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                                                             2020-3-29礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙417節~24

説教題:「整えられた聖徒としての歩み」

【導入】

新改訳2017版 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

牧師また教師」の働きは、一、「聖徒たちを整え」る事であり、二、「奉仕の働きをさせ」る事であり、三、「キリストのからだを建て上げる」事です。

教会に牧師また教師」が与えられたのは、会堂管理のためではありません。

事務処理のためでもありません。

連絡のための駐在、常駐でもありません。

教会の顔として「牧師また教師」が存在しているのでもありません。

牧師また教師」は、教会の付属品でも、教会の構成要素でもありません。

牧師また教師」の働きは、12節「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためで」あり、15節「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長」させるためです。

聖徒たち」が「整え」られていないと、「奉仕」が、他人との比較になり、優劣を競うようになり、存在をアピールする場、自己実現の場となり、牧師また教師」に、褒められる事や価値を認めてもらう事を欲するようになります。

他人の目が気になり、自由ではなくなり、窮屈な場となってしまうのですが、「整え」られていないので、そんな状態にある事にさえ、気が付かないのです。

具体的な「牧師また教師」の働きは、「説教」と「牧会」です。

聖徒たち」は、「牧師また教師」が「説教」と「牧会」に専念、集中、注力出来る環境を作り、「牧師また教師」が「説教」と「牧会」に専念、集中、注力するなら、聖徒たち」は「整え」られ、他人との比較のない、競争もない、存在を主張するでもない、自己実現でもない、居場所を求めるでもない、褒められるでもない、価値を認めてもらうでもない「奉仕の働き」に取り組めるのです。

聖徒たち」は「整え」られてこそ、「賜物」を真に活かす事が出来るのであり、「聖徒たち」個々人に与えられた「賜物」の多様性、個性が活かされ、御子キリスト・イエス様のからだなる教会は建て上げられ、御子キリスト・イエス様の栄光は現されるのです。

パウロは、整えられる前の人と、整えられて聖徒となった人との違いを語ります。

【本論】

新改訳2017版 4:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

御子キリスト・イエス様を知って、信じて、洗礼を受けると、それでスイッチが入るように、或いは、切り替えられ、「整え」られて「聖徒」になる訳ではありません。

聖餐に与ると、「整え」られた「聖徒」として継続出来る訳でもありません。

罪の性質は死ぬまで残り続け、強弱の差はあるにしても、生き方、考え方、言動に影響を与え続けます。

罪を軽く見ると、罪を侮ると、多少であっても整えられた状態から、あっという間に元に戻ってしまうでしょう。

異邦人のようになってしまうのです。

否、更に悪い状態に陥ってしまいます。

パウロは、異邦人は「むなしい心で歩んでいる」と、断言します。

むなしい」と訳されているギリシャ語は、「空虚な、目当てのない、無益な」の意味を持つ言葉であり、人生の真の目的の分からない生き方を示します。

これは、決して、異邦人が夢や希望、計画の実現を目指す生き方をしない、刹那的、自暴自虐的な生き方をしている、と云っているのではありません。

異邦人に限らず、多くの人々は、夢や希望を持ち、計画の実現のために奮闘努力を惜しまない生き方をしているでしょうが、この世しか知らないので、死後の世界の存在を知らないので、夢や希望は、虚しいものとならざるを得ず、計画は、目当てのないものとならざるを得ず、奮闘努力は、無益にならざるを得ないのです。

霊の世界がある事、天上の、創造者にして支配者なる唯一真の神様がおられる世界を知ったならば、夢や希望、計画は変わらざるを得ず、奮闘努力にも変化が現れるでしょう。

4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

ここでの「知性」は、一般的な意味での「知性」全般ではありません。

霊的な事に関する事柄であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様に関する事柄であり、罪に関する事柄、罪の赦し、罪の贖い、であり、裁きに関する事柄、最後の審判、であり、罪からの救いに関する事、創造者にして支配者なる唯一真の神の御子キリスト・イエス様に関する事柄であり、命に関する事柄、永遠の命、であり、死後の世界、新天新地、についてです。

無知」、即ち、知らない事があるのは恥ではありませんが、「暗くなり」、即ち、知ろうとしないのは問題です。

そして、「頑なな心」が原因となって、「神のいのちから遠く離れて」しまうのです。

頑なな」と訳されているギリシャ語は、「ポーローシス」ですが、これは、石の名前「ポーロス」から派生した言葉です。

「ポーロス」と云う名前の石は、格別に堅い石であり、加工し難く、歯が立たない様から、心の頑固さ、鈍感さ、無感覚を意味する言葉「ポーローシス」となり、己の良心の呵責に対しても、恥じる事がない心を、神の審判に対しても、畏怖の思いもない心を意味するようになりました。

霊的な「無知」と、霊的な事柄に対する無関心、無感覚な「頑なな心」の行き着く先は、「神のいのちから遠く離れ」た世界です。

4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。

無感覚」は、痛みを感じない状態を表す言葉であり、道徳的に無感覚となった人間は、良心の呵責を覚えず、恥を知らない状態になり、「好色に身を任せ」「あらゆる不潔な行いを貪るように」なります。

行い」は、単なる「行為」の意味ではありません。

「儲ける事、商売、働き」などを表す言葉であり、ここでは「不潔な」との形容詞を付けて、「不潔極まりない商売、いかがわしい仕事、汚らわしい働き」や、「不正な儲け、反社会的な仕事、非人道的な仕事」を意味します。

商売、仕事、働きに貴賎はありませんが、「不潔極まりない商売、いかがわしい仕事、汚らわしい儲け」や「不正な儲け、反社会的な仕事、非人道的な仕事」に手を出しては、関係を持ってはなりません。

4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。

あなたがたは」、「整え」られた「聖徒」たちであり、異邦人たち、罪人たちの生き方の、延長上にあるのではありません。

あなたがたは」、「キリスト」と云う「真理」に、切り替えた、方向転換した人々であり、「あなたがたは」、「キリスト」を、道徳的な規範とする生き方に切り替えた人々です。

キリスト」を「真理」、「規範」とする、などと云うと、小難しく、分かり難くなりますが、「キリスト」は、私たちの罪を贖ったお方であり、それ故に「キリスト」を愛し、

キリスト」の教えに耳を傾け、聴き従い、「キリスト」を模範とするのであり、「聖書」の教えを基準とし、「神と人を愛する」のです。

4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

パウロはここで、エペソの「聖徒たち」に、「キリストの教えを聞いたでしょ。教えられたでしょ。思い出してください」と言っているのです。

エペソの人々は、キリストから直接教えられた訳ではありません。

パウロや弟子たちから、「キリストについて聞き」、「キリストにあって教えられ」たのですが、問題は、誰から聞いたか、教えられたかではなく、誰についてか、です。

パウロがこの事を確認しているのは、「キリストについて」聞いたか否か、教えられたか否かは、重要な分かれ目、違いになるからです。

キリストについて学んだ者と、そうでない者とは、区別があり、違いがあるのです。

この区別、違いをさらに明確に表現するのが、「キリストについて学んだ」、ではなく、「キリストを学んだ」との言い方でしょう。

「キリストについて学んだ」と言うと、表面的、学問として学んだニュアンスを強く感じますが、「キリストを学んだ」と言うと、内面を深く、実践的に学んだ、生き様を変える学びをした、とのニュアンスを強く感じます。

説教を聞いても、表面的に、調子を合わせて、頷いているだけなら意味はありません。

熱心に聞いていても、心で受け止めていなければ意味はありません。

説教は、聖書をテキストとした講義でも、講演でもありません。

説教は、悔い改めに導くものであり、生き方を変えるためのものであり、考え方を改めるものであり、そのような意気込みで、説教をしっかりと受け止めてこそ、意味があるのです。

