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                                                                  2020-2-23礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙41節~6

説教題:「召された者の歩み」

【導入】

この世界には、多くの人種がおり、多くの国、数多の宗教、多種多様な主義主張があり、てんでんばらばら、好き勝手に歩んでいますが、全て、創造者にして支配者なる、唯一真の神様が造られた人種です。

滅びても良い人種は、消滅しても良い国などは一つもありません。

今、エペソ人への手紙から学んでいますが、ユダヤ人とは縁もゆかりもないエペソ人です。

しかし、創造者にして支配者なる、唯一真の神様にとっては、縁もゆかりもあるエペソ人です。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、最初にユダヤ人を選び、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に従う生き方を示しましたが、ユダヤ人だけが知っていれば済む話では、ユダヤ人だけが従えば良い話でもありません。

ユダヤ人を用いて、世界中の人々に、この生き方を伝えるのが、創造者にして支配者なる、唯一真の神様のご計画です。

そのためにユダヤ人、パウロが選ばれ、中東、パレスチナに、文化の中心地ギリシャ、政治の中心地ローマなどに遣わされ、ユダヤ人以外に、ユダヤ人から見た外国人に、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に従う生き方を教えたのです。

パウロの手紙の特徴は、最初に理論を記し、続いて実践を記す事です。

このエペソ人への手紙も、3章までは、やや、抽象的な内容でしたが、4章からは、実践について記されていますので、神の家族とされた者の生き方、召された者の歩みについて考えてみましょう。

【本論】

新改訳2017版 4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

パウロの自己紹介は、状況に合わせた適切な自己紹介です。

このエペソ人への手紙の冒頭では「キリスト・イエスの使徒」と記し、権威を明らかにする表現をし、31節では「キリスト・イエスの囚人」と記し、置かれた状況を示唆する表現をしています。

この41節では「主にある囚人」と記し、自身がキリスト・イエスを主と仰ぎ、自らその僕として主の命令に服し、歩む覚悟と姿勢を示す表現をしています。

パウロは決意や覚悟だけでなく、自身の生き様をも合わせて示す事で、お勧めに説得力が増す事を意識した事でしょう。

しかしです。

パウロのように、決意や覚悟の通りに生きられれば、説得力も増すでしょうが、決意や覚悟の通りには行かないのが、罪を持つ身の弱さであり、私たちですが、決意や覚悟の実現を目指す生き方は、常に持ち続けなければなりません。

失敗は付き物ですが、失敗が問題なのではなく、失敗を仕方がない、と考えるのが問題です。

仕方がなかった、との考え方には、反省はなく、進展もありません。

何が原因で失敗したのかを吟味、検証する事、考察し、繰り返さない決意こそが、主の僕として主の命令に服し、生きる秘訣です。

失敗をいい加減にしない姿勢、生き様は、指導者が持つべき資質、素養の一つでしょう。

パウロのような偉大な指導者は、極、希です。

立派な、失敗しない指導者は、それはそれで必要ですが、失敗しない指導者はいません。

失敗を恐れずに、失敗を吟味、検証、考察する姿勢こそ、良い指導者の証しでしょう。

失敗を隠さず、失敗を糧とする指導者こそ、良き模範なのであり、有益なのではないでしょうか。

召されたその召し」とは、特定の任務への召命ではありません。

召されたその召し」とは、救われた事、救いへ導かれた事であり、救いに与った者に相応しく、また、新しい共同体に招き入れられた者に相応しく、教会の形成へと召された者に相応しく、の意味であり、救われた者、全てです。

私たちは、救われる事をゴールと考える傾向がありますが、救われる事はゴールではありません。

新しい生き方、主の僕として主の命令に服し、歩む生き方のスタートです。

救われた者に相応しい徳目は何でしょうか。

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、

第一に「謙遜」です。

この「謙遜」と訳されているギリシャ語は、「謙虚な・謙った」と云う意味のギリシャ語と、「心」と云う意味のギリシャ語との合成語です。

即ち、心根が大事であり、心の伴わない「謙虚な・謙った」態度を奨励しているではないのです。

マタイの福音書5章に七つの徳目が説かれています。

このマタイの福音書5章は「山上の垂訓」と呼ばれていますが、パウロは、23節を記すに当たって、山上の垂訓を思い浮かべたのではないでしょうか。

その七つの徳目の一つに「柔和な者」が挙げられていますが、脚注には「謙った者」と記されています。

謙遜」と「柔和」は同義語的であり、全ての徳目の土台です。

世の中には、謙遜そうに見える人、柔和そうな人は沢山いますが、謙遜を演じている人も、柔和を演じている人も沢山いますが、本当に謙遜な人は、柔和な人は、ほんの一握りなのではないでしょうか。

救われた人に、傲慢な人や、慇懃無礼な人は、いないのでしょうか。

プライドの高い人、我の強い人、負けん気の強い人、悔しさを押さえられない人は、いないのでしょうか。

決してそうではありません。

救われても、罪の性質は持っており、残っています。

それを認め、「謙遜」と「柔和」を獲得するよう、常に祈り続けなければならないのです。

誰に対しても、どんな状況でも、謙遜たれ、柔和たれ、であり、それは、人は先ず、傲慢が正されなければ、和らいだ対応はなし得ず、忍耐を教えられても無駄であろうし、温厚柔和を説かれても、徒労に終わるしかないからなのです。

寛容」と訳されているギリシャ語は、「長い」と云う意味のギリシャ語と、「心」と云う意味のギリシャ語との合成語です。

ここでも「心」がキーになっているのであり、心に、聖霊、御子イエス様の内住がなければ、為し得ない事なのです。

忍び」と訳されているギリシャ語は、「棚上げにする」の意味のギリシャ語であり、「もう問題にしない、蒸し返さない」の意味で理解すると良いでしょう。

世の中に、受けた恨みは忘れない、と云う執念深い人が、折に触れて問題を蒸し返す人がいますが、聖霊、御子イエス様に助けていただいて、2節を実践したいものです。

4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。

2節の「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び」と共に、「結ばれ」る事も、「一致」する事も、「」つ事も、人間の努力や熱心、熱意ではなく、「御霊」によらなければならません。

人間の努力も熱心も、熱意も継続するのは至難の業であり、何時しか挫折、破綻します。

2節、3節の実践、継続の秘訣は、御子キリスト・イエス様の内住であり、聖霊の助けのみです。

結び付けるのは「御霊による」「平和の絆で」であり、人間的な親愛の情や温情、博愛主義や犠牲的精神ではありません。

考え方や利害の一致でもなく、妥協や譲歩の産物でもありません。

御子キリスト・イエス様が、この世にもたらした「平和の絆で結ばれて」、御霊によって成し遂げられた「一致」を、内住する「御霊」の力、助けで、「熱心に保」つのです。

ここに、人間的な力は一切不要です。

だからといって、何の努力も願いも不要なのではありません。

御子キリスト・イエス様に住んでいただく事と、聖霊の助けを願い、祈り続けるのであり、御子キリスト・イエス様が、その願い、祈りに答えてくださらない訳はないのです。

4:4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様のご計画、主権、一方的な選びによってあなたがたが召された」のであり、「召し」た理由は、御子キリスト・イエス様にあって一つにするためです。

