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                                 2020-11-29礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一56節~8

説教題:「悪意と邪悪のパン種を取り除きなさい」

【導入】

パウロは、コリント教会に起こった問題を取り上げて、時に厳しい叱責を交えて語り続けていますが、コリント教会は問題ばかりが山積する教会なのではありません。

15節で「すべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました」と評価し、7節では「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています」と賞賛されている通りであり、言葉と知識に於いて申し分なく、賜物に欠けがない、模範的な教会、主イエス・キリストに相応しい教会だった(・・・)のです。

しかし、一部の人が、特定の福音伝道者、即ち、パウロを、アポロを、ケファたちを贔屓(ひいき)し、担ぎ出して、祭り上げ、派閥を作り、パウロの教えを、アポロの教えを、ケファの教えを誤解し、曲解し、神の国は既に来ている、と考え、その来たりたもうた神の国で、王座に着いているかのように振る舞い、王座を占めているかのような言動を取っていたのです。

更に加えて、コリントは、交通の要衝として栄えており、交易が盛んで、繁華街と共に、歓楽街、夜の街も繁盛していて、性的に乱れた街でありました。

そんな忌まわしい風潮、傾向が、教会の中にまで入り込んでいたのですが、コリント教会の人々は、そんな眉をしかめるような不品行、不道徳に対して、個人の倫理の問題として、何の見解も示さず、対応もせず、容認し、一部の人々の淫らな行いに対して、見て見ぬ振りをし続けて来たのです。

そのような淫らな傾向は一部に留まらず、教会の中に広がり、蝕んでいたのであり、コリント教会が崩壊に至るのは、杞憂ではない状態にまでなってしまっていたのです。

一部の人の専横、支配的言動、横暴な振る舞いが表面化したと云うより、教会に生まれ巣食う、腐敗した体質が、様々に形をかえ、明るみに出て来たのです。

教会に生まれ巣食う、腐敗した体質は、決してコリント教会固有、特有の問題ではなく、どの地域の、どの時代の教会にも起こり得る問題であり、パウロは、看過出来ない問題として取り上げ、誰もが知っている日常の一齣を例話に話を展開し、お勧めをします。

【本論】

新改訳2017版 5:6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

あなたがたが誇っている」事とは、ここまで述べて来た事ですが、人間的な地位だとか、裕福であるとか、有能であるとか、誰それの派閥に属しているか、などは、取るに足りない些事であるばかりか、非常に危険な影響力を持つモノであり、教会を混乱させ、分裂させかねない力となるので侮れません。

放置してはならず、見て見ぬ振りをしてもなりません。

注意すべき事、正すべき事は、有耶無耶にせず、はっきり指摘しなければなりませんが、しかし、コリント教会の人々には、良いところもあるのであり、良いところははっきり認め、褒めるべきところは大いに褒めなければなりません。

それは、先に紹介した15節、7節に記されている通りですが、更には、18節、9節「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とのパウロの言葉は、唯一真の神様の、コリント教会の人々への約束のことばであり、大きな励み、慰めになった事でしょう。

この神様の約束のことばは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実践や、礼拝、奉仕、献金・・・の励行で得るのではありません。

逆に、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のもので失われるのでもありません。

表面に出てきた言動などが問題なのではなく、内在しているモノが問題なのであり、パウロは、それを「パン種」に擬(なぞら)えて語ります。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」との言葉は、当時、ギリシャ、コリントでよく知られていた諺(ことわざ)の類と思われますが、パン作りを生業としていなくても、一般的な知識として、誰もが知っている言葉でしょう。

基本は、小麦粉に水と塩とパン種を加え、良く捏ねると、ふっくらとしたパンとなる生地が出来上がる訳です。

勿論、企業秘密の類があり、ちょっとした手順、手間の掛け方、隠し味的な工夫、生地を寝かせる時間などが、出来上がりを左右させますが、パウロがここで言いたいのは、パン種の分量やパン種の種類、創意工夫での、出来上がりの差ではなく、パン種は、重量の比較で言ったならば、比較にない位、僅か、微々たる量であるのに、小麦粉全体を発酵させ、大きく、何倍にも膨らませる力を秘めている、と云う事です。

パン種は、ほんの一部分なのに、全体に影響するのであり、一部と全体との関係性、一部は全体と強く、密に繋がっており、一部は全体に強く影響する事を示しており、一部は、良くも悪くも、全体に影響する、生きた関係なのです。

一部が「良ければ」、全体に良い影響を及ぼし、一部が「悪ければ」、全体に悪い影響を及ぼすのです。

わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」との言葉は、よく知られた諺の類であり、子どもでも、誰でも知っているのに、知識を誇り、知恵を誇るあなたがたは、その意味を理解していないのか、と問い掛け、知識や知恵は、量や質ではなく、活用するか否か、応用するか否かなのではないのか、と迫るのです。

パウロは、「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませる」との良く知られた諺には、重要な意味が、普遍的な意味が込められており、教会生活、教会活動の中でも活かしなさいと、強く勧めているのです。

この世では、少数派は多数派に飲み込まれ、吸収され、同化してしまう事が多いかも知れませんが、少数派の影響力の強さと、恐ろしさを侮ってはならないのです。

コリント教会の一部の高ぶった人たちは、この重要性を理解しておらず、あなた方の言動は、あなた方が思う以上に、大きな影響を、教会全体に及ぼしている、少数派の行動は、決して侮れない、との原則を教え、警告を与えているのです。

5:7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

古いパン種」は、コリント教会の一部の、高ぶった人々の事ではありません。

古いパン種」とは、コリント教会の一部の人々、高ぶった人々、問題を抱え、問題を撒き散らし、悪影響を与えている人々、淫らな行いをしている人々を、黙認している体質、容認している体質、見逃している体質、大した事ではないと見くびる考え方、感覚と、なすべき処置をしない体制、検討すらしない体制、の事です。

教会は、愛と赦しを実践すべきだから、問題にしないのが愛だ、赦しだ、との解釈は、間違った聖書解釈です。

教会の聖さを保つために、問題は解決しなければなりません。

何処の教会にも、どの時代の教会にも、問題はあります。

問題のない教会は存在しません。

問題は、問題を抱えている事、持っている事ではなく、問題を無いかの如くにする体質、問題を見ないようにする体質、問題を過小評価する体質、そして、問題意識を持とうとしない体質です。

パウロは、コリント教会の中の淫らな行いを黙認し、なすべき処置を執り行わない体質、コリント教会の腐敗した体質を糾弾するのであり、個人を攻撃、糾弾しているのではありません。

パウロは、「古いパン種を取り除く」事から、「種なしパン」へ、そして「過越の子羊」へと、話を展開させ、旧約の出エジプトの故事「過越の祭り」を思い起こさせます。

過越の祭りの規定は、出エジプト記12章、2017版は118ページ、第三版は114ページに詳しく記されています。

1215節に記されている通りに、家からパン種を取り除く事から始まります。

6節に記されている通りに、その日の夕方、羊を屠り、種なしパンと一緒に食します。

パウロは、この規定を背景として、教会から相応しくない体質、問題を無いかの如くにする体質、問題を見ないようにする体質、問題を過小評価する体質、問題意識を持とうとしない体質、淫らな行いを黙認し、なすべき処置を執り行わない体質、腐敗した体質を取り除くように、強く、勧告するのです。

私たちの過越の子羊キリストは、すで(・・)()屠られたの」に、今だに「古いパン種」は取り除かれていないではないか、何故手をこまねいているのか、誰に遠慮するのか、過越の規定は、決して排除されたのではない、廃棄されてはいない、唯一真の神様の手によって、「過越の子羊キリストは、すでに屠られたの」に、我々は、「古いパン種」をそのままにしているではないか、「古いパン種」を一刻も早く、取り除くべきではないかと強く勧めるのです。

5:8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

パウロが、この手紙を書いた時は、丁度、過越の祭りの季節であったようで、過越の祭りを題材にしたので、皆に良く伝わり、理解された事でしょう。

パンに限らず、発酵食品は、種となる菌が上手く働く事で、全体が有用に変化します。

種となる菌が古く、活性が弱ければ、発酵は進まず、発酵が進む前に腐敗してしまいます。

種となる菌を取り間違えれば、希望する発酵には至らず、変なものになるか、腐敗してしまうでしょう。

パン作りには、生きの良いイースト菌が必要な訳ですが、同じように、教会が唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の願う通りになるためには、淫らな行為や、好き勝手な言動を行なう者を、戒め、正さなければなりません。

唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に相応しく、整えなければならないのであり、教会を聖く保たなければならないのです。

それでこそ、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に相応しい群れとなるのであり、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現し得る教会になるのです。

