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                                                                  2020-6-28礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙619節~24節        

説教題:「祈りの支援要請」

【導入】

パウロはエペソのキリスト者に、キリスト者としての心得、心構え、生き方、考え方を、熱く、力強く、熱心に、しかし、優しく、分かり易く、ことばを変えて、繰り返し語ってきました。

この手紙が書かれた頃は、「ローマの平和」と云われた、歴史上希な、珍しい程、戦争のない時代でした。

しかし、パウロは、獄中の身であり、獄中と申し上げましても、牢獄、監獄などではなく、一軒家に住まわせてもらっていたのであり、かなりの自由が与えられていたようですが、それでも囚人である事に代わりはなく、自由に外出出来る訳ではなく、不自由な生活を強いられていました。

世の中は、戦争もなく、平和でしたが、ローマ皇帝ネロによる、キリスト教迫害の兆しは近付いており、囚われの身である事に、焦りを覚えていたのではないでしょうか。

手紙での遣り取りに、もどかしさを感じ、何とかして各地のキリスト者を励ますと同時に、キリスト教未伝の地に福音を届けたい、と云う気持ちは、益々募ったのではないでしょうか。

そんな状況であり、環境ですから、自身の解放が最大の関心事であって当然でしょうから、手紙の最後には、解放され、自由の身になる事や、自由に各地を訪問出来るようになる事を記しそうなところですが、パウロは、そんな事は願っていなかったようです。

そんな事よりも、大切な事を、三つ挙げています。パウロは何を語るのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 6:19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

パウロは、かなりの自由が与えられていたとは云え、長期の拘束は、不自由な獄中生活は、心身を蝕みます。

ご高齢者が、数週間のベッドでの、寝たきり生活で、驚くほど弱ってしまうのは、周知の事と思いますが、パウロならずとも、弱気にもなるでしょうし、体力も気力も衰えるでしょう。

当時、パウロは60歳前後、と考えられています。

現代の60歳は、まだまだ元気で、矍鑠(かくしゃく)としているでしょうが、当時の60歳は、しかも、長期の獄中生活の影響は、パウロを年齢以上に老けさせたのではないでしょうか。

そこで、パウロは、気力が衰えないように、体力が衰えないように、また、ローマ皇帝ネロの前での弁明のために、祈ってくださいと要請するのです。

無実である事や、無罪放免のための弁明ではなく、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください」、と要請するのです。

19節の始めに「私のために」と記していますが、私のためであるよりも何よりも、「大胆な宣教のために」の意味である事は、19節で「語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」と要請し、20節でも「宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように」と要請しているところからも明らかです。

ローマ皇帝ネロの前であろうとも、ユダヤ教の祭司、律法学者、パリサイ人、長老の前であろうとも、誰の前であろうとも、「語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」、「宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように」です。

口を開くときに」は、単に「喋るとき」の意味ではなく、「荘厳な話し振り」を言い表すことばであり、自制し、感情的にならずに、興奮せずに、しかし、感動的に、的確に、厳粛に、語るべきことを大胆に、過不足なく語り、正しく伝わり、正しく理解され、主の御名が崇められ得るように、との祈りを要請するのです。

パウロの語る事は、人間の空想や夢想ではありません。

福音の奥義」であり、人間を罪から贖う唯一の方法であり、何にも代え難いので、19節でも20節でも、繰り返し要請しているのです。

6:20 私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

鎖につながれ」は、パウロが獄中にいる事を表していますが、その獄中生活ですが、かなりの自由が与えられてはいましたが、囚人である事に変わりはなく、万が一にも逃げ出さないように、実際に両の脚は鎖で繋がれており、建物とも繋がれており、状況によっては監視兵、警護兵に繋がれる事もあったようで、決して、誇張でも、比喩的表現でもないのです。

パウロは獄中にありながらも、パウロの心は、関心は、自由の身になる事ではなく、只々、福音を伝える事のみだったのです。

使節」とは、「長老、宿老、老輩」を意味する言葉から発していますが、通常、使節、大使は、非常に大きな権限を与えられているため、信用、信頼の置ける老齢、老練の士が選ばれます。

パウロは、御子キリスト・イエス様から直接「使節」として召されたのであり、紛れもない正真正銘の「使節」であるとの自負を込めた、自他共に認める表現なのであり、また、パウロはこの時、60歳前後と云われていますが、まさに、「使節」と名乗るに相応しい年齢だったのです。

パウロは、反逆している者たちに、御子キリスト・イエス様を通してもたらされる和解を勧める「使節」なのです。

19節で「語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」と要請し、20節でも「宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように」と、二度に亘って要請しているのは、人の顔色を見ていたのでは、忖度をしていたのでは、「福音の奥義」を大胆に、率直に語れないから、正しく伝えられないからです。

反逆する者たちに聞いてもらうために、「福音の奥義」に混ぜ物をしたり、書き換えたりしてはならず、人々が耳を傾けるように、「福音の奥義」から耳障りな部分を間引いてはなりません。

聞いてもらう事は大切、大事ですが、混ぜ物、書き換え、間引きは厳禁です。

嘘や誤魔化し、姑息な手段でキリスト教を布教しても、教勢を拡大しても、意味がないどころか、取り返しがつかない愚行なのであり、真の「使節」は、「福音の奥義」だけを語り、伝えなければならないのであり、そのために、そこから1mmたりとも外れてはならないのであり、19節、20節の要請が、如何に重要か、必然か、なのです。

6:21私の様子や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。

21節、22節で「ティキコ」が紹介されます。

ティキコ」、或いは「テキコ」は、使徒の働き204節、2017版は276ページ、第3版は269ページに、コロサイ人への手紙47節、8節、2017版は406ページ、第3版は394ページに、テトスへの手紙312節、2017版は433ページ、第3版は421ページにと、合計5回も名前が記されていますので、しかも、「愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者」と紹介されていますので、パウロにとって如何に信頼の出来る、重要な人物であった事かを伺い知る事が出来ますが、名前が挙げられているだけで、具体的な働きは記されていません。

21節、22節で分かるように、「ティキコ」は、パウロの代理、名代として働いたのであり、「ティキコ」のような奉仕者たち、多くの名のない、聖書に働きの記録されない奉仕者たちによって、パウロたち、使徒たちの指令が、各地に正しく、スムーズに伝えられ、各地の使徒たちの意志の疎通が図られ、宣教の働きが大きく前進したのであり、「ティキコ」たちの働きは、決して低く評価されてはならないのです。

パウロは、「ティキコ」を高く評価していたのですが、その有能な、忠実な「ティキコ」を手放してでも、「私の様子や私が何をしているかを」伝えたかったのであり、「私の様子や私が何をしているか」を共有する事が、当時、如何に重要、有益だったかなのです。

大前提は、どんな事でも、事の大小に関わらず、創造者にして支配者なる唯一真の神様に委ねる事であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様は、全てをご存知であり、不明確な情報でも、不正確な情報でも、聞いてくださり、応えてくださいますが、正しい状況を知る事、正しい情報を共有する事は、具体的な働き、より具体的な祈りに繋がりますので、大切です。

情報伝達の手段は手紙だけ、しかも時間の掛かる手渡しですから、相当な費用と時間が掛かります。

人を派遣するとなると、更に膨大な費用が掛かり、旅のリスクも格段と高くなりますが、手紙に書き切れない、実情を伝えられるのであり、言葉に出来ないニュアンスを伝える事が出来るのであり、人の派遣は、計り知れない大きなメリットがあるのです。

