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                               2020-5-31礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙65節~9

説教題:「奴隷と主人の歩み」

【導入】

世の中には、不条理な事や不合理な事がたくさん存在しています。

ある時代においては問題ない事柄でも、後の時代には野蛮である、非人道的であるとの非難を受ける事も少なくありません。

パウロの活躍した時代は、また近代まで、世界は男性社会であり、女性や子どもの権利は認められず、人権など考え及ばない事でした。

現代でも、地域によっては男性社会であり、絶対父権であり、女性や子どもには何の権利もなく、発言権すら認められない事も少なくなく、人権などあって無きが如しです。

エペソ人への手紙を学んで来ましたが、夫と妻の関係も、父親と子どもの関係も、現代では考えられないような、封建的な、絶対父権を基礎とする社会であり、夫や父親に従わない、意見を述べる、などは、あり得ない、考えられない事でした。

男性による、強権的、絶対的な支配が当たり前であり、それに異を唱えるなど、あり得ない事でした。

そんな社会に一石を投じたのが、パウロであり、キリスト教的な教えでした。

パウロは、キリスト教は、男性社会、封建的社会、絶対父権を、直接否定せず、問題提起もしてはいません。

逆に、妻にも子どもにも、徹底的に夫に、親に従う事を教えますが、それは創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に、聖書の教えに、御子キリスト・イエス様の御旨に適っていると諭すのです。

一方、夫には、妻を無条件で愛する事、父にも、子どもを、御子キリスト・イエス様の御旨に従って教育、訓戒するよう命じるのです。

既成の制度の改革や廃止を唱えたのでは、反論や抵抗が起こり、反発や攻撃となりかねません。

既成の制度に新しい解釈を与え、昇華させるのが、パウロのやり方であり、キリスト教の教えでしょう。

本日は、奴隷と主人の関係について扱います。

当時、奴隷は戦利品であり、武勲に対する報奨であり、私有の財産でありました。

資料によれば、ローマ帝国全体では、人口の5分の1が奴隷であり、ローマ市内では、人口の3分の1が奴隷だったそうです。

奴隷の働き、力で、国家や都市が維持されていたのであり、エペソでも、その比率に違いはあっても、奴隷制度で維持されていた事に変わりはありません。

パウロの教える、キリスト教が教える、奴隷と主人についての関係を見ていきましょう。

【本論】

新改訳2017版 6:5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。

当時、奴隷制度は、当たり前の事であり、少しも疑問視されてはいませんでした。

奴隷、本人でさえもです。

戦で負けて、捕虜となり、戦利品として奴隷とされ、或いは奴隷として売られしまったのであり、好き好んで選んだ身分ではないにしても、抗う事もなく、奴隷の身分を受け入れていたのです。

現代の私たちには、不思議な感覚ですが、社会全体が奴隷制度で成り立っているのであり、秀でた者は、執事に取り立てられたり、重要なポストを与えられてもいたようです。

出エジプト記に記されている事ですが、奴隷として売られたヨセフは、エジプトの大臣にまで成り上がりましたが、奴隷の身分である事に変わりはありません。

これが、当時の制度であり、考え方であり、これが2000年も続いていたのであり、人々の考え方、生き方に染み付いていたのです。

パウロも、直接的に、奴隷制度に異議を唱えてはおらず、寧ろ、奴隷制度を肯定しており、奴隷として呼び掛け、奴隷のあるべき姿を教えます。

当時、キリスト者のなかにも、奴隷階層の者が多かったようであり、5節での奴隷への呼び掛けは、キリスト者となった奴隷と思われます。

パウロの呼び掛けは、キリスト者は、身分に関係なく、「キリスト者」としての言動が求められるのであり、キリスト者の行動基準は、「キリストに従うように、恐れおののいて真心から」です。

先に、好き好んで選んだ身分ではないにしても、抗う事もなく、奴隷の身分を受け入れていた、と申し上げましたが、奴隷として、積極的に、喜んで、生き甲斐を持って生きている訳ではありません。

主人が見ていなければ、監督、執事が見ていなければ、サボるのは当たり前であり、如何にも忠実なように見せかけ、誤魔化し、主人が見ていても、監督、執事が見ていても、隙を盗んで手を抜くのが奴隷の当たり前です。

屈従、隷従を強いられるのであり、俗に奴隷根性、乞食根性などと申しますが、卑屈で、抜け目なく、狡賢いのが奴隷の姿なのですが、しかし、本当に具合が悪くても無理やり働かせる、冷酷無慈悲な主人であっても、一方的に決め付け、情け容赦なく断罪するような主人であっても、ヨセフのように、陰日向なく誠実に、常に忠実に、正直に働く事が、キリスト者のありようなのです。

6:6 ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、

日本には、「面従腹背」と云う言葉がありますが、「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方」は、正に「面従腹背」な生き方です。

面と向かっている時には、しおらしい態度を取り、また、恭順な態度を見せておりながら、背を向けた途端に、舌を出すような態度は、人間として浅ましい、あるまじき生き方ですが、

キリスト者としては、あってはならない態度、生き方なのではないでしょうか。

キリストのしもべ」の「しもべ」と訳されているギリシャ語は「ドゥーロス」であり、他の箇所では「奴隷」と訳されています。

キリスト者は、「キリストのしもべ」ですが、御子キリスト・イエス様は「しもべ、奴隷」としてのお手本、模範を示してくださいました。

御子キリスト・イエス様は、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御子であられるのに、人間に仕えて、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころを行なったのです。

同じく、この世の主人に仕える事は、御子キリスト・イエス様に仕える事であり、この世の主人に仕えて、御子キリスト・イエス様の御こころを行なうのです。

この世の主人は、御子キリスト・イエス様の御こころを意識しておらず、決して代理なのでもありませんが、理不尽、且つ、勝手、横暴な主人であっても、仕えなければならないのです。

その仕え方ですが、「心から」であり、嫌々ながらでもなく、不承不承でもなく、です。

仕える態度の根底にあるのは、御子キリスト・イエス様に対するように、であり、尊敬出来る主人には、ではなく、地位のある主人には、ではなく、利益をもたらす主人には、ではなく、優しい主人には、ではなく、尊敬出来ない主人でも、自分より低い地位、身分だった主人に対しても、不利益しかもたらさない主人に対しても、厳しく、情け容赦ない仕打ちをする主人に対しても、徹底的な従順、恭順で仕えなければならないのです。

6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

喜んで」は、他に「快く、楽しく」の意味であり、強制されて、ではなく、寧ろ、積極的に、率先して、です。

厳しい主人だけれども、御子キリスト・イエス様だと、自分に思い込ませて、信じ込ませて、言い聞かせて、気持ちを騙して、ではありません。

尊敬出来る主人であろうと、尊敬出来ない主人であろうと、地位のある主人であろうと、自分より低い地位、身分だった主人であろうと、利益をもたらす主人であろうと、不利益しかもたらさない主人であろうと、優しい主人であろうと、厳しく、情け容赦ない仕打ちをする主人であろうと、誰に対しても、自分は「キリストのしもべ」である、との自覚を持って、誰に対しても、全く同じように、寸分の違いなく「心から」仕えるのです。

とは云え、これは、非常に難しい事であり、全く同じようには、寸分の違いなく、仕える事はできません。

しかし、「主に仕えるように」と云う、唯一の基準があるだけなので、対応は一種だけであり、相手に応じた対応ではなくなるのです。

俗に云う、マニュアル通り、の対応を、誰に対しても、「心から」行なうのです。

6:8 奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。

奴隷」と「自由人」には、雲泥の差があるように思えましょうが、「奴隷」と「自由人」は、変え難い身分、越え難い差別のように思えましょうが、第一コリント722節、2017336ページ、第3326ページ、「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです」、であり、「キリストに属する」か、否かが重要なのであり、「良いことを行」ったか、否かが重要なのです。

良いこと」とは、この世の基準で見て、判断して、ではありません。

主に仕えるように」行なったか否かであり、「御子キリスト・イエス様の御こころを行なった者は誰なのか」が問われ、「それぞれ主からその報いを受ける」事になるのです。

この世の組織は単一性、同一性を求めがちですが、また、共同を奨励し、連帯責任を求めますが、教会は、単一性、同一性とは無縁の集まりであり、「それぞれ」の個性、「それぞれ」の賜物で、「主に仕えるように」行なったか否かが問われ、「それぞれ主からその報いを受ける」のです。

十把ひとからげの評価ではなく、連帯責任でもないのです。しかし、一つの身体として機能する事が期待されるのであり、協力し合って、助け合って、励まし合って、慰め合って、労わり合って、喜び合って、「主に仕え」るのです。

主に仕え」る事に、身分、男女、老若、学識の差、違いはありません。

こうしたら良いのに・・・、こうすべき・・・、も一切ありません。

もしも、手伝える事があるとするならば、アドバイスの必要があるとするならば、その人が「喜んで主に仕え」られるように、手伝い、助言するのであり、手出しや、指示は不要です。

