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                              2020-12-27礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一6章12節から20節

説教題:「神と交わり一つの霊となる」

【導入】

パウロが51節以降で、59節以降で、69節以降で扱っているのは、コリントの町で普通に、公然と行われている不品行の問題ではありません。

パウロが51節以降で、59節以降で、69節以降で三回も繰り返し扱っているのは、コリント教会の人々が、不品行の問題を、何の疑問も、違和感もなく、受け入れている事、排除しようとしない事に憤りを感じているからであり、その背景には、パウロたちの教えを曲解し、誤解し、自分たちの都合に合わせた解釈をしている事を正す目的があってです。

不品行の中でも、特に、遊女との交わりは、売春婦を買う事は、重大な問題を含んでおり、パウロはこの不品行を不品行と感じない状態を憂慮し、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様との交わりに入れられた者が、新しい存在としての教会が、如何に不品行の問題に対処して行くべきかを述べます。

【本論】

新改訳2017版 6:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。

パウロは、誤解の元となったのであろう言葉、「すべてのことが私には許されている」を確認します。

この1節の中に、同じ引用が繰り返されているのは、それだけ重要だ、と云う事ですが、パウロは、或いは、福音宣教者たちは、律法に縛られない生き方、律法からの自由を説いたのであり、パウロの教えの中には「すべてのことが私には許されている」との主旨の言葉があったのは確かでしょう。

パウロは、この教えは教えとして肯定的に受け止め、紹介していますが、しかし、但し書きがある事を、条件、制限がある事も付け加えます。

コリント教会の一部の人々は、パウロたちの教え、キリスト者に与えられた律法からの自由、即ち、「すべてのことが私には許されている」を誤用し、文字通り「すべてのこと」に適応し、遊女との交わりは、売春婦を買う事は、罪ではないと考えたのです。

加えて、当時はグノーシス主義が台頭しており、グノーシス主義は、二元論、身体を、肉体と霊に分離する考えを提唱し、肉体は永遠に続くものではなく、本質的に重要ではない、霊は永遠に続くものであり、霊的なものだけが重要である。

そして、肉体の汚れなどの問題が、霊に影響する事はない、霊さえ聖であれば、肉体の汚れなどは問題ないと主張していましたが、このグノーシス主義の教理を裏付けとし、すべてのことが私には許されている」と主張し、放縦に陥っていたのです。

パウロは、「すべてのことが私には許されている」との主張を肯定的に受け止めつつ、キリスト者の言動は、第一に、霊的益となるか否かを基準とすべきである、との規制を加えます。

何をするも、しないも自由だが、自身の霊にとって益となるか否かを判断基準とすべき事、何をするも、しないも自由だが、他者の生き方の模範、手本、他者の霊にとって益になるか否かを判断基準とすべき事を確認します。

第二に、「すべてのことが私には許されている」との主張を元に、欲望に身を委ねる事は、欲望の奴隷、欲望に支配されている事に他ならないのであり、欲望の奴隷になるべきではない、欲望に支配されてはならないと説くのです。

コリント教会の一部の人々が、遊女と交わり、売春婦を買う事を是認した理由は、他の教えの曲解、誤解、誤用にもあったようです。

6:13 「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。

食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」との教えの出所は不明ですが、これもパウロたちの教えにあったのではないか、と考えられます。

旧約聖書には、食物の禁忌規定が事細かく記され、繰り返されていますが、御子イエス様は、食物が人を汚す事はないと教えられました。

マルコの福音書719節、2017版は80ページ、第三版は79ページ、

「それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた」。

御子イエス様は、食物は、身体を通過するだけで、身体を汚す事はない、と教えられました。

パウロたちは、この御子イエス様の教えを、食物についての律法から、キリスト者を自由にする目的の教えの言葉を伝えたのでしょうが、コリント教会の一部の人々は、この御子イエス様の、食物の教えを曲解、誤解、誤用し、食欲と性欲の類似性を混同し、都合よく解釈し、食物と、食物を必要とする腹は、この世限りのものであり、遊女と交わり、売春婦を必要とするこの身体も、この世限りのものであり、永遠的意味合いはない、と強調し、霊を損なう事はないし、問題はないと考えたのでしょう。

これは、大きな間違いです。

身体は、肉体と霊に分けられるかも知れませんが、肉体と霊とは密接に関係しており、お互いに強く、深く影響します。

この事は、この後、学びます。

神は、そのどちらも滅ぼされます」は、刑罰、懲罰的意味合いではなく、食物も腹も、永続性がない事を示す意味合いの言葉です。

罪を持つ人間は、何でも自分に都合よく解釈します。

コリント教会の一部の人々は、パウロたちの教えやグノーシス主義の教理を、自分たちに都合よく解釈しますが、パウロは、食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」との教えを肯定的に引用しつつも、からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです」と、キリスト者の「からだ」は、遊女と交わり、売春婦を買うためではなく、御子イエス様のためにあり、御子イエス様はキリスト者の「からだ」のためにいてくださるのだ、と指摘します。

ここでの「からだ」は、限定的な意味ではなく、人間の全体を意味し、人間の創造から、歴史的背景を含む、具体的な存在としての「からだ」を意味し、唯一真の神様、御子イエス様との関係性を持つものである事を意味するのであり、遊女と交わり、売春婦を買う事は、唯一真の神様、御子イエス様との関係性を大きく損なう、と警告を発するのです。

6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。

この「私たちも、よみがえらせ」は、御子イエス様と同じ、唯一真の神様の「御力によって」であり、パウロは、キリスト者のからだ」は永遠性を持ち、御子イエス様との結び付きは永遠である、と断言します。

からだ」は、腹のような、単なる消化器官のような、この世限りのものではなく、単なる「」の入れ物、物体でもなく、からだ」は「」と深く関わり、強く結び付いているのであり、不可分のものであり、永遠の意味を持つものなのです。

6:15 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。

あなたがたは知らないのですか」は、316節、56節、62節、3節でも述べられてきましたが、ここ15節、16節、19節でも繰り返し述べられています。

「知識と知恵」とを誇るコリント教会の人々ですが、「知識」は、量も重要ですが、質が問題であり、「知恵」は、知識を正しく理解し、整理し、関連付けを行ない、活用する事が重要でしょう。

コリント教会の人々のなすべき事は、パウロたちの伝えた事の主旨を理解し、主旨に沿った判断をする事ではないでしょうか。

そして実践する事ですが、実践が伴わなければ、意味がないどころか、毒になるのが「知識と知恵」でしょう。

事実、コリント教会の一部の人々は、パウロたちの教えを曲解し、誤解し、誤用していたのです。

それは、自身の問題であり、また、他のキリスト者に関わる問題です。

罪への誘惑は、非常に強く、刺激的であり、継続的であり、巧妙です。

正しい知識と、知恵の正しい活用で対処しなければ、滅びは確実です。

あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです」は、個々のキリスト者が、教会に結ばれている事を教えます。

