教の著作権は椎名町教会に属します。無断複製、配布はご遠慮ください。

・不適切な表現、表記上の不明点、誤字脱字等にお気づきの方はお手数ですが「ご意見はこちらから」でお知らせください。適時、修正・訂正させて頂きます(聖書本文、著作物からの引用・転用については原文のままとさせて頂きますので、ご了承願います)。

                                                         2020-10-25礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一46節~13

説教題:「教会に潜む高慢」

【導入】

私たちは、この世に生まれ、育ち、色々と教えられ、数々の経験をしており、その影響は強く、深く、高く、広く、考え方、行動に影響を及ぼしています。

コリントはギリシャやローマの文化、宗教、習俗の影響を強く受けており、交通の要衝であり、交易が盛んであり、異文化、異教の影響を強く受けていたようです。

コリント教会の人々は、社会的地位の高い人が多く、教養があり、裕福でもあったようで、プライドも高かったようです。

プライド、自尊心は、人としての尊厳に繋がる重要なものですが、行き過ぎると高慢に繋がります。

プライドが、悪い方向に働くと、人を見下すようになり、許容範囲が狭くなり、排他的、独善的になります。

結果、コリント教会の中に、分派、分裂を引き起こしていたのです。

コリント教会の一部の人々は、パウロたち宣教者の教えを曲解し、救いの完成を既に得ているとする、有頂天な思い込みがあって、高ぶっていたのです。

しかし、現実には、未だ、救いの完成には至ってはおらず、使徒たち、宣教者たち、教職者たちは、苦難や迫害の中にあり、使徒たち、宣教者たち、教職者たちに倣って、御子、主キリスト・イエス様に従って、十字架を負うべきであると、力説するのです。

【本論】

新改訳2017版 4:6 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。

ここまで、パウロは、自身とアポロを例に挙げ、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕えるしもべたちについて語ってきましたが、コリント教会の一部の人々に蔓延っている高慢を正すために、自分に適用し、教会をあるべき姿にするために、語り続けます。

決して、糾弾したり、責めたり、貶(おとし)めたり、追い出したりするためではありません。

教会では、罪を犯した者を「戒規」に処する事がありますが、これは、復帰のための手続きであり、悔い改めの期間を設け、過ごすためであり、決して処罰や刑罰の類ではありません。

「書かれていることを越えない」とは、聖書を越えない、聖書の教えを逸脱しない、聖書の教えに勝手な解釈をしない、などの意味であり、唯一真の神様の、絶対主権と裁きの前に、自分の分を弁(わきま)え知る事です。

パウロたち、宣教者たち、教職者たちは、聖書に対して、非常に謙遜であり、私的解釈をする事をせず、逸脱する事に対して警戒を怠る事はありませんでした。

パウロたち、宣教者たち、教職者たちは、聖書に記されている事は、権威を持って語りましたが、記されていない事は、一切語りませんでした。

これが、聖書に対する態度であり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に仕えるしもべたちの姿です。

聖書の知識をひけらかして、記されていない事を、まるで記されているかの様に語るのは、僭越とか逸脱の言葉で赦される事ではありません。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の権威に対する挑戦であり、重大な侵犯であり、重罪です。

コリント教会の一部の人々は、未だ、救いの完成に至っていないのに、既に、救いは完成したと吹聴し、人々を騙し、迷わせてしまったのです。

一方にくみし、他方に反対して」は、112節の「あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのこと」を指しており、コリント教会の一部の人々は、自らの、其々かってなモノサシで全て、正しく判断出来ると考え、パウロたち、宣教者たち、教職者たちを評価し、支持する事をしてきたのです。

それは、唯一真の神様の主権と裁きを蔑(ないがし)ろにする事に他ならないのです。高慢から出た、コリント教会の一部の人々の言動には、人々を騙し、迷わせる事や、唯一真の神様の主権と裁きを蔑(ないがし)ろにする事を意図してはいなかったでしょうが、高慢から出た言動は、大きな害毒を蒔き取らし、コリント教会全体に混乱と分裂を招いてしまったのです。

パウロの言葉は、厳しい語調であり、鋭い批判ですが、背後にはコリント教会の人々に対するパウロの深い愛を見るべきであり、コリント教会の一部の人々の高慢を正すのが目的である事は、終始一貫したところです。

パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちは、競争者、ライバルではなく、共に、唯一真の神様に召し出され、唯一真の神様にのみ責任を負う協力者、同働者です。

働きの違いはあっても、優劣でも、軽重でもありません。

4:7 いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

コリント教会の人々は、社会的地位の高い人が多く、教養があり、裕福でもありましたが、誰もが、何も持たず、裸で生まれて来たのであり、小さな、何も出来ない身体であったのが、後天的に社会的地位、富みを引き継ぎ、或いは獲得し、能力、教養を獲得したのであり、それらは、唯一真の神様から与えられた賜物であり、決して誇れるものではないのです。

個々を比較すれば、確かに、大小の違い、優劣や高低、強弱や軽重がありますが、キリストの身体全体の中で、各々が異なる賜物を以って、お互いに仕えるのです。

「全体」の中の「個」としての存在を忘れる時、高慢に陥り、与えられたに過ぎない「賜物」を私物化する時にも、高慢に陥り、賜物の源である、唯一真の神様との関係を忘れる時、高慢に陥るのであり、パウロは繰り返し、強く警告するのです。

教会は、また、キリスト者は、全てを御子キリスト・イエス様にあって、唯一真の神様から受けているのであり、御子キリスト・イエス様と教会、キリスト者との正しい知識の欠如が、高慢に繋がり、混乱と分裂の原因となるのです。

4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。

8節のパウロの言葉は、痛烈な皮肉を込めた、叱責の言葉ですが、単に皮肉や叱責だけではなく、同時に「諭す」意味合いが込められた言葉でもあります。

コリント教会の一部の人々は、「もう満ち足りています。すでに豊かになっています。王様になっています」と、思い込んでいましたが、これらは、終末の時の、救いの完成の時に与えられる栄光であり、「いまだ」未完成なのです。

決して「もう」でも、「すでに」でも、「なっています」でもありません。

もう満ち足りています。すでに豊かになっています。王様になっています」との意識は、高慢の表れであり、「私たち抜きで」とは、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの生き方とは関係なく、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの生き方を無視している、の意味です。

いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに」と、コリント教会の一部の人々の誤り、思い込みを痛烈に皮肉り、指摘しているのです。

以上、述べてきたコリント教会の一部の人々の高慢と対照的に、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの低さを並べ挙げます。

4:9 私はこう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。こうして私たちは、世界に対し、御使いたちにも人々にも見せ物になりました。

最後の出場者」の直訳は「最後の者」であり、当時、ギリシャ、ローマ世界では、闘技場での、数々の見世物の最後に、死刑囚を引きずり出し、猛獣や剣闘士と戦わせ、或いは死刑囚同士で殺し合いをさせ、見世物のフィナーレとしたそうです。