手出しや、指示は、「喜んで仕え」る事の妨げになりこそすれ、「喜んで仕え」る事の助けにはなりません。

何より、御子キリスト・イエス様の主権を侵す行為でしかないと、肝に銘じておかなければなりません。

信仰暦が長く、多くの経験を積み、多種の、秀でた賜物を与えられていると、手助けをしたくなり、助言をしたくなりますが、手を引っ込め、口を閉ざさなければならないのです。

助けを求められた時に、助言を求められた時に、共に「主に仕え」るのです。

決して相手を助けるのでも、相手を叱咤激励するのでもありません。

共に「主に仕え」るのであり、これが重要なのです。

良かれと思ってした事が、御子キリスト・イエス様に対する主権侵害、親切心でした事が、御子キリスト・イエス様を侮っている事になりかねないのです。

御子キリスト・イエス様の喜ばれる手伝い、助言は、その人が「喜んで主に仕え」られるように、影で祈る事です。

或いは、「喜んで主に仕え」る事の妨げ、障害となっている事を、影の働きとして取り除く事です。

最後に、奴隷の主人に呼び掛け、指示を与えます。

6:9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。

使用人と奴隷には、明確な違いがあります。

使用人と主人とは、契約関係であり、働きや賃金に交渉があり、双方の合意があり、主従関係が発生します。

一方、奴隷は、主人の所有物であり、主人の一方的な考えで働かされ、交渉の余地は一切ない、絶対服従関係です。

使用人に対しては、気持ち良く働いてもらうために、相応の配慮をしなければなりませんが、奴隷には、そんな配慮は一切不要です。

有能な使用人には、長く働いてもらいたいので、他に行ってしまわないように、好条件を提示するでしょうが、奴隷には、他に行く事がないので、苛酷な働きをさせる事が出来るのであり、また、奴隷が逃げ出せない社会であり、配慮など不必要な社会なのです。

中ほどの「脅すこと」には、定冠詞が付いていますので、奴隷に対して「脅すこと」が、日常的であった事、当たり前に行なわれていた事、習慣化していた事を、知る事が出来ます。

家人は勿論の事、使用人にも優しい主人が、困っている人に対しては、分け隔てなく親切に振舞う主人が、奴隷に対しては「脅すこと」で意のままに操り、言葉の暴力で支配していたのです。

しかし、パウロは、主人に対して、使用人と奴隷を同じように扱いなさい、と命じます。

コロサイ41節、2017406ページ、第3394ページ、「主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」。

奴隷を人と思わない、傲慢な態度が当たり前の主人に対して、奴隷を家畜と同じように、乱暴に扱う横暴な主人に対して、奴隷にとって、存在自体が恐怖でしかない主人に対して、天に居られる、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を畏れて歩む事を勧めます。

主人も奴隷も共に、天に居られる、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を畏れて歩む時、奴隷制度は、実質的に崩壊するのであり、人間相互の、自由、博愛、平等が実現するのです。

【適応】

パウロの活躍した時代は、社会を動かしていたのは男性のみであり、家庭に於いては、父権が絶対の時代であり、奴隷制度が社会を支えていた時代です。

言い換えると、身分関係が社会に、家庭に、主従関係に大きな、強い、深い影響を与えていました。

更に言い換えると、上位が下位を、力の強い者が力のない者、弱い者を、男が社会を、夫が家庭を、主人が奴隷を支配し、下位の者は、力の弱い者は、女は、子どもは、奴隷は、面従腹背する事で社会が成り立っていたのですが、この上下関係、力関係による支配を、愛の関係に切り替える事を、パウロはお勧めするのです。

支配ではなく、お世話、配慮、寄り添いであり、面従腹背ではなく、裏表なく、主に仕えるように、喜んで仕えるのです。

これは、支配階層の崩壊を目論む意味ではありません。

社会の秩序は、王様、長老、祭司などの政治的、宗教的指導者に権限が与えられ、それに従う民にあり、家庭の秩序は、夫や親に権限が与えられ、それに従う妻や子どもにあり、経済活動の秩序は、雇い主や主人に権限が与えられ、それに従う使用人や奴隷にあるのが、創造者にして支配者なる唯一真の神様の聖定ですが、創造者にして支配者なる唯一真の神様の聖定を、双方が愛により理解し、実践し、秩序を維持するなら、創造者にして支配者なる唯一真の神様の聖定の通りの、麗しい秩序となるのです。

これは決して自由主義、社会主義を云々するものではなく、自由経済、共産主義を云々するものでもありません。

どちらにも長所短所があり、メリットデメリットがあり、完全に平等な社会、格差のない社会はあり得ません。

多かれ少なかれ差は生まれ、不平等や差別は起こり得るのであり、不当な支配が行なわれ得るのであり、搾取が行なわれ得るのです。

それらを解決に近づけるのは、愛による支配と服従です。

支配者も被支配者も、夫も妻も、両親も子どもも、主人も奴隷も共に、天に居られる、唯一真の神様、御子キリスト・イエス様を畏れて歩む時、問題を含む諸制度は、実質的に崩壊するのであり、人間相互の、自由、博愛、平等が実現するのです。

支配ではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めに従って、真心からお世話し続ける時、従属ではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めに従って、喜んで仕え続ける時、創造者にして支配者なる唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の願われる、喜ばれる、麗しい家庭、教会、社会が形成されて行くのです。

これらに率先して取り組んで行くのが、キリスト者の使命なのです。

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                              2020-5-24礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙61節~4

説教題:「子どもと父の歩み」

【導入】

エペソ人への手紙を学ぶに際して、このエペソ人への手紙は教会論を扱っていると申し上げました。

教会論とは云っても、教会とはなんぞや、教会では何が大切か、などが中心ではありません。

教会論は、組織論でも、運営方法論でもありません。

「教会」イコール「建物」「組織」であるなら、そうでしょうが、「教会」は「群れ、集い、集まり」の意味であり、「教会」は「建物」の意味ではなく、「救われた者」の意味です。

ですからエペソ人への手紙の中心は、救われた者の歩みであり、救われた者は、どのように地上の歩みを全うしたらよいのか、を中心に、話は展開されて来ました。

救われた者は、如何に歩むべきか、であり、御子キリスト・イエス様をかしらとした、さまざまな特徴、個性、差異を活かす歩みを示すものであり、画一的な考え方、やり方を推奨するものではないのです。

個々人の考え方、やり方の違いを尊重し、受け入れ、御子キリスト・イエス様にお仕えするのです。

考え方、やり方を尊重するとは云っても、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨から、聖書から、御子キリスト・イエス様の御旨から逸脱しないのが最低限の条件です。

言い方を変えるなら、「神を愛し、人を愛する」方法の多様性を認めるのであり、画期的な考え方、生き方を示したのです。

当時のユダヤ社会は、創造者にして支配者なる唯一真の神様が制定された聖書、律法を基準とした考え方をしていました。

これはこれで、基準が明確な素晴らしい社会であり、生き方でしたが、聖書や律法の解釈の段階で、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨から逸脱してしまっていたのです。

聖書は、律法は、規則は、「神を愛し、人を愛する」事を助けるものである事を見失い、聖書や、律法や、規則を字義通りに守る事、逸脱しない事に汲々とし、苦しいだけの、辛いだけの、喜びのない生活を送っていたのです。

しかし、聖書や、律法や、規則は、不要なもの、意味のないものではありません。

聖書や、律法や、規則は、有益であり、その本来の目的を取り戻すのは、御子キリスト・イエス様をかしらとする生き方なのです。

前回、「この世の慣習が、御子キリスト・イエス様や聖書の教えと同じであったとしても、キリスト者の行動は、全てにおいて、世の慣習、習いに従うのではなく、御子キリスト・イエス様や聖書の教えに従う、との意識が必要、重要です。

私たちの行動基準は、常に御子キリスト・イエス様が模範であり、聖書の教えでなければなりません。」とお話しましたが、聖書や、律法や、規則を活かすのも、御子キリスト・イエス様の模範なのです。

今回は、「子どもと父の歩み」について、具体的に学びたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 6:1 子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。

子ども」は、乳幼児、未就学児ではなく、ティーンでもなく、両者の中間の年少者を示すようであり、日本で云うならば、小学生位の、聞いて理解出来る年代であり、分別の付く年代の子どもを示すようです。

パウロは、「両親に従いなさい」と命じますが、これは「聞き従いなさい」と云う意味の命令です。

妻に対しても、521節や24節でも「夫に従いなさい」とお勧めしていますが、これは「下に身を置く」と云う意味の命令であり、ニュアンスに違いがあります。

子どもに対しては、聞き従う事を勧め、妻に対しては、身を低くする事を勧めているのです。

子どもにとって、力関係は歴然であり、身を低くする事には然程の困難さは覚えないでしょうが、自我が目覚め、確立する時期であり、聞き従う事の方が難しい事だからでしょう。

妻にとって、夫は対等の関係であり、身を低くする事の方が難しい事だからなのでしょう。

妻を持たず、子もないパウロですが、妻や子どもの心理を汲み取った、的確な指示なのではないでしょうか。

そして「両親に従」う事は、「正しいこと」だ、と断言します。

両親への服従は、両親への正しい敬意、敬愛の念から生まれ、起こります。

両親を侮り、憎むところに、敬意、敬愛の念は生まれず、服従に繋がりません。

この「これは正しいことなのです」、の「正しい」の判断基準は、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に照らして、聖書に照らして、御子キリスト・イエス様の御旨に照らして、であり、この世の常識や理想、儒教的な思想に照らして、ではありません。