まあ、それでも、聞かないよりは聞いた方が益しですが、知識ばかりを増やしても、実践が伴わなければ、生き方が変わらなければ、残念です。

4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、

この節で重要なのは、「古い人を・・・脱ぎ捨てること」です。

先ず、何より先に「古い人」を「脱ぎ捨て」なければなりません。

古い人」の上に、新しいものを着重ねる事は出来ません。無理です。

しかし、多くのクリスチャンが、「古い人」の上に、新しいものを着重ねようとしているのです。

古い人」は、まるで、防寒性能の低い防寒着を着重ねているようであり、防寒効果は非常に低いし、重いし、動き難い。

比べて、最新の防寒着は、薄くて、軽くて、暖かく、しかも動き易い。

しかし、「古い人」に、馴れ親しんでいるので、脱ぐのに抵抗を感じて、中々脱ごうとしない。

そして、「新しいもの」を何とか着重ねてはみるのですが、窮屈であり、益々動き難くなり、「新しいもの」を脱ぐのは、時間の問題なのです。

そんなクリスチャンのなんと多い事か。

古い人を・・・脱ぎ捨て」てこそであり、先決の課題です。

4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、

ここで、「」は、神様との交わりに於いての意味であり、「」は、感情とか、理解に於いての意味であり、「霊と心」は、「新しくされ続け」なければなりません。

「新しい」とは云っても、時間の経過とともに、僅かですが、目には見えず、気にもならないでしょうが、必ず古びていきます。

新しくされ続け」なければならないのです。

4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造り出された新しい人を身に着ることでした。

古い人」と「新しい人」が、比較されていますが、「古い人」の延長上に「新しい人」があるのではありません。

22節でお話したように、古い人」を脱ぎ捨てた先に、「新しい人」があるのです。

古い人」は、知性は暗く、無知であり、頑なであり、好色に身を任せ、不潔な行いを貪り、人を欺く情欲によって腐敗しています。

これらは、脱がなければなりません。

継続ではなく、断絶があり、切り替えがなければなりません。

進化ではなく、新しい創造が必要です。

人は、元来、「神にかたどり造り出された」のですが、罪を犯し、堕落し、元来の目的とは断絶してしまいました。

そこで、御子キリスト・イエス様の救いが必要なのですが、救いと同等に重要なのが、御子キリスト・イエス様を受け入れる事であり、神のかたちの新たなる創造である、御子キリスト・イエス様を着る事です。

【適応】

しかし、実際のところは、如何でしょうか。

知性は暗いままであり、無知なままであり、頑ななままであり、好色に身を任せ、不潔な行いを貪り、人を欺く情欲によって腐敗したままかもしれません。

しかし、問題は、実際の歩みではなく、「古い人」を脱ぎ捨てたいとの強い思いと決意であり、「新しい人」を着たいとの強い思いと決意です。

多くの人は、この事に困難を覚え、現状に甘んじてしまっています。

スポーツの世界では、イメージトレーニングは、非常に有効だそうです。

目標をクリアするイメージを強く持つと、目標到達は夢ではなくなるそうです。

御子キリスト・イエス様のお働きによって、また、御子キリスト・イエス様を知り、学び、整えられ「聖徒」となったのですから、「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を着ようではありませんか。

先ず、「古い人」と決別する事です。

聖書通読や、デボーションの励行は有効な助けとなるでしょうし、整えられた聖徒としての歩み、そのものです。

聖書を開き、一定量を読む。

デボーションガイドを利用し、日々整えられる。

これは毎日取り組む課題であり、時間を決めて、が重要です。

時間を決めて、は、何時何分から、ではなく、起床直後、とか、就寝前に、とかです。

空き時間に、とか、空き時間を見つけて、では習慣化できませんし、長続きしません。

聖書通読やデボーションの励行は、着実に整えられ、聖徒として確実に成長します。

そして、日曜日に礼拝を献げる事も、整えられた聖徒としての歩みに欠くべからざる事です。

日曜日に礼拝を献げるためには、日曜日を中心とした生活パターンを構築する事が重要です。

一週間の過ごし方が重要になるでしょうし、当然、前日である、土曜日の過ごし方が重要になって来るでしょう。

複雑な社会であり、自分の都合だけで決められる事ではありませんが、日曜日を礼拝のために取り置く、の意識と決意は重要です。

礼拝を、仕事や行楽と同じレベルにおいていたなら、礼拝を守る事が難しくなるのは当然です。

日曜日に、仕事も行楽の予定も入れない、を基本とするのが、整えられた聖徒としての歩みです。

時には、日曜出勤や、どうしても変更出来ない用事が入る事もあるでしょうが、順番だから仕方がない、皆で平等なのだから仕方がない、この日しか空いてない、決められたスケジュールであり従うしかない、で黙って受け入れるのではなく、工夫や調整の余地を探り、普段からの備えもしておかなければならないのではないでしょうか。

「礼拝を守りたい」と主張し、それを認めてもらうには、何処かで犠牲を払わなければならず、払っておかなければならず、常日頃の、絶え間ない下地作り、素地作りが必要であり、信頼関係を作っておく必要があるのではないでしょうか。

聖書を基準とした、筋の通った言動、生き様は、この世の人々に影響を与えない訳がありません。

これも、整えられた聖徒としての歩みでしょう。

整えられた聖徒は、この世に対して良い影響を、強い影響を与えるのであり、整えられる目的でもありますが、個々人が、整えられるのが目的ではなくて、整えられ、違いを現すのが目的、使命です。

整えられた聖徒は、日々、整えられ続け、益々、御子キリスト・イエス様に似た者となり、御子キリスト・イエス様の栄光を現すのです。

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                     2020-3-22

聖書箇所:エペソ人への手紙412節~16

説教題:「教会への賜物としての教職者」

【導入】

新改訳2017版 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

御子キリスト・イエス様は、恵みとして、教会に様々な賜物をお与えになりました。

そのうちの一つ、重要な賜物、必要不可欠な賜物が「牧師また教師」です。

3週前に、「牧師また教師」の、外的な面、職制について、お話しました。

おさらいしておきましょう。

牧師また教師」は、別の職務とも取れますが、一つの職務の、別の側面、との理解が支持されているようです。

牧師」は「羊飼い」の意味の言葉であり、パウロ、ヤコブは「教師」を自称しています。

新約の世界に生きる私たちには、「牧師また教師」が馴染み深い存在となっていますが、この職務は、教会が任命するのではなく、御子キリスト・イエス様が恵みとして、賜物として教会にお遣わしになったのです。

即ち、教会は、御子キリスト・イエス様がお遣わしになった「牧師また教師」を受け入れる事が求められるのであり、面接や諮問などの人品評価をすべきではありません。

即ち、教会には「牧師また教師」の任命権はないのであり、罷免権もないのです。

教会が、独自の考え、教会規則で牧師また教師」を任命するのは、御子キリスト・イエス様に対する越権行為であり、罷免も甚だしい、御子キリスト・イエス様に対する主権侵害なのです。

世の中には、どの教団、教派にも所属しない、単立教会が存在します。

その教会の教職制度は、慎重に吟味する必要があるでしょう。

その教会の「牧師また教師」は、御子キリスト・イエス様がお立てになり、教会にお遣わしになった、任命した、と確信できるか否か、です。

牧師また教師は、御子キリスト・イエス様が教会にお遣わしになったのであり、教会の権威下、支配下にあるのではありません。

しかし、また、教会の上にあり、教会を支配するのでもありません。

教会の頭は、御子キリスト・イエス様です。

牧師また教師は、教会と共にあり、教会を霊的に導き、教会の霊的お世話をする、特殊な存在、働きなのです。

本日のテキストは、牧師また教師」の内的な面、働きについてを扱っています。

【本論】

新改訳2017版 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

牧師また教師」の働きは、一、「聖徒たちを整え」る事であり、二、「奉仕の働きをさせ」る事であり、三、「キリストのからだを建て上げる」事です。

一の、「整えて」と訳されているギリシャ語ですが、出っ張り過ぎている部分を引っ込め、引っ込み過ぎている部分を平らにする、角張っている部分を、丸くする、など、より役に立つ者に整える、の意味ではありません。

「破れを繕う」の意味を持つギリシャ語であり、全く使い物にならないモノを、使えるようにする、の意味であり、「牧師また教師」の働きは、罪にまみれ、罪に染まり、どうしても罪を行なってしまう罪人に、何が罪で、御子キリスト・イエス様の喜ばれない事か、何が義で、御子キリスト・イエス様の願われる事かを教えます。

本人の「整え」られたいとの強い願い、意志が前提であり、「牧師また教師」の働きは、本人のやる気を促し、助け、導き、御子キリスト・イエス様の身体の一部分として相応しい者になるお手伝いをするのです。

