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                                   2020-7-26礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一126節~31

説教題:「無に等しい者を召し出す」

【導入】

パウロは、地中海沿岸、内陸各地で、福音を宣べ伝えて来ました。

創造者にして支配者なる唯一真の神様を信じている民、即ち、ユダヤ人と、八百万の神、ギリシヤ神話の神、人間が考え出した神を信じている民、即ち、ギリシヤ人、ローマ人など異教徒、異邦人に福音を宣べ伝えて来ました。

ユダヤ人の特徴、異邦人の特徴に合わせて、福音を宣べ伝えて来ました。

福音を宣べ伝える事は、パウロ自らの体験から得た使命、即ち、唯一真の神の御子キリスト・イエス様との出会いから与えられた使命であり、十字架のキリストのみを宣べ伝える事です。

唯一真の神の御子キリスト・イエス様から直接、召しを受け、与えられた使命ですが、ユダヤ人も、ギリシヤ人も、すんなりと受け入れてくれた訳ではありません。

ユダヤ人は「しるし」を要求し、ギリシヤ人は「知恵」を追求しますが、しるしや知恵で、唯一真の神様を見出す事も、御子キリスト・イエス様を見出す事も出来ません。

唯一真の神様のご計画は、宣教のことばの愚かさを通して、御子キリスト・イエス様を信じる者を救おうとされたのであり、信仰が全てなのです。

パウロは、十字架のことばと、しるし、この世の知恵とを対比させ、しるし、即ち、証拠は、信じるか、信じないかであり、万民を納得させ得るものではない事、万能ではない事、この世の有限な、不完全な知恵で、無限の、比類ない唯一真の神様を証明する事の無謀さ、限界と虚しさとを語ります。

ユダヤ人の主張も、ギリシヤ人の主張も、人間中心であり、証拠偏重、知恵偏重の現れです。

パウロは、人間中心の考え方、証拠偏重、知恵偏重に対して、鋭く、切り込んだのですが、続けて、人間尊重の社会構造に対しても、鋭く、切り込みます。

【本論】

新改訳2017版 1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

コリント教会員の大多数は、社会的上位者層ではなく、知識者層でも、権力者層でも、裕福者層でもなかったようです。

当時、知恵が与えられ、権力が与えられ、財産が与えられ、特権階級になるのは、神様に愛されている証拠であり、何かしら良いところ、秀でたところがあるからである、と考えられていました。

しかし、果たしてそうでしょうか。

先週、お話しましたが、人間は、秀でていると云っても、劣っていると云っても、大した差ではなく、強いと云っても、弱いと云っても、高が知れており、謂わば、「団栗の背比べ」でしかないのです

団栗程度の差とは云え、コリント教会員に知識者層がいるのは、権力者層がいるのは、裕福者層がいるのは、彼ら、彼女らに、何かしらかの取り柄があるからではなく、唯々、唯一真の神様の恵みであり、憐れみなのです。

パウロは、コリント教会員に、大多数の、知識者層でもなく、権力者層でもなく、裕福者層でもない人々と、そして、極一部の知識者層に、権力者層に、裕福者層に、如何なる状態から召し出されたかを考えるように、思い出すように促します。

人間は、唯一真の神様に対して、何の働きもせず、何の益ももたらさず、何も献げていないのに、逆に、働くべき働きをせず、もたらすべき益をもたらさず、献げるべきものを献げていないのに、唯一真の神様の御名に泥を塗るような事しかしていないのに、唯一真の神様の恵みによって、憐れみによって、召し出されたに過ぎないのです

人間的に見れば」は、「人間の基準に従えば」の意味であり、「人間の基準に従えば」、確かに差があり、少なからず違いがあるかも知れないが、「知者」も「力ある者」も、「身分の高い者」も、極少数派であり、もしも、「知者」や「力ある者」や、「身分の高い者」だけが救われるなら、召し出されるなら、救われる者も、召し出される者も、殆どいない事になるでしょう。

でも、実際にコリント教会では、多数を占める「知恵のない者」や「力のない者」や、「身分の低い者」が洩れなく救いに与っているのであり、「知恵」や「」や、「身分」などは、救いにとって何の力も、働きも、効果もない事は明らかです。

人間の知恵や力、身分など誇っても、何の助けにもならないのです。

1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

1:28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

コリント教会に限らず、教会形成は、唯一真の神様の、一方的な「選び」による事を明らかにします。

「選び」の基準は、唯一真の神様にあり、人間の能力、優劣、身分、地位、人種などや、精進、努力、熱心にはありません。

コリント教会は、人種の違い、ユダヤ人とギリシヤ人の違い、宗教の違い、ユダヤ教徒と異教徒の違いは乗り越えて、一致する教会として歩んで来ましたが、人間的なものに価値を置き、「知恵」や「」や、「身分」などの違いを乗り越える事が出来ず、人を祭り上げて、分派を作り、「知恵」や「」や、「身分」などの違いを誇りとして、一致の妨げとしてしまっていたのです。

知恵」や「」や、「身分」などは、自らの評価にも、人からの評価にも、意味はありません。

唯一真の神様の評価は、御子キリスト・イエス様の十字架のことばを信じる者か否かであり、そこに「知恵」や「」や、「身分」などの差はありません。

1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

先に申し上げたように、「知恵」や「」や、「身分」などの差は、唯一真の神様に由来する、との考え方は根強く、「知恵」や「」を多く与えられていた人がいたのも、高い「身分」などが与えられた人がいたのも、「知恵」や「」や、「身分」などを誇る人々がいたのも事実です。

しかし、コリント教会の構成員を見れば、大多数が「知恵」や「」や、「身分」などのない人々であり、その大多数は、「知恵」や「」や、「身分」などで選ばれたのではない事は明らかです。

仮に、「知恵」や「」や、「身分」などが選びに影響したとしても、「知恵」や「」や、「身分」などは、唯一真の神様から恵みと憐れみで与えられたものであり、人間が誇る理由とはなりません。

申命記94節、5節、2017版は330ページ、第三版は320ページ「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私をこの地に導きいれ、所有させてくださったのだ」と言ってはならない。これらの国々の邪悪さのゆえに、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。

9:5 あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心が真っ直ぐだからでもない。これらの国々の邪悪さのゆえに、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。」

唯一真の神様が、人に「知恵」や「」や、「身分」などを与えられるのは、そして、人が救われるのも、召しだされるのも、人が正しいからでも、誠実だからでも、取り柄があるからでもなく、唯一真の神様が約束に対して誠実だからであり、恵みと憐れみとに満ちておられるお方だからなのです。

多少「知恵」が秀でていたとしても、秀でた「知恵」は、唯一真の神様が与えてくださった能力であり、誇る事は出来ません。

」や「身分」なども同じ理由で、「だれも」誇る事は出来ません。

だれも」であり、全ての人が、どんなに優秀でも、どんなに力があっても、どんなに高貴な身分でも、唯一真の神様の前で誇る事は出来ないのです。

パウロが、「恥じ入らせるために」と断言し、繰り返すのは、一部のコリント教会員を意識していたからですが、一部のコリント教会員は、自らを「御霊に属する」と自称し、「肉に属さない」と誇っていたのです。