パウロは、コロサイ人への手紙でも、子どもたちに対して両親への服従を説いていますが、コロサイ人への手紙320節では「それは主に喜ばれることなのです」と教えています。

両親に従う事は、「正しいことなので」あり、「主に喜ばれることなのです」。

何故ならば、創造者にして支配者なる唯一真の神様が制定された「十戒」の教えの一つだからです。

6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。

あなたの父と母を敬え」は、出エジプト記2012節、申命記516節からの引用ですが、「十戒」の第五戒です。

この第五戒ですが、「父母、両親」だけに限定している、と考えてはなりません。

祖父母、伯父伯母、叔父叔母、兄姉のみならず、広く、目上の人を意味すると共に、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めによる権威者、祭司や預言者などの、霊的指導者、律法学者、教師などの、学的指導者、長老や王様などの、政治的指導者を、敬わなければならないのです。

若い指導者だからと云って、侮ってはならず、無視してはならず、経験が浅い指導者だからと云って、軽んじてはならず、余計な口出しをしてはならないのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様が立てられた指導者として、聞き従うのが正しい事なのであり、主に喜ばれる事なのです。

第一の戒め」とありますが、その意味は、重要度に於いて、第一だからであり、十戒中の、人間関係を規定する戒めの筆頭だからであり、子どもたちが真っ先に学ぶべき戒めだからであり、約束、祝福を伴った最初の戒めだからである、などが挙げられます。

その約束、祝福は、3節に述べられています。

6:3 「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。

この約束も、出エジプト記、申命記からの引用です。

出エジプト記2012節、2017135ページ、第3130ページ、「あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするめである」、申命記516節、2017324ページ、第3314ページ、「それは、あなたの日々が長く続くようにするため、また、あなたの神、主があなたに与えようとしている土地でしあわせになるためである」。

出エジプト記、申命記で述べられている「土地」は、「カナンの地」の意味であり、地域限定であり、この世で、ですが、パウロは、このことばを世界化し、普遍化し、「世界の何処にいても」、「時代を越えて何時でも」の意味で長寿や祝福の約束を述べているのですが、単なる長寿や祝福ではありません。

自分だけの長寿や祝福ではなく、子々孫々に与えられる長寿と祝福と、子々孫々が連綿と続く、血縁の絶えざる祝福です。

それは、創造者にして支配者なる唯一真の神様との絶えざる交わりに基づく長寿と祝福です。

さて、十戒の第二戒にも、祝福が述べられていますが、戒めに従わない場合には、呪いがある事が述べられています。

しかし、第五戒には祝福だけが述べられているのであり、両親を敬い、服従する事が、如何に高く評価されているか、を物語っているのです。

自我が目覚め、己が確立してくると、聞き従う事や、身を低くする事に非常な困難を覚えるようになりますが、唯々諾々と従うのではなく、喜んで従うのであり、率先して従うのであり、その時、祝福が付随して来るのです。

6:4 父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。

夫妻へのお勧めでも、先ず妻に、夫に対して身を低くする事を勧め、次に夫に、妻を愛する事を勧めたように、ここ親子の関係においても、先ず子どもたちに、両親に従う事を勧め、次に父親に、子どもたちへの対応についてお勧めをします。

パウロは「父たちよ」、と呼び掛けますが、「母」に言及されていないのは何故でしょうか。

その理由として挙げられるのは、当時の家庭は、父権重視であり、父親が家庭での責任ある指導者であるから、5章で述べたように、妻は夫に従う者であるから、母親の保護下の時期を過ぎた、成長した子どもの教育を想定しているから、母権が軽視される社会であったから、などが上げられ、そして、父親は怒りやすい傾向があるから、父親に釘を刺す意味で、また、親権の乱用を戒める意味で、父親に呼び掛ける形を取ったのではないでしょうか。

現代に於いては「父」への呼び掛けの言葉であるよりは、「両親」への呼び掛けの意味と理解すべきであり、広く、指導的立場にある者たちへの呼び掛けと理解すべきでしょう。

その父親、両親、指導者の指導の仕方ですが、ガミガミと、クドクドと、また、理不尽な小言を言ったりしてはならず横暴、乱暴に振舞ってはならず、激情に駆られてはならず、常に一貫性を持って指導しなければなりません。

指導を受ける者たちが、感情的にならず、強い反感や、敵意、憎しみを持ってしまう事がないように、指導しなければならないのです。

指導の基準は、「主の」であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に照らして、聖書に照らして、御子キリスト・イエス様の御旨に照らして、であり、この世の常識や理想、儒教的な思想に照らして、ではありません。

教育」と「訓戒」は似たような意味を持つ言葉ですが、「教育」と訳されているギリシャ語は、薫陶、訓練の意味や、矯正、懲らしめの意味を含むことばであり、主に、行動による訓育であり、自己、行動、感情を抑制する事、役立つように修行する事、過失、失敗、不正については正直に告白する事、などを躾ける事です。

訓戒」と訳されているギリシャ語は、主に、言葉による訓育であり、励ましたり、忠告したり、叱責したりして躾ける事です。

どちらも、よく言い聞かせなければならず、繰り返し言い聞かせなければならず、時には、手本を示さなければならず、根気と忍耐の必要な働きです。

この「主の」との但し書きについて確認しましょう。

主の」は、「主についての」と読む事が出来ます。

世の中には有益な一般知識、専門知識は沢山ありますが、その基礎となるのは、「主についての知識」です。

箴言17節、20171092ページ、第31057ページに、「主を恐れることは知識の初め」と記されている通りです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様を恐れてこそ、すべての知識は活かされるのですから、両親の教育は、創造者にして支配者なる唯一真の神様について特化しなければならないのです。

さて、指導者には、大きな権限が与えられるため、時に、思い上がり、賢い、偉い、との錯覚を持ってしまう事があり、弊害を生んでしまう事に注意しなければなりません。

指導者自身が、先ず、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨を学び、謙り、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に忠実に生きなければなりません。

主日礼拝しか御ことばに学ばないで、日々聖書に親しまないで、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨を知る事は出来ず、謙る事は出来ず、行なう事は出来ません。

特に家庭での、両親の、聖書と取り組む姿の影響力は深く、広く、効果は絶大であり、子どもの「教育と訓戒」に不可欠、有益です。

聖書を読まない両親の下で、聖書を読む習慣が育まれるでしょうか。

礼拝を重要視しない両親の下で、礼拝の習慣が得られるでしょうか。

創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に従う姿勢のない両親の下で、両親に従う子どもに成長するでしょうか。

両親の最大の働きは、霊魂の育成であり、心身ともに、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨を慕い求め、御旨に生きる者とする事です。

社会的な地位に付いたり、財を成したり、後世に名を残すのも無意味ではありませんが、

創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨に反するなら、それは虚しい、と謂わざるを得ません。

【適応】

パウロの活躍した時代は、父権が絶対の時代であり、その分、父親が、子どもの教育に責任を持っており、父親は相応の自覚を持っていたようです。

但し、子どもと云っても、男の子であり、男の子の教育は、父親に、女の子の教育は、母親に、と分けられていたようです。

しかし、パウロは、因習を退け、両親に対して教育と訓戒」の責務を宣言し、男女の子どもに対して、平等に教育と訓戒」を行なうように指示したのです。

現代、友達関係のような親子の姿が、巷に溢れているようですが、創造者にして支配者なる神様が立てられた制度は、子どもは両親に従う、であり、両親は子どもを教育し、訓戒する、です。

教育の一部は、学校に委託していますが、子どもを教育し、訓戒する責任は、両親にあります。

特に、創造者にして支配者なる唯一真の神様について、聖書について教育するのは、両親の最大且つ、重大な責務です。

時には、鞭を用いてもです。

ここで、重要になってくるのは、子どもとの関係でしょう。

子どもは、神からの授かりモノでもなければ、天使でも、無垢でも、純真でもありません。

子どもは、創造者にして支配者なる唯一真の神様からの預かりモノであり、それ故に愛するのであり、自分の子だから愛するのでも、知り合いだから愛するのでもありません。

そして、人間は、私たちも含めて、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めによって教育と訓戒」を施さなければ、使い物にならない生き物なのです。

子どもが、創造者にして支配者なる唯一真の神様を敬い、畏れるように、教育と訓戒」をしなければならず、「教育と訓戒」をしなかったが故に、地獄に落ちてしまわないように、創造者にして支配者なる唯一真の神様を知らなかったが故に、滅びてしまわないようにしなければならないのです。

日本では、恥の概念を教育方針に置いて、「教育と訓戒」に取り組んでいるかも知れませんが、創造者にして支配者なる唯一真の神様に造られた私たちは創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めに従って教育と訓戒」しなければならないのです。

2節で、第五戒について、「父と母を敬え」についてお話しました。

そこで、「父母、両親」だけに限定している、と考えてはなりません。

広く、目上の人を意味すると共に、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めによる権威者、霊的指導者、学的指導者、政治的指導者も、敬わなければならない、とお話しました。

