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                                                               2020-4-26礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙515節~20

説教題:「賢い人としての歩み」

【導入】

パウロは、エペソのキリスト者に、御子キリスト・イエス様に召された者に相応しく歩みなさい、と勧め、罪を離れて歩みなさい、光の子として歩みなさい、と勧めます。

そのパウロのお勧めですが、理論を語って、続いて実践を語る、と申し上げました。

その理論と実践を語る中でも、各地のキリスト者に回覧される事を考慮して、一般論を語り、直面している問題に対して、具体的な教えを語ります。

エペソ人への手紙の前には、ローマ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙が収められていますが、其々一般論を語り、ローマのキリスト者の中で起こった問題に対して、コリントのキリスト者の中で起こった問題に対して、ガラテヤのキリスト者の中で起こった問題に対して、具体的な指示を与えています。

このエペソ人への手紙も、一般論が語られ、特にエペソのキリスト者の中での問題について語られます。

そうは言っても、人間は皆、罪人であり、同じ問題に直面し、似た様な問題に直面します。

ローマで起こった問題は、似た様な問題は、コリントでも、エペソでも、現代の日本でも起こり得るのであり、コリントで起こった問題は、似た様な問題は、ローマでも、エペソでも、現代の日本でも起こり得るのです。

エペソで起こった問題は、似た様な問題は、エペソ特有の問題ではなく、何処でも起こり得る問題なのであり、全ての人の問題であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころが示された聖書から対処法を知るのは、非常に有益です。

今日は、「光りの子としての歩み」から一歩進み、「賢い人としての歩み」を具体的に学びたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 5:15ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、

どのように歩んでいるか」に「細かく注意を払いなさい」は、非常に現実的な、的確な指示です。

理想や目標はともかく、「どのように歩んでいるか」を知る事は必要不可欠な行為です。

現実を知らないでいては、理想に到達するのも、目標を達成するのも非常に困難でしょう。

現実を知るからこそ、理想や目標とのギャップを埋める方法が見極められるのです。

現実を知る事なくして、がむしゃらに、精神論だけで歩み続けても、根性で頑張っても、理想に到達する事はなく、目標を達成する事もないでしょう。

しかも、「細かく注意を払いなさい」であり、漠然とした注意、ではなく、事細かな注意を払わなければならないのです。

何が、どうなのか、に注意を払わなければなりません。

例えば、「だらしない生活」、ではなく、時間にルーズである、とか、約束にルーズであるとか、金銭にルーズであるとか、であり、整理整頓が出来ないとか、計画立てが出来ないとか、です。

何が、がはっきりすれば、対処法も自ずとはっきりしてきます。

エペソの人々は、因習や悪習の中で生きて来たので、それが当たり前であり、何の疑問も疑念も起こらないでしょうが、御子キリスト・イエス様の贖いによって、光の子とされたのですから、光の子としての歩みが期待されているのは当然です。

しかし、エペソの人々のみならず、全ての人は、何が創造者にして支配者なる唯一真の神様の喜ばれる事かを知りはしないのです。

その意味での「知恵のない者」、「知恵のある者」であり、知識や常識、知恵や学のあるなしを言っているのではありません。

創造者にして支配者なる唯一真の神様を知っているか、否かであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様についての真理、摂理を教えられているか、否かです。

御子キリスト・イエス様に属しているか、否かであり、光の子か、暗闇の子か、光の中にいるか、暗闇の中にいるか、です。

御子キリスト・イエス様に贖われた者として、自分の歩みに「細かく注意を払いなさい」です。

5:16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。

知恵のある者」の歩みの第一は、「機会を十分に活かしなさい」です。

十分に活かしなさい」は、「(時を)贖い出す」の意味であり、「機会」を悪魔から贖い出し、御子キリスト・イエス様のために用いなさい、「機会」を悪人から贖い出し、御子キリスト・イエス様のために用いなさい、「機会」をこの世から贖い出し、御子キリスト・イエス様のために用いなさい、です。

良き事をなす「機会」を逸しないように、犠牲を払っても、「機会」を、今の時を有効に用いなさい、です。

悪い時代」とは、今、生きているこの時代の事であり、患難な時代になったら、迫害が始まったなら、御子キリスト・イエス様のために用いなさい、ではなく、今、御子キリスト・イエス様のために用いなさい、なのです。

今出来ないなら、患難や迫害の中で出来るはずがないのです。

このエペソ人への手紙が記されたのは、紀元61年頃と云われていますが、この12年後には、ローマの大火が起こり、皇帝ネロによる激しい迫害が始まります。

その4年後には、パウロの殉教と、ペテロの殉教があり、紀元70年にはエルサレムが壊滅します。

こんな時代の流れ、兆候を読み取ったパウロだからこそ、警告を発したのではありません。

時が良くても悪くても、好機を逃してはならないのであり、すべき事をすべきであり、世に対して警告を発し、「暗闇のわざ」を「明るみに出し」、自身に対して「細かく注意を払い」「機会を十分に活かしなさい」なのです。

それは、全てのキリスト者の使命です。

5:17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。

愚か」は、知識や常識、知恵や学のあるなしを言っているのではありません。

実際的、実践的な判断能力が欠けている事を意味することばです。

ここでは、御子キリスト・イエス様の御こころにそぐわない判断をなす事であり、御子キリスト・イエス様の喜ばれない行為をなす事です。

自己中心、虚栄ではなく、御子キリスト・イエス様の御こころが何であるか、御子キリスト・イエス様の喜ばれる事が何であるかを悟るのです。

悟り」と訳されているギリシャ語は、「洞察する、理解する、合点する」事を意味することばですが、生き方、歩み方において、御子キリスト・イエス様のご意見を参考にする、と云うのではありません。

御子キリスト・イエス様は、良き助言者であるばかりか、私たちの「主」です。

御子キリスト・イエス様の御こころを理解し、随従する事が、私たちキリスト者の職務であり、使命なのです。

5:18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

知恵のある者」の歩みの第二は、「ぶどう酒に酔ってはいけません」です。

エペソがある小アジア地方、エーゲ海は、葡萄の産地であり、ぶどう酒の生産地です。

酒の神バッカスが祭られ、男どもは酒宴、酒盛りに現を抜かし、其処彼処で乱痴気騒ぎ、馬鹿騒ぎ、酔った勢いからの喧嘩が繰り広げられていたのです。

「酒は百薬の長」と申しますが、「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、「飲む」は「打つ、買う」に繋がり易く、廃退の始まりなのであり、飲酒こそ、世の悪行の筆頭である事を、パウロは声を大にして強調するのであり、キリスト者は関わってはならないのです。