個々人の個性や特徴は活かされつつ、集合体として一つのからだ、教会になります。

そこに、齟齬や軋轢、不協和や反目はありません、起こりません。

御子キリスト・イエス様に住んでおり、御霊による結び付け、御霊の助け、御霊の守りがあるからです。

あらゆる物質は、科学的にも構造的にも大きな違いを持っていますが、原子、電子、素粒子のレベルになると、非常に単純な構造になり、硬い金属、ダイヤモンドなどでも、内部では絶えず自由に動き回り、目まぐるしく変化しています。

教会も似ているようです。

御子キリスト・イエス様に属する全ての者が、個性や特徴を活かし、自由に動きつつ、御霊によって、一つにまとまり、教会を形成するという、神秘的集合体なのです。

教会は、信仰共同体であり、時代、地域を越えた普遍的存在なのです。

個々人の個性や特徴が活かされるように、教会の個性や特徴も活かされます。

活動的な教会もあれば、ドンと構えた教会もあり、大きな教会もあれば、小さな教会もありますが、其々が、御子キリスト・イエス様のからだなる教会であり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の栄光を現すために、活動し続けているのです。

4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

主はひとり」の「」は、御子キリスト・イエス様の事ですが、ここで「」について、混乱が起こらないように確認しておきましょう。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様も「」なのですが、創造者にして支配者なる、唯一真の神様には、御子キリスト・イエス様を頭とする教会を通して仕えるのであり、御子キリスト・イエス様が、私たちの正当な主、支配者であり、絶対的な主権者である事を言い表しています。

私たちは、御子キリスト・イエス様を頭とする教会を通して、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に仕えるのであり、

教会の重要性と、必要性を強く認識しなければなりません。

信仰は一つ」は、信じる唯一、無二の対象が、創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様である事の宣言です。

御子キリスト・イエス様は、完全な神でありつつ、完全な人です。

地上に来られる前と、天に昇られてからが「神」であり、地上におられた間は「人」であるとの考えは、間違っています。

今流行の、ハイブリッドでも、人間の身体に、神性を内蔵しているのでもありません。

神と人とを高速切り替えしているのでもありません。

神だから、人にもなり得るのであり、神であると同時に、人でもあり得るのです。

御子キリスト・イエス様に対する信仰のみです。

最後に「バプテスマは一つ」と宣言しますが、この5節の順番は重要であり、神聖不可侵です。

キリスト教の根幹、拠りどころです。

創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を「」とし、この御子キリスト・イエス様に対する「信仰」で、「バプテスマ、洗礼」を受けるのです。

創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を「」と告白せず、御子キリスト・イエス様に対する「信仰」を告白しないで受けるバプテスマには何の意味もありません。

儀式として形が整っている「バプテスマ」が重要なのではなく、即ち、浸礼であるとか、滴礼であるとかは関係ありません。

東京湾でもよいし、不忍池でも良いし、隅田川でも問題ありません。

教会でとか、病床でとか、誰が立ち会ったかとか、誰の宣言かとか、式文に則っているか、などなどは、一切関係ないのです。

バプテスマを受ける者が、創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を「」と告白し、御子キリスト・イエス様に対する「信仰」を告白するか、否かが重要なのです。

この「バプテスマ、洗礼」によって創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様に繋がるのであり、御子キリスト・イエス様を頭とする教会につながり、教会の一員、群れに加わるのです。

ここで、パウロは「聖餐」に触れていないので、少し説明しておきましょう。

「聖餐」の重要性は、説明するまでもありませんが、「聖餐」の効能は、「バプテスマ・洗礼」の確認であり、御子キリスト・イエス様を頭とする教会に帰属する事の確認、維持、進展であり、決して「聖餐」を疎かにしている訳ではないのです。

4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

最後に、創造者にして支配者なる、唯一真の神様について記します。

エペソと云う町には、「アルテミス」と呼ばれるギリシャ神話に登場する女神を祭る、立派な大神殿がありました。

アルテミスはゼウスの娘であり、豊穰の女神として信仰、崇拝され、エペソの人々の拠りどころとなり、生活のそこ彼処に染み込み、多大な影響を及ぼしていたのです。

誰でも、長年親しんで来たものを捨て去る、考えを切り替えるのは、容易な事ではありません。

クリスチャンになっても、長年の習慣、慣れ親しんできた社会の影響を払拭するのは容易な事ではありません。

生まれる前から親しんで来たアルテミスを、生活に染み込んだアルテミスを否定されたならば、自身を否定されたように感じ、真理を受け入れるのを困難にします。

そこでパウロは、アルテミスを直接否定するのではなく、更に上の、普遍的な、包括する、唯一の存在として、創造者にして支配者なる、唯一真の神様を紹介するのです。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、多くの神と呼ばれる存在の一つではなく、神殿に行かないと会えないお方ではなく、地域限定、能力限定でもありません。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、いと高き天におられ、万物を支配され、統治されるお方であり、御子キリスト・イエス様を教会の頭として立てられ、御子キリスト・イエス様を通して、教会に命を与え、活力を与え、知恵を与え、クリスチャンに御霊を宿らせ、クリスチャンのうちに住んでくださる、唯一のお方なのです。

【適応】

本日の説教のタイトルは「召された者の歩み」ですが、端的に言うならば、何かをする、何かを為す事を期待するタイトルではありません。

創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を信じ、洗礼を受けたなら、早速、奉仕に加わりましょう、礼拝厳守です、伝道しましょう・・・ではありません。

私たちが「召された」のは、教会の人手不足を補うためでも、教会の財政を満たし、潤すためでも、礼拝出席者を増やし、円滑に進めるためでも、伝道に注力し、日本の福音化に貢献するためでもありません。

教勢の伸びを誇示し、キリスト教の社会的地位を上げるためでもありません。

これらは、クリスチャンとして整えられてから取り組むべき課題であり、整えられると必然的に付随する事です。

整えられるためになすべきは、創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様を内住させる事だけ、のみです。