キリスト者のからだ」は、自分自身のもののように見えますが、

実は「キリストのからだの一部なのです」。

この事は、12章で詳しく扱いますが、個々のキリスト者は、個性を持ちつつ、教会として統合され、統一され、頭なる御子イエス様に繋がる存在なのです。

しかも、将来、多分、可能性として、ではなく、キリスト者となった瞬間に、確実に、御子イエス様に繋がり、繋がり続け、御子イエス様の一部となり、その関係は、生涯、解消される事はないのです。

唯一真の神様から、御子イエス様から、様々な理由で、関係を切られる事はありません。

しかし、キリスト者が、様々な理由を述べ立てて、関係解消を強引に要求し、離れて行くなら、唯一真の神様は、御子イエス様は、その要求を尊重し、離れるに任せて下さるでしょうが、その関係が、生涯、解消される事はないのです。

言い換えるなら、自ら進んで迷子になってしまった状態ではありますが、御子イエス様との関係解消が決定するのではありませんから、何時でも戻って来る事が出来るのです。

遊女と交わり、売春婦を買う者は、自分の「からだ」を御子イエス様の所有から奪い、遊女、売春婦に与える不法行為を行なっているのであり、単に、個人的な、人間的な罪ではなく、同時に、御子イエス様と教会との関係を否定する、重大な罪である、と云う事なのです。

6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。

ふたりは一体となる」は、創世記224節の、結婚の教えからの引用ですが、男女の結合は、肉体、霊を含む、全人的な結合である事を教えます。

パウロは、コリント教会の人々に、この教えを正しく理解しているのか、と問い掛けます。

人は、遊女と交わり、売春婦を買う事は、その場限り、との言い訳をしますが、言い逃れをしてはいけません。

遊女と交わり、売春婦を買う事は、軽い事ではなく、如何に危険な事かを知らないのか、知らないはずはあるまい。

性の交わりは、肉体に限らず、全人格的な結合をもたらす行為なのだ。

パウロは、結婚の持つ、男女の全人格的結合の重要性を語り、続けて、御子イエス様と結び合わされたキリスト者が、遊女と交わり、売春婦を買う事は、御子イエス様に対する背信行為なのだ、と断言します。

御子イエス様と結び合わされた事には、更に重要な意味があるからなのです。

6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。

御子イエス様との交わりには、「肉体」の結合はありませんが、消して滅びる事のない「」が、御子イエス様と結合するのであり、全人格的な「からだ」として、御子イエス様と結合するのであり、キリスト者の特権、特長はここにあるのです。

御子イエス様と交わりを持つ者に約束されている、比類のない大きな祝福です。

6:18 淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

遊女と交わり、売春婦を買う事を、容認してはなりません。

淫らな行い」は、避け続けなければなりません。

淫らな行い」は、自分の「からだ」と「」、全人格に対する罪だからです。

人が犯す罪はすべて、からだの外のものです」には、注釈が必要でしょう。

からだ」に害を与える罪があります。

不摂生、不養生や自死などです。

自分のからだ」のように見えますが、19節に記されているように「聖霊の宮」とされているのです。

6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

からだ」は、御子イエス様と結合し、一つとなっているのであり、聖霊の宮」となっているのです。

唯一真の神様に属するものとなっているのです。

これは、新しい関係が構築される、と云う事ではなく、人間の創造の目的である、唯一真の神様を礼拝する存在に、本来の存在意義に戻る、と云う事です。

6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

代価を払って」は、御子イエス様の十字架であり、買い取られた」ので、御子イエス様の所有になっている、と云う事です。

所有とは云っても、しかし、使用人でも、僕でも、奴隷でもなく、御子イエス様と結合し、一つになっているのであり、共に喜び、共働して、世界を治め、唯一真の神様の栄光を現して行くのです。

これは、最も基本的、根本的な事であり、積極的に取り組まなければならない課題なのです。

【適応】

自らのからだ」をもって、唯一真の神様の栄光を現す事は、人間の創造の目的です。

ローマ人への手紙121節、2017版は317ページ、第三版は308ページ、

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

コリント人への手紙第一1031節、2017版は342ページ、第三版は332ページ、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」です。

パウロの言葉はすべてのことが私には許されているでした。

このキリスト者の自由は、唯一真の神様と、被造物の最高峰である人間に仕える事における自由であり、自分勝手な意味での自由ではありません。

このキリスト者の自由は、唯一真の神様の栄光を現すべき存在として与えられた特権であり、最大限に、尊重されなければならない事です。

礼拝の自由は、人間を創造された唯一真の神様から与えられた特権であり、何にも妨げられる事はありません。

この唯一真の神礼拝のために、御子イエス様と交わり、一つの霊となるのです。

決して、キリスト者になると幸せになるとか、平安に過ごせるとか、病む事も朽ちる事もないからだ」が与えられるとか、永遠の命が与えられるとか、御国に入れるとか、ではありません。

唯一真の神様を礼拝するために、この世に生まれ、キリスト者とされ、御子イエス様と一つの霊になるのです。

御子イエス様と一つ霊になる事を妨げる、すべてのものを遠ざけなければなりません。

遊女と交わり、売春婦を買う事は、その筆頭ですが、淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません」。

他にも、心を占めるものに、感情の波にも注意を払わなければなりません。

娯楽や嗜好も過ぎたるは、問題であり、喜び過ぎ、逆に恐れ過ぎも、人に頼り過ぎるのも、問題です。

御子イエス様の霊と一つにされた者として、御子イエス様に従い、唯一真の神様を礼拝する者として歩み続けたいものです。

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聖書箇所:コリント人への手紙第一6章9節から11節

説教題:「神の国を相続する者」

【導入】

コリント教会の人々は、裕福である事を誇り、社会的地位を誇り、伝統あるコリントの町の住民である事を誇り、知識と知恵とを誇り、更には、コリント教会に所属するクリスチャンである事を誇りますが、キリスト教の、クリスチャンとしての基本的な事、316節、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

56節、「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

62節、「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

3節、「あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。」こんな基本中の基本を知らないのか、とパウロは問い掛けます。