牧師また教師」の働きはお手伝いであって、決して「牧師また教師」主導ではありません。

そして、「整え」られると、自発的に「奉仕」に向かいます。

その、「奉仕」と訳されているギリシャ語は、「仕える事、世話をする事」の意味であり、教会内外の、弱者のお世話をする事、困窮者の必要を満たす事などの社会的、福祉的責任であり、教会内の、掃除や片付け、週報などの印刷や司会、奏楽などの奉仕と共に、御言葉の宣教、福音を届ける事などの働きです。

御言葉の宣教と、福音を届ける事は、「牧師また教師」の占有の働きではありません。

牧師また教師」の働きは有限であり、働きの場も限定的です。

家庭や職場や学校などの集まりは、数知れませんが、そこに、御言葉を、福音を、自然な形で届けるのは、「整えられた聖徒」の働きなのです。

その、「整えられた聖徒」の働きの目的は、「キリストのからだを建て上げる」ためです。

整えられた聖徒」による「奉仕の働き」によって、「キリストのからだを建て上げる」のです。

教会によっては、何でも「牧師また教師」の指示を待ち、判断を仰ぎますが、また、何でも「牧師また教師」任せ、何でも「牧師また教師」がやる教会がありますが、「牧師また教師」の直接の働きは、「聖徒たちを整え」る事であり、「整えられた聖徒」に、「奉仕の働きをさせ」る事です。

牧師また教師」の働きは、手を出す事ではなく、「聖徒」を霊的に整える事です。

霊的に整えるとは、13節です。

4:13私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成長した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

牧師また教師」の働きは、「説教」と「牧会」によって代表されますが、「聖徒」は、「説教」と「牧会」によって「神の御子」に関する「信仰と知識」の一致に至ります。

公同の礼拝での「説教」の重要性は、ここにあります。

「牧会」、即ち、個別指導、個別教育も重要ですが、同じ説教を聞く事は非常に重要であり、有益です。

同じ説教を聴いても、理解の仕方や、受け止め方は千差万別であり、必ずと云って良い程、理解の違い、受け止め方の違いが起こります。

教会の交わりは、この理解の違い、受け止め方の違いを知り、分かち合うところにもありましょう。

主観的な、偏りがちな理解だけでなく、教会の交わりを通して、多角的な受け止め方に、客観的な理解に至るのであり、「成長」と、「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」に繋がるのです。

ですから、教会の交わりが、愛餐中心であるなら、親交を深める事が主たる目的であるならば、考え物です。

この「身丈に」を、新共同訳聖書は「豊かさ」と訳し、口語訳聖書は「徳の高さ」と訳していますが、ギリシャ語の意味は「年齢、寿命、成年」であり、「年齢相応に」の意味で理解すると良いでしょう。

達する」と云う言葉は、「到着する、着く、到達する」の意味のギリシャ語です。

成長」には時間がかるのであり、紆余曲折が当たり前であり、「牧会」は非常に重要であり、努々(ゆめゆめ)、疎かにしてはならないのです。

12節、13節の成否を決定付けるのは、「牧師また教師」が、「説教」と「牧会」に専念、集中、注力出来るか否かです。

牧師また教師」は、罪人が生まれ変わり、聖徒として成長するのを、「説教」と「牧会」で助け、導くのです。

4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、

聖徒」として、成長しなければならない理由が述べられます。

子どもは、知識が少なく、何でも鵜呑みにし、信じ易いので、「悪巧み」や「悪賢い策略」には、ひとたまりもなく、経験も少ないので、世間の気まぐれな、無責任な教えに簡単に「吹き回され」「もてあそばれたり」します。

御子キリスト・イエス様は救い主であると、心で信じて、口で告白するだけで救われるのですが、御子キリスト・イエス様に対する信仰を維持するためには、聖書知識が必要であり、聖書を基にした訓練が必要であり、教会生活、奉仕を等閑(なおざり)にしては、軽んじてはならないのです。

洗礼を受け、聖餐に与っている事に安住していては、御子キリスト・イエス様に対する信仰を失いかねないのです。

いつの間にか、独り善がりに陥り、御子キリスト・イエス様に対する信仰ではなくなっているかも知れないのです。

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

聖徒」の目標は、「キリストに向かって成長する」事です。

あらゆる点において」であり、偏らない、円満な、円熟した成長が求められています。

聖徒」は、世捨て人ではありません。

世と隔絶していてはなりませんが、世に迎合し、埋没してもなりません。

世に在りつつ、世から悪い影響を受けず、世に良い影響を与え続ける使命があるのです。

成長する」には、御子キリスト・イエス様に似たものとなる、の意味と、御子キリスト・イエス様と一体となる、の意味で理解する必要があります。

そして、この二つは、同時進行です。

御子キリスト・イエス様を離れていては、御子キリスト・イエス様に似たものとなる事は出来ず、御子キリスト・イエス様と似てもいないのに、御子キリスト・イエス様と一体になる事は出来ないのです。

聖徒」は、御子キリスト・イエス様の生き様、言動に倣うのですが、悲しいかな、罪を持つ我々には、肉体を持つ我々には難しい事ですが、御子キリスト・イエス様と云う目標があるからこそ、自身の弱さ、罪の大きさや強さを知り、益々、御子キリスト・イエス様に縋り、頼る必要を知るのです。

聖徒」は、「牧師また教師」の「説教」と「牧会」で、「かしらであるキリストに向かって成長するのです」が、その成長のスピードは、様々であり、その働きも様々、個性豊かです。

その個性豊かな「聖徒」をまとめるのが、「牧師また教師」の働きであるなら、教会は混乱の極となるでしょうが、「聖徒」をまとめるのは、御子キリスト・イエス様であり、そのことが明確に語られているのが、16節です。

4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

教会の頭は「キリスト」であり、「キリスト」によって、「からだ全体」は、即ち「聖徒たち」は、「組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働く」のです。

聖徒たち」の働きですが、「それぞれの部分がその分に応じて」の原則は重要です。

ある人には、あの人の働きがあり、あの人はあの働きに専念すれば良く、この人には、この人の働きがあり、この人はこの働きに専念すれば良く、他の人の働きに口を出したり、指示を出したり、手を出す必要はないのです。

これは、協力するな、援助をするな、の意味ではありません。

助けを求められたなら、アドバイスを求められたならば、援助や協力を惜しんではならないが、求められてもいないのに、口を出したり、指示を出したり、手を出す必要はない、と云う事です。

教会に監督、船頭が乱立してはならず、監督、船頭は一人、「聖徒」をまとめるのは、御子キリスト・イエス様です。

さてまた、教会には様々な働きの場や必要がありますので、担当が決まっていない事、情報が行き渡らない事や、手付かずの働きも起こり得ましょう。

気が付いたその時は、気が付いた人が対応するのが、教会でしょう。

重複や混乱を避けるために、確認し、了解を取る必要はありましょうが、受身であってはならず、指示を受けないと動かない、指示待ちは「聖徒」の姿ではありません。

その分を超えて」と「その分に応えず」も、「聖徒」の姿ではありません。

その分に応じて」の謙虚さを持ちつつ、積極的、能動的に立ち振る舞うのが「聖徒」の姿でしょう。

その分に応じて」は、権限の行使と、責任が伴います。

例えば、牧師また教師」には、強い、大きな権限が与えられています。

教会の聖さを守るために、聖徒の悔い改めのために、聖徒の成長のために、御子キリスト・イエス様の栄光を現すためであり、必要に応じて注意し、厳しい警告を与え、時には戒規を執行しなければなりません。

エゼキエル書317節、20171417ページ、第31362ページ、「3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる」。

牧師また教師」が、その分に応じ」ず、牧会的配慮などの言葉で、権限の行使を控え、責任を回避したならば、聖徒は死ぬ事、滅びる事になります。

その分を超えて」と「その分に応えず」も、混乱と、無責任と、責任転嫁が起こり、教会は教会ではなくなり、御子キリスト・イエス様の栄光は現しようがありません。

【適応】

教会に牧師また教師」が与えられたのは、会堂管理のためではありません。

事務処理のためでもありません。

連絡のための駐在、常駐でもありません。

12節「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためで」あり、15節「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」ためです。