残酷な習慣ですが、人々は喝采で迎え、興奮は最高潮に達したそうです。

コリント人への手紙第一1532節、2017版は351ページ、第三版は341ページに、「もし私が人間的の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう」と記述されています。

この記述は、文字通り、本当の「」ではなく、獣との戦いに匹敵するほどの激しい苦難を意味する、比喩的な表現と思われますが、「神は私たち使徒を・・・最後の出場者として引き出されました」との表現は、パウロたち、使徒たちの体験は、個人的な事柄ではなく、唯一真の神様の、救いのご計画における、重要な役割を占めるものとして、強く自覚している事を意識しての表現でしょう。

見せ物」になって、苦しみを受けても、辱めを受けても、唯一真の神様の、救いのご計画における、重要な役割を担わせていただいているだけなのであり、ここでも、死刑囚のように、取るに足りない者でしかない事を自覚し、大した役に立たないしもべに過ぎない事を告白しているのです。

4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。

パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちと、コリント教会の一部の思い上がった人々とを対比させていますが、文字通り、コリント教会の一部の人々の賢さ、強さ、栄誉を認めているのではありません。

コリント教会の一部の人々の、思い上がり、うぬぼれ、高慢を、痛烈に皮肉っているのであり、キリスト者の生き方、賢さ、強さ、栄誉に対する理解を巡っての相違、賢さ、強さ、栄誉は、ひけらかすものでも、自慢するものでも、比較するものでもない事を、唯一真の神様から与えられた、預かっているに過ぎない事を、言外(げんがい)に示しているのです。

4:11 今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、

パウロたち、宣教者たち、教職者たちの働きは、唯一真の神様の守りの中で、理解者、協力者が与えられ、順調に、障害もなく、進められてきた訳ではありません。

行く先々で誤解、無理解、偏見を受け、反対者、妨害者、攻撃者が現れ、同胞から、異邦人から、執拗な嫌がらせ、妨害、攻撃を受けてきたのです。

この困難の羅列は、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちだけが味わった困難ではありません。

御子キリスト・イエス様が味わわれた事であり、御子キリスト・イエス様の境遇と、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの境遇とが、平行関係である事を示しているのです。

宣教者たち、教職者たち、働き人たちが、行く先々で誤解、無理解、偏見を受け、執拗な嫌がらせ、妨害、攻撃を受けるのは、当然、必然であり、驚き、訝(いぶか)る事ではないと、宣教者たち、教職者たち、働き人たちへの励まし、慰めの言葉でもあるのです。

4:12 苦労して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、

ギリシャ人、ローマ人は好奇心旺盛でしたから、辻説法が盛んであり、弁論家の話しや、哲学者の話し、そして宗教家の話しも喜んで聞いていたようですが、パウロたちの、テント作りをしながらの宣教は、ギリシャ人、ローマ人にとって聞くに値しないものでしかなかったでしょう。

何故ならば、当時のギリシャ、ローマ世界は、肉体労働を卑しい仕事とし、知的労働を尊い仕事とする労働観だったからです。

パウロたちの宣教方法は、ギリシャ人、ローマ人にとって理解困難だったと思われ、「ののしられ、迫害され」、13節「中傷され」る毎日だった事でしょう。

しかし、誤解を解き、理解して頂き、偏見を解消するのに、注力するのではなく、福音を届ける事に、注力、全力を注ぐべきなのです。

パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの、弱さの現れのように見える生き方、宣教方法ですが、これ以外の方法で、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に従う事は出来ないのです。

この、パウロたち、宣教者たち、教職者たち、働き人たちの生き方、宣教方法こそ、教会に、キリスト者に求めるものなのです。

4:13 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。

私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かす」との、極端なまでの自己卑下、自己否定は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様への讃美にほかなりません。

自己保身は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を否定する事であり、自己卑下、自己否定は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様への従順なのです。

【適応】

コリント教会に潜む高慢は、コリント教会独特の、コリント教会固有の問題ではありません。

何処の教会にでも、何時の時代の教会にでもある、普遍的な問題であり、教会のみならず、個々人のキリスト者の問題です。

コリント教会の人々は、社会的地位の高い人が多く、教養があり、裕福でもあったようで、プライドも高かったようです、とお話しましたが、どの教会にも、どのキリスト者にも、歴史があり、自負があり、プライド、矜持があります。

それが、多少なりとも、信仰生活に、宣教に影響しています。

本人に、高慢の意識がなくても、高慢の種は潜んでいるのです。

潜んでいるだけに、自覚していないだけに厄介です。

ほんの自己紹介、教会紹介のつもりでも、自慢に聞こえ、差別に聞こえ、遠回しに見下されていると感じるのは、感じる人が悪いのではなく、発言者に配慮が必要だ、と云う事なのです。

私は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のしもべである、との意識が強固、堅固でないと、高慢の芽が伸び始めます。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のお役に立ちたい、との意識にも、注意が必要です。

お役に立ちたいとの思いが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御こころに優先する事は、あってはならない事です。

従順な思いで、何時通りの事をしていても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御こころとは限りません。

神様に従う思いに、高慢の入り込む余地などないと思いましょうが、決してそうではありません。

モーセは、出エジプトの、荒野の旅路で、民の求めに応じ、神様の指示で岩から水を湧き出させますが、最初の神様の指示は「杖で岩を打ち据えること」でしたが、2回目の神様の指示は「岩に命じること」でした。

それなのに、モーセは指示に反して「杖で岩を打ち据え」たため、神様の怒りを受けてしまいます。

この逸話は、出エジプト記176節、2017版は130ページ、第三版は126ページに、そして民数記208節、2017版は276ページ、第三版は267ページに記されています。

モーセは、非常に謙遜であった、と記されており、高慢には縁のない人柄であり、神様に対する不服従の思いは、一片もなかったでしょうが、神様に対する従順に、非の打ち所がないように見えても、前回と同じでよいだろう、は不従順であり、高慢の現れであり、叱責を受ける事になるのです。

高慢は、偉そうな態度、不遜な態度だけではありません。

態度には出ない、心の奥底にも、高慢の思いは潜んでおり、本人さえ、気付かない事もあるのです。

高慢は形を変えて、高慢とは無縁の様相で表れます。

神様の御こころを装い、正義を装い、正論を装い、我を通すなら、それも高慢のなせる業でしょう。

一信徒でありながら、その分を越えて、宣教者たち、牧師たち、教職者たちの働きにまで口を出すなら、宣教者たち、牧師たち、教職者たちを助けるつもりであったとしても、働きにまで手を出すなら、それは、高慢の現われなのではないでしょうか。

コリント教会の人々は、見るからに高慢な人ではなかったでしょうが、コリントの町の伝統を誇り、その伝統あるコリントの町にある教会を誇り、コリント教会に所属している事を誇りとし、パウロを誇りとし、パウロ派に属している事を誇ったのですが、パウロのやり方に口を出し、忠告、指示を出すようになるのは、時間の問題でしょう。