神の宮」とされているに相応しく、自分の内から、悪しき習慣を取り除く努力、祈りを献げているのか。

教会に巣食う、淫らな行いを悲しんでいるのか、淫らな行いを一掃するために、必要な働き掛けをしているのか。

教会内の争いごとを、教会内の知恵を総動員して、教会に相応しい形で解決に導いているのか、と問い掛けます。

教会は、単に、同じ信仰者の集まり、信仰共同体ではありません。

教会に与えられた使命は、信仰の純粋性を守る事ですが、そのために外部との接触は極力避ける事ではありません。

(いにしえ)のユダヤ民族は、信仰の純粋性を守る事が命題であり、民族の純潔性を守るために、外部との接触は極、限って来ましたが、新しい信仰共同体、教会に与えられている使命は、罪の世に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す存在として、働き掛け、関わる事です。

教会の使命は、孤高を貫く事ではなく、積極的に交わりを持つ事ですが、同化したり、妥協したり、譲歩したりしてはならず、明確な区別を付け、決して一線を越えてはならず、聖書の教えを変えたり、一部を取り除いたり、混ぜ物をしたりしてはならないのです。

パウロは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の恵みを受けた者が、新しい存在としての教会が、如何に責任を持って応答し、生きていくか、を述べます。

【本論】

新改訳2017版 6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。

あなたがたは知らないのですか」との問い掛けは、導入で紹介した四回と、こことで計五回ですが、この後、615節、16節、19節、913節でも繰り返されます。

九回も繰り返すのには意味があります。

コリント人は、知識人である事を自負し、知恵ある者である事を標榜する人々ですが、その特徴は教会の中でも似た傾向が現れており、コリント教会の人々も、知識と知恵を誇ったのであり、であるなら先に紹介した事は、知っていて当然なのに、その当然の事を知らないのか、との皮肉を込めた呼び掛けなのです。

更には、コリント教会の人々には「キリスト者、選ばれた者」との自負があり、加えて、418節から21節で学んだように、コリント教会の一部の人々は、パウロらの教えを曲解し、勝手な解釈をし、神の国は既に来ていると誤解し、教会で王座に着いているかのように振舞っていたのです。

キリスト者に似つかわしい「謙遜、柔和」な、僕のような振る舞いではなく、キリスト者に似つかわしくない「高慢、尊大」な、支配者のような振る舞いをしていたのです。

其々が勝手にパウロを、アポロを、ケファを擁立し、教会に分派、派閥を作り、教会を牛耳っていたのですが、「正しくない者は神の国を相続できません」。

そんな基本的な事を「あなたがたは知らないのですか」と皮肉を込めて、語り掛けるのです。

正しくない者は神の国を相続できません」も、基本中の基本です。

神の国」は、唯一真の神様が支配されるところです。

「義なる者」だけが入れるところであり、一度でも正しくない事を行なった者は、決して入る事が出来ません。

続けて、「正しくない者」の具体例を列記します。

淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

9節の後半部分、「淫らな行いをする者、偶像を拝む者」の意味ですが、先ず、コリントの町の背景を知って頂く必要があります。

コリントの町は、交通の要衝であり、交易が盛んで、商業都市として栄えていたと、歓楽街、夜の街も繁盛していた、申し上げましたが、夜の街は、謂わば、売春宿を兼ねていたのであり、憚られる存在、陰の存在でありました。

さて、コリントの町には、ギリシャ神話に登場する、愛と美と性を司る女神アフロディテが祭られ、その神殿の門前町としても栄えていました。

アフロディテは生殖と豊穰の女神、春の女神であり、戦の女神としての側面もあって、多くの信者、信奉者、崇拝者がいました。

宗教儀式と享楽が混然一体となるのは、罪を持つ人間の、自然な流れであり、アフロディテに仕える巫女たちは売春婦を兼ね、神殿内では、いかがわしい行為が白昼、謂わば、公然と行なわれていたのです。

これが「淫らな行いをする者、偶像を拝む者」の意味ですが、憚られる形であろうと、公然とであろうと、性的な乱れは夜の街、神殿内に留まらず、「姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者」も、コリントの町に溢れる事になるのです。

性の乱れは風紀の乱れであり、風紀の乱れは道徳、規律の乱れであり、犯罪、即ち「盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」がコリントの町に溢れるのは、当然の帰結です。

これは、コリントの町で特に目立った問題でしたが、コリントの町、特有の問題ではありません。

ギリシャ、ローマ世界の問題でもありません。

何処でも、何時の時代でも起こり得る問題であり、そして、問題なのは、コリント教会内にも、夜の街に繰り出す者、売春宿に出入りする者、アフロディテ神殿詣をする者が、決して少なくなく、存在した、と云う事実です。

更なる問題は、夜の街に繰り出すにしても、アフロディテ神殿詣をするにしても、唯一真の神様の目を盗んで行なっていた、と云う事です。

唯一真の神様に隠れていかがわしい行為に走ったのであり、唯一真の神様との関係を、疎か、いい加減、適当にすると、自己の位置付けもいい加減になり、場当たり的になり、損得勘定の判断になり、他者との関係も揺らぎ、混乱する、逆転する、転倒する、と云う事です。

唯一真の神様との関係が壊れたなら、「贖い、救い、赦し」の確信は揺らぎ、崩壊します。

唯一真の神様に対する確信なくして、唯一真の神様が支配される「神の国」に入れるはずはなく、唯一真の神様との信頼関係のない者が、「神の国を相続する」はずがありません。

6:11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

あなたがたのうちのある人たち」とは、このコリント人への手紙で問題になっている、分派や混乱の原因となっている、一部の人々の事ではありません。

彼らも含まれますが、信仰告白以前の、洗礼を受ける以前の、唯一真の神様の事を知らずに生きて来た人々の事、御子キリスト・イエス様の贖いを知らずに、自由奔放に、肉の欲に従って生きて来た人々の事であり、聖霊のお取り扱いを受けない者が、「神の国を相続する」事はないのです。

11節後半の直訳、逐語訳は、「しかし、あなたがたは洗われた。しかし、あなたがたは聖なる者とされた。しかし、あなたがたは義と認められた。主イエス・キリストの御名において、私たちの神の御霊において」です。

導きに於いて、キリスト者としてのスタートに於いて、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって」のみである事が確認されます。

パウロの働きに因るのでもなく、パウロの名に於いてでもなく、アポロの働きに因るのでもなく、アポロの名に於いてでもなく、ケファの働きに因るのでもなく、ケファの名に於いてでもなく、「神の御霊」の具体的働き、「神の御霊」の導きによってのみ、人は救いに導かれるのです。

ここで重要なのは、「主イエス・キリストの御名」と、「神の御霊」が併記、列記されている事です。

神の御霊」の働きの重要性を示し、確認する記述であり、「主イエス・キリストの御名」と、「神の御霊によって」、「洗われ、聖なる者とされ、義と認められ」「神の国を相続する」者とされるのです。