これはコリント人への手紙第一31節に記されています。

パウロは、唯一真の神様の前に、自らの卑しさを徹底的に知らしめ、誇りを打ち砕き、誇りを否定しなければならないと、自戒しなければならない、と力説します。

人間的な「知恵」や「」や、「身分」などにより頼み、誇りとするならば、「キリスト・イエス」は、無用になってしまいます。

1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

私たちが、「キリスト・イエス」に結び付くのは、「キリスト・イエス」と一体にされるのは、更に、「キリスト・イエス」と一体にされた者同士の麗しい交わりに入れられるのは、「知恵」や「」や、「身分」などではなく、「神によって」です。

キリスト・イエスのうちにあります」は、重要な教えです。

キリスト・イエスのうちにあります」とは、即ち、私たちキリスト者が、御子キリスト・イエス様に属する、と云う事であり、御子キリスト・イエス様に属する、と云う事は、御子キリスト・イエス様を頭とする教会に所属すると云う事であり、キリスト者の存在は、教会にあって、教会を通して、教会とともに、であり、教会論に繋がる意味を指し示す重要な教えなのです。

キリスト・イエスのうちにあります」とは、私たちキリスト者は、「キリスト・イエス」だけがもたらす、罪の身代わり、贖い、よみがえり、永遠の命に与るのであり、キリスト論、救済論に繋がる意味を指し示す重要な教えなのです。

」とは、御子キリスト・イエス様の十字架により、私たちが、義なる者と見做され、唯一真の神様に受け入れられる事です。

」とは、御子キリスト・イエス様の十字架により、私たちが、唯一真の神様のものとされ、それに相応しく生きる事、生き続ける事です。

贖い」とは、御子キリスト・イエス様の十字架により、私たちが、罪と滅びから救済され、罪の代価が支払われている故に、最後の審判の日に、完全に解放され、永遠の命を受け取る事です。

これらは唯一真の神様の救いのご計画です。

これらの唯一真の神様のご計画は、御子キリスト・イエス様を通して与えられる知恵によって、知り、理解する事が出来るのです。

御子キリスト・イエス様は、私たち、キリスト者に必要な知恵そのものであり、罪の身代わり、贖い、よみがえり、永遠の命に与るための「鍵」なのです。

1:31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

唯一真の神様から与えられ、預かっているに過ぎない「知恵」や「」や、「身分」などにより頼み、誇る愚かさから離なれなければなりません。

誇る者は主を誇れ」です。

31節のことばは、締め括りのことばであり、本日の聖書箇所のことばは、エレミヤ書923節から24節までの要約的引用です。

2017版は1306ページ、第三版は1259ページです。

唯一真の神様によって選ばれた者たちは、御子キリスト・イエス様のみを誇る者となるように、と促します。

何故ならば、罪人の必要の全て、罪の赦し、罪からの贖い、死や滅びからの救い、義と認めること、永遠の命などを充分に満たすのは、御子キリスト・イエス様だけであり、人間的要素を頼みとして誇る、あらゆる試みを完全に否定し、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様を誇るべきであり、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様だけが、全ての賛美と誉れを受くべきお方であると、勧告するのです。

【適応】

現代は、競争社会であり、何かしら秀でている能力、特技を持っている者が優位に立ち、もてはやされる時代です。

殆ど全てが成績で評価され、一点の差で、合否が決められ、コンマ以下の秒数で、メダルの色が変わる、能力至上の社会です。

何かで差をつけ、その差で評価される社会なのです。

たった一点の差であり、コンマ何秒の差でしかありませんが、その後の人生を大きく変え、決めてしまいます。

そして、その影響は教会の中にも及んでいます。

能力を持つ者、秀でている者がもてはやされ、特技を持っている者、役立つ者が歓迎されます。

多く奉仕すると褒められ、多く献げると褒められ、礼拝出席すると褒められ、礼拝出席日数が多いと褒められます。

しかし、教会は、能力至上主義社会ではありません。

成績至上主義社会でもありません。

奉仕も、献げものも、礼拝主席も、「知恵」や「」や、「身分」なども、誇るものではありませんし、教会でそれらを誇ってはならず、褒めてはなりません。

教会は、その人の存在自体を喜ぶのであり、その人の能力、働き、地位には一切関係ありません。

本日の説教題を「無に等しい者召し出す」としましたが、「能力のある者召し出さない」の意味ではありません。

その意味では「無に等しい者召し出す」とした方が、説教題として相応しいかもしれません。

知恵」や「」や、「身分」などが有る者も、無い者も、まったく区別、差別なく、招かれているのが、集えるのが教会です。

それなのに、この世の競争社会に疲れ、成績社会にうんざりし、教会に来てみたら、教会でも、「知恵」や「」や、「身分」などが幅を利かせていたならば、能力を持つ者、秀でている者がもてはやされ、特技を持っている者、役立つ者が歓迎されていたならば、誰が教会に行きたい、教会に行こうと思うでしょうか。

何も出来なくて、何の役にも立たなくて、何も貢献できなくて、この世で片身の狭い思いをし、教会に来てみたら、教会でも同じようだったなら、誰が教会に行きたい、教会に行こうと思うでしょうか。

何も出来なくても、何の役にも立たなくても、何も貢献できなくても、そんな、誇るものを何も持たない者が、片身の狭い思いをしない、礼拝出席もままならない方、ご高齢者、障害をお持ちの方に、片身の狭い思いをさせない教会こそ、「知恵」や「」や、「身分」などが与えられた者は、それを自然に、驕り昂ぶらず、謙って用いる人の集まる教会こそ、パウロの目指した教会であり、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様の喜ばれる教会です。

私たちの教会も、斯くありたいものです。

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                                    2020-7-19礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一118節~25

説教題:「十字架のことばと人の知恵」

【導入】

9節「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」事実こそ、パウロの感謝の中心であり、この手紙全体を理解する「鍵」であるとお話しました。

9節は、土台であり、基礎なのです。

私たちが「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」のは、唯一真の神様の恵み、憐れみによって、御子キリスト・イエス様の贖いによってであり、これに何かを付け加える事も、これから何かを削り取る事もありません。

しかし、人は、付け加える必要も、削る取る必要もないところに、何かを加えようとし、何かを削ろうとします。

それが、「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」事実の理解のためであり、唯一真の神様の恵み、憐れみ、御子キリスト・イエス様の贖いの理解の助けであるならまだしもなのですが、人々を自分の方に引き付ける、引き寄せるためであるなら、教会の中で優位に立つため、相手を負かすためであるなら、問題です。

そして、分派や分裂、対立や反目の原因になっているなら、非常な問題であり、悲しい事です。

教会は、「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」者の集まりであり、分派や分裂、対立や反目とは、縁のない場であるはずです。

しかし人間は、善悪の知識の木の実を食べて以来、罪を内在しており、知恵や知識を誇り、相手を負かし、自分の方に引き付け、引き寄せ、優位に立ちたがるのです。

人間は、こんな事を、有史以来、教会の中でも繰り返して来たのです。

他人事ではありません。

皆さんが当事者になり得るのであり、その事は前回、お話した通りです。

有能な人ほど、祭り上げられないように、注意しなければならず、熱心な人ほど、祭り上げられないように、注意しなければならず、重んじられている人ほど、祭り上げられないように、注意しなければならないのです。