6:22 ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。

不正確な情報は、あやふやな情報は、思い込みや、噂レベルの情報は、忖度された情報は、どんなに多くても、意味はなく、害や混乱をもたらすだけでしょう。

しかし、真実は、正確な情報は、一つで事足りるのです。

そして、この22節は、313節と関連させて読む時、よく理解出来るでしょう。

パウロの状況を知る時、一瞬、何故、どうしてと、落胆する事に繋がりましょうが、パウロや使徒たちの苦難は、創造者にして唯一真の神様のご計画であり、創造者にして唯一真の神様の承認された事であり、パウロや使徒たちの苦難を見て、聞いて、知って、あなた方の信仰が試されるのであり、疑い、迷い、落胆から守るのは、個人の勇気や頑張りではなく、人の助けでもなく、「教会を通して示される神の知恵」だと知るに至る事なのです。

23節、24節は、祝祷ですが、二段構えになっているのは、意味があります。

ローマ皇帝ネロの迫害が、現実味を帯びて来ているのであり、キリスト教にとっての暗黒時代の幕開けを、パウロはその鋭い洞察力で見抜いたからこそ、二重の祝祷を宣言するのです。

6:23信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。

平安と愛」、即ち、祝福が、「父なる神と主イエス・キリスト」「から」と、「父なる神と主イエス・キリスト」が源泉である事が宣言されます。

そして、「父なる神」と「主イエス・キリスト」が並列に記されているのは、「父なる神」と「主イエス・キリスト」が同格であり、「父なる神と主イエス・キリスト」が、礼拝の対象である事の宣言なのです。

兄弟たち」との呼び掛けは、本来は、ユダヤ人同士で用いる呼び掛け方であり、血の繋がりを意味し、同族の、強く固い、揺るぎ無い結束を意味する、特別な意味を持っているのですが、パウロは、その、特殊な呼び掛け方を、異邦人キリスト者にも適応し、親愛の情をこめて、「兄弟たち」と呼び掛け、キリスト者同士の関係を現す言葉としたのです。

人種も、国籍も、文化も、老いも若きも、男も女も、趣味趣向も、関係なく、血の繋がり以上の、深い、濃い、太い関係が、「父なる神と主イエス・キリスト」を核として構築されるのであり、「父なる神と主イエス・キリスト」を核とするが故に、関係が破綻、瓦解、解消する事はないのです。

お互いの信頼関係、誠実さ、忍耐などなどでは、必ず破綻し、何時か瓦解し、解消は必至です。

父なる神と主イエス・キリスト」を核とするから、「父なる神と主イエス・キリスト」との繋がりが確実、強固、不変故に、横の繋がり、即ち、兄弟の繋がりも維持出来るのです。

6:24朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。

朽ちることのない」と訳されているギリシャ語の原語には、「不朽、不滅、不変、不易、不死」の意味があります。

これ、罪をもつ、生身の人間には無理な事なのではないでしょうか。

御子キリスト・イエス様を裏切り、悲しませる事しか出来ないのが、人間なのではないでしょうか。

しかし、御子キリスト・イエス様の贖いによって、「朽ちることのない愛」が与えられたのであり、紆余曲折がありながらも、「朽ちることのない愛」を保持し続け、「私たちの主イエス・キリストを愛」し続ける事が出来るのです。

私たちの主イエス・キリストを愛する」のは、人間の業ではなく、御子キリスト・イエス様の業なのです。

御子キリスト・イエス様ご自身が、「朽ちることのない愛をもって」私たちを愛してくださり、私たちも、御子キリスト・イエス様の贖いによって与えられた「朽ちることのない愛」で、御子キリスト・イエス様を愛するのです。

私たちの主イエス・キリストを愛する」事も恵みであり、私たちの行いではないのです。

すべての人」は、文字通り、全ての人であり、異邦人キリスト者、ユダヤ人キリスト者の区別はありません。

それは、23節で「兄弟たち」と呼び掛けた事でも、明らかです。

【適応】

本日の説教題を「祈りの支援要請」としましたが、祈りの本来の目的は、伝道のための支援のための祈りです。

それは、19節、20節のパウロの言葉からも、明白です。

具体的には、家族の救い、友人・知人の救いのためであり、家族、友人・知人に「福音の奥義」を正しく、大胆に語る事が出来るように、に尽きます。

私たちが一般的に持っている、祈りについての考えは、何かを得る手段として考えます。

また、家内安全、商売繁盛、病気の癒し、問題解決、失せ物探しなどを、祈ります。

これらを祈っていけない訳ではありませんが、新約聖書に、この考えは見い出せません。

祈りは、御子キリスト・イエス様の贖いによって私たちに与えられた「朽ちることのない愛」を養い、育てるために必要な、重要な、唯一の手段です。

私たちの内に住まわれる聖霊様を悲しませず、自由に、存分に働いて頂くために必要な、重要な、唯一の手段です。

聖書の教える祈りとは、私たちが創造者にして支配者なる唯一真の神様ご自身を知るためのもの、御子キリスト・イエス様ご自身を知るためのもの、聖霊様の事を知るためのものであり、福音の奥義」を正しく、大胆に語る事が出来るように祈るのです。

祈りで物事を、状況を変えるというのも、偽りです。

祈りは、私を変え、そして変えられた私が物事に対する考え方を変えるために必要な、重要な、唯一の手段です。

創造者にして支配者なる唯一真の神様ご自身を知り、創造者にして支配者なる唯一真の神様に対する考えを変え、御子キリスト・イエス様ご自身を知り、御子キリスト・イエス様に対する考えを変え、聖霊様の事を知り、聖霊様に対する考え方が変わると、私が変えられます。

私が変えられると、物事に対する考え方が変わります。

大事だと思っていた事が、大切だと思っていた物が、一番だと考えていた事が、そうではないと知り、自分の考えを推し進めているに過ぎない、自分の思いに固執している事が分かり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころを第一にし、御子キリスト・イエス様のご計画を進める事になります。

例えば、伝道が困難の中、状況が変わる事を祈ったとします。

しかし、御こころは、ご計画は、情況が変わる事、好転する事ではなく、その状況の中で、伝道を進める事であり、また、その状況の中で、伝道の方法を考え、伝道の方法を変える事であり、私のやり方を進める事ではないはずです。

病気の癒しを祈りますが、病気も創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころ、ご計画であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の許しの中で起こっている事です。

それを変えてくださいは、越権行為であり、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御こころを教えてください、お示しくださいが、祈りなのではないでしょうか。

キリスト者の祈りは、この世の祈りとは違いますし、違わなければなりません。

この世の祈り、何かを得る、家内安全、商売繁盛、病気の癒し、問題解決、失せ物探しなどに終始した祈りは、終わりにして、牧師に語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように」と祈り、キリスト者が「宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように」と祈り、どのような状況でも、御ことばが正しく、大胆に語られる事を祈るのが、そのための必要を祈るのが、キリスト者の祈りです。

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                    2020-6-21礼拝

聖書個所:サムエル記第一111節~15

説教題:「真価を現す初仕事」

【導入】

イスラエル初代の王様が、くじと言う方法で選ばれました。

くじは偶然だけが作用すると考え勝ちですが、決してそうではなく、人間の意志が働かない方法であり、誰かの思惑によって、結果を誘導する事の出来ない方法であり、それ故に、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御心を求める方法として、古代から神様が認められ、イスラエルで採用されていた方法なのです。