具体的な「牧師また教師」の働きは、「説教」と「牧会」です。

しかし、実際のところは、如何でしょうか。

「説教」に取り組む時間よりも、「牧会」に費やす時間よりも、事務的な事に時間を費やし、俗に言う「雑用」に多くの時間を割いているのではないでしょうか。

場合によっては、生活のためにアルバイトをせざるを得ず、アルバイトの合間に説教に取り組んでいる先生もおられます。

また、色々な理由で「牧師また教師」を置く事が出来ない場合もありますが、「牧師また教師」は、御子キリスト・イエス様が教会に与えた、必要不可欠、なくてはならない「賜物」です。

教会の顔として「牧師また教師」が存在しているのではありません。

牧師また教師」は、教会の付属品でも、教会の構成要素でもありません。

教会に「牧師また教師」が赴任していないのは、事務や雑務処理に奔走しているのは、実は、大きな損失であり、有形無形の不利益を被っているのですが、実感がないのも事実でしょう。

教会に「牧師また教師」が居るだけで恵みであり、祝福であり、更に、「牧師また教師」が「説教」と「牧会」に専念、集中、注力出来るなら、計り知れない益をもたらすでしょう。

そんな「賜物」だから、大事にし、大切にしましょう、と言いたいのではなく、「賜物」は、活用しなければなりません。

聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです」。

愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」ためです。

聖徒たち」は、「牧師また教師」が「説教」と「牧会」に専念、集中、注力出来る環境を作り、「牧師また教師」が「説教」と「牧会」に専念、集中、注力するなら、聖徒たち」は「整え」られ、他人との比較のない、競争もない、存在を主張するでもない、自己実現でもない、居場所を求めるでもない、褒められるでもない、価値を認めてもらうでもない「奉仕の働き」に取り組めるのです。

聖徒たち」が「整え」られていないと、「奉仕」が、他人との比較になり、優劣を競うようになり、存在をアピールする場、自己実現の場となり、牧師また教師」に、褒められる事や価値を認めてもらう事を欲するようになります。

他人の目が気になり、自由ではなくなり、窮屈な場となってしまうのですが、「整え」られていないので、そんな状態にある事にさえ、気が付かないのです。

聖徒たち」は「整え」られてこそ、「賜物」を真に活かす事が出来るのであり、「聖徒たち」個々人に与えられた「賜物」の多様性、個性が活かされ、御子キリスト・イエス様のからだなる教会は建て上げられ、御子キリスト・イエス様の栄光は現されるのです。

牧師また教師」が「説教」と「牧会」以外で忙しいのは、教会の損失です。

牧師また教師」は、教会に与えられた「賜物」であり、その「賜物」を活かしてこそ、御子キリスト・イエス様のからだなる教会は建て上げられるのであり、御子キリスト・イエス様の栄光は現れるのです。

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                               2020-3-15礼拝

聖書個所:サムエル記第一101節~13節            

説教題:「油を注がれ 新しい人へ」

【導入】

私たちの生活には、信仰とは直接関係なさそうな出来事が数多く起こります。

サムエル記に記されている、ろばの失踪、探索の記事も、牧畜を営んでいる一家にとっては特別な出来事ではありません。

何十頭も飼っているろばや羊、山羊が脱走する事は珍しい事ではなく、日常茶飯事と言い得る出来事です。

何故ならば、囲いと言っても決して出られないような完全な囲いではなく、壊れかかっていたり、柵が低かったりと、水も洩らさぬ囲いではなかったからです。

季節によっては牧草を求めて旅に旅を重ね続ける事もあり、放牧に近い状態であったからです。

何時の間にか羊が居なくなっている、ろばが居なくなっている、と言うのも珍しい事ではなかったのです。

居なくなるのも、探しに出かけるのも日常のヒトコマでした。

そして、直ぐに見つかる事もあれば、数日かかる事もあったでしょう。

失踪して数日も過ぎれば、迷子になっていると同時に、猛獣に襲われて、もう探す意味が無くなっている事もあったでしょう。

そんな日常的な出来事ではありますが、神様はそれを用いて、神様のご計画、新しい働きに召し出す事のきっかけとなさる事もあるのです。

勿論、全ての出来事が神様のご計画に直接関っている訳ではありませんが、何気ない日常の出来事を通しても神様のご計画は進められて行くのです。

今日は神様のイスラエルの王様を選ぶというご計画が進められる中の、その選びの器が選ばれ、整えられて行く場面から、新しくされると言う事について共に学んで行きたいと思います。

【本論】

10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

預言者サムエルによって油を注がれ、イスラエル初代の王様が誕生しました。

この時点では、サムエルとサウルの二人だけしか知らない事実でした。

イスラエルの民に公に知らせるのには、もう少しの時間と準備、手続きが必要であり、その事に付いては次ぎの機会に学ぶ事に致しましょう。

サウルはサムエルから油を注がれて、王様としての任職を受けましたが、イスラエルに於いては、神様の選びである事が何よりも重要です。

サウルが選ばれた経緯は前回学んだ通りですが、サムエルの目に適ったから選ばれたのではありません。

誰よりも背が高かったから選ばれたのでもありません。

優秀な人物だったから選ばれたのでもありません。

人々の推薦があったから選ばれたのでもありません。

神様が、多くのイスラエル人の中から選ばれたのであり、小さな部族の中から選ばれたのであり、つまらない家族の中から選ばれたのです。

それは部族を誇る事のないためであり、家族を誇る事のないためです。

自分を誇る事のないためであり、神様に選ばれた事こそが重要であって、そこにこそ働きに就く根拠があるからなのです。

神様の働きは人間的な選びではなく、神様の一方的な選びであり、人間の如何なる思惑も影響しないし、影響させてはならないのです。

サムエルの言葉の通りに「主が…あなたに油を注がれ」たのです。

イスラエルの国に於いては、油を注がれるという事が任職の証しなのです。

油を注がれて任職を受ける働きは、祭司、預言者、王様の三職です。

この三つの働きは誰でもが就く事が出来る働きではなく、神様に選ばれた者だけに許される働きなのです。

神様に選ばれた証拠が「油を注がれる」事に秘められ、現されており、油を注がれていない者は偽者なのです。

この「油」は「オリーブ油」であったと思われます。

特別珍しい、珍重な物ではありません。

オリーブ油その物に何か不思議な力、効能があるのではなく、注ぐという行為に意味があるのであって、オリーブ油を注ぐという行為によって、神様の選びの器である事が人々に見える形で明かされ、教えられるのです。

「油注ぎ」の真の意味は「聖霊」が注がれる事にあり、イエス様の頭に聖霊が鳩のような形で注がれたように、使徒たちの上に聖霊が炎のような形で注がれたように、バルナバとサウロの上に手を置いて祈ったように、時代と状況、場所によって違いはありますが、神様の選びに焦点があることに違いはありません。

そうは言っても、この知識が誰にでもある訳ではありません。

ましてや、一介の市井の民サウルに、「油を注がれて王様としての任職を受ける」などと言う事は夢の様であり、とても素直には信じられない事であったでしょう。

そこで、サムエルはこれら一連の出来事が、神様のご計画である事を、サウルが確信を持って受け入れられるように教える意味を持って、これからサウルの身に起こる事をあらかじめ話して下さるのです。

10:2今日、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、二人の人に会うでしょう。彼らはあなたに、『捜し歩いておられた雌ろばは見つかりました。あなたの父上は、雌ろばのことはどうでもよくなり、息子のためにどうしたらよいのだろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。

サウルは、サムエルによって3日前にいなくなっていたろばが見つかった事を知らされていましたが、更に、別の、全く関係の無い人々から同じ事を聞かされる事によって、サムエルの言葉の全体が真実である事を悟らせようとしたのです。

10:3そこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで行くと、そこで、神のもとに行こうとベテルに上って行く三人の人に会います。一人は子やぎを三匹を持ち、一人は円形パンを三つ持ち、一人はぶどう酒の皮袋を一つを持っています。

10:4 彼らはあなたにあいさつをして、あなたにパンを二つくれます。彼らの手から受け取りなさい。

過去の出来事ならば、工夫をすれば、如何にも前もって解かっていたかの、真実のように演出出来るでしょうが、未来の事はそうは行きません。

タボルと言う地名、神様への献げ物を携えて旅する三人の礼拝者との出会い。

その神様への献げ物の一部を、見知らぬ青年に分け与える、と言う行為は予想できる事ではありません。

この未来の出来事の予告に続いて、もう一つ未来の出来事を予告します。

10:5 それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに着きます。その町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、竪琴を鳴らす者を先頭に、預言をしながら高き所から下って来る預言者の一団に出会います。