そして、人を祭り上げて、自分の願望を遂げようとしてもなりません。

分派、分争の根底には、人を祭り上げ、祭り上げられる背景には、人間中心、人間の知恵が重んじられている事があります。

パウロは、知恵偏重を是正するために、この世の知恵の虚しさ、限界を語ります。

【本論】

新改訳2017版 1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

十字架のことば」は、御子キリスト・イエス様が十字架で死なれた事実と、その意味するところ、即ち「罪の刑罰からの贖い、赦し」、即ち「福音」です。

そして、パウロが宣べ伝えて来たところであり、歴代の宣教師、伝道者、牧師が語って来たところです。

滅びる者たち」とは、福音を無視する、福音を馬鹿にする、福音を受け入れない、の意味で「愚か」な人々であり、決して、自堕落に生きている世捨て人たちでも、自暴自棄な生き方をしている無頼漢たちでも、何も知ろうとしない、刹那的な生き方をする無知蒙昧な人たちでも、合理主義者たちなど、特定の主義を主張する人たちの意味でもありません。

逆に、博学な人々であり、知識人と呼ばれ、常識、良識ある人々とも呼ばれ、この世で成功し、名を揚げ、財を成した人たちでしょうが、唯一真の神様については、無知であり、知ろうともしない人たちなのです。

この世の知恵の「愚か」さは、「滅びる者たち」が、その限られた知恵と知識とによって、十字架の福音を愚かと断じる事に現れています。

自分たちは、何でも知っている、理解している、説明出来ないものは、意味がないものだ、と断定する、知識偏重主義に陥っており、また、福音が、救いをもたらす唯一真の神の力である事を理解出来ない人たちなのです。

福音は、「処女降誕」「復活」「昇天」など、この世の常識では理解出来ず、この世が見た事も、経験した事もない「神の力」の現れです。

ですから、理解出来ないのも、受け入れられないのも、仕方がないのは事実ですが、信じる人たちが居るのも事実です。

同じ「十字架のことば」を聞いても、「愚か」な事としてしか受け止められない人たちが居り、また、「神の力」として受け止める人たちが居るのです。

この違いは何でしょう、何処から生まれるのでしょう。

それは、今までに説明して来た知識偏重主義に陥っている人たちと、唯一真の神様の恵みであり、憐れみで「信仰」を与えられた人たちとの差です。

人は「信仰」によって、理解出来ないものを受け入れるのです。

知識、経験は、万能ではありません。

知識、経験は、何でも解決し、解答を与えるものではありません。

人は、多くの場合、問題を、知識や経験によって乗り越えるのではなく、知らず知らず、「信仰」によって、乗り越えているのです。

「信仰」は、無謀、無知、蛮勇を意味しません。

理解出来ない事がある、と云う、謙虚さ、謙りと、委ねる思いと、信頼の意味です。

その、無償で与えられる「信仰」を、拒否、拒絶する人たちの、なんと多いことか。

十字架のことば」を理解する唯一の手段である「信仰」を拒否するとは、なんと愚かな事であり、「信仰」を拒否するところに、「十字架のことば」は、届きようも、受け入れられようもありません。

1:19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。

19節はイザヤ書2914節からの引用です。

 

2017版は1212ページ、第三版は1169ページです。

パウロは、自分の論述が、自分の作り出した、思い浮かんだ考えからではなく、イザヤが預言していた事だと、云うのです。

22節に、「ユダヤ人はしるしを要求し」と記されていますが、パウロは、ユダヤ人の拠り所とする聖書を、イザヤ書を、証拠として提示しているのです。

これは重要な事です。

唯一真の神様、御子キリスト・イエス様に関する事柄は、聖書を根拠に語らなければなりません。

聖書が根拠、これが基本です。

分かり易くするために、この世の事を例にして、例話を展開する場合には、例話が岐路となって、話が脱線し、間違った方向に進まないように、例話が正しい適応に繋がるかの吟味、注意が必要です。

1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

知恵ある者」とは、ギリシヤ人の知的階層者を意味し、「学者」とは、ユダヤの律法学者を意味し、「論客」とは、ギリシヤ人、ユダヤ人の弁論家、論客、を意味する、との説がありますが、パウロは、当時の、三大知識階級、三つの種類の知識者を挙げる事で、如何なる種類の人間の知恵を集めても、唯一真の神様の知恵には、遥か遠く及ばず、その足元にも及ばない、と言っているのです。

何故ならば「神は、この世の知恵を愚かなものにされた」のであり、この世の知恵を寄せ集め、積み上げても、結び付けても、唯一真の神様のご計画の一端を解明する事も、福音を理解する事の手助けにもならない、と断言、断定するのです。

1:21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。

唯一真の神様は、被造物の中に、被造物の語り掛けの中に、唯一真の神様ご自身の存在を示しておられ、人間は、曇りのない眼で、先入観のない眼で被造物を見れば、謙虚、謙遜になり、被造物の語り掛を聴きさえすれば、唯一真の神様を認める事が出来るのですが、人間の罪故に、堕落の故に、傲慢の故に、被造物の唯一真の神様を讃える姿、声を聴こうとはせず、自分の知恵を総動員して、唯一真の神様を見出そうとしているのですが、知恵を尽くしても、何時までたっても、唯一真の神様を認める事が出来ないでいるのです。

聖書を読んでも、調べても、説教を聞いても、知恵に頼っている間は、或いは、常識や経験で判断している間は、唯一真の神様を認める事が出来ないのです。

これは、「神の知恵」だ、とパウロは断言するのです。

この状態は、未来永劫の定めではありません。

唯一真の神様は、「宣教の言葉の愚かさを通して」、「信じる者を救うことにされた」のであり、人は、謙りさえすれば、自分の考えを捨て、心を開け放てば、何時でも、唯一真の神様に立ち返る事が出来るのです。

1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

パウロは、ユダヤ人とギリシヤ人の特徴を、簡潔に言い表していますが、「しるし」とは、一般、自然法則に反する不思議な事であり、奇蹟の事であり、ユダヤ人は、イエス様が、唯一真の神の御子、キリスト、メシヤである事の証拠を見せろ、示せ、と要求します。

知恵」とは、知的好奇心、探究心の事であり、ギリシヤ人は研究熱心、知的探究心が旺盛であったようで、色々と調べ回り、探し回っていたようです。

使徒の働き1721節、2017版は270ページ、第三版は264ページに記されていますが、「アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」のですが、アテネとコリントは隣接する都市であり、これが、当時の自由市民の、ギリシヤ人の日常だったようです。

ギリシヤ人は知恵を追求し」ていたのは間違いないでしょうが、ギリシヤ人は、弁論を高尚な行為と見て、楽しんでいた、と云うのが本音であり、パウロの話が、核心に近づくと、決断を迫られるような状況になると、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言って、解散してしまっていたのです。

