、百害あって一利なしです。

神の家族」の役割は、大歓迎や挨拶、お祝い事やプレゼントなどなどではなく、クリスチャンとしての考え方、生き方を示し、困難や不安に対する対処法を示す事です。

叱咤激励ではなく、寄り添いであり、同情ではなく、共感です。

繕わず、地のままでいい。

しかし、自由気まま、我をむき出しにしてはならないのです。

ペテロの手紙第一32節、2017版は468ページ、第3版は455ページ、「3:2 夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。

3:3 あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。

3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです」。

これを次のように読み替えるのも益でしょう。

未信者は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。

あなたがたの交わりは、外面的なものであってはいけません。

むしろ、柔和で穏やかな霊によるお手本を示し、心の中の交わりを常としなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです」。

教会が、このようなクリスチャンの集まりであるなら、その教会は「神の家族」であると、断言出来るでしょう。

しかし、教会が自己表現、自己主張の場であったり、目標達成の場であったりするならば、それは「学校」であり、「競技場」であり、良き競争相手、ライバルかも知れませんが、教会でも、神の家族でもありません。

この世の影響は非常に強く、教会の中に影響を及ぼします。

しかし、教会は、この世の常識や、慣習を取り入れるのではなく、この世には愚かに見える生き方、キリスト」と「御霊」を頼り、拠り所とする生き方を示すのであり、「キリストにあって」「御霊によって」歩む手助けをするのです。

それが、「神の家族としての教会」の姿なのです。

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                 2020-1-5礼拝

聖書個所 サムエル記第一7:117               

説教題 「イスラエル人を助ける主なる神様」

 【導入】

ペリシテ人の5つの大きな町と、その周辺の村々の人々に病苦を与え、更に農作物にも甚大な被害を与え、イスラエル人にも災厄を与えた創造者なる唯一真の神様ですが、創造者なる唯一真の神様は災害や病苦を与える荒ぶる神、怒る神なのでしょうか。

ちょっとでも律法から外れ、教えにそぐわないと、燃えるような怒りを発せられ、問答無用で情け容赦もなく災害や病苦を与えられるのでしょうか。

いいえ、創造者なる唯一真の神様は忍耐強く、情け深い神様です。

怒るのに遅く、恵みは千代に及んで与え続けて下さるお方です。

忍耐強く、情け深いお方ではありますが、だからと言って何をやっても赦して下さる、見逃して下さる、見て見ぬ振りをしたり、なかったことにして下さるお方ではありません。

裁くべき事は必ず裁き、罰すべき事は必ず罰せられます。

決していい加減にはなさいません。

それは創造者なる唯一真の神様が義なるお方であり、正義を行なうことは創造者なる唯一真の神様にとって相応しい事だからです。

と同時に、創造者なる唯一真の神様は情け深いお方であり、愛の根源であるお方ですから、悔い改めるなら裁きを猶予し、罰を与えるのを先延ばしにして下さり、逆に恵みを与えて下さるお方なのです。

しかし、人間は頑なで、素直になれず、なかなか悔い改めて謝ることの出来ない存在ですが、それでも創造者なる唯一真の神様に縋り、憐れみを乞う時、創造者なる唯一真の神様は無下に退ける事はなさらず、憐れみを示し、恵みを注いで下さるのです。

【本論】

神の箱は盥回しにされたあげく、やっとキルヤテ・エアリムの人々が受け入れてくれる事になりました。

キルヤテ・エアリムに神の箱が運び込まれる事が決まったと言っても、大歓迎で迎え入れられた訳ではありません。

イスラエル人にとって、神の箱は災いをもたらす厄介な物であり、おっかなびっくり、仕方なく受け入れた、と言うのが本音でしょう。

7:1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、丘の上のアビナダブの家に運んだ。そして、主の箱を守るために彼の息子子エルアザルを聖別した。

7:2 箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。

当初、神の箱は偶然ではなく、創造者なる唯一真の神様の導きによって祭司、レビ人の住む町、ベテ・シェメシュに運び込まれましたが、今回は人間の判断で、神の箱をキルヤテ・エアリムに運ぶ事になりました。

キルヤテ・エアリムはユダ部族に与えられた土地にあって、ユダ部族の人々が住む町であり、ベテ・シェメシュのようにレビ部族に与えられた町ではありません。

神の箱を預かる事になったアビナダブとエルアザルですが、この二人は、ここサムエル記71節にしか出てこないので、その系図を辿る事が出来ず、断定は出来ませんが、祭司の家系でもなければ、レビの子孫でもないようです。