神の御霊」のお働きは、御子キリスト・イエス様のお働きと同等であり、

優劣なく、上下なく、全く遜色ないのです。

そして、「洗われ、聖なる者とされ、義と認められ」る事に於いて、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊」以外は一切関わらず、不要です。

パウロがどんなに大きな、重要な、稀有な働きをしても、贖いは、救いは、赦しは「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって」のみなのです。

【適応】

クリスマスの時期、礼拝では、御子キリスト・イエス様のご降誕が説教され、祝会では、御子キリスト・イエス様のお誕生が祝われますが、「神の御霊」のお働きを忘れてはならず、蔑ろにしてはなりません。

御子キリスト・イエス様の十字架による、贖罪のお働きは、私たちの罪を完全に贖いますが、「心で信じて、口で告白して」救われるのであり、信じるための導き、告白するための助けに於ける、「神の御霊」のお働きは比類のない重大、重要なお働きなのです。

「神の国を相続する者」となるためには、「神の御霊」のお働きは必要不可欠であり、もっともっと「神の御霊」のお働きを評価しなければならず、讃えなければなりません。

唯一真の神様のご計画、御子キリスト・イエス様の贖罪のお働き、「神の御霊」の直接的な、継続的なお働き、この三つが揃って、私たち罪人を「神の国を相続する者」とするのです。

畏れ多くて近付き難い、唯一真の神様であり、身近な御子キリスト・イエス様にスポットが当たり、どうしても日陰の存在になりがちな「神の御霊」ですが、御子キリスト・イエス様のご降誕を祝いつつ、「神の御霊」を再確認したいと思います。

「神の国を相続する者」とは、礼拝厳守で得られるのではなく、奉仕の多寡、質で得られるのでもなく、品行方正だったか、慈善を行なったか、多くの犠牲を払ったか、で得られるのでもなく、唯一真の神様のご計画、御子キリスト・イエス様の贖罪のお働き、「神の御霊」の直接的な、継続的なお働きによるのです。

最後に、9節後半、10節と「神の国を相続する者」の関係について考えたいと思います。

9節後半、10節の宣言は、「神の国を相続する者」の条件を述べていますが、誰でも、唯一真の神様のご計画、御子キリスト・イエス様の贖罪のお働き、「神の御霊」の直接的な、継続的なお働きによって「神の国を相続する」、と矛盾するではないか、です。

その答えは、マタイの福音書624節、201710ページ、第三版10ページに示されています。だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神にと富とに仕えることはできません」です。

ここで「富」を「この世」の意味で理解し、この世では普通に行なわれ、誰も気にも留めない事、即ち「淫らな行い、偶像を拝む、姦淫をする、男娼となる、男色をする、盗む、貪欲、酒におぼれる、そしる、奪い取る」と、理解するとはっきりします。

9節後半、10節の宣言の言わんとするところは、単純に「淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」が「神の国を相続」出来ない、と云う事なのではなく、二心の者、即ち、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を信じ、仕えると宣言し、それらしく振る舞いながら、陰に隠れて、この世にもどっぷり浸かり、それを何とも思わないどころか、積極的に「淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者」たちが、「神の国を相続」出来るはずがないのは、説明するまでもない事なのではないでしょうか。

人間には、罪の性質があるので、「淫らな行い、偶像を拝む、姦淫をする、男娼となる、男色をする、盗む、貪欲、酒におぼれる、そしる、奪い取る」から、完全に縁を切る事は不可能ですが、御子キリスト・イエス様の執り成しと、神の御霊の助けを受けて、離れる事は出来るはずです。

離れれば、離れる事が苦ではなくなり、離れている事が普通になります。

禁酒、禁煙は、当初はとても辛いそうですが、それは、アルコールやニコチンが身体に残っているからであり、脳がアルコールやニコチンの快感を覚えて、強く欲するからだそうです。

しかし、時間が経てば、禁酒、禁煙の辛さは薄らぎ、禁酒、禁煙している事を忘れてしまうそうです。

淫らな行い、偶像を拝む、姦淫をする、男娼となる、男色をする、盗む、貪欲、酒におぼれる、そしる、奪い取る」から、離れたいと強く願う事と、実際に離れる事が大切であり、その時、御子キリスト・イエス様の執り成しと、神の御霊の助けを受けて、離れる事は出来るはずです。

しかし、残念な事に、コリント教会では、二心の者が二心のままでいる事に何の疑問も感じず、「淫らな行い、偶像を拝む、姦淫をする、男娼となる、男色をする、盗む、貪欲、酒におぼれる、そしる、奪い取る」生活にどっぷり浸かっていたのです。

そして、更に残念な事に、二心の者はコリント教会のみならず、各地の、各時代の教会にもいるのです。

二心のままで、「神の国を相続する」事は出来ません。

御子キリスト・イエス様のご降誕を祝うとは、お祭り騒ぎをする事ではなく、「淫らな行い、偶像を拝む、姦淫をする、男娼となる、男色をする、盗む、貪欲、酒におぼれる、そしる、奪い取る」生活から離れる事です。

もう少し砕いて言うと、自分のしたい事をするのではなく、自分の考えややり方を押し通すのでもなく、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、神の御霊のお考え、ご計画に従う事です。

教会の伝統や働き、先代の方針を継承するのではなく、常に、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、神の御霊の御旨を第一とする事です。

時には、教会の伝統や働き、先代の方針と反するかも知れませんが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、神の御霊に従うのが、教会であり、キリスト者です。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、神の御霊に従い、「神の国を相続する者」として歩み続けたいものです。

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                              2020-12-13礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一61節~8

説教題:「教会内の争い」

【導入】

どんな組織にも問題はあります。

表面立っているか、いないかは別として、重大な問題か、影響の大きな問題か、然程(さほど)ではないかどうか別として、問題は必ずあります。

問題のない組織はありません。

教会も問題を抱える、内在する組織の一つです。

コリント教会に起こった問題は、「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」たちが、問題を起こしていた訳ですが、その問題は、聖い教会に相応しくない問題であり、何としてでも、大きな犠牲を払ってでも、対処しなければならない問題でしたが、自分たちに類が及ぶのを恐れてか、見て見ぬ振りをし、積極的な対応をしなかったばかりか、パウロの指示に対して、反感、反発を覚えて、意識的に無視し続けて来たのです。

兄弟と呼ばれる者」の「淫らな、貪欲な、偶像を拝む、人をそしる、酒におぼれる、奪い取る」言動は、教会を蝕みます。

のみならず、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現すと云う、教会の使命に反する言動であり、断じて容認してはならないのです。