真理を追究し、真理を見つけたならば、真理に従おう、生き方を変えよう、と云うのではなく、身の振り方、生き方に関わると、肩透かしをし、真理に従おうとはしないのが、生き方を変えようとはしないのが、人間の本性なのです。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

十字架につけられたキリスト」は、この世の常識から見たならば、時の権力に負けた敗北者であり、既成勢力に潰された犠牲者です。

「木に掛けられた者」、即ち「呪われた者」であり、十字架につけられ、死んだからには、唯一真の神の属性、絶対性、永続性、普遍性を持ってはおらず、それらは、唯一真の神の御子、キリスト、メシヤではないとの明確な証拠であり、唯一真の神の御子、キリスト、メシヤではないと、断じて然るべきなのです。

ユダヤ人は、イエス様はキリスト、メシヤではないと結論付けイエス様に「つまずき」、イエス様に従う者たち、パウロたちを攻撃します。

異邦人は、パウロたちの宣べ伝える「十字架につけられたキリスト」は、唯一真の神の愛の現われである、との宣言を理解出来ず、拒絶反応を示し、また、イエス様に対する知的興味を失い、関心を持つ事は「愚かなこと」と結論付け、離れて去って行くのです。

1:24ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

滅びる者たち」は、「ユダヤ人・・・ギリシヤ人」は、パウロの宣べ伝える「十字架につけられたキリスト」を、意味もない、価値もないと断定し、其々に異なる方法で反発しますが、「召された者たち」は、ユダヤ人、ギリシヤ人の区別なく、民族、国家の区別もなく、あらゆる区別なく、「十字架につけられたキリスト」は、唯一真の神様の愛の現われである、との宣言を受け入れます。

十字架につけられたキリスト」は、「キリスト」に、霊的に結び付く「神の力、神の知恵」となるのです。

これは、霊的な事であり、唯一真の神様の支配下にあり、人間の努力や研究、精進や修行で得られる事ではありません。

しかし、ユダヤ人は、律法の行いで、敬虔な生活で、唯一真の神様に結び付こうとし、ギリシヤ人、異邦人は、知恵を総動員する事で、唯一真の神様を見出そうとしたのです。

しかし、律法の行いや、敬虔な生活で、唯一真の神様に結び付く事は出来ず、知恵で、唯一真の神様を見出す事は出来ないのです。

信仰によって、唯一真の神様に結びつき、信仰によって、唯一真の神様を見出すのが、唯一真の神様のご計画だからなのです。

1:25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

25節は、言わずもがな、な事ですが、人間は、罪故に、言わずもがな、な事を見誤り、甘く見て、律法の行いや、敬虔な生活で、唯一真の神様に結び付く事が出来ると考え、知恵で、唯一真の神様を見出す事が出来ると考え、行動します。

人間は、自分で何でも出来ると賢さを吹聴し、自分の強さをひけらかしますが、人間は、賢いように見えても、唯一真の神様に比べようもなく愚か、愚鈍であり、人間は、強いように見えても、唯一真の神様に比べようもなく軟弱、脆弱であり、比べるに値しません。

知恵や力を誇るのではなく、愚かさ、弱さの自覚こそ、大切です。

愚かさ、弱さを自覚してこそ、唯一真の神様の前に謙れるのであり、愚かさ、弱さを自覚してこそ、唯一真の神様に自我を明け渡す事も出来るのです。

【適応】

教育が行き届くと、知識の量で、評価される社会となります。

多くの知識を持つ者は、優秀だ、との評価がなされ、自負が生まれますが、知識の量も、その評価も、相対的なものであり、絶対的なものではありません。

その、人間を測り、量るモノサシで、絶対的なものを測り、量る事は出来ません。

有限な人間は、無限の神様を測り、量る事は出来ません。

ある人の知恵が、他よりずば抜けて優秀でも、唯一真の神様の知恵とは比較にもなりません。

ある人の力が、他より突出して秀逸でも、唯一真の神様の力とは並びようもありません。

人の知恵と力には限界があり、知り得たとしても、ほんの一部を、朧気に、程度でしかないのであり、全知全能、唯一真の神様の、遠大なご計画、緻密なご計画は、人間には理解出来ません。

人は、もっともっと謙虚、謙遜にならなければなりません。

十字架の事は、人の知恵では、正しく、理解出来ません、

的外れな理解しか、自分に都合の良い理解しか出来ないのです。

十字架の事のみならず、唯一真の神様の事も、御子キリスト・イエス様の事も、人の知恵で、充分に理解する事は出来ず、正しく理解する事も出来ないのです。

それなのに、まるで自分たちこそが、全てを正しく理解しているかのような錯覚に陥り、其々が分派を作り、お互いが紛争を繰り返しているのです。

知識は多いに越した事はなく、力も強いに越した事はありませんが、知識も力も万能ではなく、絶対的なものでもありません。

人に与えられた知恵も力も、比べれば「団栗の背比べ」程度の差でしかないのです。

秀でていると言っても、たかが知れており、劣っていると言っても、大した差ではないのです。

誇れるものでもなく、他を従わせるものでもないのです。

教会は、「福音を・・・宣べ伝える」ために、存在していると言っても過言ではない、とお話しました。

そして、この「福音を・・・宣べ伝える」働きを阻害する、如何なるものも、排除しなければなりません、とお話しました。

その一つが、人間の知恵であり、知恵から生まれる分派です。

十字架のことば」だけに権威、力があり、人の知恵には、何の権威も、力もないのです。

十字架のことば」は、教会をまとめ、結び付け、一つにしますが、人の知恵は、分派を作り、混乱と紛争を生み出します。

これは決して、知恵全般が悪い、と云っているのではありません。

十字架のことば」よりも、人の知恵を上位に置く事が問題を引き起こし、混乱を招くのです。

人の知恵は、常に「十字架のことば」の下に置き、「十字架のことば」に従わなければなりません。

十字架のことば」を、人の知恵で、理解出来るように助けてください、導いてください、間違った理解、適応をしないように守ってください、支えてください、人の知恵や力が「十字架のことば」に先んずる事のないように、と祈る事が大切です。

十字架のことば」を第一とし、「十字架のことば」に徹底して従う教会こそ、「十字架のことば」を伝える教会です。

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                                     2020-7-12礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一110節~17

説教題:「教会の問題:分派」

【導入】

9節「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」事実こそ、パウロの感謝の中心であり、この手紙全体を理解する、「鍵」である、とお話しました。

9節は、土台であり、基礎なのです。

土台、基礎が同じであれば、横との結合や、共に支えあう事や、それらの変化にも対応できるでしょうが、土台、基礎が違えば、横に並ぶ事は出来ても、結合する事は出来ません。

世の中に、2棟が、上層階で繋がっている建物を見ますが、渡り廊下は引っかかっているに過ぎず、空中であり、接合しているだけで、結合しているのではありません。

右と左の建物が、地震などで大きく揺れれば、渡り廊下は壊れてしまいます。

同じように、人間的な魅力や、損得関係で結び合っている場合、何かがあれば、関係は簡単に切れ、信頼は崩壊してしまいましょう。

しかし、「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」者同士は、「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わり」によって、固く結合しており、その結合が切れる事は、崩壊する事はありません。