くじは神様の御心を求める方法の一つですが、イスラエルの民の全てが、その結果に賛同した訳ではありません。

サウルがくじによってイスラエルの王様として選ばれて、大喜びする人々の中で、くじの結果を神様の御心として受け止める事が出来ずに、冷ややかに眺めている人々も存在しました。

傍観しているのではなく、1027節に「「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった」と記されているように、積極的に反対の意思表示をしたのです。

人は見かけに影響されます。

先入観念にも影響を受けます。

どうしてベニヤミン部族から、マテリの氏族から、キシュの家族から、イスラエルを代表する王様を選ばなければならないのか。

もっと素晴らしい部族があるじゃあないか。

皆に知れ渡っている氏族があるではないか。

今までに何の働きもない男に、イスラエルの命運を任せられる訳がないじゃあないか。

当然の意見と言えましょうが、イスラエルの民は宇宙を、世界を、全てのものを造られた、唯一真の神様に導かれる民であり、その神様が指名した人を王様としなければならないのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様が選ばれたならば、どんなに意見があろうと、不満であろうと、それをよしとしなければならないのであり、それが神の民の訓練でもあるのです。

今日はイスラエルの王様を選ぶという創造者にして支配者なる唯一真の神様のご計画が進められる中の、そのくじによって選ばれた人が、神様の選びの器である事が人々に明らかにされる場面から、更に神様を恐れることと、徹底して従う事の大切さを共に学んで行きたいと思います。

【本論】

11:1 さて、アンモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。

さて」とは、「その後」の意味であり、イスラエルの王様が選ばれて後、の意味ですが、サウルがイスラエルの王様として人々に紹介されても、具体的な王制政治が始った訳ではありません。

組織的にも、体制的にも、確固とした王制が敷かれたのではなく、士師の時代のように、各々が自分の目に正しいと見える事を行なっていました。

困った問題が起これば、自分たちで考え、解決し、外敵が攻めてくれば、自分たちで抵抗軍を組織して戦っていたのです。

しかし、今回のアンモン人の侵略は、今までとは規模が違っていたようです。

夥しい数のアンモン人が軍備を整えて侵攻して来たと言うのです。

このアンモン人というのは、イスラエル民族と深い関わりを持つ民族です。

創世記19章、2017版は28ページ、第3版は27ページに紹介されていますが、アンモン人の祖先はベン・アミであり、その父親はアブラハムの甥、ロトなのです。

皆様良くご承知のように、ロトはアブラハムと一緒に行動していましたが、カナンの地に入ってからアブラハムと分かれて、ソドムに住むようになりました。

ソドム(Sodom)はソドミー(sodomy)、つまり「男色」の語源になったと言われる都市であり、性的に乱れた、退廃的な都市だったのですが、見かけは繁栄しており、活気溢れる、住むのには便利な都市だったのです。

ロトは、最初はこの性的な乱れに、眉をひそめていた事でしょうが、朱に交われば紅くなるの喩えの通り、段々と感性が鈍くなり、積極的ではないにしても、黙認し、そこに住みついてしまったのです。

ソドムが神様によって滅ぼされる時、ツォアルに住むようになって、ロトは実の娘によって、子を残したのですが、その子がアンモン人となって行くのです。

ソドミーの精神的影響は、ロトの娘に色濃く影響し、近親相姦という忌まわしい歴史の末裔がアンモン人であり、同族に戦いを仕掛けるという暴挙を取るに至らせるのです。

また、「ナハシュ」とは「蛇」の事であり、2節の傲慢さも頷けるのではないでしょうか。

ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、あなたに仕えます。」

11:2 アンモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。」

右の目を抉り取るとは、何とも残酷な要求ですが、これには意味があります。

戦う人は利き手である右手に剣を持って戦い、左手に盾を持って身を守ります。

つまり、盾は左半身を守るのであって、右目が潰れていたならば、戦う事が出来ない、と言う事なのです。

古来、戦いに負けた民族は、反乱、逆襲を阻止する為に、右目を抉り出される憂き目にあったようですが、戦う前から、屈辱的な要求をされてしまったのです。そこで、

11:3 ヤベシュの長老たちは彼に言った。「イスラエルの国中に使者を遣わすため、七日の猶予を与えてください。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたのところに出て行きます。」

七日の猶予」とは、何とものんびりとした話であり、現代の私たちには不思議な交渉ですが、ナハシュはこの提案を許可します。

戦いは先手必勝であり、少しでも弱い所を突くのが常套手段です。

それは自軍の損害を最小限に留めるためであり、相手を徹底的に、完膚なきまでに打つためです。

七日の猶予」は援軍を頼み、軍備を整えてヤベシュに馳せ参じるのに最低限必要な日数です。

如何に圧倒的な軍備の差があったとしても、相手の援軍が来るまで、相手が戦いの備えをするまで待つと言うのは考えられない事です。

ここにもナハシュの傲慢さが滲み出ていましょう。

イスラエル民族を侮る心の現れであり、如いてはイスラエルを守られる創造者にして支配者なる唯一真の神様を侮る心の現われです。

また、聖書には「7」と言う数字には意味があります。

それは完全であり、充分と言う事です。

方や、ヤベシュの人々の信仰の現れであり、方や、ナハシュの傲慢さの現われです。

11:4 使者たちはサウルのギブアに来て、これらのことばを民の耳に語った。民はみな、声をあげて泣いた。

ギブアに遣わされた伝令は、ヤベシュ・ギルアデの窮状を訴えますが、誰も、その窮状に対する策を持ち合わせてはいません。

イスラエル民族は牧畜民族であり、牧草を求めて旅をして生きる民族です。

勿論、城壁のある町を持っていましたし、町を守る武器はあったでしょうが、あくまで防衛のための武器であり、侵略のための武器ではありません。

比べてアンモン人は略奪によって生きている民族であり、戦いになれた、戦うための組織を持った民族なのです。

そのアンモン人から、身を守る術を持っていないイスラエル民族ですから、泣くしかなかったのです。

11:5 ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、いったい何が起こったのか。」彼らは、ヤベシュの人々のことばを彼に告げた。

11:6 サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。

ヤベシュ・ギルアデの窮状を聞いたサウルは義憤に燃えますが、そのきっかけとなったのは、神の霊が下った事に端を発します。

人々の窮状、困難、迫害、搾取などを聴いた時、私たちも何とかしたいという思いに駆られますが、その根底には、人間の正義感とか、倫理観による怒りではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様に基づく怒りがなければならないのです。

食べるのにも飲むのにも、何をするにも神の栄光を現さなければなりませんが、怒りもまた神様の栄光を現さなければならないのです。

怒りは感情の激昂の現われの一つですが、激しく怒る中にも、激しく悲しむ中にも、神の栄光を現さなければならないのであり、冷静な部分を残して置く、感情をコントロールする知恵が求められているのです。

怒りに任せて、罪を犯してはならず、怒りを治め、対処しなければならないのです。

11:7 彼は一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言った。主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来た。