それは、子どもの教育と訓戒」は、社会で取り組むべき課題であり、特に、教会に与えられた重大な使命だ、と云う事です。

自分の子どもの「教育と訓戒」もままならないかもしれませんが、だからこそ、教会全体で、信徒の子どもたちを、教会に集う子どもたちを「教育と訓戒」しなければならないのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めを蔑ろにする力は強力であり、持続的であり、巧妙です。

この世の価値観、教育論、因習などに惑わされず、創造者にして支配者なる唯一真の神様の定めに従って、子どもたちを愛し続け、教育し続け、訓戒し続ける事が、創造者にして支配者なる唯一真の神様、御子キリスト・イエス様の願われる、喜ばれる、麗しい家庭、教会、社会を形成していくのが、両親の、指導者たちの、教会の使命なのです。

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                                   2020-5-17礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙525節~33

説教題:「夫の歩み」

【導入】

パウロは、エペソのキリスト者に、御子キリスト・イエス様に「召された者に相応しく歩みなさい」、とのお勧めを語ります。

パウロの話の進め方は、総論、理論を語り、続いて、各論、実践を語る、と云うスタイルです。

具体的に語られていますので、非常に分かり易く、また、大胆に語られており、説教者たるものは、斯くありたいと願うところです。

パウロは先ず、「妻の歩み」について語りましたが、続いて「夫の歩み」について語ります。

この順番にも、パウロの配慮があります。

先ず、夫の歩みについて語ってから、妻の歩みについて語ってもよさそうなものですが、パウロは、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころを踏まえて語っています。

創造者にして支配者なる唯一真の神様は、先ず「男」を造り、そして「男」に使命を授けられ、「男」に従う者、「男」を助ける者として「女」を造られました。

この秩序、ご計画、即ち「妻」は「夫」に従う者である事を明確にしてから、「夫婦」の間における「かしら」は誰なのか、「家族」の間における「かしら」は誰なのか、を明確にしてから、「夫の歩み」について語り始めるのです。

一般論を語るなら、順番に大きな意味はないでしょうが、パウロは、実践論を具体的に語る必要から、先ず「かしら」が誰であるかを周知させてから、「かしら」の務めを語り始めているのです。

「かしら」の務めは、当時の社会の、一般的な「夫」「かしら」の務めではありません。

似ている部分もありましょうが、「キリスト者」としての「かしら」「夫」であり、似て非なるものなのです。

現れた言動は同じでも、根拠が違えば、それはまったく違うものとして扱わなければなりません。

前回、「この世の慣習が、御子キリスト・イエス様や聖書の教えと同じであったとしても、キリスト者の行動は、全てにおいて、世の慣習、習いに従うのではなく、御子キリスト・イエス様や聖書の教えに従う、との意識が必要、重要です。

私たちの行動基準は、常に御子キリスト・イエス様の模範であり、聖書の教えでなければなりません。」とお話した通りです。

「夫の歩み」について、具体的に学びたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

夫が妻を愛するのは、御子キリスト・イエス様の模範です。

妻が弱い存在だから、女性が社会的弱者だから、ではありません。

結婚の誓約だからでもありません。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた」のを模範とするからです。

弱い存在を、社会的弱者を守り、慈しむのは良い事であり、結婚の誓約を守るのは、誠実な事ですが、これらは、結局のところ、自分が中心であり、自分の判断が基準です。

しかし、キリスト者の判断基準は、行動指針は、御子キリスト・イエス様であり、聖書の教えです。

25節で「愛し」と訳されているギリシャ語は「アガパオー」であり、ヨハネの福音書では「アガペー」として知られていますが、「至高の愛、犠牲的愛、無償の愛、献身的な愛」の意味を持つギリシャ語が使われています。

しかも、創造者にして支配者なる唯一真の神様の、人類に対する愛と、御子キリスト・イエス様の、教会に対する愛と、同じ意味で用いられているのです。

ですから、「妻を愛しなさい」は、自分を献げる愛を持って妻を愛するのであり、「妻のために自分自身を献げ」なさい、と補足して読まなければならないのです。

妻の絶対的服従は、夫の絶対的愛に育まれ、支えられ、助けられてなのですが、妻が夫に従うのは、夫が愛してくれるのが条件ではありません。

妻が夫に従うのは、御子キリスト・イエス様の教えだからであり、聖書の教えだからであり、例え、夫が愛してくれなくても積極的に、喜んで夫に従うのであり、愛してくれない夫に従う姿は、御子キリスト・イエス様の似姿であり、御子キリスト・イエス様に従う歩みである事を世に知らしめる事になります。

そして、夫は厳しい叱責を受ける事になるでしょう。

夫と妻のあり様は、キリストと教会のあり様であり、夫婦論から教会論へと展開し、また夫婦論へと展開して行きます。

夫婦と云う関係は、個人的な、世俗的な関係ですが、聖書の光を当てると、キリストと教会との関係である事が明白になります。

5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

水の洗いをもって」は、「洗礼」の比喩的表現ですが、創造者にして支配者なる唯一真の神様による聖別を意味します。

水の洗い」は、教会を御子キリスト・イエス様に相応しいものとするためですが、教会と云っても罪人の集まりであり、この世の縮図的な、雑多な集まりですが、「キリストが・・・教会のためにご自分を献げられ」たので、教会はきよめられ、聖なるものとされたのです。

夫に妻をきよめ、聖なるものとする、如何なる力もありませんが、夫は妻をきよめるものであれ、との使命を与えるお勧めなのです。

夫の妻をきよめる働きとは、妻を愛し、守る事であり、妻のために、夫婦関係のために祈る事でしょう。

それが妻をきよめる事であり、結婚を聖なるものとする事でありましょう。

5:27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

お世話、手助けは、他人任せ、本人任せにしてはなりません。

自分自身で、お世話し、手助けをしなければなりません。

御子キリスト・イエス様が、教会を、「しみや、しわや、そのようなものが何一つない」、外見的、表面的な美しさを持つものとし、「聖なるもの、傷のないもの」など、内面的、霊的な聖さを、合わせ持つようにされたのは、誰かに見せたり、自慢するためではありません。

ご自分の前に立たせるためです」。

教会を、御子キリスト・イエス様と対等な関係に置き、愛するのであり、決して、御子キリスト・イエス様に仕えさせるためでも、額づかせるためでも、忠実無比な僕とするためでもないのです。

ご自身を愛する事を現すために、教会をご自身の身体とし、愛するのです。

ここは29節につながりますので、29節で詳しく学びます。

5:28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。

教会のかしらである御子キリスト・イエス様が、お手本、模範を示してくださったように、夫婦のかしらである夫は、御子キリスト・イエス様のお手本、模範に倣って、妻を外面的にも、表面的にも、内面的にも、霊的にも、整え、自分自身の身体のように愛さなければならないのです。

古代社会では、妻を労働力の一種と見做し、使用人のように、時には奴隷のように扱う事があり、夫婦とは名ばかりの、持参金目当ての結婚があり、跡継ぎを生むための物、家財の一種のように扱い、跡継ぎを生まなければ、邪険に扱われ、片身の狭い思いをする者は少なくはなく、また結婚を、自分の都合に合わせて理想化し、美化し、幻想を抱き、結婚生活の現実に直面し、失望し、離婚と結婚を繰り返す者も、少なくはなかったのです。

それが当たり前の社会、何の疑問も持たない社会の中で、妻を使用人や家財のように扱うのは、自分自身の人格を傷付ける事に他ならないとパウロは警鐘を鳴らすのです。

「自分の妻」の、「の」は、所有を表す言葉であり、当時の社会の一般的な考え方ですが、パウロは、この「の」を、帰属を表す言葉として理解し、妻は夫と一体になるのであり、夫の人格の一部になるのであり、妻を愛する事は、自分を愛する事であり、御子キリスト・イエス様も同様に、教会を愛されているではないかと、話を展開して行くのです。

5:29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。

28節の「自分自身を愛している」についてですが、世はこのことばを聞いて、ナルシストであり、自己中であり、利己主義、我利主義、排他主義と捉え勝ちですが、聖書は、御子キリスト・イエス様は、自己愛が土台となって、他者愛が構築される、と説きます。

自分を愛する事は、創造者にして支配者なる唯一真の神様が造られたものを愛する事であり、自己愛と他者愛、隣人愛は、密接に繋がっている、同義だ、と断言するのです。

パウロは、自己愛は低次元、他者愛、隣人愛は高尚だ、との考え方に警鐘を鳴らし、自己愛を土台として他者愛、隣人愛へと発展させるのだ、と説くのです。

他者に寄り添う事も、隣人を理解する事も、自己愛が土台となるのであり、自分の存在を肯定出来なければ、自分自身の感情を持て余し、コントロール出来ないなら、他者の存在、隣人の存在は、疎ましいものでしかなくなるのではないでしょうか。

結婚と云う、不十分な制度ではあっても、結び合わされて一体となるのであり、一体とされた以上、名実ともに一体となるように、最大限の努力はしなければならず、特に、夫には、母親のような愛情を持って妻を「養い育て」る使命が与えられているのです。