これは、簡単な事のようですが、決して簡単な事ではありません。

「内住」は、ペットや居候(いそうろう)、同居人の意味、状態ではありません。

しかし、この意味、状態の「内住」が、如何に多いか、です。

御子キリスト・イエス様、御霊に「内住」していただいていたとしても、御子キリスト・イエス様、御霊は、主人の座に招かれてはいない。

依然として自分が主人である。主人の座に居座り続ける。

そこに、疑問を感じず、座を明け渡そうとしてない事にも気付かない。

重要な決断では、蚊帳の外であり、或いは座敷牢に閉じ込め、発言権は与えられていない。

そんなクリスチャンは、事が起こると右往左往する、悩み、苦しみ、不安に陥る。

或いは、祈る事で平安を得ようとし、結果で一喜一憂する。

これでは、御子キリスト・イエス様、御霊「内住」の意味はありません。

意味がないどころか、実質が伴っていないのであり、自称クリスチャンであり、クリスチャンと思い込んでいるだけに始末が悪い。

「面従腹背」(めんじゅう・ふくはい)と云う言葉がありますが、表面的には、御子キリスト・イエス様、御霊に従うポーズをとっていても、自分の思いを優先させ、御子キリスト・イエス様、御霊に背を向けていたなら、そんな人がクリスチャンとしてのお手本になっていたら、そんな人が教会で重んじられていたら、そんな教会に将来はありません。

そこは、御子キリスト・イエス様を頭とする教会ではありません。

「召された者の歩み」は、御子キリスト・イエス様、御霊を内住させる事であり、御子キリスト・イエス様に主人になっていただく事です。

内面的な事だけに、物足りなさを覚える事でしょう。

世は成果主義であり、積極的に行動する事が賞賛されましょうが、御子キリスト・イエス様が求めているのは、御子キリスト・イエス様、御霊を内住させることだけ、のみです。

御子キリスト・イエス様が内住していても、表面的には、直ぐには、何の変化も起こらないので、誰にも分からず、本人すら分からない。

本人も、周りも、物足りなさを覚え、これでいいのかと疑問を持つでしょう。

しかし、召された者の歩みは、御子キリスト・イエス様、御霊を内住させる事であり、結果として、2節、3節となって現れてくるのです。

それを待つのも、必要不可欠な訓練であり、召された者の歩みです。

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                                                       2020-2-16礼拝

聖書個所 サムエル記第一9:110                

説教題 「行くべき道を尋ねて」

【導入】

私たちの人生は決して順風満帆なものではありません。

追い風ばかりではなく、逆風の時もあれば、横風が吹いて、右往左往する時があります。

のみならず、進むに進めず、後戻りを余儀なくされたり、行くべき道に迷うことも数知れず起こります。

選択肢が無いというのは稀であり、2つ以上から進むべき道を選ばなければなりません。

その道は、行って見なければ、正解かどうかも解かりません。

否、人生という道には不正解はないのかも知れません。

それぞれにメリット、デメリットがあり、私たちに必要な訓練になっているからなのです。

訓練だから、必要だからとは言っても、闇雲に、何の考えもなく進んで行き、行き当たりばったりに強行突破すれば良い、と言うものでもありません。

やはり、情報を集め、他の人の意見を聞き、熟慮した上で、慎重に決断しなければなりませんが、人は全てを見渡して、的確な判断、間違いのない決断が出来る訳ではありません。

集められる情報には限界があり、他人の意見が正しいとは限りません。

熟慮しても、その前提とも言うべき情報が不充分であり、間違いを含んでいるのですから、慎重にとは言って見ても、完璧な結論など出しようがないと言えるでしょう。

そのような状況の中で、何に、誰に行くべき道を示してもらえば、よりリスクの少ない、よりメリットの大きい選択をすることが出来るのでしょうか。

今日は神様のイスラエルの王様を選ぶというご計画が進められる中の、その選びの器が紹介される場面から、行くべき道について学んで行きたいと思います。

【本論】

9:1 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。キシュはアビエルの子で、アビエルはツェロルの子、ツェロルはベコラテの子、ベコラテはベニヤミン人アフィアハの子であった。彼は有力者であった。

9:2 キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

突然、ベニヤミン人の家系が紹介され、サウルの名前が紹介されます。

このサウルはサムエルに油を注がれて、将来イスラエル初代の王様となる訳ですが、前回学んだように、イスラエルの王様はイスラエル人の中から選ばなければなりません。

それは申命記1714節に記されている通りです。2017版は346頁、第3版は335頁「17:14 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが「周りのすべての国々と同じように私も自分の上に王を立てたい」と言うなら、

17:15必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない。

そこで、聖書は、イスラエル初代の王様が、生粋のイスラエル人から選ばれた事を明確に記し、サウルの家系を紹介しているのです。

ベニヤミン人というのは、イスラエル12部族の中では中堅の部族です。

荒野の40年の旅を経て、約束のカナンの地に入植した時、7番目の人口を与えられていました。

エジプトを脱出した時には11番目でしたから、長い放浪生活の中でも祝福され、家族が増え、子孫が増えて行ったのです。

しかし、その部族としてのベニヤミン部族の歴史は順風満帆ではありませんでした。

士師記192021章、2017版は463頁、第3版は450、に記されていますが、部族存亡の危機を経験しているのです。

ギブアの地に住むベニヤミン人は旅人をもてなさず、却って旅人を辱めるような性的に乱れた、ふしだらな氏族でした。

しかも、その淫らな行為を指摘されても、部族全体で、その氏族を庇うような行動を取るのです。

ベニヤミン部族は滅亡の寸前まで追いやられましたが、そのような部族の中から、イスラエル初代の王様が選ばれるのですから、神様のご計画は不思議としか言いようがありません。

このアフィアハと言う人は「裕福であった」と記されていますが、裕福と訳されているヘブル語は、他に「勇者、有力者」とも訳せる言葉であり、イスラエル民族、ベニヤミン部族の系図に記された、勇者であり、有力者であり、裕福な由緒正しき人物の家系、子孫、末裔であったことが記されているのです。

9:3 あるとき、サウルの父キシュの雌ろば数頭がいなくなったので、キシュは息子サウルに言った。「しもべを一人連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」

9:4 サウルはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、それらは見つからなかった。さらにシャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いても、見つからなかった。

ここに記されている幾つかの地名ですが、何処なのかをはっきり示す事が出来ません。

巻末の地図にも記されておらず、特定できないのですが、サウルの生家はギブアである事がサムエル記第11026節に記されています。

サウルもギブアの自分の家へ帰って行った」と記されている通りです。

ギブアは巻末の地図を見ていただくと、エルサレムの北、10km程の所にあることが解かります。

ここギブアを出発点として、北西に位置するエフライム山脈を通過し、エフライム部族の土地を探索し、注解書などによれば、230km程離れた所まで出かけて行って捜索したのではないかと考えられています。

ろばは荷物運搬に利用され、乗り物としても用いられ、農業にも不可欠な労働力として重宝され、とても身近な家畜でした。

生贄として神様に献げる事は出来ませんでしたが、羊と共に大切な財産です。

日本語の聖書では一頭なのか数頭なのか解かりませんが、原語では複数形で記されています。

その大切な財産が何頭もいなくなったのですから、裕福な家庭であったとしても、大変な出来事です。

大切な財産を探すために、大切なひとりの息子を僕とともに捜索に当らせる事にします。

何の手がかりもない中、藪の中、岩陰、谷底と探しまわって3日も時間を費やしましたが、何の手がかりも掴めず、1頭すら探し出せなかったのです。

9:5 二人がツフの地にやって来たとき、サウルは一緒にいたしもべに言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのほうを心配し始めるといけないから。」