人間は、どんな小さな事でも誇りとする生き物であり、何もない事さえも誇る、愚かな生き物なのです。

そして、誇りに留まらないのが、誇りは高慢に変わり易いのが、誇りの恐ろしさです。

誇りは、本人にだけ意味があり、取るに足りないものである事の強い自覚と、高慢に変わりやすい性質のものである事を自覚し、教職者、信徒、其々が、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様から信任された働きに、しっかりと取り組み、歩み続けたいものです。

 2020-10に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                                             2020-10-18礼拝

聖書個所:コリント人への手紙第一 41節~5

説教題:「教職者の責任は主なる神に対して」

【導入】

以前、コリント人への手紙第一36節~9節までの箇所から、「宣教者の役割は何」と題して学びました。

福音宣教者、牧師、教職者の働き、役割は、徹底的に唯一真の神様中心でなければならない。

その明確な宣教姿勢が、民数記2312節に記されています。

2017版は旧約聖書283ページですが、「主が私の口に置かれること、それを忠実に語ってはいけないのですか」、と少しソフトな言い回しに訳していますが、第三版は旧約聖書275ページ、「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません」、と明確に、断定的に訳しています。

この姿勢は、何より大切です。

唯一真の神様に対する忠実度については、使徒の働き419節、2017版は新約聖書283ページ、第三版は新約聖書275ページが参考になるでしょう。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」。

使徒の働き529節では次のように明確に断定しています。2017版は新約聖書283ページ、第三版は新約聖書275ページ、「人に従うより、神に従うべきです」。

福音宣教者、牧師、教職者は、支配者に媚びず、忖度を働かせず、身の安全を図らず、聴衆、会衆に媚びず、評判や評価を度外視し、厳しい事でも、語りにくい事でも、迫害され、殺されるような目に遭っても、「神に従うべきで」あり、「忠実に語らなければなりません」。

種を蒔く者が種を蒔かず、苗を植える者が苗を植えず、水を撒く者が水を撒かず、

肥料を与える者が肥料を与えず、間引く者が間引かず、雑草を抜く者が雑草を抜かなければ、主人から厳しい叱責を受けるでしょう。

農夫が、種が芽を出し、苗が成長するように、お世話をするように、福音宣教者、牧師、教職者は、御言葉の種を蒔き続けなければならず、教会と信徒が、唯一真の神様の御旨に沿った成長のためのお世話をしなければなりません。

それが、福音宣教者、牧師、教職者の務めです。

その働きを疎かにするのは、主人である唯一真の神様を悲しませるだけです。

のみならず、主人である唯一真の神様から厳しい叱責を受ける事になるでしょう。

福音宣教者、牧師、教職者は、もっぱら、祈りと、御ことばを宣べ伝える事に、信徒の霊的必要に応じる事に専念しなければならないのです。

また、福音宣教者、牧師、教職者は、常に、そのような姿勢、心構えでいなければならないのです。

それが、唯一真の神様の、福音宣教者、牧師、教職者に委ねた働き、期待する働きであり、唯一真の神様をお喜ばせする事です。

今日は、福音宣教者、牧師、教職者の務めが、誰に対して責任を持つかについて、聖書から学びたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 4:1 人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。

パウロは、先ず、福音宣教者、牧師、教職者は、教会のために遣わされた者である、と同時に、「キリストのしもべ」であり「神の奥義の管理者」である、と云う事を確認します。

福音宣教者、牧師、教職者たちは、教会を自らの考えや理想で支配するのではありません。

福音宣教者、牧師、教職者たちは、「キリストのしもべ」であり、御子キリスト・イエス様の主権、支配、意志に従う者である事の確認がなされます。

この「しもべ」と訳されているギリシャ語ですが、「奴隷」の意味のギリシャ語(ドゥーロス)ではなく、「下役、助手」の意味のギリシャ語(ヒュペーレテース)であり、元々は、大きな船の下層で櫓を漕ぐ者を指す言葉が語源であり、転じて、「他の者に仕える者」を意味するようになった言葉です。

問答無用、絶対服従、言い付けられた事だけを忠実に行なえばよい「奴隷」ではなく、自らの意思や考え、創意工夫を、働きに反映させる事が期待されている「助け手」なのです。

更には、単独で、直接に御子キリスト・イエス様に仕えるだけでなく、同労者との協力関係を維持しつつの、間接的な働きも含まれている事でしょう。

御子キリスト・イエス様に仕える働きは、単一、画一的ではありません。

現代のように、複雑な社会では、多様な、時に特殊な能力が要求される事もあるでしょう。

宣教協力は、必須なのです。

続く、「神の奥義」は、唯一真の神様の目的、御子キリスト・イエス様による救いのご計画、即ち福音宣教と、教会形成の事です。

管理者」とは、主人である唯一真の神様の所有物と仕事を任された者の事であり、主人である唯一真の神様に対して果すべき責任、即ち、御ことばの説教と聖礼典の執行を通して実現して行く、福音宣教と教会形成に於いて責任を負っているのです。

福音宣教と教会形成、即ち、御ことばによる宣教と信徒の霊的養い、霊的ケアであり、これに全力、全霊を注ぎ込み、取り組まなければならないのです。

4:2 その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。

忠実」さは、主人である唯一真の神様に対してであり、主人である唯一真の神様の御こころを知り、主人である唯一真の神様の意図を実行しなければなりません。

ルカの福音書1235節から48節、2017版は新約聖書142ページ、第三版は新約聖書140ページ、「12:35 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。

12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。

12:37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。

12:38 主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。

12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。

12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」

12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか。皆のためですか。」

12:42 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使たちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。

12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。

12:44 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。

12:45もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使たちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、

12:46 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちとと同じ報いを与えます。

12:47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

12:48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます」。

そして、重要なのは、福音宣教者、牧師、教職者たちばかりでなく、全てのキリスト者は、唯一真の神様から与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う、良き奉仕者である事が期待されている、と云う事です。

さて、コリント教会において、パウロやアポロ、ケファたちは評価の対象とされ、コリント教会の一部の人々が、パウロらを褒めたり、けなしたりしましたが、それらの評価は、決定的、重要な意味を持ち合わせていません。

パウロのみならず、福音宣教者、牧師、教職者たちにとって重要なのは、奉仕教会、派遣教会の人々の評価ではありません。

4:3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。

2節の「忠実だと認められること」の判定者は、主人である唯一真の神様であり、人間ではありません。

コリント教会の長老、監督でも、役員、執事でも、或いは、長老会でも、役員会でも、教会総会でもありません。

同労者である、使徒、宣教者、牧師などの教職者でもありません。

人間の法廷でさばかれたり」を、第三版では「人間による判決」と訳しています。

字義的には「人間的な、日・時、・・・に因る」ですが、18節「主イエス・キリストの日」、313節「その日」との対比の意味である事は明白であり、御子キリスト・イエス様が「忠実か、否か」の判定者である事を示唆するのであり、人間には全くない事を、徹底的に繰り返し、主張するのです。