ここで、「ぶどう酒」について、飲んで良いのか、いけないのか、の議論について、お話しましょう。

ぶどう酒」と訳されているギリシャ語は「オイノス」ですが、「オイノス」と訳されてしまったヘブル語は二種類あり、「ティロシュ」と「ヤイン、シェカル」です。

この二つ、実は明確な違いがあります。

「ティロシュ」は、葡萄の搾り汁であり、所謂「ブドウジュース」ですが、創世記2728節などでは「新しいぶどう酒」と訳しています。

「ヤイン、シェカル」は、葡萄の搾り汁を発酵させたもので、所謂「ワイン」です。

創世記921節などでは「ぶどう酒」と訳しています。

新約聖書で飲んで良いとされる「オイノス」は、「ティロシュ」であり、「ブドウジュース」です。

飲むのを避け、酔うのを避けるべき「オイノス」は、「ヤイン、シェカル」であり、「ワイン」です。

どちらも「オイノス」と訳してしまったので混乱が生じています。

18節の主旨は、「酔ってはいけません」であり、飲む事を禁じてはいないとの反論があるかもしれませんが、酒の神バッカスを祭り、酒宴、酒盛りに現を抜かし、其処彼処で乱痴気騒ぎ、馬鹿騒ぎ、酔った勢いからの喧嘩沙汰に繋がるのであれば、現代に於いては、「酒気帯び運転」が重大な事故の要因になり、取り締りの対象になる犯罪であるなら、「酔ってはいけません」は「飲んではいけません」と理解するのが、御子キリスト・イエス様に従うキリスト者の、賢明な判断なのではないでしょうか。

加えて、「放蕩」と訳されているギリシャ語は、「救われがたい」を意味する言葉であり、「酔う事」や「飲む事」は、救われがたい愚行に繋がる、と理解するのが、御子キリスト・イエス様に従うキリスト者の、賢明な判断なのではないでしょうか。

ぶどう酒」を飲み、酔うのではなく、「御霊に満たされ」なさいと、パウロはお勧めします。

ぶどう酒」を飲み、酔った結果は、放蕩三昧、不道徳に繋がり易く、御子キリスト・イエス様を悲しませましょう。

御霊に満たされ」、御子キリスト・イエス様をお喜ばせしたいものです。

5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

知恵のある者」の歩みの第三は、「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い」です。

詩と賛美と霊の歌」に、明確な区分はなさそうであり、「」とは、旧約聖書の詩篇を、竪琴などの楽器の伴奏付きで歌う事であり、「賛美」とは、初代教会のキリスト者が作った歌であり、「霊の歌」とは、信仰の歌一般を意味する、との理解が主流のようですが、確固、明確な区分がある訳ではなさそうです。

互いに語り合い」とありますので、信徒の交わりに「詩と賛美と霊の歌」がある事がパウロの描く教会の交わりなのでしょう。

口角泡を飛ばして、聖書を語るのではなく、「詩と賛美と霊の歌」を、交互に歌い交わす、麗しい交わりは、酒に酔った勢いでの乱痴気騒ぎ、馬鹿騒ぎとは、雲泥の差、月とスッポンの差でしょう。

続いて「主に向かって」「心から」「賛美し、歌いなさい」とのお勧めが、「知恵のある者」の歩みの第四です。

会衆賛美は「主に向かって」、即ち、御子キリスト・イエス様に向かって「心から」であり、口先だけの歌唱ではなく、技巧、テクニックを凝らした歌唱でもありません。

歌を謳うのが好きだとか、上手が悪い訳ではありませんが、決して、歌唱力を発表する場なのでも、優劣を競う場なのでも、歌ってすっきりするのでもありません。

音程を外さないに越した事はなく、まるで一人の人が歌うように歌うのは、素晴らしい事ですが、何より「心から」が大事、大切なのです。

そして、「主に向かって」と教えているように、見えない御子キリスト・イエス様を仰ぎ見るがごとくに賛美を献げるのです。

歌集を見る都合からでしょうが、下を向いたままでは「主に向かって」ではなくなってしまうのではないでしょうか。

歌集を掲げるのが難しい方もおられるでしょうが、歌う時は、顔を御子キリスト・イエス様に向けてこそ、「主に向かって」であり、「心から賛美し」こそ、御子キリスト・イエス様に相応しい賛美と云えるのではないでしょうか。

心から賛美し」の「賛美」は、前出の「賛美」とは番うギリシャ語が使われています。

後出の「賛美」は、「絃楽を奏でる」の意味を持つギリシャ語であり、楽器を用いて詠唱する事を指示しているようですが、楽器のあるなしに関わらず、「御霊に満たされ」た「心から」の賛美こそ、御子キリスト・イエス様に献げるに相応しい賛美なのです。

5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

ここでも心から」の「感謝」が求められている事は、説明するまでもないでしょう。

創造者にして支配者なる唯一真の神様への感謝は、口先だけの、美辞麗句の羅列であってはなりません。

立て板に水の流れる如くの流暢な口調である必要はありません。

創造者にして支配者なる唯一真の神様への感謝の吐露であり、感謝せずには居られない思いが込められている事こそが大切、重要でしょう。

その、創造者にして支配者なる唯一真の神様への感謝は、御子キリスト・イエス様への全幅の信頼の故に、御子キリスト・イエス様を通してのみ、創造者にして支配者なる唯一真の神様に感謝を献げる事が出来るのです。

御子キリスト・イエス様を通してのみであり、他の何者をも通す必要もありません。

母マリヤを通す必要はなく、十二使徒を通す必要もなく、聖人と呼ばれる人を通す必要もありません。

贖いも、救いも、赦しも、永遠の命なども、御子キリスト・イエス様を通して与えられており、私たちの感謝は、御子キリスト・イエス様を通してのみ、創造者にして支配者なる唯一真の神様に届けられるのです。

【適応】

本日の説教のタイトルを「賢い人としての歩み」としましたが、先ずは、「主のみこころが何であるかを悟」らなければなりません。

そのためには、日々、聖書を読まなければならず、聖書に親しまなければなりません。

良くは分からなくても、退屈でも、つまらなくても、聖書通読をしなければならず、デボーションガイドを利用して、聖書から学ばなければなりません。

聖書は、創造者にして支配者なる唯一真の神様が執筆者であり、聖書には、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころが明確に示されています。

聖書は、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころを知る唯一の手掛かりです。

世の中には、良い生き方のヒント、成功の秘訣、などの書籍が数多くありますが、創造者にして支配者なる唯一真の神様によって造られた人間に必要なのは、人間が書いた啓発本ではなく、指南書ではなく、聖書です。

聖書は、異国語で書かれた、異文化の中で書かれた、古い書物ですので、多少の助けが必要であり、その助けは、説教であり、奨励であり、デボーションガイドです。

「賢い人の歩み」とは、お手本になるような信仰生活を送っている、とか、聖書知識が豊富であるとか、信仰生活が長いとか、礼拝や祈祷会を休まないとか、たくさん奉仕をしているとか、たくさん献金をしているとか、立派な行い、親切な行いをしているとか、などなどではありません。

聖書を読む事であり、聖書に親しむ事であり、結果、御霊に満たされる事です。

心の渇きを、「酒」で満たすのではなく、心の悩みや葛藤や憂さを、「酒」で晴らすのではなく、心の飢えを、友情や愛情などの人間関係で満たすのでもなく、不満や不安などを、人間の交わりで解消するのでもありません。

御霊で満たされ」る事が、「賢い人としての歩み」なのです。

その御霊ですが、御子キリスト・イエス様の執り成しによって、キリスト者の心の内に住まわっていてくださっています。

しかし、満たされているか、となると、疑問です。

この世の思い煩いが心の大半を占め、御霊は極一部を占めているに過ぎないのではないでしょうか。

御霊で満たされるためには、祈る事です。

即ち、「賢い人としての歩み」とは、祈りです。

その祈りですが、先ずは、御霊に満たされる事に特化した祈りであるべきでしょう。

皆さん、其々、色々な祈祷課題を持っていましょうが、御霊に満たされる事は、何より優先度が高く、重要です。

御霊に満たされない状態での祈りは、自己中心の祈り、同じ事の繰り返しの祈りにならざるを得ません。

自己満足のために、自分の願いの達成のために祈るのではありません。

19節、20節のために「御霊で満たされ」る事を祈るのです。

御霊で満たされ」ていなければ、聖書を読んでも、身に付かず、祈っても、から回りするだけであり、聖書を読む事にも、祈る事にも、意味も意義も見い出せず、聖書を読まない、祈らないキリスト者となってしまうでしょう。