【適応】

パウロがコリント教会に「古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで」と呼び掛けているのは、先に申し上げたように、問題を起こす人を教会出入り禁止にしたり、淫らな行ないに耽っている人を追放したりする意味の呼び掛けではありません。

問題行動や、淫らな行ないを黙認している教会の体質、容認している体質、見逃している体質、大した事ではないと見くびる考え方、感覚と、なすべき処置をしない体制、検討すらしない体制、を改めるように、との呼び掛けなのです。

コリント教会には、著名人や裕福な者、知識人が在籍し、重鎮として存在感を発揮し、教会を牛耳っていたのです。

本人たちに、牛耳る意識は無くても、あの人が臍を曲げたら、教会が纏まらない、あの人が居なくなったら、教会は経済的に大きな損失・・・と考え、重鎮に忖度するのは世の常です。

しかし、教会の真の支配者は、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様であり、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の御旨を行なうのが、教会の使命です。

教会から「古いパン種」や「悪意と邪悪のパン種」を排除したならば、即ち、重鎮への忖度を止め、問題行動や、淫らな行ないを黙認している体質、容認している体質、見逃している体質、大した事ではないと見くびる考え方、感覚と、なすべき処置をしない体制、検討すらしない体制を改める事に、身を切り、血を流して取り組まなければならないのです。

この時には、分派どころの騒ぎではなくなるでしょう。

コリント人への手紙第一1118節、2017版は343ページ、第三版は333ページ、「11:18あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。11:19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません」、とパウロは言っています。

分派が生じ、分裂が起こってしまい、信者が離れて行き、教会崩壊の憂き目になるかもしれませんが、それを恐れていては、教会の聖さを取り戻す事は出来ません。

問題行動が容認され、淫らな行ないが黙認されていては、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の教会ではありません。

ここでも、注意しなければならないのは、問題行動や、淫らな行ないを黙認している体質、容認している体質、見逃している体質、大した事ではないと見くびる考え方、感覚と、なすべき処置をしない体制、検討すらしない体制を改める事であり、問題行動を起こす人や、淫らな行ないをする人に処罰を与える事や、追放する事ではありません。

問題行動を起こす人や、淫らな行ないをする人を悔い改めに導き、教会に聖さを取り戻し、教会が唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の御旨をなすところとしなければならないのです。

唯一真の神様と御子キリスト・イエス様に従い、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現す教会、信徒、教職者として歩みたいものです。

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                                 2020-11-22礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一51節~5

説教題:「コリント教会内の淫らな行ない」

【導入】

コリント教会の問題は、表面に出て来た問題は、分派が生まれ、分裂に発展してしまった事ですが、その原因は、特定の福音宣教者、伝道者、教職者、即ち、パウロを、アポロを、ケファたちを贔屓(ひいき)し、担ぎ上げ続けた結果です。

これらも大きな問題ではありますが、更に大きな問題が別にあります。

即ち、コリント教会の一部の人々は、パウロの教えを、アポロの教えを、ケファの教えを誤解し、曲解し、神の国は既に来ている、と考え、その来たりたもうた神の国で、王座に着いているかのように振る舞い、王座を占めているかのような言動を取っていたのであり、それは、8節で、「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。」と皮肉っている通りです。

更に加えて、コリントは、交通の要衝として栄えており、交易が盛んで、旅人たち、商人たちの行き来は引きも切らず、繁華街と共に、歓楽街、夜の街も繁盛していて、性的に乱れた街でありましたが、そんな風潮が、教会の中にまで入り込んでいたのです。

普通なら、不道徳、不品行は、排除されて然るべきですが、天国は来たりたもうたのだから、何にも縛られない、制限される事はない、何をやっても自由だ、と都合の良い解釈をし、不道徳を悲しむ事なく、不品行を積極的に排除する事はしなかったのです。

当時のギリシャ、ローマ世界の人々は言わずもがな、一夫一婦を是とするユダヤ人も、一夫多妻を普通の事として受け入れ、疑問にも思わず、社会に受け入れられて来ていました。

裕福な者が、正妻以外に複数の女性を妻とし、何人かの愛人を囲うのは、跡継ぎを得る名目として、また富の象徴として、容認されていた時代です。

名君ソロモンには、王妃としての妻が700人、そして300人の側女があった、と列王記第一113節に記録されています。

これ程ではなかったにしても、裕福な者が、多くの妻と側女を持つのに、何の疑問を持たなかったとしても、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が喜ばれる事では断じてありません。

唯一真の神様が定められた結婚の制度、一夫一婦に反する事であり、教会内から不品行、不道徳を排除する努力はすべきです。

しかし、教会は、そんな眉をしかめるような不品行、不道徳に対して、個人の倫理の問題として、何の見解も示さず、対応もせず、容認し続けて来たのです。

教会内の有力者に忖度を働かせ、この不品行、不道徳を見て見ぬ振りをし続けて来たのですが、この不品行、不道徳は、分派や分裂に負けず劣らずの弊害を及ぼします。

パウロは、看過出来ない問題として取り上げ、実例を挙げ、叱責します。

【本論】

新改訳2017版 5:1 現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

現に聞くところによれば」との前置きは、これから述べる事が、パウロ個人だけの意見ではない事、一方的な糾弾と受け止められてしまわないがための配慮の言葉であり、遠く離れたパウロの所に届いた情報は、単なる噂、根も葉もない憶測などではない、信頼出来る筋からの報告ではあるが、もしも、誤解やデマであるならば、申し開きを聴こうではないか、説明を受けるつもりだよ、との思いを込めた呼び掛けなのです。

間違った事をしている者を問い質すのに、何の遠慮が必要か、は正論ですが、心を閉ざしてしまっては、強固な敵対関係を構築してしまっては、逆効果です。

問い質すのは、悔い改めを促すのが目的であり、自分が優位に立つためでも、完膚なきまでに叩きのめすためでも、勢力や影響力を剥奪するためでも、追放や処罰を与えるのが目的でもありません。

正しい関係性の構築と、交わり、関係の回復のために、問い質し、叱責や戒規を執行するのである事は、前回、確認した通りです。

淫らな行い」と訳されているギリシャ語の、狭義の意味は「姦淫、売春」ですが、新約聖書では、広い意味で使われており、様々な種類の性的乱れを意味し、口語訳聖書、新改訳第三版では「不品行」と訳しています。

教会の中で、「淫らな行い」が公然と行なわれ、多くの人々に、憂慮すべき問題となっていた事を示します。

そして、その程度が、如何に酷いものであるかを示すのが「異邦人の間にもないほど」との形容です。

ギリシャ・ローマ社会は、性的にルーズだったようであり、気が合えば、誰とでも、「淫らな行い」を公然と行なっていたようなのですが、それでも、近親相姦は忌むべき事、との認識があり、現実はともかく、建前ではあったかも知れませんが、親族同士が性的関係を持つ事はタブー視されていたのですが、コリント教会の一部の人々は、パウロたちの教えを誤解し、曲解し、何にも縛られない、制限される事はない、何をやっても自由だ、と都合の良い解釈をし、不道徳を悲しむ事なく、不品行を排除する事なく、親族と「淫らな行い」を平然と行なっていたのです。

父の妻を」の意味は、血の繋がった実母ではなく、血の繋がりのない義母や継母(ままはは)に対し、父の死後か、父が義母や継母(ままはは)と離婚した後、妻として迎え入れた事を指摘しているようなのですが、血縁の有無に関係なく、父の妻を妻とする事は、律法が堅く禁じている事です。

レビ記187節、2017版は209ページ、第三版は203ページ、レビ記2011節、2017版は214ページ、第三版は207ページ、申命記2720節、2017版は362ページ、第三版は350ページ、などに明確に記されています。

例話を一つ。列王記第一213節、2017版は594ページ、第三版は578ページに記されていますが、ダビデの四男アドニアが、ダビデの侍女アビシャグを妻にしたいと申し出たため、命を失ってしまいました。

父の側女を妻にしたいと願い出る事は、忌むべき事であり、取り除かなければならない事なのです。

パウロが、「異邦人の間にもないほど」、と語っているのは、コリント教会で淫らな行い」を平然と行なっている人々の中に、ユダヤ人が含まれていた可能性と、性的に乱れたギリシャ人やローマ人でもしない事を、平然と行なっている人々を憂いての発言なのでしょう。

使徒の働き1520節、2017版は265ページ、第三版は259ページで、不品行の問題が取り扱われていますが、コリント教会のみならず、初代教会全体で、「淫らな行い」が行なわれていた事を示しており、「淫らな行い」は、コリント教会固有、特有の問題ではなく、初代教会全体に共通した、重大な課題だった事を暗示しています。