どんな犠牲を払っても、教会が分裂、解散に至っても、悪しきを取り除かなければならないのです。

自分たちだけでの対応、対処が難しければ、信頼出来るパウロを招いてでも、アポロを招いてでも、ケファを招いてでも、エルサレムから長老を招いてでも、必要な知恵と力を結集し、対応、対処しなければならないのです。

その大切な対応、すべき処置はそっちのけで、血眼になって、口角泡を飛ばして、罵り合っている問題がありました。

【本論】

新改訳2017版 6:1 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。

コリント教会の信徒同士、仲間同士に、何か問題が起こっていたようです。

その問題とは、金銭問題なのか、商売上の問題なのか、名誉の問題なのか、何かしらの権利の問題なのか、聖書に記述はなく、知る術がありませんが、争いがあり、訴訟にまで発展し、お互いを訴え合っていたと云うのです。

しかも、訴えを教会の外に持ち出し、教会に関係ない人々に裁定を依頼したと云うではありませんか。

正しくない人たち」とは、唯一真の神様との関係に於いてであり、決して淫らな、貪欲な、偶像を拝む、人をそしる、酒におぼれる、奪い取る」人々、或いは、不正を行なう人々、犯罪者たちの意味ではありません。

公的な司法担当者、裁判官に訴え出たのであり、パウロは、司法担当者、裁判官は、この世の法律に詳しく、経験もあり、正しい裁定を下せるではあろうが、何故、未信者に依頼するのか、未信者の知恵と力を借りなければ対処、処置出来ないほどに、あなた方は力がないのか、とパウロは問い掛けているのです。

兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」たちの言動を、黙認し、不問に付し、取るべき処置を放置しながら、金銭争い、利権争いとなると、激しく訴え合っている現状を憂い、指摘しているのです。

自分の権利は強く主張し、司法に訴えてでも、自分の権利を守る事に必死になりながら、教会の聖さを守る事に関しては、無頓着で、全く関心を示さない人々に対する憂いであるのです。

このパウロの指摘の背景には、当時の社会の司法制度を知る必要がありましょう。

当時、ギリシャ、ローマ世界には、公的な司法機関があり、裁判官が裁定を下していましたが、公的な司法機関、裁判所で扱うのは、主に、強盗、殺人、悪質な犯罪であるとか、政府に対する反乱、謀反などの問題であり、それ以外は、即ち、宗教上の問題、民族独自の規律、戒律に関する問題、そして民事は、民族毎に、コミュニティー毎に、自主的な司法機関を持ち、自分たちの問題は自分たちで裁いていました。

使徒の働き1811節、2017版は272ページ、第三版は265ページ、パウロは、一年六ヶ月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

18:12 ところが、ガリオがアカイヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちは一斉にパウロに反抗して立ち上がり、彼を法廷に引いて行って、

18:13 「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています。」と言った。

18:14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、

18:15ことばや名称やあなたがたの律法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」

ここでガリオは「不正な行為や悪質な犯罪のことであれば」と範囲を示していますが、これは「自分たちで裁きかねることであれば」の意味で理解するのが、妥当でしょう。

ローマ政府は、自治、自主を尊重したのであり、「自分たちで解決する」事を奨励していたのです。

パウロは、決してギリシャ、ローマの司法制度を否定しているのでも、司直を信用していないのでもありません。

ユダヤ人には、「サンヘドリン」があり、祭司長や長老、律法学者やパリサイ人らが、裁定を下していたのです。

民族共同体、信仰共同体であるユダヤ人から分かれた新興組織である教会も、自主的な司法機関を運用していたのであり、この背景の中で、唯一真の神様の恵みに与っているキリスト者は、尚一層、話し合いで、或いは、仲間内からの調停者、仲裁者を介して、解決の道を模索し、自分たちで解決すべきなのです。

6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。

キリスト者は、世の審判者である御子キリスト・イエス様に結ばれた者として、教会を通して、「世界をさばくようになる」のです。

コリント教会の人々は、知恵を誇って来ましたが、こんな基本的な、教会の持つ権能の事を、「あなたがたは知らないのですか」、と問い詰め、「世界をさばく」者とされているのに、「ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか」、と問い詰め、「世界をさばく」者とされているのに、この世に属する司直に願い出て、俗権である裁判官に委ねるのは、おかしいと思わないのですか、愚かな行為だとは思わないのですか、教会の自立と自主を見失っているではないのか、と問い詰めます。

ローマ政府に、「ごく小さな事件さえもさばく力がない」と判定されたならば、「サンヘドリン」は解体され、ユダヤ民族から自主は取り上げられてしまうでしょう。

そうなれば、ユダヤ人は隷属の身分となり、誇りは地に落ち、唯一真の神様の栄光を現す事は難しくなってしまいます。

6:3 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。

キリスト者は「世界をさばく」のみならず、「御使いたちをさばくようになります」。

御使いたち」は、唯一真の神様に対して、忠実無比です。

何の欠点も過失も、手抜きも自己判断も、怠惰も怠慢もありません。

その優秀な御使いたちを、キリスト者は「さばくようになります」。

そうであるならば、「日常の事柄は言うまでもないではありませんか」、と問い詰めます。

2節では「世界」と「ごく小さな事件」の対比。

3節では「御使いたち」と「日常の事柄」が対比されています。

キリスト者の優位性が、如何に比類のないものであるかが語られているのです。

6:4 それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。

教会の中で軽んじられている人たち」は、1節の「正しくない人たち」や、6節「信者でない人たち」と、同じ意味です。

教会の中で軽んじられている人たち」は、キリスト者の意味ではなく、求道者、教会に出入している者、程度の意味であり、教会が求道者を軽く見ているとか、軽蔑しているとか、差別している、の意味ではありません。

この世に属している人々、この世の影響を強く受けている人々を「裁判官に選ぶの」は、賢明な判断なのですか、教会に相応しい事ですか、と問い詰め、この世の事は、この世の司法制度、この世の司直、裁判官に処理させれば十分だ、と皮肉り、教会の事は、自分たちで処理すべきではないか、と問い詰めるのです。

6:5 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。

あなたがたを恥じ入らせるため」とは、随分と辛辣(しんらつ)な言葉ですが、パウロの並々ならぬ深い悲しみからの憤怒を表現した言葉です。

コリント教会が遅々として成長せず、世俗の人々と変わらぬ姿を見ては、しかも、悪びれもせず、自己主張をし、相手を訴え合う姿を見ては、がっかりもし、悲しみと怒りとが込み上げてくるのは当然でしょう。