勿論、妻と一体になったといえども、別の存在ですから、完全な理解や一致は無理としても、「キリストも教会に対してそのようになさるのです」を、見倣わなければならないのです。

そして、「養い育て」る働きを、使命、命令と捉えるのではなく、恵み、喜びと捉えるべきでしょう。

使命、命令と捉えると、目標だの、達成値、成果だの、と云った事が意識に上り、従わせると云った意識が強く働きましょうが、恵み、喜びと捉えると、寄り添う、分かち合う、と云った事が意識に上り、一緒に歩む、見守ると云った意識が強く働くのではないでしょうか。

5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

私たちと御子キリスト・イエス様は、別個の存在ではなく、たまたま、偶然に関係したのでもなく、御子キリスト・イエス様をかしらとする身体であり、離れ難き関係なのです。

その通りであり、30節は、キリスト者は、御子キリスト・イエス様のからだの一部であるとの宣言ですが、受け止めようによっては、汎神論やアミニズムにも繋がってしまう懼れのある考え方です。

ユダヤ教、キリスト教は、創造者にして支配者なる唯一真の神様のみを神とし、創造者と被造物、創造者と人間とを明確に、区別します。

言い方を変えるなら、礼拝されるべきは、礼拝の対象は、創造者にして支配者なる唯一真の神様のみであり、被造物は断じて礼拝の対象ではない、と云う事です。

一方、ローマも、ギリシャも、エペソも、数え切れない数の偶像で溢れ、シャーマンや口寄せ、魔術師や祈祷師が繁盛しており、神が人に憑依したり、融合する事を、受け入れる素地があります。

しかし、パウロはそんな事を云っているのでも、匂わせているのでもありません。

創造者にして支配者なる唯一真の神様は、御子キリスト・イエス様をこの世に送り、救い主となり、友となり、一体となられたのです。

一体と云っても、渾然一体ではなく、かしらと身体であり、有機的に繋がっているのであり、明確な区別があるのです。

決して御子キリスト・イエス様が、人に憑依したり、融合したりするのではないのです。

かしらとからだの関係であり、明確な区別がある、それが30節の言わんとするところなのです。

5:31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

31節は、創世記224節からの引用です。

創世記で「一体」と訳されているヘブル語は、「一つの」と、「肉、血縁、人類」であり、エペソ書で「一体」と訳されているギリシャ語は、「一つの」と、「人間、肉体、身体、血の繋がり」です。

自分自身のからだと云える程、夫婦が密接な関係にある事を、創世記からの引用で論証しているのです。

夫婦の仲は「一体」となったのであり、親との関係に勝り、子との関係にも勝りますが、決して親を蔑ろにしてもいいとか、子を捨て置いてもいいとか言っているのではありません。

親も子も、離れて行く存在ですが、夫婦は一度結び合わされたならば、決して離れられない存在になるのです。

もう少し付け加えるならば、離れないように努力し、関係を維持しなければならない、と云う事です。

一体」となった、とは云っても、肉体としては別々であり、考え方も違い、価値観も違い、そのままでは、違いばかりが目に付き、気に付き、目障り、気に入らなくなりましょう。

形だけの夫婦であってはなりません。

ですから、相互理解のための、不断の努力と協力が必要不可欠なのです。

そして、夫の、妻への犠牲的愛と、妻の、夫への絶対的服従が、御子キリスト・イエス様の願われる、夫婦の姿なのです。

パウロは、この夫婦関係を、御子キリスト・イエス様と教会との関係に展開して行きます。

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

御子キリスト・イエス様の、教会への犠牲的愛と、教会の、御子キリスト・イエス様の絶対的服従が、御子キリスト・イエス様、そして、創造者にして支配者なる唯一真の神様の願われる、教会の姿なのです。

御子キリスト・イエス様と教会との関係は、夫婦の関係に例えられる程、親密な関係なのです。

5:33 それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

それはそれとして」は、別の事を語りだすための前置きではなく、夫婦論から教会論に展開し、直ぐに夫婦論に展開し、また教会論に展開しと、目まぐるしく展開したものを、夫婦論に戻すための前置きです。

それぞれ」は、一人の例外もなく、の意味を強調することばです。

パウロの勧めに対して、及第点だった者も、更なる努力を必要とする者も、です。

人はとかく、他人事として聞く癖がありますが、良好な夫婦関係は、否、御子キリスト・イエス様、そして、創造者にして支配者なる唯一真の神様の願われる夫婦関係は、この世の夫婦関係とは似て非なるものです。

この世で、良い夫婦関係と称されるのは、仲睦まじく、対等の人間関係、お互いの意志、意見、考えを尊厳する夫婦でしょうが、御子キリスト・イエス様、そして、創造者にして支配者なる唯一真の神様の願われる夫婦関係は、夫の、妻への「アガペー」の愛、「至高の愛、犠牲的愛、無償の愛、献身的な愛」と、妻の、夫への絶対的服従であり、これを土台、基礎として、仲睦まじく、対等の人間関係、お互いの意志、意見、考えを尊厳する夫婦なのです。

【適応】本日の説教のタイトルを「夫の歩み」としました。

パウロの活躍した時代は、男尊女卑の時代であり、社会を支配し、動かしていたのが男性であるのは勿論の事、夫婦に於いても、家庭に於いても、全ての決定権を持っていたのは男性、夫でした。

そんな男の、或いは夫の専横が当たり前の社会で、パウロは、夫の、妻への「アガペー」の愛、「至高の愛、犠牲的愛、無償の愛、献身的な愛」を説いたのです。

当時の社会は、都市国家社会であり、王様がいて、家臣がいて、家臣は王様に対して絶対的服従を誓いますが、王様は家臣を扶養していたのであり、五分五分の関係です。

しかし、夫に対するお勧めは、五分五分の関係、条件付ではありません。

妻を無条件で、妻から一切の見返りを求めないで、「アガペー」の愛、「至高の愛、犠牲的愛、無償の愛、献身的な愛」を実践しなさいとお勧めするのです。

妻が、夫に絶対服従しても、しなくてもです。

妻の状態、対応に関わらず、妻を愛するのです。

自分を愛するのに理由は必要でしょうか。

人は、無条件で自分を愛するものです。

人は、咄嗟の瞬間に、自分を守る行動を取るものです。

夫は妻を、「一体」であるが故に愛するのであり、守るのです。

このお勧めは、御子キリスト・イエス様の願いだからであり、聖書の教えだからであり、創造者にして支配者なる神様の定めだからですが、教えであるより、お勧めであるより、妻だから妻を愛するのです。

妻を愛するのは、夫自身のためでもあり、家庭のためでもあります。

夫婦の秩序、家庭の秩序は、夫が妻を愛するところにあります。

妻を愛せない夫は、家族を愛する事は出来ないでしょうし、妻の欠点や問題の有無、考え方の違いを指摘し、妻を愛せない事の理由とするならば、夫婦の間の秩序や、家庭の秩序は崩壊します。

妻に、欠点や問題があるか否か、言動が納得出来るか否か、ではなく、御子キリスト・イエス様、創造者にして支配者なる神様が結び合わせてくださった妻だから愛するのです。

妻を愛するのは、祝福の基であり、夫のためなのです。

夫が妻を愛し、守る事に勝る夫の働きはありません。

教会での奉仕や働きは、会社や社会での働きや評価は、男性にとって非常に重要、且つ、重大な事ですが、教会での奉仕や働きは、会社や社会での働きは、誰かが代われる働きであり、代わりが不足する事はなく、居なくても困りはしないのです。

本人が思っている程、なくてはならない重要な、掛け替えのない存在ではないのです。

しかし、妻を愛する働きは、夫のみの働きであり、夫のみに許された働きであり、何人も代わる事は出来ません。

妻を愛すると云うよりも、妻と一体なのであり、自分を愛する事でもあるのです。

妻を守れるのは夫のみであり、夫だけが身を挺して妻を守る存在なのであり、妻の側に立ち、妻と共に立ち、妻を支える唯一無二の存在なのです。

妻を守ると云うよりも、妻と一体なのであり、自分を守る事でもあるのです。

しかし、夫婦の間にも、この世の価値観が入り込み、また、自己顕示欲の強さ、逆に自己肯定観の低さが、夫婦を分裂させようとする力となり、家庭を崩壊させようとする力となります。

その力は強力であり、持続的であり、巧妙です。

この世の価値観に惑わされず、妻を徹底して愛し続け、守り続ける事が夫の存在理由、価値なのであり、御子キリスト・イエス様、創造者にして支配者なる神様の願われる、喜ばれる、麗しい夫婦、家庭が形成されていくのです。

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聖書箇所:エペソ人への手紙521節~24

説教題:「妻の歩み」

【導入】

パウロは、エペソのキリスト者に、御子キリスト・イエス様に「召された者に相応しく歩みなさい」、とのお勧めを語ります。

続いて、「整えられた聖徒としての歩み」について語り、「真実と愛の歩み」について語り、「闇を離れる歩み」について語り、「光の子としての歩み」について語り、「賢い人としての歩み」について語って来ました。