そんな二人が、何故神の箱を守る事になったのかは定かではありません。

聖書はその事を記していませんので、根拠のない詮索は慎まなければなりませんが、聖書には突然現れて、きらりと光る働きをする人物が数多く記されています。

イエス様に高価な香油を注いだ女の人、イエス様にその信仰を褒められた異邦人、ツロ・フェニキアの女の人や、百人隊長、ナアマン将軍を諭した僕など。

アビナダブ、エルアザルはキルヤテ・エアリムの一市民ではあっても、人望も厚く、人々から頼られる存在であったのではないでしょうか。

また、屋敷が大きかったので、預かる事になったのかも知れません。

兎に角、アビナダブ、エルアザルは人々が敬遠する神の箱を預かり、20年も守ったのですから、その行為が創造者なる唯一真の神様に認められ、記念として聖書に記されて、今に至っているのではないでしょうか。

目立たない働きでも、創造者なる唯一真の神様に仕える尊い働きであり、このように記録され、記念となっているのです。

7:3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」

7:4 イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、主にのみ仕えた。

先にも申し述べましたが、創造者なる唯一真の神様は情け深く、憐れみ深いお方です。

創造者なる唯一真の神様は人々の叫び声を聞き、苦しみを見て、哀れに思い、サムエルを遣わして悔い改めを促します。

外国の神々を除き去り、創造者なる唯一真の神様にのみ仕えるなら、創造者なる唯一真の神様はペリシテ人の圧制から解放して下さると仰られるのです。

裁かれて当然、裁かれるような事をして来たのだし、今もしているのですから、苦しみの中にあっても当然であり、見捨てられて当然の状態なのに、創造者なる唯一真の神様の方から声を掛けて下さったのです。

創造者なる唯一真の神様は十戒を通して明確に教えておられます。

士師の時代を通して、何回も何回も繰り返し、偶像から離れる事を教えて来られたではありませんか。

創造者なる唯一真の神様が求めておられるのは、創造者なる神様を最上位に置く事ではなく、他のあらゆる偶像を捨て去る事なのです。

創造者なる唯一真の神様だけを神として礼拝し、他の神々との関係を一切絶つことなのです。

それなのに裁きに合うと一時的には悔い改めますが「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」の例えの通り、イスラエル人は偶像礼拝を繰り返し、助けにも、役にも立たないバアルやアシュタロテにも生贄を献げ、礼拝を献げて来たのです。

見捨てられて当然な生き方をして来たイスラエル人ですが、創造者なる唯一真の神様は7を70倍するまで赦して下さるお方です。

イスラエル人はこのサムエルの呼び掛けに応じて、全ての偶像を捨て去り、創造者なる唯一真の神様にのみ仕える事を約束し行動に移します。

7:5 サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈ります。」

7:6 彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちは主の前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。

この「ミツパ」は「物見やぐら」の意味を持つ言葉です。

悔い改める場所として相応しい場所と言えるのではないでしょうか。

創造者なる唯一真の神様が見ておられる場所で、人々が見ている所で、悔い改めの誓いがなされたのです。

悔い改めは心の中の決意だけであったり、身辺整理だけであっては不充分です。

自他共にわかる明確な告白と、執り成しの祈り、罪のための献げ物が必要です。

信仰は心の中の問題ですが、明確な告白と行動が伴う事を創造者なる唯一真の神様は願っておられます。

生き方が変わる事を創造者なる唯一真の神様は願っておられます。

生活の中に染み込んだ偶像礼拝に伴う、数々の習慣を、異教的風習を払拭するのは容易なことではありません。

それこそ重箱の隅を突つくような執拗さと、血の滲むような努力が必要です。

そしてこれは人間の決意だけで出来るものではありません。

創造者なる唯一真の神様だけに従う、仕える、創造者なる唯一真の神様だけを愛すると言う熱意と決意が必要であり、その時、創造者なる唯一真の神様は助け手を送って下さり、生活の中に染み込んだ偶像礼拝に伴う、数々の習慣を、異教的風習を払拭することを可能ならしめて下さるのです。

創造者なる唯一真の神様の助けにより、偶像を捨て、創造者なる唯一真の神様だけに従う決意表明がなされました。

この、創造者なる唯一真の神様に従う決意表明の集会に、ペリシテ人は戦闘準備に集まったと勘違いをし危機感を持ったようです。

7:7 イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。

創造者なる唯一真の神様に従う決意には、必ずと言って良い程、創造者なる唯一真の神様から離れさせる力が働きます。

創造者なる唯一真の神様に従う決意表明をし、新しい生き方を願った矢先に、ペリシテ人が攻めて来たと言う知らせを受けて、イスラエル人はうろたえました。

礼拝のために集まったのであって、戦いのためではありません。

戦いの備えは皆無と言って良いでしょう。

この時、創造者なる唯一真の神様に従うとの決意の真価が試されます。

7:8 イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」

7:9 サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として主に献げた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。すると主は彼に答えられた。