10:6 主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。

この「預言者の一団」とは文字通り「預言者の集団」であると言う事と同時に、讃美の集団であろうと思われます。

数種類の楽器を奏しながら、讃美を献げていたと思われます。

その讃美ですが、現代の様に特定の讃美歌、聖歌があった訳ではなく、即興の曲を奏し、即興の歌詞を口ずさんでいたのであって、即興の歌詞に神様はみこころを現すこともなさった様であり、それが預言者と言われる所以であったようです。

サウルもまた、この讃美チームの熱狂的な讃美、預言に巻き込まれ、その一員となって讃美を献げ、預言を語ったのでありましょう。

10:7 これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。

自分の力でできることをしなさい」とは言っても、無制限に何でもOK、と言う訳ではありません。

分相応があり、職務の範疇、範囲内と言うことであって、祭司の職務をも、預言者の職務をも自由に行なう裁量権が与えられた訳ではありません。

サウルは王様として任職を受けたのであって、もしも、祭司だけに許された職務を行なうならば、それは越権行為であり、神様に対する契約違反行為であると言う事なのです。

しかも、その正式に神様から付与された王権でさえ、その行使の為には、手続きが必要であり、

10:8私より先にギルガルに下って行きなさい。私も全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げるために、あなたのところへ下って行きます。私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます。」

サウルはイスラエルの王様として、言わば内密に任職を受けました。

このイスラエルの王様となった事は、まだ秘密であり、神様のご計画の時期に公表されなければならなかったのです。

公表され、周知の事実となって、名実ともにイスラエルの王様になるには、7日間待たなければならなかったのです。

この7日間は、サムエルにとっても、サウルにとっても、イスラエルの民にとっても、それぞれに必要な備えの時であったのです。

10:9 サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

10:10 彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。

10:11 以前からサウルを知っている人たちはみな、彼が預言者たちと一緒に預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルも預言者の一人なのか。」

10:12 そこにいた一人も、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルも預言者の一人なのか。」ということが、語りぐさになった。

10:13 サウルは預言を終えて、高き所に帰って来た。

サムエルの予告はことごとく、その予告通りになりました。

昨日まで、預言者サムエルの存在にすら思いの及ばなかった、霊的に非常に低かったサウルです。

イスラエルの神様に礼拝を献げてはいたでしょうが、神様との個人的な交わりは無く、父親のキシュに従って、形式だけの礼拝を行っていたに過ぎません。

が、サムエルと出会い、その偉大な預言者から油を注がれ、不思議な予告を聞き、イスラエルの神様との個人的な関係を深く思わされたに違いありません。

今までは遠い存在であったイスラエルの神様が、今は直接関られ、サムエルを通してではありますが、神様から任職を受けたのです。

この事を受け入れるのには7日間を要したのでしょう。

この神様との個人的なつながり、関りこそが、「神はサウルに新しい心を与えられた」と言う事なのです。

【適応】

新しくされたと言っても、人格が入れ替わったり、全く違う人物になってしまう訳ではありません。

昨日までのサウルと、油を注がれた今日のサウルとで、肉体的にも精神的にも、信仰的にも大きな違いはありません。

個性はそのまま持っており、所謂欠点も長所もそのままです。

今まで出来なかった事が突然出来るようになる訳でもありません。

急に信仰深くなる訳でも、どんな状況になっても、神様を信じられるようになるのでもありません。

相変わらず不安であり、悩み、苦しみ、迷いましょう。

出来なかった事は出来ないままであり、出来る事はそのまま出来るのであって、肉体的に、能力的に目に見える変化が起こる訳ではありません。

が、神様との個人的な関係の体験は、確かに人を変えるのです。

その変化は大きく現れる事もあれば、小さな変化として現れ、本人も回りも気付かないかも知れません。

しかし、確実に変るのであり、それは神様との新しい関係、正しい関係の回復に由来するのです。

神様との関係が正常になれば、神様との関係が密になればなる程、良い関係が築かれて行きます。

良い関係が更に密なる関係になり、密なる関係が更なる良い関係を築くのです。

サウルは神様に選ばれ、イスラエルの初代の王様に選ばれましたが、そのままの古い人では神様に仕える事は出来ません。

神様からの任職を、油を注がれるという事で確認し、体験して、そこから新しい歩み、神様に仕える歩みが始るのです。

それはヨハネの福音書33節で「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」とイエス様が仰いましたが、それと同じであり、

言い方を変えるならば「人は、新しく生まれなければ、神に仕えることはできません」であり、神様と出会ってこそ、神様にお取り扱いを受けてこそ、新しくされ、新しく生まれ、新しい生き方、神様に仕える生き方が始るのです。

神様と出会って、神様にお取り扱いを受けて、新しくされ、新しく生まれ、新しい生き方が始ったと言っても、失敗が無くなる訳でも、何でも上手く行くようになるのではありません。

相変わらず失敗をするでしょうし、人に躓きを与え、がっかりさせる事しか出来ないかも知れません。

しかし、新しくされると言うのは、失敗の無い、役に立つ、完璧な人間にされると言うのではなく、

常に神様を意識し、神様を身近に感じながら判断し、決断し、実行して行く人となって行くと言う事なのです。

 

つまり、新しくされた人の特徴は、神様ともに生きる、歩む、と言う自覚であり、外から見た変化ではない、と言う事なのです。

それは旧約の時代の、サウルのように油を注がれる事であり、使徒の時代のように炎のような形で現れた聖霊のお取り扱いを受ける事であり、祈りと共に按手を受けて、働きにつく事なのです。

これは祭司、預言者、王様と言った特別な働きに付く人々だけのものではありません。

全ての人にとっては、洗礼を受ける事であり、この洗礼による水の注ぎ、水に沈む事を通して、新しくされ、新しい神様との関係に生きる自覚なのです。

毎月行なわれる「聖餐式」も形式やパンと葡萄ジュースが大切なのではなく、神様との関係の確認、自覚こそが重要です。

その自覚が無いならば、パンは唯のパンであり、葡萄ジュースは唯の葡萄ジュースであり、人に何の影響も与えません。

神様との関係の確認であるからこそ、意味が生じるのであり、悔い改めた者として、新しくされた者として、相応しい生き方への確認、道案内となるのです。

まだ神様をよく知らない皆様は、神様のお取り扱いを受け入れ、新しくされて、神の民としての歩みを始めようではありませんか。

また、既に信仰を告白している皆様は、洗礼を受けた者として、聖餐を受ける者として、常に神様との関係を確認しつつ、歩みを吟味しつつ神の民として歩み続けようではありませんか。                        

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                        2020-3-8礼拝

聖書個所:サムエル記第一9:1127              

説教題:「小さい者、つまらない者を選ぶ神」

【導入】

私たち一人一人にはそれぞれに何かしらの賜物が与えられています。

説教の賜物、司会の賜物、祈りの賜物、奉仕の賜物、献げる賜物。

「賜物」と表現すると長所や特技、人より秀でた能力を考えますが、賜物は長所ばかりではありません。

短所や、欠点も賜物の一つであり、出来ることだけが賜物ではなく、出来ないことも賜物の一つなのです。

何故ならば、人は皆、創造者にして支配者なる神様の作品であって、失敗作や、欠陥品はないからです。

目的があって造られ、目的があって産まれました。

何も出来なくても、それが創造者にして支配者なる神様のご計画であり、創造者にして支配者なる神様が目的にそって造られた完成品なのです。

赤ちゃんは何も出来ませんが、創造者にして支配者なる神様はその様に造られ、産まれさせられたのです。

少しつつ、覚えていく事が赤ちゃんに与えられた創造者にして支配者なる神様のご計画であり、年齢に応じて教えて行くことが、親に与えられた創造者にして支配者なる神様のご計画なのです。

私たちは大きな働きをする者や、立派な人、有能な人をもてはやしますが、人と比べるから優劣や大小、強弱となるのですが、創造者にして支配者なる神様から見たならば、その働き、能力、長所も、皆、創造者にして支配者なる神様が与えて下さった賜物であり、自分のものと言えるのは無く、決して誇れるものではないのです。