いわば一般論として、基本的な事を語ってきた訳ですが、これは、エペソのキリスト者に限らず、どの地域の人々であっても、どの人種であっても、どの時代であっても適応出来る普遍的内容、教えです。

パウロは更に、具体的に、対象者を明確にして語り始めます。

当時は、男尊女卑の社会であり、女性の社会的地位は極めて低く、女性は一顧だにされない社会であり、貴族と平民の間には大きな身分差があり、宗教的指導者と民衆の間にも差があり、それは、支配者層と被支配者層の差でもあり、それらの格差が歴然の社会です。

ローマ帝国と属国の間にも厳然とした差があり、奴隷制度が特別な事ではなく、何の問題意識もなく存在していた時代です。

その制度、社会の中での、キリスト者の生き方を語るのですが、現代でも適応出来る普遍的内容、教えです。

パウロは、夫婦関係について、親子関係について、主従関係について語りますが、今日は、「妻の歩み」について、具体的に学びたいと思います。

【本論】

新改訳2017版 5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。

夫婦関係、親子関係、主従関係の基本は、前提は、御子キリスト・イエス様を恐れて、御子キリスト・イエス様の秩序を尊び、従う事です。

恐れて」と、訳していますが、「恐怖、慄(おのの)き」の意味ではなく、「畏れ、畏(かしこ)まる」の意味です。

御子キリスト・イエス様を、審判者、裁き主として恐れるのではなく、御子キリスト・イエス様を、救い主として敬愛する故に、畏れ、畏まる故に、510節「何が主に喜ばれることなのかを吟味」するのであり、517節「主のみこころが何であるかを悟り」、謙虚な、献身的な心で「互いに従い合」う、仕え合うのです。

互いに従い合いなさい」は要請、お願いの類ではなく、御子キリスト・イエス様からの命令として受け止めなければなりません。

一人一人が聖霊に満たされ、霊的に高められ、霊に燃えていても、特別な存在、有益な存在、独立した存在、確固確立した存在になるのではありません。

依然として、罪人であり、汚れてはいますが、他のキリスト者と共に、御子キリスト・イエス様のからだの一部なのです。

従って、他者を必要としない訳ではなく、他者を忘れてはならず、他者を見下したり、邪険に扱ったりしてはならないのです。

そもそも、ユダヤ人社会の基本的考え方は、助け合いであり、弱者への手厚い保護を是とする社会であったのですが、何時の間にか、自分さえ良ければよい、人を踏み台にしても平気、良心の呵責もなく搾取する、殺伐とした社会になってしまっていたのです。

強さで個性を表現し、主義を主張する事で、人の上に立ち、社会的地位を得るのではなく、他者を慈しみ、助け、支え、皆が交わりの喜びを実感し、共有し、感謝に溢れた、調和の取れた従い合いこそ、御子キリスト・イエス様に従う者に相応しい生き方なのであり、社会なのです。

他者を支配するのではなく、他者に仕える事が、キリスト者の基本的生き方なのです。

この基本の上に、最初に夫婦関係について、始めに妻の生き方について語ります。

5:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。

22節でパウロが主張しているのは、夫婦と云う家庭の秩序についてです。

「女は男に従う」事を主張しているのではなく、「妻は夫に従う」事を主張しているのです。

しかしこれは、夫や男性の優位性を述べているのではなく、妻や女性の劣等性を述べているのでもありません。

結婚関係に於いて、夫婦関係に於いて、家庭関係に於いての、創造者にして支配者なる神様の定めたまいし秩序についてを述べているのです。

妻が夫に従うのは、夫が男性だからではありません。

創造者にして支配者なる神様の定めだからであり、自発的な従順であり、屈服ではありません。

当時の結婚は、個人の意志を無視して、強制的に結び付け、拘束する、全体主義的傾向が主流でしたが、その流れの中でも、意に副わない結婚であったとしても、結び付けられたのは、創造者にして支配者なる神様であると受け止め、「主に従うように」との一句をもって、自発性を促し、強調します。

近現代の結婚は、夫と妻の合意であり、双方の主義主張が尊重され、食い違った時には終わらせるのも選択肢の一つとする、個人主義的な風潮が主流ですが、「互いに従い合いなさい」と戒めます。

22節の「従うように」、「従いなさい」ですが、原文にはなく、21節の「従い合いなさい」が22節にも掛かっているとして、訳していますから、21節のように、命令形として理解し、しかも「従い合い続けなさい」と、継続の命令として受け止める必要があります。

夫と妻は、同等、平等であり、優劣、尊卑、上下はありませんが、夫婦の秩序は、創造者にして支配者なる神様の定めたまいし家庭の秩序は、夫に従う妻、なのです。

この理由は23節です。

5:23キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。

23節前半が主張するところは、教会論であり、少し説明を加えるならば、「キリストだけが、教会のかしらであり」、「キリストだけが、教会の救い主である」、と云う事です。

23節後半は、夫婦論であり、ここにも、少し説明を加えるならば、「夫は、夫婦の間でかしらなのです」、であり、「夫は、家族のかしらなのです」、であり、「夫は、妻の保護者なのです」、であり、「夫は、家族の保護者なのです」。

更に補足するならば、「夫は、妻の愛し手、守り手、助け手、支え手、理解者なのです」。

パウロは、夫婦の関係を、キリストと教会の関係を用いて見事に言い表しています。

キリストは教会のかしらですが、キリストは教会の支配者ではありません。

キリストは教会を愛し、教会を守り、教会を助け、教会を支えますが、教会を意のままに支配し、操り、強制的に従わせるのではありません。

教会がキリストに従うのは、キリストが教会を愛するが故の、教会の自由意志、自発です。

夫は妻のかしらですが、夫は妻の支配者ではありません。

夫は妻を愛し、妻を守り、妻を助け、妻を支えますが、妻を意のままに支配し、操り、強制的に従わせるのではありません。

夫の責任、歩みについては、次回学ぶ事にいたします。

5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。

教会がキリストに従うのは、全くの自発であり、自由なる志願です。

巧みな誘導や、交換条件的な要素、取引的な要素は微塵もありません。

義理や人情、恩義や報恩でキリストに従うのでもありません。

罪の奴隷から、キリストの奴隷に鞍替えしたような、卑屈な奴隷的屈従でもありません。

教会は喜んで、進んで、積極的に、無条件で、苦難を覚悟の上でキリストに従うのであり、妻が夫に従うのは、夫が妻を愛するが故の、妻の自由意志、自発なのです。

夫はキリストのような恵みを持っている訳ではないけれども、苦労や困難が待っているのは確実でも、妻は喜んで、進んで、積極的に、無条件で、苦難を覚悟の上で夫に従うのです。

妻の自由意志、自発で、夫に従うのですが、妻の気分次第、好き勝手ではありません。

常に、安定して、すべてにおいて夫に従いなさい」であり、制限付き、条件付き、部分的に、ではないのです。

そして、「従いなさい」は、単に「教会がキリストに従うように」ではなく、「自分自身のためにも」の意味を含んでいる事に注意しなければなりません。

夫に従う」事は、自分自身のためでもあると、パウロは言うのです。

尊敬出来る夫に従うのは、愛してくれる夫に従うのは、まあ少しは容易かも知れませんが、尊敬出来ない夫に従うのは、愛してくれない夫に従うのは、非常な忍耐を、耐え難い苦痛を伴うでしょうが、訓練であり、自身の成長に益するのです。

御子キリスト・イエス様は非常な忍耐と、耐え難い苦痛を味わわれたのであり、従えない要素を持っている夫に従う事は、御子キリスト・イエス様が喜ばれる事なのです。

【適応】

本日の説教のタイトルを「妻の歩み」としましたが、パウロの活躍した時代は、先にお話したように、男尊女卑の時代であり、社会を動かし、決定権を持っていたのは男性でした。

ですから、パウロは「夫に従うように」、と云うだけで十分なのに、何故に、敢えてキリストと教会の関係を喩えに持ち出したのでしょうか、その理由は何でしょうか。

この世の慣習が、御子キリスト・イエス様や聖書の教えと同じであったとしても、キリスト者の行動は、全てにおいて、世の慣習、習いに従うのではなく、御子キリスト・イエス様や聖書の教えに従う、との意識が必要、重要です。

私たちの行動基準は、常に御子キリスト・イエス様の模範であり、聖書の教えでなければなりません。

御子キリスト・イエス様の模範や、聖書の教えを、この世の慣習や習いと同じレベルにおいてはなりません。

封建的な社会では、また、儒教的な考え方の社会では、妻が夫に従う事を妻の美徳としますが、美徳だから夫に従うのでも、社会が夫に従う事を要求するからでもなく、その要求が御子キリスト・イエス様や様聖書の教えと合致するから、夫に従うのでもありません。