9:6 すると、しもべは言った。「ご覧ください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへ参りましょう。私たちが行く道を教えてくれるかもしれません。」

9:7 サウルはしもべに言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」

サウルの意見はもっともな考えです。

ここまでにサウルの人格、人となりが明瞭に語られています。

サウルは、父であるキシュの、ろばを探してくれとの命令に素直に応じる、孝順な息子でした。

父が心配するかも知れないとの配慮が出来る、親思いの息子でした。

命ぜられたことと、状況を考え総合的な判断の出来る、使命に忠実な息子でした。

更に7節のように、僕の意見にも耳を傾け、聴き従う度量と謙遜を兼ね備え、贈り物を考える、常識と礼儀を弁(わきま)える青年でもあったのです。

しかし、如何にも人間的であり、常識的です。

僕でさえ知っていた、当時の大預言者であった「神の人」を知らなかった、そこに思いが及ばなかった、と言うのは、サウルの宗教的素養の貧弱さを雄弁に物語っており、サウルは人間的には善人であり、好青年ではありましたが、肉的に「美しい若い男」でしかなかったのです。

それが証拠に、サウルは王様になってから様々な失敗をします。

どれも人間的な判断の結果であり、人間的な選択の結果です。

一方、そこには、名前も記されていない僕ですが、有能な僕は的確な忠言を提供します。

人には知られないことがあっても、神様はそうではない。

神様に知らないことはない、神様に聴けば、全ての解決が与えられる、との信仰がこの名も記されていない僕にはあったのです。

3日探しても見つからないのは、探し方が悪いのではない。

彼ら羊飼いは動物の扱い、動物の行動に関しての知識においてはプロです。

今までにも、ろばの失踪、羊の失踪、家畜の失踪は度々あったことでしょう。

その度に見つけ出し、連れ戻して来たのです。

そして、それらの経験は探索のノウハウを培い、簡単ではなかったにしても、必ず見つけ出す自信を持っていた事でしょう。

それなのに3日も何の手がかりもないのは、尋常な事ではない。

そこで自分たちの知恵や経験に頼らず、神様に聴こうと判断するのです。

ここに記されている僕の言葉「私たちが行く道を教えてくれるかもしれません」は意味深長です。

ろばを探しているのですから、「ろばを探す道」とも理解できますが、もっと深い「生き様、将来」を示唆した言葉として受け止められるのであり、正にこの意味で物語りは展開して行くことになるのです。

5節に「ツフの地」とありますが、これは続く6節の「この町には神の人がいます」と考え合わせると「ラマ」ではないかと考えられます。

「ラマ」はサムエルの住む町であり、サウルの住むギブアとは78km隔てた所にある町です。

ろばを探しに出掛ける時、目の前にある神の人の家を通り過ぎ、3日も探した挙句の果てに神の人の所に戻って来る、と言うのも、預言的な記述と言えるでしょう。

9:8 しもべは再びサウルに答えた。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げたら、私たちの行く道を教えてくださるでしょう。」

9:9 昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう」とよく言っていた。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。

9:10サウルはしもべに言った。「それはよい。さあ、行こう。」こうして、彼らは神の人のいる町へ行った。

4分の1シェケルの銀」は凡そ2.8gです。

現在の銀相場では1グラム当り70円前後であり、2.8g200円となってしまいます。

これでは当時の価値として相応しい比較が出来ません。

注解書などを参考にすると、この「4分の1シェケルの銀」は凡そ1日の賃金に相当する様ですから、1万円程度と考えるのが実状に合っているようです。

この謝礼を持って、「神の人」に会いに行き、行くべき道を教えてもらおうと考えたのでした。

9節の「予見者」の直訳は「見る者」です。

見る者とは、肉の目ではなく、霊の目で見る者のことであり、物事に隠されている神様のお考えを人々に伝える働き、神託を担っていた人々の事です。

当時はそれなりの謝礼をもらって、神託を取り次ぐ人々もいたようですが、どの世界にも、どの時代にも偽者がいた訳であり、都合の良い事や、どうにでも取れるようないい加減な取次ぎをする人々の中で、サムエルこそ神様に選ばれた器であり、そこに導かれたのもまた神様の導きなのです。

【適応】

私たちは誰に聴けば良いのでしょうか。

私の考えに同調してくれる、都合の良い事を言ってくれる人でしょうか。

何となく安心することを言ってくれる人でしょうか。

毒にも薬にもならない事を言ってくれる人はたくさんいますが、本当に必要な事、苦言を呈してでも本当に必要な大切な事を言ってくれる人は、そう多くはありません。

ましてや、真の意味で「行くべき道」「生きる道」「永遠の命に至る道」を教えてくれるのは極僅かです。

否、唯一人と言って良いでしょう。

それは聖書に記されているイエス様だけなのです。

イエス様は「私が道であり真理である」と仰っています。

私たちは自分の力と知恵で「行くべき道」を探そうと努力しています。

あちらを探し、こちらを探す。

見つからないので場所を変える。

方法を変え、尋ねまわっても、誰も知らないし、的確な答えを提供してはくれません。

しかし、探しまわらなくても、答えは近くにあるのです。

サウルの探していた答えが、ラマで与えられたように、私たちに必要な答えは遠く離れた所にあるのではなく、神様が用意され、手の届く、目の前にあるのです。

尋ね廻らなくても、神様が用意され、この世に送って下さったのです。

私たちがすべきは、聴く事だけです。

サウルがサムエルに聴きに行く時には4分の1シェケルの銀を用意しましたが、私たちには無償で用意されており、誰もが何の区別もなく聴くことが出来るのです。

「さあ、行こう」と立ち上がり、歩き出せば良いのです。

歩き疲れた人は何処にいますか。

探しあぐねた人は何処にいますか。

見つからなくて途方に暮れている人は何処にいますか。

あなたの、私の「行くべき道」は教会にあり、聖書にあり、キリストの内にあるのです。

もう探す必要はありません。

尋ね回る必要もありません。

イエス様と言う道が用意され、全ての人に示されているのですから。

ここにおられる皆様に「行くべき道」としてイエス様が示されているのです。

そして、ここに居ない人々の「行くべき道」もイエス様の内にしかありません。

このイエス様の所に行こうではありませんか。

行くべき道はイエス様に至る道であり、イエス様こそ、天国に至る行くべき道なのです。

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                                                                    2020-2-9礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙314節~21