御子キリスト・イエス様から離れさせる力は強力であり、持続的であり、巧妙です。

それに打ち勝つ力も、持続力も、御霊によるのであり、御霊に満たされたキリスト者の集まりが、交わりが、麗しい教会を形成していくのです。

                    

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                    2020-4-19礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙58節~14

説教題:「光りの子としての歩み」

【導入】

パウロの手紙の特徴は、理論を語って、続いて実践を語る、と申し上げました。

その実践を語る中でも、理論を語り、具体的な実践を語ります。

実践も手を変え、品を変え、繰り返し語ります。

人間は、一を聞いて、十を知る人は少なく、何回聞いても、中々理解しないのであり、頑なであり、中々受け入れず、直ぐに忘れてしまい、実践となると躊躇してしまう生き物なのです。

「召された者の歩み」は何なのか、「整えられた者の歩み」は何なのか、「闇を離れる歩み」は何なのかを語ってきましたが、根っこは一つであり、角度を変えて、語っているのです。

今日は、「光りの子としての歩み」との説教題を付けましたが、語っている根っこは一緒です。

光りの子として歩むためには、闇を離れなければならず、闇を離れたならば、光りの子としての歩みになるのです。

光りの子としての歩みを一つずつ確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 5:8 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

あなたがたは以前は闇でした」とは、闇に支配されていた状態を言い表していますが、的確に表現するなら、「あなたがたは「闇」そのものだ」です。

パウロは、「あなたがたは暗黒の支配者、サタンの下にある「偽りの子」だ」と宣言するのです。

あなたがたは、サタンに騙されて、間違った道を歩んで来たと、サタンにそそのかされて、意図せずに、仕方なく罪を行なって来たと、思っているかもしれないが、サタンに騙されたのではなく、自ら正しくない道を選び、サタンにそそのかされたのではなく、意識的に罪を行なって来た、と断定するのです。

むしろ、喜んで、積極的に、罪を楽しんで来た、と断定するのです。

闇の行いは明白であって、ここまでに述べて来た数々です。

取るべき自らの責任を取ろうとせず、人に責任を転嫁し、人を困らせ、人が困っているのを見て楽しんで来たのです。

勿論、時には責任を取った事もあったでしょうし、人を慰め、はげまして来た事もあったでしょうし、親切も大いに行なって来たでしょうが、実は裏があり、褒められるためであったり、良い評価を得るためであったり、と自分のために、が動機であり、これは明白な闇の行いです。

罪は、してはならない事をするばかりではなく、しなければならない事をしないのも罪です。

多くの人は、してはならない事ばかりを注目しますが、しなければならない事をしないのも、罪であり、闇の子は、闇の中で、してはならない事を行い、しなければならない事を、闇の中に居座ってしないのです。

しかし、今は、御子キリスト・イエス様にあって「」となったと、パウロは宣言するのです。

端的に表現するなら「あなたがたは「光」そのものだ」です。

パウロは、「あなたがたは光の君の支配下にある「光の子」だ」と断言するのです。

光である御子キリスト・イエス様に属する者として、御子キリスト・イエス様のご性質を受け継いでいる者だ、と宣言するのです。

パウロは、救われる以前の状態と、救われて以降の状態を明確に切り分けています。

即ち、救われる以前と、救われて以降は、連続ではなく、断絶、切り替えであり、闇を出て、光となったのであり、闇に戻ってはならず、光として歩まなければならないのです。

コリント人への手紙第二614節、2017362ページ、第三版352ページ、「6:14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。6:15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう」です。

闇と光には、関わりがなく、交わりもなく、調和もなく、共有もないのです。

切捨て、離れなければなりません。

そして、

5:9 あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。

善意」は「慈愛、善良」の意味であり、品性に於いて善意の人であり、「正義」は「公義、公正」の意味であり、社会的に正義の人であり、「真実」は「正直、廉直」の意味であり、生活原理に於いて真実な人です。

この9節ですが、新共同訳聖書は、「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」と訳し、口語訳聖書は、「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」と訳し、新改訳第三版は、「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」と訳しています。

光は実を結ぶ」の逐語訳は「この実は、この光の」であり、「この光の実は」と訳すのが適当かと思います。

」も「」も単数です。

光の実」が、「善意と正義と真実」を生じさせるのであり、「光の実は、善意と正義と真実です」と訳すのが、原意に近いと思われます。

光の子ども」は「光の実」であり、「善意と正義と真実」を生じさせるのです。

善意と正義と真実」を揃って持ち、言動に現れている事が、「光の子ども」である事の印、証拠です。

「サタン」は、御使いを装い、キリスト者、信者、教会を混乱させます。

「闇の子ども」は、サタンの手下であり、「光の子ども」を装い、キリスト者、信者、教会に混乱を招きますが、「サタン、闇の子ども」を見分ける方法は、「善意と正義と真実」な言動か否かで判別出来るのではないでしょうか。

もしも、「光の子ども」と呼ばれていながら、また、「光の子ども」を自称しながら、「善意と正義と真実」でない部分があるなら、本当に「光の子ども」なのかと、疑ってみるのは有益です。

5:10 何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。

パウロの具体的指示の第一は、「光の子ども」として、「何が主に喜ばれることなのか」を「吟味」する事です。

キリスト者の実際生活の規準は「何が主に喜ばれることなのか」に尽きます。

この世の道徳や善行、良とされる事や奨励される事は、絶対的基準ではありません。

時代によって変わり、文化によって変わり、社会によって変わります。

変わらない基準は、御子キリスト・イエス様にあるのです。

具体的には、聖書です。

聖書を基準に「神と人を愛する」事です。

吟味」は、「見分ける」の意味であり、見分ける力を養わなければなりません。

具体的には、聖書です。

聖書を拠りどころとし、聖書から教えられなければなりません。

基準が聖書であるから、万人が同じ基準で「吟味」「見分ける」事が出来るのです。

ですから、日々の聖書通読とデボーションの継続が如何に重要かです。

キリスト者は、日々の聖書通読とデボーションで養われなければならないのであり、週一の礼拝説教で養われる事を期待するのは難しいでしょう。

そもそも、礼拝は読んで字の如く、「礼節を尽くして拝する」場であり、神を讃える事が中心であり、養われる事が中心ではありません。

度々申し上げて来た事ですが、「礼節を尽くして神を拝し、讃える」事が、礼拝の中心、最大のポイントです。

安息日のために、神に受け入れられる礼拝を献げるために、日々の聖書通読やデボーションで整えられて、神の前に出るのであり、日々の聖書通読やデボーションで整えられているからこそ、神の前に出る事が「主に喜ばれること」であると知り、神に受け入れられる礼拝となるのです。