福音宣教者、伝道者、教職者の教えを正しく受け止めないところでは、必ず起こる問題の一つであり、警鐘として受け止めなければなりません。

5:2 それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。

教会の中に、悲しむべき出来事が生じても、おぞましい出来事が行なわれていても、尚、平然としている人々に対して、パウロは「思い上がってい」ると、指摘、糾弾します。

悲しむべき出来事、おぞましい出来事を見ても、見て見ぬ振りをするのは、不問に附すのは、教会の正しい対応ではありません。

悲しむべき出来事、おぞましい出来事を真に悲しむべきであり、教会に聖さを取り戻さなければなりません。

何故ならば、教会はキリストの身体であり、一つの肢体に生じた災禍は、全体に関わる事であり、正しい処置をしなければ、教会全体に悪影響を及ぼし、教会全体を蝕む事になるからです。

ここで重要なのは「悲しんで」、「そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべき」、と云う事です。

正義を振りかざして、断罪するのではなく、追い出して、これで一安心とばかりに、安堵するのでもありません。

形ばかりの処分に意味はありません。

愛とか赦しを前面に押し出し、黙認すべきでない事実を見逃し、戦うべきではない問題について、教会外の権威に訴えても争う姿は、唯一真の神様を侮る姿であり、何の証しにもなりません。

取り除くべき」は、単純に追放、除名処分を行なえば良い、ではありません。

悲しんで」であり、処分に痛みと苦しみを伴うのであり、自身の身を裂く思い、決意が必要なのです。

5:3 私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。

遠く離れていても、すべき事をしているパウロと、コリント教会の中に居合わせ、当事者であり、全てを、つぶさに知っていながら、手をこまねいて、何もしないでいる人々の違いを、鮮やかに描写した記述です。

コリント教会の一部の「思い上がってい」る人々は、パウロの使徒職とその権威を、離れているが故に否定する人々でしたが、パウロにとって、御子キリスト・イエス様に仕える者にとって、距離は全く妨げとはなりません。

パウロは、何処にいても、コリント教会の歩みに関心と責務があり、それを等閑(なおざり)にしたり、御座なりな対処はしなかったのです。

その時に出来得る最大限の対応をし、悔いや後悔のない対応をして来たとの、自負を込めた記述です。

すでにさばきました」と、記述していますが、「さばき」の目的は、滅ぼす事ではありません。

諭しても悔い改めない者に、悔い改めへの促しの手段の一つとして、裁きを宣言するのであり、先に申し上げたように、悔い改めて、唯一真の神様の下に立ち返らせるためです。

永遠の命を獲得するために裁くのであり、裁きの意味と理由とが45節に記述されています。

5:4 すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、

パウロの下した処置は、個人的な判断や感情によって下したものではなく、御子キリスト・イエス様の権威に基づいた、教会に与えられた権能として下している事が明らかな記述です。

主イエスの御力とともに集まり」との記述は、教会会議の権威を述べているものであり、教会に於ける全ての決定は、教会会議に於いて下されるべきなのです。

一部の人の、独断専行があってはならず、教会会議は、秩序を持ち、一致に基づき、人々の同意を経る必要があり、それは専制を、独裁を、逸脱を、暴走を防ぐ対策でもあり、御子キリスト・イエス様の栄光を現すためです。

専制や独裁ほど、キリスト教の教会に相応しからぬ行為はありません。

しかし、単に多数決で決めればよいものでもなく、一致と同意が伴わなければ、少数派に不満が燻り、多数派の専制が横行する事になりかねません。

教会会議、宣教区会議、教団総会・・・どれも秩序を持ち、一致に基づき、人々の同意を経て、決定されていくのが、キリスト教界の基本ですが、基本通りに行かない事もあるでしょう。

そのような時は、可及的速やかに、会議を招集し、決定事項を承認するべきです。

少数の関係者だけが知っている、特定の人だけが決定に関わっている、は教会であってはならない事です。

分派、分裂は、特定の人の集まりから、生まれているのです。

5:5 そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

サタンに引き渡した」とは、何とも恐ろしい、穏やかではない記述です。

恐らく「除名」を意味する記述と思われますが、パウロの厳しい戒規の執行は、繰り返しますが、処分ではなく、当事者の悔い改めを促し、救いに導くためのものです。

放置、曖昧な処分は、大きな禍根を残します。

淫らな行い」とはきっぱり縁を切り、離れなければなりません。

それを促すのが戒規の執行であり、戒規を宣言して終わりではなく、「淫らな行い」ときっぱり縁を切り、離れさせるために、更に密なフォローアップ、継続的なケアが必要です。

明確な戒規の執行は、同じような「淫らな行い」を行なっている者に対しての警告となり、教会から「淫らな行い」を取り除く力となるからです。

コリント教会が、「淫らな行い」に対して、生ぬるい対応をするのは、コリント教会の中で「淫らな行い」が行われているからであり、パウロが、「淫らな行い」に対して、コリント教会に対して鋭い指摘をし、厳しい戒規を執行するのは、コリント教会の「思い上がった」人々が目覚めて、「淫らな行い」を排除して、「自分の身体をもって、神の栄光を現すため」、これは620節の聖句であり、「キリスト・イエスにある生き方」に堅く立つため、これは417節の聖句です。

【適応】

パウロがコリント教会内の分派、分裂を指摘し、淫らな行い」に対して鋭い指摘をし、厳しい戒規を執行するのは、教会を唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に献げるために、教会を聖く保つためであり、「淫らな行い」のみならず、教会を汚す、穢すあらゆる「不品行」を排除しなければなりません。

淫らな行い」や、分派、分裂の原因は、特定の福音宣教者、伝道者、教職者、即ち、パウロを、アポロを、ケファたちを贔屓(ひいき)し、担ぎ上げ続け、パウロの教えを、アポロの教えを、ケファの教えを誤解し、曲解し、勝手な解釈を加えた結果です。

教会は、信徒は、教職者は、この世に存在し、この世の影響を強く、絶え間なく、受け続けています。

教会には、信徒には、教職者にも、地域の文化、慣習、因習が染み付き、染み込み、淫らな行い」「不品行」に準じるような行為を疑いもなく行ない、「淫らな行い」「不品行」に準じるような行為に対して、何の疑問を感じずに、違和感も覚えず、受け入れてしまっています。

これを放置し、曖昧にして置くなら、教会が御子キリスト・イエス様の教会として機能しなくなるのは、瞬く間でしょう。

外形は、教会の姿であっても、御子キリスト・イエス様の教会ではなくなっている事もあるのです。

教会を、信徒を、教職者を蝕むのは、淫らな行い」や、「不品行」の類だけではありません。

聖書の誤解、曲解、勝手な解釈が行なわれ、聖書以外が重用されるのでは、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を支持し、何時までも懐かしがり、讃え続けるのでは、功労者、著名人、有力者などが尊ばれ、讃えられ、忖度がまかり通るような教会は、逆に、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を非難するような教会は、伝統が重んじられ、歴史に誇りを持ち、会堂や設備を誇るような教会は、御子キリスト・イエス様の教会ではなくなってしまっています。

この世では一般的に行なわれており、何の問題もない事でも、宗教色、迷信的な要素を感じられなくても、聖書に照らして、異教的な点がないか、偶像的な、土着的風習の要素がないか、迷信的な、験担ぎ的な、伝統的な、しきたり的な意味合いが込められていないか、を調べ、少しでも疑問があるなら、腑に落ちないなら、怪しい部分があるなら、採用を見合わせ、なければなりません。

また、どんな教会、信徒、教職者にも、これらが入り込む危険は付き纏っており、安全な教会、信徒、教職者は皆無です。

非聖書的な風習、しきたり、伝統を徹底的に排除し、聖書のみを規範とし、聖書から語られ、御子キリスト・イエス様をのみ拝する教会こそ、永続する教会であり、この地上で唯一真の神様の栄光を現す教会なのです。

教会には、其々歴史があり、伝統があり、功労者がおられますが、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様は比較にならない高貴で聖い、絶対の存在です。

本教会はこの地で、長年に亘って活動し続けて来ました。

非聖書的な風習、しきたり、伝統が入り込む要素は、皆無ではありません。

創立記念を機に、非聖書的な風習、しきたり、伝統がないかを点検、吟味し、「主のみこころ」を確認し、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現す教会、信徒、教職者として歩みたいものです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第一418節~21

説教題:「パウロのコリント教会訪問予告」

【導入】

コリント教会の問題は、コリント教会、固有、特有の問題ではありません。

また、当初から問題を抱えていた訳でもありません。

パウロが来て、基礎を築き、アポロが働き、ケファが働き、其々の伝道者、教職者の持ち味が生かされ、コリント教会は大きく成長していった訳です。

パウロにお世話になった人々がおり、アポロにお世話になった人々がおり、ケファにお世話になった人々がおり、其々に師事するのは、尊敬し、恩義を感じて、その恩義に報いたいと思い、パウロの教えを、アポロの教えを、ケファの教えを固く守ろうとするのは、決して悪い事ではありません。