パウロが、心血を注いで伝道したコリント教会ですが、パウロがコリント教会を去る時、中心となる指導者を立てたでしょう。

最初は、パウロ不在の危機感から、良く纏まり、協力的だった事でしょうが、暫く経つと、小グループが出来始めます。

其々の小グループが、其々に師と仰ぐ人物を擁立し、纏まって行く。

ここまでは、まあ、良いのですが、師を尊敬するが故に、師の教え、師の言動を擁護し、師の優位性を主張するが故に、対立が始まるのは、問題です。

これは、何時も同じ意見、同じ考えでなければならない、と云う事を云っているのではありません。

意見の相違は問題でなく、対立が問題であり、対立の原因となっている人間中心、人間が重んじられている事が、問題なのです。

【本論】

新改訳2017版 1:10 さて、兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。

パウロは、「語ることが一つでなく、仲間割れし、同じ心でもなく、同じ考え方をせず、一致しない」、即ち、分裂している人々に向かって、「兄弟たち」、と呼び掛けます。

兄弟たち」、とは、ユダヤ社会に於いての、一般的な呼び掛けの言葉、常套句ですが、パウロは、その意味で使っているのではありません。

如何にも分裂しているが如くに見えるが、実は、まだ、深刻な域に達してはいない人々に向かって、親愛の情を込めて、「語ることが一つであり、仲間割れせず、同じ心で、同じ考え方をし、一致している」人々だ、と見做して、「兄弟たち」、と呼びかけているのです。

溝は、放っておけば深まり、深刻になり、修復は難しくなるでしょうが、溝が浅いうちは、簡単に埋める事が出来るのであり、コリント教会の人々の間の溝、分裂の現実を先ず、表明しているのです。

語ることを一つにして」は、教会の全体性を強調し、信仰告白を共にする、の意味です。

幾つかの小グループに分かれてはいますが、教会の全体性、協調性を否定するものではなく、異なった信仰告白を表明するものでもなく、この点での問題はなさそうです。

仲間割れせず」は、異端的な分離や分裂ではなく、意見の相違であり、これも、本質的な問題となってはなさそうです。

同じ心、同じ考え」は、単に、個人的理解、理性的理解を同じにし同じ方向を向いて、一緒に進みましょう、を意味するものではなく、唯一真の神様の救いのご計画、御子キリスト・イエス様の十字架の福音、の内容について「同じ心、同じ考え」であり、パウロが伝え、コリント教会が受け入れた唯一真の神様の御旨についての意味であり、福音によって明らかにされた、唯一真の神様の御旨に堅く立って、教会の内外に生じる、具体的な問題に対して、同じ意見、同じ判断を持つように、とのお勧めなのです。

これらは、教会の一致についての、最も根本的なお勧めなのです。

一致は、教会の全体性、協調性に於いてであり、教会は、御子キリスト・イエス様を頭とし、各器官の多様性を認めて、肢体として纏まり、調和が取れ、一致するのです。

1:11私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。

簡潔に記されている状況説明ですが、「争い」は主格、複数形であり、「闘争」と訳し得るギリシャ語であり、極めて深刻な状況が窺えます。

クロエの家の者」との記述ですが、「クロエ」は裕福で、有力な女性信徒で、しかも、コリント教会全体に良く知られた、信頼出来る人物である可能性が高く、「家の者」とは、家族、使用人、奴隷、と思われますが、エペソに滞在しているパウロを尋ねて来た、コリント教会員か、コリント訪問から帰って来た、エペソ教会員、と考えられています。

どちらにしても、重要、且つ、深刻な問題を持ち来たったのであり、触れずに済ませる事は、先送りする事は、見過ごしにする事は出来ません。

1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。

コリント教会では、「それぞれ」が、強く自己主張をし、自己主張の根拠、権威付けの意図から、、「それぞれ」が有力な指導者を祭り上げて、4つ程の小グループが出来上がっていたようです。

パウロ」は説明するまでもなく、コリント教会の創設者であり、根強い支持者がいたようです。

アポロ」は、使徒の働き1824節、2017版は273ページ、第三版は266ページに紹介されていますが、雄弁で、聖書に通じていたようです。

パウロが立ち去ってから、コリント教会の指導者としての実績があり、アポロを支持する人々がいたようです。

ケファ」は、「ペテロ」の別名であり、コリントでの宣教実績があり、弟子の筆頭であり、ペテロを支持する人々も多くいたようです。

キリスト」は、御子キリスト・イエス様の事であり、「パウロ」、「アポロ」、「ケファ」の権威を排除して、御子キリスト・イエス様に直接結び付く事を主張したようです。

これら、4つの分派の性格は不明ですが、パウロが、争い全体を一括して、叱責している点、教会として分裂の状態にはなく、教会の一体性が保たれている点から、どの派も、異端と呼ぶ程、偏った分派ではなく、福音から外れてはいなかったようです。

即ち、似たり寄ったりなのに、大した違いもないのに、指導者の意志や意図に関係なく、特定の指導者を祭り上げて、自己主張し合っていたのであり、こんな、愚かな主張のし合いを、パウロは嘆き、強く批判するのです。

こんなお互いの脚を引っ張り合うような、愚かな争いは、何の実ももたらしません。

それどころか、世の笑いものになるだけであり、蔑まれこそすれ、尊敬されることはなく、誰が教会に行ってみよう、と思うでしょうか。

そして、人間を祭り上げる分派が内在する罪、重大な罪について言及します。

1:13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

13節では、自分自身を例にして、パウロが十字架に付いたのでも、バプテスマによってパウロと結び付いたのでもないのに、パウロとの結び付きを重要視するのは、愚かな事だ、とパウロ派を糾弾していますが、これは、そのまま、アポロ派、ケファ派、についても言える内容です。

アポロが十字架に付いたのでも、バプテスマによってアポロと結び付いたのでもないのに、アポロとの結び付きを重要視するのは、愚かな事だ、と窘(たしな)め、ケファが十字架に付いたのでも、バプテスマによってケファロと結び付いたのでもないのに、ケファとの結び付きを重要視するのは、愚かな事だ、と叱責するのです。

大事なのは、御子キリスト・イエス様が十字架に付いた事であり、バプテスマによって御子キリスト・イエス様と結び付いた事であり、御子キリスト・イエス様との結び付きをこそ、重要視すべきなのです。

特に「パウロの名によって」は、重大、重要な意味を秘めています。

商業の盛んなコリントでは、「・・・の名によって」は、商取引上の表現であり、お馴染みの表現であり、周知の事ですが、即ち、所有権を示している、と云う事です。

単純に、「パウロ先生からバプテスマを受けた」、の意味ではなく、「バプテスマによってパウロ先生の所有になった」、なのです。

勿論、物質的な意味ではなく、霊的、精神的な意味ですが、これは重要な事なのです。

バプテスマを通して、御子キリスト・イエス様と、霊的、精神的に結び付くのであり、キリスト教の根幹です。

決して、バプテスマを通して、パウロと繋がるのでも、アポロと繋がるのでも、ケファと繋がるのでもないのです。

「パウロにつく」、「アポロにつく」、「ケファにつく」は、単純に主従関係を構築する意味ではなく、霊的、精神的、堅固な結び付きを構築する、の意味なのです。

これで、明らかなように、分派は、御子キリスト・イエス様の贖いのお働きを分割する事であり、御子キリスト・イエス様のお身体を分割する事であり、バプテスマの意味を大きく変えてしまう事なのです。