更に、「自分で自分をさばくことさえしません」と、自分自身でもない事を明確に語ります。

これは自己評価や、自己吟味を否定したり、放棄する意味での発言ではありません。

自己評価、自己吟味は有益であり、折々に言動や働きをチェックする事は大切ですが、「忠実か、否か」の判定とは、別の次元の事です。

「忠実か、否か」の判定は、御子キリスト・イエス様の専権事項なのです。

パウロが「自分で自分をさばくことさえしません」と断言するのは、宣教者として不適格を自覚しているからではありません。

4:4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

パウロは、自身の働きについて、唯一真の神様に対して「やましいこと」、良心に恥じる事は何一つない、と告白します。

これは、宣教者として瑕疵、過失が一切ないとの主張ではなく、自分自身に判断の基準を置いていない事を明らかにする意味の告白です。

やましいこと」は何一つないが、それで責められるところのない宣教者として認められる訳ではない、「義と認められているわけではありません」と続けます。

ここでも、「忠実か、否か」の判定者が、御子キリスト・イエス様である事を繰り返し、人間には全くない事を、徹底的に主張するのであり、パウロは常に、御子キリスト・イエス様の眼差しを意識し、御子キリスト・イエス様の判定のみである事を告白するのです。

御子キリスト・イエス様こそ、全ての「しもべ」たちに仕える事を求め、その働きを評価する権威を持たれる唯一のお方なのです。

4:5 ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。

主が来られるまで」、18節「主イエス・キリストの日」、313節「その日」まで、即ち、御子キリスト・イエス様再臨の日の判定に先走って、「何についても先走ってさばいてはいけません」と勧告します。

御子キリスト・イエス様を差し置いて、人間が判定をすべきではないのです。

コリント教会の一部の人々は、何が委ねられ、何が委ねられていないかの区別を見失い、僭越にも、委ねられていない事に手を出し、自分たちの物差しで福音宣教者たちに判定を下し、コリント教会に混乱と分裂を招いていましたが、その越権行為を戒め、禁ずる勧告なのです。

闇に隠れたこと」、即ち、今だに、知られていない悪事、秘められた肉の行ないと、明らかにされていない善行、隠れている功徳が、そして、「心の中のはかりごと」、即ち、心の中の悪しき思い、情欲、欲望と、唯一真の神様を求める切なる思い、聖なる考えが、「明らかにされます」。

上辺を繕い、上手に立ち回り、人に取り入る者たちの悪しき思いと行ないと、誤解などから批判されもする宣教者、牧師、教職者たちの心の奥底の思いと行ないとが、唯一真の神様によって、全て明らかにされるのです。

良きに付け、悪しきに付け、一切が明らかに、詳(つまび)らかにされるのです。

そして、「そのとき」、即ち、御子キリスト・イエス様再臨の日に、神から」、即ち、御子キリスト・イエス様から、それぞれの人」の行ないに対して、方や称賛、褒賞が、方や叱責、処罰が与えられるのです。

人間の判断や評価は、何ら影響せず、人間が関わる事は一切ありません。

【適応】

冒頭で確認したように、宣教者、牧師、教職者たちの働きは、福音宣教と教会形成です。

具体的には、御ことばの説教による信徒の霊的養いと牧会、霊的指導、霊的ケアです。

この働きに全身全霊を注ぐのであり、24時間、365日を、この働きのために費やすのです。

とは云っても、年がら年中、机に向って聖書研究に没頭し、休む間もなく動き回り、忙しくしていれば良い、の意味ではありません。

牧師が忙しそうにしていたならば、信徒は声を掛け難く、相談事、悩み事があっても、躊躇、遠慮してしまうのではないでしょうか。

暇そう~にしている位でないといけないのではないでしょうか。

否、暇をたっぷり作るのは、牧会の一つ、牧師の重要な働きの一つだ、と捕らえなければならず、御ことばの説教による信徒の霊的養いと牧会、霊的指導、霊的ケア以外は、関わらない、位の決意が必要であり、教会も、それを支持し、応援しなければならないのです。

但し、相談事、悩み事、受け付けます・・・では、逆に声は掛け辛くなってしまうでしょう。

牧師は、常に、声を掛け易い雰囲気を持ち続け、雑談を交わす中で、信徒はちょろっと、本当に言いたい事、相談事や悩み事を口に上らせるのです。

宣教者、牧師、教職者たちの働きは、福音宣教と教会形成であり、福音宣教と教会形成の働きは、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様から委ねられた働きであり、宣教者、牧師、教職者たちは、福音宣教と教会形成の働きに付いて、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に対して責任を持っているのです。

決して、信徒に対してでも、教会に対してでも、役員会に対してでも、教会総会に対してでも、信徒会に対してでも、色々な委員会に対してでも、教団に対してでも、同労者に対してでもありません。

宣教者、牧師、教職者たちは、福音宣教と教会形成の働きに付いて、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に対して責任を持っているのです。

もし、福音宣教と教会形成の働きが、不十分な働きであったならば、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様から、責任を問われ、厳しい叱責を受けるでしょうし、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の期待に沿う働きであったならば、称賛が与えられるでしょう。

多くの教会には、専任のスタッフがいませんから、教会の雑多な仕事が牧師に回って来てしまい、教会に常駐している牧師が処理、対応する事になります。

教会の雑多な仕事も、其々重要ではありますが、しかし、宣教者、牧師、教職者たちが、責任を持って取り組むべき働きと、その他を間違えてはなりません。

宣教者、牧師、教職者たちは、福音宣教と教会形成の働きに付いて、責任を持って、最優先で取り組まなければならないのです。

単に、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に対する責任からではなく、そうする事が、信徒の益になり、否、信仰そのものに関わるからであり、教会の益になり、否、教会の存在意義に関わるからです。

唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現すのは、宣教者、牧師、教職者たちが、福音宣教と教会形成の働きに責任を持って取り組む時であり、信徒たちが、教会維持、教会運営上の働きに責任を持って取り組む時でしょう。

教職者、信徒、其々が、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様から信任された働きに、しっかりと取り組み、歩み続けたいものです。

2020-10に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                                             2020-10-11礼拝

聖書個所:サムエル記第一141節~23

説教題:「主の救いの妨げとなるものはない」

【導入】

唯一真の神様は、王様を立てて下さいというイスラエルの民の要求に答えて下さり、イスラエルの部族の内の、最も小さな部族の、取るに足り無い、取り柄もない家族の中から、若く頼りないサウルを王様として立てて下さいました。

多くの民が大歓迎のうちにサウルを王様として迎え入れましたが、しかし、一部の民は納得出来ずに「「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し」、拒否したのです。