人と比べた時、素晴らしい能力を持っていたとしても、自分の能力で創造者にして支配者なる神様に仕えよう、創造者にして支配者なる神様の喜ばれる事をしようと考えるならば、創造者にして支配者なる神様はそれを喜ばれません。

逆に何も無くても、創造者にして支配者なる神様に寄り頼むならば、創造者にして支配者なる神様は必要な能力を与え、不必要な能力を取り去って下さるでしょう。

今日は創造者にして支配者なる神様の、イスラエルの王様を選ぶというご計画が進められる中の、その選びの器が紹介される場面から、賜物について学んで行きたいと思います。

【本論】

9:11 彼らがその町への坂道を上って行くと、水を汲みに出て来た娘たちに出会った。彼らは「予見者はここにおられますか。」と尋ねた。

彼らとはサウルとその僕の事です。

彼らは三日間、ろばを探しましたが、何の手がかりすらも見つける事が出来ず、探しあぐねて、サウルは諦めて帰る事を決断しました。

その時、サウルの僕の提案があって、予見者のいる町へ向かって行く事になったのです。

町に続く坂道を歩いていると、水を汲みに出て来た娘たちの一行と出会います。

井戸、或いは泉は町から少し離れた所にあったようです。

それは生活廃水が混ざる事の無いように、汚れないように、との配慮からですが、その分、水汲みは非常な重労働でありました。

しかし、当時、この仕事は娘など女の仕事でした。

多くの場合、日中の強い日差しを避けて、早朝か夕刻に水を汲みに出かけた様です。

それはヨハネの福音書47節の逸話で紹介されているように、日中に水を汲むのは何かしら、人目を避ける行動であり、通常は朝晩の涼しい時間帯にする仕事である通りです。

午前中ろばを探し、諦めて帰ろうかとの相談をし、予見者のいる所へ向かう事になったサウルとその僕が、水を汲むために出て来た娘たちと出会ったのですから、それは午後の遅い時間、日没までにはまだ間のある時間帯であったろうと思われます。

夕食の準備のための水であり、仕事から帰って来る男性陣を迎え、汚れを清めるための大切な水を汲む一行と出会ったのです。

この水を汲みに来た女性に、サウルは町に予見者がいるかどうかを尋ねます。

サムエルはこのラマと考えられる町に住んではいましたが、各地を巡回していた人物でもありますから、今日は旅に出ていて不在、と言う可能性もあったのです。

9:12 すると娘たちは答えて言った。「はい。この先におられます。さあ、急いでください。今日、町に来られました。今日、高き所で民のためにいけにえをお献げになりますから。

9:13 町に入ると、あの方が見つかるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来られるまで食事をしません。あの方がいけにえを祝福して、その後で、招かれた者たちが食事をすることになっているからです。今、上って行ってください。あの方は、すぐに見つかるでしょう。」

都合の良い事にサムエルはこの町に滞在している、と言うではありませんか。

しかし、これは偶然ではありません。

創造者にして支配者なる神様のご計画であり、今日、サムエルがこの町に来たのであり、今日、ろばを探すのを諦めたサウルたちが、僕の一言でこの町に導かれて来たのです。

ろばが集団脱走したのも、家畜についての知識と経験ではプロと言えるサウルたちが、3日もかけても見つからなかったのも、偶然ではなく、創造者にして支配者なる神様のご計画、摂理なのです。

しかも、今日は特別な日であり、民のための生贄が献げられると言うのです。

生贄が献げられるとなると、ぐずぐずしていたならば、生贄を献げる儀式が終るまで待たされる事になりかねません。

娘たちは創造者にして支配者なる神様のご計画を知る由もありませんから、このお方こそ、この生贄を献げる儀式に招かれている、将来のイスラエルの王様となる人物とは夢にも思わなかったことでしょう。

娘たちは親切心から、状況を説明し、今直ぐ会いに行くように促します。

9:14 彼らが町へ上って行き、町に入りかかったとき、ちょうどサムエルが、高き所に上ろうとして彼らの方に向かって出て来た。

9:15 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。

9:16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

9:17 サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

創造者にして支配者なる神様の不思議なご計画で、サウルたちはこのラマと考えられる町に導かれて来ましたが、サムエルもまた創造者にして支配者なる神様の導きで、このラマと考えられる町にやって来ていたのです。

イスラエルの民は創造者にして支配者なる神様を退けて、王様を欲しがりました。

しかし、創造者にして支配者なる神様はイスラエルの民を退ける事はなさらず、民の願いの通りに王様を与えて下さろうとしているのです。

16節の「君主」と訳されているヘブル語は、「教えてくれる、明かす」と言う動詞を基にした語から派生しており、「前に立つもの、目立つ者、告げられた者」の意味を持ち、軍隊の指揮者、支配者を意味します。

これはイスラエルの民が願った通りの結果です。

民はサムエル記第一820節で「私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」と願っていますが、その願い通りになろうとしているのです。

サムエルはイスラエルの王様探しの旅をしていた訳ではありません。

例年の如く、各地を巡回し、教え、裁き、指導して来ました。

そして、ラマに来た時に、創造者にして支配者なる神様からのお告げを聞き、イスラエルの初代の王様となる人物と出会うように導かれたのです。

日本には「一期一会」と言う言葉があります。

茶の湯の心得の言葉であり、千利休の言葉と言われていますが、人と人との出会いは、一生に一度の出会として受け止め、そこには何かしらの意味を見出す事を教えています。

人と人との出会いは偶然ではありません。

創造者にして支配者なる神様のご計画であり、創造者にして支配者なる神様に用いられる大切な役割を担っているのです。

サウルの父が僕だけにろばの捜索に行かせずサウルを指名したのも、サウルの僕も愚鈍な僕ではなく、主人にただただ従う僕ではなく、適切な忠言が出来る僕が付き添って行ったのも偶然ではありません。

水を汲みに来た娘たちも、サムエルが来た事、生贄を献げる事を知っており、単なるその他大勢、通りすがりの人物、エキストラではなく、大切な役割を演じているのです。

9:18 サウルは、門の中でサムエルに近づいて、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」

この時サムエルは歳を取り、現役を引退しており、サムエルの二人の息子が裁き司となってイスラエルを指導していましたから、また、現代の様な情報社会ではありませんから、サウルがサムエルの顔を知らなかったのも当然であり、サムエルをそれと気付かなかったのも無理は無いかも知れません。

しかし、腐っても鯛、と申しますが、サムエルは創造者にして支配者なる神様が直接に語られ、啓示を与える預言者です。

サウルの目的は予見者サムエルを探す事です。

しかも、水を汲みに来た娘たちから「町に入ると、あの方が見つかるでしょう」との言葉をもらっているのです。

これらを総合するなら、サウルはサムエルを予見者と見抜けぬ程に、霊の眼が曇っていた、と言う事なのではないでしょうか。

9:19 サムエルはサウルに答えた。「私が予見者です。私より先に高き所に上りなさい。今日、あなたがたは私と一緒に食事をするのです。明日の朝、私があなたをお送ります。あなたの心にあるすべてのことについて、話しましょう。

9:20 三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないようにしてください。見つかっていますから。全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。」

全イスラエルの思い」とは、王制の導入であり、士師が創造者にして支配者なる神様に伺って民の指導を行なう政治から、王様が民を導く政治への転換を現しています。

その王権は、サウルに与えられ、サウル家に与えられているとの宣言なのです。

創造者にして支配者なる神様の統治は士師であれ、王様であれ、創造者にして支配者なる神様の選びによって決定します。

人が選ぶのではありません。

投票で選ぶのでもなく、推薦で選ぶのでもありません。

そして、その統治は世襲が基本です。

祭司の仕事はレビ部族、アロンの家系に与えられており、神の幕屋、神殿に仕える仕事はレビ部族に与えられた働きです。

王様もサウルを初代とするサウルの一族に与えられたのです。

しかし、サウルが創造者にして支配者なる神様に従い切らなかったので、その王権は創造者にして支配者なる神様によって取り上げられ、ダビデに与えられ、ダビデの子孫に受け継がれて行ったのです。