草創期は、特定の福音宣教者、伝道者、教職者への熱い思い入れが必要な場合もあり、それ位でなければ、既成勢力に立ち向かう事が出来ず、世の流れに抵抗出来ず、

また、多少の違いを乗り越えて一致しなければ、飲み込まれ、消滅の憂き目に遭うのではないでしょうか。

しかし、草創期を過ぎても、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を擁護し続けるとなると、弊害も生まれ、排他的、批判的、攻撃的な傾向に傾き出す事があるのではないでしょうか。

そうなると非常に問題であり、危険です。

教会を分裂、崩壊させる力となるからであり、コリント教会は、正に、分裂、崩壊の危機に直面していたので、パウロは、手紙を書き、信頼出来る弟子を、御子キリスト・イエス様の名の下に派遣したのです。

更には、パウロ自身がコリントを訪問する事を予告します。

【本論】

新改訳2017版 4:18あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。

パウロが、コリントで伝道した経緯は、使徒の働き18章に記されています。

其処にはテモテの名前も記されており、パウロの同労者として働いたのであり、コリント教会の人々とテモテとは、周知の関係だったのです。

見ず知らずの人が、厳しい警告の言葉を持って来たとしたならば、喜んで迎え入れるのは中々難しく、素直には聞けないでしょうが、気心知れた人の言葉であるならば、多少、厳しさの込められた警告の言葉でも、聴いてもらえるのではないでしょうか。

テモテは、謂わば、勅使のような働き人として遣されたのですが、勅使となる人物は、有能なだけではなく、現地の人々と良い人間関係のある人物、或いは、良い人間関係をスムーズに構築出来る人間でなければ、使命達成はおぼつかないでしょう。

その点で、テモテは評判のよい人物であり、何より、御子キリスト・イエス様が派遣されたのですから、十分な働きを、期待以上の働きをするのは間違いありません。

後から、別の人物を派遣する必要も、何かの指示を付け加える必要は全くありませんが、問題は、コリント教会の一部の人々の反応です。

テモテは信頼出来る人物かも知れないが、パウロが、コリントに来ないのは、何か特殊な事情があるのではないか、コリント教会に何か、負い目のようなものがあるのではないか、とあれこれ詮索し、邪推し、あの理由で、或いはこの理由で来る事が出来ないに違いない、と決め付け、パウロを誹謗、中傷していたのではないか、と思われます。

そんな、噂は、遠く離れたパウロの耳にも入り、噂の主、コリント教会の一部の人々を「思い上がっている人たち」と断定します。

コリント教会の一部の人々は、コリント教会で影響力を持つ人々であり、コリント教会に混乱と分裂を招いた人々です。

コリント教会の一部の人々は、高ぶった人々であり、パウロを見くびり、パウロがコリントにまで来る事はあるまいと、高を括っていたのですが、テモテが派遣された事を知って、益々、その確信を強めたのではないでしょうか。

パウロ自身がコリントに行けない理由があるから、テモテを派遣したに違いないと。

そこで、パウロは、自らがコリント教会を訪問する可能性を述べて、パウロが如何に深く、コリント教会の状況を心に掛けているか、憂いているかを述べます。

4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにでもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう。

ここでも、パウロは、「主のみこころであれば」と、パウロの全ての行動の主体が、御子キリスト・イエス様である事を宣言します。

パウロの行動は、全て、自分の考え、自分のしたい事、自分がすべき事、或いは、要請があって、乞われて、ではありません。

御子キリスト・イエス様の「みこころであれば」です。

テモテのコリント派遣も、自身のコリント訪問も、全て「主のみこころであれば」です。

必要性があるとの判断に至っても、皆が賛同、同意、承認し、協力的でも、反対者もなく、反対意見が皆無でも、期は熟したとの、最適なタイミングだとしても、行動に移すのは「主のみこころであれば」です。

そして、「すぐにでも」と、コリント教会の人々が思うよりも早く、訪問する事になるだろうと、パウロのコリント訪問の確実性を述べます。

これも、パウロの思い、計画ではなく、「主のみこころであれば」です。

そして、パウロを誹謗、中傷する人々の所へ行って、その誤りを、思い違いを、考え違いを正す、とするのです。

思い上がっている人たち」の意味するところは、単に高慢であるとか、偉そうな態度であるとか、自分たちが正しいとか、正統派だ、と自負している点に付いてでも、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を擁護、贔屓している点に付いてでもありません。

これらも、大きな問題ではありますが、更に大きな問題は、別にあります。

即ち、コリント教会の一部の人々は、神の国は、既に来ている、と考え、その来たりたもうた神の国で、王座に着いているかのように振る舞い、王座を占めているかのような言動を取っていたのであり、それは、8節で、「あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。」と皮肉っている通りです。

パウロは、そんな言動のコリント教会の一部の人々に対して、「思い上がっている人たち」と酷評しているのです。

現在、神の国は、信徒の内に、教会の内に実現し、終末を目指している途中なのであり、神の国の到来を待っているのです。

その神の国に相応しい者であるかどうかを見分ける基準は、「ことば」ではなく「」であり、「」は、奇蹟などではなく、聖霊によって、新しく生きる力を得て、新しい生を、即ち、御子キリスト・イエス様にある「いのち」を生きているかどうかです。

口で語る事が、神の国に相応しいかどうかではなく、生き方が、生き様が、語っている事と、生き方が一致しているかが、神の国に相応しいかどうかの基準だ、とパウロは言うのです。

理想を語り、建前を語り、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を贔屓し、教会内で勢力を保持する事に血眼になっている様では、神の国に相応しい人とは言えません。

4:20 神の国は、ことばではなく力にあるのです。

神の国」は、天国の意味でも、理想郷の意味でもありません。

御子キリスト・イエス様にある共同体や個人の生活に、御子キリスト・イエス様の支配が現在の力として働く事を意味します。

即ち、何に付いても「主のみこころであれば」と言う生き方です。

将来の事でもなく、理想でもなく、今、現在の生き方であり、不完全ではあっても、御子キリスト・イエス様の支配の下に生きているか否かなのです。

繰り返しになりますが、コリント教会の一部の人々は、神の国は、既に来ている、と考えていたのですが、それに相応しい、生き方、言動ではなく、「主のみこころであれば」との、生き方ではなく、自分たちの都合を優先させる生き方、口先だけの、行いの伴わない生き方だったのです。

パウロは、コリント教会の、混乱の元となっている一部の人々に、呼び掛けを与えます。

4:21 あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。

パウロは、コリント教会の人々よ、あなたがたは選びなさい、と迫ります。

むちを持って行くこと」を選ぶのか、「愛をもって柔和な心で行くこと」を選ぶのか、と。

しかし、問う迄もなく、前者でない事、後者である事は明らかです。

むちを持って行くこと」とは、戒規の執行、除名処分などの厳しい処置を意味しますが、戒規の執行は、悔い改めた「印」であり、刑罰や処罰ではありません。

しかし、自分の正しさを主張し、悔改めないならば、戒規を執行する事に意味はなく、除名処分が下される事になりますが、追放であり、非常に厳しい処置です。

そんな処置を執らないで済むように、戒規を執行しないで済むように、パウロが訪問するまでに、パウロの伝えた福音、アポロの伝えた福音、ケファの伝えた福音には、全く違いがない事、特定の福音宣教者、伝道者、教職者を贔屓する事が、如何に間違った事であり、如何に虚しい事であり、混乱しか生まず、分裂に至るしかない事を悟るように、心から願って呼び掛けているのです。

パウロの、コリント訪問の思いは、「すぐにでも」ですが、パウロが滞在していたと思われるエペソとコリントとは、直線距離で400km程離れています。

これは海路であり、陸路なら34倍にもなるでしょうから、当時の交通機関、交通事情、治安を考えるなら、途方もない距離であり、命がけの旅路です。

簡単に、気軽に行ける距離ではありませんから、パウロの真剣さ、熱意が、充分感じられる、呼び掛けなのです。

パウロは、コリント教会に対する愛を、「むち」で表すか、「愛・・・柔和な心」で表すかと迫るのですが、この熱意は、単にコリント教会が、自分が生み出した教会だから、気に掛かるから、心配だから、ではありません。

14節以降で、パウロは、パウロとコリント教会の関係を、父と子の関係として表現しましたが、父としての心配でありますが、重要なのは、御子キリスト・イエス様によって派遣され、命じられ、建て上げた教会であり、教会の成長にも、責任を持っており、現状を看過ごしには出来ず、言い難い事でも、反感や憎しみを買う事が明らかでも、言わなければならないのであり、伝えなければならないのです。