御子キリスト・イエス様の願いだからであり、聖書の教えだから、夫に従うのです。

創造者にして支配者なる神様の定めだから、夫に従うのです。

夫に従うのは、妻自身のためでもあり、家庭のためでもあります。

夫婦の秩序、家庭の秩序は、妻が夫に従うところにあり、教会の秩序に、密接に繋がっているからなのです。

何故ならば、教会論の中で、夫婦論が語られているからであり、夫婦論は、教会論と深く関わっているとして、理解する必要があります。

夫婦や家庭の秩序は、御子キリスト・イエス様が立てられた夫に従うところにあります。

教会の秩序は、御子キリスト・イエス様が立てられた教会の指導者に従うところにあります。

夫に従わない妻は、教会の秩序にも従わないでしょうし、夫に従わない家庭は、教会の秩序にも従わないでしょう。

夫に従えない者は、教会の指導者にも従えず、夫に従わない妻や家庭は、夫に従っていないだけではなく、御子キリスト・イエス様や聖書に従っていないのであり、創造者にして支配者なる神様の定めにも従っていないのです。

見える者に従えない者は、見えない御子キリスト・イエス様や創造者にして支配者なる神様に従う事は出来ません。

夫の欠点や問題の有無、考え方の違いを指摘し、夫に従えない事の理由とするならば、

夫婦の間の秩序や、家庭の秩序は崩壊します。

御子キリスト・イエス様や聖書、創造者にして支配者なる神様に対する疑問や納得出来ない点を指摘し、

御子キリスト・イエス様や聖書、創造者にして支配者なる神様に従えない理由とするならば、信仰は形骸化し、教会の秩序は崩壊するでしょう。

夫や教会の指導者に、欠点や問題があるか否か、疑問や納得出来るか否か、ではなく、御子キリスト・イエス様や聖書の教えであるか否か、創造者にして支配者なる神様の定めであるか否か、なのです。

そして、御子キリスト・イエス様、創造者にして支配者なる神様が立てられた夫や指導者に従うのは、祝福の基であり、妻のためであり、キリスト者のためなのです。

夫婦を分裂させようとする悪魔の力、家庭を崩壊させようとする悪魔の力、教会を破壊させようとする悪魔の力、御子キリスト・イエス様、聖書、創造者にして支配者なる神様から離れさせる悪魔の力は強力であり、持続的であり、巧妙です。

妻への語り掛け、教えの形をとってはいますが、キリスト者への語り掛け、教えとしても理解しなければなりません。

夫婦の間の秩序は、家庭の秩序に繋がり、教会の秩序に繋がり、御子キリスト・イエス様、創造者にして支配者なる神様の願われる、喜ばれる、麗しい教会は形成されていくのです。

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                         2020-5-3礼拝

聖書個所:サムエル記第一10:1427

説教題:「隠れている若者」

【導入】

日常のありふれたひとこまに、大きな意味が隠されているなどとは、誰に想像出来るでしょうか。

その時は大した事がないと思っていても、後になって振り返って見ると、大きな転機、出会い、選択であった、と言う事が時々に私たちの人生に訪れます。

学校の選択、職業の選択、結婚相手の選択、住む所の選択、その決断は勿論の事、たまたま紹介された友人が、たまたま手にした本が、人生に大きな影響を与えた、という話しはよく聞く話しです。

ここに居られる皆様の中にも、友人に誘われて、断り切れ無くなって、ちょっとのつもりで立ち寄って入った教会で、180度生き方が変った経験をされた方が居られるのではないでしょうか。

失せ物探しの旅が、自分の将来を思わぬ方向に決定付ける重要な旅になるとは、サウルも従者も、サウルを遣わした父親にも想像出来ない事だったでしょう。

何時もよりは困難であった今回のろばの探索ですが、家畜が見つからないのは決して珍しい事ではありません。

今までにも諦めて帰った事もあったでしょうが、今回はたまたま預言者の住む町の近くにまで来ていたから、立ち寄る気にもなったのであって、

家畜が居なくなると何時も預言者を訪ねていた訳ではありません。

従者が預言者の事を思い出したのも、サウルが従者の言葉に従ったのも、サムエルが丁度町に来ていたのも、偶然なのではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の導きであったことは、前回までの学びで確認した事です。

創造者にして支配者なる唯一真の神様はポイントポイントで、お考え、ご計画の一部を知らせなさいます。

一部しか知らせないのは、全貌を知らせる事が、益にならないからです。

全貌を知らされたなら、そこには信仰の働く余地が無くなってしまいましょう。

一部しか知らされていないからこそ、隠された部分があるからこそ、信仰を持って待つのであり、解からないながらも従うのであり、そんな信仰を創造者にして支配者なる唯一真の神様は喜ばれるのです。

今日は創造者にして支配者なる唯一真の神様のイスラエルの王様を選ぶというご計画が進められる中の、その選びの器が選び出される場面から、謙遜と言う事について共に学んで行きたいと思います。

【本論】

10:14 サウルのおじは、彼とそのしもべに言った。「どこに行っていたのか。」

サウルが父キシュの命を受けて、従者を連れて、ろばを探しに出かけたのは周知の事実です。

サウルの叔父もその事は知っていました。

それなのに敢えて「どこへ行っていたのか」と聞いたのは、サウルが預言者の一団と出会い「サウルもまた預言者の一人なのか」と言われているのを耳にしたからに違いありません。

サウルは何処にでも居るような、普通の人間であり、預言者の血筋でもなければ、預言者と関る生活をしていた訳でもありません。

それはサウルの叔父が一番よく知っているところでしょう。

幼い頃からよく知っている、極普通の人間サウルが、ある日突然、預言を始めた、と言うのですから、親戚の者が訝るのも当然であり、親族を代表して叔父が問い糾すことになったのでしょう。

サウルは言った。「雌ろばを捜しにです。どこにもいないと分かったので、サムエルのところに行って来ました。」

10:15 サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」

10:16 サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」しかし、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。

体験した事、知っている事を話したくなるのは人情でしょうが、話す時期というものがあります。

事実だからといって何でも話して良い訳でも、洗いざらい暴露しても良い訳でもありません。

自分の体験だから、誰に遠慮がいるものかと、話し出すのは賢明な事ではありません。

特に責任ある立場、影響力を持つ立場にある人は、話す内容、時期を慎重に吟味しなければなりません。

不用意な発言は思わぬ影響を及ぼし、思わぬ方向に導く事もあるからなのです。

サウルがサムエルから油を注がれ、イスラエルの王様に任ぜられた事は、本当の事であり、やましい事は何一つありませんが、その事実の発表は、サウル個人の考えで行なう事ではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様のご計画に従い、備えられた時期と準備、演出の内に発表されなければならない事なのです。

何故ならば、イスラエルの王様の任職は、世的な基準、選出方法によるのではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の基準で選ばれた事が明確に解かる方法で、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御心を示す方法で選ばれる必要があるからです。

それが、108節の「私があなたのところに着くまで、そこで七日間待たなければなりません。それからあなたがなすべきことを教えます」と言うサムエルの言葉に隠されています。

事実であり、いち早く発表する事が、民の要求にも適う事であったとしても、発表はサウルのする事ではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様のご計画の中にあって、必要な手続き、準備の中で、サムエルがなすべき事柄なのです。

誰もが知りたがることであり、現実にはアモン人の脅威、ペリシテ人の脅威に曝されて、直ぐにでも王制を敷いて戦いに備えなければならない状況であっても、待たなければならないのであって、待つ事がイスラエルに、サウルに与えられた必要な訓練なのです。

10:17 サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、

10:18 イスラエル人に言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『イスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたを圧迫していたすべての王国の手から救い出したのは、このわたしだ。』

ミツパと言う地名はサムエルの巡回していた町の一つであり、イスラエルの民にとって重要な意味を持っています。

「ミツパ」の意味は「見張る場所、物見やぐら」であり、76節で学んだように、断食をし、「心のすべてをもって主に立ち返り、…心を主に向け、主にのみ仕え」ますと悔い改めの告白した場所です。

その悔い改めの場所に集められて、創造者にして支配者なる唯一真の神様の恵みを確認します。

400年に渡るエジプトでの奴隷生活からの解放。

重労働で苦しめられ、子どもを殺され、楽しみも喜びもない生活からの解放。

荒野での40年の生活での、食べ物にも着る物にも不自由しなかった生活。

無防備のテント生活の中でも、周辺諸国の脅威、野獣猛獣から守られた事などを、このミツパ「見張る場所、物見やぐら」で思い起こさせているのです。

「数えて見よ、主の恵み」と言う讃美がありますが、創造者にして支配者なる唯一真の神様の恵みは数え切れないほど豊かな物なのです。

更に、この場所は、創造者にして支配者なる唯一真の神様がペリシテ人から救い出して下さった記念の場所である、エベン・エゼルの石と深い関係を持つ場所です。

それらの創造者にして支配者なる唯一真の神様の守り、創造者にして支配者なる唯一真の神様の恵みを忘れたのか。

ミツパで立てた、創造者にして支配者なる唯一真の神様に従うと言う誓いを忘れたのか。

あなたたちは創造者にして支配者なる唯一真の神様を捨てようとしている、とサムエルは警告を発しているのです。

10:19 しかし、あなたがたは今日、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、部族ごと、分団ごとに、主の前に出なさい。」