説教題:「キリストの愛を知るために祈る」

【導入】

「祈り」って何でしょうか。

代表的なのは「主の祈り」ですが、クリスチャンは、年がら年中、「主の祈り」だけを唱えている訳ではありません。

自分自身の願い、兄弟姉妹の願い、教会の願いなど、様々な願いを祈ります。

その願いは、問題の解決であったり、進退に関する事であったり、病気の回復であったりする訳ですが、大事なのは、自身の信仰の確立であり、家族や友人、知人の救いではないでしょうか。

問題が解決し、進退に導きがあり、病気が癒されても、創造者にして支配者なる、唯一真の神様との関係が断絶していたならば、罪の問題が解決していないならば、問題の解決や、進退の導きや、病気の癒しに、どれ程の意味があると云えるのでしょうか。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様との関係の修復と、罪の問題が解決してこその、問題の解決や、進退の導きや、病気の癒しなのではないでしょうか。

或いは、問題や、進退や、病気が原因となり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様との関係に影響を与え、罪の赦しに疑問や、救いに疑いを抱くようにならないように祈らなければならないのではないでしょうか。

パウロの祈りから、私たちの祈りについて考えてみたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、

膝をかがめ」る祈りの姿は、平身低頭の姿であり、額を床に付けての姿であり、如何にもパウロらしい、信仰者としてもこの上ない、神聖な祈りの姿ですが、パウロの置かれている場所は、神殿ではありません。

礼拝堂でも、集会所でもありません。

牢獄、監獄ではありませんが、凡そ「膝をかがめて」祈るに相応しい場所とは云えません。

しかし、祈りは、場所の問題ではなく、「誰に対してか」であり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に対してであり、祈るために整えられた部屋や場所、環境でなくても、牢獄でも、薄汚れた床でも、澱んだ空気の充満する部屋でも、雑踏の中でも、街の喧騒が五月蝿くても、誰にも見られていなくても、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に対して、謙遜の限りを現すのであり、無意識のうちに、自然に、「膝をかがめ」、頭(こうべ)を垂れ、床に臥したのでしょう。

人目に付くような場所での、これ見よがしの、人に見られる事を意識したパリサイ人たちの祈りの姿とは雲泥の差です。

更には、姿だけではありません。

パリサイ人たちの祈りは、流暢な、美辞麗句を並べ立てた、朗々とした祈りですが、こんな祈りは、腐った臭いの立ちこめる祈りであり、凡そ、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に対して献げる祈りではありません。

祈りは、人を意識した途端、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に相応しい祈りでなくなってしまっているのではないでしょうか。

祈りは、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に対して献げるのであり、本質を祈るのであり、本音を祈るのであり、時には、たどたどしく、聞き取り難い、言葉にならない呻きも、立派な祈りなのです。

3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。

パウロは、ユダヤ人と異邦人は、御子キリスト・イエス様の贖いによって一体になっており、「神の家族」になっていると、言い続けて来ましたが、「天と地にあるすべての家族」は、「「家族」という呼び名の元である御父」、即ち、創造者にして支配者なる、唯一真の神様から出ている、と断言します。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、人間を創造し、アダムとエバを結び合わせて「家族」とし、「家庭」を築かせました。

「家庭」こそ、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の御心の現れであり、「家庭」こそ、創造者にして支配者なる、唯一真の神様から祝福を受ける受け皿であり、「家庭」の使命は、この世を祝福するのであり、この世に祝福を発信するのです。

この「家族」と訳されているギリシャ語は「パトゥリア」ですが、この語には、「父から出た者たち」と云う意味が含まれています。

」と訳されているギリシャ語は「パテール」であり、「パテール」と「パトゥリア」は、同じ原語から派生しており、語呂合わせ、言葉遊びにもなっているのです。

家族」と「」が密接、不可分の関係にあり、「」が「家族」の最上位にあり、「家族」を統合し、「家族」を代表するのは、ユダヤの文化です。

家族」の事は、「家族」の祈りは、「」が引き受けるのであり、祈りの聞き手は「御父」、即ち、創造者にして支配者なる、唯一真の神様です。

祈りの聞き手は、決して人間では、親しい家族といえども、祈りの聞き手ではありません。

家族」は聞き手ではなく、祈り仲間であり、一緒になって、一つ心になって、「御父」に祈るのです。

3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

御父」が、「家族」の祈りを聴いてくださる、

家族」の祈りに応えてくださると信じて祈ります。

その祈りの第一は、「内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」です。

「神の家族」に加えられても、罪を持つ身であり、罪の影響力は根深く、そのままでは聖霊の働く余地はありません。

生まれ変わった人として、神の家族に加えられた人として、人の力、自身の力の強化、他人の力、助けの増加、増強ではなく、上からの聖霊に満たされる事、聖霊の力に満たされる事、聖霊の助けを求め、祈るのです。

あなたがたを強めて」は、聖霊が、その人の奥底にまで到達するように、聖霊が、その人の隅々にまで充満するように、聖霊が、その人を占有するように、の意味です。

決して、聖霊によってパワーアップし、スーパーマンのようになるように祈るのではありません。

3:17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

祈りの第二は、御子キリスト・イエス様の内住です。

これは、パウロの体験から出たものでもあり、キリスト者がキリスト者と呼ばれる所以(ゆえん)です。

キリスト教的人間と、キリスト者は、全く違います。

聖書通読をした事がなく、キリスト教についての知識は狭く、浅くても、礼拝も、奉仕も、献金もままならず、洗礼を受けておらず、当然、聖餐に与っていなくても、キリスト者であり得るのです。

心で信じて、口で告白する事が、キーであり、その時点で、御子キリスト・イエス様は、その人の内に住んでくださり、キリスト者なのです。

ここで、パウロが「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と祈っている意味を考えて見ましょう。

住まわせて」は、「住まわせ続けて」の意味であり、「一時的な滞在」の意味でなく、「永住する、定住する、定着する」の意味であり、キリスト者と呼ばれる者の中に、御子キリスト・イエス様が、永住していない、定住していない、定着していない人がいるからなのではないでしょうか。

聖書に通じ、キリスト教についての広く、深い知識があり、礼拝を守り、奉仕や献金などを献げても、洗礼を受け、聖餐に陪席しても、御子キリスト・イエス様が、内住されていなければ、キリスト教的人間であり、キリスト者ではありません。

そして、誰もが、サタンに惑わされ、そそのかされて、自分が主人、王様になり、御子キリスト・イエス様を僕としている人が、また、御子キリスト・イエス様を追い出している人が、決して少なくないのです。