この切り分ける、と言う逸話は、士師記19章、2017版は463ページ、第3版は450ページに記されている、ベニヤミン部族の忌まわしい歴史にも登場します。

ギブアに立ち寄ったレビ人の、その側女が辱めを受けて死にましたが、その死体を12の部分に切り分けて、イスラエル各部族に送り付け、イスラエル民族に招集を掛けました。

今回はサウルの激しい怒りの中で牛が切り分けられ、国中に招集が掛けられ、民はいっせいに、まるで一人の人でもあるかのように参集しました。

先にも申し上げましたが、イスラエル民族は戦いを本業とする民族ではありません。

集まったとは言っても、ろくな武器はなかった事でしょう。

しかし、武器を持っているから、役に立つから集まる、参加するのではありません。

神様の戦いだから、神様を恐れて集まるのであり、武器がお粗末でも参加するのです。

11:8 サウルはベゼクで彼らを数えた。すると、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。

11:9 彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言いなさい。明日、日が高くなるころ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って行って、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。

11:10 ヤベシュの人々は言った。「私たちは、明日、あなたがたのところに出て行きます。あなたがたの良いと思うように私たちにしてください。」

11:11 翌日、サウルは兵を三組に分け、夜明けの見張りの時に陣営に突入し、昼までアンモン人を討った。生き残った者は散り散りになり、二人の者がともにいることはなかった。

戦いになれたアンモン人ですが、神の怒りの前に立てる者は誰もいません。

武器の優劣が戦いを決めるのではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の付く側が勝利を得るのです。

その様子は、「二人の者がともにいることはなかった」程に徹底したものであり、アンモン人はちりじりばらばらになり、徹底的に打ちのめされてしまったのです。

11:12民はサムエルに言った。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」

11:13 サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」

勝利は人をして有頂天にさせます。

サウルの側に付く者の内に、サウルの就任を快く思わなかった者を粛清しようとの発言がなされます。

不満分子を取り除く、と言うのは懸命な処置のようですが、行き過ぎは危険です。

色々な意見や考え方があり、それを尊重しつつ、最終的に創造者にして支配者なる唯一真の神様のお考えに従う事が、私たちに、反対する者に求められているのであり、粛清することや、排除が創造者にして支配者なる唯一真の神様のお考えではありません。

創造者にして支配者なる唯一真の神様は多様性を容認されており、だからこそ、私たちも滅ぼされずにいる事を忘れてはならないのです。

11:14 サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう。」

11:15 民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者はが、そこで大いに喜んだ。

紆余曲折はありましたが、ここに名実ともにサウルによるイスラエルの王権が成立する事になりました。

ここに至って、イスラエルの全ての者が、サウルの王様就任を喜んだのです。

【適応】

サウルの王としての初仕事はアンモン人を徹底的に滅ぼす事でした。

何故に、創造者にして支配者なる唯一真の神様は、アンモン人を徹底的に滅ぼす事をサウルに命じたのでしょうか。

何故に、創造者にして支配者なる唯一真の神様は、申命記233節、2017版は355ページ、第3版は450ページで「アンモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して、主の集会に加わることはできない。」と宣告なさったのでしょうか。

それは申命記234節、「これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水とをもってあなたがたを迎えることをせず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたに呪いをもたらそうとしたから」であり、偶像に仕える民族であったからです。

更に、アモス書113節、2017版は1560ページ、第3版は1499ページで「主はこういわれる。『アンモン人の三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らがギルアデの妊婦たちを切り裂いて、自分の領土を広げたからだ。』」と、自分たちの利益のためならば、情け容赦もなく殺戮を繰り返す民族であったからです。

そして、ナハシュと言う名前が「蛇」を意味すると説明しましたが、蛇、即ちサタン、悪魔に対しては徹底的な排除を、抹殺を命じられているのです。

悪魔と妥協してはなりません。

情け容赦なく、聖絶しなければならないのです。

勿論、創造者にして支配者なる唯一真の神様の命令と言う大前提があっての事ですが、悪魔は、悪魔につながるものは徹底して排除、抹殺しなければならないのです。

少しでも残っていれば、残存を許せば、それは母屋を乗っ取る勢力に成長するでしょうし、悪徳の町、背徳の町だと知りつつもソドムに居座ったロトの末路が暗示しているように、朱に交われば紅くなってしまうのです。

ですから、新しい出発には、新しい体制が必要であり、外側だけでなく、内側からも、悪を、汚れを一掃してしまわなければならないのです。

何となく、そのままにしている悪しき習慣はないでしょうか。

皆で渡れば怖く無いと、罪を容認してはいないでしょうか。

大した事ではないと、過小評価してはいないでしょうか。

また、罪の特徴は人に厳しく、自分に甘い、と言う事です。

人の問題をとやかく言う前に、先ず、自分の事を吟味する事が重要です。

創造者にして支配者なる唯一真の神様は聖なるお方ですから、罪をそのままにしては神様に受け入れられません。

罪を容認するような者が、天国に入ることは出来ません。

誰にも見える身の回りだけでなく、自分しか知られない心の内からも、罪を、悪を、汚れを一掃しない限り、創造者にして支配者なる唯一真の神の民となる事は出来ないのです。

サウルの王としての初仕事は、蛇を一掃する事でした。

私たち、キリスト者の初仕事は、否、恒久的な仕事は罪を一掃する事です。

その上での奉仕、献金、祈りだけが、創造者にして支配者なる唯一真の神様に受け入れられるものとなるのです。

ここに居られる皆様が、身の回りからも、心の中からも罪を一掃して、創造者にして支配者なる唯一真の神の民に相応しく整えられますように。

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聖書箇所:エペソ人への手紙613節~18

説教題:「霊的戦いの武具とは何?」

【導入】

前回、「霊的戦いの相手は誰?」と云う説教題でお話しました。

その時、パウロは獄中の身であり、獄中と申し上げましても、牢獄、監獄などではなく、一軒家に住まわせてもらっていたのであり、かなりの自由が与えられていたようです。

それでも囚人である事に代わりはなく、ローマ兵が監視、警護に当たっていました。

パウロを監視、警護するローマ兵の出で立ちは、前回、紹介した通りであり、兜、胸当て、脛当て、盾で身を守り、剣、槍で敵襲に備えており、近寄りがたい、厳めしい姿でありました。

要所要所に、ローマ兵の詰め所があり、治安維持に勤めていましたが、この手紙が書かれた頃は、「ローマの平和」と云われた、歴史上希な、珍しい程、戦争のない時代でした。

皆が、平和を、戦争のない時代を満喫していたのですが、しかし、ローマ兵は実在しており、武装は解除されてはおらず、武具に実を固めたローマ兵の姿は、戦争が起こり得る事を、平和は、束の間でしかない事を暗に示していたのです。

先に、パウロは、キリスト者の戦いの相手は悪魔であると宣言しましたが、悪魔との戦いの場は、この世であり、何時(いつ)何時(なんどき)でも応じられるような備えが必要なのです。