サウルに対する評価が分かれる中で、アモン人との戦いが起こり、サウルは王様としての初陣を飾り、ヤベシュ・ギルアデの人々を窮地から救い出しました。

イスラエルの民が願った通り、王様が戦って下さり、外敵から守って下さり、イスラエルに勝利を、平和をもたらしたのです。

この功績が認められ、サウルはイスラエルの王様としての地歩を固め、誰もがサウルをイスラエルの王様と認めるようになったのです。

しかし、一度の戦いで恒久的な平和が訪れ、維持出来る訳ではありません。

アモン人の残党が戦いを仕掛けて来た事でしょうし、カナン人も、そして、ペリシテ人も戦いを仕掛けて来たのです。

前回の説教で確認したように「戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民」がイスラエルに対峙し、イスラエルを酷く圧迫して来たのです。

比べてサウル軍には当初3000の兵士がいましたが、ペリシテ軍に圧倒され、逃げ出す者は後を絶たず、600にまで減少してしまっていたのです。

この様な状況の中で、サウルは出るに出られず、引くに引けないで、悶々としていたのではないでしょうか。

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」。

これはこの世の知恵ではありましょうが、イスラエルの民は、サウル軍は天地宇宙を創造した唯一真の神様が後ろ盾となってくださっているのです。

この神様に信頼し、神様に従って戦うならば、600の兵であっても必ず勝利するのではないでしょうか。

ギデオンもたった300人で、いなごの大群のような夥しい数のミデヤン人を撃退したのではないでしょうか。

しかし、サウル王は唯一真の神様に信頼し切れず、サムエルの到着を待つ事が出来ない人物でありました。

これは信仰の欠如から来るものであり、そんなサウル王の不信仰から来る煮え切らない様子を、忸怩たる思いで見ていたのは、他でもないサウルの息子ヨナタンでした。

【本論】

新改訳2017版 14:1 そのようなある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。

イスラエル軍の最高司令官であるサウル王に、相談もせずに行動するのは、褒められた事ではありませんが、唯一真の神様に信頼して行動できないサウル王では、禁じられ、叱責を受けるのは明らかです。

しかし、多少の欠点や問題があったとしても、サウル王は唯一真の神様が選ばれ、立てて下さった王様です。

自分勝手な判断による行動ではなく、唯一真の神様が立てられた王様に相談し、反対されても、説得するべきではなかったのではないでしょうか。

信仰を持って行動するのは何よりも大切ですが、秩序を持って行動する事も同じように重要です。

何故ならば、唯一真の神様は秩序を重んじられる方であり、混乱を好まないお方であるからです。

唯一真の神様はサウルを選んで、王様として立てて、指導者として下さいました。

欠点があっても、問題があっても、それでも従うのが、民に課せられた唯一真の神様の御心です。

良かれと思い、正しいと思っての行動であっても、秩序を乱す行為は、禍根の基となる事があります。

ヨナタンの行動はイスラエル軍に勝利をもたらす事になりますが、同時にサウル王の命令に反する行動を誘発することになり、サウル王の発した唯一真の神様との誓いを破る事にも関連して、思わぬ方向に進んでしまう事もあり、極力避けなければならないのです。

14:2 サウルはギブアの外れで、ミグロンにある、ざくろの木の下に座っていた。彼とともにいた兵は約六百人であった。

14:3 アヒヤは、エポデを身に着けていた。アヒヤはアヒトブの子で、アヒトブはイ・カボデの兄弟、イ・カボデはピネハスの子、ピネハスは、シロで主の祭司であったエリの子である。兵たちは、ヨナタンが出て行ったことを知らなかった。

14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えて行こうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はボツェツ、もう一方の側の名はセンネといった。

14:5 一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。

14節の「ボツェツ」と言う地名は「輝く」と言う意味のヘブル語です。

この切り立った岩は、石灰岩で出来ており、太陽の光が当ると白く輝いて、そこから付けられた名前だそうです。

一方の「セネ」は「刺の多い」と言う意味のヘブル語であり、茨など刺のある草木が生えている岩場であった様です。

ボツェツを登れば、白い岩地ですから直ぐに見つかってしまうでしょうし、セネは茨が邪魔になり、手がかりにはならず、引っ掛かって登るのは困難な岩地です。

守るには好都合な地形でしょうが、攻撃するのは不適当な地形であった。

そんな理由で、圧倒的な兵力の差でありながら、睨み合いが続いていたのでしょう。

14:6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」

ここにヨナタンの信仰が告白されています。

唯一真の神様が味方であるならば、兵の多少、軍備の強弱、兵器の新旧は関係ありません。

唯一真の神様が味方をされる方が勝利を得るのであり、敵が兵を倍増しようが、軍備を増強しようが、

最新の兵器を調達、開発しようが、妨げにはならない、何の影響もないと告白するのです。

そして、この唯一真の神様が味方になって下さるか否かの分かれ目は、割礼という印しにかかっているのです。

割礼は唯一真の神様との契約の印しであり、契約に入っていない者には、何の分け前も、祝福もありませんが、契約に入ったならば、全てが与えられ、祝福が途切れる事はないのです。

勿論、悔い改めが必要ですが、何度でもやり直しが効くのであり、一旦、唯一真の神様との契約に入ったならば、未来永劫、その効力は続くのです。

ヨナタンの信仰告白に従者が応答致します。

14:7 道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」

名前も記されていない一従者ですが、ヨナタンの信仰に負けず、劣らぬ信仰です。

たった二人で海辺の砂のようと形容される敵陣に乗り込もうと言うのは、常識では考えられません。

非常識の謗りを受ける行動かも知れませんが、信仰による行動は、時に非常識に見える事もあるのです。

用意周到に、物心両面で敵と互角に戦えるものを用意するのが常套ですが、それでは信仰など不必要になってしまいます。

信仰は用意周到の一部ではありません。

信仰こそが全てであり、信仰によって必要な用意をするのであり、備えをするのです。

信仰者ヨナタンにとっては、神様の守りこそが重要であり、その上で、手入れの行き届いた一振りの剣があり、一本の槍があり、一人の従者が居れば充分である、との確信があったのです。

そのヨナタンの信仰は揺るぎないものであり、確信に満ちた告白に、従者もまた信仰を鼓舞され、「私もいっしょにまいります」との応答に導かれるのです。

一人の信仰者の行動は追従する者の信仰を引き上げ、励ますだけでなく、大きなうねりとなって、優柔不断な多くの傍観者さえも励まし、立ち上がらせ、

イスラエルに救いをもたらす唯一真の神の力となるのです。

ヨナタンの信仰は一途な信仰でありましたが、無謀な信仰ではなく、血気に早って闇雲に行動する事なく、唯一真の神様の御心を求める冷静さも持ち合わせた信仰者でした。

14:8 ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。

14:9 もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。

14:10 しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」

「しるしを求める」という行動を、何か不信仰の現われのように思うむきがあるかも知れませんが、しるしを求めるとは、確信を与えて下さい、と祈る事であり、特にこのヨナタンの行動のように、比較にならない兵力の差がある所に臨む者が、信仰の確信を得るために、唯一真の神様の御心であるとの確信を得るために、必要な行動と言えるでしょう。