時に、手紙で、時に、代理人を送って、時に、自身で出向いて行って、「キリスト・イエスにある・・・生き方」を繰り返し教え、伝えなければならないのです。

【適応】

パウロがコリント教会を訪問しようと考えたのは、居ても立ってもいられない焦燥感や、心配が募るからではありません。

勿論、コリント教会の事は、親子のような感情に似た感覚で、心配したのでしょうが、根底にあるのは、御子キリスト・イエス様から受けた使命であり、御子キリスト・イエス様に対するしもべとしての立ち位置からです。

パウロは、御子キリスト・イエス様のしもべである事を明確に自覚していたのであり、主人である御子キリスト・イエス様の意から外れる事は一切せず、勝手な判断、行動は、厳に慎んで来ましたし、これからもそうです。

即ち、キリスト者の生き方の原則、行動原理は、「思い立ったが吉日」的な生き方、行動ではなく、「直ぐやる課」的な生き方、行動でもなく、何に付けても「主のみこころであれば」を確認する考え方、そしてその考え方に裏付けされた生き方、行動です。

この世では、直ぐに行動に移してこそ評価されますが、教会では、常に「主のみこころであれば」です。

直ぐにやるにしても、状況を見るにしても、誰かに相談したりは、過去の経験を参考にしたりは、「主のみこころであれば」に反する生き方、行動です。

現代は、「直ぐやる」に便利な時代です。

連絡を取る手段で言えば、電話を筆頭に、オーソドックスな手紙、現代的なMAILLINE

移動手段で言えば、公共交通機関を筆頭に、自家用車があり、夜中でもタクシーを利用する事が出来ます。

しかし、連絡にしろ、移動にしろ、直ぐに行動に移す前に、「主のみこころ」を確認する事を第一にしなければなりません。

慌てて連絡したならば、大急ぎで出向いて行ったならば、混乱に拍車を掛ける事になってしまうのではないでしょうか。

一息つき、祈って「主のみこころ」を確認しつつ、状況を整理し、考えを整理し、方針を吟味し、「主のみこころであれば」、連絡を取り、出向いて行くのが、キリスト者の行動でしょう。

一刻一秒を争う現代ですから、「主のみこころであれば」を確認するキリスト者の生き方、行動は悠長に見える事でしょう。

世の理解を得られず、非難を浴びる事もあるでしょうから、「主のみこころであれば」を選択する生き方は、難しいかもしれませんが、それこそが、キリスト者の真骨頂なのではないでしょうか。

慌てふためいて、火に油を注ぐような事にならないように、しなければなりません。

主のみこころ」を確認し、確信を得たならば、躊躇なく、速やかに取り組む。

それでこそ、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光が現されるのではないでしょか。

そのために召されたのです。

パウロの歩みは、常に「主のみこころであれば」であり、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現すか否かでした。

私たちの生き方、行動は常に「主のみこころ」を確認するものとし、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現したいものです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第一414節~17

説教題:「パウロの代理 テモテ派遣」

【導入】

コリント教会の問題は、コリント教会、固有、特有の問題ではありません。

聖書に記されている以上、全ての教会、キリスト者に宛てられた内容として読まなければなりません。

厳しい内容ではありますが、自分たちに宛てられているとして読まなければなりません。

パウロの書いて来た事、特に直前の6節から13節の厳しい叱責の言葉は、コリント教会を愛し、心配するが故の、熱の込められた忠告であり、コリント教会を辱め、貶(おとし)める意図は、全くありません。

叱責や忠告は、時に厳しい言葉の羅列、強い語調の連続になり勝ちですが、悠長な言い回しや、真剣味の欠いた言葉では、真意や真剣さが伝わり難いのではないでしょうか。

他人事ではない、本気なんだ、を伝えるには、少しは迫力を必要とするのですが、終始、迫力を込め続けた、厳しい言葉の羅列では、聴いていても、読んでいても、疲れてしまい、嫌気が差す事もあるでしょうし、反発を覚える事もあるでしょう。

誤解してしまう事もあり、時には、憎しみを抱いてしまう事もあるでしょう。

それでは、逆効果です。

厳しい語調で語り、記した時は、緩急、宜しく、優しい語調で語り、記すのが効果的なのは、言うまでもない事でしょう。

パウロは、決して誤解しないで欲しいとの願いを込めて、厳しさの理由を述べ、更には、手紙では伝え切れないパウロの思いのたけを伝えるべく、信頼するテモテを派遣する事を予告するのです。

【本論】

新改訳2017版 4:14 私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。

パウロは、厳しい事、反発を覚えるような事を記して来ましたが、それは「あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではな」い、と断言します。

誤解を招きかねない事や、勘違いを誘発させるような事は、早めに、はっきりさせておかなければなりません。

後になってからでは、取り返しが付かず、大事になってしまってからでは、途方もない時間と労力を必要とする事になりかねません。

煙のうちに、炎が上がる前に対処するのが、肝要です。

そして、パウロは、厳しい事を語って来たのは、「私の愛する子どもとして諭すため」だ、と断言します。

実に、パウロとコリント教会との関係は、父と子の、愛に基づく交わりである事に、置き換え、言い換える事が出来るのであり、コリント教会の人々に、誤解しないで欲しい、勘違いしないで欲しい、関係を遮断、断絶しないで欲しい、との嘆願を込めて、語りかけます。

注意、忠告、叱責の類は、言う方も、聞く方も、楽しいものでも、喜ばしいものでもありません。

出来れば、煙たがられるような事は、嫌われるような事は、言わないで済ませたいでしょうし、聞かないで済むなら、それに越した事はないでしょう。

しかし、注意、忠告、叱責は、必要不可欠であり、タイミングが重要です。

取り返しの付かなくなる前に、注意しなければならず、大事になってしまう前に、忠告しなければなりません。

そして、タイミングよく、叱責しなければならないのです。

注意、忠告、叱責してくれる人が居る事は、有難い事だと心得なければなりません。

そして、注意、忠告、叱責してくれる人が居ないと云う事は、大きな損失だ、と心得なければならないのです。

注意、忠告、叱責などの、嫌な役回りは、出来ればやりたくはありませんが、愛するからこそ、損な、嫌な役割を引き受けるのであり、それを、パウロは、養育係と父親との対比で説明します。

4:15 たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

養育係」とは、主人の指示の下で、子どもの世話をし、学校や習い事などの往復に付き添い、躾(しつけ)、教育を担当する奴隷の事です。

奴隷とは云っても、戦争で負けて捕虜となり、売られて奴隷になった人々であり、元々は王族、貴族であったり、王族、貴族に仕えていた人々や、官僚だった人々です。

一万人」は、相当誇張された数字ですが、多くの人々が、其々分担して、主人の子どもの教育、養育に当たる様子を現しているのですが、パウロ以降、コリント教会に多くの自称指導者が現れ、分を超えた、好き勝手な動きをしている姿を現してもいるのです。

養育係」は、家庭教師と言い換えてもよいのですが、非常に熱心に、根気よく、親身になって教育、養育するのですが、主人の指示、意向で教育、養育するのであり、主人の指示、意向を逸脱する事は許されません。

養育係」が、子どもの適性を見抜いても、その適性に合わせた教育をするか否かを決めるのは父親です。

養育係」は、父親に、教育、養育方針について相談、提案する事はあっても、独断で決める事は出来ません。

一方、父親は子どもの将来を見据え、子どもの健全な成長を願って見守り、「養育係」に教育、養育を託し、指示するのであり、父親の責務は、子どもに真理を悟らせ、そのために生きた模範を、身を持って示す事にあります。

子どもが正しく成長するように願い、そのためには、子どもにも、「養育係」にも、厳しい言葉で注意、忠告、叱責しなければなりません。

同じように、教会でも、全ての方法を持って、教会を健全な、あるべき方向に導く働きは、使徒、宣教者、教職者、即ち、パウロやアポロ、ケファ、そしてテモテなどにあり、コリント教会の一部の人々の、自称指導者とは、即ち、「養育係」の分を超えて、教会を自分たちの思いの方向に導こうとする動きは、断じて許される事ではなく、区別し、厳しく注意、忠告、叱責しなければならないのです。

パウロは、「私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ」と断言、宣言します。これは、決して、自分を御子キリスト・イエス様より上に置く意味での発言ではありません。

パウロは、徹底的に、御子キリスト・イエス様の絶対主権に従い、福音宣教の働きに携わって来たのであり、それが「キリスト・イエスにあって」との言葉であり、その結果、コリント教会を生み出した、と大胆な主張を宣言するのです。