コリント教会の人々は、知恵や人徳、社会的地位などを誇っていました。

であるなら、「兄弟の間を仲裁すること」は、容易(たやす)い事、造作も無い事であるはずです。

それなのに、この世に属する司直に訴え出て、俗権である裁判官に委ねるとは、何とも情けなさを感じたのでは、残念を通り越して、悲しみ、怒りが込み上げるのは当然なのではないでしょうか。

コリント教会には、問題が起こった時に、仲裁に立つ人がおらず、また、仲裁を頼める人もいなかったのでしょう。

平時は薀蓄(うんちく)をひけらかし、学歴を誇り、人徳を吹聴しても、いざと云う時には、意見を纏める事も、調整する事も出来ない人ばかり。

それが、コリント教会の実情だったのです。

意見は出すけれど、言いたい事は言うけれど、我は通すけれど、纏める人が、調整する人が一人もいない、とは、何とも情けない、悲しい事ではないでしょうか。

結果、司直に訴え出る事になる訳ですが、教会に「裁判」は相応しくありません。

裁判沙汰にするのではなく、穏便な仲裁によって、問題解決を図るべきであり、教会が、本来の姿に目覚めるよう、心から願って、苦言を呈するのです。

パウロは、コリント教会の実態を、包み隠さず吐露しますが、これは、コリント教会の実情を知ってもらうためであり、改善に向うための手順です。

6:6 それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。

信者でない人たち」とは、1節「正しくない人たち」や、4節「軽んじられている人たち」と同じ意味であり、未信者を差別、侮蔑、軽蔑する意味は微塵もありません。

最初に申し上げましたが、どんな組織でも問題があり、教会にも揉め事が起こる事は、自然な事であり、あり得べからざる事ではありません。

しかし、おおっぴらに告訴しあうのは、賢明な事ではありません。

問題を隠す必要はなく、問題が起こった事を隠す必要もなく、仲良しを装い、和気藹々を演出する必要も、如何にも問題がなさそうに取り繕う必要もありませんが、然るべき場所で、然るべき人たちとで問題解決に当たる事は、非常に有益です。

教会に隠し事は相応しくはありませんが、何でもかんでも大っぴらが、正しい事とは限りません。

悪い事は勿論の事、譬え良い事の部類の事でも、微妙な問題は、個人的な問題は、個人の尊厳に関わる問題は、関係者だけに留めるのが、賢明です。

特に、宣教者、牧師などの教職者、また長老、役員、執事などは、多くの情報を知り得る立場にありますが、守秘義務もありますから、会議などで得た情報は、正式な公開前に洩らしては、断じてなりません。

人間、得た情報は、洩らしたくなり、他人の知らない情報を、いち早く知りたがりますが、漏洩は厳に慎まなければなりません。

関係者のみで協議し、仲裁し、和解に至らせ、然るべき時期に、然るべき方法で公開するのが、教会の秩序です。

当教会では、役員会での審議、決議は、役員会での承認を経てから、公開する手順であり、善意から出たものであろうと、良かれと思ってであろうと、漏洩は悪であり、厳禁です。

一度洩れてしまったら、取り返しがつきません。責任を取れません。

洩らさない事こそが重要なのです。

6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。

教会の裁きの権能は、白黒つける事ではなく、和解のお勧めであり、調和の推進です。

問題に対して、教会が採るべき対応は、話し合いの場を設ける事であり、和解の道に着かせる事です。

当事者は、教会に訴え出るのではなく、相談を持ち掛ける意識であり、教会は、三者での面談、相談を通して、和解に導くお手伝いをする、でしょう。

それは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現し、教会の栄光を現す事になるからです。

互いに訴え合うこと」が「敗北」の意味は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の赦しを受け、交わりに入れられた兄弟同士が訴えあう事は、赦しの意味、交わりの意味を、理解していないからであり、自分自身に適応してないからです。

知識の上での理解であり、行動に、生き方に生かしていないからです。

相手が赦すなら、こちらも赦す、ではありません。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の赦しを受けた私であり、相手だから、どんな理由が介在しても、相手を赦すのです。

否、赦さざるを得ないのです。

マタイの福音書1823節、2017版は37ページ、第三版は37ページ、「18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。

18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。

18:25彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。

18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてをお返しします。』と言った。

18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。

18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。

18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。

18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。

18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。

18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

商業都市コリントでは、未払いや借金の踏み倒しは、日常茶飯事であった事でしょう。

教会内に、お金を貸した相手を見つけて、これ幸いと、これは、神様の導きに違いないと勝手な解釈をし、司法に、裁判所に訴え出たのでしょうが、憐れみ、赦しを実践するチャンスではなかったのではないでしょうか。

マタイの福音書539節、2017版は8ページ、第三版は8ページ、「5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背をむけてはいけません」。

借金相手から逃げ出すのではなく、訴え合うのでもなく、お互いが、憐れみ合う事、赦しあう事を、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は願い、期待しておられるのです。

6:8それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。

裁判、訴訟の本来の目的は公正を求める事であり、不正や攻撃から身を守り、不利益を被らないようにする事です。

正しい裁判、訴訟であるならまだしも、一方の手で公正を求めつつ、もう片方の手で「不正を行い、だまし取って」おり、しかも、不正を行い、騙し取る手段として、裁判、訴訟を悪用しているとは、言語道断なのではないでしょうか。

更には、「兄弟たちに対して」これらを行っているのであり、パウロの無念さ、悲しさ、そして怒りは頂点に達しますが、何より、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様が悲しまれているのです。

【適応】

教会を聖く保つ事は、教会の使命に直結する事です。

聖くない教会が、汚れた教会が、正しくない教会が、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事は出来ません。

教会を聖く保つために、教会の正しさを維持するために裁判、訴訟に至る事も、致し方がない場合もあるでしょう。

しかし、司直に訴え出るのではなく、教会内で、話し合いで解決する事こそ、キリスト者の、不正などに対する対応なのです。

しかも、正しさは、自分の正しさではなく、自分が考える正しさではなく、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対しての正しさ、教会に対する正しさ、聖書に対する正しさを基準にしなければなりません。

自分の正しさを主張したなら、相手も自分の正しさを主張し、平行線で終わる事でしょう。

マタイの福音書1823節、マタイの福音書539節の教えを基準に、赦しを実践し、相手を赦し、敵をも赦し、赦しを実践するのみならず、相手、敵を受け入れてこそ、実を結ぶ話し合いになるのです。

教会内の争いを解決するのは、話し合いではなく、「赦し」です。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に赦された者、愛されている者、受け入れられている者として、争い相手を赦し、愛し、受け入れるのです。