分派は、こんな深刻な、重要な罪を内在した問題なのですが、人間は愚かであり、主義主張の違い位の事、軽い事、小さな事としか考えていないのです。

パウロは、パウロ派の存在を知って、パウロ派が、極、少数派である事に安堵します。

1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。

パウロは、コリントで、数えられる程度しか、バプテスマを授けませんでしたが、それを感謝するのです。

バプテスマを授ける事が、誰から授けられたかが、関心の的になるのは、当時のヘレニズム神秘宗教の、バプテスマを授けた者と受けた者との間に、特別な関係が生じるとの考えが、背景にありましょう。

パウロからバプテスマを受けた人々が、パウロとの関係を吹聴し、悪戯に誇る事がないための配慮であり、また、パウロが、バプテスマを通して、自身に引き付けようとしている、と考える人たちの誤解を避け、正すためです。

伝道者にとって、バプテスマを授ける事は、働きの一つですが、重要なのは、何人にバプテスマを授けたか、ではなく、何を語ったか、こそです。

耳障りの良い事を語って人を集め、多くの人にバプテスマを授け、烏合の集を作っても意味はありません。

真理を語っても残った、数少ない人にバプテスマを授け、精鋭キリスト者として世に送り出してこそ、真の伝道者なのではないでしょうか。

伝道、牧会の歴史に見合った数の献身者、伝道者を輩出する事で、教会、伝道者の価値は問われるべきでありましょう。

その点で、「クリスポとガイオ」は、16節の「ステファナ」は、コリントの人々に知られている著名人であり、精鋭と呼べる人だったようです。

クリスポ」は、使徒の働き188節、2017版は272ページ、第三版は265ページに記されていますが、コリントのユダヤ人会堂の管理者であり、「ガイオ」は、ローマ人への手紙1623節、2017版は325ページ、第三版は316ページに記されていますが、コリント教会の家主と考えられています。

1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。

パウロの誇りは、誰にバプテスマを授けたか、何人にバプテスマを授けたか、ではない事が、ここでも明らかです。

数を誇る伝道者、誰からバプテスマを授けられたかを誇る人々に対する、強い警告の言葉です。

記録は大事ですが、数は重要ではありません。

教勢は重要な数値ですが、目標でも、成果でもありません。

1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。

ステファナ」は、本書1615節に記されていますが、アカイアで最初にバプテスマを受けた人々として紹介されています。

アカイアは、コリントを含む、地方の名前で、特定の都市の名前ではありません。

パウロの、コリント滞在は、凡そ1年半、と云われていますが、コリントに腰を下ろして、集中的に福音を語ったのではなく、コリントを拠点として、アカイア地方に点在する都市を巡回し、伝道していた事が、分かる記述です。

その期間で3家族は、如何にも少な過ぎますが、パウロの、働きに対する自覚を知れば納得です。

1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

パウロは、自身の使命に付いて、明確な自覚がありました。

先に、コリントでの伝道は、凡そ1年半、と申し上げましたが、コリントで、極少数の人にしか、バプテスマを授けなかったのは、チャンスがなかったからではありません。

また、バプテスマを軽視していたからでもありません。

パウロは、自身の使命が、「福音を・・・宣べ伝える」事との、明確な自覚を持っていたのです。

コリントは、アカイア地方の各都市も、ギリシャ哲学、ギリシャ宗教の影響が強く、

パウロは、当時の哲学弁証家、宗教家の、言葉巧みな話術、弁証法などと同一視されないように、また、人間の知恵と比べられないように、「ことばの知恵によらずに宣べ伝える」と、言明するのです。

また、御子キリスト・イエス様の十字架を軽視して、知恵、行いを主張する一部の弟子たちの動きに対して、立場を明確にするために、「キリストの十字架が空しくならないようにする」ためである、と言明するのです。

分派が起こったのは、弟子たちが、ギリシャ哲学、ギリシャ宗教の影響を受け、ギリシャ哲学家が、ギリシャ宗教家が、知的意匠の優劣を競い合い、分派が起こったように、コリント教会内で、指導者の意思に関係なく、指導者を祭り上げ、指導者の優劣を競い合った事から起こったのです。

ギリシャ哲学内の分派は、知的意匠の優劣を競い合った結果であり、学問の根幹に関わる重要事、学問として残るための、必然と云えなくもありませんが、キリスト教内の分派は、指導者の人気を量り、比べたようなものであり、なんとも低次元な、俗悪な分派なのではないでしょうか。

パウロのみならず、一部に人の、こんな、低次元な事で、教会内に仲間割れが起こり、争いが生じ、亀裂が生じるのは、教会の存続に関わる事であり、決して見逃せない事、看過出来ない事、放置出来ない事なのです。

【適応】

パウロは、自身の使命が、「福音を・・・宣べ伝える」事との、明確な自覚を持っていたのですが、これは、そのまま、教会の使命でもあります。

教会は、「福音を・・・宣べ伝える」ために、存在していると言っても過言ではありません。

そして、この「福音を・・・宣べ伝える」働きを阻害する、如何なるものも、排除しなければなりません。

その一つが、分派ですが、現代、教会内の分派は、明確なかたちで現れる事は少ないでしょう。

それなりの歴史と経験を経ており、それなりに学び、成長し、大人のキリスト者になりかかっているからです。

しかし、かたちを変えた分派は存在します。

牧会者を複数擁立する教会に現れ易く、また、有力な信徒がいる教会にも現れ易いようです。

複数牧会の場合、経験豊富で、的確な判断をする。しかし、慎重で、新鮮味に欠ける教職者と、色々な面で経験が浅い。しかし、新鮮であり、積極的であり、物怖じしない、魅力ある教職者。

両者の間には問題はなくても、信徒、其々の思惑で、どちらかに肩入れし、分派のようなものが生じてしまう事があるのです。

或いは、前任教職者の影響力が大きく、強く残っており、折に触れて比較され、分派のようなものが醸し出されてしまう。

有力な信徒がいる場合、その有力な信徒の言動は、本人が思う以上の影響力を持ち、批判の意思や、反対の思いがなくても、周りの人々に忖度が働き、批判、反対と受け止められ、分派のようなものが生じてしまう事があるのです。