パウロは、誰もが、キリスト教的雰囲気に落ち込む危険がある事を教え、憂え、御父に執り成しの祈りを献げるのです。

祈りの第三は、キリストの「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」自覚を持つ事でしょう。

パウロは、御子キリスト・イエス様の愛を、植物と建物を喩えに語ります。

植物が実を実らせるのは、根が張り広がっていてこそです。

根を張り広げられず、地中の栄養分を充分吸い上げられなければ、貧弱な実しか実りません。

建物が傾かずに存在するのは、基礎が建物を支えていてこそです。

建物に釣り合わない基礎では、建物を支える事が出来ず、その建物は使い物にはなりません。

キリスト者は、御子キリスト・イエス様に繋がり続け、愛を受け続けてこそ、賜物を豊かに実らせる事が出来るのであり、キリスト者は、御子キリスト・イエス様の愛を土台として、支え続けていただいてこそ、賜物を活かし続ける事が出来るのです。

3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

その」の意味するところは、キリストの愛、2、キリスト教会、3、贖罪の業、4、十字架の奥義、5、霊の宮、6、神の愛、7、愛、8、神の知恵、9、神の啓示されたこと、などの説がありますが、「キリストの愛」が主に採用されているようです。

その御子キリスト・イエス様の愛が「どれほどであるかを理解する力」は、一部の特権階級、祭司、パリサイ人、律法学者などの独占するところではなく、個人的な特異、特殊能力、預言者などの占有事項とすべきでもありません。

御子キリスト・イエス様の愛を理解する力は、誰にでも、与えられ得るのです。

御子キリスト・イエス様が、私たちの内に住まわれるからであり、聖霊が、私たちを助け、導いてくださるからであり、御子キリスト・イエス様が執り成してくださるからです。

そして、私たちは、神の言葉、聖書を読めるからであり、聖書からの説教を聴けるからです。

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

御子キリスト・イエス様の愛を、人間は知る事が出来ず、理解出来ず、受け入れる事は出来ません。

人間は罪人であり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の事や、御子キリスト・イエス様の事を知る事は出来ないのです。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様の一方的な恵み、憐れみによって、辛うじて、御子キリスト・イエス様の愛の片鱗を知るにしか過ぎないのです。

有限な人間に、御子キリスト・イエス様の無限の愛を知る事は出来ず、罪を持つ人間に、御子キリスト・イエス様の聖さを理解する事は出来ないのです。

また、有限な人間は、御子キリスト・イエス様の満ち溢れる豊かさを受ける事も、容れる事も出来ないのです。

しかし、創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、有限な人間に、罪を持つ人間に、御子キリスト・イエス様の無限の愛を与えようと思し召され、可能な限り、御子キリスト・イエス様の無限の愛を受ける事が出来るように、助け、導き、守ってくださるのです。

3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うことのできる方に、

パウロの、創造者にして支配者なる、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に対する信頼の大きさが溢れる告白です。

「神の全能」といったような、客観的な表現、漠然とした概念ではなく、具体的に「私たちのうちに働く御力」と表現しています。

この「私たちのうちに働く御力」は、個々人に、教会に常に働きかけます。

24時間、365日、一瞬の休む間もなく、働き続けます。

この「私たちのうちに働く御力」は、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて」います。

私たちは、有限であり、知っていると思っても、一部分でしかなく、

その一部分さえも、正確ではなく、思い込みや、想像や、誤解などなどがたくさん含まれているのです。

しかし、創造者にして支配者なる、唯一真の神様、全てを、正確に知っておられ、その力が及ぶ世界は限りなく、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて」いるのです。

しかし、ここで注意が必要です。

私たちが願うところ、思うところのすべてを」叶えてくださることを約束、宣言しているのではありません。

私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに越えて」、「行うことのできる方」だと、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の「全能」を宣言しているのであり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、決して、何でも叶えてくれる便利屋さんではないのです。

3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。

20節、21節は、頌栄であり、栄光は、常に、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に対してです。

パウロの、異邦人伝道は、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の栄光を現すためであり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の栄光を現す事こそ、パウロの究極の目標である事を宣言しているのです。

人はついつい、自分の手柄にしたがり、自分を前面に出したがり、或いは、仲間や身内の手柄にし、仲間や身内を前面に出したがりますが、自分も、仲間も、身内も、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の道具にしか過ぎない事を、常に、強く意識し、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の栄光を現す事に、徹しなければなりません。

冒頭で、祈りは、人を意識した途端、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に相応しい祈りでなくなってしまっているのではないでしょうか、とお話しましたが、礼拝も、奉仕も、人を意識した途端、創造者にして支配者なる、唯一真の神様に相応しい礼拝、奉仕でなくなってしまっているのです。

右の手でしている事を、左の手に知られてはならず、左の手でしている事を、右の手に知られてはならないのです。

【適応】

本日の説教のタイトルは、「キリストの愛を知るために祈る」ですが、先ずは、自分自身のために祈らなければなりません。

信仰歴が永くなると自分の事は安心し、自分の事は二の次になり勝ちです。

また、自分の事よりも、他人の事を祈る方が信仰者らしい、と思っているかもしれませんが、大きな間違いです。

先にお話しましたが、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の事も、御子キリスト・イエス様の事も、知り尽くす事は不可能であり、知っていると思っている程には、何も知ってはいないのが現実なのです。

先ずは、自分自身が、「キリストの愛を知るために祈」り、「キリストの愛を知るために」、日々、聖書に親しみ、聖書を読み続け、御ことばを、蓄え続けなければなりません。

自分自身を整える事こそ、先決、最優先させなければならない事なのです。

他人の世話や、気配りも大切ですが、自分自身が整えられる事を疎かにするのは大問題です。

マタイの福音書73節から5節、2017版は11ページ、第3版も11ページ、「7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください。』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」。

先ずは、自分自身のために、自分自身が整えられ、「キリストの愛を知るために祈る」のです。

次に、神の家族となるべき者が「キリストの愛を知るために」執り成し祈るのです。

この順番は大切です。

「キリストの愛を知」らない者が、キリストの愛を伝えられるでしょうか。

「キリストの愛を知」った者の生き方、後ろ姿を見せるのであり、神の家族となるべき者に、「キリストの愛を知」りたいと云う思いを起こさせるのであり、そして、19節「神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされ」るように、執り成し祈るのです。

パウロは、終始、「キリストの愛を知るために」祈る事を推奨しており、手取り足取りの世話を推奨してはいません。

別の言い方をするなら、神の家族となるべき者が、御子キリスト・イエス様と直接繋がるように祈るのであり、その手助けをするのです。

決して、神の家族となるべき者と御子キリスト・イエス様との間に入って、繋ぐ役割になり続けてはいけません。

神の家族となるべき者を、御子キリスト・イエス様に引き継いだならば、直ぐにお任せしなければならず、直ぐに去らなければならないのです。

これは、御子キリスト・イエス様に栄光を帰する事です。

人は、御子キリスト・イエス様と繋がってこそ、神の家族となるのです。

御子キリスト・イエス様にお任せせず、立ち去らないのは、神の家族になる邪魔をしているのであり、厳に慎まなければなりません。

先に救われ、御子キリスト・イエス様の僕となった者の務めは、神の家族となった者の務めは、自分自身が「キリストの愛を知るために祈る」事であり、神の家族となるべき者が「キリストの愛を知るために祈る」事です。