14:11 二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」

14:12  先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」

14:13 ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。

両手両足を使わなければ登れない険しい崖です。

全くの無防備になり、敵の目に曝されます。

よじ登る間には、妨げとなるものは何もないのですから、岩をころがされはしないか、槍を投げられはしないかと、生きた心地がしなかった事でしょう。

しかし、ペリシテ人の罵りの言葉に、唯一真の神様の守りと助けを確信したヨナタンとその従者はペリシテ人が待つ所へと登って行ったのです。

14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約二十人で、一ツェメドのおおよそ半分の広さの場所で行われた。

大した装備や武器を持っていなくても、両手両足を使わなければ登れない崖を登るのは大変な事です。

若さ故に疲労困ぱい…ではなかったかも知れませんが、崖を登り切って直ぐの戦いは非常に不利であろう事は明白です。

しかし、ペリシテ人は登って来たのが二人であったために侮り、油断していたのでしょう。

20人が集まって迎え撃たれたならば、二人に勝ち目はなかったでしょうが、「一ツェメドのおおよそ半分の広さ」注解書によれば0.5エーカー、約20アール。

1アールが100平方メートル、30坪ですから、その20倍の広さの所で、20人と戦ったのは、ヨナタンたちにとって非常に有利に展開したのです。

14:15 そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

先陣の者、略奪隊」とは、最前線で先頭に立って戦う戦士たちであり、それ故に命知らずの勇猛果敢な兵士たちです。

その猛者たちが恐れた背後には、唯一真の神様の介入があったからこそです。

地は震え」…地震とも、混乱の極みを形容した表現とも取れますが、どちらにしても大混乱が起こった事に違いはありません。

この混乱、恐れは先陣だけでなく、ペリシテ軍全軍におよび、同士討ちにまで発展していたのです。

14:16 ベニヤミンのギブアでサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、大軍は震えおののいて右往左往していた。

14:17 サウルは彼とともにいる兵に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、点呼して調べなさい。」彼らが点呼すると、ヨナタンと道具持ちがいなかった。

14:18 サウルはアヒヤに言った。「神の箱を持って来なさい。」神の箱は、そのころ、イスラエル人の間にあったからである。

14:19 サウルが祭司とまだ話している間に、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。サウルは祭司に「手を戻しなさい」と言った。

サウル王の信仰の曖昧さはここにも如実に現れています。

唯一真の神様に伺いを立てておきながら、回りの騒ぎが大きくなると、唯一真の神様のお答を待つ忍耐もなく、その問い掛けを撤回してしまう。

何時もその行動、考え方に一貫性を欠き、行動が中途半端なのです。

サウルの登場はいなくなった羊を探す場面ですが、三日で羊探しを諦めてしまったのです。

サムエルの命令、唯一真の神様のお告げを聞くために、七日間を待つことが出来ずに、生贄を献げてしまいます。

非難されると、明確な考えを披露するでもなく、言い訳に終始します。

次回学びますが、何の脈絡もなく、民に食物を断つ様に誓いをさせ、民を悩ませる。

民が血のままで食べた事に対して、裏切りと断定しながら、何の裁きもしない。

慌てて祭壇を築くが、何のための祭壇なのか明確ではない。

ペリシテ人に対して夜襲を提案するが、民は賛同せず、唯一真の神様に伺い、唯一真の神様の答えがないと、民の罪だと断定する。

ヨナタンであっても殺さなければならないと誓いながら、簡単に誓いを撤回してしまう。

一事が万事こうであって、これは唯一真の神様に基準を置いてないための結果なのです。

サウルの行動はさて置き、唯一真の神様は神様に信頼し、神様に従う者を助けられます。

ヨナタンが始めた、たった二人で始めたペリシテ人との戦いですが、唯一真の神様の介入により戦況は思わぬ方向に、イスラエルに有利な方向に進展していました。

14:20 サウルと、彼とともにいた兵がみな集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士討ちをしていて、非常に大きな混乱が起こっていた。

14:21 それまでペリシテ人について、彼らと一緒に陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。

14:22 また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。

14:23 その日、主はイスラエルを救われた。そして、戦いはベテ・アベンに移った。

唯一真の神様は自然を用いて、災害を起し、病気を用いて、士気を挫きますが、心にも働いて疑心暗鬼に陥らせ、同士討ちによって滅びる様にして下さったのです。

ヨナタンたちの活躍に力を得て、洞穴に、奥まった所に、岩間に、地下室に、水溜の中に隠れていた民も、恐ろしくて戦線離脱、逃亡していた民も、参戦し、戦線に復帰し、また、ペリシテ人に下って協力していたヘブル人も翻って、サウル軍に寝返ったため、ペリシテ人はほうほうのていで逃げるしかありませんでした。

その日、主はイスラエルを救」い出して下さいました。

聖書はヨナタンの手柄としてではなく、唯一真の神様の働きであったことを記録しています。

【適応】

たった二人で何が出来るだろう…と考えるのが常識でしょう。

ましてや、相手は鉄の武器をふんだんに持つペリシテ軍です。

考えるまでもない、戦う前から結果は解かっている。

人間同士ならば、この考えも当て嵌まるでしょうが、唯一真の神様に人間の常識は適応できませんし、天地宇宙を造られた神様に、不可能はありません。

唯一真の神様のご計画の妨げとなるものは何もないのです。

最新式の鉄の武器であろうと、戦車が三万あろうと、騎兵が6000あろうと、海辺の砂のように夥しい数の兵士であろうと、唯一真の神様の前には無いにも等しいのであり、比較にならないのであり、ここでこそ、「考えるまでもなく」結果は明々白々なのです。

天地宇宙を創造された、全てのものを造られた、全知全能のお方に、敵対する事の出来る者がいるでしょうか。あるでしょうか。

私たちの人生において、信仰の戦いにおいて、人間的に見れば行き詰まり、解決の道は無く、途方に暮れるしかない場面に立たされる事がありましょうが、「主がわれわれに味方して下さるなら、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」のです。

教会の中の事であろうと、家庭の事であろうと、会社、事業の事であろうと、学校の事であろうと、社会の事であろうと、全世界は唯一真の神様のご支配の中にあり、そのご支配を受けないものは何一つないのですから、全ては唯一真の神様のご計画のままに、御心のままになるのです。