汚れた罪人が献げたにも関わらず、神が受け入れてくださった事、神に受け入れられる礼拝を献げ得た事、それが恵みなのです。

更に付け加えるならば、神が受け入れてくださった事で、神に愛されている事を確認出来た事が恵みなのです。

昨今は、インターネットでの配信などで礼拝を、と云う風潮がありますが、もしも、説教を聞く事が中心であるならば、礼拝の本質とずれているのではないでしょうか。

説教は、礼拝のほんの一部であり、中心ではない事が御子イエス様の行いに現れています。

ルカの福音書417節、2017115ページ、第三版114ページ、「4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、4:19 主の恵みの年を告げるために。」4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

聖書朗読だけであり、説教らしい箇所は見当たりません。

真の礼拝は、汚れた罪人が、聖い神の前に出る事を許されている、であり、汚れた罪人の礼拝を神が喜んで受け入れてくださる事です。

これが礼拝の主たる恵みです。

5:11 実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。

パウロの指示の第二は、「暗闇のわざに加わらず」です。

これはキリスト者なら、信者なら、説明するまでもない、当たり前の事ですが、これが中々に難しいのです。

人は、人間関係を大事、大切にする生き物であり、これはこれで良い面も沢山あるのですが、悪い面として、関係悪化を懸念し、「暗闇のわざ」の誘いに「ノー」と答えられず、関係を断ち切れず、ずるずる引き込まれてしまい易いのです。

友情や、愛情が、足枷となり、脚を引っ張り、「暗闇のわざに加わ」わる結果となってしまうのです。

続けてパウロは第三の指示を出します。

消極的な、「暗闇のわざに加わらず」程度ではなく、もっと積極的に、「暗闇のわざ」である事を、「明るみに出しなさい」とパウロは勧めます。

口語訳聖書は、「指摘して」と訳し、文語訳聖書は、「責めよ」と訳しています。

暗闇のわざ」である事を告発、責めるのですから、その人との人間関係は完全に破綻するでしょうし、怨まれ、憎まれる事にもなるでしょう。

暗闇のわざ」の種類によっては、村八分の憂き目に遭うやも知れませんが、それらに怯んでいては、「光の子ども」に相応しくはありません。

御子キリスト・イエスに従い、「光の子ども」として生きるか、「サタン」に従い、「闇の子ども」として生きるか、の二者選択をしなければならないのです。

人々の悔い改めのために、警告を与えるために、至っては、御子キリスト・イエス様の栄光を現すために、愛を持って「暗闇のわざ」である事を、「明るみに出」さなければなりません。

エゼキエル書317節、20171417ページ、第31362ページ、「3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる」。

光の子ども」が、言い訳をし、使命と責任を回避したならば、人々は死ぬ事、滅びる事になります。

5:12 彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。

暗闇のわざ」の、具体的な行為は記されていませんが、「ひそかに行っていること」、「口にするのも恥ずかしいこと」との記述から、偶像礼拝や、性的な事柄なのではないでしょうか。

暗闇のわざ」の一つは、偶像礼拝や性器信仰でしょうが、そこかしこに偶像の宮があり、白昼堂々と、公衆の面前で、公然と行なわれていたのでしょうし、エペソの街の一角には、いかがわしい店が立ち並び、薄暗い店内では、もう一つの「暗闇のわざ」が行なわれていたのであり、強盗、追い剥ぎ、騙し、誤魔化し、嘘、偽りなどは日常茶飯事だったのです。

光の子ども」の使命は、「暗闇のわざ」に加わらない、近付かないだけでなく、恥じて、隠れて、密かに行なわれている「暗闇のわざ」の「暗闇のわざ」たる事を告発しなければならないのです。

光の子ども」は、異教社会の暗黒面、恥部に「」を照射し、その罪、汚れが、どれ程おぞましいものなのかを、告発し続けなければならないのです。

光の子ども」の働きにより、「暗闇のわざ」が明るみに出された時、「暗闇のわざ」に加わっていた者が恥じ入り、悔い改める事が期待されるのであり、「暗闇のわざ」に加わっていた者を断罪し、社会から追放するのが目的でない事は、明確にしておかなければなりません。

そもそも、キリスト者も、元を質せば「暗闇のわざ」に加わっていた者であり、報いとして、滅ぼされて当然な者なのに、御子キリスト・イエス様の贖いによって、赦されたに過ぎないのです。

愛を持って「暗闇のわざ」を告発する事が期待されているのを忘れてはなりません。

5:13 しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。

すべてのもの」は、この世のありとあらゆる罪咎の類ではなく、直前の12節の「ひそかに行っていること」と、「口にするのも恥ずかしいこと」でしょう。

ひそかに行っていること」、例えば人殺し、盗みなどは、指摘するまでもなく罪である事が明らかですが、社会に溶け込んでいる習俗、習慣の中には好ましくない行為があり、創造者にして支配者なる、唯一真の神様のお喜びにならない行為、嫌われる行為があり、それは「口にするのも恥ずかしいこと」ですが、慣れ親しんでいるので、指摘されなければ罪である事は分かりません。

創造者にして支配者なる、唯一真の神様がお喜びになられる行為が何であるかをお伝えし、社会に警告を与え、悔い改めを促すのが、「光の子ども」の使命なのです。

もう一つの「すべてのもの」の意味は、「暗闇の子ども、罪人」でしょう。

暗闇のわざ」の存在も問題ですが、行なう人間がいてこそです。

「暗闇の子ども、罪人」に「」が当てられ、「暗闇の子ども、罪人」である事が明らかにされます。

「暗闇の子ども、罪人」に自覚を起こさせ、悔い改めを促すのが、「光の子ども」の使命なのです。

5:14 明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」

14節aは、「光の子ども」の働きによって、「暗闇のわざ」が「明らかにされ」た時、暗闇のわざ」は「」になる、の意味でしょうか。

そうではなく、13節「光によって明るみに引き出され、明らかにされ」た「暗闇の子ども、罪人」は、「暗闇のわざ」に留まる事が出来なくなり、「光の子ども」に変えられる、との理解が支持されているようです。

」に照らされ、「眠っている人」、即ち「死者」は、「起き」「起き上が」らされるのであり、「キリストがあなたを照らされ」、「光の子ども」に変えられるのです。

【適応】

本日の説教のタイトルを「光の子としての歩み」としましたが、先ずは、「不従順の子ら」から離れる事、その「仲間になってはいけません」と理解する事が出来るでしょう。

その次は、「暗闇のわざ」を明るみに出しなさい」でしょう。

先に暗闇のわざ」を告発しなければなりません、とお話しましたが、「暗闇のわざ」を行なっている者を告発し、吊るし上げにし、見世物にし、完膚なきまでに叩きのめすのではありません。

この世では、この社会では、当たり前のように、何の問題もない事として行なわれていたとしても、それらが「暗闇のわざ」である事を告発し、離れるように促すのが「光の子としての歩み」です。