パウロの大胆な宣言は、更に続きます。

4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。

私に倣う者となってください」は、決してパウロの高慢の現われではありません。

高い使徒意識の現われであり、9節から13節に示された、使徒たちの、この世的には弱く、惨めで、蔑まれるような姿、生き方に倣うように、とのお勧めなのです。

先に、パウロとコリント教会の関係を、父と子の関係になぞらえましたが、子が父を見倣うように、子であるコリント教会の人々が、父であるパウロに倣うのは当然なのであり、パウロは、特殊な事、難しい事を要求しているのではなく、この世でも当然の事を、普通に行われている事を、お勧めしているのです。

それは、福音を、字義的な知識として受け止め、蓄えるのではなく、パウロのように、自らの全存在をもって、福音を実践し、福音に生きる事のお勧めであり、福音宣教と、教会形成に生きる事のお勧めでもあります。

更には、私パウロが、御子キリスト・イエス様に倣っているように、あなた方も、私に倣ってください、とお勧めするのです。

勿論、「養育係」の分を超えての意味でない事は、当然であり、使徒たちの働きではなく、生き方を、この世的には弱く、惨めで、蔑まれるような姿、生き方に倣うように、とお勧めするのです。

4:17 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

この手紙は、コリント教会の一部の人々の行動を叱責する内容でしたが、テモテを送るのは、更なる叱責や糾弾のためではありません。

コリント教会に、パウロの生き方を倣わせるためであり、パウロの生き方を具体的に伝えるためです。

自分で自分の生き方を詳細に書き送るのではなく、テモテに語らせるために、テモテを遣わした、と言うのです。

そして、テモテが如何に、この働きに相応しい人物であるかを、書き記します。

単に、優秀とか、有能とか、信任に足る人物である、などとの評価、紹介ではなく、「テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です」と紹介するのですが、何とも、最大の賛辞ではないでしょうか。

テモテは、パウロの信奉者ではなく、パウロの意のままに働く人物でもありません。

パウロを尊敬しつつ、主なる御子キリスト・イエス様に忠実な人物なのです。

テモテは、自身が主なる御子キリスト・イエス様に対して忠実であり、御子キリスト・イエス様に対して忠実なパウロにも、忠実であるのです。

そして、御子キリスト・イエス様を仲介者として、パウロとテモテは親子のような関係にある、と宣言するのです。

パウロがテモテを「忠実な子」と紹介するのは、信頼出来るとか、人徳があるとかが理由ではありません。

御子キリスト・イエス様を仲介者とするからなのです。

人を信頼しても、必ず失望させられてしまいます。

期待外れを味わい、がっかりする事も起こるでしょうし、時には裏切られてしまう事もあるでしょうが、御子キリスト・イエス様を仲介者とするとき、御子キリスト・イエス様が責任を取ってくださるので、失望を味わう必要もなく、情けない思い、悔しい思いをする必要もないのです。

人間的な繋がりが、御子キリスト・イエス様との関係に影響してはなりません。

教職者も、信徒も、常に、御子キリスト・イエス様に対して忠実である時、教職者同士の関係も、信徒同士の関係も、信徒と教職者との関係も、麗しい関係を構築、維持出来るのです。

テモテやパウロは、コリント教会で、他の教会と違った事を教えるのではありません。

また、テモテは、何か、目新しい事を語るのでもありません。

パウロがコリントで語った事を、「あらゆるところのあらゆる教会で・・・教えているとおりに」語るのです。

そこに、テモテ個人の私見の挿入や、パウロの教えからの逸脱はありません。

愚直なまでに、パウロの教えている通りに語り、「キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせ」るのです。

テモテの働きに、教え伝える事に、パウロ賛美や、パウロ賛辞は一切不要です。

尊敬する、愛するパウロの事を語るのですから、多少の賛辞が入り込みましょうが、福音伝道に、人間賛美や人間賛辞は不必要です。

讃えるなら御子キリスト・イエス様だけです。

どうしても、功績を讃え、出自などを紹介したくなるでしょうが、以前、お話したように、それは、自慢につながり、高慢の現れです。

御子キリスト・イエス様のしもべは、「主にあって忠実な」事こそ、何にも勝る資質であり、能力です。

優秀、有能でも、主人の意に忠実でない者は、働き人としては失格です。

その点、テモテは、自分の考えではなく、自己判断でもなく、ずれる事も、ぶれる事なく、パウロの教えの通りに語る事を常とした伝道だったのです。

キリスト・イエスにある私の生き方」は、パウロのキリスト者としての生き方です。

パウロの働きは、パウロに委ねられ、与えられたものであり、真似る必要はありませんが、パウロの生き方は、御子キリスト・イエス様のしもべとしての行き方であり、何にも拘(こだわ)らない、縛られない、影響を受けない生き方でしたが、これは見倣う必要がありましょう。

御子キリスト・イエス様のしもべとしての生き方は、繰り返し教えられる必要があるのです。

【適応】

宣べ伝える事は、教会がしっかり保つべき事は、御子キリスト・イエス様のしもべとしての生き方であり、コリント教会のように、誤解されて、勝手な解釈をされて、結果、混乱が起こらないようにするためであり、教えられた事を忘れられてしまい、元の生き方に戻ってしまわないようにするためです。

教会に、教職者が常駐しているのは、このため、信徒の霊的養いのためです。

教職者が常駐せず、巡回しているのでは、心許ない。

教職者が、信徒の霊的養いを疎かにせざるを得ないような体制は、大問題でしょう。

教職者は、信徒の霊的養いのために派遣、存在しているのであり、信徒の霊的養いに専念する事が使命なのです。

信徒の霊的養いに重要なのは、説教そのものであり、教職者の出自、学歴、功績は、全く不必要です。

語る事が重要、伝える内容が重要であり、どんな人物かは全く意味ありません。

風貌も、貫禄も、来歴も、意味を持ちはしません。

教会も同じです。立派な会堂、音響、奏楽設備の整った礼拝堂、多目的ホールの設置、教会の来歴には、何の意味もありません。

雨露が凌げれば充分であり、オルガンがあれば事足り、主を礼拝する場として相応しいか否か、正しく説教が語られているか否かだけが問題です。

霊的養いを疎かにして、教勢を伸ばしても、立派な会堂を建てても、意味ありません。

テモテを派遣したのは、パウロの、コリント教会での地位安定のためではありません。

コリント教会の信徒の霊的養いのためです。

パウロがテモテを派遣した形になっていますが、テモテを派遣したのは、御子キリスト・イエス様です。

教会には、教職者が派遣されますが、洩れなく、全て、一人残らず、御子キリスト・イエス様が派遣されたのです。

本日の説教題を「パウロの代理 テモテ派遣」としましたが、「御子キリスト・イエス様の代理 ○○牧師派遣」と読む事が大切です。

パウロが人選し、派遣した形であり、現代ならば、教団が人選し、派遣した形ですが、御子キリスト・イエス様が派遣されたのです。

教職者をそのように理解する事が、健全な教会を建て上げる秘訣です。

もし、万が一、問題が起こったとしたなら、教職者に問題を見つけるのではなく、その教会に問題が内在していないかをこそ、吟味しなければなりません。

コリント教会の分派の問題は、教職者の問題ではなく、特定の教職者を贔屓する信徒に問題があったではありませんか。

似たような事を、現代の教会でも行なっているのではないでしょうか。

御子キリスト・イエス様の代理として、教職者が派遣され、その教職者は、信徒を霊的に養う事に専念、専心しなければならないのです。

教職者、信徒、其々が、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様から信任された働きに、しっかりと取り組み、歩み続けたいものです。

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聖書個所:サムエル記第一1424節~52

説教題:「愚かな命令に苦しむサウル軍」

【導入】

唯一真の神様によって立てられたサウルですが、サウルは、信仰的であるようですが、それは非常に人間的であり、この世の常識に支配されている様子が伺えます。

サウルは、唯一真の神様に選ばれたのだから、選んだ唯一真の神様が見捨てるはずが無い、どんなに不利な、希望のない状態であっても、唯一真の神様は必ず助けてくださる、守って下さる、と言う確信が持てなかったのです。

敵であるペリシテ軍の武器は最新の物、鉄の武器であり、兵力は数え切れないほどに夥しい人数でした。

比べてサウル軍は武器と言えるような物は皆無に等しく、最初は3000いた兵士も、逃亡し、隠れてしまい、600にまで減少してしまっていたのです。

これではまともに戦えない、と考えるのは当然であり、打って出る事は勿論の事、退却すら出来ないと言う苦境に立たされてしまっていたのです。

目に見える状況、常識的な判断が優先すれば、信仰は働かないのであり、働きようがないのです。

この膠着状態を打開したのは、サウルの息子ヨナタンでした。

ヨナタンは信仰の勇者であり、唯一真の神様の守りを確信していました。

割礼を受けていない異邦の民が、割礼を受けた契約の民に勝るはずがない。

何故ならば、契約の民には唯一真の神様が付いていて、助けて下さるからだ。

武器や兵力の差は如何に大きくとも、天地宇宙を造られた唯一真の神様には何の問題もない、妨げになるものは何もないと確信し、たった二人で夥しい数のペリシテ軍に戦いを挑んでいったのです。