この信仰に立って、自分の進む道を唯一真の神様に尋ね、神様に委ね、神様に従うならば、神様は必ず助けて下さいます。

今、悩み苦しんでおられる方がいらっしゃるでしょうか。

迷っている方がいらっしゃるでしょうか。

直接助けられる事もあるでしょうし、助け手を送って下さる事もあるでしょう。

当事者に働きかけ、或いは環境を変え、状況を変え、時を備え、場所を備え、人を備えて私たちに解決を、勝利を与えて下さるのです。

私たちは唯一真の神様と契約を結んだ、神の民なのですから、唯一真の神様が守って下さらない訳がないのです。

ここにおられる皆様が、唯一真の神様に選ばれた民として、唯一真の神様に信頼し、勝利を掴む人生を歩まれますように。

2020-10に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る

 

                                   2020-10-4礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一316節~23

説教題:「あなたがたは神の宮です」     

【導入】

私たちは、終りの日、最後の審判の日、唯一真の神様の前に立つ日を想定して、今を生きて行かなければなりません。

唯一真の神様の前に立つ日を想定した生き方をするのは、今日を生きる事で精一杯の者にとって、また、想像力の乏しい者にとって、現実離れしていて、中々に、難しい事ですが、一言で言うならば、「神を愛し、人を愛する」事であるか否かを判断基準にして、「神を愛し、人を愛する」事を実践すれば良いのです。

 「神を愛し」に付いて言うならば、御子キリスト・イエス様に相応しい材料で、建物を建てる事であり、御子キリスト・イエス様に相応しい材料について、コリント書第一312節では、金、銀、宝石を挙げていますが、高価な物、貴重な物、の意味であるよりは、汚れていない物、使い古しではない物、余り物ではない物、大切な物、大事にしている物、の意味で受け止めたほうが良いでしょう。

まだまだ使えるから教会で、捨てるのはもったいないから教会で、では、御子キリスト・イエス様に相応しい材料、献げ物と言えるでしょうか。

新品、最先端の物は自宅で、処分寸前のものが教会で、が横行し、古びた物で溢れている教会の、何と多い事か・・・嘆かわしい事です。

「人を愛する」に付いて言うならば、隣人を自分自身のように愛する事であり、ここでも、コリント書第一312節の聖句が生きて来ましょう。

最高の歓迎をする事であり、精一杯の手助けをする事であり、目一杯の贈り物をする事でしょう。

形式的な歓迎、付かず離れずの応援、負担にならない程度の贈り物で、誰が喜ぶでしょうか。

教会は、神の畑であり、神の建物です。

信徒も、神の畑であり、神の建物です。

大切な物、大事にしている物、汚れていない物、使い古しではない物、余り物ではない物で建て上げ、また飾りたいものです。

何故ならば、信徒は「神の宮」だからだと、パウロは言います。

【本論】

新改訳2017版 3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

この「あなたがたは・・・神の宮であり」との表現は、「キリストの身体なる教会」と共に、教会の特徴を非常に良く、表しています。

「キリストの身体なる教会」の意味は、御子キリスト・イエス様を頭として、個々人の個性や特徴を活かしつつ、全体が身体のように有機的に繋がり、一つに纏まっている、と云う事でした。

一人一人が御子キリスト・イエス様に繋がっているので、個々人の個性や特徴を活かしつつも、一つに纏まれ、混乱や齟齬は起こらないのです。

御子キリスト・イエス様に繋がっていると、何故、一つに纏まれ、混乱や齟齬が起こらないのでしょうか。

それは、「あなたがたは」、信徒たちは、即ち、群れとしての教会は、「神の御霊」の宿る、霊的な意味の「神の宮」であり、神殿だからです。

神の御霊」が宿っているので、御子キリスト・イエス様に繋がり、一つに纏まれるのであり、混乱や齟齬は起こらないのです。

神の宮」は、単数であり、教会に所属する信徒たち、全体で一つであり、しかも、同時に、地域教会も「神の宮」であり、地上の教会は一つに纏まれ、生き生きとした教会として機能、活動出来るのです。

パウロは、コリント教会の人々に、「神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」と問い掛けます。

コリント教会の人々は、多くの問題を抱えていましたが、それでも御子キリスト・イエス様との交わりが保てていたのは、「神の御霊が自分のうちに住んでおられ」たからです。

コリント教会の人々は、知識と知恵を誇りましたが、根本的な事、「神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」と、その無知を非難し、警告し、失望の思いを込めて揶揄するのです。

3:17 もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

だれか」とは、コリント教会の一部の人々を指すと同時に、一般的な原則を述べてもいます。

だれか」が、誰かを非難し、不当に扱い、「神の宮」としての正当な扱いをしないならば、教会を破壊するような行為に走るならば、絶対的主権者、支配者である、唯一真の神様が「その人を滅ぼされます」、裁きを下される、と警告します。

315節で、最後の日の火に耐えられない建物であっても、なお、救いが約束されているのに対して、ここでは、滅びが宣言されています。

それ程に、「神の宮」は大切であり、比類の無い「聖なるもの」なのです。

多少の問題どころか、大きな問題を抱えていても、「神の御霊が・・・住んでおられ」るのであり、パウロは、自身に対して「神の御霊が・・・住んでおられ」る事の自覚を促し、他者に対しても「神の御霊が・・・住んでおられ」るとの意識を持つよう促すのです。

神の御霊が・・・住んでおられ」る事を共有するのが教会であり、それに相応しく対応するのが、キリスト者の責務であり、誰もが取り組むべき使命です。

3:18 だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。

自分を欺」くとは、「自分はこの世で知恵のある者だと思う」事であり、「神の宮を壊す」事に対して、無頓着であり、疑問を持たない事です。

人間が、唯一真の神様に代わって、教会を支配する事であり、唯一真の神様の主権を認めない事であり、自分の知恵や人の知恵を誇りとし、人間の知識や経験に頼る事です。

自己判断、自己中心、自己主張であり、相対的なものを絶対化するのが「自分を欺」く事です。

一方、唯一真の神様の主権に立ち、自己を捨てての絶対服従、自己否定、自己犠牲こそ、教会の、「神の宮」のあるべき姿です。

愚かになりなさい」は、救いに関して、この世の知恵や知識を捨てる事の勧めであり、聖書の教えを根拠とした従順こそ、「神の宮」の、教会のあるべき姿なのです。

3:19 なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と書かれており、

人間の知恵や知識は優れているように感じ、経験を生かす事こそ、正しい道と見えても、唯一真の神様の前では愚かさの極みなのです。

鍵カッコ内は、ヨブ記513節からの引用です。

2017版は880ページ、第三版は854ページ、「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる」。

無に等しいものに頼り、誇る、自称「知恵のある者」は、「彼ら自身の悪巧みによって捕らえ」られるのであり、唯一真の神様の裁きがある事を明示、暗示させます。

3:20 また、「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。

鍵カッコ内は、詩篇9411節からの引用です。

2017版は1033ページ、第三版は1001ページ、「主は 人の思い計ることが いかに空しいかを 知っておられる」。

思い計ること」を、第三版、新共同訳、口語訳ともに「論議」と訳しています。

人間の知恵や知識は、それはそれで意味があり、素晴らしいものです。

更には、知恵や知識の集約、協議、協調、協力に至る論議は、良いものを生み出し、発展的、前進的に働くと考え、それもある意味、間違ってはいないのですが、教会に於いては、聖書の教えを根拠とした従順こそ、「神の宮」の、教会のあるべき姿なのです。