促すのであって、離れさせるのは、御子キリスト・イエス様です。

光の子ども」は、「キリストが」「不従順の子ら」を照らされ」、暗闇のわざ」から離れさせ、「光の子ども」に変えられるお手伝いをするのです。

ここでも主体は御子キリスト・イエス様です。

「光の子としての歩み」は、摘発者になる事でも、警察官になる事でも、裁判官になる事でもありません。

摘発ではなく、忠告、警告を発する者であり、道案内、道標、看板です。

常に御子キリスト・イエス様を指し示し続けるのが、「光の子としての歩み」です。

道案内、道標、看板は、それ自体に価値がある訳ではありません。

木製でも、プラスチック製でも、アルミ製でも、何でも良く、色鮮やかでなくても、デザイン性に優れなくても良いのです。

ライトアップとか、イルミネーションなどの、余計な機能は不必要です。

道案内、道標、看板の価値は、内容にあり、正しい方向を指し示している事であり、一目で分かる事であり、見間違いが起こらない事です。

道案内、道標、看板は、誰にも誉められる存在ではなく、誰からも評価されない存在でしょう。

道案内、道標、看板は、道に迷った人にとっての必要であり、多くの場合、ある一人の人にとっては、一回限りの必要でしょう。

もう二度と必要とされる事はないでしょうが、それでも、命に関わる事なのであり、迷った人にとっては、必要不可欠な、ありがたいものなのです。

方向を見失った不従順の子ら」に、「暗闇のわざ」を何とも思わない「不従順の子ら」に、御子キリスト・イエス様を指し示すのが、「光の子ども」の働きです。

先に御子キリスト・イエス様と出会って、光の子ども」とされたキリスト者は、「不従順の子ら」に対する道案内、道標、看板として機能しているでしょうか。

道案内、道標、看板として、正しい方向、御子キリスト・イエス様を指し示しているでしょうか。

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                    2020-4-12礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙51節~7

説教題:「闇から離れる歩み」

【導入】

新改訳2017版 4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

パウロは、「怒っても、罪を犯してはなりません」、とお勧めします。

」りが「」に繋がり易い感情の一つであり、注意が必要である事を教えているのであり、更に、「憤ったままで」と、継続も罪だと、パウロは指摘しているのです。

感情を爆発させ、感情に流され、感情をコントロール出来なくなるのが、問題であり、罪に繋がってしまい易い事を警告しているのです。

感情的にならず、冷静に、そして「怒り」から離れる事、切り替える事が大切です。

26節では「怒り」を取り上げていますが、コントロールしなければならない感情は「怒り」だけではありません。

「憎しみ、妬み、嫉妬、恐れ、悲しみ、不安、・・・」も、持続、継続させてはならず、憎しみを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、妬みを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、嫉妬を抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、恐れを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、悲しみを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、不安を抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、なのです。

偽り」、「怒り」、「憤り」、「盗み」、「悪いことば」は、人を卑しめ、人を傷つけ、人を悲しませ、人を苦しめる行為であり、人を愛する行為ではありません。

感情に身を委ねる事は、コントロール不能の状態が続く事は、人間関係に悪い影響を与えるだけではありません。

「真実と愛の歩み」をされた御子キリスト・イエス様との関係に悪い影響を与えます。

本日の説教のタイトルを「闇から離れる歩み」としましたが、前回の説教のタイトル「真実と愛の歩み」と同じ意味であり、パウロは、同じ事を、別の角度から説明しているのです。

パウロの教えの一つ一つについて確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

愛されている子ども」・・・重要なのは「愛されている」事です。

正確に言うなら、「神に愛されている」であり、「神の子と見做され、愛されている子ども」だ、と云う事です。

神の子と見做され」る、資質もなく、資格もなく、権利もないのに、「愛され」る、資質もなく、資格もなく、権利もないのに、する事、為す事、悪しき事ばかりなのに、「神の子と見做され、愛されている」のです。


私たちは、自我が強く、自分勝手であり、頑なであり、強情です。

悪しき点を指摘されても、素直に認める事が出来ず、改めようともせず、自分は正しい、少なくとも悪くはないと主張し、責任を転嫁し、責任を取ろうとはせず、責任の一端を負おうともしません。

愛される、何の要素も、良いところも、従順さも持ち合わせては居ません。

呆れられて、嫌われて、見捨てられても当然なのに、「神の子と見做され、愛されている」のです。

ですから」「神に倣う者となりなさい」と、パウロは強く勧めるのです。

ここで「神に倣う者」は「神に似た者、生き写しの者」になる、の意味ではありません。

「摂理の神に倣う者」、の意味であり、例えば、空腹の者、貧しい者に、衣食を給する、とか、です。

マタイの福音書2535節、201754ページ、第354ページ、「25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」です。

更には、悪意を持って、自分を害し、傷付ける者を、無条件に赦す時に勝って、神に似る事はありません。

敵を愛し、敵を赦す時に、神の摂理が、現実となるのです。

ここで注意したいのは、敵は、現在進行形の敵である事です。

過去には敵だったが、今は和解したので、赦し、愛する、ではないのです。

神の子と見做され、愛されている」ので、この瞬間の敵を愛する事が求められるのです。

5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

敵を愛し、敵を赦す事の実践は、御子キリスト・イエス様がお手本、模範を示してくださいました。

更に、御子キリスト・イエス様は、単に愛した、赦したではなく、ご自身を「神へのささげ物、またいけにえ」として献げられ、無限の愛、無限の赦しを実践されたのです。

御子キリスト・イエス様に敵対する者を愛する、赦すだけでも、大変な事なのに、敵対し続ける者のために、ご自身の命を捨てられたのです。

ささげ物」と「いけにえ」の、一般的な違いについて触れておきましょう。

ささげ物」とは、一般的な献げ物の事であり、献げ物全般を指し、お金、穀物などなどです。

一方、「いけにえ」とは、特殊な献げ物の事であり、血を流す献げ物であり、動物を殺す事、血を注ぎ出す事を伴います。

聖書は、「血」は「いのち」であると、教えていますので、「いけにえ」は「いのち」を献げる事なのです。

更に、「ささげ物」と「いけにえ」の、もう一つの意味についても触れておきましょう。

ささげ物」の持つ別の意味は、「従順な生き方」を意味し、律法を欠けなく行なう生き方を暗示します。

いけにえ」の持つ別の意味は、「贖いの死」を意味し、神の義を全うし、満足させる献げ物であり、罪人の贖いを暗示します。

御子キリスト・イエス様は、人として、律法の要求を完全に全うされ、更に、神の子として、ご自身を献げられ、神の要求を完全に全うされた、と云う事なのです。

5:3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、淫らな行いも、どんな汚れも、また貪りも、口にすることさえしてはいけません。

3節、4節は、概ね429節、31節が意味するところの繰り返しです。

パウロは、使徒として、教師として、強く命令する事も出来るのですが、敢えてそれをせず、「聖徒にふさわしく」と、キリスト者、クリスチャンとしての自覚、自尊心に訴え、自重する事を懇願するのです。

淫らな行い」とは、「性的に乱れた風俗、風習」の事であり、「汚れ」、「貪り」は、「淫らな行い」の側面です。

エペソのような、交易で栄えている都市には、淫らな繁華街、いかがわしい性風俗街も付随し、非常に繁盛していました。

当時の社会ではありふれた事であり、誰も問題視しませんでしたが、パウロは一切関わってはならない事であり、のみならず、話題にしてもならない事だ、と警告するのです。

5:4 また、わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは感謝のことばです。

3節の「淫らな行い」は、ことばとなっても現れます。

4節は、429節が意味するところの繰り返しです。

わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」が、それです。

そして、これらを、パウロは、十戒の第七戒と関連付けて警告を発します。

即ち、「淫らな行い」、「汚れ」、「貪り」や、「わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」は、「姦淫」と同等なのだと、口と舌の悪用、乱用をたしなめているのです。