預言者の働きは特殊であり、世襲も無くは無いのですが、創造者にして支配者なる神様に召されてその働きに付く、と言う点では王様の任職、祭司、レビの任職と同じです。

三職、即ち、祭司、預言者、王様、どの働きも創造者にして支配者なる神様の召によるのであり、創造者にして支配者なる神様が与える働きなのです。

9:21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

前回学んだように、ベニヤミン部族は絶滅の危機を体験しています。

その危機の原因はギブアの住民の不品行、淫らな行いです。

士師記1920章に記されていますが、ギブアの住民を庇ったベニヤミン部族25000人が殺され、600人しか生き残らなかったのです。

ですから、21節のサウルの言葉は謙遜でも、誇張でもない真実の証言なのです。

イスラエル民族の恥辱となった部族の末裔であり、そのギブアの住民だとの告白なのです。

とてもではないが、イスラエルを指導する立場に付くに相応しい者ではない。

イスラエルを代表する職務に付くに適格、最善では無いと告白しているのです。

しかし、創造者にして支配者なる神様の選びの基準は、そんな過去の事ではなく、今のあなたの謙り、謙虚さを見て選ばれるのです。

9:22サムエルはサウルとそのしもべを広間に連れて来て、三十人ほどの招かれた人たちの上座に着かせた。

9:23 サムエルは料理人に、「取っておくようにとて渡しておいた、ごちそうを出しなさい。」と言った。

9:24 料理人は、もも肉とその上にある部分を取り出し、サウルの前に置いた。サムエルは言った。「これはあなたのために取っておいたものです。あなたの前に置いて、食べてください。その肉は、私が民を招いたと言って、この定められた時のため、あなたのために取り分けておいたものですから。」その日、サウルはサムエルと一緒に食事をした。

24節の「もも肉」は特別な部位の肉であり、右ももの肉は創造者にして支配者なる神様に献げられ、祭司の分とされ、一般人は食せない部位の肉です。

聖書には左右の区別を記していませんので、サウルにどちらの肉を取り分けたのかを断言出来ませんが、特別な部分であることに変りはありません。

また、「その上の部分」とは、関節の部分の肉を現すのか、アブラ尾を現すのかは意見が分かれるところですが、もし関節の部分の肉であるならば、創世記32章、ヤコブが神の人と戦った逸話に紹介されていますが、イスラエル人はこの故事を理由に「ももの上の関節の上の、腰の筋を食べない」のです。

もしアブラ尾であるならば、アブラ尾は貴重な部位であり、創造者にして支配者なる神様に献げ、大切な貴賓に饗する部位であったのです。

どちらにしてもそれだけ、重要なお客様であった事の証拠です。

9:25 彼らは高き所から町に下って来た。それからサムエルはサウルと屋上で話をした。

9:26 彼らは朝早く起きた。夜が明けかかると、サムエルは、屋上にいるサウルに叫んだ。「起きてください。あなたを送りましょう。」サウルは起きて、サムエルと二人で外に出た。

9:27 二人が町外れへと下っていたとき、サムエルがサウルに「しもべに、私たちより先に行くように言ってください。」と言ったので、。しもべは先に行った。「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」

この後、サウルはサムエルから油を注がれ、王様としての任職を受けますが、王様としての実権を与えられるのは今しばらく先の事になります。

【適応】

創造者にして支配者なる神様は謙る者を選ばれます。

能力が無くても、創造者にして支配者なる神様は必要な能力を与えて下さいます。

或いは、時に応じて助け手を送って下さいます。

良い王様、名君と言われる人には、有能なブレーン、参謀が必ずそばにいます。

自分が小さな者だ、取るに足りない者だとの自覚がある内は、それらのブレーン、参謀の意見を聞き、また意見を求めることでしょう。

ですから、王様は何でも出来る必要は無く、何の取り柄も無くても、創造者にして支配者なる神様に聞き従う謙虚さがあれば充分な素質を備えていると言えるのです。

サウルは王様として選ばれた時、この謙りを持っていました。

私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか」。

モーセも「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」と言い、

イザヤも「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と言い、

エレミヤも「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」と言って辞退したのです。

このような例は枚挙に暇がありません。

創造者にして支配者なる神様は雄弁な者を選ばれるのでも、聖い者を選ばれるのでも、経験豊かな者を選ばれるのでもありません。

創造者にして支配者なる神様は朴訥な者を選ばれ、汚れた者の中から選ばれ、未熟な者を選ばれるのです。

創造者にして支配者なる神様は自分は小さい、何の役にも立たない、愚かでつまらない者だ、と思っている者を選ばれるのです。

それは能力を誇る事が無い様にするためであり、

誰でもが、創造者にして支配者なる神様に仕え得る者であることを教えるためでもあるのです。

歳を取っていても、若くても、弱くても、強くても、元気でも、病気でも、寛容でも、短気でも、男でも、女でも、誰でもが、そのままで創造者にして支配者なる神様に仕え得るのです。

背伸びをする必要も無く、大きく見せる必要もありません。

隠す必要も無ければ、殊更に顕示する必要もありません。

ありのままの自分で良いのです。

そして、人の持つ弱さが創造者にして支配者なる神様の働きの妨げとなることはありません。

力、若さ、強さ、健康、何であっても人の持つ強さが、創造者にして支配者なる神様の働きの前進に繋がるのでもありません。

創造者にして支配者なる神様の願っている働き人は、教会の働きに限定されません。

家庭でも、学校でも、職場でも、地域でも、遣わされる人を必要としているのです。

何も出来ないからと尻込みするのではなく、こんな私ですが用いて下さいと祈るなら、

創造者にして支配者なる神様はあなたにしか出来ない働きを、場所を、時を与えて下さいます。

ここにおられる皆様の、今持っている賜物で充分創造者にして支配者なる神様の働きに応じる事が出来るのであり、創造者にして支配者なる神様はそれを望んでおられるのです。

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                                                       2020-3-1礼拝

 聖書箇所:エペソ人への手紙47節~11

 説教題:「キリスト者の多様性」     

 【導入】

 新改訳2017版 4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

 4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、

 4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。

 4:4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

 3節の聖句の「一致」から、4節の聖句の「からだは一つ」から、キリスト者は、皆が同じようにする事をよしとする傾向があるようであり、また、皆が同じように考えている、と思い込んでいる節があるようですが果たしてそうでしょうか。

 一致」や「からだは一つ」は、単一性や画一性を奨励している意味なのでしょうか。

 パウロの手紙の特徴は、最初に理論を記し、続いて実践を記す事です。

 このエペソ人への手紙も、3章までは、やや、抽象的な内容でしたが、4章からは、実践について記されています。

 そして、一つの章の中でも、理論と実践について記していますので、本日は、「一致」や「からだは一つ」の意味するところ、実践について、神の家族とされた者の生き方、召された者の歩みについて考えてみましょう。

 【本論】

新改訳2017版 4:7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

6節には、「すべて」と云う言葉が三回も記され、強調されていますが、創造者にして支配者なる、唯一真の神様にあって、であって、創造者にして支配者なる、唯一真の神様は、決して、十把一絡げを意図しているのでもなければ、単一性や画一性を推奨しているのでもありません。

パウロは、「一人ひとり」を強調します。

創造者にして支配者なる、唯一真の神の御子キリスト・イエス様は、「一人ひとり」を見て、個々を評価し、個別に判断し、個性に合わせて、御子キリスト・イエス様の「賜物の量り」、お取り計らいで「恵みを与えられました」。

御子キリスト・イエス様による、救いの恵みは、全員に同じですが、信徒、個々人に与えられる「賜物」は、十人十色、千差万別です。

一人ひとり」の信徒と云う器に合わせて、「賜物」が与えられるのです。

その信徒ですが、信徒は成長もし、衰えもしますから、成長期には、活動期には多くの「賜物」が与えられるでしょうし、休息期には、「賜物」を休ませて置く事もあるでしょうし、衰退期には、少しずつ「賜物」を返却して行く事もあるでしょう。

 信仰を持った直後には、簡単な「賜物」を与え、謙遜や柔和の収得に合わせて、特異な「賜物」を与えるのです。

同じ「賜物」であっても、上手く活用出来る時期があったかと思うと、差ほどでもなくなっていたり、何の苦労もなく出来ていた事が、いつの間にかに出来なくなっていたり、ある方面には特異な能力を発揮したかと思うと、ある方面は不得手であったり、一つの事が、ある時は完璧でも、ある時は不完全であったり、決してバランスが取れている訳でも、調和している訳でもないのです。