形ばかりの赦し、愛、受け入れであってはなりません。

何度損害を被っても、裏切られても、赦し、愛し、受け入れるのです。

御国、天国に入るのは、非常に難しい事ですが、心から赦し、愛し、受け入れるなら、御国、天国は、あなたを受け入れてくれるのです。

「赦し」こそ「福音」であり、「恵み」なのです。

「赦し」の拒絶は、「福音」や「恵み」の拒絶なのです。

その先には、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様による裁きが待っています。

しかし、赦し、愛し、受け入れる事は、罪人である私には、非常に難しい事ですが、

聖霊様の内住と、御子キリスト・イエス様の執り成しによって可能です。

教会に所属しているという事は、「恵みとしての赦し」を実践するという事であり、教会で「恵みとしての赦し」が行なわれているなら、教会が、キリスト者が、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様と共に歩んでいる事の証拠であり、キリスト者と断言出来ます。

あなたには、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様と、聖書の教えを基準にした「赦し」の実践が求められています。

あなたは、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の赦しをその身に受けているからです。

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                              2020-12-6礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一5章9節から13節

説教題:「恵みとしての裁き」

【導入】

パウロは、コリント教会に起こった問題を取り上げて、非常に厳しい叱責を交えて語り続けていますが、コリント教会が憎くて、或いは、問題ばかり起こすので、嫌気が差して、過激な言葉を発しているのではありません。

本当に良いところも沢山あるのに、良さが発揮されず、コリント教会の一部の人の、キリスト者として相応しからぬ言動を起因とする悪い話が多く伝えられて来ているので、真偽を確かめ、必要な指示を与えるためにテモテを遣わし、パウロ自身も訪問する気持ちでいる事を伝えます。

テモテを遣わし、自身の訪問も考えているのは、コリント教会が大切な教会であると同時に、パウロの責任、福音宣教者、伝道者、教職者の務めであるから、責任であるからです。

好き勝手な事をして滅びるのは、自己責任だ。

この世では一般的に受け入れられている考えですが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のお考えは、前段階があります。

即ち、度々、再三注意しても、悔い改めずにいるなら、止むを得ず戒規を執行しても、悔い改めずにいるなら、滅びるのも、致し方ない・・・です。

この世では、同じ事を繰り返したならば、そう何度も赦される事はありませんが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のお考えは、同じ事を何度繰り返しても、心底から悔い改めるなら、何度でも赦すのであり、仏の顔は三度まで、と申しますが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様は無限に赦してくださるのです。

何度でも、何時でもやり直させるのが、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様のお考えです。

何度でも、何時でもやり直させるために、福音宣教者、伝道者、教職者が遣わされ、教会に常駐し、信徒を教え導き続け、霊的状態を常に見守り、必要に応じて対処するのです。

パウロはコリント教会の事を気に掛け続け、手紙を通して、忍耐強く教え続けて来たのです。

パウロのコリント教会への対応は、この手紙以前にもなされているのですが、手紙では、ニュアンスが充分伝わらない事があり、誤解や曲解が生じる事もあり、パウロは、誤解、曲解があったと想定し、真意を伝えるべく、手紙を書き進めます。

【本論】

新改訳2017版 5:9 私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。

前の」と記されていますが、原文には、「前の」を意味する単語はありません。

パウロが以前に、コリント教会に宛てた手紙を書いた事を知らせるために、思い出させるために、「前の」を付加した訳ですが、必要な、意味ある付加です。

情報伝達の手段には、手紙、伝言などがありますが、パウロが、コリント教会に宛てた命令は、人伝(ひとづて)ではなく、手紙でした、と断っているのは重要な事です。

情報は、出所と、内容が重要です。

現在、ネット上には、出所のはっきりしない情報が溢れています。

信頼出来ない情報の拡散に加担すると、思わぬ社会的責任、法的処罰を受けかねませんから、情報を利用、拡散する時には、信頼出来る情報か否かを確認しなければなりません。

重要な判断に、間違った情報を利用したなら、取り返しの付かない事になりますから、情報の信頼度を確認する事に手を抜いてはなりません。

パウロが、「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と伝えたのは、コリント教会に宛てた[手紙」であり、その手紙は「」が書いた、と明言しているのです。

パウロは、他の人の働きに口を出しているのではなく、補足説明を試みようとしているのでもなく、コリント教会の一部の人々は、パウロの言葉を誤解、曲解していますが、私が差出人であり、私が命令を発したのだから、それについて説明する権利がある、責任がある、と、自分の言動に、責任を持って対応している事を明らかにしているのです。

コリントの町は、交通の要衝であり、非常に栄えていた都市ですが、繁華街、俗に云う夜の町も繁盛していて、道徳的には非常に問題のある都市でした。

コリントの町そのものが、「淫らな行いをする者たち」で溢れていた、と言っても過言ではないような状態だったのですから、パウロが「淫らな行いをする者たちと付き合わないように」と書き送って来た事に対して、コリント教会の一部の人々は、大いに反感、反発を覚えたのではないでしょうか。

そして、コリントの町の、全ての人々との交際の一切を禁じた言葉として受け止め、それは現実的ではない、無理、と一蹴し、実行不可能な命令として、無視してしまって来たのです。

人間は、自分の都合に合わせた解釈をします。

ですから、聖書、特に旧約聖書は、細かく、きっちりとした規定を設け、何が駄目なのか、どれが良いのかを明確にし、推測の部分を極力なくし、勝手な解釈、都合に合わせた解釈をしないようにしているのです。

説教も、牧会も基本は細かく、きっちりと、です。

どうにでも取れるような、曖昧な表現は、説教に、相応しくはありません。

駄目ははっきり駄目と、すべきははっきりこれですと、断言しなければなりません。

それでも強権的に、強制的にならないような配慮が必要である事は云うまでもありません。

コリントの町は、「淫らな行いをする者たち」で溢れていましたが、100%ではなかったはずです。

淫らな行いを悲しんでいる人々も、少数でもいたはずです。

付き合わないように」と書き送って来ましたが、一切の付き合いを禁じている訳でも、挨拶の言葉を交わしてもいけない、と書き送って来た訳でもありません。

しかし、コリント教会の一部の人々は、パウロの命令を、意図的に、大げさに曲解し、10節に記されているような解釈をし、自分たちが淫らな行いから離れられない事を隠すために、近所付き合いは生活の一部であり、欠かせない、との言い訳を理由に、実行不可能な命令として、無視し続けて来たのです

5:10 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。

パウロは、コリント教会の一部の人々の、パウロに対する非難の言葉を、そのまま引用し、コリント教会の一部の人々の誤解、曲解の間違いを正す切り口とします。

コリント教会の一部の人々は、パウロが、「この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないように」と言った、と非難しますが、パウロがコリント教会の人々に命じたのは、9節の言葉であり、10節ではありません。