これらは否定的な面ですが、物事は否定的な面だけではありません。

パウロは続けて、肯定的な面を語ります。

口と舌が、与えられたのは、「感謝のことば」を発するためであり、口と舌の善用、聖なる用い方を勧めているのです。

また、「人の成長に役立つことばを語り」、「人に恵みを与え」るためであり、創造者にして支配者なる真の神様と、御子キリスト・イエス様を褒め讃えるためです。

道具は、正しく使わなければならないのであり、しかも、積極的に用いなければなりません。

5:5 このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。

パウロは、3節、4節でのお勧めの理由を述べます。

よく知っておきなさい」と、駄目押し、念押しをして、「淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません」と、強く断定、断言します。

先程、パウロは、「淫らな行い」、「汚れ」、「貪り」や、「わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」は、十戒の第七戒、「姦淫」と関連付けて警告しましたが、ここでは、十戒の第二戒、「偶像礼拝」と関連付けて警告を発します。

3節で、「淫らな行い」とは、「性的に乱れた風俗、風習」の事である、とお話しましたが、「性的に乱れた風俗、風習」には、性器信仰が含まれるのです。

性器を象徴する物を祭り、礼拝行為を行ない、子を授かることや、子孫繁栄、安産を祈願しますが、正に、第二戒、「あなたは、自分のために、刻んだ像を造ってはならない」に対する違反行為なのであり、第一戒、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」に対する違反行為でもあるのです。

淫らな行い」、「汚れ」、「貪り」や、「わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」は、自己中心や、自分の欲求を追い求める生き方の現れであり、自分を神と同等、或いは、神よりも上に置く考えであり、第一戒に対する違反行為である事も明らかでしょう。

5:6 だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。

空しい」は、「空虚な、真理のない、内実のない」と云う意味の形容詞であり、「空しいことば」とは、「戯言、虚言」であり、何の益も、もたらしません。

さて、「空しいことば」を発信し、キリスト者、クリスチャンを騙す「不従順の子ら」は誰でしょうか。

哲学者でしょうか。ユダヤ主義者でしょうか。律法廃棄主義的キリスト者でしょうか。異邦人でしょうか。教会に入り込んだ偽兄弟でしょうか。

不従順の子ら」は、特定の人間であるよりも、肉の思いの強い人間であり、誰もが、騙す側の人間になり得るのです。

それは、現代でも同じです。

人間関係を重要視し、人間関係で教会に繋ぎ止めようとする働き、活動には注意しなければなりません。

また、意識してなくても、個人的関係を重んじる人、何かに付け、自分が中心でいたい人、人と交わる事を好み、神との交わりが希薄になっている人、人が目標になり、御子キリスト・イエス様がお飾りになっている人、人との付き合いにかまけ、人間の交際は上手く行っても、肝心な御子キリスト・イエス様との関係を損なっている人、に注意しければなりません。

人が中心、重んじられるのは、キリストの教会ではありません。

5:7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。

不従順の子ら」の「仲間になってはいけません」であり、「不従順の子ら」と距離を置く事、影響を受けない事が重要です。

或いは、「不従順の子ら」に、安易な同調や共感をしない事も重要です。

適当な相槌を打っていると、同調した、賛同した、と取られかねません。

同調や賛同には、責任が伴うのであり、慎重さが求められましょう。

仲間になってはいけません」であり、付き合っても生けない、話しても生けない、ではありません。

そうでなかったら、この世から出て行かなければなりません。

この世に在りつつ、この世に染まらず、この世に生きつつ、この世に生かされているのではない自覚が大切なのです。

親しげに近寄ってくる人、友人の顔をして近寄ってくる人、親切そうに近寄ってくる人を、皆、信頼してはなりません。

人は、皆、罪人であり、信頼には値しないのであり、御子キリスト・イエス様のみに信頼を置いた生活を送らなければならないのです。

【適応】

本日の説教のタイトルを「闇を離れる歩み」としましたが、不従順の子ら」から離れる事、その「仲間になってはいけません」と理解する事が出来るでしょう。

その意味で、今日の中心聖句は7節と云えるのではないでしょうか。

不従順の子ら」の特長は、「空しいことば」を発し、「淫らな行い」、「汚れ」、「貪り」、「わいせつなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談」を口にします。

偽り」、「怒り」、「憤り」、「盗み」、「悪いことば」で、人を傷付けます。

こんな人たちには注意を払って、近付かなければ良いのですが、しかし、「不従順の子ら」は、そんな分かり易い人たちばかりではありません。

詐欺師は、如何にも誠実そうであり、とても人を騙すようには見えません。

如何にも騙しそうな人、胡散臭そうな人に、人は近付かず、騙されません。

サタンは、光りの子を装うのです。           

サタンの策略は巧妙です。

不従順の子ら」は、聖徒を装い、教会に入り込み、信頼を得てから、混乱を撒き散らします。

或いは、聖徒を引き込み、「不従順の子ら」に仕立て直し、混乱を撒き散らします。

昨日までの聖徒が、忠実無比な聖徒が、模範となって来た聖徒が、今日は不従順の子ら」になり得るのです。

狙われ易いのは、自負のある人、使命感に燃えている人であり、そんな人たちが「不従順の子ら」になり得るのです。

多くの賜物を与えられている人、教会で一目置かれている人、教会の中心的な人、そんな人が「不従順の子ら」になり得るのです。

そして、自己吟味をしない人、内省を疎かにする人が「不従順の子ら」になり得るのです。

自分は大丈夫、と思う人たちが「不従順の子ら」になり得るのです。

素晴らしい人たち、尊敬すべき人たちが、「不従順の子ら」になり得るのです。

人に頼られる人は、人を頼り易く、人を頼る人は、人に頼られる事を欲します。

人が中心の教会は、サタンの思う壺と言っても、過言ではないのです。

他人事ではないのです。

パウロは警告を発します。

不従順の子ら」の「仲間になってはいけません」と。

何時の間にか、気が付かないうちに「不従順の子ら」の「仲間」になり、教会に混乱と分裂を招く「仲間になってはいけません」。

「闇から離れる歩み」は、「不従順の子ら」になり得ると心得、自分は大丈夫、と思わず、自己吟味と内省の歩みなのです。

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聖書箇所:エペソ人への手紙425節~32

説教題:「真実と愛の歩み」

【導入】

新改訳2017版 4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、

4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、

4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造り出された新しい人を身に着ることでした。

パウロは、「古い人を・・・脱ぎ捨て」、「新しい人を身に着」なさい、とお勧めします。

古い人、とは、御子キリスト・イエス様を知る前、信じる前の行き方であり、新しい人、とは、御子キリスト・イエス様を知ってから、信じてからの生き方ですが、抽象的であり、具体的ではありません。