7:10 サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし主は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

7:11 イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。

7:12 サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。

7:13 ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、主の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

7:14 ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガテまでが、イスラエルに戻った。イスラエルはペリシテ人の手から、その領土を解放した。そのころ、イスラエル人とアモリ人の間には平和があった。

ペリシテ人が攻めて来た時、神の箱を持ち出すような愚かな選択をする事なく、創造者なる唯一真の神様だけに縋った時、創造者なる唯一真の神様は自然を用いてペリシテ人に混乱を与え、同士討ちを起し、自滅するように仕向けて下さいました。

又、ミツパはその名の通り高台にありましたから、見晴らしも良く、敵の動きを知り、攻撃するにも恰好の場所でした。

イスラエル人はペリシテ人の武器を奪い取って、ペリシテ人を蹴散らし、勝利を得ました。

この勝利は創造者なる唯一真の神様が与えて下さったもので、自分たちの力ではない事を承知しておりましたから、勝利に酔う事なく、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と告白し、創造者なる唯一真の神様を称え、石を立てて記念としたのです。

「エベン・エゼル」とは「助けの石」と言う意味です。

創造者なる唯一真の神様の助けを記念し、忘れない事は重要です。

感謝の印しとなり、迷い出た時に戻る時の目印となるからです。

自分が何処にいるかが分からない時、人は不安になります。

しかし、目印があれば、そこを基点として、帰る事が出来、進む事が出来ます。

時には留まり、新たな出発をする事も出来るでしょう。

エベン・エゼルはその意味でも「助けの石」なのです。

7:15 サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。

7:16 彼は年ごとに、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらすべての聖所でイスラエルをさばき、

7:17 ラマに帰った。そこに自分の家があり、そこでイスラエルをさばいていたからである。彼はそこに主のために祭壇を築いた。

ベテル、ギルガル、ミツパは巻末の地図4「イスラエルの各部族への土地の割り当て」をご覧になるとわかるとおり、ベニヤミン部族の領地内にある都市です。

サムエルはイスラエル全土を巡回した訳ではありませんが、将来のイスラエル王国の中心となる、エルサレム近辺の宗教的安定を図る働きを担った訳であり、その功績は特筆すべき事でしょう。

【適応】

創造者なる唯一真の神様が私たちを助けるのは、私たちに何か良い事があるからではありません。

創造者なる唯一真の神様は私たちが向きを変えさえすれば、私たちを助けて下さいます。

イスラエルを助けたのも、イスラエルが悔い改めたからです。

悔い改めは創造者なる唯一真の神様に向かう事であり、偶像から離れる事です。

創造者なる唯一真の神様とだけ関係を持つ事であり、偶像と縁を切る事です。

私たちも同じです。

この日本には偶像がたくさんありますし、仏教や神道などの教えを出所とする宗教的な行事、言葉もたくさんあります。

全てを切り捨てる事は出来ないかも知れませんが、慣習の一つ一つを吟味する事は大切です。

慣習だからと言って鵜呑みにするのではなく、無思慮に取り入れてしまうのではなく、キリストの光を当てて、取捨選択する知恵が必要です。

そして、創造者なる唯一真の神様が一番喜ばれる方法を模索し、試行錯誤の中で、より創造者なる唯一真の神様に喜ばれる事を選択して生きたいものです。

その時、私たちの基点となるのはなんでしょうか。

イスラエルの民にエベン・エゼルがあったように、私たちのエベン・エゼルは何でしょうか。

それは洗礼を受けた事であり、聖餐を受けた事ではないでしょうか。

信仰の歩みは決して楽な道ではありません。

迷うことも失敗する事も、神様を裏切る事もあるでしょう。

その時、自分は確かに洗礼を受けた、聖餐を受けたという記憶、印しは私たちを励まし、助けてくれるでしょう。

洗礼も聖餐も、神様に繋がっている事の印しであり、確証を与える物です。

誰が何といおうと、サタンが何と囁こうと、あなたは、私たちは神様に繋がれている民であり、天に国籍を持つ神の子どもなのです。

その意味で洗礼は重要です。

洗礼を受けたか否かは雲泥の差です。

洗礼を受けていれば、誰が何と言おうとあなたは神の子です。

信仰的に悩んでいる時、迷った時、確信が持てなくなった時には、原点に立ち帰って、洗礼を受けた事実、聖餐を受けた事実を覚え、そこから立ち直って頂きたいのです。

神様は必ずあなたを、私たちを助けて下さいます。

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