それは手紙を見ればはっきりする事です。

パウロを非難するコリント教会の一部の人々は、パウロが言いもしない事、「貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者」を付け加え、「いっさい付き合わないように」との、大げさな表現をしますが、悪意を持つ人の常套手段です。

パウロの書き記した言葉を削り、真意を捻じ曲げ、パウロが書き記しもしない言葉を書き加え、人々の反感を煽るような作文をするのです。

昨今のニュースで、一連の発言の一部を切り取り、悪意ある繋ぎ方をして、発言者を攻撃する場面を見受けますが、語る者として注意したいところです。

パウロの、9節の記述の真意は、「この世から出て行」く事ではありません。

5:11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。

パウロの記した9節の真意は、「この世から出て行」く事ではなく、教会の中に、「兄弟と呼ばれる者」に、即ち、信仰を告白した者の中に、「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」、即ち、信仰を否定しているような言動を取る者がいないようにしなさい、です。

付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」は、教会の交わりからの追放であり、非常に厳しい処置と言わざるを得ません。

食事」は、非常に日常的な事であり、初代教会では非常に重要視されていた行為です。

愛の交わりの、具体的な現われであり、それを禁じるのは余程の事ですが、教会の責務であり、責務の正しい執行の徹底を、強く命じているのです。

教会の聖さを守るためであり、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事に直結しているからです。

淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」は、この世では、特殊な事ではなく、特にコリントのような町では大した問題ではないでしょうが、「兄弟と呼ばれる者」の間では、厳しく問われなければならない事です。

唯一真の神様の恵み、御子キリスト・イエス様の贖いに与った者は、「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」となってはならず、「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」と「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」のです。

これは、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様、他者、自分に対する責任です。

兄弟と呼ばれる者」は、言動が問われます。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を侮ってはならず、他者を躓かせてはならず、自身が躓いてもならないのです。

5:12 外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。

外部の人たち」とは、未信者の事であり、未信者の言動に付いては、唯一真の神様が「さばき」ます。

教会の権能としてのさばきは、「内部の人たち」、即ち、信者に対して、キリスト者に対して、信仰を告白した者に対してであり、適格なさばきを執行して、教会の聖さを保たなければ、維持しなければならないのです。

ここで、再度確認しますが、さばきは、処罰ではありません。

さばき」は、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に対して、相応しいか、眉を顰めるような事かを判断し、明確にし、悔い改めに導くプロセスの一環です。

さばき」との表現には、厳しさ、冷たさを強く感じましょうが、実は、「さばき」を通して悔い改めに導かれるのであり、「恵み」の一形態なのです。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に相応しい事か否か、正しい事か否かは、教えられなければ分かりません。

悪いと分かっていても、止められない場合もありましょう。

そんな時、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の御旨はこれです、と教えられれば、「駄目です」と教えられれば、決断のきっかけになるでしょう。

この意味でも「さばき」は、処分ではなく、導きであり、恵みなのです。

そして、「外部の人たち」、未信者はさばき」を受けられず、「淫らな行い」、放縦の生活を歩むに任されている事自体が、何より恐ろしい「さばき」なのです。

5:13 外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」

あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」は、申命記177節、2017版は346ページ、第三版は334ページ、1919節、2017版は350ページ、第三版は338ページ、2224節、2017版は354ページ、第三版は343ページ、からの引用です。

17章では、「偶像礼拝」を扱っており、19章では、「偽りの証言」を扱っており、22章では、「淫らな行い」を扱っています。

申命記の「除き去りなさい」の意味するところは、「石打ちの刑に処しなさい」「殺しなさい」の意味ですが、新約に於いては、「追放、除名」の意味です。

しかし、単純な「追放、除名」の意味ではありません。

教会の交わりからの「追放、除名」は、唯一真の神様との交わりを絶たれる事であり、「御国、新しいエルサレム」に入る権利の喪失を意味しますから、キリスト者にとっては重要な意味を持つ事なのです。

古の時代、モーセはイスラエルの民の中から、偶像礼拝者、偽証を行なう者、姦淫を行なう者を取り除く事に躊躇せず、厳格に執行し、与えられた責任を果し続けて来たように、現代、教会も、新しいイスラエルの民の群れである教会に与えられた恵みに対する応答として、教会の中から、偶像礼拝者、偽証を行なう者、姦淫を行なう者を取り除く事に躊躇せず、厳格に執行し、与えられた責任を果し続けなければならないのです。

【適応】

教会を聖く保つ事は、教会の使命に直結する事です。

聖くない教会が、汚れた教会が、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事は出来ません、

淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」が、熱心に、継続的に、多くの犠牲を払っても、何の意味もないどころの話ではありません。

キリスト者になるとは、古い自分を捨てる、新しくキリストを着る、聖霊に、自我の座を明け渡す、と云う事です。

それなのに、古い自分のままでいて、自我に固執していたならば、どんなに熱心に、継続的に、多くの犠牲を払っても、何の意味もありません。

淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」であり続けるならば、世の人々は、教会を、キリスト者を、この世の人々と変わらぬ群れ、否、やっている事はこの世の人と同じか、それ以下なのに、何が聖くされている群れだ、この世から取り分けられているとの戯言(たわごと)を言っている、偽善者の群れとして、高慢な人々として、見るのではないでしょうか。

相手にもしてもらえず、孤立するほかありませんが、孤立を、世の中から取り分けられた聖さの現われ、と誤解するような結果になるのではないでしょうか。

淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」と「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」にとどまらず、キリスト者は、自らを聖く保ち、「淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者」に警告を与え続けなければなりません。

エゼキエル書317節、2017版は1417ページ、第三版は1362ページ、「3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

3:20 また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:21 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」

教会の使命は、警告を与える事であり、正しい者が正しく生き続け、悪い者が悔い改めて正しく生きるようにする事です。

自分のいのちを救う事であり、何より、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の栄光を現す事です。

さばき」は警告、悔い改めの促しと理解する事が有益です。

警告、悔い改めの促しは、「福音」であり、「恵み」なのです。

警告、悔い改めの促しの拒絶は、「福音」や「恵み」の拒絶なのです。

その先には、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様による裁きが待っています。

教会に所属しているという事は、「恵みとしての裁き」に与っているという事であり、警告、悔い改めの促しは、喜ばしい事なのです。

教会で「さばき」が正しく行なわれているなら、「さばき」が警告、悔い改めの促しとして正しく機能しているなら、教会が、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様と共に歩んでいる事の証拠であり、健全な教会と断言出来ます。

聖書の教えを基準にした「さばき」が行なわれている教会こそ、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様の「恵み」溢れる教会なのです。

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