唯一真の神様は、唯一真の神様に信頼する者の信頼を裏切る事はなさいません。

唯一真の神様は、唯一真の神様の助けを確信する者を見捨てる事はなさいません。

崖の上で始った20人足らずの局地戦は、ペリシテ軍の中に混乱を生じさせ、同士討ちにまで発展し、サウル軍の助けを得るまでもなく、たった二人でペリシテ軍を敗走させるまでの活躍をするのです。

これはヨナタンと従者が100人力、1000人力の勇士であったからではありません。

サムエル記第一1423節に「こうしてその日、主はイスラエルを救い」と記されているように、唯一真の神様が助けて下さった結果です。

唯一真の神様の助けを頂くのに必要なのは信仰だけであり、それに何ら人間の努力とか、苦行とか、物断ちは必要ありません。

しかし、サウルは唯一真の神様に対する、間違った熱心から愚かな命令を兵に与えるのです。

【本論】

14:24 さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

食物を食べる事は、言い方を変えるなら、休息を取る、と言う事であり、攻撃の手を休める、中断する、と言う事です。

唯一真の神様が助けて下さっているのに、我々が休んでいて良いのだろうか。

のんびり食事なんかしていては唯一真の神様に対して申し訳ない、と多くの人は考えるかも知れませんが、決してそんな事はありません。

怠惰に遊んでいるのは問題ですが、休息は必要であり、創造の始めから、人間には最初に休息が与えられたのであり、休んでから働くのが人間に与えられた唯一真の神様の御心なのです。

生まれて直ぐに働く動物は皆無です。

動物も人間も、親の世話になり、遊び、遊びの中から生きる術を学んでから、一人前の者として働き、糧を得て、子どもを育て、子どもに文化を伝えるのです。

こんな長期的な事でなくて、短期的な事であっても、休息も取らず、食事も取らないで、充分な働きが出来るはずがありません。

休息は必要であり、唯一真の神様が与えられた祝福であり、決して休む事に後ろめたさや、罪悪感を感じる必要はないのです。

日本人に対してエコノミックアニマル…と言われた時代があり、日本人は働く事を美徳と考える風潮がありますが、休んでこそ良い働きが出来るのである事を忘れてはなりません。

断食や何かの誓いは、人の助けになり、信仰の確信に至るために取り入れるものであって、良く吟味して取り入れないと、行いによる救いにつながり、自己満足でしかないことになりかねませんので、注意が必要です。

サウルの命令は、人々の助けになるものではなく、返って苦しめるものであり、唯一真の神様のペリシテ軍を打つと言う働きを阻害する結果になってしまったのです。

14:25 この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。

14:26 兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。

カナンの地は「乳と蜜の流れる地」と形容される土地です。

自然が豊かで、草木が豊かで、昆虫も動物もせっせと働き、牛は乳を出し、蜜蜂は蜜を蓄え、その自然の恵みは唯一真の神様の祝福でもあり、人間が存分に味わって良い物なのです。

もっと積極的に言うならば、人間のために唯一真の神様が備えて下さったのであり、それを要らない、我慢します、と言うのは唯一真の神様に対する不敬でしかないのです。

サウルはそこまで考えていなかったでしょうが、そんな浅はかな考えから出た命令こそが問題なのです。

熟考する時間がなく、即刻に命令を出さなければならない状況がある事を否定しませんが、少なくとも唯一真の神様に祈る時間と、命令を出した後でも吟味し、撤回する勇気は、欠かさずに持ちたいものです。

14:27 しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。

14:28 兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、「今日、食物を食べる者はのろわれる」とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」

14:29 ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。

14:30 もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」

「腹が減っては戦は出来ぬ」と言う言葉がありますが、適度な食事と適宜の休息が重要であることは、洋の東西、古今、人種を問いません。

叱り言葉に「休み休みやってるんじゃない」と言うのを聞いた事がありますが、休み休みやるからこそ、長く続ける事が出来るのであり、それは人間や動物だけでなく、機械であっても同じです。

使ったら休ませる。メンテナンスを行なう。

これがあってこそ、次ぎにも充分な、完全な、余裕を持った働きが出来るのです。

特に戦のような長期戦は、頑張り所と、息抜きを上手に取る事が重要であり、有能な指揮官はこのさじ加減を心得ている必要があるのです。

叱咤激励ばかりでは、兵士は疲れ果ててしまいます。

勇気を持って休息させる、一時撤退させても休息を与え、次ぎの攻撃に備えさせるのが指揮官、王様の使命だったのではないでしょうか。

ヨナタンは森の中で見つけた蜜をほんの少し口にしただけで、体力の回復を感じたのです。

戦には必要最低限の物しか持っていく事が出来ません。

余裕はないのです。

そこで後続部隊、或いは補給部隊とも言ってもいいでしょうが、彼らは糧食を持ち、武器を補充し、交替し休ませるために、最前線に送られて行くのです。

この手配のタイミングもまた、指揮官の采配によるのであり、補給のタイミングの如何によって戦況は大きく変わってしまうのです。

この戦いでは、唯一真の神様が、森という隠れ休息を取る場所には事欠かない所を備え、蜜と言う食料を備えて下さったのであり、ここにも、この戦いが唯一真の神様主導である事を見る事が出来るのです。

サウルが王様として、指揮官として立てられていますが、本当の王様は、指揮官は唯一真の神様であり、唯一真の神様の指揮、采配は完全であって、ペリシテ軍を徹底的に打つための備えをして下さっていたのです。

しかし、愚かなサウルは唯一真の神様の御心を汲み取ろうともせず、敵を敗走させはしましたが、民を苦しめる命令、唯一真の神様の備えを拒否する命令を出してしまったのです。

14:31 その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を討った。それで兵たちはたいへん疲れていた。

愚かな命令は思わぬ結果に導きます。

ミクマスからアヤロンは直線距離で30km程です。

山あり谷ありの地形を30kmも追撃するのは非常に困難な戦いでしょう。

たいへん疲れてい」ると、通常なら、普段ならしないような行動を誘発します。

ユダヤ社会では一日の終りは日が沈む時であり、日没と共に新しい一日が始ります。

即ち、夕方になり、サウルの命令の時効を迎えると、民は我先にと食を求めて、しかも、血抜きをしない肉にかぶり付いてしまったのです。

ユダヤ社会では、唯一真の神様の命令で、決められた手順によって血抜きをしなければなりませんでした。

創世記94節、201713ページ、第三版12ページ、「ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」、

レビ記317節、2017179ページ、第三版173ページ、「あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき、永遠の掟はこれである。あなたがたは、いかなる脂肪も血も食べてはならない。」。

唯一真の神様の命令であり、先祖代々の言い伝えですから、普段はしっかりと血抜きをして、注意深く脂肪を取り除いて食していた事でしょう。

しかし、極度の空腹は、或いは不当な禁止命令の解除は、手続きを忘れさせ、

14:32 兵たちは分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場で屠った。兵たちは血が付いたままで、それを食べた。

14:33 すると、「ご覧下さい。兵たちが血のままで食べて、主に罪を犯しています」と、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「おまえたちは裏切った。今、大きな石を転がして来なさい。」

14:34 そしてサウルは言った。「兵の中に散って行って、彼らに言いなさい。『それぞれ自分の牛か羊を私のところに連れて来て、ここで屠って食べなさい。血のままで食べて主に罪を犯してはならない。』」兵はみな、その夜、それぞれ自分の手で牛を連れて来て、そこで屠った。

33節の「裏切った」との叫びは、どのような意味を込めての言葉なのかはっきりしませんが、サウルの禁止解除の命令を待たなかった事に対する憤りであったのかも知れません。

また、私は唯一真の神様に従っている、従って来た、との自負。それなのにあなた方は律法を破り血の付いたままの肉を食べた、との憤りから出たものかも知れません。

どちらであったとしても、血を食する事は罪ですから、肉を捌いた時に出た血が、肉に付かないように、平らな所でではなく、丸みを帯びた石の上で肉を捌き、血が流れ落ちるようにとの指示を出すのでした。