そこでパウロは、古い人の具体事例を挙げ、新しい人としてどのようにすべきかの具体例を挙げます。

ここで、注意したいのは、御子キリスト・イエス様を信じても、自動的に新しい人が身に付くのではない、と云う事です。

パウロは、分かり易いように、古い人を、着物のように表現をして説明し、脱ぐ必要性を訴えていますが、古い人は、着物のような、実態のある物理的な物ではありません。

古い人は、自我であり、精神的なモノであり、実体はなく、自我を脱ぐ、自我を殺す、と云うのは、簡単な事ではありません。

古い人は、なかなか簡単に脱げるものではなく、脱いだつもりでいても、気が付いたら、いつの間にかまた着ていた、って事もあるのです。

パウロの教えは、どの教えも示唆に富んだ教えであり、生涯をかけて取り組む課題でしょう。

一つ一つについて確認して行きましょう。

【本論】

新改訳2017版 4:25ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

具体例、その一は「偽り」です。

偽り」と訳されているギリシャ語の意味は、主に「嘘」ですが、嘘偽り、虚偽、誤魔化し、不正など、事の大小を問わず、影響の強弱を問わず、事実、真実でない事の全てです。

十戒の、第九戒に「あなたは、隣人について偽証してはならない」と教えている通りです。

思い込みや想像を、あたかも事実、真実のように語るなら、これも立派な「偽り」です。

子どもがよく、「皆が持ってる」などの言い方をしますが、この「皆が」が、自分の要求が、正当な要求であるかのように誘導するためであるなら、これも立派な「偽り」です。

そして、これと似たような事を、多くの人がやっているのではないでしょうか。

大人は狡賢いので、「多分、皆もそう思っている」などと、偽装し、責任を負わないで済むように、保身に繋がるような手はずをいたしますが、これも立派な「偽り」でしょうし、偽装工作しているだけに性質(たち)が悪い。「偽り」は、道徳的に、倫理的に正しくない事ですが、それ以上に、お互いの連帯性、一体性など、有機的な繋がりを毀損し、兄弟姉妹の関係性、教会の交わりを破壊する悪しき行為なのです。

パウロが、如何に教会を一体のものと捉え、キリストにある一致を大切に考えているかが如実に現れています。

4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

具体例、その二は「」りです。

怒っても、罪を犯してはなりません」であり、「」りが「」に繋がり易い感情の一つであり、注意が必要である事を教えているのです。

憤ったままで」と、継続が罪だと、パウロは指摘しているのです。

感情を爆発させ、感情に流され、感情をコントロール出来なくなるのが、問題であり、罪に繋がってしまい易い事を警告しているのです。

聖書は「怒り」そのものを悪であると呼んではいませんし、「正しい怒り」があるのであり、「怒り」を罪であるとはしていません。

まあ、怒らないのが一番でしょうが、怒りを持続させない事が重要なのです。

感情的にならず、冷静に、そして「怒り」から離れる事、切り替える事が大切です。

26節では「怒り」を取り上げていますが、コントロールしなければならない感情は「怒り」だけではありません。

「憎しみ、妬み、嫉妬、恐れ、悲しみ、不安、・・・」も、持続、継続させてはならず、憎しみを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、妬みを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、嫉妬を抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、恐れを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、悲しみを抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、不安を抱いたままで「日が暮れるようであっては」ならず、なのです。

これらの感情に身を委ねる事は、コントロール不能の状態が続く事は、御子キリスト・イエス様との断絶に繋がるからです。

自己憐憫に陥り、慰められる事を欲し、同情される事を要求するようであってはなりません。

そんな、人との繋がりを提供するのが教会でも、教会の交わりの目的でもありません。

御子キリスト・イエス様との結び付きを妨げるものは、全て排除しなければなりません。

4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

怒りの持続、継続は、悪魔が付け入る絶好の機会を与えてしまいます。

他にも、憎しみ、妬み、嫉妬、恐れ、悲しみ、不安、の持続、継続は、悪魔に付け入る隙を与えてしまいます。

人は、心を占めるものの影響を受け、変質して行き、それを周囲に撒き散らすようになります。

怒りは、怒りを撒き散らし、憎しみは、憎しみを撒き散らし、妬みは、妬みを撒き散らし、嫉妬は、嫉妬を撒き散らし、恐れは、恐れを撒き散らし、悲しみは、悲しみを撒き散らし、不安は、不安を撒き散らします。

それは悪魔の思う壺であり、御子キリスト・イエス様から離れさせる、絶大な効果を発揮します。

そして逆もまた真なりであり、愛は、愛を分け広げ、喜びは、喜びを分け広げ、平安は、平安を分け広げ、寛容は、寛容を分け広げ、親切は、親切を分け広げ、善意は、善意を分け広げ、誠実は、誠実を分け広げ、柔和は、柔和を分け広げ、自制は、自制を分け広げ、御子キリスト・イエス様に近付き、似た者となるのであり、悪魔の敗北です。

ここで、確認しておきたいのは、「自制」です。

愛や親切、善意の押し付けは、逆効果、もあり得ます。

喜びなども、有頂天な喜びようは、自制を欠いた行為であり、子どもの行為であり、

新しい人を身に着」た人に、相応しくはありません。

何事も自制、自重が必要、重要です。

 4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

 具体例、その三は「盗み」です。

 盗み」は、汗水流して働く事を厭い、楽して良い生活をしようとの、怠惰な性格、生活の果てであり、出すべきものを出し惜しむと云う、不届きな考え方の行き着く先です。

 盗み」と訳されているギリシャ語は、「泥棒と強盗の中間の者」の意味合いで解されるようですが、社会の法に触れるような、本格的な盗みだけでなく、不当な利息を課しているとか、難癖付けて代金の支払いを惜しんだり、賃金の支払いを故意に先延ばしにしているとか、預かり物や渡すべき物を、手元に留めているとか、などと共に、老いた両親、助けを必要とする親族の世話をせず、誰かに押し付けるとか、をも意味します。

更には、ユダヤ人には、旅人、困窮者、弱者、寡婦、孤児を援助しなければならない、と云うユダヤ社会のルールがあるのであり、収穫の十分の一を献げ、祭司やレビ人を養わなければならない、と云う宗教上のルールもあるのですが、それらを等閑にするのは、誤魔化すのは、また、神様に献げるべき物を先延ばしにしているならば、それは、神様の眼から見たならば、盗みを働いている人、立派な盗みである、なのです。

勤労に励み、正当な収入を得て、自活するのは言うまでもなく、弱者への援助のためにも、すなわち、隣人愛の実践のためにも、勤労に励み、惜しみなく、分け与える事が求められているのです。

4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

具体例、その四は「悪いことば」です。

悪い」は「腐った」の意味であり、「罵り、誹謗、中傷」のみならず、「くだらない言葉、卑猥な言葉、下賎な言葉」を、「いっさい口から出してはいけません」。

口と舌が、与えられたのは、「人の成長に役立つことばを語り」、「人に恵みを与え」るためであり、創造者にして支配者なる真の神様と、御子キリスト・イエス様を褒め讃えるためです。

成長」と訳されているギリシャ語は、「建築」の意味の言葉であり、「成長に役立つ」を、新共同訳聖書も「造り上げるのに役立つ」と訳しています。

一方、口語訳聖書では「徳を高めるのに役立つ」と訳し、第3版でも「徳を養うのに役立つ」と訳し、「徳」に限定していまが、15節で確認したように、「あらゆる点において・・・成長」が期待されているのであり、「徳」に限定していない事は明らかです。