活発に活動するところに、人が多く集まるところに、現れ易いようですが、どちらも、どこの教会でも起こり得る、生じる可能性があるのです。

分派とまでは云わなくても、歴史の長い教会には、語り継がれる教職者、信徒が必ず何人かはいます。

創設者であったり、中心的信徒であったりを、懐かしむのは結構ですが、どんなかたちででも、人を崇め、人を祭り上げるようでは問題です。

そして、尊敬、敬慕と云う衣を纏い易いのも厄介です。

それは、分派の片鱗、と言っても過言ではありません。

見かけはキリストの教会、実は、だれそれ先生の教会、だれそれ兄弟の教会、人を崇め、祭り上げている事に、気付かさせない、分派の変形を見逃してはならないのです。

どのような形であっても、人を誉め称え、人が誉め称えられるようでは、分派であり、分派は、教会を蝕みます。

そこは神の教会、キリストの教会ではありません。

こんな傾向、兆しには、細心の注意を払い、警戒し、小さな芽の内に摘み取らなければなりません。

常に、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様だけが讃えられる教会であり、

福音を・・・宣べ伝える」ために、一致協力する教会であり続けたいものです。

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                                   2020-7-5礼拝

聖書箇所:コリント人への手紙第一11節~9

説教題:「挨拶と感謝の辞」

【導入】パウロは各地のキリスト者に、キリスト者としての心得、心構え、考え方、生き方を、熱く、力強く、熱心に、優しく、分かり易く、ことばを変えて、繰り返し、語ってきました。

と、同時に、各地の教会で起こっている問題に対して、明確な指針を与え、時には厳しい口調で、権威と威厳を持って、具体的な指示を与えてきました。

このコリント人への手紙は、第一の手紙、第二の手紙の二通が、聖書に残されていますが、この第一の手紙の前にも、少なくとも一回の手紙があり、第一の手紙と第二の手紙の間にも「涙の手紙」と呼ばれる手紙の存在の可能性が論議されています。

パウロは、第二回伝道旅行中、コリントで福音を語りましたが、この手紙は、第三回伝道旅行中、エペソ滞在中に、記されたとされています。

内容は、コリント教会で起こった問題、分派問題、近親相姦、不品行、結婚の是非、偶像に供えた肉の問題、異言問題、復活否定論などなど、多岐に亘り、また、深刻な問題であり、放置、看過出来ない問題に、テモテを派遣した後、この手紙を記した、とされています。

手紙の書き出し方は、当時の手紙の形式に沿い、差し出し人名、宛先、挨拶の順ですが、差し出し人名は、事務的な名前の記載ではなく、この手紙に、権威を与える言葉が附されています。

【本論】新改訳2017版 1:1 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、

一般的な差し出し人なら、「キリキヤのタルソのパウロ」とか、「ガマリエルの門下生パウロ」と附しての記載となるところでしょうが、パウロは、「神のみこころにより」、「キリスト・イエスの使徒として召された」と、二重の権威付けの言葉で自己紹介をいたします。

しかも、単なる権威付けではなく、召しを正しく理解していたからこその、確固とした自覚があってこその、自己紹介である事は間違いありません。

使徒職は「神のみこころ」と「キリスト・イエスの召し」が、根拠となる働きです。

誰から学んだか、などの学歴や、何処に所属しているか、などの学閥、派閥や、何年、働いて来たかの経験や、働きなどから得た知識の量は、「召し」とは全く関係ありません。

働きに、多少の関連はあるかもしれませんが、必要なら、与えられ、補っていただけますから、使徒職に、預言者職に、必要不可欠な条件ではありません。

神のみこころ」と「キリスト・イエスの召し」で、羊飼いが預言者に任ぜられ、漁師や取税人、医者が使徒職に任ぜられるのです。

更には、迫害者であったパウロでさえ、「神のみこころ」と「キリスト・イエスの召し」で、使徒職に任ぜられるのです。

頼りなさそうに見えても、欠点や不足があっても、預言者、使徒、伝道者、牧師は「神のみこころ」と「キリスト・イエスの召し」で任ぜられているのであり、教会の秩序、礼拝の秩序、宣教の働きの秩序のために、最大限の敬意を払い、尊敬し、従わなければならないのです。

兄弟ソステネ」とは、使徒の働き1817節、2017版は272ページ、第三版は266ページに記されている「会堂管理者ソステネ」の事と思われますが、確実ではなさそうです。

このコリント人への手紙を持参したのが、「兄弟ソステネ」と思われますが、これも確実ではなさそうです。

それでも、コリント教会とは、縁のある人のようであり、コリント教会に知られている人の名前を挙げる事で、安心を与える効果もあった事でしょう。

次に、宛名について記します。

1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なるものとされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

導入で、コリントの教会は、分派問題、近親相姦、不品行、結婚の是非、偶像に供えた肉の問題、異言問題、復活否定論などなど、多岐に亘る、非常に深刻な問題を抱えた教会である、とお話しましたが、そんな、問題山積の、厳しい言い方をすれば、腐敗した現状、実態にも関わらず、神との関係で、「コリントにある神の教会」と呼び掛けます。これは、教会の本質を提示するものです。

教会もキリスト者も、相応しい存在か、相応しい言動か、相応しい実を結んでいるか、ではなく、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様との関係で、考えなければならず、唯一真の神様のご計画と、御子キリスト・イエス様の贖いによって、「聖なるものとされ」、「聖徒として召された」者であり、「いたるところで」、即ち、どんなところでも、どんな状況でも、どんな状態でも、「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに」、唯一真の神様に所属するものとされているのです。

深刻な問題を抱えていても、相応しからぬ言動でも、一つも実を結んでいなくても、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に生きる、キリストの身体なる教会に繋がる、各器官と云う、新しい存在へ移されている事を強調するのです。

御子キリスト・イエス様こそ、人々を教会に固く結び繋ぎ、人々をも繋ぐ、基盤なのです。

すべての人とともに」であり、人種、国籍、身分、男女、世代、時代を越える、公同の教会の豊かな交わりに招き入れられている事を意味した宛名としているのです。

続けて、挨拶を記します。

1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

挨拶は、文字通りの挨拶の意味ではなく、祝福を宣言するのが挨拶の本質なのです。

ユダヤ社会に於いて「挨拶」と「祝福」が同義語である事は、創世記477節、10節を見て頂くと明らかです。

2017版は90ページですが、「祝福」と訳し、脚注には「あいさつ」と記し、第三版は88ページですが、「あいさつ」と訳し、脚注に「祝福」と記しています。

現代でも、イスラエルの挨拶は「シャローム」、即ち「平和、平安があるように」です。

唯一真の神様を「父なる神」と呼び、御子キリスト・イエス様を「」と告白し、その「父なる神」と「主イエス・キリスト」からの「恵みと平安」を祈り願い、挨拶の言葉とするのです。

パウロは、初代教会の、信仰告白の中心となる言葉を、自然に引用し、挨拶の言葉としているのです。

これは見倣いたいところです。

普段の言動、生き方にそぐわない、取って付けたような聖句の引用ではなく、さり気ない、しかし、塩味の効いた聖句を、出会いや別れの挨拶に引用出来たなら、会話の中で引用出来たなら素晴らしい事なのですが・・・。

さて、パウロは、「父なる神」と「主イエス・キリスト」からの「恵みと平安」を祈り願い、挨拶の言葉とするのですが、既に、現実となっている事をも、記します。

1:4 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。

パウロは、「恵みと平安」が「与えられた」と断言しますが、それは、「神の恵みのゆえに」であり、コリント教会の現実には、腐りきった内実には、影響を受けない事の宣言でもあるのです。