ついつい、行動したく、手を出したくなりますが、祈る事こそ、キリスト者の最大、最強の武器なのであり、それを示す事こそ、キリスト者の最大の務めなのです。

パウロは、牢獄に居たからこそ、行動出来ず、手を出せなかったからこそ、祈りに神の力が現れると確信し、私たちに祈りの重要性を教え、実践を勧めるのです。

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 聖書箇所:エペソ人への手紙38節~13

 説教題:「教会を通して示す神の知恵」

 【導入】

 教会の使命って何でしょうか。

一言では、また簡潔には言い現せませんが、奥義である和解を伝える事、創造者なる唯一真の神様とユダヤ人との和解、ユダヤ人と異邦人との和解を伝える事。

あらゆる国の人々を弟子とする事、全世界に出て行き、造られた全ての人に福音を伝え、神の御子キリスト・イエス様が命じた、全ての事を守るように教える事。

鍵の権能を行使する事、天国の門の鍵を開け、神の御子キリスト・イエス様を信じる者を招き入れ、天国の門の鍵を掛け、神の御子キリスト・イエス様を信じない者を入ない事、でしょう。

これらの事、キリスト教界では、当たり前の事、常識と言って良い事ですが、この世の中では、当たり前の事でも、常識でもありません。

この世の常識では、考えられない事であり、思い付きもしない事です。

誰かが教えなければならず、伝えなければならず、その働き、使命は、教会に与えられていると、パウロは言います。

直接働くのは、使命を担うのは、使徒であり、弟子であり、また、現代であるならば、牧師であり、伝道師であり、宣教師ですが、個人の働き、使命ではなく、教会の働き、使命であると、パウロは言うのです。

教会を通しての働きでないならば、教会から遣わされたのでないならば、それは紛い物です。

御子キリスト・イエス様が来られる前は、預言者、士師は、創造者なる唯一真の神様から直接、召しを受け、派遣されましたが、御子キリスト・イエス様が来られて以後は、そして現代は、御子キリスト・イエス様が頭となっている教会が働き人を召し出し、派遣するのです。

創造者にして唯一真の神様のご計画、御旨については、教会が伝える働きと使命を担っており、教会が働き人を召し出し、派遣するのです。

【本論】

新改訳2017版 3:8 すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、

最も小さな私」の、直訳は「(いと)小さき者よりも小さき者」であり、パウロは、自分を消して、自分には全く、何の価値もないと、断言、宣言するのです。

パウロの告白は、人からの評価を意識した、上辺を繕ったパフォーマンスではありません。

本心、本音です。

8節の告白よりも6年ほど前にも、次のような告白をしています。

コリント人への手紙第一159節、2017349ページ、第3340ページ、「私は使徒の中では最も小さい者であり、使徒と呼ばれるに値しない者です」。

教会を厳しく迫害した過去、前歴を意識しての告白であると同時に、自分の内には、何の価値もない、誇れるモノはない、使徒と呼ばれるのも憚られる、と声を大にして叫びます。

また、8節の告白から2年ほど後にも、次のような告白をしています。

テモテへの手紙第一115節、2017419ページ、第3406ページ、「私はその罪人の頭です」。

自分の本性、罪深さ、無価値を深く自覚しているからこその告白であり、パウロの宗教的自己吟味、自己分析は、日々深められ、いよいよ謙り、謙遜の度合いは益々深められて行き、これらの告白となったのです。

クリスチャンの口から、「クリスチャンのうちで最も小さな」者です、とか、「クリスチャンと呼ばれるに値しない者です」とか、そして、「私は罪人の頭です」との言葉を聞く時がありますが、余りに軽々しく、上っ面に感じるのは、これらの告白が、単に理想とか、目標の域を出ていないからであり、身に付いていないからなのではないでしょうか。

謙遜を装っているクリスチャン程、見苦しい存在は、裏表のあるクリスチャン程、教会に有害な存在はありません。

言葉も態度も敬虔を装って、人を騙し、人を欺いて、人から高い評価を得ても、創造者にして唯一真の神様を騙し、欺く事は出来ません。

パウロとは雲泥の差であり、パウロは告白の通りに、生きて来たのです。

だからこそ、御子キリスト・イエス様の測りがたい恵みを、異邦人に宣べ伝える、尊い働きに召されたのです。

自称、敬虔な使徒が、人からの評価に一喜一憂するクリスチャンが、御子キリスト・イエス様の測りがたい恵みを、異邦人に宣べ伝える、尊い働きに召される事はありません。

人から「敬虔な人」との評価を受ける使徒やクリスチャンではなく、創造者なる唯一真の神様に与えられた働き、使命に、忠実な使徒、クリスチャンだけが、御子キリスト・イエス様の測りがたい恵みを、異邦人に宣べ伝える、尊い働きに召されるのです。

3:9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。

奥義の実現」とは、ユダヤ人のみならず、異邦人、異教からの改宗者も救いに与り、誰も考え付かず、思い及ばなかった、全く新しい信仰共同体を形成する事であり、この奥義は、万物創造の当初から、創造者にして唯一真の神様のご計画の中心であり、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様の働きであり、教会に委ねられた使命であり、教会によって実現するのです。

この創造者にして唯一真の神様のご計画、目的は、今まで隠されていた事ですが、御霊によって明らかにされた事、即ち「奥義」を、御霊によって宣べ伝えるのです。

創造者にして唯一真の神様のご計画、目的を、この世に明らかにするのが、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様の御霊を注がれ、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様を頭とする教会の働き、使命なのです。

3:10 これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、

天上にある支配と権威」とは、御使い、天使たちの事ですが、宣べて来た「奥義」は、御使いや天使も知り得ず、関われない事であり、創造者にして唯一真の神様の、崇高な、深遠な、遠大なご計画なのです。

その「奥義」の周知と実行は、小さな、取るに足りない、私パウロの務めとして、また、教会は小さく、弱く、力のない、罪人の集まりですが、教会の働き、使命として与えられた、崇高な務めなのです。

「教会」は、創造者にして唯一真の神様のご計画、目的、栄光の御業を、誰に憚る事もなく、何に遠慮する事もなく、大胆に、はっきり、隅々にまで語り告げねばならないのです。

創造者にして唯一真の神様のご計画、目的、栄光の御業を語り、告げられるのは、教会だけです。

教会の存在目的であり、期待されている働き、使命です。

豊かな」と訳されているギリシャ語は、「多彩な、色とりどりな」の意味であり、多種多様の意味ですが、量的に膨大であり、質的に最高である意味も含まれているのは、当然でしょう。

なにしろ、創造者にして唯一真の神様の、崇高、遠大なご計画なのですから、見た事のないもの、聞いた事のないもの、圧倒的なもの、比類のないものであり、単調なもの、微々たるもの、貧弱なものでない事は確かです。