全てにおいて、御子キリスト・イエス様に主権があるのであり、常に同じ働きや行動が期待されている訳ではないのです。

御子キリスト・イエス様に対してのみ、「賜物」に対する責任があり、信徒同士で評価する事でも、優劣を競い合ったりする事でもありません。

 賜物」で自己表現するのでもなく、存在を誇示するのでも、自己満足するのでもありません。

 賜物」を付与された、御子キリスト・イエス様に対して責任があり、「賜物」を用いて、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の栄光を現すのです。

4:8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に賜り物を与えられた。」

これは、戦いに勝利し、凱旋する時、凱旋将軍は、多くの捕虜を引き連れ、家来には、敵国からの分捕り物を、報償として分け与える光景であり、詩篇6818節からの引用です。

御子キリスト・イエス様は、死に打ち勝ち、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の右の座に着き、私たち、御子キリスト・イエス様を信じる者に、其々に相応しい「賜り物を与え」てくださるのです。

捕虜」とは、御子キリスト・イエス様に征服されたサタンであり、死です。

4:9「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。

9節は、御子キリスト・イエス様は、天の存在であるとの教理を背景とする宣言です。

即ち、天におられたお方であるのに、一度「地上に降」て来られた。

そして、十字架に死に、復活され、天に上られた、との宣言なのです。

天におられるお方、即ち神なのに、謙りの極致(きょくち)、人となられ、蔑みの極致、十字架に付けられ、死を遂げられ、栄光の極致、復活され、天に上られたのです。

恵みの極致、賜物を信徒一人ひとりに与えられるのです。

4:10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。

すべてのものを満たすために」は、一度満たすために、の意味ではなく、満たし続けている、現在も、これからも、の意味です。

御子キリスト・イエス様のお働きは、継続であり、永続です。

一瞬でも止まる事はありません。

もろもろの天」との表現ですが、これは、当時のユダヤ人の、天に対する考えを意識、配慮した言い回しです。

当時のユダヤ人は、天には七つ、或いは、三つの階層がある、と考えていました。

最上位は、創造者にして支配者なる、唯一真の神様の階層であり、以下は、御使いの階級に応じた階層でした。

こんな考えはおかしいのですが、ここではその間違いを指摘、話題にはせず、御子キリスト・イエス様のお働きが、あらゆる領域に及ぶ事を宣言するために、あらゆる階層の上に上られた事を強調するのです。

天に上られたのは、暫しの休息のためでも、天的な力を補充、補填するためでもありません。

8節「人々に賜り物を与えられ」るためです。

その「賜り物」は、信徒一人ひとりの地上での働きのためです。

4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

御子キリスト・イエス様は、教会に様々な賜物を、恵みとしてお与えになりました。

ここには、五つの職務が挙げられていますが、職制、教職者について限定して語られている訳ではありません。

広く、教会一般の職務について語られているのです。

使徒」とは、御子キリスト・イエス様によって任命された人々であり、至高の権威を与えられており、御子キリスト・イエス様復活の証人であり、真理の解明者です。

その働きには、奇跡などのしるしが伴いました。

皆さん、よくご存知の、十二使徒と、十二使徒に加えられたマッテヤ、他に、パウロ、バルナバ、ヤコブ、シルワノ、テモテ、などです。

預言者」とは、神の言葉を取り次ぎ、教会の基礎を築いた人々であり、新約聖書が与えられるまでの霊的指導者です。

アガボ、ユダ、シラス、ピリポの四人の娘、などです。

伝道者」とは、各地を巡回した説教者であり、使徒を助け、使徒の指示の下に各地で活躍した人々です。

ピリポ、テモテ、などです。

牧師また教師」とは、二つの別の職務とも取れますが、一つの職務の、別の側面、との理解が支持されているようです。

牧師」は「羊飼い」の意味の言葉であり、パウロ、ヤコブは「教師」を自称しています。

新約の世界に生きる私たちには、「牧師また教師」が馴染み深い存在となっていますが、この職務は、教会が任命したのではなく、御子キリスト・イエス様が教会にお与えになったのです。

即ち、教会には「牧師また教師」の任命権はないのであり、罷免権もないのです。

教会が、独自の考え、教会規則で牧師また教師」を任命するのは、御子キリスト・イエス様に対する越権行為であり、罷免も甚だしい、御子キリスト・イエス様に対する主権侵害なのです。

世の中には、どの教団、教派にも所属しない、単立教会が存在します。

その教会の教職制度は、慎重に吟味する必要があるでしょう。

その教会の「牧師また教師」の職務は、御子キリスト・イエス様がお立てになり、教会にお与えになった、任命した、と確信できるか否か、です。

牧師また教師は、御子キリスト・イエス様が教会にお与えになったのであり、教会の権威下、支配下にあるのではありません。

しかし、また、教会の上にあり、教会を支配するのでもありません。

教会と共にあり、教会を霊的に導き、教会の霊的お世話をする、特殊な存在、働きなのです。

【適応】

聖書は、教職と云う職務について、多様性を認めているのです。

本日の説教のタイトルは「キリスト者の多様性」としましたが、しかし、現実は、極端ではないにしても「べき論」が横行し、型に嵌めたがる傾向があり、多様性とは程遠い状態です。

牧師はこうあるべき。そして、クリスチャン、信徒はこうあるべき。教会はこうあるべき。牧師夫人はこうあるべき。

その「べき」の根拠はと云うと、聖書の何処にも記されていない事が殆どです。

即ち、「私見」なのです。

聖書の教えるところは、「神を愛し、人を愛する」事です。

この枠からはみ出さない限り、多様性を認め、自由を最大限に尊重しなければなりません。

ルカの福音書1038節、2017136ページ、第3134ページ、「10:38さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。

10:39 彼女にはマリヤという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタはいろいろともてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」

10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。

10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

マルタは、当時の習慣に従って、女主人として出来る事を、精一杯行ないました。

当時、客人のもてなしが、家族総出でなければ為し得ない事は、言わずもがなです。

マルタは采配を振るい、使用人は勿論の事、近所の婦人にも、お友達にも応援を求めていた事でしょう。

それなのに、マリヤは手伝いもせず、家族としてすべき事をしていないのですから、傍から見たなら、マリヤはルールを破り、マリヤに非がある、と言えるでしょう。

また、当時、女性が、男性の集まりに加わる事はあり得べからざる事であり、非常識の極みであり、この点でも、マリヤの行動は批判されて然るべきです。

しかし、ここで、御子キリスト・イエス様は、マリヤを非難せず、      また、マルタを非難し、マリヤの行動に倣え、とも仰られてはいません。

御子キリスト・イエス様は、マルタの行動、もてなしを良し、とされ、また、マリヤの行動、静かに佇み、聴き入るも良し、とされたのです。

二人の行動は、どちらも御子キリスト・イエス様を愛するが故の行動であり、どちらも良しなのです。

この世でも、教会でも、行動的な人を賞賛し、あれこれ忙しく立ち振る舞う人、気配り出来る人、率先して行動する人をもてはやしますが、御子キリスト・イエス様は、行動しない事、行動は誰かにお任せして、静かに佇む事も良しとされるのです。

教会の中には、御子キリスト・イエス様に召された、多くの人がおり、御子キリスト・イエス様から、各々に相応しい賜物が与えられ、御子キリスト・イエス様から示され、促されて行動し、或いは、行動しないでもいます。

御子キリスト・イエス様が、この人の行動する、しないを許しているのに、あれこれ指示し、或いはマルタのように非難するあなたは、この教会の何なのですか。

御子キリスト・イエス様の上に立つ権威を持ち、指示する権限を持っているのですか。

教会は、教会こそ、一人ひとりの多様性を認め、自由を最大限に尊重しなければならないのです。

単一、画一は、どうしても独善的になり勝ちであり、また、排他的になり、柔軟な対応には不向きです。

一方、多様性は、個の尊重そのものであり、包括的であり、柔軟な対応を可能ならしめる重要な要素です。

多様性をもっている事が、教会の特徴であり、教会の強みであり、多様性は、御子キリスト・イエス様を頭とする事の現われであり、御子キリスト・イエス様の栄光を現す事なのです。

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