更に云うならば、コリント教会の存在そのものが、「神の恵みのゆえに」尊いものになっているのであり、それらの事を確信するが故に、パウロは「いつも私の神に感謝しています」と告白するのです。

この事は、キリスト教徒にも適応出来る考え方です。

キリスト教徒も罪人であり、罪を離れられず、罪を繰り返し、穢れに汚れていますが、「神のみこころ」と「キリスト・イエスの召し」により、御子キリスト・イエス様に繋がり続け、御子キリスト・イエス様を頭とする身体の一部であり続け、「神の恵みのゆえに」「恵みと平安」が「与えられ」続けているのです。

5節、6節は、4節の説明、解説的な内容です。

1:5あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。

教会に与えられた豊かさは、一面的なものではなく、「すべての点で」であり、また、一時的なものではなく、永続的なものであり、4節「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに」、5節「キリストにあって豊かな者とされ」続けるのです。

ことば」と訳されているギリシャ語は「ロゴス」であり、福音宣教の内容としての言葉を意味し、「知識」と訳されているギリシャ語は「グノーシス」であり、伝えられた福音の理解と洞察を意味しています。

ことば」と「知識」は、4節「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに」、

5節「キリストにあって」生かされて、「豊かな者とされ」るのであり、「ことば」と「知識」を蓄える事で、「豊かな者とされ」るのではありません。

この後、起こってくる「知識」偏重主義、グノーシス主義に対する警鐘でもありましょう。

1:6キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。

キリストについての証し」とは、パウロがコリントで宣べ伝えた福音の事で、「確かなものとなった」とは、コリントの人々に受け入れられた事ですが、これも、4節「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに」であり、パウロ自身の働きには寄らない事を教え、使徒や弟子、教職者が、誇る事を戒める教えです。

これは、現代にも適応出来る教えです。

人々が悔い改めに導かれるのも、「豊かな者とされ」るのも、「神の恵みのゆえに」である事を忘れてはならないのです。

特に、有能で、用いられている教会や教職者は、座右の銘としなければなりません。

1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

その結果」とは、御子キリスト・イエス様の福音が宣べ伝えられ、コリントの人々に受け入れられ、御子キリスト・イエス様の福音に生きる者となって、「その結果」です。

どんな賜物にも欠けることがなく」は、個々のキリスト者其々に、個々の教会其々に、多くの賜物が与えられ、欠けたところがなくなる、の意味ではありません。

それでは、御子キリスト・イエス様を頭とする、身体なる教会の交わりの必要性、助け合いの必要性、支えあいの必要性、補い合いの必要性はなくなってしまいます。

個々人の賜物の違い、個々の教会の賜物の違いが、集合し、全体として賜物に欠ける事がなくなるのです。

信徒同士の交わり、教会同士の交わりの重要性、必要性を軽んじてはならず、積極的に交流しなければならないのです。

賜物」と表現すると、何か特別な能力、有益な働きのように考えましょうが、教会に与えられている、個々人に与えられている、霊的賜物は、4節の「神の恵み」の意味で考える事は有益です。

賜物」は能力ではなく「神の恵み」であり、特別な能力も、有益な働きができなくても、それも「神の恵み」であり、卑下する必要も、落胆する事もないのです。

主イエス・キリストの現れを待ち望む」のは、安全な場所で、衣食住に満ち足りて、健康的に、何の不自由もなく、ではありません。

御子キリスト・イエス様の苦しみに与って生きるのであり、ここから外れる如何なる傾向に対しても、注意を払い、警戒を怠ってはなりません。

1:8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

」は、4節の「」の事であり、唯一真の神様が、御子キリスト・イエス様にあって、聖霊を通して、教会の中に確かに働かれ、「最後まで」「主イエス・キリストの日」、即ち、御子キリスト・イエス様再臨の日、神の国の完成の日まで、「堅く保って」くださるのです。

と言っても、一切の罪を犯さないとか、全く失敗をしない、の意味ではありません。

責められるところ」、即ち、キリスト者として相応しからぬ言動、犯した罪、すべき事をしなかった、などの、悪魔の告発、執拗な糾弾にも、御子キリスト・イエス様の贖いは揺らぐ事はない、確実だ、との保証を与える言葉なのです。

1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

神は真実です」は、聖書を読めば明らかですが、歴史を通して、はっきりと現されています。

この信頼こそ、パウロの感謝と教会観の根源です。

神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」のは、7節でお話したように、安全な場所で、衣食住に満ち足りて、健康的に、何の不自由もなく、が目的ではありません。

御子キリスト・イエス様の苦しみに与って生きるためであり、やがては、御子キリスト・イエス様の栄光に与るのが目的です。

それも、教会を通してであり、教会に繋がっていてこそです。

交わり」は、狭い意味の「交流」ではありません。

交わり」と訳されているギリシャ語の類似語には「協力する、助ける」、「喜んで分け与える」の意味があり、奉仕にも関係があります。

交わり」とは、御子キリスト・イエス様に協力する、お助けする、喜んで献げる、奉仕を献げる事であり、それを教会として、行なうのです。

協調し、調和が取れ、まるで融合し、一体であるかの如く・・・が教会のありようなのです。

個人プレーは、教会に相応しくありません。

神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」事実こそ、パウロの感謝の中心であり、この手紙全体を理解する、「鍵」なのです。

【適応】本日の説教の中心は、4節です。

感謝の根拠を示しています。

パウロは「神の恵みのゆえに」、「神に感謝しています」と述べています。

色々な恵み、賜物の根源は、出所は、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様であって、恵み、賜物を受け取る人間に、誇るところは一切ありません。

或いは、恵み、賜物を取り次ぐ働きにも、誇るところは全くありません。

人よりも多少優れたところがあるから、有能だから、恵み、賜物を受け取った訳ではありません。

人よりも多少正しいから、情け深いから、恵み、賜物を受け取った訳でもありません。

唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様の憐れみで、恵み、賜物が与えられたのであり、恵み、賜物を豊に用いても、人間の誇りにはなりません。

当然、感謝も、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に対してです。

唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様は、人を介してご計画などを進められ、人を通して働かれますが、全ての恵み、賜物は、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様が出所なのです。

人間は、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に用いられる器、道具に過ぎません。

感謝は、器、道具にではなく、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様には、当然な事なのです。

社会通念上も、恵みを受けた者は、感謝を現しもし、お礼をするでしょうが、恵みを下さった方に対してであり、器や道具に感謝はしません。

唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に対して感謝すべきであり、道具である仲介者には普通に、唯一真の神様と御子キリスト・イエス様にこそ、最大限の賛辞を献げるべきなのです。

コリント教会の人々を誉めそやし、また、パウロ自身の働きを誇るのではなく、常に、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様に感謝を献げるのです。

キリスト者は、感謝やお礼を期待してはなりません。

誰かに、何かを為しえたとしても、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様の恵みの故であり、感謝やお礼は、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様にしてください、なのです。

人を誉め称え、人が誉め称えられるようでは、そこは神の教会、キリストの教会ではありません。

常に、唯一真の神様と、御子キリスト・イエス様が讃えられる教会形成を願うものです。

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