その、備えですが、キリスト者の敵、悪魔は、目に見えず、多数であり、強力であり、狡猾です。

人間の力や知恵で対抗する事は、また一般の武具で悪魔を倒す事は出来ません。

悪魔との戦いは、霊的な戦いであり、霊的な武具が必要です。

その武具についてパウロは何と語り、教えているのでしょうか。

【本論】

新改訳2017版 6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

邪悪な日」とは、何でしょう、何時でしょうか。

諸説あり、一、裁きの日。

二、御子キリスト・イエス様再臨直前の患難期、悪魔が自由に活動する日。

三、死の日。

四、激しい試練の日、急迫の日。

五、毎日。キリスト者が地上で過す日々、などですが、

パウロは、キリスト者に、ある特定の日への備えを勧めているのではなく、毎日の生き様、あり様を勧めているのです。

悪魔との戦いは、何月何日何時から、と云うようなものではありません。

烽火(のろし)が上がったり、角笛(つのぶえ)が吹き鳴らされるなどの、合図がある訳でもありません。

来月かも知れず、来年かも知れず、今日、この瞬間からかも知れないのです。

のんびり構えていてはならず、悠長な事をしてはいられないのです。

一切を成し遂げて」は、準備の「一切を成し遂げて」であり、中途半端や、適当に、先送りであってはなりません。

後で、臍を噛むような事にならないように、今から、備えておかなければなりません。

戦いながら、武具を用意する訳にはいかず、身に付ける事も出来ません。

まだまだ大丈夫、と思えるような時から、備えを始めておかなければならないのです。「堅く立つことができるように」の意味は、一に、悪魔との戦いに雄々しく立ち向かう姿であり、二に、悪魔に勝利し、仁王立ちになり、雄叫びをあげる姿ではないでしょうか。

戦いは、悪魔との戦いは、勝利する事が目的です。

負けは論外ですが、引き分けも選択肢の一つであってはなりません。

キリスト者の最終目的は、悪魔との戦いに勝利する事です。

そのための備えです。

悪魔は、目に見えず、多数であり、強力であり、狡猾ですが、創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様がキリスト者の味方なのですから、何一つとして損なわれる事はなく、勝利は確実です。

ですから、キリスト者は、動じる事なく、恐れる必要もありません。

雄々しく戦いに臨めばよいのですが、創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様を頼って、頼り切って、武具を何一つ用意もしないような、何の備えもなく戦いに臨むような、無謀な戦いでは、勝利する事は出来ません。

備えあれば憂いなし、であり、「神のすべての武具をとりなさい」と勧めます。

パウロは、当時のローマ兵の、完全装備の姿を思い浮かべながら、キリスト者の装備についてお勧めをします。

始めに、防御のための武具を五つ列挙しますが、最後の一つは、防備と攻撃をかねた武具です。

では一つ一つについて確認して行きましょう。

6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

堅く立ちなさい」は、主動詞であり、「真理の帯を締め」る事、「正義の胸当てを着け」る事、15節、「平和の福音の備えをは」く事、16節、「信仰の盾を取」る事、17節、「救いのかぶとをかぶ」る事、「神のことばを受け取」る事に掛かっています。

即ち、「真理の帯を締め」て「堅く立ちなさい」、であり、「正義の胸当てを着け」て「堅く立ちなさい」、であり、「平和の福音の備えをは」いて「堅く立ちなさい」、であり、「信仰の盾を取」って「堅く立ちなさい」であり、「救いのかぶとをかぶ」って「堅く立ちなさい」であり、「神のことばを受け取」って「堅く立ちなさい」なのです。

まずは、「」を締めることですが、「」は、基本的な武具であり、イザヤ書115節には「腰の帯、胴の帯」との記述がありますが、身を引き締めるのに最適であり、また、胸当てや、剣の鞘などを固定するのに必要不可欠です。

この「」には「真理の」との、但し書きが付いています。

工事現場などで見かける電気工事職人さんや大工さんは、腰に帯を締め、色々な道具をぶら下げています。

ネジ回しであったり、ペンチであったりと、業種によって様々ですが、ネジ回しを何本もぶら下げており、ペンチも何種類もぶら下げており、ガチャガチャ、ガチャガチャと邪魔なように感じますが、その業種にとって必要不可欠なものです。

キリスト者も、真理そのものを帯として身に付け、真理に相応しい言動を取らなければなりません。

言う事は真理かも知れないが、行動が伴っていなければ、その人の持っている真理には何の意味もありません。

例えば、誰にでも親切にしなさい、優しくしなさいと云っても、行いが伴わなければ意味はありません。

逆も問題です。

言動は立派であり、真理だが、言動の根拠が世俗の考えから出ているなら、それも無意味であり、害毒でしかありません。

例えば、親切で優しいけれど、見返りを求めて、であるなら、真理を帯としていると云えるでしょうか。

キリスト者が拠り処とする「真理」は、創造者にして支配者なる唯一真の神様が与えられた聖書の示す真理であり、「福音」或いは「御子キリスト・イエス様」です。

胸当て」は、身体を守る物の代表格です。

現代なら、防弾チョッキ、防刃チョッキ、と云うところでしょうか。

その「胸当て」には「正義の」との、但し書きが付いています。

スーパーマンの胸には「」が、旗印として付いていますが、キリスト者の旗印は「正義」です。

この「正義」も、時代や文化によって変わるような正義ではなく、創造者にして支配者なる唯一真の神様が聖定された「正義」です。

6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。

パウロの意識には、ローマ兵の足元の堅固さ、ふらつかず、ぐらつかず、根が生えたような磐石の足構え、何処にでも踏み込んでいく堅牢な強靭さ、が思い浮かんだのではないでしょうか。

武具は、どれ一つとして無駄なものはありませんが、踏ん張りが利かなければ、戦うに不利であり、しっかりした足元でなければ、踏み止まるにも、逃げるにも、不利です。

遠出するのにサンダル、スリッパでは心もとなく、登山するのにスニーカーや革靴では危険です。

鮎釣りが解禁になったようですが、川釣り用の長靴でなければ、危険です。

キリスト者の使命は宣教ですが、遠くに、異教、異文化の地に踏み込む事の出来る準備、備えが必要なのです。

異教や異文化に染まってしまってはなりません。

異教や異文化を知り、異教や異文化に染まらないように「真理」で備えていなければ、

ミイラ取りがミイラになってしまいましょう。

そして、宣教は、平和と共に、です。

宣教の、過去の歴史では、時の権力者との癒着関係、依存関係がありましたが、支配や占領とは、完全に無関係でなければなりません。

力ずくで、取引で、騙して、真理と福音を受け入れさせるのではありません。

あくまで平和裏に、友好的に、損害や不利益を与えないで、であり、拒絶されても、脅かさず、渋っても、忍耐し、しかし、一切の妥協はせず、真理と福音に混ぜ物をせず、お届けしなければならないのです。

6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。

これらすべての上に」は、「信仰の盾」が、今まで述べて来た事よりも優位にある事を述べるための言葉ではありません。

「その上に、もう一つ挙げるなら」の意味で理解するのが自然であり、パウロの真意、キリスト者に伝えたい事なのではないでしょうか。

」と訳されているギリシャ語の原語は、「扉」の意味の言葉であり、扉の目的は、屋内への不審者の進入を防ぎ、屋内にいる者の安全を守る事です。

」と訳しても、敵からの攻撃を防ぎ、盾の陰に隠れる者を守る意味であり、守り、救いを得させるものは「信仰」と云う「扉」のみである事を教えているのです。

パウロは「」は、「悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます」と、断言します。

火矢」とは、1m程の矢の先に、鉄の鏃(やじり)を付け、麻紐を巻き付け、油を染み込ませ、火を点けて放つ物で、的となるものを突き抜け、且つ、火を点けると云う、二重の威力を持つ、破壊的な武器なのです。