10:20 サムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。

ベニヤミン部族とはヤコブの12人の息子の、最年少の息子であるベニヤミンを祖先とする部族です。

末っ子であり、ヤコブに溺愛されて育ったお坊ちゃまであり、その子孫は921節の学びで確認した様に、性的に乱れた、堕落した子孫になっていたのです。

何故に創造者にして支配者なる唯一真の神様は由緒行ない正しき部族ではなく、弱小の汚らわしい過去を持つ部族を選ばれるのでしょうか。

それは、創造者にして支配者なる唯一真の神様の赦しを覚えるためであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の目にはどの部族も同じ様に尊いことを、逆にどの部族も創造者にして支配者なる唯一真の神様の選びがなければ皆、滅びるしかない存在である事を知らせるためではないでしょうか。

ベニヤミン部族が選ばれるのは、どんな汚れも罪も赦して頂ける事の査証であり、どんな罪人でも創造者にして支配者なる唯一真の神様のご用に用いられる事の証しなのです。

10:21 そして、ベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づかせた。すると、マテリの氏族がくじで取り分けられた。そしてキシュの息子サウルがくじで取り分けられた。人々はサウルを捜したが、見つからなかった。

エジプトを脱出し、約束の乳と蜜の流れる地カナン入植の前後に、土地の分割、献げ物の事など、聖書では民数記、申命記などに、部族の族長名、氏族の氏長名が紹介されていますが、「マテリの氏族」は何処にも紹介されていません。

旧新両聖書の他の箇所を探しても「マテリの氏族」はこのサムエル記第一1021節にしか登場しません。

それ程までに小さな、取るに足り無い部族、氏族、家族からイスラエル初代の王様が選ばれて行ったのです。

「くじ」は当時、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御心を求める手段、方法の一つであり、トンミム、ウリムではなかったかと考えられています。

「くじ」と言う偶然性しか作用しないような物で、大切なイスラエルの王様が選ばれて行く。

何とも不思議な光景ですが、この「くじ」に創造者にして支配者なる唯一真の神様は御心を現され、民はくじの結果を創造者にして支配者なる唯一真の神様の御心と信じて従ったのです。

12部族の中からベニヤミン部族が選ばれ、ベニヤミン部族の中からマテリの氏族が選ばれて行く。

緊張と期待が入り混じった、固唾を飲む人々の中で、ついにキシュの家族にくじが当り、最後にサウルが選び出されて行ったのです。

サムエルに宣告を受け、油を注がれたサウルですが、「くじ」を用いての選出には半信半疑なのではなかったでしょうか。

有名な預言者であっても、くじの結果にまでは力が及ばないのではないだろうか。

しかし、そんなサウルの心配とは関係無く、12分の1の確率でベニヤミン部族が選ばれる。

更に何分の1かの確率でマテリの氏族が選ばれる。

サムエルにイスラエルの王様として油を注がれ、宣言を受けてはいても、選ばれまでは不安です。

内定しているからと言って、くじが当る、選ばれるとは思えません。

どきどき、はらはらの瞬間であり、本当に自分が選ばれるのだろうか。

ですから、当選した瞬間に民の衆目を集める場所に佇むほど、自信家ではなかったようです。

サウルは荷物の影に隠れて、くじの結果を見守る謙遜な人間だったのでした。

それは、もしも、くじによって選ばれなくても、それも創造者にして支配者なる唯一真の神様の御心だと、受け止める心持の現われが、荷物の陰に隠れていた姿に現われているのではないでしょうか。

そして、最後にサムエルの予告の通りに、創造者にして支配者なる唯一真の神様のご計画の通りにサウルが選び出されたのです。

10:22 人々はさらに、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。主は、「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。

10:23 彼らは走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

10:24 サムエルは民全体に言った。「主がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼ような者はいない。」民はみな、大声で叫んで、「王様万歳」と言った。

10:25 サムエルは民に王権の定めについて語り、それを文書に記して主の前に納めた。それから、サムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。

10:26 サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。

王権の定めについて語り、それを文書に記して」とは、サムエル記第一811節、申命記1716節の言葉であり、王への戒めの言葉と、民への覚悟の言葉とをまとめたサムエル、ヨシュアの言葉を示しています。

特に民への覚悟を促す言葉には、王様の権利が強く表明されており、理不尽な要求であろうと、無慈悲な仕打ちであろうと、甘んじて受けなければならない覚悟をしたためているのです。

しかし、念願の王様を与えられ、有頂天になっている民の耳には、サムエルの厳しい覚悟を促す言葉も届きません。

王様万歳」の直訳は、「王様は、生きたまえ」であり、その意味する所は、王様が生きるためには私の物を、命を、全てを捧げます、と言う事であり、絶対服従、従属を宣言する言葉なのです。

この様にサウルをイスラエル初代の王様として受け入れ、歓迎し、狂喜乱舞する人々がいる一方で、冷ややかな一団も存在しました。

10:27 しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかし彼は黙っていた。

この「よこしまな者たち」と言う言葉はサムエル記第一212節も記されていますが、他に「無価値、破滅」を意味する言葉であり、神に敵対する者、神のご意志、ご計画に反対する者の事です。

即ち、くじに現された、創造者にして支配者なる唯一真の神様の神意を認めず、サムエルの預言者としての宣言を受け入れず、自分たちの意に適った人物では無いとしてサウルを拒否、拒絶したのです。

確かに、ベニヤミン部族は小さな、汚らわしい過去を持つ部族であり、マテリの氏族は聖書に記されないような氏族かも知れません。

しかし、何度も繰り返しますが、有能であったとしても、高潔であったとしても、無能、汚濁と紙一重であって、何時その能力が取り去られ、高潔を汚す事が起こらないとは言い切れないのであり、逆に創造者にして支配者なる唯一真の神様が願われるならば、能力は与えられ、神様が聖めて下さるのです。

自分の能力に、聖さに誇るものは無く、能力も聖さも神様が与え、神様が取られる。

全てが神様のものであると言う信仰こそが大切なのです。

【適応】

サウルは秘密裏に創造者にして支配者なる唯一真の神様に選ばれ、任職を受け、衆目の中で「くじ」を通して選ばれ、創造者にして支配者なる唯一真の神様に選ばれた器である事が公に示されました。

間違い無く創造者にして支配者なる唯一真の神様に選ばれたのですから、誇っても誇り足りませんが、サウルは選ばれた瞬間に、人々の前に出て行き、自分を誇示する事も無く、サムエルから促されるまで、荷物の陰に隠れて、紹介されるその時を待ちました。

サムエルから召命を受けた時も、自分たちの部族、氏族の小ささ、貧しさを根拠に辞退し、謙遜と柔和の限りを尽くしました。

創造者にして支配者なる唯一真の神様に従う指導者には、創造者にして支配者なる唯一真の神様の遣わされる指導者には、この徳目が不可欠です。

モーセも、ヨシュアも、創造者にして支配者なる唯一真の神様からの選びで任職を受けました。

士師記に登場する士師の全てが創造者にして支配者なる唯一真の神様に選ばれ、士師として民を諌め、指導し、裁きました。

新約においても、然りです。

12弟子もパウロもイエス様が選ばれたのであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様が選ばれ、働きを委ねられたのです。

そして、祭司として、預言者として、王様として最高のお方であるイエス様も創造者にして支配者なる唯一真の神様の命を受けて地上に来られ、創造者にして支配者なる唯一真の神様のご計画に100%従う謙遜な生涯を送られたのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様の働きは神様のお考えが主体です。

創造者にして支配者なる唯一真の神様のなされる事は全て時に適って麗しいのであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の主権を認め、創造者にして支配者なる唯一真の神様のなさる事をすべてよし、としなければならないのです。

それは、私を創造者にして支配者なる唯一真の神様の影に隠し、私を虚なしくすることであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様を前面に現す行動であり、生き方なのです。

荷物の陰に隠れていたサウルのように、促されるまで隠れている謙虚さこそが、創造者にして支配者なる唯一真の神様に喜ばれるのであり、他人と比べて能力を誇り、必要とされているとの思い込みこそ、創造者にして支配者なる唯一真の神様が嫌われる人物なのです。

また、私たちとは違う基準で選ばれる創造者にして支配者なる唯一真の神様ですから、私たちに納得できない部分があっても、それも創造者にして支配者なる唯一真の神様の選びとして受け入れることが私たちの取る謙虚な態度なのではないでしょうか。

創造者にして支配者なる唯一真の神様の選びを拒絶する者は、ベリアルな者であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様に敵対する者と見なされます。

この世の基準で適不適を判断するのではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の選びに従うことが、選ばれる者にも、それを受け入れる者にも求められているのであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の決定に聴き従う謙虚さこそが創造者にして支配者なる唯一真の神様の喜ばれる生き方なのです。

自分の判断、経験に照らして、判断するのではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様が示して下さった王様を、預言者を、祭司を受け入れる事が、自分を虚しくするという事であり、謙遜と言う事なのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様の前に立てるのは「謙遜」な人物だけです。

ここに居られる皆様が自分、自我というものを捨てて謙遜になって、創造者にして支配者なる唯一真の神様に受け入れられる、用いられる祝福を享受されます様にお祈り致します。

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