福音理解、教会理解、キリスト理解などは、人間の知恵や知識で見出すものではありません。

唯一真の神様が聖書に啓示されたのであり、それなのに、教会に於いて、人間の知恵と知識を誇り、頼り、「論議」に走るならば、それは、唯一真の神様に対する謀議であり、反逆を意味し、教会に分裂を生じさせ、混乱を招き寄せ、破滅的に働く、強力な力となりましょう。

知っておられる」は、唯一真の神様は、人間の思いの全てを知り、何事も唯一真の神様の前には隠されてはおらず、唯一真の神様の裁きの、適格性と確実性を示す宣告であるのです。

3:21 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。

福音理解、教会理解、キリスト理解などは、教会にとって重要な課題ですが、人間の知恵や知識で扱い、解明する事柄ではありません。

どの教職者の教えが優れているかを、その教職者の持っている知恵や知識を、各自が測る事によって判断した結果、分派が起こり、混乱が生じたのです。

言い換えるならば、教職者の知恵や知識を、個々人の持つ知恵や知識で測ったのであり、即ち、教職者を評価する事で、自分の知恵や知識を頼り、誇ったのです。

知恵、知識偏重は、結局は、自己判断、自己中心、自己主張であり、教会に分裂を生じさせ、混乱を招き寄せ、破滅的に働く、強力な力となるのです。

3:22 パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのもの、

全ての教職者は、御子キリスト・イエス様から依託を受け、御子キリスト・イエス様の僕として、教会に仕えます。

自分の考えに賛同、同調してくれる人々に仕えるのでも、支援してくれる人々の便宜を謀るのでもありません。

ましてや、自分の思い通り動いてくれる信徒を集めて、教会を支配するのでもありません。

全ての信徒は、御子キリスト・イエス様が立てられた教職者に従うのであり、一人の教職者を選んで、教会を委ねるのではありません。

一人の教職者を選んで、他を排除、攻撃するのは、愚かな行いであり、教会を貧しくする事、分裂を生じさせ、混乱を招き寄せ、破滅に導く愚かな行いです。

世界」も、「いのち」も、「」も、「現在のもの」も、「未来のもの」も、「すべて」は、唯一真の神様に属する人々が相続し、支配するものとして、見なければなりません。

これらが、御子キリスト・イエス様と信徒、教会との結合を損なう事は出来ません。

これらは、唯一真の神様から信徒、教会に与えられているものであり、これらに一切、捉われてはならないのです。

3:23あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。

信徒と教会は、御子キリスト・イエス様に所属し、ひいては唯一真の神様に所属するが故に、特定の教職者と結び付く事は、また、特定の教職者を誇る事は、決して許されないのです。

信徒と教会は、御子キリスト・イエス様のものとしての重い責任を伴う自由な存在であり、特定の教職者に結び付く存在、特定の教職者に縛られた存在、特定の教職者と相互依存の存在であってはならないのです。

教職者も信徒も、「神の宮」であり、御子キリスト・イエス様のものなのです。

 【適応】

神社仏閣の文化に育った私たちは、神の宮」との言葉で、神社仏閣の本堂をイメージするのではないでしょうか。

国宝に指定されていたり、名所旧跡とされていたりし、威風堂々としています。

荘厳であり、壮大です。

コリントの人々も、異教の神殿に圧倒され、ユダヤ教の会堂にも神聖さを強く感じて来た事でしょう。

比べて、キリスト教の会堂は、見栄えのしない物、貧相な物として眼に映ったのではないでしょうか。

神の御霊」は会堂に住まわれているのではなく、信徒一人一人のうちに住まわれているのです。

これは大きな、決定的な違いです。

世の宗教は、建物を誇り、自慢しますが、所詮は人間の作品であり、神殿の中には、身動きする事も、幸いを招き寄せる事も、災いを祓い除ける事も出来ない偶像が祭られ、埃を被り、煤塗(すすまみ)れになっているだけです。

しかし、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のものとされた私たちは、存在自体が唯一真の神様の作品であり、被造物の最高峰なのです。

しかも、「神の御霊が・・うちに住んでおられる」のであり、「神の宮」なのです。

偶像を安置した神社仏閣の本堂でさえ、荘厳で、壮大で、威風堂々としていて、国宝、名跡として大切に扱われているならば、ましてや、神の御霊が・・うちに住んでおられる」信徒や教職者が、如何に大切な存在か、です。

人間は、罪深く、愚かで、強欲で、自己中心ですが、それでも、神の御霊が・・うちに住んでおられる」のであり、唯一真の神様の目には、御子キリスト・イエス様の目には、高価で尊い、掛け替えのない存在なのです。

その、唯一真の神様にとって、御子キリスト・イエス様にとって、高価で尊い、掛け替えのない存在を、ぞんざいに、粗略に、邪険に、いい加減に扱ったならば、17節「神がその人を滅ぼされます」。

16の「あなたがたは・・・神の宮であり」との表現は、比喩的表現でも、理想や希望でもありません。

事実、現実に「あなたがたは・・・神の宮であり」、「神の御霊が・・うちに住んでおられる」のです。

世の宗教の中には、神の霊が人間に憑依するような考えもありますが、神の御霊が・・うちに住んでおられる」のであり、憑依や交霊などの類ではありません。

神の御霊」は、信徒を支配するのではなく、操るのでも、誘導するのでもなく、逆に、信徒に従属するのでもなく、力を与えるのでもありません。

神の御霊」は、信徒に寄り添い、導き、励まし、慰める存在なのです。

但し、直接助けたり、代わって戦ってくれたり、守り、防いでくれる存在ではありません。

順調な時は、住んでいてくださるけれど、危険が迫ると、見捨てて、さっさと逃げ出してしまうような、離れてしまうような存在ではありません。

最後の最後まで寄り添ってくださる存在です。

信徒との運命共同体、との理解が、「うちに住んでおられる」の意味に近いかも知れません。

直接助けたり、戦ったり、守ったり、防いではくれませんが、何時も、片時も離れず、「うちに住んで」、見守り続けてくださるのです。

直接、励ましの言葉を掛けたり、慰めの言葉を掛けたりはしませんが、「うちに住んでおられる」のは、何よりの慰め、励ましなのではないでしょうか。

そして、お招きしさえすれば、誰にでも、直ぐに「うちに住んで」くださるのです。

何故ならば、御子キリスト・イエス様の贖いに依って、「神の宮」とされているからです。

教職者、信徒、其々が、御子キリスト・イエス様に相応しい「神の宮」として歩み続けたいものです。

2020-10に戻る

礼拝メッセージに戻る

トップ・ページに戻る