悪魔の放つ、破壊的な力を持つ火矢といえども、「消すことができます」。

扉を閉めればよく、盾の陰に隠れれば良いのであり、扉が、盾が防いでくれるのです。

火矢を防げるか否かは、扉や盾にあり、逃げ込む者や隠れる者の信頼度にはよりません。

パウロが、「信仰」をどれ程重要に考えていたかが窺える言葉です。

守りは、救いは、扉や盾を信頼するか否かです。

こんな扉では頼りない、こんな盾では何かを付け加え、補強しなければ、と考えて、入らなければ、隠れなければ、もたもたしていたならば、守りも救いも与えられません。

6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣、すなわち神のことばを受け取りなさい。

続いて、「救いのかぶとをかぶ」る事を命じます。

かぶと」は頭を保護する武具ですが、他の武具とは決定的な違いがあります。

身体のどの部分でも、致命傷になり得ますが、頭に損傷を受けたなら、脳震盪を起こしたなら、逃げるも、助けを呼ぶも叶いません。

頭に載せているだけでは駄目です。命取りです。

ぐらつかないように、ずれてしまわないように、しっかり被る事が、顎紐をしっかり締める事が重要なのです。

救いの確信がぐらつかないように、しっかり被っていなければなりません。

ここまでに五つの武具が紹介されました。

14節、「真理の帯を締め」る事、「正義の胸当てを着け」る事、15節、「平和の福音の備えをは」く事、16節、「信仰の盾を取」る事、17節、「救いのかぶとをかぶ」る事は、全て命令形です。

しかも、何れも、自分自身で、てきぱきとした動作で、素早く、の意味を含んでおり、他人任せ、のんびり、いい加減であってはならないのです。

自分自身で身に着ける時、心構え、気構えも整えられるからなのです。

そして、最後に「」を受け取る事を命じます。

」は、攻撃と防御の兼用です。

攻撃は最大の防御と云う通りです。

その「」ですが、通常は「短剣」を指すそうです。

長剣と短剣では、用途に違いがありますが、長剣であろうと、短剣であろうと、「御霊の」「神の」銘が入っている事が重要です。

見掛けは立派でも、鍛錬されていなかったり、鈍(なまく)らであったり、刃が欠けていたなら、独活の大木でしかありません。

よく鍛錬され、砥ぎ上げられ、手入れがされていれば、百戦危うからずです。

へブル人への手紙412節、2017441ページ、第3428ページ「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」。

他に、詩編1713節、2017946ページ、第3918ページ、イザヤ書492節、20171251ページ、第31206ページ、なども理解の助けになるでしょう。

6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

キリスト者の戦いは、血肉、人間に対する戦いではありません。

キリスト者の戦いは、悪魔との霊的戦いであり、創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様によって強められなければなりません。

そのためには、創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様との、深い、熱い、絶えざる祈りが、必要不可欠なのです。

前回の学びで、戦いで重要なのは、戦いの大義名分と、総大将が誰なのかだ、と申し上げました。

意味のない戦いに、命を掛け、全力を尽くす事は出来ません。

信頼出来る大将だからこそ、命を預けられ、全力を尽くすのです。

創造者にして支配者なる唯一真の神様のための戦いであり、御子キリスト・イエス様を総大将とする戦いである事が重要なのですから、創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様から頂いた武具を装備し終えたキリスト者は、敬虔な祈りによって、祈りを経て、真のキリストの兵士となるのです。

悪魔は目に見えず、多数であり、強力であり、狡猾であり、超自然的な知能と威力を有しているのですから、祈りによって、総大将であり、悪魔を遥かに凌駕し、比ぶべきもない全知全能なる唯一真の神様の指示を仰ぎ、支援を頂かなければならないのは当然です。

その「祈りと願い」ですが、「祈り」とは、広い意味の祈り、一般的な事、「願い」とは、狭い意味の祈り、個人的な事、との大まかな区別がありますが、祈り、願いの課題は、生活のあらゆる分野に及びますので、混然となっているのが実情でしょう。

どんなときにも」とありますが、祈りを本職にしている訳ではありませんが、だからこそ、すべての機会に、どんな状況でも、危急の時でも、一刻の猶予もないような時でも、立ち止まり、静まり、額(ぬか)付き、祈る意識を持つ事が重要なのです。

目を覚ましていて」とありますが、不眠不休では長続きしませんから、寝ない事を命じている訳ではありません。

皆さん、慌ただしい毎日を過ごしておられるのですが、寝ぼけ眼で、祈るようであってはならず、忙しくて、決めた時刻に、一定の時間を確保するのは難しいでしょうが、例えば、朝、身支度を整えた後を、祈りの時として10分確保しておく、就寝前の20分を、祈りの時として確保しておく、通勤車中の30分を祈りの時とする、などなどなら可能なのではないでしょうか。

継続して祈り続ける事が重要なのです。

自分の事だけでなく、執り成しの祈りも重要であり、「すべての聖徒のために」祈ります。

悪魔との戦いは、個人戦でもありますが、団体戦でもあります。

味方の一部が負け、一角が破れたならば、戦線は混乱し、戦いは非常に不利な展開になるでしょう。

味方の状況を良く、広く把握し、互いに激励し合い、助け合う必要のために、祈りは不可欠なのです。

【適応】

パウロは、当時の人々なら誰もが知っているローマ兵、その装備、武具を喩にして、キリスト者として、悪魔との戦いに必要な装備、武具を列挙し、喩で意味を語ります。

時代は変わり、戦い方も、装備、武具も大きく変わりましたが、それは人間同士の殺し合いに於いてです。

悪魔との戦いにおいて、霊的な戦いに於いて、装備、武具の基本は変わりません。

「真理」「正義」「平和、福音」「信仰」「御霊、神のことば」は変わりません。

2000年前も、現代も、数千年の未来も、「真理」「正義」「平和、福音」「信仰」「御霊、神のことば」は変わらないのです。

だからこそ、自信をもって伝えられる、と云う事が出来るでしょう。

100年後に変わる「真理」を、「真理」と云えるのでしょうか。

人間の都合や、考え方次第で変わるような「正義」「平和」ってあるのでしょうか。

「福音」「信仰」「御霊、神のことば」って、時代と共に、文化によって変わるものなのでしょうか。

よくよく考えれば、「真理」「正義」「平和、福音」「信仰」「御霊、神のことば」は何種類もあっていいものなのではなく、一つなのであり、

創造者にして支配者なる唯一真の神様が聖定された「真理」「正義」「平和、福音」「信仰」「御霊、神のことば」だけなのです。

そして、共通するのは、共有するのは、創造者にして支配者なる唯一真の神様のための戦いであり、御子キリスト・イエス様を総大将とする戦いだ、と云う事であり、だからこそ、悪魔との戦いに於いて、キリスト者は時代を超えて、地域を超えて、人種を超えて、共同戦線を張れるのであり、戦えるのです。

悪魔との戦いは、キリスト者すべてに与えられた使命です。

勿論、子どもと大人、年老いた人と若者、性別、能力、などなどの違いで期待される働きは違いますが、悪魔と戦う、という点は同じです。

悪魔と戦うための備えは万全ですか。

悪魔と戦うための武具は、手入れが行き届いていますか、体に馴染んでいますか。

自前の、或いは紛い物の武具では、悪魔との戦いでの敗北は確実です。

悪魔と戦うための武具に、御霊の」「神の」銘が入っていますか。

御霊印、御神印の帯ですか、御霊印、御神印の胸当てですか、御霊印、御神印の履物でか、御霊印、御神印の盾ですか、御霊印、御神印のかぶとですか、御霊印、御神印の剣ですか。