ここまでに、「古い人を・・・脱ぎ捨て」ない人の行いの、具体例が述べられて来ました。

古い人を・・・脱ぎ捨て」ない人の言動は、害毒を撒き散らすのみならず、「聖霊」を悲しませます。

4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

偽り」、「怒り」、「憤り」、「盗み」、「悪いことば」は、「聖霊を悲しませ」ます。

聖霊が味わう悲しみは、期待はずれの失望や、単なる同情、深い共感ではありません。

聖霊が味わう悲しみは、他人事としてではなく、ご自身の悲しみとして味わわれています。

何故ならば、聖霊は、私たちの内に住んでおり、私たちと一体となっているので、ご自身の事として体験する事になるからなのです。

聖霊が悲しむのみならず、聖霊の聖さが損なわれ、聖霊の愛が傷つきます。

聖霊が傍観者であるなら、或いは伴走者などであるなら、「古い人を・・・脱ぎ捨て」ない人の言動によって、聖霊の聖さが損なわれる事も、聖霊の愛が傷つく事もないでしょうが、聖霊は私たちのうちに住んでおり、一体となっているので、私たちの言動は、聖霊の言動となり、聖霊の聖さを損ない、聖霊の愛を傷つける事にもなるのです。

そして、「古い人を・・・脱ぎ捨て」ない人も教会の一部であり、その人の言動は教会全体に影響を及ぼし、教会の頭である御子キリスト・イエス様を悲しませ、傷つける事になるのです。

ですから、聖霊の内住に相応しく、「人の成長に役立つことばを語り」、「人に恵みを与え」る言動、対応が求められるのです。

パウロのお勧めは、更に具体的になります。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

無慈悲」は、「矢のように鋭利な事」を表すギリシャ語であり、「辛い、苦しい、不快、有害」をも意味します。

人の不幸を見て、ほくそ笑むような心を表すのでしょう。

憤り」は、激昂する様、激発的な怒りを意味し、「怒り」は、26節の「怒り」とは、少しニュアンスが違い、私利私欲のための、保身のための、プライドを守るための、などの怒りを意味するギリシャ語であり、卑しい怒り、と称するのが、適切かも知れません。

自分に関わらなければ涼しい顔をしているのに、自分に関わると知った途端に、怒り狂うなどは、この部類の怒りなのでしょう。

怒号」は、単に「喚き散らす」意味よりも、敵意に満ちた、激情の発現であり、「ののしり」は、悪意を持って、相手を非難する事です。

ここに挙げた五つの行為は、単独でも発現するでしょうが、多くの場合、感情のコントロールを失っており、次々に、時には同時、一斉に発現するようです。

パウロは、「古い人を・・・脱ぎ捨て」る事の、締めくくりとして、「悪意」が、25節の「偽り」、26節の「怒り」、28節の「盗み」、29節の「悪いことば」、31節の五つの行為の根源なのだと断定し、これらの行為が、30節「贖いの日のために」、「贖いの日」と重ならないように、「すべて捨て去りなさい」と命じます。

私たちが、「古い人を・・・脱ぎ捨て」られなくても、「一切の悪意とともに、すべて捨て去」れなくても、御子キリスト・イエス様を心で信じて、口で告白すれば、救われる事は間違いありませんが、御子キリスト・イエス様再臨の時には、審判者なる神様に、為して来た行為に対して、為さざる行為に対して申し開きをしなければなりません。

この事を安易に考えてはなりません。

知らずにいたならば、緩やかな扱いになるでしょうが、確信犯には、格別厳しい扱いとなるからなのです。

ルカの福音書1247節、2017143ページ、第3141ページ、「12:47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。12:48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。

御子キリスト・イエス様の御こころを知りながら、いい加減に生きて来たなら、臍を噛むことになるのです。

心して、先に挙げられた悪しき行為を捨て、離れなければなりません。

4:32 お互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

最後に、パウロは、「新しい人を身に着」た人の為すべき行為を語りますが、32節は、説明するまでもない行為でしょう。

新しい人を身に着」たとは言え、相変わらず罪を持つ身であり、弱さがあり、愚かであり、欠点が山ほどもあり、思い込み、勘違い、間違い、誤解、無理解は避け難く、感情のコントロールは、簡単な事ではありません。

御子キリスト・イエス様の御こころの通りとは行かないでしょうが、間違いなく聖霊が内住しているのですから、内なる罪、その弱さ、愚かさ、欠点を越えて、「お互いに親切にし、優しい心で赦し合」わなければならず、助けは必ずあるのです。

優しい心」と訳されているギリシャ語は、「善良な、健全な、幸いな」と訳されるギリシャ語と、「はらわた、内臓」と訳されるギリシャ語の合成語です。

パウロは、御子キリスト・イエス様のお手本、模範があるのであり、聖霊の助けを確信し、「新しい人を身に着」た人としての歩みを命じているのです。

ここには、パウロの実体験と実践が反映しているのは間違いないでしょう。

パウロはキリスト者を強く、執拗に迫害しましたが、御子キリスト・イエス様に取り扱われ、赦しを体験し、赦しの使徒、愛の使徒となったのです。

罪人の頭が、御子キリスト・イエス様の弟子となったのであり、福音を届ける事に命を捧げているのです。

【適応】

本日の説教のタイトルを「真実と愛の歩み」としましたが、「真実」と「愛」は、並列のもの、別のものではありません。

25節から31節は、十戒の第六戒以降と深く関わっています。

即ち、25節から31節の禁止事項は、人を愛する事と深く関わっているのであり、真実、誠実に接する事は、人を傷つけない行為であり、人を愛する行為だ、と云う事なのです。

人を愛するなら、真実、誠実に接せざるを得ず、人を傷つける行為を選びはしないのです。

逆に、偽り」、「怒り」、「憤り」、「盗み」、「悪いことば」は、人を卑しめ、人を傷つけ、人を悲しませ、人を苦しめる行為であり、人を愛する行為ではありません。

勿論、罪を持つ身であり、弱さがあり、愚かであり、欠点だらけであり、感情をコントロール出来ない時も多々ありましょうが、真実、誠実な言動を心がけ、人を愛する事を何より優先させる決意を日々新たにし、持ち続けるなら、完璧ではなくても、失敗が多くても、御子キリスト・イエス様は、「新しい人を身に着」た人としての歩みとして、認めてくださるでしょう。

そして、御子キリスト・イエス様再臨の時には、審判者なる神様に、為して来た行為に対して、為さざる行為に対して申し開きをしなければなりませんが、御子キリスト・イエス様は証言台に立ち、喜んで弁護してくださる事でしょう。

新しい人を身に着」た人としての歩みだった、「真実と愛の歩み」だった、御子キリスト・イエス様の栄光を現す歩みだったと、弁護してくださるでしょう。

最後に、「新しい人を身に着」た人としての歩みと、「真実と愛の歩み」のお手本、模範は、御子キリスト・イエス様だけである事を確認して終わりたいと思います。

どの教会にも、素晴らしい人たち、尊敬すべき人たちが、たくさんいらっしゃいますし、いらっしゃいました。

しかし、どんなに素晴らしくても、どんなに尊敬出来ても、隠れている欠点があり、隠している欠点があり、上辺を繕ってはいますが、罪人の一人でしかないのです。

この手紙を書いたパウロも、その功績は計り知れず、本当に愛の人でしたが、罪人でしかなく、功績で、罪が帳消しになる事はないのです。

お手本、模範とすべきは、御子キリスト・イエス様だけなのです。

人をお手本、模範とする時、人が尊重される時、教会は、御子キリスト・イエス様を頭とする教会ではなくなります。

新しい人を身に着」た人の「真実と愛の歩み」とは、御子キリスト・イエス様を手本、模範とすることだけです。

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