3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。

繰り返しになりますが、パウロの宣べ伝えている事は、また、教会の宣べ伝えるべき事は、異邦人の救いと、新しい信仰共同体の形成などですが、パウロの思い付きや、偶然、時の流れ、合議、審議、検討の結果ではありません。

創造者にして唯一真の神様のご計画に沿った事であり、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様が、完成させた事です。

3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。

私たち」とは、即ち、ユダヤ人、異邦人、異教からの改宗者を含む、全てのキリスト者だけが、「キリストに対する信仰」を持った結果、或いは、「キリストに対する信仰」を通して、「確信をもって」、即ち、心に平安をもって、「大胆に」、即ち、恐れを全く拭い去って、「神に近づくこと」が出来るのです。

キリストに対する信仰」がなければ、創造者にして唯一真の神様は、罪の刑罰を与える恐ろしいお方であり、栄光に包まれたご威光の故に近付き難たく、不安に怯(おび)え、恐れ慄(おのの)きつつ、畏(かしこ)まり、縮こまり、それでも「神に近づくこと」は出来ません。

創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様の贖いに与った者だけが、創造者にして唯一真の神の子の身分を与えられるので、「確信をもって大胆に神に近づくこと」が出来るのです。

3:13 ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。

ですから」は、2節から12節にかけて語って来た、パウロに、また、教会に託された、崇高な使命ですが、創造者にして唯一真の神様のご計画に沿った事であるならば、創造者にして唯一真の神様の絶対的、普遍的な守りがあって然るべき、と考えるのが、当然でしょう。

しかし、現実には、パウロは、有形無形の「苦難にあっている」のであり、また、筆舌に尽くし難い「苦難にあっている」者もいるのであり、こんな「苦難にあっている」のは、創造者にして唯一真の神様のご計画に沿った事ではないのではないか、創造者にして唯一真の神様の慈愛や、正義を疑わせる思いが起こるのは当然の結果でしょう。

パウロの敵対者は、パウロの投獄、「難」は、パウロの働きが、創造者にして唯一真の神様から出た働きでない事の証拠だと罵られ、パウロの理解者、同調者、協力者からも、パウロの働きが、創造者にして唯一真の神様から出た働きではないのではないか、との疑問が投げ掛けられ、キリスト教が、非合法であるとの不安を、キリスト者に感じさせ、萎縮させ、迷いや疑い、「落胆」に繋がった事でしょう。

しかし、パウロは「私が・・・苦難にあっている」事で、迷い疑い、「落胆」しないように、と忠告を与えます。

私が・・・苦難にあっている」のは、創造者にして唯一真の神様の慈愛や、正義を疑わせ、キリスト教が、非合法であるとの不安を与えるかも知れません。

しかし、「私が・・・苦難にあっている」のは、創造者にして唯一真の神様のご計画であるからであり、創造者にして唯一真の神様の承認された事であり、それ故にこそ、この世は、激しい抵抗を示し、創造者にして唯一真の神様のご計画の邪魔をし、遅滞させよう、頓挫させよう、あわよくば、中断させようと、瓦解させようと躍起になっているのであり、だからこそ、パウロや使徒は「苦難にあっている」のだ、と語ります。

パウロや使徒の「苦難」を聞いて、見て、知って、あなた方の信仰が試されるが、疑い、迷い、落胆から守るのは、個人の勇気や頑張りではなく、「教会を通して示される神の知恵」なのです。

「教会を通して示される神の知恵」によって、疑い、迷い、落胆から守られ、結果、「あなたがたの栄光」に繋がるのです。

【適応】

教会は、「奥義」を語り、「神の知恵」を語らなければなりません。

この世は「奥義」、「神の知恵」を知る事が出来ないからです。

否、創造者にして唯一真の神様のご計画の邪魔をし、遅滞させよう、頓挫させよう、あわよくば、中断させようと、瓦解させようと躍起になっている悪しき力が、この世が「奥義」、「神の知恵」を知る事が出来ないように、強力に働いているのです。

そして、教会も、この世の風潮に同調して、「奥義」、「神の知恵」を語る事よりも、耳障りの良い事、面白おかしい事を語り、楽しいイベントを計画しますが、それは、教会の第一義の働き、使命ではありません。

教会は、「奥義」「神の知恵」を語り、伝えるのであり、語り、伝える「奥義」「神の知恵」は、悔い改めに繋がるもの、生き方が変わるものでなければなりません。

この世の処世術や、道徳的な事、人生を豊かにする秘訣を語るのではなく、罪の問題、全ての人間は罪人である事、赦しの問題、生贄や献げ物、道徳的な行いによっては、赦しを得る事は出来ない事、キリスト・イエス様は、創造者にして唯一真の神の御子であると宣言する事、贖いの問題、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様の十字架での死によってしか、贖いは為し得ない事、完全な贖いがもたらされた結果、創造者にして唯一真の神様と、罪人である人間との和解が成立、完成した事、ユダヤ人と異邦人との間の、人種や文化などの違いから生まれる誤解、差別、偏見、断絶、憎しみなどなどの、垣根、壁、溝が取り除かれ、和解した事、永遠の命の問題、創造者にして唯一真の神の御子キリスト・イエス様の甦りによって、人間に永遠の命が与えられた事、これら「奥義」「神の知恵」を語り、伝えるのが、教会の働きであり、使命です。

更に、この創造者にして唯一真の神様のご計画を受け入れ、心で信じて、口で告白するように、手助けするのが、教会の働きであり、使命です。

この手助けを疎かにした教会は、創造者にして唯一真の神様の教会ではありません。

教会は、聖書から、悔い改めに繋がる説教を語り、生き方が変わる牧会をしなければなりません。

時代は、優しさや、ホンワカとした包み込みを求めている。

厳しい説教や牧会は、時代に合わない。

だから人が来ない、定着しない、教勢が伸びない。

教会も、時代の波、要求に応えるべきだ、と暗に牧師批判、説教批判が飛び交いますが、聖書を語れるのは、聖書に秘められた「奥義」「神の知恵」を語れるのは、教会だけです。

教会がその働き、使命を等閑(なおざり)にしたならば、教職者が、毒に薬にもならない講話、単なる聖書物語を語ったならば、この世は「奥義」も「神の知恵」も知る事が出来ません。

結果は、滅び、です。

そして、滅びの責任を、教会は、教職者は、負わなければならず、教会の方向を決める、教会員、クリスチャンの責任は非常に重大です。

教会を通して、この世に向けて「奥義」と「神の知恵」が語られ、この世は「奥義」と「神の知恵」を知るのです。

教会を通して、この世に向けて「奥義」と「神の知恵」の実践と模範を示すのです。

この教会は、教会に与えられた働き、使命、「奥義」と「神の知恵」を示し、実践しているでしょうか。

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