一つ一つを点検し、自分自身で身に着け、心構え、気構えにおける備えも怠らず、御子キリスト・イエス様に忠実な兵士として備えるなら、悪魔との戦いに敗北する事はありません。

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                                  2020-6-7礼拝

聖書箇所:エペソ人への手紙610節~12

説教題:「霊的戦いの相手は誰?」

【導入】

パウロは、創造者にして支配者なる唯一真の神様を知らず、聖書の教えを知らず、御子キリスト・イエス様を知らない土地で、異教の習慣がはびこっている社会で、それらを直接非難する事なく、創造者にして支配者なる唯一真の神様の喜ばれる生き方とは何かを、優しく、具体的に教えます。

夫婦の関係について、其々のありようについて、親子の関係について、其々のありようについて、奴隷と主人の関係について、其々のありようについて語ります。

パウロは決して、直接、絶対父権社会、男性優位社会、封建的社会、奴隷制度を否定していませんが、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨にそった、聖書の教えにそった、御子キリスト・イエス様の御旨にそった、関係性とありようについて語ります。

妻との関係、子どもとの関係、奴隷との関係は、力で支配する事ではなく、脅す事で従わせるのでもなく、愛でもって導き、従わざるを得ない関係を作り上げるように勧めます。

パウロが、愛を力説するのは、創造者にして支配者なる唯一真の神様の御旨であり、聖書の教えであり、御子キリスト・イエス様の御旨だからです。

愛でもって導き、従わざるを得ない関係は、夫婦、親子、奴隷と主人の関係に限定されません。

エペソ人への手紙は、教会論を扱っていると申し上げましたが、教会は、即ち、キリスト者の集まりは、「愛」で結び付けられている集まりなのです。

何故パウロが、愛を強調するかは、教会の働きに関わるからです。

教会の働きは、多種多様ですが、決して力や脅しで教会に連れて来るのでも、よってたかって悔改めさせるのでも、無理やり洗礼を受けさせるのでもありません。

教会の働きの、根底になければならないのは、滅び行く魂に対する愛です。

人々を悔い改めに導くのも、愛であり、伝道するのも、迷える人々に対する愛です。

この教会の働きを邪魔するのは、誰でしょうか。

【本論】

新改訳2017版 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

パウロは、語って来た事を締め括るにあたり、心構えを語ります。

その心構えは、教会の働きに関わる重要な内容です。

教会の働きが、人間中心、交わり中心、相互の助け合い中心であるなら、互いに愛し合いなさい、互いに許し合いなさい、互いに仲良くしなさい、互いに助け合いなさい、で締め括るでしょう。

しかし、教会は、仲良しクラブ、旧交や親交を温める場ではありません。

教会の存在目的は、教会の交わりの目的は、人々を悪魔の支配から解放する事であり、悔い改めに導き、滅びから救い出す事です。

教会は、この世と戦うのであり、悪魔と戦うのであり、キリスト者の生涯は、悪魔との激闘なのです。

キリスト者の生活は、楽しい部分もありますが、悪魔との戦いであり、誘惑との戦いであり、内在する罪との戦いであり、自我との戦いなのです。

これらの戦いは、悪魔の力や脅しとの戦いであり、自分との戦いですが、意気込みや、勇気、根性、気合、知識では、戦い続けられません。

主にあって」、「その大能の力によって」、「強められ」なければならないのです。

戦いは、一戦を交える前から始まっています。

秀逸な武具を用意するのは勿論の事ですが、戦いの大義名分と、総大将が誰なのかです。

意味のない戦いに、命を掛け、全力を尽くす事は出来ません。

信頼出来る大将だからこそ、命を預けられ、全力を尽くすのではないでしょうか。

創造者にして支配者なる唯一真の神様のための戦いであり、御子キリスト・イエス様を総大将とする戦いである事が重要なのです。

キリスト者は、礼拝を通して、創造者にして支配者なる唯一真の神様への感謝を現し、御子キリスト・イエス様を讃え、家庭人として、平和で、穏やかで、豊かな生活を営む一面もありますが、同時に、御子キリスト・イエス様の兵士として戦い続けるのであり、雄々しい強さを合わせ持つ、不屈の戦士として、日夜を問わず、年中無休で戦い続けるのです。

そのためには、何時も、絶えず、「主にあって」、「その大能の力によって」、「強められ」続けなければならないのです。

家庭人として過ごす時間は、OFFの時間ではありません。

キリスト者として、創造者にして支配者なる唯一真の神様への感謝を現し、御子キリスト・イエス様を讃え、同時に、キリストの兵士として、創造者にして支配者なる唯一真の神様に仕え、御子キリスト・イエス様の御旨を行なうのです。

家庭人としても、兵士としても、「主にあって」、「その大能の力によって」、「強められ」なければならないのです。

キリスト者としての生活は、悪魔との戦いを遂行する生活であり、油断大敵であり、驕り昂ぶり、侮りは、致命的な結果をもたらすでしょう。

6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

策略」は、複数形であり、多様性と、繰り返される攻撃の執拗さを意味します。

悪魔は、策士です。勤勉です。努力家です。創意工夫の主です。

簡単には諦めず、何処までも喰らい付いて来ます。

引いたように見せかけ油断させ、諦めたように見せかけ騙し、隙を突いて来ます。

本当に巧妙であり、戦いに、駆け引きに長けています。

時には、すり寄ってくるでしょうし、妥協を提案しても来るでしょうが、近寄らせてはならず、譲歩してはなりません。

神のすべての武具」であり、「神の」、即ち、創造者にして支配者なる唯一真の神様が用意して下さる「すべての武具」であり、自前の武具は一切必要ありません。

創造者にして支配者なる唯一真の神様は、御子キリスト・イエス様は、悪魔の攻撃を完全に退ける事が出来るように、必要な武具を与えてくださいます。

パウロは、常日頃、目にする、ローマ兵、監視兵の姿を思い浮かべた事でしょう。

当時のローマ兵の基本的武具、標準装備は、身を守る兜、胸当て、脛当て、盾、攻撃するための剣、槍、の合計6種類だったそうです。

これを「身に着け」る事が重要です。

秀逸な武具であっても、飾って置いては意味はなく、身を守る事は出来ず、敵を倒す事も出来ません。

身に着け」たとしても、兜、胸当て、脛当ては、身丈にぴったりと合ってなければ、盾は、防御するに、取り扱うに適当な大きさ、重さでなければ、身を守る事は出来ず、剣、槍も、手に馴染んでいないならば、上手く使いこなせないならば、敵を倒す事は出来ません。

間に合わせの物であってはならず、いい加減な物であってはならないのです。

敵は、百戦錬磨、狡猾な悪魔です、侮ってはならないのです。

悪魔を意識するに、やぶさかな者は、創造者にして支配者なる唯一真の神様を意識するに、やぶさかであり、悪魔の力を認識する事に、浅薄な者は、創造者にして支配者なる唯一真の神様の力を認識する事に、浅薄なのです。