14:35 サウルは主のために祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇であった。

サウルは何のために祭壇を築いたのでしょうか

聖書にその理由を記していませんが、祭壇を築くのは何のためでしょうか。

祭壇に象徴される礼拝行為も同じです。

何のために礼拝を献げるのでしょうか。

自己満足、安心感を得るためであったとしたら、どんなに立派な祭壇も、どんなに荘厳な礼拝も、唯一真の神様に受け入れられはしないでしょう。

唯一真の神様はサウルの築いた祭壇をどのような思いでご覧になられたのでしょうか。

事実だけを記し、何も付け加えては記されていないところに、唯一真の神様は何の関心も示さなかった事を私たちに伝えているのではないでしょうか。

唯一真の神様が関心を示すような礼拝を献げたいものです。

14:36 サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らからかすめ奪い、一人も残しておかないようにしよう。」すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」

血気にはやるサウル王。兵は疲れ果てている。そこで祭司は神の前に出る事を提案します。

14:37 サウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日、神は彼にお答えにならなかった。

14:38 サウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに近寄りなさい。今日、どうしてこの罪が起こったのかを確かめてみなさい。

14:39 まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとえ、それが私の息子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない。」しかし、民のうちだれも彼に答える者はいなかった。

唯一真の神様が答えて下さらない事を、暗に民のせいであると決めつけるサウル王。

その裏付けが39節の言葉です。

私たちのせいで答えがないのではない。

おまえたちのせいだ。

おまえたちが血抜きしないで肉を食べたからに他ならない。

その自信の心思いが39節の言葉となって現されているのです。

14:40 サウルはすべてのイスラエル人たちに言った。「おまえたちは、こちら側にいなさい。私と息子ヨナタンは、あちら側にいることにしよう。」民はサウルに言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

14:41 サウルはイスラエルの神、主に「みこころをお示しください」と言った。すると、ヨナタンとサウルが取り分けられ、民は外れた。

14:42 サウルは言った。「私か、私の息子ヨナタンかを決めてください。」するとヨナタンが取り分けられた。

14:43 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に話しなさい。」ヨナタンは彼に話した。「確かに、手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を口にしました。この私が死ななければなりません。」

14:44 サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン、おまえは必ず死ななければならない。」

唯一真の神様の御心を求めた結果、原因がヨナタンにある事が判明し、ヨナタンは父サウルの詰問により、事の次第を告白します。

以前確認したように、サウル王は唯一真の神様が立てられたイスラエル軍の王様であり、総司令官です。

その王様であり、総司令官であるサウルの許可もなく行動したのは遺憾であり、どんな理由も、言い訳も通用しません。

その点でヨナタンは潔(いさぎよ)く、言い訳もせず、命乞いもせず、死を受け入れた覚悟を表明致します。

サウルは判決を下します。

この決定が絶対不変である事を、口語訳聖書では「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」、

新共同訳聖書では「ヨナタン、お前は死なねばならない。そうでなければ、神が幾重にもわたしを罰してくださるように。」と訳しています。

14:45 民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。

不変の決意を込めた宣言であるにも係わらず、民の助命嘆願にサウルはアッサリと決意を翻します。

ここにもサウルの唯一真の神様に対する従順の欠如。約束の言葉に対する責任の軽さが如実に現れています。

サウルは唯一真の神様との約束を何と考えているのでしょうか。

口に出した約束の重さを何と捉えているのでしょうか。

前言(ぜんげん)を翻すのに、唯一真の神様との約束を反故にするのに何の呵責も感じないのでしょうか。

でも、これはサウルの特質なのではなく、人間の持つ弱さでもあるのです。

私たちはサウルを責める事も、非難する事も出来ません。

軽重、大小はあるでしょうが、私たちも同じような事をやっているからです。

唯一真の神様に対する不誠実という点では、サウルも私たちも同じなのであり、12弟子も、代々の使徒も同じであり、唯一真の神様の前に立てる者は一人もいないのです。

だからこそ、御子キリスト・イエス様の犠牲と執り成しが必要なのであり、自分の足りなさを、不誠実さを自覚した者だけが、御子キリスト・イエス様の贖いにより唯一真の神様に受け入れられる者とならせて頂けるのです。

14:46 サウルはペリシテ人を追うのをやめて引き揚げ、ペリシテ人は自分たちの所へ帰って行った。

14:47 さてサウルは、イスラエルの王権を握ってから、周囲のすべての敵と戦った。モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを敗走させた。

14:48 彼は勇気を奮って、アマレク人を討ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。

14:49 さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュウィ、マルキ・シュア、二人の娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。

14:50 サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。軍の長の名はアブネルで、ネルの子でサウルのおじであった。

14:51 キシュはサウルの父であり、アブネルの父ネルは、アビエルの子であった。

14:52 サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、そのひとたちをみな、召しかかえることにしていた。

唯一真の神様はサウルの不誠実さにも関らず、サウルを見捨てる事なく、助けを与え、敵を敗走させ、サウルの治世の間、サウルに勝利を与えて下さいました。

サウルは子どもにも恵まれ、3人の息子と2人の娘が与えられた事が記されています。

サウルはサウルの親族を将軍につかせ、身の回りを固めつつ、有能な戦士を見出せば召抱える事も積極的に行ない、その政権を磐石のものとして行ったのですが、サウルを立てたのは唯一真の神様であり、唯一真の神様が政権を取り去られるならば、どんなに足掻いても無駄であり、逆に唯一真の神様を信じて従うならば、唯一真の神様がその政権を磐石なものとして下さるのではないでしょうか。

教会は2000年の間に、様々な迫害にあい、攻撃を受けましたが、衰退する事なく、今に続いているのは、唯一真の神様が守っていて下さるからです。

唯一真の神様の守りに信頼するならば、人間的な、愚かな命令を出さずとも、唯一真の神様が守って下さり、その政権を、組織を永続させて下さるのです。

【適応】

私たちは目先の事に捕われて、色々な策を講じますが、本当に必要なのは唯一真の神様を信じて、唯一真の神様に委ね、唯一真の神様に従う事です。

以前お話ししたように、唯一真の神様は秩序を重んじられ、混乱をお嫌いになられるお方ですから、制度を尊重し、手続きを遵守し、然るべき手順で具申し、説得を試み、了解を得て進む事が望ましいのではないでしょうか。

ヨナタンの行動は信仰から出たものであったとしても、唯一真の神様が立てられたサウル王の許可を得てはいないものであり、それ故に、サウル王の命令を聞き漏らしてしまったのであり、ヨナタン自身に災いとなって降りかかってしまう事になってしまったのです。

サウル王の、軽率との謗りを受けるような約束であろうと、唯一真の神様との約束は絶対です。

今しがた交わした約束であろうと、何十年も前に交わした約束であろうと、唯一真の神様はその約束を忘れる事がないのであり、私たちもまた誠実に履行しなければならないのです。

いい加減なことは出来ないのです。

ただし、約束、契約は絶対不変ではありません。

約束、契約は、手続きを経て、変更可能なものなのであり、誤魔化しや、不履行と混同してはなりません。

献げる、と約束したならば、どんなに厳しくても、辛くても、悲しくても献げなければならないのであり、逃げても、隠しても、唯一真の神様は必ず取り上げるお方である事を忘れてはなりません。

惜しんで献げなければ、それは唯一真の神様の物を盗んだと同じ事であり、献げると約束した物と、その何倍かの物をもって償わなければならなくなってしまうのです。

しかし、辛くても、厳しくても、献げる時、唯一真の神様は献げる心を受けとって下さり、その何倍をも返して下さり、祝福を与えて下さるのです。

アブラハムがイサクを献げた時、唯一真の神様はイサクの命を返してくださり、ヤコブを、その子孫をあたえてくださったではありませんか。

サウルはヨナタンの命を失わずに済んだように思ったでしょうが、サウルの命もヨナタンの命も、唯一真の神様によって取り去れているのであり、サウル自身の手で献げないので、唯一真の神様はペリシテ人の手を用いて、サウルとヨナタンの命を取り去られ、二人は非業の最後を遂げるに至るのです。

愚かな命令は民を、自身を苦しめます。

たとえ愚かな約束でも誠実に守らなければなりません。

軽い気持ちで言った事でも、リップサービスであろうとも、約束は約束であり、命令は命令です。

言葉には力があるのです。

自分に不利であろうと、命に関ろうと、誠実に履行するならば、唯一真の神様もまた誠実に報いてくださいます。

更に重要なのは、無理な約束をしなくても、唯一真の神様は私たちを愛して下さっており、私たちに益となることを用意して下さっていると知る事です。

あれをしません。

これをやりますと言わなくても、唯一真の神様は救って下さるのであり、守って下さるのです。

何故ならば御子キリスト・イエス様の義が私たちのものとなっているからです。

義人の受ける報いが私たちのものとなっているのですから、物断ちをしなくても、献げると約束しなくてもいいのです。

ここにおられる皆様が、唯一真の神様に選ばれた民として、唯一真の神様に信頼し、誠実に歩み、唯一真の神様から豊かな祝福を得られますように。

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