キリスト者の戦いの相手は悪魔であり、悪魔の存在を意識し、悪魔の力を正しく評価するのは非常に大切な事なのです。

敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、です。

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

格闘」と訳されているギリシャ語は、「組み打ち、レスリング」のような個人格闘技を指し示すことばです。

剣や槍による、敵味方入り乱れる合戦のイメージ、戦う相手が次から次へと、刻々と変わる混乱戦のイメージよりも、胸倉を掴み、組みつ解れつが、相手を倒すまで続く、一騎打ちのイメージです。

血肉」は人間を意味しますが、格闘の相手は人間ではないと明言し、「暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」、即ち、格闘の相手は悪魔である事が宣言されます。

さらに、「支配」、「」と云う、実体のないものも格闘の対象ですが、「支配」と「」と、「暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」は、悪魔に対する、表現の違いではありません。

聖書には訳されていませんが、其々に「・・・に対する」と云う前置詞が付いています。

即ち「支配に対する、力に対する、この暗闇の世界の支配者たちに対する、また天上にいるもろもろの悪霊に対する」であり、パウロは、「支配」と「」と、「暗闇の世界の支配者たち」と「天上にいるもろもろの悪霊」とを、別個のものとして扱っているのです。

パウロが、キリスト者が生涯取り組むのは、「支配に対する、力に対する、この暗闇の世界の支配者たちに対する、また天上にいるもろもろの悪霊に対する」格闘なのです。

格闘する相手は明確ですが、しかし、実体はありません。

パウロが、キリスト者が生涯取り組むのは、人間を操る「暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」であり、直接には人間を相手にしますが、本当の敵は、戦う相手は、究極の敵は、「暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」である事を見誤ってはならないのです。

支配」と「」ですが、「支配」と「」全般ではなく、「暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」の操る「支配」と「」とである事を押えておく事も重要でしょう。

正しい「支配」と「」とがあり、不正な「支配」と「」とがあり、区別しておく事は重要です。

創造者にして支配者なる唯一真の神様が聖定され、御子キリスト・イエス様に委ねられ、更に人間に委ねられた支配」と「と、暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」の操る「支配」と「」を混同してはならないのです。

暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」の操る「支配」と「」は、絶大であり、「暗闇の世界の支配者たち」と、「天上にいるもろもろの悪霊」に与(くみ)する勢力も、多大ですが、恐れる事も、怯む事もありません。

エペソ書119節、2017版は385ページ、第3版は374ページ、「また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」であり、

第一ヨハネ44節、2017版は482ページ、第3版は374ページ、「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです」だからです。

【適応】

霊的な戦いの相手とは、悪魔である事が判明しましたが、悪魔は霊的な存在であり、実体がなく、漠然として、掴みどころがありません、

しかし、実体はなくても、確実に存在しており、本質は「惑わす者」です。

どのようにして惑わすか、と云えば、人間を使って、です。

どのようにして惑わすか、と云えば、真実に、ほんの少し、真実ではない事を織り交ぜて、です。

全くの嘘や、出鱈目では、人を騙せません。

多くの真実に、ちょっとだけ真実でない事を織り交ぜると、人間は、真実でない事をも、真実のように受け止めてしまうのです。

悪魔は、人間を惑わす術に長けています。

惑わされ易い人間、惑わされ難い人間、がいる訳ではありません。

人間は皆、罪を持っているので、惑わされる素地があるのです。

そして、悪魔は、素地の見極めに対しては天賦の才を持っています。

弱点を誰よりも良く知っており、長所も良く良知っています。

そして、弱点を狙って攻めるのではなく、長所を狙って攻めるのでもなく、一番効果的な所を狙って攻めて来るのであり、誰もが悪魔に利用される可能性、否、必然性、蓋然性を持っているのです。

悪魔が教会に波紋を起こそうと企んだ、としましょう。

悪魔は先ずAさんを惑わし、悪魔に惑わされたAさんの働き掛けで、Bさんが惑わされ、Aさんに惑わされたBさんの働き掛けで、Cさんが惑わされ、と惑わしが伝播して行き、教会に混乱が起こった、としましょう。

ここで注意したい事は、悪魔に惑わされたのは、悪魔の手先になったのはAさんだけではない、と云う事であり、

BさんやCさんは単に被害者ではない、と云う事です。

Bさんも悪魔に惑わされて、悪魔の手先になっているのであり、Cさんも悪魔に惑わされて、悪魔の手先になっているのです。

Aさんも、Bさんも、Cさんも悪魔に惑わされた被害者であると同時に、悪魔の手先として利用されて加害者になっているのです。

しかし、Aさんも、Bさんも、Cさんも悪魔に惑わされ、悪魔の手先となった、加害者である、との認識は、全くないでしょう。

これが、悪魔の巧妙、狡猾なところです。

悪魔は、その存在を知らしめるような行動は取りません。

常に、影に回り、その存在を隠しつつ、人間に働き掛け、人間に気付かれずに、人間を操ります。

人間の間に疑心暗鬼を植え付け、人間が、お互いを信頼しないように仕向けます。

至っては、創造者にして支配者なる唯一真の神様の権威を失墜させ、信頼するに、従うに値しない、聖書の権威を失墜させ、信頼するに、従うに値しない、御子キリスト・イエス様の権威を失墜させ、信頼するに、従うに値しない、との考えを持たせるのです。

本日の説教題の通り、霊的戦いの相手は悪魔ですが、直接には人間を相手にしている、人間が介在している事実を忘れてはなりません。

ともすると、悪いのは悪魔で、人間は被害者だ、となってしまいます。

Aさんも、Bさんも、Cさんも、悪気は全くなく、寧ろ善意で行なっているでしょうから、問題は全て、悪魔の所為であり、個人を責めてもねぇ。

諌めても逆効果しかないでしょう・・・云々。

不問に附すのが、牧会的対応、配慮。赦すのが、愛だ、と思われがちです。

しかし、人間の加害者性を軽んじる事は、悪魔にとって好都合でしかありません。

惑わし、唆(そそのか)したのは、悪魔ですが、その惑わしに、唆しに乗っかった責任は問われなければなりません。

責任を取る、と云うよりも、同じ事を繰り返さないがための検証、吟味が必要だ、と云う事です。

霊的に成長している大人は、自身の言動を検証し、吟味し、糧として成長し、また、対岸の火事をも、糧とし、益々聖化して行きます。

霊的な幼子は、全てを悪魔の所為にして、自分の言動には目を瞑り、非がない事に安堵し、一件落着を決め込みます。

同じところに留まり続け、悪魔に利用されている事にも気付かず、似たような事を繰り返し、益々深みに嵌って行くのです。

霊的な大人と幼子の違いは、信仰暦、賜物、奉仕、熱心さ、などなどの違いではありません。

悪魔の惑わしは、必然である、悪魔の惑わしに、常に曝されている、との認識と、惑わしに曝され続けているとの前提で、警戒と備えとを怠らず、検証と吟味をする事です。

正しい認識がなければ、警戒もなく、備えもなく、結果に対しても、仕方がなかった、となり、検証も吟味も省かれる事でしょう。

それでは、悪魔の思う壺です。

教会の問題や、信仰上の問題を、全て悪魔の所為にするのも問題です。

悪魔に責任転嫁するところには、問題解決はありません。

正しい認識と、正しい対応が相まって、教会の聖さは保たれ、

創造者にして支配者なる唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様の栄光は現されるのです。

皆さんは、悪魔に対して正しい認識をもっているでしょうか。

警戒し、備え、対応しているでしょうか。

自分は大丈夫、でしょうか。

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